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일제강제동원의 국제적 비교

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개회사

코로나19로  잠시  멈췄던  시간이  다시  조금씩  흘러가고  있는  지금,  미루어두었던  일들이 

많으실텐데 오늘 일제 강제동원 피해에 관한 진상규명과 피해자의 명예회복을 위한 국제

학술대회에  참석해주셔서  진심으로  감사드립니다. 

우리  재단의  사업  중에는  강제동원의  진상을  규명하는  일이  있습니다. 

그리고  이를  더욱  널리  알리기  위하여  문화학술  사업을  진행하고  있습니다. 

해방 후 75년이 흘렀지만 일제의 가해 행위들 중 철저한 진상규명이 필요한 것들 중에는 

‘포로감시원’으로  동원된  이들이  있습니다.  포로감시원들은  일제에  의해  태국,  미얀마, 

필리핀, 인도네시아 등으로 동원되어 포로들을 직접 대면했기 때문에 전범으로 몰렸습니다. 

이들은 약 60여 년 간 불명예 속에서 잊혀지다 2006년, ‘일제강점하 강제동원피해진상규명

위원회’에  의해  처음으로  피해자로  인정받았습니다. 

2020년  현재,  포로감시원들은  여전히  전범이라는  오명을  안고  우리의  기억에서  다시 

잊혀지려하고 있습니다. 우리 재단은 이 포로감시원들을 다시금 주목하고 이들이 당한 피해와 

더불어  전쟁의  본질을  되새기려고  합니다.  이를  위해  먼저  포로감시원들은  어떻게  동원

되었고, 전쟁이라는 상황은 이들을 어떻게 전범으로 만들었는지 파악하고자 합니다. 전쟁은 

본질적으로  비인간적이라는  것까지  규명하고자  합니다. 

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이는 일본의 전쟁 범죄 책임을 명확히 하여 알리는 과정이 될 것입니다. 또한 포로감시원을 

포함한 강제동원 피해자, 나아가 일제에 의해 고통받은 모든 자들의 명예를 회복하는 길을 

밝혀야겠습니다.

어려운 주제임에도 선뜻 시간과 노고를 아끼지 않고 학술대회를 준비하여 주신 발표자와 

토론자,  그리고  좌장  여러분께  진심으로  감사드립니다.  또한  바쁜  일정에도  자리를  빛내

주신 유족, 행정안전부 관계자, 시민 여러분 감사드립니다. 우리 재단은 여러분들의 지원을 

마음에  새겨,  강제동원  피해자들의  인권  회복을  위해  더욱  노력하겠습니다.

코로나19의  확산세는  수그러들었지만,  지역  감염  소식은  여전히  들려오고  있습니다. 

참석하신  내빈들께서도  건강에  유의하시고  가정의  행복을  바랍니다.  감사합니다. 

2020.  5.  28.

 

일제강제동원피해자지원재단  이사장  김  용  덕

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開会の辞

コロナ禍によってしばらく止まっていた時間がようやく少しずつ流れはじめている今、先送り

されていたことも多くおありだろうと察せられる中、本日、日帝強制動員の被害に関する真相

究明と被害者の名誉回復のための国際学術大会にご出席いただき、誠にありがとうございます。 

当財団の事業の中には、強制動員の真相を究明する取り組みがあります。そして、これをさら

に広く知らせるための文化学術事業をも進めております。 

植民地支配から解放されて75年が過ぎましたが、日本帝国による加害行為のうち、徹底した

真相究明が必要とされる事柄の中には、[捕虜監視員」として動員された方々の問題がありま

す。捕虜監視員たちは、日帝によって、タイ、ミャンマー、フィリピン、インドネシアなどに動員さ

れて捕虜を直接対面していたために、戦犯の立場に追い込まれました。彼らは60年もの間、不名
誉の中で忘れられた存在となっていましたが、2006年、「日帝強占下強制動員被害真相究明委

員会」によって初めて被害者として認定されました。

2020年現在、捕虜監視員たちは、依然として戦犯という汚名を被せられたまま、私たちの記憶

から再び忘れ去られようとしています。当財団は、この捕虜監視員たちに再び注目し、彼らが受け

た被害とともに、戦争の本質について改めて反芻しようと思います。そのためにまず、捕虜の監視

員たちはどのように動員され、戦争という状況が彼らをどのように戦犯にしていったのか把握し

たいと思います。  戦争は本質的に非人間的であるということまで究明したいものであります。

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このことは、日本の戦争犯罪責任を明確にし、知れ渡らせる過程にもなるはずです。また、捕

虜監視員を含む強制動員の被害者、さらに、日帝によって苦しんだすべての人たちの名誉を回

復する道を明らかにせねばならないでしょう。

難しいテーマにもかかわらず、ご快諾の上、時間と労力を惜しまず学術大会を準備してくだ

さった発表者並びに討論者と座長の皆さまに、心より感謝を申し上げます。また、ご多忙な日程

にもかかわらずご一緒してくださいました、ご遺族、行政安全部の関係者、市民の皆さまにも、

厚く御礼申し上げます。当財団は、皆さまのご支援を胸に刻みながら、強制動員の被害者の方々

の人権回復のために、より一層の努力を傾けて参ります。

コロナ禍の拡散傾向は弱まったとはいえ、市中感染の知らせが依然として聞こえてきていま

す。出席されたご来賓の皆さまもどうか健康に留意され、ご家庭に幸がありますよう願います。

ありがとうございます。

2020.  5.  28. 

日帝制動員被害者支援財団  理事長  金容

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축사

안녕하십니까?

행정안전부  과거사관련업무지원단장  정구창입니다.

오늘  ‘일제강제동원의  국제적  비교  –한국·일본·태국·미얀마·필리핀·인도네시아를  중심

으로-’  라는  주제로  조선인  포로감시원의  강제동원  실태에  대해  재조명하는  국제학술

대회에  축하의  말씀을  드리게  된  것을  기쁘게  생각합니다.

먼저, 이번 행사를 준비하느라 수고하신 일제강제동원피해자지원재단 김용덕 이사장님을 

비롯해  관계자  여러분들의  노고에  감사드립니다. 

발표와  토론을  맡아주신  교수님들을  비롯하여  이  자리를  함께  해주신  유족  여러분과 

내빈  여러분께도  감사의  말씀을  드립니다. 

올해는  코로나  바이러스  사태로  전  세계적으로  사회적  거리를  두고  방역에  노력하는 

어려운  시기입니다. 

그래도 이런 어려운 환경에서 학술대회를 개최하는 것은 남다른 뜻깊은 자리라고 생각

합니다. 

아시아태평양  전역에서  일본이  군인·군속·노무동원  등  인적  수탈을  자행했다는  것은 

모두가  잘  알고  있습니다.

그러나  조선인  포로감시원은  우리에게  잘  알려지지  않은  강제동원  피해입니다. 

이번  학술대회에서  조선인  포로감시원의  강제동원  피해  실태에  대해  재조명하고  그 

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피해자의  명예를  회복하는  자리가  되었으면  좋겠습니다.   

그동안 재단은 국내외 추도시설을 조성하고 추모행사를 통해서 희생자들을 위로해 왔고, 

올해에도  유해봉환  사업의  일환으로  유해실지·실태  조사도  진행하고  있습니다. 

또한  일제강제동원피해자지원재단  이사장님께서  관심을  가지고  추진하고  계시는  강제

동원 피해 관련 문화․학술사업 및 조사․연구사업은 우리 국민들이 강제동원 실태를 이해하고 

기억하는  촉매제가  될  것입니다.

행정안전부도 희생자들과 유족들의 고통을 치유하고 국민들이 하나 될 수 있도록 노력해 

나아가겠습니다.

이번 학술대회를 통해서 일제강제동원 피해에 대한 진상을 다시 한 번 들여다보고, 일본의 

전쟁범죄,  당시  식민지배에  대한  책임이  끝났다고  하는  일본에  성찰의  인식이  부족함을 

알리는  계기가  되기를  바랍니다.

그리고 국민적 공감대를 넓히고 유족들의 아픈 상처를 치유하는 첫걸음이 되기를 기대

합니다.

다시 한 번 오늘 행사에 수고하신 관계자 분들의 노고를 치하드리며, 함께하신 모든 분

들께  감사드립니다. 

감사합니다.

2020.  5.  28.

과거사관련업무지원단장    정  구  창

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축사

こんにちは。行政安全部過去事関連業務支援団長の鄭九彰(チョン·グチャン)です。

本日、「日帝強制動員の国際比較-韓国・日本・タイ・ミャンマー・フィリピン・インドネシアを

中心に-」というテーマで、朝鮮人捕虜監視員の強制動員の実態に光を当てる国際学術大会を

開催するにあたり、お祝いの言葉を申し上げますことを嬉しく存じます。

    まず、この度の行事を準備するためご尽力されました日帝強制動員被害者支援財団の金容

徳(キム・ヨンドク)理事長をはじめ、関係者の皆さまのご苦労に感謝致します。発表や討論を引

き受けてくださった先生方をはじめ、この場に参席してくださった遺族の皆さまと来賓の皆さ

まにも感謝を申し述べます。 

今年は、コロナウィルス感染症事態により、世界中で社会的距離を保ちながら防疫に努めてい

る厳しい時期に置かれています。それだけに、このような厳しい環境の下で開催される学術大
会は、格別に意義深い場であると思います。

    アジア太平洋全域に渡って、日本が軍人・軍属・労務動員など人的収奪を行ったことは、誰

もが承知しているところです。しかし、朝鮮人捕虜監視員は、我々によく知られてはいない強制

動員の被害であります。この度の学術大会が朝鮮人捕虜監視員の強制動員の被害の実態に光を
当て、その被害者の名誉を回復する場になればと願います。   

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    これまで財団は、国内外の追悼施設を造成し、追悼行事を通じて犠牲者の方々の慰労に努

めてきており、今年も遺体奉還事業の一環として遺体実地・実態調査を進めています。また、日

帝強制動員被害者支援財団理事長が関心を持って推進しておられます強制動員被害関連の文

化・学術事業及び調査・研究事業は、韓国国民が強制動員の実態を理解し、記憶するための触媒

となるでしょう。

    行政安全部と致しましても、犠牲者やご遺族の皆さまの苦痛を癒し、国民が一つになり得

るように努力を傾けて参ります。

    この度の学術大会を通じて、日帝強制動員の被害に対する真相をいま一度考察し、日本の

戦争犯罪や、当時の植民地支配に対する責任が果たされたとしている日本に対し、省察の認識

が不十分であることを知らせるきっかけになれば幸いです。そして、国民の共感を広げ、遺族の

方々の痛ましい傷を癒す第一歩になることを期待致します。

    改めて、本日の行事のためにご尽力された関係者の皆さまに感謝し、ご参席の皆さまにお

礼申し上げます。ありがとうございます。

2020年5月28日

過去事連業務支援長鄭九彰

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일정표

시  간

내        용

      개회식

사회:  이재철  (일제강제동원피해자지원재단  기획홍보국장)

13:00-13:15

개회사

김용덕

(일제강제동원피해자지원재단  이사장)

축사

정구창

(행정안전부  과거사관련업무지원단장)

      세션  1  주제발표                                                 

좌장:  김광열  (광운대학교  교수)

13:15-13:45

조선인 군인군속 전후 보상 문제의 경과 
및  현재

아리미츠  켄(有光  健)

(와세다대  국제화해연구소  초빙연구원)
*불참으로  좌장께서  발표문  소개  예정

13:45-14:15

일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와 
생활상

강정숙

(성균관대학교  동아시아역사연구소)

14:15-14:45

일본군의  태면철도  건설과  한국인 
BC급  전범

김도형

(독립기념관  연구위원)

-

필리핀  비사야  지방에서의  일본군에 
의한  성폭력

오카다  타이헤이(岡田泰平)

(도쿄대  대학원  종합문화연구과  교수)

*불참으로  세션2에서  발표문  소개  예정

14:45~15:05

일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원
현황과  반일활동 

유병선

(한국전통문화대학교  교양학부  강사)

휴식  및  장내정리(15:05-15:30)

    세션  2    지정토론                                                   

좌장:  김민영  (군산대학교  교수)

15:30

-

16:50

지  정  토  론

김경남

(경북대학교  사학과  교수)

*불참으로  좌장께서  토론문  소개  예정

정태헌

(고려대학교  한국사학과  교수)

황선익

(국민대학교  한국역사학과  교수)

변은진

(전주대학교  한국고전학연구소  교수)

안용근

(전  충청대학교  교수)

17:00

폐              회

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일정표

時間

内容

      開会式                           

    司会:  李在喆  (日帝強制動員被害者支援財団  企画弘報局長)

13:00-13:15

    開会の辞

金容德

(日帝強制動員被害者支援財団  理事長)

    祝詞

鄭九彰

(行政安全部  過去事関連業務支援団長)

    セッション  1  主題発表                     

    座長:  金光㤠  (光云大学  教授)

13:15-13:45

朝鮮人軍人・軍属の戦後補償問題の経

過と現在

有光  健

(早稲田大学国際和解学研究所招聘研究員)

13:45-14:15

日帝下における朝鮮人捕虜監視員の動

員実態と生活像

姜貞淑

(成均館大学  東アジア歴史研究所)

14:15-14:45

日本軍の泰緬鉄道建設と韓国人BC級戦

金度亨

独立記念館  研究委員

-

フィリピン 

ビザヤ地方における日本軍による性暴

岡田泰平

(東京大学  大学院  総合文化研究科)

14:45~15:05

日帝末期のインドネシアにおける朝鮮

人捕虜監視員の現況と反日活動 

安龍根

(前  忠清大学  教授  )

休憩及び場内整理(15:05-15:30)

    セッション  2    指定討論                                   

座長:  金旻榮  (群山大学  教授)

15:30

-

16:50

指定討論

金慶南

(慶北大学  史學科  教授)

鄭泰憲

(高麗大学  韓国史学科  教授)

黃善翌

(国民大学  韓国歴史学科  教授)

卞恩眞

(全州大学  HK研究教授)

安龍根

(元  忠清大学  教授  )

17:00

閉        会

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목차

개회사

축사

일정표

주제발표

1

1.  조선인  군인군속  전후  보상  문제의  경과  및  현재

3

아리미츠  켄  (와세다대학  국제화해연구소  초빙연구원)

2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

33

강  정  숙  (성균관대학교  동아시아역사연구소)

3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

75

김  도  형  (독립기념관  연구위원)

4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

135

오카다  타이헤이(岡田泰平)  (도쿄대  대학원  종합문화연구과  교수)

5.  일제말기  인도네시아    조선인  포로감시원  현황과  반일활동

171

유  병  선  (한국전통문화대학교  교양학부  강사)

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지정토론

205

1.  有光健先生<朝鮮人軍人・軍属の戦後補償問題の  経過と現在>に対する討論文

207

金  慶  南  (キム・ギョンナム),  慶北大学  教授

2.  <강정숙,  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상>에  대한  토론문

217

정  태  헌  (고려대학교  한국사학과  교수)

3.  「일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범」

227

황  선  익  (국민대학교  한국역사학과  교수)

4.  「필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력」(오카다  타이헤이)  토론문

237

변  은  진  (전주대  HK연구교수)

5.  「일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동」

243

안  용  근  (전  충청대학교  교수)

아리미츠  켄-경북대  김경남  토론에  대한  답변

253

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1

-  1  -

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3

-  3  -

조선인  군인군속  전후  보상  문제의

경과  및  현재

01

아리미츠  켄

(와세다대학  국제화해연구소  초빙연구원)

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5

주제발표

-  5  -

朝鮮人軍人・軍属の戦後補償問題の
経過と現在

有光  健(戦後補償ネットワーク世話人代表・早稲田大学国際和解学研究所招聘研究員)

1

はじめに  朝鮮人軍人・軍属の数について

日本政府は1993年に韓国政府に提供した朝鮮半島出身旧軍人・軍属の名簿を約24万人分

(243,992人、旧陸海軍から引き継いだ人事関係資料より) と発表しているが、1945年8月15日

までに日本軍軍人・軍属として動員された朝鮮人の正確な人数を明らかにしていない。(cf.台湾

人は207,183人とされる。志願・徴兵含む) 国会議員らが公表を求めても政府は拒否し続けてきた。

韓国政府の対日抗争期強制動員被害調及び国外強制動員犠牲者等支援委員会の活動結果報

告書(2016年、P38)では「最小値」として、軍人209,279人、軍属(軍務員)60,668人、合計

269,947人を挙げている。日韓の間で、総数で約1割、2万6千人以上の差異があり、日韓両国

政府共同での総合的な検証が不可欠である。

1950年代には、日本政府は「37万人」としていた時期もあり、未解明な部分が残る。(*参

考:竹内康人「朝鮮人軍人軍属の強制動員数―37万人以上の動員と消された氏名不明の13万

人」大原社会問題研究所雑誌№686/2015.12.  http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/

oz/contents/686_03.pdf)

例えば、戦後シベリアに抑留された韓国シベリア朔風会の会員の多くは、1945年8月9日の

ソ連軍の満洲侵攻直前に関東軍に配属されているが、本人らが厚生労働省に記録提出を求めた

ところ、彼らの記録は厚生労働省の資料室には残っていないケースが多かった。敗戦直前の「根

こそぎ動員」で徴兵された兵士らの記録は、東京の大本営には届けられていなかったと推測さ

れる。あるいはどこかで焼却など処分されたものかも知れない。「幻の日本兵」として行政上は

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6

1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

-  6  -

計算されていないことになるが、ロシア側(当時はソ連)の資料には、10,206人の朝鮮人捕虜

の記載がある。(*1956年10月13日ソ連内務省捕虜・被抑留者事務総管理局報告書/ヴェガ

リツキー「ソ連邦における日本人捕虜―真実と憶測」、『軍事史雑誌』1991年第4号)対日抗争

期強制動員被害調及び国外強制動員犠牲者等支援委員会の報告書は朝鮮人約3千人が捕虜と

して抑留されたと推計しているが、こちらも韓国・日本・ロシア政府が共同で解明すべき課題で

ある。

2

韓国人元軍人・軍属による戦後補償請求訴訟

■  在日韓国人らの訴えから始まる

1970年代以降外国籍の戦争被害者が日本政府や日本企業に補償を求めて提訴した戦後補償

裁判は、戦後補償ネットワークの調べでは90件にのぼる。(「戦後補償裁判」の定義やカウント

の仕方によって異なるので、厳密には総数は「90件」とはいえないが、概要は把握できる。)そ

れらの中で韓国籍(在日韓国人も含む)の原告が起こした裁判は半数の45件だった。原告の累計

別では元軍人・軍属による提訴は15件で、元徴用工16件と並んで一番多かった。(他は、被爆者

8件、サハリン残留者4件、慰安婦3件、虐殺被害2件、浮島丸 生命保険 ハンセン病各1件 重複

あり)

当初は在日韓国人の元軍人・軍属で戦時中に負傷し、障害を負った被害者らが、日本国籍所有

者と同等の戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく援護を求めて提訴が始まった。主な訴訟は以

下のとおりである。

在日韓国・朝鮮人援護法の援護を受ける地位確認訴訟(原告=鄭商根、1991年大阪地裁提訴

/2001年最高裁棄却

cf.大阪高裁判決:

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/021/016021_hanrei.pdf    )

援護法障害者年金支給拒否決定取消訴訟(原告=陳石一 

石成基、1992年東京地裁提訴

/2001年最高裁棄却 

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7

주제발표

-  7  -

cf.最高裁判決:

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/416/062416_hanrei.pdf  )

韓国人戦傷者国家賠償請求訴訟(原告=金成壽、1992年東京地裁/2001年最高裁棄却)

*1995年には恩給請求棄却処分取り消し請求訴訟/2001年最高裁棄却

cf.最高裁判決:

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/473/062473_hanrei.pdf  )

在日韓国人援護法の援護を受ける地位確認訴訟(原告=姜富中、1993年大津地裁提訴

/2001年最高裁棄却  cf.大阪高裁判決:http://justice.skr.jp/judgements/31-2.pdf)

釜山在住だった金成壽以外は、全員在日韓国人で、それぞれ障害の度合いは異なるが、日本国

籍者であれば、障害者年金が累計で6千万円前後受給されるべき障害を負っていた。日本国籍所

有者で軍歴の長い者には恩給も支給されていた。

国籍による差別の解消  不平等の是正を求めた訴えに対して、日本の世論も同情的で、①の一

審大阪地裁も判決(1995年10月11日)で「日本の戦傷病者らに比べ差別の程度は重大で、在日韓
国人を対象外とする扱いは法の下の平等を定めた憲法14条に違反する疑いがある」との判断

を示し、早急に立法政策を取る必要性を強く指摘した。また国籍条項は、「旧植民地出身者の軍

人・軍属の補償問題は、外交交渉によって解決される可能性を考慮したもので合理性があった」

(下線:筆者)と援護法立法当時は合憲だったと認めたものの、1965年日韓請求権協定によって

日本政府は「完全かつ最終的に解決した」としているが、韓国政府は「在日韓国人の軍人  軍属は

解決の対象から除外されている」との解釈で、「協定締結をもって援護法の適用対象外としたこ

との合理性を根拠づけることはできない」と国側の主張を退けた。「単なる国籍を理由にした差

別的取扱いに合理性があるとはいえない」と指摘しながら、結論では「援護の内容については立

法政策に属する問題」として請求を棄却した。

そもそも原告や弁護団は、「違憲の疑い」が強いので判断を求めて裁判所に訴えたのだから、

大阪地裁の裁判長が判断を下すべきは「違憲か否か」であった。ところが「憲法に違反する疑いが

ある」との結論では、答えになっていず、裁判所はその機能と責務を果たしたことにならない。し

かし、その後の戦後補償裁判の判決の多くも、残念ながら同様で、日本の裁判所は、被害事実を

認め、同情を示しつつ、立法措置を促すのみで、<法律がないから補償はできない>と請求に対

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1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

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しては棄却を繰り返し、責任を立法府に押し付けた。適用できる法律がなくても、「法の下の平等

を認めた憲法に違反する」と違憲判決を下し、立法と賠償を同時に命じることはできたはずであ

る。(例外的に、1998年4月27日に山口地裁下関支部が元「慰安婦」らの訴えに下した判決は立

法不作為による賠償を命じたものだったが、後に広島高裁によって取り消された。cf. 

http://justice.skr.jp/judgements/26-1.pdf  )

他の②、④も請求は棄却され、原告敗訴で終わった。②の東京高裁判決(1998)にも、

「人道的見地からしても、また、国連の規約人権委員会から関心課題(懸念事項)として指摘

されていることに照らしても、速やかに適切な対応を図ることが、我が国に課せられた政治的、

行政的責務でもある」「在日韓国人にも適用の途を開くなどの立法をすること、又は在日韓国人

の戦傷病者についてこれに相応する行政上の特別措置を採ることが、強く望まれる」

(http://justice.skr.jp/judgements/20-2.pdf  )との所見が付されていた。

戦後も日本で暮らし、日本人と同じように税金を払ってきた原告らが法の下の平等を求めた

当然の主張に日本の司法は耳は貸したが、彼らの要求に直接応じることはなかった。

③の韓国に在住した元傷痍軍人の金成壽氏の場合も、東京地裁は「原告の憤懣やるかたない

心情とその境遇は想像を絶するものがあり、同情を禁ずることができない」としつつ、憲法違反

を否定し、現行憲法は遡及できず、戦争被害は国民等しく受忍すべきとして、請求は棄却しつ

つ、立法府に判断と責任を委ねた。

韓国内の元軍人・軍属も他の戦争被害者と一緒に集団訴訟を起こしていた。原告は戦傷を

負った元軍人・軍属に限定されない幅広い補償要求だった。

アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟(原告=元軍人・軍属17人、遺族15人、慰安婦8

人、計40人、1991年東京地裁提訴/2004年最高裁棄却、

cf.最高裁判決:

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/563/062563_hanrei.pdf  )

強制徴兵・徴用者等補償請求江原道訴訟(原告=元軍人・軍属、徴用工、遺族ら24人、1991年

東京地裁提訴/2003年最高裁棄却

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주제발표

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cf.東京高裁判決:http://justice.skr.jp/judgements/18-2.pdf)

対日民間法律救助会不法行為責任存在確認等請求事件(原告=元軍人・軍属、労務者、慰安

婦、挺身隊、独立運動家、遺族ら369人、1992年東京地裁提訴/2003年最高裁棄却、

cf.東京高裁判決:http://justice.skr.jp/judgements/22-2.pdf  )

光州千人訴訟(原告=元軍人・軍属、強制動員被害者ら約千人、1993年東京地裁提訴/2000年

最高裁棄却  cf.東京高裁判決:http://justice.skr.jp/judgements/29-2.pdf  )

しかし、請求はことごとく棄却され、原告敗訴が続いた。

■  韓国人BC級戦犯国家補償請求訴訟

元軍人・軍属が原告となった訴訟の中で、やや特殊なケースが元BC級戦犯者とシベリア抑

留者らの訴えであった。いずれも戦争中ではなく、戦争終了後に起きた事件の被害者である。

元BC級戦犯者は、主に連合国側の捕虜を監視する俘虜監視員に動員された朝鮮・台湾出身

の軍属が戦後に捕虜虐待の罪に問われて、連合国の軍事法廷で裁かれて、処刑されたり長期に

わたって刑務所で服役させられた問題である。連合国による裁判記録が残されていて正確な数

字が把握できる。(BC級戦犯148名中、大部分の129名が俘虜監視員で、3名が軍人、16名が

通訳だった。)

BC級戦犯受刑者数

民族

有罪

死刑

無期

有期

病気・獄死等

朝鮮人

148人

23人

18人

107人

台湾人

173人

21人

147人

5人

日本人

4361人

940人

457人

2690人

*その他274人

*その他は控訴棄却・死亡・逃亡など。日本人有罪者数は未確定。

元BC戦犯者たちは、捕虜虐待の責任を全面的に認めたものではないが、連合国による軍事

裁判の結果を受け入れて、刑に服したもので、1955年に巣鴨刑務所内で「同進会」を結成して、

日本国の戦争責任を肩代わりしたことへの謝罪と国家補償を求めて運動する。当初日本政府に

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1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

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直接要求し、政府が応じないため、裁判に訴えた。

韓国人BC級戦犯国家補償等請求訴訟(原告=李鶴来ら元BC級戦犯7人・遺族1人、1991年

東京地裁提訴/1999年最高裁棄却

cf.高裁判決:http://justice.skr.jp/judgements/16-2.pdf  )

8年に及んだ裁判の結果は3審とも棄却判決だったが、被害事実は認定し、原告らの境遇に同

情を述べ、立法を促したものだった。これを受けて21世紀に入ってから立法運動に力を注ぐこ

とになる。以下、それらの判決を抜粋して引用する。

【東京地方裁判所判決】  1996年9月9日

「わが国の軍人軍属及びその遺族に対する援護措置に相当する措置を講じることが望ましい

ことは言うまでもない。しかし、国の立法政策に属する問題。」

【東京高等裁判所】  1998年7月13日

「国際的、政治的その他の諸事情によるやむを得ない面があったとはいえ、戦犯者控訴人らに

ついてみれば、ほぼ同様にあった日本人、更には台湾住民と比較しても、著しい不利益を受けて

いることは否定できない。

このような状況の下で、戦犯者控訴人らが不平等な取り扱いを受けていると感じることは、

理由のないことではないし、その心情も理解し得ないものではない。 

この問題について何らの立法措置が講じられていないことが立法府の裁量の範囲を逸脱し

ているとまではいえないとしても、適切な立法措置がとられるのが望ましいことは、明らかであ

る。第二次大戦が終わり、戦犯控訴人らが戦犯者とされ、戦争裁判を受けてから既に50年余の
歳月が経過し、戦犯者控訴人らはいずれも高齢となり、当審係属中にも、そのうちの2人が死亡
している。国政関与者において、この問題の早期解決を図るため適切な立法措置を講じること

が期待される。」

【最高裁判所】  1999年12月20日  (第1小法廷)

「上告人は、いずれも我が国の統治下にあった朝鮮の出身者であり、昭和17年ころ、半ば強制

的に俘虜監視員に応募させられ、・・・有無期及び極刑に処せられ、深刻かつ甚大な犠牲ないし損

害を被った。

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주제발표

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上告人らが被った犠牲ないしは被害の深刻さにかんがみると、これに対する補償を可能とす

る立法措置が講じられていないことについて不満を抱く上告人らの心情は理解し得ないではな

いが、このような犠牲ないし損害について立法を待たずに戦争遂行主体であった国に対して
国家補償を請求できるという条理はいまたに存在しない。

立法府の裁量的判断にゆだねられたものと解するのが相当である。」

なお、1995年にも韓国在住元BC級戦犯と遺族らが損害賠償と未払い賃金を求めて提訴し

ているが、請求は同様に棄却された。

韓国人元BC級戦犯公式謝罪  国家補償請求訴訟(原告=林永俊ら元BC級戦犯4人・遺族4

人、1995年東京地裁提訴/2001年最高裁棄却、

cf.  https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/459/062459_hanrei.pdf  )

■  韓国人シベリア抑留者国家補償請求訴訟

韓国人元シベリア抑留者による戦後補償を求める動きは、1990年に韓国がソ連と国交を結

び、ソ連・ロシアに対する社会的な警戒感が薄らぎ、元抑留者らが名乗り出ることができるよう

になり、同年韓国シベリア朔風会が結成されたところから始まる。1996年に東京地裁に提訴を

希望するが果たせず、先に1981年に国家補償を求めて提訴していた全国抑留者補償協議会に

所属する日本人元抑留者らが1997年に最高裁で敗訴してしまう。

(cf.  https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/  788/052788_hanrei.pdf)

他方、韓国国内からの訴えに先んじて、戦後シベリアから舞鶴に帰ってきた京都在住の在日

韓国人が1992年に恩給等の支給を求めて一人で京都地裁に提訴していた。

シベリア抑留在日韓国人国家賠償請求訴訟(原告=李昌錫、1992年京都地裁提訴/2002年

最高裁棄却 

cf.最高裁判決:

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/475/062475_hanrei.pdf)

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1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

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2002年に最高裁で上告を棄却されて敗訴しているが、このケースのその後については、後ほ

ど述べる。

中国に暮らす朝鮮族の元シベリア抑留者による提訴も日本人シベリア抑留者と共同で1996

年に行われたが、2002年最高裁で棄却される。

シベリア抑留元日本兵謝罪  損害賠償請求訴訟(原告=呉雄根・小熊謙二、1996年東京地裁

提訴/2002年最高裁棄却、cf.東京高裁判決:  http://justice.skr.jp/judgements/45-2.pdf  )

前述の韓国シベリア朔風会会員が原告となる訴訟は2001年に他のBC級戦犯を含む韓国人

元軍人・軍属による集団訴訟として提訴され、安全配慮義務違反・不法行為に対する損害賠償と

未払賃金の支払いを求めた。東京地裁・高裁で棄却され、最高裁に上告したが、不受理で東京高

裁判決が確定している。

韓国元軍人・軍属・遺族靖国合祀絶止・遺骨返還・謝罪・補償請求訴訟(原告=李炳柱ほか414

人、2001年東京地裁提訴  2003年第二次提訴/2011年最高裁上告不受理、

cf.東京高裁判決:http://justice.skr.jp/judgements/68-2.pdf)

いずれの訴訟もすでに先行した日本人抑留者らによる国家補償請求訴訟が棄却された結果、

外国籍原告の訴えが認められる可能性は低くなっていた。

日本人抑留者による訴訟も、その後、池田幸一ら元抑留者5人が国に補償を求めた通称「カマ

キリ裁判」(1999年大阪地裁提訴/2004年最高裁棄却、cf,http://i-support.main.jp/k00/   

conte  nts%20index.html)、元抑留者と満州引揚者  遺族らで結成した「棄兵棄民政策による
国家補償を勝ち取る会」の林明治らが提訴した裁判(2007年京都地裁提訴/2013年最高裁上

告不受理  cf.京都地裁判決:

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/247/038247_hanrei.  pdf  )が行わ

れたが、いずれも請求を棄却され敗訴していた。

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주제발표

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■  台湾の元軍人・軍属による戦後補償訴訟

他方、1977年に台湾の元軍人・軍属らが日本政府に補償を求めて提訴し、最高裁まで法廷闘

争を行ったが、1985年に東京高裁は請求を棄却しつつ「控訴人らはほぼ同様の境遇にある日本

人と比較して著しい不利益を受けていることは明らかであり、しかも戦死傷の日からすでに40

年以上の歳月が経過しているのであるから、予想される外交上、財政上、法技術上の困難を超克

して、早急にこの不利益を払拭し、国際信用を高めるよう尽力することが、国政関与者に対す

る期待であることを特に付言する」と判決で述べて、解決を強く促した。(cf.東京高裁判決:

http://justice.skr.jp/judgements/08-2.pdf  最高裁判決:https://www.  courts.go.jp/ 

app/files/hanrei_jp/953/062953_hanrei.pdf  )

これを受けて、1987・88年議員立法で死没者遺族と重度の戦傷病者合計29,645人に、1人

200万円、総計592億9千万円を日本赤十字社/台湾紅十字会をとおして支給した。

(cf.  台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律  1987.9.29. 

https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?la

wId=362AC1000000105  特定弔慰金等の支給の実施に関する法律  1988.5.6.

https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?la

wId=363AC0000000031)

3

立法による解決の模索

■  裁判から立法に

総じて、20世紀中に出された下級審の判決で、日本の裁判所で外国籍の戦争被害者に対する

補償問題を解決することは困難であることが明らかになっていた。日本人を原告とした先に争

われていた、在外資産補償をめぐる訴訟、空襲被害者、シベリア抑留訴訟などがすべて「戦争被

害は国民等しく受忍すべし」とのロジックで退けられて、原告敗訴に終わっていた。そのため、日

本では国を相手の行政訴訟で勝訴することは極めて難しいと当初から指摘されていたが、裁判

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1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

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所は、被害事実を認定し、被害者らの労苦と怒りに理解と同情を示しながら、日本の法律に照ら

してこれらの被害者救済に対応できる枠組みがないと、立法府に解決の責任を押し付けて、訴

えを退けてきたのである。要するに、行政⇒司法⇒立法のたらい回しであった。

一部の弁護士らも早くからそのことには気づいていて、1995年には韓国人BC級戦犯者国家

賠償請求訴訟の弁護団長だった今村嗣夫弁護士らが包括的な「外国人戦後補償法」の提案を行

い、戸塚悦朗弁護士、中北龍太郎弁護士もそれぞれ「慰安婦」や「植民地支配被害者」への賠償法

案の提案を発表していた。1997年には「戦後処理の立法を求める法律家・有識者の会」(会長=

土屋公献元日本弁護士会会長)が結成されて、幅広く立法による解決を提起していく。

野党側国会議員がこれらの動きに促されて、民主党が2000年に「慰安婦」問題解決のための

「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」を参議院に提出し、共産党、社民党も同調して2008年

まで10回提出され、2002年には参考人を招致しての審議も行われた。

■  在日の戦没者・戦傷病者への支給:「平和条約国籍離脱者戦没者等弔慰金等支給法」

小渕政権で官房長官を務めた野中広務は、「20世紀に起きた問題は20世紀中に解決したい」

と戦後補償問題解決に意欲を示し、自民党内で検討を指示し、①、②、④の裁判で敗訴した原告

らの救済を図る。議員立法で「平和条約国籍離脱者等である戦没者等に対する弔慰金等の支給

に関する法律」を制定し、戦没者遺族に1人260万円の弔慰金、重度の戦傷病者に見舞金200万

円+生活支援特別給付金200万円を414人に支給した(総額8億5280万円)。しかし、前述のと

おり、①、②、④の裁判の原告らは、日本国籍であれば、累計で6000万円前後の障害者年金を受

給できたので、その1/15程度のあまりに少なすぎる金額に抗議して受け取りを留保した原告も

いた。国会議員の間でも上記法案の評価が分かれ、民主党は恩給も支払うとする対案を提出し

た。結局、同法案に自民党・公明党・共産党は賛成したが、民主党は反対。社民党は衆議院では反
対し、参議院で賛成にまわるなどの混乱もみられた。

⑪の原告の李昌錫は戦傷病者ではないため、上記の「平和条約国籍離脱者戦没者等弔慰金等

支給法」の対象とはならなかった。野中広務官房長官は、京都で李昌錫の娘と支援者に会い、そ

の境遇について知っていた。同法案制定時に野中は官房長官から自民党幹事長に立場が変わっ

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주제발표

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ていたが、李昌錫の訴えに応える措置は実現できなかった。幹事長職を辞した後、2001年に野

中は病床の李昌錫に日付を2年遡った官房長官名での感謝状と見舞金を贈った。その2ヵ月半

後に李昌錫が逝去し、2018年に野中が逝去した後に、美談としてこのエピソードをメディアが

報じ、広く知られるところとなる。しかし、「影の総理」とまで言われた自民党の実力者をもって

しても、李昌錫の願いを公式に実現することはかなわず、ポケットマネー(300万円)と私的な感

謝状を贈ることしかできなかった。いかに外国籍の元軍人・軍属に対する日本側の戦後補償の

ハードルが高かったかを示すエピソードでもある。(京都新聞2018年4月10日・11日、斎藤正

樹「京都で暮らした韓国籍の元シベリア抑留皇軍兵士・李昌錫さん」『シベリア抑留者支援  記録

センター通信』」No.21~27連載2018-2019)

■  外国籍元BC級戦犯への補償法案:「特定連合国裁判被拘禁者特別給付金支給法案」

20世紀末に最高裁で請求を棄却された⑨の韓国元BC級戦犯者らも、問題解決のための法案

提出を繰り返し国会に働きかけた結果、2008年に民主党が衆議院に「特定連合国裁判被拘禁者

特別給付金支給法案」を提出する(http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/ 

html/gian/honbun/houan/g16905021.htm)。しかし、一度も審議されないまま廃案に

なり、二度の政権交代を経て、法案再提出は難しくなっていた。2016年に李鶴来「同進会」会長

の自伝が出版されたのを機に、再度取り組みが始まり、日韓議員連盟と韓日議員連盟が共同して

解決に努力することを合同総会の共同声明で発表した。残念ながら、その後進捗がなく、安倍政
権はこうした問題に取り組むことに消極的とみられ、与党・自民党の中で法案提出に向けての

動きが広がっていない状況が続く。

■  シベリア抑留者への補償法案も外国籍を除外

元シベリア抑留者の求める補償要求も、裁判での敗訴の流れが顕著になった後、国会への立

法運動に集中した結果、2004年に「戦後強制抑留者特別給付金支給法案」が民主党から提出さ

れたが、2006年に自民党・公明党が否決したため、2009年には新たに「戦後強制抑留者特別措

置法案」が参議院に提出された。政権交代を経て、2010年の通常国会で同法案は自民党  公明
党も賛成して全会派一致の議員立法で制定された。抑留期間に応じて1人当たり25万円から

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1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

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150万円の特別給付金を支給するものの、対象は生存者に限られ、国籍条項も付されていた。国

籍条項の削除を日本人元抑留者らも強く望み、国会議員の一部も主張したが、朝鮮人捕虜に関

する十分な情報がないことなどから見送られ、法案の趣旨説明を行った佐藤泰介参議院総務委

員長が衆議院・参議院の本会議で「抑留中の死亡者数はいまだ確定されておらず、遺骨も関係資

料も収集が終わっておりません。台湾、朝鮮半島出身の強制抑留者の存在も含め、シベリア抑留

全体の実態の解明、真相の究明を行うとともに、抑留された方々はもとより、御家族、御遺族の

御苦労を、後の世にしっかりと語り継ぐべきであると考えます」と述べるに留まった。特別給付

金を受け取った日本人元抑留者の数は約6万9千人で、総額約193億円が支給された。

その後も朝鮮人元シベリア抑留者に対する措置の検討は続けられていて、「戦後強制抑留者

特別措置法案」の改正案ないしは別途の特別給付金支給法案提出が支援団体などからは要望さ

れているが、日本の立法府の現状からすると予断は許されない。当事者が海外で、高齢のため来

日も難しくなってきていて、日本国内での運動や世論の盛り上がりに欠けることも課題である。

BC級戦犯であれ、シベリア抑留者であれ、安倍政権下の日本での立法による解決は、残され

たほとんど唯一つの道であるが、ハードルは極めて高い。

■  今後の可能性:韓国司法への提訴があるのか?

以上見てきたように、日本の裁判所で争われたケースは、朝鮮人元軍人・軍属の中でも、戦傷

者やBC級戦犯、シベリア抑留者らが中心で、特別の被害や労苦を負わされた原告だった。主と

して同じ境遇の日本人に比べて不平等で、平等な扱いの補償や援護を求めるという訴えであっ

た。韓国内の元日本軍の軍人・軍属だった人々への補償措置は、基本的に1965年の日韓請求権

協定によって韓国政府に委ねられたというのが日本政府の一貫した立場で、韓国政府も従来そ

の見解に同意してきた。韓国国内の関心も「慰安婦」や「徴用工」(「強制連行」)に集まることが多

く、元軍人・軍属への注目度は低かった。それらのことも理由となって、韓国在住の元軍人・軍属

が日本政府を相手取った補償請求訴訟は多くなかった。

しかし、最近の元徴用工をめぐる韓国大法院の判決は、1965年請求権協定を超えて、そもそ

も日本による併合(植民地支配)が不法  不当であったという大韓民国憲法の基本精神に基づ

いて下されている。この認識に立てば、すでに韓国政府から一定の措置を受けていた元軍人・軍

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주제발표

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属であっても、日本政府に対して不法な植民地支配の結果受けた被害への慰謝料としての損害

賠償を請求することが可能となる。主権免除や管轄権の問題はあるが、今後韓国の法廷で朝鮮

人元軍人・軍属による日本政府に対する賠償請求が、遅まきながらどう提起され、どう判断され

るか注目される。

参考文献など

日本戦後補償裁判総覧  http://justice.skr.jp/souran/souran-jp-web.htm

『未解決の戦後補償―問われる日本の過去と未来』田中宏・中山武敏・有光健他著、創史社、2012年

『戦後70年・残される課題―未解決の戦後補償Ⅱ―』中山武敏・有光健・松岡肇他著、創史社、

2015年

『韓国人元BC級戦犯の訴え―何のために、誰のために』李鶴来、梨の木舎、2016年*

『朝鮮人BC級戦犯の記録』内海愛子、勁草書房1982年、岩波現代文庫2015年*

『法廷で裁かれる日本の戦争責任』瑞慶山茂編、高文研、2014年

『戦後補償法―その思想と立法』今村嗣夫ほか、明石書店、1999年

『委員会活動報告結果報告書』対日抗争期強制動員被害調及び国外強制動員犠牲者等支援委員

会、2016年

(*印:韓国語版あり)

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주제발표

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조선인  군인군속  전후 
보상  문제의  경과  및  현재

아리미츠  켄(와세다대학  국제화해연구소  초빙연구원)

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조선인  군인・군속의  수에  대하여

일본정부는  1993년  한국정부에  제공한  한반도  출신의  구군인・군속  명단을  약24만  명 

(243,992명, 구 육해군으로부터 인계 받은 인사관계 자료 참조)으로 발표했지만, 1945년 

8월  15일까지  일본군  군인・군속으로  동원된  조선인의  정확한  인원에  대해서는  밝히지 

않았다.  (cf.  대만인은  207,183명으로  알려져  있다.  지원・징병  포함)  국회의원들의  공개 

요구에도  정부는  계속  거부해  왔다.

한국정부의  대일항쟁기강제동원피해조사및국외강제동원희생자등지원위원회  활동  결과

보고서(2016년, P38)에서는 ‘최소치’로 군인 209,279명, 군속(군무원) 60,668명으로 총 

269,947명이라고  발표했다.  한일  간  총  약  10%,  2만  6천  명  이상  차이가  있으며,  한일 

양국  정부  공동의  종합적인  검증이  필요하다.

1950년대  일본정부는  ‘37만  명’이라고  발표했으나  이에  대해서는  해명이  없다.(*참고: 

다케우치 야스토(竹内康人)) ‘조선인 군인・군속의 강제동원수-37만 명 이상의 동원과 지워진 

성명 불상의 13만 명’ 오하라(大原)사회문제연구소 잡지 No686/2015.12. http://oisr-org. 

ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/686_03.pdf)

전후  시베리아에  억류된  한국  시베리아  삭풍회  회원의  경우,  대부분은  1945년  8월  9일 

소련군의 만주 침공 직전 관동군에 배속되어 있었는데, 본인들이 후생노동성에 기록 제출을 

요구했지만  대부분  이들의  기록은  후생노동성  자료실에  남아  있지  않았다.

패전 직전 ‘저인망식 동원’ 시기에 징병된 병사들의 기록은 도쿄 대본영에 전달되지 않은 

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20

1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

-  20  -

것으로 추측된다. 혹은 어디선가 소각되었을지도 모른다. ‘환상의 일본군’으로서 행정상 계산

되지 않은 것이지만, 러시아 측(당시 소련)의 자료에는 10,206명의 조선인 포로가 기재되어 

있다.(*1956년  10월  13일  소련  내무성  포로・피억류자  사무총관리국  보고서/베갈리츠키 

‘소연방의  일본인  포로-진실과  억측’,  ‘군사사  잡지’  1991년  제4호)  대일항쟁기강제동원

피해조사및국외강제동원희생자등지원위원회의  보고서는  조선인  3천여  명이  포로로  억류

되었다고 추계하였는데, 이 또한 한국・일본・러시아 정부가 공동으로 해명해야 할 과제이다.

2

조선인  군인・군속의  수에  대하여

■ 재일동포들의  호소로  시작된다 

네트워크  조사에  의하면,  1970년대  이후,  외국  국적의  전쟁  피해자들이  일본  정부나 

일본  기업에  보상을  요구하며  제소한  전후  보상  재판은  90건에  이른다.

(‘전후 보상 재판’의 정의나 카운트 방법에 따라 다를 수 있기 때문에, 엄밀하게 총 건수가 

‘90건’이라고 할 수는 없지만, 대략적인 건수는 파악이 가능하다.) 그들 중 한국 국적(재일

한국인도 포함한다)의 원고가  제기한 재판은 절반인  45건이었다.  원고의 누계 별로는  군인・

군속  출신에  의한  소송이  15건으로,  강제징용  피해자  16건과  함께  가장  많았다.(나머지는 

원폭 희생자 8건, 사할린 잔류자 4건, 위안부 3건, 학살 피해 2건, 우키시마마루호(浮島丸)・

생명  보험・한센병  각  1건  중복  있음)

당초에는 재일 한국인 중 군인・군속 출신으로 전쟁 중 부상으로 장애를 입은 피해자들이 

일본  국적  소유자와  동등한  전상병자  전몰자유족  등  원호법에  의거한  원호를  요청하며 

제소가  시작되었다.  주요  소송은  다음과  같다.

①  재일  한국인  원호법의  원호를  받는  지위확인  소송(원고=정상근,  1991년  오사카  지방

법원  제소/2001년  최고재판소  기각

cf.오사카  고등법원  판결:

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/021/016021_hanrei.pdf)

②  원호법  장애인  연금  지급  거부  결정  취소  소송(원고=진석일・석성기,  1992년  도쿄 

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21

주제발표

-  21  -

지방법원  제소/2001년  최고재판소  기각

cf.최고재판소  판결:

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/416/062416_hanrei.pdf)

③ 한국인 전상자 국가배상청구소송(원고=김성수, 1992년 도쿄 지방법원/2001년 최고

재판소  기각)

*1995년에는  연금청구  기각처분  취소  청구소송/2001년  최고재판소  기각

cf.최고재판소  판결:

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/473/062473_hanrei.pdf)

④  재일  한국인  원호법의  원호를  받는  지위확인  소송(원고=강부중,  1993년  오쓰  지방

법원  제소/2001년  최고재판소  기각 

cf.오사카  고등법원  판결:http://justice.skr.jp/judgements/31-2.pdf)

부산에  거주하고  있었던  김성수  외에는  모두  재일  한국인으로  각각  장애의  정도는  달랐

지만, 일본 국적자라면 총 6천만 엔 전후의 장애인 연금을 받을 정도의 장애를 가지고 있었다. 

일본  국적  소유자로  군력이  긴  사람에게는  연금이  지급되고  있었다.

국적에 의한 차별의 해소・불평등의 시정을 요구한 소송에 대해서, 일본의 여론도 동정적

이며, ①의 오사카 지방 법원도 판결(1995년 10월 11일)에서 “일본의 전상병자들에 비해 

차별의  정도가  중대하고,  재일  한국인을  대상으로  하는  취급은  법  앞에서의  만인  평등을 

정한 헌법 14조에 위반된다”라고 판단하여, 시급히 입법 정책을 취할 필요성을 강하게 지적

했다. 또 국적조항은 “구 식민지 출신의 군인・군속의 보상문제는 외교교섭에 의해 해결될 

가능성을  고려한 것으로  합리성이  있었다”(밑줄:  필자)라며  원호법  입법 당시에는  합헌이었

다고 인정했으나, 1965년 한일청구권협정에 따라 일본 정부는 “완전하고 최종적으로 해결

했다”라고  밝혔다.  하지만,  한국정부는  “재일  한국인의  군인・군속은  해결  대상에서  제외

되어  있다”라며,  “협정을  체결한  뒤,  원호법의  적용대상에서  제외시킨  것은  합리적이지 

않다”고 일본정부 측 주장을 받아들이지 않았다. 일본은 “단순한 국적을 이유로 한 차별적 

취급에  합리성이  있다고는  할  수  없다”고  지적하면서도  결론에서는  “원호에  대한  내용은 

입법  정책에  속하는  문제”라며  청구를  기각했다.

원래 원고나 변호단은 ‘위헌 소지’가 강하기 때문에 정확한 판단을 위해 소송한 것이므로, 

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22

1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

-  22  -

오사카 지방법원의 재판장이 판단을 내려야 할 것은 ‘위헌 여부’였다. 그러나 “헌법에 위반

되는  혐의가  있다”는  결론에는  답이  없었으며,  법원은  그  기능과  책무를  다하지  못했다. 

그러나 그 후의 전후보상재판 판결의 대부분도 마찬가지로 일본재판소는 피해사실을 인정

하고 동정하면서 입법조치만을 촉구할 뿐, <법이 없기 때문에 보상은 할 수 없다>며 청구에 

대해서는  기각을  반복하며  책임을  입법부에  떠넘겼다.

적용할 수 있는 법률이 없더라도 “법 앞에서의 평등을 인정한 헌법에 위배된다”고 위헌 

판결을 내려서 입법과 배상을 동시에 명령할 수는 있었을 것이다.(예외적으로 1998년 4월 

27일, 야마구치(山口) 지방법원 시모노세키(下関) 지부가 전 위안부들의 호소에 내린 판결은 

입법부작위로  인한  배상  명령이었으나,  나중에  히로시마(広島)  고등  법원에  의해서  취소

되었다.  cf.  http://justice.skr.jp/judgements/26-1.pdf)

②,  ④도  청구는  기각되어  원고  패소로  끝났다.  ②의  도쿄  고등법원  판결(1998)에도 

‘인도적  관점에서나  유엔  규약인권위원회에서  관심과제(우려사항)로서  지적한  것을  보더

라도  신속하게  적절한  대응을  도모하는  것이  일본에  부과된  정치적,  행정적  책무이기도 

하다’,  ‘재일  한국인에게도  보상의  길을  열어주는  법률을  제정하고  재일  한국인  전상(戦

傷)병자에  대해서는  이에  상응하는  행정상의  특별조치를  취하는  것이  강력히  요망된다’ 

(http://justice.skr.jp/judgements/20-2.pdf  )는  소견이  첨부되어  있었다.

전후에도  일본에서  살며  일본인과  똑같이  세금을  내  온  원고들이  법  앞에서의  평등을 

요구한  당연한  주장에  대해  일본  사법부는  들어주었지만,  그들의  요구에  직접  응하지는 

않았다.

③의 한국에 거주하고 있던 전 상이군인 김성수씨의 경우도 도쿄(東京) 지방법원은 원고의 

억울한 심정과 처지는 상상을 초월하여 동정을 금할 수 없다고 하였으나, 헌법위반을 부정

하고  현행  헌법은  소급할  수  없으며  전쟁피해는  국민처럼  수인해야  한다며  청구를  기각

하면서  입법부에  판단과  책임을  맡겼다.

한국의  군인・군속  출신들도  다른  전쟁  피해자와  함께  집단소송을  제기했다.  원고는 

전상을  입은  전  군인・군속에  한정되지  않는  폭넓은  보상을  요구하였다.

⑤ 아시아 태평양 전쟁 한국인 희생자 보상 청구 소송(원고=전 군인・군속 17명, 유족 15명, 

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주제발표

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위안부  8명,  총  40명,  1991년  도쿄  지방법원  소송/2004년  최고재판소  기각

cf.최고재판소  판결:

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/563/062563_hanrei.pdf)

⑥ 강제징병・강제징용피해자 보상청구 강원도(江原道) 소송(원고=전 군인・군속, 강제징용

피해자,  유족  등  24명,  1991년  도쿄  지방법원  제소/2003년  최고재판소  기각 

cf.도쿄(東京)  고등  법원  판결:http://justice.skr.jp/judgements/18-2.pdf)

⑦  대일민간법률구조회불법행위책임존재확인등청구사건(원고=전  군인・군속,  노무자,  위안부, 

정신대, 독립  운동가, 유족들 369명, 1992년  도쿄 지방법원 소송/2003년 최고재판소 

기각

cf.도쿄  고등법원  판결:http://justice.skr.jp/judgements/22-2.pdf)

⑧  광주소송(원고=전  군인・군속,  강제동원  피해자  등  약  천명,  1993년  도쿄  지방법원 

제소/2000년  최고재판소  기각 

cf.도쿄  고등법원  판결:http://justice.skr.jp/judgements/29-2.pdf)

그러나  청구는  모두  기각되며  원고  패소가  이어졌다.

■  한국인  BC급  전범  국가보상  청구소송

군인・군속  출신이  원고였던  소송  중에서  다소  특수한  경우가  전직  BC급  전범자와 

시베리아 억류자들의 소송이었다. 모두 전쟁 중이 아니라 전쟁 종료 후 일어난 사건의 피

해자들이다.

전  BC급  전범자는  주로  연합국  측의  포로를  감시하는  포로  감시원으로  동원된  조선・

대만 출신의 군속인데, 전후 포로 학대 혐의로 연합국 군사법정에서 재판을 받아 처형되거나 

감옥에 장기 복역하여 문제가 되었다. 연합국의 재판기록이 남아 있어 정확한 숫자 파악이 

가능했다.(BC급 전범 148명 중 대부분의 129명이 포로 감시원이고, 3명이 군인, 16명이 

통역이었다.)

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24

1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

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BC급  범죄  수형자  수

민족

유죄

사형

무기

유기

질병・옥사  등

조선인

148명

23명

18명

107명

대만인

173명

21명

147명

5명

일본인

4361명

940명

457명

2690명

*그  외274명

*그  외는  공소기각・사망・도망  등.일본인  유죄자  수는  미확정.

전 BC 전범자들은 포로 학대의 책임을 전적으로 인정한 것은 아니지만, 연합국의 군사

재판  결과를  받아들여  복역한  것이다.  1955년  스가모(巣鴨)  교도소  내에서는  ‘동진회(同

進会)’를  결성해  일본의  전쟁  책임을  대신  갚은  것에  대한  사죄와  국가보상을  요구하며 

운동을 벌이기 시작한다. 당초 일본 정부에 직접 요구하였으나, 정부가 응하지 않자 고소

했다.

한국인 BC급 전범 국가보상 등 청구소송(원고=이학래 등 전 BC급 전범 7명・유족 1명, 

1991년  도쿄  지방법원  제소/1999년  최고재판소  기각

cf.고등법원  판결:http://justice.skr.jp/judgements/16-2.pdf  )

8년에 걸친 재판 결과는 3심 모두 기각 판결되었는데, 피해 사실을 인정하고 원고들의 

처지에 동정하며 입법을 마무리한 것이었다. 21세기 이후에는 입법 운동에 주력하게 된다. 

이하,  이와  관련된  판결을  발췌하여  인용하였다.

【도쿄  지방법원  판결】1996년9월9일

「일본의 군인・군속 및 그 유족에 대한 원호조치에 상당하는 조치를 강구하는 것이 바람

직함은  말할  필요도  없다.  그러나  이는  국가  입법정책에  속하는  문제이다.」

【도쿄  고등법원】1998년7월13일

「국제적, 정치적, 그 밖의 여러 사정으로 인해 어쩔 수 없는 면이 있었다고는 하나, 전범자 

공소인들  입장에서  보면  거의  동일한  수준으로  있었던  일본인,  나아가  대만  주민과  비교

하여도  현저한  불이익을  받고  있음을  부인할  수  없다.

이런 상황에서 전범자 항소인들이 불평등한 대우를 받고 있다고 느낄 수 있으며 그 심정을 

이해  못  하는  것도  아니다.

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주제발표

-  25  -

이 문제에 대하여 아무런 입법조치가 강구되지 않은 것이 입법부의 재량범위를 벗어났기 

때문이라고 할 수는 없지만, 적절한 입법조치를 취하는 것이 바람직함은 분명하다. 제2차 

대전이 끝나고 전범 항소인들이 전범자로 몰려 전쟁재판을 받은 지 벌써 50여 년이 지났

으며,  전범  항소인들은  모두  나이가  들어  재판이  계속되는  가운데  2명이  사망했다.  국정 

관계자는 이 문제의 조기해결을 도모하기 위해 적절한 입법조치를 강구할 것으로 기대된다.」

【최고재판소】1999년12월20일  (제1소법정)

「상고인은 모두 일본 통치하에 있던 조선 출신자로, 1942년경 반강제적으로 포로감시원에 

응모하여,    ・・・유무기  및  극형에  처해져  심각하고  막대한  희생  내지  손해를  입었다.

상고인들이  입은  희생  또는  피해의  심각성에  비추어  볼  때,  이에  대한  보상  관련  입법

조치가  강구되어  있지  않아  상고인들이  불만을  가질  수  밖에  없다고  생각하지만,  이러한 

희생  및  손해에  대해  입법을  기다리지  않고  전쟁수행  주체였던  국가에  대해  국가보상을 

청구할  수  있는  절차는  여전히  존재하지  않는다.       

입법부의  재량적  판단에  맡기는  것이  적절하다고  생각한다.」

1995년에도  한국에  거주  중인  BC급  전범과 유족들이  손해배상과  미지급  임금을  요구

하며  제소했으나  청구는  역시  기각됐다.

한국인 전 BC급 전범 공식사과・국가보상청구소송(원고=임영준 등 BC급 전범 4명・유족 

4명,  1995년  도쿄  지방법원  제소/2001년  최고재판소  기각,

cf.  https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/459/062459_hanrei.pdf)

■  한국인  시베리아  억류자  국가보상청구  소송

한국인 전 시베리아 억류자의 전후 보상 요구는 1990년 한국과 소련의 수교 후, 소련・

러시아에 대한 사회적 경계감이 낮아지면서 억류자들이 나설 수 있게 되었고, 그 해 한국 

시베리아  삭풍회가  결성되면서  시작됐다.  1996년에는  도쿄  지방법원에  제소하기를  원했

으나  뜻을  이루지  못했다.  1981년  국가보상을  요구하며  제소했던  전국억류자보상협의회 

소속의  일본인  전  억류자들도  1997년  최고재판소에서  패소하고  만다.

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1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

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(cf.  https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/  788/052788_hanrei.pdf)

한편,  한국  국내에서의  소송에  앞서,  전후  시베리아에서  마이즈루(舞鶴)로  돌아온  교토 

거주  재일교포가  1992년에  연금  지급을  요구하며  혼자서  교토  지방법원에  제소했었다.

시베리아 억류 재일 한국인 국가배상 청구소송(원고=이창석, 1992년 교토 지방법원 제소/

2002년  최고재판소  기각 

cf.최고재판소  판결:

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/475/062475_hanrei.pdf)

2002년,  최고재판소에서  상고를  기각하여  패소하였다.  이후의  일에  대해서는  나중에 

언급하도록  하겠다.

중국 조선족 출신 시베리아 억류자의 제소도 일본인 시베리아 억류자와 공동으로 1996년 

이뤄졌으나,  2002년  최고재판소에서  기각된다.

시베리아에  억류되었던  전  일본군  사죄・손해배상  청구소송(원고=오웅근・오구마  겐지

(小熊謙二), 1996년 도쿄 지방법원 제소/2002년 최고재판소 기각, cf.도쿄 고등법원 판결: 

http://justice.skr.jp/judgements/45-2.pdf)

앞서 설명한 한국 시베리아 삭풍회 회원들이 원고가 되었던 소송은 2001년 다른 BC급 

전범을  포함한 한국인  전  군인・군속의 집단소송으로  제기되어,  안전배려 의무  위반・불법

행위에 대한 손해배상과 미지급 임금을 지급하도록 요구했다. 도쿄 지방법원・고등법원에서 

기각되어  최고재판소에  상고했지만,  불수리  처리로  도쿄  고등법원  판결이  확정되었다.

한국  군인・군속・유족  야스쿠니(靖国)  합사  취소・유골반환・사죄・보상청구소송

(원고=이병주  외 414명,  2001년 도쿄  지방법원  제소・2003년  제2차  제소/2011년  최고

재판소  상고불수리,

cf.東京高裁判決:http://justice.skr.jp/judgements/68-2.pdf)

이미  일본인  억류자들의  국가보상청구소송이  기각되었기  때문에,  외국  국적  원고의 

소송이  인정될  가능성은    낮았다.

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주제발표

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이후,  일본인  억류자에  의한  소송이었던  이케다  고이치(池田幸一)  등  전  억류자  5명이 

국가에  보상을 요구했던  통칭  ‘사마귀 재판’(1999년  오사카  지방법원  제소/2004년 최고

재판소  기각,  cf.http://i-support.main.jp/k00/  conte  nts%20index.html),  과  전  억

류자・만주  귀환자・유족  등이  결성한  ‘기병기민정책에  의한  국가보상을  쟁취하는  모임’의 

하야시  아키하루(林明治)  일행이  제소한  재판(2007년  교토  지방법원  상고불수리

cf.교토  지방법원  판결:

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/247/038247_hanrei.  pdf)이  모두 

청구를  기각하여  패소했다.

■  대만  전  군인・군속의  전후보상  소송

한편, 1977년에 대만의 전 군인・군속 등이 일본정부에 보상을 요구하며 제소하여 최고

재판소까지  법정투쟁을  하였다.  하지만,  1985년에  도쿄  고등법원은  청구를  기각하면서 

“항소인들은  비슷한  처지에  있는  일본인과  비교하더라도  불이익을  받고  있는  것이  명백

하다.  게다가  전쟁  중  부상을  당한  것도  이미  40년  이상의  세월이  경과하였으므로,  예상

되는 외교상, 재정상, 법 기술상의 어려움을 초월하여 조속히 불이익을 불식하고 국제신임을 

높일 수 있도록 국정 관계자에게 기대해 본다.”고 판결에서 말하고 해결을 강력히 촉구했다. 

(cf.  도쿄  고등법원  판결:http://justice.skr.jp/judgements/08-2.pdf  최고재판소 

판결:https://www.  courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/953/062953_hanrei.pdf  )

이에 따라 1987・88년 의원입법으로 사망자 유족과 중증 전상병자 합계 29,645명에게 

1인당 200만 엔, 총계 592억 9천만 엔을 일본적십자사/대만 홍십자회를 통해 지급했다.

(cf.  대만주민인  전몰자의  유족  등에  대한  조위금  등에  관한  법률  1987.9.29.

https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?la

wId=362AC1000000105  특정  조위금  등의  지급  실시에  관한  법률  1988.5.6.

https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?la

wId=363AC0000000031)

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1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

-  28  -

3

입법을  통한  해결  모색

■  재판에서  입법으로

20세기 중 나온 하급심 판결을 보면, 일반적으로 일본 법원에서 외국 국적 전쟁 피해자에 

대한  보상  문제를  해결하기에는  어려움이  있는  것으로  밝혀졌다.  일본인을  원고로  먼저 

다투었던 재외자산보상 소송, 공습피해자, 시베리아 억류소송 등이 모두 “전쟁피해는 국민

처럼 수인해야 한다”는 논리로 기각돼 원고 패소로 끝났다. 이 때문에 일본에서는 국가를 

상대로  한  행정소송에서  승소하기는  매우  어려울  것으로  지적되었다.  법원은  피해사실을 

인정하고  피해자들의  피해와  분노에  이해와  동정을  표시하면서도,  일본  법률에는  이들 

피해자를  구제할  수  있는  장치가  아직  없다고  입법부에  해결의  책임을  떠넘기며  소송을 

피해  온  것이다.  결국  행정⇒사법⇒입법  순서대로  책임을  전가한  것이다.

이에 대한 내용은 일부 변호사들도 일찍부터 인지하고 있었기 때문에, 1995년에는 한국인 

BC급 전범자 국가배상청구 소송의 변호인 단장이었던 이마무라 츠구오(今村嗣夫) 변호사 

일행이 포괄적인 ‘외국인 전후 보상법’의 제안을 하였으며, 도츠카 에츠로(戸塚悦朗) 변호사, 

나카키타  류우타로(中北龍太郎)  변호사도  각각  ‘위안부’나  ‘식민지  지배  피해자’에  대한 

배상법 제안을 발표했다. 1997년에는 ‘전후 처리의 입법을 요구하는 법률가・지식인의 모임’

(회장=츠치야 코겐(土屋公献) 전 일본 변호사회 회장)이 결성되어 폭넓게 입법에 의한 해결을 

제기해  나갔다.

이들의  움직임에  야당  국회  의원이  압박을  받자,  민주당이  2000년에  ‘위안부’문제 

해결을  위한  ‘전시  성적강제  피해자  문제해결  촉진법안’을  참의원에  제출했다.  공산당, 

사민당도 동조하여 2008년까지 10회에 걸쳐 법안을 제출하였으며, 2002년에는 참고인을 

유치한  심의도  열렸다.

■  재일  전몰자・전상병자에  대한  지급:  ‘평화조약  국적이탈자  전몰자  등  조위금  지급법’

오부치(小渕)  정권에서  관방장관을  지낸  노나카  히로무(野中広務)는  “20세기에  일어난 

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주제발표

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문제는 20세기 안에 매듭짓고 싶다”며 전후보상 문제 해결에 의욕을 보였다. 이후 자민당 

내에서의  검토를  지시해  ①,  ②,  ④  재판에서  패소한  원고들을  구제한다.  의원입법으로 

‘평화조약  국적이탈자  등  전몰자에  대한  조위금  지급에  관한  법률’을  제정하고,  전몰자 

유족에게는  1인  260만엔의  조위금,  중증  전상병자에게는  위문금  200만엔+생활지원  특별

지급금  200만엔을  지급하기로  했으며  총  414명에게  지급했다(총액  8억  5280만엔).

그러나 앞서 기술한 바와 같이 ①, ②, ④ 재판의 원고들 중에는 일본 국적자가 받는 총 

6000만  엔  전후의  장애인  연금에도  못  미치는  1/15  정도의  금액이  너무  적다며  항의해 

수령을 유보한 경우도 있었다. 국회 의원 사이에서도 상기 법안의 평가가 갈렸는데, 민주당은 

연금도 지불한다고 하는 대안을 제출했다. 결국 위의 법안에 자민당・공명당・공산당은 찬성한 

반면,  민주당은  반대하였다.  사민당은  중의원에서는  반대하고  참의원에서  찬성으로  돌아

서는  등  혼선을  빚었다.

⑪의 원고인 이창석은 전상병자가 아니기 때문에, 상기의 ‘평화조약 국적이탈자 전몰자 

등  조위금  지급법’의  대상이  되지  않았다.  노나카  히로무(野中広務)  관방장관은  교토에서 

이창석의  딸과  지원자를  만났었기  때문에  위의  상황을  알고  있었다.  이  법안  제정  당시, 

노나카(野中)는 관방장관에서 자민당 간사장으로 입장이 바뀌었는데, 이창석의 호소에 부응

하는  조치는  실현하지  못했다. 

간사장직을  사임한  후,  2001년에  노나카(野中)는  병상에  있던  이창석에게  2년이라는 

시간을 거슬러 올라가 관방장관 이름으로 감사장과 위로금을 보냈다. 그로부터 두 달 반 만에 

이창석이 서거하였다. 이 일화는 2018년 노나카(野中)가 서거한 뒤 미담으로 언론에 보도

되면서 널리 알려지게 되었다. 그러나 그림자 총리로까지 불렸던 자민당 실력자라 하더라도 

이창석의  소원을  공식적으로  실현하지  못했으며,  쌈짓돈(300만  엔)과  사적인  감사장  밖에 

보낼 수 없었다. 이는 외국 국적의 전 군인・군속에 대한 일본측의 전후 보상이 얼마나 힘든지 

보여주는 에피소드이기도 하다.(교토신문 2018년 4월 10일・11일 사이토 마사키(斎藤正樹)

「교토에서 살았던 한국 국적의 시베리아 억류 황군병사 이창석씨」『시베리아 억류자 지원・

기록센터  통신』」No.21~27  연재  2018-2019)

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1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

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■  외국  국적의  전  BC급  전범에  대한  보상법안:  ‘특정  연합국  재판  피구금자  특별  급

부금  지급  법안’ 

20세기 말, 최고재판소에서 청구를 기각 당한 ⑨의 한국 전 BC급 전범자들도 문제 해결을 

위한  법안  제출을  거듭해  국회를  압박한  결과,  2008년  민주당이  중의원에  ‘특정  연합국 

재판  피구금자  특별지급금  지급법안’을  제출했다

(http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g

16905021htm). 

그러나  이  법안은  심의조차  되지  못하고  폐안  됐고,  두  차례의  정권교체를  거쳐  법안 

재제출은  어렵게  되었다.  2016년,  이학래  '동진회'  회장의  자서전이  출간된  것을  계기로 

재시도가 시작되어, 한일의원연맹과 일한의원연맹이 공동으로 해결에 노력하기로 합동총회 

공동성명에서  발표했다.  하지만,  이후  진척이  없자,  아베  정권은  이런  문제를  다루는데 

소극적일  것으로  판단하였다.  또한  집권  자민당  내에서의  법안  제출을  향한  움직임도  더 

이상  확산되지  않은  채  멈추었다.

■시베리아  억류자  보상법안도  외국  국적을  제외

국회 입법운동에 집중한 결과, 시베리아 억류자의 보상 요구도 2004년 ‘전후 강제 억류자 

특별지급금  지급법안’이  2004년  민주당에  의해  제출됐으나,  2006년  자민당・공명당의 

반대로  부결되었다.  2009년에는  ‘전후  강제  억류자  특별조치법안’이  참의원에  제출됐다. 

정권  교체를  거쳐,  2010년  정기국회에서  이  법안은  자민당・공명당이  만장일치로  찬성해 

의원입법으로 제정됐다. 억류 기간에 따라 1인당 25만 엔~150만 엔의 특별지급금을 지급

하되,  대상은  생존자로  한정하였고  국적조항도  넣었다.  일본인  전  억류자들과  국회의원 

일부가 국적 조항의 삭제를 강력히 주장했지만, 조선인 포로에 관한 충분한 정보가 없다는 

이유 등으로 미뤄졌다. 또한 법안의 취지를 설명했던 사토 다이스케(佐藤泰介) 참의원 총무

위원장은 중참의원 본회의에서 “억류 중의 사망자 수는 아직 확인되지 않았고, 유골도 관계 

자료도 수습되지 않았다. 대만, 한반도 출신 강제 억류자의 존재를 포함해, 시베리아 억류 

전체의 실태를 해명하고 진상을 규명하는 동시에 억류되었던 분들은 물론 가족, 유족들의 

수고를 후세에 확실히 전해야 한다고 생각합니다"라고 말하는데 그쳤다. 특별급부금을 받은 

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주제발표

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일본인  전  억류자의  수는  약  6만  9천명으로,  총  193억  엔  정도가  지급되었다.

그 후에도 조선인 전 시베리아 억류자에 대한 조치의 검토는 계속되었으며, ‘전후 강제 

억류자 특별조치법안’의 개정안 또는 별도의 특별급부금 지급 법안 제출이 지원단체 등으로

부터  요구되었다.  하지만  일본  입법부의  현  상황에서  봤을  때,  어떻게  될지  예측하기는 

어렵다. 고령이 된 피해자들은 해외에서 방일하는 것 조차 어려워지고 있다. 일본 내에서의 

운동이나  여론의  고조가  부족한  것도  과제다. 

BC급  전범이든  시베리아  억류자이든  아베  정권  아래에서는  일본에서의  입법을  통한 

해결이  거의  유일한  길이지만,  그  벽은  매우  높다.

■  앞으로의  가능성:  한국  사법부  제소할  것인가?

지금까지 살펴본 바와 같이, 조선인 전 군인・군속 중에서도 막대한 피해를 입은 전상자와 

BC급  전범,  시베리아  억류자들은  원고로서  일본  법원에서  끊임없이  싸웠다.  주로  같은 

처지의 일본인에 비해 불평등하고, 평등한 취급의 보상과 원호를 요구한다는 소송이었다. 

한국 내 일본군 출신 군인・군속이었던 사람들에 대한 보상조치는 기본적으로 1965년 한일

청구권협정에 따라 한국 정부에 맡겨졌다는 것이 일본 정부의 일관된 입장이며, 한국 정부도 

그 견해에 동의해 왔다. 한국 국내에서도 전 군인・군속 보다는 ‘위안부’나 ‘징용’(강제 연행)에 

대해 더 관심을 가졌다. 이러한 이유 때문에 한국 거주 중인 전 군인・군속이 일본 정부를 

상대로  한  보상청구소송은  많지  않았다.

그러나 최근 한국 대법원 판결은 1965년 청구권 협정을 넘어 원래 일제 병합(식민지지배)이 

불법 부당했다는 대한민국 헌법의 기본 정신에 입각하여 내려졌다. 이에 따라, 이미 한국

정부로부터  일정한  조치를  받은  군인・군속이라도  일본정부에  대해  불법적인  식민지배의 

결과로  입은  피해에  대한  위자료로서의  손해배상을  청구할  수  있게  된다.  주권  면제나 

관할권의 문제가 있지만, 앞으로 한국 법정에서 조선인 군인・군속의 일본 정부에 대한 배상 

청구가  어떻게  제기되고  어떻게  결론이  날지  주목된다.

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1.  조선인  군인・군속의  전후  보상  문제의  경과와  현재

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참고문헌

일본전후보상재판  총람  http://justice.skr.jp/souran/souran-jp-web.htm

『미해결  전후보상  -  일본의  과거와  미래』다나카  히로시(田中宏)・나카야마  다케토시(中山

武敏)・아리미츠  켄(有光健)  저,  창사사(創史社),  2012년

『전후  70년・남겨진  과제-미해결  전후  보상Ⅱ―』  나카야마  다케토시(中山武敏)・아리미츠 

켄(有光健)・마츠오카  하지메(松岡肇)  저,  창사사(創史社),  2015년

『한국인 BC급 전범의 하소연 - 무엇을 위해, 누구를 위하여』 이학래, 梨の木舎, 2016년*

『조선인 BC급 전범 기록』 우츠미 아이코(内海愛子), 勁草書房1982년, 岩波現代文庫2015년*

『법정에서  심판  받는  일본의  전쟁책임』  즈게야마  시게루(瑞慶山茂)편,  高文研,  2014년

『전후보상법  -  그  사상과  입법』  이마무라  쓰구오(今村嗣夫)  외,  明石書店,  1999년

『위원회  활동보고  결과보고서』  대일항쟁기  강제동원피해조사  및  국외강제동원희생자  등 

지원위원회,  2016년

(*표시:한국어판  있음)

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주제발표

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일제하  조선인  포로감시원의 

동원  실태와  생활상

02

강  정  숙

(성균관대학교  동아시아역사연구소)

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주제발표

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일제하  조선인  포로감시원의 
동원  실태와  생활상

강  정  숙(성균관대학교  동아시아역사연구소)

1

머리말

필자가  처음  조선인포로감시원에  대해  알게  된  것은  1970년대  말  旗田巍先生古希祈念

会編의  『朝鮮歴史論集』下巻(龍渓書舎,  1979』)에  실린  우쓰미 아이코의  글을  통해서였다. 

일본에서는  언제부터일까  궁금하여  일본  국회도서관에서  포로감시원에  대한  도서자료를 

찾았더니  역시  조선인  포로감시원의  BC급  전범문제를  다룬  조사연구물에서부터  시작

하였다.1) 

필자는 포로감시원에 대해 그리 많이 연구하지 못하였다. 귀환과 관련한 글 속에서 포로

감시원을  다루거나  일본군‘위안부’문제와  관련하여  동일  시기  공간에  있었던  증언자로서 

주로 다룬 정도였다.2) 그럼에도 재단의 제안을 수용한 것은 포로감시원이었던 분들에 대해 

그만큼  부채의식이  많았기  때문이다.  오늘의  발표는  앞으로  작업에  대한  일종의  약속이다.

3,000여명에  이른  조선인  포로감시원들의  경험은  다양할  것인데,  동원된  이들의  구성

(나이나 직업, 출신지 등)이나 이들이 동원된 이후 배치지 상황이나 이들의 일상생활상을 

구체적으로 다룬 연구는 의외로 그리 많지 않았다. 그것은 일본 패전 이후 연합군의 전범

재판에서 조선인 전범 148명 중 129명이 포로감시원(그중 12명 사형집행)이었다는 압도

적인 역사적 사실에서 BC급 전범이 된 포로감시원 연구에 중심이 두어졌기 때문으로 판단

1)  理論社理論編集部  編,『壁あつき部屋  :  巣鴨BC級戦犯の人生記』,  理論社,  1953.
2)  일제강점하강제동원피해진상규명위원회,  『인도네시아  동원  여성명부에  관한  진상조사』,  2009.  강정숙,  「제2차  세계

대전기  인도네시아  팔렘방으로  동원된  조선인의  귀환과정에  관한  연구」,  『한국독립운동사연구』제41집,  2012.4.

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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한다(우쓰미 아이코, 1982, 2007; 워라웃 쑤완다릿, 2004; 김용희, 2007; 대일항쟁기강

제동원피해조사및국외강제동원희생자등지원위원회,  2011:  조건,  2011;  신희석,  2015; 

공준환,  2016).  우쓰미  아이코의  책과  위원회에서  나온  보고서는  조선인BC급전범만이 

아니라  동원과정과  배치  등  포괄적이면서  다양한  내용이  담겨  있다.  포로감시원에  대한 

연구도 점점 세분화하고 다양해지고 있다. 이를 간단히 살펴보면 다음과 같다. 포로감시원

들은  배치된  지역에서  항일운동과    인도네사아인들과  함께  인도네시아  독립운동에  참가

하였다(김보림, 2005; 로스티뉴, 2009; 조건, 2011; 유병선, 2011; 유병선, 2013; 안승갑, 

2014). 동남아에  주로 배치되었지만 조선 내에도 포로수용소가 설치되었다(조건, 2013; 

공준환, 2016). 그리고 귀환시기의 포로감시원을 비롯한 조선인들의 다양한 모습을 다룬 

연구들도  있다(김도형,  2003;  일제강점기강제동원피해진상규명위원회,  2009:  강정숙, 

2012). 공준환은 포로감시원에 대한 미군의 태도 등을 다루며 조선내 전범문제를 어떻게 

수용하였는지를 당시 한국상황과 관련하여 입체적으로 분석하였다. 포로감시원들의 경험을 

난민과  연결하여  식민지적  난민성으로  푼  연구도  있다(신지영,  2016). 

이글에서  다루려는  내용은  1)조선인을  포로감시원으로  동원하게  된  배경  2)  동남아로 

동원된 조선인 포로감시원의 구성과 배치 3) 동원된 조선인 포로감시원의 생활실상 등이다. 

전범문제는 거의 다루지 않는다. 이 연구에서 가장 중요한 기초자료는 명부로 본다. 그러나 

현재  이러한  자료들을  자유로이  열람할  수  없는  관계로  <일제강점하강제동원피해진상규명

위원회> 등 일련의 단체에서 간행한 보고서와 기존연구 등에 크게 의존하였다. 그리고 필자가 

이글에  주로  활용한  것은  <일제강점하강제동원피해진상규명위원회>  근무(2004-2009)  전후 

이용할 수 있었던 명부관련 자료와 일제하  군속(포로감시원  포함) 등으로 동원된  분들과의 

대담자료와  회고록이었다. 

일제시기는 포로 대신 부로(俘虜)라는 용어를 사용하였으나 이글에서는 고유명사를 제외

하고는 우리에게 익숙한 포로를 주로 썼으며 일제시기 군속은 현재 군무원으로 부르지만 

여기서는  군속  그대로  사용했다.

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37

주제발표

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2

일제  말기  조선인  포로감시원  동원배경과  동원과정 

일본이  1941.12.8.  미국을  공격한  이래  전장은  동남아시아와  태평양으로  확대되었다. 

이 지역을 식민지로 삼고 있었던 연합국은 일본과의 교전 끝에 전쟁 초기부터 다수의 포로가 

나오게 되었다. 자국인이 포로되는 것에 대해 극도로 불명예로 여겨 극단적 대응을 해 온 

일본군3)과  달리  연합군측은  1929년  포로에  관한  국제협약(제네바조약)4)의  결과일까 

포로가 된다는 것에 큰 거부가 없어서인지 전쟁 초기에 십여만명의 군인들이 포로가 되었다. 

단기간에 엄청난 수의 포로는 일본군에게는 상당히 큰 과제였다. 그리하여 1941년 12월 

육군성에  부로정보국(俘虜情報局,  1941.1.2.27)이,  1942년  3월엔  육군성  군무국에  포로

관리부가  설치되었다.  연합군  포로취급은  일본  육군이  주담당이었다.  최고책임자는  육군

대신이고  부로정보국과  부로관리부는  보좌기관으로  육군성의  별개조직이며  임시기관이었다. 

개전 직후 동남아시아에서도 포로수용소가 만들어졌지만 동남아에서 포로의 숫자가 급증

하게 되자 동남아 현지만이 아니라 1942년 1월 14일에 일본 가가와현(香川縣)에 젠츠우지

(善通寺) 포로수용소를 개설하여 적국의 고위 장교 위주로 배치한 것을 시작으로 상하이와 

홍콩에도 포로수용소를 설치하였다. 또한 일본 오사카와 도쿄, 그리고 조선, 타이완(臺灣), 

타이(泰),  말레이시아(馬來),  필리핀(比島),  자바(瓜哇),  보르네오  등지에도  포로수용소가 

추가  설치되어  연합군  포로를  이송하였다.

3) 천황을 위해 생명을 바치는 것이 최대의 미덕으로 된 메이지(明治) 이래 국민과 군인교육은 정신주의의 강조와 병사의 

생명무시, 포로부정으로 이어졌다. 1932년 1차 상해사변 때 중상으로 포로가 되었다가 교환 후 자결한 구가 노부루
(空閑昇) 

소령  이래  포로가  되었던  장교에게는  자살이  강요되었다.  野田正彰,  「偽りの近代からくる不安を克服す

るためにー日本軍人と今日の日本人」,『戰爭犯罪の構造  :  日本軍はなぜ民間人を殺したのか』,  田中利幸  編,  東京  : 
大月書店,  2007  258쪽.  1941년  1월  8일  도조  히데키  육상이  전  군에  배부한  전진훈(戰陣訓)은  ‘살아서  포로의 
치욕을 받지 않는다’라 하여, 포로가 되느니 차라리 죽으라고 훈계하고 있다. 어떠한 상황하에서도 포로가 되는 것을 
허용하지  않고  절망적인  상황하에서도  죽을  때까지  싸울  것이  강요되어  ‘교쿠사이(옥쇄:玉碎)’라는  이름의  전멸이 
반복되었다.

4) 전쟁시기 부상자 및 간호인력에 대한 보호가 필요하다는 취지로 시작된 1864 제네바조약은 이후 해상전투에 적용

하기 위해 1899년 7월29일 제2차 제네바조약이 체결되었다. 이에 대해서는 일본도 비춘하였다. 이후 세계제1차대전 
중  900만정도로  추정되는  다수의  병사  사망을  계기로  제1차세계대전  이후  1929년  7월에  제네바에서  만든  <포로 
대우에 관한 조약>("Convention relative to the Treatment of Prisoners of War, Geneva July 27, 1929.”)이 
있다.  포로  대우에  대한  기본내용으로  일본은  서명을  하였으나  군부와  추밀원의  반대로  비준은  하지  않았다.  하지만 
연합군에게  제네바  조약을  준수한다는  입장을  취하였다.   

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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일본군은 이동의 부담을 가지면서 왜 굳이 후방이라 할 여러 곳에 연합군포로수용소를 

설치하고자  하였을까.  1942년  5월에  연합군  포로  수는  26여만명5)에  이르렀지만  단순히 

분산하려는  목적만은  아니었다.  일본은  그때까지  구미제국을  따라  배우고  한수  아래임을 

인정해  왔던  위치에서  연합군  포로를  통해  자국민과  피식민지민들에게  구미세력보다 

월등함을 과시하려는 의도도 있었다. 아직 조선인 포로감시원 모집 계획도 외화되지 않았던 

1942년 2월 28일에 이미 조선군 참모장  다카하시 단(高橋坦)은 육군차관 기무라 헤이타로

(木村兵太郞)에게 보낸 ‘포로수용’에 관한 전문(電文)에서“반도인(半島人)의 영미 존경관념을 

일소하고  필승의  신념을  확립시키기  위해  매우  유효하므로  ……  영미  부로(英米俘虜)  각 

1천  명을  조선에  수용하고  싶”(속기록,  146호)다라고  하였고,6)  조선군사령관  이타가키 

세이시로(板垣征四郞)는 1942년 3월 23일에 육군대신 도죠 히데키(東條英機, 육군대장)에게 

보낸 ‘조선군부로수용계획(朝鮮軍俘虜收容計畫)’에 “미영인 부로(米英人 俘虜)를 조선 내에 

수용하여 조선인에 대해 제국의 실력을 현실로 인식시키고자 함과 동시에 의연히 조선인 

대부분이  내심  갖고  있는  구미숭배관념(歐美崇拜觀念)을  불식하기  위한  사상선전공작의 

수단으로  삼는다”라고  하였던  것이다.7)  이러한  목적은  대만군도  마찬가지였다.8)  이러한 

현지군의 요구와 중앙의 의도가 결합하여 육군성에선 5월 5일 <포로처리요령>을 확정하여 

대만군에  통보하였다.  그  중에  “5.  포로수용소를  편성할  때  경계단속을  위해  조선인과 

대만인을 채용해 특종부대를 만든다”등의 내용이 있었다.9) 현지군의 요청과 논의를 통해 

포로감시원에 조선인과 대만인을 동원한다는 것을 확정한 것이다. 이러한 과정을 통해 5월 

22일,  23일  조선인포로감시원  모집  공고가  났던  것이다.

1월에 후방지역에 설치하고자 논의했던 포로수용소가 포로감시원 교육이 한창 진행 중이던 

7월  5일에  설치되었다.  장소는  연합군  포로의  모습이  쉽게  노출될  수  있는  도심지  인접

지역인 이와무라제사공장(현 서울 청파동 신광여고) 자리였다.10) 8월에는 백인으로만 구성된 

5) 朝日新聞, 1942,5.17,  우쓰미 아이코(1982), 이호경 옮김, 『조선인 BC급 전범, 해방되지 못한 영혼』, 동아시아, 

2007,  123쪽에서  재인용

6)  우쓰미  아이코(1982),  126쪽에서  재인용
7)  앞의  책,  127쪽
8)  조선보다  조금  늦은  4월  2일  포로정보국장에게  전보를  보내었다.  우쓰미  아이코,  128쪽.
9)  앞의  책,  129쪽.
10)  이순우,  「식민지  조선에도  난데없이  연합군포로수용소가  만들어진  까닭은?」  2018년  9월  7일.  https://www.

minjok.or.kr/archives/100128  (2020.3.3.  검색)

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주제발표

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포로가 조선에 도착하였다. 이러한 일제의 의도적 시도는 당시 조선사회에 상당히 큰 영향을 

미친 것이 사실이다. 조선에서 교회・학교・병원 등 실제 생활에 큰 영향을 주었던 구미 출신의 

선교사나  기독교계  인물들은  추방되었고  이와  관련되어  있던  조선인들을  일제권력이 

통제하는 한편 회유하여 윤치호와 같은 인물들이 적극적 친일파로 나아가게 되는 배경이 

되었다.

그러면  포로감시원  응모는  어떻게  이루어졌을까. 

포로감시원  응모  동기는  일제의  강요이거나  자신이  선택하였다고  해도  당시  조선인들이 

지원병징용징병  등으로  계속  동원되고  있는  상황  속에서  가장  덜  위험하고  조건이  나은 

것으로 선택했다고 본다. 전문학교 출신자라고 해도 조선에서 원하는 수준의 취업을 하기 

어렵고  언제  어떤  명목으로  동원될지  모른다는  두려움이  조선  내  상당히  만연해  있었다. 

모집공고 기간 중에 조선군 보도부장 구라시게가 “특히 특별지원병을 지망하였으나 채용되지 

않은 자”를 지목하거나, 전문학교 출신자도 좋다는 발언을 흘리고 있었다(매일신보, 1942. 

5.24.).  그리고  일반  언론에서는  2년  후의  징병제  실시를  언급하는  등의  움직임은  당시 

조선인에게 포로감시원으로 응모하는 것이 상대적으로 유리하다는 분위기를 조성하였다. 이는 

아래 <표 1>의 포로감시원으로 가게 된 개인별 동기에서도 잘 드러난다. 이러한 광고 덕분

일까,  상당히  많은  수가  응모하여  지역에  따라  채용시험  등  심사를  거치고  있었다.11) 

1942년은 일제 침략전쟁이 확장되어 일제의 선전대로 일본이 팽창해 가는 과정에 있었기에 

제2신민으로서  기회를  얻고자  한  이들이  없다고  할  수는  없을  것이다.

하지만  자유로운  선택이라고  보기는  어려운  상황이었다. 

<표  1>  포로감시원  응모  전  직업과  응모동기

11)  매일신보  1942.5.26.  이학래,  2017,  47쪽

이름  생년  출신지

응모  전  직업

응모동기

김종진,  1923,  충남  서천12)

보통학교를  나와서  18살에  금융
조합의  고원

징용도  안가고  돈도  많이  벌  수  있다고 
하면서  면직원과  순사가  강권 

김갑천,  1922,  전북  군산13) 중학  중퇴,  점원

매형이  군인보다  낫지  않나

임갑0,  1922,  충남  부여14) 보통학교졸업

군속으로  지원해라.  다음에는  징병제도가 
나온다

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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모집된 이들은 포로감시원으로서의 어떤 교육을 받았던 것일까. 포로가 되는 것을 금기시한 

일본군은 상대인 연합군 포로를 다루는 포로감시원에게 어떤 교육을 시켰을까. 당시 직접

교육을 받았던 포로감시원들이 기억하는 것은 <軍人勅諭>와 <戰陣訓><軍屬讀法>이었다.24) 

12)  2007.11.16.  강정숙  면담
13)  일제강점하강제동원피해진상규명위원회,  『조선이라는  우리나라가  있었구나』,  2008
14)  2006.4.25.  강정숙  면담
15)  2006.4.26.  강정숙  면담.  박재0은  마래포로수용소  제2분소에  있다가  제7방면군  형무소에  투옥됨.  남방군제1육

군병원에  입원기록이  있음

16)  2006.8.30.  홍종욱  면담
17)  김기호, 「아버지를  두  번  욕되게 하지 마라」,   『빼앗긴 어버이를  그리며』, 민족문제연구소,  2017, 68-69,  77쪽
18)  2011.9.8,  11.23.  강정숙  면담
19)  이학래,  김종익  옮김,    『전범이  된  조선청년  :  한국인  BC급  전범』,  민족문제연구소,  2017
20)  앞의  책,  47쪽.  이학래는  군청에서70-80명이  시험쳤는데  양복입은  사람이  많아서  놀랐다고  하였다.
21)  석상윤,  남방기행,  『남방기행』,  일제강점하강제동원피해진상규명위원회,  2008
22) 안승갑, 「왜놈들 손에 죽느니 나라를 위해 싸우다 죽겠다」, 『남방기행』,  일제강점하강제동원피해진상규명위원회, 

200,  222-41쪽,  안승갑.  『낙산유고』,  2014 

23)  김임용 「한국사람도  많이  죽었어요,  포로 학대 했다고」, 『조선이라는 우리나라가 있었구나』, 일제강점하강제동원

피해진상규명위원회, 

이름  생년  출신지

응모  전  직업

응모동기

박재0,  1919,  경남  진양15) 보통학교졸업

동네에서  지원해라 해서,  감시원 시험  볼 
때.  백지를  냈는데도  됐다

정영0,  1920,  부여16)

보통학교졸업

부모가 (일제에게) 부댓겨서 신문을 보고, 
부여경찰서에  응모

김만업,  1917,  충북  옥천17)

청주중학교  졸업  후  농사하며  취업 
물색  중 

면에서  6-7명  또래가  지원.  2년  기한, 
징병징용면제, 급여가 2-3배 높다는 것이 
지원  이유 

박종빈  1919,  전남  해남18) 우수영심상소학교  졸업  후

신문 잡지로 알게 되었고 징용, 지원병으로 
나가는  것을  보고  그리로가지  않기  위해

이학래,  1927(1925),  전남 

보성19)

서당,  소학교  졸업  후  여수  사환, 
우체국  근무

우체국  근무중  분실사고.  선배와  면사무
소의  권유로  시험20)

석상윤,  1920,  경남  산청21)

만주에서 군속, 귀향해서 면리원 준비,
적극적  응시

군속경험이 있어 지원병보다 좋다고 선택

안승갑,  1922,  충북  청원22) 공보졸업 후 면서기, 음성군 전작기수 지원병  권유,  2년  복무에  초봉  48원
김임용,  1922,  경남  창원23) 보통학교  졸업

면장이 보통학교 나온 사람 나오라고 해서

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주제발표

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각주3에서  언급하였듯이  일본군은  이미  포로가  되는  것에  대해  불명예라고  군인들에게 

각인시켜 왔었고 특히 육상 도조 히데키는 1941년 1월 <戰陣訓>을 만들어 일본군인군속

에게  각인이  되도록  교육시켜  왔다.  포로를  대하는  법을  교육받지  않은  포로감시원도  이

러한  일본군인의  시각에서  벗어날  수  없었다.  이러한  상태는  새로  포로수용소장직을  맡은 

이도  마찬가지였다고  한다.  부산  서면  임시군속교육대에서  교육을  시작하자마자  포로감

시원들은  속았다는  생각했다.  일제는  장밋빛만  제시하였으나  훈련은  거의  군인수준이라 

많은  이들이  불만을  가졌고  또  탈주도  시도되었다.

‘조선군’에서는  처음에  포로감시원의  응모자격으로  20세에서  30세  사이의  국민학교 

졸업자 정도로 제시하였으나 아래 <표 3>에서 볼 수 있듯이 자바의 경우 1922년 6월 이후 

생인  20세  미만이  22.0%,  1907년  5월  이전의  35세  이상이  0.6%로  합하여  22.6%가 

조선군이 제시한 연령 범위를 벗어난다. 그리고 ‘지하자원개발 생산력 확충에 많은 사람이 

소용되기  때문’이라는  이유로  평안도와  함경도는  처음에는  포로감시원  동원에서  제외한

다는  방침이었는데25)  포로감시원  모집자  훈련  중인  7월에  북부  4개도에서  추가로  모집

하였다. 원래 제시한 것과 달리 보충하지 않을 수 없었던 것은 일본군이나 조선총독부에서 

모집하려는 수에 비해서 적절한 인력 모집이 되지 못하였다는 것을 의미한다.26) 특히 서북

지방에서의 추가 모집 등은  훈련과정에서 다수의 이탈자가 생겨 보완하지 않을 수 없었기 

때문이었다.

3

조선인  포로감시원의  구성과  포로수용소  분포

연합군 포로를 수용한 포로수용소는 크게 13군데에 있었다. 유수명부 상 조선인이 배치

된 포로수용소는 <표 2>와 같다. 여기엔 홍사익과 같은 포로감시원이 아닌 자들 소수 있다. 

조선인  포로감시원이  다수  배치된  지역은  타이,  말레이시아,  싱가포르,  인도네시아이다. 

이외 조선에도 연합군 포로수용소가 있어 조선인 포로감시원이 남겨졌고 이외 대만 등지에 

극소수  조선인이  확인된다.

24)  이학래,  앞의  책,  49쪽
25)  『매일신보』  1942.5.23.(2)5,  반도인  청년의  광영,  미영인  포로감시원에  대량  채용
26)  20세  미만인  이들  중에  징병  연령에  도달한  이들은  <조선인  연명부>에서  확인되듯이  현지에서  징병을  하였다.

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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<표  2>  유수명부  상  조선인  배치  포로수용소 

포로수용소  소재지  관할 

부대명27)

포로수용소명(장소)

인원*

비고

남방군

緬甸泰俘虜수용소

태부로수용소

1,262

중복정리  후  1200

마래부로수용소

마래부로수용소

마래군억류소(싱가포르)

875

1,154

마래부로수용소  제1분소(메단  등)

139

마래부로수용소  제2분소(팔렘방)

65

제7방면군  형무소

75

瓜哇부로수용소

瓜哇부로수용소(자바  각지)

1,075

比島제14방면군

比島(필리핀)부로수용소

2

수용소장  홍사익  외 

1명

남선  제17방면군

조선부로수용소

97

대만  제10방면군

臺灣부로수용소

6

합            계

3,596

참고자료 : 대일항쟁기강제동원피해조사및국외강제동원희생자등지원위원회, 『조선인 BC급 전범에 대한 진상조사 : 포로
감시원  동원과  전범  처벌  실태를  중심으로』,  2011,  26쪽.  이  자료를  기초로  소속관계를  조정하였음.  *인원부분은  다소 
오차가  있으나  위  보고서  숫치로  사용함.

이때  배치된  포로감시원들의  연령별  분포는  어떠하였을까.  다소  거칠지만  전체  경향을 

파악하기 위해 아래 표로 정리하였다. <표  3>을 통해 보면 가장 집중되어  있는  연령층은 

세 수용소 모두 20-25세 군이었다. 주목할 것은 조선군에서 20-35세 범위로 공고한 것과는 

달리  20세  미만이  상당히  많았다.  연령이  기재되지  않은  이들의  비율이  특히  많은  마래

부로수용소의 경우는 구성도 다소 복잡하여 억류소, 오카(岡)형무소도 포함되어 있다. 특히 

오카형무소는  제7방면군  관할지역  전체를  아우를 것으로  예상되어  말레이시아만이  아니라 

자바, 타이 지역과도 교차 점검을 하였으나 거의 중복되지  않았다. 오카형무소 수록자들은 

어떤  연유로  형무소에  있게  되었는지  앞으로  주목할  필요가  있다.28)   

27)  부로수용소는 기본적으로 육군성과 연결되어 있지만 지역의 부대 즉 남방군, 제7방면군 등과 어떠한 방식으로 관계를 

맺고 있을 것이나 전쟁 중 계통은 확인하지 못하였다. 전쟁 후에는 부로수용소도 지역관할 부대 예하 각각 제25군, 
29군  등  지역부대로  들어갔음은  아래  자료의  <조선출신고용인전입이동일람표>에서  확인된다.  馬來浮虜收容所, 
『朝鮮出身者雇傭人連名簿』(1945.12.1.)(일본  방위성  도서관  소장).   

28)  필자가  면담한  박재0은  이  형무소에  있었다.

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주제발표

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<표  3>  포로감시원의  연령  분포 

자바

말레이시아

타이

연령별

출생년도

비율(%)

비율(%)

비율(%)

35세이상

1907.5  이전

5

0.6

2

0.2

5

0.4

30-35세

1907.6-1912.5

41

5.0

27

2.4

67

5.6

25-30세

1912.6-1917.5

158

19.2

93

8.2

302

25.1

20-25세

1917.6-1922,5

383

46.5

270

23.9

606

50.3

20세미만

1922.6  이후 

181

22.0

79

7.0

183

15.2

미상

55

6.7

661

58.3

41

3.4

합계

823

100

1132

100

1204

100

비고:  유수명부상의  생년을  중심으로  정리함.  미상은  특히  馬來부로수용소가  많은데  억류소와  형무소는  생년에  대한 
기록이  거의  없음.  중복자는  전체  수에  반영하였으나  오차의  여지가  있음

포로수용소의 구성은 지열별로 포로수용소 소장, 분소장은 일본인 위관급 장교와 하사관

으로 구성되고 포로감시원은 조선인 용인 등으로 구성되어 있었다. 분소장 정도는 대부분 

조선에서부터  함께  이동하였다.

4

동원된  조선인  포로감시원의  생활실상

<표  4>  포로감시원들의  배치지  경험

이름  생년  출신지

소속  및  배치지

특이  경험

김종진1923, 

충남  서천

마래부로수용소 

제2분소,  팔렘방

위안소  명월관

거항(팔렘방)조선인회

김갑천,  1922, 

전북  군산

마래부로수용소 

제2분소,  팔렘방

팔렘방  위안소,  태극기  김구  3.8선 
이야기듣다

거항(팔렘방)조선인회

임갑0

1922,  충남  부여

마래부로수용소 

제2분소,  팔렘방

팔렘방  명월관,  사꾸라장 

연합군포로 

5만명(팔렘방?), 

거항(팔렘방)조선인회

박재0,  1919, 

경남  진양

마래부로수용소 

제2분소, 

강게쯔,  호시노야,  메게츠(명월관)  싱가
포르와  팔렘방의  ‘위안부’출장

김형0과  사고를  냄

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44

2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

-  44  -

억류소와 같이 민간인이 중심인 곳에서는 경작 등 소규모 노동이 요구되었다면, 연합군 

포로는  도로나  철도건설  등의  상당한  강도가  있는  노동을  일본군  상부기관에서  포로를 

동원하여  달성할  목표량을  제시하기  때문에  말단의  포로감시원이나  철도대  등은  상당한 

하중을  받기  마련이다.  이러한  환경이  종전  후  BC전범이  생기는  원인이다.  아래  이학래의 

증언은  매우  구체적이다.

타이 포로수용소는 타이쪽과 미얀마쪽으로 나눌 수 있는데 타이쪽은 5개 분소, 그 아래 

분견소 등이 있다. 이학래가 처음 소속된 타이 왕야이 제4분소는 총11,000여명의 포로가 

있었고  포로관리는  일본인  하사관  17명,  조선인  포로감시원  130명이  하였다.  분소장은 

이시이 다미에 石井民惠중좌(중령), 우스키 기시호 중위였다. 포로감시원이 하는 일은 숙소

설치,  2교대의  보초경비(본부  입구  위병소와  수용소  안의  보초),  포로관리하며  일본군 

철도대가 요구하는 작업인원을 확보하여 넘겨주는 일 등을 하였다. 1942년 12월 우스키 

이름  생년  출신지

소속  및  배치지

특이  경험

제7방면군  형무소

정영0,  1920,  부여

마래부로수용소 

제1분소,  메단

구미인  수용,  아째(수마트라  북부지방명)
도로  및  철로  건설

김만업,  1917, 

충북  옥천

태부로수용소 

제4분소

일본으로 포로 호송 중 1944. 9.12전사. 
가치도키마루(勝鬨丸)

박종빈  1919, 

전남해남

태부로수용소 

제4분소제3분견대

일 철도부대와 연결하여 노동력으로 포로
연결.  타이  칸자나부리에  위안소,  포로 
호송 중 파선, 집에 들러 타이로 돌아옴

재태고려인회,  아유타야

이학래, 

1927(1925),

전남보성

태부로수용소 

제4분소

타이와  버마  공사,  죽음의  철도  건설, 
포로  동원

동료  포로감시원  중에도 
군인으로  징병된  사람이 

있었고  자신도 

다음차례가  될까  두려움

석상윤,  1920, 

경남  산청

태부로수용소 

제1분소,  제4분소

소대장이  ‘태국  남자는  도둑,  여자는  매
춘부’라  함,  칸차나부리  위안소

재태고려인회

안승갑,  1922.1,

충북  청원

자바수용소, 

억류소

계약 2년 이후 동료와 반일적 활동 기획,
단체조직(고려독립청년당) 

재자바조선인민회

김임용,  1922, 

경남  창원

자바부로수용소

수마트라로  포로  호송  중  어뢰공격으로 
배침몰,  생존,  억류소

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45

주제발표

-  45  -

중위관할의  꼰유  제3분견소로  배속되면서  포로  700-800명에  군무원  30명  정도가  타이와 

미얀마를  잇는  난코스  철도공사를  하기시작하였다.  1943년  2월부터  43년  10월까지  수행

하였는데  정상적이라면  6-7년  걸릴  곳이라고  한다.  의사는커녕  위생병도  없는  상황에서 

노동하였고 부실한 식사에 신발도 제대로 없었다. 일본군에서는 빰때리기 등을 여사로 여겼

지만  포로들은  엄청난  치욕으로  받아  들였다.  29)

박재0은 팔렘방의 위안소에서 일본 장교와 다투어서 형무소를 가게 되었다. 위안소에서의 

주도권싸움과 관련되었던 것으로 보인다. ‘조선인 위안부들에게 일본인들 받지 마라’하였다. 

당시 위안소 강게츠와 호시노야는 주인이 모두 조선인이었다. 호시노야는 진주사람이 업자

였다. 위안소에서 소위를 구타한 사건은 군법회의까지 가서 박재0은 1년 반, 그의 친구는 

2년형을  받았다.  해방과  함께  연합군의  호의를  받으며  출옥하였다.

정용옥은  메단의  마래포로수용소  제1분소  포로감시원으로  전후  전범재판에서  실형을 

받았다.

“(처음)우리는 싱가파에서 내려서 영국사람들. 싱가파 장기. 거기다 포로 잡아 놓고. 시내 

다니면서  (얼굴)색이  틀리니께  잡아다  장기형무소에  넣고.  그리고  있으니까  수마트라로 

가라고 해. 싱가포르에서 서너달 있었나.” “메단 제1분소. 도로도 만들고 철뚝도 만들고. 

산을 깍고 길도 없지. 메단에서 아째에 가려면 ...(지도 보면서) 아째라는 데가 북쪽이여. 

수마트라. 아째에 가서 작전도로. 나무가 자빠지면 밟고 다니면서 농사짓고 도로가 없어. 

원숭이 마냥. 아째라는 곳의 민족이 화란도 300년간 식민지 하였지만 아째만큼은 화란에 

못들어갔어. 그런 데를 일본놈이 점령했어. 우리가 길 닦으러. 우리 천명쯤 되었어. 우리는 

아째로 가고. 나머지 사람은 바칸바르로 가고. 바칸바르는 석탄 끄집어내는 일. 남은 사람 

한소대가 백명이야. 한분대가 삼십명씩. 한분대가  전부 조선사람이고. 분대장 소대장만 

일본사람이여. 내가 삼분대.  일분대 이분대가 바칸바르로 배타고 가다가 다 죽었어. 포로... 

죽었을테지.  메단에  있기도  했는데  감시원  대우  2,30원.  급양은  군인보다  좋았다.”

29)  이학래,  앞의  책,  19-25쪽

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46

2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

-  46  -

임갑0은 “싱가포르에 도착하자 중령이던 수용소 소장이 나와 ‘너희들은 군속이라고 왔지만, 

여기 오면은 군속이란 건 없다. 전부 군인으로 들어온다.’그래서 완전 무장을 해서 다시 한 

이십일간  전투훈련을  받고  마래포로수용소  제2분소  소속  포로감시원  65명은  팔렘방으로 

이동하였다.”  “팔렘방에  가서  처음  몇달  간은  외출을  안  나왔었지유.  내보내지지도  않고. 

얼마 있다가 외출을 한두번 나가보니게. 위안소라는게 있더라고. 그 여자들, 어떻게 여기에 

와  있느냐  하니, 확실한  얘기를  안해요.  이  사람들이.”  포로에 대해선“포로들이  좀  착혀유. 

이겼다는거 알아도 우리에게 항의를 안해유. 더 잘해유. 왜냐하면 개네들이 약지. 조금만 

더  참으면  지  부모한테  갈텐디.”

일본  패전  이후  포로감시원  경험

임갑0은  “인도네사아가  독립을  선언하고  시내가  난장판이야,  인도네시아  청년들이  창

칼을 들고서는 우리에게 와서 난동을 하면 우리는 일본놈한테 끌려와 있다고. 우리가 설명

하면 인도네시아 정부가 양해를 해줬지. 한 육개월쯤 지나니 우리 먹을 식량이 없어서 인도

네시아  정부에게  부탁하여  구하였다.  그  이후가  되어서  영국군이  상륙했어.” 

연합군 상륙후 “팔렘방에서 강건너 플라쥬, 연합군은 부둣가에 그 수용소에 수용시설을 

지으라고 하였고 소지품을 하나도 지니지 못하게 하였다. 안 내어놓으면 죽인다고. 그리고 

팔렘방에 있던 여자들과 나뉘어져서 수마트라 북부 메단, 싱가폴 장기형무소 싱가폴 가면은 

장기형무소로  들어가래. 장기형무소는  국제형무소니께,  죄수방에  이백여  명씩  들어갔다. 

거기서 우리를 전부 세워놓고 하나하나 얼굴 봐. 그럼 누가 보냐면. 포로가 봐. 가령 내가 

이분소에  근무했으면,  이분소에  있던  포로가  와서.    구비지켄30)  한  삼개월  있다  있다가 

나왔지. 나오니께 집으로 갈줄 알았는데. 자바로 돌려. 자바로 가서는 또 거 화란 형무소. 

거기  가면  화란형무소가  또  따로  있거든요.  우리  사는데는  영국군,  화란군,  호주.  미군은 

없었어.  해방  되고  한국에  온  것은,  해방되고  이년  후에.” 

임갑0은 명월관과 사쿠라장을 기억하는데 위안소 업자들이 조선인회 사람들과 함께 행동

30) 구비짓켄(首実検)은 예전 싸움터에서 벤 적의 수급(首級)의 진위(眞僞)를 확인하던 것에서 비롯된 언어이다. 일본 

패전  이후  연합군은  포로감시원들을  여러  곳으로  끌고  다니면서  반대로  연합군  포로들이  포로감시원들  개인에게 
피해를 입었는지 여부를 확인하는 과정을 거쳤는데 이것이 수개월걸리고 그 과정에서 전 포로감시원들은 거의 먹지 
못한채  누구에게  변호를  구하지  못하고  죽임을  당할  수  있다는  두려움  속에  지냈다.

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47

주제발표

-  47  -

하지 않고 “우리 인회에, 조선인회에 와도 넣어주지도 않지만. 자기들이 오덜 않어. 지들은 

그저. 끝까지  일본사람들하고  같이  행동을  한  거지”라고  하였다.           

타이의 칸자나부리 상류(물길로 3일)에서 영국군 포로를 감시하였던 박종빈은 3분견소 

40명  정도  조선인,  포로는  천여명  정도였는데“그  사람들  양반이야”“그  사람들  비참하니 

살았어요..... 밥해묵는 그 쌀이 싸래기 쌀을 주면은, 우리 요렇게 부대도 훅 불어서 날라갈 

그런  밥에다가  저녁에  소  잡아주면  그놈을  밤새  끓여갔고,  건덕  없이  해서  그  사람들  밥

묵고, 그라고 일을 하고,”“그란데 도망 안 가요” “그 사람들 한국 사람이라는 것을 알지.” 

“해방  이후  나를  보고  굿보이”

조선인 포로감시인이 백인 포로들에게 느낀 인종주의적 열등감과 일본 군대 훈련을 통해 

폭력을 내면화(신지영, 123-4쪽)하기도 하지만 연합군 포로 상태를 동정하거나 현지인에 

대한 이해의 감정을 가지고 대응하여 폭풍속에서도 자신의 소신을 유지한 이들이 있었다. 

포로감시원과  현지인  포로감시원들에게  패전  이전에는  현지인들에  대한  기억은  크게 

많지 않다. 수마트라 팔렘방에서는 회사원이었던 강석재는 패전 전후하여 김구이름의 삐라가 

살포된 적이 있었고 이것은 중국인들이 뿌렸을 것으로 유추하였다. 이후에도 각종 정보를 

제공하였다고 한다. 종전지역에 따라 차이가 있겠으나 팔렘방에서는 일본이 패한 이후 인도

네시아 독립단체들이 무장하고 훈련이 되어 있던 조선인들을 자기 부대에 넣으려는 강력한 

움직임이  있었다.  신지영은  잔류  일본병들은  ‘대동아  전쟁’의  연장선이라는  인식을  갖고 

인도네시아  독립운동에  참여했다기보다는,  전범이  될  공포,  개인적인  사정(여성문제  등), 

상관의  결정에  따라서  등  다양한  이유가  있었다고  지적한다(신지영,  2016:120).  실제는 

더 다양하게 움직였는데 자바에서의 움직임은 기존 연구에서도 이미 소개되어 있으니 수

마트라 팔렘방 상황을 조금 언급하자. 일본 패전 이후 네덜란드 등 기존 식민권력이 재유

입하기  전에  인도네시아는  다양한  움직임  작용하여  상당한  소용돌이  속에  있었다.  일본 

패전  이후  팔렘방  부근에  있던  다양한  조선인들은  팔렘방에  약간의  시차를  가지고  모여 

거항[팔렘방]조선인회를 조직하였다. 이때 모인 이들은 군인, 군속(마래포로수용소 제2분소 

포로감시원  등),  회사원,  군‘위안부’와  군위안소업자  등이었고  장소는  군위안소가  있었던 

자리와 그 부근이었다. 조직이 만들어진 이후 식량이나 보안 등과 관련하여 인도네시아인들

과의 교류를 할 수밖에 없었다. 이때 인도네시아인 독립군의 입대와 관련한 구체적인 제안이 

있었는데 회사원(노동자?) 강석재와 포로감시원 임갑0은 자기도 고국에 돌아가 재건에 힘을 

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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보태야 한다는 등의 이유를 내세워 설득하고 거절하였다. 한편으론 한기성을 비롯한 해군 

군속(명부기록에서는  미확인)  몇  명은  팔렘방조선인회를  떠나서  인도네시아군에  실지로 

편입되어  되돌아온  네덜란드군과  교전하였고,  한기성은  교전  끝에  잡혀  자수하고  귀환하

였다.31) 

5

맺  음  말

포로감시원으로  동원되었던  이들은  일제시기  보통학교  이상을  졸업하고  미래사회를 

이끌어갈  중견층을  구성할  인물들이었다.  전쟁  이후  귀국한  이들은  그러한  길을  밟았을 

것이나, 전범으로 판결받았던 조선인들은 어디에서도 존재의 의미를 제대로 부여받지 못한 

이들은 신지영의 말대로 ‘난민’이라고 해도 과언이 아니다. 포로감시원 및 BC급 전범문제는 

식민지,  제국주의,  인종주의,  군사주의  등  우리사회가  일상으로  접하는  문제가  응축되어 

있다. 새로운 자료발굴과 시점으로의 접근할 과제가 상당하다. 포로수용소를 둘러싼 조직

이나  구성과  기능,  실제  수용된  포로나  억류자의  수나  구성과  상태,  그리고  포로수용소 

명령체계  등은  중요한  주제이나    여전히  과제로  남는다. 

최근 포로에 대한 연합군측의 태도를 연구한 것을 보면, 일반적으로 미군이 적국 포로에 

비교적 관대하게 대하였다고 한다. 그러나 미군이나 호주군 일기 등을 기초로 분석한 연구

(리차드 알드리히)에 의하면 애초 태평양전쟁 일부 지역에서는 포로를 포획하지 않는 것이 

미국의  정책이었고  호주군  역시  일본군을  살육하는  것을  택하고  일본군을  포로로  잡는 

것을 좋아하지 않았다는 연구도 있다.32) 이것은 독일군 포로의 대단위 탈주는 없었던 것에 

비해 호주의 카우라(Cowra)포로수용소에서는 1944년 8월 5일 900명의 일본군 포로들이 

집단난동을  일으켜  231명이  죽고  108명이  다쳤으며  호주군측은  4명이  죽고  4명이  부상

했다33)는 사실에서도 확인된다. 이러한 점을 보면 전쟁이란 극한 상황 속에서 양측 모두 

31)  한기성,  2006.  강정숙    채록.
32)  Richard  Aldrich  ed.,  『The  Faraway  War  :  Personal  Diaries  Of  The  Second  World  War  In  Asia  And 

The  Pacific』,  London:  Doubleday,  2005.  일제강점기강제동원피해진상규명위원회,  『하와이  포로수용소  한인
포로에  관한  조사』,  2008,  11쪽에서  재인용

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49

주제발표

-  49  -

인종주의,  국수주의  등  극단적인  모습이  잘  드러났음을  알  수  있다.

그리고  언급하고  싶은  것은  자료공개문제이다.  일제하강제동원피해진상규명위원회  등 

관련 기관의 활동 덕분에 포로감시원을 비롯하여 강제동원 피해자들과 유족들의 신고 덕

분에 이에 대한 조사가 상당히 축적되었다. 이전에 비해 연구도 이를 토대로 상당히 진전

했다.  하지만  위  위원회에서  활용하였던  자료  특히  명부,  생산한  자료들을  관련연구자들

이 충분히 활용할 수 없는 상태에 있다. 개인정보라는 이유로 열람하기 어려워 연구에 큰 

걸림돌이  되고  있다.  개인정보  보호의  취지를  살리며  민족적  피해인  강제동원  연구를  진

전시킬  수  있는  타개책이  요구된다. 

타이완에서도 포로감시원들이 동원되었는데34) 이 주제와 관련하여 아직 타이완과의 조

사나  연구교류가  있었는지에  대해선  과문한  까닭에  들은  적이  없다.  우리의  역사를  풍부

하게  이해하는  데는  역사적  사실을  밝혀내는  것과  함께  우리의  역사경험을  상대화해  내

는 것이 중요하다고 본다. 이를 위해서는 연합군 포로, 또 우리와 유사한 경험을 한 타이

완인 경험 등에 대한 비교연구가 매우 중요하다고 본다. 오늘과 같은 이러한 장이 거듭되

어  적대적인  장이었던  포로와  포로감시원  문제에서  나아가  시대와  인간에  대한  포괄적 

이해를  통해  대립과  증오를  연대와  협조로  평화를  키우는  힘으로  전환해  나가기를  기대

한다.

33)  일제강점기강제동원피해진상규명위원회,  앞  책,  12쪽
34)  周婉窈  編,,  『台籍日本兵座談會記錄竝相關資料』,  臺北:中央硏究院臺灣史硏究所籌備處,  1997,  32-35쪽엔  보르

네오에서  포로감시원이  된  대만인  柯景星의  구술이  수록되어  있다.

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

-  50  -

참고문헌

우쓰미 아이코(1982), 이호경 옮김, 『조선인 BC급 전범, 해방되지 못한 영혼』, 동아시아, 

2007.

김도형, 「해방 전후 자바지역 한국인의 동향과 귀환활동」, 『한국 근현대사 연구』 Vol.24, 

2003 

김용희, 침략전쟁시기 조선인 전범집단에 대한 형사법적 고찰」,  『法學硏究.』 제16집,  정

문사  |  2004.11.30. 

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주제발표

-  51  -

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野田正彰,  「偽りの近代からくる不安を克服するためにー日本軍人と今日の日本人」,『戰爭犯罪

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周婉窈 編,, 『台籍日本兵座談會記錄竝相關資料』, 臺北:中央硏究院臺灣史硏究所籌備處, 1997

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주제발표

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日帝下における朝鮮人捕虜監視員の
動員実態と生活像

姜貞淑(カン・ジョンスク)

成均館大学  東アジア歴史研究所

はじめに

筆者が朝鮮人捕虜監視員について初めて知ったのは、1970年代末の旗田巍先生古希祈念会

編『朝鮮歴史論集』下巻(龍渓書舎、1979)に掲載された内海愛子の論考によってであった。日本

ではいつからだったのかが気になり、日本の国会図書館で捕虜監視員に関する図書資料を探し

てみたところ、やはり朝鮮人捕虜監視員のBC級戦犯問題を扱った調査研究などから始まって

いた1)  。

筆者は捕虜監視員に関する研究にあまり深く取り組むことはできなかった。帰還に関連する

執筆の中で捕虜監視員を扱ったり、主としては、日本軍「慰安婦」問題に関連して、同じ時期と空

間の中にいた証言者として扱った程度に過ぎない2)。にもかかわらず、日帝強制動員被害者支援

財団からの今回の提案に応じたのは、捕虜監視員だった方々に対して、それだけ負債意識が強

かったためである。今日の発表は、今後の取り組みに対する一種の約束とも言える。

3,000人余りに達した朝鮮人捕虜監視員の経験は様々であろうが、動員された人々の構成

(年齢、職業、出身地など)と彼らが動員されてからの配置地の状況や彼らの日常生活などを具体

1)  理論社理論編集部  編、『壁あつき部屋  :  巣鴨BC級戦犯の人生記』、理論社、1953。
2)  日帝強占下強制動員被害真相究明委員会、『インドネシア動員女性名簿に関する真相調査』、2009。姜貞淑、「第2次

世界大戦期にインドネシアパレンバンに動員された朝鮮人の帰還過程に関する研究」『韓国独立運動史研究』第
41集、2012.4。

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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的に扱った研究は、意外なことにそれほど多くなかった。それは、日本の敗戦後の連合軍による
戦犯裁判において、朝鮮人の戦犯148人のうち129人が捕虜監視員(うち12人が死刑執行)で

あったという圧倒的な歴史的事実により、BC級戦犯となった捕虜監視員への研究に重点が置

かれたためであろうと判断する(内海愛子、1982、2007;ウォラウト·スワンダリット、2004;

キム・ヨンヒ、2007;対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会、

2011:チョ・ゴン、2011;申熙石(シン・ヒソク)、2015;コン・ジュンファン、2016)。内海愛子

の書物と委員会から出された報告書には、朝鮮人BC級戦犯だけでなく、動員の過程や配置な

ど、包括的かつ多様な内容が盛り込まれている。捕虜監視員に対する研究も、しだいに細分化さ

れ多様化している。簡単におさらいすると、次の通りである。捕虜監視員たちは配置された地域

で抗日運動やインドネシア人とともにインドネシアの独立運動に参加した(キム·ボリム、200

5;ロスティニュ[Rostineu]、2009;チョ・ゴン、2011;劉炳銑[ユ·ビョンソン]、2011;劉炳

銑[ユ·ビョンソン]、2013;安承甲[アン·スンガプ]、2014)。主に東南アジアに配置されたが、朝

鮮内にも捕虜収容所が設置された(チョ・ゴン、2013;コン·ジュンファン、2016)。そして、帰還

の時期の捕虜監視員をはじめとする朝鮮人の多様な姿について扱った研究もある(金度亨[キ

ム・ドヒョン]、2003;日帝強占期強制動員被害真相究明委員会、2009:姜貞淑、2012)。コン・

ジュンファンは、捕虜監視員に対する米軍の態度などを扱い、朝鮮内で戦犯問題をどのように

受け止めたのかについて、当時の韓国の状況との関連の中で立体的に分析している。捕虜監視

員たちの経験を難民と結びつけて、植民地的難民性として解いた研究もある(シン·ジヨン、

2016)。

本稿で扱う内容は、1)朝鮮人を捕虜監視員として動員することになった背景、2)東南アジアに

動員された朝鮮人捕虜監視員の構成と配置、3)動員された朝鮮人捕虜監視員の生活の実像など

である。戦犯問題はほとんど扱わないこととする。本研究において、最も重要な基礎資料は名簿

だと見ている。しかし、現在このような資料は自由に閲覧できない状況であるため、「日帝強占

下強制動員被害真相究明委員会」など一連の団体から刊行された報告書や既存の研究などに

多くを依存した。そして筆者が本稿で主に活用したのは、「日帝強占下強制動員被害真相究明委

員会」での勤務(2004-2009)前後に利用することができた名簿関連の資料と、日帝下で軍属(捕

虜監視員を含む)などとして動員された方たちとの対談資料や回顧録であった。

日帝時代には、捕虜の代わりに「俘虜」という用語が使用されたが、本稿では固有名詞を除いて

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주제발표

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は、私たちに馴染み深い捕虜を主に使い、日帝時代の軍属は現在は軍務員と呼ばれているが、こ

こでは軍属をそのまま使用した。

日帝末期における朝鮮人捕虜監視員の動員背景と動員過程

日本が1941年12月8に米国を攻撃して以来、戦場は東南アジアと太平洋へと拡大した。これ

らの地域を植民地としていた連合国側では、日本との交戦の末、戦争の初期から多数の捕虜が

出ることになった。自国民が捕虜になることを極度な不名誉と捉えて極端な対応をしてきた日

本軍3)とはちがって、連合軍側は1929年、捕虜に関する国際条約(ジュネーブ条約)4)の結果か、

それとも捕虜となることに大きな抵抗感がなかったせいか、戦争初期に十万人余りの軍人が捕

虜となった。短期間で増えた莫大な数の捕虜は、日本軍にとってはかなり大きな課題であった。

そこで1941年12月、陸軍省に俘虜情報局(1941年12月27日)が、1942年3月には陸軍省軍務局

に捕虜管理部が設置された。連合軍捕虜の扱いは日本陸軍が主に担当していた。最高責任者は

陸軍大臣で、俘虜情報局と俘虜管理部は補佐機関で、陸軍省の別組織であり臨時機関だった。

開戦直後、東南アジアにも捕虜収容所がつくられたが、東南アジアで捕虜の人数が急増する

と、東南アジア現地だけでなく、1942年1月14日に香川県に善通寺捕虜収容所を開設して敵国

の高級将校を中心に配置したのを皮切りに、上海と香港にも捕虜収容所を設置した。また、大阪

3) 天皇のために生命を捧げることが最大の美徳とされた明治以来、国民と軍人教育は、精神主義の強調と兵士の生命無視、

捕虜否定につながっていった。1932年の第1次上海事変の時に重傷で捕虜となり、交換後に自決した空閑昇少佐以
来、捕虜となった将校には自死が強要された。野田正彰、「偽りの近代からくる不安を克服するためにー日本軍人と
今日の日本人」『戰爭犯罪の構造:日本軍はなぜ民間人を殺したのか』、田中利幸編、東京:大月書店、2007、258頁。
1941年1月8日、東條英機陸相が全軍に配属した戦陣訓は「生きて虜囚の辱めを受けず」として、捕虜になるならいっ
そ死ぬように、と訓戒している。いかなる状況下でも捕虜となることを許さず、絶望的な状況の下でも死ぬまで戦う
ことを強いられ、「玉砕」という名の全滅が繰り返された。

4)  戦争時に負傷者及び看護人材に対する保護が必要だという趣旨から始まった1864年ジュネーブ条約は、以後、海上

戦闘にも適用するために、1899年7月29日に第2次ジュネーブ条約として締結された。これについては日本も批准
した。その後、第一次世界大戦中約900万人と推定される多数の兵士の死亡を機に、第一次世界大戦後の1929年7月
にジュネーブでつくられた「捕虜の待遇に関する条約」(Geneva  July  27、  1929.)がある。捕虜の待遇に関する基
本内容として日本は署名したものの、軍部と枢密院の反対により批准はしなかった。しかし、連合軍に対してジュ
ネーブ条約を遵守するという立場を取った。

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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と東京、そして朝鮮、台湾、タイ(泰)、マレーシア(馬來)、フィリピン(比島)、ジャワ(瓜哇)、ボルネ

オなどにも捕虜収容所が追加設置され、連合軍の捕虜が移送された。

日本軍は移動の負担を抱えながらも、なぜ敢えて後方と言えるいくつもの場所に連合軍捕虜

収容所を設置しようとしたのだろうか。1942年5月に連合軍捕虜の数は26万人5)余りに達した

が、単にこれらを分散させようという目的だけではなかった。日本はそれまで欧米諸国に習い

つつ一枚下手であることを認めてきた位置から、連合軍の捕虜を通じて自国民と被植民地の民

に対して、欧米勢力より日本が優れていることを誇示しようという意図もあった。朝鮮人捕虜

監視員募集計画もまだ表面化されていなかった1942年2月28日に、朝鮮軍参謀長高橋坦はすで

に、陸軍次官の木村平太郎に宛てた「捕虜収容」に関する電文の中で、「半島人の英米尊敬観念を

一掃し、必勝の信念を確立させるために非常に有効なので……英米俘虜各一千人を朝鮮に収容

したい」(速記録、146号)とし6)、朝鮮軍司令官の板垣征四郎は、1942年3月23日に陸軍大臣東條

英機(陸軍大将)に送った「朝鮮軍俘虜収容計画」の中で、「米英人の俘虜を朝鮮内に収容し、朝鮮

人に対して帝国の実力を現実として認識させようとすると同時に、毅然と朝鮮人の多くが内心

持っている欧米崇拝観念を払拭させるための思想宣伝工作の手段とする」としたのである7)。

このような目的は台湾軍でも同様だった8)。このような現地軍の要求と中央の意図が結合し、陸

軍省は5月5日、「捕虜処理要領」を確定して台湾軍に通報した。その中に「5.捕虜容所を編成す

る際、警戒取締りのために朝鮮人と台人を採用して特種部隊をつくる」などの内容があっ

た9)。現地軍の要請と論議を踏まえて、捕虜監視員として朝鮮人と台湾人を動員することを確定

したのである。このような過程によって、5月22日、23日に朝鮮人捕虜監視員の募集公告が出さ

れた。

1月に後方地域に設置したいと議論されていた捕虜収容所だが、捕虜監視員教育が行われて

いる真っ最中の7月5日に設置された。場所は、連合軍捕虜の姿が簡単に露出されるような都心

地の隣接地域、岩村製糸工場(現·ソウル青坡[チョンパ]洞所在の信光[シングァン]女子高)の跡

5) 朝日新聞,  1942,5.17、内海愛子(1982)、イ  ホギョン訳『朝鮮人BC級戦犯、解放されなかった魂』、東アジア、2007、 

123頁から再引用。

6)  内海愛子(1982)、126頁から再引用。
7)  前の本、127頁。
8)  朝鮮より少し遅い4月2日、捕虜情報局長に電報を送った。内海愛子、128頁。
9)  前の本、129頁。 

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주제발표

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だった10)。8月には白人のみで構成された捕虜たちが朝鮮に到着した。このような日帝の意図的

な試みは、当時の朝鮮社会にかなり大きな影響を及ぼしたのは事実だ。朝鮮で教会・学校・病院

など実際の生活に大きな影響を与えていた欧米出身の宣教師やキリスト教系の人物たちは追

放され、そこに関わっていた朝鮮人を日帝権力が統制しつつ一方では懐柔したため、尹致昊(ユ

ン・チホ)のような人物らが積極的な親日派へと進んで行く背景になった。

では、捕虜監視員の応募はどのように行われたのだろうか。

捕虜監視員の応募の動機は、日帝の強要であれ、自分の選択であれ、当時の朝鮮人が志願兵・

徴用・徴兵などで動員され続けている状況下で最も危険性が低く条件がましな選択をしたも

のだったと見られる。専門学校出身者でも朝鮮で希望する水準の就職は難しく、いつどのよう

な名目で動員されるか分からないという恐怖が、朝鮮内にかなり蔓延していた。募集公告の期間

中に、朝鮮軍報道部長の倉重が「特に、特別志願兵を志望したが採用されなかった者」を特定した

り、専門学校出身者も良いという発言を流していた(毎日新報、1942年5月24日)。そして、一般

の報道では2年後の徴兵制実施について言及されるなどの動きがあったため、当時の朝鮮人に
対して、捕虜監視員として応募したほうが相対的に有利だという雰囲気が造成されていた。そ

のことは次の<表1>にある、捕虜監視員になった個人の動機からもよく分かる。こういった広告

に支えられてか、かなりの人数が応募し、地域ごとに採用試験などの審査を経ていた11)。1942

年は日本帝国による侵略戦争が拡張され、日帝の宣伝どおり日本が膨張していく過程にあった

ので、応募者の中に第2臣民としてのチャンスをつかもうとした者がいなかったとは言えない

だろう。しかし、それを自由な選択と見るには無理のある状況だった。 

10)  イ·スンウ「植民地朝鮮にもいきなり連合軍捕虜収容所がつくられた理由は?」2018年9月7日。

https://www.minjok.or.kr/archives/100128  (2020.3.3.検索)

11)  毎日新報1942年5月26日、李鶴来、2017、47頁。

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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<表1>  捕虜監視員の応募前の職業と応募の動機

名前  生年  出身地

応募前の職業

応募の動機

キム・ジョンジン、1923、 
忠清南道舒川12)

普通学校を出て18歳で金融組合の
雇人

徴用にも行かずに済み、お金もたくさん
稼げるからと、面の役人と巡査が強く勧
めた。

キム・ガプチョン、1922、全
羅北道群山13)

中学中退、店員

義兄から、軍人よりましじゃないか

イム・ガプ○、1922、忠清南
道扶余14)

普通学校卒業

軍属に志願しろ、次は徴兵制度が出てくる

パク・ジェ○、1919、慶尚南
道晋陽15)

普通学校卒業

地元で支援しろと言われ、監視員の試験で
白紙を出したのに受かった

チョン・ヨン○、1920、扶余
16)

普通学校卒業

両親が(日帝に)さいなまされて、新聞を
見て扶余警察署に応募

キム・マンオプ、1917、忠清
北道沃川17)

清州中学校卒業後、農業をしながら
就職先を物色中

地元の面で同年代6-7人が志願、2年の期
限、徴兵・徴用の免除、給与が2-3倍高い
とされたのが志願の理由

パク・ジョンビン、1919、全
羅南道海南18)

優秀栄尋常小学校卒業後

新聞雑誌で知った、徴用・志願兵で出て
行くのを見て、そちらに行かないため

イ・ハクレ[李鶴来]、1927(1
925)、全羅南道宝城19)

書堂(寺子屋)、小学校卒業後に麗水(
ヨス)で使喚[給仕のこと]や郵便局
勤務

郵便局勤務中に紛失事故、先輩と面役場
の勧めで試験20)

ソク・サンユン[石相玧]、192
0、慶尚南道山清21)

満州から軍属、帰郷して面吏員の準
備、積極的に受験

軍属の経験があって、志願兵よりましと
思い選択

アン・スンガプ[安承甲]、192
2、忠清北道清原22)

公立普通学校卒業後、面書記、陰城
郡の畑作技手

志願兵の勧め、2年服務で初任給48ウォ

キム・イムヨン、1922、慶尚
南道昌原23)

普通学校卒業

面長に普通学校を出た人は出て来いと
言われて

12)  2007.11.16.  姜貞淑(カン·ジョンスク)面談
13)  日帝強占下強制動員被害真相究明委員会、『朝鮮という我が国があったのだな』、2008。
14)  2006.4.25.  姜貞淑面談
15)  2006.4.26.  姜貞淑面談。パク·ジェ○はマレーシア捕虜収容所第2分所にいたが、第7方面軍刑務所に投獄された。

南方軍第1陸軍病院に入院記録がある。

16)  2006.8.30.  洪宗郁(ホン·ジョンウク)面談
17)  キム・ギホ「父を二度辱めるな」『奪われた親を懐かしんで』、民族問題研究所、  2017、  68-69、77頁
18)  2011.9.8、11.23.  姜貞淑面談

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주제발표

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募集された人たちは、捕虜監視員としてどのような教育を受けたのだろうか。捕虜になること

をタブー視した日本軍は、相手である連合軍の捕虜を扱う捕虜監視員にどのような教育を行った

のだろうか。当時、直接教育を受けた捕虜監視員らが覚えているのは、<軍人勅喩>と<戦陣訓>

<軍属読法>であった24)。脚注3で述べたように、日本軍はすでに捕虜になることについて不名誉

だという意識を軍人たちに徹底して植え付けており、特に陸軍大臣の東条英機は1941年1月に

「戦陣訓」をつくり、日本の軍人軍属に徹底するよう教育してきた。捕虜の扱い方について教育を

受けなかった捕虜監視員らも、こうした日本軍人の見方から脱することはできなかった。このよ

うな状態は、新たに捕虜収容所長を務めた人も同様だったという。釜山西面(ソミョン)の臨時軍
属教育隊で教育が始まった途端、捕虜監視員たちは騙されたと思った。日本はバラ色だけを提示

したが、訓練はほぼ軍人レベルであったため、多くの人々が不満を抱き、また脱走も試みられた。

「朝鮮軍」では、最初は捕虜監視員の応募資格として20歳から30歳までの国民学校卒業者程

度を提示していたが、下の<表3>からも分かるように、ジャワの場合、1922年6月以降の生まれ

である20歳未満が22.0%、1907年5月以前の35歳以上が0.6%と、合わせて22.6%が朝鮮軍に

提示されていた年齢範囲を外れている。そして「地下資源開発の生産力拡充に多くの人が用い

られるため」という理由で、平安(ピョンアン)道と咸鏡(ハムギョン)道については、最初は捕虜監

視員の動員から除外する方針だったが25)、捕虜監視員募集者の訓練中であった7月に北部の4道

でも追加募集が行われた。本来示した内容に反して補充せざるを得なかったのは、日本軍や朝

鮮総督府が募集しようとした人数を適切に満たす人員募集ができなかったことを意味する26)。

特に、西北地方での追加募集などは、訓練過程で多数の離脱者が生じたため補完せざるを得な

かったからである。

19)  李鶴来(イ・ハクレ/イ・ハンネ)、キム·ジョンイク訳、『戦犯になった朝鮮青年:韓国人BC級戦犯』、民族問題研究所、2017。
20)  前の本、47頁。李鶴来は、郡庁で70-80人が試験を受けたが、背広を着た人が多くて驚いたと述べた。
21)  石相玧(ソク·サンユン)、南方紀行、『南方紀行』、日帝強占下強制動員被害真相究明委員会、2008。
22) 安承甲(アン・スンガプ)、「倭奴らの手に死ぬくらいなら国のために戦って死ぬ」『南方紀行』、日帝強占下強制動員

被害真相究明委員会、200、222-41頁。アン  スンガプ、『諾山遺稿』、2014。 

23)  キム·イムヨン、「韓国人も多く死にました。捕虜を虐待したからと」『朝鮮という我が国があったのだな』、日帝強占

下強制動員被害真相究明委員会。

24)  李鶴來、前の本、49頁。
25)  「毎日新報」1942.5.23.(2)5、半島人青年の光栄、米英人捕虜監視員に大量採用。
26)  20歳未満の者のうち、徴兵年齢に達した者は「朝鮮人連名簿」からも確認されるように、現地で徴兵をした。

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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初めに朝鮮人捕虜監視員の構成と捕虜収容所の分布

連合軍の捕虜を収容した捕虜収容所は大きく13ヵ所あった。留守名簿上、朝鮮人が配置され

た捕虜収容所は<表2>の通りである。ここには、洪思翊(ホン·サイク)のような捕虜監視員ではな

い者も少数がいる。朝鮮人捕虜監視員が多数配置された地域は、タイ、マレーシア、シンガポー

ル、インドネシアである。このほか、朝鮮にも連合軍捕虜の収容所があり、朝鮮人捕虜監視員が
残され、他に台湾などにごく少数の朝鮮人が確認される。

 

<表2>  留守名簿上朝鮮人配置捕虜収容所 

捕虜収容所所在地の

管轄部隊名27)

捕虜収容所名(場所)

人数*

備考

  

 

 

 

緬甸泰俘虜収容所

泰俘虜収容所

1,262

重複整理後  1200

馬来俘虜収容所

馬来俘虜収容所

馬来軍抑留所(シンガポール)

875

1,154

馬来俘虜収容所第1分所(メダンなど) 139

馬来俘虜収容所  第2分所(パレンバン)

65

第7方面軍刑務所

75

瓜哇俘虜収容所

瓜哇俘虜収容所(ジャワ各地)

1,075

比島第14方面軍

比島(フィリピン)俘虜収容所

2 収容所長・洪思翊ほか1名

南鮮  第17方面軍

朝鮮俘虜収容所

97

台湾  第10方面軍

臺灣俘虜収容所

6

합            계

3,596

参考資料:対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会、『朝鮮人BC級戦犯に対する真相調
査:捕虜監視員動員と戦犯処罰の実態を中心に』、2011、26頁。この資料を基に所属関係を調整した。  *人数部分は多
少誤差があるが、上記の報告書数値で使用する。

27)  俘虜収容所は基本的に陸軍省とつながっており、地域の部隊すなわち南方軍や第7方面軍などと何らかの形で関係

を結んでいただろうが、戦争中の系統は確認できていない。戦争後には、俘虜収容所も地域管轄部隊隷下のそれぞ
れ第25軍、29軍などの地域部隊に入ったことは、以下の資料の<朝鮮出身雇用人転入移動一覧表>から確認され
る。馬来俘虜収容所『朝鮮出身雇用者傭人連名簿』(1945.12.1)日本防衛省図書館所蔵。

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주제발표

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このとき配置された捕虜監視員の年齢別分布はどうだったのだろうか。多少粗削りではある

が、全体の傾向を把握するために下の表のようにまとめた。<表3>からすると、最も集中してい

る年齢層は3つの収容所とも20-25歳の年齢群であった。注目すべきは、朝鮮軍が20-35歳の

範囲内で公告を出したのとは違って、20歳未満がかなり多かった。年齢が記載されていない者

の割合が特に多い馬来俘虜収容所の場合は、構成もやや複雑で、抑留所、岡刑務所も含まれてい

る。特に、岡刑務所は第7方面の軍管轄地域全体を網羅すると予想されたため、マレーシアだけ

でなくジャワ、タイ地域ともクロスチェックをしてみたが、ほとんど重複していなかった。岡刑

務所に収録された者たちは、どのような理由で刑務所にいるようになったのか、今後注目する

必要がある28)  。 

<表3>  捕虜監視員の年齢分布 

ジャワ

マレーシア

タイ

年齢別 

出生年

人数

比率(%)

人数

比率(%)

人数

比率(%)

35歳以上

1907.5  以前

5

  0.6

2

0.2

5

0.4

30-35歳

1907.6-1912.5

41 

  5.0

27

2.4

67

5.6

25-30歳

1912.6-1917.5

158

  19.2

93

8.2

302

25.1

20-25歳

1917.6-1922,5

383 

  46.5

270

23.9

606

50.3

20歳未満

1922.6  以後 

181

  22.0

79

7.0

183

15.2

未詳

  55

  6.7

661

58.3

41

3.4

    合計

823 

  100

1132

100

1204

100

 

備考:留守名簿上の生年を中心にまとめた。未詳は特に馬来俘虜収容所が多いが、抑留所と刑務所は、生年に関する記
録がほとんどない。重複者は全体数に反映したが、誤差の余地がある。

捕虜収容所の構成は、地域別に捕虜収容所の所長、分所長は日本人尉官級の将校と下士官で

構成され、捕虜監視員は朝鮮人傭人などで構成されていた。分所長程度はほとんど朝鮮から共に

移動した。

28)  筆者が面談したパク·ジェ○はこの刑務所にいた。

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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動員された朝鮮人捕虜監視員の生活の実像

<表4>  捕虜監視員たちの配置地での経験

名前  生年  出身地

所属と配置

特異な経験

キム・ジョンジン1923

,  忠清南道  舒川

馬来俘虜収容所第2

分所,  パレンバン

慰安所明月館

巨港(パレンバン)朝鮮人会

キム・ガプチョン, 

1922,  全羅北道  群山

馬来俘虜収容所第2

分所,  パレンバン

パレンバン慰安所, 

太極旗,金九,38度線の話を聞いた

巨港(パレンバン)朝鮮人会

イム・ガプ○

1922,  忠清南道  扶余

馬来俘虜収容所第2

分所,  パレンバン

パレンバン明月館,  サクラ荘

連合軍捕虜5万人(パレンバ

ン?), 

巨港(パレンバン)朝鮮人会

パク・ジェ○,  1919, 

慶尚南道晋陽

馬来俘虜収容所第2

分所, 

第7方面軍刑務所

観月,  星乃屋,  明月(明月館) 

シンガポールとパレンバンの「慰安婦」出

キム・ヒョン○と事故を起こ

した

チョン・ヨン○, 

1920,  扶余

馬来俘虜収容所第1

分所,  メダン

欧米人収容, 

アチェ(スマトラ北部地方地名) 

道路及び鉄路建設

キム・マンオプ, 

1917,忠清北道沃川

泰俘虜収容所 

第4分所

日本に捕虜の護送中1944.  9.12戦死. 

勝鬨丸

パク・ジョンビン,191

9,全羅南道海南

泰俘虜収容所第4分

所第3分遣隊

日鉄道部隊と連携して労働力として捕

虜をつなげた。タイのカンチャナブリに

慰安所,  捕虜護送中に破船, 

家に寄って帰ってきた

在泰高麗人会,  アユタヤ

イ・ハクレ[李鶴来],19
27(1925),全羅南道宝

泰俘虜収容所 

第4分所

タイとビルマ工事,  死の鉄道建設, 

捕虜動員

同僚捕虜監視員の中にも軍

人として徴兵された人がお

り、自分にも次の番が來るの

ではないか恐かった

ソク・サンユン[石相玧

],  1920, 

慶尚南道山清

泰俘虜収容所 

第1分所,  第4分所

小隊長が「タイの男は泥棒、女は売春婦」

と言った。カンチャナブリ慰安所

在泰高麗人会

アン・スンガプ[安承甲

], 

1922.1,忠清北道清原

爪哇収容所, 

抑留所

契約2年以後、同僚と反日的活動を企画, 

団体組織(高麗独立青年党)

在爪哇朝鮮人民会

キム・イムヨン, 

1922, 

慶尚南道昌原市

爪哇俘虜俘虜収容

スマトラに捕虜護送中に魚雷攻撃で船が

沈没,  生存,  抑留所

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주제발표

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抑留所のように民間人が中心の場所では、耕作などの小規模労働が求められたのに比べ、連

合軍の捕虜は道路や鉄道建設などかなり強度の強い労働を、日本軍上部機関が捕虜を動員して

達成する目標量として提示してくるため、末端の捕虜監視員や鉄道隊などには相当な負荷がか

かりがちだ。こうした環境が終戦後BC戦犯が生じる原因である。以下の李鶴来(イ・ハクレ/イ・

ハンネ)の証言は非常に具体的である。

タイ捕虜収容所は、タイ側とミャンマー側に分けることができるが、タイ側には五つの分所、そ

の下に分遣所などがある。李鶴来が初めて所属したタイのヤンワイ第4分所は、総勢約11,000人

の捕虜がおり、捕虜の管理は日本人下士官17人、朝鮮人捕虜監視員130人が行った。分所長は石井

民恵中佐、臼杵きしほ中尉だった。捕虜監視員の仕事は、宿所の設置、2交代の歩哨警備(本部入口

の衛兵所と収容所の中の歩哨)、捕虜を管理しながら日本軍鉄道隊が要求する作業員を確保して

引き渡す仕事などをした。1942年12月、臼杵中尉管轄のコンユ第3分遣所に配属され、捕虜

700-800人と軍務員30人ほどがタイとミャンマーを結ぶナンコス鉄道の工事を開始した。1943

年2月から43年10月まで随行したのだが、通常なら6-7年かかる場所だそうだ。医者どころか衛

生兵もいない状況で労働し、不十分な食事に履物もまともになかった。日本軍は頬を叩くなど平
気でしていたが、捕虜たちは大きな侮辱と受け止めた29)。

パク·ジェ○はパレンバンの慰安所で日本の将校と争って刑務所に行くこととなった。慰安

所での主導権争いにかかわることのように見られる。「朝鮮人慰安婦たちに日本人を受けるな」

といった。当時、慰安所の観月とホシノヤは、主人がみな朝鮮人だった。ホシノヤは晋州(チン

ジュ)出身の人が業者だった。慰安所で少尉を殴った事件は軍法会議にまでまわされ、パク・ジェ

○は1年半、その友人は2年の刑を受けた。解放とともに連合軍の好意で出獄した。

チョン·ヨンオクは、メダンの馬来捕虜収容所第1分所の捕虜監視員として、戦後の戦犯裁判

で実刑を言い渡された。

「(初め)私たちは新加坡(シンガポール)で降りて、イギリス人たちを新加坡のチャンギ...そこ

に捕虜を捕まえておいて、市内を歩きまわってね。(顔)色が違うから、捕まえてチャンギ刑務所

29)  李鶴來、前の本、19-25頁。

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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に入れて...。そのうち、スマトラに行けと言われた。シンガポールに3-4カ月いたかな。」「メダン

第1分所。道路をつくったり、鉄路もつくったり。山を削ってね、道もないとこだよ。メダンから

アチェに行くには...(地図を見ながら)アチェというところは北側だよ、スマトラ。アチェに行っ

て作戦道路。木が倒れれば踏み歩きながら農作業したけど、道路がない。猿みたいだった。ア

チェというところの民族は、オランダも300年間植民地をしたけど、アチェだけはオランダに入

れなかった。そんな所を日本の奴らが占領した。私たちが道ならしに行った。私たちは千人くら

いいたよ。私たちはアチェに行って、残りはバカンバルに行った。バカンバルでは石炭の取り出

しだよ。残った人、1小隊が100人さ。1分隊が30人ずつ。1分隊がみんな朝鮮人でね。分隊長、小隊

長だけが日本人だった。私が3分隊。1分隊、2分隊がバカンバルに船に乗って向かう途中、みんな

死んじまった。捕虜···死んだだろう。メダンにもいたけど、監視員待遇で20-30ウォン。給養は

軍人より良かった。」

イム・ガプ○は、次のように述べた。「シンガポールに到着すると、中佐だった収容所所長が出

てきて『お前たちは軍属のつもりで来ただろうが、ここに来れば軍属というものはない。みんな

軍人として入ってくる』といった。そうして完全武装して、また20日間ほど戦闘訓練を受けてか

ら、馬来捕虜収容所第2分所所属の捕虜監視員65人はパレンバンに移動した。」「パレンバンに

行って最初の数ヵ月間は外出しませんでした。出しもしませんし。しばらくしてから1-2度外出

してみると、慰安所というのがあった。そこの女たち、どうしてここに来ているのかと訊くと、

はっきりした話をしなかったですね、彼女らは」。捕虜については「捕虜たちはかなり優しいです

よ。勝ったことを知っていても、私たちに抗議しないんです。もっとよくしてくれる。だって、彼

らは賢いから。もう少しだけ辛抱すれば自分の親元に帰れるわけだから。」

日本の敗戦後の捕虜監視員の経験

イム・ガプ○は「インドネシアが独立を宣言して、市内がめちゃくちゃだった、インドネシア

の若者たちが刃物を持って私たちのところに来て暴れたので、私たちは日本の奴らに連れてこ

られただけだ、そう説明すると、インドネシア政府が了解してくれたものだ。大体6ヶ月ほど経

つと、私たちの食べる食糧がなかったので、インドネシア政府に頼んで手にいれた。その後に

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주제발표

-  65  -

なってイギリス軍が上陸したんだ。」 

連合軍の上陸後、「パレンバンから川の向うのプラージュ、連合軍は埠頭沿いの収容所に収容

施設を建てろと言ったし、所持品を一つでも持つことを禁じた。(持ち物を)出さないと殺すぞっ

て。そして、パレンバンにいた女たちと分かれて、スマトラ北部のメダン、シンガポールのチャン

ギ刑務所。シンガポールに行くと、チャンギ刑務所に入れと言われた。チャンギ刑務所は国際刑

務所だから。囚人の部屋に200人ずつ入れられた。そこで私たちを全員立たせて、一人ずつ顔を

見られた。じゃあ、見ているのは誰かというと、捕虜が見ている。例えば、私が2分所で勤務してい

たとしたら、2分所にいた捕虜が来てね。首実検30)をしてから、3ヶ月ほどした後に出てきたよ。

出てきて家に帰るのかと思っていたが、ジャワにまわされた。ジャワに行ってからは、またオラ

ンダ刑務所が別途あってね。私たちが住まされたところには、イギリス軍、オランダ軍、オースト

ラリア。米軍はいなかった。解放されて韓国に帰ったのは、解放から2年後だった。」

イム・ガプ○は、明月館とサクラ荘を記憶しており、慰安所業者たちが朝鮮人会の人たちと一緒

に行動せず、「我々の人会に、朝鮮人会に来たって入れてやりもしなかっただろうけど、そもそも

自分たちが来ない。やつらはまあ、最後まで日本の人たちと一緒に行動したわけさ」と語った。

           

タイのカンチャナブリ上流(水路で3日)で、イギリス軍の捕虜を監視したパク·ジョンビンは、

3分遣所に40人ほどの朝鮮人と、捕虜は千人余りがいたが、「彼らはまるで両班だった」「彼らは

悲惨に過ごしましたよ。......飯を炊くのにくず米をやるんだが、私らから見ても、ふうと吹けば

飛んでいっちまいそうなそんな飯。あと、夕方牛をさばいてくれたら、それを夜通し炊いて、具は
与えずに彼らの腹ごしらえをさせてね、また働いて」「それでも逃げないんですよ」「彼らだっ

て、韓国人だというのは知ってますよ」「解放後に、私に向かって、グッドボーイ。」

朝鮮人の捕虜監視人が白人捕虜たちに人種主義的劣等感を感じたり、日本の軍隊訓練を通じ

て暴力を内面化(シン·ジヨン、123-4頁)してもいたが、連合軍捕虜の状態を同情したり、現地人

を理解する感情を持って対応するなど、嵐の中にあっても自分の所信を守り抜く人々がいた。

30) 首実検は、かつて戦場で切り落とした敵の首級の真偽を確認していたことから始まった言葉である。日本の敗戦

後、連合軍は捕虜監視員を数ヵ所に連れて行き、逆に、連合軍捕虜たちが捕虜監視員ら個人から被害を受けたかど
うかを確認する過程を踏んだのだが、これに数ヵ月かかり、その過程で元捕虜監視員らは、ほとんど食べることも
できず誰かに弁護を求めることもできないまま、殺されるかもしれないという恐怖の中で過ごした。

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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捕虜監視員と現地人

捕虜監視員にとって、敗戦以前までは現地人に対する記憶があまり多くはない。スマトラの

パレンバンで会社員だったカン·ソクチェは、敗戦前後に金九(キム·グ)の名のビラが撒かれた

ことがあったとし、それは中国人によって撒かれたものと推測している。その後も様々な情報

が提供されたという。終戦地域によって違いはあっただろうが、パレンバンでは日本が敗れた

後、インドネシアの独立団体らが武装し、訓練がすでにされていた朝鮮人たちを自分側の部隊

に入れようとする強力な動きがあった。シン·ジヨンは、残留した日本兵たちが、「大東亜戦争」

の延長線上という認識を持ってインドネシア独立運動に参加したというよりは、戦犯となる恐

怖、個人的な事情(女性問題など)、上官による決定など、様々な理由があったと指摘している(シ

ン·ジヨン、2016:120)。実際はもっと多様な形で動きがあったが、ジャワでの動きについては
既存の研究でもすでに紹介されているので、スマトラのパレンバンの状況について少し言及し

たい。日本の敗戦後、オランダなど既存の植民地権力が再流入してくる前に、インドネシアは
様々な動きが起っていたことで相当な渦巻の中にあった。日本の敗戦後、パレンバン付近にい

た多様な朝鮮人は、若干の時差を置いてパレンバンに集まってきて、居港[パンレンバン]朝鮮人
会を組織した。この時に集まった人々は、軍人、軍属(馬来捕虜収容所第2分所の捕虜監視員な

ど)、会社員、軍「慰安婦」と軍慰安所業者などであり、その場所は、軍慰安所があった場所やその

付近だった。組織が結成されてから、食糧や保安などとの関連から、インドネシア人たちと交流

せざるを得なかった。この時、インドネシア人独立軍への入隊に関する具体的な提案があった

が、会社員(労働者?)のカン·ソクチェと捕虜監視員イム·ガプ○は、自分も祖国に帰って再建に

力を貸さなければならないなどの理由を挙げて説得し、断った。一方で、ハン・ギソンをはじめ

とする海軍軍属(名簿記録では未確認)数人は、パレンバン朝鮮人会を離れ、インドネシア軍に
実際編入されて、戻ってきたオランダ軍と交戦しており、ハン・ギソンは交戦の末に捕まって自

首して帰還した31)。

31)  ハン·ギソン、2006.姜貞淑採録。

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주제발표

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結び

捕虜監視員として動員された彼らは、日本の植民地時代に普通学校以上を卒業し、未来社会

をリードする中堅層となるような人物たちだった。戦争後に帰国した彼らはそのような道を歩

んだはずだっただろうが、戦犯として判決を下された朝鮮人は、どこからも存在の意味をきちん

と与えられることなかったため、シン·ジヨンの言葉通り「難民」と言っても過言ではない。捕虜

監視員およびBC級戦犯問題には、植民地、帝国主義、人種主義、軍事主義など、韓国社会が日常

的に触れている問題が凝縮されている。新しい資料発掘と視点によってアプローチするべき課

題が相当ある。捕虜収容所を取りまく組織や構成と機能、実際に収容された捕虜や抑留者の人
数や構成と状態、捕虜収容所の命令体系などは重要なテーマであるが、依然として課題として
残されている。

捕虜に対する連合軍側の態度について行われた最近の研究を見ると、一般的に米軍が敵国捕

虜に比較的寛大に対応したという。しかし、米軍やオーストラリア軍の日記などに基づいて分

析した研究(リチャード·オルドリッチ)によると、当初、太平洋戦争の一部の地域では捕虜を捕

獲しないということが米国の政策であり、オーストラリア軍もまた日本軍を殺戮することを選

び、日本軍を捕虜にすることを好まなかったという研究もある32)。このことは、ドイツ軍捕虜の

大規模な脱走はなかったのに比べ、オーストラリアのカウラ(Cowra)捕虜収容所では、1944年

8月5日、900人の日本軍捕虜たちが集団暴動を起こし、231人が死亡、108人が負傷、オーストラ

リア軍側は4人が死亡し、4人が負傷した33)事実からも確認される。このような点をみると、戦
争という極限の状況の中で、双方において人種主義や国粋主義など極端な姿がよく表れている

ことが分かる。

そして言及したいことは、資料公開の問題である。日帝下強制動員被害真相究明委員会など

の関連機関の活動に支えられ、捕虜監視員をはじめとする強制動員被害者や遺族から申告が

あったおかげで、これらに対する調査がかなり蓄積された。以前に比べれば、それらを基に研究

32)  Richard Aldrich ed., 『The Faraway War : Personal Diaries Of The Second World War In Asia 
And The Pacific』, London: Doubleday, 2005。日帝強制動員被害真相究明委員会、『ハワイ捕虜収容所の
韓人捕虜に関する調査』、2008、11頁から再引用
33) 日帝強制動員被害真相究明委員会、前の本、12頁。

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2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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もかなり進展した。しかし、同委員会で活用された資料、特に名簿、生産された資料は、関連する
研究者が十分に活用できない状態にある。個人情報という理由で閲覧が困難であり、研究に大

きな壁となっている。個人情報保護の趣旨を生かしつつ、民族的被害である強制動員の研究を

進展させ得るための打開策が求められる。 

台湾からも捕虜監視員が動員されているが34)、今のところでは、このテーマに関連して台湾

との調査や研究の交流があったかについては、寡聞にして耳にしたことがない。韓国の歴史を

豊かに理解する上では、歴史的事実を明らかにするとともに、韓国の歴史経験を相対化するこ

とが重要だと考える。そのためには連合軍捕虜、また私たちと類似した経験を持つ台湾人の経
験などに対する比較研究が極めて重要だと考える。本日のようなこのような場が重ねられ、敵
対的な場であった捕虜と捕虜監視員問題から、ひいては時代と人間に対する包括的な理解を通

じて、対立と憎悪を、連帯と協力をもって平和を育む力へと転換していけることを期待する。

34) 

周婉窈編、『台籍日本兵座談會記錄竝相關資料』、臺北:中央硏究院臺灣史硏究所籌備處、1997、

32-35頁には、ボルネオで捕虜監視員となった台湾人・柯景星の口述が収録されている。

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주제발표

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参考文献 

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キム·ボリム、「韓日歴史教育の未完-‘南方’捕虜収容所朝鮮人捕虜監視員ヤン·チルソンを中心

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キム·ヨンヒ、「B·C級戦犯裁判と朝鮮人」『法学研究』  第27集、2007.08

日帝強占下強制動員被害真相究明委員会、『朝鮮という我が国があったのだな』、2008

石相玧(ソク·サンユン)、南方紀行、『南方紀行』、日帝強占下強制動員被害真相究明委員会、2008

日帝強占下強制動員被害真相究明委員会、『インドネシア動員女性名簿に関する真相調査』、

2009 

対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会、『朝鮮人BC級戦犯に対

する真相調査:捕虜監視員動員と戦犯処罰の実態を中心に』、2011

チョ・ゴン、「第二次世界大戦末期の日本の朝鮮人捕虜監視員強制動員」《韓日民族問題研究》21、

2011   

姜貞淑(カン・ジョンスク)、「第2次世界大戦期インドネシア·パレンバンに動員された朝鮮人の

帰還過程に関する研究」『韓国独立運動史研究』第41集、2012.4.

劉炳銑(ユ·ビョンソン)、「日帝末期インドネシア韓人軍属の抗日闘争」『韓国独立運動史研究』

第44集、2013.4.

チョ・ゴン、「日帝強占末期朝鮮駐屯日本軍の朝鮮人捕虜監視員の動員と連合軍捕虜収容所の運

営」『韓国近現代史研究』第67集(2013年冬)、2013.12. 

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70

2.  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상

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安承甲(アン・スンガプ)、『諾山遺稿』、賢都福祉会編、良書閣,  2014

申熙石(シン·ヒソク)、「第1次世界大戦と第2次世界大戦以後の戦犯裁判」『ソウル国際法研究』

22(2)、2015.12

コン·ジュンファン、「解放された戦犯、捕えられた植民地:戦後米国の戦犯裁判と朝鮮におけ

る戦犯問題の議論」『社会と歴史』、通巻112号、2016年   

シン·ジヨン、「'難民'と'人民'の間:梁七星・梁川七星・Komarudin・史尼育唔・中村輝夫・李光

輝」『尙虛学報』48集(2016.10)、pp.89-147、尙虛學會、2016.10.30. 

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問題研究所、2017 

キム·ギホ、「父を二度辱めるな」『奪われた父母を懐かしんで』、民族問題研究所、2017

野田正彰、「偽りの近代からくる不安を克服するためにー日本軍人と今日の日本人」『戰爭犯罪

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주제발표

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일본군의  태면철도  건설과 

한국인  BC급  전범

03

김  도  형

(독립기념관  연구위원)

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주제발표

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일본군의  태면철도  건설과
한국인  BC급  전범

김  도  형(독립기념관  연구위원)

1

머리말

태면철도(泰緬鐵道, Thailand-Burma Railway)는 태국의 방콕 서쪽에 위치한 논쁘라둑

(Non  Pladuk)에서  과이노이(Kwai  Noi)  강변을  따라  미얀마(버마)의  탄비우자야트

(Thanbyuzayat)까지 연결된 철도이다. 1942년 6월에 착공하여 1943년 10월 25일 완공

되어, 태국쪽 304km 미얀마쪽 111km 총 415km이다. 이 철도를 건설하기 위해 약 1만 

3천명의  사람들이  사망하였기  때문에,  ‘죽음의  철도(The  Death  Railway)’라는  악명을 

가지고  있다.

우리와 전혀 관련이 없을 것만 같은 이 ‘죽음의 철도’ 때문에, 한국인들이 희생을 당하게 

되었다.  이  태면철도의  건설  현장에서  연합국  포로들과  함께  있었던  한국인  포로감시원 

129명이, 전후 연합국 전범재판에 회부되어 모두 10년 이상의 장기형에 받았고 그 가운데 

22명이  사형을  당하였다.  ‘죽음의  철도’를  완공하는  데에는  연합국  포로들을  감시하였던 

한국인과  대만인  포로감시원들이  있었다.  일본은  버마지역에서  작전을  수행하기  위해서 

일본군에 가장 중요한 보급로 확보를 위해 단시일에 태국과 버마 국경을 연결하는 철도를 

개통시켜야만 했다. 이 철도 구간은 원시 정글, 바위와 습지, 콜레라와 같은 전염병 등으로 

난공사  중에서도  난공사였다.  일본군에서는  이같은  난공사에  영국・오스트레일리아・네덜

란드・미국  등의  연합국  포로들을  철도  부설공사에  투입하였던  것이다.

일본군의  이같은  결정에  따라  동남아시아  각  지역에  있던  연합국  포로들은  태면철도 

건설을  위해  태국과  버마지역으로  이송되었고,  이에  따라  말레이  포로수용소,  자바  포로

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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수용소에 있었던 연합국 포로들을 감시하던 한국인과 대만인 감시원들도 함께 이동할 수

밖에  없었다.  포로감시원들은  연합국  포로들의  이송부터,  철도  건설  현장의  투입과  감시

까지 모든 일상을 함께 하였다. 일본군의 지휘를 받는 포로감시원들은 짧은 시간에 철도를 

완공하기 위해 포로들을 강압적으로 동원하는 일을 담당하였다. 일본군의 식량, 약품, 의류 

등의 보급이 절대적으로 부족한 가운데 포로들을 동원하면서 환자를 공사에 내보내는 일도 

있었고,  구타  등의  폭력을  행사하는  일도  있었다.

일본이  패전한  이후  태면철도  공사에  투입이  되었던  연합국  포로들이,  자신들을  학대

하였다고 하여 포로감시원들을 전범으로 지목하였다. 한국인 포로감시원들은 전범재판에 

회부되어  BC급  전범이라는  오명을  뒤집어  쓰고  사형을  당하고,  10년  이상의  장기형을 

선고받고 고난을 당하였다. 제2차 세계대전을 일으킨 일본 국민도 아닌데, BC급 전범으로 

연합국  전범재판을  받아야만  했을까.  일본의  식민지배를  받는  가련한  식민지  사람들인 

한국인이 어떻게 BC급 전범이 될 수가 있는가. 그렇다면, 한국인들은 왜 태면철도의 현장에 

있게  되었으며,  그곳에  무슨  일을  했는가,  BC급  전범으로  가혹한  처벌을  받았는가.

이글에서는  일본군이  태면철도를  건설하게  되는  배경부터  완공까지의  과정,  철도공사 

현장에서 연합국 포로와 포로감시원 사이에 무슨 일이 있었는가, 전후 전범재판에서 한국인 

감시원들이  어떻게  BC급  전범이  되었는가를  살펴보고자  한다.

2

일본군의  태면철도의  부설

태평양전쟁을 일으키고 동남아지역을 침공한 일제는 1941년 12월 21일 태국과 「십년

정치경제군사동맹(十年政治經濟軍事同盟)」을 체결하고, 다음해 1월 11일 버마를 침략하기 

시작하였다.  일본군  제55사단  보병  제143연대에  의해  1941년  12월  14일  버마를  점령

하였고, 1942년 1월 11일에는 노강(怒江)이라는 이름이 붙은 살르윈(Salween)강을 넘어 

그해 3월 8일 일본군 제33사단에 의해 수도 랭군이 점령당하였다. 버마를 점령한 일제는 

‘버마방위군(Burma Defence Army)’라는 이름하에 새로운 군대를 조직하였다. 이어 군사

정부를 조직하고 그 하부에 기성 정치인 바모(Ba Mo)를 수장으로 하여 민간인들을 관리

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주제발표

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하는  조직을  만들었다.

그런데, 버마를 침공한 일본군에 가장 중요한 것은 보급로를 확보하는 것이었다. 일본의 

남방군은 거의 교통로가 없어 태국-버마 국경 산악지대를 넘어서 버마에서 작전을 할 경우 

그 배후 연락선이 없는 것이 가장 큰 문제였다. 싱가포르를 경유하는 해상 통로만으로 군수

물자를  수송하여  랭군에  이르는  보급을  하면  되지만  그  연락로는  그  거리가  길다.  또한 

장기전을 할 경우, 얼마 안되어 해로 수송이 적의 잠수함과 항공로에 의해 차단될 수 있다. 

따라서  태국과  버마의  국경  산악지대에  철도를  건설하면  보급이  단기간에  확보할  수  있어 

이같은  근본문제를  해결할  수  있었다.

그러자면  태국-버마  국경  산악지대를  관통하는  철도를  건설하는  것이었다.  즉,  방콕의 

서쪽 깐짜나부리(Kanchanaburi)에서 콰이노이 강변을 따라 버마의 탄비우자야트에 이르는 

400km가 넘는 산악에 철도를 건설하는 것이다. 이같은 계획은 이미 일본군 참모본부 작전

과장 핫토리 타쿠시로(服部卓四郞) 대좌가 1941년 12월 하순 남방군 총사령부를 방문할 때 

구상한 것이다. 그는 이같은 계획을 처음 항공사진으로 ‘2만분의 1’ 지도를 제작하여 검토를 

하였다.  1941년  3월  상순  드디어  일본군  4개  사단이  본격적으로  버마작전을  실시하게 

되었고,  철도건설  계획을  일본과  태국이  합동해서  실시하고자  하였다.  그래서  3월  중순 

남방군 제15군의 랭군 공략 후 본격적 버마작전 개시와 함께 철도 운동계획을 정하였다. 

이  계획의  가운데  태면철도  건설에  대한  방침과  강령을  요약하면  다음과  같다.1)

제1  방침

1.  용(勇)작전(버마작전-필자)의  진전과  함께  남방군  철도대로  하여금  신속히  만달레이 

방면에 이르는 버마 후방 철도간선(鐵道幹線)을 수복(修復) 정비(整備)하고 작전과 아

울러  이후의  자원  수송에  즉응(卽應)시킨다.

타이-버마를  잇는  철도를  놓아  신속히  그것을  신설하여,  장기전에  대처하고  선박을 

보존함을  돕니다.

제2  강령

1)  防衛廳防衛硏修所  戰史室,  󰡔大本營陸軍部<4>󰡕,  朝雲新聞社,  1972,  316쪽.

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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6.  타이,  버마  간의  신설  철도는  콰이노이(Kwai  Noi)강  계곡을  통과하여  양국  철도를 

연접한다.

일본군은 태국과 버마를 연결하는 철도의 건설기간은 약 1개년을 목표로 하고, 남방군 

철도대 사령관이 담당하도록 하였다. 그리고 태국으로 하여금 철도 건설 작업에 협력하게 

하였다. 그런데, 이같은 남방군 태면철도 건설 요구안을 접수받은 일본군 중앙에서는 철도

건설을 허가해 주지 않았다. 그 이유는 남방군의 철도건설에 대한 조사와 계획은 구체성이 

없고, 특히 건설 소요자재의 정비, 건설 노동력 확보 등 모든 점에서 공사 완성의 예상을 

확정할  수가  없다는  점  때문이었다.

이에  따라  남방군에서는  주로  지형  관계  등에  대한  구체적인  검토를  하였다.  그후 

1942년 4월 25일 핫토리 교오타로오(服部曉太郞) 중장의 후임으로 새로이 시모다 노부오

(下田宣力) 소장이 두 번째 철도감(鐵道監)이 되었다. 시다 노부오는 태면철도 건설에 대단한 

열의를  보여,  스스로  자재  수집  등에  착수하였다.  그해  5월  중순  전  버마의  침공을  완료

하고 4개 사단의 남방군 주력을 버마의 전역에 배치하고, 전략적으로 가장 중요한 전역이 

되었다. 따라서 태면철도의 건설은 단순히 군사 작전상으로만 중요한 것이 아니라 정치적・

경제적으로도 중시되게 되었다. 6월 9일 대본영 참모본부장 회보(會報)에서 가토 가기헤이

(加藤鑰平)  제3부장은  태면철도의  건설에  대해  다음과  같이  보고하였다.

타이, 버마 철도문제는 진척되고 있다. 전장 370km, 준공기간 1년 내지 1년 반, 자재는 

현지조달,  철도  1개  연대반(聯隊半)  외에,  부로(俘虜)  기타의  노력을  이용한다.  경비는  약 

1,000만엔

위와 같이 태면철도를 건설하기 위한 구체적인 방안이 보고되자, 이에 반대의견을 내었던 

육군성에서도 선박 부족을 해결할 수 있다는 점 때문에 철도 건설에 기대를 걸었다. 그래서 

6월 20일 참모총장이 남방군에 다음과 같은 「태면연접철도건설요강(泰緬連接鐵道建設要綱)」을 

지시하게  되었다.2)

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주제발표

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1. 건설목적 : 본 철도 건설의 목적은 버마에 대한 육상 보급로를 확보하고, 타이・버마 

양국  간의  교역교통로를  개척하는  데에  있다.

2.  건설경로  :  태국  논프라둑부터  콰이노이  강에  연한  니이케를  거쳐  버마  탄비우자

야트에  이르는  약  400km

3.  수송능력  :  한  방향에  대해  일량(日量)  약  3,000톤

4.  건설기간  :  소화  18년  말  완성할  예정임

5.  소요  자재  :  현지  자재(資材)를  주(主)로.  소요(所要)의  것을  중앙에서  교부함

6.  소요  경비  :  700만엔

7. 건설 병력 : 철도감부 1, 철도연대 2, 철도재료창 1을 주최로 하여 소요의 보조부대를 

속하게  함

8.  소요  병력  :  현지  노무자  및  부로를  충당함

이같은 건설요강에 준거하여 사실상 태면철도의 건설 준비를 지시한 것과 같다. 그런데, 

태국 정부는 논프라둑과 깐자나부리 간의 50km의 철도 건설을 빨리 실시하고자 하였다. 

그래서 남방군과 협정해서 철도부대의 원조하에 태국측에서 실시하게 되었다. 10월 하순 

그  완성과  함께,  나아가  준비기점을  칸자나부리에서  추진하게  되었다.

그리고 대본영과 일본정부의 연락회의에서 「대태경제시책요강(對泰經濟施策要綱)」이 결정

되면서,  이  요강에  따라  교통과  통신시책으로  “간선철도  특히  태불인(泰佛印)철도의  정비 

확충과  아울러  방콕항의  축항”을  지도  원조할  것이  정해졌다.  그렇지만  태면연접철도의 

건설에  대해서는  언급이  없었다.3)  앞에서도  보았다시피,  대본영  참모총장이  태면철도의 

건설에  대한  ‘준비’  명령을  내렸지만,  400km에  달하는  태국과  버마  간의  산악지대에 

1943년 말까지 철도를 건설할 수 있을까에 대해서는 아직도 확신이 없었다. 만일 태국의 

논프라둑에서부터 버마의 탄비우자야트까지 철도를 건설할 수 없을 경우에는 연접철도로서의 

가치가  떨어진다.  그리고  태국-버마  간의  철도가  연결이  안되면,  불가능한  명령을  내린 

2)  防衛廳防衛硏修所  戰史室,  󰡔大本營陸軍部<4>󰡕,  318-319쪽.
3)  防衛廳防衛硏修所  戰史室,  󰡔大本營陸軍部<5>󰡕,  朝雲新聞社,  1973,  446쪽.

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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일본군 최고통수부는 그 책임을 면할 수가 없었다. 비록 남방군에서 태면철도 건설에 대한 

조사와  준비를  철저히  하였다고는  하지만,  이같은  난공사를  착수하는  명령을  쉽게  내릴 

수는  없었던  것이다.

이같이 일본 대본영에서는 태면철도 건설에 대한 지시를 내리지 못하고 주저하고 있었던 

것이다.  버마에  있는  일본군에  가장  중요한  것은  보급이고,  그것은  철도를  개통시켜야만 

가능한  것이다.  일본군은  지금까지  남방작전에서  모든  보급은  선박이  주류를  이루었다. 

그런데, 향후 버마방면에서 제공권의 상실하게 되면 해상수송이 두절될 수가 있다는 우려가 

있었다. 그리고 남방지역에서 전선이 확대되면 선박이 부족하게 되는 것은 당연한 것이었다. 

버마지역으로 단기간에 걸친 보급로 확보와 선박 부족 문제를 일거에 해결할 수 있는 것은, 

태국-버마의  국경을  연결하는  철도를  부설하는  길밖에  없었던  것이다.  이것이  난공사에 

무모하게  도전하게  되는  이유였다.

일본 대본영은 1942년 11월 상순 남방군에 대해, 태국의 논쁘라독에서 콰이노이 강변을 

따라서  버마의  탄비우자야트에  이르는  400km의  철도  건설을  명령하였다.4)  보통  철도 

건설은 모든 구간을 측량한 다음에 공사를 진행하는 것이 통상적이다. 일본군에서는 태면

철도의  건설  지대는  모두  정글지대로  모든  구간을  측량하고  공사를  진행하는  통상의  방법

으로는, 매우 공사를 지연시킨다고 판단을 하게 되었다. 공기를 단축시키기 위해서는 태국과 

버마쪽의 부분적인 측량 결과에 의거하여, 드디어 다른 작업을 진행하는 방식으로 공사를 

시작하였다.  게다가  지형의  관계상  모든  구간을  몇  개의  구간으로  나누어  동시에  작업을 

실시하는 것이 될 수 없기 때문에, 부득이 각 기지에서 도로를 조금씩 내면서, 끝과 끝을 

연결하는  형식에  의해  진행하지  않을  수  없었다.  이  때문에  작업은  현저히  구속을  받지 

않을 수 없었다. 작업 개시 후에도 작업량과 자재 등에 대한 예상을 빼고, 항상 완전한 사전 

대책을  강구하는  것이  될  수는  없었다.5)

철도공사의 총책임자는 철도사령관이었는데, 1942년 4월에 부임한 시모다 노부오 소장은 

1943년 1월 하순 비행기로 작업 시찰 중에 추락사하였다. 그리고 그 후임으로 온 타카사키

(高崎祐政) 소장(26기)은 얼마 후 병으로 죽었고, 6월 하순 이시다 에이구마(石田榮熊) 소장이 

제3대 철도사령관에 취임하였다. 난공사를 시작하면서부터 철도 건설의 책임자가 사망하는 

4)  防衛廳防衛硏修所  戰史室,  󰡔大本營陸軍部<7>󰡕,  朝雲新聞社,  1973,  88쪽.
5)  防衛廳防衛硏修所  戰史室,  󰡔大本營陸軍部<5>󰡕,  447-448쪽.

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주제발표

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등  일본군내에서도  공사를  하지  말  것을  경고하는  조짐이  있었다.

태면철도의  공사는  「태면연접철도  건설요강」에서  계획한  바와  같이,  1943년  말에  완공

하게  되었다.  일본군에서는  중국  장개석  군대를  지원하는  국제루트인  ‘원장(援蔣)루트’를 

저지하기 위해서는 반드시 임팔지역을 공략하지 않으면 안되었다. 버마를 점령한 일본군은 

1942년  3월부터  영인군(英印軍)과  중국군을  축출하고  버마를  지배하고  있었다.  버마의 

수도 랭군에서 중국 곤명(昆明)으로 통하는 버마로드(中緬公路)를 일본군에게 빼앗긴 연합

군은, 버마 북단의 국경에서 새로 중국으로의 수송로를 개설하고자 하였다. 일본군의 버마 

점령으로  말미암아  버마루트인  수송로를  상실한  연합군은  인도의  동북부  임팔에  가까운 

비행기지를 통해 항공으로 중국에 물자를 수송하였다. 그래서 중국군에서는 3개 사단 병력을 

인도에  공중수송하여  새로운  도로를  건설하게  하였다.  임팔작전이  개시될  무렵에는  거의 

완성되고 있었는데,  이것이 레도로드(Ledo Road)이다. 이  도로는 인도의  레드에서 중국 

운남성에 이르는 군수물자 수송도로이며, 그 중요한 목적은 북부 인도 유전지대의 가솔린을 

중국대륙에 수송하는 것이었다. 연합군은 이것을 ‘도쿄로 가는 길(東京公路)’이라고 불렀다.

일본군은  버마작전을  위해  대본영에서는  당초  명령을  변경하여  1943년  8월까지  완성

하라고 했다. 남방군은 철도 건설을 4개월 단축하라는 비상 명령에 받게 되었다. 이에 따라 

우선 각 방면에서 할 수 있는 한 부대를 차출하여 철도 건설 작업에 주력하게 하였다. 그리고 

건설기간  단축에  따른  노동력을  확보하기  위해  버마,  타이,  인도지나,  말레이,  자바의  각 

지역에  대해  현지인  노무자들을  조직적으로  공출하라는  명령을  하였다.  그러나  곧  4월 

중・하순부터 시작된 우기는 공사와 보급을 방해하였을 뿐만 아니라, 포로들의 노동에 고통을 

증가시켰다. 비는 폭포같이 내렸다. 게다가 태면 국경의 니이케 부근에서 발생한 콜레라가 

금세  전  공사  구간으로  확대되어,  우기에  다가  콜레라까지  점차로  번져나갔다.

태면철도 건설 공사에 투입된 작업인원의 총수는 정확하지 않다. 그렇지만 현재 일본의 

공식적인 전사(戰史)라고 할 수 있는 ‘방위청 방위연구소’에서 발간한 󰡔전사총서(戰史叢書)󰡕에 

따르면 다음과 같다. 일본군 약 1만명, 포로 약 5만 5천명, 현지인 노무자 약 7만명 합계 

13만 5천명이다. 작업 최성기에는 1일 공사 종사자는 3만명을 넘었다. 식량 부족과 과로 

때문에 체력이 쇠약해져 있고, 콜레라에 대한 저항력이 없어 1943년 6월의 최고조에 이르

렀을  때  환자수는  약  6천명으로  그  가운데  4천명이  사망하였다.6)  일본측에서는  포로 

100명 중 20명이 사망하였고, 노무자는 100명 중 30명이 사망하였으며, 일본인은 100명 

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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중 1명이 사망하였다고 한다.7) 그렇지만 우쓰미 아이코 교수의 연구에 따르면, 포로는 4

명  중  한  명이  죽었고,  노무자는  두  명  중  한  명이  죽었다고  하였다.8)

우기와 콜레라로 철도공사에 난항을 보이고 있을 무렵, 일본 대본영에서는 제9과장(철도

과장)  가토(加藤定)  대좌를  파견하여  태면철도  건설  현장  실정을  답사하게  하였다.  그는 

현장을 돌아보고 우기와 콜레라 발생 등으로 철도 건설에 필요한 노동력을 확보할 수 없었기 

때문에,  부득이  공사기간을  2개월  연장하여  10월에  완성하여야  한다고  판단하였다.  7월 

중순 대본영은 1943년 8월까지 철도공사를 완성한다는 당초의 지시를 10월 말까지로 수정 

지시하였다.9) 그후 7월 하순경부터 그후 콜레라도 중지되고 우기가 끝나면서 보급 문제도 

조금  개선되어  공사는  순조롭게  진행되었다.

이러한  난항을  계속한  태면철도는  1943년  10월  25일  전  구간  완전  개통하였다.  공사 

착공  이래  1년  3개월,  본격적  공사가  개시된  것은  8개월여,  연장  415km에  달하는  태면

철도가 완성되어 버마전선에 철도 수송이 개시되었다. 일본군의 전략적 목적 때문에 철도가 

거의 하루 1km에 가까운, 인간의 상식으로는 도저히 생각할 수 없는 속도로 침목이 놓이고 

레일이  부설되었다.

일본군의  입장에서  태면철도의  완성은  버마전선에  대한  주요한  보급로로  크게  기대되

었다.  앞에서  본  「태면연접철도  건설요강」에  따르면,  수송능력은  한  방향으로  하루 

3,000톤을  수송할  수  있다고  하였다.  그런데,  1943년  11월의  일량은  80톤,  12월에는 

50톤, 1944년 1월 이후 약 100톤 정도였다. 이같이 철도가 완성된 후 그 수송력은 계속적인 

철도보수와,  자재와  병력  수송에만  할애되었기  때문에  군수품  수송의  여력은  거의  없었다. 

후일 연합군에 의해 버마의 해상 수송이 완전히 두절되자, 버마에 주둔하고 있던 일본군은 

극도의  보급난에  빠졌다.

6)  防衛廳防衛硏修所  戰史室,  󰡔大本營陸軍部<7>󰡕,  88쪽.
7)  Gavan  Daws,  󰡔Prisoners  of  the  Japanese:POWs  of  World  WarⅡ  in  the  Pacific󰡕,  p.220.
8)  우쓰미  아이코・무라이  요시노리  지음,  김종익  옮김,  󰡔적도에  묻히다󰡕,  역사비평사,  2012,  113쪽.
9)  防衛廳防衛硏修所  戰史室,  󰡔大本營陸軍部<7>󰡕,  88쪽.

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주제발표

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3

연합국  포로와  한인  포로감시원

동남아지역  포로수용소에는  영국,  미국,  네덜란드,  오스트레일리아의  포로들이  수용되어 

있었다.  일본군은  1941년  12월  8일  진주만  공격과  말레이에  상륙하면서  태평양전쟁이 

시작되어,  홍콩,  마닐라,  싱가포르,  자바,  바탕반도,  버마를  차례로  점령하였다.  그러면서 

이 지역에서의 영국, 네덜란드, 오스트레일리아, 미국 등 연합국 군인들이 일본의 전쟁포로가 

되었다.

제2차 세계대전이 일어나면서 영국은 1939년 9월 3일 독일에 전쟁을 선포하였고, 진주만 

기습 이후 싱가포르를 비롯한 동남아지역에서 일본과 영국은 직접 전투가 벌어지면서 영국

군들이  일본군의  포로가  되었다.  미국은  1940년  6월  독일이  파리를  점령하자  프랑스는 

미국의 참전을 요구하게 되었고, 미국은 영국과 소련에 무기를 공급하면서 세계대전에 참전

할 것이라고 여겨졌다. 그런데, 일본인 1941년 12월 8일 하와이의 진주만을 기습공격하면서 

양국 간에 전쟁이 일어나게 되었다. 태평양지역에서 미・일 간의 치열한 전투가 벌어지면서 

미군들이  일본군의  포로가  되었다.

독일의 폴란드 침공이 시작되자 네덜란드는 파시즘에 대한 투쟁을 공고히 한다는 명목

으로 인도네시아인들에게 보다 많은 자치권을 허용하고, 일본에 협조적인 민족주의 세력을 

탄압하였다. 진주만 기습 공격 이후 일본은 팔렘방의 유전지대를 확보하기 위해 인도네시아를 

침략하여  본격적인  전투가  벌어졌다.  그리고  1942년  3월  8일  네덜란드는  동부  자바  까리

자띠에서 일본군에게 항복을 하게 되면서 포로가 발생하게 되었다. 그런데 오스트레일리아는 

직접적으로 제2차 대전의 위협을 받지는 않지만, 일본이 자신들을 침공할지 모른다고 판단

하고 1941년 2월 군대를 말라야에 파견하였다. 그리고 얼마 후인 12월 8일 일본은 진주만을 

기습  공격하면서  태평양전쟁이  발발하고  동남아지역을  침공하였다.  이에  따라  말라야에 

파견된  오스트레일리아  군대와  일본군이  직접  전쟁을  하게  되었다.

태평양과 동남아지역에서 일본군과 전쟁을 벌인, 영국, 미국, 네덜란드, 오스트레일리아의 

포로들은 모두 포로수용소에 수용이 되었다. 이들 연합국 전쟁포로들의 정확한 숫자는 확인

되지 않지만, 대략 26만명 정도라고 한다. 일본은 연합국 포로들은 자신들이 점령한 지역에 

포로수용소를  설치하여  그곳에  수용하였다.

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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일본은 태평양전쟁을 일으킨 직후 1941년 12월 23일 칙령 제1182호로 「포로수용소령」에 

의해 포로수용소를 설치하기 시작하였다. 그래서 1942년 6월에는 조선, 대만, 태국, 말레이

시아,  필리핀,  자바,  보르네오에  포로수용소를  설치하기로  결정되었다.  그해  5월부터  포로

감시원  모집이  조선과  대만에서  있었다.  그것은  부족한  병력을  식민지에서  보충할  뿐만 

아니라,  한국인・대만인  청년에게  연합국군 포로를  감시함에  의해  황민화정책에 사용하기 

위해서이다. 그리고 연합국은 일본정부에 의한 포로의 대우에 중대한 관심을 가지고 있었기 

때문에  일본정부는  국제법에  위반해서  포로를  취급할  때  한국인・대만인을  충당한  것이다. 

조선에서는  약  3천명의  청년들이  군속으로  조선  전토에서  모집되었다.

1942년 8월 17일 부산 임시교육대에서 훈련을 마친 한인 포로감시원들은 곧바로 동남

아시아지역의 연합국 포로수용소에 배치되었다. 말레이시아 및 인도네시아 자바 포로수용소, 

태국  포로수용소로  갈  감시원들은  8월  19일  부산에서  9척으로  꾸려진  배를  타고  출발하

였다.10)  일본군이  작성한  자료에  의하면,  동남아지역  포로수용소에  배치된  한인  포로감

시원의 정확한 인원은 3,016명이라고 한다.11) 즉, 자바 포로수용소에 1,408명, 태국 포로

수용소와  말레이시아  포로수용소에  각각  804명이다.

앞 장에서 살펴 보았다시피, 일본군은 버마 침공 직후부터 태국과 버마를 연결하는 철도를 

건설하여 보급로를 확보하려는 계획을 가지고 있었다. 임팔작전 전개를 위해 철도의 조속한 

완성이  요구되어,  1942년  6월  태면철도  건설을  준비시키고  공사에  착공하였던  것이다. 

그런데, 이같은 대규모 철도 부설공사를 위한 노동력을 확보하는 것이 가장 큰 관건이었다. 

1942년 6월 대본영 참모총장이 남방군에 지시한 「태면연접철도 건설요강」에 따르면, 소요 

병력은 “현지 노무자 및 포로를 충당” 한다고 하였다. 즉, 태면철도의 건설 계획 단계에서

부터 일본은 연합군 포로를 동원하여 철도를 건설한다는 기본 구상을 가지고 있었다. 일본군

들은  태면철도  완성을  위해  연합군  포로,  아시아인  노동자는  날씨에  관계가  없고,  병이 

걸려도  괜찮고,  굶어도  관계가  없고,  이제까지  이상의  시간,  보다  격렬한  노동을  가하면 

된다고  생각하였다.12)  따라서,  태면철도가  착공되자,  이에  필요한  노동력인  연합군  포로

10) 이학래 지음, 김종익 옮김, 󰡔전범이 된 조선 청년 : 한국인 BC급 전범 이학래 회고록󰡕, 민족문제연구소, 2017, 15쪽.
11) 조건, 「일제 강점 말기 조선주둔 일본군의 조선인 포로감시원 동원과 연합군 포로수용소 운영」, 󰡔한국근현대사연구󰡕 

67,  2013,  457쪽.

12)  ハンク・ネルソン,  󰡔日本軍捕虜收容所の日日  :  オ-トラリア兵士들의  証言󰡕,  筑摩書房,  1995,  100쪽.

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주제발표

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들을  철도  건설  현장으로  이송시키게  되었다.  이같이  포로들의  이송부터  현장  감시까지 

모든 과정은 동남아 각지에 설치된 연합군 포로수용소에 배치된 한인 포로감시원들이 맡아서 

수행하였던  것이다.

태면철도  건설에  투입된  일본군은  제2철도감부(鐵道監部)  철도  제5연대,  동  제9연대, 

제4 특설 철도대 등이고, 동원된 포로들은 태국 포로수용소에서 맡아서 수행하였다. 부산 

임시교육대에서 두 달간 훈련을 마친 한인 포로감시원들은 부산을 출발하여 1942년 8월 

30일 사이공항 연안의 세인트자크에 정박하였다. 전남 함평 출신으로 17살의 어린 나이에 

포로감시원이 된 이학래는, 타이 포로수용소에 배속된 804명의 동료와 함께 사이공에 상륙

하였다. 태국에 도착한 포로감시원들은 130명 정도의 단위로 나뉘어 각 분소에 배치되었고, 

현장에서  보충  교육을  받으면서  포로  취급법  등을  배웠다.

9월  중순  조문상・문태복・이학래  등  한인  포로감시원  804명이  간신히  방콕에  들어왔다. 

홍수 때문에 도착이 지연되었다. 감시원들이 도착하면 곧 포로의 이동과 수용이 시작되었다. 

포로의  도착이  늦어져  철도대는  초조해하였다.  그래도  포로를  구사하려면  포로수용소를 

통하지 않을 수 없었다. 자세한 ‘규칙’도 만들어졌다. 이제까지 자유롭게 포로를 사역시켰던 

철도대와 ‘규칙’에 의해 관리를 하는 포로수용소 사이에 삐긋삐긋하여 때로는 대립하였다.13)

사이공에 도착한 이학래는 그곳에서 열흘 가량 머무른 후 행선지로 모른 채 기차를 타고, 

태국의  수도  방콕에서  서쪽으로  80km  정도  떨어진  논쁘라둑역에  도착하였고  그곳에서 

처음으로 서양인 포로들을 처음 보았다. 그는 포로들을 이끌고 논쁘라둑에서 40km 거리에 

있는  깐짜나부리까지  화물차로  이동해,  거기서  배로  콰이강을  125km나  거슬러  올라간 

지점에  있는  왕야이(Wangyai)에  있는  타이  포로수용소  제4분소  본부에  도착하였다.14)

태면철도  건설을  위한  노동력으로  연합국  포로의  공급을  담당한  타이  포로수용소는 

1942년 8월 개설되었다. 타이 수용소는 타이에 5개  분소, 버마에 3개 분소 등 모두 8개 

분소를 두고 있었다. 1942년 10월 13일부터 11월 13일까지 거의 매일 싱가포르에서 영국 

포로들이  수송되어  왔다.  그리고  1942년  11월부터  1943년  2월에  걸쳐  자바에  있던  네덜

란드인과  오스트레일리아인  포로가  수송되어  왔다.15)  포로  수가  가장  많을  때는  총  5만 

13)  內海愛子,  󰡔キムはなぜ裁かれたのか󰡕,  朝日新聞出版,  2008,  212쪽
14) 이학래 지음, 김종익 옮김, 󰡔전범이 된 조선 청년 : 한국인 BC급 전범 이학래 회고록󰡕, 민족문제연구소, 2017, 17쪽.
15)  內海愛子,  󰡔キムはなぜ裁かれたのか󰡕,  212-214쪽.

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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5천명(타이에만  3만  7천명)에  달했다.  수용소를  개설할  당시에는  영국군  포로  3천여  명만 

수용되어 있었지만, 그후 말레이 포로수용소, 자바 포로수용소로부터 철도 건설을 위해 5

만명  이상의  연합군  포로가  이곳으로  이송되었기  때문이다.16)  태면철도  건설에  투입된 

연합국  포로의  총수는  정확하지  않다.  연합국  생존자들의  추산으로는  총  61,000명은  넘

었다고  하는데,  영국인  30,000명,  네덜란드인과  네덜란드・인도네시아인  18,000명,  오스

트레일리아인 13,000명, 미국인 650명이다. 이들 포로들 가운데 약 45%가 태면철도 건설에 

투입되었다.17)

태면철도  건설에  투입된  연합국  포로수용소는  태국  쪽과  버마  쪽으로  나눌  수  있는데, 

태국 쪽은 분소가 5개 있고, 분소 아래 몇 개의 분견소(分遣所)가 있고, 분견소 아래 분주소

(分駐所)가 있었다. 이학래가 소속된 제4분소에는 총 11,000명 가량의 포로가 있었고, 포로 

관리는 일본인 하사관 17명, 한인 포로감시원 130명이 했다. 분소장은 이시이 다미에(石井

民惠)  중좌였고,  그  밑으로  위관  몇  명이  있었다.  그  가운데  한  명이  우스키  기시호(臼杵

喜司穗) 중위였다. 그는 부산의 노구치부대에서 군사훈련을 받을 때, 그 부대에 근무하였다.18) 

1942년 12월 이학래는 우스키 중위가 관할하는 제3분견소에 배속되어, 왕야이에서 버마 

쪽을 좀 더 나아간 꼰유(Konyu)로 이동하였다. 이곳에는 포로가 700~800명, 포로감시원이 

30명 정도 있었다. 꼰유 분견소는 강가의 경사지에 위치했는데, 그곳에는 철도대도 있었고, 

숙소도  마련되어  있었다.

말레이시아 포로수용소와 자바 포로수용소에 수용된 포로들도 태면철도 건설 현장으로 

수송되었다.  자바  포로수용소  제3분소(수라바야)의  마쓰자키  미노루(松崎稔)  육군  중위와 

한인 포로감시원 백여 명이 타이-버마 철도 건설을 위해 태국으로 파견되었다. 그들은 수라

바야에서  배편으로  타이-버마  철도의  태국  기점인  논쁘라둑  서쪽  반뽕에  도착한  것은 

1942년 12월 24일이었다. 이곳에서 그들은 타이 포로수용소 제5분소에 합류했다. 버마 쪽 

근무를  명령받은  미즈타니  후지타로(水谷藤太郞)  대위가  제5분소의  소장을  맡고  있었다. 

미즈타니 대위는 버마로 전속된 분소원들과 함께 육로로 싱가포르까지 남하하여, 거기에서 

16)  우쓰미  아이코・무라이  요시노리  지음,  김종익  옮김,  󰡔적도에  묻히다󰡕,  117쪽.
17)  Gavan  Daws,  󰡔Prisoners  of  the  Japanese:POWs  of  World  WarⅡ  in  the  Pacific󰡕,  William 

Morrow&Company,  New  York,  1994,  p.184.

18)  이학래  지음,  김종익  옮김,  󰡔전범이  된  조선  청년  :  한국인  BC급  전범  이학래  회고록󰡕,  17쪽.

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주제발표

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자바 포로수용소에서 이송된 2천 여명의 포로를 넘겨받은 뒤, 몬지호(門司號)와 일명호(日

明號)  편으로  1943년  1월  10일  싱가포르항을  출발해  랭군으로  향했다.  배가  얀다만해에 

들어선 1월 15일 오후 3시 무렵, 일명호는 두 대의 연합군 폭격기로부터 공격을 받고 격침

되었다. 연합군의 공습에서 살아남은 몬지호는 행선지를 변경하여 1943년 1월 17일 버마의 

항구 도시 모울메인(Moulmein)에 도착하였다. 자바로부터 이송된 포로 2천 여명을 수용한 

타이 포로수용소 제5분소는 미얀마쪽 철도 기점 탄비우자야트에 본소를 설치하고 포로와 

감시  역할을  맡은  한인  포로감시원들은  곧바로  건설  현장으로  보냈다.19)

타이  포로수용소에서  한인  포로감시원들은  태면철도  건설을  하기  위해  연합국  포로들을 

감시하고 동원하는 일을 맡아서 수행해야만 했다. 이학래는 철도 건설 현장의 타이쪽 기점인 

논쁘라둑에서 버마 쪽으로 161km 나아간 힌똑(Hintok) 현장에서 연합국 포로를 감시하는 

포로감시원으로 근무하였다. 한인 포로감시원들의 임무는 감시만이 아니었다. 철도 건설을 

담당하는 일본군의 철도대가 포로와 현지 노무자를 부리어 노반(路盤)을 구축하고 레일을 

부설하는  공사를  하고  있었다.  포로수용소측에서는  포로를  관리하며  철도대가  요구하는 

작업 인원을 확보해 넘겨줘야만 했다. 그러다 보니 자연히 한인 포로감시원들이 철도공사에 

나가는  연합국  포로들을  동원하는  일에  관여하게  되었다.

1943년 2월 꼰유 분견소에서 미얀마 쪽으로 좀 더 나아간 힌똑에 분주소가 새로 설치

되었다. 이학래는 힌똑 분주소에서 주력 인원이 오는 7월까지 업무 전반을 통할하는 역할을 

맡게  되었다.  포로  500명(반은  오스트레일리아인,  나머지  반은  영국인과  네덜란드인)을 

데리고  힌똑으로  향했다.  타이・버마  철도의  기점인  논쁘라둑에서  161km  지점에  위치한 

힌똑은 정글 한복판에 있었다.20) 힌똑은 태면철도 공사 가운데에서도 가장 난코스로 알려져 

있었다.  암석지대이기  때문에,  바위산을  우회하고,  깎아지른  듯한  낭떠러지에  딱  들러붙

듯이 철길을 내야만 했다. 그러나 철길을 낼 수 없는 경우는 바위를 폭파하거나 끌로 절개해 

뜯어내고  길을  낸  다음,  거기에  철로를  깔아야  했다.  힌똑은  그  가혹함  때문에  포로들로

부터 ‘Hellfire Pass’(지옥의 불고개)로 불려졌다. 이학래는 1943년 2월부터 철도가 완성

되는  10월까지  힌똑에서  포로들을  감시하였다.

철도공사에 일하러 갈 때는 일본군 철도대가 포로들을 인수하러 왔다. 수용소에서는 두 명 

19)  우쓰미  아이코・무라이  요시노리  지음,  김종익  옮김,  󰡔적도에  묻히다󰡕,  114-117쪽.
20)  이학래  지음,  김종익  옮김,  󰡔전범이  된  조선  청년  :  한국인  BC급  전범  이학래  회고록󰡕,  20쪽.

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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가량의 한인 포로감시원이 현장까지 따라가서 총검을 휴대하고, 조금 높은 지형을 이용해 

감시했다. 작업이 끝나면 포로감시원이 인원을 점검하고 인솔해서 분주소로 돌아왔다. 작업은 

오전  8시부터  시작되었다.  그래서  포로들은  이른  아침에  식사를  하기  때문에  점심  때가 

되면 허기에 시달렸다. 이와 같이 포로수용소에서는 연합국 포로와 한인 포로감시원은 늘 

같이  지내야만  하였다.

1942년  4월  중・하순  태면  국경의  니이케  부근에서  발생한  콜레라가  금세  전  공구로 

확대되었다.  포로들  사이에서  질병이  만연하자  작업  능률이  떨어지기  시작했기  때문에, 

거듭하여 자바에서 포로들이 끌려왔다. 제2분소 및 제4분소에서는 포로의 작업율이 39%

까지 떨어졌었다고 한다. 자바에서는 칠라찹 제2분소의 에비코(海老子) 소령(자후카이 자료

에서는 우바코(女+老子)이 6천여 명의 포로를 타이로 끌고 가서 1943년 5월초에 제6분소를 

개설했다. 이때도 백여 명 정도의 한인 감시원이 함께 온 것으로 추정된다. 결국 타이 포로

수용소에서  포로  감시  업무를  담당했던  한인  포로감시원은  거의  천여  명에  달했다.21)

콜레라가 만연하자 일본군 중앙에서도 권위자를 현지에 파견하여 필요한 지도를 하였고, 

6월에는 육군성 의무국에서도 과원을 파견하였다. 그러나 콜레라에 의한 사망은 계속 이어

졌다. 6월 타이 포로수용소의 환자수는 76.4%, 즉 4만 8,832명이 포로 가운데 태국쪽 2만 

4,351명,  버마쪽  1만  2,933명이  환자라고  보고되었다.  1943년  1월부터  철도  완성까지 

포로  환자는  항상  60%를  넘었다.22)

한인  포로감시원들이  포로  관리를  담당했다고는  하지만,  그들이  직접  포로를  부릴  수 

있는 입장은 아니었다. 포로의 사역은 철도 건설대가 직접 담당했으며, 포로수용소는 철도 

건설대가  요구하는  작업  인원을  내주는  것이  주된  업무였다.  더욱이  포로가  작업에  나갈 

수 있는 상태인지 아닌지를 판단하는 것도 그들과 같은 포로인 군의(軍醫)가 담당했다. 포로

수용소에는 일본인으로 장교와 하사관뿐이고, 그것도 소수로서 직접 포로에 대한 감시 경계

에서부터 위병소 근무, 소내 작업의 직접 지휘, 급양괘(給養掛)의 조수, 노동의 할당, 서무, 

통역  등이  있지만,  직접  포로에  접촉하는  것은  그  명령을  받아서  했다.  그리고  포로들은 

자체  영창을  만들어  동료들을  자율적으로  처벌하기도  했다.  이러다  보니  규칙을  위반한 

포로를  보면  포로감시원  입장에서는  못  본  척  지나치기가  어려웠다.  적당한  방법은  역시 

21)  우쓰미  아이코・무라이  요시노리  지음,  김종익  옮김,  󰡔적도에  묻히다󰡕,  117-118쪽.
22)  內海愛子,  󰡔キムはなぜ裁かれたのか󰡕,  221쪽.

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주제발표

-  91  -

뺨 때리기였다. 두 세 번 뺨을 때리기는 일본군의 교육방법 가운데 하나로, 일본군에서는 

죄악으로 여기지 않는다.23) 포로의 수는 매우 많고, 그중에는 성질이 좋지 않은 자도 있고, 

그들을 포함하여 규율을 지키게 하는 것이 용이하지 않았다. 그 때문에 구타행위를 할 때도 

있었다.24)

오스트레일리아  포로인  캐빈  페이건은  한인  포로감시원에  대해,  “우리들은  메피스트펠

레스(악마)라고 불렀다. 그 놈은 프레셔를 가하였다”고 하였다.25) 어느 날 아침 악마라고 

불렸던 포로감시원이 철도 공사에 나가는 데 7명이 필요하다고 하였다. 그런데, 오스트레

일리아  포로들은  모두  병에  걸렸다고  하였다.  그러자  한인  감시원은  대변에  피가  나오지 

않는 자는 병이 없는 것이라고 하면서, 항문에서 피가 나오지 않는 자를 찾아냈다. 그런데, 

캐빈  페이건은  다행히  치질에  걸려  항문에서  피가  나와  병에  걸린  것처럼  되었다.  그는 

“그때는  피가  나온  치질이  구세주가  되었다”라고  하였다.  아무튼,  한인  포로감시원들은 

작업에  포로들을  내보내기  위해서  강압적인  방법을  구사하였던  것이다.26)

그렇지만  연합군  포로를  태면철도  건설에  동원하도록  명령한  것은  남방총군이었으며

(남방군  명령,  1942.  6.  7),  남방총군의  조치는  대본영  육군부의  지시에  따른  것이다.27) 

포로수용소측이  포로를  충분히  보호했는지  여부에는  의문이  남지만,  급여・식량・노역  등 

포로의  대우와  관련한  모든  책임을  포로수용소가  떠안을  수  없다는  점은  분명하다.  아니 

포로수용소는  매우  제한된  범위에서  책임을  지는  것이  마땅할  것이다.28)

앞 장에서 언급한 바와 같이, 태면철도 건설공사는 임팔 작전을 위해 공사기간을 1943년 

8월까지  단축하라는  명령을  내렸다.  그래서  공사를  강행하는  철도대에서는  매일매일  작업 

인원  배정표를  포로수용소측에  보내왔지만,  환자가  속출하는  수용소에서는  요청하는 

배정표의  인원을  채울  수  없었다.  환자라도  증상이  가벼운  듯한  사람을  가려내  작업에 

내보내야 하는 형편이어서, 철도대는 인원이 채워지지 않더라도 양해할 수밖에 없었어요.

23)  이학래  지음,  김종익  옮김,  󰡔전범이  된  조선  청년  :  한국인  BC급  전범  이학래  회고록󰡕,  24쪽.
24)  韓國出身戰犯者同進會,  󰡔裁判記錄-人身保護法による  釋放請求事件󰡕,  1957,  33쪽.
25)  ハンク・ネルソン,  󰡔日本軍捕虜收容所の日日  :  オ-トラリア兵士들의  証言󰡕,  筑摩書房,  1995,  104쪽.
26)  ハンク・ネルソン,  󰡔日本軍捕虜收容所の日日  :  オ-トラリア兵士들의  証言󰡕,  107쪽.
27)  우쓰미  아이코・무라이  요시노리  지음,  김종익  옮김,  󰡔적도에  묻히다󰡕,  122쪽.
28)  우쓰미  아이코・무라이  요시노리  지음,  김종익  옮김,  󰡔적도에  묻히다󰡕,  125쪽.

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

-  92  -

4

전범재판과  한국인  BC급  전범

제2차 세계대전 후 연합국의 국제군사재판에서 전쟁범죄에 소추(訴追)되어 처벌된 자는 

A급・B급・C급의  구별이  있다.  A급은  침략전쟁을  계획・준비・수행하고,  공동모의(共同謀議)를 

한 자, 즉 평화에 대한 죄를 법한 자이다. B급은 전투법규나 관례를 위반한 살인・포로학대・

약탈 등을 저지른 자, C급은 인도(人道)에 위배되는 살인・학살을 한 자 또는 국적이나 종교가 

다르다는  이유로  주민을  학대하거나  노예화한  자이다.  BC급은  도쿄(東京)의  재판에서는 

다루지 않고, 미국과 영국 등 각국이 설치한 군사재판에서 개별적으로 재판하여 처벌하였다. 

BC급 전범재판은 A급 전범재판에 비하여 신속하게 진행되었다. BC급 전범재판은 상소가 

인정되지 않는 단심으로 진행되었고, 통역이나 변호인도 제대로 없었다. 전후 BC급 전범을 

처리하기  위한  군사재판소는  마닐라(미국),  싱가포르(영국),  홍콩(호주),  바타비아와  메단

(네덜란드)  등  49개소에서  진행되었다. 

포로수용소에서의  포로에  대한  학대  등과  관련하여  BC급  전범으로  사형선고를  받은 

한인들의  명단을  표로  작성하면  다음과  같다.

한국인  BC급  전범  사형자  명단

성명

집행  당시  나이

형명

재판국

사형집행일

집행장소

본적지

洪思翊

54

교수형

미국

1946.9.26

마닐라

서울

김영주

30

교수형

영국

1946.7.30

싱가포르

부산  동래구

김귀호

29

교수형

영국

1946.1.22

싱가포르

제주  한림

강태협

25

교수형

영국

1946.1.22

싱가포르

충남  예산

장수업

28

교수형

영국

1946.1.22

싱가포르

평남  진남포

천광린

24

교수형

영국

1947.1,20

싱가포르

서울

朴成根

(木村成根)

24

총살형

네덜란드

1947.2.5

자카르타

전북  군산

趙文相

(平原守矩)

25

교수형

영국

1947.2.25

싱가포르

경기  개성

金長錄

(金子長錄)

27

교수형

영국

1947.2.25

싱가포르

전북  군산

박영조

25

교수형

영국

1947.2.25

싱가포르

경북  의성

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93

주제발표

-  93  -

*  출처:󰡔한국일보󰡕 1987년  8월  15일자, 
*  김은숙,  「'한국인  B・C급  전범'  재판과  피해보상  청구  소송」,  목포대학교  교육대학원  석사논문,  2002,  22쪽.

제2차 세계대전 이후 전범재판에서 사형을 당한 한국인은 모두 23명으로 그 가운데 동남아

지역에서 열린 전범재판에서 사형을 당한 한국인은 15명이고, 그 가운데 포로감시원으로 

사형  판결을  받은  이는  13명이다.

다음은  동남아지역에서  열린  BC급  전범재판에서  실형을  선고받고  복역한  포로감시원의 

명단이다.

한국인  BC급  전범  복역자  명단

성명

재판국

형량

본적지

성명

재판국

형량

본적지

曹壽鉉(曹玉壽鉉)

영국

10년

충북  음성

황석진

영국

3년

경북  영일

吳善澤(吳川善澤)

영국

10년

전남  화순

정재수

네덜란드

2.5년

충북  단양

任昌浩(安原昌浩) 네덜란드 15년

전남  광양

심영택

영국

3년

충남  부여

田泰範(田村泰範) 네덜란드 15년

경북  경산

洪根孝

영국

3년

경북  영천

梁承烈(南原高眃) 네덜란드 15년

충남  대전

송상옥

영국

3년

전북  정읍

朴允商(大川允商) 네덜란드 15년

충북  진천

조수행

영국

10년

경북  김천

李鳳極(毛利俊之) 네덜란드 15년

서울  회현

이맹석

영국

3년

경남  진주

金昌禧(金林昌禱) 네덜란드 15년

충남  논산

문홍기

영국

3년

충북  음성

朴鐘介(新井鐘介)

영국

15년

경남  함안

정규문

영국

5년

전남  무안

韓允哲(淸原正茂)

영국

15년

충북  충주

김한식

영국

종신

경북  경주

趙雲國(雲井英治)

영국

15년

충남  연기

李經九

네덜란드

3년

경기  시흥

朴錦泳(森本錦泳)

영국

15년

전남  광주

金大奉

네덜란드

3년

전남  목포

성명

집행  당시  나이

형명

재판국

사형집행일

집행장소

본적지

金澤振

(武本澤振)

24

교수형

영국

1947.2.25

싱가포르

경남  고성

임영준

25

교수형

영국

1947.6.18

싱가포르

전북  남원

崔昌善

(大山隆昌)

32

총살형

네덜란드

1947.9.5

자카르타

함경남도

朴俊植

(松岡茂正)

31

총살형

네덜란드

1947.9.5

자카르타

경기  개성

卞鍾尹

(柏村欽信)

29

총살형

네덜란드

1947.9.5

자카르타

충북  청주

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94

3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

-  94  -

성명

재판국

형량

본적지

성명

재판국

형량

본적지

朴渲敎(正木文雄)

호주

15년

전북  전주

김봉진

영국

5년

전남  강진

金喆洙(金光喆洙) 네덜란드 18년

충남  논산

최성교

영국

6년

전남  나주

安正燦(安原正茂) 네덜란드 18년

평남  용강

배정만

영국

6년

전남  광주

高在潤(高野幸次郞) 네덜란드 18년

충남  대전

朴炳瓚

네덜란드

2년

충북  충주

尹東鉉(伊泉東鉉) 네덜란드 20년

전남  강진

李權宰

네덜란드

3년

충북  충주

鄭殷錫(石原辰雄)

영국

15년

경기  안양

李泳煥

네덜란드

3년

전남  진도

李鶴來(廣村鶴來)

호주

15년

전남  보성

金玉銅

네덜란드

3년

황해  연백

朴貞根(新井英夫)

호주

15년

경북  영일

정환규

네덜란드

5년

황해  금천

李義吉(笠山義吉)

영국

종신

서울

김두삼

네덜란드

4년

전남  광주

洪鐘黙(德山光男)

영국

종신

충북  영동

신명휴

네덜란드

5년

충북  음성

車駿錫(三中駿錫)

영국

종신

전북  김제

金景淳

네덜란드

5년

황해  평산

崔銘誠(松本明山)

영국

종신

전남  광주

李義度

네덜란드

5년

전남  무안

金鏞(完山金藏)

영국

종신

함남  함흥

柳夏淵

네덜란드

5년

전남  영암

金昌植(金城昌雄)

호주

종신

충북  진천

최남국

네덜란드

5년

함남  함흥

金祥龍(金山祥龍)

영국

종신

전북  군산

김재준

네덜란드

5년

함북  청진

羅三祚(羅山德一)

영국

종신

경남  창녕

朴敬錫

네덜란드

6년

충북  단양

洪起聖(豊山起聖)

영국

종신

충북  충주

조용혁

네덜란드

6년

경남  함안

양해근

영국

1.5년

경북  영천

李長男

네덜란드

6년

서울  시흥

신수진

영국

2년

전남  영암

김맹우

네덜란드

6년

경남  고성

박병숙

영국

2년

부산

鄭鍾觀

네덜란드

5년

강원  춘천

오백년

네덜란드

7년

서울

盧在永

네덜란드

10년

전남  광산

김철기

네덜란드

6년

경남  창원

최원용

미국

10년

평북  벽동

조태원

네덜란드

7년

충북  충주

박태석

네덜란드 11.5년

경북  선산

김교신

네덜란드

7년

충남  서산

허영

영국

10년

충남  부여

이억만

네덜란드

8년

충북  영동

유동조

영국

10년

경북  경주

강대술

네덜란드

7년

전남  장성

백영석

영국

10년

전북  전주

주회원

네덜란드

6년

경남  함안

한창범

네덜란드

10년

함남  원산

민학기

네덜란드

8년

서울

이선근

네덜란드

12년

개성

오재호

영국

6년

부산

박태성

영국

10년

전북  전주

이은우

영국

7년

경북  영주

송갑진

미국

10년

서울

오완근

네덜란드

8년

충남  천안

정찬진

네덜란드

10년

경남  고성

정영옥

네덜란드

8년

충남  부여

김태열

네덜란드

12년

충남  청냥

조재영

네덜란드

8년

경남  의령

최영모

네덜란드

12년

전남  광산

이대홍

네덜란드 10년

전북  군산

김원도

네덜란드

12년

경북  김천

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주제발표

-  95  -

*  출처:󰡔한국일보󰡕 1987년  8월  15일자.
*  김은숙,  「'한국인  B・C급  전범'  재판과  피해보상  청구  소송」,  목포대학교  교육대학원  석사논문,  2002,  23-24쪽.

위의 표에 있는 148명 가운데 미국의 재판을 받았던 3명과 중국관계 전범 16명을 제외

하고 나머지 129명이 포로감시원들이었다. 일제에 의해 강제로 끌려 각지에 나갔던 한국인 

포로감시원들은 전후에 연합국에 의해 모두 BC급 전범으로 처벌을 받았다. BC급 재판에서 

전범이 된 한국인은 148명 가운데  포로수용소의 감시원이 129명, 지원병이 2명, 중장이 

1명, 중국에서 통역으로 종사한 군속 16명이다. 그중 사형을 당한 사람은 23명, 유기형에 

처해진  사람은  125명이다.  유죄  판결  내용을  살펴보면,  사형  9명,  종신형  7명,  유기징역 

17명이다.

이들이 전범이 되었던 이유는 포츠담선언 제10항 중에 규정된 “우리들의 포로를 학대한 

자를 포함한 일절의 전쟁범죄인에 대하여 엄중한 처벌을 가할 것”이라고 규정되어 있었기 

때문이다.  전쟁에  패한  일본은  1945년  9월  당시  시타무라(下村)  육군장관은  이른바  「포로

취급 관계 연합군측 심문에 대한 응답요령 등에 관한 건」이라는 통달을 발하였다. 이 통달에 

포로학대의 책임을 가급적 한인・대만인 포로감시요원에게 떠넘기라고 지시하였다. 연합국 

포로감시요원들은  일본인  아니고,  자질이  떨어지는  한국  및  대만  출신이어서  교육  등이 

충분히 되지 못하였다고 설명하라고 하였다.29) 다시 말해, 일본군은 포로학대의 모든 책임을 

성명

재판국

형량

본적지

성명

재판국

형량

본적지

노종석

네덜란드

8년

함남  갑산

김완근

영국

10년

전북  완주

박관진

네덜란드

8년

경북  경주

김종연

호주

12년

개성

송포열

영국

7년

경북  안동

김용판

영국

10년

전남  광산

김관제

영국

7년

충남  홍성

최대춘

네덜란드

12년

경북  경주

이항용

네덜란드

9년

충남  홍성

김조철

영국

10년

강원  춘천

김동해

네덜란드 10년

황해  연백

문태복

영국

10년

전남  구례

문제행

네덜란드 10년

전남  화순

최계호

영국

10년

전남  영광

김근식

영국

6년

개성시

정춘길

영국

12년

충남  부여

김기동

네덜란드 10년

전남  장성

金基永

영국

10년

충남  서상

박영래

네덜란드 10년

전북  익산

최선엽

네덜란드

15년

전북  남원

양월성

네덜란드 14년

전남  광양

조위제

네덜란드

15년

경남  함안

정복식

네덜란드 10년

경북  영일

김운영

네덜란드

15년

전북  순창

이창백

네덜란드 10년

평북  영변

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

-  96  -

회피하기  위해  이를  한국인과  대만인들에게  전가시킨  것이다.

연합국의  전범재판에서  태면철도  관계자만  111명(기소  120명)이  유죄  판결을  받았다. 

유죄 판결 내용을 살펴보면 사형 32명, 종신형 16명, 유기형 63명, 무죄는 5명, 기소 각하 

4명이었다. 이들 가운데 한인 포로감시원 33명(기소는 35명)도 포함되어 있었다. 한인 포로

감시원으로서 사형 판결을 받은 이는 모두 13명, 그들 중 실제로 사형을 당한 사람은 9명

이다. 사형을 면한 네 명 중 한 명은 무죄, 세 명은 감형이 되었다. 당초 기소되었던 35명 

중 최종 판결에서 33명이 유죄를, 나머지 2명은 무죄 판결을 받았다. 이처럼 일본군의 가장 

말단에  있었던  한인  포로감시원들이  전범으로  처벌을  당하였던  것이다.30)

일본군부는 1945년 8월 20일 조선, 대만, 관동군, 말레이시아, 보르네오, 자바 등 각 포로

수용소장에게 “포로 및 억류자를 학대하였거나 포로들의 심한 악감정의 대상이 된 직원은 

차제에  신속히  타지방으로  전속시키고  ....  적에게  보여  불리한  서류는  비밀서류와  같이 

분류한 후 반드시 폐기할 것을 지시하였다.31) 연합국 포로감시원으로 태면철도 건설 현장에 

있었던 이학래는 일본이 항복하였다는 사실을 8월 16일에 방콕에서 알았다고 한다. 이학래의 

회고에 의하면, 이같은 명령을 받은 포로수용소장들은 “포로를 학대한 기억이 있는 사람은 

빨리 몸을 숨겨라”라는 명령이 내려졌다고 한다. 그렇지만 한인 포로감시원들에게는 통지가 

되지 않았다. “9월 28일 저녁때까지 고려인회에 집할할 것. 집합하지 않는 자는 처벌한다”는 

연합군  명령이  전달되었다.  조선  출신자의  모임인  고려인회에서  각지로  연락이  되었다. 

다음 날, 전범자 “대면 지목”을 하였다. 전쟁 재판을 위해 전(前) 포로들에게 용의자를 찾아

내게 하는 것이었다. 다음날 아침이 되자, 영국・오스트레일리아・네덜란드의 포로 서른 명 

가량  왔고,  영국・오스트레일리아・네덜란드  순으로  여섯  군데에  ‘대면  지목  장소’가  설치

되었다. 대면 지목은 엄중한 경계속에 한인 포로감시원들이 일렬 종대로 나아가는 형태로 

진행되었다. 여기서 지목된 한인 감시원들을 방콕 교외에 소재한 반얀(Banyan) 형무소로 

보내졌다.32)

29) ハンドブック戰後補償編輯委員會 編, 󰡔ハンドブック戰後補償󰡕, 梨の本舍, 1992, 57쪽. 정인섭, 전게서, 470쪽 

재인용.

30)  우쓰미  아이코・무라이  요시노리  지음,  김종익  옮김,  󰡔적도에  묻히다󰡕,  120쪽.
31)  內海愛子,  󰡔朝鮮人BC戰犯の記錄󰡕,  勁草書房,  1982,  150-151쪽.
32)  이학래  지음,  김종익  옮김,  󰡔전범이  된  조선  청년  :  한국인  BC급  전범  이학래  회고록󰡕,  62-63쪽.

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97

주제발표

-  97  -

홍종묵은 태국 사사부리에서 해방을 맞이하여 포로수용소 앞 광장에서 다른 감시원 및 

일본군들과 4열 종대로 세워져 손가락 지명을 당하였다. 연합국 병사들이 줄 사이를 걸으며 

이  자에게  몇  번  맞았다던가,  이  자는  어떤  학대행위를  했다던가  하며  지목하면  그  즉시 

방콕의  반얀  형무소로  보내져  전범용의자가  되었다.  홍종묵은  구체적으로  어떤  포로에게 

나쁜 행위를 했다는 것이 아니라, 콜레라와 말라리아로 많은 사람이 죽고 고통을 받고 있는

데도 약을 주지 않았다는 것이다. 약 1개월간 반얀 형무소에 구금된 뒤 싱가포를 창이 형무소로 

이송되었다.  1945년  8월  15일  타이  포로수용소  제7분소가  있는  나콘나욕크에서  일본의 

패전을  맞은  문태복도,  진주해  오는  영국군에  의해  9월  19일  포로였던  연합국  군인들로

부터  역으로  손가락  지명을  당해  전범  용의자로  체포되어  반얀  형무소에  수용되었다.

포로를 학대하였다고 지목된 전범 용의자들을 1946년 3월 초순부터 몇 사람씩 모아서 

항공편으로 싱가포르로 이송시켰다. 이학래는 4월 하순 200명 가량과 함께 배편으로 싱가

포르  창이  형무소로  이송되었다.  그해  9월부터  전범재판이  시작되었다.  한인  포로감시원

들은 취조를 받고, 자신의 증언과는 상당히 다른 내용의 서류에 서명하라는 요구를 받기도 

했다. 재판은 그야말로 졸속 재판으로 1심이 곧 최종심인 군사재판이었다. 상고심이 없는 

바람에 사형 판결 일주일 후나 길어도 세 달 가량 지나면 사형 집행이 이루어졌다. 재판에 

회부되면  누구든지  사형을  각오해야만  했다.

문태복은 1946년 8월 23일 싱가포르에서 열린 영국군 법정에서 전범재판을 받았는데, 

그에 대한 기소 내용은 포로학대・극소량의 식량과 의약품 배급・강제노동 사역 등으로 포로 

한  명이  사망하였다는  것이었다.  문태복의  재판은  단  하루만에  이루어졌고  상고도  있을 

수  없었다. 변호인은 동석했지만 사전에 만나주지도 않았고, 법정에서는 한  마디도 해주지 

않았다.  대부분의  한국인  전범  용의자들은  사전에  필요하면  변호인과  얘기를  할  수  있을 

것으로 생각하는데, 한 번밖에 진행되지 않는 유일한 재판에 한국인이 충분한 변호를 받지 

못했다.  문태복  자신이  약간  변명을  했지만  심리  종결  후  곧  교수형  판결이  내려졌다.33) 

그가  쿠리앙쿠라이  분소에서  환자에게  강제로  일을  시켜  죽게  하였다는  것이다.  그러나 

사망한 포로와는 전혀 관련이 없는 포로가 뺨을 맞은  것에 대한 앙갚음으로  그를 고발한 

것이다.  그후  재심으로  10년형으로  감형되었다.

33)  󰡔訴狀󰡕,  韓國・朝鮮人BC級戰犯者の國家補償等請求事件,  126-129쪽.

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

-  98  -

이학래도 단 한번의 취조를 받았다. 취조 후 일주일 가량 지난 9월 25일 오스트레일리아의 

연락 장교가 기소장을 가지고 왔다. 기소장에는 오스트레일리아 포로 네 명의 서명이 차례로 

있었다.  모르는  이름들이었다.  기소내용은  다음의  세  가지였다.34)

      1. 히라무라는 힌똑 수용소 소장으로 캠프 관리 장교였다. 소내 시설은 제대로 갖추

어져  있지  않았고,  급여・피복・의약은  부족했다.

      2.  부하를  통제하는  데  미숙했고,  부하의  폭행을  저지하지  않았다.

      3.  환자를  노동에  종사하게  했다.

위의 기소장에 기재된 것에서, 이학래의 창씨명은 ‘히라무라’가 아니라 ‘히로무라’를 잘못 

발음한  것같다.  그가  ‘전범’으로  지목된  것은,  힌똑  현장에서  일어난  일  때문에  ‘전범’으로 

몰아갔다. 기소장에 기재된 내용은 사실과 달랐다. 그는 관리 장교도 아니었고, 급여・피복・

의약이 부족한 것은 그가 어떻게 할 수 없는 일이었다. 그래서 그런지 이학래의 기소장은 

각하되었다.

이학래도 기소가 각하되어 1946년 12월 24일 석방되었다. 이학래는 차를 타고 귀환선을 

기다리는  주롱(Jurong)  캠프로  향했다.  고국으로  귀환하기  위해  1947년  1월  7일  배를 

타고 홍콩으로 왔다가, 영국군 장교가 소환장을 가지고 왔다. 3주 후인 2월 18일 영국 군함에 

실려  창이형무소에  수용되었다.  3월  10일  취조도  없이  독방에  감금된  상태에서  두  번째 

기소장을 받았고, 3월 18일 형무소 안의 소규모 부속 건물에 가설된 법정에서 공판이 개시

되었다. 판사 1명, 배석 판사 2명,  검사  1명은 모두 오스트레일리아  사람이었다. 재판관은 

그에게  교수형을  선고하였고,  그후  11월  7일  20년형으로  감형이  되었다.

문태복의 경우, 기소 내용중 포로 1명이 사망한 것은 포로였던 군의로부터 포로 1명이 

이전부터  각기병을  앓아  왔는데,  심부전이  되어  사망했다는  보고를  받고  이를  매장해 

주었다.  문태복  자신이  가한  어떤  학대에  의해  그  포로가  죽은  것은  아니었다.  그는 

1946년  12월  2일  형량이  10년형으로  감형되었다.

34)  이학래  지음,  김종익  옮김,  󰡔전범이  된  조선  청년  :  한국인  BC급  전범  이학래  회고록󰡕,  69쪽.

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주제발표

-  99  -

홍종묵은 전범재판에서 사형이 아닌 무기징역형을 받았다. 그 이유는 그가 감시했던 포로 

중 한 명이 연합국 동남아 사령관에게 탄원서를 제출해 주었기 때문이다. 그는 극심한 위궤양

으로  죽어갈  때,  간단한  의료도구와  알코올만으로  수술을  받았다.  이때  감시원이었던 

홍종묵이 성의를 다해 그를 도와 생명을 구해주었다. 그래서 그는 그에 대한 보답으로 탄원서를 

제출해주었던  것이다.35)

다음 표는 전범재판에서 실형을 선고받고 일본의 스가모 형무소에서 복역한 한인 전범자

들에  대한  명단이다.

35)  文泰福・洪鐘默,  󰡔死刑臺から見えた二つの國󰡕,  70-77쪽.

이름

일본명

재판일

재판국

죄명

형량

비고

洪起聖

豊山起聖

1946.10.23

영국

샴에서  연합군  포로  학대

종신

高在潤 高野幸次郞

1948.2.25 네덜란드

계획적  폭행

18년

잔형  17년  1월

金喆洙

金光喆洙

1948.2.25 네덜란드

계획적  폭행

18년

잔형  17년  1월

李義吉

笠山義吉

1946.7.26

영국

암본에서  포로의  학대  치사 종신

金鏞

完山金藏

1946.8.22

영국

종신 죄명이  언도되지  않았음

洪鐘默

德山光男

1946.8.22

영국

종신

죄명은  타이국 

포로수용소에서  취급 

책임을  물었다는  것

李鶴來

廣村鶴來

1947.3.20

호주

샴에서  호주군  포로  학대

20년

吳善鐸

吳川善鐸

1946.9.6

영국

스마트라  팔렘방에서 

호주군  포로  학대

10년

羅三祚

羅德一

1946.9.6

영국

스마트라  팔렘방에서 

호주군  포로  학대

종신

曹壽鉉

曹玉壽鉉

1946.8.22

영국

전범

10년 포로 부당 취급이라는 것

車駿錫

三中駿錫

1946.8.22

영국

샴에서  연합군  포로  학대

종신

金昌禧

金林昌禧

1947.5.1

네덜란드

포로에  대한  부당한 

취급・계획적  폭행

15년

잔형  13년  10월

鄭殷錫

石原辰雄

1946.9.6

영국

스마트라  팔렘방에서 

호주군  포로  학대

20년

韓允哲

淸原正茂

1946.7.23

영국

15년

사이공  및  타이국에서 

연합군  포로  학대

朴貞根

新井英夫

1946.9.16

호주

20년

버마에서  연합군  포로 

좌약을  줌?

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

-  100  -

*  자료  :  韓國出身  戰犯者  同進會,  󰡔裁判記錄-人身保護法による釋放請求事件󰡕(1957)에서  작성.

위의  표에서  보면,  전범으로  복역한  한인  포로감시원들의  죄명은  대개가  ‘포로학대’와 

‘폭행’이었다. 한국인 포로감시원들이 BC급 전범재판에 기소된 기준은 매우 광범위했지만, 

전범재판에  회부된  한국인  포로감시원들에게  가장  많이  적용된  것은  “음식물・음료수  및 

의료의 불충분한 공급”과 “의료 혜택의 결여”하였다는 것이다. 전범재판에 기소된 한국인 

포로감시원들의 죄목이 대부분 포로학대, 식량부족, 환자포로의 작업 차출, 위생설비 미비, 

포로의 병사(病死) 등이었다. 이들 죄목들은 당시 일본군의 명령에 따를 수밖에 없었던 한인 

포로감시원들에게는  너무나  가혹한  것이었다. 

전범재판에  회부된  한인  포로감시원들은  자기를  보호하고  정당한  것을  주장하기  보다는 

일본인들의  모략  음모에  농락을  받았다.  일본군들은  연합군  포로들에게  말하기를  “가장 

큰  문제는  일본으로부터  온  사람들이  아니라  야비한  한국인이다.  일본인들은  모두  착실

하지만, 한국인들은 열등하고 악한 사람들”이다. 그리고 일본인들은 그들의 상관에게 연합군 

포로들을  잘못  다루어  한국인들에게  벌을  주었다는  것을  전혀  보고하지  않았다.36)  한편, 

이름

일본명

재판일

재판국

죄명

형량

비고

朴允商

大川允商

1948.2.25 네덜란드

계획적  폭행

15년

잔형  14년  1월

金昌植

金城昌植

1947.4.2

영국

샴에서  호주군  포로  학대

종신

田泰範

田村泰範

1947.5.1

네덜란드

囚人에  대한  호주군  포로 

학대

15년

잔형  13년  10월

梁承烈

南原高茂

1948.3.15 네덜란드

학대

15년

잔형  14년  1월

朴鍾介

新井鍾介

1946.6.26

영국

15년

타이국  나꼼빠돔의 

포로병원에서  포로학대

朴洹敎

正木文雄

1946.12.4

영국

샴에서  호주군  포로  학대

15년

尹東鉉

伊泉東鉉

1947.2.10 내덜란드

학대

20년

잔형  19년  1월

李鳳極

毛利俊之

1947.10.3 네덜란드

계획적  폭행

15년

잔형  14년  1월

趙雲國

雲井英治

1946.8.22

영국

샴에서  연합군  포로  학대

15년

安正燦

安原正茂

1947.10.21 네덜란드

계획적  폭행・민간인에  대한 

고문

18년

잔형  17년  1월

朴昌浩

新井昌浩

1948.1.12 네덜란드 포로에  대한  부당한  취급

15년

잔형  14년  1월

崔銘誠

松本明山

1946.8.22

영국

샴에서  연합군  포로  학대

종신

金祥龍

金山祥龍

1946.9.6

영국

종신

朴錦泳

森本錦泳

1947.8.22

영국

샴에서  연합군  포로  학대

15년

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101

주제발표

-  101  -

일본정부에서는 변호사와 조사단, 통역 등을 파견하여, 싱가포르에만 60여 명이 와서 일본인의 

범죄를  변호하였으며, 한국인  군속들에게 죄를 전가시키는 일도  비일비재하였다.37) 또한 

현지  신문에  한국인을  중상  모함하는  책략을  쓰는  일까지  있었다.

전범재판에서  실형을  선고받은  한인  전범들은  싱가포르  창이형무소에  수감되었다가, 

1948년 10월 전원 도트럼 형무소로 이송되었다. 수감생활 중에 한인 사형수들은 보복과 

린치를 당하였다. “너 때문에 많은 우리 동료가 죽었다”라고 하면서 구타를 가했던 것이다. 

어차피  죽을  사형수니까  살아  있을  때  분풀이를  하자는  속셈이었다.  구타  후  금이빨까지 

빼가는  자도  있었다.38)

전범으로 사형을 면한 한인 수용자들은 1950년부터 1951년에 걸쳐 일본의 스가모(巢鴨) 

프리즌으로  이송되었다.  1951년  8월  14일  드리더  타이레아호에  승선한  230명의  BC급 

전범 가운데 한국인 27명, 대만인 7명이었다. 8월 27일 요코하마에 상륙하고, 도쿄 스가모 

프리슨에 실려갔다. 이학래와 박정근이 1956년 10월 6일 가석방되었고, 가장 늦게 출소한 

사람은  1957년  4월  석방된  김창식이다.39)

스가모  형무소는  일본의  패전  후인  1945년  11월  동경구치소를  접수한  미군이  이곳을 

스가모  프리즌이라  개칭하고  전범용의자를  수용하고  형을  집행한  곳이다.  연합국측은  샌

프란시스코조약 발효와 함께 이 조약 제11조에 “연합국 여러 전범 법정에서 판결을 받고 

일본국에 구금되어 있는 일본국민을 이들 법정이 관한 형을 (일본이) 집행한다”라고 명기

하여  전범에  대한  형  집행  임무  또한  일본측에  넘겼다.  이에  당시  스가모  프리즌에  수감

되어  있던  한국과  대만  출신  전범  수용자들은  1952년  6월  14일  동경지방법원에  인신보

호법에 입각해 석방해 줄 것을 청구하였다. 청구자들은 평화조약 발효와 동시에 일본국적을 

상실했으며  조약  제11조에서  말하는  ‘일본국민’에  해당되지  않으니  석방해  줄  것을  청구

하였다. 이 사건은 급속히 일본 최고재판소 대법정까지 송치되었으나, 그해 7월 대법정은 

전원일치로 이들의 주장을 거절하였다. 그 이유는 “전범자로 형이 내려질 당시는 일본 국민

이었고,  그후  계속  평화조약  발효  직전까지  일본국으로서  구금되어  있던  자에  대해서는 

36)  Gavan  Daws,  󰡔Prisoners  of  the  Japanese:POWs  of  World  WarⅡ  in  the  Pacific󰡕,  p.222.
37) 「日帝에 끌려 갔다가 싱가포르에서 귀환한 鄭浪이 南方殘留同胞의 救援을 역설하다」 󰡔조선일보󰡕 1947년 1월 4일.
38)  채영국,  「해방  후  BC급  戰犯이  된  한국인  포로감시원」,  󰡔한국근현대사연구󰡕 29,  2004,  26쪽.
39)  이학래  지음,  김종익  옮김,  󰡔전범이  된  조선  청년  :  한국인  BC급  전범  이학래  회고록󰡕,  136쪽.

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

-  102  -

일본은 평화조약 제11조에 의해 형을 집행할 의무를 지며, 평화조약 발효 후의 국적상실 

또는  변경은  위  의무에  영향을  미치지  않는다”고  판시하였다.

연합군  전범재판에서  태면철도  관련  유죄  판결을  받은  111명  가운데  69명이  한국인 

포로감시원이 무려 33명(48%)이나 된다. 결국, 포로수용소의 가장 말단에서 명령에 복종

하는  것만이  목숨을  부지하는  유일한  길이었던  포로감시원들에게  전쟁  책임의  대부분을 

억지로 떠넘긴 것이다. 태면철도와 관련하여 장성급으로서 사형을 당한 사람은 포로수용소 

소장이었던  사사  마코토(佐佐誠)  소장이  유일하다.  또한  장성급으로  유기징역을  받은  인물은 

철도 건설 제4대 사령관 이시다 에이구마(石田榮熊) 소장 뿐이다. 하급기관인 포로수용소

에는  엄중한  처벌(하급자에게  더욱  엄벌)을,  상급기관에는  가벼운  처벌이라는  결과를  낳은 

전쟁  재판이었다.40)

40)  우쓰미  아이코・무라이  요시노리  지음,  김종익  옮김,  󰡔적도에  묻히다󰡕,  126쪽.

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103

주제발표

-  103  -

5

맺음말

1942년 6월경부터 시작된 태면철도 건설공사는 다음 해인 1943년 10월 25일 완공되

었다.  이  철도를  완성하기까지  연합국  포로와  태국・버마에서  끌려온  노무자들  등  1만  3

천명의 사람들이 목숨을 잃었다. 연합국 포로들은 철도를 완공하기 위해 강제노역에 동원

되었으며,  몸이  아파도  치료도  해주지  않고,  먹을  것도  주지  않아  영양실조에  걸려  사망

하게끔  하였다.  그래서,  태면철도를  ‘죽음의  철도’라고  불렀다.

이 태면철도를 건설하기 위해 일본남방파견군 철도대 소속 제5철도연대(버마쪽)와 제9

철도연대(태국쪽)의  병력  약  1만  2천명,  한국인・대만인  포로감시원,  연합군  포로와  징용 

노무자들이 투입되었다. 일본군의 추산에 의하면, 연합군 포로 5만 5천명이 투입되어 사망 

1만  2천명,  노무자  7만명이  투입되어  사망  3만명으로,  총  사망자는  4만  2천명이라고 

하였다.  그렇지만  연합군측  추산으로는  포로  사망  12,399명,41)  노무자  30만명  투입에 

사망  9만명으로  총  사망자수는  10만명  이상으로  보고  있다.

그러면, 태면철도 공사에서 왜 이렇게 많은 사람들이 사망을 하였을까. 첫 번째는 철도 

건설은 정글과 암석지대 등이 많은 난공사 지역임에도 불구하고, 장비가 없이 노동력에만 

의지하여 작업을 하면서 사고로 인한 인명의 희생자가 많이 발생하였다. 두 번째는 대규모 

공사를  진행하면서  병원・숙소・식량  등의  보급에  대한  준비가  전혀  되어  있지  않았기 

때문에,  영양실조・각기병・비타민결핍증에  걸렸고  또  말라리아・콜레라  등의  전염병에 

걸렸다.  세  번째는  일본군이  군사작전을  목적으로 공사기간을 단축하면서 과도한  노동을 

인한 과로와 질병으로 인한 사망자가 발생할 수밖에 없었다. 그 외 무리한 공사를 진행하면서 

강제적으로  인력을  동원하면서  처벌,  구타  등  가혹행위가  있었다.

그런데, 태면철도의 건설은 이것으로 끝나지 않았다. 일본이 전쟁에서 패한 후 이 공사에 

강제동원되어  고난을  당한  연합국  포로들이,  자신들을  노예와  같이  다루었던  일본군들을 

전쟁범죄자로 군사재판에 세웠다. 일본군들이 연합국 전쟁포로들에게 강제노역을 시키고, 

제대로 음식을 제공하지 않았고, 폭력을 행사하여 학대하였다는 것이다. 포로들이 자신들을 

학대하였다고 지목한 전쟁범죄 용의자 중에는 일본인만 있었던 것은 아니다. 그 가운데는 

41)  Gavan  Daws,  󰡔Prisoners  of  the  Japanese:POWs  of  World  WarⅡ  in  the  Pacific󰡕,  p.222.

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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포로들과 함께 생활을 하였던 포로감시원들이 있었다. 이들은 대부분 한국인이나 대만인들

이었다.

포로감시원들은  단기간에  철도를  완성하라는  일본군들의  지휘를  받아,  연합국  포로들을 

공사장으로  동원하는  일을  맡았다.  한국인  포로감시원  몇  명이  감시에서부터  위병소  근무, 

수용소내  작업  지휘,  노동  할당,  서무,  통역  등  직접  수백명의  포로들과  접촉하는  일이 

많았다.  한인  감시원들은  포로수용소의  규율을  지키게  하고  또  철도대의  요구에  응하기 

위해, 강압적으로 사역에 내보내는 경우도 있었고 구타행위도 있었다. 그런 경우 모든 불만이 

포로들과 직접 접촉하는 포로감시원들에게 집중될 수밖에 없었던 것이다. 전후 이같은 포로

들이 가졌던 악감정이 모두 포로감시원들에게 쏟아지면서, 전쟁범죄자로 중형을 받게 되었던 

것이다.

태면철도를  단시일에  완공하기  위해  과도한  노동을  강요당해  죽고,  또  식량과  약품  등 

보급품 부족으로 포로들이 사망하였다. 철도 공사에서 한인 포로감시원들은 철도 건설대가 

요구하는 작업 인원을 내주는 것이 주된 업무였고, 포로의 직접 사역은 철도 건설대가 담당

하였던 것이다. 태면철도의 건설과 관련하여 연합국 포로들이 희생을 당한 것은 전적으로 

일본군의 책임임에도 불구하고, 일본군의 가장 말단에 있었던 한인 포로감시원들에게 일본의 

전쟁 책임이 집중되었던 것이다. 그리고 연합국 전범재판에서 포로들을 구타하고 강제동원

시킨  것은  모두  포로감시원들이  한  것이라고  하면서  모든  죄를  이들에게  전가시켰던  것

이다.

태면철도 건설과 관련된 연합국의 전범재판에서 한인 포로감시원 33명이 BC급 전범으로 

실형을  선고받았고,  그  가운데  9명이  사형  선고를  받고  처형을  당하였다.  일본군의  가장 

말단에  있었던  한인  포로감시원들이  전범으로  처벌을  당하였다.  그리고  10년  이상의 

장기형을 선고받은 한인 전범들은 샌프란시스코조약 발효와 함께, 일본의 스가모 형무소로 

이송되어 계속해서 복역하였다. 스가모 형무소에 수감되어 있던 한국과 대만 출신 전범들은 

1952년  6월  14일  동경지방법원에  ‘인신보호법’에  입각해  석방해  줄  것을  청구하였지만 

거절당하였다.

태면철도의 건설은 처음부터 문제가 될 수밖에 없었다. 건설에 필요한 노동력을 연합국 

포로와 점령지 사람들을 강제동원한다는 것이다. 전쟁포로를 강제노역에 동원하는 것 자체가 

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주제발표

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제네바  협약  등과  같은  국제협약  위반이다.  그리고  태국과  버마  국경의  정글지대를  통과

하는 철도를 부설한다는 것이 무리한 일이었으며, 5년이나 10년 걸린다는 철도 공사를 1년

내에  끝낸다는  것도  말이  되지  않은  일이었다.  그러다  보니,  공사에  동원된  포로들에게 

과도한  노동을  강요하고,  식량  등  보급이  절대적으로  부족한  상황에서  공사를  강행하다 

보니 사망자가 속출할 수밖에 없었다. 그리고, 태면철도 건설공사에 대한 포로들의 불만이 

그들과  매일  직접  접촉하는  포로감시원들에게  집중되었고,  그것이  전후  전쟁범죄가  되는 

원인이  되었던  것이다.

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주제발표

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日本軍の泰緬鉄道建設と
韓国人BC級戦犯

金度亨(キム・ドヒョン)

独立記念館  研究委員

1

はじめに

泰緬鉄道(Thailand-Burma 

Railway)は、タイのバンコク西側に位置するノーンプラー

ドゥック(Non  Pladuk)からクァイノイ(Kwai  Noi)の川辺に沿って、ミャンマー(ビルマ)のタ

ンビュザヤ(Thanbyujayat)までを結ぶ鉄道である。1942年6月に着工して、1943年10月25日

に完工し、タイ側304km、ミャンマー側111kmで、計415kmの長さだ。この鉄道を建設するた

めに約1万3千人が死亡したことから、「死の鉄道(The  Death  Railway)」という悪名がつけら

れた。

私たちにはまったく関係のなさそうに見えるこの「死の鉄道」のために、韓国人が犠牲となっ

た。この泰緬鉄道の建設現場で、連合国捕虜と一緒にいた韓国人捕虜監視員129人が、戦後、連

合国の戦犯裁判にかけられて皆10年以上の長期刑を受け、このうち22人が死刑となった。「死

の鉄道」を完成させる過程には、連合国の捕虜を監視していた韓国人と台湾人の捕虜監視員が

いた。日本はビルマ地域で作戦を遂行するために、日本軍にとって最も重要な補給路を確保する

には、短期間でタイとビルマ国境を結ぶ鉄道を開通させねばならなかった。この鉄道区間は、原

始ジャングル、岩と湿地、コレラのような伝染病などのため、難工事中の難工事といえた。日本

軍はこのような難工事に、イギリス・オーストラリア・オランダ・アメリカなどの連合国の捕虜

を投入して、鉄道を敷設しようとしたのである。

日本軍のこのような決定により、東南アジア各地にいた連合国捕虜は、泰緬鉄道の建設のた

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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めにタイとビルマ地域に移送され、これに伴い、マレー捕虜収容所とジャワ捕虜収容所の連合
国捕虜を監視していた韓国人・台湾人監視員らも、一緒に移動しなければならなかった。捕虜監

視員たちは、連合国捕虜の移送から、鉄道建設現場への投入と監視まで、すべての日常を共にし

た。日本軍の指揮を受ける捕虜監視員たちは、短時間で鉄道を完成させるために、捕虜を強圧的

に動員する仕事を担当した。日本軍の食糧、薬品、衣類などの普及が絶対的に不足している中、

捕虜を動員し患者を工事に送り出すこともあったし、殴打などの暴力を行使することもあった。

日本が敗戦した後、泰緬鉄道工事に投入された連合国の捕虜たちが、自分たちを虐待したと

して捕虜監視員らを戦犯として名指した。韓国人の捕虜監視員たちは戦犯裁判にかけられ、BC

級戦犯という汚名をかぶって死刑に処されたり、10年以上の長期刑を言い渡され、苦難を味

わった。第2次世界大戦を起こした日本国民でもないのに、BC級戦犯として連合国の戦犯裁判

を受けなければならなかったのだろうか。日本の植民地支配を受けた哀れな植民地の人々であ

る韓国人が、どうしてBC級戦犯になる得るというのか。だとすれば、韓国人はなぜ泰緬鉄道の

現場に立たされることになったのであり、そこで何をしたのか、BC級戦犯として苛酷な処罰を

受けたのか。

本稿では、日本軍が泰緬鉄道を建設することになった背景から、完工までの過程、鉄道工事現

場で連合国捕虜と捕虜監視員の間にどんなことがあったのか、戦後の戦犯裁判で韓国人監視員

たちが、どのようにBC級戦犯となったのかを考察したい。

2

日本軍による泰緬鉄道の敷設

太平洋戦争を起こして東南アジアに侵攻した日本帝国は、1941年12月21日、タイと「十年政

治経済軍事同盟」を締結し、翌年1月11日にビルマを侵略しはじめた。日本軍第55師団歩兵第

143連隊が1941年12月14日にビルマを占領し、1942年1月11日には「怒江」と名付けられたサ

ルウィン(Salween)川を越え、同年3月8日に日本軍第33師団が首都ラングーンを占領した。ビ

ルマを占領した日本は、「ビルマ防衛軍(Burma  Defence  Army)」という名の下に新たな軍隊

を組織した。続いて、軍事政府を組織し、その下部に既成政治家のバモ(Ba  Mo)を首長として、

民間人を管理する組織をつくった。

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주제발표

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一方、ビルマに侵攻した日本軍にとって最も重要なことは、補給路を確保することであった。

日本の南方軍は、ほとんど交通路がなかったために、タイ-ビルマ国境の山岳地帯を越えてビル

マで作戦を展開する場合、その背後に連絡船がないことが最大の問題だった。シンガポールを
経由する海上通路のみで軍需物資を輸送してラングーンに至る補給を行う手もあるが、その連

絡路は距離が長い。また、長期戦に取り組む場合、そのうち海路輸送が敵の潜水艦と航空路に

よって遮断されることもあり得た。そのため、タイとビルマ国境の山岳地帯に鉄道を建設すれ

ば、短期間での普及が確保でき、このような根本的な問題を解決することができた。

そのためには、タイ-ビルマ国境の山岳地帯を貫く鉄道を建設することだった。つまり、バン

コクの西側のカンチャナブリ(Kanchanaburi)からクワイノイ河に沿って、ビルマのタンビュ

ザヤに至る400kmを超える山岳に、鉄道を建設するのである。こうした計画はすでに、日本軍
参謀本部作戦課長の服部卓四郎大佐が、1941年12月下旬に南方軍総司令部を訪問した際に構

想したものであった。彼はこのような計画を、最初は航空写真で「2万分の1」の地図を作成して
検討した。1941年3月上旬、ついに日本軍の4個師団が本格的にビルマ作戦を展開することにな

り、鉄道の建設計画を日本とタイが合同で実行しようとした。そして、3月中旬の南方軍第15軍

のラングーン攻略後、本格的なビルマ作戦の開始とともに鉄道運動計画を定めた。この計画の

中の泰緬鉄道建設に対する方針と綱領を要約すると、次のようになる1)。

    第1.  方針

          1.勇作戦(ビルマ作戦-筆者)の進展とともに、南方軍鉄道隊をして速やかにマンダレ

イ方面に至るビルマ後方鉄道幹線を修復・整備させ、作戦と合わせて以後の資源輸

送に即応させる。

      タイとビルマを結ぶ鉄道を敷いて、迅速にそれを新設し、長期戦に対処して船舶を保存す

ることを助ける。

        第2.  綱領

      6.  タイ-ビルマ間の新設鉄道は、クァイノイ(Kwaii  Noi)河の渓谷を通過して、両国の

鉄道を連接する。

1)  防衛廳防衛硏修所戰史室、『大本營陸軍部<4>』、朝雲新聞社、1972、316頁。

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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  日本軍は、タイとビルマを結ぶ鉄道の建設期間は約1年間を目標とし、南方軍鉄道隊司令官

に担当させた。そして、タイに鉄道建設作業の協力をさせた。ところが、このような南方軍の泰

緬鉄道建設要求案を受け付けた日本軍の中央は、鉄道建設の許可をなかなか下さなかった。そ

の理由は、南方軍の鉄道建設に対する調査と計画は具体性がなく、特に、建設に所要する資材の

整備、建設労働力の確保など、すべての点で工事完成の予想を確定できないためだった。

  そこで南方軍は、主に地形関係などについて具体的な検討を行った。その後、1942年4月25

日、服部曉太郞中将の後任として、新たに下田宣力少将が2人目の鉄道監となった。下田宣力は

泰緬鉄道の建設に大いなる熱意を示し、自ら資材収集などに取り掛かった。同年5月中旬、全ビ

ルマの侵攻を完了し、4個師団の南方軍主力をビルマ全域に配置し、この地は戦略的に最も重要

な戦域となった。したがって、泰緬鉄道の建設は、単なる軍事作戦上の重要性だけに止まらず、

政治・経済的な面からも重視されるようになった。6月9日付の大本営参謀本部長会報で、加藤
鑰平第3部長は泰緬鉄道の建設について次のように報告した。

タイ-ビルマ鉄道問題は進捗されている。全長370km、竣工期間1年ないし1年半、資材は現地

調達、鉄道1個連隊班のほか、俘虜その他の労力を利用する。経費は約1,000万엔。

上記のように泰緬鉄道を建設するための具体策が報告されると、これに反対意見を出してい

た陸軍省も、船舶不足を解決できるという点から鉄道建設に期待をかけた。そして、6月20日、参

謀総長が南方軍に次のような「泰緬泰緬連接鐵道建設要綱」を指示することになった2)。

      1.  建設目的:本鉄道建設の目的は、ビルマに対する陸上補給路を確保し、タイ-ビルマ両

国間の交易交通路を開拓することにある。

      2. 建設経路:タイのノーンプラードゥックからクァイノイ河に連なるニーケを経て、

ビルマのタンビュザヤに至る約400km

      3.  輸送能力:片方向に対し、日量約3,000トン

2)  防衛庁防衛硏修所戰史室、󰡔大本營陸軍部<4>󰡕、318-319頁。

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주제발표

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      4.建設期間:昭和18(1943)年末に完成する予定

      5.所要資材:現地資材を主とし、所要のものを中央から交付する

      6.所要経費:700万엔。

      7. 建設兵力:鉄道監部1、鉄道連隊2、鉄道材料廠1を主催とし、所要の補助部隊を属させる。

      8.  所要兵力:現地労務者及び俘虜を充当する

このような建設要綱に準拠して、事実上、泰緬鉄道の建設準備を指示したも同様である。とこ

ろが、タイ政府は、ノ-ンプラードゥックとカンチャナブリ間の50キロの鉄道建設に早く取り組

もうとした。そこで南方軍と協定して、鉄道部隊の援助の下にタイ側が実施することになった。

10月下旬に、その完成とともに、さらに準備起点をカンチャナブリから推進することとなった。

そして、大本営と日本政府の連絡会議において「対泰経済施策要綱」が決定され、この要綱に

沿って交通と通信施策として「幹線鉄道、特に泰仏印鉄道の整備拡充とともにバンコク港の築

港」を指導援助することが決まった。しかし、泰緬連接鉄道の建設については言及がなかった3)。

先立って見た通り、大本営参謀総長が泰緬鉄道の建設に対する「準備」命令を下したものの、

400kmに及ぶタイとビルマ間の山岳地帯に、1943年末までに鉄道を建設できるかについて

は、まだ確信がなかった。万が一、タイのノーンプラードゥックからビルマのタンビュザヤまで
鉄道が建設できない場合は、連接鉄道としての価値が下がる。そして、タイ-ビルマ間の鉄道が

つながらなければ、不可能な命令を下した日本軍最高統帥府は、その責任を免れることができな

いはずだった。南方軍が泰緬鉄道建設に関する調査と準備を徹底したとはいえ、このような難

工事に取りかかる命令を簡単に下すことはできなかったのである。

このように、日本の大本営では泰緬鉄道建設に対する指示を下すことができず、躊躇してい

たのである。ビルマにいる日本軍にとって最も重要なことは補給であり、それは鉄道を開通させ

てこそ可能であった。日本軍のそれまでの南方作戦で、すべての補給は船舶を主流としていた。

ところが、今後ビルマ方面で制空権を失うことになれば、海上輸送が途絶えてしまうおそれが

あった。そして、南方地域で戦線が拡大すれば、船舶が不足するのは当然のことだった。ビルマ

3)  防衛廳防衛硏修所戰史室、󰡔大本營陸軍部<5>󰡕、朝雲新聞社、1973、446頁。

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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地域で短期間にわたる補給路の確保と船舶不足問題を一挙に解決できるのは、タイ-ビルマの
国境を結ぶ鉄道を敷設する道しかなかったわけだ。このことが難工事に無謀な挑戦をするよう

になった理由だった。

    日本の大本営は1942年11月上旬、南方軍に対して、タイのノーンプラードゥックから

クァイノイ河に沿ってビルマのタンビュザヤにまで至る400kmの鉄道建設を命令した4)。普

通、鉄道建設はすべての区間を測量した後に工事を進めるのが通常である。日本軍は、泰緬鉄道

を建設する地帯がすべてジャングル地帯なので、すべての区間を測量して工事を進める通常の

方法では、工事を大幅に遅らせることになるという判断に至った。工期を短縮するためには、タ

イとビルマのほうの部分的な測量結果に依拠して、ついにちがった作業進行方式によって工事

を開始した。しかも、地形の関係上、すべての区間をいくつかの区間に分けて同時に作業を行う

ことにはなり得ないため、やむを得ず各基地から道路を少しずつ出しつつ、端と端をつなぐ形式

によって進めざるを得なかった。このため作業は、著しく制限を受けることになった。作業を開

始した後も、作業量や資材などに対する予想を除いては、常に完全な事前対策を講ずることに

はならなかった5)。

  鉄道工事の総責任者は鉄道司令官であったが、1942年4月に赴任した下田宣力少将は、

1943年1月下旬、飛行機での作業視察中に墜落死した。そして、その後任となった高崎祐政少将

(26期)は間もなく病死し、6月下旬、石田榮熊少将が第3代鉄道司令官として就任した。難工事を

始めてから鉄道建設の責任者が死亡するなどで、日本軍の中にも工事をしないよう警告する兆

しが出てきた。

  泰緬鉄道の工事は「泰緬連接鉄道建設要綱」で計画したとおり、1943年末に完成することと

なった。日本軍としては、中国の蒋介石軍隊を支援する国際ルートである「援蒋ルート」を阻止

するためには、必ずインパール地域を攻略しなければならなかった。ビルマを占領した日本軍

は、1942年3月から英印軍と中国軍を追い出し、ビルマを支配していた。ビルマの首都ラングー

ンから中国昆明に通じるビルマロード(中緬公路)を日本軍に奪われた連合軍は、ビルマ北端の
国境から新たに中国への輸送路を開設しようとした。日本軍のビルマ占領により、ビルマルー

トである輸送路を喪失した連合軍は、インドの東北部インパールに近い飛行機地を通じて、航空

4)  防衛廳防衛硏修所  戰史室、󰡔大本營陸軍部<7>󰡕,、朝雲新聞社、1973、88頁。
5)  防衛廳防衛硏修所戰史室、󰡔大本營陸軍部<5>󰡕、447-448頁。

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주제발표

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で中国に物資を輸送した。そのため、中国軍は、3個師団兵力をインドに空中輸送し、新しい道路

を建設させた。インパール作戦が開始された頃にはほぼ完成していたのだが、これがレドロー

ド(Ledo  Road)である。この道路はインドのレドから中国雲南省に至る軍需物資輸送道路であ

り、その重要な目的は北部インドの油田地帯のガソリンを中国大陸に輸送することであった。

連合軍はこれを「東京への道」(東京公路)と呼んだ。

  日本軍では大本営が、ビルマ作戦のために、当初の命令を変更して1943年8月までに完成

せよと命じた。南方軍は、鉄道の建設を4か月短縮するようにとの緊急命令を受けた。これに

よって、まず各方面からできる限り部隊を派兵して鉄道の建設作業に力を注がせた。そして、建

設期間の短縮に伴う労働力を確保するため、ビルマ、タイ、インドチャイナ、マレー、ジャワの各

地域に対し、現地人の労務者を組織的に供出するよう命じた。しかし、すぐに4月中・下旬から始

まった雨季は、工事と補給の妨げになったばかりでなく、捕虜にとって労働の苦痛を増やすこ

とになった。滝のごとく雨は降り注いだ。しかも、泰緬国境のニーケ付近で発生したコレラがた

ちまち全工事区間に拡大し、雨季にコレラまでが次第に広がっていった。

  泰緬鉄道の建設工事に投入された作業員の総数は正確ではない。しかし現在、日本の公式な

戦史といえる「防衛庁防衛研究所」が発刊された『戦史叢書』によると、次の通りである。日本軍

約1万人、捕虜約5万5千人、現地人労務者約7万人の計13万5千人だ。作業最盛期には、1日の工事
従事者は3万人を超えた。食糧不足と過労のため体力が衰え、コレラに対する抵抗力がなかった

ため、1943年6月の最高潮に達した時の患者数は約6千人で、そのうち4千人が死亡している6)。

日本側では捕虜100人のうち20人が死亡し、労務者は100人のうち30人が死亡、日本人は100

人に1人が死亡したという7)。しかし、内海愛子教授の研究によると、捕虜は4人に1人が亡くな

り、労務者は2人に1人が亡くなっているという8)。

    雨季とコレラで鉄道工事が難航を重ねていた頃、日本の大本営からは第九課長(鉄道課長)

加藤定大佐が派遣され、泰緬鉄道の建設現場の実情を踏査した。彼は現場を見回り、雨季やコレ

ラの発生などで鉄道建設に必要な労働力を確保できなかったことを踏まえ、やむを得ず工事期

間を2ヶ月延長して10月に完成しなければならないと判断した。7月中旬に大本営は、1943年8

6)  防衛廳防衛硏修所戰史室、󰡔大本營陸軍部<7>󰡕、88頁。
7)  Gavan  Daws,  󰡔Prisoners  of  the  Japanese:POWs  of  World  WarⅡ  in  the  Pacific󰡕,  p.220.
8)  内海愛子·村井吉敬、キム·ジョンイク訳、『赤道に埋もれる』、歴史批評社、2012、113頁。

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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月までに鉄道工事を完成するという先立っての指示を修正し、10月末までにと指示した9)。その

後、7月下旬頃からコレラが落ち着き雨季も終わって補給問題も少し改善されると、工事は順調

に進んだ。

このような難航を続けた泰緬鉄道は、1943年10月25日に全区間が完全に開通した。着工以

来1年3ヶ月、本格的な工事が開始されてからは8ヶ月余り、延長415kmに達する泰緬鉄道が完

成し、ビルマ戦線への鉄道輸送が開始された。日本軍の戦略的目的のため、鉄道がほぼ一日

1kmに近い、人間の常識では到底考えられない速度で、枕木が敷設され、レールが敷かれた。

日本軍の立場からすれば、泰緬鉄道の完成はビルマ戦線に対する主要な補給路として大いに

期待された。前述の『泰緬連接鉄道建設要綱」によれば、輸送能力は片方向で一日3,000トンの輸

送が可能だとしている。ところが、1943年11月の日量は80トン、12月には50トン、1944年1月

以降は約100トン程度であった。このように、鉄道の完成後の輸送力は、継続的な鉄道補修や資

材と兵力の輸送にのみ割かれたため、軍需品を輸送する余力はほとんどなかった。後日、連合軍

によりビルマの海上輸送が完全に途絶えると、ビルマに駐屯していた日本軍は極度の補給難に
陥った。

3

連合国捕虜と韓人捕虜監視員

東南アジア地域の捕虜収容所には、イギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリアの捕虜が

収容されていた。日本軍は、1941年12月8日に真珠湾攻撃とマレー上陸の実行で太平洋戦争

を開始し、香港、マニラ、シンガポール、ジャワ、バターン半島、ビルマを次々占領していった。そ

して、この地域におけるイギリス、オランダ、オーストラリア、米国など連合国の兵士たちが、日

本の戦争捕虜となった。

第二次世界大戦の勃発を受け、イギリスは1939年9月3日にドイツに宣戦布告し、真珠湾奇

襲以降、シンガポールをはじめとする東南アジア地域において日本とイギリスの間では直接戦

9)  防衛廳防衛硏修所戰史室、󰡔大本營陸軍部<7>󰡕、88頁。

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주제발표

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闘が繰り広げられ、イギリス軍が日本軍の捕虜となった。アメリカについては、1940年6月にド

イツがパリを占領すると、フランスがアメリカの参戦を求めることになったので、アメリカは

イギリスとソ連に武器を供給しながら世界大戦に参戦するものと見られた。しかし、日本が

1941年12月8日、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃したことで、日米両国間で戦争が起きた。太平洋

地域で日米の熾烈な戦闘が繰り広げられ、米軍が日本軍の捕虜となった。

ドイツによるポーランド侵攻が始まると、オランダは、ファシズムに対する闘争を強固にす

るという名目で、インドネシア人に対してより多くの自治権を許容し、日本に協力的な民族主

義勢力を弾圧した。真珠湾奇襲攻撃後、日本はパレンバンの油田地帯を確保するためにインド

ネシアを侵略し、本格的な戦闘が展開された。そして1942年3月8日、オランダは東部ジャワの

カリジャティで日本軍に降伏し、捕虜が発生することになった。オーストラリアの場合、直接的

に第二次大戦の脅威にはさらされないわけだが、日本が自国に侵攻するかもしれないと判断し

て、1941年2月、軍隊をマラヤに派遣していた。そして、その後の12月8日、日本が真珠湾を奇襲

攻撃したことで太平洋戦争が勃発し、日本は東南アジア地域を侵攻した。これにより、マラヤに

派遣されていたオーストラリアの軍隊と日本軍が直接戦争を交えることになった。

太平洋と東南アジア地域で日本軍と戦争をした国、イギリス、アメリカ、オランダ、オースト

ラリアの捕虜たちは、すべて捕虜収容所に収容された。これら連合国の戦争捕虜の正確な数は

確認されていないが、約26万人と言われる。日本は、連合国の捕虜については自分たちが占領し

た地域に捕虜収容所を設置し、そこに収容した。

日本は太平洋戦争を起こした直後、1941年12月23日に勅令第1182号として「捕虜収容所

令」によって捕虜収容所を設置しはじめた。そして、1942年6月には、朝鮮、台湾、タイ、マレーシ

ア、フィリピン、ジャワ、ボルネオに捕虜収容所を設置することが決定された。同年5月から朝鮮

と台湾で捕虜監視員の募集が行われた。それは不足している兵力を植民地から補うだけでなく、

韓国人·台湾人の青年に連合国軍捕虜を監視させることによって皇民化政策に使うためであっ

た。そして連合国は日本政府による捕虜の待遇に重大な関心を持っていたため、日本政府は国

際法に違反した捕虜の扱いをする際に、韓国人·台湾人を充てたのである。朝鮮では約3千人の

若者が、軍属として朝鮮全土から募集された。

1942年8月17日、釜山臨時教育隊で訓練を終えた韓国人捕虜監視員たちは、直ちに東南アジ

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ア地域の連合国捕虜収容所に配置された。マレーシア及びインドネシアのジャワ捕虜収容所や

タイ捕虜収容所に向かう監視員たちは、8月19日、釜山から9隻の船に乗って出発した10)。日本

軍が作成した資料によると、東南アジア地域の捕虜収容所に配置された韓国人捕虜監視員の正

確な人数は3,016人だとされる11)。すなわち、ジャワ捕虜収容所に1,408人、タイ捕虜収容所と

マレーシア捕虜収容所にそれぞれ804名である。

前の章で垣間見た通り、日本軍はビルマ侵攻直後からタイとビルマを結ぶ鉄道を建設し、補給

路を確保しようと計画していた。インパール作戦の展開のために鉄道の早急な完成が求められ

たので、1942年6月、泰緬鉄道の建設を準備させ、工事に着工したのである。だが、このような大

規模な鉄道敷設工事のための労働力を確保することが最大の要であった。1942年6月、大本営
参謀総長が南方軍に指示した「泰緬連接鉄道建設要綱」によると、所要兵力は「現地労務者及び

捕虜を充当」するとされている。つまり、泰緬鉄道の建設計画の段階から、日本は連合軍捕虜を

動員して鉄道を建設するという基本構想を持っていた。日本軍は、泰緬鉄道を完成させるため

には、連合軍の捕虜やアジア人労働者に対して、天候などは気にする必要もなく、病気になって

も構わず、飢えても結構、これまで以上の時間の激しい労働をさせれば良い、と考えていた12)。

そして、泰緬鉄道が着工となると、そこで必要な労働力として、連合軍捕虜を鉄道建設現場に移

送することになった。このような捕虜の移送から現場監視までのすべての過程は、東南アジア各

地に設置された連合軍捕虜収容所に配属されている韓国人捕虜監視員が担当して遂行するこ

とになったのである。

泰緬鉄道の建設に投入された日本軍は、第2鉄道監部鉄道第5連隊、同第9連隊、第4特設鉄道

隊などで、捕虜の動員はタイ捕虜収容所が担当して遂行した。釜山臨時教育隊で2ヶ月間訓練を

終えた韓国人捕虜監視員らは、釜山を出発し、1942年8月30日、サイゴン港沿岸のサンジャック

(Saint  Jacques)に停泊した。全羅南道(チョルラナムド)咸平(ハムピョン)出身で、17歳の若さ

で捕虜監視員になった李鶴来(イ・ハクレ/イ・ハンネ)は、タイ捕虜収容所に配属された804人の

同僚と共にサイゴンに上陸した。タイに到着した捕虜監視員らは、130人ほどの単位に分かれて

10)  李鶴来、キム·ジョンイク訳、『戦犯になった朝鮮青年:韓国人BC級戦犯李鶴来回顧録』、民族問題研究所、2017、15頁。
11)  チョ  ゴン、「日帝強占末期における朝鮮駐屯日本軍の朝鮮人捕虜監視員の動員と連合軍捕虜収容所の運営」『韓国

近現代史研究』67、2013、457頁。

12)  ハンク·ネルソン、󰡔日本軍捕虜收容所の日々:オ-トラリア兵士たちの証言󰡕、筑摩書房、1995、100頁。

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주제발표

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各分所に配置され、現場で補充教育を受けながら捕虜の扱い方などを教えられた。

9月中旬、趙文相(チョ・ムンサン)、文泰福(ムン·テボク)、李鶴来など韓国人捕虜監視員804人

が、辛うじてバンコク入りした。洪水のため到着が遅れた。監視員たちが到着すると、すぐに捕虜

の移動と収容が始まった。捕虜の到着が遅れ、鉄道隊は焦った。それでも捕虜を駆使するには、

捕虜収容所を通じないわけには行かなかった。詳しい「規則」も設けられた。それまで自由に捕虜

を働かせていた鉄道隊と、「規則」によって管理を行う捕虜収容所の間でぎくしゃくすることも

あり、時には対立した13)。

サイゴンに到着した李鶴来は、10日ほどの滞在の後、行き先も知らされないまま汽車に乗り、

タイの首都バンコクから西に80kmほど離れたノーンプラ-ドゥック駅に到着し、そこで初めて

西洋人捕虜を見た。彼は捕虜たちを率いてノーンプラ-ドゥックから40kmの距離のカンチャナ

ブリまで貨物車で移動し、さらに船でクワイ河を125kmも遡った地点のワンヤイ(Wangyai)

にあるタイ捕虜収容所第4分所本部に到着した14)。     

泰緬鉄道建設のための労働力として連合国捕虜の供給を担ったタイ捕虜収容所は、1942年

8月に開設された。タイ収容所は、タイに5分所、ビルマに3分所など、計8分所を置いていた。

1942年10月13日から11月13日まで、ほぼ毎日シンガポールからイギリスの捕虜が輸送され

てきた。そして、1942年11月から1943年2月にかけ、ジャワにいたオランダ人とオーストラリ

ア人の捕虜が輸送されてきた15)。捕虜人数が最も多い時は、計5万5千人(タイだけで3万7千人)

に達した。収容所を開設した当時は、イギリス軍捕虜約3千人のみが収容されていたが、その後

マレー捕虜収容所、ジャワ捕虜収容所から鉄道建設のために5万人以上の連合軍捕虜がこちら

に移送されたためである16)。泰緬鉄道建設に投入された連合国捕虜の総数は正確ではない。連

合国の生存者の推計では、合計61,000人を超えたとされるが、イギリス人30,000、オランダ人

とオランダ-インドネシア人18,000、オーストラリア人13,000、アメリカ人650である。これら

の捕虜の約45%が泰緬鉄道の建設に動員された17)。

13)  內海愛子、『キムはなぜ裁かれたのか』、朝日新聞出版、2008、212頁。
14)  李鶴来、キム·ジョンイク訳、『戦犯になった朝鮮青年:韓国人BC級戦犯李鶴来回顧録』、民族問題研究所、2017、17頁。
15)  內海愛子、󰡔キムはなぜ裁かれたのか󰡕、212-214頁。
16)  内海愛子·村井吉敬、キム·ジョンイク訳、『赤道に埋もれる』、歴史批評社、2012、117頁。
17)  Gavan  Daws,  󰡔Prisoners  of  the  Japanese:POWs  of  World  WarⅡ  in  the  Pacific󰡕,  William 

Morrow&Company,  New  York,  1994,  p.184.

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泰緬鉄道建設に当てられた連合国捕虜収容所は、タイ側とビルマ側に分けられるのだが、タ

イ側には分所が5カ所あり、分所の下にいくつかの分遣所があり、分遣所の下に分駐所があった。

李鶴来が所属した第4分所には総勢11,000人ほどの捕虜がおり、捕虜の管理は日本人下士官

17人と韓国人捕虜監視員130人が行った。分所長は石井民恵中佐で、その下に尉官数人がいた。

そのうち1人が臼杵喜司穗中尉だった。彼は釜山の野口部隊で軍事訓練が行われたとき、その部

隊に勤務していた18)。1942年12月、李鶴来は臼杵中尉が管轄する第3分遣所に配属され、ワン

ヤイからビルマのほうにもう少し進んだコンユー(Konyu)に移動した。ここには捕虜が

700-800人、捕虜監視員が30人ほどいた。コンユー分遣所は川沿いの傾斜に位置しており、そ

こには鉄道隊もあり、宿も設けられていた。

マレーシア捕虜収容所やジャワ捕虜収容所に収容された捕虜も、泰緬鉄道の建設現場に輸送

された。ジャワ捕虜収容所第3分所(スラバヤ)の松崎稔陸軍中尉と韓国人捕虜監視員100人ほど

がタイ-ビルマ鉄道の建設のため、タイに派遣された。彼らがスラバヤから船便でタイ-ビルマ
鉄道のタイの起点であるノーンプラ-ドゥックの西側のバンポンに到着したのは、1942年12月

24日だった。ここで彼らは、タイ捕虜収容所第5分所に合流した。ビルマ側の勤務を命じられた

水谷藤太郎大尉が第5分所の所長を務めていた。水谷大尉はビルマに転属した分所員たちとと

もに陸路でシンガポールまで南下し、そこでジャワ捕虜収容所から移送された2千人余りの捕

虜を引き渡された後、門司丸と日明丸の便で1943年1月10日にシンガポール港を出発してラン

グーンに向かった。船がアンダマン海に入った1月15日午後3時頃、日明丸は2機の連合軍爆撃

機から攻撃を受けて撃沈された。連合軍の空襲から生き残った門司丸は行き先を変更し、1943

年1月17日にビルマの港町モーラミャイン(Moulmein)に到着した。ジャワから移送された捕

虜約2千人を収容したタイ捕虜収容所第5分所は、ビルマ側の鉄道起点タンビュザヤに本所を設

置し、捕虜とその監視役の韓国人捕虜監視員たちを直ちに建設現場に送った19)。

タイ捕虜収容所で、韓国人捕虜監視員たちは、泰緬鉄道を建設するために連合国の捕虜を監

視し動員する任務を遂行しなければならなかった。李鶴来は鉄道建設現場のタイ側起点である

ノーンプラ-ドゥックからビルマのほうへ161km進んだヒントック(Hintok)の現場で、連合国

捕虜を監視する捕虜監視員として勤務した。韓国人捕虜監視員の任務は監視だけではなかった。

18)    李鶴来、キム·ジョンイク訳、『戦犯になった朝鮮青年:韓国人BC級戦犯李鶴来回顧録』17頁。
19)  内海愛子·村井吉敬、キム·ジョンイク訳、『赤道に埋もれる』、114-117頁。

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주제발표

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鉄道建設を担当する日本軍の鉄道隊が、捕虜と現地労務者を使って路盤を構築しレールを敷く

工事をしていた。捕虜収容所側としては、捕虜を管理しながら、鉄道隊から求められる作業人数

を確保して引き渡さなければならなかった。そのため、自然な流れとして韓国人捕虜監視員たち

が鉄道工事に出向く連合国捕虜の動員に関与することになった。

1943年2月、コンユー分遣所からミャンマーのほうに進んだヒントックに分駐所が新たに設

置された。李鶴来はヒントック分駐所で、主力人員が送られてくる7月まで業務全般を統括する

役割を担うことになった。捕虜500人(半分はオーストラリア人、残り半分はイギリス人とオラ

ンダ人)を連れてヒントックに向かった。タイ-ビルマ鉄道の起点であるノーンプラ-ドゥックか

ら161km地点に位置するヒントックは、ジャングルの真ん中にあった20)。

ヒントックは泰緬鉄道工事の中でも最も難コースとされていた。岩石地帯なので、岩山を迂

回して、切り立ったような崖にしがみつくようにして鉄路をつくらなければならなかった。しか

し、鉄路を開けない場合は、岩を爆破するか、鑿(のみ)で切開して崩しながら道をつくった後、そ

こに線路を敷かなければならなかった。ヒントックはその過酷さ故に、捕虜からは「地獄の火の

峠(Hellfire  Pass)」と呼ばれた。李鶴来は1943年2月から鉄道が完成する10月までヒントック

で捕虜を監視した。

鉄道工事で働きに行く時は、日本軍の鉄道隊が捕虜を引き取りに来た。収容所では2人ほど

の韓国人捕虜監視員が現場までついて行き、銃剣を携帯し、少し高い地形を利用して監視した。

作業が終わると、捕虜監視員が人数を点検し、引率して分駐所に戻った。作業は午前8時から始

まった。そのために捕虜たちは早朝に食事をするので、昼になると空腹に苦しんだ。このように、

捕虜収容所では連合国捕虜と韓国人捕虜監視員はいつも一緒に過ごさなければならなかった。

1942年4月の中旬から下旬に、タイ-ビルマ国境のニーケ付近で発生したコレラが、瞬く間に

全工区に拡散した。捕虜たちの間で病気が蔓延すると、作業能率が落ち始めたため、繰り返し

ジャワから捕虜たちが連れてこられた。第2分所と第4分所では、捕虜の作業率が39%まで落ち

たという。ジャワではチラチャップ第2分所の海老子(ざふかいの資料では、女老子)少佐が6千人

余りの捕虜をタイに連れて行き、1943年5月初めに第6分所を開設した。この時も、100人余り

の韓国人監視員が一緒に動いたと推定される。結局、タイ捕虜収容所で捕虜監視業務を担当し

20)  李鶴来、キム·ジョンイク訳、『戦犯になった朝鮮青年:韓国人BC級戦犯李鶴来回顧録』、20頁。

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ていた韓国人捕虜監視員は、ほぼ1,000人に達した21)。

コレラが蔓延すると、日本軍の中央からも権威ある人物を現地に派遣して必要な指導を行い、

6月には陸軍省医務局からも課員が派遣された。それでも、コレラによる死亡は続いた。6月のタ

イ捕虜収容所の患者数は76.4%、すなわち、4万8,832人の捕虜のうち、タイ側2万4,351人、ビ

ルマ側1万2,933人が患者だと報告された。1943年1月から鉄道の完成まで、捕虜の患者は常に

60%を超えた22)。

韓国人捕虜監視員が捕虜の管理を任されていたとはいえ、彼らが直接捕虜を使える立場だっ

たわけではない。捕虜の使い手は鉄道建設隊が直接の担当であって、捕虜収容所は鉄道建設隊

から求められる作業人員を引き渡すのが主な業務だった。さらに、捕虜が作業に出ることができ

る状態かどうかという判断も、彼ら同様に捕虜である軍医が担当した。捕虜収容所での日本人

は将校と下士官のみの少数で、直接捕虜にかかわってくることとしては、監視警戒から衛兵所

勤務、所内作業の直接指揮、給養掛の助手、労働の割り当て、庶務、通訳などがあったが、直接捕

虜に接触するには上からの命令を受けて行われた。そして、捕虜たちは自ら営倉をつくり、仲間

たちを自主的に処罰したりもした。そのため、規則に違反する捕虜を見かけると、捕虜監視員の

立場からは見過ごすことは難しかった。適当な方法はやはり頬を叩くことだった。2-3回頬を打

つことは、日本軍の教育方法の一つであって、日本軍では罪悪視されない23)。捕虜の人数は大
変多く、中にはタチの良くない者もいるが、彼らを含め規律を守らせることが容易ではなかっ

た。そのため、殴る行為を働くこともあった24)。

オーストラリア人捕虜のキャビン・ぺ-ガンは、韓国人捕虜監視員に対し、「私たちはメフィス

トペレス(悪魔)と呼んだ。そいつはプレッシャーをかけた」と語った25)。ある日の朝、悪魔と呼

ばれていた捕虜監視員が、鉄道工事に出るのに7人が必要と言った。ところが、オーストラリア

人捕虜たちはみな病気だと答えた。すると、韓国人監視員は、大便から血が出ない者は病気がな

いと言って、肛門から血が出ない者を探し出した。だが、キャビン·ぺ-ガンは、幸い痔にかかり肛

21)  内海愛子·村井吉敬、キム·ジョンイク訳、『赤道に埋もれる』、117-118頁。
22)  內海愛子、  󰡔キムはなぜ裁かれたのか󰡕、221頁。
23)  李鶴来、キム·ジョンイク訳、『戦犯になった朝鮮青年:韓国人BC級戦犯李鶴来回顧録』、24頁。
24)  韓國出身戰犯者同進會、󰡔裁判記錄-人身保護法による釋放請求事件󰡕、1957、33頁。
25)  ハンク·ネルソン、󰡔日本軍捕虜收容所の日々  :  オ-トラリア兵士たちの証言󰡕、筑摩書房、1995、104頁。

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주제발표

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門から血が出たために、病気ということになった。彼は「その時は血が出た痔が救世主になった」

と述べた。とにかく、韓国人捕虜監視員たちは捕虜を作業に送り出すために強圧的な方法を駆

使したのであった26)。

しかし、連合軍の捕虜を泰緬鉄道の建設に動員するよう命じたのは南方総軍であり(南方軍命

令、1942.6.7)、南方総軍の措置は大本営陸軍部の指示によるものだった27)。捕虜収容所側が捕

虜を十分に保護したのかどうかにはついては疑問が残るが、給与·食糧·労役など捕虜の待遇に
関するすべての責任を捕虜収容所が担うことはできないことは明らかだ。いや、捕虜収容所は

極めて限られた範囲での責任を負うのが妥当であろう28)。

前章で述べたように、泰緬鉄道建設工事はインパール作戦のため、工事期間を1943年8月まで

に短縮するよう命じられていた。そのため、工事を強行する鉄道隊からは、毎日作業人数の割り
当て表が捕虜収容所側に送られてきたが、患者が続出している収容所では、求められた割り当て

人数を満たすことができなかった。患者だとしても症状が軽そうな人を選び出して作業に出さ

なければならない状況だったので、鉄道隊は人数が満たされなくても了解するほかなかった。

4

戦犯裁判と韓国人BC級戦犯

第二次世界大戦後、連合国の国際軍事裁判で戦争犯罪として訴追され処罰を受けた者には、

A級・B級・C級の区別がなされている。A級は、侵略戦争を計画·準備·遂行し、共同謀議を行った

者、すなわち平和に対する罪を犯した者である。B級は、戦闘法規や慣例に違反した殺人·捕虜虐

待·略奪などを犯した者、C級は、人道に反する殺人·虐殺を犯した者、または国籍や宗教が異な

るという理由で住民を虐待したり奴隷化した者である。BC級は、東京裁判では扱わず、アメリカ

やイギリスなど各国が設置した軍事裁判で個別に裁判して処罰した。BC級戦犯裁判は、A級戦

犯裁判に比べると迅速に進められた。BC級戦犯裁判は、上訴が認められない単審で行われ、通
訳や弁護人もまともにいなかった。戦後、BC級戦犯を処理するための軍事裁判所は、マニラ(ア

26)  ハンク·ネルソン、󰡔日本軍捕虜收容所の日々  :  オ-トラリア兵士たちの証言󰡕、107頁。
27)  内海愛子·村井吉敬、キム·ジョンイク訳、『赤道に埋もれる』、122頁。
28)  内海愛子·村井吉敬、キム·ジョンイク訳、『赤道に埋もれる』、125頁。

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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メリカ)、シンガポール(イギリス)、香港(オーストラリア)、バタビアとメダン(オランダ)など4

9ヶ所で行われた。

捕虜収容所での捕虜に対する虐待などに関連し、BC級戦犯として死刑を言い渡された韓国

人のリストを表にまとめると、以下のようになる。

韓国人BC級戦犯の死刑者リスト

姓名

執行当時の

年齢

刑罰名

裁判国

死刑執行日

執行場所

本籍地

洪思翊

54

絞首刑

米国

1946.9.26

マニラ

ソウル

キム・ヨンジュ

30

絞首刑

英国

1946.7.30

シンガポール

釜山  東莱区

キム・グィホ

29

絞首刑

英国

1946.1.22

シンガポール

済州道  翰林

カン・テヨプ

25

絞首刑

英国

1946.1.22

シンガポール

忠清南道  礼山

チャン・スオプ

28

絞首刑

英国

1946.1.22

シンガポール

平安南道  鎮南浦

チョン・グァンリン

24

絞首刑

英国

1947.1,20

シンガポール

ソウル

朴成根(木村成根)

24

銃殺刑

オランダ

1947.2.5

ジャカルタ

全羅北道  群山

趙文相(平原守矩)

25

絞首刑

英国

1947.2.25

シンガポール

京畿  開城

金長錄(金子長錄)

27

絞首刑

英国

1947.2.25

シンガポール

全羅北道  群山

パク・ヨンジョ

25

絞首刑

英国

1947.2.25

シンガポール

慶尚北道  義城

金澤振(武本澤振)

24

絞首刑

英国

1947.2.25

シンガポール

慶尚南道  固城

イム・ヨンジュン

25

絞首刑

英国

1947.6.18

シンガポール

全羅北道  南原

崔昌善(大山隆昌)

32

銃殺刑

オランダ

1947.9.5

ジャカルタ

咸鏡南道

朴俊植(松岡茂正)

31

銃殺刑

オランダ

1947.9.5

ジャカルタ

京畿  開城

卞鍾尹(柏村欽信)

29

銃殺刑

オランダ

1947.9.5

ジャカルタ

忠清北道  清州

  *出典:「韓国日報」1987年8月15日 
*キム·ウンスク、「韓国人B·C級戦犯裁判と被害補償請求訴訟」、木浦大学教育大学院修士論文、2002、22頁。

第2次世界大戦後、戦犯裁判で死刑となった韓国人は計23人で、そのうち東南アジア地域で

ひらかれた戦犯裁判で死刑を宣告された韓国人は15人、そのうち捕虜監視員としての死刑判決

は13人であった。

以下は、東南アジア地域でひらかれたBC級戦犯裁判で、実刑を言い渡され服役した捕虜監視

員のリストである。

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주제발표

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韓国人BC級戦犯の服役者リスト

姓名

裁判国 刑量

本籍地

姓名

裁判国 刑量

本籍地

曹壽鉉(曹玉壽鉉)

英国

10年

忠清北道陰城

ファン・ソクチン

英国

3年

慶尚北道迎日

吳善澤(吳川善澤)

英国

10年

全羅南道和順

チョン・ジェス

オランダ 2.5年

忠清北道丹陽

任昌浩(安原昌浩)

オランダ 15年

全羅南道光陽

シム・ヨンテク

英国

3年

忠清南道扶余

田泰範(田村泰範)

オランダ 15年

慶尚北道慶山

洪根孝

英国

3年

慶尚北道永川

梁承烈(南原高眃)

オランダ 15年

忠清南道大田

ソン・サンオク

英国

3年

全羅北道井邑

朴允商(大川允商)

オランダ 15年

忠清北道鎮川

チョ・スヘン

英国

10年

慶尚北道金泉

李鳳極(毛利俊之)

オランダ 15年

ソウル  会賢

イ・メンソク

英国

3年

慶尚南道晋州

金昌禧(金林昌禱)

オランダ 15年

忠清南道論山

ムン・ホンギ

英国

3年

忠清北道陰城

朴鐘介(新井鐘介)

英国

15年

慶尚南道咸安

チョン・ギュムン

英国

5年

全羅南道務安

韓允哲(淸原正茂)

英国

15年

忠清北道忠州

キム・ハンシク

英国

終身

慶尚北道慶州

趙雲國(雲井英治)

英国

15年

忠清南道燕岐

李經九

オランダ

3年

京畿道始興

朴錦泳(森本錦泳)

英国

15年

全羅南道光州

金大奉

オランダ

3年

全羅南道木浦

朴渲敎(正木文雄)

豪州

15年

全羅北道全州

キム・ボンシク

英国

5年

全羅道南康津

金喆洙(金光喆洙)

オランダ 18年

忠清南道論山

チェ・ソンギョ

英国

6年

全羅南道羅州

安正燦(安原正茂)

オランダ 18年

平安南道竜江

ぺ・ジョンマン

英国

6年

全羅南道光州

高在潤(高野幸次郞)

オランダ 18年

忠清南道大田

朴炳瓚

オランダ

2年

忠清北道忠州

尹東鉉(伊泉東鉉)

オランダ 20年

全羅南道康津

李權宰

オランダ

3年

忠清北道忠州

鄭殷錫(石原辰雄)

英国

15年

京畿道安養

李泳煥

オランダ

3年

全羅南道珍島

李鶴來(廣村鶴來)

豪州

15年

全羅南道宝城

金玉銅

オランダ

3年

黄海道延白

朴貞根(新井英夫)

豪州

15年

慶尚北道迎日

チョン・ファンギュ

オランダ

5年

黄海道金川

李義吉(笠山義吉)

英国

終身

ソウル

キム・ドゥサム

オランダ

4年

全羅南道光州

洪鐘黙(德山光男)

英国

終身

忠清北道永同

シン・ミョンヒュ

オランダ

5年

忠清北道陰城

車駿錫(三中駿錫)

英国

終身

全羅北道金堤

金景淳

オランダ

5年

黄海道平山

崔銘誠(松本明山)

英国

終身

全羅南道光州

李義度

オランダ

5年

全羅南道務安

金鏞(完山金藏)

英国

終身

咸鏡南道咸興

柳夏淵

オランダ

5年

全羅南道霊岩

金昌植(金城昌雄)

豪州

終身

忠清北道鎮川

チェ・ナムグク

オランダ

5年

咸鏡南道咸興

金祥龍(金山祥龍)

英国

終身

全羅北道群山

キム・ジェジュン

オランダ

5年

咸鏡北道清津

羅三祚(羅山德一)

英国

終身

慶尚南道昌寧

朴敬錫

オランダ

6年

忠清北道丹陽

洪起聖(豊山起聖)

英国

終身

忠清北道忠州

チョ・ヨンヒョク

オランダ

6年

慶尚南道咸安

ヤン・ヘグン

英国

1.5年

慶尚北道永川

李長男

オランダ

6年

ソウル始興

シン・スジン

英国

2年

全羅南道霊岩

キム・メンウ

オランダ

6年

慶尚南道固城

パク・ビョンスク

英国

2年

釜山

鄭鍾觀

オランダ

5年

江原道春川

オベ・クニョン

オランダ 7年

ソウル

盧在永

オランダ 10年

全羅南道光山

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124

3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

-  124  -

姓名

裁判国

刑量

本籍地

姓名

裁判国

刑量

本籍地

キム・チョルギ

オランダ

6年

慶尚南道昌原

チェ・ウォニョン

米国

10年

平安北道碧洞

チョ・テウォン

オランダ

7年

忠清北道忠州

パク・テソク

オランダ 11.5年

慶尚北道宣山

キム・ギョシン

オランダ

7年

忠清南道瑞山

ホ・ヨン

英国

10年

忠清南道扶余

イ・オクマン

オランダ

8年

忠清北道永同

ユ・ドンジョ

英国

10年

慶尚北道慶州

カン・デスル

オランダ

7年

全羅南道長城

ペク・ヨンソク

英国

10年

全羅北道全州

チュ・ヒウォン

オランダ

6年

慶尚南道咸安

ハン・チャンボム

オランダ

10年

咸鏡南道元山

ミン・ハッキ

オランダ

8年

ソウル

イ・ソングン

オランダ

12年

開城

オ・ジェホ

英国

6年

釜山

パク・テソン

英国

10年

全羅北道全州

イ・ウヌ

英国

7年

慶尚北道栄州

ソン・ガプチン

米国

10年

ソウル

オ・ワングン

オランダ

8年

忠清南道天安

チョン・チャンジン

オランダ

10年

慶尚南道固城

チョン・ヨンオク

オランダ

8年

忠清南道扶余

キム・テヨル

オランダ

12年

忠清南道青陽

チョ・ジェヨン

オランダ

8年

慶尚南道宜寧

チェ・ヨンモ

オランダ

12年

全羅南道光山

イ・デホン

オランダ

10年

全羅北道群山

キム・ウォンド

オランダ

12年

慶尚北道金泉

ノ・ジョンソク

オランダ

8年

咸鏡南道甲山

キム・ワングン

英国

10年

全羅北道完州

パク・グァンジン

オランダ

8年

慶尚北道慶州

キム・ジョンヨン

豪州

12年

開城

ソン・ポヨル

英国

7年

慶尚北道安東

キム・ヨンパン

英国

10年

全羅南道光山

キム・グァンジェ

英国

7年

忠清南道洪城

チェ・デチュン

オランダ

12年

慶尚北道慶州

イ・ハンヨン

オランダ

9年

忠清南道洪城

キム・ジョチョル

英国

10年

江原道春川

キム・ドンへ

オランダ

10年

黄海道延白

ムン・テボク

英国

10年

全羅南道求礼

ムン・ジェヘン

オランダ

10年

全羅南道和順

チエ・ギェホ

英国

10年

全羅南道霊光

キム・グンシク

英国

6年

開城市

チョン・チュンギル

英国

12年

忠清南道扶余

キム・ギドン

オランダ

10年

全羅南道長城

金基永

英国

10年

忠清南道瑞山

パク・ヨンレ

オランダ

10年

全羅北道益山

チェ・ソニョプ

オランダ

15年

全羅北道南原

ヤン・ウォルソン

オランダ

14年

全羅南道光陽

チョ・ウィジェ

オランダ

15年

慶尚南道咸安

チョン・ボクシク

オランダ

10年

慶尚北道迎日

キム・ウニョン

オランダ

15年

羅北道淳昌

イ・チャンベク

オランダ

10年

平安北道寧辺

*出典:「韓国日報」1987年8月15日 
*キム·ウンスク、「韓国人B·C級戦犯裁判と被害補償請求訴訟」、木浦大学教育大学院修士論文、2002、23-24頁。

上の表にある148人のうち、米国の裁判を受けた3人と中国関係戦犯16人を除く残りの129

人が捕虜監視員だった。日帝によって強制的に連れられ各地に出ていった韓国人捕虜監視員た

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125

주제발표

-  125  -

ちは、戦後に連合国によってすべてBC級戦犯として処罰された。BC級裁判で戦犯になった韓
国人は、148人のうち捕虜収容所監視員が129人、志願兵が2人、中将が1人、中国で通訳に従事

した軍属16人である。そのうち、死刑になった人は23人、有期刑に処された人は125人だ。有罪

判決の内訳を見ると、死刑9人、終身刑7人、有期懲役17人だ。

彼らが戦犯となった理由は、ポツダム宣言第10項の「我々の捕虜を虐待した者を含む一切の

戦争犯罪人に対して厳重な処罰を加える」という規定による。日本が戦争に敗れた後の1945

年9月当時、下村定陸軍大臣は「俘虜取扱関係連合側訊問ニ対スル応答要領ニ関スル件達」を発

した。この通達によって、捕虜虐待の責任はなるべく韓国人·台湾人の捕虜監視要員に押し付け

るよう指示した。連合国捕虜の監視員たちは日本人ではなく、資質の劣る韓国や台湾出身者な

ので、教育などが十分に行き届いていないと説明するようにした29)。つまり、日本軍は捕虜虐待

のすべての責任を回避するために、これを韓国人と台湾人に転嫁させたのである。

連合国の戦犯裁判では、泰緬鉄道関係者だけで111人(起訴120人)が有罪判決を言い渡され

た。有罪判決の内容を見てみると、死刑32人、終身刑16人、有期刑63人、無罪は5人、起訴却下4人

であった。この中には、韓国人捕虜監視員33人(起訴は35人)も含まれている。韓国人捕虜監視員

として死刑判決を宣告されたのは計13人、そのうち実際に死刑となったのは9人である。死刑を

免れた4人のうち、1人は無罪、3人は減刑となった。当初起訴された35人のうち、最終判決で33

人が有罪を、残り2人は無罪判決を受けた。このように、日本軍の最も末端にいた韓国人捕虜監

視員たちが、戦犯として処罰されたのである30)。

日本の軍部は、1945年8月20日、朝鮮、台湾、関東軍、マレーシア、ボルネオ、ジャワなどの各

捕虜収容所長らに対し、捕虜及び抑留者を虐待したり、または捕虜たちの甚だしい悪感情の対

象となった職員は、この際、速やかに他地方に転属させ···敵に見られると不利な書類は秘密書

類と一緒に分類した後、必ず廃棄するようにと指示した31)。連合国捕虜の監視員として泰緬鉄

道の建設現場にいた李鶴来は、日本が降伏したことを8月16日にバンコクで知ったという。李鶴
来の回顧によると、このような命令を受けた捕虜収容所長たちは「捕虜を虐待した覚えがある

29) ハンドブック戰後補償編輯委員會編、󰡔ハンドブック戰後補償󰡕、梨の本舍、1992、57頁。チョン・インソプ、前掲書、

470頁を再引用。

30)  内海愛子·村井敬、キム·ジョンイク訳、『赤道に埋もれる』、120頁。
31)  內海愛子、󰡔朝鮮人BC戰犯の記錄󰡕、勁草書房、1982、150-151頁。

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

-  126  -

人は早く身を隠せ」との命令が下されたという。しかし、そのことは韓国人捕虜監視員らには通

知されなかった。「9月28日夕方まで高麗人会に集合すること。集合しない者は処罰する」という

連合軍の命令が伝えられた。朝鮮出身者の集まりである高麗人会から各地に連絡が入った。翌

日、戦犯の「首実検」が行われた。戦争裁判のため、元捕虜に容疑者を探し当てさせるものだっ

た。翌朝になると、イギリス·オーストラリア·オランダの捕虜約30人が来て、イギリス·オース

トラリア·オランダの順に、6カ所に「首実検の場所」が設置された。首実検は、厳重な警戒の中で

韓国人捕虜監視員が一列縦隊に進む形で行われた。ここで特定された韓国人監視員は、バンコ

ク郊外に所在するバンヤン(Banyan)刑務所に送られた32)。

洪鍾黙(ホン·ジョンムク)は、タイのササブリで解放を迎え、捕虜収容所の前の広場で他の監

視員や日本軍たちと一緒に4列縦隊に立たされ、指差しで特定された。連合国の兵士たちが列の

間を歩きながら、この人に何回殴られたとか、この人はどんな虐待行為を働いたなど言うと、直

ちにバンコクのバンヤン刑務所に送られ戦犯容疑者となった。洪鍾黙は、具体的に捕虜の誰か

に悪い行為を働いたということではなく、コレラとマラリアで多くの人が死んで苦痛を受けて

いるにもかかわらず薬を与えなかったということだった。約1カ月間バンヤン刑務所に拘禁さ

れた後、シンガポールのチャンギ刑務所に移送された。1945年8月15日、タイ捕虜収容所第7分

所があるナコーンナーヨック(Nakhon  Nayok)で日本の敗戦を迎えた文泰福(ムン·テボク)

も、進駐してくるイギリス軍によって、9月19日、捕虜だった連合国軍兵士たちから指差しで特

定されて戦犯容疑者として逮捕され、バンヤン刑務所に収容された。

捕虜を虐待したとされた戦犯容疑者たちは、1946年3月初旬から数人ずつ集められ、航空便

でシンガポールに移送された。李鶴来は4月下旬に、200人ほどとともに船便でシンガポールの

チャンギ刑務所に移送された。同年9月から戦犯裁判が始まった。韓国人捕虜監視員たちは取り

調べを受け、自分の証言とはかなり異なる内容の書類に署名するよう要求されることもあっ

た。裁判はそれこそ拙速で、1審がそのまま最終審となる軍事裁判だった。上告審がなかったた

め、死刑判決の1週間後、遅くても3ヵ月ほどのうちには死刑が執行された。裁判にかけられれ

ば、誰でも死刑を覚悟しなければならなかった。

文泰福は、1946年8月23日、シンガポールでひらかれた英国軍の法廷で戦犯裁判を受けてい

32)  李鶴来、キム·ジョンイク訳、『戦犯になった朝鮮青年:韓国人BC級戦犯李鶴来回顧録』、62-63頁。

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127

주제발표

-  127  -

るが、彼に対する起訴の内容は、捕虜虐待、極少量の食糧と医薬品の配給、強制労働の使役など

で捕虜1人が死亡したというものだった。文泰福の裁判はたった1日で行われ、上告もあり得な

かった。弁護人は同席したが、事前に会ってくれることもなく、法廷では一言も発言してくれな

かった。ほとんどの韓国人戦犯容疑者は、必要ならば事前に弁護人と話すことができるものと

考えていたが、一度しか進められなかった唯一の裁判で、韓国人は十分な弁護を受けることがで

きなかった。文泰福自身が若干の弁解を述べたが、審理の終結後すぐに絞首刑の判決が言い渡さ

れた33)。彼がクリアンクライ分所で、患者を強制的に働かせ死に至らしめたとされた。しかし、

死亡した捕虜とはまったく関係のない捕虜が頬を打たれたことに対する仕返しとして、彼を告
発したのだった。その後、再審で10年刑に減刑された。

李鶴来もたった一度だけ取り調べを受けた。取り調べから1週間ほど経った9月25日、オース

トラリアの連絡将校が起訴状を持ってきた。起訴状には、オーストラリア人捕虜4人の署名が連

ねられてあった。知らない名前だった。起訴の内容として、次の3つが挙げられていた34)。

    1.ヒラムラは、ヒントック収容所の所長で、キャンプの管理将校だった。所内施設はまと

もに整っておらず、給与·被服·医薬は不足していた。

    2.部下の統制が未熟で、部下の暴行を阻止しなかった。

    3.患者を労働に従事させた。

この起訴状に記載されていることとして、李鶴来の創氏名は「ヒラムラ」ではなく「ヒロムラ」

だったが、それを間違って発音したものと思われる。彼は「戦犯」として名指されたが、ヒントッ

クの現場で起きていたことをもって彼を戦犯に追いやっていった。起訴状に記載された内容

は、事実と異なっていた。彼は管理将校でもなかったし、給与・被服・医薬が足りなかったのは、

彼がどうにかできることではなかった。そのせいか、李鶴来の起訴状は却下された。

李鶴来も、起訴が却下されたことで、1946年12月24日に釈放された。李鶴来は車に乗って帰

33)「訴狀」、韓國·朝鮮人BC級戰犯者の國家補償等請求事件、126-129頁。
34)  李鶴来、キム·ジョンイク訳、『戦犯になった朝鮮青年:韓国人BC級戦犯李鶴来回顧録』、69頁。

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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還船を待つジュロン(Jurong)キャンプに向かった。故国に帰還するために、1947年1月7日、船

に乗って香港に着いたところに、イギリス軍の将校が召喚状を持ってきた。3週間後の2月18

日、イギリスの軍艦に乗せられ、チャンギ刑務所に収監された。3月10日、取り調べもないまま
独房に監禁された状態で2度目の起訴状を受け、3月18日、刑務所内の小規模な付属建物に仮

設された法廷で公判が開始された。裁判官1人、陪席裁判官2人、検事1人は、いずれもオーストラ

リア人だった。裁判官は彼に絞首刑を言い渡し、その後11月7日に20年の懲役に減刑された。

文泰福の場合、起訴の内容にある捕虜1人の死亡については、捕虜だった軍医から、捕虜1人が

以前から脚気病を患っていたが心不全になって死亡したという報告を受け、その捕虜を埋葬し

たのであって、文泰福が加えた何らかの虐待によって捕虜が死に至ったわけではなかった。彼は

1946年12月2日に10年の懲役に減刑となった。

洪鍾黙は、戦犯裁判で、死刑ではなく、無期懲役刑を言い渡された。その理由は、彼が監視して

いた捕虜の1人が、連合国の東南アジア司令官に嘆願書を提出してくれたからだった。その元捕

虜はひどい胃潰瘍で瀕死に際したとき、簡単な医療器具とアルコールだけで手術を受けた。こ

の時、監視員の洪鍾黙が誠意を尽くして彼を助け命を救った。そのことに対する恩返しとして、

嘆願書を提出してくれたのだった35)。

次の表は、戦犯裁判で実刑を言い渡され、日本の巣鴨プリズンで服役した韓国人戦犯たちの

リストである。

35) 文泰福·洪鐘默、󰡔死刑臺から見えた二つの國󰡕、70-77頁。

姓名

創氏名

裁判日

裁判国

罪名

刑量

備考

洪起聖

豊山起聖

1946.10.23

英国

シャムで連合軍捕虜を虐待

終身

高在潤

高野幸次郞

1948.2.25

オランダ

計画的暴行

18年

残刑17年1ヶ月

金喆洙

金光喆洙

1948.2.25

オランダ

計画的暴行

18年

残刑17年1ヶ月

李義吉

笠山義吉

1946.7.26

英国

アンボンで捕虜の虐待致死

終身

金鏞

完山金藏

1946.8.22

英国

終身

罪名を言い渡さず

洪鐘默

德山光男

1946.8.22

英国

終身

罪名は、タイ捕虜収容所で

の取扱い責任を問われた

李鶴來

廣村鶴來

1947.3.20

豪州

シャムで豪州軍捕虜を虐待

20年

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129

주제발표

-  129  -

*資料:韓國出身戰犯者同進會、「裁判記錄-人身保護法による釋放請求事件󰡕(1957)から作成。

上の表をみると、戦犯として服役した韓国人捕虜監視員らが問われた罪は、ほとんどが「捕虜

虐待」と「暴行」であった。韓国人捕虜監視員がBC級戦犯裁判で起訴された基準は非常に広範囲

にわたったが、戦犯裁判にまわされた韓国人捕虜監視員たちに最も多く適用されたのは「食料

や飲料水、医療の不十分な供給」と「医療提供の欠如」だったとされている。戦犯裁判に起訴され

た韓国人捕虜監視員らの罪目のほとんどは、捕虜虐待、食糧不足、患者捕虜の作業への動員、衛生

姓名

創氏名

裁判日

裁判国

罪名

刑量

備考

吳善鐸

吳川善鐸

1946.9.6

英国

スマトラのパレンバンで豪州軍捕虜を虐待 10年

羅三祚

羅德一

1946.9.6

英国

スマトラのパレンバンで豪州軍捕虜を虐待 終身

曹壽鉉

曹玉壽鉉

1946.8.22

英国

戦犯

10年

捕虜への不当な扱い

車駿錫

三中駿錫

1946.8.22

英国

シャムで連合軍捕虜を虐待

終身

金昌禧

金林昌禧

1947.5.1

オランダ

捕虜に対する不当な扱い・計画的暴行

15年

残刑13年10ヶ月

鄭殷錫

石原辰雄

1946.9.6

英国

スマトラのパレンバンで豪州軍捕虜を虐待 20年

韓允哲

淸原正茂

1946.7.23

英国

15年

サイゴンとタイで連合軍捕

虜虐待

朴貞根

新井英夫

1946.9.16

豪州

20年

ビルマで連合軍捕虜に座薬

を与えた?

朴允商

大川允商

1948.2.25

オランダ

計画的暴行

15年

残刑14年1ヶ月

金昌植

金城昌植

1947.4.2

英国

シャムで豪州軍捕虜を虐待

終身

田泰範

田村泰範

1947.5.1

オランダ

囚人が豪州軍捕虜を虐待

15年

残刑13年10ヶ月

梁承烈

南原高茂

1948.3.15

オランダ

虐待

15年

残刑14年1ヶ月

朴鍾介

新井鍾介

1946.6.26

英国

15年

タイ国ナコンパトームの捕

虜病院で捕虜虐待

朴洹敎

正木文雄

1946.12.4

英国

シャムで豪州軍捕虜を虐待

15年

尹東鉉

伊泉東鉉

1947.2.10

オランダ

虐待

20年

残刑10年1ヶ月

李鳳極

毛利俊之

1947.10.3

オランダ

計画的暴行

15年

残刑14年1ヶ月

趙雲國

雲井英治

1946.8.22

英国

シャムで連合軍捕虜を虐待

15年

安正燦

安原正茂

1947.10.21

オランダ

計画的暴行・民閑人に対する拷問

18年

残刑17年1ヶ月

朴昌浩

新井昌浩

1948.1.12

オランダ

捕虜に対する不当な扱い

15年

残刑14年1ヶ月

崔銘誠

松本明山

1946.8.22

英国

シャムで連合軍捕虜を虐待

終身

金祥龍

金山祥龍

1946.9.6

英国

終身

朴錦泳

森本錦泳

1947.8.22

英国

シャムで連合軍捕虜を虐待

15年

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130

3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

-  130  -

設備の不備、捕虜の病死などだった。これらの罪目は、当時、日本軍の命令に従うしかなかった

韓国人捕虜監視員たちにとっては苛酷なものだった。

  戦犯裁判にかけられた韓国人捕虜監視員たちは、自分自身を守りつつ正当な主張を展開す

るよりは、日本人の謀略陰謀に翻弄された。日本軍らは、連合軍の捕虜たちに向かって「最も大き

な問題は日本から来た人たちではなく、卑しい韓国人だ。日本人はみんなまじめだが、韓国人は

劣等で悪どい人たちだ」といった。そして日本人は彼らの上官に対し、連合軍捕虜の扱いを間

違ったので韓国人に罰を与えたということを、まったく報告しなかった36)。一方、日本政府は弁

護士や調査団、通訳などを派遣しており、シンガポールにだけでも60人余りが出向いて日本人

の犯罪を弁護し、韓国人軍属に罪を転嫁することも日常茶飯事のようにあった37)。また、地元新

聞において韓国人を中傷し貶めるような策略を使うことまであった。

  戦犯裁判で実刑を宣告された韓国人戦犯たちは、シンガポールのチャンギ刑務所に収監さ

れた後、1948年10月に全員がドトラム刑務所に移送となった。収監中に韓国人の死刑囚は報復

とリンチにさらされた。「お前のせいで我々の多くの仲間が死んだ」といって殴られたという。

どうせ死ぬ死刑囚だから、生きているうちに腹いせでもするつもり、ということだった。さんざ

ん殴ってから金歯まで抜いていく者もいた38)。

戦犯として死刑を免れた韓国人収容者らは、1950年から1951年にかけて日本の巣鴨プリズ

ンに移送された。1951年8月14日、ドリダー·タイレア号に乗船した230人のBC級戦犯の中に

は、韓国人27人と台湾人7人がいた。8月27日、横浜に上陸し、東京の巣鴨プリズンに連れて行

かれた。李鶴来と朴貞根(パク·ジョングン)が1956年10月6日に仮釈放され、最も遅く出所した

のは1957年4月に釈放された金昌植(キム·チャンシク)である39)。

  巣鴨プリズンは、日本の敗戦後の1945年11月に東京拘置所を接収した米軍が「巣鴨プリズ

ン」と改称し、戦犯容疑者を収容して刑を執行した場所である。連合国側はサンフランシスコ条

約の発効とともに、同条約第11条に「連合国の様々な戦争犯罪法廷で裁判を受諾し、日本国で

拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を(日本が)執行するものとする」と明記し、

36)  Gavan  Daws,  󰡔Prisoners  of  the  Japanese:POWs  of  World  WarⅡ  in  the  Pacific󰡕,  p.222.
37)  「日帝に連行されシンガポールから帰還した鄭浪が南方殘留同胞の救援を力説する」『朝鮮日報』1947年1月4日。
38)  チェ・ヨングク、「解放後BC級戦犯になった韓国人捕虜監視員」『韓国近現代史研究』29、2004、26頁。
39)  李鶴来、キム·ジョンイク訳、『戦犯になった朝鮮青年:韓国人BC級戦犯李鶴来回顧録』、136頁。

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주제발표

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戦犯に対する刑執行の任務もまた日本側にまわした。そこで、当時巣鴨プリズンに収監されて

いた韓国と台湾出身の戦犯収容者は、1952年6月14日、東京地方裁判所に対し人身保護法に基

づいてく釈放するよう請求した。請求者たちは、平和条約の発効と同時に日本国籍を喪失した

ので、条約第11条でいう「日本国民」に該当しないと釈放を請求した。この事件は、最高裁判所

大法廷まで迅速に送致されたが、同年7月に大法廷は全会一致で彼らの主張を退けた。その理由

は「戦争犯罪者として刑が下された当時は日本国民であり、その後も引き続き平和条約の発効

直前まで日本国民として拘禁されていた者については、日本は平和条約第11条により刑を執行

する義務を負い、平和条約発効後の国籍喪失または変更は上義務に影響を及ぼすものではな

い」と判示した。

連合軍の戦犯裁判で、泰緬鉄道関連の有罪判決を受けた111人のうち、69人が韓国人で捕虜

監視員は33人(48%)にもなる。結局、捕虜収容所の最たる末端で命令に服従することだけが命

をつなぐ唯一の道だった捕虜監視員たちに、戦争責任のほとんどを強引に押しつけたのであ

る。泰緬鉄道に関連して、将官級として死刑となった人は、捕虜収容所の所長だった佐々誠が唯

一である。また、将官級で有期懲役となった人物は、鉄道建設第4代司令官の石田栄熊少将だけ

である。下級機関である捕虜収容所には厳しい処罰(下級者にはさらに厳罰)を、上級機関には
軽い処罰という結果を生んだ戦争裁判だった40)。

5

結び

1942年6月頃から始まった泰緬鉄道の建設工事は、翌1943年10月25日に完工した。この鉄

道が完成するまで、連合国の捕虜とタイ・ビルマから連れてこられた労務者など、1万3千人の命

が失われた。連合国の捕虜たちは、鉄道を完成させるため強制労役に動員され、体調が悪くても

治療を施されず、食べ物も与えられずに栄養失調で死に至った。そのため、泰緬鉄道は「死の鉄

道」と呼ばれた。

  この泰緬鉄道を建設するために、日本南方派遣軍鉄道隊に所属する第5鉄道連隊(ビルマ側)

40)  内海愛子·村井敬、キム·ジョンイク訳、『赤道に埋もれる』、126頁。

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3.  일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범

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と第9鉄道連隊(タイ側)の兵力が約1万2千人、韓国人·台湾人の捕虜監視員、連合軍捕虜と徴用
労務者らが投入された。日本軍の推算によれば、連合軍捕虜5万5千人が投入されて1万2千人が

死亡、労務者7万人が投入され3万人が死亡しており、死者は計4万2千人とされている。しかし、

連合軍側の推算では、死亡した捕虜が12,399人41)、労務者は30万人が投入され9万人が死亡

し、死者は総勢10万人以上と見られている。

それでは、泰緬鉄道工事でなぜこれほど多くの人々が死亡したのか。第1は、鉄道建設はジャ

ングルと岩石地帯などが多い地域での難工事であったにもかかわらず、装備がないまま労働力

だけに頼って作業が行われたため、事故による人命の犠牲が多く発生した。第2は、大規模な工

事に取り組みながらも、病院·宿舎·食料などの普及について準備が全くされていなかったため、
栄養失調·脚気病·ビタミン欠乏症などに陥り、またマラリアやコレラなどの伝染病にかかっ

た。第3は、日本軍が軍事作戦を目的に工事期間を短縮したため、過度な労働による過労と疾病

による死者の発生を避けられなかった。その他、無理な工事を進めながら、強制的に労働力を動

員して、処罰や殴打などの過酷行為が行われた

ところが、泰緬鉄道の建設は、これに終わったわけではない。日本が戦争に敗れた後、この工

事に強制動員され苦難にあった連合国の捕虜たちが、自分たちを奴隷のように扱った日本軍を
戦争犯罪者として軍事裁判に立たせた。日本軍が連合国の戦争捕虜を強制労役に従事させ、ま

ともに食べ物を提供することなく、暴力を振るって虐待したというのだ。自分たちを虐待したと

して捕虜たちが名指した戦争犯罪容疑者は、日本人だけではなかった。中には、捕虜と一緒に生

活していた捕虜監視員らがいた。彼らのほとんどは韓国人や台湾人だった。

捕虜監視員たちは、短期間に鉄道を完成せよという日本軍の指揮を受け、連合国捕虜を工事

現場に動員する任務を担当した。数人の韓国人捕虜監視員が、監視から衛兵所勤務、収容所内で

の作業の指揮、労働の割り当て、庶務、通訳などをこなし、数百人の捕虜と直接接触することが

多かった。韓国人監視員たちは捕虜収容所の規律を守らせ、また鉄道隊の要求に応じるため、強
圧的に使役に送り出す場合もあったし殴打行為もあった。その場合、すべての不満が、捕虜と直

接接している捕虜監視員に集中するしかなかった。そのような捕虜の悪感情が、戦後、すべて捕

虜監視員たちに注がれ、戦争犯罪者として重刑を受けることになったのである。

41)  Gavan  Daws,  󰡔Prisoners  of  the  Japanese:POWs  of  World  WarⅡ  in  the  Pacific󰡕,  p.222.

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주제발표

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  泰緬鉄道の工事を短時日で完了するために、過度な労働を強いられて死亡し、また食糧や薬

品など補給品が不足して、捕虜たちが死亡した。鉄道工事の過程で、韓国人捕虜監視員たちは鉄

道建設隊が要求する作業人員を差し出すことを主な業務とし、捕虜を直接使うのは鉄道建設隊

が担当していた。泰緬鉄道の建設に関連して連合国捕虜が犠牲となったのは全面的に日本軍の

責任であるにもかかわらず、日本軍の末端にいた韓国人捕虜監視員たちに日本の戦争責任が集

中したのである。そして、連合国の戦犯裁判で、捕虜を殴り強制動員したことは、すべて捕虜監

視員たちがしたこととして、すべての罪を彼らに転嫁したのであった。

泰緬鉄道建設に関連する連合国の戦犯裁判で、韓国人捕虜監視員33人がBC級戦犯として実

刑を言い渡され、そのうち9人が死刑宣告で処刑された。日本軍の最も末端にいた韓国人の捕虜

監視員たちが、戦犯として処罰された。そして、10年以上の長期刑を言い渡された韓国人戦犯

たちは、サンフランシスコ条約の発効とともに、日本の巣鴨プリズンに移送され服役し続けた。
巣鴨プリズンに収監されていた韓国と台湾出身の戦犯たちは、1952年6月14日、東京地裁に対

し「人身保護法」に基づく釈放を請求したが、退けられた。

泰緬鉄道の建設は、最初から問題化を避けられないものだった。建設に必要な労働力として、

連合国の捕虜と占領地の人々を強制動員するということだった。戦争捕虜を強制労役に動員

すること自体が、ジュネーブ条約のような国際条約の違反である。そして、タイとビルマの国境

のジャングル地帯を通過する鉄道を敷設することには無理があり、5年から10年はかかるとい

う鉄道工事を1年以内で終わらせるのも話にならないことだった。そのため、工事に動員した捕

虜に過度な労働を強制し、食糧などの補給が絶対的に不足している状況下で工事を強行したこ

とで、死者が続出せざるを得なかった。そして、泰緬鉄道の建設工事に対する捕虜たちの不満

が、彼らと毎日直接接していた捕虜監視員に集中することになり、そのことが戦後、戦争犯罪と

される原因になったのである。

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주제발표

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필리핀  비사야  지방에서의

일본군에  의한  성폭력

04

오카다  타이헤이(岡田泰平)

(도쿄대  대학원  종합문화연구과  교수)

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주제발표

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フィリピン  ビザヤ地方における
日本軍による性暴力

岡田泰平  (東京大学  大学院  総合文化研究科)

1

初めに

アジア太平洋戦争において、フィリピン戦は最も激しくたたかわれた戦場の一つである。

1944年10月のレイテ戦では、参加した日本軍84,000人の内、79,000人が亡くなった。それに
対して米軍3,500人が亡くなっている。1945年2月から3月のマニラ戦では、日本軍による残虐

行為が多発し、米軍の砲撃により多大な被害が生じた。合計、フィリピン人100万人、日本軍49

万8600人、アメリカ人数万人程が死亡している。この戦争における日本軍の非人道的行為は、

東京裁判においても、明らかにされてきた。それは住民の大量殺害と言ったもののみではなく、

人肉食なども含んでいた。性暴力も含まれている。例えばフィリピン人検察官ペドロ  ロペスは

フィリピン各地で行われた集団レイプなど10件ほどを論じている。フィリピン社会が被った甚

大な被害も、日本軍兵士の大量死も、日本軍による非人道的行為も、フィリピン戦をめぐる語り

のなかに定着している。この状況は、すでに1950年代に学界において、フィリピン戦が論じ始

められてから、より詳しくはなってきているものの、過去70年において劇的な変化はなかった。

なにか特定の日本軍の非人道的行為を暴露したところで、新たな発見とは言えない研究状況が

ある。このようななかで、私自身の場合、フィリピン戦における非人道的行為、とりわけ性暴力

を論じてきた。その動機に、1990年代以降の従軍「慰安婦」運動があったことは言うまでもない。

まず初めに、本論で扱う、ビザヤ地方の特徴について論じておきたい。東からみると、ビザヤ地

方は、サマール、レイテ、ボホール、セブ、ネグロス、パナイ、パラワンと言った島々からなるが、

本論では、ボホール島、セブ島、パナイ島を扱う【地図1】。この地域区分は、これらの島々が、

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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1944年に102師団の管轄区分になったことによる。ビザヤ地方では1942年5月ごろに米軍が

降伏するが、それぞれの島にゲリラ組織が残り続ける。もっともこれらのゲリラ組織は統一さ

れたものではなく、パナイ島やセブ島ではゲリラ間の内紛が激しかった。1944年夏には部隊の

再編制が行われ、秋にはレイテ戦のためにレイテ島に多くの軍組織が集結していく。いわば、ボ

ホール島、セブ島、パナイ島は、米軍による反撃のルートからは外れており、激戦地にはならな

かった地域である。それでは、上述をかんがみ、これらの地域を対象とすると、どのように日本軍

による性暴力を語ることが望ましいのだろうか。

第1には、ジェンダーに関わるニュアンスのある語りである。結論を先に述べると、中部ビザ

ヤ地方では、日本軍は幅広く性暴力を、戦術の一環として利用している。それは「慰安婦」に関わ

るものというものよりも、ゲリラやゲリラ関係者に向けられた戦術としてである。よく知られ

ているように、「慰安所」は日本兵にとっては慰労の場だった。中部ビザヤ地方でも「慰安所」は幅
広く展開していた。いわば、日本兵の生活のリズムのなかで、「慰安所」は重要だった。しかし戦

術として、より明確なのは、レイプである。ところが、そのレイプに直接かかわった人物を見て

も、そこに見出すのは複雑な人間像である。例えば、セブ  マクタン島の事例がある。憲兵曹長の

吉田忠志は、ビザヤ憲兵隊セブ分隊に所属しており、その本部であったセブ師範学校ではセブ

市民の多くを拷問した。さらにその拷問の一環として、性暴力も用いたと言われる。また、彼は

1944年8月19日のパトロール隊の隊長に任命された。このパトロール隊は、セブ  マクタン島の

漁村コルドバで、著しい拷問と3名の殺害、さらには幅広い性暴力を行っている。しかし、吉田は

カトリックであり、セブの女性と結婚した。情愛深い夫であると共に、息子の将来を気遣う父親

でもあった。吉田は1947年5月に処刑されている。すでにレイプが幅広く行われたことが明ら

かであるのだから、なぜ特定の人物が著しい性暴力を行うようになったのか、という問いに答え

る研究が求められる。

第2に、中部ビザヤを含むフィリピン戦は、グローバル  ヒストリーとしての重要性を持って

いる。冷戦後のユーゴスラヴィアやルワンダで、ジェノサイドが行われた。その後の国際刑事裁

判では、幅広いの性暴力事例が裁かれ、性暴力の実行者が有罪となった。1990年代のこれらの

事例は、国際刑事裁判所の設立や、その設立要件となったローマ規程のなかで性暴力が明記さ

れることに繋がったと言われる。しかし、戦後フィリピンで行われたBC級裁判では、十分とは

到底言えないのだが、明らかに性暴力が裁かれている。さらに、1947年4月にフィリピン政府は、

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주제발표

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アメリカ軍から裁判を引き継ぐ際に、性暴力事例をより厳しく追及していく方針を掲げてい

る。フィリピンでのBC級裁判は、刑事裁判の歴史のなかで、戦時性暴力を訴追した先駆事例と

も言える。この観点からの法学研究が求められる。

第3に、これらの裁判は、戦時の状況や非人道的行為についての様々な資料を生み出してき

た。BC級裁判資料は、日本の国会図書館が多くを集めてきており、しかも関係者の名前から調

べることができる。さらには、例外はあるものの、戦後日本社会においては、戦時中の行為につ

いての発言が訴追や社会的制裁の対象にならなかった。このことは、回顧録や戦記ものが大量

に書かれることにつながった。膨大な資料があり、それを十分に使用できていない状況がある。

たしかに一部には資料の不開示はあるものの、この分野において決定的資料が隠されているの

でその当時の実態を描けないということはない。このような詳細な資料があることから、フィ

リピン戦においては、戦時性暴力のモデル化が可能である。とりわけ、この分野での先駆者であ

るシンシア  エンロ―が言うように、指揮命令系統――特にミクロな系統――を追うことが重要

であろう。本発表では、この第3のアプローチを取る。

2

パナイ島

『公刊戦史』によると、パナイ島の制圧は不十分だった。第5師団の河村支隊と第18師団の川

口支隊は、米軍を降服に追い込んだのちに、ミンダナオに転戦していく。その後パナイ島を支配

したのは、瀬能保美中佐が指揮する独立歩兵第33大隊だった。しかし、アメリカ人指揮官のクリ

スティが1942年5月に降伏したことをきっかけに、自由パナイ軍と呼ばれるゲリラ組織が発足

し、その指揮官ペラルタは、すぐに8000人からなるゲリラ組織へと発展させた。この自由パナイ

軍が33大隊を追い詰めていく。イロイロ市が自由パナイ軍に取り囲まれるにいたって、第14軍

は第11独立守備隊をビザヤに送ることを決める。この守備隊麾下の第16師団がパナイ島に

1942年9月に上陸する。この時に、第16師団指揮官の河野毅中将に渡辺英海中佐が参謀として

送られ、その麾下にあった第37大隊の戸塚良一中佐の下には、参謀として渡辺堅吾中尉が配置

されている。これら二名の渡辺がパナイ島における治安戦を立案した。村々を廻って、ゲリラを

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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討伐する作戦だった。この治安戦を克明に描いた『フィリピンの血と泥』の著者熊井敏美は、渡
辺堅吾の後任だった。彼は、この治安戦における非人道的行為を渡辺堅吾の残酷な性格と戸塚

のリーダーシップの欠如に見出している。渡辺堅吾は拷問を多用し、「殴打、蹴り、水攻め、天井

からの吊るし」が使われた。もっとも、熊井の描写では、ゲリラ側の非人道的行為も酷かった。死

んだ日本兵の性器を木に吊るす、日本兵の死体をバラバラにし川に流し、下流にいた日本軍に知

らしめるなどの挑発行為があった。

さらに、渡辺堅吾はずる賢く残忍な戦術を用いている。拘束したゲリラの構成員がゲリラ部

隊の居場所を告白した。渡辺は、この構成員にパトロール隊の先頭を歩かせた。居場所に到着

し、実際にゲリラ部隊がいなければ、構成員はその場で処刑された。ゲリラ部隊がそこにいた場

合、彼はそこで解放されるが、ゲリラ部隊に後ほど殺されるのが常だった。このような措置ゆえ

に、一方では激しい拷問にも関わらず、住民はゲリラについて語らなくなった。他方では住民の

より極端な迎合を生み出した。熊井によると、ゲリラへの関与を疑われた一家族が、見逃しても

らうために、治安部隊に娘の1人を差し出してきた。また、渡辺堅吾の命令の下、母子を含めた処

刑が頻発するようになった。ゲリラとは関係していないと思われる、アメリカ人の家族も殺さ

れた。

その後の趨勢を見てみよう。この治安戦は、1943年7月から12月まで続いた。その後の1943

年末から1944年初頭のみ、日本軍はパナイ島で優勢を保つことができた。1944年4月には、周
辺の島々からゲリラが結集し、自由パナイ軍が勢力を盛り返した。他方、日本軍には補充がな

かった。レイテまたはミンダナオのどちらかにおける、米軍の再上陸に備えなければならなかっ

たからである。レイテ戦後の1945年3月には、ゲリラの総力が22,500人に比べ、パナイ島の日

本軍は2750人だった。1945年3月18日に米軍がパナイ島に上陸すると、日本軍が再度パナイ島

をその支配下に置くことはできようもなかった。

では、次にBC級裁判資料から、パナイ島における治安戦を検証してみよう。この資料には、

熊井の描写では間接的にしか触れられていない、性暴力がより明確に描かれている。全体で13

点の捜査報告書が作られている。その大部分は住民虐殺に係るものである。その最も暴力的なも

のが、1943年9月13日と29日に500名から600名がアジュイとサラで虐殺された事件である。

このような大量死の他に、パナイ関係の裁判資料に特徴的であるのは、「渡辺」という名が様々

な文書に現れることである。その内の一部は、河野毅中将の参謀だった渡辺英美中佐を指して

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주제발표

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いるが、他のものは、やや曖昧に「キャプテン渡辺」と述べられ、渡辺堅吾中尉を指している。こ

れらの二人の渡辺は、住民に知れ渡っていた。軍組織の構成と訴追状況は以下の通りである。

【図  1943年7月以降のパナイにおける日本軍指揮命令系統】

第11独立守備隊
指揮官  河野毅中将

訴追→処刑

参謀  渡辺英美中佐

訴追→処刑


├第36独立歩兵大隊(169大隊)レイテ島
├第38独立歩兵大隊(171大隊)パナイ島北部→レイテ島
├第39独立歩兵大隊(172大隊)西ネグロス島→レイテ島
└第37独立歩兵大隊(170大隊)パナイ島南部
    指揮官  戸塚良一中佐

訴追→処刑

    参謀  渡辺堅吾中尉

戦死

(後任)参謀  熊井敏美中尉 訴追→終身刑→生還
    │
    ├第1中隊
    │指揮官  福富博中尉
    ├第3中隊
    │指揮官  河野輝夫大尉
    ├第4中隊
    │指揮官  吉岡信夫大尉 訴追→処刑
    └第2中隊
      指揮官  藤井  一中尉

訴追→処刑

        │
  ├第1小隊
        ├第2小隊
│指揮官  大塚紀之(当字)少尉

訴追→処刑

├第3小隊
        │指揮官  桑野忠孝(当字)曹長 訴追→処刑
└第4小隊

上述の日本側の資料が明らかにしてきたように、日本軍はパナイ島を制圧できなかった。そし

て、1944年冒頭の数カ月を除いて、ゲリラと常に戦闘状態にあった。そのような戦地において、

非人道的行為は日本軍、ゲリラ双方によって行われたのだが、日本軍がゲリラとの関連を疑わ

れる女性に対して、著しい性暴力を行ったことに疑いの余地はない。「米国対戸塚」では、フィリ

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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ピン人対日協力者の1人が、自らの目撃した拷問の3段階を説明している。はじめに棒で殴打

し、次に水をたくさん飲ませてさらに殴打し、そして最後には性器や陰毛を焼いた。また、住民

の証言によれば、裸にされ、隣の部屋に連れ込まれた住民女性たちの泣き声や叫び声を男性住

民が聞いているし、その後女性たちは日本兵は「みだら」(indecent)だと答えたという。さら

には、住民女性を隣人にレイプさせたというような証言もある。また「米国対藤井」では、藤井自

身が、ゲリラの妻と見られるミリタンテという女性を拘束、拷問したことを語っている。妊娠3カ

月の彼女を殴り、裸にし、性器に棒を突っ込み、その結果、彼女を流産させている。また、拘束し

た女性を裸にはするものの、ゲリラについての情報を提供したのでなければ、それ以上の暴行は

行わなかった、とも述べている。さらに、住民の証言によると、男性から引き離され、裸にされた

住民女性が、日本兵は「不道徳」だった、と告白した。なお、大塚と桑野も15件におよぶ大量殺害

で訴追されているが、公判記録自体は、まだ検討できていない。

  このような指揮命令系統から見ると、次の疑問が浮かび上がる。つまり、治安戦に伴う非人

道行為が常態であったなら、なぜいくつかの軍組織は訴追を逃れたのか、という問題である。熊

井が論じるように、戸塚良一中佐の指揮する第37独立歩兵大隊がパナイにおける治安戦を

行った部隊だったのだとすると、なぜその麾下の中隊レベルでは、第1中隊と第3中隊の指揮官

は訴追されていないのか。また、パナイの治安戦の場合、旅団長や旅団の参謀から、大隊長、中隊

長まで訴追され、第2中隊に関しては、小隊長まで訴追されている。しかし、4人いる小隊長の
内、訴追  処刑されたのは2人のみである。残りの2人がなぜ訴追を逃れられたのかは、今後の課

題である。また、北部の町カピス市には、171大隊が駐屯していたのだが、1944年10月頃には、

第一中隊を除き、レイテ島に転出している。つまり、戸塚-渡辺の指揮命令系統外の軍組織がこ

の当時パナイ島にはいた。その指揮官は、野田六郎中尉だった。この野田は訴追されていない。

この点も、追究が求められる。

   

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주제발표

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3

セブ島

パナイ島と異なり、セブ島は大規模な治安戦の舞台とはならなかった。米軍降服の後、パナイ

島と同様に、第11独立歩兵防衛旅団の支配下に置かれていたが、この旅団は1944年6月には

102師団に統合された。また、102師団の下におかれた、大西精一中佐を司令官とする173大隊

が1944年5月にセブ島の守備隊となった。

BC級裁判資料の内、セブについての捜査報告書は28点書かれている。その内1944年3月以

前のものは1点、3月~6月は10点、8月以降は17点である。数百名を殺すような、大量虐殺に該
当するものはない。なお、102師団の大部分は、レイテ戦のために、レイテ島に移っていき、

1944年10月以降にはセブ市には102師団司令部の他には、万城目武雄少将指揮下の第78旅団

司令部があり、その下には大西精一中佐の173大隊があるのみだった。1500人程の兵士の内、

900人ほどは173大隊の構成員だったと思われる。

捜査報告書は多様な事件を扱っており、それを以下の6つの区分に分けた。また、右端には

173大隊が守備隊になった前と後の事件数を付しておく。

内容 173大隊の下(それ以前)

[A]  外部部隊による10人~100人ほどの殺害

1  (0)

[B]  外部部隊による10人未満の殺害

4  (3)

[C]  駐屯部隊による複数名の殺害

4  (1)

[D]  散発的な拷問と殺害

5  (6)

[E]  長期的な事件

1  (0)

[F]  例外的な事件

1  (1)

[G]  アメリカ兵に対する犯罪

1  (0)

では次に、どこで起きたのかを見ていきたい。そのために利用したのは、『セブ州地方史』全55

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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巻というものである。この資料にはセブ州の全ての町史が含まれている。日本占領期の記述を調

べてみると、聞き取り調査に依拠しているので不明確な場合があるのだが、それでも日本軍によ

る非人道的行為があった町と、非人道的行為がなかった町を確認できた。そこに上述の[A]~

[G]を書き込んだ【地図2】。パナイ島の事例と比べると、明らかに大量殺害Aが少なく、  [C]や

[D]が多い。現地社会に暫くいた部隊が、犯した行為が多かった。これに加え、173部隊は、20カ

所ほどの駐屯地を置いていた。駐屯地に上述の[A]~[G]および「セブ州地方史」のなかで日本軍

の非人道的行為(Atr.)を書き入れてみると以下のとおりである。

[バンタイン諸島]なし

[最北沿岸地域]Medellin[C]Atr  1

[東北沿岸地域]Compostela;  Danao;  Carmen;  Sogod  [B][F]  Atr  1

[西北沿岸地域]Asturias;  Balamban;  Toledo  [C]

[セブ市近辺]Cebu  City;  Guadalupe  District,  Cebu  City;  Mandawe

[B]2  [C]  [D]  [E]  Atr.5

[中部]Barili;  Dumanjug;  Alegria;  Pandan,  Naga;  Mingilanilla;  Carcar 

[A]  [B]3[C]2[D]8  Atr.  6

[東南沿岸地域]Dalagueto.

[西南沿岸地域]なし  Atr.2

[最南沿岸地域]なし

つまり、セブ島における日本軍に非人道的行為には次のような傾向が見られる。第1に、トレ

ドを除く北西沿岸地域、最南部沿岸地域、バンタイン諸島では、非人道的行為はなかった。第2

に、セブ市周辺や、ドゥマンフッグとカルカルといった中部の両岸地域では多くの非人道的行
為が行われ、また米軍防諜部隊(CIC)も捜査を綿密に行い捜査報告書が多く残されてい

る。第3に、捜査報告書の内容は、『セブ州地方史』よりも狭くにしか、非人道事件に関心を示して

いない。とりわけ西南沿岸地域ではこの傾向が強く見られる。なぜこのような傾向が生じるのか

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주제발표

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は今後追究したい。第4に、西南沿岸地域を除くと、とりわけ173大隊の下では駐屯地が多い場所

で駐屯部隊による非人道行為が起きている。単純化していうのであれば、セブ全島を制圧する

ほどに日本軍は強力ではなく、駐屯地周辺と言えども、十分に制圧することができず、そのよう

な場所ではゲリラとの戦闘が絶えず、そのなかで非人道的行為が行われていったと言えよう。

それでは次に、173大隊の構成を見てみよう。また、その他の資料を調べ、指揮官の足跡も記し

た。

駐屯地

部隊名/位階

氏名

足跡

Cebu  City

司令官

大西精一中佐

訴追→終身刑→生還

Cebu  City

副官 

松浦秀夫中尉 

Dumanjug,  Carcar 

第1中隊

東進(当字)中尉

戦死

Dumanjug 

第2中隊

稲本寅夫中尉 

Cebu  City,  Naga

第3中隊

戸島軍七中尉 

Balamban

第4中隊

川原  一中尉

訴追→無罪

Naga

鉄砲隊

淵脇政治中尉 

これらを見た上で、次に個別の事件について注目してみたい。

ケース1:バリリ(Barili)事件

この事件は典型的な駐屯部隊による殺害[C]である。駐屯地の兵士が村民をゲリラ側について

いるとして拘束し、その上で大量の殺害を行っている。殺される前に、数名の女性が小学校の教

室に閉じ込められ、レイプされ続けた。被告は小隊長杉本正則(当字)曹長と彼の部下5名だっ

た。彼らは、1944年8月終わりにパトロールに出かけ、住民を拘束した。その後9月13日までバリ

リに残り続けたが、撤退する時に1人の女性が辛くも生き延びたが、その他の拘束していた女性

も全て殺した。合計で20名程殺されている。駐屯していた部隊だったので、住民の証言も具体的

であり、その結果として、被告全員に死刑判決を受けている。

この小隊は、第1中隊の麾下にあり、杉本の上官は、東進だった。以下の杉本の証言は、この非

人道的行為の背景の一端を示している。

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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A 私は、中隊長から処理する(take  action)ように命令を受けました。

Q どのような命令だったのか。

A みんな殺せと。だから、翌朝部下の平崎(当字)伍長に、私は[パトロールに]出かけなければなら

ないと告げました。彼が尋問をし、みんな殺したのです。

Q 子供も大人と同様に殺せと言われたのか。

A 子供か、大人かという点も、年齢も性別も、命令にはありませんでした。中隊長はこれらの女性や子

供について知っており、私に処理せよと言ったのです。だから、何らかの例外があるとは思いません
でした。

Q その中隊長とは誰か?

A 東進中尉です。

(中略)

Q 東中尉は大西中佐から直接命令されていたのか。

A はい

Q どのような形式で、住民を殺せとの命令を受けたのか。

A 文書での命令であり、東中尉の捺印(signed)がされていました。

Q 女性や子供の名前も含まれていたのか。

A 名前は全く書いてありませんでした。

Q その命令は、中隊本部から来たのか、それとも大隊本部から来たのか。

A 中隊本部から来ました。

つまり杉本は、部下に責任転嫁しているが、結局は東もよく知っている住民を殺した。殺す側

も殺される側もそれまで同じ生活空間を生きていたのである。言い換えれば、大隊長大西が許可

し、中隊長東が命令を下し、小隊長杉本が実行している。ただし、このような公判記録を読んで

も、なぜ杉本や彼の部下が女性を監禁しレイプしたのかは明確にされていない。検察官も女性の

殺害は論点として取り上げたのだが、レイプは十分に追求していない。

   

ケース2:メデリン(Medellin)事件

この事件の場合、捜査報告書ではボゴと書かれているが、実際に事件が起きたのはその北部

にあるメデリンである。また、捜査報告書に基づき駐屯部隊による[C]に分類したが、むしろ外部

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주제발표

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部隊による殺害[B]に該当するものである。また部隊の駐屯地はボゴだったのだが、この部隊の

主たる任務はメデリンの製糖場でガソリンの代替品を生産しつづけることだった。駐屯部隊の

隊長は阿部末男(当字)中尉だった。彼は1944年8月9日にメデリンにやってきたのだが、すぐ

に製糖場労働者のほとんどがゲリラかまたはゲリラの支援者であることを知る。そこで、なる

べくゲリラを刺激しない方針を取り、住民を尋問するようなこともなかった。しかし、10月10日

に出たパトロールにおいて、この微妙な力関係が崩れてしまう。阿部が部下数名とパトロール

にでていると、近隣の村クルバ近くでゲリラに襲撃される。日本兵1人が殺され、もう1人の日本

兵がケガを負いセブの病院に送られてしまう。このことは、大隊長大西の知るところになる。

10月12日には第1中隊の一部からなる遠征部隊が送られてくる。遠征部隊の部隊長は東進中

尉その人だった。製糖場に到着する途中から、住民を殺し、家を焼き払い、「スペイン人」と呼ば

れていたジョセフィーナ デル リオと2人の姉を拉致している。その後も、遠征部隊は、治安行動

を行うとともに、デル 

リオ姉妹を監禁しレイプしつづける。10月18日には、阿部は、ジョセ

フィーナが東の部隊に拘束されていることを発見し、彼女を救出する。しかし、その翌日阿部

は、東とこの救出を巡って口論となり、結局遠征部隊の方が上位にあるということで、ジョセ

フィーナを東に返してしまう。東のこのような行為は軍法に違反するので、阿部は大西中佐よ

りも上位にいる第78旅団司令部の万城目武雄少将に訴える。公判記録によると、万城目は証人

として出席している。万城目は阿部からそのような訴えを1944年12月ごろに受けたことを認

めるが、レイテ戦後の混乱もあり、また東も1945年3月の戦闘で殺されてしまうので、対応し

なかったと回答している。なお、10月末に東はメデリンから撤退するなかで、ジョセフィーナや

姉妹を殺害した。また、阿部は裁判で死刑判決を受けている。

ケース3:ミングラニリャ(Minglanil a)事件とトレド(Toledo)事件

上述の2つの事例から、大西から東へという指揮命令系統のなかで、住民虐殺と共にレイプが

生じていることが分かるが、米軍はこのような指揮命令系統を全く理解していなかった。その点

をよく表しているのが、ミングラニリャ事件をめぐる裁判である。この事件は、おそらくセブ島

で起きた非人道的行為のなかでもっとも大規模のものだった。セブ市南の内陸部に位置するミ

ングラニリャ近くの村トゥボッグ(Tubog)で、30名ばかりの中国人が殺され、数名の女性がレ

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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イプされた後に殺害された事件である。海軍輜重部隊の溝口似郎大佐がこの事件の首謀者であ

るとして訴えられ、裁判では死刑判決を受けた。

溝口の部隊はそもそも万城目の第78旅団司令部の下に置かれており、戦闘部隊ではなかっ

た。マンバリン(Mambaling)というセブ近郊の海岸が彼の駐屯地だったのだが、マンバリン

から内陸のトゥボッグに行ったという証言をしたのは、マンバリンで雑貨店を経営していた中
国人1人だった。また、トゥボッグの殺戮を辛くも生き延びた人々も、溝口の部下を明確に加害

者だと言うことはできなかった。この裁判の結果、溝口は死刑判決を受けるのだが、二次文献に

よると、マンバリンの住民からの嘆願書により溝口の裁判は不当と認められ、溝口は死刑房から

生還することができた。日本に帰った溝口は、仏教のセクトを率いた。

それでは、上述してきた3つの事件の上官責任を負うと思われる大西精一中佐はどのような

形で訴追されたのだろうか。大西は、トレドで起きた7名の殺害についての事件で訴追されてい

る。しかし、この事件では一応トレドを訪れたということで終身刑にはなるものの、実際に処刑

を行ったわけではないので、死刑は免れている。そのなかで、大西は一度は自らが処刑を命じた

ことはないと言うものの、検察官に対して次のような答弁をしている。

Q  裁判を行わずに処刑するというのは慣例だったのか。

A 裁判を行ったことはありません。武器を保持しているゲリラを拘束している場合は、裁判なしで処

刑する、ゲリラの活動に関係していると思われる民間人の場合、憲兵隊に送る、という命令は下しま
した。

Q  その命令は、あなたの権限で行ったのか(originate  from  you)。

A  そういうことです。

つまり、大西の下では、拘束された人物がゲリラか否かという点について裁判は行われず、現

場の指揮官が判断によって処刑することが可能であった。とりわけゲリラと民間人の判断がつ

かない場合、上述のバリリ事件のように中間にいる指揮官がゲリラと判断し処刑を命じた。な

お大西は生還して日本に戻り、1970年代初頭まで鳥取県米子市に住んでいたことが確認でき

ている。

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주제발표

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4

ボホール島

次に見るボホールの事例は、パナイ島ともセブ島とも異なる特徴を有している。ボホール島

は日本軍がほとんど制圧できなかった島である。州都のタグビララン周辺に1944年前にも駐

屯部隊が一部いたことはインタビュー調査で明らかにできたが、資料上では1944年6月に一度

治安行動が行われたことと、1944年11月ごろに尾家刢大佐指揮下174大隊の第2中隊(渡辺正

中尉指揮、計160人)がタグビラランに派遣されていることのみが明らかになっている。

日本軍のレイテ戦における敗北の後にこの状況が変わるのは、ボホール島がレイテ島のそば

にあるからであった。174大隊の敗残兵に加え、レイテ戦で敗れた部隊や部隊から落脱した兵

士がボホール島に逃げ込んだ。その結果、ボホール島の内陸部には、日本軍の敗残兵が1945年

8月の日本敗戦以降も立てこもるようになる。102師団の参謀だったと自ら述べる鈴木清は、米

軍に協力し、そのような敗残兵の投降を促している。1945年12月にボホールに入り、その後数

カ月の間に、85名を投降させた。BC級裁判資料に残っている、ボホールに関する事件は5件あ

るのだが、その内4件はこれら敗残兵による犯罪である。ここではその内の一件を見てみよう。

小郷由紀夫(当字)は伍長に過ぎず、事件当時、どのような指揮命令系統にもいなかった。

174大隊第2中隊の一員だったが、アメリカ軍の攻撃を受け、タグビラランから逃げて山中をさ

まようようになった。敗走するなかで「自活自戦」を実践した。自らの階級の低さに関わらず、小
郷は15人ほどの集団のリーダーになった。ゲリラに数回攻撃され、そのたびに敗走した。10月

中頃になると塩がなくなった。そこで、10月24日に塩を探すために村に降りて行った。カタグ

ダアン村で起きたことについては、検察と原告側で小郷が村民1人を殺害したこと以外は見解

が異なっている。小郷は、日本刀で村民を切り殺したことは同意しているが、村人がゲリラであ

り、山刀と手りゅう弾を持っており、自己防衛であったと述べる。その後、小郷と彼の仲間数名

は、村人と交渉し塩と鶏を得ることができたと証言する。他方、検察は、小郷が殺したのはただ

の農夫で、その後、小郷の仲間は村の入り口で女性をレイプした、と主張する。さらには、11月4

日に小郷らは他の村を襲撃し、50歳の女性と30歳の男性を拉致し、後に殺害した、とも述べる。

小郷らは、1946年1月26日に米軍に投降している。174大隊第2中隊160人の内、生き残った

のは40人のみだった。また、小郷らのキャンプを調べたところ、たしかに2人の死骸があった。ま

た、一部には人肉食が疑われる記述もあるが、その点は追及されていない。しかし、この裁判は、

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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他の裁判と比べても不十分さが際立っている。日本兵の側もどこにいたかを明確にできないし、

村人もどの日本兵が何を行ったのかを明示できていない。例えば、レイプされた女性は、法廷で

日系アメリカ人の通訳をレイプ犯だと指し示してしまっている。アメリカ人の法廷通訳が事件

のレイプ犯ということはありえないので、少なくともレイプ犯の特定はできていないと言えよう。

       

5

まとめにかえて

冒頭で、ミクロの指揮命令系統に注意し、戦時性暴力が起きるモデルを構築したいと述べた。

BC級裁判資料を中心に論じたが、『セブ州地方史』、防衛研究所戦史資料室所蔵の軍関係資料、

靖国神社偕行文庫所蔵の「戦記もの」で裏付けを取るようにした。その結果、およそ3つのことが

言えよう。第1には、パナイ島、セブ島、ボホール島では、それぞれの戦場の実像が大きく異なる

という点である。他方、パナイ島、セブ島の事例からは、ゲリラ関係者を拷問するなかで、幅広く

性暴力が使われていたことが確認できる。

さらにはこの種の性暴力が生じる背景としては、特定の指揮命令系統があった。パナイ島で

は、渡辺-藤井―大塚  桑野という線での性暴力が生じている。熊井は渡辺堅吾を「満州事変、支

那事変、バターン半島攻略戦などに参加しているので戦場経験は部隊一のベテランだった。彼

の戦闘方法は、その体力、性格通り強引、がむしゃら作戦であった」と説明するが、特に渡辺堅

吾の影響は極めて大きかったと言えよう。彼自身の指導の下で部下に性暴力を行わせたのだが、

このことにより性暴力が拷問の一部に組み込まれていった。他方、セブ島の場合、大西―東の指

揮命令系統が二つの事件の性暴力に関連している。もっとも、渡辺堅吾とその影響と比べると、

大西の役割は曖昧である。というのも、パナイ島の170大隊と異なり、セブ島の173大隊の場合、

旅団長―大隊長―中隊長―小隊長と体系的に裁判にかけることを行っておらず、とりわけミン

グラニリャ事件において、その首謀者たる173大隊を裁かず、関係のない海軍輜重部隊を裁くと

いう失態を犯しているからである。ただし、大西のおおざっぱな命令の下での、東進の影響が大

きかったように思える。東はメデリン事件では自ら性暴力を行っているし、バリリ事件では知っ

ていた住民も殺すことを冷酷に命じている。ただし、東のことを詳述した軍関係資料や「戦記も

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주제발표

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の」は発見できておらず、この点は今後調査すべきであろう。

第2に、特定の指揮命令系統が性暴力を生じさせたことは上述のとおりだが、日本軍兵士によ

る性暴力が指揮命令系統を必ずしも必要としたわけではなかったことも明らかである。ボホー

ルでの性暴力事例は、そのような指揮命令系統がない敗残兵によるものである。指揮命令系統が

ないということは、性暴力を証明する論証も少なく、現時点では十分な資料的裏付けができて

いない。

第3に、冒頭では日本軍従軍「慰安婦」問題がこのような視角からの研究のきっかけになった

と述べたが、その当時の日本軍の法意識からすると、レイプは違法だったのだが、「慰安婦」は合

法だった。このような指摘は、「慰安婦」が被った悲惨さを否定するものではない。ただし、ビザヤ

地方に関連する文書を見ると、このような合法意識なしには、逆に「慰安所」が占領地において果

たした役割が理解できない。セブ島の裁判事例では、冒頭で触れたコルドバ事件のなかで、レイ

プ犯と目される憲兵伍長石崎巌の発言が注目される。彼はレイプという違法行為を行っていな

い論拠として、自らが「慰安所」を管理する側であり、性行為を行いたいのであれば「慰安所」で

行えたことを論じている。また、上述したトレド事件をめぐる公判では、ベティ  バスコンと呼ば

れる「慰安所」の経営者が日本軍を擁護する証言を述べている。彼女は、トレドでの住民虐殺を

疑われた部隊の兵士が、より内陸の場所で自らが経営する「慰安所」に頻繁に通っていたと、ア

リバイを与えている。

「慰安婦」制度が女性を性行為の対象としてしか見ないという価値観に根差しており、このこ

とが日本兵に影響を及ぼしたことは、その通りだろう。だからこそ、例えば上述のミリタンテに
対するような、著しい性暴力を日本兵は行えたのである。他方で、その当時の法意識からすれ

ば、レイプと「慰安所」は異なるものだった。例えば、ジョセフィーナのように2週間ほど監禁さ

れレイプされ続けるという「慰安所」に類似した事例もあったが、それは当時「慰安所」としては

理解されていなかったのである。それぞれの非人道的行為のニュアンスを理解するためにも、レ

イプと「慰安婦」をそれぞれに異なる性暴力として、戦場の現場から理解していくことが求めら

れよう。

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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【日本軍による戦時性暴力の概念図】

          ┌合法*―「慰安婦」

戦時性暴力┤

├超法規的措置―憲兵隊によるもの(コルドバ事件)

          └違法―裸にする  性器にモノを挿入  レイプ
                      │
                      ├指揮命令系統があるもの
                      │    │
│    ├治安戦において(パナイ島)
                      │    │
│    └占領地において┬駐屯部隊によるもの(バリリ事件)
│                    │
│                    └外部部隊によるもの(メデリン事件)
                      │
                      └指揮命令系統がないもの(ボホール島)

*軍法  軍律上という意味

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주제발표

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필리핀  비사야  지방에서의 
일본군에  의한  성폭력

오카다  타이헤이(도쿄대  대학원  종합문화연구과  교수)

1

서론

아시아  태평양전쟁에서  필리핀전은  가장  치열하게  싸웠던  전쟁  중  하나이다.  1944년 

10월 레이테전에서는 참가한 일본군 84,000명 중 79,000명이 사망했다. 그에 비해 미군은 

3,500명이  사망했다.  1945년  2월부터  3월까지  마닐라전에서는  일본군의  잔학행위가  잦아 

미군의 포격으로 막대한 피해가 발생했다. 합계 필리핀인 100만명, 일본군 49만8,600명, 

미국인 수만명이 사망하였다. 이 전쟁에서 일본군의 비인도적 행위는 도쿄재판에서도 명백히 

밝혀졌다.  그것은  주민의  대량살해뿐만이  아니라,  인육식  등도  포함하고  있으며,  성폭력도 

포함되어  있다.  예를  들면  필리핀인  검찰관  페드로  로페즈는  필리핀  각지에서  행해진  집단 

강간  등  10건  정도를  언급하고  있다.  필리핀  사회가  입은  막대한  피해도  일본군  병사의 

대량사도 일본군에 의한 비인도적 행위도 필리핀전을 둘러싼 이야기 속에 자리 잡고 있다. 

이 상황은 이미 1950년대에 학계에서 필리핀전이 거론되기 시작하면서부터 자세히 알려져 

있지만  과거  70년  동안  극적인  변화는  없었다.  어떤  특정  일본군의  비인도적  행위를  폭로

한다 해도 새로운 발견이라고 할 수 없는 연구 상황이 있다. 이런 가운데 나 자신의 경우는 

필리핀전에서  비인도적  행위,  특히  성폭력을  논해  왔다.  그  동기에  1990년대  이후  종군 

「위안부」  운동이  있음은  말할  필요도  없다.

우선 처음으로 본론에서 다룰 비사야 지방의 특징에 대해서 논하고 싶다. 동쪽에서 보면, 

비사야 지방은, 사마르, 레이테, 보홀, 세부, 네그로스, 파나이, 팔라완이라고 하는 섬들로 

구성되어 있지만, 본론에서는, 보홀 섬, 세부 섬, 파나이 섬을 취급한다【地図1】. 이 지역 

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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구분은  이들  섬들이  1944년에  102사단의  관할로  구분이  된  데  따른  것이다.  비사야  지방

에서는 1942년 5월경 미군이 항복하지만 각각의 섬에 게릴라 조직이 계속 남아있다. 무엇

보다  이들  게릴라 조직은  통일된  것이  아니고 파나이  섬이나  세부  섬에서는  게릴라  간의 

내분이  극심했다.  1944년  여름에는  부대  재편제가  실시되어  가을에는  레이테전을  위해 

레이테 섬에 많은 군조직이 집결해 간다. 말하자면 보홀 섬, 세부 섬, 파나이 섬은 미군의 

반격  경로에서  벗어나  격전지가  되지  않았던  지역이다.  그렇다면  앞서  기술한  바와  같이 

이들 지역을 대상으로 한다면, 일본군에 의한 성폭력을 어떻게 이야기하는 것이 바람직한 

것일까?

첫번째,  젠더에  관한  뉘앙스가  있는  이야기다.  결론적으로  중부  비사야  지방에서  일본

군은 폭넓게 성폭력을 전술의 일환으로 이용하고 있다. 그것은 ‘위안부’에 관련된 것보다는 

게릴라나  게릴라  관계자를  향한  전술로써다.  잘  알려진  것처럼  위안소는  일본군들에게는 

위로의 장소였다. 중부 비사야 지방에서도 ‘위안소’는 폭넓게 전개되고 있었다. 말하자면, 

일본 병사의 생활 리듬 속에서, ‘위안소’는 중요했다. 그러나 전술로써, 보다 명확한 것은 

강간이다.  그런데  그  강간에  직접  관계된  인물을  보고  발견한  것은  복잡한  인간상이다. 

예를  들어  세부  막탄  섬의  사례가  있다.  헌병조장  요시다  다다시는  비사야  헌병대  세부 

분대에  소속되어  있으며,  그  본부였던  세부사범학교에서는  세부시민을  대부분  고문했다. 

더욱이  그  고문의  일환으로  성폭력도  사용했다고  한다.  또  그는  1944년  8월  19일  순찰대 

대장으로  임명됐다.  이  순찰대는  세부  막탄  섬의  어촌  코르도바에서  심한  고문과  3명의 

살해, 심지어는 성폭력을 자행하였다. 그러나 요시다는 가톨릭이었고 세부의 여성과 결혼

했다. 다정한 남편이자 아들의 장래를 걱정하는 아버지이기도 했다. 요시다는 1947년 5월 

처형됐다. 이미 성폭력이 폭넓게 이뤄진 것이 분명하니 왜 특정인이 심한 성폭력을 저지르게 

되었는지의  물음에  답할  수  있는  연구가  필요하다.

두번째, 중부 비사야를 포함한 필리핀전은 글로벌 히스토리로서의 중요성을 갖고 있다. 

냉전  후의  유고슬라비아나 르완다에서 제노사이드가  행해졌다. 이후 국제형사재판에서는 

폭넓은 성폭력 사례가 재판이 되었고 성폭력 실행자가 유죄가 되었다. 1990년대에 이러한 

사례들은 국제형사재판소의 설립이나 그 설립요건이 된 로마 규정 안에 성폭력이 명기된 것

에서 이어졌다고 한다. 그러나 전후 필리핀에서 열린 BC급 재판으로는 충분하다고 할 수 

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주제발표

-  155  -

없지만 명백히 성폭력이 재판을 받았다. 게다가 1947년 4월 필리핀 정부는 미군으로부터 

재판을  받으면서  성폭력  사례를  더욱  엄격하게  추궁한다는  방침을  세웠다.  필리핀에서의 

BC급 재판은 형사재판 역사에서 전시 성폭력을 소추한 선구사례라고 할 수 있다. 이러한 

관점에서의  법학  연구가  요구된다.

세번째,  이들  재판은  전시  상황과  비인도적  행위에  대한  다양한  자료를  만들어냈다. 

BC급  재판자료는  일본  국회도서관에서  많이  모으고  있으며  관련자들  이름도  살펴볼  수 

있다.  더욱이  예외는  있지만  전후  일본사회에서는  전시  중의  행위에  관한  발언이  소추나 

사회적  제재의  대상이  되지  않았다.  이  사실은  회고록과  전쟁기록물들에  대거  실리는  것

으로 이어졌다. 방대한 자료가 있지만 그것을 충분히 사용하지 못하고 있는 상황이다. 분명히 

일부 자료를 공개하고 있지 않지만, 이 분야의 결정적 자료가 숨겨져 있으므로 그 당시의 

실태를 파악할 수 없는 것은 아니다. 이러한 상세한 자료가 있기 때문에 필리핀전에 있어서는 

전시  성폭력의  모델화가  가능하다.  특히  이  분야에서의  선구자인  신시아  엔로가  말하는 

것처럼,  지휘명령  계통--특히  미시적인  계통--을  쫓는  것이  중요할  것이다.  본  발표에서는 

세  번째  방법을  취한다.

2

파나이  섬

『공간전사』에  따르면  파나이  섬의  제압은  미흡했다.  5사단  가와무라  지대와  제18사단 

가와구치  지대는  미군을  항복시킨  뒤  민다나오로  전진해  간다.  이후  파나이  섬을  지배한 

것은 아즈사 야스미 중령이 지휘하는 독립보병 제33대대였다. 그러나 미국인 지휘관 크리스

티가  1942년 5월에  항복한 것을  계기로  자유파나이군으로  불리는  게릴라  조직이 출범했고, 

그 지휘관 페랄타는 곧 8,000명으로 구성된 게릴라 조직으로 발전시켰다. 이 자유파나이

군이 33대대를 몰아간다. 일로일로시가 자유파나이군에 포위되기에 이르자 제14군은 제11

독립수비대를 비사야로 보내기로 한다. 이 수비대 휘하의 제16사단이 파나이 섬에 1942년 

9월 상륙한다. 이때 제16사단 지휘관인 고노 다케시 중장에게 와타나베 히데미  중령이 참모로 

차출되었고, 그 휘하에 있던 제37대대의 도츠카 료이치 중령 아래에는 참모로 와타나베 겐코 

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

-  156  -

중위가  배치되었다.  이들  2명의  와타나베가  파나이  섬에서의  치안전을  입안했다.  마을을 

돌며 게릴라를 토벌하는 작전이었다. 이 치안전을 극명하게 그린 『필리핀의 피와 진흙』의 

저자 구마이 도시미는 와타나베 겐코의 후임이었다. 그는 이 치안전에서 비인도적 행위를 

와타나베  겐코의  잔혹한  성격과  도츠카의  리더십  결여에서  찾고  있다.  와타나베  겐코는 

고문을 많이 사용하였으며, 「구타, 차기, 물고문, 천장에 매달기」가 사용되었다. 구마이의 

묘사로는  무엇보다  게릴라  측의  비인도적  행위도  심했다.  죽은  일본병의  성기를  나무에 

매달고, 일본병의 시체를 토막내 강물에 흘려보내 하류에 있던 일본군에 알리는 등의 도발 

행위가  있었다.

더욱이  와타나베  겐코는  교활하고  잔인한  전술을  사용하였다.  붙잡은  게릴라  구성원이 

게릴라 부대의 거처를 자백했다. 와타나베는 이 구성원들을 순찰대 의 선두에 세웠다. 목적지에 

도착해 실제로 게릴라부대가 없으면 구성원은 그 자리에서 처형되었다. 게릴라 부대가 그곳에 

있을  경우  그는  그곳에서  해방되지만  게릴라  부대에게  나중에  죽임을  당하기  일쑤였다. 

이  같은  조치  때문에  한편으로는  모진  고문에도  불구하고  주민들은  게릴라에  대해  말하지 

않게 되었다.  다른 한편으로는 주민의  보다 극단적인 영합을  만들어 냈다. 구마이에  의하면, 

게릴라에게  관여한  의심을  받는  일가족이,  봐달라고  하기  위해  치안  부대에  딸  1명을  내어 

주었다. 또한 와타나베 겐코의 명령 아래 모자를 포함한 처형이 빈발하게 되었다. 게릴라와는 

관계가  없다고  생각되는  미국인  가족도  살해되었다.

그  이후의  추세를  살펴보자.  이  치안전은  1943년  7월부터  12월까지  계속됐다.  이후 

1943년말부터 1944년초에만 일본군은 파나이 섬에서 우세를 유지할 수 있었다. 1944년 

4월에는 주변 섬들에서 게릴라들이 결집해 자유파나이군이 세력을 회복했다. 한편 일본군의 

보강은 없었다. 레이테 또는 민다나오 중 한 곳에서는 미군의 재상륙에 대비해야 했기 때문

이다.  레이테전  후인  1945년  3월에는  게릴라의  총인원이  22,500명인데  비해  파나이  섬의 

일본군은  2,750명이었다.  1945년  3월  18일  미군이  파나이  섬에  상륙한  이후  일본군은 

다시  파나이  섬을  그  지배  아래  둘  수는  없었다.

다음으로 BC급 재판 자료로부터, 파나이 섬에서의 치안전을 검증해 보자. 이 자료에는 

구마이의  묘사에서  간접적으로만  언급되는  성폭력이  더욱  뚜렷하게  묘사되고  있다.  모두 

13건의  수사보고서가  만들어졌다.  그  대부분은  주민  학살과  관련된  것이다.  그  중  가장 

폭력적인 것이 1943년 9월 13일과 29일에 500명에서 600명이 아주이와 사라에서 학살

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157

주제발표

-  157  -

된  사건이다.  이러한  대량사  외에  파나이  관계의  재판  자료에  특징적인  것은  ‘와타나베’

라는  이름이  여러  문서에  나타나는  것이다.  그  중  일부는  고노  다케시  중장의  참모였던 

와타나베 히데미 중령을 지칭하지만 다른 사람은 다소 모호하게 캡틴 와타나베라고 언급해 

와타나베 겐코 중위를 지칭한다. 이들 두 와타나베는 주민들에게 알려져 있었다. 군 조직의 

구성과  소추  상황은  다음과  같다.

【그림  1943년  7월  이후  파나이의  일본군  지휘명령  계통】

제11독립수비대
지휘관  고노  다케시  중장

소추  →  처형

참모  와타나베  히데미  중령

소추→처형


├  제36독립보병대대(169대대)  레이테  섬
├  제38독립보병대대(171대대)  파나이  섬  북부→레이테  섬
├  제39독립보병대대  (172대대)서네그로스  섬  →  레이테  섬
└  제37독립보병대대(170대대)  파나이  섬  남부
    지휘관  도츠카  료이치  중령

소추→처형

    참모  와타나베  겐코  중위

전사

        (후임)  참모  구마이  도시미  중위

소추→종신형→생환

    │
    ├제1중대
      │지휘관  후쿠토미  히로시  중위
    ├3제3중대
    │지휘관  고노  데루오  대위
    ├제4중대
    │지휘관  요시오카  노부오  대위

소추→처형

      ├제2중대
        지휘관  후지이  이치  중위

소추→처형

        │
              ├제1소대
        ├제2소대
                │지휘관  오쓰카  노리유키  소위

소추  →  처형

                ├제3소대
        │지휘관  구와노  츄코  조장

소추→처형

              └  제4소대

위에서 서술한 일본 측 자료가 명백히 밝혀온 것처럼 일본군은 파나이 섬을 제압할 수 

없었다. 그리고 1944년초 몇 개월을 제외하고는 게릴라와 항상 전투상태에 있었다. 그런 

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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전장에서 반인도적 행위는 일본군, 게릴라 쌍방에 의해 행해진 것이지만 일본군이 게릴라와 

관련되었을 것으로 의심되는 여성에 대해 명백히 성폭력을 가한 것은 의심의 여지가 없다. 

『미국대호총』에서는 필리핀인 대일 협력자 중 한 명이 자신이 목격한 고문의 3단계를 설명

하고  있다.  처음에는  몽둥이로  구타하고,  다음에  물을  많이  먹여서  더욱  구타하고,  그리고 

마지막에는  성기나  음모를  지졌다.  또  주민  증언에  따르면  알몸으로  옆방에  끌려간  주민 

여성들의  울음소리와  고함을 남성 주민들이  들었으며,  그 이후 여성들은 일본군을  ‘음란함

(indecent)’이라고 말했다고 한다. 심지어 주민 여성을 이웃에게 강간시켰다는 증언도 있다. 

또  『미국대등정』에서는  후지이  자신이  게릴라의  아내로  추정되는  밀리탄테라는  여성을 

구속  고문한  사실을  언급했다.  임신  3개월인  그녀를  때리고  옷을  전부  벗긴  채  성기에 

막대기를  찔러  넣어,  그  결과  유산시켰다.  또  구속된  여성을  알몸으로  만들되  게릴라에 

대한  정보를  제공하지  않았다면  더  이상  폭행은  하지  않았다고  덧붙였다.  주민  증언에 

따르면, 남성들에게 끌려가 알몸이 된 주민여성이 일본군은 ‘부도덕’ 했다고 고백했다. 또한 

오츠카와  구와노도  15건에  이르는  대량살해로  소추되어  있지만  공판  기록  자체는  아직 

검토되지  않았다.

이런  지휘명령  계통에서  보면  다음과  같은  의문이  떠오른다.  즉,  치안전에서  동반된 

비인도 행위가 당시 늘상 있었던 행위였다면, 왜 몇 개의 군조직은 소추를 면했는가 하는 

문제이다. 구마이가 말하는 것처럼, 도츠카 료이치 중령이  지휘하는 제37독립보병대대가 

파나이에서  치안전을  실시한  부대였다면,  왜  그  휘하의  중대  레벨의  제1중대와  제3중대의 

지휘관은 소추되지 않았는가. 또 파나이 치안전의 경우 여단장과 여단 참모, 대대장 중대장

까지  소추되고  2중대에  관해서는  소대장까지  소추된다.  그러나  4명의  소대장  가운데  소추 

처형된 사람은 2명뿐이다. 나머지 2명이 왜 소추를 면했는지는 향후의 과제이다. 또 북부

도시 카피스시에는 171대대가 주둔 중이었으나 1944년 10월경 제1중대를 제외하고 레이테 

섬으로  전출했다.  즉,  도츠카-와타나베의  지휘명령  계통  외의  군조직이  이  당시  파나이 

섬에는 있었다.  그  지휘관은  노다 로쿠로  중위였다.  이  노다는 소추되지 않았다. 이 점도 

철저하게  조사할  필요가  있다.

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주제발표

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3

세부  섬

파나이 섬과 달리 세부 섬은 대규모 치안전의 무대가 되지 못했다. 미군 항복 후 파나이 

섬과  마찬가지로  제11독립보병방위여단의  지배  아래  있었으나  이  여단은  1944년  6월 

102사단으로 통합됐다. 또한 102사단 아래에 있는 오니시 세이치 중령을 사령관으로 하는 

173대대가  1944년  5월  세부  섬  수비대가  되었다.

BC급  재판자료  중  세부에  대한  수사보고서는  28건이  적혀  있다.  그  중  1944년  3월 

이전의  것은  1건,  3월~6월은  10건,  8월  이후에는  17건이다.  수백명을  죽이는  대량학살에 

해당하는  것은  없다.  또한  102사단의  대부분은  레이테전을  위해  레이테  섬으로  옮겨갔고, 

1944년  10월  이후에는  세부시에는  102사단  사령부  외에는  만조메  다케오  소장  휘하의 

제78여단 사령부가 있으며, 그 아래에는 오니시 세이치 중령의 173대대가 있을 뿐이었다. 

1,500여명의  병사  중  900여명은  173대대의  구성원이었을  것으로  추정된다.

수사보고서는  다양한  사건을  다루고  있으며  이를  다음의  6가지로  구분하여  나누었다. 

또  오른쪽  끝에는  173대대가  수비대가  된  전과  후의  사건  수를  표시해  두었다.

내용

173대대  하(그  이전)

[A]  외부부대에  의한  10명~100명  정도의  살해

1    (0)

[B]  외부  부대에  의한  10명  미만  살해

4    (3)

[C]  주둔부대에  의한  복수의  살해

4    (1)

[D]  산발적인  고문과  살해

5  (6)

[E]  장기적인  사건

1  (0)

[F]  예외적인  사건

1  (1)

[G]  미군에  대한  범죄

1  (0)

다음으로 어디에서 일어났는지 살펴보고자 한다. 이를 위해 『세부주지방사』 전 55권을 

이용하였다. 이 자료에는 세부주의 모든 읍사(町史)가 포함되어 있다. 일제강점기의 기술을 

조사해  보면  청취  조사에  의거하고  있으므로  불명확한  경우가  있는데,  그래도  일본군에 

의한  비인도적  행위가  있었던  마을과  비인도적  행위가  없었던  마을을  확인할  수  있었다. 

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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거기에  상술한  [A]~[G]를  써넣었다【地図2】.  파나이  섬의  사례와  비교하면  분명히  대량

살해 [A]가 적고, [C]나 [D]가 많다. 현지 사회에 잠시 있었던 부대가 저지른 행위가 많았다. 

여기에  173부대는  20여  곳의  주둔지를  두고  있었다.  주둔지에  상술한  [A]~[G]  및  『세부

주지방사』에  일본군의  비인도적  행위(Atr.)를  넣어  보면  다음과  같다.

[반타인  제도]  없음

[최북  연안  지역]  메델린(Medellin)[C]  Atr  1

[동북  연안  지역]  콤포스텔라(Compostela);  다나오(Danao);  카르멘(Carmen);

소고드(Sogod)  [B]  [F]  Atr  1

[서북연안지역]  아스투리아스(Asturias);  발람반(Balamban);  톨레도(Toledo)  [C]

[세부시  부근]  세부시(Cebu  City);  과달루페지구(Guadalupe  District),  세부시(Cebu 

City);  만다위(Mandawe)[B]2  [C]  [D]  [E]  Atr.5

[중부]바릴리(Barili);  두마정(Dumanjug);  알레그리아(Alegria);  판단(Pandan),  나가

(Naga);  밍글라닐리아(Mingilanilla);  칼칼(Carcar)[A][B]3[C]2[D]8Atr.  6

[동남  연안  지역]  (달라구에토)Dalagueto.

[서남연안지역]  없음  Atr.2

[최남  연안지역]  없음

즉, 세부 섬에서 일본군의 비인도적 행위는 다음과 같은 경향을 볼 수 있다. 첫째, 톨레도를 

제외한  북서  연안  지역,  최남부  연안  지역,  반타인  제도에서는  비인도적  행위가  없었다. 

둘째,  세부시  주변이나  두만후그와  칼칼  등  중부  연안  지역에서는  많은  비인도적  행위가 

이뤄지고 있으며, 또 미군 방첩부대(CIC)도 수사를 면밀히 해 수사보고서가 많이 남아 있다. 

셋째, 수사보고서 내용은 『세부지방사』보다 비인도적 사건에 대한 관심을 조금밖에 보이지 

않는다. 특히 서남연안 지역에서는 이런 경향이 강하게 나타난다. 왜 이러한 경향이 생기는

지는 향후 연구해서 명백히 밝히고 싶다. 넷째, 서남연안 지역을 제외하면 특히 173개 대대 

아래에서는 주둔지가 많은 곳에서 주둔 부대의 비인도 행위가 일어나고 있다. 단순화시킨

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주제발표

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다면  세부  전체  섬을  제압할  정도로  일본군은  강력하지  않고  주둔지  주변이라  하더라도 

충분히 제압할 수 없었으며 그러한 장소에서는 게릴라와의 전투가 끊이지 않았고, 그 속에서 

비인도적  행위가  행해졌다고  할  수  있다.

이제 173대대의 구성을 살펴보자. 또 기타 자료들을 살펴보고 지휘관의 족적도 기록했다.

주둔지

부대명/위계

성명

족적

Cebu  City

사령관

오니시  세이치  중령

소추→종신형→생환

Cebu  City

부관

마츠우라  히데오  중위   

Dumanjug,  Carcar 

제1중대

아즈마  스스무  중위

전사

Dumanjug

제2중대

이나모토  토라오  중위   

Cebu  City,  Naga

제3중대

도시마  군시치  중위   

Balamban

제4중대

가와하라  이치  중위

소추  →  무죄

Naga

소총대

후치와키  마사하루  중위

이것들을  살펴본  다음,  개별  사건에  대해  주목해  보고  싶다.

케이스1  :  바릴리(Barili)  사건

이 사건은 전형적인 주둔부대에 의한 살해[C]이다. 주둔지의 병사가 마을 주민을 게릴라 

측에  붙어  있다고  하여  구속하고,  그  이후에  대량의  살해를  실시하였다.  죽기  전에  여자 

몇  명이  초등학교  교실에  갇혀  계속  강간당했다.  피고는  소대장  스기모토  마사노리  조장과 

그의  부하  5명이었다.  이들은  1944년  8월말  순찰에  나서  주민들을  구속했다.  그  후  9월 

13일까지  바릴리에  계속  남아있었으며  철수할  때  한  여성이  힘들게  살아남았지만  그  외 

붙잡혔던  여성은  모두  죽였다.  총  20명  정도  살해되었다.  주둔  부대였기  때문에  주민의 

증언도  구체적이었고,  그  결과  피고인  모두에게  사형  판결을  내렸다.

이 소대는 1중대 휘하에 있었고 스기모토의 상관은 아즈마 스스무였다. 아래의 스기모

토의  증언은,  이  비인도적  행위의  배경의  중요부분을  나타내주고  있다.

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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A  저는  중대장으로부터  처리(take  action)하라는  명령을  받았습니다.

Q  어떤  명령이었나?

A 모두 죽이라고 그래서 다음날 아침 부하인 히라사키 오장에게 나는 순찰을 나가야 한다고 말했습니다. 

그가  심문을  해서  모두  죽인  것입니다.

Q  아이도  어른과  같이  죽이라고  했나?

A  어린이인지,  어른인지  또  연령도  성별도  명령에는  없었습니다.  중대장은  이  여자들과  아이들에  대해  알

고  있었고,  나에게  처리하라고  했습니다.  그래서  어떤  예외가  있는  줄  몰랐어요.

Q  그  중대장이  누구인가?

A  아즈마  스스무  중위입니다.

    (중략)

Q  아즈마  중위는  오니시  중령으로부터  직접  명령을  받았나?

A  네.

Q  어떤  형식으로  주민을  죽이라는  명령을  받았나?

A  문서로  명령했으며,  아즈마  중위의  날인(signed)이  되어  있었습니다.

Q  여자와  아이의  이름도  포함됐나?

A  이름은  전혀  적혀있지  않았습니다.

Q  그  명령은  중대본부에서  왔나,  아니면  대대본부에서  왔나?

A  중대본부에서  왔습니다.

스기모토는  부하에게  책임을  전가하고  있지만  결국  아즈마도  잘  아는  주민을  죽였다. 

죽이는 사람이나 죽임을 당하는 사람이나 그때까지 같은 생활공간에서 살고 있었던 것이다. 

바꿔 말하면 대대장  오니시가 허가하고, 중대장  아즈마가 명령을  내려, 소대장 스기모토가 

실행했다. 다만, 이러한 공판 기록을 읽어도 왜 스기모토나 그의 부하가 여성을 감금하고 

강간했는지는 명확하게 기록되어 있지 않다. 검찰관도 여성의 살해는 논점으로서 채택했지만 

강간은  충분히  추궁하고  있지  않다.

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163

주제발표

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케이스2  :  메델린(Medellin)  사건

이 사건의 경우, 수사 보고서에는 보고라고 쓰여져 있지만, 실제로 사건이 일어난 것은 

북부에 있는 메델린이다. 또한, 수사 보고서에 근거해 주둔 부대에 의해 [C]로 분류했지만, 

오히려  외부  부대에  의한  살해[B]에  해당하는  것이다.  또  부대의  주둔지는  보고였지만, 

이 부대의 주된 임무는 메델린의 설탕공장에서 가솔린의 대체품을 계속 생산하는 것이었다. 

주둔 부대의 대장은 아베 스에오 중위였다. 그는 1944년 8월 9일에 메델린에 왔지만, 곧

바로  설탕공장  노동자  대부분이  게릴라이거나  게릴라의  지원자임을  알게  된다.  그래서 

가능한 한 게릴라를 자극하지 않는다는 방침을 정하고 주민을 신문하는 일도 없었다. 그러나 

10월 10일에 나온 순찰에서 이 미묘한 역학관계가 깨지고 만다. 아베가 부하 몇 명과 순찰을 

하던 중 인근 마을 쿠르바 근처에서 게릴라에게 습격당한다. 일본군 1명이 살해되고 다른 

1명의  일본군이  상처를  입어  세부의  병원으로  보내진다.  이  일은  대대장  오니시가  알게 

된다.

10월  12일에는  제1중대의  일부  원정부대가  보내진다.  원정부대의  부대장은  아즈마 

스스무 중위 그 사람이었다. 설탕공장에 도착하는 도중에서부터 주민을 죽이고 집을 불태워 

‘스페인인’으로 불렸던 조세피나 델 리오와 두 누나를 납치했다. 이후에도 원정부대는 치안

행동을 함과 동시에 델 리오 자매를 계속 감금하고 성폭행한다. 10월 18일에 아베는 조세

피나가 아즈마의 부대에 잡혀 있는 것을 발견하고 그녀를 구출한다. 그러나 그 다음날 아베는 

아즈마와 이 구출을 둘러싸고 말다툼을 벌이다가 결국 원정부대가 상위에 있다는 이유로 

조세피나를 아즈마에게 돌려주고 만다. 아즈마의 이러한 행위는 군법에 위반되므로 아베는 

오니시  중령보다  상위에  있는  제78여단  사령부의  만죠메  다케오  소장에게  호소한다.  공판 

기록에  의하면  만죠메는  증인으로  출석하고  있다.  만죠메는  아베로부터  그러한  호소를 

1944년  12월경  받은  것을  인정하지만,  레이테전후의  혼란도  있고,  또  아즈마도  1945년 

3월의  전투에서  살해되어  버리므로,  대응하지  않았다고  회답하고  있다.  또한  10월말에 

아즈마는  메델린으로부터  철수하면서  조세피나와  자매를  살해했다.  그리고  아베는  재판

에서  사형  판결을  받았다.

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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케이스3  :  밍글라닐라(Minglanil a)  사건과  톨레도(Toledo)  사건

상술한 두 가지 사례에서 오니시에서 아즈마로 이어지는 지휘명령 계통 속에서 주민학살과 

함께  강간이 발생하고 있었음을 알 수 있지만 미군은  이러한 지휘명령 계통을 전혀 이해

하지  못했다. 그 점을  잘  나타내는  것이, 밍그라닐라 사건을 둘러싼  재판이다.  이  사건은 

아마도 세부에서 일어난 비인도적 행위 중 가장 대규모였다. 세부시 남쪽 내륙부에 위치한 

밍글라닐라  인근  마을  투보그(Tubog)에서  30여명의  중국인이  살해되고  여성  몇  명이 

성폭행당한 후 살해된 사건이다. 해군 치중부대의 미조구치 지로 대령이 이 사건의 주모자

라고  해서  소송되어  재판에서는  사형  판결을  받았다.

미조구치 부대는 원래 만죠메의 제78여단 사령부 아래에 놓여 있었고 전투 부대는 아니

었다. 맘바링(Mambaling)이라는 세부 근교의 해안이 그의 주둔지였는데, 맘바링에서 내륙 

투보그로  갔다는  증언을  한  사람은  맘바링에서  잡화점을  운영하던  중국인  한  명이었다. 

또  투보그의  살육을  힘겹게  살아남은  사람들도  미조구치의  부하를  명확하게  가해자라고 

할 수는 없었다. 이 재판 결과, 미조구치는 사형 판결을 받지만, 2차 문헌에 의하면 맘바링 

주민의  탄원서에  의해  미조구치의  재판은  부당하다고  인정되어  미조구치는  사형방에서 

생환할  수  있었다.  일본으로  돌아간  미조구치는  불교의  한  종파를  이끌었다.

그렇다면, 상술해 온 세 사건의 상관으로서 책임을 져야 할 것으로 여겨지는 오니시 세이치 

중령은  어떠한 형태로  소추되었을까. 오니시는  톨레도에서  일어난 7명의  살해에 대한  사건

으로 소추되었다. 그러나 이 사건에서는 일단 톨레도를 방문한 것으로 종신형은 되었지만 

실제로  처형을  한  것은  아니어서  사형은  면했다.  오니시는  한  번은  자신이  처형을  명한 

적은  없다고  하지만,  검찰관에게  다음과  같은  답변을  하고  있다.

 

Q  재판  없이  처형하는  것은  관례였나?

A 재판을 연 적은 없습니다. 무기를 소지하고 있는 게릴라를 체포하고 있을 경우에는 재판 없이 처형

한다,  게릴라  활동에  관여하고  있을  것으로  보이는  민간인은  헌병대에  보내라는  명령을  내렸습니다.

Q  그  명령은  당신의  권한으로  한  것인가?(originate  from  you).

A  그렇습니다.

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주제발표

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오니시 휘하에서는 구속된 인물이 게릴라인지 아닌지에 대해 재판하지 않고 현장 지휘관의 

판단에  따라  처형하는  것이  가능했다.  특히  게릴라와  민간인의  판단이  서지  않을  경우 

상술한 바릴리 사건처럼 중간에 있는 지휘관이 게릴라로 판단해 처형을 명령했다. 오니시는 

생환해 일본으로 돌아가 1970년대 초반까지 돗토리현 요나고시에 살았던 것으로 확인됐다.

4

보홀  섬

다음으로 보홀의 사례는 파나이 섬과 세부 섬 모두 다른 특징을 가지고 있다. 보홀 섬은 

일본군이 거의 제압하지 못한 섬이다. 수도인 태그빌라란 주변에 1944년전에도 주둔 부대가 

일부  있었던  사실은  인터뷰  조사로  밝혀졌지만  자료상으로는  1944년  6월에  한  차례  치안

행동이  행해진  것과  1944년  11월경  오이에  사토시  대령  휘하  174대대의  제2중대(와타

나베  다다시  중위  지휘  총  160명)가  태그빌라란에  파견된  것만  밝혀졌다.

일본군의  레이테전  패배  후 이  상황이  바뀐  것은  보홀  섬이 레이테  섬  옆에  있기  때문

이었다.  174대대의  패잔병에다  레이테전에서  패한  부대와  부대를  탈영한  병사들이  보홀 

섬으로  도망쳤다.  그  결과  보홀  섬  내륙에는  일본군의  패잔병이  1945년  8월  일제  패망 

이후에도  농성하게  된다.  102사단의  참모였다고  스스로  말하는  스즈키  기요시는  미군에 

협조해  그런  패잔병의  투항을  촉구하였다.  1945년  12월  보홀에  들어갔고,  그  후  몇  달 

동안  85명을  투항시켰다.  BC급  재판  자료에  남아  있는  보홀에  관한  사건은  5건  있는데, 

그  중  4건은  이들  패잔병에  의한  범죄이다.  여기서는  그  중  한  건을  살펴보자.

오고 유키오는 오장에 지나지 않고, 사건 당시 어떠한 지휘명령 계통에도 없었다. 174대대 

제2중대의 일원이었으나 미군의 공격을 받아 태그빌라란에서 도망쳐 산 속을 헤매게 되었다. 

패주하는 가운데 「자활자전(自活自戦)」을 실천했다. 자신의 낮은 계급에 관계없이 오고는 

15명 정도의 집단의 리더가 되었다. 게릴라에게 몇 차례 공격을 당했고 그때마다 패주했다. 

10월 중순이 되자 소금이 떨어졌다. 그래서 10월 24일 소금을 찾기 위해 마을로 내려갔다. 

카타구다안 마을에서 일어난 일에 대해서는 검찰과 원고 측에서 오고가 마을 주민 1명을 

살해한 것 외에는 견해가 다르다. 오고는 일본도로 촌민을 베어 죽인 것에 대해 동의하지만 

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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마을  사람들이  게릴라이고  큰  칼과  수류탄을  가지고  있어  자기방어였다고  말한다.  이후 

오고와 그의 동료 몇 명은 마을 사람들과 협상하여 소금과 닭을 얻었다고 증언한다. 한편 

검찰은 오고가 죽인 것은 단지 농부였으며 이후 오고의 동료는 마을 어귀에서 여성을 성폭행

했다고  주장한다.  나아가  11월  4일에  오고와  그의  일당들은  다른  마을을  습격해  50세의 

여성과  30세의  남성을  납치하고  이후에  살해했다고  한다.

오고  일당은  1946년  1월  26일  미군에  투항했다.  174대대  2중대  160명  중  살아남은 

사람은  40명뿐이었다.  또,  오고  일당의  캠프를  조사했는데  분명히  2구의  시체가  있었다. 

또  일부에는  인육식이  의심되는  기술도  있지만  그  점은  추궁하지  않고  있다.  그러나  이 

재판은 다른 재판과 비교해도 미흡함이 많다.  일본군 측도 어디에 있었는지를 명확히 할 수 

없고,  마을  주민도  어떤  일본군이  무엇을  했는지를  명확히  제시하지  못하고  있다.  예를 

들어, 강간당한 여성은 법정에서 일본계 미국인 통역인을 강간범으로 지목했다. 미국인의 

법정  통역인이  사건의  강간범이라는  것은  있을  수  없기  때문에  적어도  강간범으로  특정

할  수는  없다고  할  수  있다.

5

결론

서두에서  미시적  지휘명령  계통에  주목하고  전시  성폭력이  일어나는  모델을  구축하겠

다고  했다.  BC급  재판  자료를  중심으로  논했지만  『세부주지방사』,  방위연구소  전사자료실 

소장의 군관계 자료, 야스쿠니 신사 해행문고 소장의 「전쟁기록물」에서 증거를 확보하였다. 

그 결과 대략 세 가지를 말 할 수 있다. 첫째, 파나이 섬, 세부 섬, 보홀 섬에서는 각 전쟁의 

실상이  크게  다르다는  점이다.  한편,  파나이  섬,  세부  섬의  사례에서는,  게릴라  관계자를 

고문하는  가운데  폭넓게  성폭력이  사용되었음을  확인할  수  있다.

심지어 이런 종류의 성폭력이 생기는 배경으로는 특정한 지휘명령 계통이 있었다. 파나이 

섬에서는 와타나베-후지이-오츠카·구와노라는 선에서 성폭력이 발생하고 있다. 구마이는 

와타나베 겐코를 "만주 사변, 지나 사변, 바타안 반도 공략전 등에 참가하고 있으므로 전쟁 

경험은  부대  제일의  베테랑이었다.  그의  전투  방법은,  그의  체력,  성격대로  강제적이고 

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주제발표

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수단과  방법을  가리지  않고  악착같이  돌진하는  작전이었다."  라고  설명하지만,  와타나베 

겐코의  영향이  아주    컸다고  말할  수  있다.  자신의  지도  아래  부하들을  성폭행하게  하였

는데,  이로  인해  성폭력이  고문의  일부가  되었다.  한편  세부  섬의  경우  오니시-아즈마의 

지휘명령 계통이 두 사건의 성폭력과 관련이 있다. 무엇보다, 와타나베 겐코와 그 영향에 

비교하면, 오니시의 역할은 애매하다. 파나이 섬 170대대와 달리 세부 섬 173대대의 경우 

여단장-대대장-중대장-소대장을 체계적으로 재판에 회부하지 않았고 특히 밍그라닐라 사건

에서  그  주모자인  173대대를  재판하지  않고  관련  없는  해군취중부대를  재판하는  실태를 

범하고  있기  때문이다.  다만,  오니시의  대략적인  명령아래에서의,  아즈마  스스무의  영향이 

컸던  것으로  보인다.  아즈마는  메델린  사건에서  스스로  성폭력을  저지르고  있고,  바릴리 

사건에서는 알고 있던 주민도 죽일 것을 냉혹하게 명령하고 있다. 다만 아즈마에 대해서는 

상술한 군관계 자료나 '전쟁기록물'은 발견되지 않았고 이 점은 앞으로 조사되어야 할 것

이다.

둘째, 특정 지휘명령 계통이 성폭력을 발생시켰다는 것은 위에서 서술한 바와 같이, 일본군 

병사에 의한 성폭력이 지휘명령 계통을 꼭 필요로 한 것은 아니었음이 분명하다. 보홀에서의 

성폭력  사례는  그런  지휘명령  계통이  없는  패잔병에  의한  것이다.  지휘명령  계통이  없다는 

것은  성폭력을  증명하는  논증도  적고  현  시점에서는  충분한  자료적  뒷받침이  되지  않고 

있다.

셋째,  서두에서  일본군  종군  ‘위안부’  문제가  이런  시각에서  연구의  계기가  됐다고  말

했지만 그 당시 일본군의 법 의식에서 보면 강간은 불법이었지만, ‘위안부’는 합법이었다. 

이런  지적은  ‘위안부’가  당한  비참함을  부정하는  것은  아니다.  다만,  비사야  지방에  관련

된 문서를 보면 이러한 합법의식 없이는 반대로 ‘위안소’가 점령지에서 수행한 역할을 이해

할  수 없다. 세부 섬 재판 사례에서는 서두에서 언급한 코르도바 사건 중 강간범으로 지목

되는  헌병  오장  이시자키  이와오의  발언이  주목된다.  그는  강간이라는  위법  행위를  하지 

않은 논거로 '위안소'를 관리하는 쪽이며, 성행위를 하고 싶다면 '위안소'에서 할 수 있었

다고 말하고 있다. 또, 상술한 톨레도 사건을 둘러싼 공판에서는, 베티 바스콘이라고 불리는 

‘위안소’의 경영자가 일본군을 옹호하는 증언을 하고 있다. 그녀는 톨레도에서의 주민 학살을 

의심받은 군인이 좀 더 내륙쪽 지역의 자신이 경영하는 ‘위안소’에 자주 다녔다고 알리바이를 

뒷받침해  주고  있다.

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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‘위안부’제도가  여성을  성행위의  대상으로밖에  보지  않겠다는  가치관에  기인하고  있어 

이것이  일본군에  영향을  미친  것은 사실일  것이다.  그렇기  때문에,  예를  들면 상술한  밀리

탄테에 관한 것과 같은, 명백한 성폭력을 일본군은 실시할 수 있었던 것이다. 한편, 그 당시의 

법의식으로  보면,  강간과  ‘위안소’는  다른  것이었다.  예를  들어,  조세피나처럼  2주  정도 

감금되어 계속 강간당한 ‘위안소’와 유사한 사례도 있었지만, 그것은 당시 ‘위안소’로서는 

이해되지  않았던  것이다.  각각의  비인도적  행위의  뉘앙스를  이해하기  위해서  강간과 

‘위안부’를  각각  다른  성폭력으로  전장의  현장에서부터  이해해  나가는  것이  요구된다.

【일본군에  의한  전시  성폭력의  개념도】

                ┌합법*-「위안부」
전시  성폭력범├
                      │
                      ├초법적  조치-헌병대에  의한  것(콜도바  사건)
                      │
              └불법-알몸으로  만들기,  성기에  물건을  삽입,  강간
                      │
                      ├지휘명령  계통이  있는  것
                      │    │
                                          │        ├치안전에서(파나이  섬)
                      │    │
                                          │        └점령지에서  ┬주둔부대에  의한  (바리  사건)
                                          │                  │
                                          │                                └외부부대에  의한  것  (메델린  사건)
                      │
                      └지휘명령  계통이  없는  것  (보홀  섬)

*군법·군율상이라는  의미

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주제발표

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4.  필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력

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주제발표

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일제말기  인도네시아 

조선인  포로감시원  현황과  반일활동

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유  병  선

(한국전통문화대학교  교양학부  강사)

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주제발표

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일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원 
현황과  반일활동

유  병  선(한국전통문화대학교  교양학부  강사)

머리말

이  글은  1942년  6월  포로감시원  군속(軍屬)으로  강제  동원돼  인도네시아  자바로  배치

된 조선인 청년들이 1944년 12월 29일에 결성한 항일 비밀결사 ‘고려독립청년당’(高麗獨

立靑年黨)과 1945년 1월4일 무장 봉기한 ‘암바라와 사건’에 관해, 왜 결사했고 어떤 항일을 

위한  것이었는지를  탐색한다.1) 

일제는 동남아시아 지역의 20여만 명에 달하는 연합군 포로를 관리하기 위해 단 한차례

조선인 청년 3000여명을 강제 동원했다. 일제의 전체 조선인 노무 강제동원에 견줘 규모도 

작고  동원  목적도  독특하다.  3000여명  포로감시원  군속의  절반에  가까운  1408명이 

1942년 9월 14일부터 자바 포로수용소의 군속으로 배속됐고, 이들 가운데 10명이 주도해 

1944년 12월 29일 항일 비밀결사를 결성했다. 그로부터 6일 후에 자바 중부 암바라와에서 

갑작스런 말라야 전출명령을 계기로 고려독립청년당 소속 당원 3명은 이틀에 걸쳐 무장 투

쟁을  벌였다.  이는  조직적으로  계획되고  당에  의해  지도된  봉기는  아니었다.   

하지만  역사는  역사가의  입맛에  맞는  사건으로만  이뤄지는  것은  아니다.  낯선  땅  자바

에서  강제  동원된  조선인이  자생적인  항일  비밀결사를  만든  것도,  그  결사의  조직원들이 

‘일제에  항거하는  폭탄아’가  되겠다며  무장  봉기한  것도  민족주의  내지  국민국가의  표준

서사에서 보면 이례적이다. 그래서 인도네시아 조선인 포로감시원과 반일활동에 관한 기존 

1) 이 글은 졸고 「일본 군정기 자바 조선인 군속의 항일비밀결사와 암바라와 사건」(고려대학교 석사논문, 2011)을 바탕

으로  했다.   

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5.  일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동

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연구는 이례적이란 이유로 이례적으로 ‘해석’되어왔다.2) 이 글은 고려독립청년당과 암바라와 

사건을  자바로  강제  동원된  일제하  조선인  청년들이  정치적  각성을  통해  소극적  협력에서 

적극적 저항의 길로 방향을 돌린, 이례적이지 않은 사건으로 ‘이해’하려는 데 목적이 있다.

이중의  고립:  낯선  땅,  낯선  일

1.  포로감시원  강제동원

태평양전쟁  개전  초기  눈부신  전과를  올린  일본군에게  너무  많은  포로는  부담이었다. 

일본은 두 가지 포로 대책을 강구했다. 포로를 노동력으로 활용하는 방안과 포로의 감시를 

‘외지인’,  즉  식민지  조선과  대만의  인력을  동원해  맡기는  방안이  그것이다.   

일본은 미국과 영국에 정식 선전포고를 한 지 19일 뒤인 1941년 12월27일 전쟁 포로를 

관할하는  ‘부로3)정보국’(浮虜情報局)을  개설했다.  1942년  3월  육군성에  ‘부로관리부’가 

설치됐지만,  자바 등 동남아시아 7곳의 포로수용소에 소장이  임명된 것은  일본군의  남방

진공  작전이  일단락된  1942년 8월의  일이다.  앞서  1942년  5월  대본영은  남방군에  동남

아시아  지역  포로수용소의  경계와  포로  감시를  외지인,  즉  조선인과  대만인으로  편성된 

‘특종부대’(特種部隊)로 충당한다는 지침(「南方ニ於ケル浮虜ノ處理要領ノ件」, 1942년5월5일)을 

내렸다. 이에 근거해 부로정보국은 포로감시원을 2년 계약의 군속으로 한다는 방침을 정하고 

그해 5월20일 조선군에 포로수용소 용인(傭人)의 급여 규정을 하달했다. 이 규정에 따르면 

포로감시원 용인은 식량과 의복을 제공받고, 급여는 조선과 대만 근무 월30엔, 전지 근무 

월50엔이다.

2)  고려독립청년당과  암바라와  사건에  관한  주요  선행연구로,  우쓰미  아이코(內海愛子)와  무라이  요시노리(村井吉敬)의 

선구적인 연구서(󰡔赤道下の朝鮮人叛亂󰡕. 勁草書房. 1986)와 해외 독립운동의 관점에서 파악한 김도형의 연구(「
암바라와 의거와 동남아지역 항일운동의 의의」, 2008), 인도네시아 현대사의 일부로 파악할 필요성을 제기한 인도네시
아인  로스티뉴의  연구(「한국인  군속의  인도네시아에서의  독립운동」,  인하대학교  석사학위논문,  2009)가  있다.   

3) 부로는 일본이 전쟁포로(POW, prisoners of war)를 가리키는 공식 용어이다. 포로와 부로는 모두 전시에 포획된 

적군을  가리키지만,  부로는  ‘국제법에  근거해  보호하는  전쟁포로’를  뜻한다. 

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주제발표

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태평양전쟁 포로의 처리와 관련해 눈길을 끄는 것은 조선총독부의 역할이다. 1942년 2월

28일 조선군참모장은 반도인의 영미 숭배관념을 없애고 필승의 신념을 확립하기 위해 영미인 

포로 1000명을 조선에 수용할 수 있도록 해달라고 요청하는 비밀전보를 일본 육군성 차관 

앞으로 발송했다. 이것이 받아들여져 그해 8월 말라야 전선의 영국인 포로 998명이 조선

으로  이송돼  가두행진을  벌이고  포로수용소에  수용되었다.  동남아시아  포로수용소의  분산 

설치와 포로감시원의 외지인 공급 아이디어가 조선군과 조선총독부에서 나왔을 개연성이 

크다.4)  이는  일제가  조선  식민지  수탈의  경험을  ‘대동아공영권’  경영에  활용했다는  것을 

뜻한다. 

대본영의 조선인 포로감시원 동원 지침이 내려진 지 17일 만인 1942년 5월22일 조선

총독부  정보과는  “남방의  연합군  포로를  감시할  조선인  청년  수  천  명을  군속으로  채용

한다”고  공표했다.  조선총독부의  한글  기관지인  <매일신보(每日新報)>는  5월23일자  1면

에서 포로감시원 군속 모집과 관련해 ‘반도 청년의 영예인, 영미인 부로의 감시지도’(조간), 

‘거듭되는  반도청년의  영광’(석간)  제하로  크게  보도한  것을  시작으로  7월8일까지  모두 

29건의  기사를  게재하며  포로감시원  군속  동원을  ‘징병제의  시금석’이라며  대대적으로 

선전했다.

총독부는 포로감시원 군속을 ‘채용’한다고 했지만, 실제로는 관을 통한 알선(斡旋) 혹은 

비자발적 강제연행 방식이었다. 5월25일~6월10일 총독부 주관으로 포로감시원 ‘지원자’를 

대상으로 학과시험과 신체검사가 이뤄졌고, 전형을 통과한 ‘지원자’를 총독부가 ‘추천’하고 

일본 육군이 ‘고용’하는 형식을 취했다. “전문학교 졸업자도 모였다”(每日新報, 1942년6월

2일)고  할  정도로  포로감시원  군속의  학력수준은  높았다.     

6월15일  조선  청년  3223명이  ‘노구치(野口)  부대’로  알려진  부산의  ‘육군부산서면  임시

군속교육대’에  집결해  8월15일까지  두  달간  강도  높은  군사훈련을  받았다.  포로감시원 

양성 교육을 내세웠지만, 포로를 어떻게 인간적으로 대하고 감시할 것인가에 관한 교육은 

형식적이거나  무의미했다고  조선인  군속들은  증언한다.  예컨대  ‘포로  멸시’를  상징하는 

일본군의 ‘전진훈’(戦陣訓) 암송을 강요받았다는 것이다. 당시 국제법에 충실한 포로 관련 

법규들은 극비문서로 분류되었는데, 이는 “적에게 비밀이 아니라 ‘포로의 치욕’을 신봉하는 

4)  우쓰미  아이코,  이호경  옮김,  󰡔조선인  BC급  전범,  해방되지  못한  영혼󰡕,  동아시아,  2007,  p.130.

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5.  일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동

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일본군과  국민에게  극비”였던  셈이다.  두  달  훈련을  마치고  조선의  포로수용소  근무자를 

제외한 조선인 군속 3016명은 8월 19일 화물선을 개조한 10여척의 수송선에 나눠 타고 

동남아시아로 향했다. 4개 부대 가운데 가장 인원이 많았던 이(イ)부대 1408명이 9월14일 

인도네시아  자바에 도착했고, 로(ロ)부대  804명은  태국으로, 하(ハ)부대  804명은  말라야로 

각각  배속됐다.5)                 

2.  일본  군정기  인도네시아

일본군이 1942년3월10일 네덜란드의 항복을 받아냄으로써 태평양전쟁 발발 약 3개월 

만에  인도네시아  전역이  일본의  지배  아래  들어갔다.  이로써  16세기  말부터  350여년에 

걸친  인도네시아의  네덜란드  식민지  체제가  막을  내렸다.     

일제는  점령과  동시에  군정(軍政)을  실시하고  인도네시아를  전시동원체제로  재편했다. 

태평양전쟁의 최고 지휘부인 도쿄 대본영정부연락회의의 관할 아래 인도네시아를 3개 지역

으로  분할  지배했다.  자바를  육군  제16군이,  수마트라를  육군  제25군이  각각  관할하고 

기타 지역은 해군이 담당했다. 일제는 인도네시아를 태평양전쟁 수행을 위한 ‘남방의 생명선’

으로 삼고, 특히 자바를  ‘대병참기지大兵站基地’로 만드는  데 주력했다. 일제는  인도네시아 

점령 5개월 뒤인 1942년 8월 자바에 군정감부를 개설해 3개 지역 군정을 일원화하는 한편, 

일본식  직접통치를  강행했다.  350여년에  걸친  인도네시아의  네덜란드  식민지배  체제는 

급속하게  해체됐다. 

비교적  짧은  시간이지만  3년  반의  인도네시아  일군정은  태평양전쟁  자원  확보를  위한 

전시 동원 체제 구축에 주력한 초기, 전황이 악화된 이후 동남아시아 지역의 병참기지로서 

전시  수탈을  강화한  중기,  그리고  패전이  확실시된  이후  독립허용을  내세워  치안을  유지

하고  연합군의  반격에  대비해  현지의  보조전력  확보에  집중한  후기의  세  시기로  나뉜다.6) 

전쟁 초기 일본군은 파죽지세를 자랑하며 이른바 네덜란드 식민지배의 ‘백인불패’ 신화를 

깨뜨린 ‘해방자’로서 인도네시아 엘리트와 민중의 호응을 받았다. 하지만 일본군의 이미지가 

해방자에서  억압자로  바뀌는  데  그리  오랜  시간이  걸리지  않았다.  쌀  강제공출과  로무샤

5)  內海愛子,  󰡔キムはなぜ裁かれたのか󰡕,  朝日新聞出版,  2008,  p.97.
6)  早稻田大學大猥記念社會科學硏究所,  󰡔インドネジアにおける日本軍政の硏究󰡕,  紀伊國屋書店,  1959,  p.3.

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주제발표

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(romusha, 勞務者) 강제동원 등 군정의 가혹한 전시 동원 체제는 민심의 이반을 불렀다. 

일군정의  직접  지배가  확대될수록  전시수탈은  강화되었고,  민심  이반은  군정의  지배력을 

약화시키는  악순환이  벌어진  것이다. 

인도네시아는 태평양전쟁 시기 여느 동남아시아의 일본 점령지역과 다른 특징을 지닌다. 

첫째, 일본 군정 기간 인도네시아에는 강력한 친일세력이 부재했고, 본격적인 항일운동도 

거의  없었다.  민족주의  엘리트  일부가  대일  협력을  표명했지만,  버마나  필리핀의  친일에 

비할  바는  못  되었다.  일본은  인도네시아의  독립을  분명하게  약속하지  않았고,  민족주의 

운동을 비롯해 정치적·이념적 조직화를 철저하게 탄압했다. 그렇다고 식민종주국 네덜란드가 

소속된 연합군의 승리가 인도네시아의 독립을 보장하는 것도 아니었다. 이런 상황에서 분열된 

인도네시아 민족주의 엘리트는 일본 군정 기간 친일도 항일도 아닌 현실주의로 일관했다. 

둘째,  전쟁  말기까지  인도네시아의  자바에서는  연합군과의  이렇다  할  교전이  이뤄지지 

않았다. 달리말해 자바는 전쟁의 와중에 전장(戰場)이 아니었던 것이다. 일본 군정기의 자바가 

일본의 태평양전쟁 수행을 위한 물적·인적 병참기지로 기능할 수 있었던 이유이다. 자바는 

일본군의 병력 공급 기지이기도 했다. 1942년 6월 대본영의 전선 확장 전략에 따라 자바 

주둔  일본군은  점령  당시  5만5000명에서  1만5000명으로  줄었고,  전투  병력은  8500명에 

불과했다.7) 이처럼 전장의 긴박감에서 비껴나 있는 자바의 상황은 동남아시아의 여느 포

로수용소에서와  달리  조선인  포로감시원  군속들이  ‘고려독립청년당’이란  항일  비밀결사를 

조직화하는  물리적  조건이기도  했다. 

셋째, 인도네시아는 전쟁 포로의 노동력 송출 기지이기도 했다. 개전 초기 일본군 포로의 

3분의 1 가까이가 인도네시아에 있었다. 일본 대본영은 개전 6개월의 전과를 중간보고하면서 

전쟁포로가 34만2000명이라고 밝혔다(京城日報, 1942년6월8일). 이 가운데 중국군을 제외한 

동남아시아 일대의 포로가 20여만 명이었고, 인도네시아의 포로만 9만3000명에 달했다. 

일본은  개전  초기부터  국제  조약을  무시하고  전쟁  포로를  전시의  부족한  노동력을  보완

하기 위해 노무 동원하기로 방침을 정했다. 이에 따라 자바의 조선인 군속 수도 1942년 말 

1408명에서  1944년  말  736명으로  반감했다(「浮虜收容所職員及ブ配屬人員表」).8)  게다가 

7)  Miyamoto  Shizuo(宮元靜雄),  ‘Jawa  Shusen  Shoriki’(ジャワ終戰處理期),  Anthony  Reid,  Oki  Akira  (eds.), 

The  Japanese  Experience  in  Indonesia:  Selected  Memoirs  of  1942-1945.  Ohio  University 
Monographs  in  International  Studies  Southeast  Asia  Series  No.  72,  1986,  p.220.

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5.  일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동

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일본  군정은  경찰이  관할하던  피억류자(internee,  교전자는  아니지만  적성  용의가  있거나 

그 밖의 이유로 일본군에 포획된 일반 시민)를 1944년3월부터 전쟁 포로와 함께 군억류소로 

통합 수용했다. 전쟁기간 일본군 점령지역 전체 피억류자 12만5000명 가운데 10만여 명이 

인도네시아의 네덜란드계였다. 자바 피억류자의 사망률은 6명에 1명꼴에 달할 정도로 악명이 

높았다. 

3.  포로수용소의  조선인  군속

역사가  해리  벤다는  일본군의  인도네시아  점령  초기인  1942년  4월부터  12월까지를 

‘시행착오’의  시기로  요약한  바  있다.9)  아시아의  해방과  ‘팔굉일우’(八紘一宇)를  기치로 

내세운  대동아공영권이란  허구적  이념과  전쟁수행을  위한  자원  확보라는  전략목표의  모순 

속에 점령지 정책을 허겁지겁 짜 맞춰 가던 자바의 일본군정 초기의 실상을 이보다 더 압축적

으로 드러내기 힘들 것이다. 조선인 포로감시원 1408명이 자바의 자카르타에 도착한 것은 

일본  군정의  시행착오가  진행되던  무렵이었다.   

자바 포로수용소는 조선인 포로감시원 군속의 군사훈련이 종료된 1942년 8월15일 정식

으로 개설되었고, 조선인 군속이 배치된 9월말 이후 정상 운영되기 시작했다. 이로써 제16군 

산하의  지역별  부대장이  관리하던  임시  포로수용소가  도쿄  대본영의  부로정보국과  부로

관리국이  지휘하는  자바  포로수용소로  바뀌게  됐다.  만주에서  야전군을  지휘하던  사이토 

마사토시(齋藤正銳) 소장(少將)이 “포로의 국제 규약에 관해 전혀 아는 바 없는” 상태에서 

1942년 7월 자바 포로수용소 소장에 부임했다. 자바 포로수용소는 자카르타의 본소 아래 

분소 5곳과  파견소 2곳이 있었고, 각 분소/파견소 아래에 20~25곳의 분견소를 뒀다. 포로는 

국적과 인종에 따라 분리 수용되었고, 장교의 경우 포로 인솔을 위한 최소 인원만 남기고 

사병과 분리된 채 자카르타에 별도 수용됐다. 옛 네덜란드군의 병영이나 교회, 학교 등을 

포로수용소로 썼다. 분소는 좌관(영관)급, 분견소는 위관급 일본군 장교가 관할하고, 일본군 

하사관의  지휘를  받는  조선인  군속이  경비와  포로  감시  업무를  맡았다. 

8)  茶園義男  編·解說,  󰡔大東亞交戰下外地浮虜收容所󰡕 BC級  戰犯資料集成  7卷,  不二出版.  1988,  p.  25. 
9) Harry J. Benda, 

The Crescent and the Rising Sun: Indonesian Islam under the Japanese Occupation 

1942-45,  The  Hague:  Van  Hoeve  Ltd.,  1958,  pp.103-119.

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주제발표

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조선인  군속이  투입되면서  자바  포로수용소가  공식적으로  정상  운영에  들어갔다는  것은 

한편으로 포로의 노무 동원이 본격 가동되었다는 뜻이기도 했다. 1942년10월부터 44년2월

까지 살인적인 태국-버마철도 공사를 비롯해 플로레스, 암본, 세람, 하루쿠, 팔렘방 등 비행장 

건설 강제노역에 동원된 자바의 포로만 2만8000명에 이른다. 이 기간 자바의 조선인 군속도 

포로 30~40명당 1명꼴로 이동했다. 강제노역 현장으로 ‘송출’된 조선인 군속들 상당수가 

기아와  죽음의  공포에  시달렸고,  전후엔  BC급  전쟁범죄자로  몰리는  고통을  당했다.

그렇다면 낯선 땅(자바)에서 낯선 일(포로감시)을 맞닥뜨린 조선인 군속들은 유럽인 포로

들의 눈에 어떻게 비쳤을까? 수마트라의 한 네덜란드인 포로는 조선인 군속들에 관해 이런 

기록을  남겼다. 

“우리는  글루구르(Glugur,  메단  인근의  포로수용소)에서  이  사내들(lads)을  처음  도착한 

때부터 보아왔다. 막 배속 받았을 때만해도 그들은 수줍음 많고 조심스러운, 뭔가 겁먹은 듯 

한 풋내기들(boys)이었다. 무엇을 어떻게 해야 할 줄도 몰랐고, 덩치 큰 백인들에게 잔뜩 

주눅이 들어 있었다. 불행하게도 이런 모습은 이내 바뀌고 말았다. [44년 3월] 아체 파티

(Ache Party,  수마트라  북부의 동서  횡단도로  건설에 투입된  포로를  위한  수용소)로 떠날 

무렵,  그들은  이미  매정하고,  잔혹하며,  야비하고,  비열한  녀석들(fellows)이  되어  버렸다. 

그들은  향수를  못  이겨  감상에  젖기도  하고,  한편으론  생전  들어보지도  못한  낯선  곳에 

내 던져져 일본 육군에서 아주 명예롭지 못한 일을 떠맡게 만든 세상(system)을 향한 울분을 

[포로들에게]  가학적으로  표출하기도  했다.”10)

위의 기록은 조선인 군속에 관한 일말의 연민을 드러내고 있지만, 대체로 연합군 포로들은 

조선인 군속에  관해 일본군과 마찬가지로 경멸하고 적의를 드러냈다. “당초부터 ‘전진훈’

(戰陣訓)과 제네바조약 사이에서 태어난, 일본 군대에서 환영받지 못한 조직”11)이었던 포로

수용소에서,  일본식  포로  멸시와  상명하복의  명령체제  아래  포로와  직접  접촉해야  하는 

처지였던  조선인  군속들이  포로들에게  경멸의  대상이  되었던  것은  불가피했다.               

한편, 자바의 일본군 제16군은 전황이 악화되던 1944년 후반 ‘제16군 행동계획 제4호’를 

수립하고  연합군이  자바에  상륙할  경우  포로와  피억류자를  집단  살해하는  내용의  ‘자바 

10)  L.  de  Jong, 

The  Collapse  of  a  Colonial  Society:  The  Dutch  in  Indonesia  during  the  Second  World 

War,  Leiden:  KITLV  Press,  2002,  p.311.

11)  內海愛子,  村井吉敬,  󰡔赤道下の朝鮮人叛亂󰡕,  勁草書房,  1987,  p.144.

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5.  일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동

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포로수용소·억류소  행동계획(4호)’도  마련했다고  한다.12)  종전  직후  일본  육군성의  포로

관련  기록물 일제  소각 명령으로 인해 위의  행동계획에 관한 공식  자료는 확인되지 않고 

있다. 하지만 종전이 임박해 연합군이 상륙한 필리핀과 북보르네오에서 일본군이 미국인과 

영국인, 호주인  포로 수 천 명을 집단  살해13)한 것으로 미루어  개연성이  큰  것으로 판단

된다. 이는 일본의 패색이 짙어지면서 자바의 조선인 군속들이 포로와 피억류자의 집단학

살에  가담해야  하는  극단적인  상황에  내몰렸음을  의미한다. 

‘소극적  협력’에서  ‘적극적  저항’으로

1.  고려독립청년당  창당

조선의 청년 1408명은 1942년 9월 인도네시아 자바에서 일본군의 연전연승에 압도된  채 

자바라는 낯선 땅에서 일본군의 군속으로서 연합군 포로를 감시하는 낯선 임무를 떠맡았다. 

이러한  ‘이중의  고립’  상태에서  자바의  조선인  군속에게  주어진  유일한  선택지는  일본군

에의 협력이었다. 적극적 협력이냐 소극적 협력이냐는 부차적인 문제였다. 하지만 전황이 

악화되면서  일본군의  연전연패와  잇단  ‘옥쇄’(玉碎)  소식은  이들에게  새로운  선택지를  던져

줬다. 그것은 일본에의 ‘저항’이었다. 협력이냐 저항이냐의 갈림길이 생겼고, 저항의 길은 

다시  소극적  저항이냐  적극적  저항이냐로  갈렸다.  일본군이  ‘백인불패’의  신화를  무너뜨림

으로써  인도네시아인의  독립  열망을  일깨웠다면,  일본군의  짙어지는  패색은  자바  조선인 

군속들에게  ‘일본불패’의  환상을  깨뜨렸다.

자바의 조선인 군속들은 새롭게 각성했고, 1944년 12월 29일 자바에서 자생적인 조선인 

항일  비밀결사  ‘고려독립청년당’을  창당했다.  역사는  해석하는  것이  아니라  이해하는  것

이라고  했다.  그렇다면,  이들은  왜  당을  결성했을까?       

태평양전쟁의 분수령이 된 1944년 6월 일본군의 사이판 패전은 자바의 조선인 포로감시원 

12)  “Submission  of  reference  material  by  Li  Uck-Kwan  to  the  Allied  War  Crimes  Investigation 

Committee,  23  April  1946”,  (NIOD  IC,  1,347-1,350).

13)  L.  de  Jong,  앞의  책,  p.292.

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주제발표

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군속에게도  저항의  길을  가르는  분수령이기도  했다.  우선  조선인  군속이  처한  객관적인 

상황이 두 가지 측면에서 크게 바뀌었다. 첫째는 전황 악화이다. 일본군은 1944년 5월에 

이미  “도저히  태평양방면의  장래  방위에  자신이  서지  않게  된”14)  국면을  맞았다.  이후 

사이판  패전으로  일본의  절대방위권(絶對防衛圈)이  무너졌고,  개전을 주도한  도죠 내각도 

붕괴됐다.  1944년  9월30일  새  수상  고이소  구니아키(小磯國昭)는  비록  시기는  명시하지 

않았지만  처음으로  인도네시아의  독립을  약속했다.  필리핀에서  버티지  못한  일본  남방군

총사령부가  1944년  11월19일  마닐라에서  사이공으로  옮기면서  일본군은  사실상  패전 

처리  국면에  들어섰다. 

둘째는  군속의  계약기간이다.  일본의  패전이  가시권에  들어온  시점이  포로감시원의  2년 

계약 기간 만료와 맞물렸다. 아무리 늦춰 잡아도 1944년 9월이면 조선으로 돌아가야 마땅

했다. 전황 악화와 군속들의 신변 불안이 겹쳐진 것이다. 항명과 같은 소극적 저항이 만성화

되었고,  이는  적극적  저항이란  새로운  방향으로  향했다.  하지만  객관적  변화는  비밀결사 

조직화의 필요조건에 지나지 않는다. 항일 무장투쟁이란 적극적 저항을 결의하기 위해서는 

객관적  변화를  주체적으로  체화하는  충분조건을  요구한다.       

자바 조선인 군속이 새롭게 각성하는 계기로 ‘카이로 선언’이 꼽힌다. 창당 주역인 이억관

(李億觀)은  1946년  연합군  전쟁범죄  조사위원회에  제출한  참고자료에서  “카이로  회담에서 

미국,  영국,  중국의  세  지도자는  조선의  독립을  약속했다.  나는  비밀리에  무선  방송으로 

이 소식을 들었다. 나는 연합군이 승리하면 조선의 독립을 보장해 준다는 약속에 감사했다.”며 

“자바의 조선인으로서 우리에겐 일본에 항거하고 연합군을 돕는 것 말고는 다른 길이 없었다.”고 

증언했다. 달리말해 인도네시아의 조선인 청년들은 조국의 독립을 위해 지금, 여기서, 무엇을, 

어떻게 할 것인가를 구체적으로 고민하기 시작했고, ‘일본의 패전=연합군의 승리’와 조선 

독립의  상관관계를  뚜렷하게  자각했던 것이다.  이는  1944년  4월 좌우익  통일전선정부를 

구축한  상해  임시정부의  노선과도  일치한다. 

‘김주석(金周奭)  사건’은  자바  군속의  각성을  촉구한  또  다른  계기다.15)  본디  자바로  배속

되었다 태국으로 전출된 김주석은 1944년 10월 7일 태국 포로수용소에서 영국군 포로와 

모의해  중국으로  탈출을  감행하다  체포되어  이듬해  2월19일  군법회의에서  사형선고를 

14)  防衛廳防衛硏修所戰史室,  󰡔戰史叢書  南西方面陸軍作戰  -  マレー·蘭印の防衛󰡕,  朝日新聞社,  1976,  p.177.
15)  「高麗獨立靑年党  運動史(草案)」,  독립기념관  소장 

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5.  일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동

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받고 처형됐다. 자바의 비밀결사 주역들은 김주석 사건을 ‘항일 의거’로 규정하면서도 단독 

거사를 실패의 원인으로 꼽았다. 항일을 위해 결사를 통한 조직적 저항이 필요하다고 각성한 

것이다. 

‘고이소  성명’도  자극제가  되었다.  패색이  짙은  일본이  인도네시아의  독립은  천명하면서 

조선의 독립에 관해 일언반구도 내비치지 않는다는 사실에 자바의 조선인 청년들은 분노

했다.  이는  자바라는  낯선  땅에서  포로감시원이란  낯선  일에  강제  동원되지  않았더라면 

체득하기  힘든  조선  독립의  민족주의적  각성과  각오의  기회가  되었던  것으로  이해된다. 

1944년 10월  말~11월  초  무렵, 자바 포로수용소  자카르타  본소에서  이억관의  주도로 

“믿고  하지  못할  말이  없을  정도로  친해진  동료들”  16명이  비밀회동을  했다.  참석자는   

고려독립청년당  창당  때  혈서를  쓴  이억관(李億觀),  김현재(金賢宰)  임헌근(林憲根),  문학선

(文學善),  백문기(白文基)  5인을  비롯해  지주성(池周成),  박승욱(朴勝彧),  변봉혁(邊鳳赫), 

한맹순(韓孟淳),  금인석(琴仁錫),  송병기(宋炳驥),  김춘식(金春植),  김민수(金旼洙),  김규환

(金奎煥),  김선기(金璇基),  김인규(金麟奎)이다.  이  자리에서  “연합군이  자바에  진공하면  어떻게 

할  것인가”라며  결정적  시기에  무장투쟁을  나서자는  이억관의  비밀결사  조직화  제안이 

만장일치로  채택되었다.  비밀결사  조직화를  위한  ‘자카르타  결의’였던  셈이다.     

이러한  조건과  각성과  결의를  결사의  조직화로  연결하는  계기를  일본군이  제공했다. 

일본군은 자바의 모든 조선인 포로감시원을 300여 명씩 3차례에 걸쳐 자바 중부 수모워노

(Sumowono) 훈련소에서 ‘군사 재교육’을 실시한다고 밝혔다. 1차 교육이 1944년 11월

25일~12월24일 한 달간 진행됐다. 1차 교육 명단에 포함되지 않았던 이억관은 항일 비밀

결사 조직화를 앞당길 절호의 기회로 여겨 자원 입소했다. ‘자카르타 결의’의 5인이 창당을 

주도하고  다른  지역  동지들을  규합하며  창당을  준비했다. 

<표>  고려독립청년당  혈맹당원

이름(창씨명)

당직

출생

소속

신분

비고(형량)

포상(확정일)

李億觀(公山豊三)

총령

1915

자카르타  본소

고원

가명  李活

(징역  10년)

건국훈장  애족장

(2011.11.17.)

金賢宰(神石賢宰)  군사부장

1917

자카르타  본소

용인

대졸,  말라야  전출

(징역  8년6개월)

건국훈장  포장

(2011.11.17.)

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주제발표

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<자료:  고려독립청년당운동사(초안),  內海愛子·村井吉敬(1987:146),  일본  후생성  <재대증명서>와  <사망증명서>,  鬼倉
典正의  「고려독립청년당  군법회의재판  증언  서한」  및  보훈처  홈페이지  참조> 

그런데 일본은 왜 이 시점에서 조선인 군속 재교육을 실시한 것일까? 계약기간 만료에 

따른 조선인 군속의 불만과 항명이 잇따르자 ‘불순분자’를 정신교육하기 위한 목적이라는 게 

기존의  해석이다.  하지만  이러한  해석은  고려독립청년당  창당에  관한  이해를  방해한다. 

요컨대 ‘계약기간 만료의 불만-군속 집단 정신교육-불순분자의 작당’이란 논리 도식의  위험이 

다분한  것이다.  불순분자  재교육으로  볼  수  없는  두  가지  명백한  이유가  있다.

첫째,  1944년  말의  일본군  전황이  조선인  군속을  한  달씩이나  정신교육을  시킬  만큼 

한가롭지  않았다.  영·미  연합군은  대일본  공세를  강화했다.  그해  8월부터  영국군은  수마

트라와 보루네오의 유정(油井)을 공습했고, 10월부터는 필리핀 방면의 미군과 인도양 방면의 

영국군이 자바를 협공하기 시작했다. 1944년 11월 초 자바의 제16군 전투 병력은 7978명에 

불과했다.  대본영과  남방군은  자바의  방위에  관해  ‘현지  자활(自活)’을  강조할  뿐이었다. 

이런 정황에 비춰본다면 군속 재교육은 불순분자 정신교육이 아니라 자체 방위병력 확충을 

위한  군사훈련으로 보는  것이 합당하다. 실제 조선인 군속들은 1차  교육기간  특공훈련을 

비롯해  강도  높은  군사훈련을  받았다. 

이름(창씨명)

당직

출생

소속

신분

비고(형량)

포상(확정일)

林憲根(林正雄)

조직부장

1920

자카르타  본소

고원

말라야  전출

(징역  8년)

건국훈장  포장

(2011.11.17.)

李相汶(松岡潁治)

서마랑

지구  책임

1920

서마랑  분소

고원

암바라와사건  목격

(징역  7년)

건국훈장  포장

(2011.11.17.)

孫亮燮(永松亮燮)

암바라와

지부장

1921 암바라와  분견소

용인

암바라와사건  주도

자결

건국훈장  애국장

(2008.3.1.)

曺圭鴻(葉山圭鴻)

암바라와
부지부장

1921 암바라와  분견소

고원

암바라와사건  목격

(징역  7년)

건국훈장  포장

(2011.11.17.)

文學善(文岩學善)

자카르타

지부장

1919

자카르타 
총분견소

고원

말라야  전출

(징역  7년)

건국훈장  포장

(2011.11.17.)

白文基(白川登龍

자카르타
부지부장

1922

자카르타 
총분견소

고원

말라야  전출

(징역  7년)

朴昶遠(新井昶遠)

반둥 

지부장

1921

반둥  분소

용인

말라야  전출

(징역  7년)

건국훈장  포장

(2011.11.17.)

吳殷錫(桑田殷錫)

반둥 

부지부장

1922

반둥  분소

고원

말라야  전출

(징역  7년)

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5.  일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동

-  184  -

둘째, 창당의 혈맹당원 10명 가운데 7명의 군속 지위가 고원(雇員)이라는 점이다.16) 군속은 

용인과 고원으로 나뉘는데 2년 계약 완료 후 성적이 좋은 용인이 고원으로 승격했다. 통상 

자바 포로감시원의 경우 고원 승격 비율은 용인 100명에 1명꼴이었다. 1944년 말 자바의 

조선인  군속  수(900~1000명)를  감안하면  고원  승격은  10명  내외였을  것으로  추정된다. 

자바 조선인 ‘고원’ 군속의 70%가 ‘불순분자 정신교육’을 받아야 했다는 것은 논리적이지 

않다. 

재교육과  창당의  관계를  종합하면,  일본이  군속  ‘불순분자’의  정신개조를  위해  재교육을 

기획하지도 않았고, 일본이 불순분자로 지목한 조선인 군속들이 재교육을 받던 중 즉흥적

으로  고려독립청년당을  창당한  것도  아니라는  사실이  분명해진다. 

인도네시아  자바의  자생적인  조선인  항일  비밀결사인  고려독립청년당의  창당식은 

1944년 12월 29일 수모워노 훈련소의 연병장 취사장에서 열렸다. “국권을 회복하고 3천만 

민족의  자유와  독립을  쟁취하기  위한  투쟁에  분연히  궐기”한다는  선언문과  “민족을  위함

이요 조국에 이로운 행동이면 결코 주저하지 마라”는 당 강령이 만장일치로 채택됐다. 당원은 

창당  때  혈서를  쓴  10명의  ‘혈맹당원’  외에  앞서  언급한  ‘자카르타  결의’에  참석한  16명 

가운데  11명의  ‘기본당원’과  창당  이후  가입한  5명의  ‘조직당원’  등  모두  26명이었다.   

2.  암바라와  무장  봉기

자바 중부 암바라와의 포로수용소·군억류소에서 1945년 1월 4~6일 ‘고려독립청년당’의 

당원 3명이 무기를 탈취해 일본인 군인 등 12명을 사살한 자바 최초의 정치적·이념적 항일 

무장투쟁이  발생했다.  반일  저항운동이  미약했던  일본  군정기  자바에서  암바라와  사건은 

이례적이었다.  비록  무장  봉기가  돌발적이기는  했지만,  ‘고려독립청년당’의  항일  비밀결사로 

결집된  조선인  군속의  적극적  항일의  에너지가  폭발적으로  분출한  사건이라  할  수  있다.   

암바라와  사건의  계기는  1945년  1월4일  자바포로수용소가  조선인  포로감시원  군속 

30여명에게  하달한  말라야  전출명령이다.  조선인  군속  전출자  명단에  고려독립청년당의 

당원이  혈맹당원  6명을 포함해  8명이나  됐다.  창당한 지 6일  만에  고려독립청년당은 항일 

16)  유병선,  앞의  글,  p.51. 

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주제발표

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무장투쟁을 준비할 틈도 없이 조직 와해의 위기를 맞은 것이다. 전출 대상자 당원 가운데 

민영학(閔泳學,  1916년생)과  노병한(盧秉漢,  1920년생)은  암바라와  분견소  소속이다.  민영

학과  노병한은  혈맹당원  손양섭이  창당  직후  당원으로  포섭한  ‘조직당원’이었다.

사건의 전개과정을 요약하면 아래와 같다. 전출명령에 민영학이 크게 동요했고, 송별회의 

음주로 취기가 오른 민영학이 분을 삭이지 못하자 암바라와에서 서마랑으로 향하는 전출자 

수송  트럭에  손양섭이  동승했다.  4일  오후  3시  수송  트럭이  암바라와  분견소를  출발한  지 

30분 뒤 민영학을 진정시키던 손양섭이 갑자기 총을 들이대며 트럭을 세웠다. 3인만 탑승한 

채 암바라와 분견소로 차를 돌려 무기고에서 경기관총 1정, 소총 3정, 탄약 2000발을 탈취

했다. 3인의 당원은 분견소장 관사를 비롯해 역사와 관공서에 총기를 난사하고 일본인 군납 

상인  등을  공격했다.  이  과정에서  민영학이  총격을  당했다.  사태가  긴박해지자  암바라와 

분견소의 요청으로 서마랑 분소가 진압대를 파견하고 서마랑 헌병대도 비상소집령을 내렸다. 

5일에는 암바라와 주둔 인도네시아인 간부 후보생 교육대 1개 대대 500명과 인도네시아인 

경방단까지  동원됐다.  한편  암바라와  분견소의  조선인  군속에게는  실탄휴대와  단체행동을 

금지했다.  6일  오후  3시  30분경  암바라와  분견소의  약품창고에서  저항하던  손양섭과 

노병한이 자결했다. 이들은 자결 직전 고려독립청년당 당가를 불렀다고 한다. 3인의 사망

으로  이틀에  걸쳐  일본인  등  15명을  살상한  암바라와  항일  무장봉기는  막을  내렸다.   

그렇다면  암바라와  사건은  왜  발생한  것일까.  이는  고려독립청년당을  왜  창당했는가에 

관한 물음만큼이나 암바라와 사건과 자바로 강제 동원된 조선인 군속을 이해하는 중요하다. 

암바라와 사건은 인도네시아 일본 군정 체계를 내파(內破)한 자바 최초의 정치적 무장 봉기

였지만 그 원인은 적극적으로 조명되었다고 보기 힘들다. 사건의 파장과 입증 자료의 부재 

탓도 있겠지만, 전출명령이란 ‘계기’에서 개인적 불만이란 ‘원인’을 이끌어내 말라야 전출 

대상  군속에  의한  우발적인  총기  난동으로  단순화해온  기존의  ‘해석’이야말로  암바라와 

사건의  ‘이해’를  방해하는  논리  도식의  장애물이라  하겠다.       

암바라와  사건에서  간과해서  안  될  대목은  전출  대상자가  아닌  손양섭이  봉기를  주도

했다는 점이다.17) 전출 대상자가 아닌 손양섭, 전출에 동요한 민영학, 수송 트럭에서 내렸다 

17)  암바라와  사건의  3인과  사건  전날  입당  축하  모임을  열었고,  「암바라와  의거의  진상」(󰡔자바의  추억(제1집),  광문사, 

1961)을  저술한  이상문은  2010년10월18일  필자와의  서면  인터뷰에서  “손양섭은  전출  명령을  받지  않았다”고 
증언했다.  󰡔고려독립청년당운동사(초안)󰡕도  손양섭은  민영학이  걱정돼  나중에  차에  올랐다고  해  전출  대상자가 

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5.  일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동

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다시 차에 올라탄 노병한, 이들 3인의 행동을 이어주는 유일한 고리가 고려독립청년당이다. 

3인의 봉기는 계획된 것은 아니지만, 전출 대상자가 아닌 손양섭이 결정을 내리자 민역학과 

노병한은  행동을  통일했다.  이는  ‘일제에  항거하는  폭탄아’가  되겠다는  당원의  서약을 

빼놓고는 설명하기 힘들다. 암바라와 사건은 말라야 전출명령에 대한 불만이 고려독립청년당의 

외피를 쓰고 우발적으로 돌출한 사건이 아니라, 자바의 조선인 군속을 고려독립청년당으로 

결집하게 만든 복합적인 요인들이 전출명령을 계기로 분출된 조직적 배경의 항일 무장투쟁

으로  이해된다.

암바라와 사건과 혈맹당원 6명의 말라야 전출로 고려독립청년당은 창당과 동시에 개점

휴업 상태에 빠졌다. 조직을 복구할 틈도 없이 일본 헌병대가 1945년 1월28일 총령 이억

관을 검거한 데 이어 서마랑 지구의 조규홍과 이상문도 2월1일 자카르타 헌병대 구금소로 

이송됐다.  말라야로  전출된  혈맹당원  6인도  3월1일  싱가포르  헌병대에  체포되어  암바라와 

사건으로 자결한 손양섭을 제외한 혈맹당원 전원이 검거됐다. 일본 헌병대는 애초 고려독립

청년당의 전모를 파악하지는 못했지만, 암바라와 사건을 계획적인 반일 반란으로 보고 있었

다고  한다.18)

자바의 일본군 제16군 군법회의는 9명의 혈맹당원과 ‘자카르타 결의’에 참여한 기본당원 

지주성을 포함한 10인을 5월24일 ‘고려독립청년당 사건’으로 기소했다. 일본이 항복하기 

3주  전인  7월21일  변호인도  없이  진행된  군법회의재판은  암바라와  사건을  병합  기소하지 

않은  채  국체(國體)  변혁  목적의  결사에  관한  ‘치안유지법  제1조’를  위반했다며  10인  전원 

유죄를 선고했다(형량은 <표> 참조). 이들 10인은 자바의 군형무소에서 종전 소식을 듣고 

9월4일  석방돼  자바  조선인  민회(民會)를  거쳐  귀국했다.  이로써  자바의  일본  군정  후기에 

‘적극적 저항’을 모색한 조선인 포로감시원 군속의 항일 비밀결사 고려독립청년당은 암바라와 

사건이란  ‘사전에  준비되지  않은  조직적  배경의  항일  무장봉기’를  역사에  새겼다.   

하지만 자바로 강제 동원된 조선인 군속의 항일운동이 온전히 이해되고 있다고는 보기 

힘들다. 일본 군정기는 인도네시아 현대사에서 거대한 변혁기였다. 이러한 변혁의 맥락에서 

일제의  강제동원을  통한  조선인  청년의  집단이주와  항일  무장봉기에  관한  역사  연구가 

미진했기  때문이다.  사료도  부족하지만  국민국가  서사의  연구  방법론도  이와  무관하다고 

아님을  시사한다.     

18)  이상문  서면  인터뷰(2010년  10월  18일)

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주제발표

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할  수  없다.  암바라와  사건은  일본이  군사적으로  점령하고  있던  인도네시아에서  발생한 

첫  항일  무장  봉기였다.  그  주체가  자바의  이방인인  조선인이라는  사실이  일군정기  인도

네시아에 미친 영향을 예외로 간주할 이유가 되지는 않는다. 고토 겐이치(後藤乾一)가 인도

네시아의 일본 군정기 연구에 새로운 관점이 필요하다며 적절하게 지적했듯이, 결과적으로 

자바의 일본군정에 심각한 충격을 준 것은 지식인 엘리트의 논리 정연한 항일운동이 아니라, 

달리  길이  없는  상황에서  돌출한  ‘실패한  봉기들’이었다.19) 

조선인 군속의 암바라와 무장 봉기는 ‘실패한 봉기’였지만, 동시에 일본 군정의 견고한 

이미지에 처음으로 균열을 낸 사건이었다. 그런 암바라와 사건이 자바 사회에 미친 영향이 

없었다고 단정할  수는  없다. 예컨대  “인도네시아  인민의 투쟁을  불러일으킨  원천”20)이자 

“인도네시아 8월 혁명의 서곡”21)이란 평가를 받는 ‘블리타르(Blitar) 사건’은 암바라와 사건 

40일  뒤의  일이다.  블리타르  사건이란  1945년  2월14일  자바  중동부  블리타르에서  인도

네시아인으로  구성된  페타(PETA,  자바향토방위의용군)의  블리타르  대대[大團]가  무장봉기해 

일본인 4명과 친일파 화인 7명을 살해한 인도네시아인 최초의 항일 무장 투쟁이자 ‘실패한 

봉기’이다.   

암바라와  사건과  블리타르  사건의  관련성을  입증할  자료는  아직  확인되지  않고  있다. 

하지만  두  사건의  주체가  조선인군속이냐  인도네시아인  페타냐의  구별은  있어도  일본군의 

일부였다는 점, 그들의 정치적 각성이 비슷한 시기에 이루어졌다는 점, 두 사건이 시간적

으로나 지리적으로 인접해 있다는 점에서 암바라와 사건이 블리타르 사건에 영향을 주었을 

개연성은  높다.  암바라와  사건을  해외  독립운동의  사례로,  블리타르  사건을  인도네시아 

독립혁명의 서곡으로만 국한하지 않는다면 말이다. 암바라와 사건은 자바의 일본 군정 말기에 

벌어진 항일  무장 봉기에 관해  일국사의 틀을 벗어난  다른 관점과 새로운  이해를 촉구하고 

있다. 

19)  後藤乾一,  󰡔日本占領期インドネシア硏究󰡕,  龍溪書舍,  1989,  p.  139. 
20)  Nugroho  Notosusanto, 

The  PETA  Army  during  the  Japanese  Occupation  of  Indonesia,  Tokyo: 

Waseda  University  Press,  1979,  p.35-55.

21)  白石愛子,  「ブリタル反日蜂起の史的考察-インドネジア8月革命序曲」,  󰡔東南アジア硏究󰡕 13-4,  1979.  p.535.

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주제발표

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日帝末期のインドネシアにおける朝鮮人捕虜
監視員の現況と反日活動

劉炳銑(ユ・ビョンソン)

韓国伝統文化大学  教養学部  講師

はじめに

本稿は、1942年6月、捕虜監視員の軍属として強制動員され、インドネシアのジャワに配置さ

れた朝鮮人の若者たちが、1944年12月29日に結成した抗日秘密結社「高麗独立青年党」と、

1945年1月4日に武装蜂起した「アンバラワ事件」について、なぜ結社し、どのような抗日のため

だったのかを探るものである1)。 

日本帝国は、東南アジア地域の20万人余りに達する連合軍捕虜を管理するために、たった1度

だけ朝鮮人の青年3,000人余りを強制動員した。日本による朝鮮人労務強制動員の全体に比べ

ると、規模も小さく、動員の目的も独特である。3,000人余りの捕虜監視員軍属の半分に近い

1,408人が、1942年9月14日からジャワ捕虜収容所の軍属として配属されているが、このうち

10人が主導して、1944年12月29日に抗日秘密結社を結成した。それから6日後に、ジャワ中部

のアンバラワから突然マラヤへの転出命令が下されたことを機に、高麗独立青年党に所属する
党員3人は、2日にわたって武装闘争を繰り広げた。これは組織的に計画されたり、党によって

指導された蜂起ではなかった。

しかし、歴史は歴史家の好みに合致する事件だけで構成されるわけではない。馴染まぬ土地

ジャワで、強制動員された朝鮮人が自生的な抗日秘密結社をつくったことも、その結社の組織員

が「日本帝国に抗う爆弾児」にならんとして武装蜂起したことも、民族主義ないし国民国家の標

1) 本稿は、拙稿「日本軍政期のジャワにおける朝鮮人軍属の抗日秘密結社とアンバラワ事件」(高麗大学修士論文、

2011)を基にしている。

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5.  일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동

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準的な叙事から見れば異例のことである。そのため、インドネシアの朝鮮人捕虜監視員と反日活

動に関する既存の研究は、異例という理由から、異例の「解釈」がなされてきた2)。本稿は、高麗
独立青年党とアンバラワ事件を、ジャワに強制動員された日帝下の朝鮮人の若者が、政治的覚

醒によって消極的協力から積極的抵抗の道へと方向を転換した、異例ではない事件として「理

解」することを目的としている。

二重の孤立:馴染まぬ土地、馴染まぬ仕事

1.捕虜監視員の強制動員

太平洋戦争の開戦初期に輝かしい戦果をおさめた日本軍にとって、あまりにも多い捕虜は負

担であった。日本は二つの捕虜対策を講じた。捕虜を労働力として活用する方策と、捕虜の監視

を「外地人」、すなわち植民地朝鮮と台湾の人力を動員して任せる方策である。

日本は、米国と英国に対して正式に宣戦布告してから19日後の1941年12月27日、戦争捕虜

を管轄する「俘虜3)情報局」を開設した。1942年3月、陸軍省に「俘虜管理部」が設置されたが、

ジャワなど東南アジア7ヶ所の捕虜収容所に所長が任命されたのは、日本軍の南方進攻作戦が

一段落した1942年8月のことである。これに先立って、1942年5月、大本営は南方軍に対して、

東南アジア地域の捕虜収容所の警戒と捕虜監視を、外地人、すなわち朝鮮人と台湾人で編成さ

れた「特種部隊」で充当するという指針(「南方ニ於ケル浮虜ノ處理要領ノ件」、1942年5月5日)を

下した。これに基づき、俘虜情報局は捕虜監視員を2年契約の軍属とする方針を定め、同年5月

20日、朝鮮軍に捕虜収容所傭人の給与規定を下達した。同規定によると、捕虜監視員傭人は食糧

と衣服を提供され、給与は朝鮮と台湾勤務が月30円、戦地勤務が月50円であった。

2) 高麗独立青年党とアンバラワ事件に関する主な先行研究として、内海愛子と村井吉敬による先駆的な研究書(『赤

道下の朝鮮人叛乱』、勁草書房、1986)と、海外の独立運動の視点から捉えた金度亨(キム·ドヒョン)の研究(「アンバ
ラワ義挙と東南アジア地域の抗日運動の意義」、2008)、インドネシア現代史の一部と捉える必要性を提起したイン
ドネシア人ロスティニュの研究(「韓国人軍属のインドネシアにおける独立運動」、仁荷(インハ)大学修士学位論文、
2009)がある。

3) 俘虜は、日本が戦争捕虜(POW、  prisoners  of  war)を指す公式用語である。捕虜と俘虜は、いずれも戦時に捕獲さ

れた敵軍のことを指すが、俘虜は「国際法に基づいて保護する戦争捕虜」を意味する。

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주제발표

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太平洋戦争捕虜の処理に関連して目を引くのは、朝鮮総督府の役割である。1942年2月28

日、朝鮮軍参謀長は、半島人の英米崇拝観念を一掃し必勝の信念を確立するために、英米人捕虜

1,000人を朝鮮に収容できるようにしてほしいと要請する秘密電報を、日本陸軍省次官宛てに

送った。これが受け入れられ、同年8月、マラヤ戦線の英国人捕虜998人が朝鮮に移送され、街頭

行進を行い、捕虜収容所に収容された。東南アジアにおける捕虜収容所の分散設置と捕虜監視

員の外地人供給アイディアが、朝鮮軍と朝鮮総督府から出た可能性が高い4)。このことは、日帝

が朝鮮植民地収奪の経験を「大東亜共栄圏」の経営に活用したことを意味する。

大本営より朝鮮人捕虜監視員動員指針が発令されてから17日後である1942年5月22日、朝

鮮総督府情報課は、「南方の連合軍捕虜を監視する朝鮮人青年数千人を軍属として採用する」と

公表した。朝鮮総督府のハングル機関紙である<毎日新報>は、5月23日付の1面で、捕虜監視員

軍属の募集について、「半島青年の栄誉である英米人俘虜の監視指導」(朝刊)、「度重なる半島青

年の栄光」(夕刊)の題下で大きく報道したのを皮切りに、7月8日までに計29件の記事を掲載し、

捕虜監視員軍属の動員を「徴兵制の試金石」であると大々的に宣伝した。

総督府は捕虜監視員軍属を「採用」すると言ったが、実際には官を通じた斡旋、または非自発

的な強制連行方式であった。5月25日から6月10日まで、総督府の主管により、捕虜監視員「志願

者」を対象とする学科試験と身体検査が行われ、選考に合格した「志願者」を総督府が「推薦」し、

日本陸軍が「雇用」する形式が取られた。「専門学校の卒業者も集まった」(毎日新報、1942年6月

2日)といわれるほど、捕虜監視員軍属の学歴水準は高かった。

6月15日、朝鮮青年3,223人が「野口部隊」と知られている釜山の「陸軍釜山西面(ソミョン)臨

時軍属教育隊」に集結し、8月15日までの2カ月間、厳しい軍事訓練を受けた。捕虜監視員の養成
教育と掲げられたが、捕虜を如何に人間的に接し監視するのかについての教育は、形式的にと

どまるか無意味なものだったと、朝鮮人軍属たちは証言している。例えば、「捕虜蔑視」を象徴す

る日本軍の「戦陣訓」の暗唱を強制されたという。当時、国際法に忠実な捕虜関連の諸法規は極

秘文書に分類されていたのだが、それは「敵に秘密なのではなく、'捕虜の恥辱'を信奉する日本軍

と国民に極秘」だったわけだ。2ヵ月の訓練を終え、朝鮮の捕虜収容所での勤務者を除く朝鮮人

4)  内海愛子、イ·ホギョン訳、『朝鮮人BC級戦犯、解放されなかった魂」、東アジア、2007、.130頁。

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5.  일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동

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軍属3,016人は、8月19日、貨物船を改造した約10隻の輸送船に分乗して、東南アジアに向かっ

た。4つの部隊のうち最も人数の多かった(イ)部隊1,408人が9月14日にインドネシアのジャワ

に到着し、(ロ)部隊の804人はタイに、(ハ)部隊の804人はマラヤに、それぞれ配属された5)  。

2.日本軍政期のインドネシア

日本軍が1942年3月10日にオランダの降伏を獲得したことで、太平洋戦争の勃発から約3ヵ

月で、インドネシア全域が日本の支配下に入った。これをもって、16世紀末から350年余りにお

よんだインドネシアのオランダ植民地体制が幕を閉じた。     

日帝は、占領と同時に軍政を実施し、インドネシアを戦時動員体制へと再編した。太平洋戦争

の最高指揮部である東京大本営政府連絡会議の管轄の下、インドネシアを3地域に分割支配し

た。ジャワを陸軍第16軍が、スマトラを陸軍第25軍がそれぞれ管轄し、その他の地域は海軍が担
当した。日帝は、インドネシアを太平洋戦争を遂行するための「南方の生命線」と見なして、特に

ジャワを「大兵站基地」とすることに力を注いだ。日帝はインドネシア占領から5ヵ月後の1942

年8月、ジャワに軍政監部を開設して3地域の軍政を一元化する一方、日本式の直接統治を強行

した。350年余りにわたったインドネシアでのオランダ植民支配体制は、急速に解体された。

比較的短い時間ではあったが、3年半間のインドネシアでの日本軍政は、太平洋戦争の資源を

確保するための戦時動員体制の構築に力を注いだ初期、戦況の悪化以降、東南アジア地域の兵

站基地として戦時収奪を強化した中期、そして、敗戦が確実視されてから独立許容を掲げて治

安を維持しながら、連合軍の反撃に備えて現地の補助戦力の確保に集中した後期という、三つ

の時期に区分される6)。戦争初期、日本軍は破竹の勢いを誇り、いわゆるオランダ植民地支配の

「白人不敗」神話を破った「解放者」として、インドネシアのエリートや民衆の支持を受けた。だ

が、日本軍のイメージが解放者から抑圧者に変わるのに、さほど長い時間がかかりはしなかっ

た。米の強制供出と労務者(romusha)の強制動員など、軍政による過酷な戦時動員体制は、民

心の離反を招いた。日本軍政の直接支配が拡大すればするほど、戦時収奪は強化されたのであ

り、民心の離反は軍政の支配力を弱めるという悪循環が生じたのである。 

5)  內海愛子、『キムはなぜ裁かれたのか』、朝日新聞出版、2008、97頁。
6)  早稻田大学大猥記念社會科學硏究所、󰡔インドネジアにおける日本軍政の硏究󰡕、,紀伊國屋書店、1959、3頁。

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주제발표

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インドネシアは、太平洋戦争期中の他の東南アジアの日本占領地域とは異なる特徴を持つ。

第一に、日本軍政の期間に、インドネシアには強力な親日勢力がいなかったし、本格的な抗日

運動もほとんどなかった。民族主義エリートの一部が対日協力を表明したとはいえ、ビルマや

フィリピンの親日に比べられるものではなかった。日本はインドネシアの独立を明確に約束す

ることなく、民族主義運動をはじめ政治的・理念的な組織化を徹底的に弾圧した。だからといっ

て、植民地宗主国のオランダが所属する連合軍の勝利が、インドネシアの独立を保障するもの

でもなかった。このような状況下で分裂したインドネシア民族主義エリートは、日本軍政期間

に、親日でも抗日でもない現実主義で一貫した。 

第二に、戦争末期までインドネシアのジャワでは連合軍との間でこれといった交戦が行われ

なかった。言い換えれば、ジャワは戦争の渦中にあって戦場ではなかったのである。日本軍政期

のジャワが、日本の太平洋戦争遂行のための物的·人的兵站基地として機能することができた

理由である。ジャワは日本軍にとって兵力の供給基地でもあった。1942年6月、大本営の戦線拡

張戦略によって、ジャワに駐屯する日本軍は、占領当時の5万5,000人から1万5,000人に減り、
戦闘兵力は8,500人に過ぎなかった7)。このように戦場の緊迫感から逸していたジャワの状況

は、東南アジアの他の捕虜収容所とはちがって、朝鮮人捕虜監視員軍属たちが「高麗独立青年
党」という抗日秘密結社を組織化する物理的条件ともなった。

第三に、インドネシアは、戦争捕虜という労働力の送出基地でもあった。開戦初期に日本軍の

捕虜の3分の1近くがインドネシアにいた。日本大本営は開戦6ヵ月の戦果を中間報告する中

で、戦争捕虜が34万2,000人だと明らかにした(京城日報、1942年6月8日)。このうち、中国軍を

除く東南アジア一帯の捕虜が約20万人で、インドネシアの捕虜だけでも9万3,000人に達した。

日本は開戦初期から国際条約を無視し、戦争捕虜を戦時の不足労働力を補うための労働力と

して動員する方針を決めていた。これに伴い、ジャワの朝鮮人軍属の人数も、1942年末1,408人

から1944年末には736人に半減した(「浮虜收容所職員及び配屬人員表」)8)。さらに、日本軍政

は、警察が管轄していた被抑留者(internee、交戦者ではないが、敵性の容疑があるか、その他の

7)  Miyamoto  Shizuo(宮元靜雄)、‘Jawa  Shusen  Shoriki’(ジャワ終戰處理期)、Anthony  Reid,  Oki  Akira  (eds.)、

The  Japanese  Experience  in  Indonesia:  Selected  Memoirs  of  1942-1945.  Ohio  University 
Monographs  in  International  Studies  Southeast  Asia  Series  No.  72、1986、p.220

8)  茶園義男  編・解說、󰡔大東亜交戦下外地浮虜收容所󰡕 BC級戰犯資料集成7卷、不二出版、1988、25頁。

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5.  일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동

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理由で日本軍に捕獲された一般市民)を、1944年3月から戦争捕虜とともに軍抑留所に統合収

容した。戦中の日本軍占領地域全体の被抑留者12万5,000人のうち、10万人余りがインドネシ

アのオランダ系であった。ジャワの被抑留者の死亡率は6人に1人の割合にのぼるほど悪名高

かった。

3.捕虜収容所の朝鮮人軍属

歴史家ハリー・ベンダは、日本軍によるインドネシア占領の初期であった1942年4月から12

月までを、「試行錯誤」の時期と要約している9)。アジアの解放と「八紘一宇」を旗印に掲げた大東
亜共栄圏という虚構的理念と、戦争遂行のための資源確保という戦略目標の矛盾の中で、占領

地政策をあたふたと継ぎ合わせていったジャワの日本軍政の初期の実像をこれほど圧縮して

言い表すのも難しいだろう。朝鮮人捕虜監視員1,408人がジャワのジャカルタに到着したのは、

日本軍政の試行錯誤が進んでいる頃だった。 

ジャワ捕虜収容所は、朝鮮人捕虜監視員軍属の軍事訓練が終了した1942年8月15日に正式

に開設され、朝鮮人軍属が配置された9月末以降、正常に運営されはじめた。これにより、第16軍

傘下の地域ごとの部隊長が管理していた臨時捕虜収容所が、東京大本営の俘虜情報局と俘虜管

理局に指揮されるジャワ捕虜収容所へと変わることとなった。満州で野戦軍を指揮していた斎

藤正敏少将が「捕虜の国際規約について全く知るところのない」状態で、1942年7月、ジャワ捕

虜収容所長として赴任した。ジャワ捕虜収容所は、ジャカルタの本所の下に分所5カ所と派遣所

2カ所があり、各分所・派遣所の下に20-25カ所の分遣所が置かれた。捕虜は国籍と人種によっ

て分離収容され、将校の場合、捕虜を引率するための最小人数だけを残して、兵士と分離された
状態でジャカルタに別途収容された。旧オランダ軍の兵営や教会、学校などが捕虜収容所とし

て使われた。分所は佐官(領官)クラス、分遣所は尉官クラスの日本軍将校が管轄し、日本軍下士

官の指揮を受ける朝鮮人軍属が、警備と捕虜監視業務を担った。

朝鮮人軍属が投入されるようになってジャワ捕虜収容所が公式に正常運営に入ったという

ことは、一方で捕虜の労務動員が本格的に稼動されたという意味でもあった。1942年10月から

9) Harry J. Benda, 

The Crescent and the Rising Sun: Indonesian Islam under the Japanese Occupation 

1942-45,  The  Hague:  Van  Hoeve  Ltd.,  1958,  pp.103-119.

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주제발표

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44年2月まで、殺人的なタイ-ビルマ鉄道工事をはじめ、フローレス、アムボン、セラム、ハルク、

パレンバンなどの飛行場建設の強制労役に動員されたジャワの捕虜だけでも2万8,000人にの

ぼる。この期間に、ジャワの朝鮮人軍属も、捕虜30-40人に1人の割合で移動した。強制労役の現

場に「送出」された朝鮮人軍属のうち相当数が飢餓と死の恐怖に苦しみ、戦後はBC級戦争犯罪

者に追いやられる苦痛を受けた。

  では、馴染まぬ土地(ジャワ)で、馴染まぬ仕事(捕虜監視)に遭遇した朝鮮人軍属たちは、欧州

人捕虜たちの目にどのように映っただろうか。スマトラのあるオランダ人捕虜は、朝鮮人軍属ら

について、次のような記録を残した。 

「私たちはグルグル(Glugur、メダン付近の捕虜収容所)に初めて到着した時から、この男たち

(lads)を見てきた。配属されたばかりの頃の彼らは、恥ずかしがり屋で控え目な、どこか怖じ気

づいたような青二才(boys)だった。何をどうするべきかも知らず、体格の大きい白人にすっか

り気後れしていた。不幸にも、このような姿はやがて変わってしまった。[44年3月]アチェ・パー

ティー(Ache  Party、スマトラ北部の東西横断道路の建設に投入された捕虜のための収容所)

に向かう頃には、彼らはすでに薄情で、冷酷で、残酷で、卑しく、卑劣な奴ら(fellows)になってし

まっていた。彼らは郷愁に耐えられず感傷に浸ったり、一方では、生涯聞いたこともかった見知

らぬ場所に投げ出され、日本陸軍の非常に不名誉な仕事を自分たちに任させてきた世の中

(system)に対する鬱憤を、[捕虜たちに]加虐的に表出することもあった。」10)

この記録には、朝鮮人の軍属に対する一抹の憐憫を表れているが、概ねの連合軍捕虜たちは、

朝鮮人の軍属を日本軍と同じく軽蔑し、敵意を表した。「当初から戰陣訓とジュネーブ条約の間

に生まれた、日本の軍隊で歓迎されなかった組織」11)だった捕虜収容所において、日本式の捕虜

蔑視と上命下服の命令体制の下で捕虜と直接接触しなければならない立場だった朝鮮人軍属

が、捕虜たちからの軽蔑の対象となるのは避けられないことだった。               

一方、ジャワの日本軍第16軍は、戦況が悪化した1944年の後半に「第16軍行動計画第4号」

を策定し、連合軍がジャワに上陸する場合、捕虜と被抑留者を集団殺害するという内容の「ジャ

ワ捕虜収容所・抑留所行動計画(4号)」も作成したという12)。終戦直後、日本陸軍省から捕虜関連

10)  L.  de  Jong,  T

he  Collapse  of  a  Colonial  Society:  The  Dutch  in  Indonesia  during  the  Second  World 

War,  Leiden:  KITLV  Press,  2002,  p.311.

11)  內海愛子、村井吉敬、『赤道下の朝鮮人叛亂󰡕、勁草書房、1987、144頁

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5.  일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동

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記録の一斉焼却命令があったことにより、この行動計画に関する公式資料は確認されていな

い。しかし、終戦間近に連合軍が上陸したフィリピンと北ボルネオで、日本軍が米国人と英国

人、オーストラリア人の捕虜数千人を集団殺害13)したことからして、その蓋然性は高いと判断

される。このことは、日本の敗北が色濃くなるに連れ、ジャワの朝鮮人軍属たちが捕虜と被抑留

者の集団虐殺に加担しなければならない極端な状況に追い込まれたことを意味する。

「消極的協力」から「積極的抵抗」へ

1.高麗独立青年党の結成

朝鮮の青年1,408人は、1942年9月、インドネシアのジャワで日本軍の連戦連勝に圧倒され

たまま、ジャワという馴染まぬ地で、日本軍の軍属として連合軍捕虜を監視する馴染まぬ任務を

押しつけられた。このような「二重の孤立」状態の中で、ジャワの朝鮮人軍属に与えられた唯一

の選択肢は、日本軍への協力であった。積極的な協力か消極的な協力かは、二次的な問題だった。

しかし、戦況が悪化するに連れ、日本軍の連戦連敗と相次ぐ玉砕の知らせは、彼らに新たな選択

肢を投げかけた。それは日本への「抵抗」だった。協力か抵抗かの分かれ道が現われ、抵抗の道は

更に消極的な抵抗か積極的抵抗かに分かれた。日本軍が「白人不敗」の神話を崩したことで、イン

ドネシア人の独立への熱望を目覚めさせたとするなら、色濃くなる日本軍の敗北は、ジャワの

朝鮮人軍属たちに「日本不敗」の幻想を破らせた。

ジャワの朝鮮人軍属は新たに覚醒し、1944年12月29日にジャワで、自生的な朝鮮人抗日秘

密結社「高麗独立青年党」を結党した。歴史は解釈するものではなく、理解するものだと言われ

る。では、彼らはなぜ、党を結成したのだろうか。

太平洋戦争の分水嶺となった1944年6月の日本軍のサイパン敗戦は、ジャワの朝鮮人捕虜監

視員軍属にとっても抵抗の道を分かつ分水嶺でもあった。まず、朝鮮人軍属を取りまく客観的

12) “Submission  of  reference  material  by  Li  Uck-Kwan  to  the  Allied  War  Crimes  Investigation 

Committee,  23  April  1946”,  (NIOD  IC,  1,347-1,350).

13)  L.  de  Jong,  前掲の本、p.292.

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주제발표

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な状況が、二つの側面で大きく変わった。第一は、戦況の悪化である。日本軍は、1944年5月の時

点ですでに「到底、太平洋方面の将来防衛に自信が立たなくなった」14)  局面を向かえていた。そ

の後、サイパン敗戦によって日本の絶対防衛権が崩壊し、開戦を主導した東条内閣も崩壊し

た。1944年9月30日、新首相の小磯國昭は、時期については明示しなかったものの、初めてイン

ドネシアの独立を約束した。フィリピンで持ち堪えられなかった日本南方軍総司令部が、1944

年11月19日にマニラからサイゴンに移り、日本軍は事実上、敗戦処理の局面に入った。

第二に、軍属の契約期間である。日本の敗戦が視野に入ってくるようになった時点が、捕虜監

視員の2年契約期間の満了と重なった。いくら遅らせるとしても、1944年9月には朝鮮に帰って

然るべきだった。戦況の悪化と軍属たちの身の上の不安が重なったのである。抗命のような消

極的な抵抗が慢性化し、それは積極的な抵抗という新しい方向に向かった。しかし、客観的な変

化は、秘密結社の組織化を可能にする必要条件に過ぎない。抗日武装闘争という積極的抵抗を

決意するためには、客観的な変化を主体的に体化するための十分な条件が必要とされる。

ジャワの朝鮮人軍属が新たに覚醒するきっかけとして「カイロ宣言」が挙げられる。結党の主

役であった李億観(イ·オクグァン)は、1946年、連合軍戦争犯罪調査委員会に提出した参考資

料の中で、「カイロ会談で米国、英国、中国の3人の指導者は、朝鮮の独立を約束した。私は秘密裏

に無線放送でこのことを聞いた。私は、連合軍が勝利すれば朝鮮の独立を保障してくれるといっ

た約束に感謝した」とし、「ジャワの朝鮮人として、我々には日本に抗い、連合軍を助けること以

外にほかの道はなかった」と証言した。言い換えれば、インドネシアの朝鮮人青年たちは、祖国

の独立のために、いま、ここで、何を、どうすべきかを、具体的に悩みはじめ、「日本の敗戦=連合

軍の勝利」と朝鮮独立の相関関係を、明確に自覚したのである。これは1944年4月に左右の統一
戦線政府を構築した上海臨時政府の路線とも一致している。

「金周奭(キム・ジュソク)事件」は、ジャワの軍属の覚醒を促したもう一つの契機であった15)。

初めはジャワに配属され、タイに転出となった金周奭は、1944年10月7日、タイ捕虜収容所で

英国軍捕虜と謀議して中国に脱出しようとしたが逮捕され、翌年2月19日、軍法会議で死刑宣

告を受けて処刑された。ジャワの秘密結社の主役たちは、金周奭事件を「抗日義挙」と規定しな

がらも、単独の挙事だったことを失敗の原因として挙げた。抗日のためには、結社による組織的

14)  防衛廳防衛硏修所戰史室、󰡔戰史叢書  南西方面陸軍作戰ーマレー・蘭印の防衛󰡕、朝日新聞社、1976、177頁。
15)  「高麗獨立青年党運動史(草案)」、独立記念館所蔵。

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抵抗が必要だと覚醒したのである。 

「小磯声明」も刺激剤となった。敗色の濃い日本がインドネシアの独立を明らかにし、朝鮮の

独立については一言半句もほのめかさなかった事実に、ジャワの朝鮮人青年たちは憤慨した。

これは、ジャワという馴染まぬ地で、捕虜監視員という馴染まぬ仕事に強制動員されていなけれ

ば体得しがたい、朝鮮独立の民族主義的覚醒と覚悟の機会になったものと理解される。

1944年10月末から11月初めのころ、ジャワ捕虜収容所ジャカルタ本所で、李億観が主導し

て、「信頼して、話せないことがないほどに親しくなった仲間たち」16人が秘密の会合を持った。

出席者は、高麗独立青年党の結成時に血書を書いた李億觀(イ·オクグァン)、金賢宰(キム·ヒョ

ンジェ)、林憲根(イム·ホングン)、文學善(ムン·ハクソン)、白文基(ペク·ムンギ)の5人をはじめ、

池周成(チ·ジュソン)、朴勝彧(パク·スンウク)、邊鳳赫(ビョン·ボンヒョク)、韓孟淳(ハン·メンス

ン)、琴仁錫(クム·インソク)、宋炳驥(ソン·ビョンギ)、金春植(キム·チュンシク)、金旼洙(キム·ミ

ンス)、金奎煥(キム·ギュファン)、金璇基(キム·ソンギ)、金麟奎(キム·インギュ)である。この席で

「連合軍がジャワに進攻したらどうするべきか」をめぐり、決定的時期に武装闘争に出ようとい

う、李億観の秘密結社組織化提案が満場一致で採択された。秘密結社の組織化のための「ジャカ

ルタ決議」だったわけだ。

このような条件と覚醒と決意を結社の組織化へと結びつける契機を、日本軍が提供した。日

本軍は、ジャワの全ての朝鮮人捕虜監視員に対して、300人余りずつ3回にわたり、ジャワ中部の

スモウォノ(Sumowono)訓練所で「軍事再教育」を実施すると発表した。1次教育が1944年11

月25日-12月24日の1ヶ月間行われた。1次教育のリストに含まれなかった李億観は、抗日秘密

結社の組織化を早める絶好のチャンスと見なし、志願して入所した。「ジャカルタ決議」の5人が
党の結成を主導し、他の地域の同志を糾合して結党を準備した。 

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주제발표

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<表>  高麗独立青年党の血盟党員

姓名(創氏名)

党職

出生

所属

身分

備考(刑量)

褒賞(確定日)

李億觀

(公山豊三)

総領

1915

ジャカルタ本所

雇員

仮名:李活(イ・ファル

)  (懲役10年)

建国勲章愛族章

(2011.11.17.)

金賢宰

(神石賢宰) 

軍事部長

1917

ジャカルタ本所

傭人

大卒、マラヤ転出

(懲役8年6ヶ月)

建国勲章褒章

(2011.11.17.)

林憲根

(林正雄)

組織部長

1920

ジャカルタ本所

雇員

マラヤ転出

(懲役8年)

建国勲章褒章

(2011.11.17.)

李相汶

(松岡潁治)

スマラン地区責任 1920

スマラン分所

雇員

アンバラワ事件目撃

(懲役7年)

建国勲章褒章

(2011.11.17.)

孫亮燮

(永松亮燮)

アンバラワ支部長 1921 アンバラワ分遣所

傭人

アンバラワ事件主導

自決

建国勲章愛国章

(2008.3.1.)

曺圭鴻

(葉山圭鴻)

アンバラワ副支部

1921 アンバラワ分遣所

雇員

アンバラワ事件目撃

(懲役7年)

建国勲章褒章

(2011.11.17.)

文學善

(文岩學善)

ジャカルタ支部長 1919

ジャカルタ総分遣

雇員

マラヤ転出

(懲役7年)

建国勲章褒章

(2011.11.17.)

白文基

(白川登龍

ジャカルタ副支部

1922

ジャカルタ総分遣

雇員

マラヤ転出

(懲役7年)

朴昶遠

(新井昶遠)

バンドン支部長

1921

バンドン分所

傭人

マラヤ転出

(懲役7年)

建国勲章褒章

(2011.11.17.)

吳殷錫

(桑田殷錫)

バンドン副支部長 1922

バンドン分所

雇員

マラヤ転出

(懲役7年)

資料:高麗独立青年党運動史(草案)、內海愛子·村井吉敬(1987:146)、日本厚生省<在隊証明書>と<死亡証明書>、鬼
倉典正の「高麗独立青年党軍法会議裁判証言書簡」及び報勲処ホームページを参照

 

ところで、日本はなぜこの時点で朝鮮人軍属の再教育を実施したのだろうか。契約期間の満

了に伴い朝鮮人軍属の不満と抗命が相次いでいることで、「不純分子」に精神教育を行う目的

だったというのが従来の解釈である。だが、このような解釈は、高麗独立青年党の結成に関す

る理解を妨げる。要するに、「契約期間満了の不満ー軍属集団への精神教育ー不純分子が徒党

を組んだ」という論理の図式化の危険が多分にある。不純分子の再教育と見るには無理がある2

つの明らかな理由がある。

第一に、1944年末の日本軍の戦況として、朝鮮人軍属に1ヵ月も精神教育を行うほどの余裕

はなかった。英米連合軍は対日攻勢を強めていた。同年8月からイギリス軍はスマトラとボルネ

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オの油井に空襲を加え、10月からはフィリピン方面の米軍とインド洋方面のイギリス軍が、

ジャワ島を挟み撃ちしはじめた。1944年11月初めに、ジャワの第16軍の戦闘兵力は7,978人

に過ぎなかった。大本営と南方軍は、ジャワの防衛について「現地自活」ばかりを強調した。この

ような情況に照らしてみると、軍属への再教育は、「不純分子への精神教育」ではなく、独自の防

衛兵力を拡充するための軍事訓練と見たほうが妥当である。実際、朝鮮人軍属たちは、第1次教

育期間中に特攻訓練を含めた厳しい軍事訓練を受けた。 

第二に、結党の血盟党員10人のうち7人の軍属の地位が雇員だったという点である16)。軍属

は傭人と雇員に分かれるが、2年契約が完了した後、成績の良い傭人は雇員に昇格された。通常、

ジャワの捕虜監視員の場合、雇員への昇格比率は、傭人100人に1人の割合だった。1944年末の

ジャワの朝鮮人軍属の数(900-1,000人)を踏まえれば、雇員への昇格は10人前後だったろうと

推定される。ジャワの朝鮮人の「雇員」軍属の70%が、「不純分子精神教育」を受けなければなら

なかったというのは論理的ではない。

再教育と結党の関係を総合すると、日本が軍属「不純分子」の精神改造のために再教育を企

画したのでもなく、日本から不純分子と特定された朝鮮人軍属らが再教育を受ける途中、即興

的に高麗独立青年党を結成したわけでもないという事実がはっきりしてくる。 

インドネシアのジャワにおける自生的な朝鮮人抗日秘密結社である高麗独立青年党の結党

式は、1944年12月29日、スモウォノ訓練所練兵場の炊事場で行われた。「国権を回復し、3千万

民族の自由と独立を勝ち取るための闘争に憤然と決起」するという宣言文と、「民族のためとな

り、祖国に利をもたらす行動であれば、決してためらうな」という党の綱領が、満場一致で採択

された。党員は、結党時に血書を書いた10人の「血盟党員」のほか、前述の「ジャカルタ決議」に
参加した16人のうち11人の「基本党員」と、結党後に加入した5人の「組織党員」など、計26人

だった。

2.アンバラワ武装蜂起

ジャワ中部アンバラワの捕虜収容所・軍抑留所で、1945年1月4-6日、「高麗独立青年党」の党

16)  劉炳銑(ユ・ビョンソン)、前掲の論考、51頁。

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주제발표

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員3人が武器を奪取し、日本人の軍人など12人を射殺した、ジャワ初の政治的・理念的抗日武装
闘争が起った。反日抵抗運動が微弱だった日本軍政期のジャワで、アンバラワ事件は異例で

あった。武装蜂起は突発的ではあったものの、「高麗独立青年党」の抗日秘密結社として結集し

た朝鮮人軍属の積極的な抗日エネルギーが爆発的に噴出した事件だったといえる。

アンバラワ事件のきっかけは、1945年1月4日、ジャワ捕虜収容所が朝鮮人捕虜監視員の軍属

約30人に下したマラヤへの転出命令である。朝鮮人軍属の転出者リストに、高麗独立青年党の
党員が、血盟党員6人を含めて8人も入っていた。結党から6日後にして、高麗独立青年党は抗日

武装闘争を準備する間もなく、組職の瓦解の危機を迎えたのだ。転出対象者となった党員のう

ち、閔泳學(ミン·ヨンハク、1916年生まれ)と盧秉漢(ノ·ビョンハン、1920年生まれ)は、アンバ

ラ分遣所に所属している。閔泳學と盧秉漢は、血盟党員の孫亮燮(ソン·ヤンソプ)が結党直後に
党員として引き入れた「組織党員」だった。             

事件の展開過程を要約すると、以下のようになる。転出命令を受けた閔泳學は大きく動揺し

た。送別会の飲酒で酔いがまわった閔泳學が怒りを抑えられずにいるのを見て、アンバラワか

らスマランに向かう転出者輸送トラックに、孫亮燮が同乗した。4日の午後3時に輸送トラック

がアンバラワ分遣所を出発して30分後に、閔泳學を落ち着かせていた孫亮燮が、突然銃を突き

つけてトラックを止めた。3人だけが搭乗したままでアンバラワ分遣所へと車をまわし、武器庫

から軽機関銃1丁、小銃3丁、弾薬2,000発を奪取した。3人の党員は、分遣所長の官舎をはじめ、
駅舎や官公署に銃を乱射し、日本人の軍納商人などを攻撃した。この過程で、閔泳學が銃撃を受

けた。事態が緊迫してくると、アンバラワ分遣所の要請を受けたスマラン分所が鎮圧隊を派遣

し、スマラン憲兵隊も非常招集令を発した。

5日には、アンバラワに駐屯するインドネシア人幹部候補生教育隊1個大隊500人と、インド

ネシア人警防団までが動員された。一方、アンバラワ分遣所の朝鮮人軍属に対しては、実弾の携
帯と団体行動が禁止された。6日の午後3時30分頃、アンバラワ分遣所の薬品倉庫で抵抗してい

た孫亮燮と盧秉漢が自決した。彼らは自決の直前に高麗独立青年党の党歌を歌ったという。3人

の死亡をもって、2日にわたって日本人など15人を殺傷したアンバラワ抗日武装蜂起は幕を閉

じた。

では、アンバラワ事件はなぜ発生したのだろうか。これは高麗独立青年党をなぜ結成したの

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かに関する問いほどに、アンバラワ事件とジャワに強制動員された朝鮮人軍属を理解する上で

重要だ。アンバラワ事件は、インドネシアの日本軍政体系を内から破ったジャワ初の政治的武
装蜂起だったが、その原因に積極的に光が当てられてきたとは考えにくい。事件の波紋と立証

資料が不在というせいもあるだろうが、転出命令という「きっかけ」から個人的不満という「原

因」を導き出して、マラヤへの転出対象となった軍属が偶発的に銃器で起こした騒ぎだと単純

化してきた従来の「解釈」こそが、アンバラワ事件の「理解」を妨げる論理図式の障害だったと言

えよう。

アンバラワ事件で見落としてはいけない部分は、転出対象者ではなかった孫亮燮が蜂起を主

導したという点だ17)。転出対象者ではなかった孫亮燮、転出に動揺した閔泳學、輸送トラックか

らいったん降りかけ再び車に乗った盧秉漢、この3人の行動をつなぐ唯一の共通項は高麗独立
青年党である。3人の蜂起は予め計画されたものではなかったが、転出対象者ではない孫亮燮が

決定を下すと、閔泳學と盧秉漢は行動を統一させた。このことは「日帝に抗う爆弾児」にならん

とした党員の誓約を除いては説明がつきにくい。アンバラワ事件は、マラヤ転出命令に対する

不満が高麗独立青年党の外見を装って偶発的に突出した事件ではなく、ジャワの朝鮮人軍属

を高麗独立青年党に結集させた複合的な要因が転出命令を機に噴出した、組織的背景を持つ抗

日武装闘争と理解される。

アンバラワ事件と血盟党員6人のマラヤ転出により、高麗独立青年党は結党と同時に開店休

業状態に陥った。組職を復旧する間もなく、日本の憲兵隊が1945年1月28日、総領の李億観

(イ·オクグァン)を検挙したのに続き、スマラン地区の曺圭鴻(チョ·ギュホン)と李相汶(イ·サン

ムン)も、2月1日、ジャカルタ憲兵隊拘禁所に移送された。マラヤに転出された血盟党員6人も、3

月1日、シンガポール憲兵隊に逮捕され、アンバラワ事件で自決した孫亮燮を除く血盟党員全員

が検挙された。日本の憲兵隊は当初、高麗独立青年党の全貌を把握できではいなかったが、アン

バラワ事件を計画的な反日反乱と見ていたという18)。 

17)  アンバラワ事件の3人と事件前日に入党祝賀会を開いており、「アンバラワ義挙の真相」(『ジャワの追憶』(第1集)、

光文社、1961)を著した李相汶(イ·サンムン)は、2010年10月18日、筆者との書面インタビューで「孫亮燮は転出
命令を受けていない」と証言している。「高麗独立青年党運動史(草案)」も、孫亮燮は閔泳學のことが心配になって
後から車に乗ったとしており、転出対象者ではなかったことを示唆している。

18)  李相汶への書面インタビュー(2010年10月18日)。

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주제발표

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ジャワの日本軍第16軍軍法会議は、9人の血盟党員と「ジャカルタ決議」に参加した基本党員

チ・ジュソンを含む10人を、5月24日に「高麗独立青年党事件」で起訴した。日本が降伏する3週

間前の7月21日、弁護人もいないまま進められた軍法会議裁判は、アンバラワ事件を併合·起訴

しないまま、国体変革を目的とした結社に関する「治安維持法第1条」に違反したとして、10人

全員に有罪を言い渡した(刑量は<表>を参照)。彼ら10人はジャワの軍刑務所で終戦の知らせを

聞き、9月4日に釈放され、ジャワ朝鮮人民会を経て帰国した。これにより、ジャワの日本軍政後

期に「積極的な抵抗」を模索した朝鮮人捕虜監視員軍属の抗日秘密結社高麗独立青年党は、アン

バラワ事件という「事前に準備されていない組織的背景の抗日武装蜂起」を歴史に刻んだ。

しかし、ジャワに強制動員された朝鮮人軍属の抗日運動が、ありのままに理解されていると

は見がたい。日本軍政期はインドネシア現代史において巨大な変革期だったが、そのような変

革の脈絡から、日帝の強制動員による朝鮮人青年の集団移住と抗日武装蜂起を掘り下げた歴史
研究が、不十分であったためだ。史料が足りないこともあるが、国民国家の叙事の研究方法論

も、これと無関係とは言えない。アンバラワ事件は、日本が軍事的に占領していたインドネシア

で発生した最初の抗日武装蜂起だった。その主体がジャワの異邦人である朝鮮人だという事実

が、日軍政期のインドネシアに及ぼした影響を、例外的なものとみなす理由にはならない。後藤

乾一がインドネシアの日本軍政時研究に新たな観点が必要であると適切な指摘をしているよ

うに、結果的にジャワの日本軍政に深刻な衝撃を与えたのは、知識人エリートによる理路整然

とした抗日運動ではなく、他に道のない状況下で突出した「失敗した蜂起の数々」であった19)。

朝鮮人軍属のアンバラワ武装蜂起は「失敗した蜂起」であったが、同時に日本軍政の堅固なイ

メージに初めて亀裂を入れた事件だった。そのようなアンバラワ事件がジャワ社会に与えた影

響がなかったと断定することはできない。例えば、「インドネシア人民の闘争を呼び起こした

源」20)であり、「インドネシア8月革命の序曲」21)と評価される「ブリタール(Blitar)事件」はアン

バラワ事件から40日後に起っている。プリタール事件とは、1945年2月14日、ジャワ中東部の

ブリタールで、インドネシア人で構成されたペタ(PETA、ジャワ郷土防衛義勇軍)のブリタール

19)  後藤乾一、󰡔日本占領期インドネシア硏究󰡕、龍溪書舍、1989、139頁。 
20)  Nugroho  Notosusanto,  The  PETA  Army  during  the  Japanese  Occupation  of  Indonesia,  Tokyo: 

Waseda  University  Press,  1979,  p.35-55.

21)  白石愛子、「ブリタル反日蜂起の史的考察-インドネジア8月革命序曲」、󰡔東南アジア硏究󰡕 13-4、1979、535頁。

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大隊[大團]が武装蜂起して、日本人4人と親日派の華人7人を殺害した、インドネシア人初めての

抗日武装闘争であり、「失敗した蜂起」である。

アンバラワ事件とブリタール事件の関連性を立証する資料は、まだ確認されていない。しか

し、両事件の主体が朝鮮人軍属なのかインドネシア人のペタなのかという区別はあるにせよ、

日本軍の一部だったという点、彼らの政治的覚醒が似たような時期になされたという点、両事

件が時間的にも地理的にも隣接しているという点で、アンバラワ事件がブリタール事件に影響

を与えた蓋然性は高い。アンバラワ事件は海外独立運動の事例、ブリタール事件はインドネシ

ア独立革命の序曲、という限定的な捉え方に閉じ込めない限り、そうである。アンバラワ事件

は、ジャワの日本軍政末期に起った抗日武装蜂起に対し、一国史の枠を越えた異なる観点と新

たな理解を促している。

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주제발표

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有光健先生<朝鮮人軍人・軍属の戦後補償問題の

経過と現在>に対する討論文

01

金  慶  南

(キム・ギョンナム),  慶北大学  教授

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지정토론

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아리미츠  켄  선생  「한국인  군인·군속의 
전후보상문제의  경과와  현재」에  대한  토론문

김  경  남(경북대학교  사학과  교수)

아리미츠  선생님의  토론을  맡게  된  경북대  김경남입니다.  먼저,  글을  잘  정리해주셔서 

감사합니다. 앞으로 연구에 많은 도움이 될 것 같습니다. 토론자로서 전체적인 부분에 대

하여  개략적으로  정리하고,  몇  가지  질문을  함으로서  토론자의  소임을  다하고자  합니다. 

     

<총론>

이  글은  한국인  군인·군속의  전후보상문제에  대한  정부측과  시민운동측  대응과정의 

경과에  대하여  검토하고,  앞으로의  가능성에  대하여  점검하는  것을  목적으로  쓰여졌습니다. 

이  글은  군인  군속의  수,  한국인  BC급  전범  국가보상  청구소송,  입법을  통한  해결  모색, 

외국 국적의 전 BC급 전범에 대한 보상법안: 특정 연합국 재판 피구금자 특별급부금 지급 

법안,  시베리아  억류자  보상법안,  앞으로의  가능성에  대하여  검토하고  있습니다.       

이미 일본에서는 BC급 전범에 대한 연구가 어느 정도 되어 있는 상황이기는 하지만(전후

보상에  대한  개괄적인  책은  우쓰미  아이코  선생  글,  김경남  번역,  전후보상으로  보는 

아시아와  일본,  2010년  참조),  이  글은  아직까지  전후배상(보상)문제가  완전히  해결되지 

않고 있고, 일본과 북한과는 수교도 맺어지지 않은 상황에서, 한국인의 군인·군속에 대한 

전후보상  문제를  점검하고  미래를  대비한다는  점에  의의가  있다고  봅니다. 

특히  한국  대법원의  강제동원  피해자  승소  판결은  식민지  지배에  대한  일본정부의  불법 

부당성에  기초하여  판결된  것이므로,  새롭게  한국인  군인·군속의  전후보상문제를  한국 

사법부에 제소할 것인가 하는 문제는 한·일의 시민운동 차원에서도 각국 정부차원에서도 

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1.  아리미츠  켄  선생  「한국인  군인・군속의  전후보상문제의  경과와  현재」에  대한  토론문

-  210  -

매우  중대한  문제라고  할  수  있습니다.   

이  문제를  해결하기  위해서는  향후  연구사적  검토는  물론이고,  한·일정부의  과거사를 

해결하려는  노력,  한·일간  시민운동의  네트워크가  매우  중요하다는  생각을  합니다. 

이상과  같이,  이  글은  식민지  지배문제를  청산하기  위한  하나의  테마로서  매우  중요한 

문제라고  사료됩니다.  이에  오늘  토론자로서  몇  가지  질문을  드리고자  합니다. 

1.  양도받은  조선인  군인·군속의  수에  대하여     

지금까지  조선인  군인·군속의  수에  대하여  다음과  같이  제시하였습니다. 

①1950년  일본정부  37만  명 

②1993년  일본정부가  한국정부에  제공한  수  243,992명

③2016년 한국정부의 대일항쟁기강제동원피해조사및국외강제동원희생자등지원위원회

                (이하  대일항쟁기위원회)  269,947명

⓸1956년  소련  자료                          조선인  포로  10,206명 

⓹2016년  대일항쟁기위원회  자료  조선인  포로  3,000여  명

위의  ①,  ②,  ③  자료에  시베리아  억류  조선인  포로가  포함되어  있는지요?   

2.  향후  어떻게  조선인  군인·군속의  수를  정확하게  파악할  수  있을까요?

               

3.  1993년  한국측이  양도받은  명부의  실상에  대하여 

조선인 군인 군속의 수를 정확하게 알려면, 육군성과 해군성에서 작성하고, 패전 후 업무를 

이어받은  후생성이  소유한  명부를  보면  알  수  있을  것  같습니다.  그  명부의  복사본이 

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지정토론

-  211  -

1993년  한국에  양도되었습니다.  이것이  전부인지  일부인지,  아직  후생성에  남아있는지 

알  수  있는  방법이  있을까요? 

4.  입법을  통한  해결방법의  장점과  한계에  대하여   

좀 근본적인 문제에 대한 질문이라 미안하지만, 새로운 미래를 위해서는 짚고 넘어가야

하는  문제라  어려움을  무릅쓰고  질문  드립니다.  1970년대  이후  한국인  옛  군인  군속에 

대한 전후보상 청구소송이 약 90건에 이르고 있습니다. 근 40년간 재일 한국인 군인 군속 

출신피해자들부터  소송을  시작하여,  한국의  부상병들까지  계속  제소하고  있습니다. 

그런데  40년이라는  긴  기간  동안  청구소송을  하였지만,  계속  패소하고  있는  근본적인 

이유를 무엇이라고 생각하십니까? 입법을 통한 해결방법의 장점과 한계에 대하여 말씀해

주시기  바랍니다.   

5.  향후  한국  사법부에  제소할  가능성과  문제  해결  방안에  대하여   

결론 부분에서 조금 말씀하신 내용이지만, 지금까지 일본 법원에서 40년 이상 싸워왔는데, 

한국 사법부에 제소할 가능성과 그 의미에 대하여 좀 더 구체적으로 설명을 해주시면 고맙

겠습니다.  특히 일본 시민운동측의 입장을  설명해주시고,  한국측에서 어떻게  했으면 좋을까에 

대하여  의견을  주시면  좋을  것  같습니다. 

 

※  이  글을  쓴  아리미츠  선생은  일본의  전후보상을  둘러싼  시민운동측에서  활발하게 

활동하고 있는 활동가의 한 사람으로서, 역사문제를 해결하고자 노력하고 있습니다. 

나아가  민족을  넘어  일본에서  양심있는  활동가들이  모인  강제동원시민네트워크의 

역할이  없었다면  한국의  대일배상문제  해결을  위한  기록을  찾는  것도  힘들었을  것

입니다.  이  자리를  빌어  그  헌신과  노력에  감사의  말씀을  올립니다. 

이상입니다.  수고많으셨습니다.  감사합니다. 

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213

지정토론

-  213  -

有光健先生<朝鮮人軍人・軍属の戦後補償問
題の経過と現在>に対する討論文

金  慶  南(キム・ギョンナム),  慶北大学  教授

有光先生の討論を担当させていただくことになった慶北大学の金慶南です。まず、内容をよ

くまとめて下さり、ありがとうございました。今後の研究に大きく役立たせていただくことがで

きそうです。討論者として、全体的な部分について概略的に整理した上で、いくつか質問させて

いただくことで討論者としての役目を果たしたいと思います。

     

<総論>

この論考は、韓国人軍人·軍属の戦後補償問題をめぐる政府側と市民運動側の対応過程の経

過について検討しており、今後の可能性について点検することを目的として書かれています。

論考では、軍人軍属の人数、韓国人BC級戦犯の国家補償請求裁判、立法による解決の模索、外国
国籍の元BC級戦犯に対する補償法案:特定連合国裁判被拘禁者特別給付金支給法案、シベリ
ア抑留者補償法案、これからの可能性に対する検討がなされています。

すでに日本では、BC級戦犯に関する研究がある程度なされている状況ではありますが(戦後

補償に関する概括的な書籍は、内海愛子先生著、金慶南翻訳、戦後補償から見たアジアと日本、

2010年を参照)、この論考は、未だに戦後賠償(補償)問題が完全に解決されておらず、日本と北

朝鮮は国交も結ばれていない状況の中で、韓国人の軍人·軍属に対する戦後補償問題を点検

し、未来に備えるという点で意義があると思います。 

特に、韓国大法院での強制動員被害者の勝訴判決は、植民地支配に対する日本政府の不法不

当性に基づいて下された判決なので、新たに韓国人軍人·軍属の戦後補償問題を韓国司法府に
提訴するのかをめぐる問題は、韓日市民運動のレベルでも、各国の政府レベルでも、極めて重大

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1.  아리미츠  켄  선생  「한국인  군인・군속의  전후보상문제의  경과와  현재」에  대한  토론문

-  214  -

な問題であると言えます。   

この問題を解決するためには、今後の研究史的な検討はもちろんのこと、韓日政府による過

去事問題解決の努力、韓日間の市民運動のネットワークが非常に重要だと考えています。

以上のように、この論考は、植民地支配問題を清算するための一つのテーマとして、とても重

要な問題だと考えられます。そこで、本日の討論者として、いくつか質問させていただきたく思

います。

1.譲り渡された朝鮮人軍人·軍属の数について     

これまで、朝鮮人の軍人·軍属の数については、次のように提示されてきました。

①1950年、日本政府  37万人 

②1993年、日本政府が韓国政府に提供した数  243,992人

③2016年、韓国政府の対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員

会(以下、対日抗争期委員会)  269,947人

④1956年、ソ連資料:朝鮮人捕虜  10,206人 

⑤2016年、対日抗争期委員会資料:朝鮮人捕虜  3,000人余り

これら①②③の資料には、シベリア抑留の朝鮮人捕虜も含まれているのでしょうか。   

2.今後、どのようにして、朝鮮人軍人·軍属の数を正確に把握できるでしょうか。

3.1993年、韓国側が譲り受けた名簿の実状について 

朝鮮人軍人・軍属の数を正確に把握するには、陸軍省と海軍省が作成し、敗戦後に業務を引き

継いだ厚生省が所有している名簿を見れば分かるだろうと思います。その名簿の複写本が、

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215

지정토론

-  215  -

1993年、韓国に譲渡されました。これで全部なのか、それとも一部なのか、まだ厚生省に残って

いるのかについて、把握できる方法はあるでしょうか。

4.立法による解決方法の長所と限界について   

少し根本的な問題に対する質問で申し訳ありませんが、新しい未来のためには押さえておか

なければいけない問題なので、難しいことを敢えて質問いたします。1970年代以降、韓国人の元

軍人・軍属に対する戦後補償請求裁判が、約90件に達しています。40年間近く、在日韓国人元軍

人・軍属の被害者の方々が裁判を始め、韓国の負傷兵まで提訴し続けています。

しかし、40年という長い期間にわたって請求裁判に取り組んでも敗訴し続けている、その根

本的な理由は何だとお考えでしょうか。立法による解決方法の長所と限界についてお話しいた

だけますか。

5.今後、韓国司法府に提訴する可能性と問題解決のあり方について

結論の部分で少し触れておられる内容として、今まで日本の裁判所で40年以上闘ってきたわ

けですが、韓国の司法に提訴する可能性とその意味について、もう少し具体的に説明していた

だければ幸いです。特に、日本の市民運動側の立場を説明していただき、韓国側でどうすれば良

いかについてご意見をいただければと思います。 

※この原稿を書かれた有光先生は、日本の戦後補償をめぐる市民運動の側で活発に活動して

いる活動家のお一人で、歴史問題を解決しようと努力しておられます。さらに、民族を越えて日

本の良心ある活動家たちが集っている強制動員市民ネットワークの役割がなければ、韓国の対

日賠償問題の解決に向けた記録を探すことさえも大変だったでしょう。この場を借りて、その
献身とご努力に感謝を申し上げます。

以上です。お疲れさまでした。ありがとうございます。

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지정토론

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<강정숙,  일제하  조선인  포로감시원의  동원 

실태와  생활상>에  대한  토론문

02

정  태  헌

(고려대학교  한국사학과  교수)

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219

지정토론

-  219  -

<강정숙,  일제하  조선인  포로감시원의  동원 
실태와  생활상>에  대한  토론문

정  태  헌(고려대학교  한국사학과  교수)

1

기초자료의  문제

명부가  공개되지  않은  상황에서  명부를  기초자료로  글을  전개할  때의  한계와  의의를 

먼저 정리하고 출발하셔야. 필자가 활용하고 있는 자료인 '명부관련자료'와 '증언'이 어떻게 

구성된  자료인지  명확히  할  필요.  ‘명부관련  자료’는  무엇을  지칭하고  그  범주가  어떻게 

되는지?  ‘증언’의  경우  어떠한  내용으로  구성되어  있는지?  등등.  아울러  필자가  거론한 

명부자료가  공개될  경우  연구에  어떤  장점을  더할  수  있는지  보완하여  서술할  필요. 

2

사실관계  확인 

원초적  출발점,  포로의  규모나  변화양상이  제시되어야.  필자에  따르면  1942년  5월 

연합군 포로 수는 26만 명(우쓰미아이코의 책에서 재인용). 조건의 논문(「일제 강점 말기 

조선주둔일본군의 조선인 포로감시원 동원과 연합군 포로수용소 운영」, 󰡔한국근현대사연구󰡕 

67, 2013, 451쪽)에 따르면 제81회 제국의회 귀족원 속기록을 인용하여 1943년 2월 현재 

30만  명  상회.  1년  사이에  4만  명이  증가한  것인데,  사실관계  확인이  필요.

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2.  <강정숙,  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상>에  대한  토론문

-  220  -

3

전체  상과  세부사항의  연결고리  필요 

1)  일본군의  포로수용소와  조선인  동원지역의  특징

발표문에서는 포로 증가 → 포로수용소 및 감시원 체제 필요→ 포로수용소 설치 → 이에 

따른 조선인 포로감시원 동원의 순으로 논지 전개. 그러나 먼저 전체적인 포로수용소 설치와 

배치가  선행되어야.  발표문에서는  유수명부상의  데이터를  기반으로  조선인이  배치된  포로

수용소를 지적. 하지만 일본군의 전반적인 포로수용소 설치와 배치, 그 중에서 조선인 동원이 

어떤  맥락에서  지역이  정해지고  동원으로  진행되었는지  분석할  필요. 

2)  포로감시원  지원동기

지원 동기에 관한 서술이 논증이라기보다는 주관적 의견 내지는 감상에 가까움. ‘조건이 

나은  것으로  선택했다고  본다’,  ‘광고  덕분일까,  상당히  많은수’  등의  서술은  추정.  실제로 

지원동기에 관해 추정을 하더라도 3,200여 명 가운데 어느 정도 비중을 차지하는지에 대한 

개괄적인  수치라도  보여주거나,  추정의  정황증거라도  제시되어야  할  필요. 

3)  세부  데이터의  확인

조선인포로감시원 총수는 약 3,200명으로 추정. 조건(「제2차 세계대전 말기 일본의 조선인 

포로감시원 강제동원」, 󰡔한일민족문제연구󰡕 21, 2011, 166쪽)은 제국의회 설명자료에서 

제시한 3,223명 중 훈련 도중 퇴소나 추가선발 가능성을 고려하여 약 3,200명으로 추정. 

하지만 이 수치는 필자가 제시한 수치와 차이. <표2>유수명부상 조선인 배치 포로수용소의 

인원은  총  3,596명.  홍사익  등  ‘포로감시원’으로만  볼  수  없는  인원을  제외하더라도  약 

300여명 차이, 추가 설명 필요. 또 이 수치는 <표3>의 수치와도 차이. 자바 823명, 말레

이시아1,132명, 타이 1,204명, 총 3,159명. 자료의 구성방식 상, 세부 인원이 차이 나는 

것은  어쩔  수  없더라도  필자의  분석  내지  의견이  필요. 

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221

지정토론

-  221  -

4)  포로감시원의  생활실상

필자는 포로감시원의 구술에서 추출한 배치지 경험을 통해 생활실상 파악. 다만 구술의 

나열에 그치지 말고 정밀한 분석이 필요. 필자의 구분[ 1) 포로수용소에 따라 노동강도가 

다른 점, 2) 위안소 관련 증언, 3) 일본 패전 이후 포로감시원 경험, 4) 포로감시원과 현지인 

관계]을  나열을  넘어  분석을  통한  전체상을  보여줄  필요. 

*  기타

일부  증언의  경우  출처가  불분명.  해당  증언의  출처  표기할  필요. 

일본  방위성  방위연구소  소장자료,  가령  포로수용소규정을  비롯하여  포로이관에  관한 

철  등의  자료를  추가하여  분석에  참고할  필요. 

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지정토론

-  223  -

<姜貞淑、日帝下における朝鮮人捕虜監視員の
動員実態と生活像>に対する討論文

鄭泰憲(チョン・テホン)

高麗大学  韓国史学科  教授

1

基礎資料の問題

名簿が公開されていない状況の中で、名簿を基礎資料として論考を展開する際の限界と意義

を先ずまとめた上で始めるべきである。筆者が活用している資料「名簿関連資料」と「証言」がど

のように構成されている資料なのかを明確にする必要がある。「名簿関連資料」とは何を指すも

ので、その範疇はどのようになっているのか、「証言」の場合、どのような内容で構成されている

のか等々だ。あわせて、筆者が取り上げた名簿資料が公開された場合、研究にどのようなメリッ

トを加えることができるかを補完して述べる必要がある。

2

事実関係の確認 

最も原点となる出発点、捕虜の規模や変化の様相が提示されなければならない。筆者によれ

ば、1942年5月の連合軍捕虜の人数は26万人(内海愛子の書物から再引用)である。チョ・ゴンの

論文(「日帝強占末期朝鮮駐屯日本軍の朝鮮人捕虜監視員動員と連合軍捕虜収容所の運営」『韓
国近現代史研究』67、2013、451頁)によると、第81回帝国議会貴族院速記録を引用して、1943

年2月現在、30万人を上回っている。1年間で4万人が増えていることになるわけで、事実関係の

確認が必要である。

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224

2.  <강정숙,  일제하  조선인  포로감시원의  동원  실태와  생활상>에  대한  토론문

-  224  -

3

全体像と詳細事項のつなぎが必要 

1)  日本軍の捕虜収容所や朝鮮人動員地域の特徴

発表文では、捕虜の増加→捕虜収容所及び監視員体制の必要→捕虜収容所の設置→それに伴

う朝鮮人捕虜監視員の動員、という順で論旨が展開されている。しかし、まず全体的な捕虜収容

所の設置と配置が先行されなければならない。発表文では、留守名簿上のデータを基盤に、朝鮮

人が配置された捕虜収容所を指摘している。だが、日本軍の全般的な捕虜収容所の設置と配置、

その中で朝鮮人の動員がどのような脈絡から地域が定められ、動員へと進んだのかを分析する

必要がある。

2)  捕虜監視員の志願の動機

志願の動機に関する叙述が、論証というよりは主観的意見ないしは感想に近い。「条件の良い

ほうを選んだと思われる」、「広告のせいか、かなり多い数」などの叙述は推定である。実際に志

願した動機について推定するにしても、3,200人余りのうち、どの程度の割合を占めているかに

ついて概括的な数値だけでも示すか、推定の情況証拠だけでも提示する必要がある。

3)  詳細データの確認

朝鮮人捕虜監視員の総数は、約3,200人と推定されている。チョ·ゴン(「第2次世界大戦末期

の日本の朝鮮人捕虜監視員強制動員」『韓日民族問題研究』21、2011、166頁)は、帝国議会説明

資料に提示された3,223人のうち、訓練途中の退所や追加選抜の可能性を考慮して、約3,200人

と推定している。

しかし、この数値は、筆者が提示した数値との間に開きがある。<表2>留守名簿上、朝鮮人が配

置された捕虜収容所の人数は、計3,596人である。洪思翊(ホン·サイク)のような、必ずしも「捕

虜監視員」とは見られない人数を除くとしても、約300人の差があり、追加説明が必要である。ま

た、この数値は<表3>の数値とも差がある。ジャワ823人、マレーシア1,132人、タイ1,204人、

計3,159人。資料の構成のあり方上、詳細な人数に差が出るのはやむを得ないとしても、筆者の

分析ないし意見が必要である。

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지정토론

-  225  -

4)  捕虜監視員の生活の実像

筆者は、捕虜監視員の口述から抽出した配置地の経験から、生活の実像を把握している。ただ

口述の羅列に止まることのないように、精密な分析が必要だ。筆者が区分した[1)捕虜収容所に

よって労働強度が異なる点、2)慰安所関連の証言、3)日本敗戦後の捕虜監視員の経験、4)捕虜監

視員と現地人の関係]についての羅列を越えて、分析を踏まえた全体像を示す必要がある。 

*  その他

  一部の証言の場合、出所が不明確である。当該証言の出所の表記が必要である。

  日本防衛省防衛研究所の所蔵資料、例えば、捕虜収容所規定をはじめ、捕虜移管に関する綴

などの資料を追加して、分析の参考にする必要がある。

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227

지정토론

-  227  -

「일본군의  태면철도  건설과

한국인  BC급  전범」

03

황  선  익

(국민대학교  한국역사학과  교수)

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지정토론

-  229  -

「일본군의  태면철도  건설과
한국인  BC급  전범」

황  선  익(국민대학교  한국역사학과  교수)

일제  강제동원의  연구의  외연을  확장하고,  국제적  시각에서  전후처리  문제를  성찰하는 

학술회의에  함께하게  되어  뜻깊게  생각합니다. 

제가  토론  맡은  「일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범」은  제2차  세계대전기 

일본제국주의의  전쟁범죄와  강제동원  문제의  시선을  동남아시아로  확장시키고,  가장  복합

적인  전쟁  책임의  문제를  다루고  있습니다.  포로감시원과  BC급  전범문제를  다룬  연구가 

3~4편  정도에  그치고,(발표자  연구  포함)  연합군포로에  대한  일본의  가학행위,  태면철도 

문제가  시론적으로  소개된  정도임을  감안하면  상당히  의미있는  발표라고  할  수  있을  것

입니다. 토론자는 본 발표의 의의를 가늠하면서, 보다 발전적으로 논의할만한 점은 없는지 

등을  제의하며  토론을  갈음하고자  합니다.

1

연구의  의의와  과제

(1)  ‘가해자’이면서도  동시에  피해자인  포로감시원의  전쟁범죄  문제는  미묘하지만,  사실

관계를  명확히  규명해야할  문제라고  생각합니다.  한국인  포로감시원은  연합군포로에게 

있어  직접적  가해자이면서, 구조적으로 일본제국주의의  전쟁범죄를  말단에서  강요당하는 

존재이기도  했습니다.  때문에  전쟁기  이들의  역할과  ‘전쟁  범죄’의  구성  요소,  그리고  그 

구조를 명료화하는 것은 제국주의 일본의 전쟁으로 인한 2차 피해 문제를 규명한다는 차원

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3.  「일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범」

-  230  -

에서도 중요한 문제라고 할 것입니다. 즉 전쟁 범죄의 (과잉)전가 문제의 사례를 보여주는 

것이 본 발표주제의 첫 번째 의의라고 할 것입니다. 그런 의미에서 발표문의 제목과 목차가 

보다  구체적으로  명시되었으면  좋았을  것으로  생각됩니다. 

(2) 일본군에 의한 혹은 직접 관련된 강제동원 문제는 사실 다루기 어려운 주제들입니다. 

전쟁의  양상과  일본군  편제상의  변화,  강제동원의  유형과  구조,  戰場(현장)의  특수성  등 

복합적 상황을 이해해야만 된다는 점에서 일반 연구자가 소화하기 어려운 분야입니다. 특히 

자료면에서도 이런 부분이 고려되어야 하기 때문에 더 많은 노력이 요구된다 하겠습니다. 

본 주제와 관련된 기존 연구들은 우츠미 아이코의 현장 르포성 연구와 동진회 등의 재판

기록를 중심으로 사안을 고발하고 구체화한 바 저작들이 있습니다. 본 발표문은 이런 선행

연구에 전쟁 상황을 보다 입체적으로 대입시키고, 한국인 포로감시원이 BC급 전범이 되어

가는 현실을 구체적으로 기술해갔다는 점에서 연구사적 의의가 있습니다. 특히 전쟁의 양상과 

태면철도  부설의  경과를  매우  구체적으로  다룬  것은  이것이  얼마나  예견된  실패였는지 

군사적  관점에서  지적하기  위한  것으로  보여집니다. 

2

연구  방법-자료활용-상의  보완점

다만  당시의  군사자료  및  재판자료를  더욱  활용한다면  태면철도  부설문제의  복합성과 

구체성을 보다 면밀히 밝혀낼 수 있을 것으로 기대됩니다. 토론을 준비하며 조사한 결과, 

태국-버마지역  철도부설  및  포로처리문제에  대한  조사보고서들이  여러  버전으로  작성되

었음이 확인되며, 당시 戰況을 보다 사실적으로 보여주는 1차 사료들도 상당수 있음을 알 수 

있습니다.(작전기록, 戰史資料) 이 중 포로처리에 대한 조사보고서나, 재판관계 자료는 태면

철도 문제가 이미 연합국에게 어떻게 받아들여졌는지, 전쟁 중에도 일본이 연합국의 지속

적인  항의를  받아  사안의  중대성을  인지하고  있었음을  보여줍니다.

예컨대  󰡔泰・緬甸連接鉄道建設に伴う俘虜使用状況調書󰡕(終戰  직후  작성된  것으로  추정)는 

1944년부터 지속적으로 제기된 연합국 측의 포로취급문제에 대한 항의에 대한 답변자료

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231

지정토론

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인데,  자료  편철  배경(취지)에서  “(1)포로에  대한  직접적  학대와  불법적  행위(소위  일반 

포로학대사건)가 있는지, (2)곤란한 건설에 포로를 사용함으로써 비교적 다수의 사상자를 

냈는지”에 대한 답변으로  “포로학대사건이라  부를만한  일은  없으며,  후자(다수의  사상)의 

경우 전쟁 수행의 일환으로 타당한 행동에서 일어난 자연발생적인 것”이라고 밝혔습니다. 

이는 이미 전쟁기에 포로대우문제 등에 대한 문제 의식을 갖고 있었으며, 일본 측이 이에 

대비하며  전쟁  범죄의  巨惡적  책임은  회피하였으며,  오히려  한국인들이  전범으로서  가중

된  부담을  짊어지게  되었음을  보여주는  대목이라  할  수  있습니다.  이렇듯  전쟁기,  전쟁 

직후 작성된 태면철도 부설과 전범 조사 관계 문서들을 보다 입체적으로 분석한다면 한국인 

포로감시원이 짊어진 전쟁 책임의 문제를 보다 복합적으로 따져 볼 수 있으리라 기대됩니다.

방위성 소장 관련 자료 : 󰡔ビルマ作戦鉄道戦史󰡕; 「勇作戦に伴ふ鉄道運用計画」; 󰡔軍事鉄

道記録󰡕(5권이 남방철도 해당); 󰡔泰緬鉄道関係裁判書類綴󰡕(1956년 조사보고서), 󰡔泰、緬甸

連接鉄道建設に伴ふ俘虜使用状況調書󰡕 등

3

구체적  질문들

(1)  3쪽  둘째  문단  마지막  부분  “태면철도의  건설은  단순히  군사  작전상으로만  중요한 

것이 아니라 정치적·경제적으로도 중시되게 되었다.”에서 정치/경제적 의미는 무엇을 의미

하는지  알려주시기  바랍니다.

(2) 5쪽에서 언급하고 있으나, 작업인원 및 사망자수에 대해서는 다양한 추정이 있습니다. 

발표자가  생각하는  인원수와  근거에  대해  개략적으로  설명해  주시면  좋겠습니다.

포로감시원의  실태와  BC급  전범처리문제를  종합적으로  규명하기  위해서는  전사자료, 

각종  조사보고서,  재판관계  자료  및  재판기록,  그리고  당사자들의  증언  등이  종합적으로 

분석되어야 할 것입니다. 그러나 이들 자료를 섭렵한다는 것은 사실 개인 연구 차원에서는 

어려운  일임이  분명합니다.  그럼에도  불구하고  연구의  진전과  피해자의  명예회복을  기원

하며  의견을  전합니다.

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지정토론

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討論文  <日本軍の泰緬鉄道建設と 
韓国人BC級戦犯>

黃善翌(ファン·ソニク)

国民大学  韓国歴史学科  教授

日帝強制動員に関する研究の外堀を広げ、国際的な視点から戦後処理問題を省察するため

の学術会議にご一緒させていただき、有意義に思います。 

私が討論を担当することになった「日本軍の泰緬鉄道建設と韓国人BC級戦犯」は、第2次世

界大戦期における日本帝国主義の戦争犯罪と強制動員問題の視線を東南アジアに拡張させ、最

も複合的な戦争責任の問題を扱っています。捕虜監視員とBC級戦犯問題を扱った研究が3-4

本程度にとどまっており(発表者の研究を含む)、連合軍捕虜に対する日本の加虐行為や泰緬鉄

道問題が時論的に紹介されている程度だということを踏まえれば、相当意味深い発表であると

言えるでしょう。討論者として、本発表の意義を見計らいながら、より発展的に議論できるよう

な点はないかなどを提案し、討論に代えたいと思います。

1

研究の意義と課題

(1)  「加害者」でありながら、同時に被害者でもある捕虜監視員の戦争犯罪問題は微妙なもの

でありますが、事実関係を明確に解明すべき問題だと考えます。韓国人捕虜監視員は、連合軍捕

虜にとって直接的な加害者でありながら、構造的には日本帝国主義の戦争犯罪を末端で強いら

れる存在でもありました。故に、戦争期における彼らの役割と「戦争犯罪」の構成要素、そしてそ

の構造を明瞭化することは、帝国主義日本の戦争による二次被害の問題を究明するという次元

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234

3.  「일본군의  태면철도  건설과  한국인  BC급  전범」

-  234  -

でも重要な問題であるといえるでしょう。つまり、戦争犯罪の(過剰な)転嫁問題の事例を示すこ

とが、本発表のテーマの第一の意義といえましょう。そのような意味で、発表文の題名と目次が

より具体的に明示されれば良かっただろうと思われます。

(2)  日本軍による、あるいは直接関連する強制動員問題は、実は扱いにくいテーマです。戦争

の様相と、日本軍の編制上の変化、強制動員の類型と構造、戦場(現場)の特殊性など、複合的な
状況を理解しなければならないという点で、一般研究者にとって消化が難しい分野でありま
す。特に、資料面でもこういった部分が考慮されなければならないので、さらなる努力が求めら

れると言えましょう。 

本テーマに関連する既存の研究としては、内海愛子の現場ルポ的な性研究と、東進会などの

裁判記録を中心に事を告発し具体化してきた著作があります。本発表文は、このような先行研

究に戦争状況をより立体的に組み入れ、韓国人捕虜監視員がBC級戦犯になっていった現実を

具体的に記述していったという点で、研究史的意義があります。特に、戦争の様相と泰緬鉄道の

敷設の経過を非常に具体的に扱っているのは、これがどれほど予見されていた失敗であったか

を軍事的観点から指摘するためだと考えられます。

2

研究方法-資料活用-上の補完点

ただ、当時の軍事資料と裁判資料をもっと活用すれば、泰緬鉄道敷設の問題の複合性と具体

性を、より綿密に明らかにできるものと期待されます。討論を準備しながら調べた結果、タイ-ビ

ルマ地域での鉄道敷設と捕虜処理の問題に関する調査報告書などが複数のバージョンで作成

されていることが確認され、当時の戦況をより事実的に示す1次史料も相当数あることが分か

りました(作戦記録、戦史資料)。このうち捕虜の処理に関する調査報告書や裁判関係資料は、泰

緬鉄道問題がすでに連合国にとってどのように受け止められていたのか、戦争中も日本が連合
国から抗議を受け続けていたことから、事の重大性を認知していたことを示しています。

例えば、『泰・緬甸連接鉄道建設に伴う俘虜使用状況調書』(終戦直後に作成されたものと推

定)は、1944年から提起され続けた連合国側の捕虜の取り扱い問題に対する抗議への答弁資料

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235

지정토론

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でありますが、資料の編綴の背景(趣旨)のところで、「(1)捕虜に対する直接的虐待と不法行為(い

わゆる一般捕虜虐待事件)があるのか、(2)困難な建設に捕虜を使うことで比較的多数の死傷者

を出したのか」に対する答弁として、「捕虜虐待事件と呼ばれるようなことはなかったし、後者

(多数の死傷)の場合、戦争遂行の一環として妥当な行動から起きた自然発生的なもの」と述べ

ています。これは、戦中にすでに捕虜の待遇問題などに対する問題意識を持っていて、日本側は

それに備えながら戦争犯罪の巨悪的責任を回避したのであり、むしろ韓国人が加重された負担

を戦犯として負わされるようになったことを示すものと言えます。このように、戦中から戦争

直後に作成された泰緬鉄道敷設と戦犯調査関連の文書をより立体的に分析すれば、韓国人捕虜

監視員が背負わされた戦争責任の問題を、より複合的に明らかにできるものと期待されます。

防衛省所蔵の関連資料:『ビルマ作戦鉄道戦史󰡕;「勇作戦に伴ふ鉄道運用計画」;󰡔軍事鉄

道記録󰡕(5卷が南方鉄道に該当);󰡔泰緬鉄道関係裁判書類綴󰡕(1956年調査報告書)、  󰡔泰・緬甸

連接鉄道建設に伴ふ俘虜使用状況調書󰡕など。

3

具体的な質問

(1)  本文3枚目第2文壇の最後のほうの「泰緬鉄道の建設は、単なる軍事作戦上の重要性だけ

に止まらず、政治・経済的な面からも重視されるようになった」での政治·経済的意味とは何を

意味するのかお聞かせください。

(2)  本文5枚目に述べておられますが、作業人数および死亡者数については様々な推定があ

ります。発表者が考えていらっしゃる人数とその根拠について、概略的に説明していただけれ

ば幸いです。

 

捕虜監視員の実態とBC級戦犯処理問題を総合的に究明するためには、戦史資料、各種の調査

報告書、裁判関係資料及び裁判記録、そして当事者たちの証言などが総合的に分析されるべき

でしょう。しかし、これらの資料を読みこなすというのが、個人研究レベルでは難しいことであ

るのは明らかです。それでも敢えて、研究の進展と被害者の名誉回復を祈りつつ、意見をお伝え

致しました。

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지정토론

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「필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한 

성폭력」(오카다  타이헤이)  토론문

04

변  은  진

(전주대  HK연구교수)

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지정토론

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「필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한 
성폭력」(오카다  타이헤이)  토론문

변  은  진(전주대  HK연구교수)

이 글은 필리핀 비사야 지역에서 일본군에 의해 일어난 성폭력 사건에 대해 미시적 접근을 

통해 밝히고 있다. 구체적으로는 일본군 102사단 관할인 파나이, 세부, 보홀 섬의 세 지역을 

대상으로 하며, 자료는 주로 BC급 전범 재판자료를 활용하고 있다. 이를 통해 ‘위안부’뿐만 

아니라 또 다른 형태의 전시 성폭력 즉 강간의 실상을 정리하고 다양한 형태들을 모델링함

으로써,  여기에도  일본군의  ‘지휘명령  계통’이  작동하고  있었음을  드러내고자  한  것으로 

보인다.  결론적으로  단순한  느낌을  먼저  말씀드리자면,  모델화하기에는  지역이나  사례가 

다소  제한적이며,  그  또한  자료상의  한계  때문인지  몰라도  각  사례의  정밀한  실증에까지 

이르지는 못했다는 생각이 든다. 물론 이 시기 전시 성폭력에 대한 미시적 연구의 어려운 

사정을  감안하면  이와  같은  연구가  축적될  필요가  있다고  생각한다.

그런데 토론자가 위와 같은 느낌을 가진 일차적인 배경은, 이 글의 내용이 제목인 「필리핀 

비사야 지방에서의 일본군에 의한 성폭력」을 포괄하고 있지 못한 것과도 관련이 있다. 비사야 

지방 내에서 102사단 관할인 위 세 지역만 보더라도, 일본군의 ‘성폭력’을 다루려면 먼저 

이 지역의 ‘군위안소와 위안부’에 대한 분석이 있어야 할 것이다. 잘 알려져 있다시피, 이 

지역 이로이로의 위안소와 관련해서 필리핀 군정감부 이로이로출장소에서 헌병분대로 내려

보낸  「위안소  규정」,  「파나이섬  접객업조합」 명부를  통해  확인되는  위안소  경영,  이로이로 

환자요양소의  성병검사  보고서  등의  자료가  남아있다.  위안소제도가  당시  ‘일본군’에  의한 

합법적인  지휘명령  계통을  갖고  있었음을  인정한다고  해도  ‘일본정부’의  개입과  책임은 

인정하지  않고  있는  게  지금까지의  상황임을  고려할  때,  ‘전시  성폭력’의  미시적인  사례 

분석에서도  보다  신중을  기해야  한다고  생각한다.       

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240

4.  「필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력」(오카다  타이헤이)  토론문

-  240  -

발표자는  기본적으로  ‘위안소와  위안부’는  “당시  일본군의  법  의식에서  보면”  ‘합법’이

었기 때문에 ‘또 다른 전시 성폭력’으로서 ‘불법’으로 인식되던 ‘강간’을 중심에 둠으로써, 

“강간과  ‘위안소’는  명백히  다른  것”임을  드러내려  했다.  그  의도는  충분히  짐작되지만, 

이  문제에서  합법과  불법을  가리기에  앞서  먼저  전제가  되어야  할  점이  다양한  형태의 

‘전시  성폭력’이  갖고  있는  반인륜적인  범죄라는  데  기초하고  있다면  이를  아울러  보는 

시각도 필요하다고 생각한다. 그래야만 일본군의 시각에서 ‘합법’인 위안소제도를 운영한 

것이 어떻게 또 다른 전시 성폭력인 강간을 만연시키는 기저로 작동되었는지 여부로까지 

나아갈  수  있다고  생각한다.       

이런 관점에서 볼 때 이 발표문에서 가장 돋보이는 점은 마치 우발적이고 지극히 개인적

으로  치부될  수  있는  ‘강간’이라는  성폭력에도  실제  일본군의  지휘명령계통이  작동하고 

있음을  밝히려  애쓰고  있다는  점이다.  물론  완벽하게  명확히  밝혀졌다고는  할  수  없지만 

그 단초들을 계속 만들어내고 있다. 그렇기 때문에 위안소제도에 익숙한 일본군의 체계와 

빈발한  강간  사건들의  관계성도  보다  깊이  탐색할  수  있을  것이라  본다.     

아울러 강간이라는 전시 성폭력에서 자유파나이군으로 불리는 게릴라에 대한 관계성이 

작동하고  있었다는  점,  즉  젠더  관점만이  아니라  이  시기  일본군의  ‘전술로서의  강간’으로 

파악하고자  한  점은  매우  중요한  시각이다.  그런데  사실상  서론에서  선언적으로  언급한 

내용이  본론에서  잘  입증하면서  분석적으로  서술되고  있지  않는  면이  있으므로  보완이 

필요할  것  같다.

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지정토론

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<フィリピン 
ビザヤ地方における日本軍による性暴力>(岡
田泰平)討論文

卞恩眞(ピョン·ウンジン)

全州大学  韓国古典学研究所  HK研究教授

この発表は、フィリピンのビサヤ地域で日本軍によって引き起こされた性暴力事件について、

ミクロなアプローチを通じて明らかにしている。具体的には、日本軍102師団の管轄下にあっ

たパナイ、セブ、ボホール島の3地域を対象としており、資料は主にBC級戦犯裁判資料が活用さ

れている。これを通じて、「慰安婦」だけでなく、異なる形の別の戦時性暴力、つまりレイプの実
状を整理し、多様な諸形態をモデリングすることで、ここにも日本軍の「指揮命令系統」が働い

ていたことを浮彫りにしようとしたと見られる。結論的に、単純な感想から先に申し上げるなら

ば、モデル化するには地域や事例に多少限りがあり、それもまた資料上の限界のせいかも知れな

いが、個々の事例の精緻な実証には至っていないように思える。もちろん、この時期の戦時性暴

力に対するミクロ的研究の厳しい事情を踏まえれば、このような研究が蓄積される必要がある

と考える。

ところで、討論者がそのような感想を持つことになった一次的な背景は、この発表文の内容

が、タイトルである「フィリピン  ビザヤ地方における日本軍による性暴力」を包括しきれていな

いことにも関係がある。ビザヤ地方の中で、102師団の管轄下にあった上の3地域だけを見るに

しても、日本軍の「性暴力」を扱うには、先ずこの地域の「軍慰安所と慰安婦」に対する分析が伴わ

なければならないだろう。よく知られているように、この地域のイロイロの慰安所との関連で、

フィリピン軍政監部イロイロ出張所から憲兵分隊に送られた「慰安所規定」、「パナイ島接客業組

合」名簿を通じて確認される慰安所の経営、イロイロ患者療養所の性病検査報告書などの資料

が残っている。慰安所制度が、当時「日本軍」による合法的な指揮命令系統を有していたことを

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242

4.  「필리핀  비사야  지방에서의  일본군에  의한  성폭력」(오카다  타이헤이)  토론문

-  242  -

認めるにしても、「日本政府」の介入と責任は認めていないのが現在までの状況であることを考

慮するなら、「戦時性暴力」のミクロな事例分析においても、より慎重が期されるべきだろうと

考える。   

発表者は基本的に、「慰安所と慰安婦」は「当時の日本軍の法意識からすると」「合法」であった

ので、「異なる戦時性暴力」としての「違法」と認識されていた「レイプ」を中心に置くことで、「レ

イプと『慰安所』は明らかに異なるもの」であることを表そうとした。その意図は十分に察するこ

とができるが、この問題をめぐり合法と不法を判別する前に、まず前提とされるべき点は様々

な形の「戦時性暴力」の持つ反人倫的な犯罪だということに基づいているならば、これを合わせ

て見ていく視点も必要だと考える。そうしてこそ、日本軍の見方では「合法」であった慰安所制度

の運営が、どうして異なる戦時性暴力であるレイプを蔓延させる基底として働いたのかの可否

にまで進むことができると考える。

このような観点から見ると、この発表文で最も引き立っている点は、まるで偶発的に起った

極めて個人的なことと片付けられがちな「レイプ」という性暴力にも、実際は、日本軍の指揮命令

系統が作動していることを明らかにしようと努めているという点である。もちろん、完璧にはっ

きり明確化されたとは言えないが、その手がかりをつくり続けている。それ故、慰安所制度に慣

れていた日本軍の体系と、頻発したレイプ事件の関係性についても、より深く探索できるだろ

うと思う。

さらに、レイプという戦時性暴力に対し、自由パナイ軍と呼ばれるゲリラとの関係性が作用

していたという点、つまり、ジェンダーの視点だけでなく、この時期の日本軍の「戦術としての

レイプ」として捉えようとしていることは、非常に重要な視点である。ただ、実際に「はじめに」で

宣言的に言及している内容が、本論の中でよく立証されながら分析的に記述されているわけで

はないという側面があるので、補完が必要だと思われる。

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지정토론

-  243  -

「일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원

현황과  반일활동」

05

안  용  근

(전  충청대학교  교수)

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지정토론

-  245  -

「일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원 
현황과  반일활동」

안  용  근(전  충청대학교  교수) 

필자는  일제강제동원과  관련된  전공자도  아니고  인문사회과학  전공자도  아니다.  식품을 

전공한  사람이다. 

유병선 교수님은 ‘일본 군정기 자바 조선인 군속의 항일비밀결사와 암바라와 사건’이라는 

제목으로  학위를  받았는데  이  분야를  정통으로  전공하신  개척자이다.  그런  만치  지명  있는 

분을  토론자로  내세웠어야  하는  비전공자라  죄송스럽다. 

필자는  전공자가  아니므로  전체를  꿰뜷어보는  안목이나  지식은  없다.

단지,  부친이  일본군  군속으로  인도네시아  자바  반둥에  포로감시원으로  파견되었고  고려

독립청년당 당원이었던 점, 종전 후 반둥의 조선인 민회(239명) 회장을 하고, 당시의 서류가 

집에  매우  많아서  자료  수집을  위해  찾아오는  우쓰미아이코  교수  등에게  설명하기  위하여 

내가  먼저  이해하지  않으면  안  되는  입장이어서  많은  것을  알게  되었다.

부친의 자료 중에 ‘자바에서 얻은 벗의 방명록’이 있는데 군속들 1,300명(전체의 43%)의 

이름과 주소가 쓰여 있었다. 우쓰미아이코 교수가 이를 이용하여 생존한 군속들을 만나고 

싶어 하여서 북한 빼고 파악이 가능한 주소 오백여명에게 편지를 보낸 결과 군속 35명이 

연락이 되어 우쓰미아이코 교수를 안내하며 만났다. 서로 연락되던 사람까지 50여명 정도가 

되었다.

당시는 위안부 문제가 이슈화되지 않았던 때라 그분들이 위안부 얘기를 하여도 별 관심을 

두지  않았다.  전범으로  처벌받았던  사람들도  여럿  만났다.

‘자바에서  얻은  벗의  방명록’은  단순한  주소록이  아니고  범례를  보니  ○  본부  회원,  △ 

스마랑지부 회원, √ 반둥지부 회원, 入 감옥 들어간 날, 出 감옥 나온 날, 乘船 귀국선 탄 날, 

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5.  「일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동」

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邦 邦人, 海 海軍 등의 표시가 있었다. 종전 후 조선인 군속이 귀국하기 전까지 전범 조사로 

수감시킨  날이나  나온  날,  귀국한  날의  자료였다. 

부친은  1987년  돌아가셨는데  많은  자료를  남겼다.  유고집을  만들려고  보니  전혀  정리

되어 있지 않았고 5개 국어나 되었다. 그래서 국문학자. 한문학자, 영문과 교수 등의 협조로 

풀이하고 인도네시아어는 김도형박사 도움을 받았다. 일본어는 필자가 풀이하였다. 30여년 

걸렸는데  그  과정을  통하여  군속과  고려독립청년당에  대하여  많이  알게  되었다.

부친은 처음 2년은 포로수용소에 있었고 나머지 2년은 억류소에 있었다. 억류소는 부녀자들 

수용소이다.  종전  후  전범  혐의로  군속  전원이  수감되었을  때  네덜란드  처녀들이  부친께 

면회  왔다고  하는  것을  보면  관계는  좋았던  것  같다.

군속은 ① 탈 없이 귀국한 일반 군속, ② 전범으로 낙인 찍혀서 사형 받거나 형을 산 군속, 

③ 탈출하여 행방불명되었거나 양칠성씨(부친과 함께 자바 반둥에서 근무) 같이 인도네시아 

독립영웅이 된 사람, ④ 독립운동을 한 고려독립청년당원들로 나눌 수 있다. 부친은 고려

독립청년당원으로  자바  반둥  조직책이었다. 

부친은  민영학,  손양섭,  노병한  세  의사를  주인공으로  ‘재자바  고려독립청년당원과 

삼의사’라는  수기를  썼다.  보훈처에서는  이  자료를  바탕으로  이들  3분과,  감옥살이를  한 

고려독립청년당원들을 포상하였다. 부친을 비롯한 당원의 반 이상은 포상 받지 못하였는데 

3개월  이상  복역한  기록이  있어야  하는데  없어서라고  한다. 

이  수기는  부친이  써서  박창원  선생과  이상문  선생  등  당원들에게  보내서  수정받았다. 

수기를  보면  부친과  친했던  사람으로  충남  보령군  남포면의  김주석  선생이  있다.

이  분은  태국에 피견되었다가  연합군 포로 3명을  데리고 탈출하였으나  헌병대에  잡혀서 

사형  당하였다.  태국  국경에서  중국  국경까지  직선거리  150킬로미터  정도이므로  중경의 

임시정부를  목포로  했던  것이다.

김주석  선생  사건은  군속들을  자극하여  고려독립청년당을  만드는  계기가  되었다. 

일본군은 종전 후 서류를 태워서 고려독립청년당의 수감 기록 등이 없었다. 그래서 보훈처

에서는 그를 이유로 다 죽을 때까지 포상을 안 하다가 이상문 선생만 생존한 시점에서 포상을 

하였다.

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지정토론

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반면 김주석 선생은 처음부터 결정적인 근거가 있었다. 의부대(義部隊; 태국 주둔 일본군)가 

남포면장에게  보낸  8가지  죄목의  사형  통보서가  제적  등본에  있다. 

가족들도  포상신청하고  필자도  2번이나  포상신청을  하였는데도  보훈처에서는  김주석 

선생  포상을  안  하고,  조사도  안  하였다. 

김주석  선생은  ‘콰이강의  다리’라는  영화의  실제  주인공이다.  그러므로  김주석  선생을 

연구해야  할  것으로  생각한다.  김주석  선생  자료는  필자가  가장  많이  갖고  있다.  필요한 

사람이  있으면  드릴  수  있다. 

인도네시아에 주둔하고 있던 네덜란드 군인들은 일본군 포로가 되어 조선인 포로감시원의 

감시를 받았다. 이들은 전쟁이 끝나고 네덜란드로 귀국하였는데 한국전쟁이 발발하자 한국

으로  파병된  사람들이  있다. 

네덜란드  군인들이  조선인  군속의  존재를  알았는지,  한국전  때  와서  어떻게  하였는지 

밝혀져야  할  역사인데  남양군도에서  일본군과  전쟁을  한  다른  참전국에서도  같은  예가 

많을  것이다. 

 

   

     

 

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지정토론

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<日帝末期のインドネシアにおける朝鮮人捕
虜監視員の現況と反日活動>討論文

安龍根(アン·ヨングン)

元  忠清大学  教授

筆者は日帝強制動員について専攻した者でもなく、人文社会科学を専攻したわけでもない。

食品を専攻分野としてきた。

劉炳銑(ユ・ビョンソン)先生は、「日本軍政期のジャワにおける朝鮮人軍属の抗日秘密結社と

アンバラワ事件」というタイトルで学位を取得され、この分野について正統な専攻者として研

究された開拓者でいらっしゃる。それだけに、名の知られる相応しい方が討論者となるべきだっ

たろうが、非専攻者であり申し訳なく思う。

筆者は専攻者ではないため、全体を見抜く眼識や知識は持ち備えていない。

ただ、亡き父が、日本軍の軍属としてインドネシアのジャワ島バンドンに捕虜監視員として派

遣され、高麗独立青年党の党員だった点、終戦後にバンドンの朝鮮人民会(239人)会長を務め、
当時の書類が自宅に非常に多かったことから、資料を収集するべく訪ねてくる内海愛子教授な

どに説明するために、私自身がまず理解しなければならない立場に置かれたので、多くのことを

知るようになった。

父の資料の中に「ジャワで得た友の芳名録」があり、軍属1,300人(全体の43%)の名前と住所

が書かれていた。内海愛子教授がこれを活用して生存中の軍属たちに会いたがったため、北朝

鮮を除いて把握可能な住所の500人余りに手紙を送ったところ、元軍属35人と連絡がついたの

で、内海愛子教授を案内して会うことができた。お互い連絡を取り合っていた人たちまで含め、

50人余りとなった。

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5.  「일제말기  인도네시아  조선인  포로감시원  현황과  반일활동」

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当時は「慰安婦」問題が争点化されていない時期だったので、彼らから「慰安婦」の話を聞いて

も、大して関心を持たなかった。戦犯として処罰された人たちにも多く会った。

「ジャワで得た友の芳名録」は単なる住所録ではなかった。その凡例を見ると、○:本部会員、

△:スマラン支部会員、√:バンドン支部会員、入:刑務所に入った日、出:刑務所から出た

日、乗船:帰国船に乗った日、邦:邦人、海:海軍などの表示があった。終戦後に朝鮮人軍属が
帰国する前まで、戦犯調査を行うために収監された日や出された日、帰国した日などが記され

た資料だった。

父は1987年に亡くなっているが、多くの資料を残した。遺稿集をつくろうとして見ると、全

く整理されておらず、5ヶ国語も使われていた。そこで、国文学者、漢文学者、英文科の教授など

の協力を得て解釈し、インドネシア語は金度亨(キム・ドヒョン)博士に助けていただいた。日本

語は筆者が解いた。30年余りがかかったのだが、その過程を通じて、軍属と高麗独立青年党に

ついて多くを知ることになった。

父は、最初の2年間は捕虜収容所にいて、残りの2年は抑留所にいた。抑留所は婦女収容所であ

る。終戦後に戦犯容疑で軍属全員が収監された時、オランダの娘たちが父にところに面会に来

たというのを見ると、関係は良かったようだ。

軍属は、①無事に帰国した一般軍属、②戦犯の烙印を押されて死刑になったり、刑に服した軍

属、③脱出して行方不明になったり、梁七星(ヤン·チルソン)氏(父と一緒にジャワ島バンドンで

勤務)のように、インドネシアの独立英雄になった人、④独立運動をした高麗独立青年党員に分

けることができる。父は高麗独立青年党員で、ジャワバンドン組織責任者だった。 

父は、閔泳學(ミン·ヨンハク)、孫亮燮(ソン·ヤンソプ)、盧秉漢(ノ·ビョンハン)の3人の義士を

主人公に、「在ジャワ高麗独立青年党員と三義士」という手記を綴った。報勲処はこの資料に基

づいて、彼ら3人と獄中生活をした高麗独立青年党員に対して褒賞した。父をはじめ、党員の半

分以上は褒賞を受けられなかったのだが、3ヵ月以上服役した記録がなければならず、それがな

いのが理由だそうだ。

この手記は父が書いて、朴昶遠(パク・チャンウォン)先生と李相汶(イ·サンムン)先生など党員

に送って修正してもらっている。 

手記を見ると、父と親しかった人として、忠清南道保寧郡南浦面の金周奭(キム·ジュソク)先

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지정토론

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生がおられる。この方はタイに派遣された後、連合軍の捕虜3人を連れて脱出したが、憲兵隊に

捕まり死刑に処された。タイの国境から中国国境までの直線距離150キロメートルほどを進

み、重慶の臨時政府を目標にしたのである。

金周奭先生の事件は軍属を刺戟し、高麗独立青年党をつくるきっかけとなった。

日本軍が終戦後に書類を燃やしたため、高麗独立青年党の収監記録などはなかった。そのた

め報勲処は、そのことを理由にみんな亡くなってしまうまで褒賞をしなかったが、李相汶先生

だけが存命中の時点で褒賞をした。

他方、金周奭先生には、初めから決定的な根拠があった。義部隊(タイ駐屯日本軍)が南浦面の

面長に送った8つの罪目の死刑通報書が除籍謄本に残っている。 

遺族の方々も褒賞を申請し、筆者も2回も褒賞を申請したが、報勲処は、金周奭先生に対して

褒賞もせず、調査もしなかった。 

金周奭先生は「クワイ河の橋」(邦題:戦場にかける橋)という映画の実際の主人公だ。した

がって、金周奭先生の研究に取り組むべきだと考える。金先生の資料は、筆者が最も多く持って

いる。必要な人がいれば、ご提供できる。 

インドネシアに駐屯していたオランダ軍人たちは、日本軍の捕虜となり、朝鮮人捕虜監視員の

監視を受けた。彼らは戦争が終わってオランダに帰国したが、朝鮮戦争が勃発すると、韓国に

派兵された人もいる。

オランダ軍人たちが朝鮮人軍属の存在を知っていたのか、朝鮮戦争の時に来てどうしたのか

も明らかにされなければならない歴史だが、南洋群島で日本軍と戦争をした他の参戦国でも同
様の例が多いことだろう。

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지정토론

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아리미츠  켄-경북대  김경남  토론에  대한  답변

金慶南慶北大学教授への応答

有光  健

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답변서

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金慶南慶北大学教授への応答

有光 健

コメントと提起、質問をありがとうございました。

1.  朝鮮人軍人  軍属の数について

①②③の資料にもシベリア抑留朝鮮人捕虜も含まれているが、全体の一部に留まる。 

2.  今後どのように朝鮮人軍人  軍属の数を正確に把握できるか?

報告文でも記したが、日本政府と韓国政府、それにシベリア抑留補償のケースはロシア政府

も加わって、合同で調査機構を立ち上げて、民間の専門家も公式に調査員として参加して、保有

する全資料を精査するほかない。有意の市民や研究者が努力しても、政府所蔵資料にアクセス

できず、限界がある。そのためには調査を目的にした共同事業を実施する覚書か実務協定

(agreement)が外交的にも必要となる。

3.  1993年引き渡し名簿以外の名簿存在について

厚生労働省は、1993年に引き渡した複写データがすべてと説明すると思われるが、資料は探

せば、厚労省の書庫や他の場所から発見される可能性は排除できない。外務省資料でも、後に

なって見つかった前例(中国人強制連行者名簿)もある。 

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아리미츠  켄-경북대  김경남  토론에  대한  답변

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4.  立法による解決方式の長所と限界

裁判敗訴の根本的な理由は、日本社会の人権意識、過去への反省の欠如と考える。個別の法律

がなくても、憲法や不条理を理由に原告が受けた不利益や差別に対して国家補償を命じる判決

は出し得た。時効・除斥、受忍論、国家無答責などの法理は国家補償を回避するための口実に過

ぎず、国際的には通用しない理屈。

行政、司法が被害者の訴えに応じないので、三権の最後の砦である立法府に解決を求めるし

かなかった。立法ができれば、行政府はその法律に従って国家補償が実施できる。

限界は、国会で多数を制しないと立法は実現できないこと。現在の日本の国会のように、自

民党  公明党が多数を占める保守的な国会では、立法は極めて難しい。裁判では、法的な主張が

正しいと認められれば、少数者の訴えでも実現できるが、保守層も含めた大多数の同意を獲得

するという立法のハードルは高く、裁判より困難とされる。議員立法の場合は全会派一致が慣

例なので、一部の党が異を唱えれば法案提出ができない。

5.  韓国司法府への提訴の可能性と問題解決のあり方について

日本政府、日本企業相手の訴訟を韓国の裁判に起こすことに、日本側市民運動の中でも当初、戸

惑いはあった。最近の韓国大法院、憲法裁判所の判決は、大きく日本による併合  支配そのものを不

法  不当とする司法判断であり、日本政府の見解と根本的に異なる。韓国の法廷で被害者  原告が勝

訴しても、日本政府は主権免除を楯にして応じないことは確実で、その先、国際司法裁判所で争い、

勝訴しない限り、韓国での勝訴判決は実行されず、補償も得られない。したがって、韓国での訴訟

で、個別の補償を得ることは現時点では極めて難しいと考えられるが、日本の併合  支配を不法  不
当であったことを繰り返し確認し、そこには時効も国家無答責も通用しないことを改めて宣言す

ることは、内外に脱植民地の時代の到来を印象付け、金銭的な評価を超えた社会的、歴史的な意義

があると考える。相当の時間を要すると思われるが、韓国の法廷で被害者勝訴を重ねていくこと

が、将来国際的な機関でこれらの問題を検討する道を切り拓いていくものと期待する。 

  以上

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답변서

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フィリピン 
ビザヤ地方における日本軍による性暴力
토론자에  대한  답변서

岡田泰平

(東京大学  大学院  総合文化研究科)

基本的には評者の言っていることは正しいと思います。まだ精緻にでき切れていないところ

は多々あります。その上で、評者の「日本軍の「性暴力」を扱うには、先ずこの地域の「軍慰安所と

慰安婦」に対する分析が伴わなければならないだろう。」という点については、扱った資料に限界

がありますね。裁判資料からは「慰安婦」は解明できません。

  それは、米軍にとっても、日本軍にとっても「慰安婦」制度は「違法」の範疇にはありませんで

したから。他方、管理側の資料を示しても、その資料自体は既に知られているので、「慰安婦」制

度の内実をよりよく示すものではありません。

  むしろ、パナイ島の場合、一方では戸塚部隊による著しい性暴力がなされているなかで、イ

ロイロ市の「慰安所」をどう理解すべきなのか、という問いを立てるべきだと思います。

  「慰安婦」を性暴力の象徴とするのではなく、性暴力が広く行われる軍の行動のなかの一部

として捉えることが必要だと思います。