PDF문서일제강제동원피해자지원재단.2023.(구술기록집)아홉머리 넘어 북해도로 アホッモリ越えて北海道へ.pdf

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書名の

説明

 強制動員されて日本の最北端である北海道へ行く道は、遠く辛い旅程である。
各地から動員された人たちは、釜山から船に乗って日本の下関へ、さらに列車で
青森まで行き、ここでまた船に乗り換え、北海道に到着した。旅程の終わり、北
海道へ渡るために連絡船に乗船した被害者たちは、60年余年の長い歳月が過ぎて
も、その経験をはっきりと記憶している。ある生存者は、この過程を「アホッモ
リ越えて北海道へ行った」と自筆で記録した。それは青森という乗換地の名を、
伝来童話の主人公が苦労しながら越えていく峠の名前のように、「アホッモリ
(八つの峠)」と記憶していた。この口述集の書名「アホッモリ(青森)越えて北海
道へ」は、当時の強制動員被害者の八つの峠を越えて見知らぬ所へ連行されると
感じた恐れの意味であり、徹底した監視の中で向かう北海道までの辛く長い旅程
を示すものである。

表紙写真の説明

 表紙の写真は、北海道猿払村浅茅野第1飛行場の木材滑走路があった所であ
る。浅茅野飛行場には1943年から多数の朝鮮人が強制連行され、飛行場建設工事
に投入された。戦争中にここで死亡した朝鮮人は90名余を超える。現在は牧草地
であり、夏には青い草原、冬には白い雪原になり、このうえなく平和に見える。
しかしここは多数の朝鮮人強制連行犠牲者の汗と涙、哀感を吸い込んだ場所であ
る。(撮影 金明煥調査官)

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発刊の辞

      日帝強制動員被害者支援財団(以下「財団」)は今年2023年にも計5冊の強制動
員関連冊子を日本語に翻訳して発刊いたします。2019年から5年目となるこの出版
事業は日本の「強制動員真相究明ネットワーク-日本語版翻訳協力委員会」と関連
分野の韓国内研究者たちの大切な努力と支援が大きな力になっています。
 『南洋群島ミリ環礁で虐殺された強制動員朝鮮人に対する真相調査』は、現ミ
クロネシア地域で発生した強制動員朝鮮人の生存闘争そしてそれに対する日本の
弹圧と虐殺行為を調査した報告書です。 2011年6月「対日抗争期強制動員被害調
査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会」(以下「支援委員会」)が発行しました。
   『日帝の朝鮮人学徒志願兵制度および動員部隊実態調査報告書』では日本帝国が
学徒志願兵として強制動員した朝鮮人青年の被害実態、学兵動員の強制性、学兵
動員制度と動員過程、部隊配置と訓練などを多角的に究明しています。行政安全
部の過去事関連業務支援団が2017年12月に発刊しました。
   『日本地域の炭鉱および鉱山強制動員の実態-高島炭鉱を中心に』は、日本帝国
が戦争を遂行するために必要な石炭を採掘しようと運営していた日本九州地域の
高島、中之島、端島(「軍艦島」とも呼ばれる)炭鉱における朝鮮人強制動員の
実態を調査した報告書です。 財団が2019年12月に出版しました。
 口述記録集『アホッモリ(青森)越えて北海道へ』は、日本の北海道地域に強制動
員された朝鮮人19人の生き生きとした声を盛り込んでいます。作業場別では炭鉱
が9人、石炭以外の鉱山が4人、軍需と土木工事場が6人です。2009年12月、国務総
理所属の日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会(以下「糾明委員会」)が発刊

しました(本のタイトルの「アホッモリ」は「青森」を意味します)。
 『太平洋戦争実記集』は、日本の沖縄地域の軍属に強制動員された故張尹満さん
が徴用された過程からアメリカに捕虜になり、故国に帰還するまでの過程を詳し
く記録した手記です。被害者本人が直接記録したという点で大きな意味を持つ資
料です。財団が2019年12月に発行しました。
 糾明委員会と支援委員会の解体以後、中断されていた日本語翻訳事業を財団が
引き受けて推進し続け、これに他の研究結果を加えて強制動員分野の国内外研究
に役立てられたことを嬉しく思います。日本と韓国で長い間活動されている研究
者たちと活動家、翻訳家たちの献身的な努力にもう一度感謝します。
 財団は今後も強制動員分野の多様な研究報告書と学術および教育資料編纂など
に一層努力して参ります。強制動員関連の研究成果が韓国と日本を越えて国際的
に広がるよう持続的な関心と支援をお願いいたします。
 ありがとうございます。

2023年12月26日

財団法人日帝強制動員被害者支援財団

理事長 沈 揆 先

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◎ 北海道における朝鮮人の強制動員 

 北海道は日本北端に位置している島で、日本の1都1道2府43県の中の1道にあた
る地域である。石炭を含めて金、銀、硫黄、石油など地下資源が豊かな地域で、
特に石炭埋蔵量は日本全国埋蔵量の半分を占める。 
 しかし、一般的には札幌の「雪祭り」、小樽の赤煉瓦や映画「ラブレター」、
「鉄道員(ぽっぽや)」などで親しまれている所である。このようなロマンチックな
雰囲気の北海道が、日帝強占期に朝鮮半島から大量の朝鮮人を強制動員した地域
だったとは到底想像することもできない。
 1938年4月「国家総動員法」が制定された後、戦時期の北海道へはたくさんの朝
鮮人たちが強制動員された。正確な数字は集計されていないが、少なく見ても15
万名以上が動員されたと推定されている。代表的な作業場としては、北海道炭礦
汽船、三菱、三井、住友などの大企業が運営する炭鉱や鉱山、そして飛行場、道
路、鉄道などの土木工事現場、さらに製鉄所などの軍需工場であった。 
 一方、北海道は遠方のうえ残酷なほどの寒さで有名なところと、朝鮮人には知
られており、動員地の中でも一番避けたい場所でもあった。実際に生存者たちの
証言で寒さとひもじさで苦労した話がよく登場する。また軍や大企業から下請し
た「組」が運営する「タコ部屋」という特殊な労務管理システムに、動員された
朝鮮人たちは一切の自由も許されない状態で苛酷な労働に苦しまなければならな
かった。 

◎ 本の構成 

 この本は、こういう北海道の強制動員作業場に動員された生存者たちの話で編
纂されている。できるだけ多様な作業場を扱うため、炭鉱9人、鉱山4人、土木
工事現場4人、製鉄所2人の合計17ヶ所の作業場、19人の証言を選定し、収録した。
  これらの証言は、2005年から始まった生存者の被害調査で把握されたもので、
当時の写真などの資料があったり、口述能力がすぐれていたり、作業場に関する
多くの情報を証言してくれた生存者たちの中から厳選したものだ。 
 炭鉱の部は合計9人の口述で構成されている。これを作業場別に分類すれば、
北海道炭礦汽船(株)4人、三菱鉱業(株)2人、雄別鉄道(株)1人、茅沼炭鉱2人となる。
  北海道炭礦汽船(株)の場合は、赤間炭鉱に動員された朴スチョル(仮名)、真谷
地炭鉱の柳遠哲、神威炭鉱の尹秉烈、新幌内炭鉱の張仁植を紹介した。4人は各
作業場で撮影された写真を所蔵していた。動員当時の口述者の姿を見ながら体験
談を聞くことができた。特に柳遠哲の口述では、北海道にまつわる半島での評判
や、現場で事故に合った時の会社側の対応、労働者に対する待遇など、当時の状
況が確認できる。
   朴スチョル(仮名)、尹秉烈、張仁植の各証言からは、それぞれ全北・長水、忠南
・洪城、忠南・論山から動員された朝鮮人の動員実態に関する目撃談を聞くこと
ができる。朴スチョルは現地の馬車で石炭を運ぶ途中に転落し、骨盤と脊椎に大
けがをしたことを述べて、炭鉱とはちょっとのミスでも大きい負傷を負うことに
なる危ない所だったと伝えた。尹秉烈は生存者の中で一番多くの資料を所蔵して
いて、「写真資料集」にその一部を収録した。写真資料集とともに体験談を読む
と当時をより生々しく理解することができる。
   次に三菱鉱業(株)へ動員された2人、徐正萬と千萬壽は、大多張炭鉱と美唄炭鉱
に動員されたケースである。慶北・金泉出身の徐正萬は大夕張炭鉱の坑内の様子
を具体的で興味深く描写している。慶北・慶州出身の千萬壽は特別な経験をした
人物で1944年5月16日美唄炭鉱の竪坑北部1斜抗でのガス爆発事故に遭遇した人で
ある。彼は九死に一生を得て生還したが、その当時の状況を直接聞くことができた。  
   朴喜鍋は慶北・星州から雄別鉄道(株)浦幌炭鉱に動員された人である。彼の口述

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では、浦幌炭鉱と尺別炭鉱の関係、解放になる前、仲間たちが他の地域に移動し
たという内容などが話されている。朴喜錫は徴兵年齢になり戦争が終わる前に帰
国した。  
   茅沼炭鉱については、全北・長水の鄭南龍と 全北・淳昌の朴今順の口述を収録
した。鄭南龍は飯場内での労務者たちの生活、労働の統制状況、解放後の様子な
どを詳細に説明している。彼に関しては「茅沼炭鉱選挙権名簿」で確認すること
ができる。  
   朴今順の場合は特異な事例であり、夫が動員されて2年後、彼女は夫に付いて行
き、茅沼炭鉱で一緒に生活をしたというものである。強制動員の対象者の話とは
少し異なる視点で同行した家族の暮らしぶりと哀歓を伺うことができる。茅沼炭
鉱「妻帯者名簿」に登載されている。  
   鉱山の方では合計4人の経験を収録した。三菱新下川鉱山で動員された金泰淳は
お兄さんの代わりに北海道へ渡って来たが、彼は15歳であった。口述者の中では
一番幼い年令に当たる彼は、名寄写真館で撮った自分の写真を見て、貧しくて苦
しかった戦争末期の状況を思い出してくれた。  
   慶南・梁山から動員された呉小得は、住友(株)鴻之舞鉱山に動員された後、1943
年3月の「金鉱山休・廃山措置」によって栃木県の古河足尾鉱山に「配置転換」
された事例である。個人の意思とは関係なく、政策的に実施された朝鮮人労務者
の作業場配置から、強制動員の実態を伺うことができる。呉小得は鴻之舞鉱山や
足尾鉱山の名簿で名前が確認される。黄台萬も呉小得と同じく「配置転換」され
た事例である。黄台萬は慶北・永泉から住友(株)伊奈牛鉱山で動員されて、解放直
前に静岡県の宇久須鉱山に「配置転換」になった。伊奈牛鉱山入所名簿に登載さ
れている。
   豊羽鉱山に動員された李昌夏は忠南・天安からお兄さんの代わりに動員された人
である。李昌夏は飯場の前で撮った自分の写真や仲間たちと写った団体写真を見
て、豊羽鉱山の生活について述べてくれた。  
  後半で、軍需工場および土木工事での合計6人の口述を紹介した。朱仁出は慶南
・金海から室蘭にあった日本製鉄(株)輪西製鉄所に動員された人である。李泌雨も
慶南・泗川から輪西製鉄所に動員された。朱仁出は3期生、李泌雨は5期生であ

った。二人の証言から輪西製鉄所での生活を間接的に経験することができるし、
特に李泌雨の口述では室蘭艦砲射撃(1945.7.15)前後の状況に関する鮮やかな記憶
を聞くことができる。  
   池玉童は忠南・天原(現:天安)から浅茅野飛行場に動員された。北海道で滞在し
た期間はあまり長くないが、その間、膓チフスに感染して瀕死の状態に陥るなど
貴重な体験をした。浅茅野飛行場建設から移動させられて鹿児島県の万世飛行場
建設にも動員された。彼は作業場から作業場へ転々とする土木工事労働の典型的
な姿を見せてくれている。ほかの土木建設業に動員された生存者の場合も、ほと
んどが 池玉童のように色々な作業場を経験している。  
   慶北・安東の全在九は江卸発電所と落部鉄道工事現場に動員された。全在九の口
述では江御発電所の労働者たちの飯場生活について伺うことができる。  
  慶南・金海で動員された朴時永は江卸発電所がある東川に動員された人として
「遊水地(稲作など農業用水の水温調節のための貯水池)」建設に投入された。「タ
コ部屋」での経験を聞くことができる。彼は解放になる1年前に根室飛行場建設
現場に移動させられた。  
   朱鞠内ダム建設現場で動員された李詳石も「タコ部屋」の残酷な経験を聞かせて
くれた。彼は慶南・昌寧で田植えをしている最中に突然連れて行かれてしまった
と言う。

◎ 編集方式  

   この口述資料集では、口述者のなまりと特有の表現をそのまま伝えようと努力し
ながらも、内容を分かりやすく編集した。ただ、インタビュー当時の雰囲気を表
現したかったので口述の流れに合わせて内容を整えた。そのため同じ内容が繰り
返されることもある。しかし、これは口述者が北海道の苛酷だった実体験を回想
しながら熱い感情に包まれて話しているからと理解していただきたい。いや、む
しろ歴史に記録された文章よりも何倍も価値のある形で強制動員の実態を伝えて
いると思う。口述者たちの心の底に秘めた思いが、口述当時のイントネーション

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と雰囲気そのままで伝えられないのがとても残念に思う。  
   口述資料集の完成までには、委員会の多くの調査官たちの努力があった。見慣
れない遠い田舎道も快く同行してくれた調査官たちの苦労に、深く感謝する。ま
た、現地を案内してくれた地方実務委員会の職員たちにもお礼申し上げる。  
 しかし、何よりもこの資料集は、60年以上眠っていた記憶を思い出してくれた彼
害生存者がいてくれたからこそ、可能であった。その方々のご協力にもう一度、
深く頭を下げて感謝の言葉を申し上げたい。  

 

 調査3課 李宣姈 

 

1. 連れ人や関連者名前は名前の中間文字を〇で記載した。 
2. 日本語、漢字、動作描写、必要説明は( )の中に記載した。 
3. 文章の中で口述者が略して言った部分は[ ]の中に記載して文章の理解を高めた。 
4. 対話や引用文、または口述者が直接引用した他人の言葉を「 」と表現した。

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中国

韓国

日本

平壤

下関 

ソウル

釜山

     ㅇ 旭川

ㅇ 札幌

 函館

 青森

東京

東海

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新下川

鉱山

浅茅野飛行場

名寄

鴻之舞鉱山

伊那牛鉱山 

旭川

江卸発電所 忠別遊水池

根室飛行場

赤間炭鉱

札幌

手稲鉱山

豊羽鉱山

輪西製鉄所

  落部鉄道工事場

茅沼炭鉱

浦幌炭鉱

•真谷地炭鉱 

新幌内炭鉱

 美唄炭鉱 

 函館

神威炭鉱

朱掬内

新下川

鉱山

大夕張炭鉱

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004    発刊の辞
006    解題
012   地図

018    朴スチョル(赤間炭鉱)お金をたくさん稼げると言うから、先を争っ 

               ていった

048     柳遠哲    (真谷地炭鉱)指を北海道に捨ててきた
074     尹秉烈    (神威炭鉱)娘も若者も連れて行かれ、大変だった。
112     張仁植    (新幌内炭鉱)戦争資材のすべてが石炭からだ。
132     徐正萬    (大夕張炭鉱)日本では食べるものがなくて腹がへって
158     千萬壽    (美唄炭鉱)ガス爆発事故で二人だけが生き延びた
172     朴喜錫    (浦幌炭鉱)入ったら出てこれない、身じろぎもできない
192     鄭南龍    (茅沼炭鉱)ガスが出るから鉄扉を閉じた
208     朴今順    (茅沼炭鉱)戦争で夫は帰れない、家族が来いといわれ

   

炭鉱編

236      金泰淳 (新下川鉱山)15歳の少年の話
270     呉小得  (鴻之舞鉱山・古河足尾鉱山)その時、わが国は日本の属国

       じゃないか!

290     黄台萬 (鴻之舞鉱山伊奈牛坑・宇久須鉱山)「勤労奉仕」に引っか

かったと言われた

314     李昌夏 (豊羽鉱山)兄さんが行ったら食べていけないから代わりに

                 行った

330      朱仁出  ( 輪西製鉄所)日本人と一緒に働いたが、私らはいつも訓 

練生だ

354      李泌雨 ( 輪西製鉄所)飛行機の音が蜂の群れみたいにブンブンと聞

こえた

368      池玉童 ( 浅茅野飛行場・万世飛行場)「タコ部屋」って、聞いたこ

とがあるかい?

384      全在九 ( 江卸水力発電所・落部鉄道工事場)今なら飛行機、当時は

船と汽車で1週間かかった。

404      朴時永 ( 東川遊水池・根室飛行場)当時のことを考えれば、今は贅

沢だ。

432     李詳石 (雨竜ダム)この耳が遠いのが北海道へ行った証だ。

   

鉱山編

  

軍需工場、土木工事編

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お金をたくさん稼げるというから、

先を争って行った

(北海道炭礦汽船株式会社 空知鉱業所赤間炭鉱)

北海道で汽船を造ると思い、好奇心で行ったが、石炭を掘る炭砿だった

おじいさん、今日はおじいさんがいらっしゃらなかったので、奥さんと少し話し

ました。どこがいいですか?
私はその椅子に座る。最近、ケガをした所が痛くて…。

どこをケガしたのですか?骨盤ですか?
座って立つのが辛くて、ゴキッと音が鳴る。骨盤がゴキッとするから、不快だ。

私たちは日帝時代に徴用、徴兵へ行った方たちの調査をする委員会です。おじい
さんがケガした部位とか、日帝時代にどんなことがあったのかを聞こうと伺いま
した。
ありがとう。ご苦労さん。日帝時代、私が18歳の時に、あの鉱山にいた。ある
日私の友人が来て、外国へ行こうと…。その時は田舎で畑仕事をするのが辛かっ
た。そこにちょうど徴用、ある会社から連れに来て、その募集について行ったん
だ。当時、うちの近所に叔父、叔父が居た。朴某だ。朴某氏と一緒に行ったん

・1923.5. 全羅北道長水郡出生
・1939.4. 北海道炭礦汽船(株)空知鉱業所赤間炭鉱に動員
・1942頃  炭車運搬中の事故で下肢を負傷
・1945.8.     解放後に帰国

朴スチョル(仮名)

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船)、その説明する人が救命服の肩を押さえて結べと言ったが、それがうまくで
きないと、木の枕でメッタ打ちにするんだ。それを見て、ブルブル震えてしまっ
た。

その時から行くのが嫌になったでしょう。
その時は行きたくないと思った。だが、仕方なく行ったが…。

途中で抜け出せなかったんですか?
うん、できない。連絡船に乗っているのに。

船は何処で降りたんですか?
北海道まで距離が、何万里、大方2万里になるらしい。ここからトラックで行っ
た。そして、釜山から…。

出発はどこから行ったんですか?
長水郡から貨物トラックに乗って、釜山でみんな集合させるんだ。みんな釜山で
乗り換えて、船に乗せて行くんだ。そしたらどこに行くのかも分からない。貨物
トラックだから外は見えない。真っ暗な中、そのまま無条件で行くんだ。

貨物トラックは、郡庁前に集まって乗ったのですか?
いや、面(村)事務所だ。

何人くらいが面事務所に集まって行ったのです?
そうだな…。小さい車に乗せてきて、大きな車に乗せて、ずっとそうしたん
だ…。

では、全体的なことは分からないでしょう?
山間から何人かを車で運んで、大きな車に集合をさせて。各面、洞など村の人を
全部、集めて乗せて、それを釜山へと列車で向かったんだ。そして釜山で船に乗

だ。その人はもう亡くなったが…。

ここからおじいさんが鉱山に行ったのですね?
いいや。畑をしていて、その合間にお金を少し稼いだ、水鉛〔モリブデン〕鉱山
があったから。

水鉛鉱山が長水(全羅北道長水郡)にあるのですか?
そうだ。水鉛鉱山。鉄砲を作る水鉛だ。鉱石、そこにいたが、友人が行ってみよ
うと言うから、それで憂鬱な気持ちでコソッと行ったんだ。それで、そのまま行
ったのが北海道だった。

その当時、郡や面で公式的に募集のようなことをしたのですか?
そうだ。北海道炭礦株式会社。初めて募集に来たんだが、それで行ってみたら、
(人を)つづけて一杯乗せてきて…、私と同じだ。徴用も個人募集も、待遇は全
く同じだ。政府が 募集して来いというから、北海道炭礦株式会社から人が募集に
来た。それに付いて行ったんだ。

それはいつでしたか?
1945年だったか。その記憶がない。

朴某叔父さんと一緒に行ったのでしょう?
うん。一緒に行った。叔父さんは別の所へ行って、私も別の所へ行って、バラバ
ラになった。

だからおじいさんは、会社の募集で行ったのですね。
うん。募集で、無条件で行ったんだ。

行って見たら、連行された人もいて、みな(待遇が)同じだったということですね?
うん。行ったら完全に軍隊式で大変だった。関釜連絡船(釜山と下関を運行する

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そしたら、募集に応じたら、そのまますぐに行くのですか?
うん、そうだ。抜け出して逃げようかと考えたが、早く、早くと言われて、後か
ら人がしょっちゅう来る…。そして釜山に行って、説明したヤツがとても生意気
で、やたらに怒鳴り声をあげるから怯えて…。

車にさっと乗せて、すぐに連れて行ったんですね?
うん。早く、早くと言って、何の話もなくそのまま。人員も何人乗ったのか、30
名乗りに40名、50名詰め込んで、何か犬みたいに扱うんだ。

ではおじいさんはその時、家族に日本へ行くと伝えなかったのですか?
両親に内緒で行った。仕事が嫌で。

何も告げないで消えたので、両親はどこへ行ったのか全く知らなかったのでしょう?
心配したが、ウワサがあったから分かっただろう。トラックに詰め込まれて、伝
えるなんてできない。手紙を書くしかなかった。その時は電話も駄目だった。電
話機が事務所だけにあって個人電話もない時代だったから。

つまり、行く前は採炭をするのは知らず、北海道へ行くのは知っていた?
北海道に汽船…、船を造る、それで好奇心で行ったんだ。

会社から募集に来た人たちは、日本人ですか?
日本人もいたはずだが、それを細かく把握できない。言葉は、通訳を立てたり、
韓国人が立ったり、私らが理解できるよう朝鮮語を話すから、その人たちが日本
人か、韓国人か、分からない。

釜山で説明した人は日本人ですか、韓国人ですか?
韓国人だ、みな、韓国人が日本人に協力してそうしたんだ。

そこに行けば、お金をたくさん稼げるとかいう話は聞きませんでしたか?
聞かないはずがない。ラクしてたっぷりと、金を沢山もらえると言っていた。

せるんだ。その時は戦時中で、海に機雷が浮かんでいるが、それで機雷に引っか
かるのではないかと救命具を着せる。その説明をして、少しでもボーっとしてい
たら木枕を投げつけ、気合を入れる。だから、募集は自由ではなく、軍隊式で、
何でも従うんだ。

名目は募集で、実際は徴用と同じ…。
あ、そうだ。待遇が良ければいいが、待遇は死なない程度のものだ。人間をどう
思っていたのやら…。山の中で生活する人たち、何の知識もないアホを、たくさ
ん引っ張って行って、まるで奴隷扱いだ。その当時…。

その当時、朴おじいさんは、北海道炭礦汽船株式会社が募集をした広告を見まし
たか?
それは見た。それが貼ってあった。募集しに来たと。

面事務所ですか?
いや、街角で…。通りに文字を書いてあって。告示を書いて貼ってあった。

何と書いてありましたか?
北海道炭礦汽船株式会社。その時、それを見て、汽船株式会社が炭鉱会社だと知
らなかった。名前だけ貼ってあった、汽船株式だ…。なにか船を作っているのか
と思ってついて行った。それが行ったら石炭を掘る炭鉱で、そこに放り込んだ。

広告を見てどうしますか?面事務所へ行って申請をするのですか?
違う。引率者、募集に来た人たちが教官になって、その人たちの言葉だけ聞い
て…。

面事務所に座っていたのですか?
座る暇もなく、来たら、そのまま車に乗せて、つづけてまた後で来たら適当に乗
せて、やたらに押し込んで、傷つこうがどうなろうと、放り込んで行くんだ。

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釜山ではどうなったのですか?
うん、船に乗って、救命服、チョッキを着せて説明するが…。

船に何人乗りましたか?
当時の関釜連絡船は大きかった。船の大きさは分からない。相当に大きかった。

韓国のどこから来た人たちがいましたか?
韓国各地、ソウル、京畿道、あちこちごっちゃ混ぜ。全国から子ネズミみたい
に、挨拶したら、私は京畿道だ、全羅道だ、釜山だ、ごった返しだ。

船の中でですか?
うん。

その人たちとは全部一緒に北海道へ行ったのですか?
うん。北海道へ。一度船に乗ったら、途中で止まらないで、そのまま目的地まで
行く。

下船した場所は何処でしたか?
下関だ。下関に降りて列車に乗った。列車で青森。そこでまた函館へ船に乗って
行った。4時間かかった。

船に乗って、汽車に乗って、また船に乗って?
関釜連絡船は6時間乗った。北海道に行く時は4時間かかる。そうしてまた函館
で降りたら、また列車に乗った。列車に乗って3時間、4時間行く。そして炭鉱
会社というのが、近い所もあり、遠い所もある。時間のかかる所は遠い所にあ
る。現場へ向かう間は、何一つ自由がない。見物もできない。

北海道に到着してからその船に乗った人たちが最後までみんな一緒に行ったので
すか?

それで、先を争って行こうとした。

ウソをついたのですね。その人たち。
そうだ。

行けば金をたくさん稼げて、仕事はどんなことをするとかの話はありましたか?
だから、北海道炭礦汽船株式会社だというから、炭鉱募集をすれば、炭鉱だと思
うが、汽船株式会社といえば船を造る所だから、技術を覚えて待遇が良いだろう
と思った。

誰もどんな仕事をするとかの説明はしなかったんですか?
説明はない。広告を見て、そうかそうかと思って、疑いなんかしない。待遇も疑
わなかった。だけど船に乗って、これは話が違うと思った。

その時初めに後悔したでしょう。
うん。船に乗るとひどく殴りつけるんだ。

万一、おじいさんがその時、北海道へ行って坑内で石炭堀をすると知っていたら、
志願しましたか?
その時は不可抗力だ。その時は仕方なくそこへ、死地へ追い込まれて仕方ない。
船に乗って身じろぎもできなかったから。

もしおじいさんが、船に乗る前に炭鉱へ行くと分かっていたら、おじいさんは応
募しましたか?
その時は嫌だった。船を造るのが興味あった。技術を覚えるつもりだった。疑わ
なかったし、どんな仕事か聞きもしなかった。聞かなくても現場に行けば分かる
から、聞きもしなかった。
叔父さんを見失ったら大変だと必死だったが、別の場所へ行ってしまった

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いや、チョ○グンと、朴○ギュと、金○ギ、権○リュン…。

沢山行きましたね。ではおじいさんと同じく赤間鉱へ行った人たちでしょう?
うん。赤間鉱。また他の人の名前は分からない。思い出せない。私より歳が若い
人たちが二人いたが、名前は分からない。名前を言った人たちは知っていていま
写真もあるが、そこの5人。5人を写した写真がある。そして具×ロクの兄がい
るが、具×ロクはずっと私と同じ洞、同じ村に住んでいた。しかし彼の兄が坑内
での陥没で。潰されてしまった…。

どこの炭鉱ですか?
赤間鉱。結局、その人も障がい者になって来て、亡くなった。坑内が崩れて…。

どこを怪我したのですか?
脚を結局切ったから、脚だろう、たしかに。それで、私らも苦労した。彼は帰国
するまで治らなかったが、私らは毎日その人を「担架」で担いで病院に行った。
彼は私らの故郷の人だから。他の人たちは、気にしなかった。

弟の具×ロク氏は行かなかったんですか?兄の具○ロク氏が行ったでしょう?
弟も一緒に行った。家族として一緒に行った。

具×ロク、具○ロク…。
具×ロクは歳が若かった。彼の兄は少し歳が上だが、具×ロクは私よりも歳が若
かった。

おじいさんがそしたら、具○ロク氏の事故を見て、脚を切ったのも直接目撃した
んですね?日本で?
いや違う。彼と一緒の部屋にいるわけでもなく、別々にいたから。うちの故郷の
人を助けてくれる人がいないから、とても気の毒で、私たちが、今日は誰、明日
は誰と交替で。そうして韓国に戻ってからも車いすに乗ったり、杖をついたりし

いいや違う。函館で降りて分けたんだ。叔父さんとそこで分かれた。私はそのと
き16歳で、叔父さんを父親のようにピタッとくっ付いて、叔父さんを離したら死
んでしまうと、くっ付いていた。ところが叔父さんは別の所へ連れて行かれた。
私は泣いた…。叔父さんは夕張へ行った。私は赤間鉱、赤平の。

それは決まっていたのでしょう。叔父さんは夕張、おじいさんは赤間鉱。本人は
知らないけど、既に配置が決まっていたのでしょう。
何が何やら分からない…。

夕張も赤間鉱も、全部、北海道炭礦汽船株式会社でしょう?
多分、あの会社が募集に来たからそうだろう。同じ会社だよ。他の募集なら、広
告の名前が違うが、私ら一行はみんな北海道のその会社だ。企業、会社が何か所
かあった。

会社は一つでも作業場は何か所かあるのですね?
あちこちに分配するんだ。そこへ行ったんだ。

この長水郡から一緒に行った人たちは大部分、おじいさんとか、叔父さんが行っ
た所へ行ったのですか?
それは私らだけ分かった。ほかの村は知らない。叔父さんと朴○ヨンという人
と、その人はもう亡くなった。

朴○ヨン氏はどこへ行きましたか?
朴○ヨンは夕張へ行った。

叔父さんと同じ場所へ行ったのですね?
叔父さんと朴〇ヨンが行った。

ではおじいさんは、その村から一人になったのですか?

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炭鉱主人ですか?
炭鉱の主人。鉱主といってとても地位が高い人が来た。権力もあって。鉱長も叩
く輩。私が行かないと言ったら、鉱長たちが「この野郎!」と言いながら、人を
めちゃくちゃに蹴って、殴ったんだ。

日本人でしたか?
うん。それでも私は死んでもやらない。死んでやると言ったら、坑外で、コンプ
レッサー、空気の風を送るもの、そこに配置した。それで私は水鉛鉱山、そこで
技術を少し覚えたんだ。そこで水鉛を選別したんだが、少し私は素質もあった経
験があったから、私が油を少し差したと言ったら、任せると言ったんだ。パイプ
をつないで坑内に空気を入れて、ピック(採炭器具)で炭を掘ったり、すべてを
やったらそれを任された。

坑内に空気注入することですか?
うん。空気を送る。そのために始終パイプを繋がなきゃいけない。ピックで坑内
を掘っていくには、パイプを繋がなきゃいけない。

ガスが出て空気が入って行って。
うん、そうだ。パイプをうまく繋がなきゃいけない。それをさせられた。それは
少しマシだ。それで、山にも上ってみた。山に洞窟をつくって、そしたら私は山
へ這って行って休むんだ。そこで韓国にもあるサルナシや山ブドウがあって、採
って食べた。蕨とかも、いろいろあった。そんな仕事をして冬が来た。いやー、
炭車を数十台列車みたいに、馬一頭が数十台の炭車を引っ張って歩くんだ。馬が
坑内から坑外に出入りする。そこで炭車に坑内から出てくる時に乗るんだ。

馬が引く炭車の上に乗ったのですか?
うん、何台も連結されていて、その間に跳び乗る。

台車の間に?

たが、それでも食べて暮らすために杖をつきながら足を引きずって歩いて、そう
やって仕事してたのを私が見た。その人は結局、亡くなったそうだ。

韓国に戻れたけど、長く生きられなかったんですか?
そうだ。

どれくらい生きられたのですか?
それは良く分からない。その人も長く生きられなかっただろう。足がそうで、
その時は治療もまともにできない。そして私もその時、ここを怪我した、ここ
を…。

落ちて重傷を受けて、体に電気が来たようにビリビリする

北海道炭鉱へ始めて行って、いきなり仕事をしたんですか?何か訓練のようなも
のを受けましたか?
着くなり出てくるのが、豆ごはんだ。豆ごはん。豆ごはんを食べてみんな下痢し
て、腹がゴロゴロと、酷くお腹が痛くて仕事に出なかったら、追い出しに来る。
それで、ご飯から豆をみんな選び出し、ご飯粒にだけ水をかけ、ご飯粒だけ食べ
た。豆は全部選び出して捨てた。下痢してお腹が痛いから、どうしようもない。
しょっちゅうお腹が痛いんだ。お腹が空いて、お腹がいっぱいになってないの
に、お腹が痛い。だからみんな選び出して捨てた。そうやって生き延びた。

始めて行って、どんな仕事をしましたか?
うん、はじめは採炭。それが大変だった。

きつかったのですか?
うん、ためだった。それで「できない」と言ったら、配置所の事務室があるん
だ、作業配置、人を配置する所だ。私は仕事がきつくて「できない」と言ったん
だ。その鉱主が、その時は、軍服を着た人だ。

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アイゴ、そうだ。ここがみんな砕けてしまったんだ。

その治療を受ける間にも仕事はしたのですか?
治療している間は仕事ができなかった。

痛くてお腹を押さえて仕事に出た

その時は、奥さん(妻)が行く前ですか?
うん、私が一人でいる時だった。その頃は、みんな逃げた。しょっちゅう人が逃
げるから、奴らも企んで、「家族を呼んでも良い、呼べ」と言った。だから家族
がいる人は、自分の母親や嫁がいる人は、みんな申請した。私も呼んだ。いっぺ
んに家を沢山建てた。家を事前に数百、数千も建てて用意した。そんな家がある
し、「飯場」もあった。独身者は大きな家に何人か寝かせる。何人か毎に押し込
んで、その飯場で食べて寝て、食堂で食べて、豆はよけて食べて、お腹はぺこぺ
こだった。

豆はずっと食べなかったんですか?
アイゴ、お腹が痛くて死にそうだった。それで家に来て横になったら、管理者が
来て「おい、こいつ、何で寝ている!」と、通報があって来たんだ。アイゴ、死
にそうだ、「分かった行く、仕事に行く」と、お腹を押さえて仕事に出た。とて
も全部言葉にできない(すすり泣き)。

おじいさんがケガしたのは炭車に上って、支柱と支柱の間に炭車が挟まって…?
(通路が)狭くなっていて、挟まった。馬はそれを知らないで引っ張って行った
から、私は落ちたんじゃないか?他に人はいなかった。

その事故が起きたのは、おじいさんが北海道へ行ってどれくらい経ってですか?
全部で5年間働いたが、約3年間だったか、3年経ってだ。

うん、その時は若かったから跳ぶんだ。坑外に出る所は狭くなる。馬は炭車を引
っ張ってカーブを回って、そうして人が、カーブは…。

傾くでしょう。
うん、傾く。ここに柱(支柱)を建てる。そこは雪が沢山降るから、支柱がなき
ゃいけない。その支柱に当たってしまった。支柱にガンと挟まってしまった。

炭車に乗って行って、支柱に当たったのですか?
うん、中が狭いんだ。支柱があって、私がそこにガツンと挟まって、そのまま落
ちてしまった。馬はそのまま知らないで、炭車を引っ張って行った。

おじいさんがよそ見したのですか?考え事をしていたのですか?
いや違う。馬が早く上るから、とっさに防護できなかった。通路が狭くなってい
るのに気付かなくて、支柱の箇所で私の体がガンと挟まってしまった。必死に抜
けようとし、そのまま落ちてしまった。冬の寒い時だ。本当に寒かった。落ちて
しまい、気を失なった。床に落ちて、他の人は見ていなかった。落ちて、重傷だ
った。体に電気が走ったみたいにビリビリして、そのまま意識を失ってしまっ
た。

気を失ってしまったんですか?気絶したんですね。
うん、そうだ。それからどれくらい経ったのか、人が来た。人が死んだと大声で
言って、人が集まってきた。そこに病院があった。炭鉱病院。その病院に通う
時、友達に助けてもらった。そして少し良くなってから、義足を付けた。全部治
ったわけじゃない…。

病院で治療はどれくらいしましたか?
病院で治療を約1年以上した。

長くかかりましたね。

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リの群れみたいだ。

朝鮮人たちが沢山・・・?
そうだ。数限りない。そこでケガしてそのまま倒れる人もいた。押しつぶされて
動けなくなって。あ、船から落ちて死ぬのも見た。船から落ちて引き上げたが、
この目で、それを見た。そんなことは普通だった。戦争時に船が機雷に当たれ
ば、船に海水が入って来て、みんな死ぬんだ。だけど、私らは無事に戻れて幸い
だった。

おじいさん、石炭掘りはどれくらいしましたか?

約半年…。そして、できないと言った。私の体も弱くて、できないと言ったら鉱
長が足で蹴って、酷く殴った。それで、「おぅ、殺せ。できない」といったら鉄
管、空気を送る仕事をして、そして出てくる時に馬が引っ張って行く炭車に乗っ
た。駄目なのに、炭車に乗って出て来たが…。若いから跳んで、怖いもの知らず
で、乗ったんだ。

その時は、おじいさんが「北海道」へ行って3年ほど過ぎた時でしょう?
うん。そうだ。そうやって家族を引率し、みんな逃亡するから、家族を連れて来
た。私も申請した。それで2年足らず一緒に暮らし、長男を生んで負ぶって帰っ
て出てくる時に…。苦労して釜山に着いて、少し稼いだお金を交換所でスッてし
まった、貨幣の交換で。日本の金を朝鮮、韓国の金に換えろということだ。日本
の金は使えない。それで幸いに釜山で列に並んだが、お金を少ししか替えて貰え
なかった、全部替えると思ったのに・・・。

金を替えろと言われるまで持っていて、結局はそのまま捨ててしま

った

お金を少しは稼いだのですか?
稼いだ金を家に送ろうとタバコも止めていた。タバコは一日3本、配給があっ

3年くらい過ぎてその事故が起きたんですね?
うん。

おじいさんが北海道に行って、どれくらい過ぎて奥さんが来たのです?
家族が来て、2年一緒に暮らした。

家族が来た後、2年して解放になったのですね?
うん。

事故から何日もしないで奥さんが北海道へ来たのですね?
そうしてその時に、長男を生んだ。長男を生んだ頃、解放になった。その時、赤
ん坊は首も座ってなかった。生まれて何ヶ月にもならないのに、どうする。韓国
へ戻るのに、みんな一緒に帰らなきゃいけないだろ。残ることもできたが、残っ
てどうなる。一緒に帰りたいと言うし…。それで、負ぶって帰ることにした。韓
国へ戻る間、ごった返して大変だった。赤ん坊を抱えて耐えた。人は後ろから押
してきて、立ち止まったら突かれる。

押されて死ぬかもしれないから?
幼いから、死んでしまう。

それで三人で、こうやって帰国したんですか?
そうやって来たが、その時大変なことが起きていて、東京、大阪、京都とかが、
赤みがかり、家がない。

爆撃にあったのですか?
米軍がジェット機〔爆撃機〕で毎日叩き潰すから家がない。真っ赤に燃えて、鉄
もみんな曲がって、大阪、京都、東京がだ。真っ赤にみんな燃やしたんだ。列車
で来たけど、人間扱いじゃない。みんな押しつぶされた。それで、下関に追いや
るんだ。船に乗ろうと乗るまいと、解放されたから。人が数知れず群がって、ア

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事故のあと約1年間は治療を受けましたよね。では、1年間仕事をしなかったの
でしょう?
良くなるまでは仕事ができなかった。

そうしたら仕事しない間の月給は出ましたか?
いや。その時はもらえなかった。一部だけ少しもらった。

ケガした補償金などは出なかったのですか?
それはなかった。死んだら慰労金が少し…。

事故で亡くなった人はどうなります?
私の叔父さんも亡くなった。

叔父さんが?夕張へ行った叔父さんですか?
うん、夕張の炭砿へ行った叔父さん。叔父さんも妻を呼び寄せた。叔父さんが 申
請して、その叔母さんと一緒に… 。

叔母さんが来たのですか?
私より少し前に呼び寄せの申請をして、1年一緒に暮らして、夫を亡くした。

仕事で亡くなったんですか?
坑内が崩れて、そして10日経って掘り出された。

人が死んだらどう処理しましたか?
火葬する。皆がいるから。人が沢山、数千人になるんだ。私たちはデモもした。
今では機械が発達してましになったけど。当時は日本も戦争末期で、人が死んで
も。犬が死んだくらいにしか思わなかった。分かるか?

た。その3本を集めて、一箱にして売った。

お金はひと月に幾ら受取りましたか?
1円50銭。少し多ければ2円。2円10銭…。〔日給〕

それをきちんと貯めて家に送ったんですか?
そうだ。

会社が「月給」を集めて送ることはなかったですか?
いいや、私が送った。会社は月給袋だけくれた。私が使う、家に送ろうと、思い
のままにした。だけど家族を養えない人は「前借」して、金を少し貸してくれと
言って。若いヤツらはやたらに使ってしまう。タバコを売ると、そいつらが買っ
て吸う。一日3本じゃ足りないんだ。

釜山港でお金を交換して幾らもらえましたか?韓国のお金。
それは覚えていないが、信用して少ししか替えてもらえなかったので、残念だっ
た。「後でまた替える、いま一回でできない、しっかりしまって置いて、後でお
金を替えに来い」と言われた。その言葉を真に受けて、そのまま置いたんだ。そ
の時、替えてくれないから…。血と汗で稼いだ金を…(すすり泣き)。

では、そのお金はどうなったんですか?失ったのですか?
いや。金を替えようと持っていたが、結局、そのまま死蔵してしまった。捨てて
しまった。

タバコも止めてお金を貯めたのに、そのお金を韓国のお金に交換できなかった?
うん。仕事して、家に送らなきゃいけないだろう。両親がいるから。他の人たち
もお金を家に送るのに、私だけ送らなかったら申し訳ないだろ。それで惜しん
だ。惜しんで家に送れば、家にいる父が畑とか、田畑とかを買えた。

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デモをしていくらか良くなりましたか?
少し良くなった。

そのデモはおじいさんが行って、どれくらいで起きたデモですか?
う~ん。

おじいさんがケガする前でしたか?でなければ、奥さんが来る前ですか?
来る前。来る前にデモをした。私も加わった。足をケガする前だ。ケガしてなか
ったから、デモに行った。ケガしたら…。

ケガするまえ、おじいさんが行って1、2年過ぎた頃にデモが起きたんですね?
良く分からない。良く分からないが、大体そんな頃だ。日記でも書いていたら別
だが、良く覚えていない。

そのデモの規模は大きかったですか?韓国人が沢山参加しましたか?
トラック、車の何台かに、乗せられた。

首謀者をそれだけ乗せたから、規模がとても大きかったようですね?
トラックに乗せられても、跳び下りて逃げる人がいた。

デモには何人参加しました?
ああ、何百人になるだろう。

デモを鎮圧に来た人たちは誰でした?
警察官。全部、警察。滝川警察署から一度に車で沢山動員してきた。だが、その
時の状況を全部つかめない。

そのデモは、みんなが仕事をしないデモでしたか?
いや。

そこで

は死ぬほど殴られる。死んでしまう。だから抜けて来た

デモはなぜしたのですか?
待遇が悪いからだ。

待遇が悪いから?
うん。お腹が減った。食べ物をくれ。そして「飯場」は食べて寝る生活だが、寒
くて耐えられない。そこは冬がひどく寒いんだ。北海道はひどく寒い。目を開け
られない。寒い日にはマスクをして、息で目がくっ付いて(息で目が凍り付い
て)目も開けられない。すぐに凍った。それほど寒い所だ。それでデモをした
が、首謀者を車に乗せて、連れて行った。

首謀者たちを?
私も乗せられた。乗ったが、私は日本語が上手だった。だから日本人たちが私に
良くしてくれた。日本人は私を連れて映画館にも行った。親しかった。だから日
本人が、私が車に座っているのを引き抜いてくれた。「降りろ。行ったら死ぬ
ぞ。行ったら死ぬほど殴られる。死ぬぞ!」「行くな」と、それで私が後ろから
抜けたんだ。

幸いに…。
その(日本人の)友人がそう言うから。そこで降りなかった人は、そのまま滝川
行きだ、滝川に刑務所があるんだ。そこで死ぬほど殴られたという。

その方は、また戻ってきましたか?
酷い罰を受けたよ。

ケガして戻って来たんですか?
うん。だが、主導者は戻れなかった。

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万里、他国に来て、夫が死んだら、どうする!

その「飯場」はどうでしたか?一部屋に何人寝ていましたか?
だいたいで10余人ほど。

そんな部屋が相当沢山あったのでしょう?
数えきれないくらい多かった。そして真ん中に食堂があった。その時、食堂をす
る人は儲けた。食料を一袋、横取りできる。ご飯を少なく盛れば、コメが余るだ
ろ。茶碗一杯のところ、半分に盛ったら、ご飯が残るじゃないか。そうして金を
沢山儲けた。

食堂は韓国人がしましたか?
いいや。韓国人はしないで、日本人がみんなした。

奥さんが来た後、おじいさんは他の場所に移ったでしょう?「長屋」のような所
へ行ったでしょう?
一か所だ。それで「飯場」の建物はみんな同じで一列に並んでいる。同じだが、
中央に食堂があれば、その建物は少し大きい。そしたらその周囲に人を配置し
て、そこで食べて寝た。私たちは家族を連れて来たから、毎日配給を受けに行っ
た。女たちが。

だけど、奥さんが来て、おじいさんは少し楽になったでしょう。
アイゴ、仕事を終えてきたら、風呂は合同浴場で大きい。その風呂場に入る。家
ではコメを買って食べた。あいつらが雑穀ばかり食わせるから、お腹が痛くて死
にそうになる。もっとくれと言っても駄目だから私が村へ行ってコメを買った。
しかし、バレたら奪われる。コメを買って混ぜて食べたら、お腹が空かない。雑
穀は食べない。「飯場」では豆ごはんを食べるが、妻が来てからはコメ飯を食べ
た。

では、どこかへ押し掛けたんですか?
いや。「待遇が悪い」と言って、こうして労賃も少なく、強圧的だから、暮らし
も全然良くならなくて、だから「少しずつ良くしてくれ」、そう言って抗議に行
った。配給所へ行って抗議した。「食料も増やしてくれ。お腹が減って死にそう
だ。豆はほどほどにしてくれ。コメを少し増やしてくれ」、そう言ってデモをし
た。配給所に行って。そしたら、連絡して滝川からわっと来たんだ。私らを乗せ
て行こうとしたんだ。

そのデモはその時だけ1回して、それ以降にはしなかったんですか?
いや。またデモして同じ目に遭った。時々起きた。

解放後にはデモしなかったんですか?
解放後は、私らが急いで家に帰る時期で、帰らなきゃいけないから、解放後はデ
モをする場合じゃなくて、家に戻るのに必死だったんだ。デモする必要もないじ
ゃないか?

そこで逃げる人もいたでしょう?
アイゴ、捕まれば死ぬ。同郷の二人も逃亡した。そして行方も知らず、あの二
人。

その人らの名前は?
一人は李○烈で、もう一人は苗字が「ユ」というが分からない。名前は知らな
い。二人は逃げたんだ。

逃げて捕まって来た人もいましたか?
それは勿論だ。逃げて捕まれば、それこそ犬死だ。

おじいさんは奥さんが来られる前には…。
「飯場」で雑魚寝した。

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さっき叔父さんは、日本で亡くなったと言いましたね?
亡くなって、私が葬儀をした。

おじいさんに連絡が来たのですか?おじいさんがいる会社に?
あぁ、そうだ。

親戚だと知ってたんですか?
赤間から夕張へ行こうとしたら、列車で3時間、行かなきゃならない。それで私
が、叔父さんが亡くなったと言ったら行かせてくれた。それで言った。

それはいつでした?おじいさんがケガする前ですか?
ケガする前のようだ。叔父さんを見送った後に、私がケガした。そこへ行って見
たもの、叔母さんは顔が青白くなって人形みたいだった。本当に恐ろしかった。
万里、他国に来て夫が死んだら、どうする…。

その時、おじいさんが夕張へ行って葬式に出たのですね?
夕張から少し離れた所へ行ったようだ。うちの村から叔父さんと、他の人も一緒
に行ったが、離れてしまった。夕張と赤間砿に。そして悲報が来たから、朴○ヨ
ンと私と労務事務所に行って、葬儀をちゃんとしなければ、うちの故郷の人たち
は仕事に出ないと強く言った。葬式代と見舞金を出せと何回も要求した。彼らは
人が死んでも、死体をそのままにしていた。墓もない。それで私らはカマに乗せ
て、二人で担いで、死体を担いでいった。

担いでいって埋めたのですか?火葬したのですか?
アイグ、埋葬でなく、火葬だ。火葬場へ行くんだ。その朴○ヨンと私と二人が火
葬場へ行って…。

会社で喪輿(サンヨ)は作ってくれましたか?
喪輿がほしいと言ったらお金を出せと言うから、同郷でなくてもみんな協力し

奥さんと住んだ部屋代は、会社が出したのですか?
いや、タダでくれた。貸与だから住んで出てくるだけでいい。

月給は1円50銭、2円でしたよね?
1年過ぎたら上がって2円だ。

では、5年になったら、もう少し給料が上がりましたか?
いいや。そんなに上げてくれない。そして「大東亜戦争(太平洋戦争)」、奴ら
が追い詰められた時は、もっと待遇が悪くなった。もっと良くなると思ってた
が、良くない。アイグ、鉄をみんなとって、武器を作ったんじゃないか? 橋の
欄干に付いている鉄、鋳物もみんなとって武器を作って、当時は橋の欄干もなか
った。みんな取って…。四方八方からみんな取って行った。だから、待遇が良く
なることもなく、私らはお腹が痛くならないように、買って食べた。村に行けば
コメを買えた。

ひょっとしておじいさんは、「組」という言葉を聞いたことがありますか?
「組」って、何か組合みたいだ。「間組」とか、何々「組」…。集まって暮らす
所を「組」と言った。

おじいさんは「組」ではなかったのですか?
「組」だが、暮らす家もあって、「飯場」で暮らすのが「組」だった。

「タコ部屋」は聞いたことがありますか?
「タコ部屋」、それは監獄だ。監獄。「タコ部屋」が何か、いうことを聞かない
で逃げたりして、また捕まってくると「タコ部屋」という監獄に送る。

タコ部屋は、赤間炭鉱にありましたか?
いや。別だ。別にある。少し大きい所に送る。滝川や函館とか、そんな所の監獄
に送るんだ。監獄へ行けば、その人はもう会えない…。

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◎ 長水郡から動員された同僚たちと撮った写真。左側から2番目が朴スチョル(仮名)。(朴スチョル提供)

生きをしている。叔父さんが亡くなったことは、戸籍にみんな載っている。私の
長男の出生地は、北海道になっている。

故郷に戻り、その家に行ったが、帰っていない、便りもないと

おじいさん、すこし写真説明をしてください。写真の後ろに名前を書いてくれま
したね。
裏面を見たら分かる。

そこで行方不明になったのは誰ですか?
これは権〇ヨン(右側2番目)で、これは私(左側2番目)。

た。京畿道の人もわっと来て…。

皆、朝鮮人だから…。
金を出して、みんなで喪輿を作ろうって。それで、花も飾って喪輿と同じものを
作ったら、喪輿が出る時には方々から人が雲のように集まった。

日本人も見物に来たんですか?
日本人はそんなことしない。棺に入れてそのまま座らせて…。しかし私たちは喪
輿を飾って葬儀を準備した。そうしたらウワサが広がって、わっと雲のように人
が集まって来た。

見に来たんですね?
葬列の音を出しながら、チャン、チャン、チャンとしっかり叩いて行った。そう
して私らも、少しはうっ憤晴らしをした。

遺体は火葬ですよね?
みんな燃やした。火葬して骨までみんな焼いた。みんな焼いてその遺骨を拾う。
誰もいないから、あの朴○ヨンと私だけだ。故郷の人は結局、嫌なことは避ける
だろ。背を向けるだろ。集まって酒を飲むのは跳びつくが、火葬場で骨を拾うと
かは誰もやらなかった。火葬場の主人がもう焼いたと言って、私ら二人がそれで
遺骨を拾って、灰も集めたんだ。遺骨は頭からつま先まで全部拾った。そして、
紙を敷いた箱に、頭からつま先まで全部入れた。遺灰は寺に預けた。日本の寺は
村ごとにあるんだ。平地にあって、山にはない。日本は寺が都市にある。遺骨は
別にして、朝鮮に持って行って埋めなきゃいけない。それで遺骨箱を持って、朴
○ヨンが先に出ることになった。

ああ…。帰って来たんですね。
叔父さんを連れて。叔母さんも連れて行った。それで、そのお陰で、朴〇ヨン
は、期限前に帰って来れた。その時、私の従兄は幼かった。叔母さんはいま、長

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て、チゲを背負って、柴刈りをしていた。だが日本から戻ってからは、ケガをし
ていて、ケガした後は、きつい仕事もできなくて…。私は半端者(何もできない
人)と言われた。仕事もできない…。

半端者?
働けないで遊ぶ、半端者だと、父親は困っていた。半端者だ、半端者。

でもおじいさんが韓国にいた時は健康で、(北海道に)行ってからケガしたじゃ
ないですか。両親も随分心配したでしょう。
そうだ。北海道へ行かなかったら、丈夫だった。

おじいさんがケガした話、日本で苦労した話、沢山、ありがとうございます。そ
れを録音したので、その記録は国家がずっと保管します。後ほど、おじいさんが
話した内容を本にして出版しても良いですか?
私が死ぬ前に私がそれを出したいが、息子たちにも見せて。

おじいさんの写真も載せて、本を作ったら送ります。良いですね?
うん。良いとも。悪いことはしなかったから。

美男子ですね(笑)。
これは金〇ギ(右側1番目)で、この人たち、二人は逃げた。そして行方が知れ
ず、ウワサも聞かない。私が北海道から帰って、故郷へ戻って、この二人の村へ
行って、家に戻ったか聞くと、帰っていないと言っていた。

ユさんと権〇ヨンの二人ですか?
いや、ユと李〇烈だ。その二人が逃げた。

それ以降も消息は聞かないのですね?
聞いていない。うちの村の人でもない。故郷に戻ってから、家に行って、息子が
戻ったかと聞いたが、帰っていないと言っていた。便りもないかと聞くと、それ
もないと。

解放されてからですか?
うん。彼らが逃げたのは解放前だった。

おじいさんの考えではどうなったと思いますか?この人たちは死んだみたいで
すか?
逃亡して捕まったら、抜け出せない。ひょっとして、病気で死んだんじゃな
いか。

死んだようですか?
そう、便りがない。生きていたら何とかして手紙でも書くだろう。

おじいさん、昭和17年1月13日と書いているのは撮影日ですか?
分からない。そうみたいだ。

おじいさんは韓国に戻ってから、どんな仕事をして来られましたか?
私はきつい仕事はできなくなっていた。北海道へ行く前には、両親の元で暮らし

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面談後記

 冬の寒さが残る2月のある日、その日だけは春風が吹くような温かさを感じる午後だった。朴ス
チョル翁は、全羅北道長水郡の静かな集合住宅で夫人と睦まじく暮らしていた。玄関に入ると子犬
が見知らぬ訪問客に興味を示すように吠えたてた。けれどもすぐに、おじいさんと夫人は暖かく私
たちを迎えてくれた。おじいさんは18歳、好奇心の旺盛な歳に、日本へ行けばお金を稼いで、技術
も学べるだろうと、募集広告に騙されて赤間炭鉱に徴用された。その当時、村から一緒に動員され
た人たちの身元証明書の記録や強制動員に関する記事などをスクラップして、几帳面に整理してい
らっしゃった。面談が始まるや、室内の椅子にようやく座り、ズボンのすそを下げた。当時、炭鉱
で転落して骨盤を骨折し、そのために腰が痛くて床に座ることができず、椅子に半ば寄り添ったま
ま面談に応じた。同僚たちと一緒に写した写真を見る時、当時の記憶が湧いて来たのか、溢れる涙
を堪えることができなかった。その姿を見た調査官たちはしばらく、言葉を続けられなかった。お
じいさんは面談を終え、不自由な足にもかかわらず、私たちを見送ると必死に玄関に出てきて、手
を振った。その姿を見て、強制動員が残した傷がおじいさんの記憶だけでなく、不自由な体にいま
も続いていることを知った。胸にこみあげるものがあった。

・面談月日:2009.2.25
・面談者 :河承賢
・補助面談:李ガヒョン、金ジンスク

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指を北海道に捨ててきた

〈北海道炭礦汽船(株)平和鉱業所真谷地炭鉱〉

誰かは行くことになるから、私が最初に行った

柳遠哲さんが日本にどう行って、どんな生活をしたのかを伺おうと来ました。
(頭を掻きながら)ずいぶん昔のことで、思い出せるやら分からないが…。

いまお歳はいくつですか?
86歳になった。

日本へ行かれた時は何歳でしたか?
17歳。

まだ子どもでしたね?その時兄弟は何人でしたか?
4人兄弟で私は二番目だった。みんな徴用に行った。報国隊と言った。初めにこの村
から先に行って来た人が言うには、「今度行く人は炭鉱だが、人がたくさん死ぬか
ら、行くな」と教えてくれた。うちは兄弟が何人かいるから、行かない訳にはいかな
かった。誰かは行くことになるから、私が最初に行くと言って、それで行った。

・1924.7. 京畿道江華郡松海面祟雷里出身
・1940.3. 北海道炭礦汽船(株)平和鉱業所真谷地炭鉱へ動員
・1945.8. 解放後に帰還

柳遠哲(ユ・ウォンチョル)

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釜山に行って、3日くらい留まった。そこから船に乗って下関か?で降りた。そこ
から汽車で青森まで行って、また船に乗って。北海道は島だろう?

ハイ、そうです。
だから北海道へ行って、また汽車で炭鉱まで行ったんだ。

そしたら北海道の炭鉱に行ったのは、いつか分かりますか?
はじめ、令状が出たからだったか?先に行った人の話から分かった。

その先に行って来た人と、一緒に行ったのですか?
一緒ではない。

令状にどこへ行くか書いてありましたか?
そうだ。炭鉱に行くと。汽船株式会社。そこへ行くと分かっていた。

北海道汽船株式会社に行くのは、韓国にいた時から分かっていたのですね?
そうだ。

千〇マンもおじいさんのように、通知書を受けて行ったのですね?
そうだ。松海面からは二人しかいなかった。その時、三山面は10数人になった。
全羅道の人が2人いた。その他の人は分からない。思い出せない。

ここの江華郡から50名が集まって行ったでしょう。その人たちが全部、おじいさ
んのように真谷地炭鉱へ行ったのですね?
別れた。だが大部分は真谷地炭鉱へ行った。

残りの人たちはどこへ行ったのか覚えていますか?
分からない。夕張炭鉱に属する炭鉱だから、小さなヤマだろう。夕張炭鉱は大き
なヤマだが。

おじいさんが行くと言ったのですね?
うん。私に教えてくれた人は、耳が聞こえないふりをして帰って来たと言った。

その人の名前は何といいましたか?
名前は知らない。目の瞼が垂れ下がっていて、名前は言わなかった。

その時、誰が日本へ行けと話しましたか?
村から通知が来た。徴用に行けと。千〇マンという人と二人が。その人は私より
先に出発した。すでに交通事故で亡くなった。河岾面(ハジョン、江華郡)の人
で、どこかで死んだようだ。

おじいさんと同じ村の人ですか?
ここから遠くない。あの下の端の海辺。崇雷(スンネ、江華郡松海面崇雷里)に
住んでいた。

千〇マンさんはその時(徴用当時)何歳でしたか?
私より1、2歳上だ。18か19歳。

どのように北海道へ行くようになったのか教えてください。
この江華郡だけでなく、三仙(サムサン、江華郡三仙面)の人が多かった。全羅
道の人もいて、各地から来ていた。

江華郡なのに全羅道の人も多かったのですか?
いや。多くはなかったが、二人は覚えている。

郡庁に集まった人が何人程度でしたか?
ひとつの隊が50名くらい。そう募集をしたから。

そうしてどう行ったのですか?

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◎ 夕張石炭博物館で展示されている真谷地職員組合の表札(写真左)と北海道炭礦汽船(株)のマーク

が刻印された夕張鉱業所第1礦事務所の銅板(写真右)(2006.委員会・北海道調査団撮影)

示通りに動くんだ。訓練するんだ。

訓練は始め行った時に受けて、解放される時までずっと受けたのですか?
いや。大体2年間、受けた。そして(他の人たちが)軍隊に出てからは、訓練を
受けなかった。

真谷地炭鉱ではどれほど居ましたか?
そこにずっといた。約4年以上居た。

4年以上いて、仕事もしながら軍人訓練を2年間受けたのですね?
うん。10日に1回は休むから。休みの日に出て…。(訓練を受けた)

夕張炭鉱が大きなヤマというのは、どうやって分かったのですか?誰か説明して
くれたのですか?
いや。夕張炭鉱は大きいから、大きなヤマだ。夕張では軍人訓練を受けたから、
銃を担いで、そこ(訓練所)まで一日かけて歩いて行ったんだが、帰る時は(真
谷地炭鉱まで)汽車で戻った。

かれらは指を勝手に切り捨て縫った

始めに降りた所が夕張炭鉱でしたか?
いいや。真谷地炭鉱で降りた。

では、訓練を受けに夕張炭鉱へ行ったのですか?
訓練するため、訓練、行進。

おじいさんと一緒に江華郡から真谷地炭鉱へ配置された人たちは全員、訓練を受
けたのでしょう?
大部分、一緒に受けた。歳が多い人たちは引き返してきて、訓練は軍人訓練だか
らその人たち(高年齢の人たち)は外れたのだろう。(そこで)令状を受けて軍
隊に行く人がいたが、私は令状が出ないから、(軍隊には)行かなかった。

同じ年ごろの人たちだけで、軍人訓練を受けたんですね?
そうだ。日曜だ。10日ごとの休みの日に、その運動場の雪をこうして掻くんだ。
(手まねで状況を説明しながら)丸くソリで一回り(地面を)引っ張って回っ
て、そこへ入って、指示通りに訓練するんだ。(雪が沢山あるから、雪をかいて
訓練場所を確保するという意味)

銃を持って訓練もするのですか?
いや、その時は(訓練時は)銃を持たないで、雪が太ももまであるが、ソリで一
回りしたら足跡がつく程度になる。だからぐるっと回ってソリの場所に立って、指

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器で焼く、それ何と言ったか…。その窯で作るんだ。粉炭をそこに積み入れて、
壁石を積んで塞いで、穴を少し開けて火をつけて、全部燃えたら中を覗いて見
て、その壁石を崩して、中の火の塊を引き出すんだ。炭を作るのと同じだ。そし
て水をかけて(撒いて)、引っ張り出すんだ。

それが無煙炭になるのですか?
うん、無煙炭。

石炭の作業は、どれだけしましたか?
そこに少しいて、その鉱内で土、石、木、全部一緒に出して、それを機械で叩い
て、選んで、石は石で、炭は炭で1等炭、2等炭に分ける。そして、その石を捨て
る最中に手をケガした。

手をケガしたんですか?どうしてケガしたんですか?
この指が取れたんだ。(ケガした指を見せながら)手袋をはめて、石を載せるク
ルマを押していて、手で掴み損ねて…、クルマと石の間に挟まれて…。そして、
「女部屋」〔ママ〕という事務室で仕事から出て来た人を調査する人、その人に
ケガした手を見せた。「見せろ」と言われ見せたら、指が切れたから縫合しろと
言った。病院に行けと。指の筋は繋がっていたが、病院へ行ったら、筋をどうに
かして繋いでくれると思ったら、 手を掴んで指を切ってしまった…。鳥の頭のよ
うに切られた指を切り捨ててしまって…。指を北海道に捨てて来たんだ。(しば
し言葉がとぎれた)

病院で切ったんですか?神経はまだ生きているのに?
分からない。その人たちが指を勝手に切ってから縫った。

おじいさん、驚いたでしょう。指を切ってしまって…。
痛くてたまらなかった。

そしたらおじいさんはまともに休めなかったでしょう?
そうだ。訓練を受けたから。訓練を受けて、仕事に行かなきゃいけない。

おじいさんを呼ぶ時は、どう呼びましたか?
日本語で柳川(ヤナギガワ)。

徴用に行く前、日本語ができましたか?
少しできた。(徴用に)行って、歳上の人たちに職場で指示し、覚えた。

班長をしたのですか?
言葉は聞き取れたから。「あの人たちは、何と言っている?」、その程度はできた。

通訳をしたのですね?
うん。

おじいさんは、日本語をどこで習ったのですか?
夜学に通った。

通訳だけして、他の仕事はしなかったのですか?
他の仕事をしながら、聞き取れない人がいるから、通訳したんだ。はじめは練炭
粉を掻き出して積んだ。選炭場に降ろしたものを集めて積むんだ。

積まれた炭はではどうするのですか?
無煙炭を作るんだ。

無煙炭を作る他の工場があったのですか?
その横に。朝鮮人も日本人もいて、(無煙炭を作るには)日本人がいなきゃ…。

真谷地炭鉱の中に無煙炭を作る工場もあったのですか?

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が)みんな沈むんだ。この仕事を、多分一番長くしただろう。

では、通訳はいつしましたか?
通訳は、最初に行って。「これを動かせ、何をどうしろ」と指図する、その通訳
だった。

身体検査の時、耳が聞こえないと言った、

千〇マンお爺さんや他の人たちは、まったく日本語はできなかったんですか?
そうだ。私ほどはできなかった。千〇マンは(行ってすぐに)坑に入った。後で
話を聞くと、昇降機、坑への機械に乗って何百メートル入るそうだ。そうして昇
降機で事故が起きて…。25人が乗る。人を乗せて上がったが、あまり人が乗った
ので、昇降機が下まで落ちてしまって、みんなケガした。ケガした人たちは仕事
場が違うから見ていないが、話は聞いた。

おじいさんは石炭を洗う機械仕事を一番長くして、その後にまた他の仕事をした
のでしょう?
他の仕事はしなかった。それだけだ。

それだけ、解放されるまでしたのですか?
うん。初めに機械部へ入って、そこは私も入れて3名だった。そのうち(私に)
仕事を教えてくれた2名の日本人は、他の場所に移ったから、私一人でやってい
た。

おじいさんは、仕事ができるからそうしたんですか?
仕事ができるというより、韓国人をもっとこき使うためだろう。

その日本人たちは、どこへ行ったのですか?
坑内へ入ったんだろう。他に行く場所なんかない。

そしたら病院にしばらくいたんでしょう?
そのまま出勤したが、仕事はできない。手が腫れて…。

行って、どれほどでケガしたのですか?
そう、1年ほど。

石炭作業を1年ほどしたのですね?
1年に少し足りない。あちこち、人の指示通りにしなければいけなかった。自由に
できない。どこかへ行って働けと言われたら…。

では手をケガした時、指が切られたことを記録する人が誰かいましたか?
記録って、誰が記録する。女性のいる事務室、そこに荷物を置いてから仕事す
る。監督は(手の怪我の)報告書は、病院に行けと。

はじめは炭を選んで積む仕事をして、次に石を選んでクルマで運ぶ仕事をしたの
ですね?
この手をケガしてからひと月だったか、ある程度は休んだ。そして機械部に入っ
た。

どんな機械ですか?
炭を水に入れて洗うもの。

さきほどの無煙炭を作る機械ですか?
それは原料を作るものだ。

選炭(炭を選ぶこと)作業したものを水でまた洗うんですか?
小さなものは除いて、残りを測定する。栗の大きさにしたもの。少し大きいも
の。それを水に入れて洗って、そうしたら炭は軽くなるから浮いて、土は沈む。
洗う機械があるが、50馬力モーターを置いて(炭を)入れて水をかければ、(土

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その宿舎の名前は憶えていますか?
「飯場」?第2「飯場」だったか?

おじいさんはそこで協和会、「協和会」って聞きましたか?
それはない。

「タコ部屋」という言葉は?「タコ部屋」?
それは言わば、囚人を入れる所だ。そこにあった。そこに入る人たちは刑務所生
活をするのと同じだ。靴もまともに履いていない。裸足みたいになって。言うこ
とを聞かなければ棍棒を持って追いかけて叩くんだと。仕事はもっとして、労賃
は少なくして。

「タコ部屋」に入る人は朝鮮人ですか?
朝鮮人たちだ。刑務所と同じだから。言うことを聞かない人たちを連れて行って
入れるんだ。危険なことをさせて、仕事をもっとさせて、直接見たことはない
が、「今日はこんなことがあった」という話は聞いたから。

誰からその話を聞きましたか?
仕事に出た人たち。坑内でも(タコ部屋の人たちは)違いがあるんだ。危険なこ
とをさせて、仕事はもっと沢山しなければいけない。

その人たちは(「タコ部屋」に入った人)どうしてそこに行ったのか、そんなこ
とは聞きませんでしたか?
その人たちと会ったことはない。

韓国人を募集する前は、日本人だけで働いたようだ

真谷地炭鉱はずいぶん大きいですか?
小さな炭鉱だけど大きな方。夕張炭鉱みたいな所は大きいが、それに比べれば小

坑内より、機械につく方がラクじゃありませんか?
坑内は事故が起きるから、機械はラクだろう。

おじいさんは、初めから外の仕事(坑外)をしましたか?
私も、耳がよく聞こえないと。身体検査の時、耳が聞こえないと言ったら、ピン
セットで突いて頭に当てて、こう…。そして坑内に入らなかった。でも、1,000メ
ートルほど坑内見学に入ったことがある。通路用の坑…。昇降機用の坑ではなく。

あー、初めて行くから坑内見学をさせてくれたんですね?
いいや。

では、おじいさん一人で坑見学をしたんですか?
うん。

おじいさんは、その前に行って来た人が、炭鉱で事故が沢山起きて危険だという
話を聞いて、坑内には行かなかったのでしょう?
そうだ。

その人の話を聞いたお陰で、ずいぶん助かったでしょう。
うん。

江華郡で一緒に行った人でケガした人はいなかったですか?
そうだな。千〇マンの仕事場で人が死んで、それと仕事中に腕がちぎれたのを見
たと言っていた…。

仕事は千〇マンおじいさんとは別にして、寝る所はどうでしたか?
寝る所は一緒に寝た。14名が一部屋にいたが、全羅道の人もいて、三仙の人が主
で、初め行った時は忠清道の人も多かった。三仙の人たちは後で来て、私は先に
来ていた。

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朝に出て作業が終わるまで、坑内で炭を掘って、今日は1000車と言われて、その
1000車を処理したら家に帰れる。

ではおじいさんは、今日、炭掘りした量だけ、また外で仕事を(選炭作業)する
のですね?
うん。炭を受取って穴に入れる。

交替勤務はなかったのですか?
私は交替がなかった。仕事は朝から夕方までする。その穴に入る数をこなした
ら、機械を引きあげ(宿舎へ)帰る。

坑内で仕事する人たちは、交替もあるのでしょう?
うん。夜・昼別だ。その人たちは(作業)時間が短いから。

何時間ずつ働くんですか?
その人たちも場合によって10時間程度する人もいて、5,6時間で終わる人もいて、
みなそれぞれだ。自分の仕事次第だし、仕事場の状態にもよる。

月給は貰いましたか?
月給?何百円〔何十円〕か貰った。それを小遣いにする。餅でも食べて。酒は飲
み方が分からないから、飲まない。

餅はどこで買いましたか?
商人が来るんだ。韓国人も行って商売して。どうにかして稼がなきゃいけないか
ら、商人が入ってくる。

韓国へお金を送ったりしなかったのですか?
送る金なんてあるもんか。小遣いも足りないのに。酒を飲まないで、タバコも吸
わないで、でも餅は買い食いして。それでも足りないんだ。

さいヤマだ。

おじいさんより先に来て働いた人もいましたか?
韓国人を募集して入れる前は、日本人だけで働いたようだ。初めは日本人だけだ
が、軍隊に行って、他の所へも行って、それで韓国人に働かせるようになった。

おじいさんが来る前に、朝鮮人が先に来ていたということですか?
うん。忠清道の人たちが多かった。

真谷地炭鉱では女性たちも働きましたか?
日本人女性たち、選炭は女性たちがする。

そうですか。おじいさんは日本語も少しできて、顔立ちもよく、女性たちに人気
があったでしょう?
女性たちと言葉は少し交わしたが、人気があったって何する、相手にしなかった。

おじいさんが相手にしなかったのですか?
うん。

親しくなった女性はいませんでしたか?
ご飯を運んでくれる女性たちと親しくしななければ、ご飯を貰えない。

ご飯はどうやってくれましたか?
ご飯はアルミ椀に盛って、汁とくれる.

食券などをくれるんですか?
いや。列に並んで立って食べる。昼食は弁当を包んで仕事に出る。

作業の割当量は有りますか?

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集めたのかどうしたのか、封筒を出した。

だから、おじいさんの部屋ではなく、その隣の部屋にいた人だったんですね?
うん。その部屋は小さく、うちの部屋が一番大きかった。

「飯場」には部屋が幾つあったんですか?
14部屋か、15部屋ほどになる。

おじいさんがいた14人部屋が一番大きいと言ったでしょう。普通の小さな部屋で
は何人ほど寝ていましたか?
11名ほどになる。決まっているわけじゃなく、私がいた部屋が一番大きかったよ
うだ。多分。

そしたら100名は十分に越えていたでしょう?
140名。

140名、その人たちはおじいさんと一緒に行った江華郡の人たちで、そしてほかの
地域の人たちもいたのでしょう?
うん。達城郡(大邱広域市)とか、忠清道の人だったが…。私が行ってから人が
沢山来たんだ。

おじいさんが行ってから、江華郡からまた人が行ったのですか?
孝洞(大田広域市)、松海の人たち、後から募集した人たちがまた来た。

何人ほどがまた来ましたか?
そうだな、一度募集したのが、みんな来たのか、江華島三仙の人たちが10名余り
になるし、松海の人たちも…。

後から来た人たちはどれくらい遅れてきましたか?

商売する人たちは、どれくらいの間隔で来ますか?
「飯場」の横に商売人がいて、そこから買い食いする。商売人が持ってきて売っ
たりする。大概は行って買う。

仕事を終えて、近所を歩くのは少し自由だったみたいですね?
炭鉱の近所だけ。集落のようになっていて、そこを離れたら監視があって、抜け
出せない…。

監視は誰がしました?
炭鉱でする。炭鉱で。

仕事中にケガして亡くなった方はいましたか?
いる。炭車にひかれた人たち。炭を掘って引き出す車。坑内で載せて、外で選炭
するから、炭車が出てくるまで危険だ。

そうして死んだ人たちはどうしたのですか?
良く分からないが、火葬する。遺骨はそこに保管するようだった。この寺の状態
で。松海面(江華郡)も(死んだ人が)一人いたが、その人は病気で死んで、金
〇シクだと。〇シクとも呼ばれた。「かねもとたいしょく」だ。

その方は行って、どれくらいで死んだんですか?おじいさんと行ったんですか?
そう、その結婚してひと月目の人だが、北海道へ来て家の心配をしているうちに
病気になったらしい。それで病院に連れて行った。行ったが、私らの部屋に遺体
が置いてあった。それで、風呂に入ってから、弔問しろと言われた。弔問した
ら、別の部屋からも弔問者が来た。そして封筒を差し出すんだ。それで封筒の中
から「お金を少し出しなさい」と言ったが、だめだった。その人の部屋の責任者
が、(金〇シクの)家にお金を送ってあげなければいけないからと言って…。

葬儀で弔慰金を出すように、人が死んだから、お金を少しずつ集めたんですか?

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中国人もいたのですか?
中国人たちは多かった。捕虜兵。その時、その人たちの指示を受けた。

解放されてから?
うん。

中国人たちが、暴れたりしなかったですか?
日本人たちにそうしても、韓国人にはそうしたことはない。

中国人たちが日本人を懲らしめたのですか?
うん。苦しめたということだ。韓国人も少しはそんな人がいた。中国人たちが1
等。韓国人が2等。

おじいさんがいた所は、空襲や砲撃はなかったですか?
飛行機が飛んでいるのを見た。日本人たちが飛行機を見つめていた。一度見たか
ったからみたが、小さないものがグルグル回っているから、あれは米国の飛行機
だと、仕事を止めて見た。見ていると責任者たちに見つかって入れと言われた、
眺めてないで入れと。

仕事を終えて休む時は何をしましたか?
遊ぶ人は遊んで、酒飲む人は酒を飲んで、私は食べて寝る。夜に遊びに出る人も
いて、勝手にするんだ。

遊びに行くのはどこですか?
どこへ行くのか、誰が分かるもんか?

おじいさんは行かなかったのですか?
行かない。劇場は一回行った。韓国人が未開人として出てくる演劇をするんだ。

そうだな、1年未満だ。

「徴用に」行く時、何月か覚えていますか?
種もみをまいて二日目に発ったから、4月。陽暦で5月になる。

初めに身体検査をしたと言いましたが?
うん。韓国でして、日本へ行ってからも、会社で…。私は乙種をもらった。

その時、おじいさんは耳が聞こえないのに、乙種をもらったのですか?
そうだな。軍隊に行くのはその後に選んでいくが、私は手が不自由だからそうな
ったようだ。私より遅く身体検査を受けた人たちも(軍隊に)行ったが、私は行
かなかった。

そうですね。ちょうど軍人になる歳なのに、1924年生れでしょう?
うん。

おじいさんも1924年生まれで、軍隊に行く所を行かなかったのですね。軍隊も危
険じゃないですか?
うん。軍の服務を終えて、解放になって、家に戻って来る時に銃を海に捨てたり
したって。

韓国人が未開人として出てくる演劇をした

解放されたのはどう分かったのですか?
解放されたのは、仕事に出ていたら、中国人たちが「仕事に出るな」と言った、
夕方に。その次の日にまた仕事に出たら、道を塞いだ。解放されたから「仕事に
出るな」ということだ。

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おじいさん、日本で指をケガしたことを知っている人はいますか?
私と一緒に行った人なら知っているが…。隠したから。知っている人は知ってい
るし、自慢することでもないし。

この団体写真は一枚だけ撮った

この写真について伺います。この「飯場」はおじいさんが生活した所ですか?
(団体写真を指しながら)
ここは風呂場。(写真の左側の背景)ここのこちら側に部屋。そちらは道に出る。

14名ずつ泊まったという第2「飯場」は?
こちらにずっと長い教室みたいに。(写真右側、後ろの建物を指しながら)これ
が「飯場」だ。ここには主人一人しかいない。

◎ 動員されて2~3年後に飯場前で同僚たちと撮った写真。後ろから2列目右側1番目が柳遠哲(柳遠哲 提供)

演劇をするんですか?朝鮮人をバカ扱いして?
うん。

見てて気分悪いですね。
良いはずがない。

外出する時は写真を撮りましたか?
記念写真。写真屋が来たら撮ったが、私は撮ったことない。

解放された時、韓国へはどうやって来ましたか?
(会社の)主人に、私は家に帰ると言って、その前日に全部計算して、お金を幾
らかもらって、その二日後の朝に握飯を渡しながら、行けと、それで故郷に戻っ
たんだ。

会社で一緒に送り出したのではなく、おじいさんが一人で準備して来たのです
か?
みんな一緒に来た。

月給を計算して、みなに出したですね?
いくらか皆にくれた。金を出すには出した。

会社の人は一緒に、どこまで連れてくれましたか?
東海(日本海)を越えて来た。一週間かけて、函館で船に乗って釜山に来た。

本州は通らないで、北海道からそのまま船に乗って来たのですか?
うん。

韓国へ来たのはいつ頃ですか?
家に戻ったのは私が21歳の時で、陰暦10月10日に戻って来た。

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それは1年に1回ずつくれたか…。

2点を出したら靴下を買って、3点を出したら何か帽子を買って、4点を出した
ら服を買う、そうですか?
うん。50枚だけだから何を買うか、それで洋服を着ている人は、他のものを買
う。(服は)各自に余裕があれば買う。食べるのがやっとの人は買えない。洋服
は外出する時に着る。私も服を仕事の時にも着て、飯場を出る時にも同じ服(写
真に着ている服)を着て出てきた。

作業服は?それも買うんですか?
作業服はもらうもので、別にある。

洗濯はどうしました?
洗濯はしなかった。洗濯したことはないから。そのまま大事に着る。

この(写真の)「飯場」の人たちは忠清道、江華郡から一緒に来た人ですか?
うん。

おじいさん、この女性たちは誰ですか?
食堂。この女性は「はこちゃん」で、「みよちゃん」で、これは「ちーちゃ
ん」。

写真の女性たちはどこで泊まりましたか?
寝るのは飯場で寝た。夕方まで仕事して、また朝に仕事に出る人の飯を作らなき
ゃいけないから、そこで寝るしかない。

そしたら食堂で働く女性たちが泊る宿舎が別にあったのですか?
どこか部屋を一つ与えた。

主人は誰ですか?
ゲートルを巻いた人(前列中央部分左側6番目の黒いジャケットを着た人)。名札
がある人が主人だ。

この「飯場」の主人の名前を知っていますか?
さあ…?

この飯場の主人は日本人ですか?朝鮮人ですか?
日本人だ。日本人はゲートルを巻いた人(飯場の主人)一人と女性3名がいた。

ではゲートルを巻いた人は、みんな日本人ですか?
いや、この一人だけ。(飯場主人を指しながら)

ところで写真を見ると、洋服を着た人もいますね?
洋服は、金がある人が勝手に着ている。

ここに「戦闘帽」のようなものをお年寄りも被っていますね?これは炭鉱でくれ
たものですか?
いや。買ったものだ。金だけでは買えない物で、番号の数字のある伝票〔配給切
符〕、靴下を買う時は番号の数字〔切符〕を何枚が出すとか、洋服だと何十枚出
すとかして買って着る。

その伝票は会社が出すんですか?
うん。

この「戦闘帽」や服などは、(伝票で)買ったものですか?
うん。靴下も買えないから、靴下も票何枚、2点か3点を出して買うんだ。

そうしたら伝票は、どれ位の間隔でくれるんですか?

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おじいさんと一緒にいた人の中で、韓国から家族を呼んで「長屋」で暮らす人は
いませんでしたか?
いなかった。

始めには、2年契約で行ったのですよね?
うん。だけど再契約をしたんだ。家に帰りたいのに、会社がまた契約しろと言う
んだ。

嫌だと言えないのですか?
会社の言いなりだった。そこでは身動きもできないのに、どうしようもない。

ここの前に木のようなものがありますね?(写真の前列の木を指しながら)
これは各「飯場」に植えたみたいだ。主人の家にあったのを植えたようだ。

後ろに旗を持っている人がいますが、これは何ですか?
この「飯場」の記念みたいだ。

旗は「飯場」の前にいつも揚げているのですか?
いいや。写真を撮る日に旗を持ってきた。そこで写真一枚撮るのに半日かけた。
人が集まらないので。(一人を指しながら)この人は全羅道の人、鄭〇ギュだ。

この人の仕事は?
この人は逃亡したらしい。それで二人が行って捕まえてきた。

捕まって来たのですか?
うん。

逃げて捕まった人はどうなりますか?
どうなったかって、解放を迎えて、一緒に連れて行った。

「女部屋」?
いや。「女部屋」は現場だ。家は家だ。女性たちも飯場のどこかで寝たのか、主
人の家の隣にいたのか、そちらの方から出てきて、飯を食べろと言ったから。

主人の家は「飯場」にあるのですか?
うん。そこにある。一人で住んでいるのか分からない。いずれにしろ、この横か
ら渡って行けば、主人の部屋がある。事務室の部屋があって、食堂はその真ん
中、長いからこう…。(「飯場」の構造を説明)

この写真は、いつ撮ったものですか?
それはずいぶん経ってから撮ったものだ。この団体写真は一枚だけ撮ったものだ
ろう。

この写真は、どうして撮ることになったのですか?
ここに写真屋がいて、撮ろうと言った。

この写真は撮ってから分けてくれたものですか?
買ったものだ。分けるなんて、苦労した写真だ。

この後は山ですか?(写真の背景を指しながら)
山。畑、山だ。谷間にあったから、そこでできるのは長芋、カボチャ。カボチャ
は甘カボチャ。

野良仕事は誰がしましたか?
自分たちで勝手に植えたんだ。そこに平地はないから。

炭鉱の近所に民家もありましたか?
うん。韓国人たち。家族と暮らす人たち。暮らすために入ったんだろう。「長
屋」と言った。

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おじいさん、指のケガした所、ちょっと見せてください。

彼らは人に仕事をさせるのが、目的だったから。人の指の心配をするものかい?
今日はお話をありがとうございます。

・面談日 :2009.2.12

・面談者 :李宣姈

・補助面談:金ジンスク

 

■面談後記

 冬の寒気がひとしきり勢いを増す頃、仁川広域市江華郡松海面上道里

の入口へ着くと、柳遠哲お爺さんは丁度、毛皮の帽子を被って調査官た
ちを迎えに来た。見慣れない若い女性調査員たちの訪問に、はじめ柳遠
哲さんは顔をあげることができず、恥ずかしがっているようだった。柳
さんは動員先で傷ついた指も、恥ずかしいからと見せてくれなかった。
面談が終わる頃には少し心を開いたのか、ケガした手を自然に見せ、残
った話を続け

た。

この写真で、江華島の人はどこにいます?
分からない。それぞれ良いところに立っているから。千〇マンという私と一緒に
行った人以外には分からない。みんな好きなところに立っているから。

頭を刈るのもお金を払うのですか?
飯場の前に理髪所がある。髪が長ければ、坑内で石にあたっても痛くないからい
い。

このゲートルを巻いた人、この人はどんな仕事をする人ですか?
(写真)坑内を回る人、炭を掘る人たち。

炭掘りの人もゲートルを巻いて働くのですか?
いや。それは作業する人たち…。写真を撮るというから目立ちたくてそうしたん
だろう。

ここは少し自由があったようですね?
うん。

「みよちゃん」とは親しかったのですね。いくつの差がありました?
親しかったって、何が親しい。飯をもらうだけで、媚びを売ったりしただけ。選
炭場には女性が27名いて、食堂は何人もいないのに。

みんな日本の女性ですか?
うん。女性たちが誘いに来る。とんでもないことだ。機械が故障して座っている
と、前に来て二、三人座ろうとするが、面倒だ(笑)。

おじいさんに食べ物を持って来ることはなかったですか?
靴下一組をもらって履いた。

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娘も若者も連れて行かれ、大変だった

〈北海道炭礦汽船(株)空知鉱業所神威炭鉱〉

このままだと引っ張られるから、すすんで行こうと

尹秉烈さん、日本へ行って来た昔の話ですが、これからお伺いいたします。おじ
いさんのように、資料を沢山持っている方は多くありません。
私みたいに資料を持っている人は多分いない。洪城郡へ行って申請する時も、郡
職員が「これは何ものですか」と言った(笑)。

そうでしょう(笑)。いまお歳は幾つですか?
満86歳。甲子生れ。

甲子生れで、日本の軍隊は行かなかったのですか?
その当時、日本の軍隊に行かせようとしたが、私はひどく抵抗し、軍隊に行かな
かった。

・1925.2.20 忠清道洪城郡 出生
・1942.2.27 北海道炭礦汽船(株)空知鉱業所神威炭鉱へ動員
・1944.4.25 日本現地で徴用告知書の発給を受ける
・1945.10  本籍地へ帰還

尹秉烈(ユン・ビョンニョル)

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て、お金を集めたが、その時は2300円。

会社がくれたお金が?
そう。もらった金が2300円、その時のお金。2000円なら凄いだろう。そして持っ
て来たが、日本銀行券だから、替えることができなくてそのまま持っていたが、
こっちに帰って兄弟に渡して換金した。兄さんがどうにかしてその4割を受取っ
た、4割を。

半分にもならないですね。
半分にもならない。6割は日本のヤツらに取られたことになる。日本のヤツらが
換えて渡さなきゃいけないのに。

おじいさんが日本へ行ったのは、どうやって行くようになったのですか?
行く時は、しょっちゅう日本のヤツらが、娘も連れて行き、若者も連れて行っ
て、大変だった。このままでは引っ張られて行くから、私らは進んでいこうと・
・。それでここから5、6人が、募集する所へ行って、車に乗せられた。

募集で?
うん、募集で。

この村からも5、6人一緒に行ったのですか?
ここで私ともう一人。その人はもう死んだ。徳井(洪城郡金馬面徳井里)から二
人、知っている人は4人行った。

名前を憶えていますか?一緒に行った4人の?
ここから行った人は、私の一家の尹〇フン。それから徳井里から行った二人は金
〇ソン。そしてもう一人は金〇シク。その人は北海道で死んだ、板から落ちて。

日本へ徴用されたのは、何歳でしたか?
それは、18歳。

日本へ行く前は何をしていましたか?
その時18歳で、家で農業をしていた。

学校へ行きましたか?
アイゴ、学校もまともに行けなかった。ここに夜学があった。その時、先生たち
が団体で教えようとしていた。

夜学校でどんなことを教わりました?
日本語、倭政(日帝)時代だから、倭政の本を学んだ。日本語の本があって、そ
れを教わった。

夜学校は何歳まで行きましたか?
アイゴ、その時の夜学は、食べるのがやっとだったから…金馬学校、初等学校へ
行けなかったから、夕方に行って、ある時は昼にも行った。15~6歳の時に行っ
た。その時は年齢に制限がなかった。

それでは、その夜学へ行ってどれくらいで日本へ行くことになりましたか?
私が18歳で行った。

おじいさんの兄弟は何人でした?
兄弟が3人だ。

3人兄弟の中で徴用に行った方は?
私一人。その時、私が日本へ行ってお金をひと月に、多分10円だったか、幾らか
を送った。10円、13円、15円、毎月送った領収書があるが、どこに置いたか、
探すのが大変だ。お金を家に送った。そして後で戻って来る時、8.15解放になっ

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そしてどこへ行きましたか?
そして、また汽車に乗った、一日中。夜にも降りることもできず、汽車の中で寝
た。苦労して行き、日本の本州のどこか、そこでまた降りて、そこから北海道に
渡った。その海は何と言ったか、そこに行った。

青森ですか?
そう、青森。そこからまた4時間で渡った。船に乗って。釜山から日本まで8時間
をかけ、そこから4時間で渡った。そこもとても大きな海だ。そこから北海道へ行
くと雪がドサッと積もっていたが、そこでまた日本のヤツらが引き継いで、そう
して鳩ヶ岡へ行って泊まった。

仕事に出る時は、背中に魂をのせて入ると言っていた

鳩ヶ岡はおじいさんが暮らした寮の名前ですか?
それは会社の名前だ〔会社の寮があった地名〕。

会社の名前?
うん。そしてこの「よしおか」という飯場の主人(寮長)。韓国人を連れてきてそ
の仕事をさせた。全てが並びの家を建てて、そこで寝て、畳部屋で暖炉を焚い
て…。アイゴ、苦労と言ったら到底言葉では尽くせない、言えない。

おじいさんが働いた炭鉱の名前が、鳩ヶ岡なのですね?
そうだ、鳩ヶ岡。(口述者は、宿舎の住所地である鳩ヶ丘の協和寮を作業場名と
して記憶。)

神威炭鉱は聞いたことがありますか?
その名前だけは聞いた。どこにあるのかは知らない。

この4名と一緒に北海道へ行ったのですね?
一緒にいた。うん。それでここから行った一族の尹〇フンは、耐えられなくなっ
て逃げて捕まって、「タコ部屋」と言うのがあって、そこへ入れられたが、苦労
が・・・アイゴ、口では言えない。帰る時には、私らより先に帰ったのか、後に
帰ったのか。私らは会社が帰してくれたが、その人は一人で帰ったのだろう、多分。

ここで募集された人は、次にどこへ行きました?(洪城)郡庁へ行ったのです
か?
ここに集まれという時は、面で、金馬面(洪城郡金馬面)。その当時、駐在所1)  が
あった。そこで写真撮って、洪城へ行った。そこに募集案内人が来ていたから、
そこで車に乗せられて向かった。

駐在所で写真を撮ったのですか?
ああ、名簿を作ると。

証明写真のように一人ずつ取ったのですか?
そうだ、名簿に。それで、当時行った人たちに(委員会に被害者申告を)しろと
言ったが、名簿がないからと言ってしなかった。

洪城郡に集まった時、その募集者は日本人でしたか?
いまベトナム人と韓国人が結婚することがあるだろう。相談してから結婚する
が、そこに案内人がいるように、ここから洪城郡から釜山まで連れて行って、船
に引継ぎの日本のヤツらがいる、案内人。

釜山で船に乗った時、集まった人は何名ほどでしたか?
行くのは、ここから何十人が行ったが、人数はわからない。

 1) 日帝強占期の警察の末端機関

、巡査の事務所。解放以降、支署に改組。

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は地下へ降りて行った。入って行くと、天井が落ちて死ぬ人、ガスが破裂して死
ぬ人・・・、だから、入る時は覚悟して入った。死ぬかも知れないと。だから、朝飯
を食べ、弁当を持って入ったが、死ぬか生きるかという気持ちだった。

毎日そんな気持ちで働いたのですね?
そうだ。そんな気持ちで入った。毎日…。そうしているうちに2年が過ぎたが、
また2年間延長すると言われた。2年契約で行ったのに。

延期する時は、強制的に「お前、もっと残れ」と言われましたか?それとも「も
っと残るか?」と尋ねられましたか?
強制的だった。ヤツ等がまた募集すると金がかかるから。いつでも人を募集し、
石炭を掘りださせる。だから強制的にここに残れと。企業と政府間で話して、そ
うするようになっていたんだ。

食事代もその人たちがみんな取って行く

最初に行った時、京畿道、全羅道の人、同じ部屋を使った人たちはおじいさんよ
り先に来ていましたか?
いや。みなその頃に一緒に行った人たちだ。全羅道とか、どことか、その頃、み
なが行った。

その時、一緒に行った人たちをその部屋に配置したのですね?
そうだ。お前はどこ、私はどこと、こうやって分けた。

おじいさんより先に来ていた人もいたのでしょう?
ずっといた人は送り出して。(その人たちは)長くいたから送り出して、また入
れていく、混雑していた。

では鳩ヶ岡の宿舎には何人いましたか?
何人も、沢山いた。そんな「飯場」が、24ヶ所くらいあった。病院のように、何
号室となっていて、一部屋に12、13人が。

12~13人ずつ寝る部屋が、一つの建物に何部屋ありましたか?
ひとつの建物に24の号室。建物のひと部屋に15人、12人、13人と入った。

そんな24部屋がある「飯場」が、沢山あったのですか?
ずっと坂道を登って行ったら、アパートみたいに(並んでいた)…。

同じ部屋にいた12名は、みな洪城の人たちでしたか?
いや。慶尚道、全羅道、京畿道、済州島、忠清北道・忠清南道などの人たちがいた。

洪城郡庁に集まって、一緒に行った人たちはどこへ行きましたか?
彼らも分散して、いま話した人(上の4人)と一緒にいた。

その4名と同じ部屋だったのですか?
そう、隣の部屋にも、同じ部屋にもいた。

洪城から一緒に行った人たちは、みんな鳩ヶ岡にいたのですね?
そこにいた。

そこに行ってどんな仕事をしましたか?
アイゴ、雪が凄く積もっていたし、怖かった。着いた途端にいきなり、坑内に入
れと・・・。「ズボン」、それを貰って坑内に入ったよ。

坑内に入ったのですか?
うん。入って行って、夕方に死んで出てくるのか、生きて出てくるのかと、それ
ばかり考えた。坑内に何メートル、何十メートル入ったのか、分からない。私ら

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をしょっちゅう送って来た。行きたい人は行け、稼げると。ここは生活が苦しい
から、そこへ行けば一日に3円、毎日3円と。

その広告の通りに、お金をもらいましたか?
うん。3円ずつ。3円20銭、3円30銭。ちゃんと働けば、休まないでひと月働け
ば、130円。その当時のお金で100円なら大きいだろう。

130円は、全部もらいましたか?
いや、くれなかった。いくらかはくれる。あれだ、これだと差し引いて80円か90
円をくれる。彼らは貯金するとかうまいやり口で、食費もそこから差し引くんだ。

では、服はくれましたか?
服はくれたが、そのお金は取る。坑内で着る服をくれるが、お金はみんな差し引
く、月給から…。そのままくれると思うか?ヤツらが。

●〔写真1〕解放後に同僚と撮った写真(尹秉烈 寄贈)
左端に立っているのが尹秉烈。解放後に会社が配った服を着て飯場の同僚と記念撮影。

後から来た人もいたのですか?
うん、続いて入って来た。

続いて来た人も、あちこちから来た人たちですか?
そうだ、各地から。韓国から続いて入って来た。

鳩ヶ岡は大きな炭鉱ですか?
大きい。大きな炭鉱だ。

同じ部屋の人の中で、坑外で仕事した人はいましたか?
それは分からない。そこはとても大きな炭鉱だから。

おじいさんは、初めから坑内で仕事したと言いましたね?
「仕事する」と、自ら言ったわけではない。強制され、行けと突き出されたから
行ったんだ。ヤツらに言われて。

では坑の外で働く人は、自ら進んで行った人ですか?
その人たちは、日本のヤツらに選り分けられ、月給を少しやり、坑外で仕事をさ
せた。

身体が弱いような人?
うん。

健康かどうか、どうやって判断しますか?
それは、健康だから北海道へ送り込んだ。ここの駐在所が行けるか否か、(選別
して)送り込んだ。

初めから北海道へ行くと知っていましたか?
そうだ。ここで広告紙に出ていたから。広告紙も出し、支所でも、面でも広告紙

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宿舎で着る服は、韓国から持って行ったものですか?
それは、韓国から「ズボン」というものを沢山持ってきた人がかなりいた。だが
私は、それほど持って行かなかった。それが私服で、各自家から送ってくれるも
のを着る。働きに入る時は、仕事着を着て。出てきたら私服で、家から持って行
ったものだ。小包で送って来たこともある。

その私服を着て、町に出たんですか?
それを着て出歩いた。市内がそこから4㎞だった。鳩ヶ岡という所、会社の宿舎
から3㎞か4㎞だったか。その下へ下って行った。

町の名前は?
良く覚えていない。

韓国人に「先山」はほとんどいない、日本のヤツだけがする

解放されるまで坑内だけで働きましたか?
行ったり来たりと、毎日そこだけで、働いた。

日本にいた期間はどれくらいですか?
4年を超えた。2年間延期したから。

おじいさんと一緒に行った人も、2年間延期になりましたか?
そうだ。〔すでに〕その人たちは死んだ。

一日に何時間ほど働きましたか?
見当がつかん。7時頃に仕事に出たら、安全灯を付けて坑内に入って、早めに出
てくることもあるし、遅く出てくる時もある。(指を伸ばして五本の指が坑内だ
と考えて)こうなっているから、ここから入って行けば坑内がこうなって(坑内
が何筋にも分かれていて)。こうなっているから、この坑内に行く人、別の坑内

(写真1を見て)この写真の帽子や軍服のようなものは、いつ受取ったのですか?
それは、解放後に一着ずつくれた。解放されて、もらった服を着て、一緒に取ろ
うと言って撮った写真だ。

その前には貰えなかったのですか?
その前にはそんな、ヤツらはくれなかった。そんなものくれない~、帽子を被っ
ているのが他にもある。ここに(額を指しながら)電灯を付けたもの。

安全燈を付けた帽子?
うん。それは坑内の仕事に行くもの。それは仕事着だとくれた。ここに(写真)
いるのは、言わば紳士服。「戦闘帽」とその服は、韓国へ帰る時、彼らが一着ず
つ分けてくれた。それで、それを着てこの写真を撮った。

一生懸命働いたから作業服をくれたのですね。「新しいのをくれ」と言ったらく
れるのですか?
作業服がなくなったら、買わなきゃいけない。

その買うというのは、おじいさんがお金を直接出して買ったものですか?
うん。金があれば金で買い、金がなければ月給から差し引かれる。そのままくれ
るものか、ヤツらが…。

作業服はどんな色ですか?
作業服は黄色かった。行って来たら炭が真っ黒に付く。

服の洗濯はどうしました?
そのまま仕事から帰って来て、脱いで、宿舎で(普段着に)着替える。そして次
の日に仕事に出る時にまた着て、それを繰り返す。(仕事に)出て、脱いで、宿
舎で着替えて、風呂に入ってと、毎日…。

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おじいさんは4年間、ずっと「後山」をしていたのですか?
そうだ。「後山」。

そこで働いて、後で「先山」もしなかったのですか?
日本のヤツらは、余程でないと韓国人を先山にさせない。危険だから。また、疑
っていたから。

坑内が崩れることがあるからですか?
崩れることよりも、日本人が韓国人を疑って、「ピック」をもって歯向かって来
たらと警戒するんだ。だから自分らだけ、日本人だけがピックを持つ。韓国人を
「先山」にすることはない。韓国人の仕事と言えば。岩盤の坑を掘って進むこ
と。ここに炭脈があって、こっちにも炭脈があれば、線路を敷く坑を開けなきゃ
いけない。それは韓国人がする。こう、三角形の物を回して岩に穴を開ける。

それは爆薬を破裂させることではないですか?
うん。爆破して崩し、坑内にレールを敷き、台車が通れるようにと、坑を開ける
のは韓国人がする。

その発破を仕掛けるのは?
それは日本のヤツ。

岩盤掘りは韓国人がして?
そうだ。石粉が人の体に入ると、刺さり込んで落ちない。そのため、その仕事を
する人は病気になる。だから「タコ部屋」があるだろう。逃げた人を捕まえてそ
れをさせる、その酷い仕事を。そこでは時間も何もない。そこでは一日中、重い
物を持って担がせ、石粉でぼやけて、ひどいときには人も見えない。それを韓国
人にさせた。

に行く人、こちらに行く人、この下に下って行って、またここで配置されて、早
く掘れば早く出て来て、そして何号坑、何号坑と、こうして入って行って、それ
ぞれ配置された坑内があるから、早くやって出て来る者、遅く出てくる者と。

量が多かったり、仕事が進まなかったら、夜遅くまで働きますか?
それは日本のヤツであれ、朝鮮人であれ、「ピック(採炭機具)」がある。圧縮
空気で、先の尖っていて、それを当てて、重さはコメ一斗ほどになる。こいつを
カッと押し当てて押したら、ピッピッピッと音が鳴って崩れるんだ。そして上下
と掘り、天井を掘る。そこに支柱を建てて行く。そしたら、高さ何メートル、一
日に何メートルか掘る、これが近道だ。そしたらそれを素早く掘れば早く出てき
て、ノロノロゆっくり掘れば遅く出てくる。

割当量はどう決めますか?
坑内の仕事は、メートルで計る。監督が決める。お前何メートル掘れ、こう決め
る。素早く掘れば早く出て、ゆっくり掘れば遅く出る。

メートル数は、後になるほど段々増えて行かなかったですか?
増えない筈がない。日本のヤツらが戦争真っ盛りだから、しばしば割当の数量を
上げる。もっと働けとしばしば増やす。そうされるとさらに疲れて、さらに大変
になる。

おじいさんは早く掘る方でしたか?
私らは「ピック」はしなかった。よほど力がないとできなかった。仕事ができて
筋肉が強いヤツ。日本人がそれをする。それを「先山」という。

「先山」は日本人だけがするのですか?
うん。そこで私らは「後山(先山が掘った石炭などを運搬する人)」だ。それは
炭を掘ったら掻き出す。

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10万円になるが、私の金が5万円を超え、全てを巻き上げた。みんなは金がない
から、家から持って来た「ズボン」、「上着」、服、ゴム靴、これらを全て持っ
て来た。それを私がサッとかき集めて、もう止めようと言った。そして、服とか
靴とか全てを持ち、皆を押しのけ、自分の部屋に積み上げて、「金を出したら、
返す」と言った。それで何日か経ったが、金なんて皆あるものか。それで、みん
なに来いと言って、その夕方に呼び、それらを全て返した。全て返してから言っ
た。「お前ら、金を稼ごうと父母、妻子を置いてきた。朝鮮からここに海を越え
て来た。花札をすることで、金が稼げるというのか。私は嫌だ。だから、お前ら
全て、持って行け。持っていったら、もう(花札は)止めよう」と。だから、私
はしない、今も(笑)。

その花札は誰のものですか?監督がくれたんですか?
アイゴ、あいつら監督に「取締」と言うのがいる。そいつらが巡察するんだ。そ
いつにバレたら全て取られる、金も奪う。だから見張りを立てて、取締が来た時
には、していないふりをする。

その花札は誰が持ってきたのです?
買うんだ。町がここのようにあるから。買って持っている。その漢陽の友達が、
様子をうかがってやるんだ。その「取締」が見つければ、取りあげる、全部。

その「取締」は日本人ですか?
韓国人、「取締」は韓国人だ。

その「取締」はどうしました。
生意気なヤツもいる。良いヤツもいるが。生意気なヤツがいれば、殴られる。忠
清北道の人だが、とても生意気で、嫌がらせする。

「取締」はどんなことをしますか?
その「取締」は、朝飯をとってから、人夫を仕事場に連れて行く。引率者だ。そ

おじいさんがいた炭鉱にも「タコ部屋」がありましたか?
あった。逃げた人を捕まえて入れる。「タコ部屋」に。私と漢陽(ソウル)へ行
った人、尹〇フンと言う人が、じっとしていれば良いのに、逃亡して捕まって来
た。そのためタコ部屋へ放り込まれて働かされた。その白い石(鉱石)の坑へ。ア
イグ、本当にどうしようもない所だ。私らは「3交替」だが、そこは「2交替」
だ。夕方に行き、朝に行くという、「2交替」。だから余計に働く。

タコ部屋の人は2交替で、おじいさんは3交替ですか?
うん。朝に出て午後2時か3時までする。2交替はその後仕事に入る。3交替はそ
の後、夕方とか明方に仕事に入る。

この交替はどれほどに、1回ずつ代わりますか?
ここのように、何日間は1交替め、何日かは2交替め、何日かは3交替めとなる
が、それが1週間ごとか?いや違う。10日ごとだった。

出退勤のチェックは誰がしますか?
働きに出ると票がある。木製の小さなもので、何番の誰々と名前が書いてある。
それ持って行って、ヨシオカがいる事務室に座っている人がいる。坑夫番号と名
前が刻んである票、その板切れを、それを仕事に入る時に突っ込んで、仕事から
出る時に取り出す。

では、仕事に出て、休息時間は?
休みはひと月に3回あった。休みの日は、酒の配給があれば、それを飲んで遊び、
花札もした。その日は友達が来て花札をするが、私がその時600円だったか、持っ
ていたが、それを知って、それを貸してくれと。それで貸してやった。だから貸
してやったが、無くなったと言う。無くなったからまた貸してくれと言う。それ
でまた貸してやる。全部貸して、私に残った金はなかった。それで私が考えて、
「私もする」と、挑戦して花札をした。そして3回、倍になった。倍になって、お
金を100円出せば、300円、400円と入ってくる。そこで、賭金を全て合わせると

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ガスが破裂して一人死んで、天井が崩れて一人死んだ

おじいさんが働いていた所で事故が沢山起きたと言いましたが?
アイグ、たくさん起きた。だから朝に入って行くと考えるんだ。そして、夕方に
出てきたら、人が死んでいる。

同じ部屋で死んだ人はいましたか?
いるとも。慶尚道だったか、全羅道だったか、一人。金某だが、下の名前は忘れた。同
じ部屋だったが、死んで火葬場に行って私らが焼いて、その骨を箱に入れてやった。
それをおじいさんがしたのですか?
私らがしてやった。日本では人が死ねば、寺の僧侶がその人を会館において、御
経をあげる。そして火葬場へ行って焼く。そこで完全に燃やして、私らが同房だ
から骨を拾いに行った。足の指など散らばっている骨を隅に集めて箱に入れ、封
をして白い布に包んだ…。

同じ部屋の同僚が死ねば、その部屋の同僚が火葬してあげるんですね?
そうだとも。しなけりゃいけないだろう。 今は一人焼くのに3時間とか2時間で
焼けると言うが、火葬場には焼く人がいるから朝に運べば、私らは焼くのに7時間
かかった。そうして骨を拾いに、私ら同僚が行った。

おじいさんの部屋にいた12名中、何人が亡くなりましたか?
二人。

どんな風に亡くなりましたか?
ガスが破裂して死んで、天井が崩れて一人死んで…。(坑内を)掘り進んで、天
板が壊れて、下敷きになって死んだ。

ケガした人はいませんでしたか?
いないはずがない。ケガした人はいる。どこかで腕をケガし、どこかをケガし、

して何かないかと調べて、事務室に報告するんだ。アイゴ、「取締」はみな同じ
韓国人だが、分別がなかった。大目に見るのでなく、ギャアギャアと騒ぎたて
る。

では「取締」は引率だけするのですか?その人たちも坑内に入って働くのです
か?
入らない。入らない。

「取締」は韓国人なのに、どうやって「取締」になるのですか?
その人たちは、「ヨシオカ」のヤツが気に入った者。私らの中から選ぶ。

一緒にいる人の中で、ヨシオカの気に入った人ですか?
長くいる人で信用したら使う。足りなくなったら、引き抜いて使う。また韓国人
の中には、食堂で支度する人もいる。韓国人。そこに入って、飯を腹いっぱい食
べ、働く。その人たちは仕事のできない人、そんな人を食堂で働かせる。飯を大
きな窯で、石炭で焚いて、シャベルでかき回して飯を作り、飯をお櫃に盛る。戦
争が激しくなってきたら、貝殻だ、海の貝、貝殻で飯を掻いて盛るんだ。生きて
いけるか?空腹で。

その食堂には女性はいましたか?
男たちがする。女性たちはいても、日本人だ。

日本の女性は村の住民が来て働くのですか?
女性たちは普通40代だった。日本人を連れてきて、月給で働いていた。

若い人はいませんでしたか?
いなかった。

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されたからもう朝鮮へ帰る。良かった。そ
うして韓国人の中でその次の日から仕事に
出ない人もいて、行く人もいて。鐘を鳴ら
して走り回って、日本のヤツらを小突い
て、監督を懲らしめた。

「ヨシオカ」飯場主人(寮長)も懲らしめた
のですか?
懲らしめた。もちろん。食事に悪さして、
とても少ない飯を出して、私らから利益を
たくさん取っていたから。ご飯といって
も、炊飯器を振っても豆だらけだ。豆カス
を入れて、本当にへんなものを食わせた。
食べたものに後から文句を付けた。何年も
ひねた豆カスを飯に出されて、食べられる
ものか?

「取締」も懲らしめましたか?
うん、懲らしめた。追いかけ回して懲らし
めた。日本の監督、酷く生意気なヤツ、こ
いつは家にいられずに、逃げた。朝鮮人が
押しかけてヤツらを半殺しにするというか
ら。その時、「ヨシオカ」も抑えられなか
った。

B29が来たのは何時からでしたか?
その時、昭和19年だったか、20年か。アイ
ゴ、大変だった。飯場の上を飛び回って、
外に出られなかった。

◎ 解放後に受け取った精算書

    (尹秉烈寄贈)

ずっとケガ人がでたが、幸い私は〔ひどいケガに〕ならなかった。私はその時、
ここをケガしたんだ。石炭が刺さって真っ黒に。ここに傷跡があるがどうやって
ケガしたのかは忘れた。

炭鉱の近所に病院は有りましたか?
ある。市内に。

炭鉱の近くでなく、市内にあった?
いいや。炭鉱から下りて行き、その市内にあった。病院が。

市内にある病院の名前を覚えていますか?
いいや、覚えていない。

休みが10日に一度ですが、外出もしましたか?
外出させる日があった。日本人が年に1、2度、遊ばせてくれる。どこへ行くか
と言えば、北海道で一番の札幌。

札幌へ行って何をするんですか?
そこは都市だが、映画を見たりして一日遊んで来る。

私らが乗った汽車に、ある人は稲も刈らないで祈った、元気で行けと

休みは許可なしに行っても良いのですか?
いや。許可を受けなきゃいけない。

解放されたのは、どう分かりましたか?
当時、米国のB29というのがブンブン飛び回って大騒ぎ、その時、解放されたの
が7月末だ、陰暦で。その時、私が夜の交替に入ろうと、昼飯を食べようとした
ら、12時に昭和(天皇)が放送した。放送があり、あぁ、私らは助かった。解放

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10月までずっと、働かないでそこにいたのですか?
そうだ。仕事なんかしない。もう仕事に出ろと日本のヤツらも言えない。自分ら
が負けたから。だけど私はその後も働いた。

解放後も?
そうだ。

解放後も働いて、お金は出ましたか?
金は出た。8月15日に手を上げて、私が10月12日に来た。10月12日が陰暦だった
か陽暦だったか。陰暦だ。10月12日。

仕事に出たら、他の朝鮮人が「何で働くんだ」と言いませんでしたか?
「働くな」と散々言われた。「家に帰るのに何で仕事するんだ」と。そう言う人
がいくらもいた。生意気なヤツが沢山いたから。だが私は最後まで働いた。

韓国へ戻る時、どこで船に乗りましたか?
船に乗って渡ったが、そこが青森だったかな?渡って来るのに船で4時間かかっ
た。それから汽車に乗って下関まで行った。汽車に乗ったが、汽車は韓国人だけ
乗せ、ビュンビュンと走った。その時は秋、窓から見ると、日本人が稲刈りをし
ていた。ある人が汽車に太極旗を懸けた。見ていたら、稲刈りを休んで、祈って
くれた人もいた。元気で行けと。そんな具合に下関に行き、夕食をとって船に乗
り、釜山に着いたら、明るく日が昇った。そこまで8時間かかった。

戻った時は飯場の同僚たちも一緒でしたか?
親しいヤツらとは釜山で別れた。釜山まで来たら、皆別れるだろ?「おう、また
会おう。また会おうな」と言ったが、なに会えるものか。その後は会ったことな
い。彼らが私の名前だけでも知っていたら、テレビに出れば、訪ねて来るだろう
に。

飛行機が来たらサイレンが鳴りましたか?
アイグ、サイレンが鳴るのでなく、音がするからわかる。それは、雷が落ちるよ
うな音だ、爆弾を落とすのでなく。8月15日の昼12時頃に天皇陛下が泣いて放送し
た。

その放送は、どこで聞きました?
ここみたいに、放送すれば、家ごとにそれが聞けるようになっていた。

飯場ごとに、スピーカーのようなものがあったのですか?
それがあった。そうだ。その時、天皇陛下が泣き声で放送した。手を上げると
~。「国民がいて国になる。国民が死ねば国がどうなる・・・」と言った、天皇
陛下が。だから事務所でも仕事を全てほったらかして、こういうふうにして(うつ
伏せのしぐさをして)、泣いて、座り込んでいた。私は見た、事務所で。

あ~、日本人が?
日本の女たちには、「ああ、なんで抵抗せずに降伏したの」と非難する人も。そ
れは、自分の夫が軍隊へ行って死んだから。死んだ人はそう言った。他の人は、
国が手をあげたから、何にもやることないわ・・、国が敗けたから。そして皆、
座ってうつ伏していた。私はそんな声を確かに聞いた。

解放されて朝鮮人はどうしたのです?
朝鮮人はそれを聞いて踊り回った。助かったと。どれほど踊り回ったか。歌いな
がら、手をつないでグルグル回って、慶尚道の人はそうした。4、5人が手を掴
んでグルグル回って歌を歌って。歌って、どれほど満足したか。そして坑内には
もう入らなかった。

解放されてからどれ程で韓国へ戻りましたか?
8月に解放されて、10月に韓国へ戻った。

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この便箋なども買ったのですか?
アイグ、全て買ったよ。用紙とか。売る所があった。

売店ですか?
うん、あった。そこでパンを買って食べたことがある。餅も買って食べた。みん
な買って…。

手紙はどう送るのですか?
書いて、封筒に入れて持って行く。

郵便箱があったのですね?
うん。

おじいさんが韓国に戻った時、健康はどうでしたか?
うん、大丈夫だった。釜山で朝日が昇り、飯を食べて汽車に乗って、ここまで来
た。ここ天安(忠清南道)に着いたら、夕方だった。

家に戻ることを家族は知っていましたか?
アイグ、その時、家へ戻ると手紙を書いた。

この手紙はお母さんが残していたのですか?
それは、私が日本にいた時に受けたものもあるし、家が受け取ったものもある。

一通も無くさないで残したのですね。
まだあるはずだ。大体は私が持っていたものだ。

手紙を書く時間があったのですか?
仕事から戻った夕方、時間がある時に書いた。気掛かりなことがあれば、家に手
紙を書いた。

◎ 尹秉烈が母親に送った手紙                                               ◎ 韓国から届いた手紙の封筒

◎ 家族と交わした手紙(尹秉烈寄贈)

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思い出でこれを見るという気持ちでこれを持って来たんだろう

おじいさん、アルバムを見せて下さい。この写真はいつ撮りました?
うん。この写真(写真2)、私が行って初めて撮った写真だ。私は訳が分からな
いで、(日本人が言うような)「気を付け」の姿勢をしてしまった。

気を付けの姿勢?(笑)北海道へ着いた途
端、どうして写真を撮ったのです?
行って、写真を撮って置こうかと思って。

おじいさんの記念として?
うん。

こんな写真はどこで撮ります?
鳩ヶ岡に写真館があった。

当時、写真一枚撮るのにいくらでしたか?
これはその時、3枚くれたか?それで多
分、何十円かした。
 (写真3を見ながら)この写真は京畿道
の人。私とこれ、帽子と洋服を着ているだ
ろ。これを帰る時に着て行けとソウル(の
人に)くれてやった。良いだろう。私がず
っと着ていたんだ。洋服一着を親しいヤツ
にやった。

この帽子と服も解放後に揃えたものです
か?
そうだ。この人と私と撮ったが、この人は

◎ 〔写真3〕解放後に飯場で一番親しい同僚と

写した写真 (尹秉烈寄贈)

帽子を被って立っている人が尹秉烈。右側の人
物は当時親しくしていた同僚だが、現在、名前
は忘れて、京畿道出身ということだけ覚えてい
る。探したくても探せないと残念がった。

手紙の内容を検閲などしませんでしたか?
それはあった。それはこの寮長、ヨシオカ寮長だ。いわば飯場の主人だ。この人
が怪しい人の手紙を、人に盗み見させる。

ヨシオカ寮長は韓国語できますか?
うん、彼も韓国語は大体できる。韓国人を使うから。

でも韓国語は読めないでしょう?
できないさ。だから取締にさせる。盗み見て、駄目なヤツは叱り飛ばして、だか
ら駄目な手紙は書けない。安否だけ書くんだ。寮長は私を信頼していたから、箱
に入れたら、そのまま持って行く。

お金も家へ送ると言いましたが、それも郵便箱に入れるのですか?

いいや、違う、お金は、持って行かなき
ゃいけない。毎日持って行って、お金を
送った。

B29が飛び回ったと言いましたが、空
襲もありましたか?
私らの所はなかった。それで、戦争に負
けたと昭和(天皇)が放送したから、日
本の女たちが座り込んで泣いた。「何で
泣いたのか」と尋ねると、夫が軍隊へ行
って死んだ人もいたからと…。

◎【写真2】神威炭鉱へ動員された直後の写真

   (尹秉烈寄贈)

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おじいさんと親しかったのですか?
うん。嫌なヤツでも私と親しく、遊びに行ったら、写真をくれた。

こんな人の家は別にあったのですか?
個人の家があった。

結婚した人でしたか?
うん、そうだ。自宅だ。

解放されてこの人だけが逃げたのです
か?家族も一緒に?
アイグ、みんな逃げた。この人だけでな
い。当時、日本人で意地悪いヤツはみん
な逃げた。そこに残ったら殴られて死ぬ
だろう?捕まえようと何千人が立上って
大騒ぎなのに、どうやって生き延びられ
る。

その監督はおじいさんにどうしたのです
か?
仕事ではそっと庇うものだが、こいつは
細かいことに意地悪で、ちょっと立って
いると、立っていると意地悪する、何か
と嫌がらせして、酷かった。

酷く殴ったりしませんでしたか?
殴りもした。殴らないとでも思うか?

◎〔写真5〕寮長ヨシオカ (尹秉烈寄贈)

本当に私と親しかった。だが、この人
の名前が分からなくて、京畿道出身は
分かっているが、いま探したいが、探
せない。

当時は創氏改名をしたでしょう?
そうだ。全て、日本の名前だ。

日本名も思い出せませんか?
分からない。京畿道に住んでいること
だけだ。名前を憶えていたんだが、今
は随分経ったから…。

おじいさんはどう呼ばれました?
茂松秉烈(しげまつ・へいれつ)。

京畿道の人の年齢は?同じ年でしたか?
この人は、私より年上だった。私は当

時、18歳で行った。

おじいさんより先に来ていた人はいましたか?それとも後に来ましたか?
いいや。私とソウルへ行った人。これ(写真4)は日本人。ここの監督だった
が、分別がなかった。それで、もう解放されたから、こいつはどこかへ逃げて行
った。解放されたから朝鮮人が立上って、こいつらをみんな、やんやと呼びつけ
て、殺すと騒いだから、日本人はいられなかった。酷いことをしたヤツは…。

この写真はその監督から貰ったのですか?
最初に彼の家に遊びに行った時に。

◎〔写真4〕日本人監督(尹秉烈寄贈)

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ヨシオカの性格はどうでした?飯場の人に良くする方でしたか?
沢山の人を率いるから、ちょっと偉そうにしていた。性格が良かったらできない
(仕事だ)。

どんなふうに怒りますか?
アイグ、わぁわぁ騒ぐ。声も大きくなる。間違えると詰問して、騒ぐ。何千人も
の上に立つから、そうするしかないんだろう。

ヨシオカもおじいさんとは親しかったのですか?
この人に写真を一枚くれと言った。朝鮮に帰って見るからくれと言ったら一枚く
れた。この写真をもらった人はいないだろう。

そうですか。日本人の写真でなく、飯場の同僚の写真をたくさん持っています
ね。こんなに写真を持っているのは、一緒に行った人たちを忘れないで、記憶に
残したいからでしょう?
そうだ。なぜそうしたかと言うと、思い出だ。これを見て、思い出にしようと持
って来たんだ。

だけどおじいさんは良く働いたし、親しかったのでしょう?
私には酷くしなかった。私が18歳だったが、子ども、いや赤ん坊と日本人に呼ば
れた。

おじいさんを赤ん坊と?
この人だけでない。私は小さく、幼いから。これ(写真5)、飯場の主人(寮長)。
ここで何千人も率いていた人。

この人の歳は?
当時、約50歳を越えていただろう、多分。

この人はいつもこう刀を付けていましたか?
この写真を撮ろうとして(刀を持って来た)。アイグ、毎日こんな服装ができる
ものか。この写真を撮る時だけ、こうした。普通は普段着だ。

ヨシオカ寮長の仕事は何ですか?
飯場の主人で、飯場の何千人も率いていたから、調査をしただろう。ヨシオカの
下に取締がいて、その取締に数百人を統率させ、調査させて、ヨシオカに報告す
る。

ヨシオカは朝鮮語を少しできたと言ったでしょう?
聞けた。朝鮮人を沢山働かせるから。この人がした話がある、私らに。朝鮮に行
ったら、朝鮮のおばさんたちが前掛けをし、こうして(鼻をかむ真似をして)フ
ンッと前掛けで拭いたが、その食べ物が旨かったと。

鼻をかんだ手で、美味しかったと?
うん。そう言っても、どこでそうするんだ。どこでも紙で綺麗にするだろう。鼻
をかんで前掛けで拭くなんて、するものか?だけど、飯は美味かったと時々言っ
ていた。

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北海道へ行った時、広告を見た
と言いましたが、その広告もこ
んなふう(冊子2)でしたか?
多分、こんなふうだ。はっきり
とは覚えてないが。こんなふう
だった。

(冊子3)こんなに人がたくさ
ん集まったのは、何の時でした
か?
毎日ではなく、何かの記念式が

あるとか、日本人の記念日とか
あった時に集まって、講演しな
がらこうして撮ったものだ。

(冊子4)食堂はこうなってい
たのですね?
うん。朝飯の時に、私らを撮っ
てくれたものだ。

◎ 冊子3(勇敢な入砿前の徴発壮士)
徴用された労務者たちの入坑前の写真。彼らを勇敢だと表現した。 

◎冊子4〈温かく美味しい食事をとる単身者 合宿者〉
炭鉱には単身者宿舎と家族同伴者の宿舎の区別があった。単身者たちは宿舎で団体生活をする。この写真は単身者
宿舎の食事風景で、温かく美味しい食事が提供されていると宣伝している。 

これは(冊子)、いつ受取りま
したか?
これは日本にいる時。日本にい
る時に受取った。

行ってから、いつ受取りました
か?
分からない。働き始めてから受
け取った。休みの日に会館に集
まれと言われて、座っている時
に受取った。

そこに行った人はみんな受取っ
たのですか?

そ う だ 。 こ の 写 真 に 仲 間 が 全
て 、 す ご く 多 い だ ろ う ? 全 羅
道、済州島、慶尚道の仲間だ。
みな、一緒に行った。(冊子2の
写真を見ながら)これが「ピッ
ク」だ。それをこう押し付けた
ら、空気が入ってプップップッ
プッと。
  

あ~、では前の人が先山で、後
ろの人が後山?
アイゴ、今日、この写真が出て
くるなんて思いもしなかった。

◎ 冊子2(家郷に贈る。家郷の皆さん 大東亜戦下私たちが
掘っている石炭で軍艦と飛行機と爆弾と弾丸ができることを
思う時、日本が勝つか負けるかはみな私たちの責任と自覚ま
しょう。明朗な炭鉱、暮らしやすい炭鉱!ここで私は日本人
として当然責任を果たします。すべて勝つためです。私が住
んでいる炭鉱の姿をよく見てください)

◎ 冊子1〈北海道炭礦汽船株式会社空知鉱業所‐暮らし良
い北海道の炭鉱〉(尹秉烈寄贈)
北海道炭礦汽船(株)空知鉱業所の広報用冊子。2) 

2) この資料集は強制動員された労務者たちの故郷である朝鮮に送るために作られたものとみられ

る。つまり故郷で心配している家族を安心させるために作った炭鉱の広報用資料といえる。私

が掘っている石炭は、戦争に使われる重要な物資なので、戦争の勝利のために日本人として責

任を果たすと言う内容だ。そして明朗な炭鉱、暮らしやすい炭鉱と謳う写真資料を収めてい

る。写真から炭鉱の生活は安楽で平穏に見える。労務者たちには温かくて美味しい食事が提供

され、配給所には食物が豊富であり、家族と一緒に炭鉱会館で楽しく行事を観ているとなって

いる。しかしこの資料は広告用として製作されたものであり、実際の炭鉱労務者の生活はこれ

とは随分違った。

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のを見ろと伝えるんだ。

こんな活動写真はしょっちゅう
見せましたか?
誰がしょっちゅう見せるもの
か。たまに、見ろと言う。

これもお金を払って見るのです
か?
いいや。

おじいさんは、こんな活動写真

を何回見ましたか?
何回も見なかった。年に1回、観ることもあるし、観られないこともあった。

これを観る時は、休みの人だけ観に行くのですか?それともみんな全員で行くの
ですか?
行きたい人だけ行く。自由だ。だが、行かない人はいない。休みの日にするか
ら、飯場にいる人はみんな行く。たまに抜ける人もいる。

その活動写真の内容はどんなものです?
戦争のために私らが成し遂げたこと、国が成し遂げたことを見せる。

冊子におじいさんの写真はないですが、生活はどうしたのですか?
鳩ヶ岡の会社のなかでこう暮らした。私だけでなく、行った人にこんな冊子を一
冊ずつくれた。

私たちはこんな冊子を始めて見ました。中の写真は、他の先生たちが持っている
のを何回か見ました。それは、鳩ヶ岡ではなく…。

◎ 冊子7〈炭鉱会館で演芸を見る家族たち〉

( 冊 子 5 ) こ の 写 真 は 何 で す
か?
これは朝鮮人たちが暮らす所
だ。日本人が暮らす所にも行っ
た。みんなこんなふうに暮らし
ていた。

(冊子6)ここは配給所と書い
てありますね。配給所はこんな
ふうでしたか?
うん。行ってみれば、商店だ。
そこは何千人もごった返すか
ら、ごった返す前に、安いとき
に行き、品物を買うんだ。

朝鮮語で鮮魚と書いてあります
ね?
うん。朝鮮語。日本語と朝鮮語
が書いてある。朝鮮人たちに売
ろうと品物が置いてある。

おじいさん、これ(冊子7)は
何の会館で、何を観ている写真
ですか?
それは活動写真。入って観ろ
と。

活動写真などを炭鉱で見せるのですか?
うん。鳩ケ岡の朝鮮人飯場の前にこの会館があるから、そこで映写し、こんなも

◎冊子5〈楽しい一家団欒〉
家族同伴者の生活状況をみせている。家族が炭鉱で楽しく生活して

いると宣伝する写真。

◎冊子6(豊富な鮮魚、野菜の配給をする配給所)
配給所の風景。鮮魚と野菜がいっぱい積まれている状況と、配給を受

けようと列をつくっている様子。

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そこに行った時、もらった。そ
こで受け取った。

飯場の人にみんな渡したのです
か?
そうだ。これがなければ、どこ
にも行けない。逃げてもこれが
ないと捕まる。

逃げた人はこれがなかったら捕
まるのですか?
そうだ。これがないから捕ま
る。そして日本人があちこちに
立っているから、見たらすぐに
分かる。逃げた人か否か。韓国
人だからな?そしたら連絡して
捕まえて行く。

この裏面に、始業時前に必ずこ
の身分証を提出し、仕事を終え
たら稼働操業証と交換しろとあ
りますね?
私らの住民登録のように仕事を
する時に毎日身に付けていな

きゃいけない。だから仕事に出る時に身に付けて、仕事から戻る時に事務所に寄
り、それを見せ、身分証を持っていく。

少し前に木札を出したと言いましたよね?
うん。木札に番号と名前が書いてある。それ〔身分証〕は住民登録のように持っ

◎ 徴用告知書(尹秉烈 寄贈)
(記載内容)徴用告知書

従事すべき総動員業務を行う指定軍需会社又は指定軍需工場の

名称:北海道炭礦汽船株式会社空知炭礦

従事すべき職業:軍事上特に必要なる総動員物資の生産に関す

る業務

従事すべき職業:軍需事業従事者

従事すべき場所:内地

備考

昭和19年(1944年)4月25日

うん。そうだ。会社がそれぞれあるから。

だから空知鉱業所は大きな所ですよね。その会社に所属している人が持っていた
のです。
そうだろう。

おじいさん、この身分証はどこに使うのですか?
この茂松秉烈(尹秉烈の創氏名、身分証 )は持って歩いた。

いつも所持するものですか?
そうだ。こちらの住民登録のように持って歩いた。その炭鉱にいる証明だ。私と
一緒に行った人が逃げたと言っただろう?これを持っていなかったから、捕まっ
たんじゃないか。

これはいつ受取りました?

◎身分証明 表側
番号:8742

職名: 充填(採炭後に天井が崩れないように土砂で埋め

る仕事)

姓名:茂松秉烈

住所:鳩ヶ岡 第1協和寮

採用:昭和17年(1942年)2月27日

◎身分証明 裏面(尹秉烈 寄贈)
心得

• 本証は始業の際必ず繰込所に提出すべし

• 終業の際は稼働操業証と引換に受取るべし

• 本証の受渡は必ず本人自身にてなすべし

• 本証紛失の場合は直ちに事務所に至り再受付を受くべし

(手数料金15銭)

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・面談日:2009.2.19/3.18
・面談者:李宣姈
・補助面談:金美賢.金ジンスク

■ 面談後記

 委員会申告書に添付された写本を見て、尹秉烈さんのお宅を訪
ねることになった。そこは博物館を彷彿させた。舎廊から運んで
きた古い机の引き出しからは、尹さんの几帳面な性格全てを物語
るように、その当時の珍しい資料が溢れ出てきた。その資料につ
いては、大部分を記憶していて、一つずつ説明してくれた。その
説明を再度聞くために、お爺さん宅を2回も訪問した。余りにも
沢山の資料があり、この口述集に盛り切れないのが残念である。
尹さんはオンドルを焚いた部屋と美味しい地下水が良いからと、依
然として昔風の家で生活をされていた。尹さんから「この暖かい所
で、体を休めて行け」と勧められた。その声が、忘れられない。

て歩く。それを仕事前に事務所に出し、それとは別に木札を出す。仕事を終えて
帰る時に、戻してもらう。

では、仕事しないで逃げたら、木札はないですね。そうだ。だからそれを持って
逃げたら別だが、木札がなかったら〔逃げたことが〕分かるだろう。だから事務
所で職員たちが、ヨシオカの部下が、誰が出て、誰が出ていないかを全部調べ
る、逃げたら、分かる。

おじいさん、これは覚えていますか?これは徴用告知書ですね。この告知書が来たの
は昭和19年(1944年)4月です。昭和19年ならお爺さんが徴用に出て2年ですね。3)
昭和17年に行っている。

2年の契約を終えてまた2年延長したと言いましたが、その時に受取ったようですね?
だから延長するという、それだ。何を受取ったのか、はっきりと覚えていない。

おじいさん、こんなに資料を良く保管していましたね?
うん、箱を買って、そこにカギをかけて、自分の大切な所持品はそこに入れてし
まって置く。

おじいさんは本当に性格がまめですね。こんなものを一つも捨てないでしまって
置くなんて。
今も几帳面だ。

(笑)そうですね。お爺さんの家全体が博物館みたいです。
うん。ここには、いろいろある。(笑)

 3) 尹秉烈が当時の「身分証」と言った文書には、採用日が昭和17年(1942年)2月27日と記載さ

れている。(1944年  4月に北炭が軍需会社に指定された事による。) 

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戦争資材のすべてが石炭からだ

北海道炭礦汽船(株)新幌内炭砿〉

日本へ行けば、炭鉱で死ぬ人もいるし、悪い人もいっぱいいるのに

誰が行くものか

おじいさん、お歳は幾つですか?
83。

ここ、諭山の江景邑太平里で生まれたのですか?
うん。この家で生まれた。今まで4代がずっと暮らしている。

日本へ行く時は何歳でしたか?
18だったか、19だったか。

どうやって行くようになったのですか?
うん。それは少しむずかしい。言おうとしたら、長くなる。

・1926.12.4  忠清南道論山市江景邑太平里出生
・1943.11.  北海道炭礦汽船(株)新幌内炭砿へ動員
・1945.12.  本籍地へ帰還

張仁植(チャン・インシク)

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い頃、倭政時には、軍事訓練のようなことを4年受けることになっていた。それ
を受けていたから、私に統率の資格があると言って。隊長補佐として…。うちの
隊長はどうして徴用されたかと言えば、元々は光石面(忠清南道論山市光石面)
の面事務所で勤務していた人だ。そこで何か間違え、罰を受けて…。うちの隊長
はそれで来た。

ひと班は30人くらいになりますね?
そうだ~。

どこから出発しましたか?
集まって行ったが、出発の前日に各邑・面から論山郡庁に引率者が来て、引っ張
って行った。集合させて連れて行ったんだ。車に乗せて。

その引率者はどんな人ですか?
引率者はそれぞれ邑・面事務所の職員だ。面の職員がやる。

車に乗ってどこへ行ったのですか?
日本へ行くなら釜山に行かなきゃ。釜山に着いたら車から下りて、船に乗る時か
らは個人行動が一切駄目だ。釜山で降りてすぐに影島、釜山にあるだろ?そこが
防疫所。服を脱がせて、窯のような所に入れて、熱くする。熱すぎれば死ぬが、
それをするんだ。影島でそうして、船で日本へ行く。その次にどこに到着するか
と言えば、日本の下関に着いたのか、仙崎に着いたのか…。どこか良く分からな
い。ただ降りろと言われたら降りて、ついて来いと言われたら、行って…。つい
て行ったからどこに着いたのか覚えていない。そこでそのまま汽車に乗せて引っ
張って行くんだ。結局、行ったら日本の青森と言った。本州の端に青森があっ
て、そこを越え、北海道の函館、函館で連絡船に乗り、海を越えた。さらにそこ
から汽車に乗って、どこに行くのか分からないまま、無条件で引っ張られて行っ
たんだ。

当時は何の仕事をしていましたか?
倭政時は、若い頃だった。日本人は無法で、みんな日本式にしなきゃいけない。
それでその当時、韓国にも日本の飛行機の訓練所が沢山あった。一番近いのが群
山にあった。大邱にもあった。平壌にもあった。その後も新設された。敗戦の
頃、新しくできたのが大田飛行場だった。その飛行教育所に、私が当時、初めて
整備教育を受けに行った。その当時、そこへ行こうとしたら試験を受けなきゃい
けない。試験に合格して、整備士の教育を受ける。

あ~、その試験に合格しましたか?
うん。そこで飛行機整備士の教育を受けた。約3カ月受けた。そして当時、新設
された大田飛行隊に配属された。そこで勤務したが、その整備士教育がどうなっ
ているかと言えば、操縦士は別に教育があって、また整備士も成績によって飛行
機を一機ずつ担当させる。担当するが、整備しても、どうしてもうまくいかない
ことがある。下手をして事故が起きたら責任を取らされる。軍法会議にまで行
く。それであれこれ考えてみたが、私には合わない。あれこれ言い訳をして、具
合が悪いと病院に行き、(整備士を)辞めた。そして家に帰っていた。整備士を
していた時、私と特に親しかった人が事務室で勤務していた。その人が聞かれた
ようで、「今は、体は大丈夫だ」と言ったみたいだ。何ともないと。そう言った
ためか、官公庁で徴用に出せとなったようだ。

官公庁が「徴用に行け」と言ったのですか?
そうだ。令状が来る。当時は誰でも徴用に行けと言うだろう?逃げるとみて、そ
うしたんだろう。日本へ行けば、炭鉱で死ぬ人もいるし、悪い人もいっぱいいる
のに、誰が行くものか。

おじいさんと一緒に行った人は何人ですか?
一緒に行った人は当時、はっきりと覚えていないが、約100人になったか。出発す
る時、三班に分かれた。その中に隊長がいて、班長もいた。それで私は初め班長
じゃなく、班長の代わりをして、先頭に立っていた。班長じゃないのに。私が若

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訓練は、それほどではなかった。半月くらい。その訓練と言えば、一日中するの
でなく、一日に2時間する。そして各自の職歴、才能、専門に応じて選ぶ。「お前
は何をしていた?」とか、「何の職業の何をしたか?」と聞かれるから、「畑仕
事をした」と言えば、「お前は採炭。お前は運転と」。

何の運転ですか?
機械だ。いろいろあるが、その部署が1,2か所でない。相当沢山ある。電気
科、機電科、それと採炭科、運搬科、こんなふうに多い。そこへお前はどこ、お
前はどこと言うふうに指定される。

おじいさんはどこへ指定されました?
履歴書に書いた。私は飛行機整備士の仕事をしたと。そしたら機電科。機電科の
修繕工。

修繕工はどんなことをします?
機電工は文字通り、機械と電気などで動く機械があるだろう?それを修繕する
人。機械を修繕するのが修繕工だ。歳が40、50歳の日本人ばかりの所で働く。
何の機械か?ウィンウィンと鳴る機械が炭鉱の中にあった。その機械が動かなく
なったら、分解して動かさなきゃいけない。動かすにも歳が若過ぎて力が足りな
い。だが力仕事で、やっとそれを引きずり出す。それをある程度引き出し、さら
にその機械を引っ張って行く、そんな仕事をする。余りにも私には合わない、力
が足りない。

大変だったでしょう?
うん。だからまともに出勤しなかった。

辛いからできないと言わなかったのですか?
そんなこと言えない。そんなこと言ったら、もっと酷い所に回される。

北海道に着くまでは、どこへ行くのか知らなかったのですか?
どこに行くのやら、分からない。

では炭鉱へ行くことは知っていましたか?
炭鉱へ行くのは分かっていた。

炭鉱に到着してどうでしたか?
炭鉱に到着したが、12月だったか、11月だったか、そこに到着して降りる時、全
てが雪原だった。全て、真っ白の雪だ。雪の中に家がみんな埋まっているんだ。
他はみえない。真っ白な雪しかみえない。

家を出て北海道までどれくらいかかりましたか?
当時、5日間かかっただろう。

その間、ご飯はどうしましたか?
飯はほとんど握飯だ。握飯も一日3食くれたか?2食ほどだ。

機電科に配置されたが、私は機電科の修繕工

炭鉱名を憶えていますか?
新幌内。新幌内は、新しい幌内で、新しくできた地域ということだ。行ったら初
めに、全員集合させて訓練をさせる。

何の訓練ですか?うん。
日本の制式訓練をさせる。人を動かそうとしたら統率しなきゃいけない。だから
日本式の訓練をさせる。そして私がそこで通訳もして、補助をさせられ、責任を
負わされた。

その訓練をどれくらい受けました?

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ど、それがいくらになるか…。日本で小遣い銭にもならない額だ。

家にお金を送れましたか?
普通の人にお金なんてあるものか。お金なんて送れない。お金が少ないだけじゃ
ない。食べ物が満足じゃないから、何とか食べなきゃいけないじゃないか。家に
お金を送る余裕なんて、どこにある?私らが初めて行った時には豆、豆が半分以
上。残りはコメ。玄米を少し出した。それで、日数が過ぎるほどコメが少なくな
る。コメが無くなって、豆ばかりが増える。刑務所みたいに豆の飯。それを食べ
て消化できるか?消化できない。毎日のように下痢した。戦争末期、降伏前に
は、飯と言ったって米粒がない。だから誰が、お金を送る余裕がどこにある。働
いてお金が少しある人は買い食いした。そうでもしなきゃ仕事に堪えられない。

戦争が終わらなきゃいけない~負けようが勝とうが、とにかく!

そこに韓国人は沢山いましたか?
その宿舎の名前が協和寮で、私らは第3協和寮、第1、第2、第3、こうなって
いた。第3寮が一番大きい寮だ。

その宿舎に何人いましたか?
見た所、200人くらい?

じゃあ、第3協和寮が約200人いて、第1協和寮とか第2協和寮は?
そこはちょっと少ない。

おじいさんが炭鉱に行ってから、韓国人が後からまた行きましたか?
行ったのかどうか、分からない。なぜかと言えば宿舎が違うから、後に入ったか
どうか、分からない。私より先に行った人、何カ月か前に行った人はいた。論山
江景の人で、名前はユ…。忘れてしまった。

では、どうやって出勤しなかったのですか?
具合が悪いと言う。それしかない。他の人はウソをつき、持病と言う。持病だと
言って、癲癇(てんかん)、口に石鹸泡のように噴き出して、倒れてブルブル震
えて、死ぬふりをして仕事に出ようとしない人もいた。方法がいろいろあった。
だから具合が悪いと言う方法も、一つや二つじゃない。

解放されるまでそこで修繕工をしていたのですか?
仕事をするにはしたが、そんなに沢山はしなかった。時には、人がいないときに
は、炭鉱の中に入って機械の運転もした。

炭鉱内のどんな機械ですか?
自動車の運転ではなく、炭鉱内には機械がすごくある。「捲揚機」があり、「エ
ンドレス(エンドレス捲:循環式ロープの捲揚機)」があって、炭車と、いろい
ろある。一番下で炭を掘ってそれを地上に持ってくるには、第一に炭車に乗せな
きゃいけないだろう?その炭車を押す人がいる。決められた地点まで押さなきゃ
いけない。それを押したら「エンドレス」にかけて、鉄製ロープを炭車にザーッ
と降ろす。降ろしてスイッチを押すと(エンドレスが)回る。回して、炭を載
せる炭車をロープに掛けたら引っ張り揚げる。ある程度引っ張ると、集積所があ
る。集積所に集められた炭車は一台や二台でなく、ずっと繋がっている。それを
列車のように連結して、一台ずつ全て連結すると、「捲揚機」がある。「捲揚」
という機械で炭車を捲き揚げ、そしたらそこにまた運転手がいる。その運転手が
外に出て、この炭車の連結を取り外すが、熟練していて、どの地点で連結を外せ
ば、惰性でどこまで炭車が行くのかを計算している。彼らはそんな取り外しをす
る。そんな仕事もあるなど、炭鉱の仕事は一つや二つじゃない。重機を直す人も
いるし、炭車のベアリングを直す人もいるし、動かすもの全てが炭鉱内にある。

一日に仕事は何時間しましたか?
一日に普通2交替。それは、炭鉱の一番下に行って採炭する人たちはみんな知っ
ている。補修の仕事ばかりじゃない。2交替で懸命に働けば賃金はくれる。だけ

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炭鉱の仕事は危険だったでしょう?
アイゴ~事故が多い。私らの班は事故がなかったが、先に行った人たちはあっ
た。沢山あった。炭鉱内で発破作業をして死ぬこともある。また坑内が崩れて埋
まることもあるし、いろいろだ。鉱脈があれば、地下に何千メートルもずっと掘
って行くから。

事故が起きたらどうします?
事故が起きたら病院へ行くが、病院と言ったってたいした所じゃない。ここで言
ったらちょっとした診療所のようなもので、たいしたものではない。

服や靴は配給ですか?
靴は配給されたことがなく、最初にタバコを少しもらったが、後になるともらえ
ない。服は自分で買わなきゃいけないが、私らは知らなかった。

おじいさんはその服を買わないで、家から持って行ったものを着たのですか?
そうだ。休みの日もほとんどない。休みの日は、一日に2交替なら2交替。この
交替した日が休みの日だ。

出勤はどのようでしたか?
出勤印を押す。採炭、炭鉱内に入る人は自分の表札を示す。それが出勤表示だ。
それを示す所もあるが、私らはそこへ行って名前をサインのように書く。

韓国に戻れるという喜びで、腹が空いたと感じなかった

8月15日に解放されたが、8月15日に重大発表があることは知っていた。だがその
時、今のようにテレビがなく、ラジオしかなかったじゃないか。日本人の事務室
にラジオがあるが、外にはない。私らがそこへ直接行って聞くことはできない。
どうにか聞いた人が内容を知らせてくれた。解放されても、すぐに体が解放され
た訳じゃない。解放されたと言う話だけ聞こえて、完全に解放されたという実感

では、北海道で、故郷の人に会ったのですね?
故郷から行った人も多くいたし、私の義兄も一緒に行った。

義兄が同じ北海道に行ったのですか?
うん。義兄(姉の夫)。もう亡くなって随分になる。

では、先に行った論山の人がいて、一緒に行った論山の人もいて、そこは論山の
人が多かったですね?
うん。論山の人が多かった。

論山ではなく、他の地方の人もいましたか?
韓国全土から来たから、以北から来た人もいて、徴用と言えば、あちこちから一
人ずつ連れてくるのでなく、ある郡なら郡から根こそぎ連れてくる。私の義兄の
ような人は、令状が来て行ったのではなく、賭博場で捕まって引っ張られた。

おじいさんと一緒に行ったけど、おじいさんは令状を受けて行って、義兄は令状
なしに行ったのですか?
うん。賭け事をして捕まり、引っ張られてしまった。

では、法を犯して徴用に送られる場合もあるのですね?
倭政時、どこに法がある?徴用に引っ張る口実を作ろうとした。だからあれこれ
と理由をつけて、みなをいつでも捕まえる。6・25(朝鮮戦争)当時も軍隊へ行く
まいと…。ここは忠清南道だろう?ここから少し行けば全羅北道だ。軍隊に行く
まいと全羅北道に逃げ、全羅北道で探せば、忠清道に逃げて。警察も境界を越え
られないから。だから、なにかの口実で捕まえ、警察署が徴用に送ってしまう。

徴用の期間は決まっていますか?
いや、ない。何年期間、何カ月期間、そんなものあるものか。無条件に引っ張ら
れる。負けようが勝とうが、倭政時は、戦争材料の全てがこの石炭によるからだ。

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主義の団体だったようだ。

なぜそう考えたのですか?
北海道地域には思想犯が沢山いた~。

そうですか?炭鉱で働く人の中にもですか?
炭鉱には日本人も韓国人も思想家が多い。いや、徴用で来た人でなく、それとは
別に、政治犯として引っ張られてきた人もいる。それを日本語でいわゆる「タ
コ」と言う。その人たちを「タコ」だと。

「タコ」と言われた朝鮮人もいましたか?
うん。もちろん韓国人もその中にいる。

どれほどいました?
それは分からない。それは秘密だ。その人たちが仕事に行く時には警備員がつい
ている。

その人たちは、どこにいました?
宿舎が別にある。

おじいさんがいた所から離れていましたか?
かなり。その人たちは宿舎も別で、仕事も違う。聞いた話では、ひどく危険な仕
事をする。その人たちが通るのを見た。その人たちが10人ほどなら、それについ
て行く人が2、3人いる。

監視ですか?
その人たちは、人ではない。当時の扱いは人ではない。獣扱いだ。服だって服で
なく、布切れか何かを、そのまま体に巻き付けている状態だ。そして北海道には
捕虜収容所もあった。

したのは、20日、30日過ぎてからだ。

解放されてどうでした?
仕事はしない。みんなしない。韓国人は一人も仕事に出ない。解放され、韓国人
の自治委員会があって、私は良く分からないが、その時に隊長をした人が何か私
に役を任せて、腕章を腕に巻いてくれた。

腕章になんて書いてありました?
うん。腕章に太極マークと、自治とあったようだ。自治会、韓国人を保護するた
めに韓国人が団体で行動した。

自治会ではどんなことをしました?
することは別になく、特別なことはなく、韓国人と日本人とで何かあった、韓国
人同士で何か争いがあったとき、仲裁をする。私らは解放されて、自治会は模範
にならなきゃいけない。私はやらなかったが、韓国人は解放されて食べ物がない
から、日本人の畑へ行ってカボチャを取ってきたものもいた。

日本のカボチャは甘いでしょう?
美味しい。韓国のカボチャは包丁でうまく切れるが、日本のものは包丁で切れな
い。割って煮なきゃいけない。他のヤツらは畑から盗ってきたカボチャ、それを
割って蒸かして食べる。それをもらって生き延びた。韓国に戻ってみると、手や
足が黄色い!

カボチャを沢山食べたのですね?
うん。いま、カボチャは好きでない。

その自治会の活動は、いつから始めたのですか?
解放されて一月くらいしてからだ。その腕章は韓国に来る時まで付けていた。そ
れで、いま考えて見ると、その団体は民主主義国家の団体ではなく、多分、共産

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ええっと、秋田県まではミカン。ミカンがそこでは沢山採れる。車に積んで来た
ら韓国人が黙ってないだろう。沢山取って来て船内で食べて…。私らが握飯を握
ってやったことがあるが、この握り飯をどうやって作ったか思い出せない。人が
座る場所もない。船内の食堂へ行っても、人で身動きできないほど人でいっぱい
だった。

食べられる時に探して食べるのですね?
探して食べる物なんて、なにもない。

船でお腹を空いたでしょう。
うん。韓国に戻れる嬉しさ。嬉しいだけだ。その時、腹が空いたと感じなかっ
た。簡単に戻れた訳じゃない。

あ~ここに腕章を付けていますね

では、この写真はいつ撮りました?
いつ撮ったかと言うと、解放後に撮ったものだ。うちの隊が金を払って、解放記
念に撮ったものだ。解放されてひと月ほど、ひと月過ぎ。

この写真の裏面には、「北海道新幌内で 論山郡隊1班員」と書いてあります
ね?
これは、班が3班あるが。

ではこの写真(写真1)が1班の写真ですね?
うん、これは1班だ。

この写真(写真2)は何班ですか?
いま思い出せない。余りに昔だから。三つの班の写真が全部あったが、一枚は無
くなったか?一枚は残っていない。ここで着ている服は、全て軍服だ。これは、

どこの捕虜ですか?
当時の戦争捕虜。米軍もいることはいたが、私は見ていないが、主に中国人の捕
虜を沢山見た。捕虜は捕虜収容所が別にあった。

その人たちの仕事も違いますか?
その人たちが働いているのを見なかったから分からない。どう働かしているか分
からないが、中国人捕虜がいるのは見た。見たのは解放されてからだ。米軍もい
たと言うが、私は見なかった。

日本から戻る時、どうやって来ました?
日本で交通手段を準備してくれてこそ、帰れるだろ。黙っていても帰れない。韓
国へ戻ろうと船に乗って、船が海中に沈む、そんなこともあった。私らはほとん
ど陸路で来た。日本に初めて行った時と同じに、函館、青森に来て、本州で広島
から仙崎に来て、釜山に来た。

おじいさんと一緒に行った人、みんな一緒に来ましたか?
そうだ、ほとんど。

戻ったのはいつ頃でした?
それは1945年末だったか。韓国到着は多分、46年初めだった。

戻るのに時間がかかりました?
戻るのに大体10日かかった。

引率者はいました?
誰が引率したのか思い出せない。当時、来る時、汽車の中で飯とか、握飯を食べ
たこともない。

そしたら戻る時は、何を食べました?

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◎〔写真2〕論山動員者の団体写真(張仁植寄贈)
2班または3班所属の人物たちの団体写真で、詳細は記憶が無いと証言。前列中央に張仁植

◎ 論山動員者の団体写真(池ジャチュン寄贈)
口述者が持っていない写真で、同行者の池ジャチュンが寄贈した。これで論山から動員された100名の団体写真が揃っ

た。矢印の被害者は、寄贈者の池ジャチュンで、前列中央の人物が口述者の張仁植。

解放されて、戦争で不要になったものだ。不要になった物を分け与えた。

どこが分け与えたのですか?
それは日本政府だ。なぜかと言えば、この私らが着ている服は全て軍服だが、解
放されて戦争で必要のない物になった。不要になった物を分けたんだ。

この2枚の写真(写真1と2)は、背景が全く同じですね。どこで撮りましたか?
この左側の建物、宿舎。多分この右側は食堂だろう。ここに宿舎があって、ここ
に食堂があった。そしてここが宿舎、食堂があって。(写真1の左側の建物は宿
舎、右側の建物は食堂。食堂の右側横にまた他の宿舎と食堂があったと証言)。

◎〔写真1〕論山動員者の1班(張仁植寄贈)
前列右から4番目に座っている人物が張仁植。当時、総隊長をしていたので4枚の写真に全部写ったと言う。

おじいさんは、この写真の宿舎で泊まったのですね?
うん。この宿舎は2階建てだ。ここ(写真1の右側の建物)食堂で飯を食べて…。
(写真1の左側の宿舎に寝起きする人たちは、写真の右側の食堂で食事したと言
う。写真には見えないが、食堂の右横にあるまた別の宿舎に起居する人は、その
右側横に建てられた別の食堂を利用したと証言)

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一部屋に何人ずついましたか?
写真1の前列はほとんど抜いて、この人たちは隊長、班長だ。(写真1の前列で座
っている人たちは隊長と班長だと言う。前列に座っている人たちを除いた残りの
人たちが、一つの班に所属する人だと述べる)

1班から3班まで、みんなおじいさんと一緒に行った論山の人ですか?
うん。その人たちを三班に分けたんだ。この2階(写真1の左側の建物)は、論山
の人たちで、私より先に行った人たちだった。

では1階はおじいさんたちが使ったのですか?
いや。私らが三班に分かれただろう。1班は一つの宿舎、2班、3班はまた別の
宿舎。

おじいさんは1班でした?
うん。1班。

この写真3は?
それは多分、漏れた人たち。(団体写真で)写し漏れた人たち。

あ~、ここに腕章を付けていますね。この写真4は?
これは食堂前だ。この人たちが隊長、班長、副班長たち。この女性たちは厨房で
働く人たち。日本人もいる。この人(写真4の前列右から4番目の人物)は、隊長
だ。面の事務員だった人だ。

この写真の中で知っている人は誰です?
この写真の中の人、当時は知っていても、今では余りに時が過ぎて。この写真に
いる人でまだ生きている人がいるかな。当時、歳を取っても引っ張られた。その
人たちが生きているかな。生きていたら100歳だ。当時、私がカメラを持っていた
んだ。カメラを持っていた友人がそれを私に韓国にいた時にくれたが、途中で日

◎〔写真3〕論山からの動員者(張仁植寄贈)、 右端が 張仁植。
団体写真撮影時に入らなかった人たちを別途撮影したもの

◎〔写真4〕論山からの動員者の幹部たち(張仁植寄贈)
動員者のうち、隊長、班長、副班長をした人たちの記念写真。後列の女性たちは食堂で働いていたと言う。

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・面談日:2009.2.18
・面談者:尹智炫
・補助面談:金ギョンミ

■ 面談後記

 塩辛で有名な地域であり、張仁植さんのお宅へ行く道は塩辛商店が
びっしりと並んでいた。真っ直ぐに訪問した張仁植さんのお宅で、私
たちは60余年前の新幌内炭鉱の姿を、4枚の写真で確認できた。それ
は、張さんの並外れた写真趣味のお陰でできたことだった。写真と映
像撮影が趣味の張さんの部屋の片隅は、一生涯の軌跡を物語ってくれ
る写真でいっぱいで、引出には古いビデオカメラが大切に保管されて
いた。しかし、解放当時の写真を探し出すのは簡単ではなかった。張
さんが保管していた写真の数がとても多かったからだ。沢山の写真の
中から日本で撮った写真4枚を探し出すため、張さんと一緒にその写真
庫に足を踏み入れた。10分余の間、ホコリを舞い上げ、遂に発見した
その達成感と言ったら…。少し前に病を患ったせいで口述は辛そうだ
ったが、当時の話をできるだけ詳しく話すよう努力していた。長い時
間が過ぎた現在、張さんは写真の中の同僚たちの名前は思い出せなか
ったが、北海道の冬は忘れていなかった。

本人が取ってしまった。

当時、カメラを持っていたのですか?
うん。カメラと写真を現像できる薬品。印画紙とかも友人が送ってくれた。小包
で送ったが、途中でかすめ取られた。

(おばあさん)アイゴ、カメラを露店で買おうとして、私と随分喧嘩した。昔か
ら~今でもビデオも何台買ったか分からない。アイゴ~。

おじいさんは写真も撮るし、おしゃれですね。

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日本では食べるものがなくて腹がへって

〈三菱鉱業(株)大夕張鉱業所〉

村々を回って人を連れて行った

私の話をしたら一日かかっても終わらない。

徐正萬さんとお会いしようと、電話をかけましだが、息子さんとしか話ができな
くて…。少し心配でしたが、健康で良かったです。いま何歳ですか?
89歳。

私が2年前(2007年)におじいさんに電話で調査した時も、元気に興味深い話を
してくれました。それを思い出して話を伺いに来ました。
2年前に?

はい。
話を全部しようとしたら二日かかる。

・1920.9.2  慶尚北道金泉市釜項面希谷里、出生
・1941.9   三菱鉱業(株)大夕張鉱業所へ動員された
・1945.9   本籍地へ帰還

徐正萬(ソ・ジョンマン)

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た。横になって寝たが、列車の床にバケツに水を入れておいて、水が飲みたかっ
たら飲めと。のどが乾いたらすくって飲んで…。両側に立っているから、どこに
も行けない。小用をしたかったら、見張りに用をしたいと言ってからした。
亀城の人が一人いたが、その人は簡易学校の先生をしていて私らと一緒に日本へ
行けと言われた。その人は日本語も上手で、私らは全く言葉ができないから、そ
の人が通訳者として行ったんだ。この人は通訳で行ったが、一緒に乗って釜山ま
で行った。釜山に着くと真っ暗で、船が無いと言うので、そこで横になって寝
た。次の日の夜明け前、やはり船がないと言う。一日中待って、夕方に船に乗っ
て行った。一晩中船に乗って、日本の下関で降りた時は、まだ陽が射してなくて
暗かった、そこで並んでいたら飯、握飯を一つずつくれた。それが朝飯だ。立っ
たまま食べて見上げたら、明るくなって夜が明けた。そこで汽車に乗った。汽車
に乗って行くんだ。行くんだが、両側に日本人がぴったり座っているから何とも
ならない。座って昼夜走る。どこへ行くやら夜昼一週間かかった。遠かった。昔
の汽車は石炭で走って、早くなくてゆっくり行くんだ。上り坂がきつい所は、飛
び降りることもできる。

飛び降りた人もいたのですか?
いない。見張っているので。両側で見張っているのに、どこに飛び降りれるもの
か?そんなことできない。青森という所へ行って、また船に乗って渡って行く。
青森へ行って旅館で横になる。一晩寝て次の日に行ったが、朝飯を食べて船に乗
って、4時間ほどかかった。そしてまた汽車に乗った。

倭人の言葉で、その時「417番」と言った

船に乗って降りた所は何処ですか?
函館。そこから汽車に乗って一日行ったら、北海道の大夕張という所まで丸一日
かかった。行くと暗かった。暗い中、朝鮮人だと言って女性たちが立ち並んで、
歓迎する感じだ。歓迎するとコーヒー、お茶を一杯ずつくれたんだ。だからそれ
を飲んだ。それを飲んで、飯場で横になって寝た。部屋に行くと学校のよう、子

始めて日本へ行った時は何歳でした?
22歳だったか。うん。その時に行った。

その時はご両親や兄弟と一緒に住んでいましたか?
うん。みんな一緒に暮らしていた。そして炭鉱の募集が来た。日本人が募集に来
て招集した。招集した所で何日に行くと言っていた。そこに支所がある。そこに
呼ばれて行った人が、ここ釜項面(慶尚北道金泉市)から13名いた。そうやって
選ばれて行った。

釜項面で13人ですか?
そうだ、13名。そして大徳面から12、13人が送られて、知禮(チリェ)面からか
らもそうやって、また甑山(チュンサン)面…。それから亀城(キソン)面、助
馬(チョマ)面、そして鳳山(ポンサン面)もそうやって…。

そしたら、面別に全部12~13名ずつ選んで…。
そうだ。面ごとに回って人を選んだ。そうやって選ばれて何日かして、金泉まで
来いと言うから行った。金泉の黄金洞に大きな旅館がある。旅館に行くと、みな
四方から面ごとに来た。

さっき言った面の人たちがみんな来た?
そうだ。面の人たちだ。そこで泊った。泊った次の日に、行くと言って、床屋で
頭を丸刈りにした。

頭を丸刈りに?
うん。くりくりだ。逃げたら捜し易いんだと。そして服をくれたが、当時は韓服
を着るだろう?ヤツらが着ろと持って来た、その服がまるでズタ袋だ。太い糸で
縫っていて、あばただらけの変な、それが服だと。それを一着ずつ配った。それ
を着て行った。汽車に乗ったら扉がない。出入口二つに二人ずつ見張りが立って
いる。私らは座ったり、横になって寝た。みんな列車の中で少し横になって寝

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おじいさんは穴掘りをしたのですか?
そうだ。穴掘りをして、炭を掘ったら、そいつを出す道、通路を平らにするん
だ。通路を平らにするのは3人で、毎日…。坑を掘り進めるのに13か所、孔を掘
る。13か所を掘ると監督が〔爆薬を〕入れに来る、破裂させるために。爆薬でも
って破裂させると、スッと穴が通る。パックリと坑が開く。坑をそうやって掘っ
て行く。

爆薬を13か所に入れ、火を点け…。
うん。孔を13か所に開けて導火線をずっと繋げて、外まで導火線を持っていき、
外から破裂させる。そうして破裂したら、坑を開けるために崩すんだ。崩したら
台車、鉄の台車に載せ、そいつで外まで引っ張って行って…。そこに8台、9台ず
つあって。

台車に乗せるのは全部炭ですか?
それは炭でなく、石だ。石で、台車を引っ張って行って載せて、それを外まで引
っ張って登って行くんだ。私らは石を載せて行くが、炭掘りの場所に行くと、果
てしなく仕事する。昼からする仕事だが、全部で人が20人ずつ、掘る仕事をする
が、炭掘りの機械(削岩ピック)がある。これを刺し込んで、回して押し込む。
ドドドッと。その機械を押すと、炭が砕ける。そしたら炭掘りが掘って溝をつけ
る。溝に炭をすくって入れると、下へ落ちていく。落ちて行くと下に載せる台車
があって、それを引っ張って行く。載せて行ったら、降ろして・・・。炭掘りの
所は人が多い。そこはまた危険だ。

おじいさんがする仕事は危険だったのですね。爆薬が破裂するから。
爆薬が破裂したら、石の塊の天井がドサッと落ちてくる。石の塊が落ちてきてぶ
つかったら怪我する。他の仕事はそんなに危険ではないが、炭を掘っていくとガ
スが破裂する。監督がしきりに入って行って、ガスが破裂しないか、破裂するの
ではないかと、しきりに歩き回る。ガスが破裂するときは、すぐに破裂するん
だ。ガスが破裂したら火がパッと燃えるんだ。そうしたら、どこかに逃げなきゃ

どもが通う国民学校みたいだ。中に部屋が仕切ってあって、一部屋に20人ずつ
だ。部屋のこちらに戸があって、廊下が二つあった。全部、畳部屋で、壁は板張
りで内側に紙が貼ってあって、窓もあった。そこに寝て次の日、病院で診断する
から行くと言われた。診察を終えて…。坑内での仕事もいろいろある。この人は
何をしろ、この人は掘れ、あるいは埋める人と、鉄版を置く人もいた。仕事は際
限がない。もう次の日から仕事に出るんだ。仕事で中に入るが、入ったら飯をく
れるが、飯は(握り拳ほどの)ひと固まりだけだ。ここで(韓国で)暮らしてた
時は、野菜だけでもいっぱい食べたのに。日本では食べるものがないので腹がへ
って、動きが緩慢になって仕事できない。坑内に入る前に、着ていた服を脱ぐ。
脱いで風呂敷に包んで、2階に、私の番号がある。

おじいさんは何番ですか?
倭人の言葉でその時、「417番」と言った。(国から着て行った)服は脱いだ。中
に風呂場があり、そっちに行くと坑内で着る服がある。その服を着て、そうして
〔入坑時に〕木札を出して。

え?木札?
木の牌、番号が書いてある。私の番号を、名前を呼ばれたらそれを出す。そして
灯を渡される。頭に付ける安全灯。それが重くて1貫目(3.75kg)だ。1貫目だ
が、ムチャに重い。これを腰に付けて綱でしめ、帽子を被り、安全灯を点けると
下まで明るい。そうやって坑内へ入って行くんだ。入って行くが、遠い。台車に
乗って行くんだが、乗って行ったら、人の乗る所がまたある。互いに立って、こ
う踏んで乗る。そうして乗って、入って行って切羽へ着いて降りる。降りたら、
多方に枝分かれしている。坑内でこっちへ行って、あっちへ行って、炭を掘る所
も沢山ある。8か所か、どれくらいになるか。そこでまた乗る。乗場がある。そ
れに乗って降りていく。とっても遠い所まで。降りて行って中に入って、また下
へ降りなきゃいけない。本当に深いんだ。そいつに乗って、また降りていく。最
後のところまで降りて行って、四方の途中で分かれていて、そこで炭掘り、私ら
も掘った。穴を掘った。

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と言った。禮泉の人が多かった。

栄州とか禮泉の人が沢山来ていた?
そうだ。多分、来た中で多かった。そして中国人が300名になっただろう。中国人
は坑内に入るのに、途中で分けられて、その人たちだけで仕事する。韓国人と混
ぜない。

では中国人は中国人だけ、韓国人は韓国人だけで仕事するのですか?
そうだ。仕事は坑に入ってした。アイゴ、年中そうだった。事務室で季節ごとに
1、2回は殴られた。うちの飯場は一棟に約300名だった。その人たちがとても多
い、そんなふうにメッタ打ちにされたが、休もうと思う人は、休んで…。

おじいさんが暮らした飯場に300名が?
そうだ。300名いた。

一部屋に20名ずつで、飯場が15部屋あったでしょう?
そうだ。そうだ。

その飯場は沢山ありました?
寮は2階建で、600人以上いた。

おじいさんがいらっしゃった寮の名前は?
一心寮だ。

始めに炭鉱へ到着した時、病院で診察を受けたんですね?それは身体検査です
か?
そうだ。身体検査。

身体検査はどんなことをしました?

いけない。ガスが破裂すると死ぬ人もいるし、ケガする人も沢山いる…。

一緒に行った8つの面(村)の人で、ケガした人はいましたか?
それはそうだ。死んだ人もいる。行ってしばらくして死んだ。名前はわからな
い、長いこと過ぎたし。〇吉と言う人だけ知っている。数もわからない。同じ部
屋の人しかわからない。同じ部屋の人でも昼に出る人、夜に出る人と、交替で働
くから、休みの日でないと会えない。

事務室で季節ごとに1、2回は殴られる

おじいさんも交替で働いたのですか?
そうだ。そこで仕事をして出てきたら、「箱」があるが、箱にみんな(名前と番
号が書かれた)木札を入れる。そうしたら仕事に出た人間が誰か、それを見たら
分かる。それで木札がない人がいたら、監督たちが、こいつどの飯場だと電話を
して、「何々が今日仕事に出てこない」。そうしたらその人(仕事に出ない人)
はどうするかと言うと、隠れなきゃいけない。見つかったら「なんで仕事に出な
いんだ!」と殴られるから。だけど、腹が空いて、飯を食べたくなる。

そうでしょう。仕事をしなくてもお腹がすくから…。
そうだ。昼に仕事する人たちが昼飯を食べる時、(仕事に出ない人も)飯を食べ
ようと来るんだ。そうして、ああだ、こうだと仕事に出ない言い訳を…(笑)。
そうしたらひどく殴る。殴って、電線を重ね持って、うつ伏せになれと言う。膝
をついてうつ伏せになったら、監督が首にのしかかって背中、尻をメッタ打ちに
する。ひっきりなしに殴るから、真っ青になる。仕事をしないと殴るんだ。

殴る人は誰です?
それが誰かと言えば、飯場で仕事を手配し、通訳もする…、それも朝鮮人だ。
〔動員されたのは〕栄州と禮泉の人、これが一番多かった。事務室で仕事に出る
人を見張る人、そいつが殴る。日本名で「たすかわ」だ。もう一人は「はやせ」

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シラミに随分咬まれました?
随分咬まれた。話にならない。シラミがいるから、蒸したりしたらいい。だが、
それはしない。やたらと仕事だけさせるんだ。

作業服はどうなっていました?
仕事着はボタンが付いていて、分厚い。作業場で着る服も同じだ。服は同じだ。
それをいつも真っ黒にして、黒いのか何なのか、そのまま着ていた。一回も洗わ
なかった。それが無くなったら、他の物を貰って着て、洗ったりはしない。

見張っているのも知らないで逃げて死ぬ目にあった

休みの日に洗濯などしなかったのですか?
アイゴ、無い。休みの日はなかった。初めは週に一回ずつ休んだ。そうして後
に、一年過ぎたら月に二回しか休めない。半月ごと。もっと後になると、一月に
一回しか休めないんだ。やたら炭を掘れと、意地悪く歩き回る。アイグ、ヤツ
ら、人を犬みたいに殴った、炭鉱に行った人はみんなそうだ。どこであっても、
炭鉱ではみんな苦労した。アイゴ、言葉にできない。辛くてどうしようもない。
深い谷間で、山仕事の人しかいない。掘っ立て小屋がある谷間で、山は天のよう
に高く、雨が降ったら水がザァーザァーと谷を流れて、谷川に沿って道をならし
て、線路を作って、そこに炭を引き出し…。逃げた。日本人が途中で見張ってい
るが、それも知らないで逃げて死ぬ目にあった…。

おじいさんが逃げたのですか?
そうだ。大徳(郡)の人と「逃げよう」と言って、それである日の夕方に出た。
夕方が休みの日で、小川の鉄道へ行くと、鉄道の間に見張りがいた。行って見る
と真っ暗で、川の水がゴーっと流れる。「駄目だ。これじゃ、少しも前に進めな
い。逃げられない」と言って、「そうだ。駄目だ。〔土手に〕登ろう。」

逃げて諦めたんですね?

それは、人を診て、健康なら炭掘りへ送って、少し弱い人は他の仕事をさせる。

他の仕事って坑外でする仕事ですか?
いや。全部、坑内だ。坑内で炭掘りをしたら、それをまた埋める。埋める作業が
ある。それから鉄器具を直すこともする。また岩粉と言って、泥土を乾かして砕
いて粉をつくって、それを炭掘りの所でガスが出ないようにサラサラ入れる人も
いる。いろいろ仕事がある。鉄器具を直す人は直して。

鉄器具を直すのは何ですか?
線路。クルマを引っ張るのに線路がいるだろ。それを直して、支柱(を建て
る)。

支柱を建てる仕事…。
そうだ。坑内が崩れる場所がある。そこには支柱を。木材を建てて支えて、積み
上げて。

炭を掘ってから埋めるんですか?
炭を掘り出すじゃないか、一層、炭を掘り出すと、そこへ土なんかを車に載せて
埋める。全部埋めてしまう。埋めなきゃいけない。そうしないと崩れる。ここが
炭ならまた一層は土や石になっている。そしたらそこで埋めてしまう。その下へ
下ったらまた炭が一層ある。葉っぱの塊みたいに。それを掘り出すんだ。アイ
ゴ、坑内で働いたら作業服を、仕事が終わって出てきたら服を脱いで、風呂敷に
包む。番号のところで、外で着る服を着て、戻ってくる。坑内で着た服にシラミ
がどんなにいたか、潰すこともできない。服を払うと、シラミがボロボロ落ちて
くる。

服を煮たり蒸したりはしなかった?
蒸したりしない。

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そうだ。服を全部脱がせてだ。座っているのを外まで引きずり出して、「出て行
け」と。そいつは朝鮮人だが、引きずり出す。外に出た。外に出て立っている
と、その日は相当に寒かった。アイグ。寒くて耐えれるか、耐えられない。裸に
なって座らされて、寒くてどうしようもない。そこに1時間以上座っていただろ
う。寒くてブルブルして…。そうしているうちに大徳の人がパタッと倒れてしま
った。私も本当に寒いから倒れた。そうこうしているから、誰か出て来た。出て
来て、足で蹴飛ばしてまた乱暴する。「座っていろと言ったろう!何で横になっ
ているんだ!」と言って。そして、引きずって入って行くんだ。アイゴ、引きず
って行って、そいつらが始末書を書けと言う。始末書を書いたら、行って寝ろと
言った。それで私らは部屋に戻った。

まぁ、酷い。その殴った人は日本人ですか?
そいつは、朝鮮人だ。後で私は「殺してやる」と言った。そうしているうちに解
放された。日本人が手を上げたと言う。もう駄目だということだ。あいつ、夜に
あいつを懲らしめてやろうとしていたのに…。だけど、あいつら、また仕事をし
ろと言うんだ。

戦争に負けても炭を掘らなきゃ朝鮮に帰れない

解放されてもですか?
戦争に負けても炭を掘らなきゃ朝鮮へ帰れない。車〔帰国の汽車〕が出ないか
ら。炭掘りすればいいと、させるんだ。栄州の2人が飯場事務所で仕事して、働き
に出ない人がいれば、殴る。2人は監督だった。日本人が3人とで5人が事務室に
いるんだが、解放されたから、大変なことになったと思ったんだろう。解放にな
ったから、(私ら)は仕事に出ないでいたら、(そいつらが)仕事に出ろと意地
悪く言うんだ。ある若い者がいたが、言葉もうまい、それが立上った。「今日は
仕事に出るな、何の仕事だ!戦争に負けたのに何でこんなに毎日仕事しなきゃい
けない。全員、今日は仕事に出ない!」と言って、こん棒を持ち、日本人が現れ
たら殴ろうとした。だから、あいつらは外に出られなく、事務所に座っていた。

そうだ。鉄道土手に登って来たのを、見張りのヤツらが灯りを照らした。アッ、
駄目だ。それで、そいつに近づいて行った。行くとそいつらは、「逃げると思っ
ていた。何しに来た」と悪くみなした。それで私が、「一人こちらに来て戻って
こないから、探して来た」と言った。

(妻〉ウソが上手だこと。

そうですね。おじいさん、うまく言いましたね。
そうしたら、「どこから来た」と。私がいる所を教えて、「一心寮から来た」と
言ったら、電話をした。電話をして暫くしたら来た。日本人と飯場のヤツ、事務
室の「キタムラ」と言うヤツだ。背の低い、番頭役で、大きな態度で意地の悪い
ヤツだ。こいつが朝鮮人を一人連れて来た。韓国語ができないから。こいつが桜
の木の棍棒を揺らしながら来るんだ。そして私らの前に立って、少し黙って、正
座しろと言う。そして後ろにいた大徳の人たちを殴ろうと棍棒を振り上げた。悲
鳴が上がる。憎い。唇を噛んで、うめき声が出た。悲鳴を上げたが、そのこん棒
の真ん中がポキっと折れた。それで「足が折れた」と言って座り込んだ。痛みも
忘れて私らは凍り付いていた。次に大徳の人をうつ伏せにさせて、こん棒で尻を
メッタ打ちにするんだ。しばらく殴り続けられ、大徳の人たちは、蒼白になって
倒れてしまった。私は足が折れたと思い、座ってさすって見た。触ってみると、
折れていなかった(笑)。折れなくて、こん棒だけ折れたんだ。

(妻)足が折れたらどうするの?

足が折れたら、病院に入ってまた出て来るだけだ。(笑)それで(宿舎に)戻る
際には、足をズルズル引きずってくる。戻ってきたら事務室から来て、服を脱げ
と言う。服を脱いでパンツだけになったら、「行け、逃げたかったら行け」と言
うんだ。

殴るだけ殴って、服も脱がせてそう言うのですか?

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溜めだった!(笑)沢山の人が、何日か、ほぼ1週間ずつ泊まるから、それで肥溜
めができるんだ。一晩苦労し、みんなを船に乗せて運んでくれた。乗せてくれる
と言ったが、船に上がる所がない。乗る場所がないんだ。

人が多くて?
そうだ。人が多い。必死に這って上った。外側にぐるっと回って這い上がった。
船の一番高い所へ上がった。上がってみると何人もいなかった。そこに座ってい
た。部屋には行かないで、しばらくし、そこで横になった。その次の朝、小さな
船が来た。その船の韓国人たちが上着を脱ぎ、その服を振っていた。見ると、大
きな船に乗りたいのに乗れない様子だった。

あ、密航船に乗って行った人たちですね?
そうだ。密航船に乗って行った人たち。だから、どうしようもない。大きな船は
そのまま過ぎて行っちゃったね。

大きな船に乗せないで、そのまま行ってしまったのですね?
そうだ。釜山に船が入ると、帽子を被って背の高い米軍が行ったり来たり。少し
して船が着くと、人びとが外に出ようと人を一方に押しやるから、船がすっと傾
いていく(笑)。船が傾いて大騒ぎだ。そっちに移れと(笑)。見ると船の外側
が壊れるし、船が後方へ流されていく(笑)。そのうちに小舟が来て、船を押
し、鎖で繋いだ。繋がれ、船を降りようとしたが、人でいっぱいで先に降りられ
ない。降りるにも踏板を渡した。人が降りるにあたり、皆掴み合って降りるんだ
が、全員降りるのに3時間かかった。それほど沢山乗っていたんだ。降りると真っ
暗だ。金泉へ行く車に乗れれば良かったが、小舟に乗って金泉に来たんだ。金泉
まで朝まだきに来たが、その次の日はずっと歩いて来た。

私らも気が強くなって、仕事に出ない方がいいと思い、私らだけでなく、飯場に
いる全員が仕事に出なかった。そうして何日か過ぎた。何日か過ぎたら、中国人
が出て来た。あの火を消す消防所に、服も沢山しまってあり、消防機械もある倉
庫。そのカギを中国人が、自分らは一等国民だと言って、韓国人は二等国民だと
(笑)、そう言って倉庫をメッタ打ちに壊した。そこに消火の機械、服も沢山あ
った、服は軍服だが、それを取って、沢山着込んだ。だけどそれに、何か言う人
はいない。監視もいない。日本人で時計を付けていると、その時計をよこせと、
中国人が奪ってしまう。

朝鮮人はそんな人はいませんでした?
いない。韓国人はそんなことはしない。そのうち、このままでだめだと、栄州の
人と全羅道順天の人から選んだ。全羅道順天からもたくさん来ていた。自分たち
で長を選び、朝鮮人を全て加入させた。帰る人を送るとともに食堂のご飯のため
にコメなどの配給を受けなきゃいけない。そうしないと、日本人はみな行ってし
まったから、どこでコメをくれるのか分からない。だから選んだ。しかし、全羅
道順天の一人、栄州の一人がやるといい、それで皆で投票しようと投票をした
が、もともと慶尚道が多くて、全羅道は少ない…(笑)、そして栄州の人が当選
した。で、食堂とか他の配給など、コメなどを4合ずつわけた。4合なら腹いっぱ
い食べれる。腹いっぱい…食べて休むんだ、仕事なんかするもんか。最初に来た
人から帰れるように送ることになった。それも何十人でまとまって行く、ここに
着た順に。うちの金泉の人から出て行くんだ。その時に服、軍服一着、それと毛
布一枚ずつ、日本人たちがくれた。それを持って、ある日、出発した。
汽車に乗って下関に来たが、船がない。人でいっぱいだった。小舟も壊れてい
て、その隙間に座ったりしていた。夜だから行く所もないし、船が来なと乗れな
いから、その小舟の中で、そこでも賭け事をした。韓国人は賭け事が好きだ。そ
うして一晩過ぎた次の日、どこかへ行くと日本人がついて来た。乗せてやると。
仙崎という所へ行こうと言う。そこまで行ったら船があると。それで仙崎へ行っ
たら、暗い。船は海の真ん中にあって、水深が浅くて船がこちらに来れない。小
舟に乗せてやると言うので、暗い中を歩いていたら、ずるっと落ちた。そこは肥

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日本人の話を誰が通訳しました?
うん、通訳する人もいて、事務室にいる人。栄州の人だ。4)  こいつ等が、私らが
期限になったから出て行こうと考えていると、私らをなだめるんだ。うまくヤツ
を使ってなだめ、引き留めて働かせようと。それでメダルをくれるんだ。日本人
たちが。

では、おじいさんは2年期限を過ぎて、メダルを持ったのですか?
持った。2年を過ぎて、持った。

この勲章を受けた時、誰がくれましたか。赤十字社がくれるものだと聞いたこと
がありますか?
聞いたことない。それはない。赤十字だとか、そんなのは知らない。

その栄州や禮泉の人もメダルを持っていました?
それは分からない。後で来た人間にくれるのか、くれないのかは分からない。私
と一緒に行った人がもらった。

メダルを貰った時を憶えていますか?講堂に集まったのですか?
そうだ。「もう一年延長しろ」とくれた。私ら、一緒に行った人だけが集まった。

学校の卒業式で卒業状をくれるように?
そうだ。卒業状をくれるのと同じだ。

お金を沢山もらったら賭け事をするからと言って、金をくれない

そこで月給は貰いましたか?
月給は、初めはくれたが、後になると、くれたのかどうか分からない。

いいやつをメダルでなだめて、引き留

めて働かせようとくれたんだ

大夕張炭鉱でおじいさんより先に行ってた人
はいましたか?
うん。栄州、禮泉の人たちがたくさん来てい
た。そこにたくさんいた。みなその人たち
だ。

その後に来た人もいました?
ここ、金泉の人が後から来た。この村の人を
一人見かけた。姓は「カン」と言ったが、名
前は忘れた。

では金泉からおじいさんを最初に連れて行っ

た後に、また連れて行ったようですか?
そうだ。また来た。2年間働いて、また2年。そこに4年間いた。

おじいさんは4年間ですか?
そうだ。2年期限で行った。2年期限だと言ったら2年いれば期限だろう。期限
になったら帰ろうとするが、帰さない。辞めさせない。朝鮮人は新しく始終入っ
て来るのに。あ、日本人がメダルを一つくれた。これを持っていたら、人を殺し
ても一回は許される、そう言ってメダルをくれた。

おじいさんと一緒に行った人はメダルをみんな貰ったのですか?
貰った。

では、メダルをくれて「人を殺しても許される」と言った人は誰ですか?
それは日本人だ。日本人がそう言った。

◎ 2年再契約をして受取ったメダル

     (徐正萬寄贈)   

  4) 上のメダルの製作主体は日本赤十字社であり、口述者が述べた「殺人程度の犯罪をしても許さ

れる」ということは、確認できない。再契約時に日本人監督、または通訳者がそのような言葉

で朝鮮人労務者を騙したものとみられる。

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んで入れた。〔火葬後、骨を〕さらえと。それでどうするかと言えば、骨を包ん
で送ると言っていた。

働いていてケガした人は?
李〇ジュという人が知禮(禮泉郡知禮面)にいる。それは炭掘りをして足をケガ
し、すぐに帰って来た。ケガして働けないと、1年間ほどで帰って来た。

その方はどのようにケガしました?
炭掘りをしていたら火が出たため逃げて、ケガをした。ガス事故だ。火が出たか
ら逃げて、転んだ。それでケガした。韓国へ来て何度か会ったが、最近は死んだ
のか、生きているのか、分からない。

日本へ募集で行ったとおっしゃいましたね。募集の人たちは何という募集でし
た?
金を稼ぎに行こうと。炭鉱で金を稼ごうと言われた。募集すると。

その時、北海道へ行くと知っていました?
分かってた。北海道と知っていた。そこから〔募集に〕来たと言っていた。

北海道へ行って、その募集に来た日本人と会いましたか?
それは会えなかった。日本へ行ってからは、募集に来た人と会っていない。

その募集に来た人が、おじいさんたちを北海道まで連れて行きましたか?
うん。連れて行った。

働かせることだけで、治療費なんか気にもかけなかった

そこで4年間ですね?
そうだ。4年だ。2年が過ぎて期限だから帰ろうとしたが、帰れないで、新たに

おじいさんが直接お金を受取らなかったのですか?
貰えない。お金をくれない。ひと月働いたら3円。

坑内で炭掘りする人はお金が多く出るのですか?
炭掘りする人も私らと全く同じだ。募集で行った人はみんなそうだ。全く同じ
だ。お金を沢山もらったら賭け事をするからと言って、お金をくれない。お金を
くれなくても、しょっちゅう集めてばくちをしたがね。

休みの日は何をしました?
休みの日は部屋で座っている。行く所もないが、休まなきゃ。そして下へ行く。
腹が空いたら、うどんを売っている。たくさん並んでいて、うどん一杯買うのが
大変だ。買えない。人が一杯だ。売っているのは一か所だけだ。それも後で行く
となくなる。店を閉まってしまって買えない。それで日々、ごみ箱を探って、そ
の中にあるジャガイモを取って焼いて食べる。腐ったものを。

おじいさんは三菱の大夕張炭鉱にいたでしょう。三菱って聞きました?
三菱?三菱炭鉱だと。三菱が日本でお金が多い。お金を際限なく持っているだ
ろ。炭鉱も多く、いろいろな工場も多く、三菱が一番大きい所だ。

そこにいて事故も多かったでしょう。炭鉱で?
多いとも。事故がいっぱい起きた。

万一、そこで人が死んだらどうなります?
死んだら?そこで私らが火葬して、遺骨包みを送る。

火葬するのを見たことがあります?
一緒に行った人で大徳の人が一人死んだ。一緒に行ったが、死んだ人は私ら4人
で運んだ。事故のため病院で死んだ。病院へ運んで、4人で担いで、谷間に行った
ら火葬場がある。火葬場で、日本人がそこで火をくべて怒鳴りつける。私らが運

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腹をケガして病院へ行って解放を迎えたとおっしゃったでしょう?
そうだ。作業中に天井から石が落ちて…。天井に穴を開ける作業をしていたが、
発破を入れた。石が完全に落ちていなかった。炭車にかぶさって掘り入れてい
て、石が落ちてくるのに気づかなかった。
いまは治りました?
いまでも痛む。

〈妻〉今でも腹が痛いと言います。

酷く苦労して、その時の記憶が忘れられない

◎炭鉱に入所して一緒に動員された金泉の一行と撮った団体写真(徐正萬寄贈)

おじいさん、この委員会へ寄贈した写真を憶えていますか?大きくコピーして持
って来ましたよ。
うん、これか。

2年いた。合計4年いたが、背中をぶつけて骨を痛めた。それで病院へ行った。
行って何日かしたら、解放されたと聞いた。その時、帰ろうと思ったのだが…
(笑)。あいつら、働かせるだけで、治療費なんか気にもかけない。あいつら。人を
殴って、こき使うだけこき使った。

逃亡しようとしたのは解放直前でしたか?
逃げたのは、約1年過ぎた時だった。

辛くて逃亡したのですね?
そうだ。辛くて。

何が一番辛かったですか?
腹が空くこと。腹が空くのが一番辛かった。

おじいさんは逃亡して自首しましたが、逃亡に成功した人もいたでしょう?
どこに(いるものか)?遠くまで逃げたが、捕まって来た人がいた。千島だと言
った。千島へ行ったら、寒くて、風が吹いて、高い木がない。風が吹きつけて木
が地面に張り付いていたらしい。その千島まで逃げた人は、さまよって足が凍傷
になって、行くも戻るもできなくなった。それで、「自分は炭鉱から逃げて来
た」と言ったら、そこの人たちが捕まえて、そいつを元の炭鉱に送った。元の炭
鉱へ戻った。

アイゴ、逃亡しても酷い所へ行ったのですね。
それでこの炭鉱に戻ったが、足が良くならないで、足の指を少し切った。そのた
め掃除をさせた。飯場に馬が通る通路があるが、通路を水で濡らして拭かせ、そ
うやって歳月を送らせた。韓国へ帰さないで、仕事をさせたんだ。

腹はどうケガしたのですか?
腹?

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事務室に日本人が3名いましたね?
そうだ、3名。(2列目右から7番目の女性から3名)。

ここに栄州とか禮泉の人もいますか?
それはいない。これは金泉の者を撮っ
たものだ。私らが行って、一緒に撮っ
たものだ。

髪が短いですね。行ってすぐに撮った
ものですね。
ここにいる人は頭を刈らなかったが、
私らは逃亡したら捕まえるために、頭
をクリクリに刈った。頭をクリクリに
刈ったら目立つだろう。

おじいさん、委員会へ印鑑もくださいましたよね?
印鑑は、作れと言われたから。職人がいるから作れと言うんだ。その印鑑は水晶
だと。昔、水晶と言ったら高価だ。水晶と言うから作ったが、できたのを見たら
水晶でなく、ガラスだ。

ガラスなのに、欠けたりしないで良く保存してありますね?
しっかりしまって置いたから、欠けるものか?

この印鑑をよく使いましたか?
使わない。使うことはない。水晶と言うから記念に作っただけだ。持っていて
も、その当時の日本名(創氏改名)で作ったものを、使う所はない。(笑)

◎ 動員地で作った印鑑(徐正萬寄贈)

この写真はどこで撮りました?
これは飯場の前で。

この人たちは同じ服を着ていますね。この服は何の服です?
作業服だ。作業服だから、坑外で着るものと全く同じだ。(写真をじっくり見な
がら)私がここにいる。(写真、最後列左から7番目)

この作業服は、いつもらいました?
金泉から出発の時にもらって着たものだ。

この服、ズタ袋みたいですね。
そうだ。ズタ袋みたいに真っ黒だ。真っ黒な袋みたいだ。

この帽子は、いつもらいました?
帽子は北海道に行った時にくれた。

この写真はいつ撮りました?
北海道へ着いた途端、事務室の前だ。

この人たちは金泉の人たちですね?
そうだ。全部。これは亀城〔面〕の人(後ろから2列目右から8番目)だが、軍隊
へ行けと言われて、軍隊に行った。

日本の軍隊?
そうだ。戦時だ。南洋にも行った。北海道から軍隊へ行く人がいた。行けと言わ
れて軍隊に行った。

ここに飯場の主人もいますか?
うん。この眼鏡をかけた人(2列目三階から8番目)と、女性も事務室にいる。

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誰が誰を殴るのです?
栄州の人たち。監督、そのタツカワとハヤセとそいつ等が。そいつ等に私ら全て
殴られて、解放になった。あいつ等、今日の夕方、私らが行って懲らしめようと
相談した。だが、その栄州のヤツが私らと同じ部屋にいて、こいつが行って、告
口した。

アイゴ、告口を。
そうだ。行ってみたら、逃げてしまっていない。日本人はみんな逃げていない。
空っぽの事務室だ。

では、その人たちを殴れなかった?
殴れなかった。捕まえたら殴れるが。そいつらがその夕方にいたら、殴ろうとし
ていたんだ。栄州のヤツがこっそり行って知らせたからだ。

栄州と禮泉の人はどのくらい先に来ていました?
私らより1年ほど前に来た人もいるし、半年ほど前に来た人もいる。一度に来た
のではない。

その人たちも解放されるまでずっと一緒にいたのですか?
そうだ。一緒にいた。

解放前に帰った人はいなかったですか?
いなかった。そこは一度入ったら出てこれない所だ。炭掘りをする谷間のいたる
所に見張りがいるのに、どこへ行ける。

でも、期限が来て帰してくれる人もいたのではないですか?
帰してくれる人は、日本で朝鮮人の親戚とか、親しい友人とか、そんな人が日本
本土にいれば、その人が迎えに来て。実際、青山(尚州市青山面)の人だが、事
情を話して連れ出した人がいた。そうしたら出られるが、普通は出られない。出

炭鉱には全羅道、慶尚道の人がいて、他地域の人はいませんでした?
忠清道の人が何人か後に来た。その人たちはなぜかと言えば、北海道の札幌とい
う所に金鉱がある。金鉱があるが、金鉱で働いていたが、戦争するのに金よりも
炭を掘り出さなければと炭鉱に来た。金鉱にいた人たちが沢山来た。金鉱にいた
人が炭鉱で働くことになった。忠清道の人が何人かいた。忠清道から来たと言っ
ていた。私らと一緒に働いた。5)

札幌にある金鉱で働いていた人たちが?それは、いつです?
期限延長してから来た。

記憶力が凄いですね。おじいさんの話と私たちが本で読んだのと全く同じです。 
うん。そうだろう(笑)。私が4年間、日本にいたから分かるさ。

60年も前のことを、本当によく記憶しています。
記憶していない人もいることだろう。とても苦労したから。とても苦労して、そ
れを忘れることができない。忘れないとも。だから覚えている。苦労も、並の苦
労ではないから。

そこは一度入ったら出てこれない

解放され、順天や栄州の人に投票したとおっしゃいましたね?それは配給の責任
者を選ぶためでしたか?
あんまり、その人らが私らを殴るから。

5)   日本の商工省は1942.12.26.「金鉱業整備令」による金鉱山の保・休・廃鉱と、設備と労働力の

配置転 転換などを命令した。続いて1943年1月閣議決定「金鉱業整備令に関する件」、「金鉱

山整理による従業者配置転換取扱要領」に依拠して各作業場の従業員配置転換計画が着手された。

   口述者の徐正萬は、本人が働いていた作業場に札幌の金鉱で働いていた人が沢山来たと口述し

た。実際、1943.4.「金鉱山休廃山処置」によって札幌に所在した三菱手稲鉱山から93名が三菱大

夕張炭鉱へ転出されたことが、資料から確認される(参考文献『北海道と朝鮮人労働者』、朝鮮

人強制連行実態調査報告書編纂委員会、1999. 307~309頁)。

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・面談日:2009.3.3
・面談者:李宣姈
・補助面談:尹智炫

■ 面談後記

徐正萬さんの申告書に添付されたメダルの写本を見て電話したのが、徐
さんとの関係の初めだった。とても甲高い声で、興味深く話してくれ、
印象的だった。調査官が訪問した時、私が訪問するのを知らなかったよ
うで、テレビを見ていて、少し驚いた表情だった。しかし、2年前の電
話の声のように健康そうな姿で、愉快に豪胆に沢山の話をしてくれた。
当時はみんな腹を空かせて苦しい時代だったという。笑いながら、空腹
が一番辛くて逃亡しようとしたと語ってくれたが、物悲しく感じた。口
述を聞き終え、家の前庭で見た雲に囲まれた山の情景と、徐さんの豪快
な声がずっと印象に残った

られるものか。

おじいさんは4年間、ずっと発破の仕事だけをしたのですか?
そうだ。ずっとそればかりした。一度任されたら他のことはしない。他の所に回
さないで、ずっとそれだけしろと言う。炭掘りは毎日炭掘り。

3人が一緒に仕事したと言いましたが、それはみんな金泉の人ですか?
金泉もいれば清道(チョンド・慶尚北道)の人もいたし、青陽(チョンヤン・忠
清道)の人もいた。人が少ない。それで交替でした。

では、その3人と日本人1人の4人で作業したのですか?
違う。日本人は発破を仕掛けるんだ。それは監督だ。監督は私らが削孔したら、
発破だけ仕掛けて、それで一日の仕事は終わりだ。私らは炭車を引っ張り出さな
きゃいけない。

詳しく話して下さって、とても興味深かったです。(笑)
ソウルに戻るんだろう。分からないことがあれば、また話をしよう。

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ガス爆発事故で2人だけが生き延びた

〈三菱鉱業(株)美唄鉱業所〉6)

慶州から日本の端の青森を過ぎて北海道の三菱美唄鉱業所へ

今年お幾つですか?
89歳。申年だ。

日本へ行ったのは何歳の時でした?
日にちは、11月14日に家を出た。その歳は忘れ、年度も分からない。

・1920.10.27.  慶尚北道慶州市外東邑石溪里、出生
・1943.11.    三菱鉱業(株)美唄鉱業所 へ動員
・1944.5.16.   竪坑北部第1斜坑で発生したガス爆発で左腕負傷
・1945.8.    解放後に本籍地へ帰還

千萬壽(チョン・マンス)

 6)      三菱鉱業(株)美唄鉱業所。北海道の美唄地域は、石狩炭田(夕張・空知山地にある日本最大の炭

田)の一部で、豊富な石炭を産出する北海道内有数の採炭地のひとつだった。1874年からいち早く開
拓のための調査が行われ、1906年に鉄道が国有化されて本格的に開発が進められた。1913年、同地域
で開発が進んでいた飯田炭砿を1915年三菱鉱業(株)が買収し、三菱美唄炭鉱になった。その後、三
菱鉱業美唄鉄道線を開通させ、生産量を増やして行き、大夕張炭鉱に並ぶ三菱の主力炭鉱として名を
響かせた。1939年10月20日夜、朝鮮を出発した138名の労務者が美唄鉄道常盤台駅に到着し、三菱美
唄鉱業所一心寮に収容された。次日の6時に起床し、10時まで宣誓式をし、鉱業所長と美唄警察署長
の訓示を受けた後、天皇に向かって万歳三唱をした。この年12月まで700名の朝鮮人が連行され、こ
れが「集団募集」政策に名を借りた朝鮮人労務者強制動員の始まりだった。これ以降も労働者たちの
動員は続き、1945年6月末には、三菱美唄鉱業所に総数2817名の朝鮮人労務者がいた。1973年に廃山
され、一時栄えた常盤台地区には住民が姿を消した。現在は公園として整備されているが、ほぼ無人
地帯だ。1941年3月18日、通洞坑でガス爆発事故が発生して177名が死亡し、まだ朝鮮人14名の遺体
が地下に眠っているという。1944年5月16日には竪坑北部でガス爆発事故が発生し、瞬間的に109名が
命を失った。そのうち姓名が確認された朝鮮人は70名を超える。参考文献 『写真で見る美唄の20世
紀』美唄市,2001. 『美唄由来雑記』美唄市,2001. 『北海道と朝鮮人労働者』、朝鮮人強制連行実態
調査報告書編纂委員会1999.

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4時半か5時に起きて飯を食べて、竪坑 7) へ行くが、エレベーターに乗って行け
ば5時半にはなる。現場に入れば5時半か6時。だから他の所で人が何をしてい
るのか見る暇もない。寝て働いて食べて、寝て働いて、それだけだ。風呂に入っ
て…、それだけだ。

入って、坑内から何時に出てきます?
現場で交替になるから、10時間くらい入っている。時間になったら出て来る。時
間内には出てこれない。

お金はどう受け取りました?
ひと月が過ぎたら、お前は働いた分はいくらだと言って。朝に仕事に出たら、早
いことは早い。昨日お前が働いたのは、お金でいくらだと、紙切れで出てくるん
だ。それを見て自分が、「ウーン、昨日これしかできなかったな。もう少し働か
なきゃ…。」もう少し働いたら、次の日にまた紙切れが出て来る。ひと月一日も
休まないで働けば、特別に報奨金が結構出る。現在のお金にしたら、10万ウォン
(日貨1万円)になるだろう。だが、一日休んだら、その分は差引になる。お金を
もらいに行ったら、お前は先月2日休んだからと言って、その罰として差し引かれ
る。少なく働けば少しもらえる。少なければ命がかかっているから、死に物狂い
で仕事を沢山するんだ。私がまだケガをしていない時、ひと月働いてもらったお
金が、飯代に足りなかった。

ご飯代に足りなかった?
何で足りないかと言えば、差引くからだ。はじめは飯代、国民貯蓄で貯蓄金を引
いて、床屋代で引いて、風呂代で引いて、キャップランプ8)   が消耗したと引い
て、服をくれたら服代を引いて、そうやって初めから差引が多い。風呂も一日一
回は入らなきゃいけない。多かれ少なかれひと月に風呂代がいくらになるか。床
屋も一月に2、3回か、料金が請求され、タバコ代も私が吸ったのか誰が吸った

 8) 帽子やヘルメットに照明用の電灯を装着すること

どうして日本へ行くようになったのですか?
無条件で、家にいたのを見られ、出てこいと言われて。出て行ったら入室〔から
外東〕(慶州市外東邑入室里)へ行こうと言われ、行ったら、慶州へ行こうと言
われ、それで慶州へ行った。

誰が出てこいと言ったのですか?
当時の邑書記だ。当時は無条件でそうした。ある年齢になったら無条件。そして
慶州へ行って、慶州郡に全員が集まって、文化旅館に泊まった。

文化旅館に集まった人は何人くらいですか?
およそ50名になったと思う。

同じ邑からは何人行きました?
この邑からは私一人だけだ。次に釜山へ行って一晩泊まって、釜山から連絡船に
乗って下関へ行って一泊して、また東京へ行って一泊して、そこから日本の端の
青森へ行って一泊して、次の日に北海道の函館へ行って一泊…。アイゴ、苦労と
言ったら言葉にならない。そして北海道、空知郡美唄町の三菱美唄鉱業所だ。

寝て働いて食べて、寝て働いて、それだけだ

そこに行ってみたら慶尚北道の人、あの尚州から、禮泉から、聞慶から、四方か
ら集められた人が数百人だ。鉱業所内の食堂は、一心寮だ。一心寮で400名余にな
る。その上の方に上がると、常盤寮がある。

常盤寮はどんなところです?
一心寮の上にある。一心寮の人はそこで食べて寝て、常盤寮は別の寮だ。そこの
人たちもその炭鉱に行くが、どちらに入るのかは分からない。見えないから。朝

  7) 地下深層部の炭鉱の採掘を目的にする井戸のような垂直の坑道

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炭鉱の現場に入った。竪坑と言う坑
がある。地上から下の坑まで距離が
600ⅿある。その炭鉱に入って炭掘
りする。ああ!初めに一週間、訓練
をした。

訓練ですか?
最初に教えたのは、炭鉱という所で
は電車に乗って入って、四方に配置
して石炭を掘りに行く。はじめか
ら、深く入って行けば、死ぬか生き
るか分からない。ぼう然とする場所
だと。一番恐ろしいのはガスだ、電
気よりもガスの火の速度が3秒早い
と。そして万一、坑内が崩れて人が
通行できなくなったら、動かないこ
と。そこに鉄管がある、それに耳を
当てていれば、坑内の人が生きてい
るか死んでいるか確認のため、坑

外の人が鉄管を叩く。外で鉄管をトントン叩いたら、それが聞こえる。聞こえた
ら、こちらも石などでトントン叩いたら、あっ、人が生きているとなって、崩れ
た所を取り除く。何百人死んでも、外から叩いてみて、反応がなければ、皆死ん
だことになる。だから急ぐ必要はないと。

誰がその話をしました?
日本人だ。私がこの腕をケガした。この腕の色が違うだろう?(右腕と怪我した
左腕を比べながら)坑内で働いていて崩れて、隣にいた人は全て死んだのか、跡
形も見えなく…。炭鉱内に水が噴き出して来るから、水を汲み出すんだ。万一、
水が入って来たら、水汲みが一番必要だ。ガスの爆風が沸き立って、坑内が崩れ

◎竪坑(2006.10.委員会の調査団が撮影)

のか、5、6箱分を差引かれる。どうすることもできない。吸う人も吸わない人
もいるのに、言っても、そいつ等も上司の命令でやるから…。もう、吸おうが吸
うまいが。タバコは良いのをくれた。高い方が金儲けになるんだろう。食べて、
理髪して、風呂に入って、タバコも吸おうが吸うまいが代金を取られ、服代を払
って、お金が残るものか?私の家に女房を置いて行ったから、お金を稼いで送ろ
うと思っていたが、送る金がどこにある。私も辛うじて暮らしているのに…。

酒の配給は有りましたか?
酒は、飲んで喧嘩するからと、ひと月に2、3回か配給で出た、一人1合ずつ。

食事はどうでした?
朝、昼、晩。昼食は茹カボチャだ。カボチャの時期だとそれを茹でて、ジャガイ
モがとれるとそれを昼食に出した。朝夕は飯を出して、朝はたくわんという漬物
が出て、夕食は肉(魚?)が出た。一年365日、夕食には肉を出した。夕食は何の
肉であれ、肉が出た。朝食は大根の煮物を3、4個しか出さない。昼食はカボチ
ャ、夕食は肉を出す。何でこうなんだと聞くと、昼にきつい労働をしたら、夕食
に養分がある肉を食べて、寝たら疲れた体が軽くなる、そんなことを言う。アイ
ゴ、そいつ、苦痛を…。

では、朝夕は食事量が少ないのですね?
腹が空いても、私らみたいなひ弱な人間は、食事量が少なくてもまだマシだ。だ
が、体格の良い人は…。少し食べると、はじめは膨れるんだ。顔が膨れて黄色く
なって…。その人たちも一月くらい膨れて、慣れたら大丈夫だ。一日に韓国人の
糧食は3合5勺もらう。だがそのままくれる訳でもない。ヤツらが減らす。日本
人が、監督が、偉いヤツらが、お前ら少し食べろと量を減らす。韓国人も飯が必
要な人間が沢山いるのに。労務課に確かめると「偉い人の食事を減らす訳に行か
ない」という。私らは犬扱いだ。

隣にいた人は全部死んだか、跡形がない

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で、2人が助かったと言う〔死亡者数は109人〕。私と日本人が助かって、その他
は全てみな死んだ。私と行った慶州の人、この一帯の人はみんな死んで、尚州、
善山から来た人も、その事故で消えた、死んだ。

日本へ行ってどれくらいの時期です?
約一か月だった。

事故が起きたのは何月です?
それは4月の何日だったか…。

おじいさんはケガして、どうなりました?
腕をケガしてパンパンに腫れて、指を切って。日本人(医師)の腕も良かった。3
週間ほどで退院した。腕は痛くて細くなった。見なさい、細いだろう。細くて、
色も白くなった。冬になると毎日腕を包む。手がしびれる。冬になると寒くて、
しびれて力が入らない。

負傷に対して日本人は補償をしましたか?
そんなものはない。治療だけだ。死なないで生き延びたから。特別に、友人たち
が酒でも飲めとお金を出してくれた。そのお金では足りない。韓国人が「わぁ
っ」と言って、「お前生き延びたから、一杯おごれ」と言うんだ。酒もないし、
お金もない。そんなものだ。みんな死んで、私だけ生き延びたから。その現場に
入った144人〔109人〕がみんな死んだ。146人が入って、日本人と私だけが生き
た。本当に大変だった。

遺骨がズラッと並んだ

その亡くなった人たちはどうなりましたか?
死者を掘り出すのに、昨日火が出て今日死人を掘り出せば、お金(見舞金)が少

◎通洞坑(2006.10.委員会)

て、水に落ちて、爆風と一緒になった。その溝に落ちたが、水がぐつぐつと沸き
立って…。(二度目の爆発を表現している。ガス爆発で爆風がビュッと押し寄せ
たという表現のようだ。)パッと沸き立ったら上から風が叩きつけて来て、私は
飛ばされ、6、7ⅿも吹き飛ばされた…。そしてガスが外で破裂して火が点い
て、奥へ逃げたが、行き止まりだ。その次に、また吹き飛ばされて4ⅿ…。
訓練の時、万一の際は、坑道に線路があるからそれを辿って、北側に出たら助か
ると。訓練では、そうしたんだ。私は助かりたいと、周囲を探ってみたが、全く
人の気配がない。あー、皆死んでしまったのかと思った。暫くしたら気持ちが落
ち着いた。ヘッドランプは壊れた。落ちてなくなった。線路を辿って必死に出て
きたら、北側の仕事していた所から出てきたら、南側で働いていた人が「北側に
ガスが噴き出した」と泣き叫んで、私を掴んで、「皆どこへ行った」、「お前一
人か」と抱えて…。それで私は病院へ行ったが、手に穴が開いて肉がどこか飛ん
で無くなって…。それで、日本人が調査して何人死んだかと言えば、146人が死ん

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つけて口を塞いでいても、耳が取れてしまう。みんな燃えて潰れて…。しかし、
日本人らは一生食べて暮らせるお金を全部もらえると聞いたが…。

負傷した日本人はお金を沢山もらったのですね?
うん、そうだ。韓国人はそれより少ない。飯もちゃんとくれない。ヤツらが勝手
に捕まえて来て…。はじめて行った時、お前ら戦争へ行くか?それとも炭鉱で働
くか?と、誰かは戦争へ行くと言って、私は炭鉱で働くと…。

戦争か炭鉱か選べと尋ねたのは誰ですか?
炭鉱では監督をする韓国人もいる。書類を作るのに、韓国人の誰かが来て志願兵
を募集した。(兵隊に行かなくて)炭鉱で働く人は、戦争へ行く代わりに兵隊の
ように、与えられたことは何でもしますと。そう約束させられた。

おじいさんがいた間、また大きな事故はありました?
あっても分からない。沢山死んだ。炭鉱のその竪坑は入口を井戸のように掘り下
げる。降りていくのにエレベーター2基があるが、1基が下がると1基が上がっ
て、そこに韓国人が挟まって死んだ。アイゴ。私は生き長らえた。沢山死んだ
が、私は死なないで生き延びた。障がい者になって、障がい者でも仕事はあっ
た。坑内ではあちこちへ水をたくさん送るが、それを撒いたりした。炭を掘って
中で載せて出て来る。埃がもうもうと出る。中は全部真っ暗で、それで機械を使
ってホースで水をかける。炭を載せて行く上に水をかけるんだ。9)  こうやって
水をかけて50、60台が出て行く。しばらくかけると雨が降ったみたいになって、
載せて行く。私は片腕が使えないから、水をかける役で、楽と言えば楽だ。だけ
ど、お金をくれない…辛うじて飯代を払う程度。

ない。10日後ならちょっと多くて、28日かかったら、一番遅く掘り出したら、お
金が多い。

死亡者にお金を出すのですね?
うんそうだ。日本でお金をくれる。死んだ家族に渡さなきゃ。私がはっきりと覚
えているのは、慶州の金氏が私と同年齢だ。その人の家の状況を日本人が尋ね
た。女房がいて、息子が一人、暮らしが苦しいと話したら、お金を渡すと言っ
た。いくら渡したのか、金額は分からない。遺族に送ると言ったから送ったのだ
ろう。渡すと言ったから。

会社から遺族にお金を渡したのですか?
そうだ。私は腕をケガして働かないで、病院に治療で通ったが、死んだ同僚たち
を火葬するのを見に行った。ドラム缶をいくつかに分けて、広めに作って、溶接
をして、その下に石炭を入れて、熱くして、3、4体ずつ重ねて火を点けて…。
この人があなたの夫だと言ってるが、3体焼いたら3包出るから皆混ざる。歳が
上の人は上の列に置いて、独身者は一番下の列に置いて、ズラッと並べて置いた
が、144人〔ママ〕の包みがズラッと置かれた。全て見送った。

亡くなった方は全員韓国人ですか?
全て韓国人だ。日本人はいない〔ママ〕。労働するのは韓国人だけだ。捕まえて
自分勝手に…。

会社から事故の調査は出ませんでしたか?
そんなことは分からない。日本人が、「どう生き延びたのか?」と私に聞くか
ら、機械に油を入れるドラム缶があるだろう。水をそのドラム缶に入れて置いて
あったが、扉がバンと開いた時にそれが潰れて、水が全部かかったから助かった
んだと。ガスがどれほど危険かと言えば、離れた所から、このガスが、坑内は多
岐に分かれているから、そこに全部ガスの火炎が行かなくても、空気で爆風が行
って、そこで働いていた人にその火炎が襲いかかって手の指は無くなる。帽子を

 9) 坑内粉塵の主なものは、炭塵と石粉塵である。炭塵は主に石炭の採掘沿層坑道の掘塵、石炭の

積載・運搬時の積換などで発生する。炭塵は坑内気流中に浮遊し、坑道内に降積って爆発、ま

たは爆発伝播に関係する。炭塵発生防止に使われる方法は、炭塵発生場所に噴水膜を作る、炭

塵が積載した場所に水を撒くか、または採炭に入る前に炭層内に圧力水を注入して石炭を濡ら

す炭壁注水法などの方法を利用する。

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中国人を戻した?
うん。帰した。では、なぜ韓国人は返さないのかと聞いたら、韓国人は多過ぎて
できないと。

おじいさんの帰国はどうでしたか?
うん。帰って来るのに7泊8日かかった。北海道から出発して韓国に帰るのに。
韓国人は3800人が船に乗った。一隻の船に載せて行く、米国が海に爆弾〔機雷〕
を落としたから船が早く来れない。私の目の前で船が1万人乗せて行ったが、米
国人が落とした爆弾〔機雷〕に当たってみんな死んだという。それから、韓国に
戻る途中で2人が死んだ。静かに座っていたのに、死んだ。昼夜8日かかったか
ら、死んだ。

船で死んだらどうします?
死んだ人を乗せて来れない。布で包んで、途中で人が死んだと、小さな船が一艘
来て、そこに死んだ人を載せて送った。また小舟が来て子どもを乗せて、韓国の
婦人も沢山いた。生活していたからな。あ!夫人が子どもを産むのに… 韓国人
が、あ~悪いんだ。船に3800人が乗っていたから、船がゆっくり行くだろう。そ
れで妊婦を通路に横にさせて、決まった部屋がないから綱でそれをグルッと囲ん
で、その妊婦の夫とか知人が付き添っているが、人びとがそれを見物して綱を超
える…。それで韓国人たちが喧嘩になる。「こいつ等、妊婦が子どもを産むのに
何を観ているんだ?」、「何で見たらいけないんだ?」と喧嘩し…。

帰国する時は、船に乗って真直ぐに釜山まで来たのですか?
北海道の室蘭から船に乗って釜山に着いたのが、7泊8日だ。

では10日ほどかかったのですね?
うん。船の中で。それで日本人が書類を持ってきて、石渓里の千萬壽、お前は釜
山から石渓は距離が数〔十〕キロメートルだから飯は少しで済むと、コメが2升
だったか、包んで、釜山からの汽車代とその包みをくれた。釜山で降りて、家に

では、ケガした人は仕事が簡単だから、お金が少なかったのですか?
きつい仕事をしたら沢山くれて、簡単な仕事をしたらお金が少なくなる。私はこ
の腕をケガしたから、まともに働けなくなった。だから、ヤツらがお前をできる
ことをすれば良いと言う。仕事ができないから、働けないならそうして、そのま
ま3年期限までいて、3年後に帰ろうと。仕事がしたかったら飯代を稼ぐ程度の
簡単な仕事をやれ…。そうしているうちに解放になって、みんな帰ることになった。

私らを捕まえて勝手に働かせたが、お前らもざまあみろ
韓国人が解放された。解放される前は日本の思い通り、韓国が属国だから、思い
通りにしたが、解放されて、それも戦争に負けて、私らみんな解放されて、あい
つら私らを捕まえて自分勝手に働かせたが、お前らもざまあみろ。解放された次
の日から、私らは韓国の団体名を腕につけて…。

団体名は何です?
団体名は保安隊と言った。韓国人が全部捕獲した。私はそんなにしないで、つい
て見てばかりだが、日本人の商店に入って必要な物を取って来て、「お前らが私
らを捕まえて来た。お前らと私らは同じなのに。私らは今、なにもないのにお前
らは持っているから分ける」と言った。食堂に行って、お金出すから飯をくれと
言えば飯を出した。食べたらお金を払わないで、そのまま出て来た。解放されて
韓国人も悪いことをした。

炭鉱で中国人を見ました?
中国人は兵隊捕虜だ。450人か、捕虜兵を捕まえてきて、日本人が閉じ込め、飯
は少し与えて。私もそこへ見に行ったが、人を本当に…、詰め込んでいた。冬に
なったら凍れて部屋も冷凍庫だ。寒くて凍れて、食べれなくて、1年過ぎるなか
で、死んで、また死んで。死んで40名生き残った〔連行数は289人、死者数は29
人〕。解放されて米国の飛行機が来て、その人たちは歩き回っていて、食べ物を
出せと言って、そうして何カ月かして連れて行った。どこへ行ったのかと聞いた
ら、米国が来て、詰め込んで、中国へ…〔船で帰国〕。

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・面談日:2009.5.20
・面談者:河承賢
・補助面談:尹智炫

■ 面談後記

千萬壽さんが住んでいる石渓里は、「毛火(モファ)」と言う名の慶州
市内バスの終点だ。バスがようやく入る狭い道を行って、村の入口に立
っている大門のような樹を過ぎると石渓里の村が現れる。瞬間、時間が
逆行した印象を与える。そこで会った千萬壽さんは、聴力は衰えても記
憶力だけはハッキリしていた。生と死が一瞬にして決まった大事故で九
死に一生を得て助かった特異な体験は、面談者を驚かせるに十分だっ
た。面談者たちが悲惨な事故の体験談に圧倒され、言葉を失うなか、お
爺さんは動員から帰還までを落着いて淡々と話してくれた。終始、ゆっ
くりと話されたので、長い話が滞りなく理解できた。

来ると夜だった。手紙が届いているとは言うが、家族はどこかへ行ってしまっ
て、いないだろうと考えた。夜の11時だった。家に入ってみると女物のゴム靴2足
だけが置いてあった。

3年前にまだ幼い嫁を迎えて置いて行ったが、どこへも行かずに待
っていた

家の入口に来て、妻が嬉しそうに戸をパッと開けて、「やっと来た」と、3年前
に幼い嫁を迎えて置いて行ったが、どこへも行かずにいた。

結婚してからどれくらいで行ったのですか?
3年足らずだった。結婚した時は20歳だった。

結婚した時、ご夫人は何歳でした?
16歳。家に来て16歳と言っていた。舅が町に賦役に出たが、人を貨物車に一杯に
載せた。「あの車、人をいっぱい載せてどうするんだ?」と聞くと、「妻子の油
を搾りに行くんだ」と言う。日本人が好き勝手にした時期だ。後で聞くと本当に
日本へ連れて行くんだが、油を搾るんでなくて、日本兵たちの使いものにして、
心身も慰安して、そのために送ると言っていた。後で分かったんだが、うちの村
も、谷間の貧乏な家の娘を夜に来ては連れて行くんだと。それで舅がそうならな
いように娘を、娘を嫁がせると。「嫁が欲しい人はいないか」と。私は結婚する
気はなかったが、「嫁をもらう」と言われ、家に連れて来た。洗濯をして飯を炊
いて、うちの母が楽になった。16歳だったが、背が高かった。「どこへも行かな
いで待っていたのか」と聞いたら、「行くって、どこへ?」と言った。最近、よ
くよく 思うんだが、とても良かった。今でも一緒に暮らしていて、本当に良か
った。

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入ったら出てこれない、身じろぎもできない

〈雄別炭鉱鉄道(株)浦幌炭砿〉

雄別は大規模で、尺別はその次で、浦幌炭砿はその次の規模だ

2007年3月4日に朴喜錫(パク・フィソク)翁のお宅で面談しました。今日私たちが訪問
したのは、昔の話を聞いて、そしておじいさんのように北海道へ労務者として動
員された方たちの話を集めて、私たちが本にします。
はい。

孫に聴かすように楽に話して下さい。
うん。話をしているうちに、うっかり忘れる事柄があるから、理解して聞いて欲
しい。

今年、何歳ですか?
うん。86歳だよ。

戸籍は1925年生まれですね?
うん。戸籍は1925年生まれで、86歳。

・1925.11.2.  慶尚北道星州郡星州面龍山里 出生
・1942.11.   雄別炭鉱鉄道(株)浦幌炭鉱に動員された
・1945.3.    徴兵のために解放前に帰還

朴喜錫(パク・フィソク)

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うん。雄別とか尺別とか、何人かで座って話を聞いた。行ったことはない。

いまおじいさんがおっしゃったこと、私たちが本で見たとおりです。お爺さんが
ちゃんと記憶していたのですね。
他のことは記憶がない。

その時は日帝時代じゃないか?

はじめにどうして行くことになりました?
それは言ってみれば、徴用だった。

誰か、募集したのですか?
そう、募集した。

誰が来て炭鉱で稼げと言ったのですか?
その時は日帝時代じゃないか。だから会社が募集し、申し込むんだ。

行きたい人が手を挙げるのですか?それとも選抜されるのですか?
いや、私が申し込んだ。

村から何人か行く人の割当があったのですか?
いや、それは分からない。何人だったか。さっき言ったが、村から2人が行っ
て、1人はどこへ行ったのか分からない。それで行って、名前を呼ばれ、「降り
ろ」といわれて降りた。当時は日本に牛耳られていて食べられなかったから、行
けば少しはマシではないかと。

はじめに行った時、おじいさんは志願したのですね?
志願じゃない。日本の募集で行った。募集で日本へ行って、期限満了まで戻って
来れない。

日本へ徴用で行ったのは何歳でした?
16、17歳だったか。18だったか覚えていない。

北海道にどれほどいました?
2年以上、3年足らずいた。

他の人は日本へ行かないで、おじいさんだけ行ったのですか?
村の人が一人行ったが、その人は亡くなった。私が行った所で死んだのではな
く、ここから体ひとつで行って、三菱の炭鉱に行った。私はとても大きい所の端
の所へ行って、その人は二番目の所だった、三番目の所だったか。

その人の名前は?
名前は「ポク」と言ったが、戸籍でどうなっているか分からない。私らが一緒に
育った時は、「ポク」と呼んでいた。

さっきおじいさんは、一番端の所にいて、その人は二番目の所か、三番目の所か
と言いましたね?
それは、雄別は一番大きな所で、炭鉱だ。さらに、尺別、浦幌にも炭鉱がある。
雄別へは行ったことがなく、どこなのか分からない。雄別は大きな所で、尺別は
二番目の所。浦幌炭砿が三番目の所で、私らが石炭を掘って、山越しのケーブル
に入れて、竹籠に石炭を載せて、渡す。

索道(ケーブルカー)のようなものですか?
うん。石炭を渡す。私らは入ったら、出て来れない。身じろぎもできなかった。

おじいさんの意思では出て来れないのですね?
うん。自分がいるのがどこかも分からない。

でもおじいさんはしっかり記憶していますね。

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日本までどう行きました?
良く分からないが、一晩旅館に泊まった。

ここ星州の旅館ですか?
うん。旅館で寝て、その次の日に出発した。集まった次の日の明方に出発するん
だ。人を集めて。

旅館にたくさん集まりましたか?
100名だった。昔のことだから忘れたが、確かそうだ。

では、次の日に釜山へ行ったのですね?
うん。釜山へ行って、船に乗って、船には2回乗った。

着ていた服はそのままで行ったのですか?
韓国の服で行った。昔の韓服があるだろう?それを着て行った。行く時はそうだ
ったが、(北海道へ)着いて、服をくれたから、それを着て、だけど寒いから、
それだけじゃダメだ。北海道は寒いだろう。寒いから、服の上に服を着た。

行く前に身体検査はしませんでしたか?
身体検査なんかなかった。そのまま集まって行った。

日本人も「報国隊」と言って来た

北海道の炭鉱へ行って、仕事はいつ始めました?
2日くらい休めと言われた。仕事場に配置するのに、事務室にいたら、名前を呼
ばれて「どこへ行け、ついて行け」と言われるんだ。

坑内で働く人の役割分担が多いとか?
多いとも。中に入ったら、仕事は全て違う。一番多いのは炭を掘って取り出すか

はじめ、北海道の炭鉱へ行くことは分からなかったでしょう?
ここで分かっていた。北海道の炭鉱の人が募集に来たから分かった。

それはどう(具体的に)分かったのですか?
それは広告文があるじゃないか。当時、広告文が貼ってあった。それを見て、話
をして、私らは何も分からずに、ついて行くんだ。人が見て、こんなのがあるか
ら行こうと。韓国は日本人に牛耳られて食べられなかったから、「こうしたらマ
シだろう。ああしたらマシだろう」、そんな状態だった。

隣の人が話したからおじいさんが行くと言ったのですね。
そうだ。

その人は広告を見て何と言いました?「北海道の炭鉱で人を募集している」と言
ったのですか?
そうだ。募集と聞いた。食べるために行ったんだ。

そこに月給をいくらくれると書いてありました?
それは仕事によってもらって、飯代とか、まあ適当に書いてあった。北海道へ行
って、買い食いしたりした。

うーん。では募集広告には「北海道の炭鉱で募集する」とだけ書いてあって、他
のことは書いてなかったですか?
うん。それだけだった。何日に行くと言えば、その日に行って車に乗って。

募集に応じたのは、その死んだ「ポク」と言う人と一緒に?
うん。一緒に行ったが、途中で分かれて、どこへ行ったのか分からない。

(星州面)龍山洞から2人行ったのですね?
うん。

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そうだ。だけど同じだ。掘ったら、別の人が掻き出す。掘った炭が溜まったら掘
れなくなる。レールを引いていき、炭を開ける、そして炭が落ちてくる。

「ピック」で炭を掘る人は韓国人でしたか?
韓国人もいたが、日本人が多かった。私らが行って1年くらいしたら、日本人の
村の店などを見かける。そこで「天皇〔勤労〕報国隊」という人たちがいた。そ
の人たちは3カ月間仕事をする。農繁期にはその人たちはいなくなった。

農繁期にはその人たちはいなくて、農繁期以外に(炭鉱に)来たのですね?
雪が降って太陽暦11月くらいになったらその人らが来る。日本人たちは「天皇報
国隊」とか言って来た。

その人たちが来て炭を掘る人ですか?おじいさんのように後ろで…。
その人らは炭掘りにも混ざって入って、3カ月間で出て行く。聞いてみたら農業
の人がいて、商売の人もいた。

その3カ月間はおじいさんのように後ろで炭を掻き出す人ですね?
うん。炭を掻き出す人もいた。坑内に入って掘る人もいた。

前で炭掘りする人は「先山」でしょう?
「先山」と言うが、それは作男だ。

作男ですか?
うん。農村で働く作男。監督は別にいるんだ。「先山」は雇われる立場だ。(先
山が)私らを使うんだ。(先山が)が言うとおりに「お前は今日、これを全て終
えろ」と言われたら、全て終えなきゃいけない。

「先山」が炭掘りする人に指図するのですか?
うん、指図する。木材を坑内に建てる。

ら、それが一番多い。中に入るのは、「三交替」で入る。

では、役割分担する基準は何ですか?
いや。新人が入って来ると、事務の人が「ついて行け」と言うんだ。

事務室の人が「ついて行け」と言うのですね?
そうだ。名前を呼ばれて、その人について行けば、「お前はここの人たちと仕事
しろ」となる。それだけだ。山を掘るが、「昼交替」、「夜交替」がある。それ
は1週間ごとに替わる。

1週間で替わる?
そうだ。1週間で替わるが、「夜交替」は日曜日が休みだ。日曜日を休んだら、
「昼交替」の人が「夜交替」になって、「夜交替」の人が「昼交替」になる。

おじいさんはどんな仕事をしました?
炭掘りだ。

炭はどう掘るのですか?機械で掘るのですか?
そうだ、機械で、空気を入れて、「ピック」で、ドッ、ドッと、掘る人がいた。
そうして、ヤマに穴を開けて掘り出し、掘り出したらそれを何人かで取り込ん
だ。掘る人はまた別にいる。

掘る人がいて、お爺さんは炭を取り出す?
そうだ。

おじいさんが「ピック」で炭掘りをしたのではないですね?
私は炭掘りじゃなかった。

炭掘りはしていない?

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その部屋には何人ほどいました?
大きな部屋で7、8人が寝ていて、17,18人寝る部屋もあって、6人程度の部屋
もあった。

星州から一緒に行った人は部屋にいました?
星州から行った人はいない。みんな各地から来た人で慶尚北道、ソウル、忠清道
も何人か、全羅道も何人かだ。なぜそうかと言えば、各地から集められ、一部屋
に10名泊まるとして、一人二人空きができると、新人が来た時にそこへ入れるんだ。

空いた所に入れる?
うん。

おじいさんが行く前にも、もう人がたくさん来ていましたか?
うん。私らが行く前にたくさん来ていて、20番目だとか…。私らは遅く入った方
だ。韓国から北海道に来て、何カ月も経たないで解放になった。

飯場にいる人は、慶尚道が多かったですか?他の地域の人が多かったですか?
慶尚道が多く、忠清道も多く、各地から全部…。どこが多いと言えない。言わ
ば、慶尚道100人なら、忠清道100人だ。

おじいさんの3号は全部合わせて何人ほどですか?
良く覚えていない。自分の部屋の事しか分からない。隣の部屋に20名だったか、
30名だったか忘れた。思い出せない。

その部屋は幾つありました?
7部屋。

3号棟に7部屋ですね?
うん。

支柱ですか?
うん。支柱を建てる。すると人が来て、名前を書く。いて、誰それは何番、誰そ
れは何番と書く。そこで自分の名前を見て、炭掘りは掘りに行く。

炭掘りの人は、初めから炭掘りはできないでしょう?
その人らは、5、6年は仕事した人だ。

外出なんか、できない

一人が炭を掘ったら、その後ろで運搬する人は何人くらいですか?
良く分からない。昔のことだから良く覚えていない。多い。炭掘りはスコップを
使って掻き出す。掻き出してくれて、私らはそこに入って、自分の仕事だけし
て、そうしたら風呂だ。飯を出されたらそれを食べて…。飯場には番人がいた。
私らの飯場で仕事に出す人がいる。

飯場にも何かする人がいたのですね?
仕事に出す人だ。仕事に出なかったら、叩いて殴って…。

その人は朝鮮人ですか?
朝鮮人だ。その番人が朝鮮人だ。

それが飯場の主人ですか?
「飯場」の主人〔寮長〕がいて、仕事に出す人が「班長(はんちょう)」だ。

仕事に出す人が「班長」?
うん。

その飯場に名前があったでしょう?
「飯場」に名前はある。1号、2号、3号で、私は3号にいた。

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き、私ら若い時分で間食もする。そうしたら残るお金はない。

炭鉱の近所に店はありました?
うん。あった。お金さえ出せば買えた。

その店は多かったですか?
多くなんかない。3、4軒だ。水をかける「ソバ」と言うのがあった。それを食
べた。何か食べたくなったら、そこへ行って食べた。

ソバ屋の主人は日本人ですか?
うん。それはみんな日本人だ。仕事に送り出す「班長」が朝鮮人だ。班長の仕事
は、仕事に追い出して、自分らは飯を食べるんだ。

その「班長」はどこの人ですか?
慶尚道栄州だったか、慶尚道禮泉の人だったか分からない。姓はイムだ。

その「班長」は、おじいさんよりずっと前に来ていたのですか?
うん。前に来ていて信用されて、そこで採用されている人だ。「私は朝鮮に行か
ないで、ここで暮らす」という人だった。

その「班長」はどうでした?仕事に出して苛めるとかしなかったですか?
その人が仕事に出して、体の具合が悪い人は休ませた。その人も人間だから。中
には仮病を使う人もいる。(体が)悪くないのに悪いと言う人。そんな人はバレ
たら殴られた。

逃げる人はいませんでした?
いることはいるが、覚えていない。誰だったか分かるハズもない。そこに入った
ら、出て来れない。外に出ると監視人がいた。

では、1号、2号棟へは言ってみたことがありますか?
私は自分の所にしかいなくて、1号棟、2号棟は行ったことがない。2、3年過
ぎても行ったことがない。仕事を終えたら体を洗って寝るだけだ。仕事に出るか
ら朝起きて、飯をひと匙食べて、集まったら「段取り」を決めて仕事に出る。休
みの日曜でも出かける所がない。

休みの日は何をしました?
部屋の中で話をして、寝る人は寝る。遊ぶ人は遊ぶ。眠たくなければ遊んで、眠
くなったら横になる。

外出はしませんでした?
外出なんて、できない。アイゴ、本当に…。逃げたいけど…。強制的に徴用で来
た人に、外出なんて、できない。入ったら、出てこれない。

行く時は何年期限で行くとか、そんな話はありませんでした?
期限とか憶えていない。私らの苦労と言ったら、死ななかったのが幸いだ。

また誰か一緒に行きましたか?
うん。朴○○と一緒に行ったが、いまは死んだ。日本ではなく、韓国に戻ってか
ら死んだ。

外に出ると監視がいた

ご飯はちゃんと出ましたか?
飯は配給を受けた。配給は一日に6合?1日に6合だったら腹が空く。配給で出
るのは雑穀飯で、コメが少ない。ほとんどが豆や小豆の飯が出てくる。

月給はくれましたか?
月給はいくらかくれる。いくらだったか、忘れた。月給はくれるが、飯代を引

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令状ではなく、「こいつを呼び出せ」ということで、私が出て来た。

おじいさん一人が出て来たのですか。そして韓国に来て、解放になったのですね?
うん。何か月も経たないうちに。解放されたと言うから、本当に解放されたと思
った。

炭鉱には病院もありましたか?
病院があった。いまの韓国の保健所みたいな。腹とか頭が痛いと言えば薬をくれ
た。と言っても、当時の日本には薬らしい薬はなかったが。

さっき、炭鉱で炭を掘って、山を越えて運んだと言ったでしょう。
うん。

その炭を尺別炭鉱へ運んだ話は聞きました?
炭を浦幌炭砿で掘って、尺別へ運んだ。

尺別へ運ぶのに、索道で運んだでしょう?ケーブルのようなもので?
うん。ズラッと、バケツで。

おじいさんがいた炭鉱と尺別炭鉱の間にトンネルを掘ったそうですね。炭を運搬
する時、そのトンネルを見ませんでしたか?
それは見なかった。炭を掘って良い炭を選んで送った。それを私らが悪い炭を選
り分けた。石とかを除いた。

炭鉱から解放される1年半くらい前に、人を他の地域に移動させることはありま
せんでしたか?
私がいる時は、そんなことはなかった。私が出てからあったんじゃないか。

逃げて捕まった人もいたのですね?
そうだ。

逃げて捕まったらどうなります?
それは分からない。そんなこと知ることができない。私らは飯を食べて仕事だけ
をしているから、そんなこと分からない。その人らがどうなったのか分からな
い。もちろん死ぬ目に遭って、酷い苦労をしただろう。

炭鉱事故でケガしたり死んだ人はいました?
たくさんいた。だが名前も知らないし、どこの人かも分からない。「誰か死ん
だ」、そんな程度だ。坑内が崩れて潰されて死ぬ人もいるし、先端を掘っていて
死ぬ人もいた。

おじいさんは、ケガした所はないですか?
私はケガした所はない。

徴兵に行くことになっていた

解放されたのはいつ分かりました?
いつかは分からない。朝鮮に来てから解放された。

あぁそうですね。(被害申告では)45年3月に帰国ですから。
うん。

どうして45年3月に帰国したのですか?
それには訳がある。何でその時に来たかと言えば、日政時に徴兵があった。数カ
月したら私が期日となる。それで韓国に来たんだ。

徴兵令状が来たのですか?

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このみんなの服はもらった作業服ですか?
家から着ていった服だと思うが?

これは韓服じゃないですよ?
韓服じゃない。韓服の上にこの服を着たんだ。

ではこの服は行った時にもらった作業服ですね?
いいや。初め行ってもらった作業服は捨てた。一回捨てた。これは行って何か月
か過ぎて撮ったと思う。

何か月かして撮った?
うん。そう思う。

この人たちはみんな同じ飯場の人ですね?
うん。同じ飯場の人だ。

◎ (挙国石炭確保期間中 成績優秀記念撮影)昭和19年(1944年)5月16日、第3至誠寮一同(朴喜錫寄贈) 

動員されて数カ月過ぎた時に飯場前で撮影。朴喜錫は3列右から13番目にいる。

おじいさんが出てから移動があったようですか?10) 
うん。

おじいさんが出て来たのは解放の少し前でしたね?
そうだ。1年過ぎていたか。私は文字を知っていたら「いつどうなった」と書い
て記憶できるが、学べなかったから、それができなかった。

韓国に戻ってからその話を聞きましたか?そこの人たちが他の地域へ移動になっ
たと言う話ですが?
うん。その話を誰からか聞いた。一度聞いたことがある。

北海道から他の所に移動して働いたことですね?
うん。

他の地域ってどこですか?九州とは聞きませんでした?
分からない。九州も分からない。私は炭鉱にいて、出てきた。それしか分からない。

おじいさん、この写真を憶えていますか?
うん。

頭を短く刈っていますね?
それは私の自由だ。頭を伸ばしたかったら伸ばし、チョンチョンにしたかったら
刈るんだ。この写真は日本へ行ってあんまり経っていない時に撮ったと思う。

 10) 1939年から雄別炭鉱へと朝鮮人が動員され、支山の浦幌と尺別の炭鉱の朝鮮人数は1,000名

以上となった。浦幌炭鉱の石炭はケーブルカーを使って尺別炭鉱へ送られたが、より効率的

にするため、1941年11月、尺浦通洞が建設された。雄別炭鉱は1944年の「政府非常増産緊急

処置」によって休山した。雄別炭鉱の朝鮮人坑夫は九州の三菱系列の炭鉱へ強制的に転換配

置された。〔支山の浦幌炭鉱の朝鮮人430人は1944年8月末、九州の三菱方城炭鉱に転送され

た。〕

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◎休みの日に食事前に撮った写真。朴喜錫は2列目左から4番目。(朴喜錫寄贈)

服は買わなきゃ、ない。入って3か月超えると服の票がある。20枚とか30枚だ
が、切符と言うのがある〔配給制の衣料切符〕。それをくれるから、服屋へ行っ
て買うことになる。服は出してくれるのでなく、私らの月給で買って着る。

帽子も買ったのですね?
多分、私が全て買ったんだ。

この写真の場所はどこですか?
これは神社の前だと思う。この場所は覚えていない。日曜日に撮った。

日曜の休みに撮ったのですね?
うん。

各地から来た人たちですね?
うん、そうだ。

おじいさんがいた3号棟の人たちですね?
うん。1号棟、2号棟の人はここにいない。

では、忠清道もいて、全羅道もいますね。
うん。慶尚道栄州、尚州、安東、みんな一緒に撮った。

この(背景の)建物は何ですか?
飯場だ。飯場の前で撮った。この人が班長だ。(2列右から8番目、眼鏡をかけて
いる)

眼鏡をした人が班長ですか?
うん。眼鏡をしている。それからこの人が飯場の主だ(2列右から7番目)。

二人とも朝鮮人ですか?
多分、ここにいる人は皆朝鮮人だ。

飯場主は家族と一緒ですか?
うん。(私の)頭がぼうっとしてはっきりしない。理解してくれ。

飯場の後横に何か建物が見えますね?
それは風呂場だ。仕事して来たら風呂に入って、風呂場だ。

おじいさん、良く憶えていますね。この写真はいつ撮りました?
これは遅い時期に撮ったものだ。(うれしそうに笑いながら)

おじいさんの帽子や服はどこから入手しました?買ったものですか?

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そうだ。そいつらは徴兵告知書を見て、どうせ出さなきゃいけないから出したん
だ。私はそう思った。その苦労を思えば、胸が詰まる。

そうですか。おじいさんは良く記憶していますね。
うん。少し憶えが悪いが、3、4年前までは大体はっきり憶えていた。

でも、炭鉱の名称まで記憶している人は多くありません。今日はお話をありがと
うございます。本でしか読んだことがなく、勉強になりました。
ありがとう。記憶が揺らぎ、忘れたりしたけど…。

・面談日:2009.3.4.
・面談者:李宣姈
・補助面談:尹智炫

■ 面談後記

朴喜錫さんは、学校に行けなくて文字を知らないから、強制動員の記憶
を思い出せず、以前の記憶がないと話され、学ぶ機会がなかった恨を吐
露された。朴さんは浦幌炭砿での経験談を順々に説いてくれた。当時の
写真は2枚だけ持っているが、残った子どもに伝えて欲しいと望みを話
された。その姿は、強制動員が過去の記憶だけでなく、後の世代にまで
伝えるべき歴史あることを示すものであり、聞き取りの意義を再度振り
返る貴重な時間となった。

写真師がしょっちゅう来たのですか?それとも、いつもいるのですか?
そこにいつもいた。写真師が一人いた。いや、2、3人いた。私らが撮ってくれ
と言ったら、彼らが来て撮ってくれた。

神社へは時々遊びに行ったのですか?
神社も韓国の寺みたいなもんだ。しょっちゅうそこに行って座ったり、遊んだり
した。私らしかいなかった。

炭鉱から遠いのですか?
遠くない。飯場から少し上がったところにある。遠くない。

神社で寺みたいにお祈りしたりとかしたのですか?
それはしない。行って見物して、座って遊んで。

炭鉱に入る前、人を講堂に集めて朝礼もしました?
朝礼はなかった。引率の人が演説はしたが。

演説?毎回するのですか?
いいや、そうではなく、坑内に入る時にタバコを吸わないようにとタバコ検査な
どをする。病気にならないで仕事だけをしていれば殴る人もいない。仕事に出な
いと殴る。

おじいさんは徴兵で故郷に戻ったのでしょう?戻る時に日本で旅費をくれました
か?
いや、旅費がどこにある。貯めてあったから、それで戻って来た。

では自費で戻ったのですね?
そうだ。自費で戻った。私の事情で戻ったから。
でも、行けと言われたから行ったじゃないですか?

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ガスが出るから鉄扉を閉めた

〈茅沼炭鉱〉

10月に長女が生まれたが、10月末に発った

鄭南龍さんが日帝時代に日本へ行った話を伺いに来ました。
北海道の茅沼炭鉱で炭掘りをした。

始めて(北海道へ)どう行かれましたか?
強制募集だ。自ら行ったのではない。村の里長が送った。

里長が募集したのですか?
当時は強制だ。行かない訳にはいかない。日本人に捕まる。

 11) 茅沼炭鉱(茅沼炭化礦業株式会社)は北海道古宇郡泊村に所在していた中規模の炭鉱だ。 

茅沼炭鉱は1864年に開坑され、1964年の閉山まで100年にわたって採掘され、北海道で最も古

い歴史を持っている。

・1910.9.13.  全羅北道長水郡山西面鳳棲里 出生
・1942.10.   北海道の茅沼炭鉱11)  に動員された
・1945.8.    解放後に帰還

鄭南龍(チョン・ナミョン)

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おじいさんが何歳の時ですか?
忘れたな。家の長女が生まれて行った。長女が今60歳を過ぎた。10月に生まれ
て、その10月末に家を離れた。

じゃあ、長女が生まれた年が分ければ良いですね。おじいさん、いま何歳ですか?
97歳だ。(北海道へ)行って4年で解放された。4年だ。行ってはじめに、労務
所長が言うには、3,000円稼げるから2年期限で働けと。2年期限を勤めたら家に
帰すと。だけど無期限だった。戦争が起きて、無期限だ。身動きもできなかった。

長水から行く時、北海道へ行くことを知っていましたか?
知らない。どこへ行くのかも分からない。ついて行くだけだった。

ガスが破裂した日は、本当に恐ろしかった

到着した日の天気はどうでした?
その時は雪がなかった。

他の時は雪が降りました?
雨が降らなきゃ雪が降って、毎日天気が悪い。晴れた日はない。雨が降って雪が
降って、雪が解けたら草が伸びる。雪の中で木を切った。

おじいさん、炭鉱に到着してからの話を聞かせて下さい。
そこへ行って一日過ぎた。病院へ行って医者が診察をする。検査するんだ、院長
が。どこへ行けば良いか分からないから、私らはついて行くだけだ。誰それ何名
は「坑内」、何名は「坑外」12) 、こうやって選ぶんだ。そして、その1人は責任
者にする。その責任者が坑の見学をさせる。坑の見学をしたが、本当に洞窟だ。
坑内に入ると本当に長い。その坑内に線路を敷いて。車に人を載せて登って来る

 12)「坑外」とは、坑道から外の意味であり、採炭や支柱などの坑内労働ではなく、坑外の労働をいう。

村の人は全員一緒に行ったのですか?何人が強制募集されたのですか?
この村からは私一人だ。

一人、どこへ行きました?
山西面で集まって長水郡へ。長水郡にみんなを集めて、獒樹(オス、任実郡獒樹
面の駅)に来て昼飯を食べて、夜には発った。夜に釜山へ向かった。

長水では何人集まりました?
何人だったか分からない。たくさんいた。長水郡の人も集まった。そこにいたら
日本人が来て連れて行った。

長水で日本人と会いましたか?
うん。長水へ行ったら、韓服を脱がせて洋服を着せた。

洋服はどんな色ですか?黒?
作業服なんだが、黒じゃない。日本人にいきなり引き渡された。

釜山から真直ぐに北海道へ向かったのですか?
下関で降りた。下関で降りて一晩泊まった。

下関から北海道へ向かったのですね?
そうだ。大阪へ行って、東京へ行って、東京から青森へ行った。青森から函館連
絡船に乗った。函館連絡船に乗って汽車で岩内へ行った、北海道だ。

函館で船を降りて、汽車に乗って岩内ですね?
汽車は各駅停車。その時、この長水郡の人がたくさん行った。

100人以上ですか?
100人以上になる。

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「一番方」「二番方」が交替で働くのですね?
「二番方」が夜にして、「一番方」が昼にする。仕事をして弁当を11時に食べ
る。それを食べても、少したったら腹が空いて、たまらない。

ご飯はどうくれるのですか?
ジャガイモを籠に入れて、分けて食べる。3個ずつくれる。そして飯の時は味噌
汁が出て、酒も2合くれる。酒が飲めない人の分は、酒飲みが飲む。酒を飲んで、
家を思い出して、歌を歌って涙を流して…。

日本人も一緒に働きますか?
うん。日本人も一緒に働く。

監督はいますか?
いる。いるが、監督は働かない。待機しているだけ。

監督をどう呼びます?
「部長」と呼ぶ。部長は3人いるが、巡回だけする。
「部長」は日本人ですか?
そうだとも、日本人だ。それと「隊長」がいるが、長水郡から行った隊長が誰か
と言えば、カネモトと言う。こいつがどれだけ酷く人を働かせたか。日本人に信
用があった。岩内へ行ったり来たりして、給料日のたびにお金をたくさん取って
行く。お金をすごく取った。その金で市内へ行って、若い娘を連れて歩いて、お
金を全て使ってしまった。それで、金を持って逃げてしまった。その後に、クニ
モトと言う人が「隊長」になった。

朝鮮人が殴り殺されたから、私らがやってやろう

カネモトとかクニモトはどこの人ですか?長水郡の人ですか?
うん。長水郡、長渓面の人だ。クニモトが隊長になって、解放されて一緒に戻っ

が、その載って来た人たちはみんな真っ黒だ。ランプ(電燈)を外した頭以外
は。

頭にランプを着けて?
そうだ。木の支柱が砕けてバリッバリッと壊れるんだ。天井からザッと水が出て
くる。雨みたいだ…。そんなふうに、病院へ行って来て、坑内見学して、仕事に
出たんだ。その時は、帽子にランプをつける。

帽子に?
うん。帽子(安全帽)に電気を使って、炭掘りに入って行く。坑内に入ると、四
方トンネルだ。こっちを掘って、あっちを掘って。坑の入口に鉄扉がつけてあ
る。

坑に鉄扉をつける?
鉄扉を閉める。ガスが来るから鉄扉を閉めてしまう。

では、事故が起きたらその中にいる人は死んでしまうのですか?
うん。ガスが破裂したら、恐ろしい。石炭を掘って四方に拡げていく。炭掘りが
し易い所は炭車4台分を掘って、炭掘りが難しい所は車で3台分を掘る。削孔し
てダイナマイトを入れ、それが爆発すると、天井の岩盤がグラグラする。言葉に
ならない。その炭の塊を掘ったら仕事を終え、外に出れる。掘れなかったら朝ま
で掘らなきゃいけない。炭掘りが簡単な所は早く出て来れる。炭掘りが難しい所
では仕事が終わらない。

酒2合飲んで家を思い出し、歌を歌って涙を流した

仕事では交替は有りましたか?
うん。1年間、「一番方」はまだ真っ暗な時に出る。カラスがカァカァ鳴いてい
た。「一番方」を1年間したら、「二番方」をする。

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か」と言ったら、うなずいた。そうして弁当を買って来て昼飯を食べろと言った
が、「隊長」、「班長」はさっと捕まえた。

逮捕隊がですか?
うん、警察署が。それで私らは、「仕事はできない」とひっくり返った〔抗議し
て仕事をしなかった〕。それで、隊長と班長は無傷で帰って来た。長水組が多か
ったんだ。

◎青色の紅葉橋。朝鮮人はこの橋を起点にして上方に居住していた。(2009.7.23.委員会、北海道調査
団撮影) 紅葉橋を越えてすぐ、右側に名簿上の鄭南龍の宿舎である北関寮があったという。

長水組があったのですか?
長水組。当時の北海道では頭(カシラ)になった〔茅沼の現場で勢力があっ
た〕。はじめは慶尚道の人を多く連れて来ていたが、私ら長水組が頭になった。

た。私は「南関寮」と言う飯場にいたが、そこで誰か拾い食いをした。腹が減っ
ていたんだ。日本人が拾い食いしたと殴り殺してしまったんだ。それでクニモト
が各飯場に伝えた。「朝鮮人が殴り殺された。このままで良いのか!やってやろ
う!」と。それで下へ入る電線を全て切断して、南関寮で騒いで、日本人は逃げ
て大騒ぎになった。日本人はブルブル震えて何もできない。そうしたら札幌から
逮捕隊が何千人も来た。

◎〈茅沼炭鉱労務者名簿〉
口述者の鄭南龍は本人の飯場名を「南関寮」と記憶しているが、茅沼炭鉱労務者名簿(選挙権下調書)では、「北関

寮」と記載されている。茅沼炭鉱関連名簿で確認される朝鮮人寮には、南関寮、北関寮、報国寮、奉公寮がある。

札幌から逮捕隊が来た?
逮捕隊が来て、「何で働かないで騒動を起こすんだ」と。それで、「分かりまし
た。私たちは仕事をする軍人、軍人です。銃剣はないが、私らも炭を掘って協力
しています。朝鮮人を訓練して教えなければいけないのに、何で殴り殺すんです

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◎茅沼炭鉱の坑口(2009.7.23.委員会 北海道調査団撮影)

月70円。だが、坑内で働いていた時でも、差引いて、差引いてみんな差引く。あ
れこれ差引いて35円くれる。その35円は家へ送る。現金封筒で送ったら4日で家
に着く。それで、貯金はいくら差引いたのか分からないから、解放されても私の
貯金がいくらあるか分からない。解放されて戻る時に3,000ウォンをくれた。当時
3,000ウォンと言ったら、恐ろしく多い金だ。だけど釜山に来てみると、日本の金
は使えないと言われた。だから両替したが、20%とか30%しか替えてくれない。
それしか残らない(残りの金は捨てた)。韓国へ戻る時に軍服、いいんだ、雨が
来ても染み込まないから。シャツ、毛布2枚、オーバー、靴、帽子、みんなくれ
た。

家に持って来たのですね?
持ってきて、着て来た。その服も売って、毛布も売って、田んぼを買うのに使った。

坑内の仕事は稼ぎが多い。命をかけてそこへ入るから

そこは慶尚道とか全羅道とか、どちらが多かったですか?
慶尚道が多かった。暮らす人も来ていた。慶尚道は家族が来た。

隊長や班長はどう選びますか?
それは飯場で、誰が班長に良いと選ぶんだ。隊長は、長水郡の一番の頭だ。みん
な朝鮮人だ。

その人たちも坑内で一緒に働きますか?
班長は一緒に働く。班長は日本語をしなきゃいけない。私らが日本語を喋れない
から。日本人に話を伝えなきゃいけない。

そこで月給をもらいましたか、月に1回月給をくれましたか?
1日当りいくらになるのかは知らない。坑内で働いて400円出た〔ママ〕。「先
山」は更に100円余計にもらう。坑外はお金が少ないが、坑内はお金が多い。命を
かけて坑内に入って行くから。

そこで月給をもらいましたか、月に1回月給をくれましたか?
1日当りいくらになるのかは知らない。坑内で働いて400円出た〔ママ〕。「先
山」は更に100円余計にもらう。坑外はお金が少ないが、坑内はお金が多い。命を
かけて坑内に入って行くから。

おじいさんはいくらもらいました?
私も坑内で働いて、天井が崩れて人が死ぬのを見た。それで、それからは天井が
崩れる所で(私が)仕事ができなくなった。お金なんか関係ないと思って、それ
からは外に出て仕事して月に70円もらった。

外で働いて月に70円ですか?

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ではそんな報告は誰がします?
事務室の係が報告する。今日は人夫が何名出るのか報告する。

事務室の「係」は日本人ですか?
うん、そうだ。

その人はどこへ報告するのですか?
労務所長、所長がいる。その人が鉱山で一番偉い。

◎  この周辺は、炭砿職員の社宅があった。炭鉱の入近くに 病院があった。2009.7.23.委員会 北海道調査

団撮影)

労務所長の名前は?
知らない。それで、労務に「スズキ」と言うヤツがいたが、本当に酷かった。人
を捕まえて、どんなに殴りつけるか、言葉では言えない。解放後に、そいつに殴
られた人たちがスズキを探しに行った。何人かでスズキの喉から血が出るほど殴

坑に入って12日で死んだ

普通、仕事を終えたら飯場でどうしていますか?
坑から戻って来たら風呂に入って、飯を食べる。仕事はしない。飯場は2階建て
だった。

寝るのはどうでした?
一部屋に二人ずつ寝る。敷布団2枚、掛布団2枚くれる。畳部屋に。

暖炉は有りました?
暖炉は真ん中にポツンポツンと一つずつあったが、寝る部屋にはない。

さっき、ガス事故で天井が崩れた話をしましたが、そこで人が死ねばどうします
か?
死んでしまえばそれきりだ。死んだら火葬する。

そんな事故に遭った人を知っていますか?
「吉田忠南」13)  だ。外で働いていたが、金が欲しいと坑内に入った。坑内に入
って12日で死んだ。坑内で死んだ。死んだら用なしだ。焼いてしまう。

休みの日は何をしました?寮にばかりいたのですか?
出かける所もなくて寮にいる人が多い。慶尚道の人でヤマモトというのが、4年
間賭け事をして金を失ったと困っていた。茅沼炭鉱で1、2年働いたら賭け事を
派手にする。日本人もそうだ。気が向いたら賭場を広げる。そんな遊び人は金を
失って仕事に出ない。

具合悪くても仕事に出ますか?
患者は仕事をしない。患者は治療する。

13) 茅沼炭鉱犠牲者名簿に長水郡渓南面出身の「吉田忠南」が1943.8.24.に死亡したことが確認さ

れる。死因は「崩壊による埋没死」である。

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で放送していた。

韓国にはどう来ました?
北海道へ行ってた人は何千人もいる。埠頭に行って見ると、人が豆粒みたいにた
くさんいた。ひと月過ぎても韓国に戻れない人だらけだ。船に乗れなくて…。船
に乗れなきゃ帰れないから。私らは船に乗れたが、乗れない人たちは太極旗を振
るんだ。

韓国に戻る時も、北海道へ行く時と同じですか?
函館で船に乗ったが、船が出ない。一晩泊まっても船が出港しない。私らはこの
まま死ぬのかと思った。 船長が諦めて逃げたら、私らは死ぬから…。見張れと言
われた。小舟が2隻、大きな船に連結されている。船長があの小舟に乗って行った
ら、私らは死ぬぞ、乗れないように防ごう。その二日後に船の運転士が来たが、
機械の故障だといって酒ばかり飲んで遊んでいた。掃除もしない。それで、私ら
が乗った船に47,052名が乗った〔ママ〕。軍用艦だ。北海道へ来る時は連絡船だ
ったが、帰る時は人が多い。連絡船ではそんなに沢山乗れない。

その人数はどう分かりました?
それは、船に何人乗ったと放送する。そしてその船に乗って釜山へ来た。釜山で
船を止める時に海底が浅くて船が入れない。200人乗りの船に運んだ。釜山から大
田に来て一泊した。大田の知人の家へ行って、夕飯を食べて、次の日に獒樹へ行
って降りた。

長水郡の人と一緒ですか?
戻った時は一緒に来た。一緒に船に乗って、汽車で来たが、いつ乗ったのか分か
らない。私らは大田から獒樹へ来る時、車内が狭いので私は屋根に上って来た。
屋根の上でオーバーコートを着て、寒くなかった。

隊長も一緒ですか?
うん、一緒に来た。

った。そうしたら、その鉱山の日本人がみんな逃げた。

そこで「タコ部屋」を見たことがありますか?
飯場がいくつかある。それで「タコ部屋」は日本人だけいる。そこには身体を売
って入った人がたくさんいる。

日本人だけですか?
入って仕事だけする。そこへ入ったら、みんなゲッソリ痩せて仕事だけする。
「タコ部屋」に生意気な「係」がいる。どれほど殴りつけたか?「タコ部屋」に
いた人が、斧で「係」の頭を割ってしまった。警察が来て捕まえた。どれほど酷
かったのか、人夫が斧で頭を割ってしまった。(私らも)仕事をしないと、「タ
コ部屋」へ移されたと言う。「タコ部屋」が一番恐ろしい所だ。

「タコ部屋」は何人いました?
分からない。売られてくるし、金をやって使うこともある。

韓国人も「タコ部屋」にいましたか?
そこは日本人だけ、みんなそうだ。「タコ部屋」も「一番方」に出て、「二番
方」も出て、私らと一緒に働いた。

埠頭へ行って見たら、人が豆粒みたいに多い

解放されたのはどう分かりました?
それは、日本人たちが戦争に負けたと言っていたから分かった。日本人が3人集ま
っても戦争の話をする。戦争に勝てないと。それで戦争に負けると分かった。

負けるのが事前に分かった?
戦争に負けたから解放されて、だから炭鉱から出れた。出なかったら死んでいた
だろう。炭鉱から出てこれない。解放された日、ラジオ放送があった。あちこち

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ゾロゾロついて行く。米国人は人が良い。物資をたくさんくれた。米国人もたく
さん死んだのに、日本人が降伏しても独立させたし、米国人は良い。日本人なら
独立させない。

そうですね。独立しておじいさんが生きて戻って。今日はお話をどうもありがと
うございます。お歳なのに、こんなに良く記憶している方は初めてです。健康に
お過ごしください。

・面談日:2005.10.13.
・面談者:河承賢
・補助面談:金ジンスク

■ 面談後記

全羅北道長水郡山西面の静かな田舎の村。鄭南龍さんの家は、赤く色づいた柿が重く見えるほどた
わわに実った何本もの柿の木に囲まれた古びた家だった。当時、97歳の鄭南龍さんは、高齢にもか
かわらず、杖もつかないで、快く調査官を迎えてくれた。始めは馴染みのない人の訪問に訝しそう
だったが、面談が始まると興味深く話してくれ、親近感を示した。それが子どものようでもあり、
調査官の笑いを誘った。そんな和気あいあいとした雰囲気で面談は進んだ。100歳目前の97歳が信じ
れないほど、口述能力と記憶力が良く、一行は強制動員当時の状況をより深く理解できた。寒さと
空腹で故郷が懐かしくて辛かったと話し、坑内ガス爆発で死んだ同僚について話すときは、目頭を
赤くした。鄭さんは、1時間を超える面談の間、疲れた様子を示さなかった。面談が終わり、調査員
との別れをとても残念がり、一行の姿が見えなくなるまで、柴門の前でじっと立っていた。

それは何月でした?
10月に来た。北海道でも急いで、コネがあったら簡単に来れる。

おじいさんはすぐに来た方ですか?
そうだ。すぐに来た。

解放されても炭掘りはしましたか?
解放されてからは働かない。仕事に出ない。仕事に出ろとも言われない。解放さ
れて、韓国人が配給所を乗っ取ってしまった。日本人にも私らが配給を持って行
ってあげて、コメも肉も何でも、入って来たら配給所から取って来た。解放され
たら働かないで遊んだ。食べて遊んだ。

独立させたのを見ると米国人は良い、日本人だったら独立させない

おじいさん、その隊長、クニモトは生きていますか?
クニモトは生きているやら死んだのやら分からない。解放されて長いから。とこ
ろで、日本の炭鉱で働く時、米国がどこかを爆撃すると、時間になると昼に放送
をする。そうしたら人夫たちでも分かる。どこかが爆撃されると夜に雨が降っ
た。米国人は燃料を散布し爆弾を落とす。300万〔ママ〕の人びとが皆殺しにさ
れた。それだけ殺されたのに(日本人は)降伏しない。それで原子爆弾を落とさ
れた。日本の二つの都市を攻撃し、皆殺しにした。それで昭和(天皇)が放送し
て、一時に国民が皆殺しにされたので、「国民を思って手を上げます〔降伏す
る〕」と言った。原子爆弾二つで降伏したんだ。

おじいさんが北海道にいた時も飛行機が飛んでいましたか?
北海道ではアワ飯を食べていたが、急に飛行機が飛んできた。日本人がそれを見
た。前は米国の飛行機、後ろは日本の飛行機だと言う。そのうちにアメリカの飛
行機が来ると、すぐに坑に逃げ込んだ。米国のお陰で独立ができた。戦争が終わ
ると、日本人が、日本の女性が頭を綺麗に飾って、服もちゃんとして、米国人に

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戦争で夫は帰れない、家族が来いといわれ

〈茅沼炭鉱〉

期限になっても帰してくれないから、お父さんが逃げたらしい

朴お婆さんの故郷はどこですか?
故郷は淳昌(スンチャン)です。

私たちが来たのは、夫の李泳圭氏が日帝時代に炭鉱へ行った話を伺いに来まし
た。李泳圭氏は日本で苦労を随分なさったでしょう…。
その時は韓国の義勇隊みたいに、日本人が全てを報国隊に送った。ここの韓国人
は全て日本で働かせるために送ったんだよ。当時は報国隊と言った。報国隊に行
けと言われて行った。その当時、24か月だったか、期限で行った。日本、戦争が
起こって大変だから帰さなくなってしまった。

期限が終わっても帰してくれない?
期限になっても帰してくれない。そして逃げたらしい。逃げたけど、また捕まっ
て、殴られて。その時、私は行かないで、夫だけ行った。そして逃げて、捕まっ

・1927.1.27.  全羅北道淳昌郡八徳面九龍里 出生
・1942.2.24.  夫の李泳圭が茅沼炭鉱へ動員された
・1944.2.    夫を追って茅沼炭鉱へ
・1945.8.    解放後、本籍地へ帰還

朴今順(パク・クムスン)

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いつ結婚しました?
私が16歳で、夫は24歳だった。

8歳違い?同じ村でしたか?
上の村だ。郡は同じで、面が違う。私は八徳面(全北淳昌郡)で、夫は仁渓面、
面が違う。

あ~、どう知り合って結婚したのですか?
当時はお見合いだよ。ホホホ、当時は知人が仲人をする。

その時、李さんの家族と一緒に住んだのですか?
ハイ、みんな一緒に暮らしたよ。お父さん、お母さんと一緒に暮らしたよ。それ
で、そうしていたけど、私が日本へ行った。それまでは義父母と一緒に暮らして
いた。当時は何か間違ったら大変なことになる。村ごとに…。ホホホ。義父母を
尽くして仕えなきゃ。私は義父母がいい人で、本当に気苦労しないで暮らした
よ。

結婚してどれくらいで李さん(夫)が報国隊へ行ったのですか?
1年。私が17歳の時に行ったよ。

子どもはいましたか?
その時はいなかったよ。

朴お婆さん、結婚を早くしたのですね?
当時はそれが普通だよ。当時は20歳で結婚するのが普通だった。18歳で結婚する
のは、今だったら30歳で行くのと同じだよ。15、16、17歳で行くのは普通だったよ。

李さん(夫)は報国隊へ、ここ、淳昌郡仁渓面から行ったのですね。
うん、そうだよ。

て。酷く殴られて気を失ったら水をひとバケツかぶせた。苦労した。水ひとバケ
ツかけられて気がついたって。この話をしょっちゅうしたの。それでもまた故郷
へ戻してくれない。私は若い時に嫁に来て、歳が若いから…。義父が私を見て可
哀想に思って、夫に手紙を書いた。(私を日本で)引き取れと。そうしたら、募
集に来た。14)その炭鉱からの募集だ。こちらでは会社と言ってたけど、日本人は
炭鉱と言っていた。行く人をたくさん募集し、21家族が行った。

21家族?
家族数が21で、人数は60人を越えていた。それで(日本へ)行って1年ほどで解
放になって戻って来れた。夫も随分苦労した。当時行った人はみな、随分苦労した。

朴お婆さんは1年ほど行って戻って、李泳圭氏は3年いたのですね。
3年だけだったか。その時、陰暦の12月28日に行った。29歳で戻ったから。4年
だ。4年行っていた。そして解放されて戻った。

李さん(夫)が帰国したのが29歳ですか?
解放されたのが29歳だ。

朴お婆さんは、いまお歳は幾つです?
私は21歳の時に解放されて、今は83歳。

李さん(夫)と朴お婆さんと何歳違いですか?
8歳違いだ。

 14) 朴今順の夫の李泳圭は1942.2.24.に北海道の茅沼炭鉱へ動員された。2年契約期限を終えたが

家に帰されず、作業場から逃走しようとして捕まり、殴打を受けたと言う。李泳圭が動員さ

れてから2年後の1944年、妻の朴今順は夫の呼び寄せで同炭鉱へ行って一緒に生活するように

なった。戦時、日本の炭鉱では生産性増大と労務者の離脱防止のために、家族を呼び寄せる

ことを政策的に活用した。朴今順の口述は、この歴史的背景の下で、労務者である夫を追っ

て渡った家族の生活状況をよく表している証言だ。(李泳圭は「国本泳圭」という日本式の

名前で「茅沼炭鉱妻帯者名簿」に記載されている)

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李さんが行った時は、その会社で募集して、村の人とかたくさん行きましたが、
その時は男性だけ行ったのでしょう?
うん。ここから軍人が行くみたいに選んでいった。みんな引き抜かれていった。
夫と一緒に行った人たちが、戦争が起きて帰って来れなくなって、家族は誰でも
行ける者は行けと言って、日本から私ら家族を連れて行く人が来た。行って見た
ら、扶安(プアン)郡、鎭安(チナン)郡、長水(チャンス)郡、淳昌(スンチャン)郡から人が麗水(ヨス)に
集まっていた。慶尚道の人もたくさん来ていた。そこに人が、戻って来れない人
の家族を連れに来ていた。そうして、そこまで(北海道)行った。

あ~、だったら、おばあさんが日本へ行く時、李さん(夫)は炭鉱にいたのですね?
うん。会社の人が迎えに来た。炭鉱で、誰々を連れて来いと言っていたんだ。集
まって行った。アイゴ、私なりにその時苦労した。当時は戦争中だから怖い~、
私らが南原へ行って、4日目に麗水へ行った。麗水へ行ったのは冬至(12月22日)
だ。日本へ渡ったのは正月だった。冬至から10日で行った。随分苦労して行っ
た。

麗水からそんなにかかったのですか?
ああ、戦時じゃない。船も汽車もまともに動かない。船で行ったけど、午後4時
に船に乗って、下関に着いたのが夕方6時になった。船に乗っているのが長かっ
た。当時は戦争中で大変だった。日本人の神経が高ぶっていた時だった。

その21家族は全羅道から21家族ですか?それとも全体で21家族ですか?
いや、行って見たらそうだった。全羅道もいて、慶尚道もいて。(全羅北道は)
鎭安、長水郡、扶安、南原、淳昌の人もいて、いろんなところから人が集まっていた
よ。

朴お婆さんと一緒に行ったのは何人くらいですか?
私らが行く時は21家族、51人が行った。家族で行く人が多かったけど、私は一人
で行った。

李さんが行く時は、近所から何人行きました?
2人、2人行ったよ。

その人の名前を知りませんか?
随分たったから忘れてしまった。

同じ炭鉱へ行ったのですね?
同じ所へ行った。この仁渓面からたくさん行った。仁渓面だけじゃなく、他から
もたくさん行った。

近所から2人が行って、仁渓面からはたくさん行きましたか?
うん、たくさん行って、誰なのかまでは分からない。仁渓面からもたくさん行った。

その近所から行った2人は年齢が同じですか?
その当時は、戦争の時期で、石炭掘りに連れて行った。私らが行く時は、それで
も行きたい人だけ行った。後からは強制で引っ張って行った。日本とか満州へ。
当時は日本人が、私ら韓国人を人間と認めていなかった。当時は日本人が好き勝
手なことをしていた。

戦争が起きて戻れないから、家族は誰でも行ける者は行けと言われて

朴お婆さん、その時に行った会社名を憶えていますか?
北海道岩内の茅沼炭砿。岩内は村だったか。茅沼が村だったか。ここから行く
時、日本の下関で汽車に乗って札幌へ行った。札幌へ行って、あの、随分すぎた
から忘れてしまった。アイゴ。

青森?
青森へ行った。青森から船に乗って函館へ渡った。そこでまた汽車に乗って行っ
た。岩内からその茅沼まで馬に乗って行った。茅沼炭鉱だよ。そこが会社だ。

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私たちは生存者の調査をしているのですが、おばあさんが夫婦で、日本で生活し
たと聞いて、それでお会いしに来たのです。
うん、有り難いね。それで、名簿の名前を読んで見てくれないか?私が知ってい
る人がいるかも知れない。

(名簿を見て同じ淳昌の人を探しながら)
李◯根はいないか?その人は死んだけど。

◎ 茅沼炭鉱労務者名簿―妻帯者(66名)に國本泳圭

、1942.2.24.入山と掲載されている。

この人は誰です?李さんと一緒に行った方?
一緒に行ったよ。

この方も朴お婆さんと後から一緒に行ったのですか?
いや、そうじゃない。その人は独身だよ。当時、独身者がたくさん来た。

麗水には慶尚道の人も集まっていたのですか?
ハイ。南原には全羅道の人だけ集まったと。麗水には慶尚道の人も集まったと。
だから日数がかかったようだよ。

人を集めるのに?
なにせ人がたくさん行った。当時は戦時中で、日本人が分別もなく、韓国人をや
たらに捕まえた時だ…。それで、茅沼は炭〔質〕が良い。炭鉱は小さく、有名で
もないが、炭が良いんだよ。当時は石炭を掘った。日本に油がないから、汽車で
も何でも石炭を燃やして暮らしていた。飯も炭で炊いて、食べた。木はあるけ
ど、炭で暮らした。

そこで李さんと会えましたか?
うん。そこで会って、潰れたような家をどうにかして…。同じ淳昌から先に来て
いた人がいて、鍋持ってきてくれて、ご飯も一緒に食べて、それが忘れられな
い。飯場から布団も一組持ってきてくれたよ。

あ~、同郷の人?
そう、私らと同じ故郷の人で、飯場から布団を回してくれたんだよ。

その人の名前は?
随分前のことになって、忘れてしまったよ。淳昌の人だけど。

戸を開けて入って来た人が真っ黒で、頭に電灯を付けて、誰か分か

らなかった

茅沼炭鉱に私が昨年行って見たんです。私たち委員会で調査のために行ったので
すが、そこにあった名簿にお婆さんの名前がありました。
うん、そうかい。茅沼炭鉱?

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り持ち去られ、なかった。

日本人がですか?
うん。みんな逃げていない。殴られるかと思って逃げてしまった。

朴お婆さんの家が配給所の前?
私の家が配給所の近くだ。

配給所では何をくれますか?
そこは全部コメでくれる。私は月給をもらわなかった。何か通帳のようなものを
持って行って、配給日に配給品だけもらった。

月給をくれないのですか?
月給なんか一度ももらったことがない。

お金をもらったことがない?
うん。配給日に配給所へ行って、くれるものだけもらった。配給品だけもらった。

月給の通帳のようなものは見たことがない?
見たことがない。

李さんも月給がなかった?
月給は貰ったことがない。配給品だけもらって暮らした。

李さんは一日にどれくらい仕事をしました?
朝に仕事に出て、炭を掘るのに頭にランプをつけて。夫が仕事から帰って来るの
を見た時、真っ黒だ。ハハハ。戸を開けて入ってくるのを見たら、真っ黒で頭に
電灯を付けて…。誰か見分けがつかなかった。炭を掘るのにどれだけ大変だった
ろう。坑内の仕事を終えて風呂に入る。だけどその日は故障が起きて、そのまま

李◯根の他に誰か分かる人はいますか?
李◯ソンもいる。

みな仁渓面の人ですか?
仁渓の人?分からない。随分前のことだから名前もすっかり忘れてしまった。15) 

茅沼へ行ったら家はありましたか?16)  
その会社が生活しろと言って、空き家が沢山あったよ。全員に部屋を一つずつく
れた。畳部屋だった。火を焚かないで、畳を敷いて暮らした。部屋にストーブが
あって、そこで1年暮らしてきた。

生活道具や台所とかあって食事の支度ができました?
いや、そんなのないよ。ストーブが一つあって、そこに鍋を載せて、ご飯を作っ
て食べたよ。

鍋や布団などを会社は与えないのですか?
もらえないよ。くれるものか。韓国から日本へ送ったんだよ。持って行かなかっ
たら布団もない。後に戻ってくる時は、重いから売った。綿も。

布団とか必要な物はここで買わなきゃいけないんですね?
その時は買うこともできない。戦時だから買うこともできない。売るのもできな
い。(解放後)日本人の誰かに布団を持ち込めないから売ってと言った。日本へ
行く時は小包で送った。戻ってくる時は、戦時で話にならない。だけど米国人は
私らを帰してくれた。米国人のお陰で戻ってこられた。私らの家は配給所の前だ
ったが、日本人は韓国人が来ないように見張っていた。解放されたら、日本人は
全て逃げてしまっていない。解放され、私らが行って戸を開けてみたら、すっか

 15) 面談者は口述面談後、口述にあった李◯根、李◯ソンを調べたが、名簿では確認できなかった。

 16) 会社は、労務者の長期定着化のために呼び寄せた妻などの家族に、社宅を付与し、子女に教

育機会を提供するなどの恩恵を与え、労働力を確保しようとした。

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どちらの腕ですか?
右腕だった。障がいがないように、腕を縛った。腕が腫れ上がっても働いた。食
べなきゃいけないから。

朴お婆さんが行った時はどうでした?腕は?
行った時は大丈夫だった。

悪い所とかなかったですか?
そのまま働いて暮らした。亡くなった後、葬儀の時に折れた所を見た。夫は、
「障がいを持って死にたくなかった」と言っていた。お湯につけて(腕を)揉んだ
り、冷たい水につけて揉んだりした。障がい者になったらどうしようと心配した
んだ。(痛くて)仕事ができない時は、温水で腕を揉んで、風呂に入ったら揉んだん
だ。そうして、義父が送った薬を飲んで頑張ったんだ。

朴お婆さんが一人で日本へ行って、家に手紙は良く来ましたか?
当時、手紙がどこにあるの?私の義父には手紙が行き来したそうだ。私が娘の
時、手紙のやり取りをしなかったから、手紙はない。だけど女たちは一人で暮ら
せても、男たちは一人で暮らせない。だからみんな娘と〔妻を呼び寄せて〕一緒
に暮らした。

日本へ娘を呼び寄せて暮らした?うん。一人で暮らせないだろ?みんなそうした
もんだ。それで、(日本へ)行って見たんだけど、娘と暮らせる状態じゃないんだ。
日本人にガッチリと押さえつけられて、どうすることもできない。仕事に出なか
ったら、メチャクチャ殴るんだ。日本で体を壊した人がどれだけ多いことか。何
かしたら、殴りつける。

李さんが働いていた時、休日は有りました? 
休みの日もあるさ。

帰って来たと。私は、初めは誰か分からなかった。ハハハ。

その日は風呂場の故障だったのですね?
うん。風呂場が故障でそのまま帰って来たんだ。そのまま帰って来たから驚いたよ。

夜にも仕事に出たでしょう。
いいや。朝に出て夕方に帰って来たよ。そこも坑外で働く人、坑内で働く人がい
た。私らは坑内で働いた。坑内で働く人は待遇が良くて、元気な人、良く働く人
はもっと待遇が良かった。だけど、天井が崩れて、(夫の)腕が折れたよ。私は知
らなかったけど、私の義父が手紙を受取ってこっそり読んだら、夫がしんどいか
ら、山で何か掘って来て 削ったの。それを飲んでパッと起き上がった。

何を削ったのです?
銅を削って飲んだら、骨折した所が治ったそうだ。

銅?
そう、銅。昔はそうしたもんだ。

朴お婆さんが行く時、義父が銅を持って行けと言ったのですね?
私は何なのか分からなかった。磨いたものを送った。

その時はもう腕が折れた状態だった?
うん。

ケガしたと手紙が来たので、それを読んだ義父が朴お婆さんを行かせたのです
か?
日本へ行ってみたら、「父親(義父)が薬を送ってくれて、それを飲んで働いてい
る」と言っていた。腕が折れて、骨が飛び出したそうだ。腕が折れて、そこを縛
って仕事した。そうしなきゃ、障がいとなる。

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いから。避難している内に、何か、静かになった。それで外へ出てみたら解放に
なったと言う、私ら朝鮮人が。扶安(プアン)の人だった。「アイグ、解放された」、
そう言っていた。そうしたら日本人がポツポツと集まり、逃げていった。いつ逃
げたのか、ラジオをつけっぱなしにして、荷物だけ持って逃げたんだよ。

日本人が?
うん。私らは日本語が分からないから、何がどうなっているのか分からない。ポ
ツポツと集まったら、解放されたと言うんだ。夫が解放されたと言った。他へ行
って良く聞いてみたら、解放されたと。その時、朝鮮人は心が晴れたよ。ハハハ。
そうしてたら米国人が私らを帰してくれた。募集で行った人たちを米国人が帰し
てくれたんだよ。下関に船が入って来れなかった。どこかにあった船に乗ったけ
ど、70人乗りだ。それで、荷物が人よりも多い。一人荷物を一つずつ持って乗っ
たんだけど。その70人が乗って釜山まで来た。釜山に着いた。

韓国に戻る時は船で真直ぐに来たのですね?
青森から下関に来て、下関から船に乗れなくて、樺太へ行った。

樺太ではなく、博多じゃないですか?
博多だったか分からない。汽車から下りて、汽車に乗せて行かれて、その日は人
がたくさん乗って、ずっと立ったまま、運ばれた。大きな軍艦に日本人、米国人
が戦争した時に荷を運んだ船だ。軍用艦に乗って、釜山に来た。釜山から大田に
来て、大田から麗水、南原に来た。南原で一泊した。

朴お婆さんが来る時、その茅沼炭鉱にいた朝鮮人が全て一緒に来たのですか?
私らと一緒に行った人たちはみんな一緒に来た。その募集で行った人たち…。
夫が先に車で行って、私は荷物を持っていたんだよ。私は米国人を始めて見たか
ら恐ろしくてブルブル震えていたら、その人がついて来なさいと言った。その人
の手を掴んで一緒に来た。ヘヘヘ。

週に一日くらいですか?
仕事は夜に出たり、昼に出たりするから分からない。

苦労も随分したし、見物もたくさんしたよ、ハハハ

仕事で夜に出たり、昼に出たりするのですか?
かなり昔のことだからはっきりしないけど、そうだった。私が北海道へ行って1年
で解放された。8月15日に解放された。解放されたら、仕事をしないで食べて遊
ぶ。そして、日本人の悪い奴らを殴り殺そうと捕まえようとした。その時はもう
朝鮮人の世の中になった。そしてしばらくすると米国人が(韓国へ)連れて来てくれ
た。米国人がオーバーや靴をくれた。

オーバーや靴とか?
うん、米国人がくれた。それで、私が初めて北海道へ向かう時、下関で汽車から
眺めると、日本は良いと思った。だけど韓国へ戻る時に日本を眺めると、戦争で
みんな壊されて、すっかり燃えてしまってひとつも残っていない。谷間にあった
家もすっかり燃えてしまって…。電線だけがクモの糸みたいに垂れ下がってい
た。みんなペシャンコになって日本人が降伏したじゃない。それまでは穴〔防空
壕〕を掘って隠れていた。私は苦労した。寒くて、苦しくて死にそうだった。飛
行機が来ると日本人が外へ出ろと。私は具合が悪くて死にそうで、外へ出なかっ
たけど、そうしたら戸を開けて怒鳴りつけるんだよ。「外へ出ろ」と言って。外
へ出て山へ登ろうとしても歩けないんだ。そうやって避難したよ。

それはいつですか?
解放されたのが8月15日だから、ちょうど夏だったよ。解放の直前だよ。

解放前ですか?
うん。必死に避難して、隠れて、大変だった。そうして何日かしたら、静かにな
った。静かになったけど、何も聞いていないから分からない。日本語は分からな

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◎〈茅沼炭鉱の選炭場があった場所〉(2007.7.23.委員会北海道調査団撮影)
炭鉱から掘り出した炭からズり石を除いて、炭は索道を使って岩内港まで運搬し、ズりは廃石場に運ん
だ。選炭場では主に女性たちが働いたと言う。

そう、飯場の人が家にたくさん移ったよ。

李さんは休みの日には何をしていました?
それは分からない。友達と一緒に遊んでいた。ヘヘヘ。

朴お婆さんは李さんが働いている間、近所の女性たちと一緒にいたのですね?
そうだよ。韓国人が沢山いた。言ってみれば、炭鉱全体が韓国人だ。日本人は何
人もいない。飯場の人たちが集まって遊んだ。「ファジョン」にも行った。

「ファジョン」って何ですか?
〈息子〉酒なんかを買って、野外に遊びに行くのを「ファジョン」と言うんだよ。

米国人を始めて見て怖かったでしょう?
本当に怖くて死にそうだった。怖いだろう、目が丸くて、大きくて、黄色くて、
恐ろしかったよ。

朴お婆さん、当時、珍しい体験をたくさんしましたね。遠い所まで行って、北海
道とか。
そうだね。苦労もたくさんしたけど、見物もたくさんしたね。ホホホ。

当時、若い者はみんな軍へ行って、女たちはみんな働いた

日本で李さんが炭鉱で働く間、おばあさんは家で何をしていましたか?
食べてのんびりしていたよ。一緒に行った女たちが多かったから、一緒に遊んで
いたよ。山へ山菜採りに行ったり、海へ行ってコンブなんかを取ったよ。

炭鉱の仕事はしませんでした?
それは別に働く人がいて、誰でもできる仕事じゃない。

日本の女性は坑外で働いたと言いますが?
女性は多かった。選炭場で石を選り分けていた。

韓国の女性はそんな仕事はしませんでした?
しなかったよ。先に行った人たちは商売をした。食べ物商売、餅売り、酒売り。

先に行った人たちですね?
炭鉱で暮らす人(独身宿舎で暮らす人)は家がないから、酒を飲みに出たりする。
(先に行った人たちが)商売をして暮らしたんだ。先に行った人たちが、餅なんかを
家で作って、炭鉱の人が休みの日にそれを売る。

李さんも飯場にいたけど、おばあさんが来てから家に移ったのでしょう?

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◎〈宿舎の位置〉(2009.7.23.委員会北海道調査団撮影)
道路を中心にして見た時、左側には長屋(家族で暮らす労務者)、右側には単身寮(一人で暮らす労務者)
の宿舎が位置していた。

飯場とは距離がありましたか?
そこそこだけど、坑内へ行くには、遠かった。

市内や外へ遊びに、外出はできましたか?
友達同士で遊びに行っていた。そんなに外出できるもんじゃない。

遠くまではいけない?
海が近かった。暑かったら海へ行ってカラス貝みたいのを採って、コンブも採っ
て、山菜も採った。山菜はたくさん採れた。ワラビもたくさん。そこではヨモギ
も使わない。セリもヨモギもたくさん。先に来た人はちゃんと知っているんだ、

◎〈茅沼炭鉱ズリ山〉(2009.7.27.委員会北海道調査団撮影)
選炭場で取り除かれた石が積もって山になっている。

あ~、そうですか?
そう。それで遊んだよ。

飯場の人と一緒に?
いいや。韓国人の女たちだけで。

では、朴お婆さんと一緒に行った21家族は近くで一緒に暮らしたのですか?
うん、一緒に暮らしたよ。炭鉱で一緒に暮らした。茅沼炭鉱で一緒に暮らしたよ。

飯場からは少し離れていました?
飯場は家族がいない人が住んで、私らは家をもらって暮らしたよ。

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ゃいけないが、私は具合が悪くて死にそうだった。私が吐くもんだから、日本の
女たちが私に掃除させないようにすると言って、私にさせなかった。その日本人
は親切だった。

その切符にはどんなことが書いてありましたか?
つまり、配給に出ない物が出るんだ、選択で。そこに書かれた物を、先ず私に選
べと。

その切符に石鹸と書いてあったら、石鹸をもらうという感じですか?
その切符を持って行って買うんだ。日本人は優しくしてくれた。私らは日本人と
うまくやっていた。子どもたちも遊びに来て。ホホホ。

日本人の子どもたちですか?
うん。両側に日本の家が建っている。部屋を長くして、そこで暮らす。戸を開け
たら部屋があって、ひと棟が10家族だ。

トイレは外にあるのですね?
玄関の外にある。汲み取って、どこへ行くやら。海に捨てるんだろう。

朴お婆さんは汲み取りはしなかった?
うん。私も出て来いと言われたら、行かなきゃいけない。日本の女たちは一人残
らず汲み取りに出なきゃいけない。日本の女たちは良く働いた。大きな樽を担い
で登って行って、そこでウンコを放り捨てる。私はそんな日本の女になりたくな
いと言った。その当時、みんな軍隊へ行くか、会社へ行って若い者はいなかっ
た。そして障がいになったとか、軍隊で負傷した人、仕事でケガした人、そんな
人しかいなかった。だから女たちが仕事をした。女たちがムシロ袋などを担いで
登って行って、本当に日本の女たちは良く働いた。

日本の女性たちの夫も炭鉱で働いた人でしょう?

私らはその人の後について行った。子どももいなかったし。

私が昨年行って見たら、炭鉱の場所がまだありました。
え~、茅沼まで行ったって?私が茅沼の家を出る時、いつまた、この家に来るん
だろうと、振り返って見たものだよ。

いまは家のようなものは一つもなかったです。
ないだろう。みんな壊れてしまっただろう。

山とか海が近くにあって、景色が良かったです。
海が近くにあった。海の方へ登って行くと炭鉱がある。炭が良かった。炭鉱が酷
くても炭が良かった。炭鉱で働いて、炭を少し持ってきて、それを焚いて暮らし
たよ。ヘヘヘ。

李さんが掘った炭を持って来たんですか?
リュックサックで担いできた。そのバックを日本人はリュックサックと言っていた。

朴お婆さんの隣に日本人が暮らしていたのですか?
日本人がたくさん暮らしていた。日本人の家と混ざっていたよ。それで、日本人
の家は明るい。会議をするでしょう。班長会議をするけど、10軒で一班だ。そこ
へ行ったら、札に何か書いてくれる。それで、靴をもらったり、何かをもらった
りする。その時、私に先に取れと言うんだ。親切にしてくれた。

くじ引きですか?
うん、くじ引き。こっちではくじ引きだけど、日本では「切符」と言った。私は
日本語が分からないから、私に先に取れと言う。親切にしてくれた。

10軒が集まって会議ですか?
10軒でひと班だけど。それでトイレがある。始め、海にあるトイレを掃除しなき

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モの糸みたいに垂れ下がっていた

朴お婆さん、日本語を覚えてますね。日本語を習ったんですか?
いいや、教わったことはない。習う暇もなかった。でも、買い物に行ったら、こ
れいくらかと。なに「何銭ですか?」と聞いて、ホホホ。それくらいは言えた。
その時は若かったから、すぐに聞けるようになった。それくらいは分かる。ヘヘ
ヘ。それに日本語が上手い人に付いて行けばそれで良かったし。畑に行って買っ
たらたくさんくれた。ホホホ、みんなそうやって暮らしたの。私は長く暮らして
いない。短かった。長く暮らした人が多かったけど、名簿に炭鉱に行った人は、
全て書いてあるのかい?

全て書かれているわけではないです。何人か書かれていました。朴お婆さんはそ
の時に一緒にいた人たちの名前を憶えていますか?
一度名簿にある名前を読んで見てくれないか。

豊山(プンサン)面の人で朴○基は?
あ~、いるよ。「ボクさん」の家だ。私らは「ボクさん」と呼んでいた。

「ボクさん」って何ですか?
朴(パク)をボクさんと呼んだのさ。

あ~ボクさん。じゃあ、朴お婆さんは何と呼ばれました?
ホホホ、李はクニモト、朴はボクさん、崔はサイさん。私はクニモトさんだったよ。

李さん(李泳圭)が日本へ行かれる時、韓国の農村の状況はどうでしたか?畑仕事で
暮らしましたか?
畑仕事で暮らしていたけど、みんな行けと…。当時は夫も、指名しながら志願す
る人は行けと言われて行った。その時に行かなくても後で引っ張って行かれるん
だ。後から私の義父も報国隊へ行った。その時は班長とか区長に逆らったら、殴

うん、そこにいた人たち、炭鉱で働く人たちに家をくれる。誰にでも家を与える
のでない。女たちが畑仕事をして、男たちは炭鉱で働く。子どもでも大きくなれ
ば炭鉱へ行く。配給所も女だけで、男たちはいない。女たちがコメ袋を担いで、
配給所で働く。

女性たちが配給所で働く?
配給所で全て女たちがした。労務計算とかのお金の計算もした。

日本人の子どもたちも家に遊びに来た?
遊びに来た。

言葉が通じますか?
どうするかと言えば、お父さんが笑うけど。朝鮮の見世物が来たと、劇場に朝鮮
の見世物が来たと言う。朝鮮人がする見世物ということだ。劇場に行った。私ら
が韓服を着て、トラジ(朝鮮民謡)を歌って、アリランを歌った。それで朝鮮人が
多いから、朝鮮人に見世物を見せる形になった。私も舞台に上がって一緒に歌っ
た。ホホホ。若い時だったから、朝鮮の歌は誰でも歌った。そうしたら面白いと
子どもたちが、ホホホ、子どもたちがみんな遊びに来て、言葉は知らないけど、
来たら言葉を教えてやって、一緒に歌うんだ。ヘヘヘ。

日本の女性たちや子どもたちと仲良くなりましたね?
日本人ともお互いに身の上話をしたよ。日本の女たちと言葉は十分に通じなかっ
たけど…。通じなくても、教えてやるんだ。水道の水を汲む時も、朝鮮人は順番
を変えようとするけど、日本人は絶対に割り込もうとしない。

割り込まないのですか?
割り込まない。「並び」できちんと立ち、割り込みなんてしない。

行く時は本当に良かったけど、帰る時には何にもない、電線だけク

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せられて出てくるんだ。言ってみたら、戦争みたいなもんだ。坑内に入って行っ
て、出てきたら誰だか見分けがつかない。坑内に入って働いて、出てくる時は、
戦争と同じだ。運が良ければ生きて出て来て、誰かが死ねば、担架に乗せられて
出て来ることもあった。

朴お婆さんの周辺で亡くなった人はいますか?
分からない。私の周りではいない。8月15日に解放された。当時は飛行機が爆撃す
るといって、仕事もできない。飛行機が来るんだ。爆撃すると大騒ぎだった。

爆撃されたのですか?
爆撃されないけど、飛んでくる。飛行機が飛んできて、私らの所だけ、爆撃しな
いで行った。そんな状況だから、仕事する気にもならない。しょっちゅう爆撃に
くるから。仕事ができなくなり、解放された。

解放の前、避難しろとか日本人に言われましたか?
飛行機が爆撃にくるから、山に穴を掘って備えた。それでも北海道は爆撃が少な
かった。それは良いけど、大きな所だけ爆撃した。私らみたいな所は爆撃しなか
った。良い所は何も残っていない。全て爆撃して壊した。私が来る時、下関で見
た船なんかも沈没して、すっかり爆撃して何も残っていない。北海道へ行く時は
本当に良い所だと思ったのに、帰る時に見たらすっかり焼けていた。電線だけが
クモの糸みたいに垂れ下がっていた。李泳圭(イ・ヨンギュ、夫)は  良 く 言 っ
ていたけど、私が一緒でなかったら死んでしまったかも知れないと。一度逃亡し
て酷い目にあって、また逃げていたら…。「お前が来てくれなかったら、私は死
んでしまったかも」と良く言った。ホホホ。期限が過ぎても帰してくれなかった
時のことを言っていた。

はい、
初め北海道へ行って期限になっても帰さないから逃げて、捕まってどれだけ殴ら
れたか。殴られ過ぎて気を失っていた。水を浴びせるとそれで気が戻ったと良く

られて死んでしまう。班長、区長にブルブル震えていた。当時の班長や区長は偉
かった。いまの大統領みたいなものだ。

解放後にその班長とか区長を懲らしめましたか?
うん。必死に、逃げてしまった。飴売りの父親が班長、里長だった。解放後に、
黙ってどこかへ逃げてしまった。どこかで死んだかも。当時、そんな人間は逃げ
てしまった。私らはそんなことはなかった。夫は志願して行ったし、義父はおと
なしい人で、班長、里長が言う通りにやりながら暮らして亡くなった。うちは良
い家だった。うちの家の人は良い人たちだった。良くしてもらった。私は家の人
を悩ませなかったし、家の人も私に良くしてくれた。義父は、息子がもどってこ
なくて 嫁が可哀そうだと心配していたみたい。ホホホ。私は家の人と仲が良かっ
た。いまでも家で楽しく暮らしている。

では、初めての子は日本から帰って来て生んだのですか?
そう、解放されて私が23歳の時に長女が生まれた。うちのきょうだいは仲が良い
んだよ。

茅沼炭鉱には病院があって、学校もあったのですね?
そうだよ。病院では、炭鉱でケガした人を診てくれた。酷く苦しんでいる人は函
館とか、岩内に連れて行った。

李さんは日本でケガしましたか?
私が行ってからはケガしていない。私が行く前に腕を折ったのは私も知らなかっ
た。義父が私に教えなかった。だから知らなかった。日本へ行って知ったんだ
よ。黄色いものを削って送った。それはなんだろうと思ったが、今考えてみれば
銅だった。私には教えてくれなかった。その時は電話も手紙もない時代だった。

炭鉱では事故が随分起きたでしょう?
炭鉱で死んだ人は多かった。炭鉱で働いていて事故に遭って死んだら、担架に乗

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朴お婆さんも相当に勇敢ですね。これまで伺ったところでは、夫が炭鉱へ行って
しまったら多くが、逃げたり実家へ帰ったりしたそうです。
今の世間だったら別れるだろう。手紙をくれるか!?どこで死んだのか生きてい
るのかも分からない。年寄りが言ってくれなきゃ何も分からない。それで、私の
実母は別れないようにさせた。

李さんが行く前は、畑仕事をしていたのですか?
畑仕事を少ししていた。当時は食べるものがない。全て供出で取られてしまう。
日本人がすっかり取って行く。全て供出しろと言って、繭も作物もサッと取られ
て、当時は配給で暮らした。ゆとりがある家なんてない。
私は何とか生きたけど、夫はゾッとするほど苦労した。夫は堂々としてしっかり
して、普通の人じゃない。だから、人に妬みを受けないで、まじめに働いた。ケ
ガはしたけど、人の恨みを買う人じゃなかった。

李さんが腕をケガした時、病院へ連れて行ったとか?
それ、私は知らない。病院では治療を受けないで、そこにいたらしい。

〔息子〕当時の話を聞いたら、病院へは行かせてもらえなかったようです。

行かせてもらえなかった。あ、病院へ入れてもらえないから、お義父さんが薬を
送ったんだ。私は腕が折れたことは知らなかった。お義父さんが私に教えなかっ
た。手紙も来ないし、知らなかったけど、北海道へ行って初めて折れた腕を見
た。それで障がいにならないように、お湯や冷水に腕を入れてあげた。大変な苦
労をした。

では、韓国に帰ってから農業で暮らしたのですか?
畑をして暮らしたよ。

はい、今日は面談して下さってありがとうございます。

言っていた。「当時、私が来なかったら、また逃げようと考えていた」と言って
いた。だけど私が来たから…。

家族が一緒に暮らしたら逃亡しないだろうと会社も考えたようです。
会社が家族を呼び寄せて、たくさん来た。私も家族が家から送ってくれたから、
夫の所へ行けた。義父が私を送るために苦労した。

お義父さんも息子が心配だったのでしょう。
お義父さんも心配していたけど、私が行ったから、気が楽になったようだった。

朴お婆さんが日本へ行ってどうでした?夫と会えてどうでした?
うん、分からない。何も分からないで行った。お義父さんが送ってくれた。その
時、婚姻届けも出してなかった。日本へ渡るから婚姻届けを出した。お義父さん
が私の実の父へ頼んだのさ。「どうだろう。息子と一緒に暮らせるようにさせて
くれ」と言ったんだ。私の実父は、「あなたみたいに立派な人はいない」と言っ
て、私を日本へ送ることにした。それで婚姻証明書を出して、日本へ渡った。そ
れ以前は、婚姻届けを出していなかった。

婚姻届けを出さないと日本へ行かせない?
婚姻届けを出さないと証明してくれない。お義父さんが婚姻届けを出して日本へ
渡った。お義父さんが私の実父を説得したんだ。

実父として娘を北海道へ送る心情は、さぞ心配だったのでは?
実母も男みたいにしっかりした人だから、賛成して送った。別れるなら別だが、
別れないなら(日本へ)送らないでどうすると言った。

朴お婆さんはどうでした?怖かったですか?行くのが嫌でしたか?
いいや。分からない~。私は言われたとおりに行っただけだ。行きたいのか、嫌
なのかも分からないで行った。行く人と一緒に付いて行っただけだよ。ホホホ。

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■ 面談後記

朴今順さんは、戦時期に夫が労務者として動員されたため、家族とし
て日本に渡って生活した特別な体験の持ち主だ。私たちはこの朴さん
の証言を聞こうと朴さんが息子夫婦と住んでいるソウルのあるアパー
トを訪問した。田舎から上京して長くないと言うが、都心のアパート
生活が朴お婆さんには息苦しいのではと考えたが、朴さんはとても明
るく元気だった。そんな性格のお陰か、朴さんの前向きで茶目っ気の
混ざった笑いの中で、歳幼くして夫を追って異国へ向かう怖れ、見知
らぬ環境と貧困という生活上の困難などが、興味深いエピソードとし
て蘇ったようだった。自分の体験よりも、夫が、そして当時動員され
た人たちの苦労の方が多かったと何度も繰り返した。朴さんは笑顔で
話したが、その話から、強制動員された朝鮮人たちとその家族の悲哀がにじみ出てきた。

・面談日:2007.8.2.
・面談者:河承賢
・補助面談者:李宣姈

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15歳の少年の話

〈三菱鉱業(株)新下川鉱山〉

班長は韓国人だが、仕事をしないと言って殴る

今日、金泰淳さんとお会いして、行かれた鉱業所やその当時の写真について伺い
に来ました。
今後の歴史資料として…。そうかい。話さなきゃいけないだろう。国家がしなき
ゃいけない。日本人とは今になっても解決ができない、大変だ…。

私たちが伺うことについて気楽に、思い出すことをおっしゃって下さい。
たくさんあるよ。

いまお歳はおいくつですか?
80。1930年生れだから。

戸籍とは少し違うようですね?
満で79。家では普通に80。

・1930.7.28. 忠清南道扶餘郡鴻山面井洞里、出生
・1944.秋.  三菱鉱業(株)新下川鉱山へ動員された。選鉱作業に従事。
・1945.12.  本籍地へ帰還。

金泰淳(キム・テスン)

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実際の銃はなく、木銃を担いで「戦争ごっこ」とかなんとか言ってた。戦争ごっ
こ…遊びじゃなくて、訓練する。銃剣術をする。こんな訓練を年寄りの人がす
る。

「青訓生」にいた人はお爺さんと同年代でした?
軍隊へ行った人もいる。それも4年たてば、卒業して、たくさんの人が引っ張ら
れて行った。私が卒業して2年の時だった。

それが何年でした?
私が1944年に引っ張られた。私は1943年度卒業と同時に青訓生1年生で、その次が
2年生で、だから1944年なら2年生で引っ張って行かれた。学校を卒業して2年の時だ。

ここ三龍里(扶餘郡南面三龍里)からお爺さん一人が行ったのですか?
いいや、違う。3名行ったが、今は1名だけ生き残っていて、別の所にいる。私
と同年齢だった人は死んで、徐〇クといった。この南面からも何人か行った。い
までも生きている人が一人いる。李〇オクだ。その人が鴻山面(扶餘郡鴻山面)
で、鴻山面の近所に住むその人が委員会へ申請しただろう(委員会で受理)。そ
の人も申請したと言っていた。

李〇オクとお爺さんの他にもう一人当時の話をしましたよね…、李〇チョル。そ
の人も南面の人ですか?
李〇チョル。南面で生きているが、その人はもう歩けなくなった。歳も私より多い。

南面から何人が集まりました?
南面から5人くらいになった。あの鴻山面ではもっとたくさんいた。

金さんはお兄さんの代わりに行って、その5名はどうして行くことになったのです
か?
うん。さっきの徐〇グという人は、私みたいに自分の父親の代わりに行った。父

日本へ行ったのは何歳でした?
数えの15歳で行った。

15歳。とても幼い時分ですね?
そうだよ。これがその時の写真だ。

そうでなくても写真を見て、随分と若いなと感じました。
うん。

当時もこの村に住んでいました?
うん、この村(扶餘郡南面)。

この村から直接日本へ行ったのですか?
私に行けと令状が来たのではなく、私の兄に来たんだ。私の兄は北海道に行って
きたが、行って帰ってから半年ほど過ぎたか?また行けと言ってくるんだ。苦労
してきたから、もう逃げ回った。もう行かないと言って。そうしていたら面事務
所の職員が、私が家にいるのを見た。私に行けというんだ。私は日帝時代、国民
学校を出て、青訓生で、それから軍事訓練も受けていた。ずっと…、週末ごとに
通っていたのが2年になって、もう訓練を受けるのも嫌になっていて、進学した者
は軍隊に行った。面職員が来て「行け」というから、結局、「行く」とついて行っ
た。

「青訓生」って何ですか?
うん、青訓生~〔青年訓練所の生徒〕、軍事訓練。学校を6年行って卒業しても、
進学する者はおらず、私みたいに家にいる者は、全て引き出して、週末に軍事訓
練をさせる。

その軍事訓練は、どんなことを教えるのですか?銃を撃つとか訓練するのです
か?

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ない。昼に出てきて、どこかで身体検査もあって。

身体検査も?
うん。全部脱がせておき、伝染病のためだろう、身体検査して風呂に入れて、水
道水だ…。アイゴ、話にならない。船に乗って、どこかで風呂に入って、その後
でまた船に乗って、船だというが、山!山のよう、私はビックリした。

東京駅で降りたら、下駄のカランカランという音が流れるように聞

こえた

それは日本行きの連絡船でしょう?
そうだ。興安丸(こうあんまる)17) と本に載っていたという。その船に乗った
が、すぐには出港しない。その船中に降りて行くと、船室がザッと広く、「タタ
ミ」で、日本人が畳をあちこちに敷いていた。私らが隅っこに座っていると、女
の子たちが群がって私らの横に座った。若い女の子たち、慶尚道の女の子が泣き
ながら私らを囲んだ。娘たちは寄って来て会心の歌を歌い、私らもそうした。何
がそんなに心をひいたのか分からない。娘らは工場へ行くということだったが、
慰安婦になったかも知れない。

その慶尚道の娘たちは工場へ行くと言いました?
うん。そうだ。日本のどこかの工場へ行けと言われて、引っ張って行かれたん
だ。

その娘たちは何歳くらいに見えましたか?
みんな若かった。私よりは歳が少し上で、二十歳未満だ。

 17) 日本の鉄道省が関釜連絡船で使用した船。金剛丸の姉妹船として製造。第2次世界大戦前から

戦後にかけて関釜連絡船、引揚げ船、イスラム教巡礼船として使われた。昭和期を代表する船。

親が年寄りだから。他の人たちに関しては分からない。ソンという人がいた。そ
の人は腰が曲がっていた。それなのに来た。そうしてある日、仕事ができないか
ら殴られた。仕事に出ないと言って班長が殴るんだ。こん棒で殴るんだが、死ん
でしまうほどに。

ソンさんは行く前から腰が悪かったのですか?
うん、腰が曲がっていた。そして、腰が痛くて仕事に出れないと言ったようだ。
殴りつける人も韓国人だ。班長だが、仕事に出ないといって殴ることが多かっ
た。

南面の人たちが集まって、次にどこへ移動しました?
うん、ここに集まって郡(扶餘郡)へ行った。そこでまた扶餘郡の人を集めるん
だ。そしてまた論山へ行って、その論山での話だが、昔はひどく貧しくて靴もな
かった。買う金もない。橋の手前で列になって座れと言われ、しばらくしたら藁
の靴があった、それが一束20足になるが、それを靴だと言って分けてくれた。私
も裸足で行った。靴を買う金もなかった。そして東京へ行ったら、みんなすり減
ってなくなっていた。そんなこともあった。切れ切れだが、話したいことはたく
さんある。扶餘郡へ行くのに鶏龍旅館に泊まった。その旅館の出入口が4か所あ
った。その出入口に監督たちが逃げないように座っていた。

では鶏龍旅館で一泊して、次の日に釜山へ行ったのですね?
そうだ。次の日に論山へ行って、さっき言った藁の靴を分けて旅館に入れと言わ
れた。旅館は2階建てだ。逃亡できないように2階建てだ。夜中に起きて、駅のプ
ラットホームでまた列を組んで座らせて、毎度そうだが、団体で動こうとしたら
大変だ。居眠りする人もいるし。そこにどれだけいたか?また乗って行き、大田
に到着した。大田でまた旅館に入って寝て、夜にまた起こされた。列車時間に合
わせたからだ。そして韓国の地で堂々と私らを貨物車に乗せる。貨物車に。そし
てその夕方に全員が釜山に着いた。釜山に着いて何時間か過ぎたら明け方になっ
た。そこでまたどこかの旅館へ行った。夜に出たのか、いつ出たのかは覚えてい

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そうだ。韓国人。むしろ韓国人が多かった。

(隣)それは引率者じゃなく、募集に来た人でしょう?

(口述者)そうだよ。

そうしたら募集係ですね?
それは三菱が送った、韓国へ行って人を連れて来いと言って送った人たちだ。三
菱の人たちだ。後で韓国人たちと会ったことがある。

はい。
その鉱山は別にまたあった。手稲にあった。スロ鉱山〔ママ〕だと。私は行った
ことがない。どこか~、スロ鉱山にいたという人たちが来て、手稲が三菱の最初
の鉱山で、下川は二番目の鉱山らしい。それで新下川という。新しくできたとい
うことで「新」の字がついたようだ。
 
元から下川鉱山があった訳じゃない?
いや、手稲があって、下川はそこの地名で、下川村という地名に「新」をつけ
て、だから手稲が「旧」でこれは「新」だ。手稲が先にあって、下川が新しくで
きた鉱山だ。当時、住所には新下川鉱山と書いた。

では、手稲鉱山と新下川鉱山は距離が近かったですか?
いや、距離があった。そこが三菱系だから交流があった模様だ。私は手稲には行
かなかった。スロ鉱山というが、どこにあるのかも知らない。18)

 18) 新下川鉱山は1942年末から本格操業に入った銅鉱山だ。軍需会社に指定され、当時、廃山し

た金鉱山から移住した労働者と割り当てを受けた勤労報国隊によって42年5月から7月まで延

べ3回にわたって朝鮮人398人を動員した。口述者・金泰淳の証言にある「手稲鉱山」は、北

海道の代表的な金鉱山である(鴻之舞鉱山に次ぐ第2位の金生産)。1943年3月、日本政府の

「金鉱山休・廃山処置」によって手稲の約340名の労働者が新下川、生野、尾去沢などの鉱

山へ転出された。上の金泰淳の証言で、「新下川鉱山と手稲鉱山は同じ三菱系列で、人々の

交流があった」という証言はこのような歴史的事実と符合している。参考文献 『新下川町

史』、『北海道と朝鮮人労働者』、朝鮮人強制連行実態調査報告書1999.3. 314頁。

お爺さんは始めから北海道へ行くと分かっていました?
知らなかった。

いつ分かりましたか?
日本に着いてから誰かが聞いてきた。北海道へ行くと。

北海道まで行く引率者はいました?
いたよ。

日本人でしたか?
日本人もいて、韓国人が多かった。最初に行った人たちで会社の信頼を受けた人
たちだろう。三菱とか。私が行ったのが三菱だ。

その人たちとはどこで会いました?論山で会ったのですか?
いや。扶餘の旅館、さっき話したその旅館で…。

鶏龍旅館ですか?
うん、そこへ面の書記がザッと連れて入って、そこに座って、報告書だ。どこか
ら何人、どこから何人、「兄ちゃん」を連れてきたと。

「兄ちゃん」って何ですか?
「兄ちゃん」は若い者のことで、北海道の方言だ。「兄ちゃん」だけを連れてき
たと。年寄りもいる。それが1944年だから、太平洋戦争末期だ。みんな連れてい
かれて、残った者はもういない。だから、そんな人しか残っていない。

当時、引率者は何人くらいでしたか?
4、5人くらいだ。

そこには韓国人もいたのですね?

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し、そんなことはなかった。

それから北海道までどう行きました?
何日間か、日本では客車に乗った。毎日、ガタンガタン、汽車に揺られた。東京
に着いて思い出すのは…。

東京ですか?
うん、東京のどこの駅か分からない。上野公園があって、東京駅という所、とに
かく「皇居」、皇居がはっきり見える所へ行って拝礼、天皇陛下に拝礼する。東
京に到着して外に出てみると、日本人、女性が「下駄」、木靴を履いてカランカ
ランという音が流れている。カランカランという音について行くと、登りが終わ
って降りで、今でも覚えているが地下がある。地下だ。驚いた。いまの地下鉄み
たいに、地下に入っていく。聞いてみたら、皇居に煙が入ったらいけないから電
車が走っていると。誰からかそんな話を聞いた。

皇居で礼拝して…?
行ったのではなく、駅前に出たら広場でそこに座らされた。そして指導員が「宮
城」と言って日帝式に1分間の「低頭」だ。そこで暫く待たされた。東京で色々
見た記憶はある。

東京では泊まらないで、少し見学しただけですか?
1泊はしていない。飯を食べに旅館に入って、そして夕方に出発した。そこでも
夕方に出発したようだ。

扶餘郡庁に集まって一緒に出た人はだいたいで何人ですか?
今思い起こせば、何百人にもなる。

扶餘郡だけでそんなにたくさんになりますか?
扶餘郡庁ではそんなに多くないようだ。よく覚えていないな、私と一緒に行った

では、手稲鉱山と新下川鉱山の人は継続して交流があったのですね?
ああ、幹部たちはそうだった。私らを連れて行った人らも後に来た。何でか、行
ったり来たりするのを見た。 

最初の身体検査は韓国で受けたのですね?
そうだよ。

その身体検査は、現在のように視力検査、聴力検査というようなものですか?
そうじゃない。ただ裸にして性病検査みたいのをした。男ばかりだから全て脱が
して性病検査をした。そしてまた服を着させて、次に風呂に入れたが、釜山港で
どこかに向かっていくが、丸い船に乗って引いて行って、なんて酷いことをする
んだ。こんなに若者を船に押し込んで、座ると船の天井がよく見えない。だか
ら、こうやって海を見ようとすると、こん棒でボコボコに殴って、地理を把握す
れば逃げるかもしれないからそうしたんだろう。逃げないようにやったんだ。機
械船が私らを引っ張っていく。船に行ってみたら風呂場があって、風呂の水じゃ
なくてただの水道水だった。そんなもので何の伝染病予防だ。日本人は本当にひ
どいヤツらだ。伝染病予防だって。

身体検査というより伝染病予防の検査ですね。
うん、そうみたいだ。

金さんが着ていた服でそのままで行ったのですか?
そうとも。

途中で服をくれませんでした?
何もない。

郡庁で頭を短く刈って行ったという人もいますが?
いや、私らはそうでなかった。当時、韓国人の頭も長くなかった。軍隊ではない

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どこで寝たか、休んだか、覚えていない。そこから5時間くらいで函館に到着し
た。夜だった。それからすぐに汽車に乗った。その時の記憶がある。国民学校に
行ったから、あの曲がった所(函館の地形を説明)、函館に入っていくのがはっ
きりと見えた。船、船、赤い灯り、青い灯り、これが見えて、すごく奇麗だっ
た。それを今でも覚えている。そして、次の日に到着した。

金さんのいた場所を地図で確認しましたが、とても遠いですね。
うん、北海道でも北方の方だ。

北海道でも汽車で何日かかりました?そう。
行って着いたのが札幌を越して、寝て起きたら札幌を過ぎたという人がいて、も
う少ししたら旭川という所がある。そこも過ぎたという。

壮丁はみんな坑内に、私みたいな子どもは「選鉱場」へ

とてもよく記憶していますね。
うん。名寄に到着したのを覚えている。昼間に着いた。そこで乗り換えた。

名寄で汽車を乗り換えた?
うん。そこから横へ行く汽車に乗り換えた。そこから二駅目が下川だ。ところが
汽車がまたバックしてくる。「うん、変だ。」田舎者だから騒いだ。いま地図を
見ると、こちら側へ分かれて行こうとしたようだ。来た所へ戻ろうとするとか言
って騒いだ。いまそれを思い出す。それで当時は全て分かったが…。
その写真が名寄へ行って撮ったものだ。名寄写真館で。外出してそこへ行って撮
った。名寄は論山ほどで、いまの論山ほどじゃないが、論山はいま大きいだろ
う。当時は論山ほどの小さな田舎町だ。下川はこちらの面に当たる模様だが、そ
んな様子もなく、そして鉱山に入った、アイゴ。

人たちが約200、300人だったようでもあり…。

始め行った時ですか?
いや、そこに行っていた人たち。
 
先に行っていた人たち?
うん。そして私より先に行っていた人たちが、さらに何人かいる。先に来た人た
ち、慶尚道の人たちもいた。そこに建物が3棟あった。寮だ。大きな建物がズラ
ッとあった。

金さんが扶餘郡から出発して、論山と大田で会った人たちは、全てが北海道へ行
ったのですか?
そうだ。いや。行きながら増えた訳ではない。ほとんどみんな扶餘から出発し
た。そこにどうしたことやら、忠清南道青陽郡の人も一緒に行ったのに、先に来
ていた。行ってみると青陽郡の人、忠清南道公州の人もたくさんいた。公州の人
が先に行った。隣の寮に先に行っていた。そして私らの寮に青陽の人がいた。一
緒に行った人たちだ。どこで一緒になったのか分からないが、青陽の人が。行く
と慶尚道の人たちもたくさんいた。

東京から汽車に乗ってどれくらいですか?
何日だったか?毎日、汽車に乗って、寄りかかってゴトンゴトンと行くだけだ。
当時、(男は)軍隊が連れて行かれ、女性たちが畑仕事をしていた。汽車を見た
ら手を振ってくれた。仕事の手を休めて手を振って、そんなことを少し覚えてい
る。

車窓の外を見たら、女性たちが仕事をしながら挨拶をしたのですね?
うん、田んぼの草を抜いていた。担ぐのがあるだろ。輪がついた。韓国にもあ
る。見ていたらそんなものが見えた。暗くなったら何も見えないが、昼間には見
えた。そうして青森に夕方に…、いや昼だが何時か知らない。午後だったか…。

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金さんは鉱山から出てきた石を優先的に良いもの悪いもの等級に分けて、良いも
のだけ索道に運ぶのですね?
そこで載せて降ろすが、どこへ行くのか分からない。他の所とは、私が最初に行
った所で、その後、そこを越えて来た所が鉱山だ。

最初に行った所、後に行った所、と言いましたが、すべて下川鉱山ですか?
うん、そうだ。「選鉱場」という所は広く造ったものだが、いま言った所にはと
ても大きな峠があった。機械を全て持ち込めないから、そこへ設営した。そして
索道に鉱石を載せる。そして、そこまでは汽車、ガソリン車で、下川からそこま
で20キロメートルほどだが、通っている汽車がある。小さなのがピッピッと鳴ら
して走っていた。それに積んで運ぶ。

その掘った石はどんなものですか?
銅、銅山、黄金色できれいだ。

石自体が黄金色ですか?
うん、黄金色でとてもきれいだ。私も坑内に入ってみた。坑に入って、えーっ
と、アパートで上に昇るもの、人もそれに昇って行く。

エレベーターですか?
うん、エレベーター。私が行ってからできた。それに鉱石を掘って載せて、私の
いる選鉱場で空けて砕いて、また運ぶ。こんな工程だ。

その銅は最終的にどこでどう使われるのですか?
分からんけど、はっきりしている。戦争するとき、韓国でも真鍮とか全て供出さ
せられて、匙とか、戦争準備だろう。とにかく、どこへ行ったのかは分からな
い。

鉱山に到着してから、身体検査なんかしました?
それはなかった。

到着して、訓練や教育はなかったですか?
いや、訓練はなく、すぐに仕事をさせた。一部は別の場所へ行って、私らはまた
他の所へ行った。少し越した所に、坑があった。「選鉱場」だ。そこは機械がた
くさん必要だが、それを持ち込む力がないので、その丘に「選鉱場」をつくっ
た。はじめて行ったが、広い。大きな「選鉱場」をつくった。そこで働けと。そ
こは寮が違う。そこは皐月寮。皐月寮はさっき話したソンさんが殴られた所だ。
そこで3日ほど働いたか。坑外で言われるままにした。ある日、何人かに、付い
て来いと言った。9名に、付いて来いと言われたんだ。

はじめに一緒に行った人達とは分かれたのですね?
別々になって、「選鉱場」に行って簡単な仕事をした。石の選り分けだ。女性た
ちに教えてもらって、手選(鉱石を手で選り分ける仕事)をして…。

分けられた人たちはどんな仕事をしたのですか?
新しく来た人たちを見たが、その人たちは坑内に入った。壮丁は坑内へ行き、私
みたいな子どもは「選鉱場」へ行った。そこへ行ったら、日本の女性たちがたく
さんいた。その人たちに習って鉱石を選り分ける。等級に分ける。椅子を一つず
つくれて、彼女たちが親切にはしてくれた。

石を等級別に選り分ける?
そうだ、良いのと悪いの。捨てられた石から、まだ立派なものを選ぶ。下にはそ
のまま車(トロッコ)に載せて押して行くと索道がある。それに載せて、先に出
てきた所に行く。載せて行ってひっくり返し、叩く仕事があった。いま話したの
は簡単な「選鉱場」の仕事で、上から降りて来た鉱石を、大きな物は叩いて砕
き、適当なものはそのまま選んで載せる。そうやって形良く砕いた。

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うん。

寮の名前は?
それは十善寮だ。さっき話したのは皐月寮だ。日本人たちもいる。信用されてい
る日本人がいる所もある。それが洗心寮。名前が良い。心を洗うということだ。
うまいこと名前を付けたものだ。もう一つは職員たちの宿舎が別にあって、職員
合宿だ。

十善寮と皐月寮は、徴用や募集で来た人が暮らす所ですか?
そうそう。韓国人たちだ。

信用ある人夫がいた洗心寮があって?
うん。そこは日本人たちもいて、韓国人もいた。

職員合宿所もあった?
うん。

大きな建物が4棟あったのですね?
そこだけがそうだ。さっき言った初めに行った所は、分からない。

新下川鉱山はとても大きかったのですね?
それほど大きくはない。大きくは見えないが、拡張されてきた鉱山だ。

そこが三菱鉱山だと、どう分かりました?
それは先に来た大人たちが、学のある人、住所を書くのを見たら三菱と書けるん
だ。三菱。私は漢字を知らないから、「私にも書いてください」と頼んだ。後で
自分でも書けるようになった。そこは全て三菱だった。三菱のマークを作って、
張ってと言われなくても、自分でやりたくて張ってある。

私がこれに一度こっそり乗ったが、泣く目にあった

私は資料を探して下川について少し調べました。現在は索道がなく、そのコンク
リート跡だけ残っているそうです。
あぁ、そうだろう。索道は上にワイヤーを両側に渡した。行ったり、来たり。そ
うやって運ぶ。しかし、それは、ワイヤーが薄くて危ない。私は一度こっそり乗
って泣く目にあった。乗るなというけど、こっそり。越えて戻ると足が疲れるか
ら。「油差し」(機械に油をさす道具・人)、油を入れる人、その人がこれに乗
って行って、索道の鉄柱に油を全て差す。黙って見ていて、また来たら、さっと
乗り移る。それを見て、乗ったんだ。乗せてくれと言ったのに乗せないと言わ
れ、何人かが乗ろうとしたので、私は乗った。そうして一番高い所、高くなって
る所。そこで索道が止まった。進めなくなって、風が吹きつける。行き来してい
たのに、急に落ちるのではと恐ろしくなった。下を見ると、人が握り飯ほどにし
か見えない。泣いた。アイゴ、幼稚だと、日本の女たちにあれこれと悪口を言わ
れたようだ。そんなこともあった(笑)

「油差し」は日本人がするのですか?
そうだ。それは技術者だ。

毎日穴が開いた所に雪がどっさり、布団にはシラミがウジャウジャ

金さんが寮に初めて入った時、先に来ていた人たちはいました?
うん。

その人たちはどこから来ました?
いや、さっき言った慶尚道の人たちがいて、真ん中には公州辺りの人たちがい
て、私らが行って部屋の隅にいた。

金さんたちが行った所が3番目の寮だったのですね?

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る。紙綿を集めて塊にして、寒い所に千切って入れたら、アイグ、本当に思い出
すだけで…。それから、この家が板張りで、仮設住宅だから骨組みだけ立てて板
を張り付ける。日本人はそう建てる。その板に穴が開いた所があるが、そこから
雪が入り込み、厚く積もっていた。

掛布団の上に?
いや、部屋の中に。壁側は板で、内側は畳だ。穴が開いたところに雪が厚く。そ
れが忘れられない。毎日、雪が。寒かった。オンドルと言ったら全くないし、ス
トーブもない。

ストーブもない?
ストーブはあるが、薪がないから燃やせない。

石炭は燃やさなかった?
石炭ストーブじゃない。そして、アイグ、二人が夫婦みたいに布団をかけて寝
て、そこにシラミがウジャウジャ…。

シラミがたくさん?
うん。シラミ、南京虫。

それで服を集めて蒸したのでしょう?
そこには蒸す所もなく、みんな外に出て服を払って、また着た。

伝染病も随分あったそうですね?
そう、伝染病…。その時、伝染病はなかった。当時、伝染病と言ったら疥癬。皮
膚病はあった。だけどそこは日本だから、風呂は毎日入った。共同風呂があっ
て、仕事現場から出てきたら風呂に入った。体はきれいなのに、シラミがやたら
多い。

あ、この帽子の三菱マーク、自分で作って付けたのですか?
そうだ。
 
三菱マークがこれですか?
菱形だ。

このマークを付けるか付けまいかは、個人が決めるのですか?
うん、そうだ。帽子だけもらえる。帽子も紙の帽子だ。

帽子にはマークが付いていない?
付いていない。

このマークは何にできています?
それは、「キャンドル」(坑内の安全灯)があって、それに着ける黄色いもの。
その壊れたものを削って、作ってくれる人がいた。

三菱マークを作る人もいる?
うん。

お金を渡すのですか?
いや、それはタダでくれる。この帽子は紙でできている。紙を紐みたいに巻いて
組む。うまくできている。それから布団綿、布団を1、2枚ずつかけるが(二人
でかける)、敷布団と掛布団に(綿を)入れる。自分の家ではここまでやってく
れないが、いや、そうでもないか。花布団をくれるから、フカフカで本当に良い。

花布団?
うん、花模様の敷布団、幅の狭いのをくれる。正直、それまで(日本に行くま
で)布団を敷いて寝る人はいなかった。そのまま床で寝ていた。掛物はする。で
も日本では違った。綿を紙で作っていた。紙を衝いて叩いて綿のようにして入れ

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どうして来たと尋ねてみたことがある。彼女たちも集団で連れてこられたようだ
った。そこの近隣に住む娘たちだ。洗心寮に泊まっていた。

洗心寮で泊まっていた?
うん、彼女たちがいて、日本の男がいて、家族で来ている人もいて、夫婦で働く
日本人がたくさんいた。

月給は受け取りましたか?
うん、もちろん、もらった。それで、互いにいくら貰ったか分からないだろう。
それである日、月給が出た次の日、現場で娘たちが月給の話をして、「少ししか
もらっていない」と言う。だけど、私よりも月給が多かった。

日本の娘たちの月給が多かった?
うん、(娘たちの方が)私より年上で、私より力が強い。私は男だから、男尊女
卑の考えがあるし、韓国人だし、「男が少ないのは話にならない」と思った。そ
れで監督の所へ行って抗議した。「いくら幼く見えても、これしか貰えないの
か?なぜだ。僕は男なのに、男なのになぜ少ない」と言った。私は男だという思
いがあったからだ。「僕は金光(金泰淳の創氏名)…。」

「金光」だったのですか?
うん。「金光」と呼ぶから、「ハイ」と返事した。「お前の本俸…」。三菱本社
が東京にある。東京○○ビルだと、いまでも忘れない。「丸ビルは建物の中にあ
る。そこで本俸は決定して出た。それを私としてはもっと出したくてもできな
い。お前の年齢その他を考慮して決まった」と金額を言われた。50銭だったか、
いくらだったか。忘れたが、以後は仕事を早くしたら、一日出たら一日半出たこ
とにし、1日働いたら、3分とか7分を計算してくれる。ある時、使い走りをして
2日分つけてくれた。そうしても、本給が少ないから、大したものにはならなかっ
た。

近所の女性たちも集団で引っ張られてきたようだ

作業服などはくれましたか?
作業服をひとつ。ひとつもらって、ずっと帰国まで着ていた。どこか破れたら継
ぎはぎして着て、黙々と働いていた。一緒に働いた娘、名前を記憶しているが、
「きゃくの・はるえ」と言った。私がお姉ちゃんと呼んでいたが、この人は親切
だった。この娘が、「これ、誰が縫ったの?」と聞く。「僕が縫った」と言った
ら大笑いした。この娘が私にとても親切だった。歳も私より、多分5才上だろ
う。私は彼女を姉と思っていたが、ある日私に「家にお姉さんはいるの?」と聞
いた。「うん。いる」と答えた。「お母さん、お父さんはいるの」と聞くので
「いる」と。「お兄さんもいる」と言ったら、「じゃあ、なぜ来たの?」と尋ね
る。何でここへ来たのかと。彼女らは私たちがどうやって来たのか知らない。

はい…。
「来たくなかったけど、引っ張られてきた」と答えたら、さっと表情が変わっ
た。彼女たちは、自分の国だから守ろうとする。

そう言ったから慌てたのですか?
そんな感じだった。

その後から、そんな話はしませんでした?
しない。そんな話はしない。私は彼らと話を随分した。言葉ができ、国民学校も
出て、言葉が通じるから話をたくさんした。

どんな話でした?
彼らの話を聞くこともあり、われらのことを尋ねられたりした。仕事の話もした。

その娘さんは、なぜそこで働くようになったのです?

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飯は出ることは出るが、いつも腹を空かせていた。

食券などありました?
なかった。

食券はなくて、直接食堂へ行けば食事が出るのですか?
そうだよ。食堂をする人は韓国人だ。

韓国人ですか?
うん。さっき言った李〇哲氏、その、一緒に行った人は食堂に配属されていた。

食堂で働く人は、徴用で来た人の中から選ぶのですか?
そうだよ、うん。

では、意地悪い人はいないでしょう?
そんな人はいない。だが飯をもっとくれとは言えない。少なくも言えない。

獐項(チャンハン)面の人が着ろと言ってくれた。そこでは服もく

れない

この服はいつもらいました?
服ももらったものでなく、家から郵便で…。

あ、この服?
うん。これは私のものではない。こんな服は持っていなかった。

こんな服は(会社から)くれませんでしたか?
くれない。くれないとも。さっき言った一着だけだ。

その娘たちとの給与の差は、何倍くらいでした?
何倍とは言わなくても、かなりだった。覚えていないが、私よりも多くて腹が立った。

その娘たちはどれくらいの期間働いていました?
それは分からないな。私が行った時はもう来ていた。それに実際、私より良く働
く。クルマに載せて運ぶのも、競争してみたが、私よりも上手だ。実際、そうだ
が、わたしが男だから言ったわけだ。

その給与から月掛貯金みたいなものがありました?
いや、そんなお金はなかった。いつお金を使うかも分からなかった。売店で買い
食いしていたし。一度家へ送金したことがある。家にいた時、日本へ行った人が
大金100円を送って、その両親がそれは喜んだのを見た。私も一度100円をどうに
かして送ったことがある。一度だけだ。それからは到底、送るお金がない。

月給から差引くとか、強制的に積立させるとか、飯代を差引くとか、聞いたこと
がありますか?
それは聞いたことがない。ひょっとしたら秘密裡にあったかもしれないが、まっ
たく知らない。

給与は毎月出ましたか?
そう。監督の話では、私の一日の本俸が50銭だったようだ。50銭なら、ひと月20
日なら10円か?当時、ひと月10円ずつ貰った。一番たくさんもらったので、20円
のときがある。当時、大人たちは家へひと月に100円送った。大人たちは坑内で働
くから本俸が多いが、私は幼かった。

坑内労働は高い?
そうだ。多い。

食事はどうでした?

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うん。私が付けた。縫い合わせた。服は獐項の人がくれた。自分は他に持ってい
ると。当時、日本人が戦争に負けた時、とんでもなく大変な時だった。飯も、コ
メも、なくなることもあった。そしてカボチャ、ジャガイモを蒸して出すことも
あった。カボチャだけ。そこに蒸しカボチャはあった。

蒸しカボチャ?
北海道へ行ったら、それがたくさんある。

金先生の寄宿舎が皐月寮でしょう?
十善寮。皐月寮は最初に行った所で、3日間で出ろと言われた。

始めに皐月寮に3日いて、そこで9名が移動になって行った?
うん、そうだ。

十善寮の人はみな「選鉱場」の人ですか?
いいや、坑内の人も多い。「選鉱場」の人はみんな子どもばかりだった。ケガし
た人も多く、一度、大きな事故が起きた。

大きな事故?
坑内ではなく、「選鉱場」でストーブが爆発した。それは韓国人が失敗したの
だ。それで、李〇オクがケガをした。

李〇オクさんがケガした?
腕の所に破片が当たった。指が入るくらいの穴が開いた。ケガの傷跡がかなり大
きい。

〔隣〕いまでもその傷跡があります。

そうだろう。きっと。名寄に大きな病院があって、そこで何人も、長く治療を受

◎写真左)休日に外出して名寄で撮った写真/写真右)写真裏面(金泰淳寄贈)

作業服一着?
うん。それ一着と、冬用の下着一枚、それでお仕舞い。それが破れたら縫って着
る。この(写真の)服は名寄へ外出するとき、獐項面の人がくれた。木綿ででき
ている。

(写真右側の右胸部分を見ながら)このマークは訓練兵の服だそうですね?
名札ではなく、徴用マークという。これは歴史があるものだ。

これは応懲士マークですね?
うん。徴用マークだ。このマークをくれる理由は、ここから外出しても捕まって
連行されるケースが多かった。人が足りない、仕事に必要だからだ。逃亡を防止
するためにこのマークを与える。

この服は獐項の人から貰ったもので、「応懲」マークは付けたもの?

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人は洪城市場で食膳を運んでいた。しっかりしていて、韓国から一緒に来た。洪
城市場は大きいが。そこで私らより豊かに暮らしてしっかりしていた。それで、
日本の弁当、普通より真ん中が凹んで盛り付けてあった。こんなのでは、仕事す
るのに腹がすく。私らは飯のことしか頭にないのに。この老人は本当にしっかり
しているから、その弁当を持って行って、毅然と抗議した。

監督に?
班長だ。私らの班長は二人とも韓国人だ。寮長もいる。ある時、飯盛りの年寄り
が俵を担いで、どこかへ行くところだった。洪城の人が行ってみると米だった。
「米をどこへ運ぶ?」と聞くと、「寮長さんに運べと言われた」という。寮長が
米を掠め取るのだ。麦、米を盗っていくのだ。それで洪城の人は、これを公表し
た。「寮長さんが米を盗った」と。全員がこれを知ることになった。それからど
れほど過ぎたか、現場で働いていると、娘たちが、殴られているのを見たらし
い。そして日本人たちが私に、「金光さん、行くんじゃない」と言った。でも行
って見ると、現場で刑事が殴りつけていた。理由は分からないが、寮長が口実を
見つけて殴らせたのだろう。

その朴〇ドンさんは酷くケガしましたか?
大きなケガはしなかったが、随分と傷があった。いまは亡くなられた。

金さんの十善寮には何人ほどいましたか?
う~ん、何人だったか。

部屋は幾つありました?
10部屋ほどか?そんなにギュウギュウ詰めではなかった。

ひと部屋に何人寝ます?
15人ほど入れる部屋、10人以下の部屋もあって、自分勝手に出入りする…。

けていた。

李〇オクさんは治療を受けて大丈夫でした?
うん。大丈夫だ。骨は大丈夫で、いまでも洪城(ホンソン)郡で生きている。

炭鉱近くに病院があったようですね?
鉱山病院があった。私も治療を受けたことがある。

金さんはどこをケガしました?
ケガしたのでなく、ちょっと出来物で治療を受けた。病院と言っても、いまの保
健所にもならない。看護員一人、医者一人、消毒液を塗ってガーゼを貼って、そ
れだけだ。

どういう口実かわからないが、刑事が老人を殴るのを見た

病院の名前は?
単に鉱山に属する病院、病院と言えるかどうか。

学校の保健室程度ですね?
そうだ。鉱山は一般住民の暮らす所ではない。山の中だから。民間ではない。そ
こにあるすべてが鉱山に属する。そこにある警察の刑事も、監督しに来ている。
韓国人を取り締まりしている。

警察もあったのですか?
派遣形態で来ていた。常時いるわけではない。

制服を着て来るのですか?
そうだ。いや、あんまり来ていることも知らないぐらいだが、そいつに酷く殴ら
れた人がいた。洪城の人が、本当に酷く殴られた。老人だが、朴〇ドン氏という

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◎手稲鉱山選鉱場(2009.7.委員会北海道調査団撮影)

そこで解放まで働いたのでしょう?
そうだ。1年半、働いた。

その途中で別の場所に移動した人はいませんでした?
それはなかった。逃げた人もいない。そこは逃げる人もいないから、監視も特別
になかった。

そこで「たこ部屋」を聞いたことがあります?
聞いた。新下川にたこ部屋はなかった。

どんなふうに聞きました?
「たこ部屋」にいるのはほとんどが逃げて捕まった人。こんな人たちが働く場
所。仕事の最中でも縛られているという。その現場では監視が厳しくて逃亡でき

寝場所が決まっているのでなく、部屋を移ることができた?
いや。決まってはいるが、気が合った人の所へ行くとかは、自由だった。

仕事の交替はどうでした?
坑内が3交替。「選鉱場」は2交替。

休日は名寄に外出したのですね?
うん。休日に。

休日はどれくらいあります?
週一回だ。仕事も(自分は)それほどきつくなかった。

金さんはまだ幼かったから。そこで軍事訓練はしませんでした?
班長が若い者を集合させてさせるが、かんばしくない。私は経歴もあるからと
「青訓生」の前に立つようになった。銃剣術をして、私が助教になった。

助教に?
少しだけだ。全て引っ張ってこられた人たちだから、何も分かっていない。前へ
進め、後ろへさがれ、右向け右、左向け左と言って、銃剣術をするふりを1週間
した。またやれと言われたがしなかった。

軍事訓練を1週間?
うん。

手稲鉱山ですが、スロ鉱山職員だけ往来して、仕事を替わったのですか?
人夫はしない。そして私らを引っ張って来た人たちも来て、仕事の交替があった
のやら。日本人でも分からないだろう。日本人もたくさんいて、どんなことをし
ていたか分からない。手稲は三菱だが、鉱山だから行った人もいるが、私は行か
なかったから分からない。

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れ」とだけ言った。

話はそれだけですか?
うん。そうだ。みんなしかめ面をしていたが、私らは日本が負けたとは思いもし
なかった。降伏なんてあるはずがなかった。私らは勝つだけだった。そう洗脳さ
れ、そう思っていた。だから私らは何も知らずに仕事を続けていた。そしてひと
月ほどして、人に会いに外へ出て戻って来た人がいた。そして、「日本が降伏し
た」と言った。「ウソだ。日本が何で負ける」と答えると、それはその人もそう
言ったと。その場はそれで終わった。そうしているうちに、他の人が外から同じ
話を聞いてきた。外では仕事はしていないようだった。それは変だと私も確かめ
に行くことにした。そして本当だと分かった。ひと月後にようやく…。

その寮にいた人が全部、知らなかったのですか?
そうだ。韓国人全体が知らなかった。一緒に働いている日本人はそれほど恐ろし
い人間だ。(日本の)一般庶民なのに、韓国人へ何も言わなかった。それほど恐
ろしく模範的な人たちだった。だから今でも日本という国は、恐ろしいことを考
える。人間は良いが、とても恐ろしい人たちだ。

そこは外の情報を聞く手段がないのですね?
ないとも。

当時、娘たちと一緒にラジオを聴いていたら、ひと月仕事をしなくても良かった
のでしょう?
そうだったかも。だけど、働かないと金を稼げないし。

解放後にも働いた分の給与は出ました?
うん、出た。大した金ではないが、働いた分はもらった。それ以降、段々と仕事
に出なくなった。だから、日本人だけ出て働いた。

ない。また、宿舎の扉には子犬ほどの大きさの錠前が掛かっている。ここに入れ
られたら逃亡できないが、トイレから逃げた人の話を聞いたことがある。

そうですか。金さんのお兄さんは日本のどこへ行ったのです?
千島だと。その飛行場。2番か3番目の島で働いて冬の前に韓国へ戻ってきた。

◎手稲鉱山選鉱場(2009.7.委員会北海道調査団

みんなしかめ面をして、仕事だけ「早くしろ」と言った

解放はどうやって知りました?
私は分からなかった。ある日、一緒に働いている娘と話をしていたら、「金光
さん」と私を呼んだ。「明日は天皇陛下が何か重要な放送をするから一緒に行
こう」と言った。私はよく分からないから「行かない」と答えた。次の日、昼
食を食べに行ったら、どこから持ち込んだのかラジオがあった。「何と言って
いた?」と日本語で聞くと、日本人は何も答えないで、「仕事だけ、さっさとや

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こで班長をしていた。この人がソンさんを酷く殴ったが…。洪城市場に行った
ら、薬売りが戻ってきたと、その人には後ろ盾があると大田の人が言っていた。
私も恐ろしいから、そこでは身動きもできない。

日本人が直接苦しめ、苛めないで、韓国人を利用したようですね?
うん、そうだ。大体そうだ。韓国の面書記がいるだろ。一度車の中から見たこと
がある。「こいつ、どうしてやろうか」と思ったが、私も気が弱い。「やい、こ
の野郎、私を(日本へ)送って気持ち良かったか?」と一度言ってやりたかった
が、今はもう死んでしまった。私も気が弱い。

そこに中国人捕虜はいませんでした?
それはいなかった。大きな炭鉱にいると聞いた。

私は北海道へ行かなくても、捕まって他の場所に行っただろう

解放されてどれくらいで韓国へ戻りました?
家に戻ったのは12月20日、20何日だ、

解放後、ひと月働いて、そして休んだのですね?
ずっと休んでいた。なぜかと言うと、日本からの船がバラバラになったとか言っ
た。あぁ、だから船が来なかったんだと分かった。2、3回船が出港する日が来
ても、そのつど出航中止になる。そして「日本を出た船が破壊された」という話
が聞こえてきた。魚雷〔機雷〕、ソ連の魚雷に当たって沈んだという噂もあっ
た。そして12月末まで待って、きっと出航中止だ、出航延期だと思ったが、そ
うはならずに戻ってきた。そこは(北海道は)とても寒い所だった。韓国へ戻る
とき、握り飯を4、5個くれた。汽車で、船で、腹が減ったら食べた。船に乗っ
て、函館で船を乗り換えて、東海(日本海)経由で帰って来た。

函館からまっすぐ韓国へ向かった?

日本人は続けて働いた?
うん、働いた。一度、労務主任が来て、私らが懲らしめたことがあった。労務主
任は年寄りだが、私と日本語の分かる人が行って、これまで私らに犯した過ちを
指摘した。そうしたら座りながら汗をボロボロと30分、流していた。

どんなことを糾したのです?
飯を十分出さないで飢えさせたこと、服もくれない、考えだしたらたくさんあ
る。それを労務主任に言ったら、汗をだらだら流して、逃げ出したことがあっ
た。いま考えると、危ないことをした。間違ったら日本人に殺されることもあっ
たのに…。

他の鉱山では解放を知って、自分たちを苦しめた日本人を懲らしめた人たちも多
かったそうです。
うん。ここでは日本人に苦しめられたのは、それほどないから。苦労はしたが、
日本人が私らに意地悪したことはなかった。さっきの殴られた話も、韓国人がや
ったことだ。班長がさせた。

その班長は先に来ていた人ですね?
そう、その中から選び出した。行った時、班長は2人いた。ひとりは光州の朴○
ミョンで、公州の人は新入りで、名前は忘れた。

朴〇ミョンは公州ではなく、新入りが公州でしたか?
よく分からない。その韓国人で大山、そのソンを殴った人…。

腰が不自由なソンさんを殴ったのが大山ですか?
うん。大山だ。市場で薬商売をしていた人がいた。

洪城の人ですか?
いや違う。薬商売…。薬売りの人だが、とても凄く恐ろしい。体格も大きい。そ

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真を撮るのは難しいことだった。

三菱は大会社なので待遇が良いのではと思いましたが、かなり劣悪だったようね?
その頃は、日本政府があたふたしていたから、難しかったろう。

戦争末期に金先生が行って、それだけに苦労したのですね?
私が行かなくても、捕まって他の場所に連れて行かれただろう。

今日はお話を有り難うございました。興味深い話、随分と参考になりました。

・面談日:2009.9.25
・面談者:李宣姈
・補助者:鄭ソニ

■ 面談後記

委員会の被害申告書に添付されていた一枚の写真の人物は、余りにも幼
くあどけない子どもだった。金泰淳さんに会いに向かった三龍二里の老
人会館まで、本当に長い道のりだった。金さんは、私たちに話す内容を
忘れないようにメモしておくという几帳面な性格だった。本人は動員当
時に幼かったので、一緒に動員された人よりも苦労が少なかったと言う
が、空腹と寒さは厳しかったようだった。東京駅に到着した時に聞こえ
たカランカランという下駄の音、函館港に到着して見た華麗な灯、日本
の姉さんとのやり取りの話、そして当時、作業場で見聞きした金さんの
体験は、まるで15才の主人公の冒険談を物語る一片の映画のようだった。

うん。東海(日本海)を通ってまっすぐに釜山へ来た。その時も、どれだけ苦労
したか?船は客船でなく貨物船だ。炭を運ぶ船。寄る所で停船して人を乗せる。
一度、事故で人が死んだ。函館まで入って2日ぐらい泊まった。それで船で握り
飯を食べようとしたら、凍っていた。いまは考えられないことでしょう、カチコ
チの飯を食べれるか?

韓国へ戻る時は握り飯4個で、配給品とか旅費とか出ましたか?
あ、くれた。軍服、他の鉱山もそうだろう。米軍人の指示でくれたのだろう。軍
服、帽子、下着、黄色の軍用毛布も2枚くれた。当時、それを着て歩いた人が多
かった。それで船で、日本と韓国の金を交換させる。300円ずつだったか。だけ
ど、私のお金は300円にもならなかった。

300円を船で交換した?
うん。交換してくれるが、足りないから毛布1枚売ってあてた。誰か買うと言っ
た。お金を受け取って、それを合わせて韓国のお金300円と交換した。韓国のお金
が一番良いだろうと、それを家に持って帰った。
 

 

金さんの写真は北海道へ行ってどれくらいの時期ですか?
秋なら15歳、春なら16歳の時だ。秋か春かはっきり覚えていない。

写真の裏に44年と記されているので、44年秋のようです。
これは私が書いたものだ。

この写真はどれくらいで撮りました?
どれくらいかは忘れた。一緒に行った徐○グも撮った。徐は死んでしまったが。
洪城の人と3人で撮りに行った。

団体写真などはありませんか?
ない。私らにそんな暇もなかった。この写真も決意して撮ったものだ。当時、写

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その時、わが国は日本の属国じゃないか!

住友鉱業鴻之舞鉱山、栃木県古河鉱業足尾鉱山〉

強制で若者たちを集めて行こうと言うから、しょうがなく行った!

歳はおいくつですか?
88歳。戸籍では87歳になる。

日本へ行くまではどこで何をしていました?
行くまでは農業。私が行かないと言ったので、私の兄弟は3人だが、他の兄弟は
みな日本へ行っていた。私の両親は、「お前は農業をして一緒に私らと暮らそ
う。何で行く」と言ったが、大東亜戦争が起きた。昔だったら軍隊へ行くが、日
帝時代は警察が徴用でなく志願兵に行けと言って、それも警察が行けというか
ら。これではマズイと思っていたら、集落で若者を調査して、当時、私らは日本
の属国だから、ヤツらが強制で若者を集めて行こうと言うから、しょうがなく行
った。行く時はしわくちゃの服を着せて、頭をクリクリに刈って連れて行く。

韓国で頭を全部刈ったのですか?
そうだ。いま軍隊へ行く時もそうだろう。みんな頭を刈る。梁山は7つの面

・1923.4.3  慶尚南道梁山郡東面与楽里、生れ
・1943.3.21  北海道の住友鉱業鴻之舞鉱業所へ動員
・1943.4    金鉱山休廃山処置
・1943.4.20. 栃木県の古河鉱業足尾鉱業所へ配置転換
・1945.8.   解放後、本籍地へ帰還

呉小得(オ・ソドゥク)

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どこで頭を刈ったのですか?
行くとき、私は21才で、頭の格好をつけていたが、行くときは「全てすっかり刈
れ」と言われた。服も脱がされて、チクチクする袋みたいな服を着せられて…。

服はどこでくれました?
梁山郡で。来いと言われて行ったら、服を全部脱がされて着替えて、国防色でこ
うチクチクする服を持ってきて、逃亡できないように同じ服装にして、頭を全部
クリクリにした。そうしたら票が出る。

逃亡できないように~、それでどの鉱山へ行きました?19)
鴻之舞鉱山。 

そこまでの道を覚えていますか?
そこで働いた人たちは随分亡くなった。

鴻之舞鉱山まではどう行きました?
強制で行くと言うんだ。私は韓国で10里も乗ったことがないのに、汽車に乗って
10数日かけて北海道の鴻之舞鉱山。〔その北は〕樺太、ロシア。樺太まで行くの
は遠い。10数日行くのに、アイグ…。飯も韓国のものと違って、何か奇妙なもの
を汽車の中で食べて、ガタンガタン揺られて、立っていたら倒れそうになる。汽
車で10数日間も寝た。昼も夜も15日くらいたったか、本当に遠い。青森、本州だ
けでも鈍行列車で行ったら本当に遠い。

19) 1941年以降、戦況が激しくなり、「金」は軍需物資として価値がなくなり、不必要と評価され

た。そのため日本政府は当時、全国の470カ所余りの金鉱山の休・廃山を決定し、金鉱山の労

働力を別の場所へ転用する「配置転換」を命じた。北海道で最大規模だった住友鴻之舞鉱山で

もこの国家政策によって、朝鮮人労務者の転出がなされた。配置転換された作業場は、①北海

道の住友奔別炭鉱、②北海道の住友奈井江炭鉱、③愛媛県の住友別子炭砿、④秋田県の花岡鉱

業所、⑤栃木県の古河足尾鉱業所、⑥奈良県の金屋淵鉱山である。口述者の呉小得は、北海道

の鴻之舞鉱山から栃木県の足尾鉱業所へ転用された。関連内容が名簿で確認されている。

(村)の中で小さかったから、東面、北面、梁山面など四方の村から来た。誰で
も来いと。誰でも誘われたの。そしたら頭を刈ってしまう。権利なんかあるもの
か?日本人が好き勝手にするんだ。「行くぞ!」と言われたら、「はい」と連れ
て行かれる。日本へ行っても、身じろぎもできない。アイゴ、私は生まれる時期
を間違えたようだ。日本に来るもんじゃなかったと思ったけど、ある人を見る
と、私と一緒にいた人が、何か引っかかって「タコ部屋」に入ったそうだ。人を
働かせるのに、囚人みたいに紐で縛って引きずり回す。殴りつけて働かせて、仕
事が終わったら宿舎に入れて。アイゴ、到底我慢できなくて逃げた人が、私に話
した。

逃げた人ですか?
逃げた人の話では、便所へ行って、便所の後ろには排出口があって、そこから抜
け出して、ふたを開けて、外に出て逃げた。我慢できないから。生きていけない
から。そうやって逃げたから(日本人が)、「ハハ、朝鮮人が。これはまずい」
と便所の排出口を人が通れないように小さくした。

また逃げないように?
アイグ、当時、私らが言っても何になる?

村から何人行きました?
うん、7つの面から、私は東面で、3人が行った。

その人たちの名前を覚えていますか?
うん、覚えている。同じ村にいた。李○グォン、それと梁○ジュ。

3人が梁山郡に集まって、7つの面では何人になりました?
それは分からない。梁山面がいて、上北面(現・梁山市上北面)がいて、下北面
(現・梁山市下北面)がいて、ここからも来る。私は自分の面(村)の人を知っ
ているだけだ。

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鉱山の坑内からそのまま金が出てくるのではなく、石に薄く入り込んでいて、そ
れをガサっと砕く機械があるが…。アイグ、口では説明が難しい。機械がゴーッ
と回っているが、目を離すと綱が外れて機械が止まってしまう。機械を回そうと
また綱をはめようとする。その車輪の機械が回っている所から落ちたら、その何
層にもなっている所から落ちたら、骨も見つからない。機械が回っている所から
落ちたら、助からない。機械が大きい。大きな木の土台の上で機械がゴーッと回
っているが、鉱石を砕いたら水が出て来る。溝受けみたいにグルグル回るが、下
にゴムが何カ所か付いている。水がちゃんと流れなかったら、スイッチを切っ
て、乗り場に上がり、水を流すために掘る。それで、掃除をしようと水を全て抜
くために下を見ると、何層もある。真っ暗だ…。

機械に入れる水は何ですか?なぜ入れるのですか? 
水は金水だ〔青化製錬用〕。鉱石を砕いて敷くと下から水が出てくる。ゴムが下
からピシッピシッと打つ。下に屑が溜まると、それを掃除する。水に漬かるとそ
れが何層か分からない。(実際に)見なければ分からない。

坑外と坑内の人がいるのですね?
そうだ。私も坑内に入ったことがあるが、中では削岩機でダダダダと穴を掘削し
て、爆薬をその穴に挿入してさっと逃げて、昔はスイッチでなく導火線に火をつ
けて、人は待機する。ドン、ドン、ドンと爆発させるが、爆発しないのもある。
ハハ、それを探して導火線をまた繋いでドンと爆発させる。死んだ人もいる。中
に人がたくさんいるのに途中が崩れて、何日も中に閉じ込められて食べることも
できない。坑内で水も飯もなく、何日もいなきゃいけない。男は10日も食べない
と死んでしまうが、水があったり、小穴を開けて飯を入れてやったりする。金鉱
山の坑内は、四方に坑道が2層、3層になって伸びている。それが崩れたら、人は
死ぬ。

一緒に行った人で死んだ人はいますか?
死んだ人はいる。李○グォンが日本で死んだ。

梁山から行った人たちは全員、鴻之舞鉱山へ行ったのですか?
うん、そうだ。一緒に行ったが、身動きもできない。じっとして何年かしたら朝
鮮へ戻すと言っていたが、戦争が続いて、仕事に熟練して、韓国から人を新しく
集めるより継続して働くのが良いと、帰してくれない。

行ったのはいくつでした?
20歳位で行った。

そこで死んだら犬死だ

鴻之舞鉱業所で、いつから仕事を始めました?
ハハ、行ったらすぐだ。ヤツらが仕事させないで休ませるものか。

訓練みたいなものはありました?
訓練はない。私らは軍人じゃないから仕事だけするだ。

でも初めは仕事を教えたりするのでは?
仕事だけさせる。私ら韓国人で死んだ人は多い。行って坑内で金を掘る、大東亜
戦争をするから金を掘りだして何か作るからと。行ったら坑内が崩れて死んでい
く、死んだら、そんなの犬死だ。

鉱山ではどんな仕事をします?
坑内に入る人は坑内へ、坑外の人は外で、言わば工場だ。身体検査をして坑内と
坑外というように人を分ける。

呉さんはどこでした?
外だ。外の仕事をした。

外ではどんな仕事をしました?

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北海道では梁山の人がみんな一緒に寝起きしたのですか?
いや違う。一緒ではなかった。外で働く人と坑内で働く人と宿舎が分かれてい
た。

宿舎が別々だった?
別々だった。

その宿舎には他の地域の人もいました?
色んな村から来ていた。あちこちの村の人がいた。

では、全てが梁山の人でしたか?
そうだが、梁山の人でも同じではなかった。坑内の人は坑内〔者の宿舎〕へ行った。

その坑外の仕事は何人でしました?
うん。ちょっといたな。

坑内で働く人は何人いました?
坑内の人はたくさんいた。坑内の人はたくさんいて、坑の外は少しだった。親方
がいて、その下に一人。私らは下っ端だ。私らは、モンキー持って来い、スパナ
持って来い、何か持って来いと言われたら、その使い走りをしてやって、その工
場がうまく動くように見て回る。うまく行かなかったら親方という地位の高い人
がいる。じっとストーブに当たって座っていて、故障が起きたら全て直す、うま
く立ち回る。

親方は日本人でしょう?
日本人だ。私らは下っ端の一番下だ。言うなら使い走りだ。下働きをすることが
多い。

その親方は歳がいくつくらいですか?

その人は発破作業とか坑内崩落事故で亡くなったのですか?
崩落事故だったかどうか分からない。

人が亡くなったら、葬式を出し、遺骨を送り返したりしますか?
うん。遺体は出てくる。火葬にして骨を従弟とかいる人間が持っていく。

火葬を見ました?
見なかった。大東亜戦争の時期で、米国の爆撃機が油をどれほど撒いたか?爆弾
をあちこちに落として、真っ赤な火の海になった。行っていない人は分からな
い。私らは日本をずっと見ていたが、大きな都市は全て燃えてしまった。日本人
は本当に抜け目ない。今も昔も抜け目ない。みんな火の海になって燃えてしまっ
たが、疎開を始めた。疎開とは、避難だ。B‐29というのが爆弾をばら撒いてい
るから…

B‐29が来たとき、北海道にはいなかったでしょう?
うん。その時は本州へ行った。

金が必要ないから銅を掘る

北海道にはどれくらいいました?
北海道には1年と数カ月いた。そうしたら金がもう必要でなくなった。金は必要
ないが、銅が必要だと。本州の足尾に銅山があるからと、北海道から下って来
た。

金が必要ないから銅山に送ると?
そうだ。銅を掘ると言った。

銅を掘るのに何人が行きました?
たくさん行った。そこにいた人、全てが行った。

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に昇ってズリを捨てる仕事をした。そこでは、ハワイの人か、米国人か、日本人
が捕まえた西洋人〔連合軍捕虜〕をたくさん働かせていた。

西洋人を働かせていた?
働かせた。私らと一緒に働いた。

足尾銅山で?
そうだ。捕虜を捕まえて働かせるが、その人らは力がある。私らは下り坂も上り
坂も急いで動くが、彼らは少しずつやる。私らの方がよく動く。日本人があれや
れ、早くしろと言うが、言葉ができない。あれこれしろと言っても、知らぬ顔
だ。

山から捨てる土は、銅を区分して残ったカスですか?
そうだ。カスだ。銅の石を砕いて、こねて、絞ると、そのズリが残るが、作業場
のどこにも置き場がない。だから索道に載せて、何もない山の上へ運んで捨て
る。

捨てる山があるのですか?
うん。あるにはある。

山裾で索道に荷を載せる人がいて、山の上でその荷を受け取る人がいる?
そうだ。下に人がいて中間に人が足りない。だから下から上へ上がって行かなき
ゃいけないが、歩いたら数えきれないくらい歩かなきゃいけない。それで索道に
乗る。乗って行くが、時間になったら、中間で停まってしまう。

中間で吊られているんですか?
中間で吊られて見下ろしたら数十本ものケーブルだ。「アイゴ…、なんで乗って
しまったんだ。歩けば良かった」。乗れば山の上まで簡単で速い。急斜面を歩い
て登ったら時間がかかる。

私らより少し上だろう。その工場で長い人は地位が高い。遅く入っても長くいた
ら地位が上がる。私も1年ほどいたから、韓国から来た人は私の下につく。

呉さんも位が上がった?
上がった。日本人はそれだけはきっちりしている。その工場が長い人は位が上
だ。日本人はキッチリ軍隊式にする。

金は必要ないと鴻之舞鉱山から足尾鉱山へ行ったのですね?
そうだ。足尾へ行った。

足尾鉱山以外に行った人もいますか?
いや、みんな足尾に来た。他には行けなかった。会社が全員こちらへ移した。20) 

呉さんと同じ宿舎の人は全員、足尾鉱山へ行った?
そうだ。北海道〔鴻之舞〕で必要ないから他へ行けと言われたらさっと行かなき
ゃ。身動きもできず、行き場所もないのだから。

では、李○グォンさんはどこで亡くなりました?北海道ですか?
いいや。その人は本州に来てから爆弾が落ちて死んだ。死んだ人は多い。当時、
山に避難して死んだ。

李○ジュさんは?足尾鉱山で一緒だったでしょう?
李○ジュは、いまは死んだかも知れないが、戻って来た。私らと坑の外で働いた。

足尾鉱山でどんな仕事をしました?
そこは銅山だが、鉱山に違いはない。石を取り出してそれを砕いて、そのズリ
〔鉱滓〕を索道へ運んで、山の中間では機械がビュンビュン回っている。その上

 20)「 配置転換に伴ふ各種手当支給一覧表」(鴻之舞鉱山)によれば、栃木県の古河足尾鉱山へ動

員された数は371名と確認される。それ以外の鉱山,炭鉱にも配置転換された。

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煙で死ぬ?
そうだ。人が入る壕に煙がいっぱいになるから、どうやって人が生きられる?

呉さんはその時どこにいました?
私らは山へ避難した。用事なしに山も勝手に入れない。山の谷間にも家とか工場
とかあるが、仕事でそこへ行っていた。

国を奪われたから、私らは声も出せない

また鴻之舞鉱山のことを伺います。鴻之舞鉱山では人がケガした時、日本人が全
部記録したそうですが?
日本人が?

そんな細かなことまで日本人が分かりますか?北海道で働いた時、監督が一日の
出来事をチェックしましたか?
私はケガをしたことがないから、詳しいことは分からない。日本人はきついが、
個人個人で見たら善良だ。きつい仕事をした後、家に来いとか、遊びに行こうと
か言うこともある。

では、酷く虐める日本人はいませんでしたか?
その当時は、私らは日本に国を奪われ、何をするにも私らは大きな声を出せな
い。日本人に何かあったら「朝鮮人!」と叱られ、私も頬っぺたを殴られたこと
がある。

なぜですか?
なぜかと言うと、朝仕事に出るとき名前を書いた札を引掛けるが、そのまま通り
過ぎてしまった。そうしたら、「この野郎、生意気だ」と言って、「この生意気
なヤツ、なんで名札を出さない」と言って、頬っぺたをあっちこっち殴った。ハ
ハ、いまだったら私も殴ってやるが…。私の親方、私がやたらに頬っぺたを殴ら

元来、人が乗れないでしょう?危ないし?
乗れない。乗れないが、歩いたら面倒だから乗ってしまう。それで、「油差し」
という油塗りする人、日本人で、その人はまるでクモみたいだ。索道に乗って行
けば、ケーブルが数十本になるが、滑車に掴まって、昇り降り自由に油を差して
行く。私らは金をだされても、そんな真似はできない。

普通に油を差せば良いのに、何がそんなに難しいのですか?
実際に見て、やった人にしか理解できないだろう。

おばあさん)空中ケーブルに乗って降りて来るのが恐ろしかったということで

しょう。

火の海になっているのに防空壕に居ても何の役にたつ

足尾鉱山で解放を迎えたのですか?
うん、そうだ。解放されるまで逃げられない。日本人は逃げられないように仕組
む。逃げられないから8月15日解放になった。昭和天皇も原子爆弾が広島で爆発し
なかったら手を挙げなかった。

足尾にいるとき、爆弾はたくさん落ちてきました?
爆弾はたくさん落ちてきた。行っても行っても、ドカン、ドカン。だけど、当た
らなかったから生き延びた。

爆弾で死ぬ人も多かったでしょう?
たくさん死んだ。なぜかと言うと、日本人は地面の下に防空壕を掘って、爆弾が
破裂しても破片とか当たらないように掘っておく。そうしたら米国人はどうする
かと言えば、ガソリンとかばら撒いて爆弾を浴びせる。全て火の海になるから、
壕に入って何の役に立つ?壕内に煙がいっぱいに入ってみんな死ぬ。

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ケガ人はどうします?
昔、徴用へ行った人が死んだら、通知だけでおしまいだ。骨だけ持って来て、そ
れができなければ送ってくる。連絡がなければ火葬にして、釜山まで来たら手渡
して、関係者に連絡してお終いだ。現在みたいに死んだから補償とか、そんなも
のはあり得ない。死んだらそれでお終いだ。

死んだ人は分かりました。ケガをした人は病院へ運んでくれますか?
うん。ケガをしたら治療してくれる。治療して良くなったら他で働くが、障がい
者になって働けなくなったら大変だ。補償なんかどこにある?

韓国へ戻してくれない?
あぁ、何もしない。今でも韓国が日本人の属国になって、私らはこんな苦しみを
受け、(日本が)強制的にやっても、補償とか何もしていないだろう。

鴻之舞鉱山では、呉さんより先に来ていた人は沢山いましたか?
うん、いた。

先に来ていた人は慶尚南道の人ですか?
韓国各地だ。どこの地域だけと言うことはない。梁山、忠清道、四方八方から強
制でしょっちゅう連れてくる。各地で募集をかける。

先に来て、後から家族を呼び寄せる人もいましたか?
韓国で結婚していて日本へ来ると、韓国に残った家族に(日本へ)来いと言う。
全員ではないが、一緒に暮らすようになる。

そんな人と一緒に働きましたか?
私にはそんな人はいなかった。聞いた所は、私らと一緒に行った人の中の何人か
が、家族を呼んで一緒に住んでいた。

れているのを見て、「おい、行くぞ」と、「いくら朝鮮人でも何でそんなに殴る
んだ。こいつ。」と言った。

親方が味方してくれた?
うん、味方してくれた。私と親方は一緒に仕事していて、その事務のヤツが手を
だしたら、すぐに話をして、「なぜ、連れて行って殴る!」と言った。

そうですか。さっき「たこ部屋」のことに触れましたが、それをどう知りまし
た?
「たこ部屋」も一緒にあった。北海道には「たこ部屋」が多かった。日本へ行っ
て金稼ぎしようとしたら、強制的に引っ張って行かれて罪人みたいになる。紐で
縛られて死ぬほど働かされる。家にも連れに行ったり来たりして、 警備され、人
が見張っていてどこへも行けない。

「たこ部屋」の人を直接見たのですね?
うん、見た。その話も聞いたし、私も見た。仕事が終わったら、連れて行った。

「たこ部屋」は朝鮮人だけでしたか?日本人はいませんでした?
そう。日本人はいなかった。

そこで中国人捕虜は見ましたか?
それは分からない。捕虜は囚人だから、捕まえて何をさせるか分からない。

呉さんの宿舎は坑の外で働く人たちがいた?
そうだ。坑の外と内で分かれていた。

坑の外でもたくさんケガしたのですよね?死ぬ人もいて?
そうだ。ケガをし、死ぬ。

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うん、駆けっこだ。リレー。

1等になったら賞をくれますか?
うん。坑内、坑外、その他の人を集めて分ける。棒でトントントン、団扇をタタ
タタタ(応援する格好)と、面白い。

足尾で、日本人と朝鮮人が一緒に運動会をした?
そうだ。日本人、朝鮮人、遊ぶときは遊ぶ。韓国人は何をさせても上手だ。上手
だから日本人は自分のチームに引き込む。勝とうとして大騒ぎだ。

でも、鴻之舞より足尾がまだ暖かいでしょう?
2月になったら大阪とかはタンポポが野原いっぱい花を開いているが、青森とか北
海道ではまだ雪が降っていて、家はすっぽりと雪に埋まっている。寒いと言った
ら言葉にならない。

解放はどう分かりました?
解放は、仕事に出たら、昭和(天皇)が降伏したと聞いた。解放されたと騒いで
いた。

朝鮮人たちですか?
そうだ。韓国人が棒を持って…、列車でも何でも日本人を使っちゃいけない。韓
国人が日本人の下で、36年間苦しめられた。満州の日本人が釜山に来たときはま
だよかった。釜山の人の扱いはまだよかったんだ。だがソウル以北の日本人は懲
らしめられた。解放になってから日本人も帰還する時にひどく殴られて生きて戻
る人は来たと話した。日本でも、韓国人が解放されたと言うと日本人は大変だった。

解放されてすぐに韓国へ戻ったのですか?
船も車もなかったから、1年くらい日本に残った。お金のある人はヤミで船を調
達して乗ったが、船が小さくて死んだ人がたくさんいた。

その人は、足尾鉱山へ行く時、家族も一緒に連れて行ったのですか?
そうだ。一緒に暮らしていたから、連れて行った。

韓国人は何でも上手にするから日本人はよろこぶ

北海道と本州とどちらが良かったですか?
アイゴ、良かった所はない。

でも、待遇が違ったとか、良かったとか、なかったですか?
まぁ、北海道の食事が良いと言えば良かった。

あぁ、おかずが良かった?
うん、樺太の近くだから、身の詰まったイワシ…。イワシ。

そんな魚がたくさん出ましたか?
うん。北海道へ行けば、イワシに卵がいっぱい入っている。美味しい。

北海道は食べるものがあったのですね。足尾での食事は何が出ました?
本州でも食事を出すことは出す。

北海道には及ばない?
うん。北海道は魚が多かった。足尾に来て、会社が3年に一度全体で運動をする。
学校で運動するみたいに、会社が3年に一回をするから、行って見た。

学校の運動会みたいな?
そう、学校の運動会みたいに、会社も3年に1回の運動会をするのに人を選ぶ。タ
マギと言う。

タマギって何ですか?

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鴻之舞へ行った時、身体検査をしたと言
いましたね?
うん、そう言った。わたしは身体が少し
弱いと言われて、坑内には入らなかっ
た。

身体検査の時、生年月日、名前、住所な
どを書きましたか?
うん、それを全部書いた。随分前のこと
だからちゃんと覚えていないが、その時
に全て書いたから名簿に記入されている
のだろう。何せ随分過ぎたから、こんな
ことも忘れる…。

そうでしょう。
数年前のことならはっきり覚えている
が、何せ随分過ぎたから、忘れてしま

う。

でもしっかりと答えてくれています。月
給は受け取りましたか?
飯を食べるし、少しくれるからそのまま
受け取った。

分かりました。今日はどうも有り難うございます。

◎〈名簿2〉

委員会所蔵「朝鮮人労働者に関する調査結果 栃木県

古河鉱業株式会社足尾鉱業所」92名に、口述者の香

島小得(呉小得)が1943.4.20.に栃木県の古河足尾

鉱業所に入所した記録がある。鴻之舞鉱山の休廃山で

呉小得が北海道から栃木県足尾鉱業所へ配置転換され

たことが確認できる。

会社がまとめて帰したりしなかった?
ううん。いまでも悔しいのは、日本で稼いだお金を、みんな貯金だからと差引か
れた。だから給与と言っても少ししかもらえなかった。

何せ随分過ぎたから、覚えていたことも忘れてしまう

名簿1に鴻之舞鉱業所の人たちが記されて
います。
名簿があった。

当時の日本名は何でした?
香島小得。

ここに香島小得、生年月日、鉱夫番号、と
かあります。呉さんがいた鉱業所が一番記
録を残していますね。
私はこの名前も忘れていた。

北海道の次の足尾の名簿(名簿2)もあります。
うん、ちゃんと表記されているか?

呉さんは被害調査の処理が早いほうです。
他の鉱業所はこのような名簿がないので

す。鴻之舞鉱業所だけが名簿をしっかり揃
えていました。私たちが驚くくらい、名簿
が詳細に記入されていました。
良くできている?1年以上働いたことが?

◎〈名簿1〉

委員会所蔵「朝鮮人徴用者等に関する名簿 株式

会社住友本社鴻之舞鉱業所」597名に、口述者の

香島小得(呉小得)が1942.3.19に住友鴻之舞鉱

業所に入社した記録がある。

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■ 面談後記

呉小得さんの家は釜山の広安里付近にある古びた店だった。刺身店をして
いたが、いまは休んで夫人と二人で暮らしている。委員会へ被害申告をし
て、何の返事もないので心配していた所へ私たちが来たと言って、とても
喜んで迎えてくれた。当時、韓国は力がなくて、どうにもできなかったと
言いながら、若い時分に他国で苦労したことを思い出し、悔しいとおっし
ゃった。呉さんは埋もれた昔の記憶を苦労して引っ張り出した。その姿を
見て、何ともいえない無念さを感じた。

・面談日:2009.2.5.
・面談者:李宣姈
・補助面談者:尹智炫

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「勤労奉仕」に引っかかったと言われた

〈住友鉱業(株)鴻之舞鉱山伊奈牛坑、静岡県宇久須鉱山〉

私くらいの人もいるし40歳以上50歳までも行った

何の調査に来たのかな?

黄さんが日帝時代にどんな経験をしたのか、それを日本人も伝えないし、本もな
いので、直接お話を伺いに来ました。お爺さんのように直接日本に行って来た人
も、いまでは少なくなりました。
そうだ。かなり、故人になった。大昌(テチャン・永川市大昌面)でも14名が逝
って、みんな故人になって、一人になってしまった。

思い出すことを順々にお話しください。いまお歳は?
90。申年だ。

お若く見えますね。日本へ行く前は何をしていました?
10月だから、畑仕事をしていた。

・1920.4.20.  慶尚北道永川郡大昌面求芝里、出生。
・1944.5.   住友鉱業(株)鴻之舞鉱山伊奈牛坑に動員。
・1945.8.   静岡県の宇久須鉱山(アルミニウム)へ再動員。
・1945.10.   本籍地へ帰還。

黄台萬(ファン・デマン)

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一緒に行った人たちの年齢はどうでした?
私くらいの人もいたし、当時で40歳以上、50数歳でも行った。その時、私が一番
若くて25歳だった。

永川に集まって教育を受けたのですよね?
郡庁の広場に座らせて、日本へ行ったら何の仕事をすると言って、その会社が日
本で三菱の次の住友、住友が二番目の金持ちだと。だから住友が政府の面倒を見
ているから、日帝時に空襲がある時でも、住友だから私らを北海道へいち早く送
れると言う。

教育を受けた時、黄さんは住友へ行くと言われたのですね?
うん。人が出て来て引率をした。私らみんな、その人と一緒に行った。

では、北海道の鉱山へ行くと分かっていた?
分かっていた。

釜山で船に乗ってどこへ行きました?
釜山で船に乗って下関で降りて、そこで汽車に乗って青森まで行って、青森でま
た船に乗って函館へ行って、函館からまた乗って「北見」の「遠軽」という所。
北海道でも端の方だ。千島列島に〔近い〕…。

函館から北見まで、どう行ったのです?
函館から北見までは汽車。

引率者は同じ人ですか?何人でした?
引率者は、日本から3人。

韓国人はいませんでした?一緒に連れていく郡庁の職員とか?
いなかった。郡庁の職員は郡まで引率して、(郡庁の職員は)一緒に行かなかった。

ここは娘さんのお宅でしょう?
そうだ。住んでいた所はここから20里だから、約8キロメートルになる。

そこが大昌面求芝里ですか?
うん、そうだ。

日本へ行くときは、結婚していました?
結婚はまだだった。その時25歳だったが、日帝時代で面職員が来て、強制で捕ま
えられて行った。面職員は当時、みんなそうだった。強制的に捕まえて連れて行
った。

歳はいくつでした?
25歳で日本へ行った。25歳の5月7日、大昌面から永川へ行って、二日ほど教育
を受けて行った。

永川郡の教育はどんなものでした?
日本へ行ったらどんな仕事をして、どうするということで、永川に二日いて、釜
山…。

永川に集まった人は何人ですか?
大昌面から14名、金湖(クモ)面は17名か?そうして釜山へ行ってからは船に乗
って北海道へ行った。

その人たちは全員一緒に北海道へ行ったのですね?
金湖面、大昌面、全員みんな北海道~。

その面職員が強制で引っ張っていくとき、徴用状みたいなものは出しませんでし
た?
それは出さない。そのまま引っ張られた。

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遠軽町に住友の会社があった?
うん。遠軽町の伊奈牛鉱山 21)  

炭鉱ではなく鉱山ですね?
鉱山だ。銅を掘ったから。

その周辺に伊奈牛の他に鉱山がありましたか?
その外には、以前に鴻之舞という所が金を掘ったということだ。私らが行った時
には金は掘っていないで、戦時だから銅だけを掘り、金掘りは中止したらしい。

おじいさんの行った所が伊奈牛鉱山で、以前に金を掘っていた鴻之舞鉱山があっ
たのですね?
うん。鴻之舞はそこから約100里(*約40㎞)離れたところだった。

鴻之舞鉱山へ行ったことはありませんか?
そこへは行ったことがない。

黄さんが伊奈牛鉱山へ行った時は、金掘りは終わっていた?
終わっていた。だけど、丸瀬布駅から鴻之舞まで索道(ケーブルカー)が架かっ
ていた。

(婿)いまで言う索道,リフトでしょう。

当時も金掘りの人が随分と住んでいたから、食料品とか各種の品物を、距離が離
れていて、ようやく索道で送ったという話だ。

では、空中から各種の品物を移動させたのですね?
うん。柱のようなのが立っていて、人も乗って。

 21) 口述者は北見の紋別郡の遠軽町を述べている。伊奈牛鉱山の旧名は北見鉱山だった。

では、釜山まで誰が連れて行ったのです?
日本から来た引率者たちだ。日本から服を持ってきた。麻の綿入れみたいな服に
着替えさせて、郡庁から釜山まで行った。

韓国から荷物など持っていけましたか?
食べ物とか、服とか?食べ物を持って行った人はいなかった。当時は何せ貧しく
て、いつも腹を空かせていたから、持っていく物もなかった。服もそうだ。

戦争中だから銅だけを掘り、金掘りは中止した

さっき5月7日くらいに引っ張られたとのことですが、現場に到着したのは…?
15日に現場へ到着した。住友だから、団体で、早く到着した方だ。他だったら、
そうできなかっただろう。当時は戦争中だから、何かあれば、途中で中止にな
る。

途中で逃げる人はいませんでした?
いない訳がない。当然いた。大昌の人で、ここから汽車に乗って、蔚山の手前で
汽車から飛び降りた。その人は何回か徴用されたが、汽車から飛び降りた。私ら
と一緒だったが、汽車から飛び降り、北海道には行かなかった。

その人は行かないで、ずっと韓国にいたのですか?
そうしてはいられなかった。いられないから満州へ行って、解放後に来たという話だ。

満州でまた引っ張られたのですか?
その時、ここにいられなくて、逃げていたということだ。

黄さんが行った作業場が北見でしたよね?
北見の遠軽町。

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船が入ってくるが、機雷のために蔚山で船が沈んだと。それで機張(キジャン・釜山
広域市機張郡)に行き、その翌日に釜山に来たら12時近くになっていた。釜山で
昼飯を食べた。昼食は外国から来たと斡旋して、食事を用意してくれた。昼食を
とってお金1万6千円〔ママ,160円?〕を替えた。釜山でその金は全て交換して
くれなかった。その時、私はお金を6万5千円〔ママ,650円?〕持っていたが、
1万6千円を替えて、その金は全て使ってしまった。帰れないから使ってしまった。22) 

だから6万5千円貰ったけど、交換は…。
いや、6万5千円を貰ったのではなく、私が日本で稼いだお金。日本で月給をく
れるのを送っていたが、1944年を過ぎて1945年にはお金を送るのができなかった
んだ。だからお金をそのまま貯めて置いたんだ。

直接受取って来たのですか?
当時、お金はほとんど全て会社預金にした。預金を帰還する時に受取って来た
が、釜山に来たら、お金を1万6千円しか交換してくれなかった。

1945年からは家へお金を送れなかった?
うん。3月からは送れないと言われた。

家に戻る時、室蘭から蔚山まで船で来たのですね?
釜山〔機張〕まで船で来た。昼夜10日間かかった。途中で波風が強くて2日間も
(船が)停まっていた。

船の中で死んだりした人はいませんでした?
死んだ人はいないが、死んだも同然だった。釜山で夜に出されるものを食べて、

  22) 本国へ帰還する朝鮮人に対してGHQ(連合軍総司令部)は、所持金1000円、所持品250ポン

ドの制限を加えた。たとえ口述者がこの制限処置にもかかわらず、6万5千円の所持金を持

ち帰ったとしても、次の註で見るように、鉱山労働者がもらうことのできない巨額な金額で

ある。記憶上の錯誤と推測される。

それが伊奈牛から鴻之舞まで連結されていたのですか?
いや、違う。伊奈牛ではなく、丸瀬布から。住友の出張所が丸瀬布駅の横にあっ
た。そこから品物を送った。

駅の名前は丸瀬布?
丸瀬布だ。

一緒に行った大昌面、金湖面の人は全員、伊奈牛鉱山で働いたのですか?
うん。若い人は坑内で穴掘りをした。年寄りは外部で物を運んだりした。

帰る時は汽車でなく、室蘭からドイツ製の船に乗って来た

黄さんはどんな仕事をしましたか?
私は、坑内で測量の手伝いを二日ほどして、次に丸瀬布駅のその出張所で(索道
に)品物を載せた。1年くらいは銅を掘って砕いて、鉱山でなく、金山という所
で砕いてクルマで送る。丸瀬布駅の出張所に貨物が来るが、そこで働いて、8月
3日にまた「勤労奉仕」に引っかかって、そこで函館から本州に渡った。8月中
旬頃に解放され、少ししてまた北海道へ戻った。北海道へ戻っても、すぐには帰
れない。秋田県で大雨のために線路の土手が崩れたので、汽車では帰れない。船
に乗るのを少し待たされ、小樽から第1次船が出て、その次に私らが乗ることにな
っていたんだ。だがその1次船は海に出て沈んでしまって、それで船に乗れなく
なった。そして北海道の道路を山で切り拓く、その仕事をさせられた。山に行け
ば竹(笹)を切って、根を引き抜いた。11月末になっても汽車は来なくて、室蘭
へ行って、ドイツ製の船に乗って戻って来た。ドイツの鉄船は大きくはなく、波
が高いのですぐには海に出れないため、一日半ほど海に留まり、帰ってきた。そ
して昼飯頃に蔚山に着き、釜山から家に戻ろうとした。しかし、蔚山に入ろうと
したら無線が来て、蔚山に入れなくなった。

なぜ入れなかったのですか?

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た。団体で労務者として来たが、忠清道から3回入って来たと。3回入ってきた
が、私らと協和寮に一緒にいた。協和寮が少し大きくなって、棟数がいくつか増
えた。

一棟に何人いました?
15名〔一部屋?〕。

一緒に行った人たちは同じ部屋ですか?
うん、そう。

協和寮は慶尚道よりも忠清道の人が多かったのですか?
そう、多かった。

黄さんが行く前に、もう韓国人がいたのですね?
その前は、忠清道の人たちがいたと。「募集」された人がいて、私らは徴用で行
った。

黄さんは日本へ行って、その次の年に解放されたのですね?
そうだ。19か月ぶりに戻った。昭和19年5月に行って、昭和20年11月に帰って来
た。19ヶ月だ。

寝る所はどうなっていました?
そんなに広くなくて、畳敷きで寝た。

今の軍隊の内務班のようなものですか?
うん、畳があって、そこは夏でも冬でも部屋が寒いから、部屋の真ん中に練炭を
置いて、そこへ湯沸かしを載せる。そこも軍隊式だった。各部屋に班長がいて、
夕方に点呼も取る。夜が明けると、警備〔労務係〕が来る。夜にも調べに来る。

全員いるかどうか調べに来るのですか?
そうだ。夕方に点呼を取るが、部屋の全員が何人だの、病気で病院へ行った人、

そうして東海線で永川まで来た。午後約3時頃だと思うが、沖から船を着けて接
続するから、こう、立っていられなかった。酒に酔ったみたいに転んで、そうし
て永川駅で降りて大昌へ行くのに約30里(12キロ)だが、陽はあるが、もう歩けな
い。だけど、歩いて…。

はじめに一緒に行った人たちも一緒に戻ったのですか?
うん、一緒に。米軍人が次の日に故郷まで送ると言ってたが準備ができない。小
樽でもそう言っていたができない。室蘭でもそこまで来て申請して順番で送る
が、汽車が来ないで船を使うから、送還したくてもできないと言った。そうして
11月まで待った。
ご飯は出されるものを食べた。ご飯というが、ジャガイモ、トウモロコシ、粉屋
で殻を剝いたものをそのまま、豆、うどん、米を炊いたもの。うどんにそれを入
れる。それはもうご飯とは言えない。それでも腹が膨れるだけ出したら良いが。
昼に仕事がある人は弁当を持っていくが、弁当の3分の1は空いている。

そこも軍隊式で部屋ごとに班長がいて、夕方には点呼をとった

それは伊奈牛鉱山で食べた食事のことですか?
うん。朝夕は宿舎で食べて、昼は弁当。

黄さん、宿舎は何と言いました?
協和寮。

その協和寮はそこに何棟ありました?
一棟。金山という所が別にあった。私らは団体で、家が建てられ、それを協和
寮、そこへ…。

そこは朝鮮人だけいました?
うん、朝鮮人だけ。私らがそこへ行くと、忠清道の人がその鉱山にたくさんい

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金を稼いで送りたくても、まったく送れなかった。

当時はみんな文が読めず、歳が50、60歳近くの人は、自分で手紙を書けない人が
多かった。当時手紙を送ろうにも封筒がない、便せんがない、何にもなかった。
それで鉱山のセメント袋を水で洗ってロウソクでアイロンがけして封筒を作り、
便せんも作った。そして宛先を書くのにボールペンなんかない。鉛筆で書くが、
これが薄黒いだけで、手紙を送っても届かないから、受け取れなかったと言う。
私は自分の名前だけ書けた。それでセメント袋の封筒を持って、宛先を書こうと
して事務所に行くが、日本人の警備〔労務係〕が事務所に座っていて入れないよ
うにする。そこにはインクもペンもある。私らの部屋から見ると、戸にガラスが
あるから見える。必死で入ろうとしても警備が止めるんだ。何人も入れば混雑す
るからだろう。だから入れなくする。それで死を覚悟するように、勇気を振り絞
って事務室に入って文を書いた。それを日本人たちが見た。当時、私は名前が
「共田(ともだ)」だったが、「共田、漢字上手だな~」と言った。

「共田、漢字上手」(笑)?
うん。そうして宛先を書いたら、外にいる人たちが手紙の宛先をちょっと書いて
くれと寄って来る。「書けない」と言っても、「ちょっと書いてくれ」と言っ
て…。見てみると、手紙の宛先を書くのに鉛筆をギュッと握ったまま、もどかし
いから。書き方をよく知らなくても、宛先を何枚も書いてやった。

黄さんの名前は共田台萬、台萬は何と読みました?
「たいまん」と言った。

そこにいる日本人は会社の職員ですか?
会社職員は、いわば韓国の面職員のようなものだ。

では警備も会社職員ですか?
うん。警備もそうだ。

そんなことを調べる。当時、班長をしたら、一人(仕事に)出せば、5銭が班長
に出たという。

班長は仕事しないで、他の人が仕事に出たら5銭ずつ貰った?
いや。班長も仕事に出る。仕事に出て手当金だけ5銭ずつ。仕事に出た人を数え
て、その班長にくれた。

当時、月給はいくらでした?
う~ん、1万2千円〔ママ、120円?〕23)くらい出た。私は月給が多い方だった
が、それは一日も休まないで、辛くても休まないで他の人よりも多く仕事したか
らだ。(私はそうでもなかったが)そこは体が悪くても、仕事に出すんだ。

◎脱退手当金請求書名簿

口述者(共田台萬)は1945.10.11.が保險資格喪失日 (退社日)と記載されている。

23) 当時、労働者の賃金の例をあげると1943年現在の住友鴻之舞鉱業所の労働者月収入では、最高

160円から最低65円まで分布している。黄台萬のいう月給金額は、最高月収の労働者が一銭も

使わないで貯めた場合、約6年分の金額に当たる大金となる。黄台萬の名が記された「脱退手

当金請求書名簿」には「84円71銭」と記録されていることから、口述内容は口述者の錯覚とみ

られる。〔月給120円と推定〕

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言って信じてもらえないかも知れないが、一切休まないで、当時お金を1万円
〔ママ,100円?〕送った。で、村でちゃんとした田んぼ1枚(150~300坪ほど、
地域によって異なる)を買えた。お金を1万円ずつ家に送ったが、当時は大昌に
郵便局もなく、金湖郵便局があったが、お金を送ったら、そこの人たちが万札を
見に来たと言う。

黄さんが日本へ行っていた時、お父さんが亡くなったのですか?
私が家を離れた8月に父が亡くなった。私は5月〔翌年?〕に戻った。

お父さんが亡くなって、葬儀は出なかった?
うん、出なかった。父が亡くなったと手紙で知らされたが、その時は戻れなかっ
た。(葬儀は)出れなかった。その時は戦争だったし…。解放されないと、そこ
から出れなかった。

黄先生は徴用でケガとかしませんでした?
私はそんなことはなかった。私らの一行は、ケガなどはなかった。そこへ行って
から体の具合が悪くて、数か月後に韓国に戻された人はいた。始め行くときは人
員補充で行ったが、労役ができないから。体の悪い人は故郷に戻ろうとした。そ
こで働けないから、戻してくれた。金〇ジョと崔・・・。大昌面ではこの2人が
戻った。

その人はどこが悪かったのです?
崔さんは足が悪く、金〇ジョは耳が遠かった。

その人は行く時は健康で、そこへ行ってから病気になって戻されたのですか?
元々行く時から体が良くなかった。そこでケガしたわけじゃない。仕事ができな
いから部屋にいて一月後…。何か月も座っているから、喜ぶはずがない。それで
帰したんだ。当時は治療とか薬とか、保健所があるが、たいしたものじゃない。

月給から貯金や食費などをいくらか差し引かれませんでした?
健康保険料、食事代、その他各種、差し引かれた。お金を送れないでいたが、坑
内で働く人はお金が少し多いが、腹が空いて…。

何か買い食いする所がありました?
それはなく、谷間に協和寮があるが、丸瀬布という所へ行けば、少し食べるもの
がある。そこへ行けば食べ物があるが、お金を送れないから、酒を飲んだり、賭
け事をする。

酒は買って飲むのですか?
うん。1年に配給があって、ジャガイモで作った酒で、きつい。1年過ぎても2年
経っても、服ももらったことがない。生地そのものがない。服の点数で25点くれ
る。

25点の点数とは何ですか?
服を買えと、25点くれたら、生地を買って服を着たりするが、その時は生地がな
い。大東亜戦争だから…。

点数を使う所はどこです?
店に行く。店に行っても生地がない。だからタオルを買うが、それも思ったよう
に買えない。

その点数で服以外は買えないのですか?ほかの物は買えない?
それは使えない。服の点数は他の物には使えない。当時はお金を稼いでも、会社
からお金を全て送れない。送ってくれない。なぜかは知らないが、私の考えで
は、お金を送らないで預金させたら、どこへも行かないで、会社の仕事をちゃん
とするという考えじゃないか? だからお金を送りたくてもできなかった。私は
それでも一日も休まないから、他の人に信用された。それで、私の父親が亡くな
り、弟2人と母親がいるので、お金を稼いで送らなければと一生懸命、自分から

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人が沢山いる」と言った。東京駅にも行ってみると線路が曲がって、全て穴が開
いていた。壕に入っているとその朝鮮人が「そこ(壕)で死ぬ人が多いから出て
こい」と言うんだ。出なきゃいけないだろう。通行人たちは飛行機が来るから、
びっくりして防空壕に入り込む・・・。(壕に)入っていたが、私らと一緒に本
州に来た力のある人の後ろにくっついて出て来て、道路にある木を抱き込んで歩
き回った。どんなにすごい爆撃でも皇居には爆弾を落とさない。そして道路の上
を米国の飛行機が飛び交い、少し経ったら行ってしまった。その後、宇久須とい
う所にアルミニウム〔アルミ原料の明礬石〕を掘りに行ったが、少し若い人たち
が行った。

アルミニウム掘り?
うん。静岡県。アルミニウム、飛行機に使う。宇久須は浜辺の村だが、そこの山
でアルミニウムを掘っていたが、横浜〔横須賀〕だったか?そこに海軍がある
が、海軍が桐(きり)の船で走っていて、海を行くが、船頭をあげて、入ってい
く、稲妻みたいに行ったり来たり。8月15日に戦争終止となり、学校に集まれと
いうから行ってみると、防空壕にあるものを全て引っ張り出していた。そうして
戦争を休むといった。そこに中国人の捕虜が来ていたんだが、ふんどしだけ着け
て、上着は与えずに、裸足で、体は日焼けして光っていた。彼らは山裾の小屋に
入れられて、鉄条網で囲われて監視されていた。

何人ほど静岡に行きました?
30人ほどで行った。仕事のできる人だけを送り、歳を取った人は行かなかった。

北海道では爆撃に遭わないで、本州で爆撃の跡が随分あったのですね?
そうだ。北海道では函館駅に行ったら、爆弾が落とされ腰が抜けた。青森に来て
みると、その40年の港がすっかり燃えてしまって、その煙がモクモクとたってい
た。そして北海道から本州まで1日半だが2日間かかった。その時に豆を炒めて
くれた。昼にご飯をくれるが、船の中でご飯が酸っぱくなって食べれない。豆炒
めも無くなった…。

保健所がありました?
あったさ。小さい所。ひどく悪かったら、丸瀬布へ行くが、そこまで6キロだ。

鉱山は山奥でしょう?
高い山にトンネルを掘って銅を掘り出す。こちらは金山製錬場で砕く所、銅を砕
く。製錬場だと。トンネルで銅を載せて運んで、銅を砕いて製錬所へ送る。

では、金山〔製錬所〕は鉱山から距離があったのですか?
宿舎は2キロほどになる。私は最初に鉱山で2日間働いて、出張所へ、丸瀬布に
ある出張所へ行った。8月に本州に行き、そこから北海道に戻って来た。アイ
ゴ…、言葉にならない。

また徴用に引っかかって、また行ったから、二重徴用だ

本州にどうして行くことになったのですか?
その時、また徴用に引っかかって、また行ったから、二重徴用だ。二重徴用に引
っかかって、また行った。8月3日に函館から船に乗って渡ったが、機雷だとか
言って動けない。船で一晩寝て、次の日に青森へ入ったが、青森は40年の港湾だ
が、全て燃えてしまった。夏の焚火の後のように、鉄道線路が飴の棒みたいで、
全て爆弾を浴びたんだ。

その時、汽車から降りたんですか?
うん。そうして東京には夜に来た。昼は汽車が来ない、飛行機が飛んでいて来れ
ないと。陽が暮れるころ行ったが、仙台まで行くと飛行機が飛び交っていた。汽
車は進んでは止まり、上野駅に着いた。上野駅で降りたが、高層建物とか燃えて
なくなっている。全て燃えて、道路脇に防空壕があって、木材で組んで、その中
に人が入れるように…。夜にそこへ入ってみた。靴を履いてノソノソ入って行っ
たが、防空壕の中は燃えてしまって何にもない。話にならない。東京で食事をと
ろうとしていたらまた飛行機が来て、壕に入ると朝鮮人が「そこに入って死んだ

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アルミニウムを掘りに行ったんだ。行って何日かで北海道にまた戻ったが、当
時、勤労奉仕と言っていた。

それで、どうして解放されたのに、静岡から真直ぐに韓国へ送らなかったので
す?
本社が北海道にあるから、本社へ戻ってから、故郷へ行くと…。

鴻之舞が本家で伊奈牛が分家だ

あぁ、随分苦労されましたね~。
話にならない。当時、秋田県〔ママ〕の鉄橋が崩れて〔汽車で〕行けず、船で行
こうとしたが…、当時は船も大きいのがなかった。それでドイツ船。私らが乗っ
た船も、どうしようもなかった。船に乗ると大波が来て、船の上に海水が被さっ
て、言葉にならない…。

秋田県の鉄橋はどこと連結していました?
それは青森まで。青森まで連結していて、下関まで続いた鉄道。釜山からソウル
までつながった線路と同じだ。それが壊されて行けない。船で渡ろうにも一度に
たくさんの人が乗れない。だから順に来たから、それだけ時間がかかった。

北海道の鉱山で、逃亡する人はいませんでした?
いない。逃亡しても捕まる。〔逃亡者は存在した〕

逃亡して捕まった人がいましたか?
私らと一緒に行った人の中にはいない。私らの村の人が一人逃亡して、私らと一
緒に帰れなくて、私らが帰って、会社に戻ってから、帰れたと言う。

あー、逃亡したけど、解放になったから…。
そうだ。個人で帰ろうにも金がなかった。帰るのは難しいから、だから会社へと
元の通りに戻った。私らの村の人だ。

本州の宇久須鉱山はさほどいなかった?
3日間いた。そこで坑道整備を1日、坑内に入って木材の取り付け。そして坑内
測量もした。

苦労されましたね。3日したら解放されたのですか?
そうだ。8月15日、学校に集まれと言われて行ったら、防空壕にあるものを全て
引っ張り出していた。戦争を休むとか言って。そして夕方に中国人捕虜が、ふん
どし姿だった捕虜が服を着て、地下足袋をはいて私らの宿舎に来た。私らの中に
中国にいて、中国語を話す朴〇キと言う人がいた。その人が私に言うんだ。「共
田、中国人が言うには、ここに来ている自分たちも解放された。韓国人に良い人
がいる。すぐに去ると言った」、中国人がこう言ったと言うんだ。なぜかと言え
ば、測量していたが、日本人は昼、暑いから縁台に座って日陰で飯を食うが、中
国人は真昼に日向に座らせて、握り飯を食わす。飯を食ってタバコ、当時長めの
タバコがあったが、タバコを吸っていると中国人がそれを下から見つめていて、
言葉はできないが、手ぶりでタバコ1本くれと言うんだ。私も日本人の警備に見
つかったら大変なことになるから、タバコ1本をスッと落として、もう1本落と
して、その場を離れた。そうしたら何日か経って、私らの宿舎に来て、私の手を
握ってタバコ2本をくれて有り難かったと言った。横浜に一緒に行こうと言う
が、私は解放されたから、故郷へ行くことしか頭になかった。両親、兄弟の所へ
行かなきゃ…。

そこに中国人もたくさんいました?
どれくらいだったか、そこにいた。数十人になるか〔連行数は200人〕。捕虜とし
て捕まえて連れてきた所だ。捕虜と言ったって私らはそんなこと知らない。なぜ
か、服も与えないでフンドシ姿にさせ、飯も握り飯だけで、私らよりももっとひ
どい扱いだった。それが、〔解放後は〕中国人が一等国民だと言っていた。

勤労奉仕隊って何です?
特別報国隊を勤労奉仕という。北海道にいてまた報国隊に引っかかって、本州へ

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その記録を見ると、黄さんは北海道の鉱山に1944年5月15日到着したのですね。
うん。その鴻之舞が本家〔本山〕で、伊奈牛は分家〔支山〕だ。

住友鉱業株式会社鴻之舞鉱山伊奈牛坑。坑の名前が伊奈牛。
うん。そうだ。間違いない。

ここに人の名前がズラッと並んでいますが、黄さんの共田台萬もあります。その
横に〇ヨン、金〇ヨンと言う人もいます。
金〇ヨンは歳が少し多い人だ。助谷(大昌面助谷里)出身だ。

そうですね、37歳ですね。おじいさんは25歳で。正確ですね。出来たらその鉱山
の図を描いてくれますか?どこに何があったか、おおまかな位置だけ…。
できないな…。

真ん中が鉱山だとしたら、宿舎はどこで
すか?道はどこで、私が描きます。教え
てください。
鉱 山 は 真 ん 中 で … 、 山 が あ っ て 、 宿
舎 は … 、 道 が あ っ て 、 金 山 ( か ね や
ま)…。

これが金山?
うん。そしてここが製錬所で。そこから
谷間に向かったら鴻之舞へ行く道で、そ
こからこう丸瀬布。

では金山とか丸瀬布は近いのですか?同

じ方向ですか?
いいや、遠い。方向は同じだが遠い。

◎ 黄台萬の記憶に依って調査官が描いた地図

( 上から時計回りに、金山→鴻之舞→住居→宿舎

→道 とある)

◎到着者名簿
共田台萬と記載されており、到着(入所)日時が黄台萬の口述内容と一致する。

徴用で行った人の中で、家族と一緒の人はいませんでした?
いなかった。その当時は戦争していて、誰も家族を連れてきた人はいない。忠清
道の人には、家族が来て一緒に暮らす人はいた。だけど、その後に徴用で来た人
は、家族を呼べと言われてもしなかった。状況がまぁまぁなら良いが、戦争が激
しいからできない。

黄さんが行かれた三菱の会社が作った名簿がありますが、そこに黄さんの名前が
ありますよ。
そうだろう。大田(テジョン)の国家記録院がそう言っていた。私の名前があると。

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父親のような人を具合が悪くても休まず仕事をさせるから、年寄り
が涙を流したりしていた

銅掘りも炭鉱と似ていますか?穴を掘るのでしょう?
うん。坑道を掘って行く。中に入って見るとそうだった。鉱山にトンネルがある
が、中に入って坑の下に降りて行く。坑内に板を組立て、その中に入れるように
し、銅を運ぶ鉱車が入って行って、銅を載せて出て来る。

はじめに何日かした測量は、何を測量しました?
坑を掘って行って銅がなければ、そのままにし、探索機があり、教えてくれる。

銅がどこにあるか教えてくれる…。
そう。そうやって坑を掘る時、何メートル掘ってどっちの方向へ掘れと言う。南
なら南、東なら東、西なら西、こう表示をする。

あぁ、測量ってそういうことですか。それは誰がさせたのです?
初めてここに来た時、坑内で掘る人は掘り、当時私は歳が幼かったから測量をし
た。尺程度は分かるし。したくてしたのでなく、やれと言われて…。そこにいた
時に忠清道の人が班長をやれと言ったが嫌だ、しないと言った。忠清道の班長を
していた人は国民学校を6年間通った。日本語ができるから班長をしてきたが、
父親のような人を具合が悪くても休ませないで仕事をさせるから、年寄りが涙を
流したりしていた。大人たちはタバコを吸うが、タバコを吸わないで、溜めて村
で売る。豆も売る。豆を炒めると言って、そのままポケットに入れる。その豆を
歩きながらかじってしのいだ。そして、事務室には入れないが、宛先を書いてか
らは、事務室に出入りした。夕飯を食べると事務室へ行った。点呼を取っている
時間だ。その時、班長をしろと言うのを断った。私は「内鮮一体で来たが、体が
健康であってこそ勤労報国できるんじゃないか?私に班長をしろと言うなら、具
合の悪い人を何日か体を休めるようにしてもいいか?」と言ったら、そうしろと
言われた。そうしてその人たち、忠清道の人、慶尚道の人を助けたり、具合の悪

丸瀬布がこちら側で、丸瀬布は駅ですか?
うん、駅だ。鴻之舞は遠い。

では宿舎はここで、日本人監督はどこにいました?
日本人はそれぞれ、住宅にいた。

住宅はバラバラにあったのですか?
うん。谷間に。

朝鮮人宿舎は一棟だけだったのですか?協和寮は?
うん。

朝鮮人宿舎はその中に食堂、部屋、トイレがあったのですね?
うん。皆あった。

他の建物はありましたか?事務所とか…。
銅掘りの事務室はこの中に。ここで銅を掘って出して。それから金山製錬所に出
して。

坑がありますね?
トンネルがこの通路に…。

では入口は、坑に入る入口は?
うん。ここにあって、こちら側にも入口があって、トンネルが山へ、山の中に坑
道がある。

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◦面談日: 2009.4.22
◦面談者: 河承賢
◦補助面談:尹智炫

■ 面談後記

黄台萬さんの家は梨や梅などの果樹園に囲まれており、とても風光明
媚な所だった。90歳とは信じ難いほど、健康で記憶がはっきりしてい
た。面談時に同席した娘婿は、村では黄さんの記憶力は大したものと
有名だと紹介した。口述を終え、当時の現実をそのまま受け止め、故
郷の家族を思い、黙々と仕事をしたという黄さんの誠実さと純朴さを
思い、その被害を痛々しく感じた。

い人は仕事に出ないようにしたりした。そうして解放され、韓国へ戻る時、私ら
が第一陣で帰ることになったが、私を掴んで涙を流した。私よりも20歳も上の人
が、親のような人が。涙を流して泣いた。一緒に帰れないから。

順番のために一緒に戻れなかったのですか?
そうだ。全員一度に汽車なら戻れるが、汽車が駄目だから一緒に帰れない。一緒
に帰れなくて…、言葉にならない。

黄さんが鉱山で主にした仕事は、測量を何日かして、主に丸瀬布で物資運搬
を…。
うん、その出張所。物資が来るからそれを載せて…。色々来るんだ。食料も来る
し、冬には肉類とか、物資がたくさん来る。駅で物資が来たら受取って鉱山に運
ぶ。当時はトラックがあってもガソリンがない。木炭を焚いて車で運搬した。

ハイ、今日はお話を長時間、ありがとうございます。先ほども言いましたが、私
たちは黄さんのような特別な経験をした方の話を聞くために伺いました。私たち
委員会が書籍を作っています。それで黄さんが話してくれた内容を、その本に乗
せても良いですか?
〔娘の夫〕どうぞ載せてください。なぜかと言えば私ら2世は、私も60、70年代
生まれですが、私らはそんな事実を知らないじゃないですか。いま日本政府の言
動を見ると、私たちとは真逆のことをしているじゃないですか。過去にやったこ
とでもやっていないと言い、教科書の歪曲もしているけど、(日帝期に)日本へ
徴用されて働かされた人たちが2世、3世に教えて、勉強をさせなければいけないので
す。
もしかして、徴用の証言していることを故人になった忠清道の人とかが知った
ら、涙を流すだろう…。みんな故人になってしまったが。

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兄さんが行ったら食べて

いけないから代わりに行った。

〈豊羽鉱山)

国民学校卒業の次の年に行った

◎〔写真1〕宿舎前で撮った個人写真(李昌夏 提供)

・1928.12.15 忠清南道天安郡東面松蓮里、出生。
・1944.8.  北海道の〔日本鉱業〕豊羽鉱山へ動員。運搬列車レールの保守作業をした。
・1945.    鉱山で軍事動員の訓練を受ける途中、解放を迎え、帰国した。

李昌夏(イ・チャンハ)

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いいや。ここは(写真1)は平屋だ。飯場はとても大きい。学校みたいに。

そうですか。これはみんな大成寮にいる人たちですか?
他の人も多くいるだろう。100人以上だ。
この人たちは全員未成年ですか?
そうだ、多分。私が今82歳だが、〔生きていれば〕全員82歳以上だろう。

〔妻〕私が嫁に来てあげたから生きているんだ(笑)。

◎〔写真2〕宿舎前で団体写真(李昌夏 提供)
本来2階建ての建物だが、1階が雪に埋もれているという。口述者は前から2列目、右から5番目。

この団体写真は、飯場の人が全員で撮ったのですか?
そう、全員だ。金〇グム、彼は私と一緒に行って、同じ部屋で、一緒に仕事し

この写真の裏面の住所などは誰が描きました?
あぁ、私が書いたものだ。

文字が上手ですね。この挿絵は誰が入れたものです?
あぁ、それは誰かが入れたものだ。

日本で描いたものではないでしょう?
いいや。17歳で行った時のものだ。

この写真はどこですか?
これは飯場だ。大成寮だ。私ら若い者がここにいるが、ここで2年過ごしたら、
軍隊に入ることになり、身体検査をする。ところがちょうど2年になったら、解
放されて帰って来た。

ここは、2年過ぎたら軍隊へ行くための身体検査を受けるところ?
そうだ。そうだ。ここは未成年者だけいる。100人以上だ。

大人たちは別の所へ行ったのですか?
他へ行った。

別の飯場の名前を憶えていますか?
うーん。他の所は忘れた。3か所あったんだが、そこは古手ばかりいた。年取った
人たち、前からいた人たち。私がそこへ入った時より、3年は古い。

この写真(写真2)は何ですか?
これは団体写真だが、後ろの建物は二階建てだ。雪がすごくたくさん降ってこう
なったんだ。横にはツララ。

本来、飯場はみんな二階建てでしょう?

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日本へ行く前はどこに住んでいました?
それは、〔天安郡〕東面で暮らしていた。

その時は何をしていました?
学校を卒業して、もう次の春には行ったんだ。。初等学校を卒業するや否や。な
ぜかと言えば、兄さんがいるが、両親がいるじゃないか。それで兄さんが行って
しまったら、私がどうやって稼いで食べさせる?両親を…。それで私が自分から
進んで代わって行った。兄さんの代わりに、私が行った。

お兄さんに令状が来たのですか?
いいや。私に来たんだ。私が自ら行くことにした。そうしたら私のお母さんが、
この前まで乳を吸っていたのに何で行くんだと、号泣した。言葉にもならなかっ
た。近所の人も一緒に泣いた。

〔妻〕私はその前の所才里(ソジェリ)に住んでいて、この人はその近くに暮ら
していたよ。

◎ 口述者自身が書いた動員地住所と動員日

た。もう一人は3か月前に死んだ。ここ(写真2)にいるが、よく見えない?私は
ここにいる。

〔妻〕金〇グムは探してみた。だけど死んでいたよ。

この写真(写真1・2)は同じ日に撮ったのですか?
同じ日だが。写真師が来てこれを撮った。後に私一人だけ撮った。一人でだけ撮
って韓国へ送ろうと…。幼かった。17歳、国民学校を卒業し、次の年に行ったん
だ。これを撮って故郷へ送ったんだ。だからこの写真が残った。

〔妻〕片付けていたら出てきた。日本で撮ったと。私がちゃんと仕舞って置いた
んだよ。

この住所は当時、李先生が直接書いたのですか?
そうだ。北海道札幌郡豊平町定山渓、豊羽鉱山、大成寮、廣平昌夏。私の本貫は
広坪(クァンピョン、慶尚北道亀尾市広坪)なんだ。

この写真は日本へ行ってすぐに撮ったものですか?あるいは暫くしてから?
いや、多分、行って一月ほどで撮ったんだろう。家に送ろうと急いで撮ったん
だ。

逃亡してもしょうがない、また捕まるだけだ

日本へ行った期間はどれくらいになります?
17歳で行って、19歳で帰って来た。

解放になって帰ったのですか?
そうだ。解放されなきゃ帰れないだろう。戻って来れない。

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釜山から腹を空かせて行ったが、日本へ着いたらインゲン豆があるだろう。イン
ゲン豆。それがポツンポツンと入ったおこわを一椀くれた。当時、おこわと言っ
たら大したものだ。日本も大したものだと思った。日本に来て良かったと思っ
た。だけど、そうじゃなかった。おこわはそれ1回だけで、後は何もない。それ
でも私は、日本に行って苦労しなかった方だ。

1年経って坑が崩れた

苦労をしない方だった?
うん。仕事をして、嫌になったら休む。そして巡査が、日帝時代の巡査は、それ
は恐ろしかった。巡査が私を呼んだ。二晩ほどそこで寝かせてもらって、飯も食
べさせてくれた。

そことはどこですか?
巡査の家だ。私がとても小さくて幼いのに、韓国から来たから、可哀そうだった
みたいだ。よく食べさせてくれた。

その巡査の家は鉱山の近くにあったのですか?
うん。いま考えてみると、ここの支署みたいな所だろう。村の支署。

では、お爺さんがなさった仕事は主に何です?
そこでした仕事は、クワがあるだろう、尖っていて小さなもの。長くて、レール
があるだろう。それで、レールの縁に土が付いているのを、引っかくんだ。だか
ら仕事の内に入らない。実際そうだ。仕事ではない。それで、カンテラを持っ
て90尺(※1尺は約30.3㎝)も潜って行った。土の中に90尺~60尺、120尺、150
尺。土の中、坑内がこうなっていた。そしてそこから、何か飛行機を作る鉄みた
いな物が出てくるんだ。そうやって1年くらい経って、この坑が崩れた。坑全部
が潰れて、それで水が、川の水が入って来た。3日して入って見たが、横から水
が出ていて冷たかった。だけど、韓国人は一人も死ななかった。

おばあさんも当時、李さんを知っていました?
〔妻〕知っていたよ。初等学校にみんな一緒に通っていた。駆けっこも良くやっ
た、とても。いつも一等だった。昔、トランポリンがあるじゃない。トランポリ
ンをしたら7階、8階、頂上まで上がる。少ししたら、一番頂上まで上がるのはこ
の人だった。(笑)

その時、日本へ行ったのは何月だったか覚えていますか?
ちょっと待って。ここに書いたものがある。

記録していたのですね。日にちはどう正確に分かりました?
大体、考えて書いた。その場ですぐに書かなきゃいけないのに、それができなか
った。

〔妻〕その時は連れて行かれて、そんな状況じゃなかったでしょう。

今のお歳は?
82歳。

李さんは最初、どこに集まってどう行ったのか憶えていますか?
あぁ、ここから天安へ行って、その担当者がいるじゃないか。報国隊の担当者、
その人は天安市まで行けば、仕事は終りだ。だから天安でいなくなったのは、責
任を終えたからだ。そこで考えた。これは日本へ行っちゃいけない、とても日本
へ行きたくない、このままこっそり逃げようか?だけど、逃げてどうなるのか?
逃げてもどうしようもない。だから日本へ行ったんだ。それで釜山に行った。行
ったが当時は配給の時代だ。ソソク米を釜で焚くが、フッと吹いたらパッと飛ん
でしまう。それを飯だと言って出す。

「ソソク米」って何です?
粟だ、粟。黄色い粟。それでも空腹だから食べる。食べなかったら死ぬ。それで

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釜山に来たが、北海道から釜山まで東海(日本海)から来た。きっちり1週間で
来た。1週間だが、大きな船で来たのでない。小さな船だ。2層の本当に小さな
船だ。それで帰って来たが、事故もなく良く戻れたものだ。戻って来たが、釜山
に来ると、倉庫ごとに、忠清道なら忠清道、全羅道なら全羅道、江原道なら江原
道と、倉庫ごとに書いて貼ってあった。それで忠清道と書いてある所へ行った。
そしたら車が来て乗せて行く。

150メートル入って働く人は本当につらかった、息をハァハァと吐いた

それで汽車に乗って天安まで来たのですか?
そうだ。天安まで来た。

初めに一緒だった金〇グムとか、知ってる人はいませんでしたか?
あぁ、沢山いた。だが名前を知らない。

村から何人が行ったのですか?
だいたい20人以上いた。東面からは約30人になる。

その人たちは戻った時も一緒にでしたか?
そうだ。一緒に帰って来た。一緒に帰って来たが、もう死んだ人も多い。

東面から行った人は、お爺さんのように幼い人も多かったですか?
そうだ。多かった。私の仲間が5、6人。

その人たちはみんな一緒の部屋でしたか?
そうだ。

年を取った人は別の部屋でした?

1年ほどして坑内が崩れる事故があったのですか?
うん。1年過ぎたら坑が崩れる事故が起きたんだ。それで、坑を復旧して作業を
再開しようと、坑内の水を汲み出すために、山側へ川の水を切り替えるんだ。こ
の山の上に穴をあけて川を切り替えて、その水を汲みだす。そうやって汲み出し
ていたら、解放になった。それで戻って来たんだ。〔1944年9月に坑内水没事故で
操業休止〕

その坑内が崩れた時、死んだ人は?
いない。なんでかと言えば、朝飯を食べて入った人が出て来る頃、昼食を食べて
坑内に入る人がいる。丁度、その時に崩れた。だから1人も死ななかった。

下手をしたらたくさんの人が死ぬ所でしたね。
大変なことになる所だった。

他の坑内事故はありませんでした?
うん、解放されてからは、仕事はしない。働かないで、大人たちは全てを治め
る。だからもう、病院なら医者、学校なら先生、支署なら支署長、村なら村長、
いや村職員、そんな人たちは全員、韓国人に何にも言えなくなっている。そして
解放されてから、7か月か8か月過ぎて、帰って来た。7、8か月ぶりに帰れ
た。

解放されて7~8か月間、韓国人が日本人より高い位置で日本人を管理したので
すか?
そうだ。だから日本人は何もできない。韓国人には無法状態と言うことだ。私よ
り3年早く働いていた人がいた。だから古株だ。その人がみんな治めた。そして
食べ物があり、服も軍服だが、倉庫へ行って取り出して、1着ずつ配ってくれ
た。軍服と下着を1着、靴1足、帽子ひとつ、みんなもらって帰って来た。

解放されて帰る時、誰が引率しましたか?

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いやー、何と言うか。日本語は初歩で…。店に行ったら、店に何か買いに行くん
だ。店にいるのは女ばかりだ。男なんかいない。店に行けなかった。行ったらつ
かまえて可愛がられて、「めんこちゃん」、「めんこちゃん」と言って放してく
れない。

「めんこちゃん」が何ですか?
「めんこ」は可愛い子どもだ。そして、私が良く出入りしていた。周りの日本人
を母親のようにして、毎日、晩飯を食べたらその家へ遊びに行くんだ。何でかと
言うと、豆を炒めてくれる、カボチャも茹でてくれ、ジャガイモも茹でてくれ
る。

そのお母さんみたいな人の家は、巡査の家とは別ですか?
いや。それは別の家だ。別の村の人だ。だから私は苦労しなかった。

苦労しなかったと言っても、お爺さんは鉱山で90メートル入って働いたじゃない
ですか。危なくなかったですか?事故になれば死ぬじゃないですか?
それはそうだ。

炭鉱には中国人もたくさんいましたが、お爺さんがいた所に中国人はいませんで
した?
いなかった。

日本人も一緒に働いたのですか?
そう、少しいた。女性もいて、男性もいた。

女性はどんな仕事をしました?
女たちはゴミなんかを片付けて、掃除もした。坑内でもゴミを拾って、掃除とか
何でもやった。

そうだ。

李さんみたいに幼い人は少し簡単な仕事をさせたのですか?
いいや、そうじゃない。私は90メートル入ったが、20メートル入る人もいるし、
90メートル降りて働く人、150メートル入って働く人は本当につらかったという。
息をハァハァ、吐いたという。

距離が長いほど大変になるのですか?
そうだ。坑の中の仕事は、言いようがない。

その鉱山は鉄を掘り出す鉱山ですか?
うん。炭鉱ではない。〔豊羽鉱山は銅、亜鉛、鉛などを産出〕

鉄も地中深く入って掘るんですね?
そうだ。爆薬を仕掛けたりする。爆破したら石の塊が砕ける。それを載せて上へ
上げる。

李さんはその仕事ではなく、レールの土を片付ける保守をしたと言いましたね?
うん。それも嫌になったら、カンテラを点けたまま、座り込む。座って眠けれ
ば、寝る。

〔妻〕お母さんが恋しくて泣いたそうだよ。

だから暫くそうやって座っていたら、誰かがカンテラをパッと照らしたんだ。こ
れを見つけた監督が、「お前ら何で座っている?」、「はい、僕は故郷へ帰りた
くて、こうして座っています」と言ったら、何も言わない。なぜ仕事をしないと
か、叱られた市は絶対しなかった。

李さんは歳よりももっと幼く見えたみたいですね?

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銃の取り扱いは?
いや、それはなかった。

その定例訓練は幼い人だけですか?
いいや。全員が受けた。鉱山にいた人全員だ。年寄りは受けないで。私らは少し
したら身体検査して軍人になるものだから、軍隊へ送ろうと訓練したのだろう。

〔妻〕私も挺身隊へ引っ張ると訓練を受けたけど、解放されたから行かなかっ
た。運が良かった…。

大変な目にあうところだった。

それも訓練を受けるのですか?どんな訓練を受けたのですか?
〔妻〕学校で日本について教える。毎日それをして、体操なんかもして…。

この村でですか?
〔妻〕初等学校。当時、訓練を終えた人が4,50人だった。そうして行く準備をし
たけど、解放になった。8月15日。

李さん、そこでケガはしませんでした?
ケガはない。

そこで日本人は名前をなんと呼びました?
廣平昌夏だ。ひろひらしょうか。

〔妻〕日本人の名前は4文字だ。

そうですね。李さん、今日はありがとうございました。私たちが帰って何か気になる
ことがあれば、また連絡します。おじいさん、おばあさん、記念写真を撮ります。

実際に鉄を掘る人は古株がやったようですね?
そうそう、それは古株でなきゃ。誰にでもできることじゃない。爆薬を仕掛け
る。それは日本人がする。韓国人はしない、させない。

手帳を出して言うと全部くれるが、月給をもらっても足りない

そこで月給をもらいました?
月給は出るが、そんなに多くない。韓国のお金で1万ウォン程度?

1万ウォンなら、当時何円何銭になります?
だから、100円程度になる。

李さんは幼かったから、お金を少しもらったのでは?沢山働く人は沢山くれるっ
て。
いいや。みんな似たり寄ったりで、同じだ。

月給をもらって物を買う店はありました。?
うん。鉱山だけで使える店がある。それでお金がなくても、手帳がある。手帳を
持って行って出して、くれと言えば、何でもくれる。けれど、月給をもらって
〔支払うときに〕足りなくなるじゃないか。だからしょっちゅう(手帳を)使っ
たら大変なことになる。

〔妻〕つけ払いしたんだ。

酒・タバコをする人はどうします?
酒、タバコは店にある。私は幼いから酒もタバコもしなかった。

鉱山で訓練など受けましたか?
訓練はあった。働いて夕方にちょっと、運動場で定例の訓練をした。午後に。

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■ 面談後記

李昌夏さんの健康な姿にまず安心した。李さんの話を妻も一緒に聞い
たが、李さんは落着いて当時の話をしてくれた。当時に見たことを妻
も話してくれた。お二人は同じ村で育ったせいか、親しい友人のよう
に仲良く見えた。李さんは、苦労した時期を思い出しながら微笑みな
がら話してくれたが、申し訳なくも感じた。国を失った若い時代、そ
んな苦労をしたが、後悔したり恨んだりしないという言葉に、心がジ
ンとなった。

・面談日:2009.3.3.

・面談者:河承賢

・補助面談:尹シヒョン

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日本人と一緒に働いたが、私らはいつも訓練生だ

〈日本製鉄㈱ 輪西製鉄所)

会社の仕事をしたが、名目は訓練生だった

朱仁出さんが申告した資料を見て、お話を伺いたいと来ました。
みんな忘れてしまった。いま思い出すことはない。ポツンポツンとは思い出す
が、はっきりしない。記憶が…。

ポツンポツンとしていても覚えていることを話してくれたら結構です。朱さんが
初めて日本へ行ったのはいつですか?
1943年度。日にちまでは分からないが、2月だった。

この修了証を貰ったのは、日本へ行ってどれ位ですか?
( 修了証を見ながら)ここにあるが、2月に行ったから、3月4日付で、2年間
の労務者生活をした。初めに行く時は分からなかったが、行く時は駐在所、今の
派出所だが、駐在所が行けと言ったから、行ったんだ。当時は良く分からなかっ
たが、駐在所へ行ってみると、2年間勤務とか、服務とか、何か言っていた。2

・1926.1.27. 慶尚南道金海郡二北面退来里、出生
・1943.2.    日本製鉄(株)輪西製鉄所に第3期訓練生として動員。第2火成課、ベンゼン工

場で労務者生活

・1945.10.   本籍地へ帰還

朱仁出(チュ・インチュル)

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◎〔写真1〕第3期訓練生の中で金海から動員された同僚たちとの団体写真(朱仁出 寄贈)
〈記載内容〉第3期協和訓練生 金海班一同

◎〔写真1の裏面)

  輪西製鉄所の所在地と第3期訓練生第4班室 金海班 写真撮影月日(昭和18年3月9日)、1枚あたり価格1円20銭

が自筆で書かれている。

年間しなきゃいけないと言う
ことだ。それで行って、日本
人たちが言う通りにしていた
が、2年過ぎたら 修了証をく
れた。

2年してもらったのですか?
そうだ。ここにある通り、昭
和20年(1945年)4月3日。
2年間、製鉄所で日本にとっ
ては訓練だったんだ。名目は
訓練だが、仕事は会社の仕事
で、「訓練」と言う名前をく
っつけたんだ。毎日、どこへ
行っても訓練生だ。

訓練生と呼ばれたのですか?
そうだ。形だけだ。仕事内容
は日本人と一緒に工場の仕事
をして、名前は訓練生だ、
訓練生。そして2年過ぎたか

ら、2年間、製鉄所が決めた
訓練を終えたという証明だ。
その修了証だ。

朱さんと一緒に行かれた方た
ちは証明書をみんな受け取り
ましたか?
私と一緒に行った人たち、そ

◎動員されて2年が過ぎてもらった 修了証 
   (朱仁出寄贈)
〈記載内容〉
修了證 
第3期訓練生
新安仁出(朱仁出の創氏名)
大正15年(1926年)1月27日生
右の者 は当所所定訓練2年間の課程を修了したることを証す。
昭和20年(1945年)3月4日
日本製鉄株式会社
輪西製鉄所長 水谷浩

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こにいた人たちはみんな受け取った。私だけに渡すはずもない。そうだろう?一
緒に行って1期、2期、3期。私は3期だ。後に4期、5期、・・・どれだけあ
るかは分からない。その期数とか、行った日が違うと、分からないし。同じ3期だ
としても、逃亡したら 修了証はもらえない。最後までいた人は一緒に苦労したか
ら、みんなもらったと思う。もらったからって何かあったわけじゃないけど。

この 修了証を渡す時、何か式をしました?
あ、それは憶えていないな。それは、そこに協和寮と言うのがある。団体生活の
居住地だ。協和寮は学校みたいに建てて団体生活をする。 修了証は工場にいる人
が、私に持って来て渡したものなのか、協和寮で渡してくれたものなのか、それ
はよく憶えていない。
(写真を見ながら)これは同じ日に撮ったものだ。

この写真(写真1,2)は、いつ撮ったものです?
行ってからそれほど経っていないと思う。だから到着してから1週間か10日か2
週間してから、そんな程度で撮った。何か月も過ぎていない。みんな忘れて憶え
ていない。月給もくれたが、お金のことも忘れた。だけど、月給をもらって一月
したら無くなった。小遣い、服、暮らしに使ってしまう。

服も買わなくてはいけない?
それは個人のものだから。団体生活と言っても、服や靴は自分のお金で買えと言
って、月給を出す。言わば、雑費だ、雑費。使ってなくなる。

団体写真はこの他にはありませんか?仕事をしていた時の写真は撮りました?
それは全くない。行ってからはじめにこの2枚を撮った。写真1は金海(慶尚南
道金海市)の人で、写真2は蔚山(蔚山広域市)と咸陽(慶尚南道咸陽郡)[と金
海] の人だ。当時は、釜山は特別に分かれてなくて、慶尚南道釜山市で、慶尚南道
に属していた。だからこれは3つの郡だ(複写本の裏面を見ながら)。原本に記
録されているが、私が書いたが、蔚山、金海、咸陽の3つ郡が集まっている。こ

◎〔写真2〕金海、蔚山、咸陽から動員された第3期訓練生(朱仁出 提供)
(記載内容)第3期協和訓練生一同

◎〔写真2〕の裏面
〔写真1〕の裏面と内容はほぼ同じで、第3期訓練生第4班室 金海・蔚山・咸陽郡一同と記載されている。

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どんな訓練をしました?
訓練と言っても、大した訓練でもない。軍隊式に非常召集されたのを憶えてい
る。他には、北海道は寒い島だろう。朝か午後か、忘れたが、浜へ行って広場み
たい所。そこへ行って上を脱いで、列をつくる。軍隊式に列をピシッとつくっ
て、上だけ脱いで、その寒い中で脱いで、体操をするんだ。

製鉄所で働くための技術訓練じゃなかった?
そんなものじゃない。技術を教えることはない。訓練じゃなくて体操だ。体操を
させてから工場で仕事させるようだった。体操で始める、希望の場所・・。

希望の場所?
製鉄所って名前だけで、漢字の名前を見ると、製鉄だから私も鉄を作ると思った
が。中に入ったらその建物がとてつもなく大きい。その中で作れないものはな
い。肥料、水虫薬、軽油、あらゆるものが出て来る。

そんなものを製鉄工場で作るのですか?
そうだ。とても大きいからな。名前が輪西製鉄所、日本製鉄株式会社の輪西製鉄
所が北海道にある。八幡製鉄所も日本にある。

八幡製鉄所は北海道じゃないでしょう?
そう、違う。八幡(福岡県北九州市八幡)にある。その八幡が日本で一番大きい
会社で、輪西が二番目だ。聞いたところ、輪西は80里になる。確実ではないが。
工場から製品を載せて行く時は、汽車が工場を行ったり来たりする。材料を運ん
で来たり、貨物列車が行ったり来たりする。

汽車のレールが敷かれているのですか?
うん、敷かれている。とてつもなく大きい。

80里とは、全体の長さですか?

れが3期生全員だ。

この団体写真の人たちが3期生全員ですか?
ここに書いてあるだろう。第3期協和訓練生一同。これは(写真1)、私ら金海郡
の人だけ。金海郡の人だけで多分100人になる。正確な数は分からないが。

3期生は全員で何人くらいですか?
これで全員だ。3期生全員、写真の通りだ。当時聞いたところでは、全部で300
人だと言った。金海郡だけで100人と言うが、写真だと100人にならないみたいだ
が?(笑)

ではこの写真はどこで撮ったものです?
協和寮。私らの宿舎だろう。正確には覚えていないが。

この写真の人たちの服装は作業服ですか?
製鉄所、工場では、どこでもそうだろう。工場へ行ったら作業服に着替えなくち
ゃいけない。仕事するために。出勤する時は私服を着て、作業服に着替えて作業
し、退勤時はまた私服に着替えて退勤する。初めて行った時、訓練服も同じだっ
た。訓練をすると訓練服を着た。名票を付けて、帽子をかぶって、腕章をつけ
て、みんな同じにして訓練を受けた。訓練をどれぐらい受けたのかははっきりし
ないが、2か月ほどだったと思う。

軍隊式に列をピシッとつくって、寒いのに上を脱いで体操をするんだ

2か月ほど?
うん。2か月ほど。

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駐在所で募集したので行くことになったのですね?
募集だったのか何だったのか覚えていない。駐在所の前を通りかかったら、職員
が寄って行けと話しかけて来た。それで中に入った。入ったら、日本へ行けと言
うんだ。会社に就職させると言った。日本へ行ったら良い会社に就職させる、だ
から日本に行けと言った。行くとは答えなかった。私は当時まだ幼いから、もう
少し年を取っていたら就職とか考えたのに、まだ幼いから行きたいとも思わなか
った。両親のことも考えた。だけど日本行きをしつこく勧めるんだ。会社に就職
できるから良いだろうと言う。会社に就職したら金もくれると。だから、しきり
に勧めるから、行くことになったんだ。日本へ行ったが、行って訓練させられ
て、少しも気に合わない。嫌だと言ってもしょうがない、日本に来てしまったの
に。日本人が言うままにするしかない。死ねと言われれば、死ぬだけだ。そうし
て生きるしかなかった。

朱さんが住んでいた村は、金海郡二北面退来里(現、金海市翰林面退来里)です
ね。そこから何人行ったのですか?
私一人が行った。いや、違った。二北面から何人か行ったと思う。名前は覚えて
いないが、知り合いなら覚えているんだが、違う村の人で、一人いた。何人も団
体でたくさん行ったから良く分からない。

金海から釜山へ行った?
そうだ。金海から行ったが、どうやって行ったのか、誰が引率したのか覚えてい
ない。面職員が引率したのか、派出所の署員が引率したのか、ずいぶん昔のこと
なので覚えていない。

朱さん、船に乗って北海道へ行ったことを覚えていますか?
行く時は釜山から船に乗った。釜山へ行ったら人が何人かいたから、一緒に船に
乗って、下関で船を降りた。そこから列車に乗った。いまでは急行もあるが、当
時は全部各駅停車だ。人で列車はいっぱいだ。昼夜何日も行くが、随分かかっ
た。どこまで行くかと言えば、青森という所だ。そこからまた北海道だ。北海道

工場をぐるりと回って80里。

とても大きいとは私たちも聞いています。
門も大きい。門も一つや二つじゃないだろう。門から入ると工場の中が明るいん
だ。それで当時は日本人が戦時で、米国と英国と戦ったじゃないか。だから日本
の男は軍隊にみんな行ってしまって、年寄りは使えないで、工場で働く人がいな
い。それで娘たちがたくさん残った。

女性たちも働いた?
うん、来たよ。私の職場にも娘が4人いた。日本人は戦争に行って働き手が足り
ないから、韓国人を連れて行ったんじゃないか?

日本へ行ったら良い会社に就職させるから日本へ行けと

 
ここから行く時もあまり覚えていない。釜山駅に行った時も何人になったか分か
らない。釜山へ行ったら人がたくさんいた。釜山で一晩泊って、船に乗って下関
へ行ったと思う。

それでは朱さん、初めから伺います。途中で話していいです。初めに日本へ行っ
たのは何歳でした?
18歳。

その当時、日本語はできました?
えー?日本語がどうやってできる?できるはずがない。

学校は行かなかったのですか?
学校は出ていない。

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良いのか悪いのか分からないから書いてしまおう」と、第1化成と第2化成と書い
た。そうしたら第2化成課に当たった。それで行くことになった。

第2化成は何をするところです?
第2化成課にいたが、ベンゼン工場がそこにあった。第2化成課に製油工場があっ
て、洗浄場という工場もあり、ベンゼン工場があった。製缶場に四角の缶があっ
て、そこに油を入れる。ドラム缶のような缶。油を入れて運ぶための缶を作る工
場があった。製缶場と言った。

洗浄場は何ですか?
洗浄場は私らの横にあったが、何を洗浄するのかは分からない。まぁ、何かを洗
浄する所だ。それから軽油工場と言うのが4か所、第2化成にあった。製缶場
は、私が行って少しして、なくなってしまった。

少しして製缶場がなくなった?
私が行ってからあんまり経っていない。車が来て、私らが作った油をタンクに入
れて持って行く。製缶場が必要なくなったんだろう。私が行ってからすぐに製缶
場が無くなった。

ベンゼン工場でどんな仕事をしました?
それを説明するには少しかかる。簡単に言うと、軽油をタンクへ入れて、蒸気を
入れるとその油のタンクがガタンガタンと。熱いタンクに油を入れて、パイプか
ら蒸気を入れる。中の油がグツグツと沸く。タンクの中が煮えると、そこから湯
気が出てくる。湯気が出てきたら、パイプを通って湯気が出て行くようにする。
湯気が出てきたら、水をかけて冷やす。冷やすと、それは水になる。水にはなる
が、それは油だ。流れてきて、油になって、タンクに入っていく。この仕事は簡
単だ。簡単だが、日本人が全てする。私らはお使いだけする。何か持って来いと
言われたら持って行って、何かしろと言われたらやって、言われた通りにする。
12個のタンクがあって、そこに温度計が付いている。油を沸かそうとしたら温度

は島だから船に乗って行く。青森で汽車を降りて、船に乗って北海道函館だった
か。函館から輪西まではそんなに遠くないが、輪西までどう行ったか覚えていな
い。

朱さんと一緒に行った人たちは全部3期生ですか?
そうだと思う。

北海道で降りて、他の場所へ行った人はいませんか?
そんな人がいたかどうか、分からない。

輪西へ行ったらすぐに2か月ほど訓練を受けたのですね?
それくらい訓練を受けたと覚えている。技術でなく、軍事訓練でもなく、体操み
たいなことをした。2か月くらいだった。覚えているのは、浜辺で上を脱いで体
操して、夜になったら集合して点呼することだ。その他は覚えていない。特別な
訓練をしたら覚えているが、たいした訓練でもないから覚えていないのだろう。
何で上を脱がせるのか、「これは寒い」、北海道は寒い。「寒いのに上を脱がせ
て何をさせるんだ」と思ったから、覚えているんだろう(笑)。

来てしまったからには良い所へ行きたいと思う

訓練を終えて、希望部署を書いたとおっしゃいましたか?
うん、そうだ。工場へ送る時、日本人が決めるのでなく、希望部署を紙に書けと
言われる。ところが工場には何十か所も部署があって、どこが良くて、どこが悪
いか、誰が分かる?分からないじゃないか。話を聞く相手は日本人しかいない。
そうだろう?何課は何をして、何課は何をする、そんなウワサがあった。ここに
来たからには、良い所へ行きたいと思うじゃないか。そうだろう。色々聞いて、
第1化成と第2化成へ行けば、仕事に熟練すると聞いた。「アイゴ、知らない。

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そうだ。各自の工場へ…。仕事する時間がみんな違うから、指示された通りに行
く。工場へ行ったら、出勤カードを記録する。カードを持って門に一緒に入る。
他にも門があっただろうけど覚えていない。その大きな門が一つだけか?何か所
かあっただろうが分からない。そうして出勤して退勤したらバラバラに皆散らば
る。私と一緒に横になっていた人も一緒に仕事に出る。各自の仕事場へ行ってし
まう。夕方、横になって寝る時にまた顔を合わせる。

宿舎と工場は近いのですか?
よく覚えていないが、歩いて行った。近かっただろう。

じゃあ、周囲80里の中に工場と宿舎があったのですね?
いいや。宿舎は外にあった。その中(周囲80里)は全て工場だ。宿舎は別だ。寝
る宿舎は工場の外、門を出なけりゃいけない。

日本人もそこで働いていた?
日本人がほとんどだ。日本人が工場を運営する。

日本人も協和寮のような所に暮らしていました?
日本人は自分の家で暮らしていた。家族と一緒に。歳も取っていた、私は20歳前
だが、その人らは普通30歳代、40歳代で、技術者だ。

3期生は何歳くらいです?20歳前後?
私も幼かったが、16、17歳で日本へ行けるもんじゃない。私よりも歳が上じゃな
きゃ。だが、30歳とかはいなかったと思う。まあ、たくさんの人がいたから分か
り切らない。

をピッタリ合わせなくてはいけない。温度を!余り温度が高いと危険で、低くて
も駄目だ。温度の基準がある。油になる温度がある。一時間に一度はチェックす
る。タンク番号が1、2、3、4とあり、全て日誌がある。タンク日誌を1時間
ごとに見て、1タンクに温度が5度だったら5度ごとにチェックして、日誌に記入
する。記入して温度が高ければ低くして、低ければ高くする。ポンプで油を入れ
るパイプがいっぱいに交差しているが、これがしょっちゅう故障する。故障した
ら手を入れ、修理する。私らははじめてで、方法が分からないから、日本人が修
理する。私らはお手伝いだ。少ししたら分かるようになるが、その修理は私らに
絶対にさせない。危険だから。下手はできないだろう。そんな仕事は全て日本人
が自分たちでする。私らは危険がない。

仕事に行く時は各自に行って、夕方に寝る時だけ、互いに顔を合わす

朱さんと一緒に行った3期生は同じ部屋で寝ましたか?
それは、病院へ行ったら8人部屋とか6人部屋があるが、それと同じで部屋があ
る。1班、2班、3班、4班と班があるが、入ると廊下になっていて、3階まで
部屋を間仕切りしてある。部屋は両側にあった。

その建物に入っていた人たちは全て3期生ですか?
そうだろう。だけど、そんなことは考えないで、家のことばかり考えて過ごした
から、1期、2期が一緒にいたのかよく分からない。

朱さんがいた部屋は全てが金海の人たちですか?
いいや、違う。3つの郡が混ざっていた。蔚山、金海、咸陽が混ざっていた。私
も蔚山の人と一緒に寝ていた。

朝、仕事に出るときは別々に行くのですか?

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その時は朝鮮人と言ったけど、朝鮮人を故郷へ早く帰せと日本政府に催促したん
だ。早く故郷へ帰せと。そんな話が聞こえてきた。それを聞いて心が落ち着い
て、家に帰れるみたいだと思った。だけどすぐには帰れなかった。なぜかといえ
ば、日本へ行った人たちで、徴用ではない人が いた。生きるために日本へ行った
人が本当にたくさんいた。日本を出ようとする人があまりに多くて、詰まってし
まい、船がないという。そうして8月15日に解放されてどれくらい経ったか…、
はっきり覚えていないが、釜山に着いて、夜遅くに故郷の家に帰った。それで、
村には稲が熟して頭を垂れていた。だからその時は、陽暦の10月頃になる。

韓国に戻る時、行く時のように汽車で下関に来て船に乗ったのですね?
北海道で直接、船に乗った。

室蘭からですか?
室蘭だったか、どこだったか覚えていないが、北海道で乗った。船に乗ったが、
どうした訳か、一晩経っても船が出ない。聞いてみると、米軍の命令がなかった
ら出航できない、勝手に行けないのだと。そうやって船の中で3、4日間、アイ
ゴ、船中にいたら死にそうになる。人が船にびっしりと、私らもいたが、他の個
人で日本へ行った人たちも、聞いたところ、びっしり乗って4,000人が乗ってい
た。ちゃんとした旅客船でなく米国の貨物船だ。船がなくて、貨物船の中を取り
払って、人をぎっしり載せて来た。その船に乗って来た。出航したが、太平洋を
回って来たから、とても日にちがかかった。昼夜かけて船はずっと休まず進ん
で、4日かけて着いた。記憶がぼんやりしているが、3~4日はかかったと思
う。

それから釜山へ着いたのですか?
そうだ。釜山に着いたが、薄暗くなっていた。そして故郷へ向かう列車に乗っ
て、家に着いたのは夜だった。日本に2年半ほど行っていて、家を空けていたこ
とになる。アイゴ、夜に村の近くに来たら、私の家が見えて、灯を赤く点けて、
その時、私の父はいなかった。父は、私が12歳の時に亡くなった。だから、母親

幼かったからか、いつも故郷に帰りたかった

日本人はその 修了証をくれた後に何も言わずまた仕事をさせたのですか?
そうだ。何の言葉もない。行けとか行くなとかもない。出勤から退勤までずっと
私を掴まえているだけだ。行ってから2年が終わったから、幼いから故郷へ帰り
たいじゃないか?両親や兄弟と離れていて、金も問題じゃない。私が今だったら
違うだろうが、生きるために、何をするか分からないが、その時は小遣い銭をも
らっていたし。ちゃんとした賃金をもらっていても、そこにいるのが嫌だった。
ちゃんとした賃金でもなかった。歳が幼かったからか、いつも故郷に帰りたかっ
た。期限になって 修了証をくれるからもう帰れるだろうと思っていたが、帰れと
は言われなかった。また出勤してひと月過ぎたら、8月15日で解放された。解放
のその日、宿舎で誰かから聞いた。日本人が放送すると…。

放送を聞きました?
放送をした。降伏すると。8月15日に降伏すると放送した。放送を聞いて、あ、
日本人は勝てない、降伏したのだ。それで何を考えたかと言うと、もう死ぬんだ
と思った。

もう死ぬんだと?
うん、もう死ぬんだと。なぜかと言えば、日本人が負けたから米軍が日本へ上陸
するだろう。米軍が来たら、私らは日本人に味方して工場で働いてやっただろ
う。日本人の味方だと殺すだろう。そう考えた。

米軍に?
解放されたから故郷に帰るとは全然思わなかった。私だけそう考えたのか、他の
人もそうだったのか、それは分からない。米軍が上がって来たら、私らは日本人
の味方だからそのままにするか?殺すんじゃないか?と思って不安だった。一
日、二日と過ぎて行って、米軍が日本に上陸したようだ。米軍が命令するには、

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爆撃前はベンゼン工場、第2化成課。

第2化成課と251工場は同じですね? 251工場の中に第2化成課があったのです
ね?
それは良く分からないな。爆撃を受けてから看板を251工場と付けた。ベンゼン工
場が251工場だろう、多分。製缶場は、良く分からない。

では、爆撃があったのはいつ頃です?
それは分からない。とにかくその工場へ行って暫くしてあった。

爆撃は何回でした?
爆撃は一回あった。輪西に行って、すぐにあったのでなく、約1年くらい過ぎて
からあった。 

爆撃で人が死ぬとかありましたか?
たくさん死んだという話があった。工場の外に日本人が集団で住む村があった。
米軍はそこまで写真を撮って艦砲射撃をして、その日本人の村に爆撃があって、
日本人がたくさん死んだ。私ら韓国人も輪西にたくさんいただろう。第3期だけで
も何百人になる。1期、2期があって、4期、5期まであっただろう。内心、韓
国人は故郷へ帰らなきゃいけないから、死んじゃ駄目だと思っていた。内心、韓
国人が死んだのかどうか分からないから心配だった。爆撃の後聞いてみたら、韓
国人は死んでいないようだった〔死亡者は存在〕。それを聞いて内心うれしかっ
た。とてもうれしかった。どうしても生きなきゃいけない。故郷へ帰らなきゃい
けない。こんなに苦労して死んでたまるかと思った。

輪西は慶尚南道の人だけでした?他の地域の人はいませんでした?
そんな人は見たことがないし、慶尚南道の人も見なかった。全員バラバラになっ
たから。同じ飯場にいる人だったら分かるが。班がいくつもあって、顔を合わせ
ても話はしない。日本人の指図で毎日を過ごして、そのまま歳月が過ぎるから、

と兄さんと…。

朱さんを待っていたのですね?
灯りが見えて、そこに向かった。当時は、今みたいに電話はないし、手紙を送っ
ても何日もかかる。だから来るのかどうか、家では分からない。そうして家に入
ると、喜んで、喜んで、言うまでもない。

絶対に死なずに生きて帰る、こんなに苦労したのに死んでたまるか
と思った

お母さんが待っていたでしょう。末っ子を。ところで、そこで爆撃なんかありま
せんでした?
あぁ、大東亜戦争をして戦った時、米軍のB29だったか?飛行機で写真を全部撮
っただろう。会社とか爆撃しようと写真を撮ったという。北海道へ船で行ったら
室蘭市だが、そこと輪西は近いが、米軍が航空母艦で堂々と会社を一度爆撃24) し
た。だけど私らも工場に留まって、工場前に防空壕をしっかりと掘って置いた。
本当にしっかりと掘っていた。そこに私らと職員が入って、互いに抱き合っても
う駄目だと思っていた。防空壕がどれだけガッチリしていたことか、何せ、しっ
かり防空壕を作ったから、爆弾が落ちて地面が揺れ動いたが、しばらくして収ま
った。それで皆出て来た。そんなことが一回あった。私がいたのがベンゼン工場
だが、この爆撃を受けてから、この工場名を暗号式にすると言っていた。それで
(看板を)ベンゼン工場と言うのを止めて、工場の看板を251工場25)  とつけた。

24) 1945年7月15日、室蘭市艦砲射撃。室蘭市は武器を製造する鉄鋼製造工場がある戦略上重要な

都市だった。米軍は1945.7.14.には北海道空襲を、7.15.には複数の戦艦などで室蘭市へ艦砲射

撃をした。

25) 戦時期の軍需工場は工場名を明らかにしないため、番号で工場名に代えた。口述者は艦砲射撃

以降、工場名が変わったと口述したが、その前から「251工場」と表示され、それは輪西製鉄

所を表す名称である。

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人一人と私とで一組になった。初め行った時、夜間はなかったが、後に夜間勤務
しろと言われた。

日本人と二人ですか?
そうだ。もう一組は日本人が二人だ。

韓国人がもう一人いたと言いましたよね?
うん。

その人と一緒に仕事しましたか?交替で働きましたか?
私は夜勤をするようになったが、それは一週間ごとの交替だった。一週間夜勤し
て、一週間は昼…、こう交替する。だから一度入ったら12時間、二組で24時間働
くから、一度入ったら12時間して交替する。その韓国人は昼間勤務だけずっとし
た。女子は夜間勤務できない。その女子たちはベンゼン工場でなく、製缶場にい
た。さっき製缶場がなくなったと言ったが、なくなったら女子の行く所がない。
今だったら解雇されて家に帰るが、工場は人員が足りないのか、解雇しない。女
子二人が私のベンゼン工場へ来たが、役に立たない。

なぜです?
何をするって、お使いだけだ、お使い。人員が足りないと言っても、その娘たち
がいなくても大丈夫だ。辞めさせないでいたら賃金を払わなきゃいけないだろ
う。いくら払っているか知らないが。お使いしかできない。そのうち解放になっ
て、8・15解放されたと放送した日…。放送されて出勤したが、日本人も出勤す
る。当時、日本人たちは足に(ふくらはぎ部分をさすりながら)付けたものがあ
る。

脚絆ですか?
軍人も付けていたが、私らも脚絆を付けて出退勤した。もう降伏したと放送を聞
いて分かったんだが、それでも出勤するなと言われないから行った。日本人たち

そうなる。

ベンゼン工場では、韓国人は他にもいましたか?
うん、いた。

何人くらいいました?
私の他に一人。

二人ですね。では日本人は何人でした?
はっきりしないが、日本人は3、4人。「たけだ」という人がいたが、他の人の
名前は忘れた。

油のタンクが12個あるのに、その人員で仕事できますか?
それが、仕事といっても別にないんだ。1時間に一度チェックする。油タンクが
12個あるが、この油が蒸発してなくなる。タンクごとにすべて同じにはなくなら
ない。遅くなくなる、早くなくなる、なくなったらまた油を入れる。それを記入
して、仮に1タンクなら1タンク日誌がある。12個全部に日誌がある。それに、
いつから始めたか時間をきっちりと書いて、終了も記入する。蒸発してなくなっ
たら、また入れる。ポンプが故障したら手入れして。私が見る限り、急いでする
必要はない。だから人員は必要ないんだ。

仕事時間はどうなっています?
出勤する時に出勤カードを持って行って、機械に入れると出勤時間が押されて、
退勤する時も機械にカードを入れたら時間が押される。出勤時間、退勤時間、そ
れは思い出せない。

朝に出て夕方に戻るのですか?それとも夜も交替で勤務するのですか?
夜もする。ベンゼン工場は24時間回るから。だから夜も働く人が必要だ。機械を
停めたりできない。いくらか過ぎたら私も夜間勤務をしろと言われた。夜に日本

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行く所がないのに逃亡してどうする?苦労するだけだ。むしろ、くれるものを食
べていた方が楽だ。知人はいないし、逃げてどうする?

そこでは訓練生でしたね?
訓練生…。

朱さんは訓練生ですが、一緒に働いた日本人の職級は何ですか?
それは分からない。だけど組長は知っている。第2化成課の中に組長がいた。そ
の組長は工場4つを指揮・監督する。

組長は日本人でしょう?
日本人だとも。その組長は、別途に個人用の事務室があって、第2化成課の管理
をする。その他の人は働く人だ。

軍属って聞いたことがありますか?
軍属は、聞いたことがある。

朱さんは軍属ではなかったのですね?
違う。軍属とは言わなかった。第3期訓練生だ。あ、せっかく会ったから聞く
が、釜山に資料館だったか展示館を建てるんだって?

はい、そうです。
新聞で見た。(写真2の原本を見ながら)この写真も60年余り前のものだが、持っ
ていてもどうしようもない。だから、これら資料は一回、目を通してから寄贈し
ようと思っている。私も明日には死ぬかもしれないし…。

も出勤してきた。見ると、脚に巻く脚絆を全てほどいて楽な格好で歩いていた。
ブカブカの格好で出勤していた。日本が負けたから脚絆も付けないで歩いている
んだなと考えた。そうやって一日だけ出勤して、その後はオールストップだ。そ
れからは宿舎で故郷へ帰る日だけ待っていた。

一緒に仕事した日本人たちは、「朝鮮人」と言って差別して、からかったりしま
せんでした?
あ、それは、特にそんな記憶はない。目立って蔑視するとかはなかった。内心で
差別していたかは知らない。ところで最近の新聞に載っていたが、韓国の放送で
も流していたが、製鉄所についてだ。そこが強制労働させたことを認定すると。
だが、訴訟問題は時効が過ぎたし、その当時の人や会社ではなく、頭に「新」を
つけて新日本製鉄に変えている。が、強制労働させたことは認定すると言っていた。

ベンゼン工場で一緒に働いた韓国人はどこの地域の人でした?
蔚山の人。名前は忘れた。

働いてケガはありませんでしたか?
それはない。解放されたから戻れた。解放されなかったらどうなったか分からな
い。その後、どれだけ働かされたか。解放されたから戻れた。

一緒の飯場で仕事中に死んだり、爆撃で死んだりした人はいませんでした?
それは聞いたことがない。

ケガした人は?
それも見たことがない。

逃亡した人は?
逃亡した人は聞いたことがある。そんな人はいたが、多くはなかった。日本で暮
らす韓国人が多かったが、そんな親せきを持つ人は工場が嫌で逃亡したらしい。

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■ 面談後記

私たちが村の近所へ着いたと電話をするや、朱仁出さんは直接、大通
りに出て迎えてくれた。「遠くから来てくれて」と温かく迎えてくれ
た。面談が始まると、よく思い出せないと言うものの、多くのことを
記憶していた。帰還後も強制動員について高い関心を持っており、こ
れまで見聞きした有益な話をしてくれた。

・面談日:2009.2.5.
・面談者:李宣姈
・補助面談:尹智炫

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飛行機の音が蜂の

群れみたいにブンブンと聞こえた

〈日本製鉄㈱ 輪西製鉄所)

工場で募集をしていて、怖かったが行ってみたい気持ちも

李泌雨さんが〔経営する〕会社規模がとても大きいですね?
日本に行って来てから木材業を始めて、今は株式の製造業をしている。韓国では
大きい方だ。

どう日本へ行くことになったのです?
当時は強制動員、日帝期だから、強制的に出ろと言われたら出て、入れと言われ
たら入って、訓練と言われたら訓練して…。招集されたら全て出なければいけな
い。忌避なんかできない。忌避してもどうにもならない。どこで生きる。いまの
軍人たちは忌避しても生きていける。だが当時、それはできない。私はどうした
かと言えば、当時、募集に志願する前、国民学校を卒業したら青年訓練所があっ
た。青年訓練所。青年訓練所へ入れば、軍服を一着ずつくれる。それと靴と帽子
をくれて、約2年間訓練をする。私らが銃を持って軍事訓練を受けるが、募集の
話が出て来て、とても喜んだ。完全合格した。他の人は合格できなかったが、合
格した。

・1928.9.28. 慶尚南道泗川市龍見面温井里出生
・1943.2.  日本製鉄(株)輪西製鉄所の第5期訓練生として動員、輸送部陸運課で労務
・1945.   解放後に本籍地へ帰還

李泌雨(イ・ピウ)

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い。飛行機も買わなくてはいけない。飛行機も大事な所は鉄で作る。そうしてプ
ロペラやエンジンを付けて飛ぶ。戦闘機がそうだ。今みたいに格好良い戦闘機で
なく、当時は浮いて飛べば良い。今だったら1時間飛んだら随分距離が出るが、
当時はすごく遅い。プロペラを回してウンウンいって飛ぶ。爆弾を積んで行く。
それでも当時は最新武器だから。それで、募集には種類がある。炭鉱がある。他
の人は炭鉱や鉱山へ行き、私らは製鉄所だ。日本へ行ったら少し教育をする。5
期生は特別だと。そんな風に、5期生に集まれということだ。教育をして指導者
を…。戦争したら、戦争は勝つのがすべてじゃないんだ。指揮して、占領しなけ
りゃいけない。占領するために政治をしなきゃいけない。そうでなきゃ勝っても
意味がない。占領できるよう政治しなきゃいけない。そういう体験者を送るため
に、募集したんだ。(私らの期は)慶尚南道から1000人くらい行ったが、1期生に
100人ずつで。10期まで行ったが、私は5期生だ。

一緒に行った5期生はどの地方ですか?
泗川の人だけ100人。

では他の期生は違うのですか?
違う。5期生は、製鉄所の勤務をしながら指導者になる期といった。5期生はそ
んな期数だ。炭鉱は穴掘りをするが、私らを指導者として、外国を占領したとき
に、そこで指導できるように養成しようとした。

日本へはどう行きましたか?
輪西製鉄所で教官をする人が出てきた。泗川国民学校に100人が集まって晋州へ行
って、汽車に乗って、釜山道庁前で観閲式をした。そして連絡船に乗って日本へ
出発した。日本へ向かう前までは少し自由だったが、下関からは逃亡しないよう
に入口を見張っていた。

どうやって募集したのです?
初めに私らが行く時、国民学校卒業者…。少し利口な者を選んで、何をするかと
言えば、映画を持って来た。昔は活動写真と言った。大きな運動場に丸太を立て
て、幕を張って活動写真をして、弁士が語る。カラカラと回って少ししたら映画
が映る。国民学校にワァっと集めて上映するというから、皆行って観た。私が行
った時、その輪西製鉄所という所が一番大きいんだ。日本で一番大きい製鉄所
だ。戦争は鉄だ。鉄ですべての武器を作るじゃないか。日本には鉱山があるし、
炭鉱もある。鉄を溶かす材料が多い。その工場が募集するため、鉄を溶かす場
面、何か入れる場面、鉄で何かする場面を撮影して、夕方にそれを見せるんだ。
やー、物々しかった。その映画を見て少し怖かった。鉄が小川みたいに流れる場
面もあった。それを観て、怖かったが、行ってみたい気持ちも…。

こういう所へ行こうと観せたのですか?
そうだ。技術者として行くと。技術者として行くが強制である。募集するといっ
て、何日か後に募集を始めたが100名募集に500人が来た。国民学校卒業者が、卒
業して2年、3年になる人もいる。卒業していなかったら駄目だ。500人来たがそ
のうち100人を選ぶんだ。100人を募集する目的は何か?その時期は「大東亜戦争
(太平洋戦争)」を日本が始めて、韓国を一番はじめに喰って、その次に満州、
今の中国だ。満州を喰って中国本土に討ち入るんだ。日本人が中国に盛んに押し
入るんだ。台湾も取って。当時の日本人は「大和魂」といった、そんな言葉、聞
いたことがあるかい?

聞いたことがあります。
「大和魂」は、人を鬼神に造り替えるということだ。天皇陛下。戦争で死んで
も、「天皇陛下万歳」と言って死ななきゃいけない。毎朝、皇居、東京の真ん中
に皇居があるだろう。韓国にいても皇居に向かって礼をする。東に向かって毎
朝、礼をする。学校でも朝礼の時にそれから始めて、「君が代」国歌、それを毎
朝歌った。そして一斉に忠誠をして、だから国民全体で一致して戦争した。戦争
を始めたから、身動きもせずに戦争しなきゃいけない。だが日本は鉄も足りな

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火力が石炭だ。韓国の石炭は使わない。大夕張の石炭。地下何キロメートルから
掘り出したもの、人の頭くらいのものもあって、ガンガン掘り出す。見たらキラ
キラと光っている。そうしなければ、鉄を溶かすことができない。そんな訳で、
製鉄所の位置を輪西に選定した。50%くらいが鉄だとすると、50%は捨てる。海
へ…。埋めなきゃいけないんだ。鉄を溶かして、残りは捨てるという方式だ。1
年に埋める量はとても多い。海を埋めていくのが。その製鉄所の社員が何人かと
言えば13万、15万になると。すごいだろう?朝になって行ってみたら、門が7つ
あった。出退勤する門。工場だけでも駅が7つあった。一周でなく、半周だ。そ
れから工場内に線路を敷いて、運搬する汽車を置いて、そんな工場だった。

工場半周に駅が7つですか?
工場がとてつもなく大きいんだ。周りは海だ。駅が7つ、6つになる。室蘭、東
室蘭、母恋、御崎、輪西…。室蘭は市だが、次が東室蘭、母恋、御崎、そして私
らのいる輪西だ。駅6つだ。とても大きい工場だ。働かせるのにまず、精神教育
をする。行ったら軍事訓練をした。軍事訓練を6か月させて、精神統一だ。精神
を洗う、日本人精神を洗い出す。純然とした軍事訓練だ。あらゆる訓練をする。
6か月間、訓練して出て、ようやく人間とみなす。次に配置をする。6か月間を
終えたら、次にどこへ行きますと希望を言う。そしたら、配属の課へ送る。希望
先は陸運課、海運課と・・、〔配置されたのは〕陸運課、汽車運搬関係だ。

陸運課は汽車で運搬する所ですか?
陸運課はそうだ。また、海運課は輸送船になる。部署が多い。どこの外国へ行く
のも、船に乗せて行かなきゃいけないから。陸運課と海運課に分かれている。

他にも部署があるのですか?
製銑課、製銑課26) というのは、鉄を溶かす場所だ。その他には軍艦、戦車、砲な
どあらゆるもの〔を作るための〕製鋼課。そこに送ったら軍艦、電車を作るため

26) 製銑:鉄鉱石を溶かして銑鉄を作ること。

工場の大きさがとんでもない

泗川から行った100人と一緒に北海道に到着したのですか?
100人は皆一緒だった。一緒に行った私ら5期生はそこにいた。私らは第4協和寮
だった。協和寮はアパートみたいになっていた。そんな共同生活をする場所を作
っていた。一部屋に30人くらい入って、両側に部屋があって、3階建てで一人一
場所だ。畳一枚が一人横になれる広さだ。その上に板を敷いて鞄とか所持品を置
く。高さは人が座る半分くらいだ。両側に場所を占めて、通路がある。広くはな
い。食堂は別にある。

食堂で食事はどうでした?
食事は、自分の食券がある。食券を失くしたら飯はない。一食なくなる。朝食は
白い券、昼食は青い券、夕食は赤い券、言わば、こんな風に表示をする。事務室
の前へ行ったら、何班誰それ、判別に1班、2班、3班、4班と続いていく。そ
して私の班だから30人分…。そしたら私の券がある。券3枚を抜いて来る。朝飯
だったら、券を出して飯をもらう。出勤前に行って朝飯を食べ、また昼食も食券
を出してもらう。夕食も食券を渡さなかったら駄目だ。飯は何を出すと思う?豆
だ。豆も油が抜けている。油を精製して、揮発油みたいなのを作る。そうすると
カスが少し無くなる。油を抜いたらみそ玉みたいになる。それを当初は30%混
ぜ、飯と混ぜて出したが、後では50%、70%…。まぁ、みそ玉の臭いがして、食
べれたものではない。死にそうだ。多く出す訳でもない。たくあんがあって、そ
れを少し添えて、おつゆと言う汁が付いて、その3品しかない。汁とおかず2品
しかなかった。お替わりしたいが、お替わりはできない。どれほど空腹か、わか
らないだろう。

輪西製鉄所はどんな所でした?
鉱石がたくさん出る鉱山が北海道、北海道一帯にたくさんある。樺太から来る物
も多い。そしたら、そこに工場を設けなきゃいけない。一番目に設ける場所が輪
西だ。室蘭市の輪西。鉱石が入ってきたら、溶かす火力がなきゃいけない。その

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◎〈旧 室蘭駅舎 写真〉(委員会の金明煥調査官撮影)

旧室蘭駅舎は、1912年に新築され、戦時期も継続して使用された。現在は有形文化財に登録されている。口述者の記

憶する輪西製鉄所周辺の駅のうち、唯一昔の姿を知ることができる所でもある。

鉱石ごとに色が違うのですか?
うん。ホコリが。眺めが良い。

陸運課ではどんな仕事をしました?
陸運課。輸送課だが、行ってみたら、汽車の前に線路があって、それを塞ぐよう
にテントが建っていた。覗いたら、せん断機が行ったり来たりしていた。あちこ
ち見渡すと、汽車もあっち、こっちと動いている。汽車の責任者がいた。鉱山か
らは鉱石が送られてくる。それを一回に50個だったら50個集めようとするなら、
強い力がなきゃいけない。鉄のかたまりがついているから。駅へ行くと、線路が
あっちこっちに曲がっている。それで、汽車の出発が遅れる。速度が低調する
と、人が飛び降りて、喧嘩になる。こいつ、遅すぎると言って。すごく危険な現
場だ。追っかけて行って降り、後ろの方へ行って、パタパタと投げ、また後ろか
ら乗らなきゃいけない。汽車が進んで、信号に引っかかったら、汽車より早く、
パッと走っていき、また走って乗る。それが陸運課の仕事だ。

の鋼、針金を切って、鉄板を切って、平たく磨いて、トントン切って、あらゆる
もの〔を作るための鋼材〕が出てくる。鉄板、針金、とか・・・。陸運、海運、
造工課、製鋼課、骸炭課27)  、大きな課が6つほどあった。造工課は針金を切
る工場。骸炭課は鉄を溶かすため、さっき良質の石炭が入ってくると言ったが、
それを大きな窯で燃やす。燃やすと、煙が10里(4㎞)も外に広がる。その石
炭を燃やして残ったものを最後に取り出す。土みたいなスミ〔コークス〕が出て
くる。鉄を熱したら粉も出るが、それらを載せて溶鉱炉へ入れる。さっき言った
製銑課は溶鉱炉だが、そこで降ろすと、真っ赤なホコリが、ものすごいホコリだ
が、遠くから見たら真っ赤な煙が噴き出しているみたいだ。他に、真っ青な煙が
出る所もある。また、工場の他の所では真っ黒な煙を出す。遠くから見たら5色
だ。海の沖から見たら、とても良い景色だろう。

27) 骸炭:コークス。コークスは、原料炭を炉へ入れて1,000~1,300の高温で焼くことででき

る。鉄鉱石を高炉内で溶かす熱源でして使われ、鉄鉱石から酸化鉄を分離させる還元材の役割

もする。

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棒で支えて松葉づえをついて歩いたが、急に滑ってしまい、ケガした足がブスッ
と雪に突き刺さった。氷だ。またそこが裂けた。結局、またそこを切ったが、こ
れを切らないとなかなか治らない。結局は良くなって、一緒に帰った。

その友達はそんなにケガしたのに、家に帰れたのですか?
解放されたから。解放されなかったら、帰れなかった。工場には大きな病院が何
か所かある。それで、1、2年のうちに治らなきゃいけない。期限がある。期限
は2年だ。2年以内に治らなきゃいけない。だけど帰してくれない。帰してくれ
るまで4年かかった。戦争末期だから帰してくれない。仕事をしろ、絶対しろ
と。

助けてくれ、助けてくれ、首だけ出して

4年間働いて…、そうしたら戦争末期だ。末期になるから、私らは苦労した。各
自、木材で防空壕を作った。日本本土は大変なことになっていたが、当時、北海
道は銃声もなく、空襲もなかった。作業を2m…、各自木材で防空壕を作るんだ。

防空壕を木材で作る?
木材で。本州、広島で原子爆弾が落ちた。その当時は北海道で、銃声も空襲もなか
った。本州は大変だったが、空襲はなかった。一度は空襲警報と放送があった。ど
れ見物でもしようと見ると、空の半分ほどに雲がかかっていた。放送は聞いてい
た。そうしたら飛行機が…。飛行機が軍艦から飛んできたが、空は雲が覆ってい
て、その飛行機の音が蜂の群れみたいに、ウォンウォンウォン。じっと見ていた
ら、防空壕へ入れと声がした。全員、壕へ入った。皆助かりたいから一緒に中へ
入った。一つ真っ黒なツブが飛んできたら、もう一つのツブが飛んできて、戦闘機
だ…。そして爆弾が落ちて来て、先に防空壕に入ろうと大変な騒ぎになった。

陸運課は体力を消耗する仕事ですね?
そうだ。それを心得なけりゃいけない。北海道は寒い所だろう。そこでは10月に
なったら雪が降り始める。雪が100mm、200mmになったら人が見えない。そ
れほど降り注ぐ。年が明けて4月になれば土が見える。雪がそれほど積もる。昼
には少し溶けるが、陽が暮れたら寒くなり、凍えてしまってまた雪が降る。そし
て積もる。市内が全てそうだ。4月になったら段々溶けて雪も降らないから、土
が出てくる。海に面していてツルツルする。凍れて、氷の上に白い氷が付いて、
汽車も車もそこを走る。汽車は線路を走るから、除雪しなけりゃいけない(除雪
しないと滑るから)。汽車を停めてから降りなきゃいけないが、私の友達が、早
くしようと飛び降りて、汽車の車輪に轢かれて太ももを切断した。そんな人は多
い。

仕事中にケガをした人は多いですか?
多い。そんな人は多い。戦争の一環だから。死んでも何も言えない。一環で死ん
でも何も言えないし、どこにも言えない。人が死ぬのを見たことがある。鉱石を
燃やして集めて置く場所がある。その上へ行って鉱石を燃やした残りをパッと捨
てる場所がある。一度私らが、その上に汽車で行ったら、何か真っ黒なものがポ
ロっと落ちた…。人が仕事をしていて落ちてしまったんだ。

足を切断した友達はどうなりました?
そいつ、名前が「あらい」だった。陸運課に勤務していたが、片足を切断した。
人が怪我すると、一番親しい友達を選ぶ。日本人はそれだけはちゃんとする。彼
の尿とか便の始末をして、包帯、今は一回使うと捨てるが、その時は捨てない。
本当に膿でメチャメチャになってるものを洗わなきゃ。ヌルヌルするのを洗って
乾かして、新しく巻いてないと病院から怒られるぞ。それは全部する付き添い
人、飯を食べてそこでケガ人の生活を助ける役をすることになる。仕事をしなく
ても済んだ。その「あらい」、友達は足が治った。左足がかたまり(塊)になっ
てしまった。治りはしたが、もどかしそうだった。さっき話した海辺に雪が積も
っている。広場もそうだ。その友達と二人で肩を支えて歩かなきゃいけないが、

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って、工場を見てみると、音がしない。静かだ。何の音もしない。工場で動いて
いる所がないからだ。

工場は全て破壊されたのですか?
(弾丸を浴び、)ハチの巣箱に穴を開けたみたいになっていた。ある人は首だけ
出して叫んでいた。助けてくれと。防空壕も崩れる。爆発したらサッとあっちの
方へ吹き飛ばされる。防空壕には人がいっぱいに入っているが、直撃弾が来た
ら、全員死ぬ。人がいる所が爆発したら、人が吹き飛んで行く。頭だけ出して
「助けて。助けて」という状態だった。

まぁ、とてつもないものを見ましたね。
恐ろしかった。恐ろしい。一緒に行った韓国人が爆撃を受けたが、その人が首を
出している所を爆撃した。私らはどうしようもできない。土が崩れて抜け出せな
い。土を掘って助け出した。その人がその後どうなったかと言えば、助け出した
が、頭がおかしくなった。本当に戦争と言うものは…。工場もすべてストップ
だ。クワやスコップで助け出そうと走って、片づけて、道端には足がちぎれた
人、死人、…。アイゴ、言葉にならない。本当に戦争とは…。

では、砲撃の後は仕事ができなかった?
そうだ、もう、スコップを持って埋めて、掘って、アイゴ、仕事にならない。全
て粉々になった。大被害だ。艦砲射撃に何の対策もない。死人を掘りだすのに半
月もかかって、道端に積んで、足、胴体…。あぁ、本当に恐ろしい。

その後、また爆撃はありましたか?
その時だけだった。その時、ひどく艦砲射撃を受けて、降伏したじゃないか。大
本営28)  発表で、天皇陛下が重要な発表をすると言うから、私らはどんな発表を
するのかと思った。その日12時ちょうどになった。無条件降伏すると。無条件。

恐ろしかったでしょう?
その工場を破壊しようと来るんだ。その日、グーン、グーンと音が鳴って大騒ぎ
だ。それが1時間続いた。そうしてすごく静かだ~、そーっと出てみると、沖に
輸送船がたくさん避難していた。日本の輸送船が避難したが、大きな船は出てい
けない。飛行機が攻撃するから避難した。静かになって出てみたら、海に人びと
が浮いてモゾモゾしているのが見えた。船がダメになっていた。その日に来た船
が、ダメになった。船が来たところを撃った。それでもう船がない。飛行機が船
を全て沈めた。

その時、工場の人たちはケガをしませんでした?
工場の人はそれほどケガをしなかった。工場は本当にたくさんあるから、それほ
ど被害がなかった。そうして2日後にまた朝から空襲をした。腹が立つ。機動
部隊、艦砲射撃をするために、戦艦8隻が向こうから来た。「避難しろ!避難し
ろ!」と声がするが、工場を抜けて歩いて、山までしばらくかかるのに、行ける
ものか。しかし、行かなかったら死んでしまう。艦砲射撃は恐ろしい。艦砲射撃
を浴びせるのに、目標に撃つのでなく、地形を見て少し縮めろ、伸ばせと言うふ
うに4度、5度というふうに撃つ。それは恐ろしい。戦艦1隻が撃つ量がどれく
らいか分かるか?大きな軍艦が8隻並んで2発撃つ。大砲2門だ。そうしたらド
ンドンと音がする。見ると、2門がドンドン、ドンドン、次々と撃つ。艦砲射撃
が休む間もなく飛んでくる。避難しようと行くと、あちこちでドンドンと炸裂す
る。山にある壕に着いたが、バァンバァンと炸裂する。思わずバッと地面に伏せ
る。伏せたのは一度じゃない。山の向こう側で炸裂して、私とは関係なくても伏
せる。

避難した所でも砲弾が炸裂したのですか?
そうだ。起き上がって立つが、また撃って、撃って、休みなく飛んでくる。アイ
ゴ。防空壕がゆさゆさ揺れて、土が落ちてきて、もう駄目だ、きっと死ぬ。こう
して1時間過ぎた。その前は、飛行機が来て工場を攻撃したが、その時は工場内
の何カ所しか損害がなかった。船を見つけてそっちを攻撃したのだろう。振り返

28) 大本営:戦時や事変に際して設置された日本帝国陸軍と海軍の最高統帥機関。天皇の直属機関。

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から、仕方ない。そうして下関まで来たが、船に乗れない。なぜかといえば、敵
船を沈める機雷があって、船が入ってこれない。

ではどこで船に乗りました?
どこだったか?九州の博多へ行ったが、そこも同じ状態だ。そこでも船に乗れな
い。だから、下関に戻って山口県の仙崎という所へ行けとなった。そこは機雷が
ないようだった。そこで船に乗ることになった。そして船を見たら、船内は先に
乗った人たちがぎっしり埋まっていて、到底入り込めない。私らは若いし、外で
寝るしかない。寄りかかって休む丸い所が上にあった。上に這い上がって、横に
なってようやく休んだ。そうしていたが、船が出ない。トイレへ行って見たが、
便槽には便がいっぱいだった。トイレが使えない。危いし、苦役そのものだ。匂
いは問題でない。そうしているうちに釜山へ来た。釜山まで11日もかかった。今
なら1日で済むが。戻ってくるのに本当に苦労した。韓国人はとても苦労した。

ハイ、先生のお話、随分勉強になりました。ありがとうございます。

・面談日:2009.2.6.

・面談者:李宣姈

・補助面談:尹智炫

■ 面談後記

李泌雨さんは1943年4月頃、「指導者として育ててやる」という言葉
を信じて輪西製鉄所へ動員された。陸運課へ配置され、鉱石などを鉄
道で運搬する仕事をした。解放直前に連合軍の攻撃で工場が破壊さ
れ、たくさんの人が亡くなった。とんでもない経験をしたため、精神
異常の症状を見せた同僚もいた。李さんはまるで孫に昔話を聞かせる
ように、動員当時の状況と製鉄所での生活について詳しく話してくれ
た。また、解放直前に多数の死傷者を出した、室蘭での艦砲射撃時の
身も凍る状況についても詳しく語ってくれた。

昭和(天皇)が、終戦する、降伏すると。

その中には死んだ人、ケガした人もいて、韓国人はとても苦労した

解放されてどうなりました?
解放されたらその工場はストップだ。手を挙げた、武装解除と言うのがあった。
その次は、軍服とかを全て分けてくれた。もう日本が敗戦したから、私らに分け
るほかなくなった。下着とか、軍帽とか、それらを韓国人に分けてくれた。

李さんも配給をもらったのですか?
軍靴、軍人が履く靴、質がとても良い。それは韓国に戻ってから売った。

行く時一緒だった100名は一緒に戻りましたか?
うん。だが、その中には死んだ人も、ケガをした人もいた。

1期生から10期生まで1000名ですが、他の人たちは?
他の期生がどう戻ったのか、分からない。韓国に戻る時は苦労した。船がないか
ら戻れない。解放されてから、遊んで暮らした。遊んで暮らしても良いことはし
ない。遊ぶといって、花札をする。花札をタダでするのでなく、金を賭ける。あ
る人は、配給された服とか全て取られて丸裸になった人もいる。そうしているう
ちに、いよいよ私らが乗る船の番になった。私らの乗る船が出る、いつになるか
分からないが、下関へ向かえということになった。私らは荷物を風呂敷に包んで
背負った。引率者が青森まで送ってくれた。そこから本州を下って行ったが、行
く時も11日かかったが、戻る時もそれくらいだった。車内で寝ていると、行った
り停まったりしながら、一回停車すると列車がいつ出るか分からない。それで、
山に柿が実っていて、皆で列車を降りて、柿を何個か採って食べた。だが、柿を
あまり食べると便秘になる。苦しんだ。全員そうだった。食べるものがなかった

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「タコ部屋」って、聞いたことがあるかい?

浅茅野飛行場・万世飛行場〉

朝鮮へ帰ろう

「タコ部屋」には部屋に鍵がかかっていたのですか?
部屋に鍵はないが、それを話そうとしたらキリがない。大変だ(ハハハ)。監督
が棒を持って、私らはスコップで飛行場を均す。スコップで掘っていると、監督
が棒を持って少し高い所から「頑張れ」という。私らもクルマを置き、立って
「頑張れ」と言わなきゃいけない。そうしなかったら、駆け付けて来てこん棒で
殴る。クルマ仕事がちゃんとできなかったら、こん棒で打つから、腕が折れて大
ごとになる。「タコ部屋」では、「お前たちが言うことを聞かなかったら、ここ
に埋めてしまっても文句を言いにくる人はいない」と言う。そこには村が一つも
ない。そして管理する警察がいなくて憲兵だ。憲兵。そして飯を本当に少なくす
る。弁当だ。弁当箱は木で、その食事は米、麦、干芋だ。干芋は平たいだろう。
四角で平たい弁当箱の四隅に干芋を一つずつ入れたら、飯は少ししか入らない。
それで同僚が、「アイゴ、仕事はきついのに、これじゃ飯がないのと同じだ」と
飯を食べていたら、日本の世話役、監督のことだが、「なにこの野郎!」と立ち

・1927.9.2. 忠清南道天原郡廣徳面杏亭里、出生〔現、天安市〕
・1943.6.  北海道の浅茅野飛行場に動員(鉄道工業(株)下請けの丹野組所属)
・1943.10. 鹿児島県万世飛行場へ移動
・1945.9   本籍地へ帰還
      (市民団体北海道フォーラムの小林久公との合同面談調査)

池玉童(チ・オクトン)

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全員腸チフスに感染して半分は死んだ

ここに浅茅野飛行場の地図があります。「タコ部屋」があった位置を憶えていま
すか?
(地図を見ながら)この滑走路からしばらく入っていく。1㎞ほど。

浅茅野に日本人が暮す村は近所にありましたか?
村はなかった。滑走路の傍に家が一軒あるのを見た。ふーっ、自由に見回すこと
もできない。人間扱いされなかった。ただ、殴りつけるだけだ…。そうしている
うちに10月末、11月初めに大雪が降った。大雪で作業ができない。それで九州の
鹿児島県へ行った。川辺郡万世町は海辺の砂浜だった。そこでまた滑走路を造った。
北海道から九州に来たわけだが、来てみるととても良い。警察署もあるし、暮ら
してみると、むやみに人を殴りもしなかった。人間扱いした。自由も少しあった。

浅茅野にいた人が全て鹿児島へ行ったのですか?
皆行った。だが北海道で辛くて食べられなくて、だから腸チフスに全員感染して
半分は死んだ。だから症状がひどい人は北海道に残して、その他の人が鹿児島へ
移った。治療することはしたが、薬がなく、リンゲル液もない。私らの所から3k
mほど離れた所で死んだ人がいるが、名前は分からない。天安の人だったか。

鹿児島へ行った人は何人です?
そこにいた人は全て行ったから、数百人になる。300人くらい。

浅茅野へ行った時、朝鮮人は何人くらいでした?
300人くらいになるだろう。そこには支那人もいた。支那人捕虜29)、軍人捕虜、青
の服装で私らと一緒に作業した。頭越しにそれを見た。

鉄道工業株式会社、丹野組

あがって足で蹴飛ばすから、弁当が吹き飛んだ。血もタラタラ出た。それを見た
朝鮮人たちが、「や、こいつ、人を殺すのか。こいつ、殴り殺せ」と叫んで踏み
つけた。その監督は半殺しになった。ところが、会社側が訴えたので、憲兵隊が
戦闘準備をして、銃とか軍帽とかそろえてズラッと、50人くらいはいたようだ。
トラック一台で来て、ずっと並ばせて、調査をした。その日の作業はなく、内務
班(飯場)へ帰した。そして憲兵が付いてきた。首謀者4名は死んだという。銃
殺されたんだ〔口述者の推定〕。

朝鮮人全員がその監督を殴ったのですか?
朝鮮人を蹴った監督は、半殺しになった。そして、私らはここでは働けない、
「朝鮮へ帰ろう!」となって、全員荷物を取りに行ったところに憲兵が入って来た。

その主導者4名は知人ですか?
いいや違う。私らと一緒に行ったが、別の地方の人だ。私らは忠清道だが、彼ら
は京畿道から来た。

◎浅茅野第1飛行場拡大図
(出所:「2007年浅茅野調査報告書」強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム)

29)  口述者は中国人捕虜と考えているが、小林氏によれば中国人捕虜ではなく、受刑者だとい

う。〔万世の工事では中国人を連行した。〕

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先ほど300名ほど浅茅野で一緒に働いたとおっしゃいました。全員が忠清道の人で
すか?
いいや。京畿道、忠清道の人だ。私らは天安から汽車に乗って釜山まで行って、
他の人たちはソウルから乗って釜山へ行って、関釜連絡船で下関に降りて、そこ
から汽車で青森、そこでまた船に乗って函館へ渡って、汽車にまた乗って…。

日本人が韓国へ来て北海道まで引率したのですか?
引率者?北海道まで誰かに付いて行ったようだが…。日本人は募集だけして、一
緒に仕事はしなかった。その人は会社の人ではない。

鹿児島で働いたのは浅茅野から移った
人たちだけでしたか?
うん。「組」があって、元々いた人が
いた。私らは「鉄道工業株式会社」、
「丹野組」で、さらにその下に組があ
って、いくつか来ていた。

私も死んだことにされ、死体置

き場に入った

鹿児島でも亡くなった人はいました
か?

たくさんいた。北海道で腸チフスに感
染して来た人もいた。それが再発し
て、そこで死んだ。医者が聴診器を持
って、白衣を着て往診に来た。私も夜

通し横になっていたが、入ってくる時は白い白衣だったが、出て行く時は白衣に

◎ 浅茅野第1飛行場の図面。  (「2007年浅茅野飛行場
報告書」強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォー
ラム)「板敷滑走路」と書かれている所が木材板の滑走路。

浅茅野に滑走路が2本ありますが、一つは土、もう一つは板の滑走路だそうですね?
うん、板の滑走路は私らがした。30)  私はそこで板を製材して、長さ30㎝、厚さ
20㎝だ。それを切断してきっちりと合わせた。

その板を汽車で運び込んだのですか?  31)
その場、現場でやった。現地で日本の軍人たちがワイヤーで木を引っ張って来
た。そこに製材所をつくって、切って敷いた。敷設は私らがした。そこは木が多
いから。

浅茅野には、池先生よりも先に来ていた朝鮮人はいましたか?
いなかった。私らが最初だ。私らの飯場も、当時、木材で大工が建てたものだ。

池先生よりも後に来た朝鮮人はいますか?
来なかった。私らもそこで板敷の滑走路を終えて、ひどく寒いので、鹿児島へ行
った。飛行機の入る格納庫がなかったから、それを造るために行った。

北海道へはどうして行くことになりましたか?
農業をしていたが、行けというから行った。それは徴用だ。村から私とか4名が
行ったが、今は私だけ生き残った。

その動員されたのは何月でした?
43年7月初めに行って、11月くらいに鹿児島へ行った。2年2か月動員された。
鹿児島で飛行場を造り、次にトンネル、山にトンネルを掘った。民間人も軍人も
入る所だ(防空壕)。

30) 戦時に滑走路を早く建設するために開発された形態。距離が1200メートル、幅60メートルで木

板を敷いて造った滑走路。

31) 小林氏の説明;木材は製材されて運搬されてきた。その木材を加工して連結するのは、軍人で

はなく、日本で徴用された職人がした。

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入れと言うが、何せ水が汚いから入れない。

風呂場は各宿舎に一カ所ありましたか?
うん。各宿舎に1カ所、全部で6カ所あった。1カ所を60、70人が使う。

宿舎の近くに病院があったのですか?
少し離れていたが、それほどではない。歩いて行ける。病人が増えるから会社が
建てたのだろう。

会社の病院から30㎞ほど離れた所に別の病院がありましたが、そちらで治療を受
けた人はいますか?浜頓別ですが…。
聞いたことがある。そこは幹部だけ行ったようだ。日本人だけだ。私と一緒にい
た人がそこの看護師と結婚した。その病院の看護師と結婚して九州まで一緒に行
った。その人は京畿道の人で、名前は知らない。

その京畿道の方はもう亡くなられましたが、小林氏がその夫人(看護師)と会っ
たそうです。今は稚内に住んでいるそうです。
夫人?夫人の娘は大きくなって、20歳を越えただろう…。娘が一人いたが、私が
いた時に産んだ。その看護師は父親がいなくて、母親が育てた。

その看護師の母親が、その看護師を連れ戻すために九州に来たのを憶えています
か?
うーん、憶えていないな。

京畿道の方は夫人と一緒に韓国へ戻らなかったのですか?
解放されてから、その人とは離れた。佐賀県だったか、そこで分かれた。その人
は一人で韓国に戻った。

その看護師は丹野組の病院にいた人ですか?

薄黒いものがいっぱい付いていた。シラミだ、シラミ。それで看護師を呼んだ。
「先生、服にシラミが付いているから払って下さい」と。後で聞いたが、その医
者は死んだそうだ。病気に罹った。シラミが伝染させた。
私も北海道で腸チフスに感染して、一週間食べなかったから、死んでしまった
〔と思われた〕。初めは丹野組が病院を建てた。近所に民家もないから病院を建
てて、医者2人と看護師6人がいた。そこへ私も入院したが、病室には3、4名
しかいなかったが、その後、目を開けてみると、人がズラッと横になっている。
よく見るとそれは皆死人だ。私も死んだことになって、死体置き場に入ってい
た。それが夜だった。普通、敷布団と掛布団があるが、敷布団がなく、直接床に
寝かせて布団を掛けているだけだった。恐ろしくなって起き上がって、布団を肩
にかけて扉を開けた。扉は分厚い木で重く、ギーッと音がした。出てみると看護
師たちが火鉢に炭を焚いていた。夜勤の看護師3人が座ってコックリコックリ居
眠りをしていた。ギ~ッと扉を開く音がするから、ビックリ仰天した。死体置場
から布団を被って私が出てくるからビックリ仰天だ。私が幼いから「おチビ」と
言われていたが、「おチビさん、おチビさん、生きていたの」と言って駆け寄っ
てきて、肩を両側から支えて私を医者の所へ連れて行った。(私は)悲しくて涙
をドッと流した。それで医者が注射を3本打ってくれて、それで助かった。

北海道でシラミを取るのに、大きな桶に熱い湯を入れて服を茹でたと言います
が、覚えていますか?
うん。それは私もやったが、水を少し入れて、湯気でなくて煙が出てきた。見た
ら下の方の服が燃えている。それを取り出して乾かして、そのまま着せられた。
本当に日本人はあんまりだ。飯も少なくて、服もくれなくて、靴もくれるもの
か?それと風呂も、風呂場があるが、木製の四角い物、宿舎当り60、70人がいる
が、そこに風呂場が一つだ。湯が沸いたら監督とか日本人が最初に風呂に入る。
その後に60人、70人が入るから、後で見たら黄色の泥水だ。そこに入るから、話
にならない。

風呂は毎日入ります?

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が、そこへ僧侶が来て冥福を祈った。葬式が済んだら車が来て、馬車だ。遺体を
載せて付いて行く。そして山と言うより原っぱの樹、杉だが、その根元に穴を掘
って棺を入れて土をかける。子どもの墓みたいに小さい。そこへ木柱を立てた。
誰それの墓だと…。名前と丹野組と木柱に書いた。

火葬でなく、そのまま埋めた?
うん。そのまま埋葬した。韓国人も、外国人も、みんなそうした…。

何人くらい運びました?
3人。韓国みたいに墓の適地を探すのでなく、ポツンポツンと掘り易い適当な場
所で掘った。

◎浅茅野飛行場犠牲者遺骨発掘現場(2009.7.委員会、北海道調査団撮影)
「旧日本陸軍浅茅野飛行場建設工事 朝鮮人犠牲者を悼む」とする文字が目に入った

日本人だけ治療を受ける病院にいたが、その後、私らがいる病院へ来た。その医
務病院を丹野組が建てた。病院を板で建てて、その看護師とその夫を責任者にし
て任せた。私は看護師の下で掃除をしたり、患者が来たら手助けをした。だから
よく知っている。(鹿児島に移った後、病院の補助をした)

結婚した京畿道の人は以前から来ていた人ですか?それとも動員されてきた人で
すか?
動員で来た人だ。それで、その人は日本語がうまくて、少し教えてもらった。当
時の日本は、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まって、男たちが多くなかった。だ
から看護師がその人に誘いをかけて結婚した。正式に結婚した。

結婚してからどこで暮らしました?
丹野組が建てた病院の一室で暮らしながら、患者の世話をしていた。

道端の作業しやすい所に墓を掘る

浅茅野で亡くなった人はとても多いでしょう。その人たちの葬式や遺体はどうな
りましたか?
私も葬式に行った。病院がちょっと健康が回復した患者を選んだ。死体が毎日、
何体か出るから。夜に遺体を見守る人を募集した。腹がとても空いていて、募集
に応じたら飯でも出るかと思って手を挙げた。行ったが、私は幼いじゃないか、
大人もいたが、ふー、死体を見たら恐ろしくていられない。普通の棺じゃなく
て、棺の高さが1m、幅が25㎝だ。だから(うずくまって座る動作をして)こう
やって座らせて入れる。そうして手足を伸ばして死人を折り曲げようと腹を押し
て、壮丁2人が膝を曲げようとするができない。曲がらない。私が行ってやって
みたが、片腕を曲げると、もう一方の腕が伸びる。アイゴ、遺体が生きているよ
うだ…。そうしたら日本人一人が、「この野郎、どけ!」と言って足の親指を折
って膝をパンと叩いたらちゃんと曲がった。足の親指に力の筋が集まっているよ
うだ。そうやって縮めて、座らせて箱に入れる。次の日には恐怖が少し薄らいだ

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それで一緒に行った3人と酒を飲んだ。亡くなった監督は私が補助していたが、普
通、リンゲルは腕に打つがその時には太ももに打った。太いリンゲルを両側へ入
れるが、痛くて死にそうだと叫ぶ。だが、その監督は死んでしまった。

日本へ行って短い間にいろんなことを体験しましたね?
本当にそうだ。まだ幼いのに。そのとき18歳だから、まだ幼いだろう。

池さんが浅茅野飛行場に着いた時期、大きな山火事があったそうですね?
山火事?あぁ、火が出た、木から、数千年経た木が倒れて腐るだろう。そこで花
火をしたようだ。火が付いたら風が強いから、サッと飛んで行って、火が落ちた
所で火事になる。

山火事を直接見ましたか?
見たとも。見渡す限り火だ。消せない。

その山火事で丹野組の寄宿舎とか農家が燃えたそうですが?  
農家は見たことがない。32)小屋が1軒あったが、その小屋も宿舎も燃えなかった。
山火事だから山だけ燃えた。樹木がいっぱいに立っていた。

浅茅野に着いてどれくらいで火事になりました?
一月過ぎたくらいで起きた。9月だったと思う。

逃亡した人はいましたか?
たくさんいた。知っている限りで、6名いた。浅茅野から九州へ行くのに何とか
という河があった。橋げたからそいつが、アッ、勇敢に水面に飛び降りた。そい
つ、生きていた。

池さんのように墓掘り仕事の人は何人いました?
いや、その日だけだ。その日だけした。仕事する人が決まっていた訳じゃない。
その時々に選抜した。

そこには日本人の墓もありましたか?
墓と言ったって、ただ道端の作業のし易い所に簡単に掘っただけだ。道端で箱を
降ろして、土を掘って箱を埋めて戻って来た。後で掘り出して火葬するとか言っ
ていたが、どうなったか分からない。

墓を掘った近所に沼などありましたか?
全部、沼だ。北海道は。杉の木がズラッとあって、その根元には笹藪が茂ってい
る。樹木が多いから地面がジメジメしている。水は赤い。木のためだ。

その馬車を引く人は日本人ですか?
うん、日本人だ。丹野組の人間だったろう。

池さんが掘った墓以外に、他にも墓がありましたか?
うん、傍にたくさん埋めたと聞いた。その周辺のあちこちに…。

人が死ぬたびに葬儀ができましたか?
そうした。僧侶が鐘を叩いてやってくれた。

銃殺されたという指導者たちはどうなりましたか?葬式はなかったようですね?
それは聞いたことがない。

浅茅野で日本人が亡くなった話は耳にしましたか?
九州で腸チフスに罹った監督がいたが、その人が死ぬのを見た。そこにも私は行
った。100里も離れた都市だったが、名前は思い出せない。そこまで行って火葬し
た。その時は病院の補助員だったが、死んだ監督のポケットから20円出て来た。

32) 小林氏によれば1943.7.18に大きな山火事で丹野組寄宿舎とその前にあった農家が燃えたとい

う資料があるが、口述者は寄宿舎と農家は燃えておらず、1943.9.頃に山火事が起きたと口述

した。今後の確認作業が必要だ。

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耳も患ったとか?
(申告書を見ながら)うん、日本人に殴られて鼓膜が破れた。右耳が今でも聞こ
えない。

どこで殴られましたか?北海道ですか?九州ですか?
北海道で…。作業中に持ってこいと言うものを持って行かなかった。

病院へは行きましたか?
病院は行かなかった。そこには耳鼻咽喉科もなかった。その時からずっと聞こえ
ない。

韓国に戻ってからは病院へ行きましたか?
田舎だから当時は行けなかった。後で何回か行ったが治らなかった。それでも、
もう片方は聞こえるから…。

肋膜炎は治りました?
医者だが、ちょっとした肋膜炎に注射を約20回打ったが、良くなるどころか、こ
じれた。

浅茅野飛行場の近所の人たちが、毎晩、韓国人たちが寄宿舎で泣く声を聴いたそ
うです。アイゴ、アイゴと泣いていたそうです。
いずれにしろ、日本人が本当に悪い。悪い。「馬鹿野郎」と言っては殴りつけ
る。少しバシッと一発殴られると、バタッと倒れるのに、続けざまに殴る。

月給はいくらでしたか?
20円。

月給は何に使いましたか?
家へ送金して…。そうしたら家から受け取ったと手紙が来た。送金しなかった

その6名が全部逃げたのですか?
いや、一人だけ河へ飛び降りた。残りは九州で逃亡した。北海道では一人も逃げ
れなかった。

池さんが浅茅野へ行った時、滑走路はどの程度できていました?
行った時はもう始まっていた。私らより先に行って働いた人がいて、他の「組」
がいくつか来て始めていた。私らはその後に入った。樹木を私らが切って、笹薮
がとてもたくさんあって、その笹薮の根を掘るのに、うまく掘れなくて本当に苦
労した。木が大きいから根っこも大きい。当時の日本にはブルドーザーなんかな
くて、戦車みたいのにワイヤーをかけて引っ張る。

池さんは働いてケガしたことはありませんか?
肋膜炎に罹って病院で治療を受けた。北海道で、腸チフスで入院して、鹿児島で
は肋膜炎で行ったり来たりしながら、治療した(通院治療)。鹿児島はハム病院
という所で…。

◎浅茅野第1飛行場跡(2009.7.委員会 北海道調査団撮影)現在は牧場になっている。

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そこを離れてどれくらいです?
解放されてからだから、9月中旬になっていた。
この方は(小林氏を見ながら)北海道から来られたとか?

はい、北海道から来ました。
遠くから来られました。

池玉童さんのように徴用された方たちを調査し、随分と協力してくれた方です。
こんな立派な日本人もいるのですよ、池さん。
悪いヤツより、良い人はもっと多い。

(小林氏が池玉童さんへ)ありがとうございます。

・面談日:2008.12.17.
・面談者:小林久公・李宣姈
・補助面談:河承賢

ら、こっそり売っている酒がある。焼酎。それを買って飲む。鹿児島では食べ物
が多かったし。

毎月きちんと給料をくれたのですね?
うん。鹿児島ではピンハネしないでちゃんとくれた。北海道ではお金は全て家へ
送った。家でも受け取った。

北海道ではお金を使う場所がなかったでしょう?
どこにも行けなかった。そして民家もなかった。物を売る店もなかった。鹿児島
は済州島と気候が同じだ。女たちも売物をいっぱい持ってくる。

鹿児島から韓国へ戻る時はどうでしたか?
その時もまた死ぬ目にあった。船がなかった。家に帰りたかったから、密航船に
100円出して乗ったが、船には30人が乗っていた。波が打ちつけて船は大揺れだ。
家ほどの大きさの波が、アイゴ、それを見て船が沈むと思ったが、船がググっと
持ち上がった。それで佐賀県で寝た。そこで一晩寝て、次の日に船で着いた。

会社が韓国へ帰してくれたのですか?
いいや。各自それぞれ戻った。旅費は200円ずつくれた。鹿児島の知覧から汽車に
乗ったが、爆撃でトンネルが壊れていて、そこだけは歩いたが、また汽車があっ
た。その汽車に乗って来て、門司港じゃなく、その近くまで来て、一晩寝て、30
人が船に乗った。

では、汽車や船の乗場には誰が引率したのです?
それは、どうだったか…。日本の会社の朝鮮人責任者だが、話はしなかった。ど
こそこへ行けば何があると、その人の話を聞いて来た。私らと一緒に働いた人た
ちは、皆同じ方法で帰って来た。会社は200円をくれて、朝鮮人は帰れと言っただ
けだ。

■ 面談後記

北海道フォーラム(市民団体)から来た小林氏が、浅茅野飛行場へ
行った生存者と面談したいと要請した。池玉童さんの承諾を受け
て、面談を始めた。小林氏は浅茅野飛行場へ強制動員された朝鮮人
に関して調査している。面談は小林氏が地図と資料を示しながら質
問し、委員会の調査官が通訳する形で進められ、池さんの口述内容
で、事実と違う点があれば説明してくれた。池さんの北海道滞在期
間は短いが、多くのことを経験し、実感溢れる経験を話してくれ
た。特に、腸チフスに罹って死体安置所へ移され、生き返って出て
来た時、「どれだけ悲しかったか、涙がドッと出てきた」と話した
時、18歳の少年の悲しさ溢れる心を感じた。この口述の表題は、池
さんが面談開始時に、私たちに尋ねた質問だ。

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今なら飛行機だが、

当時は船と汽車で1週間かかった

〈江卸水力発電所・落部鉄道工事場〉

その時は凶作で、お金をいくらかくれるというから、

行きたいと言った

全さんは何歳でしょう?
今年、満で89歳だ。

日本へ行った時のお歳はいくつでした?
その時は23歳か、それくらいだ。

23歳くらい…。その時も豊山邑の素山里(安東市)に暮らしていたのですか?
うん。

当時、結婚はなさっていましたか?
その時、結婚していて子どもが二人いた。農業をしていた。

・1919.7.4.. 慶尚北道安東市豊山邑素山里で出生
・1942.6.  「荒井組」による東川所在の江卸水力発電所工事へ動員
・1944.   落部へ移動、鉄道工事に動員された。
・1945.12.  本籍地へ帰還

全在九(チョン・ジェグ)

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何人くらい募集で行きました?
安東からたくさん行った。100人以上行っただろう。各面から行ったから。

郡に集合して一緒に出発したのですか?
集めて、安東に集合して、安東にあるムボ旅館と言う日本人の旅館へ入った。そ
こで袋みたいな服を一着ずつ全員に分けた。韓服は脱がせて袋の服に着替えさせ
られ、真青な服だが、旅館に入った。そこで一晩泊った。

旅館に100人が集まったのですか?
何人かは分からない。何か所からも2~300人ずつ引っ張ってくるから…。安東だ
けで100人になるだろう。

村から一緒に行った人はいませんか?
いるとも、ここも5人いたが、皆亡くなった。全〇デ、全〇ウォンとか、まだい
る。それから2人兄弟が行った。みんな親戚だ。他の人は知らない。

その旅館で着替えて、一晩泊り、その次の日に出発したのですね?
そこで出発して、安東駅で乗って釜山まで汽車に乗った。夜に乗った。安東から
夜11時50分に。豊山から釜山まで汽車があった。

行く時の雰囲気はどうでした?監視とか厳しかったですか?逃亡できないように
とか。
逃げれない。門の前に歩哨が立っているし、汽車の外に出ることもできない。
ここから安東を出て、強制で釜山へ行って、また連絡する。警察とか、水上警
察…。そこへ行って、日本へ送るかどうか調査する。そうしてから船に乗って明
方に出発した。全員、夜に、夕方に乗った。明方に下関で下船したが、空は真っ
暗だった。下関に降りて、列車で何日も行った。北海道まで行くのに約1週間か
かった。北海道の旭川まで。そこは北海道でも北の方だ。そこまで行くのに約1
週間かかった。上川郡東川という所へ行ったら、豊山みたいに小さな小川があ

どのように日本へ行くことになりましたか?
その年は凶作だった。その年は凶作、何年か凶作が続いていた。そんな時、募集
があった。

どこの募集でしたか?
日本の北海道から会社の人間が安東へ来て募集した。

その時期が何年何月でした?
詳しく覚えていない。1942年6月だが、陰暦だ。

募集をどう知りましたか?
家に広告が来た。募集に応じろと。日本人が直接来た。

面の事務所とか斡旋をしませんでしたか?
ああ、面が送り出した。豊山面が送り出した。豊山面が日帝時代に面書記の〇文
と言う奴だ。〇文と言うのがいた。権〇文が。そいつが募集して安東まで連れて
来た。権〇文が面書記で担当者だ。

全さんは初め、水力発電所へ行くことを知っていましたか?
知っていた。北海道へ行くことも知っていた。

当時の募集時に、募集で行ったらお金をいくらくれる、お金をたくさん稼げる、
と言っていませんでしたか?
その時は、そのまま行った。日本人が来いというから付いて行った。

その募集に、人々の反応はどうでした?
募集に応じたいと言っていた。その時は凶作だったし、お金をいくらかくれると
言っていた。

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この水力発電所は、荒井組とか逢沢組の二つの組が工事したのですか?
うん、そうだ。他の所は全部私ら韓国人がした。

働くのは全員韓国人で、日本人は働かなかったのですか?
日本人は監督だ。この監督をするヤツら、私らを犬みたいに扱う。そしてこいつ
ら、私らがトンネルから土を掘り出して車(トロッコ)に積込む、トンネルから
10回以上土を車で出す。そうしたら棒を持って、後を付いて来る日本人がいる。
必ず付いて来るから、身動きできない。どこかに行くとかできない。大雪山の麓
にある山中だが、棍棒を持って、必ず後を付けてくる。

後を付けて来て殴ったりしましたか?
殴るとも。私らを殴って、私らが働かないと戦争に負けてしまうと。車に土を
載せて行くと、車がガタンと停まってしまう。車輪がレールから外れてしまっ
て…。その脱輪した車を引っ張り上げようとあたふたして、それができなかった
ら棍棒で叩く。まったく、人間を犬扱いだ。

全さんは水力発電所のトンネルを掘る仕事をしたのですね?
そこで働いて解放される前にそれから、落部(北海道の二海郡八雲町落部)で鉄
道を敷く仕事を1年…、約2年働いた。そこで解放された。

無条件に帰さないのなら、歩いてでも帰ると言った

水力発電所は何年いました?
3年いた。はじめ、行く時は2年のはずだった。2年期限で行ったが、戦争中だ
から船に乗れないからと言って帰してくれなかった。私らが立ち上がって闘っ
て、警察署まで荷物を抱えて行って…。それでも、どうしてもダメだった。船に
乗れないとか言って。おまけに、ヤツら、お金を送ってくれると言っていたの
に、家に行ってみたらお金は一文も受取っていないと言っていた。

る。そこから大体20里入ったら山中の谷間がある。そこに工事場がある。私はそこに
いた。

後を必ずつけて来るから身動きできない

全さんが行った時は、安東から100人が入ったのですか?
たくさん行った。「荒井組」だ。私らは荒井組だった。そこは栄州とか四方から
来た。あちこちから。その日からソウル、京畿道から来て、「逢沢組」には全
て、京畿道から来た人たちがいた。逢沢組は、トンネルだが、約5、60里になるだ
ろう。その中間、中間に入口を設ける。こちらからそこまで掘り出して、またこ
ちらから次の箇所まで掘り出して。そのトンネルは一つだ。中間、中間で掘り出
すが、一か所60メートルになるか。上は堰堤(ダム)になっていて、水を流す所
だ。そこは私らの荒井組がやって、その下の方を半分に分けて、一方を逢沢組が
やった。(水力)発電する場所は、下に発電所がある。私らが働く場所は、一番
上の水を流す所だ。堰堤と言った。

◎旧江卸発電所と撤去後の写真(2009.7.委員会 北海道調査団撮影)

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安東から行った100名と同じ部屋で寝たのですか?
そうだ。

宿舎は何棟かあったのですか?
何棟かじゃない。ここにある村の会館みたいに、村の端に建てられた板小屋だ。
真ん中に通路があって、その両側に寝るようになっている。こちら側が横一列、
そちら側も横一列寝る。軍隊の天幕の様式だ。私らは約80名がいた。

食堂は別にありましたか?
飯を作る所があって、その傍に食べる所があった。台の上に食べ物が並んでい
て、台の両側に向かい合って、立って味噌汁とか掻き込んで食べて仕事に向か
う。幹部とかも一緒に食べる。飯は5分以内に食べろと言われた。そこに立って
「いただきます」、「ごちそうさま」とあいさつして出かける。飯を食べたら全
員トンネルに入る。

食事は十分でしたか?
飯は足りなくて、ある人はゴミ箱をあさって食べていた。飯はヤツらがカボチャ
を出して、味は良いが、それに大豆と小豆を盛り付けた。それを食べても腹がい
っぱいにならない。少し動いただけで腹が空く。私はトンネルでコンクリ作業を
した。コンクリ作業はきつい。だから日本人のオヤジ(監督)が来て、「高田
(本人の創氏名)には飯をもう一杯やれ」と言った。

コンクリはどんな作業ですか?
コンクリ、トンネルに入って両側の端に枠を丸く組む。板を1、2枚くっつけて
置いてコンクリをする。済んだらまた同じように順々に昇って行く。両側に一日
約20メートル、30メートルずつやって行く。頂頭部はまな板みたいなもので、ぐ
っぐっと良く突いて丸くする。

そのオヤジは日本人ですか?

抗議とかしたのですか?
荷物とかカバンを持って警察署へ行って、「無条件に帰さないのなら、歩いてで
も帰る」と言った。だけど、絶対にダメだと言い張る。そして、船に乗れないか
ら帰れないと。そうして2年満期だったのに、5年〔3年〕もかかった。解放に
なっても、船に乗れないで3か月間、さらに待たされた。

抗議した時は、働いていた人たちが一緒だったのですか?
一緒に行った。皆カバンを持って行った。期限になったから私らは帰ると言い、
ヤツらは帰らせないと言って、私らはそこで警察と争った。ある人は頭をぶつけ
て割ってしまい、死にそうだと騒いだ…。

警察と何日間対峙しました?
何日もじゃない。一日、半日くらい…。

韓国の大学生は火炎瓶を投げたりしますが、そこまではしなかった?
そこまではしない。そんなことしたら殴られて死んでしまう。何日かはそうした
が、ヤツらは叩いたり殴りつけたりした。私らの体が傷つけられたんだ。当時、
朝鮮人は人間と思われなかった。犬以下だった。

警察署になぜ行ったのです?会社では話が通じなくて警察署へ行ったのですか?
私らを警察署が帰すようにしなきゃいけない。会社では話が通じない。「会社と
しては分からない」と言うだけだ。分からないと言うから、じゃあ警察署へとな
る。ヤツらもわっと集まって来て、私らと険悪になるから、彼らも恐ろしくな
る。会社が分からないと言い張るから、警察署へ行くことになる。警察署でさん
ざんに揉めたが、それでもダメだった。

彼らは私に相撲が強いからと、必ず相撲に出ろと私に言った

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◎ピウケナイ取水口(2007.7. 委員会 北海道調査団撮影)

直径2mのトンネルが2つある。ここから毎秒5トンの水が流入する。海抜500ⅿに位置する。

トンネル内の水量が溢れる場合、水を流す排水溝があり、その排水溝も朝鮮人が作業したものだ。

安東から行った人たちのほとんどが、このシノブにいたのですか?
いや、分けられた。下の家に行き、上の家に行き。そうして一緒だった人も一緒
になれない。

逢沢組もそんな風に下に家があったのですか?
うん、そうだ。そうだが…。そこへ行ったことがないから、良く分からない。そ
れで逢沢組の人たちを何で知っているかと言えば、荒井組の日本人と私らと相撲
をさせた。日本の相撲。神社前で相撲を取るが、この人たちが私のことを「相撲
が強い」、「彼と取れ」と言った。それで日本人幹部と朝鮮人と私の3人が行っ

日本人だ。オヤジも部屋の主人も日本人だ。それで部屋の主人は「シノブ」だ
と。日本語でシノブだが、韓国に来て募集して行った。そのシノブが私らの所
へ来て、私に腕相撲しようと言った。それで汽車の中で腕相撲をした。私が勝っ
た。それでシノブが私を知るようになった。そうしてそいつの家へ行くようにな
った。そのシノブが「家に来い」と面白がって言った。

全さんがいた荒井組の下にあるシノブという飯場ですか?
そうだ。私らのいる所がシノブだった。コヤマの飯場と2軒あった。この2軒に
200人くらいいた。

◎ ピウケナイ取水口

ピウケナイ渓谷を流れてトンネルへ合流する水

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体育大会は水力発電所の人だけでしたのですか?
荒井組と逢沢組だけで?そうだ。何とか言う学校で、1回だけしかしなかった。

相撲と運動会は、同じような時期にしたのですか?
分からない。そのことは忘れた。秋だったか春だったかも覚えていない。
そこは雪がたくさん降る。秋の8月になればもう雪が降ってくる。そして春3月に
なっても雪が溶けない。6月になっても山には白く雪が残っている。それだけ寒
いと言うことだ。

以前は人がそんなに働いてないから、私らが発電所の仕事を終らせた

寒いのに発電所の仕事は継続したのでしょう?
そうだ。トンネルで仕事するから。

全さんが行かれた時、発電所工事の進捗状況はどの程度でしたか?
だいぶ進んでいたが、私らが終らせた。その以前は人がそんなに働いてないか
ら、私らで終らせた。私らシノブの飯場を終えて、コヤマ飯場へ行って3~4か
月いた。コヤマ飯場で働き、函館から少し上へ行った、落部と言う小さな町で働
いた。鉄道の仕事だ。そこには誰もいなかった。飯場はガラガラに空いていた。
私らだけが入った。幹部は日本人の幹部だけいた。他に誰もいなかった。

シノブ飯場の朝鮮人は何人でした?
80名程度。コヤマはそれより多かった。私らよりも多いようだったが、どこかほ
かの所へ送り出した。私らも初めは80名だったが、後で他へ送って最後には20名
くらいになった。20名がコヤマ飯場へ行った。

コヤマ飯場には100人以上いたのですか?

た。そうして相撲を取ったが、彼らは弱い。逢沢組は何十人も出たが、荒井組は
私一人が相撲を取った。

日本の相撲をいつ取りました?
日本語で「お祭り」と言うのがある。正月でなく、端午の節句で、祝祭日だ。そ
れに行ったら、民家で餅を作ったり、酒を飲んで歌って、家族が集まって踊った
りする(踊りの動作をしながら)。近くの家を見たら、そこで踊っているのを見
た。他の家でもそうしていた。

相撲だけでなく、他の運動はしませんでした?
うん、駆けっこも一度やった。荒井組と逢沢組が選手を選んでやった。行ってみ
たら朝鮮人が多かった。

お祭りのときに日本人が韓国人に相撲を取らせたのですか?
朝鮮人と日本人を取り組ませた。相撲を取って、朝鮮人が負ける訳にいかない
と、頭突きを食らわせた人がいた。そしたら日本人に頭突きをしたと、巡査が刀
を持って追いかけて来た…。相撲は2回した。相撲すると言ってフンドシ姿にな
って…。

日本へ行ってどれくらいしてからです?
1年くらい経った春だ。

さっき言った駆けっこは、相撲と一緒にしたのですか?
いいや違う。相撲とは別に、体育大会があって、駆けっこで3等に入った。

全先生は運動が得意ですね。力も強いし~。
当時は盛りだった。それから朝鮮の歌を流してくれた。マイクをつけてね。その
時(体育大会)は、日本人がいなくて、韓国人だけ集まった。

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◎竹村病院で使った人体図(2009.7.東川住民、廣瀬常夫寄贈)

  東川周辺に動員された朝鮮人、中国人が負傷や疾病で入院した病院は、旭川にある竹村病院だった。これは当時、

竹村病院で使用した人体図。病院へ運ばれてきた朝鮮人、中国人労働者の痛む箇所を知るため、意思疎通用に使わ

れた。

仕事中にケガをしたらどうなります?
ひどければ、旭川へ行って入院させる。ケガした人は仕事ができないから、粗末
に扱う。

そうだ。100人近くいた。私らとコヤマ飯場の人が落部へ行った。同じ場所だった。

全さんが見たところ、荒井組は何人くらいですか?逢沢組とか、荒井組とか…?
逢沢組は良く分からない。私がいた荒井組は200人になるだろう。

飯場(シノブ、コヤマ)から逃亡した人はいませんでしたか?
私らの飯場ではいなかった。日本本土では車から5人ほどパッと飛び降りたが、
そこ(北海道)へ行ってからは、ナニ、身じろぎもできない。山中に放り込まれ
て…。山中でヤツらが連絡を取り合って、逃げても捕まえてくる。それを見て、
震え上がって逃げられない。捕まえて来て、叩いて殴りつけるのを見たら恐ろし
くなる。私らの中でも一人、逃げて捕まった人は、どれほど叩かれ殴られたか、
血が出て…。誰も止めることができない。裵○ジェと言う人が死んだ。

殴られて死んだのですか?
そうではなく、雪で凍傷になって、年取った人だが、雪の中で働いた。屋根の雪
を降ろし、道の雪かきもした。それで手足が凍って、凍傷になった。その人が死
んだから、その息子が来た。息子はお金を集めて遺体を持って行った。その父親
は私と一緒に入って来た。その息子は私らにあいさつもしないで帰ったが、言葉
を失っていたのだろう。

朝鮮人が亡くなったら、家へ連絡して遺体を引き取れと言ったようですね?
そうだ。遺体を火葬した。火葬して葬式をしたが、私らは行けなかった。死んだ
ら骨だけ持って行ってしまう…。苦労しただろうに。

一日に何時間働きました?
一日に12時間。昼食はトンネルの外で食べた。食べ終わったら、車係は車を引い
て入って行く。発破作業の人は準備して、先掘りの人は車で一緒に乗って行く。

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月給はいくらでしたか?
月給は、1日に2円40銭だ。そのうちから預金した。ところが家に戻ってみる
と、預けた金が一つも送金されていない。送ると言っていたのに…。

就寝は何時でした?
夕方8時だったか、忘れてしまった。寝ろと言われたら寝て、起きろと言われた
ら起きる。

仕事が終わったら風呂に入りました?
風呂場を一部屋使っていた。夕方になったら火を入れて、80人くらい入る。最初
に監督とか日本人が早めに上がってくる。次に私らが入る。私らは皮膚病に罹っ
たり、汚いもんだ。

私らが最初に帰って、中国人がその後に帰って、私らは日本人に嫌

がらせをしなかった

解放されたのはどうやって知りました?
解放は落部で知った。飯場にラジオがあった。ラジオに昭和(天皇)がその日
(1945.8.15)の12時に放送するから全員、集まれと言う。その人(天皇)が言う
ことを全員で聞いた。それで解放されたことが分かった。それで私らは、解放さ
れたと言って、旗とかを振った。私らは私らの思い通りに行動し、日本人は私ら
に仕事をさせることはできなかった。京畿道から来た金山はしっかりした人だっ
た。その人徳を何度も見た。私らのため二十数回も警察署へ出向いて行った。大
したものだ。その人が警察へ出向いて何度もやり合う。日本人はその人がしっか
りしているから、どうにもできない。

あなたはどこかケガをしませんでしたか?
私はそれがない。私はそこで健康だった。よほど悪くなかったら、引きずり出さ
れて働かされる。死ぬほどの病気なら病院に入院させる。具合が悪くて横になっ
ていると、「お前、どこが悪いんだ?働きに出ろ」と言われ、死んでも、働かされる。

私らを「タコ」と言った、私らは「タコ部屋」の人間だと

あなたは「タコ部屋」を聞いたことがありますか?
何、私がタコ部屋にいた。タコ部屋は、身じろぎもできないし、出歩くこともで
きないで、殴りつけて半殺しにする所が、タコ部屋だ。ヤツら、そこへ勝手に入
れて、捕まえて置いて、軍隊式に殴りつける。口答えをするだけでも、半殺し
だ。

全さんたちをなんと呼びましたか?
私らを「タコ」と言った。当時は日本人が名前を変えてしまった。私は名字が全
だが、日本人が名前を日本式に変えて、高田と呼んだ。名前を日本人が付けた高
田、金田、金村…。全部、日本名だ。私らを日本名で読んだ。日本では全て、そ
う呼んだ。

飯場は木製でしたか?
そうだ。板で建ててある。家と言っても、出歩けないし、トイレも中にあって、
戸を一つ立てて、後ろにはラッパみたいな物〔大きな物〕をギッシリ詰めてい
て、出ていけない。出るのは、働きに出る時だけだ。夜には火番がいる。ストー
ブ。寒くなったらストーブを廊下に二つ置く。日本人が夜通し寝ないでその番を
する。身じろぎもできない。軍隊よりももっとひどいよ、ヤツら。
日本人の監督や親方はどこで寝ますか?
うん、彼らは私らと一緒に寝る。別途に監督室があるけど。一緒に寝る

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韓国へはどう帰りました?
そこにいた2000人が一緒に集まり、函館に行って半月ほどいた。だが、そこから
は帰れなかった。そこに海軍の家があった。そこで握り飯をもらって半月くらい
いた。帰ってくるのに苦労した。そうして下関沖の機雷とかのために4日間ほど
泊った。だけど下関では船に乗れなくて、下関から100里ほどの海辺の博多へ行っ
た。博多でも1週間以上泊った。10日間くらい泊っただろう。そしてそこで大きな
船を探して帰って来た。その船には一般の人、私らみたいな募集とか、様々だ。
釜山から車に乗って、故郷に帰るのに一晩、朝に車に乗って次の日に安東に帰っ
た。何か石みたいのを車の窓に投げつけられたり、そいつらがドラム缶を壊して
行ってしまったりした。それで「なぜそうするんだ」と問いただしたら、「金を
くれ」と言った。韓国もそうだったのだ。苦労して帰って来たのに、その時は無
知だったからな。金もなかったが、当時、1000円を韓国では500ウォンに交換して
くれた。その1000円は、金山が会社へ行って、しつこく要求して、それで会社が
一人1000円ずつ渡した。それを持って韓国へ戻ったが、500ウォンしか交換して

◎ 新江卸発電所(2009.7.委員会 北海道調査団撮影)
海抜400mに位置している。2005年に新設。

慶尚道の人ですか?
ソウルから来た人だ。金山。その人が私らを引率して来た。私らは全部で2000人
いた。金山は日本人が私らをいじめたら、会社へ抗議する。抗議を憎み、日本人
は警察へ回してしまう。警察へ行っても金山はしっかりしているから、法律に沿
った態度をとる。法律通りにするから、何ともできないで、また帰す。会社は嫌
がる。追い出そうとするが、金山は出て行かない。「連れてきた人間と一緒なら
出て行くが、絶対に一人では出て行かない」と頑張る。金山は本当に良い人だっ
た。解放されたら最初に米軍が入って来た。米軍が入ってくるから、日本人は当
時、何もできない。私らが映画館などにお金も払わないで入って、車に乗っても
お金を払わない。解放されてからは、自由に出歩いた。それから米軍が来て、日
本人の補給倉庫を破って、私らに軍服や毛布などをくれた。その軍服を着て、帰
って来た。それから〔連行された〕中国人、蒋介石の軍人が700メートル下にい
た。その人たちも、私らみたいにオーバーを着て、軍帽を被り、軍靴を履いてい
た。だから、私ら韓国人も中国人に見えただろう。そして私らが中共軍〔ママ〕
よりも先に出た。かれらも死ぬほど苦労した。飯を食べさせないで、パンも中身
を抜いたようなのを一つずつ渡され、随分と苦労した。

「中共軍」と言うのは、中国人捕虜のことですか?
そうだ。中国人捕虜たちは腹が空いて、私らが飯を食べる所へ来て、見つめてい
た。だから飯の残りが出たらあげた。ご飯の焦げとか、ご飯に湯を入れたものを
あげた。落部で、そうした。落部で中国人捕虜も飯場にいた。その捕虜の中にも
しっかりした人がいて、日本語もできて、将校みたいで大したものだった。その
将校は、「食べ物をもらい食いしたら、捕虜たちのメンツが立たない」と言っ
た。解放されて、私らはその捕虜たちと一緒に過ごしたが、私らが最初に(飯場
を)出て、次に中国人捕虜が出た。日本人たちは、「朝鮮人を最初に帰さない
で、支那人を最初に帰すべきなのに」と言った。私らは日本人に嫌がらせをしな
かった。中共軍は、店に入ったら品物を奪ってしまう。それで日本人は、店を閉
じてしまった。

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・面談日時:2007.7.12.
・面談者 : 河承賢
・補助面談: 李宣姈

■ 面談後記

安東市地方実務委員会の協力の下、素山里福祉会館で全在九さんと会
うことになった。今まで水力発電所へ動員されたという方と何人かお
会いしたが、全さんほど具体的に記憶している方はいなかった。当時
のことを包括的に淡々と話され、特に2年契約が終了したと抗議した
時の話や体育行事の話をする時は、声に特に力が入った。全さんが動
員された水力発電所へ面談者が行ったと言うと、とてもうれしそう
に、「もう一度行ってみたいが、もう辛くて行けない」と言った。そ
の姿に60年間の時を感じた。

くれない。当時でも500ウォンは大金じゃない。家に帰って来て一月ほど過ごした
が、コメ1升に2万ウォン、2万5千ウォンと飛んで行く。以前はそんなに高く
なかったが、解放されて帰ったら、その時は、李承晩博士もまだ大統領じゃなか
ったが、無法地帯だった。大統領もいなくて、コメ1升に2万、2万5千ウォン…。

全さんが働いた水力発電所の名前を覚えていますか?
発電所の名前は知らない。当時はもう名前が付いていたかな?私らが働いていた
所から東川へ向かうと大きな山、大雪山だが、煙がムクムクと昇っていて、その
麓へ行ったら温泉が、黄色い湯があった。行けなかったが、解放されて会社が少
し自由にさせたから、温泉へ行ってみた。

現在、そこは江卸水力発電所と言います。私が昨年、行って来ました。それで、
その水力発電所を壊してその横に新しくまた造ったそうです。全さんが一生懸命
に造ったものは、無くなって、その横に跡だけ残っています。
私らがいた所へ行ったんだね。本当にうれしい。私も一度行ってみたいが、もう
一度行ってみたいが、飛行機も車も乗れない…。めまいがして車にも乗れない。
最近は飛行機に乗って行ける。昔は車で行って1週間はかかった。釜山から船に
乗っても4時間かかる。青森から函館まで船で3時間かかった。

今は旭川まで飛行機で一気に行けます。
そうか、遠いな。

全先生、今日はありがとうございました。

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当時のことを考えれば、今は贅沢だ

〈東川遊水地・根室飛行場)

貧しくて弱い人を選んで送った

朴時永さん、日帝期に徴用されたことを伺いに来ました。当時の朴さんの被害事
実について調査しに来ました。お楽に、記憶していることだけお話してくださ
い。
私が徴用で行った期間は2年8か月だ、2年8か月半だ。その時のことを全て話
そうとしたら、今晩一晩明かしても話しきれない。私の苦労は…。
アイゴ…。それからまたひと月、報国隊で行って、根室という所で腰をケガし
て、今は障がい者になった。が、どうやって行ったかも憶えていない。

報国隊へ行った?
徴用だ。

その徴用に行ったのは何歳の時ですか?
24歳の時。

・1920.7.7 慶尚南道金海郡二北面新泉里で出生
・1943.8.  東川遊水地工事に動員
・1944.8-9. 根室飛行場工事へ移動、 滑走路建設に動員
・1945.12. 本籍地へ帰還

朴時永(パク・シヨン)

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まま、捕まった。

新婦を実家に残したまま行ったのですか?
そう、2年8か月ぶりに家に戻って来たが、私がいないのに妻が内に来ていた。
昔の歳寄りは嫁の顔も見せないで、名前だけ教えて結婚させた。部屋へ入ると誰
かいた。誰か分からなかった。私の妹が教えてくれたが、「誰だ?」と聞いた
ら、「まぁ、兄さんったら自分の嫁も分からないの?」と教えてくれた。分から
ないだろう。一晩だけ一緒に居て、日本へ行ってしまったから、顔も分からな
い。ろくに見ていなかった。

嫁の顔も分からないまま徴用に行ったのですね。
うん。日本から帰って来て分かった。

帰って来て妻と心が通じましたか?(笑)
心が通じたから一緒に暮らしたんだろ。(笑)

朴さんの村から何人行ったのですか?
私の村から私一人行った。

村からですか?
村の下の集落から一人行って、村から何人かは分からない。金海と河東、咸安、
この3か所から行った。

それでどこへ向かいました?釜山へ行ったのですか?
釜山から下関へ行く連絡船に乗った。それでヤツら、昼に汽車に放りこんでおい
て出発しない。昼に汽車に閉じ込めて、夜に出発した。夜に出発したら、どこが
どこやら、まったく分からない。だから、釜山から連絡船に乗って日本で降り
て、そして昼から待って、夜に出発して、そして青森からまた連絡船に乗って、
函館に着いた。連絡船に2回乗った。

誰が徴用へ行けと言いましたか?
えっ、誰がって、日本人に捕まって行った。

日本人に捕まった?
そうだ。日本人の手先が村々を回って、「お前の村からも人を出せ」と、割当を
する。だから村の有力者、金のあるヤツ、利口なヤツを除いて、貧しく弱い者を
選んで送り出す。

その時に住んでいたのは金海郡二北面(現在の慶尚南道金海市翰林面)ですか?
うん、そうだ。

二北面にも割当が来て、朴先生が行くことになったのですか?
面から令状が来た。

その令状は誰が届けましたか?
村の里長、区長が持って来た。昔は村の区長と言った。令状を持って来たが、何
とか避けようと、離れた所に隠れた。隠れていたが、結局、どうしようもなくて
行った。28歳で解放されて、その何か月後に韓国へ帰った。

朴さんが24歳で日本へ行って、28歳の時に帰って来た?
27歳〔26歳〕になった年に帰って来た。

当時の仕事は何でした?
畑をやっていた。

結婚はしていましたか?
うん。結婚は23歳の時にして、妻を彼女の実家に置いて行った。最近は結婚して
も頻繁に妻の実家と往来するが、当時はできなかった。結婚式をしたその日は、
新婦の実家で一晩過ごしてから、新郎の家へ行く。だが私は、妻の実家に置いた

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た。そんなに痛くなかったが、時々ぶり返す。春にみなが田んぼに出る時、その
時期は一週間ほど起き上がれない。一週間ほど病院で治療を受けて、少し良くな
ったら仕事をする。春と秋が良くない。紅葉の時期も、一週間寝込んで身動きが
できない。

日本でも病院で腰を見てもらいましたか?
病院へ行かなかった。病院なんかどこにある?病院へ行かせてくれたら行くが。
夜まで働いて、仕事が終わったら8時になる。仕事を終えて戻ったら門を閉めて
しまう。留置所に入るみたいに戻る。戻ったら門をバンと閉めてしまう。

仕事が終わったら留置所みたいな所へ戻る?
飯を食べに…。寝床に入ったら、戸を閉める。

錠前で閉めるのですか?
錠をかける。寝るから。そこで飯も食べるが、一人当り安南米のご飯を一日に1
合くれる。1合だ。これで生きられるか?一日に6合でも足りないのに、1合だ
け食べて働けって、どうするんだ。

6合食べなきゃいけないのに、1合しか出さない?
一人1合だ。それを、腹が空いているから、サッと全部食べてしまう。ヤツら、
それも薄切りのジャガイモを飯に入れる。はじめて行った時、前後二人で担い
で、縄を少しねじって、土を運ぶ。一人は前を、一人は後ろを担ぐと、服もまと
もでないし、肩が擦りむけてしまう。汁が肩から出てくる。薬を付けるから来い
と言われて、行って見たが、薬なんかどこにある?塩をもみ込むんだ、塩を!死
ぬじゃないか。ヒリヒリして・・・。だが、その後は赤くなるが、痛みが取れて
くる。

二人で土を担いでいくから、肩が擦りむけて…。
そうだ。

連絡船2回?
うん、北海道へ行くのに連絡船に2回乗るんだ。そして1年過ぎて、この腰をぶ
つけて、今でも腰が不自由だ。

ちくちくしてたが、後になると苦痛も感じない

あぁ、そうですか。
家に帰って来た時は痛くなかったが、歳を取ってからは、しょっちゅう痛い。

日本人に腰を殴られたのですか?
それは朝鮮人に殴られた。朝鮮の平安道のヤツだが、根室へひと月ほど行って、
林の中に入って滑走路を均していた。その時は丁度、日本人が戦争末期だった。
鉄筋を埋めていたが、その鉄筋を担いで運ぶのに、どうしようもなくて、少し鉄
筋を降ろすこともあるじゃないか。靴もまともにもらえないし、家から持って行
った服がなくなっても替えの服をくれないし、だからヤツらが捨てた物を継合わ
せて着なきゃいけない。鉄筋を入れてセメントをたくさん注ぎ込んだ。そのセメ
ント袋の糸で服を繕おうとした。糸を抜いてそっと摘まんでいたら、後ろから来
て、ひどくこん棒で腰を突くんだ。ひっくり返って転んでしまった。鉄筋は地面
に落とした。私は起き上がって、「こいつ、何をするんだ!」と言ったら、「こ
の、何を取った?」と言い返して来た。「何、まず確かめたら良いじゃないか。
いきなり人を殴るな!」と言ったら、仕事をしないと言って、また殴りつけてき
た。だけど我慢した。日本人が怖くなかったら、お前らに(その朝鮮人監督)な
んかにと言って殴り返したのに。二人だけなら怖くなかった。たぶんそうしたと
思う。私の性格なら…。

殴られて腰の具合が悪いのですか?
うん、今も針を打って、昨日も針を打って来た。若い時はそんなに痛くなかっ

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そうすると水が温まる。温まったら、その水を抜いて、農業に使う。

では遊水池ですね?
遊水池じゃなく、もっととても広い。

遊水池って、聞いたことありますか?
それは知らない。

山から来る水を温めて農業に使うための工事をなさったのですね?
そうだ。

その仕事を朝鮮人がしたのですね?
そうだ。朝鮮人がした。

「組」って、知っていますか?組に所属したのですか?荒井組、逢沢組、地崎組
とか知っていますか?
なに組とか、会社の名前とか、ずいぶん昔のことで忘れてしまった。

会社の名前はあったのですね?
うん。会社の名前は忘れてしまった。

働いていた近くに水力発電所は見ませんでしたか?
水力発電所はあった。飯場からは水力発電所までかなり離れていた。10kmほど離
れた所で水力工事をしていた。水力発電所。そこでたくさんの人が働いていた。
山から水を引いて電気を起こすんだと。その水力工事だ。

朴さんの働いていた所から発電所がある所は見えましたか?
それは見えなかった。

◎ 東川第1遊水池(2009.7.委員会 北海道調査団撮影)

6つの大きさが異なる貯水池で構成されており、それぞれの貯水池は水路で連結される。道路に面した1つの貯水池は

現在、公園になっている。

朴先生が行ったのは、何の仕事をする所です?
土木工事だが・・・。北海道はひどく寒い。だから雪がたくさん降る。東川は、
釜山湾みたいだ。

東川が釜山湾みたい?
うん。全て原っぱだ。日本人は農業をするのに田んぼがあって、その傍に家を建
てる。それで、水が冷たくて、田んぼへ水を入れても穂が育たない。何で水が冷
たいかと言うと、雪が降って、高い山に降った雪の水が流れて来るから、冷た
い。

土木工事は何のためですか?
それは、水を温めるためだ。とてつもなく広い。水路から来る水を溜めておく。

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◎ 中国人慰霊碑(2009.7.委員会 北海道調査団撮影)

東川共同墓地内の中国人墓地。毎年7月7日、ここで日中友好協会主催による追悼式が開催される

か、誰が分かる?受取ったら分かるが。

どう亡くなったのです?
あれだけ働いて、体を壊さない人がいるか?だけど、それなりに動けたら、引っ張
り出して働かせる。嫌でも引っ張り出す。だから死ぬほどでなかったら出て働く。
働かなきゃいけない。それで、死ぬも生きるもできなかったら、病舎がある。

病舎?
うん、病舎。体を壊した人を放りこんで、安南米の粥を炊いて小さな器にくれ
る。粥をくれても、腹が空いて耐えられない。そうして弱って腹を空かせて死
ぬ。

発電所は見えなかったけど、話だけは聞いたのですか?
だから、その発電所まで行くのに橋を渡った。つり橋が、最近みたいにコンクリ
ートでなく、木をとんとんと切って、結んで、そこを歩いたらユラユラする橋を
渡った。

朴さんがいた会社は水力発電所とは関係がなかった?
関係なかった。

別の会社だったのですね?
うん。

中国人と一緒に働きましたか?
中国人はたくさんいた。一緒には働かないで、その人たちは全員、日帝の捕虜と
して捕まって来た人たち、中国人は捕虜でたくさん捕まって来た。解放されて、
すぐに帰りたいのに、韓国へ戻れなくて。戦争ではなくなったのに方法が全くな
くて帰れなかった。

方法がなかった?
うん。車が通れない。米軍によって道がみな壊され、道がない。その道を復旧す
るのに4か月間もかかり、その間ずっといた。復旧して、道がそれなりにできたか
ら、ようやく戻してくれるようになった。その時の苦労を考えると、今は贅沢な
くらいだ。言いたいことはそれに尽きる。死んでも大ごとにならなかった。当時
も、河東の人、咸安の人は2人、全部で3人死んだ。

3人亡くなった?
うん。

朴さんと一緒に行った人ですか?
うん。一緒に行った人たちだ。死んだ人は骨を送ると言うが、本当に送ったの

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釜山まで引率に来た。それで、金海の人は別に引率する人がいる。

金海郡から引率する人がいた?
うん。村事務所に集合した。金海郡から引率して釜山まで連れて行った。そして
日本から釜山まで来て、そいつが来て一緒に船に乗った。

日本人が釜山へ来て引率した?
釜山は日本人でなく、朝鮮人だった。

その会社から来た人が朝鮮人ですか?
うん、うん。その会社から来た人が日本人だと、言葉が通じないじゃないか。だ
から朝鮮人が来て乗せたが、その工場、会社の班長〔親方や監督、募集も担当し
た〕だ。

食事を出す人ですか?いいや、違う。日本人が全てを管理して、その食糧なんか
を受取って来る人だ。それが班長だ。飯炊きじゃない。

朴先生がいた所は工場と言いましたか?
会社だ。工場じゃない。林の中に家を建てるが、スレートじゃなく、ビニール
〔木材〕を敷いて屋根と壁を立て、そこに人を詰める。畳だけ敷いた。一列は頭
をあちらに向けて、もう一列は頭をこちらに向けて(頭を反対側へ向けて、足だ
け向かい合わせて横になるように)、…。それで、シラミが湧いた。本当に、ど
うやって寝たか分からない。寝る時には服を着るが、眠れない。見てみたらシラ
ミがウヨウヨ這い回っている。だから敷布団の上に掛布団を体に巻いて、裸にな
って寝る。服を着て寝たら、服にシラミが一杯だから。

何人一緒に寝ました?
79人寝た。

それで、遺骨を家へ送ると言ったのですか?
送るとは言ったが、何、…。それを見た人はいない。あちこち何か所にも閉じ込
めるから、見れない。働きに出る時だけ出れるが、それ以外は出られないから見
れるものか。

東川へは何人くらい一緒に行きましたか?
何人か、正確には分からない。

その人は「腹が空いて逃げた」と喘ぎながら言った

釜山から出発する時は、船に100人以上いたでしょう?
釜山から日本へ来る時?100人は超えていただろう。だが、何人なのか?自由に歩
き回れたら分かるが、仕事が終わったらピシャッと閉じ込められ、身動きもでき
ないのに何がわかる?自由に見ることもできないんだ。

その人たちは全員、水を溜める仕事をしたのですか?
いいや、違う。他の人たちが来ていた。私らの組は79人だ。

朴先生が日本へ向かう時、79人で行ったのですね?
3か所から行った。河東、咸安、金海、この3カ所だ。

それと、他の地域からも人が来て、100人か200人か分からないけど、北海道へ来
たのですか?
そうだ。北海道だ。北海道で解放されて、連絡船に乗って帰るのに、人がたくさ
んだった。他の地域からたくさん来たからだろう。

では、会社とかの人が来て、日本へ引率して行ったのですか?

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人が見ているのに、そんなに殴ったのですか?
そうだとも。逃げた人は、息もできないくらいぐったりしていた。そして「何で
逃げた?」と言いながら、水をかぶせて問い詰める。そうしたらその逃げた人
は、「腹が空いたから逃げた」と喘ぎながら答えた。それ以上言うことはないだ
ろう。それ以上、殴りもしなかった。

それを見たら、恐ろしくて逃げられないですね?
そうだ、できない。それほど殴られるより、むしろその人は死んだ方がマシだろ
う。何回も殴られていた。自殺したくても首を吊る所がないし、ナイフだってな
い。何もない。盗みで留置所に入れられたようなものだ。それに比べたら、今は
贅沢だ、贅沢。

朴先生の体験に比べたら贅沢ですか?
うん、そうだ。今、留置所へ入っても、飯はちゃんと出す。布団もあるし、服も
くれるし、靴もくれる。何十年放り込まれても、それは贅沢だ。アイゴ~、私ら
は苦労した。

犬も私らの物を取って食べようとしなかった

一緒に行った79人は、同じ部屋だったのですね?
そうだ。

それ以前にいた人とは別に、新しく入った人たちだけで部屋を使ったのですね?
そうだ。私らの後に入って来た人はいなくて、私ら79人の飯場を建てたんだ。日
帝時代に中国人捕虜がたくさん捕まって来た。解放されて4ヶ月だったか、班長
がなぜか私を真面目だとみなした。それで私が4か月間私らの食料と中国人の食
料を馬車で運んだ。

部屋があって、出入口があったら、真ん中に通路がありましたか?
真中に通路があった。便所へ行く時、通路を通らなきゃいけない。

トイレはどこにありました?
便所は部屋の隅にあった。

寝ている間、夜寝番はいましたか?
いたよ。夜通し番をする。見回っていた。部屋の中で夜通し見張っていた。

夜寝番は寝ないのですか?
寝ない。その人は昼に寝る。朝になって人が働きに出たら、その人は寝る。

その夜寝番は朝鮮人ですか?
そうだ。その人は前からいる人で、給料を一日いくらもらっているかは分からな
い。万一、一人でも逃げたら、その人はひどい目にあう。だから夜寝番は夜に逃
亡しないよう、きっちりと見張らなきゃいけない。私の村の人たちと一緒に行っ
た人がいるが、夜に一緒に横になって寝ていたら、私に「逃げよう」と言うんだ。

逃げようと?
うん、逃げようと言うが、どこに逃げるんだ。夜寝番がいるから逃げられないの
に、ある日、寝て起きたら、その逃げようと言っていた人がいないんだ。逃げた
みたいだった。ずっと姿が見えないから、うまく逃げたのかと思った。トイレの
便槽から逃げ出したらしい。どうやったのか、逃げることは逃げたようだった。
逃げたが、4日で捕まって来た。

4日で捕まった?
うん。4日で捕まって来たが、叩き殴られて死ぬほどで、息もできないで死にそ
うな声を出して、スコップで叩き殴られて、滅多打ちで…。だから、逃げられな
い。死ぬかもしれないのに、どうやって逃げる?

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◎ 朝鮮人が作業した水路(2009.7.委員会 北海道調査団撮影)

第2遊水池へ向かう水路。大木長蔵(中国人慰霊碑に関つた 住民)が、朝鮮人が作業した水路と証言した。

その人たちは、結婚して住宅に住んでいたのですか?
そうじゃない。前からいて、幹部みたいなものだ。私ら10人に1人ずつ付いてい
る。くっついていて、そいつが監視するんだ。逃げないかどうか。現場で働いて
いて、便所へ行くのに申告して行って、小便も申告しなきゃいけない。行って戻
ってもまた申告しなきゃいけない。

そこでは朴さんを名前で呼びましたか?番号とかで呼びましたか?
番号はなかった。名前は新井と言った。

その会社の親方の名前は知っていますか?
その班長が親方だ。

朴さんが馬車で食料を運んだのですか?
うん、そうだ。

どこから運んだのです?
村へ行くが、そこに、人が何人いてコメがいくら必要だと伝えてある。それでコ
メをもらって、ジャガイモを積んで来て、その時は中国人が私らよりかなり多か
ったが、その食料も私がたくさん運んだ。彼らの所へ行って、彼らは韓国語がで
きないし、私は中国語ができないし、荷物だけ渡して来た。

食料を事務所で受け取って運んだのですね?
村へ行った。 役所、そこで配給をもらって、食糧を載せて運んだ。

その当時、中国人捕虜以外には何か見ませんでしたか?
うん。解放されて朝鮮へ帰るまで、何も見ていない。

中国人捕虜も働いていましたか?それとも、閉じ込められていただけですか?
働いていたかどうか、分からない。

中国人の食料は何人分もらって来たのです?
その人数は正確には分からない。大体100人?50人?

朝鮮人は何人いました?
私ら朝鮮人は79人いた。他の飯場に朝鮮人はいなかった。

では、79人だけ働いたのですね?
そうだ。他にいなかった。私らの宿舎に79人で、前からいた人が何人かいた。何
人なのか、給料がいくらかとか、それは分からない。前からいた人たちだ。

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立ったまま飯を食べる?
うん、立ったままだ。ストーブの側へ行って、飯も少ないが早く食べて片付けろ
と言う。部屋の真ん中にストーブを焚いた。石炭ストーブを焚いて、早く飯を食
べてストーブの所に座る。そして風呂に入るが、泥だらけで働くから、風呂に入
らなきゃいけないだろ?それで風呂をどうするかと言えば、木の枠に合わせて底
に鉄板をはめて水を入れ、練炭で水を温める。水がぬるいから。その風呂に入っ
てもちゃんと洗えない。15分しか入れない。15分しかくれない

風呂の時間ですか?
そうだ。時間になったら、さっと火を消す。風呂を済ませていると、寝ろと言う
から横になって寝る。横になってから二人で話でもしたら、棍棒を持ってきて殴
る…。

風呂は毎日入りましたか?
うん。風呂と言っても15分しかくれない。幹部たちが風呂を上がってから、親方
たちが終わってから、15分しかないから、土の付いたところを洗って、そうした
らもう上がれと言う。「タコ部屋」と言った、「タコ部屋」、そこに人を放りこ
んで、死んだらそれっきりだ。日本の犬よりもひどい扱いだ。

「タコ部屋」ですか?
うん、「タコ部屋」と言う。

「タコ部屋」の意味は何ですか?
知らない。

そこで服はどうでしたか?
服はくれない。韓国から着て行った服をつなぎ合わせて着ていた。

作業服をもらえなかった?

初めに釜山から引率した人が親方ですか?
うん、その人だ。朝鮮人だ。

その人の名前は知りませんか?
名前は知らない。

その人が食事も出してくれたのですか?
いいや、違う。飯を出すのは飯炊きで、私らと一緒に行った人、その班長は働き
に出ることや戻ること、飯一食にいくらかかるか計算する。それが班長だ。それ
だけやって、他のことはしない。

その人が班長ですか?
うん。そこでは親方と言った。親方は一緒に働きに出て、「お終い」と言った
ら、一緒に戻る。

その親方も現場に出て仕事するのを監視して、一緒に戻ってくるのですね?
うん、そうだ。親方は、寒い日は薪をくべてずっと座って、時計を見ていて時間
になったら、飯時だったら飯を食えという。まるで学校の鐘みたいに、カランと
鳴ったら飯を食べに行って、カランと鳴ったら休む。約10時間働くうち、2時間休
む。朝に30分、午後に30分、夕食時に1時間。10時間働くが、軍隊みたいに2時間
は休む。だから8時間働く。

ご飯はどこで食べます?
飯は、現場で飯炊きが木の弁当を持って来る。その弁当はちゃんと洗ってもいな
いし、飯もどうしたのか臭い。だけど腹が空いているから、食べない訳に行かな
い。馬車に載せて運んでくるが、おかずは決まったように一つだけだ。犬も私ら
の物を取って食べようとしない。仕事に入ったら、門の所で番号を呼んで、入っ
たら立ったまま飯を食べる。

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月給も出さないで、服もくれないで、ご飯だけ出す?
そう、当時は履物もワラを編んだものを履いて、車に土を載せて押して、土を集
める所に降ろして、空の車で戻る時は、走って行かなきゃいけない。

走らなかったら殴られるのですか?
うん。それで動き回って、足の爪が割れて、血がドクドク出ても分からない。ど
こが傷ついたかも分からない。後で会社へ行って、傷をつついて薬を付けてもら
う。便所へ行くにも申告して、小便するにも申告だ。行って戻って来たら、また申告
だ。

そこで働いて、警察や軍人を見かけたことはありますか?
ない。

朴さんの会社ではなく、水力発電所にも朝鮮人が来たと言うようなウワサを聞い
たことがあります?
ない。来ない。誰も来ないし、誰も抜け出せない。仕事だけさせる。夜が明けた
ら仕事に出る。そうじゃなかったら、外へは出れない。

朴さんのいた所は、その79人だけですね?
うん、そうだ。一緒に働いた。

79人もいるから、一人ずつ殴ったら死ぬでしょう。

解放されるまでそうだったのですか?
うん、解放されるまで。解放されても10日間ほど働いた。知らなかった。解放を
知らなかった。だから10日間ほど働いて、解放を知った。他の会社は全部休んで
いると言う。解放されて仕事をしないと言う。それを聞いて私らも仕事をしなかった。

くれないとも。

だから服にシラミがたくさん湧いて、服のままで寝れないんですね。服もくれな
いで~、洗濯は自分でやったのですか?
洗濯もできない。適当に着るだけだ。

朝鮮から着て行った服を、日本にいる間一度も洗わないで着たのですか?
うん、洗濯はできない。洗濯する時間があれば洗濯できた。遊びの日は月に1日
はあったが、その日だって門の外には出られない。部屋の中で歳月を過ごした。
韓国へ手紙を書くのに、封筒と便せんはくれることはくれる。だけどそれ全てに
金を取られる。だから韓国へ手紙を書くにも郵便費が高くて、10万円〔ママ、10
円?〕とか言っていた。親方の息子が手紙を送って、韓国で金のある人がいたら
服を送ってもらって着ると言っていた。だが私は、そんな状況じゃない。着てい
る服が擦り切れても、どうしようもない。手紙を書こうにも書く物がなきゃでき
ない。自由勝手に手紙を送ることもできない。親方は封筒の中を点検してから送
る。ヤツら、何か悪い内容が書かれてないか、封筒の中を抜いて点検してから送る。

あ、中身を読むのですか?
手紙を書いて封筒に入れて封をするが、それを渡したら中身をサッと出してしま
う。無条件に抜く。それに比べたら、今の生活は贅沢だ。

月給はどのようにくれました?
何の月給だ?くれたのか、くれないのか、分からない。

月給はないのですか?
ない。

月給も出さないで働かせるのですか?
そうだ。

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うん。食料を届けた時に見た。解放されてから。あの人たちも同じだったんだろう。

食糧運びは、解放後にしたのですね?
解放後も少し留まった。それで、親方が私を信頼したようだった。私を「一番真
面目で信用できる。」と言うんだ。それでその夏、ずっと仕事をした。だがその
時、石につまずいた。4日間、足をようやく引きずって歩いたが、4日過ぎて
も、死にそうな痛みだ。とてもじゃないが、歩けない。それでも一日働きに出
た。どうにかして一日働いて、仕事が終わる頃には、〔痛くて〕死にそうだっ
た。まったく歩けないんだ。「私を殺すなら殺せ」と言ったところ、皆が私を座
らせて、宿舎まで運んだ。次の日、私に病舎へ行けと言った。病舎へ行くと、薬
と白い粥が出て、それを食べて助かった。そこにも下働きする看護人がいた。あ
る日、その人が足の裏の腫れた所を揉んだら、穴ができた。その人に処置してく
れと頼んだんだ。その足の穴からウミが一椀ほども出て来た。そうしてウミを出
し切って、薬を付けようにも薬がない。だからその人に味噌を少し持って来てく
れと言った。その味噌を足の穴に詰めた。そうしてひと月ほどしたら、足に新し
い皮膚ができた。その間、粥を食べていたから、腹が空いて、死ぬ思いだった。
そうやって働けるようになった。

病舎へ行って来たのですね?
うん。

足に石が刺さったのですね?
うん。裸足で歩くと、石がたくさん刺さるんだ。足の裏に石が刺さり込む。

今は大丈夫ですか?
大丈夫だ。皮が全部むけて、新しい皮ができて、大丈夫だ。

その病舎には病人ばかりいたのですね?
うん。その病舎は、体の悪い人を入れる。そこに看護人が一人いて、何か取って

解放されて家に戻る時、お金を少しもらえましたか?他にもらえなかった月給と
か…。
解放されて、食糧運びをしたが…。私が朝鮮に帰る時、100円くれたか。多分そう
だった。

お金を100円と、他に何かありませんでした?
他には服と毛布1枚、内側が毛のコートみたいな軍服。

はじめてくれた服ですね、それ?
はじめてだ。朝鮮に帰る時、くれた。

解放はどう知りました?
解放は知らないで10日ほど働いたが、別の会社が休んでいると…。

休んでいるとウワサがあった?
うん、ウワサが聞こえて来た。そのウワサを聞いて私らも働かないで、仕事に出
ないと言った。親方は先に解放を知っていたみたいだ。私らの一人が殴り殺そう
としたが…。その忠清道のヤツは、惨く毒づいて騒ぎ立てたから。

誰が?忠清道の人?
うん。その幹部だが、主導者がいたら殴り殺してやると思ったが、79人もいるか
ら一人ずつ殴ったら死ぬでしょう。殴るにも酷い苦労だし、本当に人を殺すなん
てできない。それでその幹部は、夜に逃げてしまった。

逃げた?
そう、逃げた。中国人も解放されて私らと同じだ。食料を積んで持って行った
が、日本人のヤツらを殴って蹴っていた。

朴さんはそれを見ましたか?その殴ったり、蹴ったりを。

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突然、なぜ根室へ行ったのです?
会社が行けと言うから行った。私らは言われたことをするだけだ。

朴さんが初めて日本へ行ったのは何月です?
陰暦7月だった。

根室へ行ったのも7月になりますか?
根室は良く分からない。春の終りだった。

その根室には他の人もいましたか?
いた。たくさんいた。

その人たちはどの会社でした?
それは分からない。そんなこと尋ねもできないし、知ることもできない。その人
たちと話でもしたら、棍棒で殴られるから…。

その別の人たちも朝鮮人ですか?
朝鮮人だが、どこの地方かは分からない。

解放されて、北海道から韓国へ帰る過程を話してください。
うん。解放されても、解放を知らないから、10日間ほど働いた。解放を知ってか
らは仕事をしなかった。食糧運びを2か月ほどした。その仕事の他は一切働かな
かった。4か月ほどは、全員働かなかった。働かないでブラブラしていた。

韓国へは冬に帰ったのですか?
うん、11月に帰った。

79人が全員一緒に帰って来たのですか?
その亡くなった3人以外は?そう、みんな一緒に帰って来た。

きてくれと頼むと、持って来てくれる。

朴さんが腰を殴られた時は、病舎へ行かなかったのですか?
その時は病舎へ行かなかった。その時は私がまだ若くて、それほど痛くなかっ
た。朝鮮に帰っても、ひどく痛まなかったが、時々痛くて、4、5日身動きもで
きなくて横になることがあった。

ひと月ほど根室に行っていた

朴さんが腰を殴られたのは、日本へ行ってどれくらいでした?
日本へ行って1年ほどしてからだ。それから根室にまたひと月行った。ひと月、そ
こへも徴用で行った。それからまたひと月、他の所へ行った。

東川にいたけど根室へ働きに行った?
うん。ひと月行って、そこで腰を殴られた。

東川で1年いて、根室へ行って、ひと月いて、根室で腰を殴られた?
そう。

根室では何をしましたか?
飛行場の整地だ。高い所は均して、低い所へ土入れする仕事だ。

地面を平らに均す仕事ですね?
うん。

その根室へは、朴さんと一緒に行った79人で行ったのですか?それとも何人か
で…。
全員、一緒に行った。

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朴さんは2年契約で行ったのでしょう?
そうだ。2年だから24ヶ月だ。
一緒に行って、覚えている人はいますか?
それは、隣村の金〇ス、その人とは一つの布団で寝た仲だ。

寝る時、二人一組になったら、ずっと二人一緒に寝るのですね?
そうだ。

だから金〇スの名前を憶えているのですね?
うん、そうだ。

本当に沢山の話を伺いました。今日はどうも有難うございます。

・面談日:2006.11.15.

・担当者:河承賢

・補助者:李宣姈

■ 面談後記

朴時永さんは、当時のことを語るなら、夜通し話しても足りないと言
い、日本での辛い記憶を生々しく私たちに伝えてくれた。話で聞いて
いた「タコ部屋」での生活をした人である。ところどころ、私が理解
できない部分は、傍で娘さんがその意味を説明してくれることもあっ
た。「いまの監獄生活は当時の生活に比べたら、贅沢だ」という朴さ
んの言葉から、その苦痛がどれほどだったのかを、わずかではあるが
想像できた。

その朝鮮に帰ることも、その親方が全て準備したのですか?
そうだ。その人が全部やってくれた。

その親方は韓国へ来なかったのですか?
韓国へ来なかった。親方は全羅道の人だった。

韓国へ帰る時、また函館から青森へ渡って、汽車に乗って、連絡船に乗って来た
のですね?
函館で船に乗って青森に渡って、青森からまた汽車に乗って大阪へ行って、連絡
船に乗って帰って来た。その連絡船には朝鮮人が本当にたくさん乗った。解放さ
れても、既に根を下ろしている韓国人がたくさんいた。町々で暮らしていた。も
う根を下ろしている人はそのまま暮らして、私らみたいに裸で捕まって行った人
は、皆さっと帰って来た。

連絡船はどこに着きましたか?
釜山。

何日かかりました?
一週間ほどかかったか。函館・青森間は、海が静かだと4時間とか3時間半だ。
風が吹いて波が高かったら、10時間もかかる。青森で汽車に乗って、夜間に来た
から何日かかったか分からない。

夜間ばかりで来たのですか?
うん。昼はそれなりだったが、主に夜間に走った。だから主に夜に利用した。大
阪へ来て、連絡船に乗って、釜山に到着した。釜山に着いても当時、バスもなか
った。バスはなく、小さな機関車があったが、それで皆、小さな機関車の貨物車
を捕まえて、家まで帰って来た。

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◎ 東川 第1遊水池                                                 ◎ 東川 第2遊水池

◎ 東川 上流遊水池                                                ◎ 東神楽 遊水池

◎ 東旭川 上流遊水池                                           ◎ 東旭川 下流遊水池
 (写真は、2009.7.委員会北海道調査団の撮影と江卸発電所・忠別遊水池 朝鮮人強制連行・動員の歴史を明らかに 

する会の提供による) 

[ 忠別川(ちゅうべつがわ) 遊水池 ]

 1943年頃、北海道上川地方を流れる忠別川上流では、3カ所の水力発電所が稼働、もし
くは建設中だった。水力発電のための河川水は、延長20kmにおよぶトンネルや地下水路を
通じて流れ下った。下流に流れる水の温度が低くなると、忠別川を潅水源としていた近隣
の東川町・東神楽町・東旭川町(現・旭川市)の農家は、低水温の被害を受けた。農家の
被害を防ぎ、流水の水温を上げるため、全部で6カ所の遊水池を設置することになった。水
を貯水池に留めて、一定期間、太陽熱で水温を上げた後、農作業に適した温度として放流
し、農業用水として利用する計画だった。1943年4月から、東川町3カ所、東神楽町1カ所、
東旭川町に2カ所の遊水池が建設され、工事は地崎組が担当した。
 『東神楽町史』には、遊水池建設当時、東神楽遊水池工事に約150人、東川遊水池工事に
約1,000人の労働者が動員され、この大部分が朝鮮人だったと記録している。現在まで当委
員会へ出された被害申告のうち、忠別川遊水池工事の動員を確認した申告は全部で19件、
この中で12名の生存者が本人の体験を直接、口述した。
 この地域には、「江卸発電所・忠別遊水池朝鮮人強制連行・動員の歴史を明らかにする
会」(以下、江卸会)と言う市民団体が結成され、関連現場を踏査し、朝鮮人に関連した
現地住民の口述と資料を収集するなど、調査活動を進めている。特に3カ所の遊水池が所
在する東川町は「遊水池は町の発展に寄与、この農業施設建設に感謝の礼を表したい」と
し、韓国で生存者調査を実施した。2009年10月、東川町職員と江卸会の会員で構成された
調査団が訪韓し、1泊2日で慶尚南道河東(ハドン)と釜山広域市に居住する4名の生存者に対す
る聴取調査を行なった。
 遊水池は現在も水温上昇施設の役割を続けている。

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この耳が遠いのが北海道へ行った証だ

(雨竜ダム工事33))

田植えしていたら警察が私らを捕まえた

行った人間のうち私が一番若かった。それで、私が知る限り、みんな死んでしま
った。家に帰って来て、死んで20年の人も、30年の人もいる。

李詳石さん、日本へはどうして行きましたか?
徴用で行った。

徴用ですか?
徴用。行きたくて行ったのでなく、田植えをしていて、稲を植えていたら警察が
私らを捕まえた。日本の北海道から3人が(来て)、朝鮮人をたくさん捕まえて
置いたら連れて行くからと言ったようだ。それで警察署でたくさん捕まえた。日
本人が韓国の警察署に連絡したようだった。

33)  雨竜発電工事に伴うダムであり、朱鞠内ダムともいう。

・1921.3.3  慶尚南道昌寧郡丈麻面山旨里で出生
・1940.頃.  朱鞠内の雨竜ダム工事場に動員
・1942.頃   滑走路工事、炭鉱など諸地域へ動員
・1944.頃   本籍地へ帰還
〔1945.頃      再度、徴用されそうになり、逃走〕

李詳石(イ・サンソク)

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でいるか分からないが、釜山の新広場に来て、汽車を降りろと言って、旅館を取
っていて、一晩寝ろと言う。言われるままに、私らは一晩泊った。

途中で逃げた人はいましたか?
うん、寝てる間、気が利く人は捕まって行ったら死ぬ、生きていけないと考え
た。私は18歳だったが、20歳、25歳、私より年上の人がたくさん乗っていたが、
感がいい人は、私らが北海道へ行けば、ヤツらは働かせて殺すんじゃないか、こ
う考えた。釜山の旅館で一泊したが、そこで夜にどうやったものか、たくさん逃
亡した。夜が明けて東側に陽がゆっくり昇って、関釜連絡船に乗れと言われた。
それで、ヤツらが言うとおりに連絡船に乗った。

その連絡船でどれくらい行きました?
乗ったら、はじめは風がそれほど酷くなくて静かだったが、夜に…、海の真ん中
に来たら連絡船がどうなったのか、ググ~っと上がってドッ~と下がったりす
る。

〔婿〕船がぐらぐらしたんでしょう、波が荒くて。

あぁ、我慢できない。耐えられない。乗る時は良かれと思って一番上に乗った
が、耐えられない、もう駄目だから、人がたくさんいる廊下へ降りて行ったが、
行って見るとみんな倒れて横になって、吐いてグッタリしている。私も一緒にな
って横になったが、生きた心地がしなくて、全部吐いた。そうして、午後3時頃
になると下関に到着したと言う人がいて、その日の夜が明けて下関に降りた。降
りたら船に乗って苦労したと言って、また旅館に一晩泊れと言う。泊って、また
気が利く人は寝ている間に逃げるが、私らは身動きもできないで、馬鹿のようで
日本語も分からない。青い服を着させるから「募集」なのが目立つし、外に出た
としても、日本の警察に捕まって北海道へ送られてしまう。

日本人3人?その3人を見ましたか?
うん、真っ黒なひげの日本人で、私らを連れに来た人たち。ひげが真っ黒で、当
時で歳が64、5歳に見えた。年寄りだ。3人が来た。田植えをしていて、警察が田
の周りを歩き回って、田植えをしている人たちを呼んで、来いと言うんだ。私ら
ははじめ、訳も分からずに「何で呼ぶんだ」と、行って見ると手錠をかけるじゃ
ないか!「何で手錠をかけるんだ!」と言うと、日本の北海道で徴用、人をたく
さん集めて連れて行くから、私ら若い者を無条件で警察署の庭に集めろと言われ
たって。私が捕まえられ、行って見たら警察署の庭にいっぱいだ。

何人くらいいました?
うん、行って見たら100人を超えていたと思う。3、4日捕まえて集めた人が何人
になるか、私は分からないが、私らを集めて乗せて行った。その最終日に私が捕
まった。昼の2時間前だったが、バス3台に乗せて行くが、どこへ向かって行くの
か、私らには分からない。で、私らに着せようと青い服を一着ずつ持って来た。
これを着ろと勝手に言うんだ。それで私らが田植えに着ていた服を脱いで、その
青い服を着た。着たら、バス3台に乗れと言う。嫌だと言ったが、その時は、昌
寧警察が、私らが逃げないように、ぐるりと取り巻き、逃げるなんてできない。
身動きもできないまま、全員をバスへ乗せてしまった。

乗せてどこへ行きました?
乗せてどこへ行くのか、私らは分からないが、バスが出発してみると大邱の方
へ、私は昌寧郡丈麻面(慶尚南道)入口に住んでいて、警察署が北側20里(5
km)ほどにあるが、私らを乗せたバスが上に行くんだ。よく見ると、あ、これは
大邱へ行くんだと思った。それで、大邱の列車駅へ行った。大邱の列車駅に着い
て降りたら、列車がソウルから来ていて、乗れと言うから言われるままに乗った。

大邱へ行ったのですね?
そう、私らを捕まえに来た北海道のヤツ、年寄り3人、ひげの真っ黒な奴が中間
に座って私らを連れて行くが、当時の釜山の新広場、いまは新広場をなんと呼ん

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◎ 雨竜第1ダム(2009.7.委員会 北海道調査団撮影)
 当時、木枠を組んでコンクリート工事をし、事故が多く起きたと言う。

北海道へ送る?
うん。手紙みたいに送るが、人を送るのは、北海道の作業場へ電話して、北海道
へ行く汽車時刻をヤツらははっきり知っている。私らは知らなくても。それで行
くのに、夜通しで大阪へ行くが、窓を開けると夜なかで、見張りが3人ポツンポ
ツン座っていて、そいつらも眠っている。だから、窓を開けて飛び降りても、汽
車から落ちて死んでも分からない。

日本へ行っても逃げたのですね?
そう、大阪から東京へ行くのに乗り換えするが、そこで一番たくさん飛び降りた。

そこで一番多く逃げた?
うん、大阪から東京へ向かうのに坂が、線路の土手が坂になっている。汽車が早
くないから窓を開いて飛び降りるが、逃げる人も窓を開いて飛び降りて行った。
あ、日本語を話せないし、歳も若いから、イチかバチか付いて行こうとは思えな
くて。大阪から東京へ向かう坂は、汽車も減速する。

汽車から飛び降りたら危ないでしょう?
だが、飛び降りた〔人もいる〕。日本の引率者は二晩も寝ていないからこっくり
こっくり居眠りしていて、窓を開けて、飛び降りるのさえ分からない。私らは分
かっていた。で、青森へ着いた。青森から連絡船に乗って、函館、北海道に入った。

はい。
はっきりと憶えている。函館へ行くのに連絡船に乗れと言うから、また乗った。
4時間乗っていた。時刻までは忘れた。釜山から下関へ渡るのに8時間、青森か
ら函館まで渡るのに4時間かかった。

タコ部屋の中に入ったら、戸のカギをカチャッと掛けてしまった

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どこへ行くのです?
それは、私が1列目に並んだから、1工区へ行った。

李さんは1工区?
うん、アイゴ~、私の村の人間は4、5人しかいない。他は別の列に並んでバラ
バラになってしまった。

故郷から出発して北海道へ行くのに、あなたの村の人だけで行きましたか?他の
村の人もいましたか?
たくさんいた。

たくさんですか?釜山で他の村の人も合流したのですか?
うん、合流して行った。昌寧郡には12の面がある。12面の人が全てそこにいた
が、私の面が何人なのか、それすら汽車の中で確認できない、分からない。着い
てから見てみると、私の面で一緒に田植えをしていた人は5人だった。これは丈
麻面の人だ。この中で私が一番若かった。

李さんが知っている5人と一緒に働いたのですか?
うん、私ら丈麻面の5人は、1工区で働いた。

北海道へ行くことはいつ知りましたか?
それは、私らが田植えをしながら、北海道募集に来たと言うウワサを聞いた。そ
れは聞いていたが、募集で行ったら死ぬことは分かっていたから、強制されて行
った。行きたくて行ったのじゃない。

どこへ行って、どんな仕事をするか、説明がありましたか?
警察署にあった広告には、水力発電所へ行きたい人は行けるという、そんな広告
が貼ってあったようだ。私は捕まって行ったから、広告は見ていない。北海道へ
進んで行きたい人なんて、誰もいないから、集まった人は全て捕まった人たち

タコ部屋の中に入ったら、戸のカギをカチャッと掛けてしまった

函館からはどこへ向かいましたか?
それは、函館で降りて、そこから深川。

深川ですか?
北海道にある。私らが着くと、警察ががっちりと立っていた。警察が刀をビシッ
と付けて立っていて、私らと一緒に乗るんだ。その朱鞠内の警察だ。

警察が一緒に乗る?
うん、警察が。そうして、朱鞠内がどこかは、私らには分からない。行って降り
たが、そこで二日間休んだ。警察が、そこが朱鞠内だと私らに教えてくれた。

朱鞠内だと教えてくれた?
うん。ここが朱鞠内で、ここに1工区から5工区まで5カ所で働いているから、
2日間休めと。船に乗って何日も来たから憔悴して倒れる寸前だった。だからそ
こで飯を2日間もらって休んだら、そうしたらサッと並べと言う。5列に並べと
言う。5列に並んだが、私らには訳が分からなかった。分かっていれば丈麻面の
者は丈麻面だけで並んだが、どこへ行くのかも分からないで5列に並んでいた
ら、私らの村と他の村の人が混ざって並んでしまった。

皆混ざった?
混ざってしまった。5列に並んだが、1工区、2工区、3工区、4工区、5工区と
5カ所に工事が分かれている。水力発電所の工事が・・・。

李さんは何列目に並びましたか?
そう、1工区。1列目に並んだ人は1工区へ行って、2列目は2工区へ行く。親
方、仕事させるヤツが5人来て、一列ずつ連れて行く。

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完全に造った・・・。だけどヤツら、帰してくれないで、また別の忙しい所へ送
ってしまう。

汽車が雨具を引っ掛けて来た、飯炊きが轢かれた!

どこへですか?
大雪が降って、朱鞠内は列車の駅だが、その駅の雪かきをして、炭鉱、道路、飛
行場、ヤツらが忙しい所へと、私らをあちこちひっきりなしに送る。34)  こっち
ならこっち、あっちならあっちへと行く。しょっちゅう。そうやって回されて、
5年間働いた。

◎ 雨竜ダム工事の殉職者慰霊碑(2009.7.委員会 北海道調査団撮影)

  雨竜第1ダムの展望台から見た雨竜ダム工事の殉職者慰霊碑(北海道電力(株)建立)と朱鞠内湖。現在ここは、道

立自然公園に指定されている。

34)   組に所属する土木労働者は、凍結期には野外作業ができないので、近隣の炭鉱などの各種作

業場へ送られることがあった。口述者は、毎年の冬に種々の作業場へ送られ、朱鞠内地域に

大雪が降ったときには除雪の作業をしたこともあったと言う。

だ。そうして昌寧警察署にバス3台をそろえて、私らを並ばせ、番号を言わせ
た。一番からずっと、120番まであった。

120人ですか?
番号がそうだった。120番まであったが、北海道へ到着した時は何人なのかは分か
らない。途中で逃げた人がいるから。

出発が120人で、到着した時の人数は分からない?
昌寧警察署から出発する時は120人でも、釜山で夜に逃げて、北海道へ向かう時も
窓から逃げて、北海道へ着いた時は100人?80人?それは分からない。

途中でたくさん逃げたのですね?
うん、5列に並ばせて、1工区へ1列目を連れて行って、2工区も親方が連れて
行って、工事へ何人行ったのか訳が分からないが、アッ、ここは「タコ部屋」だ
と分かったんだ。

タコ部屋だと言ってくれましたか?
タコ部屋に入ったら、戸をバタンと閉めてしまう。戸をガッチリと閉めて身じろ
ぎもできないようにして、便所も建物の中にあって、建物と言っても合板みたい
なものを釘で打ちつけて家のように建てて、外はと言えば、冬には雪が積もって
家がどこなのか見えない状態だ。

1工区ではどれくらい働きましたか?
1工区で1年間働いたら、1工区は大体終りが見えたが、私らを2工区へ移し
た。私らは1工区を終えたが、2工区は仕事がとてもたくさんある。2工区は堰
堤をつくる、コンクリートを混ぜて、ワイヤーを編み、鉄路を敷いて、コンクリ
ートを混ぜ、車に積んで山の上から注ぎ込む、コンクリートを打ち込んで堰堤を
つくって山の中腹までを塞いだ。それで、山の谷間から春夏秋冬と水が流れる。
私らが最初に入って、基礎工事の掘方をやって、コンクリートを入れて、堰堤を

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そう、そうだ。いつでも幹部、働かせるヤツが、棍棒を持ち歩いて私らの後ろに
付いて来る。

棍棒を持って付きまとう?
少しでも間違ったら、棍棒で・・・。殴られて死んだ人がたくさんいる。仕事中
に死んだ人が一杯で…。

(婿)どれだけ酷く殴られたとか、「人はなかなか死なない、ムチャムチャに殴
りつけてもなかなか死なない」と…。

うん、本当に、人の命はすごいものだ。大したものだ。50歳くらいの人だった
が、日本語が少しできるので、山の道も知らなかったが、逃げて列車に乗ろうと
して二日目に捕まった。着ていた作業服が、徴用で来た人間だと目立ったんだ。

その袋みたいな服ですか?
うん、どこへ行っても、逃げた人を捕まえようと警察がびっしりいた。それで捕
まって来たが、私らが仕事から戻って来たら、「逃げて捕まった人間がどういう
目にあうか見ていろ」と言って、私らをぐるりと座らせて、尻を棍棒で殴る。他
の所は殴らない。散々に殴って、寒いとか痛いとかの声もできない様子で、まだ
生きているようだと、真冬に裸にして水をかけるんだ。

それを見せて、逃げないようにさせるのですか?
うん、死なない程度にしておく。こうやって二日だったか…。殴る蹴るで体が痛
くて働けない。飯場の隅に横になって、何も食べれない。具合が悪い。食べ物を
食べれないで半月くらいだった。半月過ぎて、この人がまた逃げてしまった。

それは、…。
本当に、それは金海、固城の人だが、また二度も捕まって来た。そしてまた叩き
殴られて、どこかへ連れて行かれて、私らはそれ以上分からない。

5年間ですか?
そうだ、5年。年度で言って5年、日数は足りなくても、年度では5年間だ。

その水力発電所工事は5年内に終わったのですよね?
そうだ、終わった。堰堤と言うのがあるが、その山の中腹までコンクリートで塞
いだ。私らはそこを塞いだが、技術者が機械で、落水で電気を起こすが、私らは
そこまでできないから、必要ないと言うことだ。私らは堰堤にコンクリートを入
れて、山の中腹まで塞いだ。

そこが日本でも一番寒い所だそうです。
うん、一番寒い所だ。山中を汽車が来たら、煙がモクモクと見えるが、汽車は見
えなかった。

山しか見えない?
うん、山しか見えない。そして、堰堤に水を集め、2カ所の穴から春夏秋冬、水
が流れるようにしている。その2カ所を塞いだら、堰堤の下は全て海〔湖〕にな
ってしまう。だから私らは船に乗って作業した。

そこに大きな湖ができたのですね?
うん、そうだ、そうだ。

(婿)昨日の話を話してあげなさい。辛くてそこでもたくさん逃げたでしょう。

うん、うん。

(婿)逃げて捕まった人はどこへ行ったのか?殴り殺されたのか?どこへ行った
のか?二度と姿が見えない。それから、体の具合が悪くて働きに出なかったら、
「飯の分量を減らして、腹がそんなに空くなら働け」と言って働かせる人とか、
そんなこと…。

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「アレッ、私らの飯を持って来る飯炊きの雨具だ。一体どうしたんだ」。持って
くる途中に橋がある。年中水が流れる橋を、汽車が来るのも気付かないで、二人
で飯を担いで、橋をトボトボ歩いていて、汽車にぶつかって雨具が引っ掛かった
んだ。遺体は見当たらない。私らは仕事していたが、「アイゴ、飯を持ってきた
二人の雨具が引っ掛かっている。線路を歩いていて汽車に轢かれた」と言いなが
ら線路へ行った。行って見たら、汽車に轢かれた遺体が、塊になってバラバラに
散らばっていた。それを私らが拾って集めたんだ。片付けなきゃいけないだろ。
工事している時も雪が静かに降って来るが、私らが持っていたサップ〔スコッ
プ〕で・・・。そしてマキを・・・。

(婿)スコップは韓国語でサップですよ。

そうして、「薪を集めて、油も持っ
て来よう」と話し合った。山の上の
笹薮で、「雪を掘れ」と言う。雪を
何mも掘って、ようやく地面が見え
るのに、地面の下まで掘れと言う。
地面まで掘って、私らが集めた遺体
をそこへ入れて、薪に火をつけて油
を注いで、火葬した。

あ、李さんが直接、火葬したのです
ね?
私が火葬した。

では火葬した後、遺族に送ったりし
ませんでしたか?
いや、私は分からないが、その遺灰
をどうするかと言えば、どこかの寺

◎  朱鞠内共同墓地にある韓国式墳墓
(2009.7.委員会 北海道調査団撮影) 1980年から「空知

民衆史講座」がこの地の発掘を始め、ダム工事関連犠牲者の

遺骨20余体を発掘した。写真は、2001年に造られた封墳と標

識である。

それから姿は見えなかったのですか?
うん、見えなかった。死んでしまったらそれっきりだ。どこかで、何かする場所
なんかない。何、死んだらヤツらだけ知って、監督が引きずって行って、何かで
覆って、どこかの雪穴にでも放り込んだのか、私らには分からない。

事故とかで死んだら、火葬とかしませんか?
ああ、その話をする。ある年、汽車の駅に雪が来て、雪かきをして、遠くまでは
雪を運べないが、線路が雪で汽車が走れないから、私ら人夫にモッコ取りと言っ

て、粗末なムシロで雪を積んで捨
てろと言った。

雪かきをしろと?
うん、駅の雪かきだ。それで、そ
こは年中雪が来るから雨具、ワ
ラで編んだ雨具があるが、汽車の
頭に雨具が二つ張り付いて来た。
私らは雪かきしていて、それを見
て、「アレッ、飯炊きの雨具だ」
と分かった。飯炊き二人が私らの
飯を持って来ていた。一人は、以
北の人、平壌の人だ。

その人の年齢はどれくらいです?
平壌の人と固城だが。固城の人は
私と同じ歳だ。まだ幼い。この二
人がいつも、飯を作って、包みを

背負って、昼飯時に持って来る。
ところが雨具が汽車の頭に張り付
い て 来 る 。 そ れ を 見 て 私 ら は 、

◎ 慰霊碑(2009.7.委員会 北海道調査団撮影)

  名雨線と雨竜ダムの工事に関連して命を失った人びと祀って

建てられた慰霊碑。工事には数千人の日本人と約3,000人の朝

鮮人が動員された。

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「ご飯が少ない」と言ったのが、「一番生意気」ですか?
まったく、私が帳場のヤツに「こんな飯で、どうやって働けと言えるんだ、飯を
もっとよこせ」と、当時は配給式だが、配給品が来たら全部「ヤミ」で、こそっ
と金をもらって売ってしまう。私らにはジャガイモ飯、安南米、こんな食べれな
いものを少しだけ出して、それで働かせる有様だ。それで私が帳場のヤツらを、
一番飯場で手を焼かせる、一番手の焼ける20人くらいを、ちゃんと記しておい
て、炭鉱へ送ってしまう。

炭鉱へですか?
彼らの手を焼かせるから。飯が少ないから… そしたら人が真似するから、「お
前らはそうしちゃだめだ。お前らもそうすると炭鉱へ送るぞ」と脅すんだ。そう
されようとされまいと、私は問い詰めた。「こんな飯でどうやって働けるんだ。
帳場のヤツらはこれを見ろ!この飯だって、良いコメが配給で来ているのに、お
前らがそれを盗んで他の所へ売り払って、安南米、ジャガイモ飯、トウモロコシ
飯、麦飯を出しているじゃないか!」、それでもたくさんくれれば良いのに、
お椀一杯だけだ。その後、私は一番生意気だと記されて、炭鉱へ送られてしまっ
た。

李さんが炭鉱へ?
まったく!炭鉱へ送られて、本当に話にならない。危険でたまらない。入って見
たら、毎日死人が、天井の石が落ちて死んで、毎日死人が出る…。

(婿)それは、坑内が落盤して、下敷きになって死んだと言うことでしょう。

水力発電所にどれくらいいて炭鉱へ行ったのです?
うん、3年して炭鉱へ行った。炭鉱へ行って、それから鉄をつくる山、赤い鉱右
を掘って焼くと、鉄になる。

にあると聞いた。寺に持って行って預けると聞いた。

手の焼ける者を、炭鉱に送ってしまう

その寺へは行ったことがあります?
ウワサを聞いただけだ。寺がどこそこにあって、預けると。その実家へその人が
死んだと通知したかどうか分からない。そうやって年月を過ごしたんだ。苦労と
言ったら、本当に言葉にならない。どれだけ苦労したかと言えば、当時私は18歳
でバリバリだったから、日本語も良く聞けて、逃亡することも考えないで、言わ
れたことをちゃんとした。だからヤツらも、良く働くとたくさん働かせた。朝4
時に起きて、起きたら弁当の飯を少しくれる。飯は7回食べた。7回食べても、
腹がいっぱいにならない。ほんの少ししか飯をくれないから、とても耐えきれな
い。仕事だけはさせて、棍棒を持って歩いて、少しでも逆らったり、よそ見をす
ると、雪原でメッタ打ちにする。

ご飯は座ってですか?立って食べますか?
飯を食べる時は、座れと言う。

座ってですか?
うん、車座になって、筒から少しずつくれる。おかずもたくさんくれるのでな
く、北海道はおかずと言っても、ニシン、ニシンの干した物、一人一つずつ、お
かずは他にないから、少しずつ惜しんで食べる。おかずも少ししかくれない。こ
んな風だから、腹が空いて仕事ができるものじゃない。腹が空いて死ぬほどなの
に、小さな器で少し食べても、食べたのか食べてないのか分からない。それであ
る時、ひどく腹が空いて働けなくて、親方の前へ行って、「こんな飯でどうやっ
て働くんだ」と何回も行ったら、「帳場」のヤツが、平壌の人だが、この帳場の
ヤツが、私は当時、カワモトと言っていたが、「カワモトが飯場で一番生意気
だ」と言った。日本語の「生意気」が分からなくて苦労したが…。

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ムラは飯場にいないので、良く分からないが、その人の名字は「宋(ソン)」だ
と言う。どこの宋家なのか知らないが、それだけ聞いた。

李さんは飯場をあちこち移ったのですか?1カ所だけにいたのですか?
1工区の飯場にいて、2工区のナカムラ飯場にいた。他の飯場へ行ったことはな
い。飯場は何カ所かあったが、他の飯場へは行ったことがない。

ナカムラは同じ人ですか?
いいや違う。行って見たら、1工区のナカムラより2工区のナカムラは歳がまる
で少ない。

別の人ですね。ナカムラが二人ですね?
うん、別々の人だ。

さっき、李さんが朝4時に起きると言いましたよね?
明け方4時に起きたら一日中働いた。一日中働いて飯場に少し戻って飯を食った
ら、また働きに出る。夜に働いて、次の日も一日中働かなきゃいけない。

寝ないのですか?
靴(草鞋)を履いたら働き始めるしかない。働かなきゃ棍棒だから、どうする?
理屈なしだ。だから棍棒で殴られないように、草鞋を履いて働き始めるしかな
い。

(婿)一日24時間のうち、何時間働きました?

時間なんてない。陽が沈むまで。草鞋を履いたら、次の日の正午に戻る。だから
一日12時間は働いた。

夜は何をしました?真っ暗でしょう?

何か所も行ったのですか?
鉄を…。

(婿)鉄鉱石を掘って・・・。
それを列車に積込んで、そうしたら汽車がどこか、工場へでも行くんだろう。

そこがどこか分かりませんか?
あ、それはすっかり忘れたが、うーん、飛行場を造っている所・・・、鉄鉱石を
掘る所が脇方(虻田郡京極町脇方)だ。〔脇方にある日鉄鉱業の倶知安鉱山は鉄
鉱石を産出〕

飛行場のある所が脇方ですか?
いいや。飛行場は脇方でなく、山で掘る所が、鉄鉱山だ。

昼夜働いているのに1年経ってもお金が足りない

李さんが属した「組」の名前は憶えていますか?
組?それは思い出せない。

では、飯場の名前はどうですか?
う~ん、1カ所は、1工区のナカムラ。

1工区の飯場がナカムラ?
うん、1工区はナカムラ。2工区もナカムラ。

よく記憶していますね。
うん、日本語のナカムラは忘れない。そこも朝鮮人は飯場と言っていたが、ナカ

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草鞋と服も買わなければいけない?
お金を渡して服をくれたら良いが「点数」だった。〔配給制で〕「衣料切符」と
言うのがあり、30点をくれる。30点をくれて、上着が15点、ズボンが10点で25点
使ったら5点残るが、5点だったら靴下一足も買えない。

その点数は何と表示しています?
それは「衣料切符」、30点…。

切符を渡される?
うん、切符だ。1、2、3、4…。30枚で30点。これを持って配給所へ行って、
服をもらったら、上着15点分を渡す。ズボン10点渡して、靴下2足が欲しいが、
買えない。ヤツら、一日中働かせて1年過ぎても、何も残らない。雪が降ったら
寒いこと、寒いこと。日本人の集落へ行って、赤ん坊の洗濯物が干してあるのを
見たら、その洗濯物を足に巻こうと思って、盗んだ。それも私らの仕業だった。

足が冷えるから…?
その布切れを足に巻かなかったら、足がカチンカチンに凍れて、腐ってしまう。
足が腐ったら座り込むことになり、働けなくなっても家へ帰してくれない。寝た
きりになって、泣いている人を見たことがある。本当に、言葉にならない苦労
だ、苦労。

そこでケガした人はどうなります?
ケガしたら病院へ、汽車に乗せて、注射でもするのだろう。それは教えてくれな
い。誰が世話してくれる?ずっと腹ばかり空かせて、(世話をしたら)仕事もで
きなくなる。粥が出たら粥を食べ、死ぬなら死んで、死ぬ人だけが切ない。死ん
だら、どこか海に流すか、寺に預けるか、私らには教えてくれないことだ。死ん
だら…。

(婿)一番ひどいこと、私が聞いたところでは、体を壊した人に食べ物を少なく

夜が暗くても、電灯が点いている。水力発電所づくりを急いでいたから、夜に働
かせる。

では、夜も昼みたいに明るくして働かせる?
うん、電灯で工事場は昼みたいだ。電灯が点いて、昼夜関係ない。

どんな仕事をしました?
コンクリートを混ぜて堰堤を造る。

それだけしましたか?他の仕事は?
うん、堰堤もしたし、砂を車に積んで、「巻け」と言う。山の上から「巻け」と
言ったら、引っ張り上げて、砂利も載せて上げて、石粉も載せて…。当時、昌寧
警察署や郡主が、私らを捕まえて売り払ったと思った。人を捕まえて渡したら、
いくらかお金を貰っているようで。お金をどれくらいもらって私らを捕まえたの
か分からないが、そいつら、働いている私らにもお金を渡したらともかく、私ら
にはお金なんてなかった。

月給はもらいましたか?
2円50銭、一日2円50銭だ。

2円50銭を全部くれましたか?
2円50銭をくれるが、飯代が一日1円だ。

お金でくれましたか?
私は体が丈夫だから、借金しなかった。私は、草鞋を履いて〔脱がずに〕働き続
けた。そんな人は数人しかいない。草鞋を一日に1度履きかえ、一日働く人は借金
がふえる。(働きに出るたびに草鞋を替えるから)いつも借金が増える。飯代に
もならない。草鞋は必要だし、服も着なきゃいけない。

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李さんが北海道へ着いた時、ここは「タコ部屋」だと告げられましたか?
徴用で日本へ連行して閉じ込める所を「タコ部屋」と言うらしい。自由に何もで
きなく、ヤツらが言うとおりにさせる所が「タコ部屋」だ。この「タコ部屋」と
言ったら、本当にひどく働かせ、3年間は、町があっても、日曜に気晴らしに出
ようとしても、逃げるからと絶対に行かせない。

3年間は外出もできなかったのですか?
うん、3年過ぎて、親方と事務に「今日はちょっと遊んでくるから許可してく
れ」と言ったら、機嫌が良かったら「行って来い」、「日が暮れる前に戻って来
い」と言って出してはくれるが、日本語が分からない。奴らの言うことを聞かな
い人は、絶対に外出を許さない。私は5年いたが、飯が少ないと抗議したのが憎ま
れて、一度も外出したことがない。私は街へ行ったことがないが、北海道のソウ
ルが旭川だ。見物に良くて、ソウルや東京と同じらしい。

旭川は行ったことがありませんか?
行かせてくれなきゃ行けない。行ったことがない。奴らに憎まれて、身動きもで
きなかった。旭川は行った人の話を聞いただけだ。

話だけ聞いた?
うん、行って来たある人が、本当に良かった、そこは北海道のソウルだという。
私は飯のことでいつも揉めたから、憎まれてどこにも行けなかった。

外出できなかった?
うん、そうだ。帳場の事務に気に入られなかったら、どこも行けない。閉じ込め
られて、働くだけだ。

デモはなかったですか?
そんなものはない。私が考えたのは、どうにかして、ヤツらの言うとおりに働い
たら、殴られないで、重病にかからないで、朝鮮へ帰って楽に暮らせると言うこ

して働かせる、そんなことを聞きましたが…。

そうですか?
うん、具合悪くて寝ている人にお粥をチョット出す、それを食べるか食べないか
は気にしない。それで、その人がすごく腹を空かせたら、具合が悪くても仕方な
く働きに出ると言うことだ。

誰がそんなことを言いましたか?
それは会社が、オヤジ〔親方、監督〕だ。私らを連れて行って働かせたヤツだ。

オヤジがですか?
うん。期日までに仕事を終えなきゃいけない。期日を守れと、オヤジは会社から
耐えられないほど催促される。元会社が別にある。その会社の人がオヤジに「お
前は何でもっと働かせない?期日までに必ず終えろ!」と言われたら、仕事を終
えなきゃいけない。仕事が間に合わなかったら、夜でも働かせる。雪の中を。

その飯場には、朝鮮人だけいましたか?
うーん、日本人もいた。その日本人たちは私らより皆、かなり年上で、50歳代の
年寄りだ。皆、穴に入れないし、仕事もできない。

その人たちは、そこへなぜ来ましたか?
あぁ、それも徴用だ。みんな同じだ。

その人らも徴用ですか?
うん、私らと一緒に汚い飯、酷い飯を食べた。その日本人たちにも仕事がちゃん
とできないと、叩く、蹴る。私らとその日本人たちは、仕事も仕打ちも同じだ。
棍棒で叩く、殴るのを見て、人の命はすさまじいと思った。獣は一回殴られたら
死んでしまうが、人間は渾身の力を出して、死なない。私はいつもそう思う。

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いいや、水力発電所は終わっていなくて、雪で野外作業はできないから、雪が少
ない所、鉄が出る所へ・・・。

鉄が出る所へ行った?
うん、北海道は雪の多い所と少ない所がある。第1工区、第2工区は北海道でも
雪が一番たくさん降る場所だ。汽車が来ても、ポッポ音がするだけで、アッ、汽
車が来たと思うが、汽車は見えない。それほど雪が来る場所だ。

李さん、解放はどこで迎えました?
解放は朝鮮に戻ってからだ。

解放前に朝鮮に戻ったのですか?
朝鮮に戻って、1年半だったか、解放された。

解放前に戻してくれたのですか?
それが話にならない。私が日本から朝鮮に戻ったが、その時は、私が軍に入る歳
を越えていた。それで村かどこからか知らないが、私を報国隊で捕まえて行こう
として、軍人が戦う場所に…。

あぁ、戦争する場所?
それで私は朝鮮に来て待っていたが、どうにも不安だった。警察が昼夜を問わず
に家に来て、「戸を開けろ!」と言って若い者に手錠をかけて報国隊へ連行する
らしいが、私は日本へ徴用で5年間も苦労した人間だから、こいつはもう捕まえ
なくて良いとなっていた。そうやって1年ほどいたが、徴用に行ったかは関係な
く、日本人が理屈なしに若者を捕まえて徴用するようになった。報国隊へ送れと
言う命令が出て、また私を捕まえようと、ある晩に来るじゃないか。日本人が来
て、火を持って家に、網を張って…。家で寝ていたが、柴門を開けて入って来る
音がする。あ、浅く寝ていたから、柵を越えて逃げた。そして谷間の寺へ行っ
た。極楽寺と言う名前だ。昼間だったら、どこへ行っても警察に捕まると思い、

とだ。それしか考えなかったから、逃亡しないで、ヤツらの言う通り働いた。

では、李さんはケガをしませんでした?
どこもケガした所はない。

金がなくて列車に乗れない、密陽まで切符なしで乗って来た

さっき水力発電所に2年いたとおっしゃいました。2年して炭鉱へ行きましたよ
ね?
うん、そうだ。

炭鉱へ行って、鉄鉱石を掘って、飛行場へも行って…。
鉱石採掘も行った。日本人が山を掘った。鉄を作る所があった。列車に積んで、
鉄を焼いて、機械で焼いて、鉄をつくる工場へ、そこにまた1年いた。

1年?
うん。1年いて、脇方で鉄鉱石を掘った。飛行場(滑走路)造る所、貨物車に鉄
鉱石を手積みして載せた…。

そこでどれだけ働きました?
そこも1年経たないくらい。

炭鉱へも少し行きましたね?
うん、炭鉱は冬だけ…。

冬だけですか?
うん、水力発電所の野外は雪で仕事できないから、4、5か月いた。

水力発電所を終えて行った所が…?

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お金は全く出さなかった?
もらえなかった。飯場を出る時、預金していた金額がどれほどか、言ってくれな
いと分からない。それで「ここの仕事が大体終わったから、朝鮮に行ってくる人
間は申し出ろ」と言われた。そこで苦労し過ぎてうんざりだから、他の人よりも
先に朝鮮に行ってくると言ったら書類を揃えるというから。私も嘘をついた。
「あ、私も行ってくるから書類をそろえてくれ」と申し出た。そして、朝鮮に行
く前日に「帳場、私が貯めた貯金を見せてくれ。朝鮮へ帰ったら使うとこがある
から。」と言ったら、いきなり、「この野郎!」と返って来た。歳とったヤツだ
が、「こいつ、朝鮮に帰るからと誰が金を出す!」と罵って金を出さない。いく
ら預金してあるのか、絶対に教えない。私に対してだけじゃなく、全員にそう
だ。教えてくれないから、預金していたお金がいくらなのか分からない。

では、旅費はもらえなかった? 
帳場に預けたから、いくら稼いだか分からない。そのお金を奪われたって、働か
なくてもいいし、朝鮮に帰りたかったから、お金を放棄した。まったく…。

家に帰ってからは、また北海道へ行かなかったのでしょう?
行かないとも。死ぬために行くようなものだ。日本の3人のヤツらが私らを連れ
て帰って来るが、おかしなことに、また途中で、逃げる人間がでる。

なんで逃げるのです?家に帰るのに?
日本へ行って暮らそうとして。日本へ行って、自由に…。

自由にお金を稼ごうとしてですか?
うん。稼ごうと思って。一人、二人と逃げたが、私はそれも面倒で、朝鮮に戻っ
た。戻っては来たが、日本のヤツら3人は〔釜山で〕私を降ろして、「勝手に家
へ行け」と言って、ヤツらは行ってしまった。だが、お金がないから、汽車に乗
って家へ帰れない。釜山から昌寧まで行こうとしたら、当時のお金で6、7円か
かるが、お金がない。仕方ないから、切符売場へ行って女性係員に、「あ、昌寧

夜に山中の極楽寺へ行った。そして、極楽寺のおばさんに、「助けてくれ」、
「お宅に畑があったら、私が畑仕事をするから、私を助けてくれ」と頼んだ。そ
したら、「分かった」と返事した。寺で私が5か月ほど畑仕事をした。そうして
いたら、解放された。それで家に戻った。報国隊へ行かないで済んだ。

では、北海道から家へ戻る時はどうやって来ましたか?
北海道から戻ることになったのは、満期になった。

あ、満期になった?うん。満期になって、仕事が全部終りになった。35)  満期
になって出してくれた。そして明日、汽車に乗ろうと、その帳場の事務に〔貯金
を〕出せと、汽車に乗った…。

(婿)私もその話を聞いています。その、完全に満期になったのではなく。さっ
き、2円50銭もらって服とかを買って、もう何銭しか残らない、つまり、その全額
の半分にもならない金額だけを渡して、残りは再度来たら渡すと言われたが、そ
こに戻ったら苦労するのは見え見えだから、金を放棄して戻らなかったと言って
いました。

そうだ、そうだ、その通り。

あぁ、そうですか?
その「勘定」(計算)をされると、たくさん働いた人も飯代を除いたら5円、7
円、8円、10円しか残らない。10円にもならなくて5~7円くらいが残る。私も
勘定すると5円残ったと、帳場がノートに記すが、私の通帳があるのやら、ない
のやら、ついぞ通帳を私に見せたこともないが、預金したと言う。お金を渡した
ら、そのまま逃げると考えたのだろう。

35) 1943年8月に朱鞠内ダム工事は終了。

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のヤツらの土俵だから、ヤツらの思った通りにするんだ。仕事が仕上がらないか
ら、帰してくれない。仕事を仕上げたら、放してくれる。

そのように言いましたか?
うん、仕事を終えてから帰って来た。

期限になったのになぜ家へ帰さないのかと確認しましたか?
あぁ、確認しようもない。棍棒が飛んでくるだけだ。ヤツらの言うままにやっ
て、死んだようしていなきゃ。口答えしたら、棍棒だ。毎日殴る蹴るで、どうし
ようもない。体をヤツらに預けたから、叩こうが、殴ろうが、なに・・・。身じ
ろぎもできない。口答えもできない。苦労、苦労…。今日、私が生きているから
こんな話ができる。私が死んだら、こんな話は誰も分からない。子どもたちに
も、こんな話はしなかった。今日、初めてだ…。

(婿)今の話は、初めて聞きました。

監督に良いところを見せようと、あいつが人夫たちを死ぬ目にあわ

すんだ

李さん、日本人へ言いたいことはありませんか?
アイゴ、日本人、帳場の事務、棒頭のアライという平壌のヤツだが、日本語が上
手で、文章も、大学を出て。

大学ですか?
大学へ行って賢くて、テッコンド(武術)だったか、重量挙げだったかしてい
た。テッコンドも上手で、こいつが本当に根性悪いヤツだ。オヤジ〔監督〕は、
ケンカ上手な、よく叩き殴る人を棒頭に使う。そうすると、人夫たちに押さえが
利いて、殴りつけながら働かせるからな。それが平壌のヤツ、アライだ。その名
前を忘れない。私よりも10歳以上、歳上だった。

まで行きたいから、密陽行きの切符を買わなきゃいけないが、どうしてもお金
がない」と言った。そうしたら、「あ、ダメです。お金がないと切符は渡せませ
ん」と答える。どうしようもない。仕方ないから、どうにかして列車に入り込ん
で、そのまま乗った。なに、死ぬなら死ね、死ぬのも怖くない。なに、殴るなら
殴れ、イチかバチかだ。金は一銭もないが家へ帰りたい。ウソをつかなきゃ列車
に乗れない。そうやって密陽まで、切符なしで乗って来たんだ。汽車を降りる時
に車掌が、「切符はあります?」、「どこへ行きますか?」という。「行くんじ
ゃなくて、私は日本の北海道へ徴用で行って一銭も、5年働いて一銭も稼げなく
て、切符も買えないで来た。人間は人間を助けるだろ、獣が人間を助けるか?」
というと、「あ、どうぞ通ってください。これまでご苦労様でした」と通してく
れた。

その車掌は良い人ですね~。
そうだ、釜山から密陽まで、切符なしだ。ウソもつけず、お金もなく、方法もな
いんだ。歩く訳にいかなかった。200里(80km)も歩けるか?どうにも方法が
ない。ウソをつかざるを得ない。事実、北海道へ徴用に行って、5年間苦労し、
日本のヤツが釜山の新広場まで連れて来たが、そいつらは私に殴り飛ばされると
思って逃げてしまって。まったくの一文無しでどうしようもない。釜山じゃ暮ら
せない。故郷へ行きたいから、汽車にこっそり乗ったと早口で言った。そうした
ら、行けと言った。

5年間行っていたと?5年間?
5年、きっちり数えたら5年にならないが、だけど4年半にはなる。

はじめ行く時は4年半の期限とか、そんな説明はありましたか?
3年期限と言っていた。

3年期限?では、期限越えですね?
うん、期限越えだ。仕事が全部終わらなかったので、帰してくれなかった。日本

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4時につけて終日履いて、夜通し働いて次の日一日中履いて、飯場に戻ったら寝
る。(履物を一度脱いだら砕けるから、履き物を脱がないまま、ずっと働く。)
ひと月の半分は寝て、半分は働いた。私の健康は良い方だった。働かせるヤツら
も、「カワモトは本当に良く働く」と言っていた。

本当に苦労されましたね、李さん。
ちゃんとやって見せたら、ヤツらに殴られない。目をつけられたら毎日殴られ
る。余り酷く殴られたら重病になって、朝鮮に帰って稼ぐこともできなくなる。
そう考えるしかなかったから、私はたくさん働いた。金よりも自分の体を考え
た。ある時、ヤツらの履物の値段を聞き、良い履物を買えたらと思っていた。そ
れで、親方が履いている物を見たら、「地下足袋」だ。この地下足袋は、ひと月
も履けるらしい。事務に注文して、地下足袋を一足買えたらと考えた。果たして
事務が買ってくれるだろうか、考えて…。事務の所へ行って、「地下足袋一足、
私に買ってくれないか?金は出す。勘定の時に一足分差し引いてくれないか」と
頼んだ。この帳場のアライ、こいつが「カワモト・ソウド(李氏の創氏名)が、
地下足袋一足買ってくれと言ってるが、監督、あいつを放っておくつもりです
か?」、と言うのを聞いてしまったんだ。

(婿)肉体労働するヤツが、良い履物を履こうとする。懲らしめてやる、と言う
ことでしょう。

それでどうなりましたか?
これまで話さなかったが、今日は正直に言おう。「カワモトが地下足袋を買って
くれと言ってるのに、あいつを放っておくわけにはいかない」、こうなってしま
った。そうしたら、アライはテッコンドも上手だし、日本語もうまい。こいつが
晩飯後に、私に来いと言った。「カワモト・ソウド、こっちへ来い」。

「こっちへ来い」ですか?
行かない訳に行かない。パッと行ったら、「この野郎!」と言い出して来た。

あ、まだ若いですね?
うん。私は当時18歳で、そいつは25~6歳だった。そいつが背も高く、日本語もう
まく、オヤジと本当に仲が良かった。日本語を使って人夫を殴って、どうにかし
て、たくさん、うまく働かせて、あいつ、オヤジに良いところを見せようと、あ
いつ、人夫たちを死ぬ目にあわせたんだ。

オヤジに良いところを見せようと、殴るのですか?
うん、殺される。少しでもヘマをしたら、見せしめに、ワッと、叩いて殴って、
下手をしたら、毎日大ケガだ。

同じ韓国人なのにですか?
それから、雪だらけだから履物をくれるが、私が欲しい履物だったら良いが、帳
場へ注文したものは使い物にならない、二日ともたない履物を持って来て、勘定
の時に代金を差し引く。その二日も持たない履物代に、5円とか差し引く。毎
日、しょっちゅう働かなきゃ、履物代も出ない。そう、大雪が来て、「モッコ取
り」で雪かきをするが、履物はワラで、ゴム靴の…。

(婿)あ、ゴム靴じゃなくてワラで作った(草履)。長くもたないですね。

ワラを編んで作る。それを履いていると、カチンカチンに凍って、一日中働いた
らコチコチに固まって、飯場に戻って脱いだらバラバラに砕けてしまう。砕けた
ら、次の日にまた買って履くが、その一足が2円50銭だ。

悪い人たちですね~?
一日に2円50銭を稼いで、草履一足に2円50銭払ったら、飯代も残らない。た
くさん働かなきゃ、借金ばかり残る。借金が増えると、オヤジが「誰それは、働
きが悪いから借金が増える」と幹部に言う。すると幹部らが働かせるために、具
合が悪くて働けなくても殴って蹴って、汁と重湯をひと椀与え、これでも生きる
人間は生きるだろう。私は殴られないように、借金も残さないように、草履を朝

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釜山の新広場でヤツら、「勝手にどこでも行け」と言った。家に帰るのに、一銭
もないから、汽車の切符が買えない。こんなに苦労した。それでも、長生きし
た。これまで生きて来たから、今日、こんな話を子どもたちにもできた。

李さん、どうもありがとうございます。
私が殴られたという話は、今日はじめて言った。耳が遠い。歳も取ったし、耳が
遠い。耳が遠いことが日本の北海道へ行った証(あかし)だ。

・面談日:2009.4.17.
・面談者:尹智炫
・補助面談:尹シヒョン

「この野郎!地下足袋をくれ?地下足袋をくれって言うのか?何、言ってん
だ。」そう言いながら私の頬を3回殴った。頬を押さえたら、殺すような勢い
だ。黙って腕を伸ばして気を付けの姿勢で。ガマンした。

アイゴ~
「殴るな」と言ったら、殺されてしまう。黙ってガマンした。その時、殴られた
から、いま歳を取って、耳が遠くなった。耳が不自由になった。

耳が聞こえませんか?
若い時、良いところを見せようとするヤツらに棍棒で殴られ、歳取ってから体に
悪い所が出てくる。

はい、そうでしょう。
本当に苦労した。

(婿)僕が考えるには、ヤツらが草履を使わせて、早くそれがすり減ったら、マ
ージンが増える。商売になるのでしょう。

うん、奴らの商売だ。

(婿)地下足袋を履いたら、草履が売れなくなるから…。

まともな履物を買えるところがない。買えても、切符が必要だ。

まともにお金ももらえないで、働かされた…。
うん、そうだ、仕事ばかり。雪だらけの中で布切れを拾って足に巻いた。変な草
履に一日2円50銭、一日しかもたない草履で、お金も稼げない。私は5年間、預
金させられたが、その金額も教えてくれない。預金させて置いて、その金額は絶
対に教えない。教えないから分からない。分からないし、一銭ももらえないで、

■ 面談後記

私たちがお宅に到着した時、李詳石さんはアパートの庭でタバコを吸
っていた。89歳の年齢が信じられないほど健康で、記憶力が良かっ
た。長時間の口述にも疲れた様子はなく、今まで誰にもこんな話はし
なかったと喜び、語った。その場を離れる時、私たちの手を離さない
で、別れを惜しんだ。李さんは、その当時の状況と水力発電所工事の
現場について、描写しながら、詳細に話してくれた。途中、私たちが
良く聞き取れない部分を、同席した娘婿が説明してくれた。

二度目の面談(2009年12月10日)
2009年12月、私たちは李詳石さんと二度目の面談を持った。北海道
市民団体の「空知民衆史講座」は雨竜ダム工事の真相を明らかにし、
ダム工事に関連して死亡した犠牲者の遺骨発掘と返還活動をしてい
るが、その一行5名が李先生の話を聞くために訪問したからだ。李詳
石さんは2時間にわたって、雨竜ダムでの辛かった労働と生活を伝え
た。空知民衆史講座の会員たちが持参した雨竜ダムの現場写真を見る
や、李さんは工事現場に関する記憶をより詳細に思い出した。「こ
こはワイヤーが連結されていた。私はこの下側からコンクリートを昇降機で上げる時の合図係だっ
た」。北海道の方たちは朱鞠内での60年前の辛かった強制動員の記憶を聞くために尋ねて来たが、
その方たちと対面した李さんはどんな心情だったのだろう。李先生はしきりに、「えっ!遠い北海
道から、ここまで!」と繰り返し、笑みを浮かべた。

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アホッモリ(青森)越えて北海道へ 北海道強制動員被害口述集

編著 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会(2009年)
企画 許光茂、責任編集 李宣姈
面談・記録・校訂 李宣姈、河承賢、金ジンスク、尹智炫、尹シヒョン、金ヒョンミ、李
ガヒョン、鄭ソニ、金美賢、記録文作成 高賢嬉
編集校正 許光茂、鄭ソニ、李孝眞、李テヒ、尹シヒョン、カンユミ、羅ヘミ、金セジン、

翻訳 日本語翻訳協力委員会 翻訳 権龍夫、校正 竹内康人
   訳注は〔   〕で示した。
印刷  2023年 12月  26日

最終監修  柳芝娥 圓光大学校 韓中関係硏究員 硏究教授 
発行人     沈 揆 先
発行所 日帝強制動員被害者支援財団
    ソウル特別市鐘路区鐘路1街42利馬ビル6F
     
発刊登録番号 979-11-972826-7-6
デザイン編集  ミレ文化