日帝強制動員被害者支援財団
発 刊 登 錄 番 号
11-1741332-100002-01
29
日帝強制動員被害者支援財団翻訳叢書
南方紀行
- 強制動員軍属手記集 -
国務総理室所属 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会 編
日本語翻訳協力委員会 訳
安承甲が直接スケッチした捕虜収容所
29
日帝強制動員被害者支援財団翻訳叢書
29
南方紀行 ―強制動員軍属手記集―
初版印刷
2025年12月31日
初版発行
2025年12月31日
韓国語版編著
国務総理室所属
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会
韓国語版発行
2008年4月3日
日本語版発行人 李元範
日本語版発行所
日帝強制動員被害者支援財団
ソウル特別市鐘路区鐘路ギル
42利馬ビル6階
http://www.fomo.or.kr
翻訳
日本語翻訳協力委員会
信長たか子、堀内稔
校訂
竹内康人
訳注は〔 〕で示した。註で略したものがある。
意訳した箇所、句読点を加えた箇所、改行した箇所がある。
固有名詞など、訂正した箇所がある。
発行登録番号
11-1741332-100002-01
本書の全部または一部を無断で複写複製(コピー)することは、
著作権法上での例外を除き、禁じられています。
1
財団法人日帝強制動員被害者支援財団(以下、財団)は、今年も強制動員関連書
籍 4 冊を日本語及び韓国語に翻訳して出版します。2019 年から 7 年目にあたるこの
翻訳事業は、日本の「強制動員真相究明ネットワーク―日本語翻訳協力委員会」と
国内関連分野の研究者たちの積極的な努力と支援により、進められています。
それぞれ 300 部ずつ合計 1200 部を発刊する日本語版及び韓国語版は真相糾明
ネットワークの助けを借りて、日本国内の研究者や活動家、公共機関などに配布
しています。
この本は、国務総理室所属の日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会(以下、
糾明委員会)が 2008 年 4 月に発刊した『南方紀行―強制動員軍属手記集―』を
翻訳したものです。この手記集は、南方に動員された 2 名の捕虜監視員と 2 名の
海軍工員の手記で構成されております。軍属手記集の発刊目的は、彼らの自伝的
記述を通して強制動員被害の様々な様子を明らかにしようとするものです。この
本を通して人々が日帝末期の強制動員被害を知り、歴史の真実に接することを
期待しています。
この他、財団が今年日本語に翻訳出版した本は次のとおりです。
『1948 年韓国送還遺骨の真相調査』は、1948 年、日帝による韓国人強制動員
犠牲者の遺骨が、日本から韓国国内へ送還されましたが、実際該当する遺族は犠
牲者の遺骨を受け取ることができませんでした。その件について、糾明委員会が
2005 年 4 月 15 日付で真相調査の開始を議決しました。その後、新聞資料の収集と
分析、国家記録院と外交部外交史料館の資料や訴訟資料の分析、関連機関及び
刊行の挨拶
2
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
関係者に関する調査、遺族調査等を行い、その真相を糾明委員会が 2007 年に公開
したものです。
『戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点』は、終戦直後の 1945 年 8 月 22 日、
日本の東北地方にある青森県大湊港から朝鮮人を乗せて釜山へ向かった浮島丸が、
予定の航路ではない京都府舞鶴港に入港しようとした際、爆発により沈没した「浮島
丸事件」について取り扱っています。糾明委員会は、2005 年 3 月に、この事件に
関する真相調査の開始を決定し、真相糾明のために努力してきましたが、2010 年には
最終報告書を発刊できず、調査を終了した経緯があります。本報告書は、財団が
2023 年 12 月に発表したもので、この事件がなぜ迷宮入りになってしまったのかを
明らかにするため、初期の真相調査における問題点を検証し、それが今日まで
どのような悪影響を及ぼしているのかを、さまざまな資料を通して精密に分析し
ています。
さらに、今年初めて推進する事業として日本で発刊された強制動員に関する
本を韓国語に翻訳して出版することになりました。日本語書籍名は『(改訂版)
朝鮮人強制連行・強制労働ガイドブック[奈良編]』であります。奈良県において
朝鮮人強制動員・強制労働が行われた柳本飛行場やその他場所、遺跡、証言など
について日本の読者向けの本として制作されました。負の歴史の真相を粘り強く
糾明してきた「奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資料を発掘する会」により、
1997 年 8 月に初版され、2004 年に改訂版が発行されました。財団では、韓国語に
訳して韓国内の大学図書館及び関係機関などに配布する予定であります。
糾明委員会と対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会が
解体された以来、中断されていた日本語翻訳事業を、財団が引き受けました。さらに
他の研究結果を付き加えることにより、強制動員分野の国内外研究に役立てることが
でき嬉しく思います。
財団は今後も強制動員分野の多様な研究報告書や学術・教育資料の編纂などに
一層努力してまいります。強制動員関連の研究成果が韓国と日本を越え国際的に
拡散できるよう、持続的な関心と支援をお願いいたします。
ありがとうございます。
2025 年 12 月 31 日
財団法人日帝強制動員被害者支援財団
副理事長(理事長職務代行) 李元範
3
去る 2004 年 11 月に発足し、今年の 2008 年ですでに 4 年目を迎える日帝強占下
強制動員被害真相糾明委員会は強制動員被害の真相を糾明し、歴史的真実を
明らかにするために多様な活動を続けてきました。
こうしたなか、われわれ委員会は労務及び軍務動員分野の強制動員口述記録
集 8 の刊行をはじめ関連資料集の出版など、強制動員の真相究明の発刊事業でも
目に見える結果を出してきました。
これまでの成果に続き、軍属の分野でも生存者の証言を基にした口述記録集と
一緒に軍属として強制動員された被害者たちが直接書かれた軍属手記集を発刊する
ことになりました。『強制動員手記集1- 南方紀行』は去る 2 年余にわたって全国
各地域の被害者たちと、申告した人に会い、収集した手記資料を編纂したもの
です。
手記集の発刊は何より個人的な記録として埋もれていたものを調査官らが被害
調査のなかで発掘したことにその価値があります。さらに強制動員という我々の
過去の陰の部分を明らかにするなかで個人の記録を歴史の場に引き出したという
ことに委員会活動の意義があります。
この本に載せられている 4 編の手記は短いものは 5、6 年前から、長いもの
は 10 年前に書かれた文です。この本は 2 人の捕虜監視員とマーシャル諸島の
ウォッジェとミリに動員された 2 名の海軍工員など、南方に強制動員された 4 名
の手記で構成されています。南方に動員された 4 編の手記の特性を生かす意味で、
書名は故石相玧さんの手記である「南方紀行」をそのまま付けました。4 名の方に
発刊の辞
4
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
南方への動員は生きるための移住ではなく、いつかはわからないが帰ってくる、
しかし、死に繋がることもありえる苦難の紀行でした。その苦難の時期と違う
名前を付けるのは申し訳ないという思いでそのまま残すことにしました。
より多くの方たちの多様な経験を載せようと思いましたが、すでに書かれた
手記という資料の特性上、その収集に限界がありました。それにもかかわらず、
現在の大々的な被害調査以前に作成された手記が、個人的な経験と記憶として
強制動員の姿を見せてくれるものと期待しています。
軍属手記集の発刊目的は、彼らの自伝的記述を通して強制動員被害の様々な姿を
明らかにするためです。この本を通して一般大衆が日帝末期の強制動員被害を知り、
歴史の真実に近づくことを期待します。また、これからの調査のなかで一層多くの
手記の記録が発掘され、手記集発刊の 2 刊、3 刊に繋がることを願います。
手記集が発刊されるまでは、資料を収集し、編集作業を一緒にした調査 2 課
職員の皆さんの陰の苦労がありました。併せて委員会の調査作業を支援してくだ
さった地方実務委員会担当者及び支援部署職員の皆さんにも感謝いたします。何
よりも本手記集発刊のために大切に保管されてきた先人の自筆記録を喜んで出して
くださった申告者、また自身の血と汗にまみれた記録を出版できるように協力して
くださった生存者の方々に心から深く感謝いたします。
最後にわれわれ委員会の被害調査及び真相糾明の作業に変わりない協力と支援を
お願いし、併わせて各種の発刊作業にも愛情のこもった批判と励ましをお願いい
たします。
2008 年 3 月
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会 委員長 全基浩
5
目次
刊行の挨拶
1
発刊の辞
3
1.歴史の裏側から ―マーシャル群島ウオッゼ島での九死に一生―
李共石
9
はじめに / 海軍軍属として行くことになった動機 / 南洋群島に向かい釜山港出発 / 最終目的
地マーシャル群島 ウオッゼ島上陸 / 突撃精神で速度戦である施設工事に投入 / 悪質日本人
現場監督中村小隊長との衝突 / 3 ヶ月後、医務隊転属 / 滑走路舗装工事の完成と飛来した
日本の戦闘機隊 / 突然、米軍偵察機が出現 / 米軍の第 1 次奇襲攻撃 / 米軍の第 2 次奇襲攻撃 /
生き地獄脱出のための自傷行為続出/米軍の第3次奇襲と年寄りの日本人軍属/うらやましい
先住民の自由な生活 / 中村小隊長との再衝突 / 追撃された日本の戦闘機の全焼 / 病院船牟婁
丸と米軍の空襲 / 食糧倉庫爆破による食糧問題の悪化 / 上陸を試みた米機動艦隊の大爆撃 /
日本軍の高射砲弾に当たり米軍機墜落 / 米機動艦隊の爆撃練習場となったウオッゼ島 / 重傷
者に対する軍司令官の指示 / 身を隠した弾薬庫からの脱出騒動 / 宋在吉同志の戦死悲報と
死を免れた梁元鐘同志 / 食糧生産のための軍属たちの離島分散 / 丹精込めた食糧作物、集中
攻撃で飛散 / 高光俊同志の不意の戦死 / 人肉説の実相 / 米軍の投降懐柔工作 / あれほど恋した
故郷へ / おわりに / 参考 当時の済州島出身同志名簿
6
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
2.南方紀行 ―タイ捕虜収容所―
石相玧
69
この手記について / 軍属志願の背景 / 釜山訓練所入隊 / 南方行き航路 / タイ捕虜収容所 /
収容所勤務開始 / 第 4 分所への転属 / 第 4 分所第 1 分遣所での生活 / 第 3 分遣所転属:分駐
所責任者として捕虜との関係づくり / 収容所勤務中の逸話 / ジャングル生活後の収容所生活 /
カンチャナブリの慰安所 / 連合軍空襲以後の沈滞した雰囲気 / 8・15 終戦 / 在タイ高麗人会
組織 / 解放後、帰国できずにタイで生活 / 帰郷の旅
3.日帝強制連行太平洋戦争参戦体験受難記
―南洋マーシャル諸島ミレ島にて―
李仁申
121
はじめに / 祖国を離れて… / ミレ島への道 / 受難のはじまり、ミレ島に到着 / 患者送還と医務助
手への配置 / 熾烈になった米軍空襲とさらに酷くなった作業 / 米軍の大空襲 / 不利な戦局での
日本軍の残酷と米軍の懐柔 / ますます悪化する食糧問題 / ルクノール島への配置と生活 /
チルボン島惨事事件発生 / チルボン島事件の動機と事後処理 / ルクノール島脱出の決心と実行 /
マジュロ島捕虜収容所そして同胞救出作戦 / ハワイ捕虜収容所の生活 / 夢に描いた祖国の懐で… /
4 年ぶりの家族再会 / 解決されない労賃問題 / 1995 年 6 月、マーシャル諸島のミレ島と離島の
踏査記
4.倭奴たちの手にかかって死ぬより、国のために闘って死のう
安承甲
207
はじめに / 戦場の青年たち / 同志、金周錫 / 高麗独立青年党の結成 / 挙行計画 / アンバラワ
義挙と 3 人の義士 / 第 2 計画の失敗 / 第 3 の計画 / 党員逮捕後 / 後記
5.解題
231
1. 植民地動員の強制性 / 2. 陸軍軍属の捕虜監視員 / 3. 手記を記録した捕虜監視員 / 4. 朝鮮人の
海軍軍属 / 5. 手記を記録した朝鮮人海軍軍属
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
はじめに / 海軍軍属として行くことになった動機 / 南洋群島に向かい釜山港出発 /
最終目的地マーシャル群島 ウオッゼ島上陸/突撃精神で速度戦である施設工事に
投入 / 悪質日本人現場監督中村小隊長との衝突 / 3 ヶ月後、医務隊転属 / 滑走路舗
装工事の完成と飛来した日本の戦闘機隊 / 突然、米軍偵察機が出現 / 米軍の第 1 次
奇襲攻撃/米軍の第2次奇襲攻撃/生き地獄脱出のための自傷行為続出/米軍の第3次
奇襲と年寄りの日本人軍属 / うらやましい先住民の自由な生活 / 中村小隊長との
再衝突 / 追撃された日本の戦闘機の全焼 / 病院船牟婁丸と米軍の空襲 / 食糧倉庫爆
破による食糧問題の悪化 / 上陸を試みた米機動艦隊の大爆撃 / 日本軍の高射砲弾に
当たり米軍機墜落 / 米機動艦隊の爆撃練習場となったウオッゼ島 / 重傷者に対する
軍司令官の指示 / 身を隠した弾薬庫からの脱出騒動 / 宋在吉同志の戦死悲報と
死を免れた梁元鐘同志 / 食糧生産のための軍属たちの離島分散 / 丹精込めた食糧
作物、集中攻撃で飛散 / 高光俊同志の不意の戦死 / 人肉説の実相 / 米軍の投降懐柔
工作 / あれほど恋した故郷へ / おわりに / 参考 当時の済州島出身同志名簿
李共石
歴史の裏側から
―マーシャル群島ウオッゼ島での
九死に一生―
1
10
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
李共石(イ・ゴンソク)創氏名:香山共石
1922.1.19. 済州島北済州郡旧左邑出生
1942.8.27. 芝浦海軍施設補給部所属の工員としてトラック(チューク)島を
経て、ウオッゼ島(ウォッジェ環礁)に動員
1945.12.21. 解放後、釜山港経由で帰還
はじめに
すでに私は 80 歳の高齢であり、そのうえ文才もなく文を書く要領や方法もよく
知らない。さらに美辞麗句のようなものも全く書けないが、多くの恥ずかしさを
忍びながら、敢えてペンをとり、過ぎた半世紀前の実情について、遠のいた
記憶をたどりながらこの文を書いた。
内容が粗末だということで、過去に我々同志たちが経験した実情をそのまま
ほうっておけば、永遠に一言の文の痕跡もなく埋もれてしまう。だからある
程度、要点だけでも後世に知らせるとともに、特に遠くて近い日本を警戒し
なければならないということを自覚させること、それが当時一緒に死線で苦
労し死んでいった多くの同志に対して生きている我々の責任であり、道理で
ある。そう思い、恥ずかしさを恐れることなく大胆にペンをとることにしたの
である。
私は 1942 年にいわゆる日本海軍軍属として徴用され、3 年 6 ヶ月間を南洋
マーシャル群島ウオッゼ島で日本人の現場監督から人間以下の苦痛と蔑視と
侮辱を受け、一方では熾烈な米海空軍の集中攻撃により何度も死に目にあい
ながら、なんとか生き残り、1945 年の日本の降伏により故国に帰れることが
できた。
3 年 6 ヶ月の間、現地での凄絶な状況などを便宜上、その時その時の状況を
区分して事実通り詳しく記録しようと試みたが、浅学非才の私には当時、現地で
我が同志たちが経験した凄絶で悲惨な状況を十分に筋道立てて記述できない
など、いろいろ不十分な点が多いだろうと思う。
当時、現地で死線をともにさまよった多くの同志たちが、この記録で漏れている
11
部分を指摘してくれれば喜んで受け止め、追録して我々の後輩に残したいと
思う。
おわりに、我々同志のご冥福を心からお祈りします。
2001 年 8 月 15 日
海軍軍属として行くことになった動機
1942 年初夏は日本が中日戦争を起こして満 5 年目の年だ。今の中国の
広大な全地域を制しようと日本軍は内陸深く攻め入った。その後、いわゆる
インパール 1 で人的、物的な長距離輸送に苦しめられ、ほとんど力が尽きており、
苦戦を重ねていた。
しかしながら、日本は相変わらず戦勝を叫び、国民の士気を高揚させていたが、
情勢はうわべとは異なり、緊迫感が次第に増してきているようだった。実際、
戦線は拡がり続け、戦争は終わりがみえなかった。その時、我が朝鮮には
志願兵制度はあったが徴兵制度はなく、軍属や炭鉱労務者として幾度も選抜が
なされていた。だが広大な中国や満州、南洋に至るまで戦線は拡がり、日本軍
だけでは到底成し遂げることができなかった。朝鮮に徴兵制度が実施される
ようになるのは、必然的で時間の問題だった。
このような状況だが、当時の朝鮮では朝鮮弁護士試験制度 2 があり、独学者らの
唯一の目標になっていた。小学校しか出られなかった者として、天の星を取る
ほど難しいことと知りながらも、長距離通信講義録を使い、周りのさまざまな
難しい環境の中でも、一生懸命勉強していた。
しかし 5 年計画でようやく 3 年目となった時、これ以上続けられなくなった。
すなわち軍人、軍属、炭鉱労務者のうち、どれか一つの選択に直面したから
である。それはその年の 3 月春に、集落の青年奉仕隊として選抜され、済州
飛行場建設の現場まで徒歩で到着し、7 日間の大変な勤労奉仕の任務を完遂
して帰ってきてからである。同年 5 月 20 日ごろになると、海軍軍属の募集
広告が街に貼りだされた。
1 Imphal、インドのマニプール州の州都。第 2 次世界大戦末期の 1944 年に日本軍はインパールを侵攻(「イン
パール作戦」)、イギリス・インド連合軍と戦った。
2 朝鮮で朝鮮弁護士試験制度が始まったのは 1922 年だった。
12
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
海軍軍属といえば当時、南洋方面に行くことがすでに常識となっていた。
広告には身体検査と口述試験の後に合格者を発表するとあった。期間は一年、
そして報酬は少なかった。
しかし、どうせ行かなければならないのなら、座って悩んでいるよりはま
しだと思って、家族たちが強く引き留めるにもかかわらず、応募することに
した。我が済州島では合格者が 58 名にもなった。この合格者 58 名は 6 月 3 日に
済州港を出発、大田を経て釜山で降りた。そこで全羅南北道と慶尚南北道
から選ばれた同志たちが〔船に〕乗ることになった。すでに決められていた
総引率者が紹介され、人員総数は 2,000 名といった。
南洋群島に向かい釜山港出発
釜山に降りた後、埠頭に設置された海軍医療所で身体検査と防疫処置が実施
された。それが終わるとすぐに輸送船諏訪丸 3 の船倉の中に入れられた。
隊員たちを船に閉じ込めた後、代表者を中心に班編成をし、外出はいっさい
禁じられた。そのまま 3 日間停泊し、南洋群島に向かって釜山港を出港したのは
1942 年 6 月 27 日だった。我々の所属は、日本の横須賀の第 4 海軍施設部 4 で
あり、通信番号は〔海軍〕横須賀局ウ 86、ウ 60、ウ 83 といった。
南洋群島は日本が誇るいわゆる不沈の航空母艦として戦略的な価値が高く、
米軍を誘引し殲滅するのに一番有利なところであった。それだけでなく、ここで
必ず勝利することを確信し、近くのハワイを攻撃占領し、これを足がかりに
してアメリカ本土まで進撃して入っていく、そのために必要なすべての準備を
あらかじめ計画、推進してきたのである。そして満洲にある陸軍兵力1万名も
南洋へ異動中とのことだった。それで我々施設部隊は到着するとすぐに現地で
訓練を受けさせ施設工事に投入させるようであり、故郷に帰れる見込みが
本当にあるのか、わからなかった。
3 著者は「チバン(취방)丸」(10,620 トン)と記しているが、諏訪丸とみられる。諏訪丸は日本郵船の貨客船で、
三菱重工業長崎造船所で 1914 年 3 月 9 日に進水後、ヨーロッパ航路を就航。1942 年 8 月 10 日海軍が徴用。
4 海軍軍属履歴票の記録によると執筆者である李共石は芝浦海軍施設補給部所属の工員である。〔履歴票では帰
還者は芝浦補給部所属と分類されているが、派遣された南洋では第 4 施設部に配属された〕
13
太平洋の茫々たる大海を過ぎ、南
洋圏に入ったのは釜山を出港してから
10 日余りであった。南洋圏内に近
づくほど、太陽の暑さは次第にひどく
なった。我が故郷では経験できない
ほどのすごい熱気だった。そこから
は船の速力がとても遅くなった。時
には松林をそのまま海の上に浮かべ
たのかのような椰子の林が見えた。
島々は一様に、海抜 1 mか 2 mほど
にしか見えない。浅く白い砂の帯を
巻いたような美しい島であった。
南洋圏内に入ったことを実感した。
ついに着いたと思い、退屈な航海を
終え、あのような美しい島に早く上陸
したかった。しかし、船員に聞くと、トラック島 5 まではまだまだ、5、6 時間は
かかるといった。
島がひとつ、またひとつと 5、600 m間隔で飛び飛びに続いているところを
通った。この時の時間は午後 1 時ごろであった。そこでは午後 3 時ごろには
陽が沈むという。ちょうどその時、遠い水平線にアメリカの潜水艦が現れたという
無線連絡が入ったと言った。ほぼ同時に日本の戦闘機 2 機が一緒に飛んできて
船の上空からアメリカの潜水艦めがけて急降下しながら攻撃した。その瞬間、
わずか 2、3 秒の間にドカンという爆発する轟音と一緒に真っ黒な煙が空に
立ちのぼった。その前、アメリカの潜水艦から発射した水中魚雷が一直線を
描いてくるのを即時に発見し、うまく避けたという話もあった。甲板の上に
出ていた人たちを、このアメリカの潜水艦から見ると最後まで追撃するので、
甲板の上には誰も出ないようにあらかじめ禁止令が降りていた。しかし島が
みえるという声で皆が甲板の上に出ていた。この光景を見て日本人の船員が
拍手をすると、皆が危険から逃れて生きたという気持ちで一緒に拍手した。
5 トラック島の現在名はチューク(Chuuk)
李共石の海軍軍属者名簿
14
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
終わると皆が安心して船倉の中に入り、私一人が残ったようだった。こ
の時遠い水平線に島を発見した。前にみた島とは正反対の方向だ。しかし、
よく見ると、島が間違いなく動いているようだった。よく見ると一列縦隊の
多くの船だった。船は航空母艦に違いなかった。しかし、日本には航空母艦が
3、4 隻しかないと聞いていたが、約 500 m間隔で 8 隻もあり、いくら航空母
艦が総集結したといわれても全く信じられなかった。たぶん艦隊の機動訓練
中にアメリカの潜水艦を発見し、戦闘機が飛んで来て、アメリカの潜水艦を
攻撃したのだろうと思った。島の近くからは 2、3 隻の掃海艇が代わる代わるに
行き来し、我々の船を護衛し、陽が沈むまで偵察機も飛んだ。午後 5 時に
なると、船は第一の帰着地であるトラック島の広い港内に進入した。
港内には電灯の火が海に光り、まばゆいほどであった。何の船がそんなに
多いのか、数百隻も碇泊しているように見えた。船は 5 時 50 分ごろに錨を
降ろした。
夜を過ごした後に港内を見渡すと、港内には数隻の戦艦をはじめ巡洋艦、
駆逐艦、掃海艇、その他、輸送船団など実に数百隻を超えた。その中で日南丸 6
〔図南丸?〕という捕鯨船が甲板上に偵察用軽飛行機 1 台を乗せて停泊している
のが目についた。
このすべてがアメリカとの決戦のための万端の準備であり、強者同士が
闘う間に無辜な我が朝鮮人だけが無残に犠牲になると思うと、本当に気がふ
さがった。トラック島に約1週間留まっている間、我が朝鮮人慰安婦たちも
多く来ているという話も聞いた。哀れでかわいそうな女性たちと思わずにこ
こではいわゆる「パンパンガール」7 という卑しい呼び名で人間以下の扱いを
受け、一日に数十名の軍人たちを相手に、死ぬほどの重労働に耐えながら
悲惨に生きている同胞たちの実情を聞くと、本当に主権のない民族の悲しみに
6 太平洋戦争当時、日南丸は日産汽船、大洋興業と飯野海運の所属の日南丸、飯野海運所属の第 2 日南丸が
あるが、これらの記録には捕鯨船として使用された記録が見あたらない。船舶の記録からすると、日南丸では
なく図南丸を指すようだ。特に第 3 図南丸は日本水産の捕鯨母船で太平洋戦争前は主に南氷洋(南極海)で
捕鯨に使用された。1941 年 11 月に日本海軍により徴用され、太平洋戦争で石油などの物資を輸送。戦争中に
何度も雷撃を受け、1943 年 7 月 24 日米軍潜水艦ティノサ(USSTinosa,SS-283)の攻撃を受けてトラック島に
曳引され、重油タンクとしてトラック島に停泊した履歴を持つ。
7 パンパン・ガール、英語pompomgirl(性売買女性)を日本式に発音した単語という説と、女性を意味する
インドネシア語perempuan から始まった単語という説がある。一般的に街娼をさす言葉で、日本軍「慰安
婦」を示す言葉としても使われた。
15
嘆きを禁じざるをえない。トラック島では何日か泊まったが、人員と資材を
どれほど降ろしたかについては関心がなかったので、わからなかった。
最終目的地マーシャル群島 ウオッゼ島上陸
トラック島を出発してマロエラップ 8 など 3、4 か所をまた回って多くの人
員と所要資材を降ろして、最後に最終帰着地であるウオッゼ島 9 に到着したの
は釜山を出てから 21 日目の 6 月 28 日ごろであった。
最終的にこの島に降りた人員は 600 名であった。我々は船から降り始めたが、
これからこの島で丸1年間を過ごさなければならないと思うと、まずは退屈
という思いがした。それも早くて 1 年であり、万一情勢が悪ければ 2 年かか
るか、3 年かかるかもわからないのだ。
だが、船に乗っているときに絶えず考えたのは、水の上に浮かんでいるよ
うな椰子の島々があまりにもきれいで美しいということだった。一時でも早
く降りてこの自然の美しさを満喫したかったのだが、このウオッゼ島という
島は特に美しい島に見えた。
それで、初めは戦争というのも忘れてロマンチックな思いさえした。もち
ろん、一時的な感情だが、ここまでよく来たと思った。そしてその昔、小学
校時代に南洋消息と題して南洋にいった父から受け取った手紙を思い出した。
それにはパンノキの実 10 と椰子の実の味は、十分に南洋の暑さを冷まして
くれ、このように暑い太陽熱の下では椰子の木の影の中があまりにも涼しく
てたまらないと書いてあった。この晴れた空の下で一幅の絵の中で生きると
いう幻想の島が、すなわちこのウオッゼ島ではないかという思いさえした。
船から島全体を見下ろすと、椰子の林が約 70%、飛行場の滑走路予定地の
ように見える空間地帯と椰子の林の間から見える軍の幕舎と長い仮設の建物
8 Mabelap、マーシャル(Marshall)諸島にある環礁
9 Wotje、現在はウォッジェ環礁というが、当時はウオッゼと呼んだ。マジュロ(Majuro)、イバイ(Ebeye)、
ジャルート(Jaluit)と共にマーシャル(Marshall)共和国の主要な島の一つ。1944 年 1 月初めから米軍航
空隊(TF57)がマーシャル諸島のミリ、クェゼリン、ジャルート、マーロエラフ、ウォッジェなどを爆撃、
周辺の海域に機雷投下。
10 パンノキの実:学名は Artocarpusaltilis であり、属名 Artocarpus はギリシャ語のパン(artos)と果実
(karpos)からなる。
16
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
などが約 30%を占めているようだった。そして、海辺側は、今まで見てき
た他の島のようにそれこそ日光にきらきらと輝く、きれいな砂浜で囲まれ、
はだしで歩いても足が少しも汚れなさそうだった。船を降りるなり長い
ハコバン(箱房)11 のような宿舎に班別に案内された。旅装をとくと、すぐに
作業服と靴などが配給されて次の日からはこの作業服に着替えて現場に出るので
あった。作業服は生地が厚い国防色の防暑服 12 というものであった。これが
苦労の道に入る罠になるとは。こうしてその日の夕方は一言で幻想の夜で
あった。
突撃精神で速度戦である施設工事に投入
夢から覚めるまえに明け方になった。目覚める前に鉄をたたく騒がしい音が
響いてきた。みんな起床せよという信号だった。そして 3 分内に集合しろという
命令が下った。日本人の班長が落伍者は許さないといい一回りして行った。
みんな宿舎の前庭で番号を言いながら整列をした。全員が緊張をしていた
ためか落伍者は出なかった。最初に工事総責任者という日本人の加藤技師が
登壇して演説をした。
「お前たちは今日から軍人と同じ精神で作業と戦う戦士だ。水槽タンクから
始めて飛行場の滑走路と陣地及び防空壕に至るまで多くの施設工事を短時日
以内に完遂しなければならない。だから本工事は名誉ある軍人の突撃精神が
求められる突貫工事である。ここではただ一人の怠慢も落伍もありえない。
皆が小隊長と班長の指示を受けて工事を期間内に完遂してくれることを願う」。
次に直接工事現場の監督を担当する小隊長の中村という者が出てきて演説
した。この人が作業現場に現れるときにはいつも上着を着ていなかった。上
半身全体に飛竜、すなわち竜の刺青があり、やくざの貫禄を見せつけ、やく
ざの頭目としての威圧を感じさせた。目が丸く、気は短く、軽快さが過ぎて
少しそそっかしい感じだった。
11 仮設の建物
12 暑さを防ぐ服
17
「わしがお前たちの現場監督を任された中村だ」とリンカーン大統領のような
格好の良い狼ひげをくせのように触りながら、威圧して発言した。
「お前たちは今話された工事総責任者であられる加藤技師のお言葉をよく
聞いたか?とにかく作業中になまけたものが一人でもいるのを発見した時には、
容赦なくこの棍棒でその腐った精神を新しい精神に変えてやるからよく覚え
とけ。この棍棒は神聖な精神の入れ替え棒、即ちきれいな新しい精神に入れ
替えてくれる名棍棒だ。また、工事の責任量は平等に分担する。万一自分の
班内でその責任量を完遂できなかった場合は、班全体の連帯責任とし、体罰を
加えても必ず完遂させる。わかったか?」と何回も念を押した。
こうして私の幻想は、初日からの日本人の至上命令に痕跡もなく消されて
しまった。しかし、我々済州島出身の同志たちは、ほぼ地域別に近い距離に
ある人同士で班を編成し、分散されなかったのはよかった。
我々の班長は、今は故人になられたが、終達里の梁元鐘同志だった。我々は
その日からシャベルとツルハシを受けとって、水槽タンクの基礎工事となる
コンクリートのための土堀り作業から始めた。椰子の木を切ったばかりなので、
その木の根っこと頑丈なリーフ 13 の砂利を、シャベルで切り取り、ツルハシで
掘り起こす。決められた時間にその責任量を完遂するのはちょっとやそっと
で終われない大変な仕事であった。
監督者は何度か見回り、今までこれだけしかできなかったのかといって
「責任量を完遂しなかったら、体罰を受けるというのを聞いてないのか?」と
脅かした。さらに、故郷では麦ごはんに粟が混じったご飯を腹いっぱい食べ
て仕事をしていたが、ここでくれるご飯は白い米に押し麦の入った麦飯で見
た目も食べるにもいい。しかし重労働の者には半量にも満たなくて、何時間
も持たず、すぐお腹が減ってへとへとになった。
ここでもっとつらかったのは赤道直下の猛暑だった。蒸すような太陽の下
の高熱での重労働は重懲役であり、時が経てば経つほど耐えられなくなった。
時には現場監督がいない間にちょっとでも休もうとすると、どこかで見てい
たのか、矢のように走ってきて足で蹴り、往復ビンタをくわせた。ひどい時
は精神注入棒で倒れるまでお構いなく力一杯殴った。
こうしたことが限りなく繰り返され、残酷な魔の 1 ヶ月だった。本当に言
13 リーフ(reef):岩礁。
18
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
葉では到底表現できない苦痛の日々であったが、つらい峠は越え、すべての
環境に少しずつ耐性ができてきたようだった。とても足りなかった食糧も今
は普通になり耐えることができるし、熱い猛暑も慣れてきた。
しかし、私はその間、南洋特有のマラリアにかかり 40 度を上下する高熱で
約1週間、うめいていたが、無事に乗り越えた。日本人はこの病にかかって
2 人が死んだが、幸いにも我が朝鮮人の同志の中ではこの病にかかっても命
まで無くす者はなかった。また、その間、私は重労働に耐えなくなり、故郷に
手紙を書いた。はったい粉を送ってくれと要請したら、往復 15 日ほどで小
包にニンニクも一緒に送ってきて、1 ヶ月ほど間食として食べることができ、
ひどく腹が減ることはなかった。
悪質日本人現場監督中村小隊長との衝突
実際、我が済州島出身者たちは集まった人の中では教育水準が一番高かっ
た。ほとんどが小学校以上の出身者たちであり、中学校はもちろん大学出身
者も一人混じっていた。教育水準が高くて言葉や知識では日本人を超えてい
たから絶対に引けを取らなかった。また中には、ボクシングや柔道の実力者
もいて実際に腕力でも負けないぐらいだった。特に彼らの何人かは日本人に
バカにされ蔑視されるのを死ぬよりも嫌いだということを隠さなかった。我
が同志に何か事が起こったらどんな困難も恐れないという義侠心の強い正義
の人たちだった。
彼らは我が同志たちに「絶対に日本人に怖気づくな」という言葉を口癖に
たびたび励ましてくれた。また同志たちに何か起こった時は彼らが盾になっ
て収めて解決してくれた。それでも彼らが仕事をさぼったり怠けたりするこ
とは微塵もなかった。することは間違いなくやりながら、また言うことはた
めらわなかったから、日本人に弱点を掴まれることはなかった。
しかし、小隊長や班長らは何かにつけて「このヤロー、ばかやろー、朝鮮
人のヤローめ」など、我々朝鮮人を露骨にバカにした言葉を浴びせた。その
者たちはほとんどが日本人でやくざ出身である。やくざの世界では口癖のよ
うに使う言葉ではあるが、朝鮮人という言葉が出てくるときは、初めから
我々朝鮮人を無視していたので、見過ごすことはできなかった。
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我々の盾になってくれたこの先頭集団にはいつも徐相炯、朴潤瑞、高光俊、
姜公三など 5 ~ 6 人がいた。その当時、我々には本当に心強く、尊敬してや
まない同志であった。
工事を始めて何ヶ月か経ち、あんなに難しかった難工事もほとんど終わり
かける頃になっても、日本人の朝鮮人に対する蔑視はひどくなり、少なくな
ることはなかった。そのまま耐えてやり過ごしているが、感情の限界がきて
いつかはきっと爆発するという予感があった。
そんなある日、ついに来るべきものが来てしまった。仕事がちょっと暇な
間を利用して気の短い姜公三同志が中村小隊長に、ざっくばらんに一言しゃ
べった。我々同志たちの本心をわかってもらおうとしたのである。即ち、
我々同志たちはご飯が欲しくて来たのでもなければ、服が欲しくて来たので
ももちろんない。ひとえに日本軍の戦争遂行に協力するために来たのであっ
て、この島を出るときまではお互いに兄弟のように親しく過ごさなければな
らないと思う。今まではどんなことを言われても我慢してきたが、どうかこ
れからは、我々朝鮮人をこれ以上蔑視するような言葉は控えていただきたい
と言ったのである。
すると中村小隊長はこれを悪口と理解したのか、何の生意気なことをいう
のかといきなり姜同志の頬を殴りつけ、「朝鮮人だから朝鮮人と言ったのに、
何が悪いと言って手向かうのか?」と逆に反発した。これこそ盗人猛々しい
と姜同志が拳で射返したら、それをきっかけにお互い大喧嘩になってしまっ
た。日本人は日本人なりに走ってきて加勢をしたが、手に負えなくて、日本
人の班長が憲兵守衛所に走って行き、憲兵を連れてきた。走ってきた憲兵は
阿修羅のごとくになってお互いに殴ったり、打ったりする光景を見ていたが、
すぐ喧嘩をやめなければ撃つぞと叫びながら、空に向かって空砲を撃った。
それで喧嘩は中止になり、お互いの主導者と目星を付けた者だけを選んで
引っ張って行った。主導者と烙印を押された者はいつも我々の盾になり先頭
に立ってくれた人たちで、徐相炯、朴潤瑞、高光俊、姜公三、梁元鐘同志達
だった。中村小隊長も振るったこぶしに少なからず殴られた。憲兵隊ではこ
れらの状況を聞き、立場を変えて考えれば、日本人でもそのような侮辱、蔑
視を受ければ問い返すものであるから、これ以上何も言わず、お互い和解す
る方がよいと言って、その席で和解させて帰すことになった。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
相互の問題は作業とは直接何の関係もないということで、和解で一段落し
て帰ってきた。我々は同志を拍手で歓迎した。この事件の後、日本人たちの
言葉は肌で感じられるほどに変わった。しかし、それが真の姿勢なのか否か、
もう少し様子を見るべきことではあるが、気分はすっきりした。
3 ヶ月後、医務隊転属
その後、各班から医務室の助手が推薦され、私は選ばれて作業現場 3 ヶ月
を最後に珍島出身の 2 名とともに医務室へと転属になった。残った同志たち
は飛行場滑走路の舗装工事に投入され、私は我が済州島出身の同志と別れた。
いくら同じ島の中といっても作業現場がちがい、毎日のように近くで会う
ことができないのはとても寂しかった。けれども一方で、考えを変えて、我
が同志たちの為に患者や負傷者に限られるが小さな誠意でも尽くせる機会に
もなるだろうと、気持ちを新たにするきっかけにもなった。
上陸して 4 ヶ月に差し掛かるころ、第 1 次工事の水槽タンク工事は終わり、
一層期日を多く要する飛行場滑走路の舗装工事に投入された。粉砕機で砂利を
砕いてスコップで車に乗せる作業がどれほど大変かは実際に経験しないと
わからない。もちろん作業するのは人それぞれだが、3 人が一組になって
1 時間以内に乗せて走って工事現場に入れる仕事は、本当に重労働中の重労
働であった。
海辺で砂利を作る石を掘り出して砂利製造現場まで運び、この石を砕石機
で割り砂利にして滑走路に敷き、ロータリ―14 で固めてセメントで舗装をす
る組織的な工事である。いくら耐えようとしても、1 日に 10 時間以上を酷使
されるとそれこそへとへとになった。
しかし、現地に来る空軍部隊が 4、5 ヶ月内に入ってくるというのでどうし
ようもなく、死力を尽くすしかなかった。「走り馬にも鞭」のように、たとえ
倒れても必ず果たさなければならないような負担を抱えていた。このように
つらい仕事なだけに体を負傷する者も多く出た。
14 ロータリーマシンを装着した建設用機械
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さらに日本人の現場監督が我々の同志を殴ることも多かった。私も我々同
志たちに奉仕する機会はこの時以外にはないと思い、医師が診断する際、我
が同志たちがもう少し休めるように、あるいは軽い仕事で疲れた体を少しでも
休めるようにしてあげることに心血を注いだ。医師の診断をカードに記録し、
それに相応する診断表では、軽い仕事ができるようにする軽業表や休業表を
できるだけ多く発給して、続くつらい疲れを多少でも和らげるようにした。
医務室では朝鮮人同士でこのような便宜を計っているということに気付いた。
普段は気難しい日本人医務助手の一人が不審に思い、私にそれは絶対にいけ
ないと言ったが、平素私も彼が大変なときに助けてやったことも何回かあった
からか、医師には何も言わなかった。
飛行場の滑走路工事は実際に私が経験した水槽タンク工事よりもとても過
酷な工事だったため、私は同志たちの友情に背いているような良心の呵責を
感じた。とにかく工事中はみんなが無事であるように必死に祈った。ともあ
れ生き地獄のような難工事も 6 ヶ月を経てようやく完成しつつあった。
滑走路舗装工事の完成と飛来した日本の戦闘機隊
工事が終わった数日後に戦闘機 20 機が飛んできて、続いて数日後にまた追
加で増強され、合計 30 機になった。すでに来ていた 4 発の大型水上爆撃機
が夜間にハワイ方面の長距離爆撃を担当していたが、爆撃後帰ってくるとき、
戦闘機が追撃してくるのを阻止するため、この戦闘機は味方の爆撃機を護衛
するために朝早く、夜明け前に出撃するのだそうだ。
4 発の大型水上爆撃機は島の内海面、左側の中間地点である空軍司令部
〔海軍航空隊本部〕の沖合に停泊し、夜間だけハワイ方面に出撃するという。
この飛行機の航続力は 8 時間、燃料消耗量は時間あたり 10 ドラム。一度に
入れる油はオクタン価 15 の高い良質の揮発油 80 ドラムないし 120 ドラムで、
40 mの翼全体が油のタンクだという。そうすると小型戦闘機はどうかと聞い
たら、3 時間飛行に 6 ドラムで航続力は 3 時間だといった。
15 Octane 価〔飽和炭化水素〕
22
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
これは大型爆撃機に比べとても少ない量ではある。しかし、戦争をしよう
とすると、どれほど多くの量の油を消耗することになるのかを考えざるをえ
なかった。これは実に驚くべきことではないか。
逆にこれを戦争ではなく平和や繁栄のために使えば、人類にどれほど有益
なことかと思った。しかし、不幸にも人間の過度な野心により殺傷や恐るべ
き破壊のために使われるなんて、本当に天罰をうけて当然である。
飛行機が入ってから何ヶ月か経つと、はじめは水上爆撃機が 2 機でハワイ
方面の夜間爆撃を担当したが、今は1機に減った。小型戦闘機も海上浸透す
る米潜水艦の攻撃と大型水上爆撃機の護衛を担当していたが、10 機余に大き
く減らした。戦勢は日本の勝戦の報とは違って、だんだん守勢に立たされる
ような感じだった。
ここに来て 11 ヶ月になるある日のことだ。過去 10 ヶ月間はすべての施設
工事に全力を注いでいたために、時局の状況がどうなっているのかは関心の
外であった。どうすれば肉体的な苦痛を和らげられるかにだけ、神経を使っ
ているのが実態だった。しかし、故郷に帰る期限が近くなって来ると、帰国
は何よりも時局の好転によることなので、急に時局に対する関心が強くなっ
てきた。
その時まで時々は補給船が入ってきて、通信のやり取りも可能だった。た
とえ日本軍が守勢に回ったとしてもそれほどたやすく崩れないだろうと思っ
ていた。しかし、飛行機の台数が急に減って行くのを見て、どこかの戦線が
崩れれば大きく崩れることは事実と推測した。
突然、米軍偵察機が出現
ある日、急に米軍の偵察機 2 機が島の上空に現れた。地上から見ると、小
さなハエのような黒い点の 2 機が 30 センチ程度のちいさな円をゆっくり描き
ながら空を悠々と飛びながら偵察した。この時、急に地上からバンと対空砲
を発射する音が響き渡った。地上から発射された 2 発の砲弾は正確に 200m
にならない近距離で爆発したようだった。黒い煙になった爆風は高空の無風
地帯で、徐々にゆっくりと広がった。しかし、偵察機は何もなかったように、
地上の砲火をあざ笑うように、そのまま徐々に東北方面に消えていった。
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この光景を見守っていた人は、少なくとも 1 万 2000 m以上の高空に飛ん
できたので、地上のレーダーでもとらえられなくて、事前に警報を鳴らせな
かったのだろうと言った。超高空あるいは超低空に飛んでくるときには普通
レーダーでとらえられないので、いくらレーダーといっても無力というほか
ない。
米軍の第 1 次奇襲攻撃
このように偵察機が初めて現れてから 2 ヶ月が経ったある日の事である。
実はその間、米偵察機が偵察をして行ったあと、いくら遅くても1ヶ月内に
は必ず何かの攻撃があるだろうと予測して緊張をしていた。だが 1 ヶ月過ぎ
ても全く何の気配もなく、気にしていた。しかしずっと何もなかったので、
無駄に緊張していたことが愚かに思え、むしろ気持ちが緩んだ時だった。
例の通り、その日、埠頭には久しぶりに食糧補給船が入ってきて荷役作業
をしているところだった。多くを総動員して一生懸命仕事をしている時、突
然米軍爆撃機 25、6 機が島の中海の正面から一目散に飛んできて、空襲警報
を鳴らす間もなく、機関銃を乱射してきた。あまりにも緊迫した奇襲だった
ので、作業現場は大騒ぎとなり、あちこちでは負傷者の悲鳴が響き渡った。
そして空襲警報が1次攻撃がすんだ後に鳴った。
最初は、夜明けに出た日本機が帰ってきたのだと思っていた。初めて受け
た奇襲であり、とても驚き、逃げ惑った。
この時、貨物輸送車が食糧をいっぱい積んで出発しようとしていたが、そ
の車の米俵の上に乗っていて驚いて車から降りようとした瞬間、銃に撃たれ
て戦死した済州島出身の夫藤という同志がいた。多分この人が同志の中では
初めての犠牲者だっただろう。この時、本島の滑走路にちょうど飛行機が全
てどこかに出撃していて居なかったので、飛行機の被害はなかった。だが滑
走路には多くの爆弾が落とされる被害を受けたので、米軍の爆撃機が帰った
後、すぐに総動員して補修を始めた。その日の夜に穴を完全に埋めておき、
その他、各所に落とした爆弾の穴なども続けて復旧させた。しかし、この日
の奇襲は初めて受けた奇襲だったし、日本軍だと錯覚して、迅速に退避でき
なかったので、死傷者が以外に多かった。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
この日、日本軍の陣地での抵抗も激しかった。米軍が爆撃している間、地
上でもある砲すべてを使って猛烈に対抗した。それこそ空中と地上での一大
激戦が繰り広げられた。地上では機関銃や高射砲弾の発射など、多くの砲火
をあびせ、米軍のグラマン戦闘機 1 機を落とした。
この戦闘で、私は米軍パイロットの勇猛さを初めて見て認識を新たにせざ
るをえなかった。地上でこのように頑強に抵抗する中で、米軍は少しも屈せ
ず、雨や雪が無数に降ってくるような弾丸にもかかわらず、低空で縦横無尽
に飛び回り、機銃掃射と偵察を敢行した。その勇敢さに私は本当に感嘆せざ
るをえなかった。
地面に落ちた米軍機の残骸を見ると、その胴体をなしている機体が薄い紙
のようなアルミニウムで造られていた。これは機関銃一発で機体を突き抜け
てパイロットに致命傷を与えるのに十分だが、このような機体を操縦してそ
んなに勇敢に戦うことができるとは!これこそが愛国精神なのか、冒険精神
なのかわからないが、日本人たちがよく口癖のようにいう神風精神や突撃精
神に劣らない勇猛性だった。
実に感嘆せざるをえなかった。日本人たちがいう1対 10 ではなく、1 対1
の戦力が米軍は精神にもすでに備わっている。そのような強い国民だという
ことを悟らせるには十分だった。
米軍の第 2 次奇襲攻撃
それから数日が過ぎた。私は一日の日課を終えて帰り、風呂に入るために
ドラム缶に半分ほど水を入れて火を焚いていた。適当な温度になるのを見計
らって服を脱いで入ろうとした瞬間、火花のような光が目に入った。振り
返って外海の椰子の木の方を見ると、それこそ夜空に流れ星のような光を出
しながら多くの機関銃弾が飛んでいる。椰子の木に打ち込まれる音とごっ
ちゃになって、銃弾がパチパチと音を立て無数に飛んでいた。
一瞬私はびっくりして「奇襲だ!」と大声で叫びながら一番近い防空壕の
中に逃げ込んだ。同時に私を追いかけてきた人がもう一人がいて、振り返っ
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てみるとチャンさん(高原 16)という済州島大静出身の同志であった。
この人も自分の近くに防空壕があったにもかかわらず、うっかりしてここ
まで走ってきたのだった。緊急時に友達が一緒にいるということはお互い慰
めになってよいことではあるが、実際には狭くて無理があった。お互いの膝
を合わせて座らなければならなかった。この周囲は奇襲の正コースになって
いて奇襲弾が一番多く落ちてくるにもかかわらず、2 人とも無事だったとい
うことは本当に奇跡だった。すぐ頭の上を、轟音を立てながらものすごい速
さで飛んでいく胴体を見た時、私は実に肝を潰した。何よりも恐ろしい恐怖
の対象として戦慄を覚えた。
椰子の木に触れるほど低空で飛んで行った飛行機は、わずか数秒の間に内
海面側からすぐに機首をまわして再攻撃して来るのだ。私はこの時を逃がさ
ないように全速力で近くの防空壕に入った。この時ついてくると思った高原
同志は他の防空壕を選んだようだった。その瞬間また猛烈な一陣の射撃風が
過ぎ去った。しかし、第 3 次攻撃からは全飛行機が高空に上昇し、1 機ずつ
急下降しながら順番に爆弾を投下し始めた。最初に司令部の本部付近を集中
的に爆撃し、その他の地域は散発的に多くの爆弾を落とした。
この奇襲攻撃によって地上の建物は破壊されて燃えてしまった。軍の兵舎、
労務者寮、病院と食堂に至るまで、すべての建物は火炎に包まれ、島全体が
火の海になってしまった。火が大きいうえに消防器具さえない実情であり、
それこそお手上げだった。
死傷者や重軽傷者も多く発生したものと思われる。四方からは泣き声も激
しく、忙しく走り回る軍人や軍属が、真昼のように明るい火でよく見えた。
悲鳴を聞きながら当然飛んで行って助けなければならないという気はあるの
だが、生まれて初めて受けた奇襲攻撃であり、だれもが恐怖に震え、空襲に
怯えて勇気が出ず、防空壕のそばで手をこまねいているしかなかった。その
ように戦々恐々としている間に夜が明けた。見ると、近くの椰子の木はほと
んどが火に焼けて幹だけが残り、地上の建物は一つも残っていず、灰の山と
化していた。
死傷者は軍人及び日本人軍属が何名かいたが、幸いな事には我が同志たち
は軽症者が何人かいるだけで、皆が無事であった。重傷者については防空壕
16 創氏名
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に行って治療をし、軽症者は防空壕の外に設置された治療所で治療した。医
薬品は臨時に使うものだけを残して全て事前に地下室の貯蔵庫に保管して
あったので何の支障もなかった。
米軍の偵察機が去ったあと本格的な爆撃が始まり、地上の建物はすべて焼
失した。そのためにこれからは防空壕生活をするしかなかった。
生き地獄脱出のための自傷行為続出
この日の爆撃は 2 回目であるが、通常の空襲ではなく、すべてが奇襲である。
この間、白昼に出撃して帰ってくる日本機と勘違いして受けた奇襲と共に、
時間的に言えば到底避けることのできない奇襲であった。通常の空襲なら
5、60 マイル前方までもレーダーで捉えることで少なくとも何秒間の余裕は
ある。しかし、奇襲の場合はせいぜい 1、2 秒しか余裕がなく、本当に当惑する。
みんな生まれて初めのことで衝撃が大きかった。日常生活では緊張がただよい
凄惨だった。
改めて戦争に対する恐怖と戦慄で精神に異常をきたす焦りさえ出てきた。
どうすればこの生き地獄から脱することができるのかと思案する者も多かっ
た。しかし、袋の中のネズミのように四方が海のために逃げる所がなく、身
動きもできず、殺されるしかないのだ。
実際にその日以後、恐怖症に罹った人も多かった。奇襲に成功した米軍が
これからも時々この空襲方法を選ぶようで、皆が各自これに対する対策を
練って、神経をとがらせている。とうとう、この生き地獄から抜け出せるの
なら、体の一部を切るなど何でもするという言葉まで行きかった。しかし、
そんな危険を敢行することは、口では言うものの簡単にはできない。
度を越せば、むしろ命を失うことになり、だからといって不十分なら目的
は達成できず、苦労だけを招くことになる。当時のすべての同志たちの心理
状態を代弁することではあるが、実は私の神経も例外ではなかった。万一こ
れからもこんなことがまた起こって不幸にも犬死をするならば、ただ私一人
だけを信じて生きている故郷の家族はどうなるのか?思うだけでも気が変に
なるような心情だった。
そんな中、その日もセメントを乗せた船が入ってきて荷役班員が動員され
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た。クレーンを利用してセメントを持ち上げ、貨物車に乗せて運ぶように
なっている。桟橋から 3、4 人がクレーンから降りたワイヤーロープを広げ、
その上にセメントを積んでロープを巻き、一度に 2、30 袋ずつの重量を持ち
上げるため、大きく揺れた。その時これを予測して避ければ問題はなかった
のだが、この生き地獄から抜けることだけが上策だという一念から、故意に
体をよけずに 2 人がぶつかった。怪我は避けられない。
2 人ともその場に倒れたが、同僚たちによりすぐに病院に護送されて、診
察をした結果、一人は右の肋骨が、もう一人は左の肋骨が 2、3 本ずつ折れ
ていた。今は故人になった旧左面上道里出身の高デシクと呉ムニョン同志で
あった。この人たちは幸いにも送還者になって病院船が入り次第、帰郷でき
るようになった。誰よりもまず生き地獄から脱出できたといえる。
このことがあった後、何日か経って今度は同じ故郷出身のチョン斗玉同志
が魚を捕りに行ったが、事故にあった。彼は私製爆薬を使って魚をうまくと
ることで有名であった。彼は要領が悪くてうまくなげなかったわけではない
はずだが、近くで見ている人が早く投げろと焦って叫んでいるにもかかわら
ず、火薬をもった左腕をぐっと持ち上げ、振り向いてにやりと笑って見せた。
その瞬間、そのまま爆発してしまった。爆発するや否や、その場に倒れたの
を同僚がすぐ病院に護送した。見ると、左腕が切断され、顔面をはじめ上半
身全体が傷だらけで本当に残酷であった。
この時のチョン斗玉同志も生きるための最後の手段として、そんな残酷な
自傷行為を敢行したのではないだろうか。
きれいに体を洗い、熱心に治療をした結果、切断された左腕以外はすべて
完全に回復した。そして、肋骨を折った同僚たちと一緒に病院船牟婁丸 17 が
入ってきたときに帰郷することになった。生き地獄から脱出した 2 回目の成
功者ということができる。
17 牟婁丸:大阪商船の貨客船だったが、1938 年 8 月 1 日海軍に徴用され、呉鎮守府所管特設運送船(雑用船)
として 1938 年 8 月 18 日呉出港後、華中方面で活躍。1942 年 12 月 25 日呉鎮守府所管特設病院船となり、
1942 年 12 月 31 日佐世保工廠で改造工事に着手。1943 年 1 月 8 日に工事完了、20 日佐世保出航、28 日呉
に寄港。1944 年 6 月 10 日呉出港、1944 日 11 月 13 日フィリピンマニラ港付近で患者 40 人を乗せて待機中
に米軍第 38 任務部隊〔空母部隊〕搭載機による空襲を受けて沈没。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
米軍の第 3 次奇襲と年寄りの日本人軍属
防空壕生活が始まり、これから米軍急襲がだんだんひどくなることに備え、
防空壕の補強修理をするために多くの人員が動員された。
仕事をしている間、しばらくは空襲警報がなかったのに、この前に奇襲し
てきたコースと同じコースで急に猛烈な攻撃をしてきた。むやみに乱射する
機銃射撃に隊員たちは一度に皆死ぬと思ったが、その場でそのままうつぶせ
になったり、椰子の根元にうずくまったり、またその中でも近くの防空壕ま
で走っていったりなど、各自が緊急避難してびっくり仰天であった。
空襲警報は 1 次の攻撃が去った後、ようやく鳴った。1 次攻撃が終わって
飛行機が機首を回して再攻撃をしてくるときは、誰が命令しなくても時を逃
がさずに、いち早く近くの防空壕に皆が走って入った。しかし、この時まで
自分が負傷していることも知らなかった日本人軍属が1人、一緒に防空壕に
走って入ってきた。同僚から、自分の肩から多くの血が流れていると聞くと、
銃で撃たれたのでもう死ぬんだぁと大声で叫んだ。
そうでなくてもこの年取った日本人軍属は、これまで 1、2 次奇襲攻撃が
続くなかで、精神異常の症状を見せたが、銃で撃たれたので怖くなり、どう
していいのかわからなくなったのだった。同僚が彼のフンドシを脱がせて、
早くその傷口をしっかり巻けば、止血できそうだったので、急いで応急処置
をして、空襲が終わるのを待ち、盲管銃創や刺さった弾丸を抜くように処置
した。しかし、その日の奇跡は、仕事をしていた所が奇襲攻撃の正コースに
なり、とても多くの弾丸が落とされたにもかかわらず、年取った日本人軍属
1人が負傷しただけで、他の多くの者たちはすべて無事だったことだ。どう
考えても異常ではないか。そうしてみると、人間の命には若さから生まれる
神秘の防御力が何か別にあるのではないかという思いさえした。
そのためその後、この人も病院船牟婁丸が入ってくると帰郷する機会を得
た。凶が福になったということだ。しかし、3回も米軍の奇襲攻撃にあった
ので、皆は精神的に安定せず、またこれ以上、空襲警報が信じられなくなっ
て、精神状態が異常になるほどだった。
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うらやましい先住民の自由な生活
この島には、先住民数十名が住んでいるのだが、時々作業現場で会うこと
があった。中には夫婦と子どもがいる者もいた。
彼らは作業現場に出て仕事をしていながらも自由であった。それはしたい
ときはするし、したくなかったらやめる。作業への報酬ではなく、ご飯を
食べることがすべてであった。彼らの主な食料は椰子の実、パンノキの実、
タコ 18、マコモ 19 などで、これらは島ごとに豊富であった。これを主食に生きて
きたが、作業現場で食べるものを珍味と思っていた。現場に出てきて仕事を
すれば、ご飯は食べさせてくれるので、時々そうやって出てきて仕事をしたが、
仕事が嫌ならいつでも勝手に行ってしまった。
椰子は実を採って食べるのが普通だが、その若葉が 5、60 センチまで伸び
ると、皮の中で花が開く前に若葉の皮の上に紐をくくり、木の根元から芽の
端までぐるぐると巻いてしばる。よく切れる刀で芽の端をそっと切って傷を
つけ、その端にびんを垂らす。2、3 日するとピリッと甘い椰子の水がびん
を一杯にする。そのまま 2、3 日置くと甘い椰子の酒になる。ここに発酵剤
を 2、3 錠入れてさらに 2、3 日置くと、強くて甘い高級酒になる。そのまま
1ヶ月以上吊り下げておくと高級の酢になる。この他にも椰子の蜜をいくつ
かのびんに集めて長く釜で煮詰めると、水あめや羊羹などいろいろなものを
作って食べることができる。これが彼らの主食になる。
時にはカヌーに乗って海に出て、銛で大きな魚をとってきたりするし、釣
りに行くこともある。そうやってこの島、あの島を思い通りに行き来し、本
当に自由でたくさんの自然の恵みを受けている人たちであり、うらやましい
限りであった。
またマゴモックといってジャガイモのような成分だが、これを石で挽いて水
に浸けて澱粉を作り、これを乾燥させて保存しておき、少しずつ取り分けて
おかゆをつくったり、すいとんを作って食べたりもする。これ以外にもパパ
18 木の名前。タコは学名 Pandanusboninensis で熱帯植物。果実はパイナップルと似たような形で食用に利
用でき、最初は緑色だが熟すと明るいオレンジ色から赤色を帯びる。
19 マコモ(真菰ManchurianWildRice.学名Zizanialatifolia)を指すようだ。稲科マコモ属の多年草。東
アジア、東南アジアに分布し、日本では全国に分布。現存する日本最古の歌集である万葉集にも登場する植
物。水辺で群集し、食用としても利用される。
30
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
イヤなどの果物もある。この人たちはこの島に子どもの学校と教会まで持っ
ていたが、情勢が緊迫するに従ってどこかに移動したという。その当時聞い
た話ではウオッゼ島の次に大きな島であるオリメジ島 20 に移ったが、米軍機が
爆撃を始めた後からは再びどこかへ移動してしまったという噂があった。
このように彼らが天地で自由に暮らしていることとは正反対に、我々の同
志たちの生活は日本人の強制労働に苦しめられ、ひどい苦痛を受けていた。
あまりにも対照的であり、彼らの自由をうらやましく思わざるをえなかった。
中村小隊長との再衝突
当時の施設工事は初めから、突貫工事であり膨大なため、通常の方法では
「千年河清を俟つ」といえるぐらい難工事だった。工事現場の責任者は責任者
なりに競争意識があり、各班長たちは班長なりにその成績を争う中で、骨が
折れそうになるのは我々朝鮮の同志のほかになかった。
前述したように、日本人で労務者〔の監督〕として徴用または志願して現
地に行った人たちは、日本のやくざ出身であり、その性格が荒いだけでなく、
言語は下品な言葉だけを駆使した。朝鮮人に対する態度はいつも、日本人が
主人であることを誇示して、完全に奴隷扱いした。それで、我々朝鮮人が少
しでも目に障ると、叱られると同時に必ず往復ビンタが行き来した。つまり
手のひらで顔の左右を殴りつけるのだ。
これが彼らの日常茶飯事だったので、どんなことでも、我々朝鮮人を一度
悪いとみなせば、絶対にその弁明をさせなかった。良くも悪くも日本人は
「正」で朝鮮人は「邪」というように決めつけていた。だから、彼らの目に障
ることさえあれば、殴られるのが常だった。だから、いくら悔しくて憎くて
もこれを避けるために、ただぺこぺこと、はい、はい、と言って無事に通り
ぬけた。それでも少しでも怠けたように見えると、精神を変えてやると言っ
て気をつけの姿勢をさせ、精神注入棒で 20 ~ 30 発殴りつけた。
我が同志の中には、故郷では両親の元で大切にされて、他人の事はおろか
家の仕事も手をつけたことのない閑良〔閑職の両班を示すが、ここでは遊び
20 OrmedIsland、ウォドメジ島
31
暮らす人の意〕もいるのだから、この日本人の仕打ちには耐えられなかった
ことだろう。その中の一人に朴潤瑞同志がいた。彼は日本人現場監督の中村
小隊長にごろつきと言われるほど扱いが難しい人物で、知らない人はいない
ほど有名だった。その理由は他人と比べて仕事はできなかったが、言葉では
だれにも負けずすらすら、てきぱきとやり返した。日本人には、いわゆる理
屈っぽい、歯に衣着せない話ばかり言うので、中村にはあきれたヤツと思わ
れていたが、我が同僚の歓心を買うのには十分だった。
前に記したように、彼らは我々同僚たちの事なら、たとえ自分が殴られる
ことがあってもいつも先頭に立ち、どんな難関に遭遇しても同僚を保護し、
解決してきた。もともと彼らの性格は正義感に燃え、欲がなく、義侠心が強
かった。自分のことなら弁明で終わるが、同志がひどい目に合うことに対し
ては、頼んだり弁明したりして両方を要領よく駆使し解決する才能があった。
本土上陸 4 ヶ月に起きた衝突以来、些細な事件はあったが比較的無事に過
ごしてきた。しかし、1年が過ぎた今、情勢が差し迫っているだけ作業量も
多くなったが、日本人に比べて朝鮮人にだけ大変な作業をさせた。飛行機格
納庫の施設工事が緊急突貫工事として命令され、我が朝鮮人同志は昼夜を問
わず、死に物狂いで仕事してきた。もちろん工事の初めから不平は多かった
が、我々は現地での期限が満了になっていた。解除されればいつでも故郷に
帰れるので、これを最後の奉仕だと思ってすべての不平を我慢して仕事をして
きた。ところがその困難な工事を 20 日あまりも続けてきたにもかかわらず、
日本人たちは軽い整理作業をしながらも一度も交代すると言わなかったため、
我々同志たちは憤慨せざるをえなかった。
この時、我慢できない我が同志の中で朴潤瑞、徐相炯など何人かの同志た
ちが反発した。「我々朝鮮人を人質にして、名誉を受けるのに血眼になって
きた中村小隊長はどこに行った?私がこいつをそのままにしておけば、哀れ
な我が同志たちだけが苦しめられる。だから私はこいつをそのまま放ってお
くことはできない」といい、日本人が仕事をしている方に走って行った。こ
れを見た我々も「そうだ、そいつを捕まえろ」と言いながら後に続いた。こ
の時、先頭で走っていた姜公三同志は、日本人だけが軽い整理作業をしてい
る現場に飛び込んだ。そこで中村小隊長の胸倉をつかんでゆすりながら、す
ぐに交代してくれないかといいながら、拳一つ殴った。続いて一緒に走って
32
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
きた同志たちが加勢すると、日本人たちも走ってきてお互い殴る蹴るの喧嘩
は大きくなり、作業現場はあっという間に修羅場になった。結局、日本の
ヤツらは人数不足で手に負えなくなると、一人が憲兵守衛所に走っていって
憲兵を連れてきた。走ってきた憲兵はすぐに喧嘩の中止命令を出すと同時に、
我々の主導者として名指しされた朴潤瑞、徐相炯、姜公三、高光俊、梁元鐘
同志たちを引っ張っていった。他の多くの我が同志は引っ張って行かれた同
志たちについていった。そして、彼らが我々の声を代弁したのだ、絶対にそ
の人たちに罪があるのではない、その人たちを処罰してはいけないと大声で
叫んだ。しかし、憲兵守衛所に行くと、引っ張ってきた同志たちだけを事務
室の中に入れ、ドアを閉めてしまった。残りは入れなくて、外で大きな声で
叫んだが、中では取り調べが続いた。
憲兵隊は、軍司令部の緊急命令で実施する工事なので、中村小隊長個人が
するものではない、中村に何の罪があるのかと反問した。我が同志たちは
「そのことを知らないわけではない。初めから我々朝鮮人だけを工事に投入し
た時も、何も言わないで、その大変な工事を 20 日以上も続けてきた。小隊
長が工事現場の総責任者であれば、そして朝鮮人を差別しなかったら、こん
なことは起こらなかっただろう。これからわずか何日で工事が終わるのなら、
相互慰労の意味でも、その間一度くらいは交代をしてくれるのが道理ではな
いのか?」と言った。憲兵隊は、それはある程度納得できるが、その時は事
前に建議しなければならない。暴力を使うというのは間違っていると指摘し
た。暴力を先に使った姜公三同志とこれを扇動した朴潤瑞同志をそのまま帰
すことはできないと言って、それぞれをムチで 20 ~ 30 回打った後、釈放し
た。本当に悔しかったが、残りの工事は日本人のヤツらが仕方なく引き受け
た。悔しいことはあったが、その程度で終わったので幸いだったと思うこと
にした。その後、姜公三同志と朴潤瑞同志はムチ打ちの後遺症で何日か非常
に苦労したし、同志たちはその切ない思いを口に出せなかった。
追撃された日本の戦闘機の全焼
米軍機の奇襲が始まると、最初に飛行機が入ってくる瞬間から猛烈な機銃
射撃をする。1、2 回と縦横無人に乱射したのち、全飛行機が高空に上昇し、
33
島の上空を一回り旋回した後、降下線を定め、その線で1機ずつ急降下しな
がら爆弾を投下していくのが通例となっていた。奇襲の時には最も低空で海
上を飛んでくる。椰子の木に当たるほどの低空であり、地上のレーダーには
いつも写らないので、奇襲が来ればひどく当惑するしかない。
このような奇襲を続けるだけだと、受ける側もそれだけ備えることになる
ので、奇襲はこの程度で次からは通常な攻撃に転換するだろうと推測してい
た。これ以上、米軍機の奇襲はないはずだが、これまで突然の奇襲を 3 回も
受けたあとでは、皆が恐怖を覚え、言葉を聞いただけでも慌てふためいた。
地下格納庫が完成される頃から米軍機の奇襲が始まった。本島を守る日本
の戦闘機は激しく飛び回っていた。実際に飛行場滑走路に長時間留まってい
ることはほとんどなかった。それだけでなく止まっていても給油程度の時間
で、長く滞在しないでその度ごとにどこかに飛んで行った。夕方ごろに帰っ
てきてはまた夜明け前にどこかへ出撃するのが普通だった。
第 3 次の奇襲攻撃を受けたときも、残っていた戦闘機 10 機余と水上爆撃機
1機は、ちょうど奇襲が来るたびにどこかに出撃していた。いない時だけ空
襲を受けたのでうまい具合に飛行機の爆弾には当たらなくて、その都度、無
事だった。
まだ帰ってこない飛行機のために、米軍の爆撃で被害を受けた多くの爆弾
の穴を夜が明ける前に完全に埋めておかなければならなかった。夜間にサー
チライトをつけて作業をしたが、遠距離から目標になって米軍の奇襲を受け、
意外に多くの死傷者を出した。その後は奇襲を避けて、通常 1 日に 1、2 回ず
つ 50 機以上が飛んできた。当時アメリカの誇るグラマン戦闘機の襲来が続い
た。さらに爆撃は一度来たとなると、その時間がだんだん長くなり滑走路は
もちろん、各砲台と陣地に向かっても猛爆撃を加えた。
そんなある日、出撃していた日本機が夕方ごろに帰ってきて滑走路に止ま
るやいなや、追いかけてきた米軍機が猛烈な奇襲攻撃を加え、飛行機全体が
火にのまれ、全焼してしまった。今や米潜水艦の侵入も防げず、すべての補
給路は完全に遮断され、孤立を免れなくなった。とても大きな打撃だという
ほかない。
以後、すべてのニュースが途絶え、このまま死んでしまうのではないかと
いう絶望感さえ生じた。航空隊司令部の沖合にいつも停泊していたハワイ
34
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
〔方面〕担当の大型爆撃機も最初は 2 機あったが、1 機に減った。それが今は
その 1 機までも撃墜されてしまったのか、あるいは安全地帯に避難したのか
わからないが消えてしまった。そしてこの島を守る戦闘機はすぐ補充される
と何度も噂されたが、結局、ウソとなった。
病院船牟婁丸と米軍の空襲
ある日、病院船牟婁丸が入ってきた。本島に来てから満1年 4 ヶ月ぶりだ
と思われる。病院船はすでに半年前にも入ってきたことがあったが、その間
多くの患者が長い間焦りながら待っていた。病院船が入ってきたというと、
患者たちはもちろん、患者ではない人たちも一緒に喜んだ。まるで子どもが
お母さんの胸に走っていくようなものだ。
すでに患者たちには事前に連絡されていたのか、すべての準備ができてい
た。それで患者たちは病院船まで乗せていく上陸用の大発動艇 21 に乗せた。
病院船は船体が白い純白の地に赤い赤十字のマークが描かれたきれいな船で
あった。少なくとも 3 千トンにはなるようだった。我々も何か手を使ってい
たら、あのように美しい病院船で帰郷することができたのにと勇気のない自
分を後悔するのだった。
ところが、送還者たちを乗せた船が埠頭を離れて少しのときだった。お互
いさようなら、さようならと手を振っていて、時間はすでに 10 時が過ぎてい
た。患者たちが乗った船がゆっくりと〔病院船まで〕半分あたりのところに
行くと、急に空襲警報が聞こえて、皆は当惑し、ものすごく怖くなった。陸
地でもそうだが、海で船に乗っている患者はどれほど驚いているかを思うと、
これから繰り広げられる状況を手に汗を握りながら見守るしかなかった。と
にかく患者が無事なのを祈った。
もう 2、3 秒で米軍機 22 は飛んできた。あっという間に米軍機はいつの間に
か病院船の上空まで到達し、島の正面から猛烈な機銃射撃をした。しかし、
気になっていた患者たちと病院船に対しては銃一発も撃たなかったので、皆
21 上陸用舟艇
22
〔原文では「米軍戦爆機」とあるが、空襲状況に応じて、米軍機、爆撃機、戦闘機などと訳出、また当時空
軍は存在していないため、「米空軍」の記述は米軍と訳した。「日本空軍」とする記述は航空隊と訳した。〕
35
が無事に病院船に上がれた。見守って心配していたすべての人たちには意外
だった。
もちろん国際法によって病院船に対しては絶対に射撃を加えてはならない
ことになっている。だが撃とうと決心したら、武器を運搬しているとか、そ
の他兵力を乗せているとかどんな言い訳を付けてでも沈没させることができ
る。国際法を守った米軍の遵法精神に感嘆せざるをえなかった。そのなか、
郷愁の思いが一層胸に迫った。病院船は空襲のさなかに出発した。
空襲に来た米軍機は 30 機ほどだったが、島全体に猛烈な機銃射撃を加え
た後、高空に上昇して1機ずつ急降下しながら爆弾を落とし始めた。しかし、
この日は地上から粘り強く対抗をしたので激しい攻防戦となった。そのため、
地上の日本軍の各陣地とトーチカ 23 などが甚大な打撃をうけ、飛行場滑走路
にも多くの爆弾を落とされた。これを復旧させるにはどの時よりも多くの力
が必要だった。この日の戦闘で米軍機 1 機も地上砲火に当たって墜落した。
食糧倉庫爆破による食糧問題の悪化
その後、昼間は昼間なりに、夜間は夜間なりにという昼夜間の攻撃で、爆撃は
だんだんひどくなり、その数も増えていった。一回で 4、50 機ずつ、それも一日
に 2、3 回爆撃する時もあり、また夜間には夜間でいわゆるコンソリデーテッド 24
長距離大型爆撃機〔B24〕が飛んできて、夜が明けるまで爆撃をした。我が
同志たちは夜昼を問わず危険にさらされた。
はじめは、昼に隔日で来たのが、一日に 2、3 回ずつ来るようになり、そ
れが生活に大きな支障をもたらした。また夜間は夜明けまでに長距離大型爆
撃機が爆撃するので夜間の活動さえ不可能になって、食べることも寝ること
も十分にできなくなった。弱り目にたたり目で、高空から地上に向かって数
限りなく落とされる爆弾が、地上に到達するまでシュー、シューと怪音をた
てたので、すぐ頭の上に落ちてきそうな恐怖感により、すべての神経が極度
に麻痺してしまった。爆撃はだんだん激しくなり、破壊されたところの復旧
23 トーチカ(tochka):点という意味のロシア語トツカ(TO Ч KA)に由来。第二次大戦前にソ連が満洲と国境
地帯に構築した永久陣地を指す語だったが、その後一般名詞として使用。陣地にある小さくて丈夫な要塞。
24 Consolidated、大型爆撃機
36
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
作業も一層多くなって、精神的にはもちろん肉体的にもやり遂げることが本
当に難しい壮絶な状況だった。爆撃時間はおよそ 20 分ないし 30 分に満たな
かったが、その時間がどれほど長かったか。一日にも死にそうな峠を数限り
なく越えなければならなかった。作業途中に米軍機の奇襲を受けて、多くの
死傷者を出した時も 1、2 度ではなかった。しかし、このようななかで一番致
命的な知らせは大型爆撃機からの大量の爆弾投下で皆の命である食糧倉庫が
爆破されてしまったことである。
そうでなくても米軍によって制海権と制空権のすべてを失った状態であり、
食糧補給を大きく心配しているところだった。ところが弱り目にたたり目で
命の食糧倉庫まで爆破されてしまったので、多くの人がこれから何を食べて
延命していけばいいのかを考えたら、本当に目の前が真っ暗になった。最初
にこの話を聞いたときは、まさかと半信半疑だったが、実際、少し後でたく
さんの砂が混じった米の配給をうけてあきれた。
しかし、それが現実であり、どうしようもなかった。このように米の大切
さを感じたのも生まれて初めてだった。これから草粥だけで延命するのか、
すぐに草粥さえも食べることができない時もあるのではと備蓄用に残すこと
もした。
その時、残しておいた米は長い間、命のように大切に保管して、1 年後、
祭りの日や誕生日に草粥に混ぜて炊いて食べたりした。そうしながら、私は
死んでも飢え死はしないぞと決心して、最後まで何合かの米だけは残すこと
にした。そして一番大変な時にだけ少しずつ使い、草粥に混ぜて炊いて食べ
た。砂が混じった米といえども、しばらくしたら無くなってしまう。その次
からは椰子のコプラ 25 が一日に 2 個ずつ配給された。しかし、それさえも一
週間も経たずに中断されたので、それからはどうすることもできず、自給自
足で草粥だけで延命するほかなかった。それからはだれにも頼ることができ
なくなり、各自無言の生存競争が始まったといっても過言ではない。
椰子は本島を離れた離島にはいくらでもあるが、軍当局で掌握し、許可な
くむやみに採ることができないようになった。それで、海へ出て、魚やカニ
のほか、貝や海藻類の中から食べられるものを自分で捕って食べるほか方法
25 Copra、椰子の実の縁の硬い胚乳や椰子の硬くなった果肉を削って乾燥したものをコプラという。コプラの
粉は牛乳の代用品として使う。
37
がなかった。草粥ばかり食べると何日も経たないうちに、体ががりがりと痩
せて力がぬけて、足が震えてめまいまで起こるからだ。ここで、座り込んで
いては生き残ることができないので、いくら疲れて目がぐるぐるまわっても、
仕方なく自給自足をしなければいけなかった。まず、私は絶対に生きねばな
らないという固い意志と粘り強い努力と大胆な勇気がないといけないと思っ
た。そして誰彼なしに飢え死にかけている立場だから同情で生きようとすれ
ばすぐに餓死するだけと悟り、勇敢に活動した。
魚を捕る方法は、第1に爆薬を使って捕る方法と、網を投げて捕る方法、
その他に釣りの準備をして捕る方法など、色々あった。その中で爆薬を使っ
て捕る方法は、不発弾を解体してその内部にある黄色い火薬を取り出し、缶
詰の缶に入れて雷管を入れ、導火線をつけてコールタールで固定させる。こ
れを「投げ釣り」といった。
魚が集団で集まっているところを発見する、あるいは他人と協力して魚を
一方に追いやってその時に合わせて投げれば、たった1回でも多くの魚が捕
れる。だから、協力してこの機会を狙い、魚を捕って食べる人が一番多かっ
た。釣りをする人もいたが、いつ来るかわからない空襲のため、時間がかか
る釣りをする人はあまりいなかった。網を利用する人は、網を作る材料を探
して編むのに時間がかかるため、何人かしかいなかった。しかし、一番多く
利用する投げ釣りは、雷管が軍から出るものなので、手に入れるのが難しい。
特に不発弾を解体する技術者があってこそできるのだが、これがまた難しい。
それでも窮すれば通ずというもので闇取引する者もいたので手に入った。
このように、魚を捕るよい方法もあったが、激しくなる空襲のために安心
して行くことができなかったし、自給自足のために動くことはまさに難し
かった。しかし、魚を食べてこそ栄養補給になり次の活動が可能になるので、
勇気を出して動くほかなかった。草粥には栄養分はないが、それを食べなけ
れば、飢えをしのぐことができないし、延命が難しくなるので、「ウサギの耳
草」26 という植物も我々には命の草であった。
ここに自生する草はほとんどが外見的には食べられそうだったが、多くが
毒草だった。その中でも一番毒のない草がウサギの耳草で、水を 2、3 回換え
26 Kalanchoetomentosa(カランコエ・トメントーサ)、月兎耳〔つきとじ〕、ウサギの耳のサボテンなどと呼
ばれる。多肉植物。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
ながら少し長く煮れば、毒気がとれた。しかし、食べるのにはがさついてい
た。無味ではあるが、空腹を満たすにはこの草以外にはなく、他に安心して
食べられる草もなかった。最初はスベリヒユ(滑莧 · 馬歯莧)も主食として
しばらくたくさん食べた。熱帯地方でもあってスベリヒユは熱さえあれば驚
くほどよく育つ草で、爆弾の穴の周辺や、防空壕の周りに多く植えてひとと
きは多く収穫し、長い間食べ続けた。
しかし、空襲がだんだんひどくなり、地表が限りなくひっくり返されたた
めに、根を張ることができない。仕方なく、ここ内海面一帯でよく育つウサ
ギの耳草が主食になった。
このウサギの耳草は、枝にウサギの耳のように見える葉が 5、6 枚以上あり、
普通 5、60 センチ程度に育つ。生育が旺盛なので、一度に多くの量を収穫す
ることもできたが、これからも続けて主食として延命していかなければなら
ないので、節約し、各自が食べる量だけを採って食べるのが習慣になった。
いくら豊かに育つといっても何しろ人が多いため、それさえも早くは育って
くれず、大変な時が多かった。
育たない時は、春菊のような草を食用とした。その葉は中央に十字架状の
黄色や赤の模様があり、遠くから見るとちょうど花が咲いているように美し
く見える草だ。この草はほうれん草のようで味も見かけもよかった。しかし、
その毒気はウサギの耳草に比べると 10 倍ほどあり、5、6 回水を換えながら
長い間煮ても若干の毒気は残っていた。だから続けて食べることができなく、
ウサギの耳草が採れない時だけこれで代用した。
この草を食べるとまず、めまいがしたが、1 回程度ならあまり苦痛ではな
かった。実際にスベリヒユも続けて食べると、めまいと下痢が普通だった。
どの草を食べても、養分は同じではないようだった。せいぜい空腹を満たす
ことができる程度だった。10 日余続けて草粥を煮て食べると、いくら体力が
あって健康な人でもだんだんやせて、例外なく栄養失調になり力が抜けて、
重患者のように四肢が震える。それで椰子コプラや肉などが必ず必要だった。
そのため夜に干潮になった機会を利用して警備兵の知らない間にうまく離島
に渡り、椰子のコプラを採ってくる勇者がたまにいた。これは本当に大胆で
勇気のある人のみできることだった。
39
その他にも、強い風が吹いた後には海からクラゲが海辺の砂の上に浮かぶ。
その時を期してたくさん拾って食べた。これを淡水ですすいで食べてみると、
まるでいかを食べているようにおいしかったが、あまりにも塩辛いので一度
食べてからは食べなくなった。それだけでなく、食べた後には必ず下痢をし
てしまい、体は一層だるくなった。
このように食べていくのに一生懸命であったが、日本から食糧補給船が来
るという朗報を聞いた。しかし、すでに米軍によって制空権と制海権をすべ
て喪失して完全に孤立した状態だったので、それが実現可能なのかと思った。
いくら考えても信憑性がなかった。それでも食糧に深い未練が残っていた。
半信半疑だったとき、もう少し確実な情報が入ってきた。それは食糧補給船
ではなく、潜水艦で食糧を補給するというのであった。しかし、潜水艦と
いっても船が入ってくる入口は一つしかなく、そこにはすでにアメリカの潜
水艦が徹底的に守っているはずだから、これもまた可能なのかと思った。い
くら考えても信憑性がないのは同じだった。
しかし、食糧の引き取りのため軍では特攻隊を組織し、夜間を利用して事
前に交信までするという。だからダメで元々であり、また危険性は相変わら
ず残っていると見るしかないが、食糧を補給してくれるのだから、どんな困
難があっても放棄することはできなかった。こうして当時、5 砲隊長でニッ
クネームがカイゼル髭という大胆さと勇気があることで知られている人が引
率隊長となり、部下の特攻隊員何人かを連れて、軍上陸用の大発動艇に乗っ
て出発した。漆黒の暗い夜に火一つ付けないで港内から遠いところに位置す
る港内入口、水道口 27 に向かって走って行った。
船はついにその入口まで到着して発火信号をした。すると向こうからも返
事の合図がきたというのだ。事前に交信までしていたので、友軍の潜水艦だ
と思って接近し、ほぼ 10m 前方まで近づいたとき、急に機関銃射撃を乱射し
てきたというのだ。もちろん事前にその攻撃に備えて十分な準備をして出発
したのだが、急な奇襲にあって驚かざるをえなかった。猛烈な射撃で追撃し
てくるのをこちらも決死で対応射撃をして、必死にその危機をのがれた。幸
いなことに、こちらの負傷者はただ一人ですんだというのだ。本当に大変な
ことであった。
27 潮が出入りするところ
40
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
その日の光景は、こちらが直接対応する潜水艦以外にも事前に構内に入っ
てきて監視していた米潜水艦の支援射撃もあなどれない展開だった。だが味
方の被害はその程度で収まったのかという疑念を振り払うことはできなかっ
た。結局、予想した通り、皆が大きく期待していた食糧補給は失敗に終わっ
たので、どちらにせよ米軍の計略にまき込まれたということではないかと
思った。
上陸を試みた米機動艦隊の大爆撃
その日以後、情勢はさらに悪化の一途をたどった。これまで昼夜間を問わ
ず、大型爆撃機は最大 5、6 機、小型爆撃機は 6、70 機まで飛んできて、一
日に 2、3 回も爆撃をすることがあった。我が済州島の牛島ほどにも満たない
小さな島に、このように多くの爆弾と機銃射撃を繰り広げるので、島のあら
ゆるところが爆弾の穴だらけになった。そのため我々がこれまで、どれほど
多くの爆弾の穴を埋めてきたか。本当に驚くような数に違いない。
草粥で延命して 5、6 ヶ月経った頃、自分の防空壕の修理と食糧自給の活動
がせいぜいで、それ以外に爆弾の穴を埋める気力さえなかった。それにもか
かわらず、空襲が来るたびに日本軍が地上で猛烈に対抗したが、ますます増
える米軍機には耐えられない。たまにこちらの必死の対抗に米軍機が墜落す
ると、これに勇気を得て一層強力に対抗した。けれども結局は砲と陣地など
が大きく損傷されて、その後、今までのような戦闘は実に難しくなった。
こんな中、米機動艦隊がマーシャル群島に向かって来ているという情報が
入ってきた。その情報が入って間もなく本島ウオッゼ島上陸作戦の前哨とな
る大空襲が始まった。空襲は艦載機 28 に代わって、黒いセイバー機 29 の大型
編隊が遠い水平線からこの島に向かって飛び始めた。その時は、この島に来
てから満 1 年 6 ヶ月になる 1943 年 12 月頃だと記憶している。すなわち米軍
がこの島に上陸するための事前爆撃であり、未曾有の歴史的な大爆撃、大空
28 艦載機(carrier-basedaircraft)、空母に積載される軍用機。艦載機は比較的短い距離を高い出力で飛行す
る戦闘機。離陸と着陸の際、滑走路が短くても使用可能。
29
〔セイバーはF 86、戦後に開発されたもの。機種名の誤記とみられる〕
41
襲であった。この時、偵察機は、ロッキード 30 双発長距離偵察機に変わった。
爆撃機より先に島の上空に飛んできて地上の動きを探り爆撃機を誘導するよ
うだ。この偵察機は 2 機が昼夜、島の上空を飛んできて、目標との距離を
測定して随時レーダー情報を交信した。艦隊が来る時には艦砲射撃のテコに
なってその命中率を上げる役割をするようだった。
大爆撃は朝早くから始まった。およそ 100 機にもなる大編隊が遠い水平線
の方からゆっくり空を旋回しながら、一度に 20 機ずつの爆撃機が飛んでき
た。初めに飛んできた 20 機は島の上空を一回り旋回したのち、飛行方向を確
認して、飛行機ごとにその方向から急降下しながら 1 機ずつ爆弾を投下して
飛んで行った。このように島の端から端まで爆撃機 100 余機が絨毯式に着々
と完璧に爆撃した。島全体が完全にほこりになって吹き飛ばされてしまうの
ではないかと思うほどの大爆撃であった。それも一日に 2、3 回ずつ連続し
て 3 日間猛烈に攻撃した。爆撃が続いている間の空はまぶしく晴れているが、
地上は大爆風の土埃が島全体を完全に覆い、太陽の光をさえぎって黒雲に包
まれたように一寸先も見えない暗黒の世界に変わってしまった。火薬の匂い
と土埃が防空壕の中までいっぱいに入りこみ、ひどくて息が詰まるようだっ
た。今までも生き地獄のような爆撃を経験したが、このように一度に多くの
爆弾を落としたことはかつてなかった。
人間は行き詰るような限界に達すると、いわゆる運命というのを考えるよ
うだ。私自身も例外ではなかった。万一これが私の運命ならば、私は生前ど
のような間違いがあって、一日にも数えきれないほどに黄泉路を行き来する
極刑に処されているのだろうか?たとえそうだとしても、一番大きな原因は
人類の平和を無視し、過度な野心で平地に波風を起こした日本のヤツらにあ
るのではないか?今日のこの苦痛に対する代価をどう補償してくれるのか?
当然、被害者が要求する通りに、これに相応する最大限の補償があるべきで
はないか?
もし、これに対して異議があるのなら、我々の立場になって考えてみるべ
きだろう。日本が今の我々のような立場に置かれ大変な苦痛を受けたら、今
の日本人は、我々にしているように、適当に見過ごすことができるか?命の
尊厳において日本人と他民族とで差別があっていいのかと問いたい。日本人
30 ロッキード(LockheedCorporation)、1912 年に設立された米国の航空機製造会社。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
は無辜の我が朝鮮人を戦争の生き地獄に追い込み、人間以下の扱いをしてこ
き使った後、危急となれば先に殺す。それは我が朝鮮人をこき使いはするが、
信じていないからだ。
あんなに熾烈な空襲、爆撃が丸 3 日ぶりに終わった。防空壕の小さな壕の
中で 3 日間、配給された乾パンだけで、水もきちんと飲めずに、またまとも
に寝れずに堪えた後、久しぶりに壕の外に出てみると、目玉が回り、めまい
がして体を支えることができなかった。しかし、少しの間、気を取り直して
外海の方を見てみると、驚くべき光景が広がっていた。
一晩中押しかけて来たのかもしれないが、大型戦艦、巡洋艦、駆逐艦、その
他補助船など、およそ 50 隻余が島の外海側の全海面を完全包囲し、射撃態勢を
とっているではないか?私はやっと大爆撃の生地獄から脱したと思ったが、
本当に一目見ただけでもぞっとする光景だった。もういくらもがいても生き
残ることはできない、最後だと思った。
驚き、眺めた瞬間、艦隊の旗艦とみられる戦艦から十文字の火が閃光のよう
にあちこちで光った。ついに砲門を開いたようだった。私は砲弾が飛んでく
ることを直感し、すぐに壕の中に入った。そこに入るやいなや、地軸を大き
く揺らし、鼓膜が破れるような怪音を出しながら、数限りない多くの砲弾が
連続して炸裂した。いわゆる 40 センチの主砲で砲弾の中では一番大きな威力を
持った主砲弾が炸裂したから、皆びっくり仰天するほかなかった。そして、
これを皮切りに島全体を、豆を煎るように砲撃した。防空壕の中にいた同志
たちは外の事情を知らないまま、急にまた何の砲声かと驚いた。そう言いな
がら、これから敵軍は上陸を試すんだなあと皆が嘆いた。どうせ死ぬ命なん
だから、死ぬ前に一度思い切り食べて死のうという考えしかなかった。
飛んでくる砲弾は少しも休むことなく飛んできて終わりがなかった。我々
はこの戦争で日本のヤツらと協力したとされ米軍に惨殺されるだろう。思う
存分こき使い、自分たちが危急になれば我々朝鮮人を先に殺すのが日本の
ヤツらの特性だから、どうせ生き残ることはできないだろう。このような苦
痛の中で苦しめられるよりは、むしろ飛んでくる砲弾に直撃を受けて散って
しまったほうがいいと思った。そう考えるとある程度、気持ちが落ち着いた。
空から爆撃を受けるときは、その爆撃ほど脅威なものはないと思った。
だが初めて受ける艦砲射撃の威力はそれ以上に強かった。実際に砲弾が飛んで
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くる音は空中から爆弾が落ちてくる音より一層不気味で、その炸裂する威力
は一層血を凍らせた。ロッキード双発長距離偵察機は、いつも上空に浮かん
でいるが、艦隊と地上目標との距離を捉えて交信し、その命中率を高める役
割をする。だからたとえ目標に命中しなくても、目標物の 2、3 m以内に落ち
るのが普通で、実際、脅威であり肝を冷やすものであった。
空の爆撃と艦砲射撃で露出した地上の火器は、米軍の攻撃目標になって集
中的に打撃され、すでにほとんどが破壊され使い物にならなかった。このこ
ろになると米軍の上陸は必然的とされ、その時間は夜中から夜明けの間とい
う。その時間がどの程度正確なのかは知らなかったが、だんだん近づいてい
ることだけは事実であった。
最後の食糧配給だといって乾パンを 2 袋ずつ分けてくれた。実は先週一週
間、水も思うようには飲めず、日々を乾パン 2 袋で我慢してきた。この生き
地獄で死なずに生きようと辛抱するのは家族のためだった。必ず生きて帰っ
てくるのを待っている家族のことを思い、どんな困難にあっても絶対に自暴
自棄になってはいけなかった。天は自ら助けるものを助け、それを放棄した
ものは助けようとしない。なので最後まで生きようと決心して勇気を出した。
そして、艦砲射撃が始まってから、3 日目になる日の夕方、何らかの情報
が必ずあるだろうと全神経をとがらせていた。そして、米軍が上陸すれば白
旗を挙げる朝鮮人が必ずいるはずなのでまず彼らを撃ち殺し、これに付き従
うものもすべて殺せという密令がすでに出たと聞いた。
爆撃は夜になってから一層ひどくなった。実に超緊張状態の連続で、息を
殺し、彼らが上陸してくる喊声に全神経を集中した。しかし時間がどれほど
経ったのか、なぜか砲声が急に止まった。止まった理由が何を意味するのか
気になった。あれほど猛烈に攻撃をしてきたが、今になって上陸を諦めるは
ずはない、外海の方では波が高いので穏やかな中海側から上陸するため、そ
ちらに移動するのか、またはしばらく止めてこの島のなかの状態を探ろうと
するのか、全くわけがわからなかった。黎明は近づいていたが、たぶん内海
面の穏やかな所に上陸するのは明らかだと判断した。砲声が止んだ時間から
みて、いくら早くても島々がつながる中でただ一つしかない港内への進入
路まで回って来ようとすれば、少なくても 30 分以上はかかる。だからこの
30 分が運命の時間だと思った。
44
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
本当にその時間は明暗が別れる運命の時間に違いなかった。予測通りなら、
米軍の歴史的上陸作戦が敢行される最後の時間だったからだ。我々は皆一緒
に悲壮な覚悟をし、時間が経つほどに命の脅威に対する重圧感を感じながら、
1 秒、1 秒を送るのがひどく苦しかった。その短くも長くもある時間が過ぎて
いった。
すでに日は完全に明けたのに何の気配もない。壕の外に出て外海側の海面
を眺めた。遠い水平線の近くに駆逐艦 2 隻が見えるだけで、あの多かった艦
隊はどこに消えたのかわからなかった。内海に到達する時間もすでに過ぎて
いる。砲声が止まった時間が、上陸を放棄し離れた時間だとわかった。それ
を知ると私たちすべてが歓声を上げた。あれほど余地なく攻撃したのに跡形
もなく引くのだから、天の助けでなくて何なのだろう?考えれば、本当に不
思議で天に感謝するしかない。そして、ひたすら無事に帰ってくることだけ
を祈ってくれる故郷の家族にも深く感謝した。この間、熾烈さが極度に達し
ていた空爆と艦砲射撃などで多くの死傷者を出した。生き残った人たちは大
きな苦痛を受けただけにその感激も大きかった。
後になって聞いたことでは、本島に艦砲射撃を猛烈に広げている間、本島か
ら遠くはなれた小さな島に米軍が上陸し、そこにいた日本の警備兵を捕まえ
て本島の兵力などを詳しく聞いたという。この島に 10 万人近い兵力があると
聞いて上陸を放棄したという噂が聞こえた。他方、元々兵力が大きいので対抗
しようとすれば、相互の攻防戦で無辜の人命の殺傷者だけを残すことになる。
そうではなく、補給路だけ遮断すれば食糧がなくなるから、必ずしも上陸を
敢行する必要を感じないので放棄したのだという説もあった。すべて一理ある
内容だ。ここから移動した米機動艦隊は、当時米軍の上陸作戦により風前の
灯であったマキン 31、タラワ 32 の方へ支援しに行ったという噂もあった。
こうして 7 日間の大爆撃、艦砲射撃から九死に一生で生き残ることができ
た。その時、その瞬間が今もはっきりと浮かび上がる。
31 Makin、マキン島:ギルバート諸島に属する島。第二次大戦当時、第 3 特別根拠地隊分遣隊 243 人を中心と
した 693 人が守備。1943 年 11 月 19 日から空襲が始まり、11 月 21 日朝、米陸軍 27 師団の 1 つの分隊が上
陸。11 月 23 日朝、1 人を除いて全滅。朝鮮人労務者 104 人生還。
32 Tarawa、タラワ:キリバス共和国の首都。中部太平洋ギルバート諸島にある島。戦略上の要地として第二
次世界大戦初期に日本軍が占領、1943 年 11 月に米国軍が反撃して奪還。〔ウォッジェ島の日本軍は 1944 年
初め、約 3000 人だった。〕
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日本軍の高射砲弾に当たり米軍機墜落
それから何日かたったある日のことだった。急に 6、70 機の米軍の爆撃機
が飛んできた。この時の爆撃機は、このウオッゼ島が少し前に米軍の上陸作
戦のための攻撃で火器が完全に破壊されて使えなくなったので、安心して爆
撃できると認識をしていたのかもしれない。飛行編隊が押し寄せて飛んでい
ると突然、地上火器が火を噴いた。ドーンと怪音を出して空に飛んで行った
高射砲弾は飛行編隊の中央を突き抜けて炸裂した。米軍飛行機は直撃を受け
なかったが、破片によって爆撃機 3 機に火が付いた。機体に火が付いた飛行
機は高空で燃えながら遠い海の方に落ちていった。
この時、操縦士は飛行機に火がつくやいなや、高空で機敏に脱出して落下
傘を開き、遠い海の方に降りて行った。ちょうど遠くの水平線側で長距離偵
察機1機がこちらに飛んできて、海上に降りた操縦士を助けるようだった。
しかし、この飛行機は飛びながら操縦士を助けることができないようで、海
上に浮くような態勢であった。だが、波が高く、浮いた状態を何回も試した
がうまくいかない。3、4 回試みたが、そのまま頭の方の重いエンジン部分が
水の中に浸かってしまった。最初からこの光景を手に汗を握って見守ってい
た多くの日本の軍人たちは、飛行機が水の中に浸水した瞬間、ワーと大きな
歓声を上げて拍手喝采し、「ざまーみろ」と揶揄し、大喜びした。
これがまさに戦争の残酷な現状であることを改めて感じた。根本的な原因
は何であれ、戦争では勝利した者だけが正義を論じられるという日本人たち
の属性を如実にみせられた一つの場面だった。振り返ってみると、この前、
病院船牟婁丸が入ってきたとき、米軍機が病院船と患者に対しては空襲の際
に銃を1発も撃たないでそのまま無事に帰したのと全く対照的だと思った。
日本軍は命を救助する現場までも戦闘とみなして拍手喝采をするのだから、
あの時同じ状況であっても、あれこれの口実で病院船を沈没させていただろ
う。絶対にそのまま無事に帰してやるということはなかっただろうと思った。
この時、遠い水平線側からこの光景を望遠鏡でみていたのか、あるいは救
助要請をうけたのか、駆逐艦 2 隻が矢のように進んできた。飛行機では失敗
したので今度は駆逐艦で救助するようだった。しかし、駆逐艦を留めた位置
が東西になって救助現場をさえぎったため、救助する状況がよく見えなかっ
た。この時、この光景をみていた日本軍側は、その妨害工作で駆逐艦に向
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
かって急に 3 連発の平射砲を発射した。これに対抗し駆逐艦は全速力で射程
距離の外に矢のように進んで行き、慌てて砲撃で対応した。救助に来ていた
飛行機はすでに水の中に完全に沈んで見えなくなり、操縦士も救助されたか
どうかもわからなかった。だが、2 隻の駆逐艦は射程距離の外に出てから侵
入して反撃し、ほぼ一時間にわたる猛砲撃と機関銃射撃で唯一残っていた高
射砲と平射砲までも破壊してしまった。
この日、私はぼうぼうと燃えながら遠い海に落ちていく飛行機から脱出し、
落下傘を広げ海に落ちて行った米軍操縦士の妙技を初めて見て、その神技に
近い妙技に感嘆せざるをえなかった。そして操縦士には高度の訓練がどれほ
ど必要かを切実に感じた。それもそのはず、操縦士一人を育てることは一夜
にしてできることではなく、少なくとも何年もかけなければならないからで
ある。ところが米爆撃機が今回のように一度に 3 機までも落ちたことは本当
にかつてなかった。その失敗の原因は、地上火器が全て破壊され、ひとつも
使い物にならないと安逸に考えたことによるものとみられる。
米機動艦隊の爆撃練習場となったウオッゼ島
その後から米軍機の空襲は何日かに1回になって、回数が減った。だが、
一度来たと思ったら 5、60 機以上で依然としてその数は減らなかった。しかし、
この前の大々的な爆撃などで、極度に命の危険を感じながら、精神的な苦痛
との闘いに耐えてきたからか、命に別条なければ何も怖がることはないという
自信が生まれた。すなわち、死ななければどんなことも可能だという度胸が
生まれ、気持ちが一層軽くなった。今後、努力さえすればどんな事でも可能
だ、少なくとも飢えて死ぬ心配はないだろうと思った。
この後に飛んできた米軍機はすべて艦載機であり、航空母艦から飛んでく
る黒い爆撃機および銀色の最新型戦闘機である。この 2 つは米国が誇る新鋭
機で、その性能が優秀ということで有名であった。当時、航空母艦がフィリ
ピンのレイテ島 33 に上陸作戦を試みるために、ここマーシャル群島を通りな
がらあらかじめ爆撃練習をしてから行くのが常だった。これはウオッゼ島だ
33 Leyte、レイテ島:フィリピン中東部ビサヤ諸島に属する島
47
けでなく、周辺の島々が米軍の爆撃練習場の一つのようになってしまったの
だ。偵察機は一日も逃さず、毎日のように 2 機が並んで、朝夕、偵察して
行った。航空母艦が通過しつつ爆撃練習をしていくのだが、投下爆弾の中に
時々不発弾がある。この不発弾を詳しく見ると、弾頭側に赤い線が引かれて
いるものがある。それは、きっと練習弾という表示ではないかと思う。とに
かく航空母艦が数隻通るときには飛行機が 6、70 機から 100 機近く飛んでく
るときもあった。
重傷者に対する軍司令官の指示
1944 年のある日のことだった。朝に煮て食べる草を取りに防空壕を出た。
内海の方にはウサギの耳草が多く自生している。外海の方には外見からは灌
木と雑木が茂っているが、ただ一つウサギの耳草は自生していない。同僚た
ちの話を聞いているだけでは物足りなかったので、外海の方のジャングル地
帯をくまなく探し、ウサギの耳草を必ずとって来ると固い覚悟をして出かけ
た。それほど食糧事情が厳しくなっていたのだ。
外海側のジャングル地帯は 20 mないし 30 mの間隔で海岸に降りられる狭
い道があった。海に降りていくにはこの道を選ばなければならないのだが、
外海はいつも波の音が大きく、自然が作ったジャングルがなければ頼るところ
がなく荒々しい。幸いにもこれがあるから島の周囲をすべて要塞化するのに向
いていた。ここに平射砲、高射砲、機関銃、陣地その他多くのトーチカなどを
設置したので、自然の偽装だった。自然条件により空襲や艦砲射撃をするとき
もこの地帯だけはうまく命中できなかった。こんな地帯を行くのは、普通は
敬遠される。だが、食糧代用品を採るという特別な理由のため、ジャングル
地帯に行ったのだ。
こうして海岸に降りるいくつかの道を行ったり来たりして徹底的に探して
みたが、本当に他の各種の草は多いが、異様なほどただ一つもウサギの耳草
はなかった。
この時、ちょうど空襲警報がなった。空を見ると、銀色にまばゆく光を
放ちながら島に向かって入ってくる飛行機が少なくても 7、80 機はあった。
ここにはウサギの耳草がまったくなく帰ろうとしたとき、空襲サイレンが
48
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
鳴り響いたのだ。
私はその時にしまったと思った。偵察機が朝早く島をただ通り過ぎて遠い
ところに行ったのは、必ず空襲するから詳しく探る必要がない意味と解釈すれ
ばよかった。それを正反対に解釈したことを強く後悔した。ここジャングル
地帯は、何ヶ月か前に米軍上陸のために空爆機と艦砲射撃で完全に廃墟にな
るほどに荒廃したが、最近、何ヶ月の間に前に茂っていた姿に戻り、最初に
空襲をする操縦士の目には十分によい目標になっただろう。
私は近くに体を隠す防空壕を探したが、防空壕はなかった。陣地の近くは陣
地を守る兵士たちの退避所はあったが、その他に外部の者のための防空壕は
遠く離れていた。その理由は米軍機に対抗する陣地は目標になるために、防
空壕はむしろ遠く離れている方が安全だと判断したからだ。空襲の途中に遠
くまで走っていくこともできず、飛行機がすでに爆撃を始めたので、破片く
らいは十分に避けることはできそうな近くの兵隊の壕にまずは隠れることに
した。
爆弾が落ちる距離がだんだん近づいてきて、爆弾が爆発するごとにその爆
風のために土砂と火の塊りが激しく飛んできた。爆弾が落ちる距離が近けれ
ば近いほど、落ちる音がシューと短くなった。また音が短いほど近くに落ち
ているのは長い経験からよくわかっていた。ところがこの時、爆弾の落ちる
音がとても短かった。落ちてくる爆弾がだんだん近づいていることを感じて、
それを感じる間、私は生きているなぁと思った。
激しく押し寄せる土砂と火の塊りが濃い火薬の匂いとともに護岸を大きく
襲った。本当に息が詰まって窒息するかと思った。全身が麻痺し、体が動い
てくれなかった。
そう焦るなか、外では爆撃による中・軽症者たちの叫び声が生々しく聞
こえてきた。飛行機は激しく最後の攻撃を行い、爆撃の目標を変えたのか、
だんだん遠ざかって行った。何分か経って外から新しい空気が入ってきて
四方がだんだん明るくなり、私の体も徐々に動くようになった。
体を動かしてみるとうまく動けた。壕の外に出てみるとあんなに叫んでい
た軍人たちも見当たらず、まわりは静かだった。帰りながらみると以前、私
が入るのをためらった軍の防空壕が直撃を受けて爆破されていた。人の予感
というのは本当に不思議なものだと思った。
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我々の医務隊の岡村こうじという日本軍医とその一行である医務助手 3 人
は現地期間満了により、病院船牟婁丸が入ってきたときに本国に帰った。そ
のあとは完全に孤立したため、交代の軍医官は送ってくれなかった。我々朝
鮮人 3 人だけでは医療陣として残ることもできず、保存してきた医薬品と
医療器具いっさいを軍に引き継いだ。そして重傷者が出ると司令部の近くに
ある軍の防空壕を臨時応急治療室として使用してきた。私は医務室に勤務し
ていた関係で重症患者がどこにいくのかを知っていた。なので帰る道に立ち
寄ってみた。
応急室の防空壕に入ると応急治療を受けている重症患者が 7、8 人いて、壕
の中はうめき声でいっぱいだった。ちょうど軍の司令官が副官をつれて壕の
中にはいってきた。司令官が入ってくると、中はすこし緊張感が漂った。実
は私自身も緊張した。
司令官は重症患者をいちいち見てまわり、厳粛に言った。「お前たち、今ま
でよく闘ってくれた。故郷に残す言葉はないか?あったら言ってみろ」。
しかし、その言葉にはだれも返事がなく、うめく声とにじむ涙だけだった。
「お前たちもよくわかっているように、もうこの島には食べ物も治療薬も全部
底をついてしまった。我々はいつ死んでもおかしくない。しかし、まだ戦闘
は終わっていない。これから我々は死ぬまで闘わなければならない。重傷を
受けた今、この状況で生きている人達の為にも、早く死ぬことも愛国である
し、陛下に忠誠する道でもある。早く死ぬこともな」。そう言って「この者た
ちを長く苦しめてはいけない」と言いながら目くばせした。
この時の私の感情は、いくら上下関係があり、こんな事情であっても最後
まで見てあげるのが道理だ。そんな冷酷なことをしていいのか、若い青春の
者たちが時代を間違えて現われ、無残にも消えて行くのにと思い、哀悼の気
持ちを抑えられなかった。
身を隠した弾薬庫からの脱出騒動
その日から私は草を探すのをやめて釣りの準備をして、海岸に行くことに
した。海岸といっても水深 2 m前後の所を探して釣りをした。時には自家製
爆薬で魚を取る人の後についていき、火薬を投げると、死にかけた魚や水中
50
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
に入り逃げようとする魚を素早く捕り、分けてもらって食べた。一生懸命動
きさえすれば、飢え死にするとか、栄養失調で死ぬ心配はなかった。
時は 1944 年 8 月のある日だった。内海の海岸線近くの陸地から 5、60 m
離れたところに 4、50 トンほどの大発動艇1隻が壊れたまま放置されてい
た。引潮のときには水深が海底 4、50 センチほどで、満潮の時は 2 mの高さ
まで潮が満ちる。そのため、多くの雑魚が入ってくる。それで毎日のように
満潮の間はそこへ泳いで行き、魚を獲ってくる人が多いと聞いた。今まで私
は遠くからそれを眺めて、話だけ聞いていたので、今日は一度行ってみたい
という衝動にかられた。好奇心半分、釣り半分で船があるところまで一人で
行った。満潮になって船の中は水が一杯で魚もたくさん入ってきて泳いでい
た。人を見ると四方に散らばったが、また徐々に入ってきた。釣りをすると
ちょっと大きいのは周辺を泳ぎ続け、すぐに食いついてくるのは我々済州島
の言葉でコセンイ 34 の子どもだけだった。集まってくるものを何でも釣った
ら 10 匹くらいにはなりそうだった。少し面白くなってきたが、残念ながら
ちょうど空襲警報が鳴った。船にいようとしたが、船から水が抜けていると
きには隠れて避けられるが、満潮だったのでそうすることもできず、また時
間の余裕もあった。それでそのまま陸に上がった方がいいと思って泳いだり
走ったりして、空襲が始まるのとほぼ同時に陸に上がることができた。陸地
に上がることは上がったが、そのまま走ることはできず、深さ1mほどの通
路壕にそって、とにかく防空壕があるところまで走った。米軍機は縦横無尽
に機関銃を乱射しながら、猛烈に攻撃してきた。
私が走っているところにも機関銃の玉が無数に落ちてきた。土がバクバク
とはじける音を聞きながら、死に物狂いで走った。通路壕にそって 30 mほど
行くと右側の道端に直径 80 センチほどの水道工事の時に使う、上下が開けて
いる土管があった。その中には栄養失調でひどく衰弱し、目がくぼんだ日本
人兵士一人が銃を膝の上に乗せたまま、眠っているのか、そのままもたれ掛
かっているのか、座っていた。その中にもう一人くらいは入っても支障はな
いようだったが、機銃射撃程度は防げるが爆撃は手に負えないと思い、むし
ろそこから 10 mほど行ったところにある弾薬庫に行くことにした。そこは防
火壁も完璧だったからである。そこに入っている方がいいと思ったが、考え
34 済州島地域に生息する小さな魚
51
てみると弾薬庫ではないか、弾薬庫だとむしろ攻撃目標になり、身を隠すに
は適しないと思った。そこでもう一度戻り、通ってきた通路壕に沿ってどこ
かに防空壕があるだろうと思ってとにかく走った。そうしたら、行き詰まり
の路地にひとつの日本人防空壕があった。
私は日本人に空襲の間だけでもしばらく隠れられるようにしてくれと言っ
た。すると空襲の途中に入ってきたら絶対にいけないという一言で拒否され
た。空襲途中に防空壕に人が出入りするのが発見されたら、最後まで追撃し
て攻撃するので、直撃をうけて全滅するというのだった。それで、近づくこ
ともできずに追い出され、来た道をひき返すしかなかった。
ひどい爆撃の中で、再び弾薬庫へ走って入った。倉庫の中の広さは約 10 坪
ほどでその中央の部分に約 5 ~ 600 発の平射砲と高射砲の弾丸が積んであり、
ムシロで覆ってあるのが目に入り、不安になった。しかし、広い倉庫の中で、
一人で震えていると、誰か一人飛び込んできた。よく見ると全羅道出身の金
ヨングォルという同志だった。
その時、爆撃機がちょうど我々の上空を旋回するのが見えた。この弾薬庫
に命中させるようだった。弾薬庫の付近だけに、すでに何発も落として移動
しないので、我々はまたもう一度どこかへ至急に避難せざるをえなかった。
緊急避難しようとしていた途端にちょうど付近におちた爆弾が炸裂し、土砂
と火の塊りがごちゃごちゃになって窓の隙間から激しく吹き付けて入って
きた。倉庫の中はひどい爆風で黒雲に囲まれたようになって窒息しそうで
あった。
その最中に一層驚いたのは、押し寄せてきた火の塊りによって、砲弾を
覆っているムシロに火がついて燃えているではないか。これを見て、すぐさ
まムシロを引っ張って2人で一生懸命に火をもみ消した。しかし爆撃の様子
ではまだここに注目しているようだった。それでまたここを出ようとした。
ところが、入口の前に出たら簡単に見つかるだろうと思い、爆風が入ってき
た反対側の窓の隙間から出ようとして、素早く窓にぶら下がった。足を踏み
込んで登り、窓の外に向かって頭を突き出し、力を入れて上った。もう少し
足を踏ん張って登れば、無難に外に出られそうだった。この光景を見ていた
金ヨングォル同志が自分もあとにつこうと走ってきて、私をつかまえて一緒に
出ようと躍起になったので出られなかった。そのために時間がかかり、事情は
52
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
一層差し迫った。
すでにどうすることもできなく、見つかった時は見つかった時だ、正門から
出てしまおうと 2 人で一緒に正門から出た。出てみると、びっくりしたことに、
空にいた爆撃機は目標を移動して遠くに行った。時間をみると、あまり経っ
ていなかったが、命への強くて執拗な愛着の瞬間だった。
爆撃が終わってわかったことだが、この日、防空壕で直撃を受けて戦死し
た人が、何ヶ月か前の米軍の上陸作戦の攻撃以来一番多かった。その中には
済州島下道里出身の金武吉と金智用同志も混じっている。あんなに多くの死
の峠を越えてきたのに、望郷の恨のままの魂を、見知らぬ他郷である南洋の
天に昇らせるのは残念きわまりない。人間的にも本当によい人たちだった。
この世でできなかったことをあの世で成し遂げられるようにと冥福を祈った。
その日の爆撃は意外にもこの島では一番幅の狭い後斜面を狙った。空爆時
には爆弾が海に流れやすく、艦砲射撃時には砲弾が中海の方に行ってしまい、
命中が大変難しい地域とみられている。以前の米軍の上陸作戦時には絨毯爆
撃により被害がでたが、その後は相変わらず安全地帯として爆撃がほとんど
除かれてきた地区だった。そのため防空壕が最も多い所でもあった。ところが、
この日はよりによってここにだけ注目し、集中攻撃を強行したのかと訝し
かった。
ここは安全地帯と信じてきたが、今回の集中攻撃で多くの犠牲者を出した
ということは、もう島の中はどこにも安全地帯がないということを証明した。
一方では第 3 砲台高射砲陣地の付近に落ちた爆弾が爆発した衝撃で砲身が
90 度の角度になって、故障したまま固定していた。空中から見るとちょうど
空にある飛行機をねらっている場所に見えるので砲と砲周辺、そして弾薬庫
を集中攻撃したのではないだろうかと思った。
宋在吉同志の戦死悲報と死を免れた梁元鐘同志
この島で自給自足状態が丸 1 年になり食糧問題は最も深刻な状態になった。
特に 1944 年 6 月ころからだった。このころから内海の海岸側に多く自生し
ていたウサギの耳草を半年ほど主食として多く採ったため、それ以上育つ余
裕がなく、だんだん採るのが難しくなった。また椰子コプラも本島に近い
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島は左右東西どの島にも夜間の警備網を避けて行き取って食べたのか、東
西に 1、2 の島までは椰子の見物もできないほど完全に無くなったという噂
だった。
去る 1944 年 8 月、空襲後に再び通った航空母艦により大規模な攻撃が
あったが、今度は島全体が等しく激しい空襲を受けた。だが、多くの爆弾の
穴を作り地表をひっくり返しただけで人命の被害はほとんどなかった。しか
しこの日、ニブン島 35 の近くに 200 トンほどの故障した監視船があった。そ
の船の中で機関修理をしていた我が終達里出身の宋在吉(ソン・ジェギル)
同志がウオッゼ島の本島空襲から帰って行く飛行機の突然の攻撃を避けられ
ず、残念ながら戦死をしたという悲報を聞くことになった。もともと宋在吉
同志は技術者で有名だった。惜しい人材が不意の奇襲で消えてしまったので
同志たちの悲痛は言葉では言い表せなかった。
同じ村の出身である梁元鐘(ヤン・ウォンジョン)同志はもとより網を投
げて魚を捕まえるので有名だった。火薬を投げて魚を捕るのも上手だった。
魚の群れと時間をうまく合わせて投げることによって一回で多くの魚を捕る
ことができた。これが認められて航空隊の佐藤中尉から抜擢され、航空隊全
隊員の栄養補充のための漁業班長に任命された。陸上では佐藤中尉が司令官
だが、海上では梁元鐘同志が司令官というニックネームで呼ばれるほど人気
があった。海に出ると班員たちはてきぱきと話をよく聞いてくれた。気持ち
を良くした梁元鐘同志が魚捕りだといえば、どの島でも思い通りに行き来で
きたので、皆がうらやましがった。
そんなある日のことだった。今日も例外なく朝早くから大発動艇に乗って
魚が多くいるというニブン島に向かって走っていた。しかし、行く途中で不
意に飛行機の爆音が聞こえてきた。予定どおりならいくら早くても 30 分は余
裕があるのに、現れた偵察機がどうしたわけか、今日に限って以外に早く現
れたので船に乗っていた皆は驚いた。
とにかく、島に上陸して防空壕に避難しなければならないのに、島までま
だ 100 mほどは残っていた。さらに全速で島に向かって進んでいた船が当惑
したあまり、コースを間違え、そのまま座礁して行きも戻りもできなくなっ
てしまった。偵察機が遠くでこれを発見し、すぐ飛んできて機銃射撃をして
35 Nibun、ニブン島はウオッジェ島の西北方向にある。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
きた。一行は仕方がなく、急だったので海の中に急いで入り、水の中からし
ばらく出てこなかった。そして偵察機が機銃射撃を乱射し飛んで行ったあと、
水の上に首を出して息をし、また水の中に入った。飛行機の機関銃射撃が一
度通過し、また戻って来るまでは 4、5 秒の余裕があった。水の中に隠れてい
た人たちは、この時間を最大限に活用しなければならなかった。偵察機には
飛行機の操縦士が操縦だけして射撃手が射撃だけを担当する 2 人用と操縦士
ひとりで 2 つの役割をする 1 人用と 2 つの種類がある。前者の 2 人用の場合
には前後もなく矢継ぎ早に打ちまくるのでとても隠れる余裕がないが、1人
が 2 人の役割をする偵察機においては隠れるのが可能だった。幸いにもこの
時の偵察機は1人用だったので、撃てば水の中に入り、いっとき過ぎれば再
び水の上に出て息をした。偵察機はこのように何度も繰り返しながら攻撃を
したが、機銃射撃の威力を発揮することができずに諦め、来た道へと消えて
いった。
これこそ、九死に一生と言えざるをえなかった。帰ってきた皆はやれ生き
返ったと歓呼の声をあげ、大喜びした。万一この時の偵察機が爆弾を積載し、
高空から1回落とされたらそれまでだった。幸運にも爆弾はひとつも積載し
ない 1 人用の偵察機であり、一行は皆生き残ることができた。
食糧生産のための軍属たちの離島分散
食糧不足による困難はますますひどくなった。1944 年 10 月から 12 月にか
けては草も何もすべて無くなり、皆の智恵と努力を動員しても足りない状態
になった。
しかし、生きていくには食べなければならない。どんな危険をおかしても
他の島に行って椰子コプラを採ってきて延命するしかなかった。それで夜、
引き潮で人が渡れるぐらいになったら、何人ずつか組をくんで漆黒の暗い夜
を利用して行き来した。漆黒のような暗い夜でも、荒波がリーフという固い
岩にぶつかって砕けると、白い水の泡ができ、こちらの島とあちらの島の間
を明るくする白い線となってわかりやすい道案内となった。それで暗い夜に
も行き来する人たちが多かったようだ。多くの人たちが行き来して椰子を
採って食べたので延命することができた。そのため、近い島の椰子コプラは
55
完全に無くなってしまい、日々食べ損ねている。そのため食糧を求めるのは
決死的、命を賭けるしかないという状況だった。事情がこうだから事実、軍
当局も困っていた。離島に行って椰子を採ってくるのが暗黙のうちに行われ
ていることを知らないわけがなかった。本島から 3 次の島まで椰子を見るこ
とができない状態という言葉を聞いただけで、その実態を把握するのに十分
だった。だから、この状態をそのまま放置することはできなくなり、軍当局
は軍属たちの離島分散を計画した。
1945 年 1 月から、本島では食べていくことが難しくなり、離島に分散し
た。農業班という名称で、日本人軍属と朝鮮人軍属とで班を編成し、いくつ
かの島に分散させた。熱心に仕事ができる者が選抜対象となった。
しかし、ここで除外された人も半分いた。選抜された人は離島に行くと椰
子でも十分に食べることができるので空腹の心配がなく幸いだった。選抜さ
れなかった人は選抜された人たちのように毎日のように開墾という重労働に
苦しめられることはなくてよかった。そして、近い島に行って椰子を採って
食べる人数も減ったので、その分苦労も減った。1週間か 10 日に1回ずつ
夜にコプラを採ってきて、その時だけは満ち足りた気分で食べればいいので、
そういう人たちは選抜されることを望まなかった。
中には離島分散を熱望しながらも、極度に体が衰弱して重労働に耐えられ
ず、選抜隊に入れなかった同志たちもいて、気の毒だった。どちらにしても、
農業班として選抜されていく人たちは熱心に仕事をし、生産された農産物を
本島に送らなければならないという負担があった。私はいくら仕事がつらく
ても選抜された方がずっといいと思った。それで私はオリメジという本島の
次に大きい島に行くことになった。
この島に行って 2、3 ヶ月たった時、細花里の趙弘瑞(チョ・ホンソ)同
志をはじめとして高泰豪(コ・テホ)、夫南俊(ブ・ナムジュン)、呉斗金
(オ・ドゥグム)、そして坪垈里の高萬平(コ・マンピョン)、漢東里の高泰翊
(コ・テイク)同志たちが椰子を採るためにオリメジ島に訪ねてきた。オリメ
ジ島には私がいるので便宜を図ってくれると信じて訪ねてきた。そう言って
協力を求めた。
私も久しぶりに会う同志たちなので、嬉しくもあり、当然協力しなければ
と思った。だが椰子を一度にどっさり採らせるのは、私一人の独断ではでき
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
ないので、日本人の班長に事情を言って許可をもらった。それで一人平均
2 枚ずつ持ってきた麻袋全部をいっぱいにして採ってあげた。その時に本島
に残っている同志たちの消息を尋ねると、その後、本島では飢え死にした人
たちが何人かいるといった。その中には我が下道里のチョン奉洙同志と終達
里の金奉奎同志がいるという悲しい話であった。
飢え死にするというのは何と悲惨なことか。考えただけでもすさまじい事
だった。そして本島からオリメジに出発する直前に変な噂を聞いていて、ま
さかと半信半疑だった。それは食べるものがなくて人肉まで食べているとい
う悪い噂だった。だからその後、本島の食糧事情は極限に達していたといっ
ても過言ではなかった。実際、軍人、軍属関係なく毎日のように餓死者が 1、
2 人は出ているという話だった。
丹精込めた食糧作物、集中攻撃で飛散
空襲は何日かに1回ずつ来るが、これはウオッゼ島本島に限ってであり、
本島から離れた他の島は、行き来する道に、時々機銃射撃程度はあったが、
爆撃はほとんどなかった。
昼はスコップとクワを持って出て、トウモロコシとかぼちゃなどを植える
土地を開墾するために熱心に仕事をしたため、何日も休む暇がなかった。そ
のように全班員たちが努力した結果、播種してから 3 ヶ月以上になるころに
は、いつの間にかトウモロコシとかぼちゃが実ってもう収穫期に近づいてい
た。この頃になると、それを見ただけで豊かな気持ちになり、仕事をした甲
斐があった。しかし、広い土地をあまりにも少ない人員で開墾するので、続
けて播種するために土地の開墾のピッチをあげた。
ところが、オリメジへ来てから 4 ヶ月になるある日のことだった。平常時
には偵察機が入ってきても遠いところから見てそのまま去っていくのだが、
よりによって今日は偵察機がオリメジ島に入ってきて、それもとても低空を
一番遅い速度で島の周囲を 2 回、回りながら詳しく偵察して行った。我々は
みんな爆撃の事前偵察だと直感した。
しかし、今撮影したとしても爆撃するのに、1 日、2 日は余裕があるだろう
と思った。ところが、その偵察機が行った後、何時間もたたないうちにいつ
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もはウオッゼ島本島にきていた空襲が始まった。この時まで、班員たち皆は
偵察機が去っていった後、この島にまた空襲が来る前に早く収穫して貯蔵し
てしまえばいいと思って、急いで収穫している時だった。
島の上空に入ってきた爆撃機は島の上空を一回りした後、島の南側の端か
ら攻撃の方向を決め、まずその中の 2 機だけが島に向かって急降下しながら
飛んできた。これは明らかに機関銃を乱射しながら攻撃してくるので、私も
体を隠すことが先だった。距離の関係で、遠距離にある防空壕まで走ってい
く時間的余裕は到底なかったので、一番近くにある農業用水の水槽まで力の
限り走った。私より遠いところにいた日本人 2 人も私の後について水槽の中
に無事に入ってきた。水槽の中に入ってみると日本人 2 人と朝鮮人同志 2 人
がいた。
この水槽の深さは 1 m 50 ㎝、幅もまたそのくらいなので、直撃されれば問
題だが、機銃射撃や破片などは心配ないようだった。しかし、機銃射撃を乱
射しながら降りてくる飛行機もこの水槽の中に人が何人かいることを知って
いるだろうし、上空に浮かんでいる爆撃機は一層確実に確認しているだろう。
だからこの水槽を中心に集中攻撃をしてくるのは明らかであり、皆は不安で
震えずにはいられなかった。
さらに水槽の上には覆いがなかったので爆弾が落ちる大きな音は全く防げ
なかった。覆いがある防空壕に比べて爆音があまりにも大きくてびっくり仰
天した。爆撃機 50 機余が必ず 2 機ずつ降下しながら爆弾を投下したために、
その時間がどれほど長かったことか。その上、蓋がなく完全に露出された水
槽の中なので、爆弾が炸裂する怪音に備えて両方の親指で鼓膜を力一杯さえ
ぎって、口を大きく開けていた。
時間がどれだけ流れたのか、本当に長く感じた空襲は激しく降り注いだ機
銃射撃を最後に完全に終ったようだった。飛行機が行った後、外に出てみる
と、地上は完全に荒地になっていた。すなわち今回使用した爆弾は地上に届
くや否や爆発するいわゆる瞬発弾だったので地上の食糧作物は、すっかりな
くなって、椰子の木もほとんど半分は胴体だけが残っていて、実に殺伐とし
ていた。しかし、我々はこの日の爆撃で瞬発弾の威力を初めて知って驚いた。
だが他の爆弾のようにある程度、土の中に入って爆発する爆弾であったら、
水槽が崩れて生き残ることはなかっただろう。瞬発弾であったことを天に感
58
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
謝した。そしてものすごい土砂と火薬のごみが混じり、島全体がひどい暗雲
につつまれた。そのため攻撃目標がつかめずに盲目的に投下したので、幸い
直撃を免れたのではないかと思った。
これまで、頑張ってきた農業が完全に失敗となり、農業班という名目で
残っている名分がなくなったので、ウオッゼ島本島への引き上げ命令を待つ
しかなかった。
高光俊同志の不意の戦死
ある日、オリメジ海岸に魚を取るために遠征してきた我が済州島出身の高
光俊(コ・グァンジュン)同志に会った。もともと性格は気さくではなかっ
たが、さっぱりした性格で好感が持てた。そして久しぶりに彼に会えて本
当に嬉しかった。彼は唯一に網を投げて魚を上手に捕まえることで有名で
あった。
「ここまで来る間に何回か網を投げてみたが、全く運が悪かった。けれども
このオリメジだけはいくつかの島の中で一番魚が多いところなので、十分に
捕って帰れるよ」と言いながら、自信満々に網を巻いたまま先頭に立って海
に向かって速足で歩いて行った。そして一緒についてきた 2 人の同志たちに
太陽がもうすぐ沈むので早くついて来いと催促した。
しかし、後をついてきた同志たちは特に急ぐこともなくそのままゆっくり
歩いて行った。
ところが高光俊同志が砂浜を越えてちょうど海の中に入ろうとしたとき、
平常時には来ない遅い時間に偵察機の爆音が聞こえてきた。ついてきていた
漁猟班の 2 人は爆音を聞くや否やすぐに陸上に走って上がり、偵察機が来て
いるので早く来いと大声で叫んだ。しかし、すでに海の中に入った高同志は
距離上、陸地に上がるのには遅いと思ったのか、あるいはわからなかったの
か、そのまま海の深い方に行った。
この時、島の近く入ってきた偵察機はまず海に入った高同志を狙い、何回
か回りながら集中攻撃を加え、ついには高空に上昇して爆弾まで落として、
来た道に消えていった。偵察機が行った後に同志たちが走って行って、その
付近一帯を徹底して探したが、ついに発見されず、そのまま帰ることになっ
59
た。はじめは偵察機の機銃射撃に対して水の中に入って隠れ、偵察機が行っ
た後に再び水の上に首を出して息をし、また水の中に入るのを何回か繰り返
した。その光景を手に汗を握って見守っていたが、後に投下された爆弾のせ
いで体も命もなくなったのではないかと思った。高同志こそ我が済州全同志
の柱だったのに、急に目の前から消えてしまって、本当に夢のようであり、
悲痛きわまりないことであった。
人肉説の実相
我々に本島のウオッゼ島から帰れという引き上げ命令が下され、オリメジ
に来てから 5 ヶ月して本島に帰った。ウオッゼ島に帰ってみると、オリメジ
に行く前に出回っていた人肉説が一層拡大していた。25 ミリ機関銃陣地とい
う言葉が出回り、一方ではそれと隣接している第 7 砲隊員という言葉も流布
されていた。そして我々済州島出身の中では、これまで1人だけその対象と
して消えてしまったという。
ところが、その同志は他でもなく私がオリメジ島にいるとき、私を信じて
椰子コプラを採りに来た細花里出身の同志だった。彼はオリメジ島から帰っ
てきた後、椰子コプラが 1、2 ヶ月は食べられるほど十分に確保されたので、
魚を捕まえるための投げ用の雷管と交換してくると言って出たきり、二度と
帰ってこなかったという。その当時そんな噂が回っていたから、そう想像せ
ざるをえなかった。またそんな言葉が流布された後なので、一人では探し
に出かけられないから確認することもできなかったという。いずれにせよ、
我々同志こそ、その当時出回った流言の対象にならないことを切に願った。
一方、日本の軍人たちが人肉を食べたという説に対して徐相炯同志は、当
時日本の軍人たちの話を聞き、第 7 砲隊員たちに間違いないと証言していた。
第 7 砲隊は平常時 11 人の隊員が配置されているが、これまで、戦死と食糧
難による餓死者を除いた 6 名の隊員が残っているということだった。しかし、
その事実を知った動機は他でもない。軍司令部の書類整理をしてみたら、作
戦上最も重要な機密書類のひとつがなくなっているのがわかって、配下の砲
隊長に直ちに調査せよとの命令が下された。しかし、数日がすぎてもその報
告が入ってこないので、やむを得ず捜査班を編成して現地確認調査をする
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
こととなった。その責任者を実務担当者である中村中尉に下命したという。
中村中尉は命令通り班員たちを同行させて、第 1 砲隊から砲台別に確認調査
を終え、第 7 砲隊まで来た。第 7 砲隊に入って全砲隊員に会ってみると、ま
ず目に入ったのが隊員たちの健康状態であった。今まで調査してきたが、他
の砲隊員は皆同様に目がくぼみ、やせてひどい栄養失調で、健康状態は話に
ならないぐらいだったが、この第 7 砲隊員だけは栄養失調はおろか、むしろ
平常時よりも一層健康であったので内心驚いた。そういえば、隊員たちの中
には何か感づかれないようにポケットから出しては、ガムでも噛むように
くちゃくちゃと食べているように見えた。
「隊員たちがこんなに元気なのは、本当に嬉しいことだ。ところが、隊員た
ちが健康になるのは何か特別な秘訣でもあるのか?その秘訣は何だ?それに
さっきから隊員たちが口に入れておいしそうに噛んでいるのは何だ?そんな
においしいものなら、どれ、わしもちょっと食べてみよう」。中村中尉がその
者に手を突き出すとぐずぐずして困惑したようだった。その光景を見て、中
村中尉はその者の手では時間がかかりそうなので、直接近くに行ってその者
のポケットに手を入れ、つかんだものを出してみると切れ端の干し肉だった。
「これは何の肉だ?」彼らに聞いても、みんなが当惑するような目つきで、お
互いの顔を見合わせるだけで何の返事もなかった。
今、草粥を炊いて食べるのも難しい状況の中、豚肉、牛肉、もちろんクジ
ラ肉もすべてが夢にも見られない実情なのに、それなら、人の肉、人肉の他
にあるのか、と、中村中尉は直感した。「お前たち、これは人肉だろう?そう
だろう?」中村中尉は小隊員たちを追及しながら大きな声でどなった。「ど
れ、これが、人肉でなかったらなんだ。言ってみろ」といったが、隊員たち
は黙りこくったまま、だれひとり反論しなかった。「そうか、わかった。本当
にお前たちは天罰を受けるヤツらだ。いくら食べるものがなくて飢え死にす
るほどだからと言って同僚を食べたというのか?」
中村中尉はその場で電話をかけて司令部に報告をし、返事を待った。すぐ
に司令部から命令が下った。同僚を食べたというので死刑執行、銃殺の他に
何があるかと。二度とこんなことが再発しないように死刑執行するほかない
と言った。これを知った隊員たちは、すでに自分たちは死ぬ覚悟ができてい
るので関係がないが、砲隊長だけは全く知らないことなので、この人は助け
61
てくださいと頼んだ。砲隊長1人だけは除いた全員が本島から一番近い小さ
な島で銃殺され、この事件は終わったということだ。
私は本島に帰った後、当分の間は食べられるようにとオリメジから持って
きた、麻袋 2 袋の椰子コプラで延命した。そのうちいくらかは本島に残って
苦労をしてきた同志たちに贈り物としてわけてやった。だが、それだけでは
いくら節約して食べたとしても1ヶ月を保つのが難しかった。それで仕方なく
コプラを採るために、遠いオリメジ島を再び往復することにした。もちろん、
本島の外に出ていくのは軍の監視が厳しいので、深夜を利用するほかなかっ
た。オリメジ島までは小さい島、大きい島を 7、8 個越えなければならない。
夜中に出て 6、7 時間ほどは歩き、帰るときは太陽が登る直前までに本島と一
番近い島に近づき、潮時を合わせて渡って来なければならなかった。
私が初めてオリメジ島から帰ってくる 2、3 ヶ月前から偵察機は 3、4 日に
一度ずつ現れ、爆撃機は1ヶ月に1度程度現れ、その回数が顕著に減ったと
いうことだった 36。
それでなのか、私が帰ってきた 5 月ごろからは、いつの間に植えて育った
のか、かぼちゃが収穫期になって、熟したものがたくさん目に入った。それ
を見て、もう本島でかぼちゃやトウモロコシだけ植えれば、飢え死にの心配
はないようだった。さらに、5 月末頃からは偵察機も1ヶ月に 1 回ぐらいで
顕著に減ったので、大いに平和を取り戻したというわけだ。
米軍の投降懐柔工作
ところが、急にロッキード双発長距離偵察機が島の上空に現れた。偵察機
は島の上空を旋回しながら、拡声器で大きく放送しはじめた。爆音の音だけ
でも、ものすごく騒々しいのに、その爆音の音より倍も大きい声が響き渡った。
けたたましい爆音の音を押さえて天地が振動するほど、飛行機から演説する
声がはっきりと聞こえてきた。当時にしては本当に驚いたし、また不思議な
ことであった。
「親愛なる朝鮮半島青年の皆さん、人類の平和を無視して甚だしい野心を
36 1945 年 3 月頃から
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
もって侵略戦争を強行してきた日本は、すでにその天罰を受け、滅亡の一歩
直前であり、すべての物を失い、地獄の門前で、最後の審判だけを待ってい
る実情です。日本が戦争を起こし、平和を愛する人類をどれほど多く殺し、
苦しめ、そして死なせていますか?しかし、戦争はすでに決着がつき、今や、
残ったのは日本本土への上陸で、これは時間の問題です。今こそ、日本が降
伏をしてこれ以上の犠牲者を出すのを止めるべき、重要な時です。皆さんも
早く降伏して、これ以上の犠牲にならないように我々のもとに来てください。
我々は十分な準備をして待っていますから、皆さんを大歓迎します。そして、
朝鮮半島の青年の皆さんは、今や他国の支配から解放されて主権をもって自
主独立国家を建設しなければならない極めて重大な責任を持っている方たち
です。早くこちらに来て、まず救助を受けてください。我が米軍は皆さんの
身辺を最後まで守るだけでなく、戦争が終わるに当たって皆さんを故国に安
全に送ることを固く約束します」と言った。
この放送がほとんど終わる頃、さらに他の島の外海側の海岸に救助船が
入ってきて、同じ放送を繰り返した。今度はもっと大きく、島がカンカンと
響くほどの放送をするのであった。そして皆さんの同志もすでに何人かここ
に来たといって、一人ひとり紹介をした。
そして、脱出に成功した人たちが出て、「脱出に成功した我々は安全な
ところで本当にいい待遇を受けながら、一日一日を無事に過ごしています。
皆さんはいつまで草粥で辛うじて延命しながら犬死にをされるのですか?
さあ、一日も早く悲劇を逃れて我々のもとに駆けつけてきてください。我々
はいつでも皆さんを安全に迎える準備ができていますから、安心して駆けつ
けてきてください。必ずお待ちしています」と、時間と場所を教えてくれた。
そして演説が終わった次には、郷愁を誘うアリラン、ノドゥルカンビョン
〔川辺〕、ヤンサンド〔陽山道〕など、多くの民謡を流して拡声器で聞かせて
くれた。このように長時間繰り返して脱出を待ち、何の成果もないと重装備
した一隻の救助船から砲撃と機銃射撃で長時間にわたって猛攻撃をした後、
姿を消した。そのように襲った時間は1時間以上で、実にイライラするぐらい
だった。
このような攻撃の理由は、朝鮮人が脱出するのを日本人が厳重に防いでい
るからで、これを防がないように警告するためだと放送をした。これは約
63
2 ヶ月続いた。その間に脱出を試みたが、日本軍の警備兵による殺害や阻止
に合った者は 1、2 人ではなかった。そのため懐柔工作を始めて約 2 ヶ月後か
らは救助船も現れなかった。
その当時、朴潤瑞同志は救助船が往来し始めた時から 2 ヶ月の間、集団脱
出の計画を立て、その日程を 8 月 15 日、夕方 5 時としたという。日本人を
殺害して集団脱出しようとしたのだが、つい 8 月 15 日の停戦の知らせによっ
て白紙になったということだ。
我が同志たちといえば、終始一貫して脱出を計画したが、脱出する途中に
日本の警備兵によって殺害された人が何人もいたために、命を懸ける覚悟が
ないと断行は難しかった。もちろん、偶然に運よく脱出に成功した人もいた。
彼らはそれこそ英雄称号を受けるほどその待遇がよかったという。もちろん
運もよかったかもしれないが、勇敢な人だから可能だったのだろう。
あれほど恋した故郷へ
ある日、急に日本が降伏したというニュースが伝わってきた。そしてその
次のニュースは、一度に 10 万人以上を殺傷できる原子爆弾が日本の広島と長
崎に落とされ、ものすごい殺傷をもたらしたため、これ以上は持ちこたえら
れなくて降伏したということだった。
このように停戦ニュースが伝わると、我々は一日も早く故郷へ帰ろうと期
待を膨らませた。しかし、待ち焦がれた船は来なくて、変な流言飛語だけが
回っていた。日本軍に賦役した朝鮮人は故郷に送られずに直接ニューギニア
に乗せていかれ、自分が入る穴を自分が掘ってその中に入った後で、大型
ローラーで轢かれてしまうというのであった。実にとんでもない話であった。
なぜ、戦争を実行した張本人である日本人はそのまま放され、罪のない
我々朝鮮人だけを殺そうとするのか、全く理解できないばかりか、激憤を禁
じざるをえない。それはとんでもないことだと一蹴してしまった。しかし、
船が来ないまま 3 ヶ月が経ち、その流言飛語が本当ではないかという恐怖と
悔しい思いがした。しかし、その後、何もなく過ぎ、待っていた船は 4 ヶ月
ぶりに入ってきた。
後でわかったことだが、戦線が広かっただけに船舶の配船の関係で遅く
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
なったということだった。そんなに長い間待っていた船が入ってきたので
喜びも大きかった。帰還船は日昌丸 37 という大きな船だった。我々は帰還船
に乗り、帰る途中にポナペ 38 によって帰還の同志を乗せた。この時、同志が
持ってきた我が国の旗を初めてみて万感が迫る思いだった。
次にグアム島に立ち寄ったが、その広い港内には帰還船が一杯で入ること
ができず、仕方なく港の外に停泊した。ところで、ここに停泊している間、
軍服だといって、我々に一人当たり数着ずつ配給してくれた。これこそ思い
もしなかった大きな贈り物で、どの神さまのおかげかと大きな喜びで感謝を
禁じえなかった。当時のお金で換算しても相当な額になるので、いっぺんに
金持ちになったような気分だった。故郷に帰っても一生着ても残るだろうと
思った。
しかし、それは単なる夢にすぎなかった。結局は釜山港に到着して船から
降りるとき、これは軍服だからお前たちが着る服にはならないといって、出
口を担当する米軍たちが取ってしまった。その代わりに日本軍の夏服一着、
軍靴一足と最低級の毛布一枚が交換された。結局、グアム島から釜山まで運
ぶ役割をしただけだった。
グアム島を出発して釜山港に入ったのは 1945 年 12 月 20 日だった。はじ
めて釜山港を出発してから満 3 年 6 ヶ月ぶりであった。
おわりに
この記録は私の九死に一生に関する記録であるが、実際、私だけの記録な
ので、他の我が済州島出身の同志に関する記録が詳しく出てこないのは残念
だ。しかし、済州島出身の同志 58 人は初めから終わりまで一つの島の中で一
緒に生活し、最後まで生存した者は最後まで一緒に帰ってきたので、その環
境においては差がない。
もう一度言えば、我が済州島出身者は南洋群島、マーシャル諸島のウオッ
ゼ島という済州島の隣の牛島の 3 分の 2 ほどしかない小さな島で、日本軍
37 日昌丸:1939 年三菱神戸造船所で作られた 6,257 トン級の船舶。戦争後、引き揚げ船として使用。
38 Ponape、ポナペ島:太平洋西部のキャロライン諸島東側にある火山島。ミクロネシア領で環礁に囲まれている。
65
1 万人余りが守っている島の中で、はじめの 1 年間は徹底した強制労働に苦
しめられ、残りの 2 年 3 ヶ月はそれこそ生き地獄のような空襲・爆撃と艦砲
射撃の下でみな一緒に苦労をした。その苦労は誰が厳しくて誰が厳しくない
ということはなかった。ただ、差があったといえば、生と死の別があっただ
けだ。一緒に行ったときは 58 人だったが、帰りは犠牲になった同志を除いて
26 名が一緒に帰ってくることができた。生きて帰ってきた人たちは家族の再
会の喜びと将来の希望があった。しかし、異国の見知らぬ土地で無残にも犠
牲になった数多くの我が同志たちの魂については、戦争が終わって 50 年も過
ぎた今まで、政府が慰霊祭を一度も執り行わなかったのは、本当に胸の痛い
ことだというほかない。
しかし、そんな中でもひとえに我が済州島だけは、道政を担当する知事と
市長、郡守の方々の格別な配慮で、去る 1997 年 8 月 15 日の光復節に全国で
唯一、簡素ではあるが慰霊祭を行った。たとえ時期を逸したとしても、我が
済州島出身の犠牲者である同志たちはその恨の何分の 1 だけでも晴らせたと
思う。ひどく難しい財政状況にもかかわらず、英霊を追慕する慰霊祭を挙行
してくださった道知事と市長、郡守そして多くの機関の皆さまに再び心から
感謝を捧げたい。なお、全道民の方々が積極的に協力してくださったことに
対しても感謝の気持ちを禁じざるをえない。
過去の歴史は未来に対する鏡だという。我が同志たちが経験した民族的な
悲劇をとても少ない補償で適当に暈そうとしている。大衆迎合とか、あるい
は未来志向とかいう見かけのよい文句で終わらせ、恨の傷を覆ってしまい、
正当な補償金請求さえも黙殺してしまった。本当に戦争犠牲の当事者はどう
しろというのか…、あんなにも甚だしい犠牲を払っても無条件で耐えろとい
うのか…。これこそ傷を負った人たちに鞭を打つものであり、却って一層、
痛い胸に傷をつけることになる。
言葉にはその責任が必ず伴わなければならない。政府はどの程度の責任を
もってこれを善処してくれるのか、それについてこれまで我が生存者たちは
見極めてきた。しかし、多くの歳月が流れたが、政府は我が戦争犠牲者を利
用し、その対策も取らずに韓日会談により受けとってきたお金を京釜高速道
路や大企業の生産資機材などに使った。そうしたならば、それによる利益は
我々に返さなければならないのに、それももちろんなく、日本に対しては心
66
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
から謝りさえしたら補償は望まないという高尚な言葉で、補償の道を自ら遮
断する愚かなことをした。
日本人たちはどうか?彼らは謝罪して、いくらも経たないうちにいい加減
なことを言い、必ずひっくり返してしまう状況だ。戦争被害の当事国の批判
がいくら降り注いでも動こうともしないのが最も問題だ。日本は過度な野心
の敢行で生じた戦死者を靖国神社に丁重に祀って慰霊し参拝するが、我が政
府はそれとは正反対に終戦後、半世紀が過ぎても政府次元での慰霊祭さえ行
なおうとしない。今も、異国の各地で黄泉を彷徨っている太平洋戦争の犠牲
者は放置されたままだ。いつまで日本人の形式的な謝罪だけを信じて彼らを
放っておくのか…。本当に残念な気持ちでいっぱいだ。
太平洋戦争が終わって、現地から生きて帰ってきた同僚により、遺骸と
なってでも帰ってきた霊もあるが、まだ多くの犠牲者たちが〔遺骸もなく〕
戦死確認者や未確認者として残っている。このような人たちの魂を慰労する
のは、国家次元で行うことである。他のどのことよりも急ぐことだ。だから
政府次元の合同慰霊祭を一日も早く催し、慰霊塔を建てて国民にも追悼の機
会を与え、全国民の和合団結に昇華させなければならない。こうして再びこ
の地でこのような悲劇が繰り返されないように、国家愛と民族団結の教育の
現場になるようにしなければならない。そして、これは過去に主権のない民
族の悲しみの中で、日本が野心のため起こした太平洋戦争に巻き込まれ、無
残にも犠牲になった多くの霊魂に対する、ひとえに最小限の鎮魂の道である
と信じる。このことを何度も強調して、政府が実行することを心から要望し、
この拙筆を終わろうと思う。
1999 年 8 月
67
参考 当時の済州島出身同志名簿
終達里:宋在吉、梁元鐘、権恒培、金鳳秋(奉秋)、尹ギバン、漢錫鐘、金奉奎
下道里:高スンゴム、イム・ドギン、チョン奉洙、金武吉、金智用、李共石
細花里:趙弘瑞、チョ・ガビュン、呉斗金、高泰豪、夫南俊
上道里:チョン斗玉(創氏:豊村)、高デシク、呉ムニョン、
坪垈里:朴潤瑞、高萬平
漢東里:高泰翊
松堂里:金贊祐
杏源里:朴泳根、金春培
月汀里:金熙奎
北村里:李ドゥファン、黄本(創氏)
咸徳里:金性信、星本(創氏)
新村里:愼公範
禾北洞:夫在奎(創氏:夫藤)
済州市:徐相炯、高光俊、申庠訓(創氏:平山)、金成宝(創氏:金城)
涯月里:金容植、高斉禧、姜定一
翰林邑:蔡厚秉、金洙鳳、高泰化、張(創氏:玉山)、李昌福
造水里:李日和
楮旨里:金成宝、ジャ・スンギュ
大静邑:姜信国、黄河善、金昌洙、李大珍、黄德三、高原(創氏)
安徳面:梁昇弼
加波里:姜尚興、姜公三(創氏:重山)
大静 :南
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
この手記について/軍属志願の背景/釜山訓練所入隊/南方行き航路/タイ捕虜収容所/
収容所勤務開始 / 第 4 分所への転属 / 第 4 分所第 1 分遣所での生活 / 第 3 分遣所
転属:分駐所責任者として捕虜との関係づくり / 収容所勤務中の逸話 / ジャングル
生活後の収容所生活 / カンチャナブリの慰安所 / 連合軍空襲以後の沈滞した雰囲気 /
8・15 終戦 / 在タイ高麗人会組織 / 解放後、帰国できずにタイで生活 / 帰郷の旅
石相玧
南方紀行
―タイ捕虜収容所―
2
70
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
石相玧(ソク・サンユン)創氏名:石原相玧
1920.11.16. 慶南山清郡山清邑生まれ
1942.6.
陸軍軍属捕虜監視員として動員され、釜山西面の野口部隊で訓練
1942.8.
タイ捕虜収容所、陸軍傭人捕虜監視員
1945.8.15. 日本敗戦後、戦犯裁判などに巻き込まれてタイ残留
1946.6.15. 解放され、故郷に帰国
この手記について
石相玧翁は 1942 年 22 歳で日帝の捕虜監視員(陸軍軍属)として強制動員
され、タイで捕虜監視員生活を送る際に経験したことをメモした。その後、
帰国し、韓国で 1991 年頃に随筆形式の文として作成した。多くの時間が経
過してからの作成であったため、苦労した内容よりも当時の体験の中で記憶
に残るエピソードを中心に記述している。
この内容は、当時の時代状況を理解するための十分な助けとなり、軍属の
捕虜監視員として強制動員された 3,000 人余の動員全般に関する重要な資料
として活用できる。登場する人物は日帝により強制動員され、タイ捕虜収容
所で捕虜監視員生活をした同僚たちである。(国家記録院所蔵資料)
著者は自身をはじめ、同じ年代の朝鮮人青年たちが植民地支配下で強制動
員されて経験したことを一般大衆と子孫に知らせることで、再び国を強奪さ
れるという愚かなことのないようにしたいという切ない願いで文を残したの
であろう。
軍属志願の背景
1942 年に 2 月、私は満洲で母の危篤の急報を受けて急遽帰郷した。母の持
病である胸の病状は、私が帰郷した時には危険な状態から次第に好転し、生
活の状況も少しずつよくなっていた。しかし、私をとても愛しておられたお
じいさんが前の年に亡くなられ、両親は喪中であった。
71
私は特にすることもなく、友達に会って本を読むなど、退屈な日々を送っ
ていた。5 月初めに友人の呉承煥(オ・スンファン)君の誘いと父の勧めに
勝てず、山清郡の施行する面吏員の選考試験に応募した。選考試験では合格
者発表もなく、いつ採用されるのかもわからない。私は内心、採用されるの
を望んでいなかった。遠くどこかへ逃げたくて、その機会だけを狙っていた。
時は戦時だ。日本軍がハワイの真珠湾を攻撃してからすでに 1 年 6 ヶ月
の月日が流れていた。これまで戦勢は日本軍が全アジアを席巻する勢いで、
遠くベトナム、インドシナ半島を経てマレー半島を破竹の勢いで進撃し、
シンガポールを陥落、占領して、英国軍 5 万の大軍を捕虜にして、いつの間に
かインドネシア戦線からニューギニア戦線まで進撃中という勝利の戦報が飛ん
できた。このように戦勢が急進展して戦線が拡大されたら、一番先に大量に
求められるのが人力だ。兵力と労働力が足りない。
日帝があれほど虐待して見下した我が民族も、今や内鮮一体だ、皇国臣民
だと騒ぎ立てて、使い道があるようになったのだ。朝鮮総督の南次郎は内鮮
一体を叫びながら志願兵を選び、報国隊という名の労務者を捕まえるのに血
眼だった。我が故郷でも炭鉱だ、製鉄所だ、軍需施設工事だ、等々、毎日の
ように報国隊として引っ張られて行った。志願兵制度は数年前、支那事変
〔日中戦争〕初期から始まった。全羅北道出身の李仁錫(イ・インソク)上等
兵を前に立たせて「李仁錫上等兵は中支那戦線で輝かしい功績をたて、軍人
としての最高の栄誉である武功金鷲勲章を受けた」など、募集宣伝に熱を上
げ、ほぼ強圧的な方法で適齢期の青年たちを引っ張って行った。
私はこんな状況でどのように身を処すべきか?両親は郡で面吏員になるの
を望んだが、私の気持ちは違った。満洲で軍属生活を経験したこともあり、
志願兵や報国隊ではなく、軍属になるのが現実的に可能だろうと思った。そ
れで、満洲か日本に行くことを考えている頃に…「これだ!この時だ!」。
1942 年 5 月中旬、「南方派遣俘虜 39 監視員として半島青年 3,000 人を募集す
る」という要旨の新聞報道をみて、私は内心、快哉を連発した。私はいつも
39 俘虜は捕虜の意。南方派遣捕虜監視員の動員は 1941 年 12 月 8 日、真珠湾攻撃とマレー上陸を筆頭にマ
ニラ(1942 年 1 月)とシンガポール(2 月)、ジャワ(3 月)、フィリピン(5 月)の占領がその背景。こ
の時期、日本軍の捕虜となった連合国兵士は 26 万 1,000 人余りと推定。日本軍部は捕虜管理の必要から、
1941 年 12 月、陸軍省に捕虜情報局を設置。捕虜監視員は台湾人と朝鮮人を対象に充当。朝鮮での捕虜監視
員募集は 1942 年 5 月から開始。
72
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
交流している友達に会って一緒に行こうと誘った。ほとんどが賛成した。そ
して数日が過ぎた。山清郡でも 25 人の選抜割当があった。郡庁の掲示板で
は、6 月 3 日、10 時に山清公立尋常小学校で選抜試験があるのでその前まで
に志願者は願書を持って出頭、応試するようにという要旨だった。
6 月 3 日、ついに試験の日だ。普段、思いを同じにしていた近所に住んで
いる友達、黄潤基(ファン・ユンギ)40、呉聖淑(オ・ソンスク)41、金玉天(キ
ム・オクチョン)42 と一緒に試験場である母校の校門をくぐった。校庭には
すでに数十人の志願者と思える青年たちがひしめいていた。同窓の友達も何
人か見えた。時間が近づくとほぼ 100 人の志願者が集まった。この時、郡か
ら試験官が到着した。他でもない前日の面吏員の試験官だった日本人の郡の
内務課長と面行政係主任、面行政係雇員である同級生申濬均(シン・ジュン
ギュン)など 3 人であった。
課長はすぐに試験場である教室に入って、主任と申君は我々志願者を見回
して何か互いに耳打ちをしあった。
申君が大声で「みんな筆記具だけもって試験場に入ってください」と叫んだ。
そうして私に近づいて握手をして「おい、石君、主任がちょっと会いた
いって」。私は「何の用だろう」と思いながら、主任の前に行って挨拶をし
た。主任は風采のよい穏やかそうな紳士であった。「あ、石君、お前は私が助
手として雇うことにした。すぐ、郡守の発令が出るから、家に帰って待って
なさい」。
私はその言葉を聞いて頭を打たれたような衝撃を感じた。「主任、私は郡に
入る気はありません。南方へ行けるようにお助けください」。私は泣き出しそ
うな声で言った。申君は隣でにっこり笑って立っていた。主任も笑いながら、
「石君、もう一度よく考えてみなさい、郡に入る方が、将来が保証される、そ
の方がいいから」といい、教室に入った。主任の後ろについていく申君を捕
まえて私は「濬均よ、助けてくれ、お願いだ」。「そうだな、お前の気持ちは
僕が言ってやるから」。そして、私も申君について試験場に入って行った。
40 黄潤基:吉原潤基、1921 年 2 月 29 日生まれ、慶南山清郡山清面池里 58
41 呉聖淑:光原宗宏、1921 年 4 月 18 日生まれ。慶南山清郡山清面塞洞 2
42 金玉天:金本得性(金本〇〇)、1921 年 5 月 20 日生まれ。慶南山清郡矢川面院里 271
73
試験では九ツ切更紙を1枚ずつ配り、試験官である内務課長が黒板に、「大東
亜戦争と半島青年の責務」と書いて、この題で作文して出せといった。私は、
学科試験は特に難しいことはなく自信があったが、午後に実施する身体検査が
心配であった。みんな壮健な体格だ。学科試験は作文だけで 1 時間ほどで
終わった。家に帰って昼食を食べて、午後 1 時に身体検査を受けるのだが、
私は昼食を食べる気分も出ず、嫌な気分で運動場の桜の木の陰にしゃがみ
こんで瞑想にふけっていた。時間になって身体検査場である郡庁前の公医、
李馹宰(イ・イルジェ)医院に行った。裸になった受験者たちを見ると、皆が
私よりよい体格に見えた。
「僕はなぜ矮小な体格で生まれたのか。うらやましい」。身体検査は午後
3 時頃に終わった。約 1 時間後に合格者発表がされた。私は急いで申君に近
づいて聞いた。「僕は合格したか?」。申君はまたニコリと笑った。私の名前
は 10 人余りの呼名後に呼ばれた。邑の出身はみんな合格し、各面から来た人
たちは大部分が落ちた。神農 43 郡守の一場の演説があり、通知があるまで家
で待機していろという内務課長の指示を受けて、午後 6 時頃に家に帰った。
私は両親にいつも親不孝ばかりし
ている子どもだ。合格したとどうし
ても言えなかった。そのうえ、郡雇
員として発令されそうになった話は
私だけの秘密だ。それで「ただい
ま」と挨拶だけした。母にどうなっ
たかと聞かれた時、私が返事をしな
いでもじもじしていると、一緒につ
いてきた黄君が我々はみんな合格し
たと答えてくれた。夕食時になった
が、私は黄君の家に行かねばならな
かった。〔黄君の〕ご両親を説得し
て安心してもらう必要があったの
で、徳村の黄君の家まで行った。
43 神農、姜の創氏名
石相玧の留守名簿
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
黄君は昨年冬、日本から帰ってきて、釜里の娘と結婚した新婚で、私が一
緒に行こうと頼んだので、ご両親や新婦に申し訳なかった。ご両親が数万里
離れた他国の戦争に行かせたいだろうか。こんな事情で私の説得が必要で、
黄君もそうしてくれることをそれとなく願っていた。黄君のご両親といろい
ろと国内外の情勢について、我々の身の振り方など多くの話をした。そして、
帰ってきた私は連日、南方に一緒に行く友達と一緒に遊び、1人でいるとき
は実った麦を刈って脱穀し、両親の手伝いもした。
いつの間にか 6 月 6 日だ。「6 月 8 日、午前 10 時出発」という通知が来た。
出発当日、私は簡単な普段着に洗面用具と筆記用具だけを洗面バッグにいれ、
両親に丁寧に別れの挨拶をして、集合場所の郡庁の前に行った。我々を引率
する人は社会課に勤務する同窓の崔大鉉(チェ・デヒョン)君であった。郡
庁の職員と見送りに来た数十名の家族と涙の別れをし、我々は貨物トラック
に乗せられて午前 10 時に晋州に向かって出発した。
晋州駅前の旅館に到着した我々は昼食を食べて、釜山行きの汽車の時間を
待ちながら、雑談をしたり、歌を歌ったり物騒がしい雰囲気の中にいたが、
引率者の崔君が現れ、「出発延期!」と叫んだ。入隊日が 6 月 15 日に延期さ
れたので、各自家に帰って 6 月 14 日にまた会おうという。我々は「軍で帰る
車を出してくれるべきだ」と不平を言いながら、三々五々バスやトラックで
帰ってきた。その後、待ち続ける退屈な数日を過ごして…。
釜山訓練所入隊
6 月 14 日午後、前のように郡庁の前でトラックに乗って出発した我々
25 人は同窓の崔大鉉君の引率下に晋州まで来た。駅前のある食堂で夕食をす
ませ、夜間列車で夜 9 時頃に駅を出発した。途中、各郡の駅からは我々と一
緒に行くとみられる人たちが我らの汽車に乗るところをみた。
釜山鎮駅に到着すると、時間は 6 月 15 日の早朝 6 時ごろだった。駅前の広
場は全国の各郡から集まってきた我々のような志願者で一杯になった。7 時
頃に、部隊からきたおにぎりをひとつもらって食べた。部隊から来た引率す
る軍人について、数百人が二列縦隊で行進して西面にある部隊に向かって出
75
発した。野口部隊 44 の正門に入ったのは午前 10 時だった。広い訓練所、練兵
場には我々より先に入所したと思われる訓練生の訓練を受ける号令の声があ
ちこちで騒々しく聞こえてきた。今日入所する人も千名近い数だ。我々は、
本部前広場で人員点呼や名簿対照など一連の手続きを終えた。私が配属され
たのは、ろ隊第 2 小隊 2 分隊だった。
ここでしばらく野口部隊の編成状況を調べた。この訓練所の開設目的は半島
青年を募集して捕虜収容所で連合軍捕虜を監視する軍属要員を教育、訓練する
目的である。所長の野口陸軍大佐隷下で大きく「い、ろ、は」の 3 つの隊に
分け、大隊長や大隊本部はなく中隊もない。小隊だけが組織され、訓練所本
部直轄だ。1 個小隊は 90 名ずつで、3 個の分隊があり、1 個の分隊は 30 名で
ある。小隊長は尉官級の将校で、分隊長は下士官 45 であり、分隊助手には兵
長や上等兵 2 名が付く。我がろ隊は 9 個小隊で訓練生が 800 名余りいた。
我が 2 小隊の小隊長は服部浩少尉で東京帝大法学部出身、故郷大阪で父親
の事業を助けながら、警防団長 46 をしている中、召集されてきた。とても従
順な紳士で軍人らしくなかった。2 分隊長の渡邊政男伍長は威厳を示してい
るが、人情の厚い面もある頭の切れる人で、助手の工藤上等兵、山岡上等兵
もみんな好人物であった。他の助手は軍隊の気合だといって殴打し、虐める
のを見ると、私はよい上官に会い、幸いだと思った。
兵舎は木造建築で木の板で床を敷いた縁甲板に、アシで編んだ粗末なゴザが
敷かれ、1棟に 3 個小隊、300 名ずつ収容するようになっていた。食事は
部隊の共同炊事場で各小隊別にもらって食べるのだが、私のような小食者に
不満はなかった。我々は特殊部隊だ。彼らのいうように我々はこれから世界
一流国家の捕虜を相手にする、特殊任務にあたる担い手だ。したがって我々
を国内の労務者程度には扱わないという政略的な待遇とみることもできる。
1942 年 6 月 15 日午後1時ごろから私は現役新兵と同じ軍事訓練を受けた。
固い木の板の床に毛布 2 枚、古びた軍服と足にあわない古い軍靴、戦闘略
帽などを身に着けて軍内務班生活で各個動作、密集部隊、歩兵戦闘訓練、哨
兵勤務と諸規則の暗唱、その他精神訓話など、すべての軍事教育訓練を短期
44 訓練所
45 下士官、伍長軍曹
46 警防団:戦時体制下、民間の消防や防災、防空のために組織された団体。1939(昭和 14)年結成・1947 年廃止。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
2 ヶ月で履修しなければならなかった。
その年の夏は今までにない大干ばつが続いていた。5 月から雨一粒も降らない
干ばつが 8 月下旬まで続いているのだ。釜山郊外の田畑のすべての農作物が
枯れている。苗床の苗は取水もできないまま黄色く枯れて火をつければすぐ
にでも燃えてしまいそうだ。我々はこの猛暑の中で汗と土埃にまみれた体と
軍服を水道水不足で思い通りに洗って着ることもできない中で、2 ヶ月余の厳
しい訓練をがまんしながら受けた。訓練中の報酬は初任給が 30 円 47、2ヶ月目
には 2 円上がった。分隊員 30 名のうち、訓練成績の良い 2 名には 4 円を、次
の 8 名には 2 円を上げてくれた。毎日、本人には小遣いを使えといって 5 円を
支給してくれ、残りは留守宅送金といって実家に送金してくれた。
我々の村出身 25 名はそれぞれ分散配置され、私の小隊には閔泳三(ミン・
ヨンサム)、閔廷植(ミン・ジョンシク)、呉聖淑(オ・ソンスク)だけだった。
その時私と一緒に親交があった戦友は忠南公州の尹大重(ユン・テジュン)48、
釜山の白相天(ペク・サンチョン)49、大邱の金禹淳(キム・ウスン)50、忠北の
柳雄烈(リュ・ウニョル、柳井)、大邱の芳山勉(パン・サンミョン)などが
記憶に新しい。
たまに訓練が休みの日は午前に洗濯を急いで終わらせて、午後には懐かし
かった郷友に会うのに忙しい。黄潤基と一緒に酒保(部隊の売店)に走って
行って日用品も買い、20 銭でぜんざい一杯をやっと買って食べながら、疲れ
をとる。
南方行き航路
ついに出発だ。8 月 20 日、午後我々は 2 ヶ月間住んでいた兵舎の内外をき
れいに掃除し、新しい軍服が支給された。浮かれた気持ちで一晩を送り、新
しい軍服と新しい軍靴に換えて、出発命令を待った。昼食は豚肉の特別食
だった。午後 4 時頃、我々、ろ隊 9 個小隊 800 名余は本部前広場に集まり、
47 当時の面書記の給料よりは少し良い額
48 尹大重:靖鄕憲井、1922 年 2 月 25 日生まれ、忠南公州郡利仁面舟尾里
49 白相天:白石嘉男、1922 年 9 月 9 日生まれ、慶南釜山府
50 金禹淳:金本禹淳、1920 年 11 月 29 日生まれ、慶北大邱府鳳山町
77
最後に部隊長である野口大佐の送別訓示を受け、徒歩行軍で正門を出た。釜
山港中央埠頭に着くと午後 7 時が過ぎていた。埠頭の広場でおにぎりの夕食
を食べて輸送船宏山丸 51 に乗ると、いつの間にか太陽は大新洞の裏山に沈ん
で暗くなってきた。我々は故郷の山河との別れが心残りで、甲板の上から釜
山市を眺めながらざわついていたら、輸送指揮官の大橋大尉が現れて、大声
でみんな船倉に入れといった。
すでに時間は夜 9 時だ。やがて出帆船が鳴らす 3 回の汽笛と共に、宏山丸
は徐々に船頭を東に回した。いったい私たちはどこへ行くのか…、分隊長に
聞いても「わしも知らん、聞いてくるな」という。「ジャワ、フィリピン、タイの
3 つの内のどこかだろう」。同僚たちは雑談したり戯れあったりして騒いでい
たが、今日に限って幹部たちは何もいわず、寛大だった。
2 時間ほど経っただろうか。船が揺れ始めた。玄界灘のようだ。騒がしく
甲板を上り下りしていた戦友たちは、今は静かになった。みんな船倉の自分
の席で横になった。私は船酔いが嫌で皆より前に席で寝ていた。眠りたいと
思ったが、船の揺れが段々ひどくなり、寝ていられなかった。大部分の人は
眠りに入ったようだ。何人かの人は船酔いに勝てず、嘔吐する人もいた。そ
れを見て私も吐きそうだった。一生懸命我慢して死んだように横になってい
たら、波はだんだん静かになっていくようだった。波が静まると船の揺れも
なくなるだろう…、私は知らない間に眠っていた。
22 日朝 4 時頃、眠りから覚めた人たちが甲板に上がろうとしたが、出るな
という厳命だ。船は九州門司港に寄港したのだ。我々はここで 2 泊 3 日宿泊
したのだが、昼は甲板に出られず、夜間にだけ出て門司港の電気の光を見る
だけだった。防謀上の注意命令には私たちも従うしかない…。22 日夜間には
我々の部屋の向かいの空いたところに日本人高級文官(軍政官や技術官とみ
られる)たち数十人が乗った。みんな 40 歳を越えているように見えた。彼ら
と我々は同じ寝室で同じ食事だ。お互いに知りたいこともあるはずだが、一
切話をしようとしなかった。我々はいつも騒がしいので、彼らは我々をうる
さい存在として思うようで、いつも大様で、自分たちだけでひそひそと談笑
していた。
51 宏山丸(4,500 トン):山本汽船貨物船、三菱神戸船所で 1935 年 3 月 16 日竣工、大阪商船、山下汽船が運
用するなかで陸軍が徴用。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
8 月 24 日未明に我々を乗せた宏山丸は門司港を出港した。これから我々は
九州西岸をすぎて沖縄列島を越え、台湾を横にみて遠く南シナ海を渡って、
未知の南方の国、新天地へ行き自分の夢を広げることになるだろう。
24 日の朝が開けた。これより甲板に出て、空気もたくさん吸って軽い運動
をして体をほぐせという指示だ。我々は甲板に出た。茫々たる大海だ。あ!
我々の船だけではない。周りを見ると、大きな船が全部で 10 隻になる。門司
港で停泊していた 3 日のあいだに大船団が組織されていたのだ。そこに駆逐
艦1隻が船団の周囲をぐるぐるまわりながら援護しており、空には偵察機が
警戒飛行をしている。私は食事の時間を除き、いつも甲板に出て船団の航海
する景観を眺めていた。ところが不思議なことに船は南進をしないで西進し
ているようだった。いや、やっぱり船は西進に間違いなかった。北側に大き
な島が現れた。この島が済州島だという。
船はどんどん西進して中国の上海の前海から大陸沿岸に沿って南進し、
27 日深夜に台湾の馬公軍港に寄港、停泊した。ここでまた 2 泊 3 日間止まり、
8 月 29 日深夜に出港、南進を続けた。この時、私は連日の航海で船の食事 52
が口に合わず、嘔吐を起こし、体の具合がよくなかった。
9 月 1 日、今まで夜間の不寝番以外の勤務はなかったが、急に衛兵勤務を
することになった。私は初日に当番になって、第1歩哨として上甲板操舵室
横にいることになった。3 時間立哨、3 時間休みという勤務方式だ。始め 1 時
間は波が荒くなく、茫々大海の上を行く我々の船団の航進の姿をみながら、
大気を吸って歩哨勤務もできるものと思った。だが突然大きな波が押し寄せ
てくるのだ。ああ、ここが荒波で有名な南シナ海だ。もはや、不動の姿勢で
威厳を保つことはできない。体を支えるのが難しいが、無理に支えていると
頭が痛くなり、吐き気さえしてくるようだ。船員たちは私の態度をみて苦笑し、
座って勤務しろといった。
この時、日直の将校である 3 小隊長臼杵少尉が巡察してきた。私は勇気を
出して、「歩哨勤務中、異常なし」と報告した。臼杵少尉は私の顔が蒼白なのを
見て「続いて立てるか?」と聞いた。この時、私はすぐにでも吐きそうで、
手で口を押さえながら振り返った。彼は「いけないね。降りて休め」と言っ
て行った。私は少し吐いて、ふらふらと降り、横たわってしまった。大きな
52 黄色いカボチャ汁あるいは千切り大根、大根汁に半分混ぜた麦飯、そしてたくわんなど。
79
波は 3 日間続いた。船倉に寝ていると、ちょうどブランコに乗っている気分
だ。私は何も食べられず寝てばかりいた。私だけではない。船酔いにかかっ
た人は我が部屋だけでも 10 人だ。
しかし、9 月 4 日になると波は徐々に静まって船団はベトナムの北部海域
に侵入した。その時から食事をし、戦友たちと雑談もでき、将棋、囲碁など
をして数日を過ごした。9 月 8 日、サイゴン入口の大河口の両岸には鮮緑の
樹木が茂っていて、その中のあちこちにある白い洋館が印象的であった。お
そらくフランス人が住んでいた別荘だろう。
あぁ、早く上陸したくてうずうずするという気持ち。ここから数時間を大
河に従って西進すると東洋の小パリで名高い美港サイゴンに着いた。やっと
我々は 18 日間の退屈な船中生活から解放され、再び懐かしい大地を踏むこと
になった。
宏山丸から下船した我々は埠頭広場で各隊別に整列、人員点検を終えて休息を
とった後、徒歩行軍で宿営地に行った。我々はこの時初めてこれからタイの
捕虜収容所に行くのだとわかった。
サイゴン市街を通り抜けて北に行く途中、市街の建物に見とれている間に
午後 6 時頃になっただろうか。急ににわか雨が水を撒くように降ってきた。
この雨が熱帯地方のいわゆるスコールなのだ。皆は濡れねずみのようになっ
てしまった。雨は 30 分ほどでやんだ。
我々は1時間ほどの行軍で市郊外のある兵站宿営地に到着した。やっと雨
露を避けることのできる畜舎のような粗末な施設だった。すなわち路地に藁
を敷いた仕切りもない施設だった。
我々は濡れた軍服を脱いで絞ってから干し、皆フンドシの裸になった。そ
れでも我々は異国の動静が楽しかった。皆が騒いでいるところに果物の補給
があった。各人にバナナ1房、パイナップル1個ずつだ。皆子どものように
喜んだ。そしてすぐに食事が来た。夕食が終わると、服部小隊長が我々を集
合させて訓示をした。
その要旨は「我々はタイに行く。そこでタイの捕虜収容所勤務に当たる。
我々の軍が特に注意する事項は生水を飲まないこと、蚊に刺されないように
注意して、現地の住民に対するときは、男は盗賊、女は売春婦と思って常に
警戒すること。大国民の矜持をもって行動すること」などだった。
80
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
1942年8月
釜山出発
フィリピン捕虜収容所(マニラ)
1942年8月30日サイゴン(800人余り)
ボルネオ捕虜収容所(クチン)
1942年9月10日 シンガポール(800人余り)
マレーシア捕虜収容所(チャンギー・シンガポール)
1942年9月14日ジャカルタ(1,400人余り)
ジャワ捕虜収容所(ジャカルタ)
タイ捕虜収容所(バンコク)
朝鮮出身捕虜監視員の配置経路(出所:ハンギョレ 21)
81
次の日、乾いた軍服を着た我々は引率将校についてサイゴン市内を観光し、
プールで沐浴した。我々はサイゴンで 3 泊して休憩をとり、9 月 11 日、埠頭
に出て 300 トン級の木の船 3 隻に分乗してカンボジアの首都プノンペンに向
かってメコン川を上った。船員たちは現地人に見え、宰領兵 53〔監督兵〕として
日本軍人兵士 10 名余がいた。この時について、特に記憶に残っているのは
メコン川の豊満な黄黒色の水が悠々と流れる景色であり、夜間であれば両岸
の樹木に多くの蛍火が群がったような夜光樹が光る景色だ。
9 月 14 日に我々はプノンペンに到着し、埠頭の近くの大きな洋館の建物に
投宿した。我々は大家族なのでいつも床で寝食をするのだが、学校の建物の
ように見えるこの家は部屋ごとの天井に大型の扇風機が設置されており、水
道水もよく出る良い施設だった。ここで我々はまた 3 泊 4 日を過ごし、首都
らしい美しい市街を観光することができた。特にカンボジアの王宮と王宮内
にある宝物殿に所蔵された歴代王と王妃のものだという数多くの宝飾品を見
て感嘆するほかなかった。
9 月 17 日、我々はプノンペン駅から貨物列車に乗って村落、田野、樹木、
山野などを眺めながら、国境を越えてタイに入った。夜間だったので何も見
ることができなかった。我々がタイのバンコクに到着したのは 9 月 19 日の
午前だった。駅で下車、徒歩で臨時宿所である埠頭倉庫で旅装を解いた。こ
こで我々はまた 4 日休み、タイ捕虜収容所長陸軍少将佐々誠 54 の兵を受けて、
9 月 22 日夜間列車で初任地であるノンブラドック 55 に到着して我が服部小隊
の全隊員は収容所第1分所に配置された。
タイ捕虜収容所
捕虜は国際法と協約のために戦争の危険がない安全地帯に収容し、彼らの
身に迫害を受けることがなく、人道的に処遇し管理して、戦争が終わったら、
本国に返さなければならない。しかし、日本は国際法と国際信議を捨てて、
53 宰領とは、多くの人を取り締まり監督すること、宰領兵はそのような役割を引き受けた兵士。
54 1942 ~ 1943 年の間、タイ捕虜収容所の所長を務める。戦争が終わった後、戦犯で絞首刑に処される。執筆
者は「閣下として尊称する」と説明。
55 Nonpladuk、タイのバンコク近く、泰緬鉄道のタイ側の出発地。
82
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
初めからこれに違反し、戦争遂行の道具として捕虜を危険な重労働の現場に
投入して酷使させた。それにより継戦をたくらみ、いわゆる大東亜共栄圏を
標榜しながら、全アジアの支配を血眼になって画策した。
したがってタイ 56 にその収容所を設置した理由は泰緬連接鉄道 57 を建設する
ことである。その輸送路の目的はビルマ、東パキスタン、インドまで往復し
て当地域を支配することだ。そうみると重要で至急を要する工事である。そ
れをあらかじめ計画していたとは見難く、戦争の拡大により好戦的な軍閥が
求めた産物のようだ。ことわざの「餅を見たついでに祭りを行う」というよ
うに、好機を逃さずに活用できる上質の労働力が生まれたのだ。すなわちシ
ンガポールでの捕虜英国軍 5 万の兵力がそれだ。このすべての計画を急進さ
せたからタイ捕虜収容所が設置されたのだろう。
収容所の編成を見ると、本所、5 つの分所 58、分遣所 59 になっていて、鉄道建
設部隊には第 3 野戦鉄道隊 60、第 4 特設鉄道隊 61 や若干の支援部隊などがあり、
その労務要求に従って捕虜を出役させるのだ。
収容所勤務開始
我が第1分所、(所長知田少尉〔少佐〕)の当面の主な任務は、シンガポー
ルから鉄道で護送されてきた捕虜 62 を臨時に収容して最後の兵站基地である
カンチャナブリ 63 まで護送することだった 64。我が監視要員が行く前には日本
56 当時、日泰攻守同盟国
57 タイのバンゴク市のバーンポーン(Bampong、Banpong)交差路からビルマ国のラングーンを結ぶ鉄道。
日本軍の公式名称は泰緬連接鉄道。英語名は Thai-BurmaRailway。英語圏では死の鉄道(DeathRailway)
として知られている。
58 大隊級、第 1、2、3、4、5 分所
59 小隊または中隊級
60 師団または旅団級。〔南方の鉄道司令部として第 3 野戦鉄道司令部があり、仏印、タイ、マラヤなどの鉄道
部隊を指揮。〕
61 第 4 特設鉄道隊〔第 2 鉄道監部所属部隊、第 2 鉄道監部は泰緬鉄道建設のための組織であり、鉄道第 5 連
隊、鉄道第 9 連隊、第 2 鉄道材料廠、第 4 特設鉄道隊などを編成して工事〕
62 以下PW
63 Kanchanabuh、バンコクの西の都市。泰緬鉄道建設のキャンプがあったところの一つ。
64 当初、収容所の本所は約 3km 離れたバンコクに位置、すぐにカンチャナブリに移動した。
83
の現役軍人が臨時に収容所の監視をしていた。先発で来たPW 65 収容者は約
500 名だった。
9 月 23 日に我々は熱帯地方で必要な被服類と英国軍から分捕った 10 連発の
英式小銃(長銃)、大剣と実弾 10 発ずつが支給された。我が宿舎から約 10 m
離れた所にPW宿舎が 2 棟あった。当時我ら捕虜監視軍属は 100 名余と記憶
している。
9 月 24 日、この日から我々は警備任務を日本軍人から引き受けた。私は初
日、衛兵当番になって、一番しんどい正月歩哨〔ママ、正門歩哨だと思われる〕に
立つことになった。任務引継関係で日本軍下士官が衛兵指示を任せられ我々
を指揮した。その日の記憶に残っているのは、夜間に正門を閉め、歩哨の勤務
中、にわか雨にあって服がびっしょり濡れたまま勤務したことだ。異邦の犬の
吠える声が狼の吠える声のように四方から間断なく夜が明けるまで聞こえて
きた。初日の衛兵勤務は無事に終わって濡れた服を洗濯した後、昼寝をして
休んだ。
9 月 26 日には本所からきた水谷大尉の指揮で〔我ら捕虜監視軍属の内〕
20 名余りがバンコク駅まで行ってPW 500 名を受取り、分所まで徒歩で護送
してきた。
9 月 28 日には 1,000 名のPWを徒歩強行でカンチャナブリまで護送する日
だ。40 ㎞の長距離強行軍だ。早朝に食事を済ませて昼食を持って朝8時、渡
辺伍長指揮のもと、我々 24 名がPW 1000 名の大部隊を 2 列縦隊にしての行
軍が始まった。将校たちは乗用車で行ったり来たりし、ご苦労さんを連発し
ては我々の士気を高めた。私は一番親しくしている尹大重と一緒に最先頭に
立って歩行速度を調節し、先鋒隊を巡視しながら行軍した。タイ人のトラック
1台が 10 名余の人を乗せて我々の行列をかすめるように過ぎていった。この時、
PW一人が「ニッポン」、「マイ、キャップ」と叫んだ。振り返るとトラックを
指さしていた。タイのヤツが帽子をひったくって行ったのだ。この時、尹君が
いち早く銃で狙った。それでタイ人は帽子をさっと投げ、トラックは速力を
増して行ってしまった。私は服部小隊長の訓話を思い出した。男は盗賊、女
は売春婦とみろという…。
行軍の中、PWから病気により 10 名余りの落伍者が出た。PWの不平不満
65 捕虜の英文表記PrisonerofWar の略であるPOWの誤記。〔以下PWのまま訳出〕
84
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
泰緬連接鉄道路線図(出所:豪州国立文書館サイト)
85
の気配も見えていたが、どうすることができようか。午後 6 時頃に強行軍は
終わって、カンチャナブリの宿営地に到着したが、我々の足に水ぶくれができ、
とても疲れ切ってしまった。本所から来た石井中佐は何回もご苦労さんといって
我々を慰労した。
我々は豚肉「ハーム 66」に加えて特別食を受け、トラックで分所に帰った。
この後、我々は 1、2 回、駅から分所までPWの護送をした。
第 4 分所への転属
10 月 1 日に第1分所の大部分が転属命令を受け、訓練所の 1、2、3 小隊員
の大部分が第 4 分所に転属となった。我が分隊長の渡辺伍長は 1 分所に残っ
た。朝早くノンブラクドック1分所からトラックでカンチャナブリまで来て、
木船数隻に分乗して機関船〔曳引船〕に引かれてケオノイ川 67 を上った。こ
の地帯が泰緬国境地帯で世界第 2 のジャングル(森林)地帯だ。時が雨季 68
の末で黄黒い川の水は漲って滔々と流れる。その川を曳引船は木船 2、3 隻
ずつを引いて上手に登る。壮観であり、異国風情だ。船員たちはみんなが現
地人でそこに日本軍の監督兵が 1、2 名乗っている。
私は両岸の絶景に陶酔した。所々の砂原には 1 mにも見える大きなトカゲが
ぶらぶらと遊んでいて船が近くにいくと草むらの間に隠れてしまう。戦友た
ちは嘆声を上げる。「あっち、あっちをみよ。猿が栗の房のように鈴なりに
なってぶらさがっているよ」。子犬ほどの小さい猿は大きな木にぶら下がって
我々の船が近づくとこっちに飛び、あっちに飛び才能を誇示する。ある戦友が
銃を向けた。目が早い猿たちはチイチイと言いながら、あっという間に林の
奥に隠れてしまった。
林の中をゆっくり見ると、竹の間に野鶏が餌を探しているし、水中には大
きな名前も知らない魚がいて曲芸を自慢しているようだった。遠く眺めると、
雑木林と竹藪が樹山樹海を成している。千古未踏のあの林の中にはどんな動
66 タイ式の丼料理のカムを指すようだ。カウカム(豚足丼)。
67 クワイ川の支流。クワイ川は日本語で、ケオノイ、クウェー、クワイ川などいくつかの名前で呼ばれている。
68 4 ~ 9 月の雨季。12 ~ 3 月の乾期。
86
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
物がいるのだろうか。猛獣、大蛇、毒蛇、毒虫など、多くの鳥類、動植物が
生きているのだろう。
あ~、今日の日もおわった。遠く、砂原に夕日が光る。「あ、孔雀だ」。誰
かが叫んだ。本当に孔雀だった。きれいな雄の孔雀一匹がきれいな羽を虹の
ように丸く開いた。その横を黒い雌が砂畑を追いかけている。あ~、ここは
仙境だ。皆が感嘆した。我々が乗った船は 10 月 1 日午後遅くにターサオ 69 に
着いた。第4分所本部はワンヤイ 70 にあり、知田少尉〔少佐〕が我々と一緒
に専属された。第1分所長には本所の水谷大尉が補されたという。
第 4 分所第1分遣所での生活
分所本部で一晩過ごした我々は第1分遣所要員として分遣所長服部浩 71 少
尉、武田太治美伍長、衛生兵深川兵長と我々軍属など 45 人が一緒に当日約
12km 離れているワンポー 72 に戻ってきた。
ここで我々は分遣所を新設するのだが、すでに鉄道隊の井深大尉が指揮する
1個小隊が来て駐屯していた。まだ、竹と樹木、雑草が生い茂る未開地その
ままだった。我々は一緒に乗せてきた食糧と野営資材をおろして、すでに運
送されて船着き場に積んである建築材(竹など)を持ってきた。鉄道隊の軍
人の助けを受けながら、臨時幕舎を急いで作り、一息入れて一晩を過ごした。
その次の日から連日、資材、食料などの品物とPWが護送されてきた。
我々は人力が多いので 1 ヶ月もたたないうちに、見劣りのしない数千坪の
宿営地と宿舎、運動場も作った。天気は乾季に入った。雨は降らず、連日猛
暑の暑さが続いていた。これから本格的な鉄道の路盤作業が始まるのだが、
我々が収容したPWは約 2000 名だ。PW将校にはリリー中尉以外に佐官が
数名、尉官が数十名、残りは士兵だ。将校には指揮と事務処理だけ担当させ、
作業はさせなかった。
我々の業務分担をみれば、分遣所長服部大尉、補佐官武田伍長、庶務杉山
69 Tarsau、泰緬鉄道のタイ側出発点であるバーンポーン(Bampong、Banpong)交差点から 126km 離れた所。
70 Wang-yai、クワイ川橋の北 70km に位置。
71 〔韓国語原文では、服部浩の階級について、少尉・中尉・大尉を混用している。原文のまま訳する。〕
72 Wampo、Wampoh と表記し、バーンポーンの交差点から 114km 離れたところに位置。
87
源太郎 73、捕虜花村義雄 74、警備兵器係兼衛兵司令石原 75、補給青山 76、被服物品
清原 77、衛兵司令白石 78、衛生兵深川兵長、その他はPW作業場引率、監視、歩
哨雑役などだ。あるいは輸送船の監督兵として選ばれることもある。
そして、捕虜たちを取り扱う実態をみれば、その当時捕虜に支給されるも
のはとても貧弱な悪食だった。主食は白米なのだが、くず米でとても低質で、
おかずはタピオカ、スカンコン 79 や黄色いカボチャ等を塩だけ入れて煮た汁
物だけだった。これを食べさせて重労働に酷使して体力が維持されるものか。
下痢に疫痢、栄養失調など患者が続出した。被服の配給は一切ない。パンツ
1 枚で陰部だけ覆えばいい、常夏の国だから。
我々の食事もそれほどよい方ではない。PWに比べれば、米がタイの 2 等
米程度なので確かによい方で、味噌と醤油、椰子油があって塩干魚も時々補
給されたので、よりよい方ではあった。その時、我々は自費でアヒルの卵
1個(3 銭)をしばしば買って食べた。
食事の時になると、我々の宿舎の周辺に数十名のPWが集まってきた。
我々が食べ残した残飯を食べるためだ。衣食足りて礼節を知るということわ
ざもあるが、紳士の国、天下を支配してきた大英帝国の鼻っ柱の強い国民も、
空腹はどうすることもできないようだ。彼らの立場を代弁すれば、「捕虜の境
遇で何が体面だ。何としても生き延びて戦争が終わったら故郷へ帰って愛す
る父母兄弟、妻子に会うんだよ」。こんな人間の本能的な利己心にとらわれて
いるのかもしれない。彼らの中でも分別やメンツを保とうとする人は眉をひ
そめる。将校たちは彼らを教育して叱責もするようで、2 ~ 3 週内にそうい
う行為はなくなった。
どうにかこうにかワンポーの収容所生活も 2 ヶ月が過ぎ、1943 年の新年を
迎えた。我々は日本式の雑煮を煮て、餅を作り、屠蘇を飲んで新年を祝った。
73 執筆者は杉山源太郎を大邱の金俊植と表記しているが、国家記録院の名簿では大邱の杉山源太郎は検索され
ない。〔タイ捕虜収容所の留守名簿では杉山源太郎は全南出身、大邱在住〕
74 花村義雄:花村義男の誤記と見られる。鄭相權、1923 年 3 月 20 日生まれ、慶南昌寧郡
75 石原相玧:石相玧(執筆者)。国家記録院の名簿では石原相玩。1920 年 11 月 16 日生まれ、慶南山清郡山清
面慕古里
76 青山勝:1921 年 7 月 5 日生まれ、慶北迎日郡達田面里仁洞の出身
77 清原:清原正重、1913 年 10 月 22 日生まれ、忠北忠州郡可金面楼岩里。〔韓元哲〕
78 白石嘉男:白相天、釜山出身。
79 水中で育つ草で、さつまいもの葉っぱのようなもの
88
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
服部分遣所長や武田伍長はとても好人物で、与えられたご飯を食べてじっと
して、遊んでいる始末だ。そのようにできるのは、我々が規則に従って業務
や指示に間違うことなく、よくやっていたから…。
私の任務は兵器係兼衛兵司令だ。兵器といっても個人に支給されたのは連
発式小銃と大剣、実弾 10 発ずつだ。それと私が保管している 2,000 発と手
榴弾 100 個がすべてだ。ところが、戦友たちの中にはジャングルや川を歩き
回り、動物を捕まえるといって実弾を使うので、私に実弾をくれとうるさく
言ってきた。分遣所長の命令の分だけの支給だが、私は 5 ~ 10 発程度はいつ
も分けてやり、不正な消耗分は射撃訓練時のものだとうその報告をするのだ。
服部所長はいちいちただすこともなく決済してくれた。
そして衛兵勤務は司令と衛舎係、歩哨係で 3 人ずつ 2 組が 24 時間ずつ交替
して勤務する。歩哨は 12 名ずつ 3 交替勤務で、24 時間歩哨、24 時間休息、
24 時間PW引率作業・監視の勤務だ。
当時、我々には支給される月給は国内の俸給の 3 倍で、年 2 回の序列に
従って 3 ~ 5 円ほど差をつけた昇給、ボーナスが年に 270 ~ 280 円程度で
あった。そして、小遣いを使えといって我々に月 30 円だけ支給してくれ、
残りは実家へ送金し、一部、義務積金といって少しずつ横取りされた。
戦友たちはこの小遣いで捕虜たちが持っている所持品、すなわち時計、指
輪、万年筆、ライター、皮製品等ちょっと価値のある物品を捕虜の弱点を利
用したり、口説いて安い値段で買ったりする人が多かった。だが私は一切
そんなことには目を向けなかった。反面、タバコやアヒルの卵を買って食べ
ることは多かった。だから、30 円のお金はタバコとアヒルの卵などで使って
しまった。私は財布にお金を入れると我慢できない性格なので月給をもらうと
半月ももたなくて皆使ってしまい、空の財布で暮らすのがほとんどだ。
衛兵非番の日は十分な睡眠と休息を取って夕方になると川に出て泳いだり、
あるいは銃を担いで林の中を徘徊したりした。幸運にも野鶏や孔雀や動物を
見つけると撃とうとするのだが、一匹も捕まえられない。
黒い山蟻の巣が王陵の墓ほど大きく、いたるところにあるのでびっくりし
た。また赤い蟻の群れが灌木と草の蔓に鈴なりに引っ付き、赤い花が満開し
ているかのようだった。この蟻に噛まれると皮膚が腫れて我慢できないほど
かゆい。ジャングルには数多くの昆虫などがいるが、その中にも一番恐ろし
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いのが、「さそり」だ。頭はザリガニのようで、体はムカデのようであり、
しっぽに鋭利な針がある。これが毒の針で、体が 7 節のサソリにさされたら、
命の危険もあるほどの猛毒だという。そのため、我々は軍靴に長いズボンを
はかないと林の中へは入れない。先住民は裸足で陰部だけ覆い、一尺以上の
長刀をもって裸体でよくも歩き回るのに!
また、私は衛兵1組の司令官として軍務外時間の大部分をフンドシで宿舎
内で昼寝をしたり、戦友たちと碁をしたりした。午後夕日に暑さがちょっと
なくなると、運動場に出て戦友や捕虜たちと一緒に混成チームを組んで蹴球
をするのだが、捕虜の中にはとても上手な選手が何人かいる。
もうワンポーでの生活もすでに 3 ヶ月が過ぎた。鉄道作業の状況を見ると
難しい伐採作業も終わって、すでに路盤をつくる盛土、掘開、岩壁の爆破な
どの作業が進んでいる。正午と午後 5 時になるとTNTの爆音が山河を揺
るがし、天下が振動する。我が第 4 分所の担当区域はワンポー、ワンヤイ、
トンチャン 80、カンニュー81、ヒントク 82、キンサイヨーク 83、ヒンダート 84 まで
約 40 ㎞区間だ。第 2〔1〕分所担当区間はカンチャナブリ、ターマカム 85 から
我がワンポーまでで、第 5〔2〕分所がヒンダートから泰緬国境までで、ビルマ
地区は第 3 分所〔と第 5 分所〕の担当だ。鉄道隊は鉄道第 9 連隊今井大佐が
タイ区間担当建設部隊で、全区間運営及び技術部隊に第 4 特設隊である安達
部隊があった。
1943 年1月下旬頃、我々は肉類補給がないので肉類が食べたくなる状態
だった。肉がとても食べたい。ある日、庶務の杉山(金俊植)が本所本部に事
務連絡の出張に行ってきた道で雌の孔雀1羽を捕まえてきた。孔雀は 5 ~ 6kg
位でふっくらと太ったヤツだ。これを次の日、皆が仕事に出かけて数十名しか
いないときに煮て食べた。所長と武田伍長に一杯ずつあげて、我々は久し
80 トンチャンのキャンプはトンチャンセントラル(Tonchancentral)とトンチャンスプリング(Tonchan
Spring)の 2 つがあり、それぞれバーンポーンの交差路から 139km、143km の地点。
81 カンニューのキャンプはカンニューロードと(KenyuRoad)とカンニュージャングルのキャンプ(Kenyu
JungleCamp)の 2 つがあり、それぞれバーンポーンの交差路から 153km、162km に位置。
82 ヒントク(Hintok)のキャンプはヒントクリバー(HintokRiver)とヒントクロード(HintokRoad)に
あり、それぞれバーンポーンの交差路から 156km、158km 地点に位置。
83 KinsaiyokeまたはKinsaiyokと表記、バーンポーンの交差路から 172km地点に位置。
84 Hindato と表記、バーンポーンの交差路から 198km の地点。
85 Tamarkan と表記、バーンポーンの交差路から 56km の地点。執筆者は、クワイ川の橋であると説明。
90
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
ぶりに肉の汁を、生まれて初めて食べる珍味なのでとてもおいしく分けて食
べた。「僧侶が肉味を知れば寺に蠅が残らない」ということわざもあるが、
我々が孔雀を捕まえて食べたという噂が広がると、食べれなかった戦友は残
念がり、一層肉を食べたがっていた。
ある戦友の提案でタイ人の集落に行き、水牛1頭を買って食べようという
ことになった。みんな賛成だ。「所長の承認を取るか?」。「あ、所長に隠れて
買い、肉を焼いて持って行って承認を取ったらいい」。「ところで水牛1頭で
どれくらいするかな。一般の牛1頭で 18 円~ 20 円程度だから、25 円~
30 円ほどやれば買えるだろう?」。その時、補給係の青山が「25 円 86 だけわ
しにくれ。わしが買ってくるから」。青山はタイの言葉も少しできて、近隣の
タイ人の生活事情を誰よりもよく知る人間だ。我々は1人当たり 60 銭 87 ずつ
を出して 25 円(25 バーツ)を集めて川を越えて林の中にあるというタイ人
集落へ送り出した。成功した。
しばらくして青山はタイ人と一緒に水牛1頭を引っ張ってきた。ところが
我々の中には牛を屠れる人がいなかった。まず、銃で撃って倒す要領で、
3 人の小銃手が罪のない水牛の死刑執行をする作戦であった。まず牛を大き
な木に縛って撃つのだ。この時、深川衛生兵がスリッパをはいてぶらぶらと
歩いてきて、にやにや笑いながら「銃をこっちにくれ」と、済州出身の金澤
テヒュウ 88 の銃を奪うと水牛の横まで近づいて、額に 1 発撃った。水牛はそ
のまま前足を折ると横たわってしまった。我々は「や~、深川、あれ、白丁
のようだ」とひそひそと話し、青山にPWを連れて来て料理しろと頼んで別
れた。こうして我々は、数日間は酒と肉をふんだんに食べ、捕虜たちにも気
前よくやった。
1943 年 3 月、雨一粒も降らない乾季になった。ケオノイ川に船が行き来する
のも難しいほどに川の水は減り、水銀計は 41 ~ 42 度の猛暑が続いた。この時、
伝染病のコレラが発生した。全地域にコレラ非常防疫令が出されたので、日
本軍は戦々恐々だ。我々収容所は初めから飲料水は濾過して沸かして飲んで
いたが、今は風呂も思い通りにできないほどだ。我が服部部隊長は急に辛い
86 円はバーツと推定。
87 執筆者は 60 銭(サタン)と書いており、サタン(Satang)はバーツ(Baht)と共にタイの通貨単位の一つ。
朝鮮の通貨のウォンに対する銭に相当する。
88 金澤太休:生年月日不詳、全南済州。
91
唐辛子を食べ始めた。汗と涙を流しながら辛い汁を飲むのだ。当時とても辛
い唐辛子の木が草地に少しあった。
我々朝鮮人は平気であった。コレラのようなものは飲食物だけ注意してい
れば何でもないのだ。ところが全地域で多くの人命が亡くなったという。そ
の中でも現地で募集した労働者 89 の犠牲が一番多かったし、衛生観念が高い
文化国民であるPWたちもこのような環境の中ではどうすることもできな
かった。ついに我々の分遣所のPWも数十名の犠牲者を出した。
作業現場で一つ見落としていたのは、盛土路盤工事が不可能な地点が多い
ということだ 90。今であれば、重装備と車両で容易に作業をするが、当時は全
て手道具、すなわちスコップとツルハシだけで、多くの土石を移動運搬する
ことができなかった、そのため木造橋梁に変わったのだ。木材はジャングル
内に無尽蔵にある。そしてこの巨木を運搬する手段は象が最適であり、タイ
国内の象が徴集されて登場した。
その作業の光景をすこし見てみる。平常時には巨木を伐採して 6 ~ 7 m、
または必要な長さに切ってロープに巻き付け、象に荷鞍をつけて、主人が我が
国で牛を追うように声を出すと、その大きな木を曳いて来るのだ。ところが
山上の高いところからあらかじめ邪魔になる木を取り除き、下山する材木を
象が主人の声どおりに動かす。頭で巨木の中央を押し、両端のあちこちを頭
で突いて押し、足で蹴ったり、または人力のテコの助けを受けながら下山さ
せる。それを見ると、その重々しい大きな動物がとても利口に見える。
そして象は水泳もうまい。主人を首にのせて大きな川を上手に泳いで渡る。
草食動物なのでどんな草でも木の葉でもよく食べるようだ。作業中に雑穀
(豆、サトウキビ、トウモロコシなど)を 30 ㎏ほど食べさせるのを見た。
我々は象の力がどれほど強いか知るために、針金の手綱に長いロープをつ
ないで、象の主人に思い切り引っ張ってみろといった後、手綱を持って引っ
張ってみた。初めに我々とPW合同の 50 人がやってみたが、我々のほうが
引っ張られた。今度は 55 人が引っ張った。象は引っ張りも引っ張られもしな
かった。だから象は 55 人力だ。
1943 年 4 月下旬、これから雨季が始まる。雨がずっと降り始めた。6 月
89 クーリー(goo-lee)は労働者という意味。
90 土の質が悪く、路盤工事がやりにくかった。
92
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
下旬、コレラ大流行で緊張していたひとときも過ぎて、我々がなじんでいた
ワンポーキャンプももう撤収だ。鉄道路盤工事がほぼ終わったのだ。
第 3 分遣所転属:分駐所責任者として捕虜との関係づくり
7 月 1 日に我々は第1分遣所を撤収し、服部分遣所長は分所付官として一
部軍属もワンヤイ分所本部とトンチャン第 2 分遣所に別れて行き、大部分の
軍属はカンニュー第 3 分遣所に専属になった。第 4 分遣所長は池田少佐の後
任にきた、本所の高級所員(副所長格)である石井民恵中佐が在任中で、第
3 分遣所長は他の部隊からきた野村茂雄中尉で拓殖大学出身の勇将だった。
謹厳な姿勢でいつも笑顔がなく、攻撃的な印象を漂わす人で我々によく気合
を入れて、〔捕虜の〕ロロ将校まで殴ったりする怖い将校で、皆が緊張した生
活をしなければならなかった。私は杉山(金俊植)と一緒に庶務に任命され
たが、皆気合を入れられるかと咳払い一つできず過ごしていた。この人は自
分の机を我々の事務室中央に置いて監視しながら座っているのだった。とこ
ろが、我らの心配は杞憂だった。我々を日本軍兵士以下の水準とみなし、初
めから厳格に強く指揮し、自分の命令にオドオドさせ、おとなしく従わせる
作戦だったようだ。
しかし、実情は違った。事務室に常勤する武田軍曹 91 は関西大学出身の経
済学士で、杉山は慶北道の庶務課に勤務してきた文をうまく書く優秀な事務
者であった。捕虜係の花村は釜山二商出身の銀行員の経歴でいつも捕虜を相
手にして英語をかなり話し、補給係の島崎 92 なども能力があり、優秀な部下
たちだった。それで、こんな部下たちを煩わしく思ってはいけないと改心し
たようだった。そして、外勤する軍属を試すつもりで、10 人ずつ野外に引率
し射撃訓練をさせた。ほとんどが名射手だ。我々がタイに来て各自勤務に忙
して軍事訓練をする機会がなかったが、射撃だけは皆が猟師だった。野鶏、
猿、孔雀、鰐、トカゲなどを捕獲しようと暇さえあればジャングルを駆けず
り回る狩人ではないか。多分、野村中尉は心の中で感嘆しただろう。捕虜監
91 伍長から軍曹へ進級
92 島崎信隆、金鳳根、1918 年 2 月 20 日生まれ。慶北大邱府。
93
視の勤務もすでに手慣れたものだった。私は庶務で、陣中日誌、統計表、略
図など野村がやれというとおりにすべての壁に書いて張った。
ヒントク 93 というところに分駐所を開設し、その責任者として同僚 5 人と
PW 800 名を統率しながら約1ヶ月半を過ごした。
この時に起こったことだ。ある日、捕虜たちが大胆にもタイ人たちと物々
交換をしていて、主に薬品を引き抜いてタバコや食品と交換するという情報
だった。これを聞いて私は責任指揮将校である英国軍大尉を呼び、薬品責任
者と薬品をすべて持って来いと命令した。少し後に薬品責任者の英国軍軍曹
が来た。薬は外傷薬と包帯、腹痛薬などだったが、一番重要なのはマラリア
予防薬である「キニーネ」94 だった。ところがキニーネがないのだ。問いただ
すと、皆に全て支給したという。各人にいちいち調査をしてみても、薬はな
かった。
私はかっと腹を立てて大尉と軍曹を叱った。「お前は 800 名の命をタバコと
アヒルの卵などに換えて食べた泥棒だ。行こう、分遣所に渡す」。そういって
小銃に実弾 10 発を装填して着剣し、暗い夜道を懐中電灯で照らし 2 人のPWを
前面に立てて行った。林の中を数百メートル行って、立ち止まらせて、真実
を明らかにしろと叫んだ。そうでなければ、分遣所に行くこともなく、ここ
で撃ち殺してしまうと威嚇した。そうすると、各個人に分けたのは事実だが、
それを皆は飲まないでタイの商人たちと物々交換したようだ、それは私の不
注意で、これからは絶対にそんなことがないようにするから、許してくれと
泣いた。
大尉は日本語がかなりよくできる人だった。私は初めから上部に報告する
考えはなかった。報告したら私の指揮管理能力を評価されず、分駐所責任者
もできずに交代させられるかもしれない。ただ管理者の権威を確立しなけれ
ばならないという心積もりだったのだ。それで、私は後退するしかなかった。
私は大尉に握手を求めて、これからは問題なくやってくれと言い聞かせて
戻ってきた。
その次の日だ。私は 10 日分の主食副食とその他補給品をもらうために、同
93 Hintok、タイの地名。
94 quinine、kinine。南アメリカ原産でインドネシアのジャワ島などで栽培されるキナの樹皮(キナ皮)に含
まれるキナアルカロイド。解熱・鎮痛・強壮・マラリアなどに効果があり、特にマラリアの特効薬として知
られている。
94
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
僚 1 名とPW 50 人を引率して分遣所に行った。補給係は親友の大邱出身島
崎だ。分遣所長に業務報告をして、島崎君に会い、倉庫に行って主食である
白米 9510 日分と副食品をもらったが、片隅に塩干魚 2 カマスがあった。私は
島崎君に聞いた。「その魚、誰の?」。「さあ、量が少ないので、PWにやるこ
ともできず、僕たちが食べるには量が多いし、よく食べるようでもない…」。
「わかった。それなら僕にくれ。僕が行って皆にやる」。
友達はニヤッと笑って「いけないのに」といった。私は急いでPW 4 人を
呼んで、その魚から持って行けといった。そして我々 6 人の食品とPWの食
品などの倉庫の仕事を終え、同僚の柳川に先に運んでいけといった。そして
私は日本人の衛生兵にけんか腰で「キニーネ」数瓶と外傷薬などをもらって
急いで帰ってきた。ところが、先に帰った柳川とPWたちは遠く行けず、途
中で休んでいた。とても暑く、連れてきたPWたちは作業場にも行けない軽
病人たちなので、私はかわいそうだとは思った。だが「もうすぐ、昼食の時
間だ。早く行こう」とせきたて、後ろに取り残されている人を助けながら分
駐所に帰ると 12 時が過ぎていた。
その後、大尉は私の誠意がわかったのか、私の言う通りに指揮して事務も
処理してくれ、人間的にうまくやっていける間柄になった。
第 3 分遣所勤務の約 4 ヶ月は退屈な梅雨の雨で、太陽を見る日がめったに
なく、洗濯物を乾かして着ることもできないほどだった。もう第 3 分遣所も
撤収だ。野村中尉はどこか他の部隊に転出してしまった。多分上部では我が
収容所に適した将校ではないと考えているようだ。
収容所勤務中の逸話
1943 年 11 月初め、我々は第 4 分遣所キンサイヨークに転属して移動した。
タイの国境側に奥深く入ったのだ。分遣所長は三宮美代治中尉で東京弁護士
出身の法曹人である。陸軍中尉の身なりで八字の髭をはやし、いつも高姿勢を
とる収容所の名物将校の一人である。やる事ごとが大胆かつ大様であった。
釜山訓練所の時代にろ隊第 7 小隊長で、その後、本所を経て我が 4 分所に来
95 この時は雑米ではなくタイ米。
95
た将校だ。すべてを部下たちに任せて自分は超然と座って観望する男だった。
ある日、自分の部屋から 20 ~ 30 ㎝離れた川辺の砂場で我が軍属木村明成
と隧道隊 96 伍長のあいだで格闘がくりひろげられた。理由は、軍属の傭人 97 が
軍人の下士官を見ても敬礼をしないのは不遜だと言って、伍長が気合を入れ
てやると頬を叩いたが、逆に木村に叩かれたのだった。厳密に言うと上官暴
行罪だ。それでも分遣所長は見るだけでにやにや笑いながら座っていた。後
で言うには「私の部下が殴られれば隧道隊の者を捕まえて叱るが、我が軍属
はしっかりしているなあ!」。
もうひとつ面白い話がある。我々がワンポー第 4 分遣所を開設して何日も
経っていないころだ。第 2 分遣所はトンチャンというところ、すなわちワンヤイ
分所本部のカンニュー第 3 分遣所の中間地点に位置する。第 2 分遣所所長
には将校ではない下士官、虎軍曹で名高い平松愛太郎軍曹が任じられた。
鉄道隊と我が軍属の間にはよく些細ないざこざが起きた。第 2 分遣所の状況
をみると、こちらの指揮官は下士官だが相手は将校で、またこちらは軍属傭
人の身分で、彼らは現役軍人だからこちらを見下していた。鉄道隊が全ての
仕事を主導しようとする傾向があった。しかしよくみれば、こちらが捕虜を
虐待するという理由で第 2 分遣所から鉄道隊に出役させなければ、鉄道隊に
は大きな問題となり、とても難しい状態におちいるのだ。あくまでもお互い
に和合・協力することとなっているが、鉄道隊の兵士たちはこの点を十分に
認識できずに、我が半島青年たちを見くびって初年兵以下に扱うのだ。それ
でこちら側の反発にぶつかったのである。
ある日、平松軍曹も気分が悪い日だったのか、大酒を飲み、いきなり軍刀
を抜いて拳銃を付け、全員完全武装で集合しろと非常召集を命じて拳銃を
パンパン撃った。我が軍属すべては厳命なので、一瞬のうちに集合した。平松
は「今から鉄道隊を攻撃する。みんな匍匐前進して鉄道隊を包囲しろ」。事態
は一触即発の危機だ。この光景を鉄道隊員の誰かが耳にして隊長に急報した
ようだ。拳銃を撃って大声を張り上げているので、知らないはずがなく、慇
懃に知らせる戦略というべきか。鉄道隊小隊長が急いで走ってきた。
「平松さん、どうされたのですか。私に過ちがあったり、私の部下が過ちを
96 隧道はトンネルを意味。隧道隊はトンネル工事を引き受けた部隊。
97 軍屬の傭人、兵卒相当。
96
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
犯したのなら、私が謝って、これからこんなことが絶対に起こらないように
しますので、どうか兵力を解散させて、私と二人でお話ししましょう」とそ
れこそ訴えるように言った。ずる賢い狐のような平松はその謝罪と屈服をひ
そかに望んでしたことのようだ。彼は仕方ないふりをして皆を解散させ、二
人の隊長は夜が明けるまで和解の酒を飲んだそうだ。
後日、私はこの真相を知るためにその当時、第 2 分遣所の所属であった郷
友、呉聖淑に会って尋ねてみたら、本当だといった。「そうか、その時お前は
どうしてたんだ?」、「万一、本当に戦闘が起こると、鉄道隊には軽機関銃も
あるんだから、運がなければ死んでしまうと思って、食糧倉庫に入って米俵
の間に隠れていた」。「ハハ、この臆病者」。
1943 年春、我が第1分遣所に 10 頭余の象が来て木材運搬作業をする頃、
ワンヤイ分所本部からも象がきて仕事をした。その時、PW1人が草を食べ
ている象に近づいて撫でるまではよかったが、竹を無理にたべさせようとし
たのが、象を怒らせてPWを鼻でくるくると巻いて 2 ~ 3 m投げてしまった。
PWは不幸にも鋭い竹の端に腰を刺されて重症を負い、数日苦しんだ後、死んで
しまった。
もう一つの話。分所の食糧用の糧秣倉庫は大きい。数ヶ月の間、主食にく
ず米をだしていたが、今はよい米に換えて食べるようになった。この時、倉
庫掃除をして新しい米をもらって計るために、床に残っている数十俵のくず
米俵の整理作業をしていた。PW1人が「蛇だ、大蛇だ」と叫んだ。皆は竹
の棒をもって集まった。大蛇は腰の一部分だけが米俵の間に見えた。動かな
い。この時、我が軍属が大蛇の腰に銃一発を打った。大蛇は、にょろにょろ
と全身をよじったが、這っていくことができなかった。この時、PWたちが
竹の棒で殴って捕まえた。大蛇の長さが 6 m 50 ㎝、こいつを捕虜たちが貰
い、ぶつ切りにして、大きな釜 3 つに分けてじっくり煮て補身湯として補食
したそうだ。
ところで、今度は私自身の逸話をいうと、第 4 分遣所に来た私は、杉山と
一緒に庶務の業務を担っていた。私は陣中日誌と旬報、月報を担当する比較
的閑職であった。ある日、私の日直当番の日にPW1人がジャングル内に逃
亡するのを見たと鉄道隊からの情報が入った。よりによって私の日直の日に
運が悪いとおもいながら、分遣所長である内山喜支雄(三宮美代治中尉は転
97
出)に報告し、PWを非常召集した。数名の同僚の助けを受けて、重患者を
除いた全員を広場に整列させ、点呼して日報と対照すると 1 人足りなかった。
その当時、派遣人員を除外して作業場からすべて帰隊すると 2,000 名が収容
人員だ。各所に連絡して、私は銃に帯剣して宿舎内外、営内をまんべんなく
探し回った。この時、竹柵の一方の端で竹を薪にして焚火をし、1人のPW
が本を開いて読書に熱中していた。私がその横まで行ってもわからなかった。
私は靴で彼の足を蹴りながら、大きな声で「このばかやろう」と叫んだ。PW
はパッと立ち上がった。みると 2 mもある長身の英国軍少佐だ。私は思いっ
きり頬を一発殴った。そしてその少佐を広場まで連れていき、指揮官の中佐に
謝れと行って全員解散させた。
私はPWに手を出したことが気になった。空前絶後のことだ。二度とPWに
手を出さないと決心した。鉄道隊の者は毎度虚偽の報告をして、人に迷惑を
かけていると文句を言いながら、所長に人員に異常はないと報告した。
すでに、タイでまた一年の新年を迎える。1944 年 1 月初め、故国におら
れる両親が恋しい。お元気でおられるだろうか…。私はここにきて数回お手
紙を書いたが、お父さんからの返事はただ一回だけだ。おそらくすべての輸
送がままならないようだ。全般的に戦勢は日本軍が不利なようだ。「アッツ
島 98、サイパンも玉砕、連合艦隊司令長官軍神山本元帥も天に散華」など、
ビルマ・インパール戦線も悪戦苦闘、敗戦だけを繰り返しているとの噂だ。
ビルマ戦線が崩れたら、我々はどうなるのだろう。鉄道工事はほとんど完
成段階にはいっているが、我々は今、進撃路を整備しているのではなく、連
合軍の進入路を整備しているのではないか。私の心境は少し複雑だった。
1944 年 1 月中旬、私は同僚の軍属 4 名とPW 400 名を引率してキンサイヨーク
〔第 4〕分遣所から約 2 ㎞離れたヒントク 99 に分駐所を開設して分駐勤務をする
ことになった。そこで、ひと月余りを勤務した時のことだ。
毎日朝 7 時 30 分になると、鉄道隊兵士たちがPW作業員人員の受領に来る。
そうすると、PW将校数名と事務要員、炊事要員、その他雑役人員 30 名余り
だけを残して、その他の者は昼食を携帯して午後 5 時まで作業に出る。そう
98 アッツ(Attu)島:アメリカアラスカ州の南西部の島。第二次世界大戦中の 1942 年日本軍が占領し、熱田
島に改称。1943 年 5 月、米軍の反撃から半月で日本軍が全滅。「玉砕」公認1号。
99 2 箇所のヒントクのキャンプの中で HintokRoad のキャンプを指すと推定
98
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
すると我々はすることがあまりない。同僚の 4 人は 2 人ずつ 2 組になって、
午前に1回、午後に1回作業場の巡察をして帰って来るだけだ。この山の中
でどこにPWが逃げるのか、彼らは文化国民だから秩序もあって規則も守っ
ていた。私は 10 日に1回ずつPWを連れて、業務連絡と補給受領をしに出か
けた。その当時はその前に比べてPWへの給食補給がとてもよくなっていた。
日本軍はどこでそんなに多くの黄牛を買ってくるのか、私は一度牛 10 頭ずつを
もらってきた。PW 3 人に牛の飼育当番をさせて牛を飼育しながら、3 日に
1頭ずつ屠って食べた。PWたちは牛の頭を煮て食べろと我々に持ってきて
くれたりもした。
あるときは、牛の飼育当番のPWが私に言った。「タイガー、タイガー」。
私はタイガーが虎だというのは知っているが、PWと英語の対話はよくでき
ないので、日本語ができるPWを呼んだ。昨日とおとといの夜、続いて 2 日、
豹 100 が小さい子ども 2 匹をつれてきて牛を襲おうとして、近くで牛舎を睨み
つけていたという。牛たちはみんな自分の幕舎の方へ集まってくるが、我々が
焚火を明るく燃やすと消えてしまったそうだ。
私は、わかった、戻って牛をちゃんと見張り、今晩は我々が豹を捕まえに
行くから焚火を起こさないようにと言って帰らせた。夜になった。同僚たち
は先を争って行こうといった。しかし、大勢が行ってはいけない。私は一番
年を取っている孫田 101 を見て「お前と私が二人だけで行こう」といって長い
ズボンとゲートルを付けて、小銃とフラッシュを持って牛舎に行った。夜の
11 時頃だった。PWに虎が何時頃現れるのかと聞くとまだだという。1時から
2 時の間のようだった。私はPWに早く寝ろと言って、よく茂った竹を背中
にして座った。月夜ではないが、漆黒のように暗くもなかった。1 時が過ぎ
た。虎は来ない。2 時が過ぎた。まだ虎は来ない。あ~、もう 3 時だ。虎は
来ないようだ。駄目だ、駄目。「おい、孫田、帰ろう」。
最初の夜、豹は我々を怖がって、鉄道隊の牛や豚に目標を変えたらしい。
私は、飼育担当のPWに明日から焚火をあちこちで焚いて牛をよく見張って
いろと言い、豹を捕まえることは止めにした。
それから 2 ~ 3 ヶ月後に、キンサイヨークで鉄道隊が豹を捕まえた話だ。
100
〔韓国語原文では、豹と虎を混用している。原文のまま訳す。〕
101 孫田昊植:1915 年 4 月 30 日生まれ。黄海道碧城郡。〔タイ捕虜収容所の留守名簿では、昊は冕〕
99
ある日の夜、鉄道隊に豹が現れて黄牛1頭をくわえて行ったそうだ。鉄道隊の
人たちは、せっかく貴重な黄牛をもらって体を元気にしようとしていたのに、
招かざる客である虎公が現れて食べてしまった。この虎公をそのままほって
おくこともできず、決心して軽機関銃まで動員して、毎日1週間も虎公出頭
を待っていたところ、1 週間をすぎてOK!ついに虎公が現れた。虎公は竹
柵を乗り越えるなり、機関銃の洗礼を受けてしまった。虎の霊魂は黄泉路を
行き、鉄道隊は快哉をあげながら捕まえてみると、大きな豹だ。鉄道隊の人
たちはいいぞと言いながら、豹の皮をはぎ、価値のあるものを作り、副隊長
にプレゼントするつもりで丹心を込めたそうだ。しかし、技術不足と連日の
梅雨のために乾かす過程で惜しくも腐らせてしまった。
1944 年 2 月、私は山の中の分駐所を撤収し、キンサイヨーク分遣所で休ん
だ。ところが、また、同僚 5 人とPW 700 名を連れて川辺のヒントクに分駐
所を開設しろと命じられた。ここは川なので船舶の往来も多く、周辺の景観
がとても良いところだ。やはりここで、約1ヶ月勤務したが、業務は従前の
分駐所とあまり違うことはなかった。
ここで経験したいくつかを書いてみようと思う。
我々のキャンプは川の西岸の絶壁の上にあったが、東側の川の向かいには
広い砂原があった。我々のキャンプとの距離は 400 ~ 500 mほどだ。朝の日
の出と夕方の夕日の時にはこの砂原に時々孔雀が現れてその華麗な姿態を扇
のようにひらいて遊ぶ。小さい猿が群れをなしてきて川の水を飲んで遊んで
から林の中へ消えて行ったりした。
ある日、同僚の尹大重が銃を撃って猿一匹の足にあたったようだった。前
に倒れて歩けなくなった。他の猿は銃の音に驚いて矢のように林の中に逃げ
てしまった。しかし、すぐ後に猿たちはもう一度現れて、負傷した猿を何匹
かで抱えて林の中に入って行ったのだ。私は言葉ができない動物もあのように
同族愛があり、危険をものともしない愛と慈悲があるのを見て、猿の行為に
感心した。
私は時々現れる孔雀を発見すると、数回銃を撃ってみたが、もともと距離が
遠いのか、あるいは私の射撃術が十分でないのか一度も当たったことがない。
あるときは渡し船場で多くの人たちが集まって騒いでいる声に降りてみると、
100
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
タイ人の漁夫が大きな亀一匹を捕まえて売っているようだった。そこで柳川 102
君が値段の交渉中で漁夫は 10 バーツ(10 円〔ママ〕)をくれという。柳川は
5 バーツで売れと強請っている。私も加勢して 6 バーツで奪うように買い、
PWを使ってわれらの宿舎まで運んだ。亀はとても大きかった。楕円形の背
中の長さが 85 ㎝、幅が 65 ㎝の巨物。もちろん生きていた。そいつは 3 日間、
人が背中に乗ったり、食べ物を食べさせようとしたが、人がそばにいると頭部
を体の中に引っ込めて死んだように腹ばいになっているが、人の気配がないと
頭を長く伸ばして、どこかへ逃げようと暴れた。けれども足を丈夫な紐で
くくっておいたので思い通りにいかなかった。
我々はこの亀を 4 日目にPWに屠殺させた。背中の甲羅をはいで、肉質は
すべて選び出し、腹部の卵巣から卵(鶏卵の黄身のようなもの)が実に
200 個以上出てきた。我々は快哉の声をあげ、その卵だけ持って帰って茹で、
たらふく食べた。肉は全部PWにやったらとても喜ばれた。PWたちがその
肉を釜にいれてよく煮込んで食べるのを見て私も満足した。
この地帯は渡し船場があって先住民や商人などの往来が頻繁な所だ。それで、
我々の収容所を徘徊するタイ人たちによく会った。薬品や物々交換が目的の
人、または売春婦などであった。それで私は事故を未然に防ぐために収容所
の周囲の巡察を怠らないようにし、近づく者を遠くに追いやることもあった。
いつの間にか 3 月下旬だ。川辺の分駐所を撤収してキンサイヨーク分遣所
に戻った。私は特にすることもなく、庶務の杉山を助けて陣中日誌を書きな
がら、碁を楽しむ内山中尉と碁を打ったりする、閑職の日々を送っていたが、
4 月初旬に分遣所撤収の命令が下された。鉄道路盤が完工され、これからは
鉄道レール連結と駅施設などの作業を進行する。すなわち技術分野と運用分
野に移行する過程で多くのPWの手が不必要になったようだ。
102 柳川ギルヨン:1913 年 7 月 11 日生まれ、全南光山郡。〔タイ捕虜収容所の留守名簿では、柳川吉容〕
101
タイ捕虜収容所の捕虜監視員たち(資料提出:被害者 金チャンヨン)
当時のタイの現地の姿
タイ捕虜収容所の周辺
102
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
ジャングル生活後の収容所生活
1944 年 4 月上旬、我が第 4 分所は、退屈だった1年 6 ヶ月のジャングル生
活を終えてカンチャナブリとバーンポーンの中間地点であるターモアン 103 に
移動集結し、新しいキャンプを建設することになった。我々第 4 分所長石井
中佐は大佐に進級して第 2 分遣所長に移動し、我が第 4 分所長には本所副官
として長くいた鈴木大尉が赴任してきた。
捕虜収容所の全貌を一瞥すると初代所長、佐々誠所長は本国の西部九州
〔中部〕防衛司令官 104 となり、中村 105 大佐が継続在任してきたが、すでに菅
沢 106 大佐と交代した。したがって収容所には大佐が 2 人いる。
機構の変遷をみると、本所は最初にバンコク市に設置されたが、すぐ
カンチャナブリに移動し、現在まで続いている。第1分所はPW護送と兵站
業でPW護送が終わると閉鎖されて、その他の任務は本所に吸収され、施行
された。そして第 2、4、5、3 の順に鉄道工事場に配置されたが、第 3、5 分所
は早く業務が終わり、本所と第 2、4 分所にその人員を増員配置した。だから
現在は本所、第 2、4 分所とナーコンパトン 107 PWだけが残った状態だ。
PWの作業出張も第 4 特設鉄道隊及び、防疫給水班その他の主部隊に少数の
人員だけを派遣して出役させ、大半の人員は独自の施設作業にのみ出役さ
せた。
久しぶりに我が分所員全員が一つの場所に集まり、分所長も交代されたので、
我々は機構を整備し、業務分担も適材適所に配置した。副官 108 に服部中尉、
情報(PW)に星愛喜 109 中尉、警備教育に臼杵中尉、経理補給に曲山龍平
少尉(主計)、医務に村岡(中尉)などが責任将校で、その他は通訳官石黒
氏がおり、各部署に下士官 1 ~ 2 名がいた。そして、我が軍属は約 240 名で
あった。
103 Tamuang、バーンポーンの交差路から 39km 地点のキャンプ
104 執筆者は西部防衛司令官として記しているが、佐々誠は 1943 年 6 月 10 日付で中部軍司令官として発令
105 中村鎮雄:1943 年 6 月 10 日から 1944 年 7 月 24 日までタイ捕虜収容所長。
106 菅沢亥重:福岡捕虜収容所長を務め、1944 年 7 月 24 日から戦争が終わるまでタイ捕虜収容所長。戦争後、
戦犯として処罰。
107 NakomPaton。
108 人事、庶務責任
109 戦後、オーストラリアの法廷で戦犯として処罰。
103
PWはあちこちに移管され、損失して今は約 7,000 名だけが我が分所に収
容されている。
その時、私は適所に職を受けることができず、4 日に1回の衛兵司令勤務
だけを 2 回していたが、ある日、ワンヤイへの出張命令が出た。ワンヤイに
はPW 100 名が残って駅と防疫給水班で働いており、その管理を同郷の同窓
生である靖山浩 110 君が担当していた。命令の要旨はPW管理状況と作業現況
を見て、靖山にはすぐに撤収になるのでその間よく働くようにと励ますこと
だった。
私は次の日、朝食を済ませて炊事場に行き、昼食を包んで腰に付け、銃を
持ってカンチャナブリ駅にでかけた。9 時に乗ったのが薪を積んだ貨物間で、
貨物車両 5 ~ 6 両を連結させた汽車だ。当時は開通させて間がなく、客車の
ようなものはなかった。カンチャナブリ駅から約 20 分行くと、ターカム 111 の
道の橋梁 112 に出る。1km を越えるほどの長い橋で、純木造の木の橋だ。列
車がおそるおそる徐行するが、キイキイときしむ音をたてながらすぐにでも
その場にへなへなと崩れるようで危険でハラハラする橋だ。この橋が完成す
るまで、果たしてどれほどの貴重な人命を奪っていったのか…。あれこれ考
え、ジャングルの神秘を再発見しながら行ったが、前に見た野鶏や動物たち
はあまりいなかった。
午後 1 時になった。誰もいない薪の間に座っていた私は昼食を食べるため
に飯盒を出した時、不意に汽車がガタンといったとたん、薪数個がくずれ落
ちて私の足を容赦なく打った。この時、私はちょっとの間気絶してしまった。
10 分ほど過ぎただろうか。私は気を落ちつけて手で足の上の薪(長さが 3 尺
の丸太、機関車の薪)を押しやって外に落とし、ようやく足を引き抜いた。
しかし、どうしても足を動かすことができなかった。
私は足を伸ばしたまま呻きながら、楽しく過ごしたワンポーの情景も、変
貌した姿も見ることができず、午後 3 時が過ぎてようやく目的地ワンヤイ駅に
着いた。私は銃を杖にしてようやく汽車から降り、駅舎に入った。日本の軍
人たちはみんな自分のすることに忙しく、私には関心がないようだ。一人に
110 靖山浩:(本名)李相千、1921 年 1 月 20 日生まれ、慶南山清郡山清面玉洞
111 Tamarkan:カンチャナブリから 6km 離れた場所に位置。
112 クワイ川の橋
104
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
怪我をしたから収容所に連絡をしてほしいと言った。
その人の返事は「あそこに電話があるので電話で連絡しなさい」。ちょう
ど電話が架設されていた。しかし、私は電話のかけ方を知らず、そのまま電
話機のベルを回して交換手を呼んだ。日本人の対応が悪いので「ここで交換
などいらない!そのまま収容所を呼びなさい」といった。私が収容所と何回
か叫ぶと靖山が電話を受けた。「あ~助かった」。靖山は私のいう事を聞いて
「おい、石原、そこでちょっと待て。私が今行くから」と言って、PW一人を
連れて来た。私は嬉しくて涙が出そうだった。私の銃と所持品を靖山に預け
てPWの背中におぶさって宿舎まで行った。
私はその次の日に鉄道隊を通して業務報告と負傷報告をして、数日の間、
横たわって親友の手厚い看護を受けた。鉄道隊と防疫班から薬をもらって
飲んだり、塗ったりして、足を引きずりながらも歩けるようになった。そして
6 日ぶりに帰隊した。
3 日間休んでまた出張命令を受けた。バーンポーン(バンコク)に行って
金澤 113 が管理している防疫給水班のPW 50 名を撤収して来いという命令だっ
た。その任務は無事に終わった。
今度は私にどんなことをさせるのかと待機していたが、補給係に行けという命
令だった。補給係というのは皆が勤務したがる職だ。なぜかというと、すべての
物品を受け払いして時々主計少尉について貨物倉庫にも行く。カンチャナブリ市
に出て野菜、鮮魚、果物、肉類、などを買ってくることもある。だからタイ
の商人と接触する楽しみがあり、役得のある地位だったからである。しかし、
私は嫌だった。
第1は曲山主計少尉が私の気に入らない上官であり、第 2 に将校、下士官、
同僚を問わずに肉、砂糖、酒、その他のものをほしいと裏口や夜中に言って
私を煩わせるだろうし、第 3 に私の刀のような性格からそれを排斥すれば私
は人心を失い結局はバカにされるからだ。私は財貨の近くにはあまり行かな
い清貧な性格なのだ。
それで私はやりたくなくて、歩哨や作業監視をするつもりで病気だと仮病で
横たわった。内部班長辻軍曹は病気なら医務室に行って診療を受けろといった。
113 金澤正煥:生年月日不詳。慶北大邱府徳山町。〔タイ捕虜収容所の留守名簿によれば生年月日は 1921 年 12 月
6 日〕
105
私は軍医の村岡中尉のところに行って手足が痛くて力が全く出ず、食欲が出
ないとうその訴えをした。軍医官はとても慈愛に満ちた人であった。
軍医官いわく「石原は細い体格にもかかわらず、2 年間、熱病一回で入院も
一度もしたことがない。過労による衰弱なので、栄養をやるから食べて何日
か休みなさい。そして毎朝、私のところに来てかぼちゃジュースも一杯ずつ
飲んでいきなさい」。「はい」。私は栄養剤数日分を受け取って内部班に来て
2 日間休んでいたが、補給係勤務はやめて捕虜情報課の庶務係をしろという
命令が下りた。
私は望んでいた職責なのでもう横になっているのはやめ、次の日の朝に主
任将校である星愛喜中尉に申告し、その日から勤務を始めた。服部中尉は訓
練所のときから私をよく知っている上官なので私の性格もある程度把握して
おり、私の考えを読み込んで、配慮したようでありがたく思った。
捕虜情報課は主任将校星中尉、補佐役に武田軍曹、最近他の部隊から来た
辻軍曹、石黒通訳官(50 歳を過ぎた文官)、庶務石原(本人)、PW人員・管
理に花村、労務・賃金に脇原厚助 114、領置品・死亡に完山能祚 115 などの面々
だった。私の業務は一般庶務および旬報、月報の担当であった。私の仕事は
別に難しいことも複雑なこともないので、余裕時間が多くあった。上官たちも
みんなよい人でいつもかわいがってもらった。
ここで星中尉という奇人を紹介する。彼は別名星鉄身とも呼んだ。訓練所
の時は 9 所隊長だった。彼は大日本皇武館の名人位 116 で、剣道 5 段、柔道
5 段に、碁が日本棋院 4 段で併せて 24 段だという。彼が持ち歩いている軍刀
は白鉄で作った長さが 2 尺でとても軽いおもちゃのようなものだ。星いわく、
「私は素手でも真剣を相手にすることができる。保身の武器のようなものは必
要ない」ということだ。身長は 170 ㎝程度だが、体重は 100kg を越えるよう
だった。また詩の名人で、祝祭日には豆を炒って「鬼は外、福は内」と叫び
ながら、営内全体を回り、すみずみまで豆をまいた。朝早く起きて綾巻きの
上に跪いて座り、ピョンピョン飛ぶ運動をする。性格も鷹揚で細かいことに
は気を使わないようだった。
114 脇原厚助:脇原厚財(創氏名)の誤記と推定。1918 年 4 月 27 日生まれ。黄海道長淵郡。
115 完山能祚:1919 年 4 月 28 日生まれ。慶北固城郡。
116 空手のような武術〔合気道〕
106
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
私は彼と数回碁を打ったことがあるが、9 子の置き碁でも到底勝つことが
できなかった。彼は私に何回か教えてやろうとしたが、うまく理解できずに
習う機会も時間的になかった。
カンチャナブリの慰安所
1944 年 5 月下旬になると、タームアンの我が第 4 分所の収容所もかなり整
備された。広い営内にはPWの宿舎数十棟が建てられ、周囲には竹柵の塀と
PW逃走防止のための深さが 2.5 m、広さが 4 mの深くて広い溝も掘ってお
いた。
それからはすべての施設と機構が整備され、急な激務もないのでみんな時間
的余裕を楽しんだ。心身鍛錬のために広場でサッカー、銃剣術、ボクシング
などを自分なりに楽しみ、室内では碁と将棋をする人もいた。私は碁を習う
のに没頭した。
また一週間であれば、慰労の外出が許可された。月 2 回交代制で、外出は
ただ1か所、カンチャナブリだけだった。そこには将校慰安所が1か所、士
兵慰安所が 3 か所あったので、我々は外出すると慰安所で遊び、食堂へ行っ
て食事をし、市内を回って自分の所持品を買う。それに限定され、その他に
はすることがなかった。
私は初め、私の順番が来ても外出しないで室内で碁を打ったり、広場で
サッカーをして遊んだ。しかし、7 月に友達の誘いに勝てなくて 15 バーツ
を体に付けてついていった。午前 10 時に軍医官の注意事項の訓示を聞いて
トラックで営を出て 30 分後にカンチャナブリ市の真ん中で車から降り、みんな
四方に散らばったが、私は親しい友達に引っ張られてついて行った。大通り
をちょっと行き、小さい道に入って、「青葉」という小さい看板がかかったさ
びれた木の 2 階建ての家に入った。ここが朝鮮人慰安所だ。
慰安婦は皆朝鮮人女性で 10 人ほどいるようだった。入るとかなり広い待合
室があり、番台がある。待合室の壁の周囲には木掛けの椅子が置かれていた。
すでに 10 数名の朝鮮人軍属が座ったり立ったり、行ったり来たりしながら、
女性たちとふざけたりしていた。切符売り場には眼鏡をかけた 20 代の女性
が座っていた。私は切符売り場の向かいの椅子に腰を下ろした。煙草を一本
107
吸った。すぐに皆は 2 階に上がったり、他のところへ行ったりしたが、私一
人だけ残ってひっきりなしにタバコだけを吸っていた。番台の女の人は雑誌
を見ていたが、私をちらっと見て苦笑したように笑ったようだった。私は間
違いなく捕まったような状態だった。私はなぜこんなに勇気がないのか!不
細工な私が呪わしかった。
どうしても勇気が出なくてタバコばかり吸っていた。慰安婦たちは番台に
降りてきてお金の計算をし、冗談を言い、上がったり降りたりする。こうし
ている間に 12 時が過ぎた。2 階の友達の部屋に行くこともできず、友達も降
りてこず…。
12 時 30 分になった。さっきから私に視線をくれていた女が 2 階から降り
てきて私の横にぴったりと座った。「誰を待っているのですか?」。私は返事
ができなかった。「私と一緒にいって遊びましょう」。そして、立つと私の腕
を引っ張った。私は恥ずかしい気持ちを隠せないまま引っ張られるようにつ
いていった。彼女は私を自分の部屋に押し込んで、切符を買うお金を出して
と言った。私は 10 バーツ紙幣を一枚だした。「切符どれだけ買ってきます
か?」。一時間一枚、1バーツ 50 サタンだ。「思い通りに買ってきてくださ
い」。彼女は切符 2 枚を買って、お釣りを 7 バーツ返してくれた。私はそのお
金は必要なときに使いなさいといって受け取らなかった。彼女は笑いながら、
「お金持ちのようですね」と言って、「ちょっと待っていてください」とまた
出て行ってしまった。
すでに午後1時が過ぎた。彼女は戻って来なかった。私は田舎者なので騙
されたのではないかと、腹が立ってその家を出てしまおうかと思っているう
ちに、1時 30 分になってやっと彼女はうどん 2 皿とくだもの、飲料水など
を買って入ってきた。私は彼女と一緒に団らんな家庭の夫婦のように食事を
して、果物も食べ、話をした。名前はなんだ、故郷はどこだ、など尋ねたら、
彼女は立て板に水のように自分の人生を話したのである。
名前は〇子、本名は李〇〇、故郷は全北K郡K面院坪里で、家が貧乏で兄弟
が多く、12 歳の時、全南のある港の飲み屋に養女に行って、雑用をしていて
16 歳になる春に彼女の養母が彼女を人買いに売ってしまった。売られた彼
女は満洲に行って日本軍の慰安婦になり、7 年の間、満州、北シナ、中シナ、
南シナを経てベトナム、マレーシアまで行ったが、またここまで流れてきた
108
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
浮き草だといった。その間に経験した苦労話を限りなく続けた。
そうしているうちに午後 3 時が過ぎた。4 時までには帰営しなければならな
いので、私は立とうとした。彼女はあと 30 分ぐらい遊んでいってもいいので、
その後帰れといった。私がもう少しいて、立つとサイダー一杯をくれながら、
この次の外出の日を待っているから、他のところに行かないで、きっと私の
ところに遊びに来てという。何ということか、私も 10 年付き合った恋人のよ
うに、別れが惜しい。本当かウソか彼女は涙ぐんでいるように見える。彼女
が名俳優ではないのに…。
私はその次の外出日を逃さないで行きたかった。それでそれから 2 週目の
外出日にまた行った。しかし、慰安所、青葉はどこかへ移動して無くなって
いた。
1944 年の「タームアン」キャンプの夏雨季は長雨ではなかった。みんなの
希望である月 2 回の慰労外出制度も 10 月に入ってなくなった。なぜかという
とすべての戦線で日本軍の戦況の不利がはっきりしてきたからだ。特に隣接
のビルマ戦線 117 の敗北により、その敗退路の最も近道が、これまで我々が参
与して建設した泰緬連接鉄道で、唯一の退却コースになっていた。連合軍情
報部がこの鉄道の完成と当地域の捕虜の撤収を知らないはずがない。
今や、たびたび連合軍の爆撃機が飛んできて主要橋梁などの要所と撤収部
隊などに爆撃をする状況に至った。だから一時、軍事物資補給都市として栄
えたカンチャナブリ市街も爆撃を受ける確率が高い都市として危険となり、
我々が楽しんで尋ねていた慰安所のようなものはどこか行ってしまったのだ。
連合軍空襲以後の沈滞した雰囲気
日本軍の対空防衛力は極めて微々たるもので、連合軍のB 24 爆撃機が低
空を思うままに飛び回る状況であった。我が収容所が爆弾の洗礼をうけたら
どうするか…?いや、彼らがPW収容所を知らないで盲爆するはずがない。
しかし、カンチャナブリ郊外に位置する我が収容所本所の近くに焼夷弾を浴
びせて火の海を作った事例もあるではないか!我々は少し不安な日々を送り
117 インパールでの戦闘
109
ながら、なんとかタームアンキャンプ生活での1年がほとんど過ぎた。
その最中の 1945 年 3 月 1 日、我々 200 名余の中でたった 5 名の進級発表が
あった。すなわち陸軍雇員 118 とされた。大家金藏 119(李鍾明、副官室人事)、
杉山健太郎(金俊植、副官室庶務)、松園 120(金〇〇、副官室庶務)、大原 121
(金成杓、副官室)、金本 122(金喚培、警備教育)など 5 名だ。だが私は不満
だった。私自身がその中に入れなかったからのではなく、3 年間を皆とともに
一生懸命勤務してきたからだ。また、ここは軍隊ではないか。我々は教官で
はなく、現役軍人のような資格であるからなのだ。
連合軍の空襲はその度数がだんだん増した。ビルマの国境を越えてくる敗
残兵の行列、その骨と皮が引っ付いた体を見るたびに私は戦争の残酷性に万
感の思いが迫った。
1945 年 6 月下旬、我が第 4 分所は1年余、親しんだタームアンキャンプを
撤収し、タイ中部地方にあるサラブリ 123 というところに移動して収容所を開
設した。開設と書いたが、完全な荒地ではなく、前に他の部隊が駐屯した痕
跡があるところで、数日間で我々に必要な設営ができた。
ところで、ここの空気がちょっと尋常ではなかった。衛兵司令と衛舎掛を
我が部隊ではない他の部隊の軍人下士官1名と兵長1名が来て、我が歩哨掛
と歩哨 18 名を掌握指揮するのである。
私の固有任務が捕虜の情報課の庶務なので、移動の初めに歩哨掛として歩
哨 18 名を引き受けて日本軍下士官の指揮下で衛兵勤務をしろといわれた。気
分が悪いことだが、命令なので仕方がなかった。司令は軍曹であった。衛士
掛は兵長で、私は歩哨掛なので時間ごとに歩哨 6 名ずつを引率して、異常有
無の報告を受けて交代させるのが任務だ。前に我々で衛兵勤務するときはい
くら厳重な衛兵所といっても笑いもあり、話をやりとりし、軽い冗談もあり、
活気もあって厭くことはない勤務をしたのだが、今はとても静かで緊張する
のだ。日本人司令と衛舎掛もお互いに何か対話したいこともあるはずなのに、
118 伍長や軍曹の待遇。
119 大家金藏:李鍾明、1909 年 2 月 28 日生まれ、京畿道京城府西大門区
120 松園秀吉:金〇〇、1921 年 11 月 24 日生まれ、慶北達城郡
121 大原貞根:金成杓、1921 年 6 月 20 日生まれ、京畿道平沢郡平沢邑蛤井里
122 金本邦彦:金喚培、1910 年 6 月 2 日生まれ、全南務安郡
123 SaraBuri、バンコク北部の都市
110
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
一日中勤務に関すること以外は厳めしい姿勢で一貫しているので前より倍も
心身共に疲労した。
我々はあれこれと疲れた一日の勤務を終えて次の当番に引き継いだ。事務
室の前まで秩序整然とした部隊行動をとり、整列して日直士官の平松愛太郎
曹長(副官室人事担当)に衛兵勤務を異常なく終えたと報告した。この虎下
士官は私とはよい間柄ではなく、また何か言いがかりをつけるのではないか
と、私なりにミスなくやろうとしっかりした言葉で言った。ところが「石原、
お前は部隊の指揮をよくやった。私はお前がそんなに部隊指揮をうまくやる
とは知らなかったなあ!」とほめた。
私は収容所内で敵もなく反目する人もなく、お互いに競争する者もないと
自負していたが、ただひとり、この人事担当の平松曹長が私を憎んでいる目
つきなのだ。なぜなのか。私は彼の指揮下で働いたことがない。
前にタームアンにいた時のことだが、その当時仕事が別になく教育に重点
を置く間、歩哨規則、戦陣訓、軍人勅諭など、難しい文句を暗唱させられた。
万一暗唱ができないものは外出をさせてくれなかった。それで皆外出がした
いので、寝ても覚めても暗唱に熱中している時だった。
あるとき、平松曹長が日直士官の日だった。普段は朝点呼にあまり出られ
ない私は「平松が内務班に急に入ってくる日は…」という心配のために点呼
場に行き、一番後ろに立った。前にはみんな背の高い人なので、日直士官の
目につかないだろうと、思っていたのだが、人員報告をうけた平松曹長は
「石原!」と大声で呼んだ。私は「はい!」と大きな声で返事をした。「軍人
勅諭礼儀項を暗唱してみろ」。皆は気を付けの姿勢を取った。
天皇の勅語、勅諭はすべて名文である。軍人勅諭はその中で暗唱するのが
難しい文章だ。私は前から暗唱に自信があるので、とてもうまく、すべての
場内の人は皆聞けるようにと大きくはっきりと暗唱した。これがかえってわ
ざわいした。平松は私を自分の前に呼んで立たせ、暗唱の調子が悪いといっ
た。無声映画の弁士のようだとか、歌を歌う調子のようだとか、不敬だとか、
自慢げの態度だとか、しばらく虐められたことがあった。
それで私はいつも平松を遠ざけたいという気持ちで生きてきた。今日のよ
うな平松の態度は何を意味するのか。私と親しくしようということか。所内
全体の雰囲気も何か前と同じではない。将校たちも言葉数が少なくなり慎重に
111
みえる。
1945 年 7 月、私は 2 次進級の名簿に入った。4ヶ月ぶりにまた進級があったが、
今回は陸軍雇員でなくタイ捕虜収容所雇員という進級命令だった。西原 124
(医務室庶務)、石原(本人)、花村義雄 125(俘虜人員)、高本 126(経理庶務)、
脇原 127(俘虜人員)以上 5 人だけが 2 次進級者の名簿だ。雇員は伍長軍曹相当
級だから、これから私は衛兵勤務をしなくてもよく、日本軍下士官に先に手を
挙げて敬礼しなくてもいい。しかし親友と郷友たちにすまない。早く皆一緒に
雇員階級章を付けなければならないのに!私は進級をして、新しい気分で、
私に任された事務に心を尽くし、勤務に熱中したが、所内の雰囲気は前のよ
うに明るくはなかった。
7 月下旬のある日だ。ついに大きな事故が起こった。それは我が分所の
トラック運転手の同僚石井 128 がバンコク市から我々の分所に乗せてくる公金
25 万バーツ(25 万円〔ママ〕)を入れたトランクを持って逃げた。石井は我々
同僚みんなが恐れる存在だ。彼は 30 歳過ぎで 60 kg になるかならないかの小
柄だが、現地人のような半分黒い皮膚にがっしりした体格をしていた。彼は
体育といえばできないことがなかった。特に鉄棒、ボクシングなどが得意だ。
ともかく犯しがたい悪党ボスのような行動をする人だ。しかし、普段は無口
で同僚には情け深い面もある人だ。
本所内の空気がとても重くなった。そして 2 ~ 3 日が過ぎて内務班ではひ
そひそと耳打ちが回る。「作命 27 号」、それはタイ捕虜収容所長の作戦命令
第 27 号をいうのだが、この軍事一級機密文書がどのようにして我々の耳にま
で入ってきたのだろうか?石井がそれを盗み見したのか?その文書も一緒に
持っていったのか?そうしてその機密を石井が親友の誰に知らせたのか?と
にかくその内容が戦慄を覚える恐るべき内容だという。即ち「これから〇〇
地点に洞窟の掘削作業を敢行せよ」という要旨だそうだ。これが事実なら
ば…。
我々がこのサラブリ地域に来たのは、前駐地タームアンが安全ではなくて
124 西原熙朝:韓熙、1914 年 12 月 14 日生まれ、全南潭陽郡
125 花村義雄:義男(創氏名)の誤記と推定。鄭相権、1923 年 03 月 20 日生まれ、慶南昌寧郡
126 高本哲助:1921 年 12 月 10 日生まれ、全北沃溝郡沃溝面沃溝里
127 脇原厚助:脇原厚財(創氏名)の誤記と推定。1918 年 4 月 27 日生まれ。黄海道長淵郡
128 石井重宗:金鉄権、1913 年 4 月 8 日生まれ、慶南釜山府瀛州町
112
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
比較的安全地域を選んだのだ、PWをそのまま働かずに遊ばせることはでき
ないので、最後の防護線である砲台や防護壕などの構築作業に動員するだろ
うと考えた。また噂もそういう内容であった。公金 25 万バーツを失った程度
の事故とは違うのだ。
幹部たちは、石井が公金を持って逃げたという事故については一切口を閉
ざしている。この事故が起こってから数日後、我々が平素所持していた小銃
弾はすべて回収されて、衛兵勤務者にだけ数発ずつ支給した。
8 月初旬のある日、本所長の菅沢大佐が来た。我々を広場に集合させ、懇
切な訓示演説をおこなうのだが、その要旨は「私は諸君たちを見るとまず幸
福感を感じる。なぜなら、私は南方軍第1の強健な体力をもち、活気があり、
士気にあふれる諸君を私の部下に持ったからである。諸君と私は故国から遠
く数万里の異域に来て、ひたすら皇国臣民として、聖戦完遂を目的にすべて
の忠誠を尽くしている。一緒によく考えてみよう。諸君は故国に父母兄弟、
妻子、あるいは恋人が諸君の凱旋を、手を合わせて祈っているだろう。私も
やはり、故郷に愛する妻子がいる。しかし、彼らと愛して生きていくことは
今後のことであり、現実は諸君が私の愛する息子だ。私は諸君の尊敬される
べき父であることだ。諸君の不幸が即、私の不幸なのだ。諸君の危機が即ち
私の危機なのだ。私はどうして自分の息子の不幸や危機をみて跳んで行って
救わないことがあろうか。当然我々は血縁の家族関係であり、私の命に従って
着実に服務し、もし困難があったら分所長を通して私に言ってくれ。我々は
情が通じているので、誠意をもってすべての問題の面倒を見る」。こんな訓示
を聞いて私は、その切実な言葉に情感が沸く前に、今後の展望に一層暗鬱な
ものを感じた。
8・15 終戦
1945 年 8 月 16 日朝、戦争は終わった。昨日、天皇が無条件降伏の放送をし
たという。朝ごはんを食べて事務室に行くと、誰も出てこなかった。本当の
ようだ。将校たち、下士官たちは皆、自分の部屋から出てこなかった。午後に
上部から何か連絡が来たのか、分所長の鈴木大尉はPW責任将校(リリー
中佐あるいはナイト中佐)を呼んで面談した。「我々はあなた方の連合軍に負
113
けました。これからはきっと連合軍側から命令があるので、その間にあなたが
責任をとってこの収容所を引き受けてください。我々もこれからはあなたの
指示を受けます」。このように簡単に、引継ぎが終わったようだ。我々は、捕虜
たちの乱暴や復讐の行動があるのを心配したが、彼らはきちんと秩序もあり、
静かだった。
8 月 17 日、日本軍は我々に 150 バーツずつを支給して、倉庫に行って必要
なものをわけて持っていけといった。我々はあらかじめ約束した。早くここ
を抜け出して今後の行動を決めようと。いつも皆から尊敬されている平岡軍
医が我々に言った。「未来に朝鮮が独立国家になるだろうから、諸君は我々と
一緒に行動することはなく、すぐここを出るのがいいだろう」。
彼も知識人だ。我々の考えと同じだ。倉庫が解放されたので、皆出入りし
て毛布、服、軍靴などを選んで分け、また食品などを持ってくる人もいた。
次の日(8 月 18 日)はここを出る日だ。皆自分の荷物を取りまとめておい
て、その日の夜はこれからの行動に関して研究し討論して、苦悩に満ちた夜
を過ごした。18 日に朝ごはんをしっかり食べてみんな出発しようとしたが、
同僚の木村明成 129 は団体から離れて一人で朝早く出た。しかしタイのヤツに
刀で切られて、持って出た包みを奪われたうえ、鼻をつかんで、血だらけの
顔で「助けてくれ」と叫びながら入ってきた。鼻を切られ鼻柱がぶらぶらと
落ちそうだった。彼は急いで村岡軍医のところで縫って治療してもらった。
我々は将校たちに別れの挨拶をして出発しようと将校の幕舎を訪ねたが、
分所長以下みんな戸をぴたっと閉めて出て来ず、呻くような声で気を付けて
行けという。ただ村岡軍医だけは泰然とした顔で出て挨拶をした。「さようなら。
体に気を付けて」、そういって我々の出ていく姿をみて座った。
我々は振り返ることもせず、速足で営門を出た。さあ、我々は解放された
体だ。しかし、我々の運命は誰が予測できるか。道路に出た我々は、お互い
絶対に個人行動はしないことを約束し、郷友同士、または親友同士三々五々
組み合って歩き始めたが、200 余人の行列は壮観だった。皆 30 ~ 40 kg の荷
物をもっていたが、私のものは 10 kg にも満たない一番小さい荷物だ。私は
物を欲しいと思って倉庫に行ったこともない。いつも使っていた毛布 3 枚の
うち 2 枚と半袖、半ズボン、水筒、洗面具などが 10 kg になるものか。我々が
129 木村明成:1918 年 12 月 28 日生まれ、黄海長淵郡
114
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
歩く行路は 7 ~ 8 km 先にあるサラブリの汽車駅までだ。我々は休みながら、
お互い離れるなと激励しながら、駅に着いたのは昼食時間が少し過ぎた時
だった。駅に行ってみると、今日はバンコク行きの汽車はないという。それで
駅の近くにある古い空き倉庫を見つけてそこで一晩を過ごすことに決めた。
昼食兼夕食で持ってきた米で各自夕ご飯を作って食べ、一晩を過ごした。
在タイ高麗人会組織
8 月 19 日午前、サラブリ駅から汽車に乗ってバンコク市に入ると、す
でに集結している本所と 2 分所の人たちと連絡がついた。我々は市内の
「チャンファンニッ」130 という寺院で合流することができた。その日の夕方に
数名の友達と商店に行って民間の私服一着と靴を買って着替えた。友達も皆
民間の私服を買って着替えた。
その日の夜、私たちは 700 余名が 1 箇所に集まって在タイ高麗人会 131 を組
織した。我々は我が民族が一つになってこそ力が生じ、帰国の道が早められ
ると考えたからだ。そして連合軍とタイ政府に対し、宿と食の問題と帰国輸
送船問題などのための交渉窓口の一元化が絶対に必要だったからである。
9 月 20 日、寺院は人が多くて騒がしいので、本部事務室を九層楼という
ホテルの部屋 3 間を借り、事務を始めた。私はホテルの部屋で 3 日間、内務
部長の李鍾明を助けて名簿作成、会員証発給、会則草案などの事務の仕事を
していた。すると連合軍の命令だといってタイ国防省が、我が朝鮮人たちを
一つの場所に集結させて収容管理するようになったので、アユタヤ 132 へ行か
なくてはならないといった。
話は変わるが、慰安婦の話を一つしよう。ある日私は人事事務担当者として
禁男の家で婦女子だけが収容されている別棟 2 階に名簿の対照確認のために
130 〔原文に「장황닛」と記載、現在の位置は特定しにくい。〕
131 在タイ高麗人会役員の構成は次の通りである。①会長金海利:慶北大邱出身、米国ハワイから高校まで
出た人で英語が堪能(2 分所)、②副会長許明会:黄海道出身(2 分所)、③総務金煥培:全南務安出身
(4 分所)、④内務部長李鍾明:ソウル出身(4 分所)、⑤外務部長朴貞根:釜山出身(本部)、⑥財務部長
(実名失念)、⑦文化厚生部長閔丙元:京畿道出身、⑧監察部長盧氏など。各部に事務要員数人を置く。他
の会員は中隊編成。
132 Aynitthaya:バンコクの北側 64km 地点にあるタイの古都
115
行ったことがある。そこには小さくてか弱い体つきに黄色で病状がひどい 20 歳
に見える女がいた。私はとても気になってある女に聞いてみた。
「あの人は何の病気であのように衰弱しているのか?」。その時 4 ~ 5 人の
女が私を取り囲み、その中の一人が話をするのだが、お互いに話を付けたし
たりもする。「私たちが今年の春ビルマから後退する軍人たちについて大変
な苦労をしながらタイの国境まで歩いてきたが、あの子は産み月だといって
とても歩くことができなかったんです。ほおっておくこともできず、一日に
大方 50 里も歩いて、また 30 里も歩いて軍人たちに頼んでご飯をもらった
り、また飢えたり、ようやくに国境近くまで来たんですが、あの子が『私は
もういけないよ、お腹が痛くて』といって木の影の下に入って横になるのよ。
アイゴ、子どもを産むのかと思って私たちもそこに座ってしまったんです。
そしてあの子が、夜があける頃まで一晩中呻いて、明け方に分娩をしました。
けれどもその子が男の子か女の子かも見ずに胎盤が出るのだけを待っていて、
少し後に胎盤が出たんです。我々はその子に聞いたのです。『どうする。歩け
るかい?』我々はどうしても行かなければならないのだが、その子の返事は
『お姉さんたちは行って。私のためにお姉さんたちが一緒に死んではいけない
ので。私はやっぱり駄目みたいなので、我ら母子のために木の葉でも取って
かぶせてから行って』。そういって目を閉じてしまったんですよ。私たちは
しばらく考えたけど、何の妙案もない。これからも何百里をさらに歩かなけ
ればならないのかもしれない。まず、あの子を連れて行く力がない。自分の
体一つ動く力もないのだ。それで近くの木の枝を折って覆ったようにして置
いて、泣きながら国境を越えて野営地まで来た。そこで軍人たちにご飯をも
らって食べたら、とても疲れて、もう歩くこともできず、木陰で何時間か休
んでいました。ところがあの子が杖をついて歩くように這うように、私たち
を追ってきたではありませんか。あまりにも恨みつらみがある命なので死の
うとしてもできなかったようです。」
私はこれ以上話を聞きたくなかった。その当時はビルマ戦線の敗退で敗残
兵の残酷でむごたらしい格好が国境線を隙間なく並んでいる状況であった。
なお、我々が建設した鉄道は開通したものの、あちこちの橋梁が爆破されて
運行ができなく、廃線の状態になっていた時期であった。
116
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
解放後、帰国できずにタイで生活
8 月 26 日、我々全員はタイ国防省の指揮・引率のもとに汽車でアユタヤ
市に運ばれた。我々はアユタヤ市のはずれにある学校のような数棟の建物と
広々とした運動場があるところに収容された。その時、私は服を買い、食事
も買って食べ、数日間お金をたくさん使ったので手に残ったお金が数十円し
かなかった。むしろこのようになったのはよかったと思った。我々が収容さ
れてから数日後にタイ国内各所に散在していた我が同胞たち、すなわち軍人
100 名余の他、従軍商人、記者、慰安婦など合わせて 200 名余が収容された。
後に台湾人 200 名余まで一緒に収容され、総収容人員が約 1,300 名であった。
我が高麗人会はそのまま存続させ、本部と軍人軍属 4 個中隊、商人と慰安
婦1個中隊に編成して、風紀が乱れないことに力点を置いて秩序ある自治生
活をした。
タイ政府からの給食事情は、主食の白米と副食用に 1 日一人当たり 85 サタン
(85 銭)をくれるが、これは飢え死にしない程度のものだった。初期の数ヶ月
は皆少しずつ持っているお金で補充しながら食べたが、お金が無くなり、
タバコもやめる状況になった。でも我々は要領がよかった。副食用にもらった
お金で、豆を買って育て、子豚を買って飼い栄養補充をし、葉タバコを買って
切って巻いて吸った。栄養失調で病気になった人もなく、9 ヶ月を耐え抜
いた。
さて、我々がここへ軟禁収容されたのは連合軍の戦犯者、すなわちPW虐
待嫌疑者の捜出拘引 133 が第1目的ではないかと思った。それで我々の収容初
期 2 ~ 3 ヶ月は食品購買に必要な人員以外には一切外出が許されなかった。
連合軍捜査官または元捕虜の将校がいつも出入りし、我が軍属出身達を捕ま
えていった。私も心配した。言及したとおり、私は大尉を脅迫した事件と少
佐の頬を殴った事件が心に引っかかっていたためだ。この二つの事件以外に、
PWたちを同情したことは多いが、虐待したことはなく、またPWの所持品を
欲しがって彼らに接近したことは全くなかった。彼らも人間だからまさか
私を悪人としては見ていないだろう。私は自分なりに慰めていた。
ところが、ある日、私は本部人事事務を終わって 4 中隊に入って、尹大重、
133 捜査し発見した後、引っ張って行く。
117
閔泳三と 3 兄弟のように一緒に食べて遊んで寝ていたら、本部から閔泳三を
連れてこいという連絡がきた。閔君が本部に行って、ちょっとしてから蒼い
顔をして帰ってきて自分の荷物を整理しはじめた。「どうしたんだ?」、「僕、
シンガポールへいくことになった。」、「なんで?」、「タームアンで、歩哨に
立っているとき、PW脱走事件でそのPW銃殺を目撃した証人として立たな
ければならないんだって」、「それはそうだけど。うんこしなければ仏様のよ
うなお前が、なんでPW虐待をするか、とにかく面倒になったな。体に気を
付けてちゃんと帰ってこいよ。」その後、閔君はタイには帰ってこなかった。
そして数日後のことだ。我が軍属全員がチェックを受けた。全員が運動場
に出て 2 列縦隊になって、名簿、人物を順番に点検を受けたが、その時の調
査官は皆元PW将校で、チーム長格の上級者は、我が 4 分所の軍医官であった
ハービン中佐であった。その日はまだ捕まった人はいなかった。次は僕の番だ。
5 人の将校の中、中央にいたハービン中佐をみて私は挙手敬礼をした。中佐
は私を見ると懐かしそうに言った。「オ~、グッボーイ!」。横にいる将校を
みて何かひそひそといった後、通り過ぎろという。「ヒュ~、助かった!」。
その日を最後にその後、捕えに来る人は目につかなかった。
すでに、アユタヤでの生活も数ヶ月が過ぎた。我々の望郷の気持ちは一日
千秋の思いだが、連合軍の輸送船は何の音沙汰もない。我々は退屈な時間を
過ごすために、いろいろなことをした。運動場ではサッカーを、室内では将棋、
碁をして、夜になれば仮設舞台を作って素人劇に詩の朗唱、のど自慢など、
それぞれ素質と趣味の遊びをしながら時間をつぶした。
帰郷の旅
1946 年 5 月 18 日、輸送船が来たという通報を受けた。次の日、汽車で
バンコク市まで行き、バンコク港から小舟に乗り、外港まで出てから 9,000 トン
級の大型輸送船に乗り換えた。タイを出たのは 5 月 19 日の夜間だった。
5 月 24 日、我々が乗った船サラトガ号 134 は台湾の基降港に帰着し、台湾青年
(ほとんどが軍人出身)200 人を下船させ、26 日に基降を出港、5 月 31 日に
134 USSSaratoga、CV-3(サラトガ):米海軍空母。太平洋戦争で破損されなかった航空母艦 3 隻のうち、1 隻
118
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
恋しかった祖国、釜山港に入港した。「あ、もう着いた。釜山港だ」。みんな
甲板の上に出てうれし涙を流しながら、歓呼の声をあげた。
ところが、我々が乗った船は港の中心で停船したまま、接岸下船をさせな
かった。我々はそれから 5 日のあいだ船中から釜山港を眺めていた。我々が
帰国したことを釜山に住んでいる家族たちが聞いたようだ。埠頭には連日、
人々が出てきて我々を見て手を振っていた。ところが入港 6 日目に船は船頭を
回した。
コレラ防疫関係で釜山に上陸できず、仁川港に回すと聞いた。我々は船室
に入って横になってしまった。そして 2 日後の 6 月 6 日に仁川港の外遠くに
停泊した。ここでまた仁川市と月尾島を眺めながら、一週間も停泊した状態
にいた。船内には飲水も副食も不足しているようで、顔を洗う水もくれない。
おかずはとても塩辛いエビの塩辛だけだった。
気をもみながらの 7 日間が過ぎ、6 月 12 日になって小船艇が来てこれに乗
り換えて仁川埠頭に上陸した。
「あぁ、解放された我が祖国だ!僕の愛する祖国、大韓民国だ!ここに祖国
建設に役立つ役軍の一団が帰ってきたぞ!」
本当に、3 年 10 ヶ月ぶりの再び踏む私の祖国だ。我々は生きて帰ってき
た。一番先に我々を迎えてくれたのは帰還同胞援護会という腕章をつけた青
年会員たちだ。彼らは我々を 2 列にさせて白い小麦粉のような粉を全身と所
持品一切に吹きつけ、お金 1,000 円(朝鮮銀行券 10 円紙幣 100 枚)を一束ず
つくれ、仁川駅に連れて行き、各自故郷に帰れと言った。駅には十数両の貨
物車があり、釜山行き、木浦行き、麗水行きなどの表札が掛かっていた。
その時、私は我が山清郡出身の友達 9 名、黄潤基、李相千、権ギョンス、
呉聖淑、チョ・チョンギュ、閔廷植、権チャンビョン、崔ジェチョンと釜山
行きの汽車に乗った。6 月 12 日に仁川を出発した列車は 13 日午後 2 時ごろに
ようやく金泉駅に着いた。
金泉で下車した我々はある食堂で食事をしてすぐバスで帰ろうとした。と
ころが、普段、私ととても仲良くしてきた間柄で、この友情に引かれて家に
帰らないで私について来た金泉出身の德山〔洪〕135 君が、どうか自分の家に
一緒に行って数日間休んでから帰れという。彼は自分の家は生活に困ってい
135 德山勝三:洪一泰、1922 年 3 月 26 日生まれ。慶北金泉郡金泉邑旭町
119
ないし、兄は新聞記者を長い間していて、間もなく結婚させるべき妹もいる
ので、見合いがてら、一緒に行こうと誘った。私は行ってみたい気もしたが、
そうするわけにはいかなかった。一緒にきた故郷の友達だけ先に帰して、私
一人だけ遅れたら家にいる両親の気持ちはどうだろうか。それで洪君には後
日を約束し、我々はお互いにたびたび手紙をやりとりしようといって送り、
居昌に行くバスに乗った。
居昌に帰ってきたら、山清に行く車がなかった。ある旅館に入ったが、まじめ
な権ギョンス君が、いつの間にか私のいとこのおばさん(三從始母〔ママ〕)の
家に行ってきたという。彼とも親戚の関係にある。それでそのおばさんが
私を旅館に泊まらせないで、必ず連れてくるように言うから、早く一緒に
行こうといった。
「ところで石君、君のご両親は去年の春に亡くなられたそうだよ」。「なに…、
お父さんが…」。晴天の霹靂…。「君、それが本当なら、私は不徳な者だ、
おばさんに会いに行けるか、後日にお目にかかるといってくれ」。そして友達
とはもう話もしないで、横たわって一晩中、涙の夜を明かした。
次の日、1946 年 6 月 15 日、私が故郷を離れてからちょうど 4 年ぶりに故
郷の土を再び踏んだ。
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
はじめに / 祖国を離れて… / ミレ島への道 / 受難のはじまり、ミレ島に到着 / 患者
送還と医務助手への配置 / 熾烈になった米軍空襲とさらに酷くなった作業 / 米軍の
大空襲 / 不利な戦局での日本軍の残酷と米軍の懐柔 / ますます悪化する食糧問題 /
ルクノール島への配置と生活 / チルボン島惨事事件発生 / チルボン島事件の動機と
事後処理 / ルクノール島脱出の決心と実行 / マジュロ島捕虜収容所そして同胞救出
作戦 / ハワイ捕虜収容所の生活 / 夢に描いた祖国の懐で… / 4 年ぶりの家族再会 /
解決されない労賃問題 / 1995 年 6 月、マーシャル諸島のミレ島と離島の踏査記
李仁申
日帝強制連行
太平洋戦争参戦体験受難記
―南洋マーシャル諸島ミレ島にて―
3
122
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
李仁申(イ・インシン)創氏名:東森仁州
1923.1.15. 全羅南道長興郡長興邑生まれ
1942.3.23. 芝浦海軍施設補給部所属工員としてミレ島に動員〔第 4 海軍
施設部配属〕
1945.6.28. 米軍捕虜となってハワイ捕虜収容所に収容
1946.2.
帰郷
はじめに
浅学非才のくせに体験記を書こうとしたが、まとまりがなく表現力の不足で
文章がぎこちなくて諦めた。しかし、同じ人間なのに人間以下の奴隷扱いを
受け、ひどい労働を強制されたが、善良で一徹な我が民族は、骨身を削る
ような苦痛に耐えて、殺伐とした戦場で幾度も死線を乗り越えながらひたす
ら頑張った。それにもかかわらず、末期にはなんの罪もない我が民族の若者
たちを無残に虐殺までした。そうした非人道的、天人無道な殺人魔の日本人
の蛮行を、永遠に埋もれさせることができなかった。そこで、いささかの誇
張もなく、見たとおり聞いたとおりの赤裸々な真実を明らかにしようと、未
熟ながらも筆をとった。
祖国を離れて…
1942 年 3 月 21 日、長興邑を出発して列車で大田を経由、3 月 23 日釜山
港の埠頭に到着した。集まった人員は、1つの道から 800 人ずつ、3 道で
2,400 人だった。簡単な形式的身体検査をした。1 つの班は 40 人で、長興郡は
2 つの班で 40 班、41 班だった。班には班長 1 人、副班長 2 人ずつを置いて
班員を引率させ、5 つの班単位で団長を選抜して班の責任を負わせた。各自
の所持品は南方の熱帯地域だからといって、ランニングシャツ、パンツなど
少なくて簡単なものであった。
123
マーシャル諸島
* 地図の出処:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%
B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E8%AB%B8%E5%B3%B6〔原文の地図には
ミレ環礁の一部が欠落されているため、差し替える。〕
マーシャル諸島(李仁申が書いたマーシャル環礁)
* 日本語地名の出処:防衛庁防衛研究所戦史室編、1970、『戦史叢書 中部太平洋方
面海軍作戦 (1) 昭和 17 年 6 月以降』朝雲新聞社、別冊附表。
https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=038
ミレ環礁
ナンル島
エネアニシナ島
ルクノール島
チルボン島
ノックス環礁
エネゼット島
エネアニシナ水道
ミレ島
124
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
私たちが乗る船は「あるぜんちな丸」136 で、平和時は貿易船〔貨客船〕であり、
日本でも最大級の汽船であった。3 月 24 日、各自所持品の準備を完了し、
全員乗船して隊列を整え、各道の班別に指定の船室宿所が配置されたが、我が
班はいくつもの階を下りて一番下の階が割り当てられた。室内は貨物積載の
倉庫だから空気が濁り気分が悪かった。戦時にもかかわらず、太平洋を航海
する船舶は非武装船であったが、先頭に木造模型の大砲1台が装備されてい
た。もっともその当時は太平洋戦争初期でタイ、シンガポール、フィリピン
など日本が破竹の勢いで連戦連勝して占領し、太平洋の各島嶼は何ら損害も
なく、無血上陸したのだから無理もなかった。
船が出発してから 30 分もたっただろうか、私は船酔いが始まり、時間が経
つにつれて激しくなり、めまいがし、頭が痛くて耐えられなかった。座って
も横になっても同じで、歩き回ることは、まったく不可能だった。それでも
目を閉じて横になっていれば、少しは耐えられた。食事の時間になり、飯櫃
がきてそのふたを開けると、ご飯のにおいで胸がムッとなり、一匙も食べる
ことができず、好きだったお菓子や果物も喉を通らなかった。私に必要なの
は飲み水だったが、それすら量が限られ、すぐには補充されないから、歩け
なくなった私はさらに苦しんだ。
私は僻地の農村の生まれで、20 歳になるまで旅行どころか遠方にも一度も
行ったことがなく、世間をまったく知らない未熟でまぬけな田舎者だった。
小便がしたくても唐突に誰かに聞くこともできず一人で悩み、乗船するときに
甲板で見かけた便所をやっと探して用を足した。そして確かに自分の宿所
を探して行ったはずなのに、道を間違えたようだった。まったく見知らぬ他
の班に行ってしまった。めまいがし、頭は痛いし、誰に聞く気力すらなかっ
た。しかたなく甲板に上がって再度探そうと気持ちを整えた。手探りでどう
にか甲板へ上がったが、めまいがひどくなって正気でないので、もう探すこ
となど考えられず、起き上がる気力すらなくなって、甲板の上の台秤の上で
横になってしまった。朦朧としているあいだにどれほど時間がたったのか。
故郷の親友たちは、たぶん便所にでも行ったのだろうと思っていたが、10 回も
136 あるぜんちな丸(ArgentinaMaru)は、最初、世界一周用の豪華旅客船として 1939 年に建造、1942 年に
日本海軍に売却、航空母艦海鷹に改造。1945 年 7 月 24 日、別府湾で機雷に接触して座礁し、7 月 28 日に
爆撃を受ける。
125
往復できる時間になっても帰ってこないので、大変だと四方八方を探し回り、
甲板で私を発見し背負ってきたというから、大の男として本当に恥ずかしく
てたまらなかった。もちろん船酔いのせいだったが、まぬけでしっかりして
いないせいで、親友たちに迷惑をかけたのだから、申し訳なく面目なかった。
後でわかったことだが、宿所のすぐそばに甲板があった。とにかく 2,400 人
のうち、船酔いで私にかなう相手はいなかった。
ミレ島への道
釜山港を出港して 4、5 日後だったか、島の名前は思い出せないが小さな島で、
第 1 次の 800 人が下船して上陸した。その数日後、トラック島 137 に第 2 次で
800 人が上陸した。船が停泊したので甲板に出て見渡すと、かなり大きな島で
高い山もあり、作業場で作業する人の姿も見えた。そして偵察機が巡回し
ながら警戒しており、良い島だと思
われた。あとでわかったことだが、
トラック島は日本の海軍太平洋艦隊
本部の要塞基地で日本の海軍艦隊司
令官山本五十六 138 長官が駐屯してい
たという。1時間ほどで下船作業を
終えトラック島を去った。
航海途中のある日、順調に進行して
いたのに突然揺れがひどくなり、室
内の板材などが 30 分あまりの間ひ
どく揺れて、どうしたのかと思った。
後でわかったことだが、何か怪しい
ものを見つけて最大速力で逃げた
そうで、不幸中の幸いだと思った。
確かなことはわからないが、その頃
137 Chuuk、現在名はチューク。
138 山本五十六:1884 年 4 月 4 日~ 1943 年 4 月 18 日。旧日本海軍の 26、27 代連合艦隊司令長官。
李仁申の海軍軍属者名簿
126
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
から太平洋全域に米国の潜水艦が出動したようだった。
釜山港を出港すると同時に、私はまる 14 日間、ご飯は口にせずに水だけを飲
んで、やっと生きながらえてきた。ひどい船酔いでぐったりと息も絶え絶えに
なって横たわっていると、誰かが目的地であるミレ島に近づいたといった。
一日千秋というが、待っている日々はどれほど長く退屈か、間違いなく死に
そうだったが、その言葉を聞くと目がぱっと見開いた。ああ助かったと思う
と、ひとりでに新たな気力が湧き上がった。勇気を出して一行の後について
甲板に上がった。近くに島が見えた。長い間みんな船酔いで苦しんで疲れ、
嫌気もさしていた。航海中の危険もあって不安だったから、誰かれなく安堵
感で歓呼の声が満ちあふれた。
受難の始まり、ミレ島に到着
1942 年 4 月 6 日午前中、私たちはミレ島 139 上陸を終えて野外で昼食を食べ、
午後に現場指揮者について全員が作業場回わりをして、夕方に宿舎に戻った。
忠清南道の人たちがひと月ほど前に先遣部隊として上陸し、道路や宿舎工事
などの準備をしており、7、8 日前に日本人が 80 人余り上陸したという。
ミレ島は諸島の中で最も大きな島で中央に位置し、島の長さは 3km 程度で
あった。島全体が椰子の木のジャングルで、パンノキ 140 が多く、熱帯樹が鬱
蒼とした風情をかもしだしていた。島は地形が平坦で、満潮になると海水が
島全体を覆うようだった。
ミレ島はパンノキが多く食物が豊富で、かなり多くの先住民が居住していた。
住民たちの生活様式は、住居は丸太を組み立て椰子の葉で覆い、ゴザを敷いて
住んだ。その当時、男たちのほとんどは長ズボンをはいていた。履物は必要
なく男女とも裸足だった。ご飯はまったく食べず、主食は椰子の木の実から
「チャガロ」141 を採取して食べ、たまに海に出て魚を捕まえて食べるから、生計
維持するのに何の支障もなかった。パンノキの大きなものはふた抱えを超え、
139 当時は日本語でミレと表記。現在名はミリ。〔ミリ島はミリ環礁で最大の島。〕
140 パンノキ:学名は Artocarpusaltilis であり属名 Artocarpus はギリシャ語のパンと果実の意味。
141 チャガロ、執筆者は椰子酒と呼ぶ。〔李仁申は本文で「椰子の実に運ばれる栄養素を採取した液体」と説明。〕
127
果実もたわわにつぎつぎと実った。完熟した果実が 1 個あれば、2 食分は十分
だった。住民たちの特徴は木登りと泳ぐことにたけており、私たちよりも
目がよいのが特徴で、みんな丈夫な体質だった。
私たちは、半月のほとんどを船酔いで苦しみ、疲れた体を回復できない状態
なのに、ただの 1 日も休みもなく 4 月 7 日から作業に着手した。工事内容は、
飛行場の滑走路及び砲台装置など戦闘準備に関する工事であった。
工事の総責任指揮者は、工事主任で現役の桑下大尉で、現場主任は現役の
中川少尉だった。傘下に日本人技師、工員、監督助手がいて、工員の指示
の下に、監督助手が作業担当責任者として現場労働者を指導した。作業は
1 ヶ月に 1 回の休日があり、1 日の日課は日の出と同時に始まる。日没後に宿
舎へ帰るが、午前に 15 分間休憩があり、昼休みは 1 時間、午後に 15 分間の
休憩があるだけだった。昼食時に雨が降っても、雨の中でご飯を食べなけれ
ばならなかったし、作業も続けなければならなかった。それくらいは何でも
なかった。言葉では言い表せないほどの重労働に加え、熱帯の灼熱は蒸すよ
うで、全身が汗とほこりまみれになり、目も開けておれず、目まいで倒れそ
うだった。
そのような苦境にもかかわらず、1 日に 5、6 回、監督者〔原文では工員〕が
6、7 人ずつ徒党を組んで棍棒を持って現場を巡察する。わざと遠くに隠れて
状況をさぐり、作業動作が遅いとか、よそ見をしたり、ちょっとでも座ったり
することが目につくと、班員の前に呼び出され、見せしめに容赦なく代わる
代わる棍棒でなぐりつける。死ぬほど殴られたのは一度や二度ではなかった。
時には連帯の気合〔体罰〕も数多く受けた。中には過酷な殴打で体が不自由に
なった人もいた。
言葉ではうわべよく内鮮一体とか一視同仁とかいうが、彼らのふるまいは、
朝鮮人を人として扱うのではなく、自分たちの目的を達成するために人間以下
に扱った。死のうが生きようが構わないという非人間的な蛮行であり、どんな
処罰を受けても足りないものだった。彼らの一挙手一投足がすべて偽善であり、
欺瞞であるということが白日のもとにさらされ、よくわかった。
私たちも生き残るために、何とか気を利かせて振舞うべきだったので、そ
れぞれが監視員になり、巡察員が来るかどうかに神経を尖らせて察した。最
初に見た人が「吹いた」との暗号を送れば作業場全体に伝わり、大急ぎで作
128
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
業をしてその瞬間をまぬがれた。このように要領を尽くしてやっと耐えてい
たのに、その程度の作業効率では物足りないと思ったのか、これからは作業
量を 1 日割当責任制で分担し、班別に配当するという。それはいくら死力を
尽くしても、一日の量としては到底成し遂げられない超過重な作業量だった。
私たちに割り当てられた仕事は、飛行場を作る場所に必要な土、砂利、大き
な石などを、運ぶときに車に載せやすいように、掘って積んで置くことだが、
作業量があまりにも多くて意欲がわかなかった。しかし、割り当られた量を
終えられなければ夜になっても戻れない。とにかく死にものぐるいで全力を
尽くし、夜遅く検査にパスして宿舎に帰るのが毎日の日課だった。
みんなは、故郷でこれの半分でもやれば金持ちになれるだろうと異口同音に
言った。それほど我々が酷使されたことや、苦衷が甚だしかったことが充分に
推測できるだろう。
カンカン照りの炎天下での一日中きつい労働で、全身が汗とほこりまみれに
なり、塩気で白くなってべたつく体で宿舎に戻る。冷たい水で沐浴でもすれば、
多少なりとも疲れが回復されるのだが、こんな小さな島でいい湧水があるは
ずがない。だから水たまりに行って海水なのか何なのかわからないが、生ぬ
るい水で洗ってもすっきりせず、それでも一晩に 3、4 回それを繰り返し、
やっと寝床に入ることができた。宿舎の中に入ると、人が多いせいか暖房で
もつけているように、ムシムシして背中から汗が流れ落ちる。そのうえ蚊の
せいで蚊帳を吊すのでなおさらだ。外は少し涼しいが、蚊の大群のせいで少
しの間でもじっとしていられない。夜だけでもやすらかに休まなければなら
ないのに、そうはできない身の上だった。私たちが世の中を間違えて生まれ
たのか、苦労する運命なのか、とても恨めしかった。
飲料水は宿舎のトタン屋根を利用し、コンクリートのタンクで雨水を受け
て貯蔵したのを沸騰させて飲んだ。水は充分ではなかったが解決された。
わたしたちは故郷で、世間知らずで天真爛漫な子ども時代を両親のひざも
とで愛情をたっぷりもらい、兄弟姉妹間の庇護の下で苦労というものを知ら
ずにぜいたくに生きてきた。山紫水明の地で人が良く、人情の厚いねぐらの
故郷を離れ、気候風土が異なる遠くの異域、地図にも載っていない大海原の
孤島で、前途洋々のわたしたちが、想像もできなかった日本の残忍非道で悪
辣暴悪な虐待を受けながら、奴隷のように酷使されながらも一言も言えず、
129
我慢し耐えなければならなかった。初めて国のない民族、主権を失った民族
の悲しさと悲惨さを、身にしみて痛感することになった。
私は体が弱くて、我が班員たちの特別な配慮で食事当番をさせてもらい、
現場に出なかったので、他の人よりは楽だった。
上陸 1 ヶ月後から風土の関係なのか、みんな身体に異変が起こり、少しで
も傷つき、けがをすると、傷口が悪化し膿がでて病院暮らしをしなければな
らなかった。病院に出入しなかった人は全体のうち数人に過ぎなかった。
その当時、病院は特権機関と呼ばれていた。病院系統は院長、看護長、衛
生員、それ以下の医務助手だったが、先遣部隊で来た忠清南道の人たち 15、
6 人に、日本人を合わせて医務助手は 30 人余りだった。医務助手といっても
特別な経歴が必要なのではなく、私たちと同等の立場で学歴が少しある人を
選抜して採用しただけだが、何か特権でも付与されたかのように傲慢で身勝
手なひどい振る舞いをした。
外傷の治療はほとんど朝鮮人助手に任されていたが、治療に行くのが怖くて
今日明日と先延ばしにして傷が大きくなっていくと、かえって一層ひどく追
及され、言い訳でもすれば患者のくせに理屈が多いと、怖い顔で怒られる。
まかり間違えば頬を何発か叩かれるのを覚悟しなければならない。抗議でも
したならば死ぬほど叩かれるだけで、誰ひとり味方してくれる人はいない。
そんな現実だったので、正しいか正しくないかに関係なく、おとなしくさ
えしていれば無事に治療を受けて帰ってこられる。融通の利かない人々は、
怒りを抑えきれず対抗し、結局、辱めを受けてもどってくる人も多かった。
日本人たちから屈辱的な蔑視を受けながら酷使されるのも悔しくてたまらな
いのに、かえって同族同士が遠く離れた異域で、日本人助手よりもっとひどい
ことをしたのだから、思えば思うほど情けない。もちろん、だからといって
すべてが悪いのではなかったが、何人かの悪い行いのために私たちの感情は
良くなかったし、敵同士でもないのに嫌悪感すらおぼえることが多かった。
だから、誰かは、一緒に帰国することになれば海に突き落としてやると罵っ
たりもした。
私たちが上陸して 6 ヶ月になった頃だった。夜間巡察員が伝えるには、こ
れからは敵の空襲が懸念されるため、各自が格別に注意し、特に灯火管制は
徹底的に取り締まりを要するという指示を受けた。
130
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
私たちが幼い頃に伝え聞いたのは、爆弾は 1 個で数十人を殺すことができ
る恐ろしい威力を持っているというから、もし空襲になれば、猫の額ほどの
小さな島で避難する所もなく、全滅してしまうという恐怖心に、誰かれなく
神経が敏感になった。就寝中に誰かが夢を見て大声をあげたり、あるいは完
熟した椰子の実がトタン屋根にガタンと落ちる音に驚いて「空襲だ!」と
叫ぶと、各宿舎で眠っている千人余に達する群衆が、つられて同じことを叫び、
宿舎の中は叫び声で阿修羅場になって、まるで戦争にでもなったかのよう
な騒ぎだった。あわてて裸足で飛び出して海ベの大きな木の下をうろつき、
すっかり怖くなって気の抜けた人のようにぼんやりと空を見ている人、うろ
たえて泣く人、人さまざまだった。しばらく後にデマの空襲だったことがわ
かると、戻ってくるのだった。
群衆の心理というのは、危険にあった時は共通しているようだ。一つの
宿舎に出入り口が 8 ヶ所もあるのに、先頭の人が出るとほとんどがつられて
その扉に押し寄せていくから、誤って倒れると踏まれ、起き上がれずに負傷
した人が多かった。大怪我をした人は病院に行くことになるが、不親切な助手
たちがいい顔をして受け入れるはずはない。すぐに言われるのは「空襲でも
ないのに…、阿呆のようなヤツら」だと、辱めをたっぷり受けてもどってく
ることになる。その後は各自とくに注意したが、数ヶ月間に何度か繰り返さ
れた。
患者送還と医務助手への配置
ミレ島で一番恐ろしい病気はアメーバ赤痢なので、特に日本人はかかると
死に、我々班員たちが火葬した。朝鮮人はもともとアメーバ赤痢の免疫性が
強いようだった。そこでアメーバ赤痢にかかれば隔離病室に入院させて投薬
するが、毎日便検査をして結果が良好になるまで断食をさせる。7、8 あるいは
10 日ほど断食させるから、むしろ飢えで気力を失って衰弱して死亡したり、
苦労を重ねて回復が遅れる。
ある日、重患者たちを病気送還するための病院船が入港すると聞いた。病
院船は国際法上攻撃されないという話もあった。だから安全だというのだ。
ちょうど、私たちの村の金グンオク、金クォンテ氏が重患者として送還対
131
象だったが、金クォンテ氏はアメーバ赤痢で入院してようやく生死の境を
のり越えたが、あまりに体が衰弱して、しばらくは療養が必要だったため、
作業場に出られなくなり帰還することになった。みんなが異口同音に言った
のは、送還される非常に運のいい人だと称え、自分たちも死なずに重患者に
なって帰国することになれば、どれほどうれしいことかと羨ましがった。
遠く離れた異国でいっしょに苦労した故郷の同志たちだから、惜別の情を
かわして見送らなければならない。しかし病院船の入港日も知らないし、入
港し乗って行くとしても、〔作業場に〕明け方に出て夜戻って来るという生活
だから、見送りどころか行くことさえ見られない状況なので、故郷に帰ったら
両親に安否を伝えてほしいという言葉だけを言った。
日が経つにつれ、現場作業もある程度のところまで進捗した。多くの人員が
不要となり、先遣部隊で島に来た忠清南道の人々を帰郷させたことがあったが、
いつ船が入港し彼らがいつ船に乗って行ったのか、私たちは知らなかった。
ある人は、もし島の中で起こることも知らないなら、気がおかしくなったの
ではないかと思うかもしれない。そうとも言える。しかし、私たちは精神だ
けはしっかりしていた。そうするしかない。夜明けに作業に出かけ、一日中
作業現場で決められた割当をこなさなければならない。だから、死ぬか生き
るかの渾身の力で作業を完了し、疲れた体をひきずって夜に宿舎に戻ると、
何もする気になれない。座った場所を移すことも嫌で、誰かと話そうとも思
わない。そのまま倒れ込んでしまう。だから島で起こったことも、直接関係
したことでなければわかる由もない。今が何月なのか、何日なのかわからない。
春夏秋冬の四季があれば、春か秋かは推測できるだろうが、すべてに気を使
う余裕がないからわからない。まるで阿呆と変わらない生活だった。忠清南
道の人たちについても、いつか伝え聞いたもので、帰国する途中に危険な目に
あってどこかの島に途中下船したというからわかったのだ。
私は忠清南道の人々が去ってからしばらくして、友人の助手の紹介で病院
の医務助手として採用された。病院の人事権は看護長にあるので、感謝の
お礼として 1 本 8 円のビール 8 本をやっと購入してプレゼントした。すると
ありがたいと言って新任の祝いもしてくれて、お互いの挨拶がわりに、看護
長の手配で院長以下全員が参加して陽気な雰囲気で盛大に会食をした。助手
たちは異口同音に、院長と看護長は朝鮮人だからといって少しも差別せずに
132
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
やさしくしてくれるし、親切に指導してくれる良い方だと口を揃えてほめた。
伊藤えいじ院長、橋本看護長といった。長い間一緒に仕事をしてみると、本
当に二人とも人情深く、慈悲深く、礼儀正しく、朝鮮人だからといって少し
も蔑視したり、悪くいうのを聞いたことがなかった。その仁徳は、当然多く
の人の尊敬と崇拝をうけるだけの立派なものであった。
医務助手になると、第一に日本人たちの蔑視と侮辱を受けなくなり、技師や
工員たちの幹部たちも見下さない。それだけでなくぞんざいな言い方もしな
かった。ミレ島では病院ほどいいところはなかった。
これまで前任者たちが職位を乱用し、傍若無人の悪行をほしいままにした
ことを戒めにして、私は私たちの同志の患者に温かく最善を尽くして親切に
看護した。病室係を担当したときは、入院患者の病気の緩急を考慮し、院長
に時間を問わず迅速に報告し、診察を受けさせて投薬して少しでも痛みを和
らげるために努力をした。入院の軽患者は、病状のカードをうまく作成し、
退院させずに病室内外の清掃など軽い業務に就かせて、少しでも多くの休養を
取れるようにした。そして、班員たちの中で消化不良症に苦しむ人には、
薬剤室担当の日本人助手に消化剤をたくさんあげるように頼み、多くの消化
剤を持っていって便宜を図った。もちろん、仲間たちの評判もよかったが、
私自身が微力ながら私たちの仲間のために助力し、患者の苦痛を多少なりとも
和らげることができた。だから充分やりがいのあることをしたと自負しても
よい気がした。
熾烈になった米軍空襲とさらに酷くなった作業
上陸してから 10ヶ月くらい経った頃だと思われる。日本の貨物船南海丸 142
が食料を満載して入港停泊し、日本人船夫たちが運搬船を使って荷役作業を
しようとした瞬間、米軍戦闘機 3 機が低空から不意に襲ってきた。爆弾投下
と機銃掃射で米一粒も下ろすことができず、一瞬のうちに沈没してしまった。
船夫たちも数名が負傷したという。水深が浅かったので、煙突だけが見苦し
く突き出ていた。これをもって船舶の出入りはなくなった。
142 1943 年末頃、第 2 南海丸の撃沈により、ミリ環礁への食糧などの補給路が遮断された。
133
その後、かなりたったある日の夕方頃、日本の潜水艦が海上に突然浮上し
たのを作業中に目撃した。しばらく艦の姿だけが見えすぐに潜水した。少し
経つと、どこで情報を探知したのか、米戦闘機 3 機が海岸線に現れた。すん
でのところで大変なことになるところだったが、かろうじて災いを免れた。
初めて機体を発見した時は日本機ではないかと思ったが、マークを見て米軍
機であることを確認した。
これまで一度も現れなかったが、必要な時だけ不意に二度現れたのだった。
しかし島に対して少しも被害を与えなかった。その日、夜間を利用して米が
入ったゴム袋を海に浮かべ、船夫たちが伝馬船に引き揚げた。島全体の人員
の食糧の一週間分ほどの量だという。最善策として潜水艦輸送を試みたが、
その方法もまた最初で最後になってしまった。
1943 年初めと思われるが、昼夜を問わず、そまつなシャベルとツルハシで、
血を絞るように死力を尽くして飛行場及び滑走路がある程度完成した頃、
日本の戦闘機 70 機余、双発重爆撃機約 40 機が島に来て滑走路に着陸した。
無敵日本を象徴するように威風堂々と整列している威容を見た日本人たちは、
意気揚々と大成功だといいながら、鬼畜米敵を遠からず撃滅するから日本の
勝利は間違いないと感激し、小躍りして歓喜の声をあげた。
わたしたちも、日本人たちに屈辱的な辱めや数々の圧迫を受けてきたが、
夢にも忘れられない懐かしい故郷で、寝ても覚めても生きて帰ってくることを
祈りながら切なく待っている、愛する親兄弟たちに再会するには、どうしても
日本が勝利する必要があるから、悪いとは言えなかった。
戦闘機が島にきて着陸した直後から、毎日どこに爆撃や攻撃をしに行くの
かわからないが、5、6 機あるいは 10 数機ずつ離陸していくのに、戻ってく
る時は半分に減って、時によっては 1 機も戻らない日もあった。そういえば、
しばらくしてから双発爆撃機は見えず、戦闘機 10 数機だけが残っていた。私
たちは米軍基地への爆撃や日本基地への応援で出撃していき、撃墜されたこ
とは明らかだと推測した。確かに日本の戦況は傾いていると思われた。
ある日の早朝だった。航空整備兵たちが整備点検を終えて始動させ、すぐに
パイロットたちが搭乗して離陸出動しようとする刹那に、米戦闘機 3 機が
突然滑走路に触れるほどの低空で急襲して、猛烈な機銃掃射でまたたく間に
9 機が全焼し、残った数機は破壊され、日本機は完全になくなってしまった。
134
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
あれほど意気揚々として自慢し、大言壮語していた無敵空軍も、虚しく無く
なってしまったのを見て可笑しかった。
我々が上陸してから1年ほどたった夜に、初めて警備隊本部の空襲警報
サイレンが鳴った。以前、空襲の空騒ぎでも体が動かずぶるぶる震えたが、
本当の空襲サイレンが鳴ってどうなったのか想像できるだろう。みんな肝を
つぶし、お互い先を争って宿舎を飛び出し、びっくりしてどうしていいかわ
からずうろたえた。島の中央ではなく海辺のほうがいいと思って、ほとんどが
海辺に集まった。飛行機の音がする空ばかり見ている人、大きな木の下で頭
だけを隠し、おしりは空中につき出してぶるぶる震えている人、泣きながら
右往左往する人、各自さまざまだった。
聞こえてくる音からみれば、大型機 1 機程度と推測された。月が明るい夜
だったが、あまりにも高いので機体は見えず、そのまま何事も無く通過して
いった。
それから約 1 ヶ月後、本格的な夜間空襲が始まった。目標物は飛行場と滑
走路であった。飛行場と宿舎にはかなりの距離があった。プロペラ音からし
て大型の重爆機と推定され、投下爆弾の爆発音から推測すると 7、8 機だっ
た。とにかく大型爆弾で島全体が揺れ動いた。空襲が終わってもどると、本
部から総動員非常令が出された。明け方早くから緊急に全員総出動し、復旧
作業に取り組めというのだ。万一、復旧作業が遅れて味方機が島へやってき
た時に着陸できなければ、日本の戦争遂行に莫大な支障をきたすことになる、
だから生きるか死ぬかの問題であり、重刑は免れないだろうという。何を
さておいても、全力で、短時間で、支障なく任務を遂行しろと激しく叱責さ
れた。
日本人は、アメリカのヤツらは夜目が利かないので夜間空襲はしないと
言っていた。現場に出てみると夜間爆撃なのに滑走路に命中していた。爆弾
の威力は恐ろしく、とても大きな穴があいていた。道具といえばスコップと
ツルハシ、リヤカーしかなく、爆弾の穴一つに 120 人余りがいかに全力を尽
くしても 8、9 時間以上かかる。それも毎日連続して繰り返された。間違いな
く来るという日本機は影も形も現れなかった。
米軍は爆撃で穴を開け、私たちはそれを埋めるのに毎日死にそうだった。
そうしているうちに、米軍は、夜間爆撃から昼間爆撃に転換した。それとと
135
もに重爆撃機も増加し、2、30 機の戦闘機まで一緒になって空襲も 2、3 回に
増えた。夜間爆撃だけの時は、復旧作業時に危険はなかったのでよかったが、
昼間になってからはひたすら作業に夢中になっているときに突然来襲し、隠
れる防空壕もない状況だった。戦闘機は低空飛行し、機銃掃射まで加えた。
とにかく人が見えてはいけない。滑走路を抜け出し、樹木の下や森の中に身
を潜めなければならないが、動作が鈍ければ爆弾や機銃掃射にやられてし
まう。
1 日に 2、3 回ずつ空襲があると作業効率はゼロだ。後には時限爆弾まで投
下し、作業中不意に森の中で爆発するのでとても危険だった。私たちには日
本機は来そうにないように思われたが、強硬に作業を催促された。作業に出
て行くことが死ににいくのと変わらない。その恐怖におびえ、気弱になり、
精神的、肉体的に疲労が重なって死にそうだった。しかも、夜中までに作業
を終えなければならないので、さらにつらかった。
日増しに空襲は激しくなった。これからは空襲が飛行場に集中するのでは
なく、建物や人命被害に全面的に拡大されると予想された。しかし、これま
で防空壕一つ構築できなかった。防空壕も緊急の問題だった。
地層が浅いので地面を深く掘ることもできず、少し掘って椰子の木で蓋を
して土を 1 mほどかぶせても、機銃弾をやっと防備できる程度で、小型爆弾
でも直撃すれば粉砕されるほどだった。防空壕に避難することもとても不安
だった。
そして予想通り、しばらくすると宿舎や建物を目的にして、戦闘機を 3、
40 機に増やし、1 日 4、5 回ずつ殺傷弾や焼夷弾などを投下し、急降下して
猛烈な機銃掃射を加えた。建物は焼却し、樹木は余すところなく倒され、島
全体がしだいに廃墟になっていった。
そのなか、重爆撃機による大型爆弾の投下には困り果てた。米軍は表面的
な攻撃で集中爆撃をするため、こんな小さな島の限られた範囲では避ける所
がなくて、仕方なく不安な防空壕にあえて頼るしかない。
飛行機の音が聞こえると、みんな恐怖にかられて正気を失い、そわそわと
右往左往し、せっぱ詰まれば死のうが生きようが天地神明に運命を託した。
不安な空気を吐き出して落ちるその音響はびっくり仰天するほど鳥肌を立た
せて、人の気をもませる。その音が死を予告するにほかならないからだ。爆
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
弾が落ちる音が長く聞こえると、壕から 2、30 mの距離だから、やや安心し、
シャッと短く聞こえるのはわずか 3、4 mほどの近くだから、頭の上に落ちて
くるようで気が気でない。
毎日続く空襲に耐えるのは恐ろしく、困惑してうんざりするが、とにかく
生きようとするのが人の常だろう。しかし、運が悪く、不幸にも死ぬことに
なるのなら、むしろ直撃弾にでも当たって苦しむことなく、どうして死んだ
のかわからずに死ぬのが、むしろましではないかと考えたりもした。そう考
えるほど辛い日々だった。
継続する爆撃のためにお互い笑顔を失い、明日の運命がわからない恐怖症
と憂鬱感のなかでずっと過ごす日々だった。こうした状態が続いたにもかか
わらず、多くの犠牲者もなく、7 ヶ月の長い歳月が流れた。言うまでもなく
島全体で元の形を留めているところはなかった。
米軍の大空襲
1943 年 1 月 29 日、ついにこれまで類をみない最大の空襲が開始された。
一日中猫の額ほどの小さな島に、なんと 300 機余の戦闘機がどの基地から来
るのか、連続的に交代しながら、計画的に島を思う存分攻撃し続けた。全滅
させようと雨あられのように爆弾を投下し、急降下して激しく機銃掃射を行
い、あらゆる妙技を誇るように自由自在、自分たちのやりたい放題だった。
どれほど切羽詰ったことか、日本軍がフンドシ姿で、防空壕のすきまから
38 式、99 式のような小銃で、頭の上まで降りてきた戦闘機に対抗しようと
騒ぎ立てた。まさに笑い話であった。
私たちは一日中防空壕で身動きもできず、いつ死ぬかわからず日が暮れる
ことだけを待ったが、1 日の太陽の歩みはとても遅くもどかしくてたまらな
かった。夕方になって米軍機は去って静かになった。みんな大きなため息を
つき、助かったんだと出てみると、真っ暗でよくわからなかったが、めちゃ
くちゃになっていて直撃弾にあたった所もあった。食堂は爆弾で粉砕され、
猪の肉なのか人肉なのかわからないほど凄惨な状況だった。
私たちが壕の中で思ったのは、間違いなくとてつもなく多くの被害者が出
ただろうということだった。しかし、人命は天の定めることだというが、予
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想外に少ない方だった。天の恵みで人命被害が少ないのは、不幸の中で幸い
であった。
これまでにない最大の空襲を行って全島を廃墟にしたのは、上陸して占領
する目的だということが明らかだ。万が一米軍が上陸作戦を敢行するなら、
占領されるのは時間の問題だった。日本の兵力は海軍が 2,800 余人、陸軍が
2,700 余人、合計 5,000 人余りだったが、軍人数の過多が問題ではなかった。
相手から身を守るだけの軍装備を持っていないのだ。せいぜい重武器として
は、古物のような昔の高角砲 2 門の設置、対空用 25 mm、機関銃 2 丁が重
装備の全部だった。そんな現実だから、米軍が新鋭武器で武装して攻撃して
くるなら、小銃のたぐいでどうして防御できるだろうか。相手にならずに敗
北し、全滅することは明らかだった。
翌日 11 月 21 日、昨日のように空襲はひどくなかったが、防空壕に避難し
ていた。警備隊本部から各防空壕に伝令が伝えられた。望楼での監視兵の報
告によると、敵の大機動艦隊が接近しているということだった。
私たちの予想通りだった。戦闘が始まり、双方が交戦すれば殺戮が展開さ
れて血の海になるだろうから、私たち非戦闘員はどうなるのか。私たちの運
命は生死の帰路にあり、身の上は風前の灯になった。空想してみた。その戦
禍の中でどうすれば生き残ることができるのか。いくら考えてみても、袋の
ネズミだから避難するところがない。ともかく終わりになればわかることだが、
生きるのは諦めるしかないのは確かだ。若い命がむなしく消えると思うと
あまりにも哀れだった。
次の伝令は、敵は大船団で間違いなく上陸しそうだ、というものであった。
そうしているうちに、米国艦隊から艦砲射撃が開始された。これまで爆弾が
落ちる音にこりごりし、背中がゾクッとしたが、砲弾が飛んでくる音もまた、
同じように嫌なものであった。
砲撃が弱まった隙に少し出てみると、どの方向なのか艦体は見えず、砲弾
が飛んでくる音とともに滑走路に命中し、土の塊や土けむりが高さ 20 m以
上空中にまいあがった。実にすごい威力だった。時々刻々、伝令が来て、司
令本部の海軍司令官大佐から非常特別命令が下された。敵が上陸する兆しが
あるので、軍人および日本人は全員、戦闘準備に万全を期し、朝鮮人は敵の
戦況をみて、全員そろって警備隊後面の戦車壕に集結するようにというもの
138
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
だった。理由は朝鮮人が捕虜になれば情報が漏れて日本が不利になるから、
事前に皆殺しにして後方の憂いをなくし、自分たちは最後まで戦い、日本人
らしく大和魂で自決するというものであった。
何と突然のたわごと、蛮行であろうか。実にとてつもない言語道断なこと
だった。私たちは驚愕と怒りを禁じえなかった。情報がもれれば作戦上日本
が不利になるというは、話にならない。理屈に合わない。情報というのなら、
作戦上の軍事機密を知らなければならず、多方面に情勢を探知する能力がな
ければならない。
好戦軽死を主軸とする軍閥派たちが、不法侵略で太平洋戦争を引き起こした。
その目的遂行のために無学で無知蒙昧な私たちを強制的に、あるいは虚偽や
欺瞞で引っ張ってきた。その 800 人の朝鮮人は 90 パーセント以上が文盲だった。
やっと自分の名前を書ける人は数えるほどで、山間僻地の農村で農作業を手
伝ったり、あるいは他人の家に住み込みの奉公生活中に引っ張られてきた、
世の中の物情を知らない素人ばかりで、みんな家庭が貧しく何の後ろ盾もない
人々だった。
そして 20 ヶ月以上、毎日夜明けの早いうちに出て夜に帰ってくるから、外
部のことはおろか、島の中のことさえ知らず、日付が変わるのも知らない愚
かな者たちが、仮に捕虜になったとしても情報提供できる人物になりえるの
か。到底、納得できなかった。絶対に妥当ではなく、無理やりの口実だとし
てもとんでもない口実だった。悪辣な彼らの行いは、必要なときには牛馬の
ようにこき使い、必要がなくなればまるでゴミを処分するように、人命を軽
視する無慈悲で無道な非人間的蛮行だ。人間として到底ありえず、容認でき
ないことだった。しかしどうすればいいのか。無力で弱い私たちが、徒手空
拳で対抗することもできず、屠殺場に引かれて行く牛のように、若い青春た
ちが犬死することを考えると、あきれて言葉もなく、怒りと悲憤を抑えるこ
とができずに血の涙をどれだけ流したことか。もちろん、戦場で死ぬのは必
然的であり、また覚悟のことであるが、非戦闘員としては生きようと努力し
ても、知らぬ間に銃弾や榴弾、あるいは敵にやむを得ず殺されることはあり
えるだろう。あるいはそれが運命だとしても、いわゆる私たちの味方に悲惨
に虐殺されることは、死後も魂に永遠の恨みが残るのではないだろうか。
米軍艦砲射撃は続き、聞こえてくる砲音から推測すると、日本軍側でも何
139
発か高角砲で応戦したようだった。米軍は 2 時間半ほど遠距離からときおり
砲撃をして撤収した。崖っぷちの私たちも生きのびたから、不幸中の幸いで
あり、天の助けにほかならなかった。みんな死を覚悟していたのに生き残っ
たので、各防空壕から飛び出して生き残ったという感激でお互い抱き合い、
熱い涙を流しながら歓喜の声を挙げた。短い時間だったが、気が気でなかった
悲哀の心境は言葉では表現できないだろう。
米軍が艦砲射撃を試みて撤収したのは、ミレ島が小さい島であり特に軍事
基地として重要ではないうえ、大きな損失を犯して上陸までする必要がない
から、通りがかりの間隙を利用して威嚇して一度驚かせてやろうとしたため
だと推測された。ともあれ米軍が撤退したことで、危機一髪の死地から我が
同胞たちの貴重な命が逃れられたのは本当にありがたかった。その後も以前
のようにひどいものではなかったが、空襲は依然として続いた。
太平洋のマーシャル群島内の制空権と制海権は完全に失われ、伝送が完全に
断絶されたため、ミレ島は軍事基地として何の役にも立たなくなった。私
たちは袋のネズミ状態になり、外部情報はわからなかったが、この状態から
推測すると、太平洋戦争はすでに多方面で広範囲に米軍の攻勢に押され、不
利になっていると思われた。しかし日本の大本営発表のニュースでときおり
伝わってくるのは、某方面、某地域で米大機動部隊の主力航空母艦 10 数隻、
駆逐艦、戦艦、輸送船など 9 隻を撃沈撃破し、全滅させる大戦果を上げたと
発表する。そのとおりなら、すでに太平洋の米機動艦隊はほとんどなくなっ
たと見なければならないだろう。どれほど誇張された虚偽宣伝だったのか。
私たちにはとても信じられなかった。
日本軍のいう言葉はさらにひどくて聞いていられなかった。敵を日本沖
までおびきよせ、協同作戦、包囲戦術で総攻撃して一網打尽にすることでま
もなく戦況は逆転し、敵の米兵を掃討し、最後の勝利は大日本が収め、大東
亜共栄圏はもちろん全世界を制覇するだろうと大言壮語した。でたらめな、
とんでもない詭弁だった。
もっとも日本国民も、このようなニュースにすっかり騙されていた。
1943 年から各方面の戦線で広範囲にわたって米軍の熾烈な攻勢で占領され、
逆に全滅させられ、各海戦でも連戦連敗して膨大な損害と打撃を受けていた。
しかし、東条総理以下の少壮派軍閥主義者たちが実権を掌握し、真実をそのま
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
ま発表すると国民の士気が低下し、国家運営に邪魔になるからと、虚偽報道を
行った。そうやって自国民に欺瞞の政策を行使したため、戦争初期に連戦連
勝した自慢だけを、日々国内では戦勝発表のニュースだけを信じて、祭りの
雰囲気のような病にかかっていると思われるほどの騒ぎだったという。まさに
敗亡直前まで、日本軍閥たちはそのような無謀なごまかしを続けたという。
不利な戦局での日本軍の残酷と米軍の懐柔
ミレ島は他の島より大きくて良い島なので、もともと先住民が多く居住し
ていた。カヌーという 2、3 人乗りの小さな船を利用して、近くの島を行き来
した。
日がたつにつれて、日本の戦況が不利になることに気付いた住民たちは、
人知れず米軍船と会い、米軍基地に行って米軍側と協議し、ミレ島住民を救
出する打ち合わせをした。その後、数回行き来しながら、実行する機会を自
分たちだけで打ち合わせ、米軍と連絡を取り、夜間を利用して、某日某時の
指定場所で住民が案内員として米軍船に同乗することを約束したという。一
人はすでにミレ島で連絡係としてもどり、首長たちと密かに米軍と策定した
某日某時の日程を通報していたところ、日本人たちは以前から住民の動きが
怪しいと思い、徹底的に監視したため、不幸にも見つかってしまった。首長
以下 7、8 人をつかまえて、ひどい殴打、逆さ吊り、水拷問など、あらゆる
方法で取調べたため、事実を吐くほかなかった。計画は完全に失敗し、結局、
関係者 15、16 人が銃殺された。純真な住民たちが日本の束縛から抜け出そ
うとしたが、不幸にも失敗し、惜しいことに惨殺されたのだ。その後、先住
民は自由を奪われた。
ある日 5、6 人が搭乗した米国の偵察機 1 台が、気楽に低空で偵察飛行して
いて、日本の 25mm 双発対空機関銃に撃たれて墜落した。
その偵察機に乗っていた米軍が、落下傘で降りてきて救命ゴムボートで逃
げたが、日本軍が伝馬船で追跡して島の近くで捕虜にした。私は用事があって、
通りすがりに見ると、天幕に監禁され、それぞれ間を置いて座り本を読んで
いた。後で聞いたところによれば処刑されたという。その当時の状況は殺す
ほどではなかったのに、吸血鬼のような残虐性をあらわにしたのだ。
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ニューギニア戦線の情勢を告げる米軍のビラ
米軍はミレ島の状況が食糧難で極めて悪化していることを見て、空襲と同
時に多くのビラを散布した。その内容は「諸島の現地司令官宛て」で、日本
語で「貴国日本は遠からず敗戦する、皆さんは戦犯者でなければ袋のネズミ
のようにむだな苦労をしないで、降伏さえすれば皆さんは飢死せず、病死し
ないように万全の対策を講じるから、降伏する意思があるなら飛行場に白十
字を表示せよ」であった。数日間続けて、疑ったり心配したりしないでただ
ちに決めるようにと大量に散布した。日本軍は、死ぬならいさぎよく死ぬ、
降伏など話にもならないと一蹴した。
米軍はすこしの反応もないのをみて、今から数日の猶予期間を与えるが、
それでも応じなければ仕方なく米軍機の練習地とし、爆撃で人命はもちろん
島を完全になくしてしまうから、よく考えろと脅かしてきた。
周知のように日本人なら、軍国主義者として天皇陛下だけを崇拝し、日本
魂という精神が骨身にしみている彼らが、脅迫されたからといって素直に降
伏するはずがない。一週間ほど過ぎただろうか。文字どおりの爆撃が熾烈に
行われた。海の上を飛行し、海に爆弾を投下すると島に跳ね上がってきて、
爆発する。自分たちのやりたいとおり自由自在に多様な技を駆使した。直接
攻撃されない遠くからは見ごたえもあり、そして壮観でもあった。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
ますます悪化する食糧問題
我々が上陸した時は、やたら多くの食料を持ってきたようだった。10 ヶ月の
間は不足したことがなく、腹いっぱい食べた。その後は搬入が容易でない
ことがわかり、しだいに量を減らしていった。少し足りなくはあったが、
10 ヶ月以上なんとか我慢してよく耐えてきた。
そうしているうちに輸送路が完全に遮断され、搬入が不可能になると粥に
代わった。やむを得ない事情なので、みんなが理解し、腰ひもを締めて我慢
しなければならなかった。その粥も長く続かなかった。食糧があまり残って
いないという。これからは他に方法がないので、各自につる豆の葉を採って
こさせ、米を少し入れた草粥の配給を受けた。草粥では腹を満たすことがで
きなかったので、日が経つにつれて、みんな飢えに苦しみ、生きていけない
とのわめき声が並大抵ではなかった。栄養のない草粥でも続けばいいが、そ
れもできないようだからよけいに心配になった。
日本の船員たちが、以前、貨物船が沈没したときに水に沈んで変質腐敗し
た米を、潜って引き揚げ、水に浸して濾過し、粥にして食べた。それを見た
故郷の友達のチャ助手が、知り合いの日本人船員に頼み込んで少しずつ貰っ
てきた。これを水に浸して濾過して毒素を取り除いて太陽の下で乾燥させれ
ば、突かなくても自然に粉末になる。それですいとんを作って食べると、変
質した米粉だが、草粥とは比べようがなかった。チャ同志と私にはかなりの
期間、大きな助けになった。
そのように私たちは、米が入っているのかいないのかわからないような草粥
に命をあずけてきた。だが食糧が完全に底をつくことになった。ミレ島は工事
で多くの木を伐採し、爆撃で焦土化され、食べられる木の葉や草、パンノキ
などがすっかり無くなり、何もなかった。最後の手段として、各島々に
分散配置するより方法がなかった。島の大小や好き嫌いなどを勘案して、
2 ~ 30 人、4 ~ 50 人、あるいは 100 余人ずつ配置居住させ、その島に生え
ている草であれ木の葉であれ、適宜自給自足で延命しろというものだった。
そして日本人を適度に配置して朝鮮人を監視させたが、日本人は全員が小銃
を携帯した。我が同胞たちは監視対象者になったので、島内や海で魚を捕
まえに行ったり、いろいろ活動することに制限を受けた。どの島を問わず、
特に厳禁されたのは、椰子の木を伐採してはいけない、椰子の実を採ったり
143
熟して落ちた実を拾ってもいけないということだった。もし発覚した時は死
ぬほど殴られた。
椰子の木は、枯木ではない幹の突き出たところを切ると、30cm ほどの部
分が柔らかくて甘く、おいしくて飢えた腹を満たすことができる。果実も
取って飲めば水がいらず、お腹もふくれる。完熟した果実の核はコプラ 143 と
いうが、油が多く、飢えを免れて味も良い。椰子の木は飢えた人にはいろい
ろと良い食べ物として大きな助けとなった。しかし取り締まりをせずに放置
すれば、木や果実が全部なくなるので、後日のための取り締まりだった。
ミレ島を中心に本島と呼び、小さな多くの島を総称して離島といった。島名
はそれぞれ別にある。30 余りの大小の島が円形につながって形成されており、
東に大きな潮の流れ道があり、船はその流れ道しか出入りできない。それで
そこを水道口という。
海水が干潮になれば、この島からあの島へ、また次の島へと浅瀬を歩いて
行き来することができた。ただし、3、4 カ所だけは近距離でも水深が深く、
船を利用する。もともと先住民が居住していた島は 3、4 カ所の島で、他の島
は行き来できたが、食べ物がない島だから住むには不適だった。しかし、否
応なく配置され、指定された島に行くよりほかにない。運が良い人だといお
うか。少数だが良い島に配置された人々は、パンノキもあり、毒性の少ない
草、木の葉もあり、カボチャも植えて食べることができるため、少しは役に
立った。ただ生産に比べて人員が過剰で苦労が多かったという。しかし、ほ
とんどの人は食べ物のない島だった。パンノキもなく、食べられる草もない
ので、あれこれと試してみて、一番毒性の弱い草、木の葉を採取して一日ほ
ど水で煮込んだ後、二日間水に浸して濾過して塩味をつけ、すいたお腹を多
少なりとも満たす。たまに海に出て魚を捕まえて食べるが、米軍の船が行き
来するため、監視がきつく容易ではない。
私たちは死の峠をいくども越えながら生きてきた。このまま死ぬのはあま
りにも悔しい。何としてでも生きなければならない。不屈の精神で腰ひもを
引き締め、もがきながら、幸い病気で苦しむことなく、かろうじて命を持ち
こたえてきた。皆、しぶとく生きた。
143 copra:椰子の実の縁の硬い胚乳や椰子の硬くなった果肉を削って乾燥したものをコプラという。コプラは
油脂の原料となる。コプラの粉は牛乳の代用品として使う。
144
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
当時、島で栄養補給してくれたのは「チャガロ」だった。椰子の実に運ば
れる栄養素を採取した液体だが、チャガロを取ると実はならない。一日に 4、
5 杯飲むと、水も必要なく栄養素も多くとれる。それを草の葉やカボチャと
煮込んで食べると、餓死は免れる。
海軍と陸軍はそれぞれ分離して離島に配置されたが、うわさによれば陸軍は
半分以上が餓死したという。朝鮮人や海軍は餓死したといううわさは聞かな
かったが、陸軍は先のことを考えずに手当たりしだい食べたため、みずから
死を招いたのだという。我が同志たちが連絡ついでに本島に行く途中、陸軍が
駐在した島を経由したが、どれほど飢えていたのか起き上がることもできず、
銃を構えながら食べるものをくれと言ったそうだ。そんな状態だったから、
風説はあながち嘘ではなかったのだ。
私はミレ島で長い間、他の助手よりもさらにひどい苦労をした。万一の空
襲に備えるため、病院本部と距離が離れた北側に、コンクリート構造の防空
壕を設置し、軍の薬品を分離保管していた薬倉庫があった。最初は二人で宿
直を担当し、特に近くの海軍警備隊の食堂で食事ができるよう交渉をしてく
れたので、私たち二人はご飯の量が十分で、申し分なかった。
そのうち、ひとつの船の班員たちが全員離島に配置され、病院側でも本部に
日本人助手の長が少しだけ残り、各離島へ班員とともに派遣配置されたため、
私一人が責任担当となった。
同僚たちが去った後、20 日間ほどは草粥も心配せずに食べられたが、米が
なくなるといい、それも断たれてしまった。突然のことでぼう然としていた。
きまじめな私は薬倉庫を守る重責を負っているので、自給自足して生きてい
かなければならない。4、50m の距離に、双発対空機関銃部隊の射手が 20 数
人住んでいた。本島は焦土化され、食べられそうなものは何もなく、あちこ
ち歩き回ってつる豆の葉でも採取しなければならない。あまり長時間留守に
して倉庫に何か良くないことが起これば責任を免れない。だからあれこれと
気遣い苦しんだ。
これからは自分が食べものを探し、解決しなければならない。まさにさし
迫ったことだ。しっかりしなければならないと心の中で誓った。まず、すぐに
豆の葉で空腹でも満たさなければならない。倉庫の扉を閉めてあちこちせわ
しなく歩きまわると、幸いにも爆弾を免れ、いくらか残っている豆の葉が
145
あった。以前、誰かがむしり取ったところに新芽が出ていたのだ。しばらく
歩き回り、一日分になるかならないかのものを採取して帰った。一人で食べる
分の採取も困難でとても難儀なことだった。我が国の大豆の葉に似ているが
毒性がある。半日ほど煮て、一日以上水に浸して濾過してやっと食べることが
できる。
初めてのことが多く、とても忙しかった。塩ももらってこなければならず、
マッチがないので火種も作らなければならない。薪も多くの量を準備しなけ
ればならない。火種は消えないよう維持しなければならない。一日中神経を
使う。
豆の葉以外に食べるものは何もない。とにかく死なないよう無理やり食べ
るが、多くは食べられない。夜が明けるとすぐ東奔西走し、豆の葉を採るこ
とからあれこれやっていると、いつの間にか夕方になる。一度は蔓の葉が食
べられそうなので採って試してみたが、とうてい食べることができなかった。
日が経ち月が過ぎて、1 年以上の長い歳月を、何の栄養価もない草の葉だ
けでどう耐えてきたのだろうか。体の弱い私自身がふしぎによく耐えてきた
と思った。日増しに気力はおとろえ、健康は悪化し、気力が尽き果てている
のに、これから先、体を維持できるのかとても心配だった。同僚でもひとり
いれば、話し相手にもなり、おたがい相談すれば良い方法がみつかるだろう。
安心して歩きまわることができるから大きな助けとなりうるが、ひとり倉庫
に縛りつけられて大変だった。
ふと頭に浮かんだのが、カボチャを植えるということだった。なぜ、もっと
前に思いつかなかったのか。すぐに防空壕の周りに大きな穴を十数カ所掘り、
腐った雑草などをたくさん集めて入れた。そこにサツマイモの芽を植えるよ
うに、5、6 枚の葉のついたカボチャの葉芽を切ってきて植え、日光を覆い、
朝夕と汲んだ水を穴にやった。一週間ほどたつと根をはって成長していった。
毎日、朝夕に懸命に水を汲んでやり、心を尽くすと、20 日ほどで花が咲
き始めた。言うまでもなく花だけを見ても嬉しかった。これくらいならやが
て楽しみにしていたカボチャが食べられるから大成功だ。何も羨ましくはな
かった。朝ごとに水をやり、カボチャが実を結ぶ雌花が咲いたかどうか、子
細に調べると三つの雌花が咲いていた。蜂や蝶がいないので人工的に雄花を
摘んで交接をしてやれば 100%成功する。
146
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
数日後にはこぶしほどに育った。ある日、豆の葉を摘んで帰って覗くと、
こぶしほどのカボチャが見えず、空のヘタだけがあった。もしかしたら腐っ
て落ちたのではないかと思い、あちこち探してみてもなかった。盗まれたの
だった。一体こんなことがありえるのか。私は大きな期待をふくらませて、
全力を尽くして一ヶ月以上を育ててきたが、私の命のような食糧が盗まれた
ので、目の前が真っ暗になった。その近くには、25mm 対空機関銃射手し
かいなかった。彼らのしわざは明らかだった。私は悔しくてわきあがる怒り
に耐えきれず、隊長を訪ねて行った。周知のとおり、この近所には他に人は
いない。しかし、自分もまだ食べてもいないものを斯く斯くしかじかしたと
言ったら、何ということをいうのか、我が海軍警備隊員はそのような悪い行
動は絶対にしないと、盗人猛猛しくかえって大声で怒鳴られた。私が直接目
撃したわけでもなく、もし間違ったら大変なことになりそうなので、戻るより
なかった。
無駄な苦労をしただけで、期待も希望も水疱に帰しってしまい、ぼんやり
落ち込んでばかりいた。次善の策としてもう一度、最後の方法を試してみる
ほかなかった。日光にあたらなければどうなるかわからないが、交接すると
ともに地面を掘って隠すしかなかった。順にいくつかを埋めておいた。
半月ほどたっただろうか。気になって確認してみると、色は変だが腐らず
なんとか食べられそうだった。初めて捥いで豆の葉と煮て、たらふく食べた。
これならこれからも食べられると思った。数日後に次のものを確かめてみると、
どうしたことか?カボチャの蔓はめちゃめちゃで、カボチャの実はあとかた
もなく、空のヘタが残っているだけだった。蔓すら引っ張ってそっくり取ら
れていた。
世の中の無知でけしからんヤツらが、まともに食べることもできないもの
をこっそり盗んで行って、他人の生活を台無しにしたのだ。ことわざに 3 日
飢えれば塀を越えないヤツはいないというが、飢えて死にそうなのに、他人
のことまで考えられないのだろう。それでもひどい。もう万事休す。悪口を
いって怒りが収まるわけでもなく、呪って解決できるものでもない。いろい
ろ考えてもいい方法はなく、このままではもう耐えられそうになかった。運
命としては数奇な運命だった。振り返って考えてみると、弱い体なのに長
い日々を草の葉で、今まで忍耐と闘志で無難によく頑張ってきたものだと、
147
自らは誇らしかった。もうすっかり駄目になったので、ためらうことなく最
後に院長を訪ね、お願いするより方法がなかった。
すぐに本部に院長を訪ね、これまでの一部始終を詳細に話した。私としては
最後まで責任を果たそうと努力したが、日々に衰弱する体では到底耐えられ
ないから、交代して離島へ行かしてほしいと言った。骨と皮だけになった私
の格好を見て、まさに言うとおりだと、それほどまで苦しんでいたとは全く
知らなかった。とても苦労したんだから望みどおりいい島に配置してあげよう
と言ってくれた。
そのことを聞いて心がぱっと晴れるようだった。諺に善は急げとあるように、
私は行くついでに、木登りもできないし、現在の私の状況では、当分の間、
親友の同僚に頼らなければならないから、チャ助手がいるルクノール島 144 に
配置してくれるよう頼むと、即座にそうすると快諾してくれた。願いはかな
えられたのだった。
戻ってきて、一刻千秋の思いで知らせが来るのを楽しみにしていたある日、
豆の葉を取って帰ってきた夕方頃、偵察機は飛んではいたが静かだったのに、
空襲が突然やってきた。20 機余りの戦闘機が、薬倉庫のすぐそばにある機関
銃を目指してやってきたのだ。その対空双発機関銃が米軍機 13 機を撃墜した
にもかかわらず、これまで発見されなかったが、最近発覚したのだった。急
いで防空壕に入って避難していると、爆弾が落ちて爆発する音や機銃掃射など、
とても騒がしかった。
すぐにも頭の上に落ちてくるようで不安であったし、不吉でもあった。離
島に行くことになった今、よりによって…気分がとてもよくなかった。しばら
くして静かになり、無事に終わったと外に出てみると、暗くてよく見えなかっ
たが、めちゃめちゃになっていた。銃部隊は見えず、ガソリン車のレールで
覆って偽装していたのが、レールだけ逆になっていて、人は見えなかった。
翌日聞くと 22 人だった射手が一人を残して全滅したと言う。間一髪の瞬間を
私はまたひとつ越えた。
知らせを待つが、時間がかかるので焦ってきた。今か今かと待ち焦がれて
いたとき、看護長から本部に来るようにとの知らせが来た。病院の人事権は
看護長の担当だった。配置移動の知らせではなかったので、私は悪い予感が
144 Lukonor、ミレ環礁内にある小さな島。
148
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
した。間違いなく配置が変わったようだった。看護長を訪ねると予想通り
だった。
私が望む島に行けなくなった、人事配置が変更されたという。私としては
並大抵の困難ではなかった。すぐに院長室に院長を訪ね、看護長の話をしたら
「どういうことだ」といって、願いどおりルクノール島に送ってあげるから
少しも心配しないでいいと言った。院長はいつも私が任務に忠実であること
をよく評価してくれたのだ。すぐに発令するから数日だけ待てという。数日
後、本部から朝早くに日本人助手一人が訪ねて来て、自分が同行して案内す
るから、すぐに荷物をまとめて本部に行こうと言った。二人で急いで本部に
行った。
ルクノール島への配置と生活
院長から 1945 年 2 月 17 日付で待望のルクノール島配置の勤務発令を受け
た。院長に、配慮してくれたことに感謝して別れを告げた。院長からは特に
体に気をつけるようにとの切なる願いがあった。
ちょうど干潮時だから、案内助手と出発して終日歩いた。私はなにせ衰弱
した体だったので、すぐに疲れて歩くのが困難だったが、日本人の助手は元
気旺盛でよく歩いた。昼間は島と島の間がそれほど遠くなく、明るいので無
難に通過してきた。ところが私の疲れがひどくなっていき、泣きっ面に蜂で
よりによって距離が長いところを夜に通過することになった。私は初めてな
ので案内についていくだけだが、日本人助手は人の事情にはおかまいなく、
自分の力だけを信じ、早く歩けば十分に通過できると思って渡り始めた。
膝ぐらいの高さの水をかきわけてどれだけ歩いただろうか。日は暗くなり、
四方が海だから島がどちらにあるのか、どちらに行くべきなのか、何も見え
ず方向がわからなかった。海水は次第に上がってくる。早く歩こうとすれば
するほど、疲れた足は思うとおりに動けない。海底は平坦ではなく、石につ
まずいて倒れそうになってふらつく。そうすると遅れざるをえない。しだいに
水はへその下まで上がってくる。
案内が大変だという。〔満ち潮の時で〕いま水に入っているが、行き先はまだ
まだで、これではどちらも死ぬということだった。早く、早くとせかしながら、
149
足の長い彼が早歩きをすると、二人の間隙が離れていく。ついてこなければ
自分だけが生き残るという風なのだ。あきれて言葉もでない。
真っ暗な夜なので、深いのか浅いのか、どちらに行けばいいのかわからな
いのでどうしようもない。漠々とした。これまで飢えで死にそうだったが、
やっと生きる道を探して行くのに、運悪く途中でとんだ目にあうことになっ
たから、悲観もした。歩きながら、飢えでも免れようと若干の豆の葉と何着
かの服を入れた軽い箱すら、煩わしくて棄ててしまいたかった。もしこの峠
を乗り越えられなかったら永遠におしまいだ。精神一到何事か成らざらんと
いうが、死に物狂いになって最後の力まで使い果たし、胸まできた波をかき
分けてついて行った。どうやって行ったのか、まかり間違えば溺れて死ぬは
ずだったが、よくぞ難関を突破し、海ベの砂浜に到着した。またひとつ、思
いもよらず身震いするような、私が一生忘れられない思い出ができたのだ。
日本人助手は島に到着すると、ひやひやしたが幸い死の淵を無事に乗り越
えたと言って、これからはそんなことはないと言った。初めての道で無理を
したから疲れただろうと、ここでしばらく休んでいこうと言う。持ってきた
草の葉で飢えを満たし、およそ 20 分間休み、再び歩行を促した。夕方頃、
ルクノール島が見とおせる島から櫓をこぐ小さな船でルクノール島に到着した。
島に上陸すると、これですべてが解決したような気持ちになり、心が満ちた
りた。案内助手は自分の勤務地に行き、私は移動配置発令書を医務班に渡
した。
久しぶりに再会した親友の同僚たちは、喜んで迎えてくれたが、痩せ細った
私の体を見てびっくりした。とても苦労したのだろうといいながら、手を
とりあってお互いに感激の涙を流した。よく来たと言いながら、この島は良
い島だからすぐに回復するだろうと言った。仲間たちは顔色も良く、みんな
元気だった。その当時、医務班には朝鮮人 3 人、日本人 3 人、合わせて 6 人
の助手がいた。私たちは多くの死境を経験し、生死苦楽を一緒にした親友に
久しぶりに会ったので、する話も多く、夜が深まるのも忘れて友情の喜びを
分かち合った。
夜が明けるまで話をしてもつきなかったが、私は長旅で疲れていた。体を
引きずり強行軍してきたので、旅の疲れや病気もあり、緊張が解けたせいか
眠くなり、話は先延ばしにして横になってしまった。
150
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
翌日、私と交代でチルボン島 145 に転勤配置された仲間は、私と気が合う親
しい海南郡のチョ・スンホン〔徐淳弘?〕だった。会ってすぐに別れたので、
互いにとても名残惜しかったのだ。会えば別れは必然だが、あまりにもなご
り惜しく、涙ながらに別れ、また会うことを固く誓った。本島で院長に、故
郷の親友チャ・ドクファン〔曺徳煥?〕を指名したところ、忘れずに心にと
め、留任してくれた配慮がとてもありがたかったし、不幸中の幸いだった。
ルクノール島は小さな島だったが、ミレ本島に次ぐいい島だった。パンノキも
たくさんあり、他の離島に比べるとはるかにすべてが豊かな方だった。だが
生産に比べて人員が過剰であり、カボチャも植えていろいろ努力をしなけ
ればならなかった。ルクノール島の居住者は朝鮮人が 80 人ほど、日本人は
20 人ほどでほとんどが幹部級であり、先住民が 7、80 人だった。
私たちの日課は「チャガロ」の採取、食べられる草や木の葉の採取、薪作り、
海での魚捕り、などだった。「チャガロ」は、前にいったように、栄養補給の
第一歩で、生きていくのになくてはならないものだった。
親友のチャ君は、私の分として 4 本の木を選定し、自ら直接登り降りしな
がら 6、7 日の間、採取方法を詳しく教えてくれた。どんなに木が怖くて登れ
なくても、他人にだけ頼ることはできない。危険をいとわずチャ君のように
一生懸命練習して、数日後にはひとりで登ることができた。できるという自
信がついた。すべて親友のおかげだった。
ルクノール島では「チャガロ」を身分の高い人たちに供出するため、大量に
採取しなければならなかった。木を選び間違ったら、5、6 本の木に登らな
ければならない。チャガロを取る木は、事前に木自体に足がかりを彫ってお
かなければならない。そして朝、昼、夕の1日 3 回ずつかかさず、雨が降っ
ても風が吹いても鋭い刃で1㎝ほどずつ端を切ってやらなければならない。
一日一回抜いても駄目になる。並大抵のことではなかった。雨が降る時が一
番危険だ。
栄養補給には魚が一番だ。海に行って魚を捕まえなければならなかった。
私たち医務班は総動員で釣りに出る。干潮の時の島のうしろのリーフ(岩礁)に
行き、木の釣り竿に 4、5m の長さの糸をぶら下げ、釣り餌をつけて投げ
145 Chirubon、ミレ環礁内の小さな島の一つで、チェルボン島ともいう。〔海軍軍属個票には海南のチョ・スンホンに
ついては徐淳弘、長興のチャ・ドクファンについては曺徳煥がある。チョはソ、チャはチョの誤記と推定。〕
151
入れ、竿を握る手の感覚でチャンスを見極めなければならない。釣り時間は
3 時間程度だ。よく釣る人が 4、5 匹くらい。へたすれば 1、2 匹、まったく
徒労になることもある。大きいのは 20cm 前後だ。私も一行について 2、3 日
間通ったが、徒労に終わった。大きな海なのでよく釣れると思ったが、そう
ではなかった。2、3 日徒労ばかりすると、日本の同僚に申し訳なくどうも居
心地も悪かった。毎日出かけると要領がわかった。1 週間後からは成果があ
がった。十日ほど後には並ぶ人がいないほど釣った。運の良い日は 20 匹余り、
1 日に 10 匹程度は壮言できるぐらいになった。ある日には 57 匹の新記録を
つくったこともあった。そうなると私一人でも医務班はまかなえた。釣り
道士というニックネームまでついた。私は釣り専門として毎日、海に出勤
した。
本島では話友達が一人もなく、孤独で寂しく薬倉庫に縛り付けられて餓死
しそうだった。だがルクノールに来てからは優しい親友たちと話をかわし、
いろいろと同情もされ、学んだことも多く、衰弱した気力も回復した。体も
健康になり、すべてに自信をもち、活動するのに何の支障もなかったので、
改めて生きがいを感じた。ひとえに院長のおかげであり、本当にありがた
かった。
ある日のことだった。本島で仲のよかった薬剤室勤務の日本人助手が夜釣
りに行こうといった。夜間の釣りは大きいのが釣れるということだ。夜釣りは
個人自由だ。昼間の釣りは自信を持って自慢できたが、夜釣りの経験はない。
しかし友達なので経験のため一緒した。行く途中、「大魚はさておき、どちら
かが中間サイズの魚でも釣ったら二人で充分に食べられるだろう」と考えた。
はずんだ心で、膝ぐらいまで来る海水をかきわけ、20 分ほどは歩いたよう
だ。干潮になって、やっと 20 人ほどが立って釣りができる程度のところが
あった。先に来た 8、9 人が釣り糸を投げていた。夜釣りは釣り針も大きく、
釣竿も大きい。私たちもエサをつけて 15m 以上の釣り糸を投げ込んだが、
糸をつかんだ手に伝わる魚がつつく感覚が、とても微妙で思わしくなかった。
水が上がってくる前に一匹でも釣らなければならないと思っているあいだに、
隣にいる仲間がかかったといってゆっくり引きあげ始めた。かなりの大物の
ようだと言いながら、私を見て引っぱってみろという。引いてみると、小魚
ではないようだった。引き上げてみると、50 ㎝近くあった。この程度なら二
152
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
人でたらふく食べられるし、人に分け与えることもできた。寒かったので行
こうと言って、満足した気分で足どりも軽かった。
島に到着すると、海辺の砂浜で先住民に会った。月が明るい夜だった。
たくさん釣れたかと聞いたので、見てみろといった。見せるとびっくりする。
毒魚だから食べれば死ぬというのだった。いい気分がすっと萎えてしまった。
それでもう一度見てみると、フグのようだった。釣ったときにわかっていたら、
捨てて釣りを続けたのに…。ふたりとも魚については門外漢だった。次の機
会にいいものを釣ろうと思い捨てようとしたが、カボチャの肥やしにでもし
ようと宿舎に持ちかえった。
ちょうど日本人の同僚が出てきて、見せてみろといった。来る途中に原住
民から毒魚だから食べてはいけないといわれたので、カボチャの肥やしにで
もしようと持ってきたというと、なぜいい魚を捨てるかといって持っていき、
内臓を取り除いて灰の中に埋めながら、明日の朝に食べようといった。聞い
たところによると、離島のアニアシナ 146 で私たちの村の友たちの宣炳基が、
日本人 3 人とふぐを食べたが、日本人 3 人は無事だったが、宣君はまるごと
食べてかわいそうに中毒死したという。
翌日の朝、魚を食べに行こうというので迷っていたが、ついて行った。よ
く焼いた魚を持ってきて食べながら、心配しないで食べるようにという。ま
さかあの人たちは、死ぬことを知りながらも食べるだろうか。食べた経験が
ある人だろうと、白身だけを一緒に食べた。もちろんお腹もすいていたがと
てもおいしかった。毒魚は食べた後 15 分ほどで症状がでて、ろれつが回ら
なくなり、30 分もするとじたばたして意識を失い、1 時間以内に永遠に世を
去る。私は知らなかったので少し食べたが、不安で 15 分以上やきもきした。
30 分以上経過しても何の異常もなく安心した。
ルクノール島の医務班は、朝鮮人、日本人の差別なく家族的な雰囲気で仲
良く互いに協力し、不自由なく各自の任務を忠実にこなして暮らしていた。
そのような時、好事魔多しというが、ある日、本島の本部から思いもよらな
かった人員削減移動命令書が伝えられた。私とは本島から親しく、寂しいと
きはお互い慰めあい、遠慮なしに心から忠告してくれ、今も多くの協力をし
146 ミレ環礁内の一つの島を称するように見えるが、類似の島名は見つからない。Aneenwudej、Enajet、
Enewe、Eneaidrik のうちの 1 つのようだ。〔エネアニシナ島と推定〕
153
てくれているチャ君が、よりによって抜けてしまったので、片腕がなくなっ
たように心が痛んだ。長く一緒にいることができればよかったのに、上部の
指示だからどうすることもできない。あきらめて、お互い体に気をつけ、ま
た元気に再会できるようにと、惜別の念を残して別れなければならなかった。
もう一人は日本人助手だったが、夜釣りにも行った親しかった同僚とも離れ
るようになった。結局、私と親しい人たちだけが、抜けていったのだ。とて
もむなしかった。ルクノール島には日本人 2 人、全羅南道高興郡の趙玉済と
いう仲間、あわせて 4 人だけだった。
本島から初めて各離島へ配置された当時は、我が朝鮮人にも多少自由があり、
海に行ってダイナマイトを爆発させる漁法で魚を捕って食べ、食糧補充に
大きく役立った。しかし、毒をもった魚が多く、むやみに食べて多くの人が
命を失った。海の魚については初めての体験なので識別できず、極度の飢えの
苦しみで、魚を見ると気がおかしくなって食べようとしたのだ。
同僚の金ジェオクの話によれば、アニアシナ島では海辺に臨時漁場を作り、
魚をつかまえて食べたが、欲望のままにたくさん食べた人は 2、3 日苦痛に苦
しんでほとんどみな中毒死し、少しだけ食べた人は 10 日以上、半月間、死の
境をさまよった後、回復したという。自分が直接体験したもので、30 人は死ん
だだろうとのことだ。故郷の友人長興班の邊漢權班長によれば、アニアシナ島
駐在時、班員 2 人が中毒死した。事務室は邊班長に、死亡者の親指を切断し
て埋葬するよう指示し、これからは責任を持って取り締まって、不祥事が起
きれば責任は免れないだろうから、とくに注意するようにと言ったそうだ。
米軍は、ミレ島で食糧不足からやむを得ず各離島に分散配置したという情
報を探知し、救助船という名称で各離島の海岸線の後ろの海側を随時巡回し
ながら、拡声器をとおして流暢な日本語を流した。皆さんは何も食べ物のな
い島でどれほど飢えに苦しんでいるだろうか、餓死や変死といった無駄な死
に方をせず、騙されるかもという恐れでためらうこともせずに、皆さんは船
に乗れば生きることができるから、早く船に乗るようにという。米国は民主
主義国家として、まず人命と人権を尊重して重要視するから、皆さんの身分
を責任をもって保障する。現在、ハワイ収容所の数千人の捕虜の皆さんは、
お腹いっぱい食べて快適に元気によく暮らしている。皆さんはなぜ、餓死状
態に震えて苦しみながら無駄に死んでいくのか。一日でも早く救助船に救助
154
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され、ハワイに行けば食生活は
言うまでもなく、皆さんの健康
についても積極的に気を使って
世話をしているので、早く回復
してやすらかに暮らせる。
日本が敗北するのは明らかな
ので、これから帰国して懐かし
い親兄弟と再会したくないのか
と、執拗に宣伝をした。すべ
て興味深い話だった。一方で、
ハワイの収容所での捕虜たちの
生活状態、すなわち食事や洗濯
をし、運動場で運動する姿、娯
楽など様々な場面を撮影して、
戦闘機で各島に多量にばらま
いた。
それでなくても、おなかがす
いて気力が衰え、目の前が暗く
なって死にそうなので、船から
宣伝される事柄やビラを拾ってみた人で心理的に動揺しない人はいないだろ
う。いうまでもなく誰しも、心は揺れ動いた。
日本人たちは、捕虜を生かして世話するというのは真っ赤な嘘だ、一ヶ所
に集めてローラーで轢き殺すと悪い宣伝をする。私たちは捕虜について知ら
ないが、信じられない。私たちの見解では、日本が今後どのくらい耐えられ
るかはわからないが、勝算はなく、米軍の言うように敗けることは明らかだ
と思われた。
私たちは、日本の植民地の下で強制的に引っぱられ、労務者として強制的
に働かされた非戦闘員であり、国籍が異なる。たとえ捕虜になるとしても差
があるだろう。飢えに苦しんで餓死するよりも、むしろ船に乗るほうがいい
と思うのは、私たちみんなの共通の心情だった。泳ぎの得意な人はあちこち
で、数人ずつ海で魚を捕まえに行き、船に遭遇して乗った。このことが本島
ミャンマー戦線の状況を伝えるビラ(表面)
ミャンマー戦線の状況を伝えるビラ(裏面)
155
司令部に伝えられた。すると連隊長の大佐から特別指示命令が下された。各
離島にいる朝鮮人を徹底的に取り締まり警戒を厳重にしろということだった。
その後は島の要所、要所に監視所を設置し、一挙手一投足を監視し、活動を
制限して自由を奪った。そして、船に乗る気配が見えたり、行動が怪しい者
は射殺しろとのことだった。
海に出て魚でもとって食べなければ栄養補給できないのに、監視が徹底し
ているので、どうすればいいのかわからなくなり、生きる自信も失ってし
まった。日が経つにつれて身も心も大きな打撃をうけ、栄養失調で体力は衰
えた。不自由という障害物が生きる道を遮っているので、このままではどう
しようもなく、確実に死んでいくしかない。だとしてもじっとして飢え死に
を待てるだろうか。破れかぶれでどんな手段でも使ってみるべきだ。ことわ
ざに、10 人でも泥棒ひとりを捕まえるのはむつかしいと言うように、それほ
どまでに厳しい監視網を抜け、1 人、2 人と船に乗る人が増えていくので、本
部から伝えられたのは、少しでも逃亡を減らすように事前に朝鮮人を処置す
ることが、あとくされをなくす最も良い方法と言ったそうだ。
あまりにも恐ろしく想像もつかない。本島に残っている少数の高官たちは、
自分たちが食べていく非常食をどれだけ蓄えているかわからないが、私たち
の仲間の中でもっとも泳ぎの得意な 5、6 人を選び、漁師専門職として特別に
選定し、海に自由に出入りさせて終日泳いでタコを捕まえさせる。離島からは
「チャガロ」を供給され、たらふく食べているから不自由なく安逸な生活を
しているだろう。だが、各離島では食べるものがなく、自由を拘束されて
海にも出ることが難しく、飢餓と栄養失調で病気になって死んでしまう、こ
の悲惨な実状を知っているだろうか。その関心すらないだろう。彼らは、朝
鮮人は飢えて死のうが病気で死のうが関係なく、どうなろうとかまわないと
思っているようだった。
1943 年 11 月に米軍が上陸したら、直ちに日本軍に全員殺されたはずだっ
たが、米軍が撤退することで一触即発の死のふちを乗り越え、食糧切れで食
べられそうにない草の葉、木の葉などで腰ひもを引き締め、飢饉と苦難の逆
境を克服し、ようやく生命を維持してきた。しばらく静まっていたが、また
再び突然、〔朝鮮人を〕処置すべきだという不吉な声があちこちから聞こえて
きたから、胸をたたいて嘆かざるをえない。非人道的な行為も辞さない殺人
156
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
魔のような彼らが、〔米軍の〕船に乗るからという口実で、いつ何をするのか
わからないから、風前の灯火のような私たちの運命だった。戦々恐々の恐怖
と焦りで心穏やかな日はなく、生きる意欲すらなくなってしまった。
もちろん、当時、私たちは大きな希望や期待を持つことができない立場
だったが、ガリガリに痩せても、病気をせず、飢え死にさえしなければ、何と
か命だけは維持し、戦争が終われば、故郷に帰ることができるだろうという
かすかな希望のような願いがあった。今はそれさえなくなり、絶望感でうつ
病患者になり、精神は飛んでいき、肉体だけが動く無味乾燥な日々だった。
百聞は一見にしかずというが、その驚くべき現実を実際に体験したことのな
い人は、その心情は推察すらできないだろう。
私がいたルクノール島では、海辺の臨時監視所員が水平線に米軍船の船体が
現れたら、事務所に連絡して警戒の銃を撃つ。同時に朝鮮人を各防空壕に監
禁し、両側の門で銃を持って監視する。医務助手のチョさんと私は、先住民
6、7 人を防空壕に入らせて、手榴弾 2 個ずつを持って監視をする。きちんと
警備しろといい、脱出や逃亡をすれば投擲して殺害してもよいといわれた。
医務助手は朝鮮人でもいい役職であり、信任してくれたのだった。船体が完
全に消えるとはじめて警戒解除の銃が撃たれ、外に出て活動をすることになる。
警戒の銃声がしたのに、防空壕に入らずに歩き回っていると不審者として
引っぱっていかれ、銃殺される。
そして時間を問わず船が来る気配があれば、島の外に出ることを許さない。
離島の中でも、ルクノール島ほど杓子定規にこだわる島はなかった。重圧は
大変だったが、他の島よりも生産性が良かったので、互いに協力し、慈しみ、
よく調整し、飢えて倒れる悲惨さだけは免れた。しかし、あまりにも取り締
まりが徹底したため、船に乗る人は 1 人もいなかった。船に乗った人が 1 人、
2 人と増えれば増えるほど、島に残った人々に対する監視は厳しく激しくなり、
殺される恐れが増える。だからといって船に乗った人を恨み、叱ることは
できない。各自が生きるためには生きる道を探さなければならず、やむをえ
ないことだった。
どの島なのか覚えていないが、20 人余が居住している小さな島だった。
その島で機会に見て魚を捕りに行った人々が、ちょうど米軍船に会って船に
乗ったという。しかし島に残った人々にすぐに影響を及ぼした。残りの 15、
157
6 人を引きずりだし、1 人ずつ順に銃殺したが、最後の端に立っていた人が、
自分の前に立っていた人を連れて行こうとした瞬間、引きずり出されて死ぬ
のも、逃げる途中に銃にあたって死ぬのも、死ぬのは同じだと逃げ出したと
いう。飛んでくる銃弾を避けて逃げ、一目散に走って近くの島に逃げ、よう
やく神の助けで九死に一生を得た。隠れていて米軍船に救助されたそうだ。
実は実兄が一行と一緒に〔米軍〕船に乗っていた。血を分けた弟を置いて
自分だけ船に乗ったので、遠く離れた異域で生死を一緒にしなければならな
い兄弟なのに、自分が大きな過ちを犯したと後悔し、帰国しても弟に不幸が
あったら、どんな顔をして親兄弟に会うことができるのか、何といえばいい
のかと思った。生きたという喜びよりは憂鬱の心情で涙の日々を送っていたが、
意外にも弟が九死に一生を得て生きのび、米軍基地のマジュロ島 147 の捕虜
収容所で再会したため、その瞬間の喜びはたとえようがない。再会の喜びを
天に感謝して抱き合い、限りなく流れる涙を抑えられなかったという。
チルボン島惨事事件発生
1945 年 3 月 1 日だった。夜が明けるにはまだ遠かったのに我々の仲間の
一人が、ルクノール島の医務班を訪ねてきた。私はどうして夜も明けないの
に訪ねてきたのかと聞くと、彼は大変なことが起きたんだと。自分たちの
チルボン島で朝鮮人が日本人を捕まえて殺す事件が起こり、島がひっくりか
える騒動になり、こっそり抜け出し、海を泳いでルクノール島本部事務室に
報告しに来たと、何か良いことでもしたように恥じらいもなく言った。
私は聞くと同時に、ついに事件が起こってしまった。直感的に、我が同胞た
ちはおしまいだと思った。そうでなくても口癖のように、早く始末しなければ
ならないといっていたのに、理由はどうであれ、殺された者の多い少ないに
関係なく、日本人たちを殺害したことを口実にして、これを機会に私たちの
同胞を皆殺しにすることは当然という気がしたのだ。不安になる一方、自分
ひとり生きるんだという思いからか、手柄をあげようという魂胆からなのか、
147 マジュロ環礁、現在、マーシャル共和国の首都である。〔以下、チルボン島事件を 3 月 1 日と記している
が、海軍軍属個票と米軍の救出記録では 3 月中旬である。〕
158
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
島を脱出して泳ぎ、同族を裏切って日本に忠誠を誓い、日本の手先になって
報告しに来た。それにより、第一にチルボン島にいる 120 人ほどの私たちの
同胞はなすすべもなく死ぬことになったのに、そのような裏切りを受けいれ
ることができるだろうかと思った。しかし今の現実は、それを明らかにする
時ではなかった。第二に死が私たちの目前にやってきているからだ。
死ぬ時がくれば死ぬにせよ、命がある間はまず食べなければならない。
私は朝早く起きて歩き回りながら「チャガロ」の採取を終えて帰ってきた。
そこで日本人助手が銃を手入れしていた。何も知らないふりをして何かあっ
たのかと聞くと、今日は出張に行かなければならなくなり手入れをしている
という。
ちょうどその時、ルクノール島に施設部工事主任の桑下大尉が出張してきて
滞在中だった。海が干潮になれば、チルボン島まで1時間あまりの距離だ
という。しばらく後に、潮に合わせて日本人 15、6 人が完全武装して機関銃を
先頭に、大尉は中央で拳銃を携帯して出発した。チルボン島の私たちの仲間
たちが全滅させられるのは明らかだった。
私はまもなく迫ってくる不幸を目前にして、これまであらゆる苦労をしながらも
生きてきたのが無駄になったようで、人生があまりにも儚くてむなしく痛ま
しかった。なんとか生き残る手はないか、一人でじっくり考えてみた。神出
鬼没の才能があったとしても、どこへも行けない手のひらのような小さな島
では、まったく役に立たないだろう。このような不祥事が起きたのが恨めし
かった。私たちの生死は日本海軍の連隊長の意思によって決定されるだけ
だった。
私は不安な心もちで一般班員を訪ね、チルボン島でこのような事件が発生
したので、周知のように私たちも間違いなく無事ではすまないという話だけを
した。誰かと議論したとしてもいい方案ができるわけではないが、錯雑で沈鬱
な心境であっても、話友達でもいて話ができればいい。だが、仲間の趙さんは
二人きりの時も、なぜか一言もしゃべらず、少しも落ち込んだり心配したり
する気配もなく、対岸の火事を見るように平然と落ち着いているようだった。
私とは見方や考え方が違う。誰かが船に乗ったという噂を耳にすると、
こんちくしょうめ、船に乗れば生き残れると思っている愚か者め、といい
ながら悪口をいう。日本人をあまりにも過信して判断を誤っているのではない
159
かというのが、私の推測だった。医務助手だといって信任され待遇はよいが、
いざとなれば、袋小路で朝鮮人全体に不幸な事態が生じたときには無事では
すまないことは、火を見るより明らかだった。一緒にいながらも相手の本心
がわからず、むやみに苦しみを訴えるようなことを言って日本人に伝われば、
死を早めることになる。非常に親しい人でなければ、苦しみを訴えるような
話は絶対にしてはならない。そういう点からみれば、私たちは協同団結心が
薄いというしかなかった。私は窮余の策で、どうせ死ぬのなら「チャガロ」
の刀で一人でも刺し、復讐をして死ぬのがいさぎよいのではないか、あれこ
れと煩悶し、終日落ち着かなかった。
太陽が沈む日暮れころに彼らが帰ってきた。我々は状況を聞くこともできず、
彼らの動きを察するだけだった。日暮れになったので今日はそのまま終わる
かもしれないが、明日になれば何らかの措置があるのではないか。ともかく
各離島に分散している我が同胞の百余名の運命は、本島本部の海軍大佐連隊
長の指示にかかっている。各離島で事件のニュースを聞くことができない
人々は、ほとんどが知らないことだろう。ルクノール島の私たちは、その日
の夕方を無事に静かに終えた。
3 月 2 日、夜が明けると、心がそわそわして居ても立ってもいられない。
すばやく行動すれば、必ず何か起こりそうであり、ひやひやした。一日中
イライラした心境で、なんとか悪いことが起こらず無事に過ぎた。そうだと
しても安心はできない。通信網がない。本島から徒歩で連絡を取るのに 2 日
以上かかる。翌日も何ごともなく無事に過ぎた。そのように心配した私たち
は、6、7 日目を変化なく無事に過ごし、8、9 日目でさえ静かに過ごした。
これくらい日時が経過すると、なんとか幸いに、わからないうちに乗り越え
たようで少し安心した。
これまで彼らの犯した行為から不信を持ち、考えすぎたのかもしれない。
良心的な人道主義者たちの留意で一時的に保留したのかもしれない。8、9 日
間、私たちは働く意欲もなく、食欲も落ち、血がカラカラに乾き、限られた
人生の無味乾燥した日々を送った。
生死がどうなるのか。死ぬことになりそうでやきもきし、心身ともに受け
た苦しみは言いあらわすことができない。体験しなければ想像もできないだ
ろう。これによって寿命が 10 年は縮まっただろう。
160
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
チルボン島事件の動機と事後処理
いつも差別され、朝鮮人、半島人だといって見下され、あらゆる蔑視と屈
辱を受けながら、骨が裂けるほど過酷で強圧的な労役をさせられてきた。だ
から彼らに対する敵意と嫌悪感が増し、関係は良くなく、切歯腐心の恨みの
対象になった。
朴鍾元(パク・ジョンウォン)氏の話によれば、ある日のこと、思いもよ
らず宿舎に来た日本人がクジラの肉だといって、気前よく置いていった。お
互いの関係は良くなかったが、おそらく大きな肉を手に入れたので少し分け
てくれたようだった。とてもお腹がすいていたのでよく食べたという。
数日後、朴鍾元氏は仲間数人と魚を捕りに通う小さな無人島に行ったが、
目を開けては見られないほど残酷に殺された死体があったそうだ。身の毛が
よだつようだったが、おかしいと思って子細に見ると、顔がわかる、知って
いる私たちの仲間だったという。屠殺場で牛や豚をつぶすように、人肉を
えぐっていったらしい。その惨状を目撃した一行は、直感的に前日のこと
が頭に浮かび、驚愕とともにあきれ果て、歯が震えて言葉を失ったという。
どんなに凶悪無道なヤツらであっても、生きている人を殺して食べ、クジラ
肉だと平気で騙して仲間の人肉を食べさせるなんて、世の中にこんなことが
あり得るだろうか。この衝撃は言葉では言いあらわせない。ヤツらのしわざ
であることは明らかなのに、証拠がないのでどうしようもない。湧き上がる
怒りを抑え、絶対ひとりで海に出ないよう、各自で特別に警戒し注意するよ
う強調したという。
その数日後、その一行が魚を捕りにその島に行ったが、またそのような死
体を見つけたという。この獣のようなヤツらが生きている人間を捕まえ、飢
えた腹を満たすために食べ物にするなんて、これはひとえに敵対行為だ。そ
の一方で、恐怖が先立ったという。このまま黙って放置しておいては、今後、
どれだけ私たちの仲間が犠牲になるのかわからない。もう我慢しようとしても
我慢できないところまできた。宿舎に戻って実情を知らせ、高齢者の団長を
はじめ覇気のある金哲男(キム・チョルナム)、朴鍾元ら若い闘士たちが主体
となり、私たちの生存権の正義に基づく正当な抗議として、最後まで闘争を
するしかないとの結論になった。死を覚悟し、日本人を倒す決起の日を決めた。
運良く無事成功すれば、米軍機や米軍船が来たとき、白旗をあげて救助して
161
もらって船に乗ることにしたという。
チルボン島だけは朝鮮人側で小銃 3 丁を所持していたが、銃弾が数発
しかなく、日本人と直接相対することは不可能で、充分考えた末、夜間を利
用して最も悪質な者から一人ずつ森の中に誘い出し凶器で殺すことにした。
1945 年 2 月 28 日の夜間に実行に移したという。
いくら緻密に考えた方法でやるとしても、人を殺害することは容易なこと
ではなく、7 人ほど殺したところで島がひっくり返るような騒ぎが起きて、
残った日本人はどこかへ逃げてしまい、暗い夜だから探すこともできなかっ
たという。その当時、チルボン島には朝鮮人が 120 人ほど、先住民が 10 人
ほど、日本人 11 人が住んでいた。
3 月 1 日、ルクノール島に連絡しに行った人がいるとも知らず、夜が明けたら
全員が米軍救助船に乗って行くことを前提に食べて行こうとし、「チャガロ」に
カボチャなどを手当たりしだいもいで急いで食べ、ひたすら船が来るのを
待った。しかし船は来ず、近くの島で突然機関銃の音が騒々しくなると、
びっくり仰天してうろたえ、窮地で自分を見失い、あるいは助けてくれと手
をあげて出ていく人もおり、徒手空拳だから抵抗もできず、海辺に逃げたが
行くところがあるだろうか、死ぬ外はない。首謀者たちは 2、3 丁の銃で対抗
してみたが、まわり全てが敵で、弾丸もなく相手にならなかったので諦めた。
首謀者として所期の目的が失敗に終わり、罪のない班員を犠牲にさせた責任
を痛感し、日本のヤツらの手にかかって死ぬよりむしろ民族の精気と気迫で
堂々と死のうと、ダイナマイトの代用品の発破で 5、6 名が抱き合って自爆
し、悲壮な最後を遂げたという。
日本人たちは飢えた猛獣のように手当たりしだい殺害し、丹念に銃剣で生
死を確認していきながら、掃討作戦をしたという。その阿修羅場でも天の助
けで生き残った人は、120 余人中、負傷者 2 人合わせて 15 人だったと朴鍾元
氏は証言した。
首謀者の一人だった朴鍾元氏は、やっと椰子の木の上に登って身を隠した
ためみつからず、九死に一生をえて、生きて帰郷し、生き証人として一部始終
を証言した。先住民の 15 人も加担したとして殺されたという。ルクノール島
からは武装した日本人が引き潮に合わせて来たので時間的に余裕があった。
米軍の船がもう少し早かったら全員が無事だったのに、残念ながら運が悪
かったのだ。
162
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
血を同じくした我が民族が、この世でありえないような殺人魔の蛮行のさ
なか、憤激のあまり反抗して生死をかけた行動で、日本人 7 人を処断したが、
残念なことに私たち仲間 100 人余りが虐殺されてしまった。故郷の親兄弟た
ちは、昼夜を問わず無事に生きて帰ってくるのを祈りながら待っていた。い
くら待っても戻ってこない息子や兄弟が、どこで死んだのかさえ知らない。
だから、そのいたましさは言葉では言い表わせない。命がある限り決して忘
れられないだろう。
オホラ~、悲しくて、悲しくてたまらない。地面を叩いて嘆き、哀悼し慟
哭しても、骨身に染みた恨みはとけない。無名の勇士たちが惜しくてかわい
そうであるばかりだ。
実に当初、日本のヤツらによる災いからの抗争だったが、不幸にも反対に
チルボン島の我々の仲間だけが全滅させられた。
事件後に直接会うことはできなかったが、聞いたところによると、事件当
時、とびかう銃弾の真っただなか、銃で撃たれ倒れた人とともに、驚きの余り
倒れてひたすら死んだように横たわり、息もまともにせず、このままうまく
いけば生き残れるのではないかと思ったそうだ。すると日本のヤツら二人が
確認しながら銃床でぐいぐいつついて、こいつ生きているようだからもう一
発ぶち込んでやろうかという。ああ、こんどはまちがいなく死ぬんだと胸が
痛んだが、もう一人がいうには、これくらいなら死んでいるだろう、銃弾の
一発でも無駄にせずに行こうといったので、すんでの所で死を免れ生き残っ
たという。
私とは同郷の親友である長興班の邊漢権班長が、ルクノール島に駐在し
ていた当時、3 月 1 日のチルボン島事件の翌日の朝、事務室の方から銃声が
聞こえたという。そうでなくても事件のために生きるか死ぬかわからない、
戦々恐々とした不安なところなのに、不吉な思いで忍び足で事務所の方に
近づき遠くから見ると、事務所の横に穴を掘って、顔見知りではないが 16、
7 人の私たちの仲間を集合させ、一人ずつ引きずってきて銃殺していたという
のだ。野獣のようなヤツらが予想どおり朝鮮人の皆殺し作戦を始めたようで、
目の前が真っ暗になり、体が震え、何も考えずにあわてて宿舎に帰り、班員
にその状況を話すと、みんな青ざめて言葉を失い、じっと互いの顔を見つめる
だけだったという。みんな今まで幾多の逆境にも耐えてやっと生きてきたが、
163
もう最後だと思うと絶望でいたたまれなくなった。どれくらい時が過ぎたの
だろうか。銃声がやみ静かになった。しばらく後に気になって探ってみると、
チルボン島事件で海岸や海に逃げた人たちを、あなたたちには罪がないからお
となしく言うことをきけば見逃してやると嘘をついて誘い、ルクノール島まで
連れてきて射殺したことがわかった。ひとまず安心したという。
私は 1945 年 2 月にルクノール島に配置され、ただちに急を要するのが食
生活であるからとそれに熱中していた。だから一般の班員と接触する機会が
なく、どの班員が住んでいるのかわからず、とても親しい邊漢権氏とも同じ
島にいながらわからなかった。帰国してから、邊氏がその当時に体験したこと
などを詳細に証言し、それによって知ることになった。その当時私たちは、
今日は生きているが明日はわからないという、阿呆のような生きざまだった
のだ。
チルボン島事件の 10 日ほど後だっただろうか。本部から、邊班長に班員
7、8 人を、責任を持って引率し、チルボン島に行って死体を片づけるよう指
示があった。朝鮮人だけを送ることができないから日本人も配置すると言った
そうだ。そして今後、徐々に多くの人員を配置するだろうという。邊氏が
班員 7 人、日本人 11 名と一緒に現場に到着すると、初めて入った細い道に最
も多くの死体があり、その凄まじいありさまは、とても見られたものではな
かったという。死体は腐敗するままにほっておかれ、ブクブクに膨れて無茶
苦茶で、ハエの群れが飛びまわり、悪臭で鼻を出すことができず、手がつけ
られない状態だったから、どうすればいいのかわからなかったという。ほん
とうに大変だったらしい。今すぐに食べ物も用意しなければならず、あれこ
れすることで余裕がないのに 7、8 人の人員で多くの死体に引き続いて関わる
こともできない。だから、〔死体が〕少し多かった場所に押し込んでおおまか
に片付けたが、それでも森の中までは手がつけられず、そのまま放置したと
いう。
私たちは、広い太平洋の離れ島で恨みの 3 年数ヶ月の歳月をどのように生
きてきたのかを、振り返って考えてみる。人間の差別、抑圧、殴打、過酷な
強制労働、ことばでは言いつくせない恥辱と蔑視を受けて、数多くの死線を
みんなで乗り越えてきた仲間ではなかったのか。本当にかわいそうな仲間た
ちだ。特にチルボン島の同志たちは不義に対抗する気高い闘志で、私たち皆
164
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
に代わってやむをえず闘い、虐殺され、非業の死をとげた。だが、彼らは命を
すてて忠義を守った同志たちだ。
同族として適当な場所を選び、地面を掘って埋葬し、帰れない霊魂を安ら
かに眠らせるのが当然すべきことなのに、その当時、私たちは明日を約束
できない失意の中にあった。無駄に一生を過ごす精神病患者のように、すべて
のことに気をつかう力すらなく、その日その日が過ぎればよいというその日
暮らしの人生だった。だからそれができなかったのが残念だ。
その後、親友の邊氏は、過去を振り返り、本意ではないがあまりにも粗末に
扱ったのが気になって申し訳なく恐縮するばかりだといった。そうしたことを
体験しなかった人は理解することができず、同じ民族として無情でひどいという
だろう。
ルクノール島脱出の決心と実行
チルボン島は処理後、順次、別の島から人員を連れてきて補充した。人員が
増えるにつれ船に乗る人も増えた。一時も気が休まらず、気の合う何人かの
班員たちと船に乗ることを示しあわせ、機会を狙っていたある日、先に船に
乗った松各〔ママ〕同志が、明日ある島に船をつけるからそちらに来るよう伝
言したという。
次の日、邊班長はみんなを見て、このような機会は逃してはいけないか
ら急いで行こうといって、魚を捕りに行くふりをして危険を顧みず行った。
だが指定された島を間違え、反対側に行ってしまい、あてが外れたという。
1 分 1 秒が惜しいのに時間をむだにして遅れたので焦り、再び方向を変えて、
深いところでは泳ぎ、水のなかでもがいて死にそうになりながらも、ようやく
船に出会った。幸い落伍者もなく救助船に乗り目的を達した。
チルボン島の処理後のある日、島に駐在している私とは親戚になる同じ村の
人が、本島本部に連絡にいく途中、私を訪ねて来て、日本のヤツらが馬道章
(マ・ドジャン)班長を銃殺したという。理由は、多くの班員たちが機会をみ
て船に乗ったが、馬班長はひどく心が落ち着かず、心細くて、ただ服を着替
えて島の中を歩き回ったのが怪しいとされ、朝の朝礼のときに引っぱってき
て、みせしめに班員たちの前で銃殺したという。馬氏は故郷の友人で性格は
165
穏やかで正直で、班員たちに尊敬され評判のいい人だった。ちょっとした間
違いで惜しい人が日本のヤツらに不本意に虐殺された。
一方、チルボン島事件の時、無人島に逃げて幸い捕まらず、生き残った人が
いた。彼はタコの木 148 の下でじっとしており、夜になれば海辺に出て貝などを
とって食べ、深夜にはときどきチルボン島に渡り、みんなが寝ているすきに
食べ物を盗んで食べ、やっと生きのびたという。班員たちは盗む人はいない
のに、しばしば盗まれるから不思議だと思っていたという。
いつだったか。無人島の方に魚を捕りに行ったが、一瞬確かに人がちらっと
見えたが、すぐにいなくなった。不思議に思ってその付近をさがしてみたが、
見つからなかった。その後も魚を捕りに行く際には調べてみたが、痕跡はな
いということだった。しかし、たびたび盗まれるので間違いなく無人島に人
が住んでいると思った。意外に 8 月 15 日に日本が降伏し遠からず帰国する
ことになったが、私たちの仲間一人が無人島に住んでいることを知りながら
そのまま帰ることができず、本格的に探索をして結局発見した。彼はタコの
木の下に穴を掘り、入るときはタコの木をめくって入り、引っ張るとすっか
り覆われてわからないようにして、寝起きしたという。6 ヶ月の間、昼は穴
の中で日の光も見られず、食べることもまともにできなかったから、並大抵
ではなかっただろう。体はすごくやせこけているが、ひげと頭の髪はのびて
その姿は人のようではなく、やっと生きながらえている格好が、痛ましく哀
れだったという。捕まれば死ぬという恐怖でぶるぶる震えながら、命は助け
てほしいと手を握って哀願したという。
もう日本が戦争に敗れて降伏したので、私たちは解放されてすぐに帰国する
ことになったから、安心して一緒に行こうといっても、信じられないのか、
ずっとどうか助けてくれと哀願ばかりしたという。だからといってほっておく
こともできず、これまで探してきたということもあって、粘り強く説得をして
無理に引きずるようにして、一緒に故郷へ帰ってきたという。
私は病院の伊藤えいじ院長が、一生忘れられない恩人だった。私が本島の
ミレ島から離島に交換派遣してほしいと言ったとき、人事担当の看護長が配置
計画を変え、私が望んでいた場所ではなくチルボン島に私を行かそうとした。
148 タコの木、学名 Pandanusboninensis の熱帯植物。果実はパイナップルと似たような形で食用に利用でき、
最初は緑で熟すと明るいオレンジ色あるいは赤色になる。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
それで改めて懇願したところ、私が望むルクノール島に配置してくれたから、
生きて故郷に帰れたのだ。私のような人間がチルボン島に配置されたならば、
まちがいなく死んだだろう。
私は生きて帰ったが、親しい友人の同僚を失った。ルクノール島から交代で
チルボン島に配置された同僚のチョ・スンホンは事件で犠牲になったのか、
捕虜生活したとき会えなかった。もっとも事件前に 1、2 回移動配置があった
から、必ずしも犠牲になったと断言はできないが、万一その島で不幸に遭っ
たなら、生き死には運命だとしても、私のかわりに犠牲になったのだから、
罪責感でいつも心が晴れない。
ルクノール島はいい島なので、食生活の大きな助けとなった。私たち医務
班は、私が釣り上手であり、毎日釣りに行くのが私の日課であった。私一人
でも私たちの仲間を十分に充たすことができ、栄養補給になるので、食べる
ことにとらわれる心配がなかった。しかし、各島でいくら厳重な警戒で徹底
的に取り締まっても、船に乗る人が増えるのはどうしようもない現実だった。
不吉なことばかりが聞こえてきた。医務助手だからといって、日本人が信任
し、待遇をよくしてくれても安心はできない。
私たちは朝鮮人だ。いつも不安でひやひやし、気楽ではない。私の考えは、
船に乗ってこそ不幸をまぬがれるということだ。しかし、泳げないので簡単
なことではなく、自信がない。条件は良い方で、共に生きていく人間なので
同調者さえあれば簡単に成功できるのにと、一人で悩んでばかりいた。いた
ずらに先のことが心配になり、焦った。
ある日の午後だった。地平線に船が現れたようだった。警戒の銃声が響い
た。以前のように、一般の班員は防空壕に監禁され、日本人が守備をして、
趙さんと私は先住民を監視していた。実は朝鮮人と先住民とは相通じるとこ
ろがある。その日に限って風はまったくなく、いつもは波が高い内海も穏や
かだった。防空壕にいる時間がどれくらいたっただろか…。突然、船からの
軽音楽の音が静寂を破り、防空壕のすぐそばで聞いているように聞こえてき
た。防空壕の扉からちょっと外海を眺めると、島の正面に船が止まっていた。
その音楽が、わびしいからなのか悲しいからなのか、これまで感じられな
かった心の変化を起こし、人の心を溶かすのだった。知らず知らずに涙がふ
きだした。いくら抑えて落ち着かせようとしてもダメで、すぐには抑えられ
167
なくなった。いくら我慢しようとしても我慢できず、先住民を見るのもバツ
が悪く、趙さんに行くとも言わずに宿に戻って横になった。それでもずっと
涙がとまらず、本当に奇妙なことだった。すると解除の銃声がした。趙さん
はむせび泣きながら入ってくると、すぐ船に乗ろうという。日本人の助手は
まだ帰っていない。船に乗った人の悪口を言って憎んでいた人だったが、あ
の音楽が 180 度心境を変化させたのだ。
私は思いもよらない突然の言葉に、ほんとうにそう思うのかと聞いた。う
そだと思うのかといいながら、さらに船に乗るにしても一緒に乗り、生死を
共にしようと誓うのだった。久しぶりに同調者を得たので、これほどうれし
いことはなかった。二人が力を合わせれば無事に成功できるだろう。それま
で一人でじれったく苦しむばかりだったので、新たな勇気が湧いた。これか
らは死ぬにしても、生きるにしても心をあわせ、本格的に船に乗ることに専
念するのだ。先に述べたように条件はよいが、どちらも泳げないのが大きな
問題だった。だからといって命に関わる問題なので、ぞんざいにはできない。
真心をつくせば天に通ずるというが、精一杯努力すれば良い成果が得られる
だろう。
これまでは、米戦闘機が各離島を一日に 2、3 回、通り過ぎるだけだったが、
数日前から殺傷弾を投下し、機銃掃射を猛烈に浴びせた。海に出ると隠れる
ところがないのでこのうえなく危険だ。日本人の助手たちは空襲が怖くて、
釣りをあきらめてしまった。私たちは船に乗る気だから、危険でも出て行
かなければならず、むしろ障害物がなくなったのでよかったわけだ。私は
ひょっとして疑われるかももしれないと思って、日本人の助手に、私たちは
栄養の補給をするため魚を食べる必要があるから、用心して二人が出て少し
でも捕ってくると言うと、私の腕前を知っているので大賛成した。趙さんは
釣りの技量はゼロだった。
船に乗るためには、船が都合よく来なければならないのだが、それは容易
なことではなかった。以前なら安心して実力を発揮できたのに、空襲に備え
て釣り糸を海に投げ、いつ戦闘機が現れるかと目と耳をとがらせ、精神を集
中して四方八方を注意していた。すると釣り竿に対する注意がうすれ、釣り
がまともにできない。うまくいっても 7、8 匹しか釣れない。それくらいでも
食べるに足る量にはなる。
168
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
もし戦闘機が、人がいることを先に探知すれば、十中八九やられてしまう。
私たちのように泳ぐことができない人はなおさらだ。戦闘機が現れ、顔だけ
を出していると、頭上を稲妻のように通り過ぎるのだが、乗っている二人の
顔がはっきり見える。胸がどきどきする。なにせ早いので人がいるのが見え
ないようだ。私たちは船に乗ることが目的だったので、毎日通い続けた。い
ざ船に乗ろうとすると頻繁に来ていた船がまれになった。来ても私たちと都
合が合わない。そりゃそうだ、世の中が私の思いどおりになるはずがない。
粘り強く努力しなければならない…。
日が経つにつれ、空襲の回数が増えたので、魚の収穫は減少せざるをえない…、
だからといって、1、2 匹とか、収穫なしに帰ることはできない。収穫もなく
毎日出かけると怪まれると思い、釣りにも神経をつかって 5、6 匹程度は持ち
帰らなければならない。宿舎に帰って日本の同僚に、今日は空襲がひどくて
とれなかったと言えば、これだけで十分だと言い、危険なのにご苦労だった
と賞賛までしてくれる。
私は危うく船に乗る前に死にそうになったことがある。ある日の夕方だっ
た。その日も船が来て、いつものように防空壕で解除の銃を聞き、急いで外
海側にある椰子の木に「チャガロ」を採りに行った。よりによってその多く
の木の中で運悪く爆撃を受けて砕けた木があった。一番たくさん取れるいい
木だったので惜しかった。ふと外海を見ると、いつの間に来たのか、思いも
よらない船が正面に止まっていた。その時、事務室で銃を鳴らした。私は宿
舎へ帰る途中、偵察にきた工員に出会った。つい先ほど解除の銃が鳴ったので、
「チャガロ」を採りに行ったがかくかくしかじかで帰ってくる途中だ、警備員
たちは船が島にまで来るのも知らず、いったい何をしているのかというと、
工員たちは「クソ野郎、勤務怠慢だ」といって警備員のいる方へ行った。
私が帰ろうとしているとまたひとりの工員に会った。すぐに、船に乗ろうし
たのではないかと問いただされた。私はそうではないとあれこれ言い訳し、
ある工員と一緒にいて帰る途中だといってが、頬を 5、6 発殴られた。殴られ
て呆気にとられた。
事の正否を問わず無条件に一方的に殴られたから、悔しくてたまらない。
でもそんな時に抗議してみてもいいことはない。後になって、船が目の前に
来ているのに歩き回って疑われないほうがおかしいと思い、次からは気をつ
169
けるようにという。宿舎に戻って日本人の同僚に会い、あれこれしたと話し
たら、急ぎすぎるからやられたのだという。そういえば急ぎすぎると時には
病気になり、禍のもとになることもある。とにかく、医務助手という有利な
職責によって朝鮮人でありながら極刑は免れたのだ。
二人は船に乗るために、飛行機に追われて倒れ、怪我をしながらも危険を
ものともせず、15、6 日間粘り強く通った。たまに船が来ても私たちと時間
が合わず、私たちが釣りに行く所には一度も船が来ることはなかった。ひど
い苦労ばかりして疲れる。時には失望も落胆もした。だとしても諦めること
はできない。目的を達成するまでは、万難を排して行かなければならない。
そうするなか、その日も戻る途中、いつかは会う日があるだろうと思いな
がら、ルクノール島から 7、8 分の距離にある島の浜辺に到着すると、日本人
と先住民の二人が魚を獲りに来ていた。先住民がたくさん獲ったのかと言い
ながら近づいてきて、そっと、少し前に地平線に船が見えたと耳打ちしてく
れた。私たちはその言葉を聞いて迷った。船がこちらに来るかもしれないが、
満潮のため外海には行けないから、内海へ釣りに行くふりをして待って見よ
うかとも思った。日暮れまで時間はあまり残っておらず、かといって日本人
に怪しまれればおしまいなので、今日はこのまま帰ろうと思った。帰りなが
ら私は、明日も機会がこないのではないかと心配が先に立った。今日、船が
水平線に現れたから、明日は必ず私たちが島を抜け出る前に船が来そうで、
気持ちは焦ってそわそわし、なかなか眠りにつけなかった。
翌日、夜に寝そびれても早起きして「チャガロ」をとり、草の葉とともに
朝の食事を終え、今日は早目に船が来そうだから早く行こうというと、趙さん
が横になって、とても疲れているから今日一日休もうという。それもそうだ。
船に乗りたい一心で、空襲であちこち追いまわされ、足は傷だらけで心身ともに
疲労が重なり、死にそうだった。私は昨日先住民から聞いたことからして、
すぐにも船が現れそうな予感に心がはやった。少しの猶予もできないとても
貴重な時間にもかかわらず、無関心なのにあきれた。
「どういうことか、今日は必ず船が来るのに、これまで船に乗るために多く
の苦労をしたのに、絶好の機会を逃して無駄にさせることができるのか。強
い意志と闘志でやり遂げるという信念がなくては、まったくの無駄骨になっ
てしまうだろう。勇気を出そう。」
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
そういって勧めると、じゃあ漁労券をとってくれという。私は早足に事務
所に向かい、事務所でも昨日のことがあっただけに、すなおに漁労券を出し
てくれるか心配になった。幸い何も言われず受け取って、宿舎に戻って釣り
竿と魚籠を手にして同僚たちに行ってきますというと、注意して行ってこい
という。
早く行こうと早足で 20 mほど来た時だろうか。飛行機の音は聞こえなかっ
たのに、突然機銃弾が飛んできた。恐怖で転がるように低いところに伏せて
いてから、釣り竿を探していくところ、いつの間に引き返してきたのか、ま
た機銃掃射を浴びせられた。それでなくても一刻が惜しいのに時間が遅れた
ので、米軍機が憎らしく体が熱くなった。
二度もひどい目にあってからしばらく行くと、偶然に病院院長と現場主任
が一緒に巡視しているのに出会った。私は院長のおかげで生きることがで
きたから、院長に会って本当に嬉しかった。久しぶりですと挨拶をすると、
しっかり手を握って元気かと聞く。院長先生のおかげでこのように回復して
元気だと言うと、本当によかったと言った。魚釣りに行くかというので、魚
を食べなければならないので毎日釣りに行っていると言うと、心の内も知ら
ず本当に良いことだと褒めてくれた。ほんとうは恩人の院長に久しぶりに
会ったので、じっくり話でもできればいいのだが、私たちとしては今話をし
ている時間も惜しいので、心の中ではあせってたまらない。私たちは先が気
になるので、早く行って来てお話しますと言ったら、頑張ってこいという。
急いで島端の警備所に行くと幸いにも船は来てはいなかった。警備員に漁
労券を提示し、氏名と時間を記録した。警備員は、今日は船が来そうだから
遠くに行かないようにと言う。私は知らないふりをして、そうとわかってい
たら宿舎でじっとして休んでいたのにと言いながら、せっかく出てきたのだ
から、近くで釣ってみると言って、向かいの小さな島で釣りエサをつかまえ、
次の島でさらに補充した。釣りのエサを捕まえようと歩き回ると、完熟した椰
子の実が二つもあった。拾って食べてばれると半死の目にあうというコプラだ。
私は見張り、友達が皮をむいてコプラをまるまる一個ずつ分けた。
先を行く友人が砂浜に出て、海を見ながら船が来ると叫んだ。私も喜んで
本当かと言いながら出てみると、果たして地平線からこちらに向かっていた。
今まで待ち望んでいた救助船が、久しぶりに都合よくやってきたのだ。二人と
171
も自然に歓声をあげた。私たちは泳ぎができないので、ルクノール島からの
距離がなるべく近いほど安心して乗ることができる。今私たちがいるところ
はそこから 7、8 分の距離だ。とても近い。約 200m 先に椰子の木が 5、6 本
立っているところまで行かなければならない。私たちは朝鮮人であり、島を出
てからいくらも経っていない。いま、警備員が私たちを連れに来ているのか、
それとも様子をうかがっているのかわからない。まかり間違えば死を招く。
進退が極まる。だとしても引き返すことはできない。船が来ているにもかか
わらず、広い海に行こうとすると、少し前の喜びは消え、胸がどきどきして
手足の力が抜け、後ろを振り返りながらまともに歩けない。しかし、どうして
行ったのかわからないが盆地に着いた。盆地に着いてお互い一緒にならず、
互いの反対方向に 5、6 mの間隔を置き、趙さんは沖合を見て、私は後方の椰
子の木を隠れ蓑にして座り、迎えに来ないかと向かいの島だけを凝視してい
たが、なぜか少しも胸騒ぎは静まらない。おいしいコプラを食べようとしても、
噛めず、喉に詰まってのみ込めない。責任ある警備員なら知らないふりを
して黙認しないだろう。捜し出すはずだ。もし捕まれば困ったことになる。
そう思うと恐怖に震えるばかりだ。船はまだ遠くにある。
恐怖心でいてもたってもいられない趙さんが、ためらいながらこのまま帰
ろうという。私はとんでもないと断固として止めた。はじめは生きるために
二人で固く誓って約束までしておいて、苦労の末に得た千載一遇のこの機会
をあきらめようというのか。生死の境で今日は私たちの運命が決まる重大な
日だ。人の命は天の定めだから、生きようと努力しても死ぬのは不可抗力だ。
ひとえに天命を信じ、目的達成のためには絶対に軽挙妄動してはならず、冷
静になろうと励ましながら、固く心に決めようと言った。もちろん親友の言
葉にも一理がある。誰にも生に対する愛着心はあるのだ。ここから 300 m余
り前方の島に行きさえしたならば、いろいろ悩んだり、心配をすることはな
かったはずなのに、行くことができなかった。私たちがやっと隠れていると
ころは完全ではない。今からでも戻れば、無事で一層の信頼をしてくれる。
私自身口先では簡単に言うが、やはり焦燥感にかられていた。向かいの島
で二人が肩に何かを担いで島の外に出ようとしていた。それを見た瞬間びっく
りした。友人はびっくり仰天して上半身を半分起こしながら、帰ろうといっ
て慌てていた。そうしているうちに、その人たちはすぐ島に戻った。彼らは
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
臨時所の臨時員たちで、私たちを探しにきたことは間違いない。私は友人に
向かって、そうしていると見つかりやすく疑いを招きやすいので、じっとして
落ち着くよう必死に頼んだ。なぜか向こうの島が不審でみていると、しばらく
してもう一人が出てきた。二度もひやひやして驚いた。なかほどまで来たの
をみると、内海に釣りに行く日本人だった。日本人は出入自由なので怖いも
のはない。その日本人は心も優しく、私たちに釣り針を充分に作ってくれた
とても親切でありがたい人だ。
私たちは無意識に親しさから、船が来ているのにどこに行くのかと叫んだ。
すると慌てて水をかき分け私たちの所に来た。知らないふりをした方がよ
かったのに、瞬間的にしまったと感じた。日本人は趙さんとともに並んで座り、
沖合を眺めていた。外海側に一緒にいなかっただけでも幸いだった。
日本人でもたまに船に乗った人がいるので、間接的に意思を聞いてみたら、
かたくなに拒否した。進んで脱出して捕虜になれば、捕虜交換時に死刑にな
るという。
いつの間にか船は近づいていた。朝鮮語でしきりに二人でやりとりしたか
らか怪しく思うようだった。バレてはいけないので、よく身をかくすように
という。私はうまくやっているから少しも心配しないでと言った。そうこう
していると、船は私たちがいるほぼ正面まで来た。まず人がいることを知ら
せなければならないが、日本人が邪魔で、服を脱いだフンドシ姿だった。い
つも信号用に白いタオルを首にかけて通ったが、今日の朝はあわてていたた
め忘れて持ってこれなかった。体をさらけ出して動くことはできないので、
目は日本人の方に向け、椰子の木の間から要領よく手を突き出してフンドシ
の端を振った。こちらから肉眼でデッキにいる人が見えるほどだったので、
あちらは望遠鏡で人が合図していることがわかるはずだ。私の信号に気づい
たのだ。正面に旋回をする。飛び出さなければならないが躊躇した。私は二
度目の旋回でも出て行けないのでバカな臆病者なのかと自分を責めた。当然
出ていかなければならないのにどんな未練があるというのか、まったくわか
らないことだった。
3 回目の旋回をした。何度も旋回したので日本人はすでに疑いはじめた。
人ひとりのために船が長く待つわけにはいかない。これでは機会を逃してしま
うのではないか。とても怖くなった。破れかぶれだ。私が先に立ち上がった。
173
親友も立ち上がった。日本人は意外だったのか、どうしたのかと言いながら、
あわてふためいた。私たちは死なないためには船に乗らなければといって飛
び出した。ちょうど干潮だったので岩礁まで行くことができた。目の前に家
ほどの大波が打ち寄せる。助けてくれと喉が裂けんばかりに叫んだ。私たち
は泳ぐことができないので、ボートを送ってくれと大声で叫んだ。船までは
かなりの距離があった。聞こえているのか聞こえていないのかわからなかっ
た。反応がまったくないので、気が焦り、息苦しい。しばらく経ってかすか
に聞こえたのは、ボートは故障しているということだった。
なんという青天の霹靂のような凶報だろうか!息が詰まり、目の前が真っ
暗になった。私たちは死んだのだ。ほんとうに数奇で不幸な運命だ。いくら
生きようと精いっぱい努力しても、どうにもならないのだろうか。同じ死ぬ
にしてもじっとしていたら早死しなかったのに…。もう終わったのだ。自分
たちがしたことなのに嘆いて後悔しても何の役に立つだろうか。帰っても結
局は銃殺される。思いどおりにならないのならいさぎよく海で溺れ死のうと
いった。もちろん自ら進んですることは容易なことではないが、こうなった
以上はと覚悟した。完全失敗と確認されれば、言うまでもなく海に飛び込む。
船は去らずそのまま止まっていた。いくら声をあげても駄目なので、最後
まで見守ることにしたが、戦闘機の三機が来てルクノール島を旋回しながら
機銃掃射を浴びせた。いわゆる援護射撃をしたのだった。私たちは船の行方
にばかり目をこらした。しかし船は船首を動かし始めた。もう別の場所に
行ってしまうんだ!とても悲しかった。ところが行ってしまうと思った船が
大きく旋回して、やや近くに止まって、デッキから二人が飛びこんで私たち
の方に泳いでくるのではないか?私たちを迎えに来た人だから、救世主にほ
かならなかった。生きるのを完全にあきらめたのに、助かったと思うと言葉
では言い表せないほどうれしかった。
1945 年 6 月 28 日、この日は後々までも思い出として残り、忘れられない。
助けが泳いで来るのをみると、先住民が救命帯を一つずつ持ってくるの
だった。岩礁で救命帯を受け取り、ありがとうとお礼を言って、お腹につけ
てうつ伏せになったら水に浮いた。先住民が片手で引っぱって泳ぎ、船に到
達して綱はしごを登ってデッキに上がった。私たちが上がる時も米軍たちが
見下ろしていたし、フンドシ姿の裸が恥ずかしくみじめだった。その船に
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
乗ったのは私たちが初めてだった。デッキの上に立っていると、先住民が通
訳をした。ついてこいといって船室に入った。捕虜になったので監禁でもす
るのだろうと思ってついていった。階段式ベッドだったが、入って休めとい
う。デッキに出てもいいかと聞いてほしいと言うと、米軍と話し、寝てもい
いし出てもいいという。デッキに上がって立っていると、米軍がタバコを一
本ずつくれる。2 年ぶりに吸うタバコだった。これから私たちは捕虜だ。こ
れからは米軍の指示によって行動しなければならない。とにかく私たちは目
的を達成し、願いはかなった。
本島ミレ島から 1945 年 2 月 17 日付でルクノール島に配置勤務し、それから
4 ヶ月 10 日余ぶりの同年 6 月 28 日、ルクノール島を脱出して米軍船に救助
された。しばらくすると、ルクノール島から船が移動し始めた。私は船酔いで
甲板の上に目を閉じて座っていた。どの方向に向かっているかわからない。
夕方頃だった。何か小銃二発の音がした。何事かと見ると、米軍たちが装
備された機関銃に駆けつけて、騒がしく発射準備をしていた。立ち上がって
島の方を見ると、一人が泳いできていた。その脱出者に向けて島から撃っ
たのだ。その人は無事に船にまでたどり着いた。上がる時に見ると日本人
だった。
その次の日だった。騒がしいので船室から出てみると、意外にも私たちの
班の故郷の親友 3 人と他の郡の仲間 1 人が乗船した。近くに住みながら会え
ないから遠くに住んでいるようだというが、同じ班であってもそれぞれ分かれ
て暮らしていたので、お互いが知らずにいた。久しぶりに突然再会したので、
とてもうれしかった。私たちは生き延びたとお互い抱き合い、しばらく感
激の涙を流した。彼らは本島に残っている高官たちのための魚捕り専門で、
どこにでも自由に出入りできる特権を与えられた人々だった。
魚捕り専門グループの代表である李バンヒ〔李芳熙〕氏は、前日に偶然に
も米軍船に出会って乗ったが、一人で乗ってみると、生死苦楽を共にしてき
た漁労班の仲間を棄て、一人で行くのは道理にあわず、義理も捨てることが
できなかったという。そこで米軍に、生死を共にした仲間たちがいるのに私
一人だけでは行けない、次の機会に同志たちを連れてきて一緒に乗るので降
ろしてほしいと要請したという。それはとんでもないことで、また降りれば
命を失うのは明らかなのでダメだと言われた。誰にも見られていないから大
175
丈夫だとしつこく頼むので、感心してしかたなく受け入れ、次の機会を約束
して戻った。そしてその日に一行とともに船に乗ったのだった。
すばらしい!自分だけ生きようとしてもがき、他人は死のうが生きようが
知らないふりをするのが世の常なのに、乗った船から再び降りて危険をかえ
りみずに仲間を救出した李氏の義理と義侠心に感動しない人はいないだろう。
誰もができることではないからだ。
マジュロ島捕虜収容所そして同胞救出作戦
その日も各離島を巡回したが、これ以上成果はなかった。それだけ警戒が
厳しいといえる。乗船した 7 人だけを乗せて帰ることにして夜間に航海し、
6 月 30 日午前 9 時ごろマジュロ島の米軍基地に到着した。
埠頭に到着してもすぐには下船させず、2 時間くらいたって、日本人 2 世
らしい通訳一人を連れて、米軍大尉以下数人の引率で桟橋に降り、トラック
に乗ってしばらく走り、飛行場にある航空隊本部で降りた。
最初に、ミレ本島から来た李芳熙さんほか 1 人が呼び入れ、30 分後に趙さんと
私が入るよういわれた。入ると米軍の大尉と中尉のふたりがいたが通訳は
いなかった。黒髪の大尉は日本語に長け、中尉はゆっくり話したが、充分に
通じた。椅子に座るようにといった。テーブルの上には詳しいミレ島の地図
が広げられていた。大尉がミレ島の情況について聞いた。ミレ島はすでに爆
撃によって荒廃して役に立たず、高官たちが若干いるだけだから話す必要は
なく、各離島についての状況を語った。現在、それぞれの島には日本人が少数
いるが大部分は朝鮮人で、最近の空襲で被害を受けているのは朝鮮人である。
船が毎日続けて行くと日本人の監視が厳しくなり、海で魚を捕りに行くこと
ができなくなり、船に乗る機会がなくなる。人々が海に出る前の早朝に船が
行くのも良くないから、機会をみて時間をあわせるよう考えてくれと言うと、
そんな事情は知らなかったから今後は是正すると言った。
調査が終わると再びトラックに乗って折り返し、船倉を経由して軍の幕舎で
降りた。降りると同時に風呂に行き、頭の毛から全身の毛という毛はすべて
剃って、お風呂に入った後、なにか軟膏を与えて全身に塗るようにと言う。
その後、下着と軍服一着ずつもらって着た。服を着ると我ながらみっともな
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
いのは免れたようだった。そして医務室に行って簡単な診察を受けた。
ある軍人に従って捕虜収容所に行った。私たちが来るのを見た同志たちは、
喜びにあふれて「来た!」と叫び、正門まで出迎えに来た。私たちを連れて
きた軍人は、戻れと制止した。私たちが収容所の中に入るとみんな大歓迎を
してくれ、故郷の友人たちが手を取ってよく来たといい、肉の缶詰や乾パン
など食べるものはたくさんあり、自分らは腹一杯で食べられないと言った。
このことを聞いただけでもお腹がふくれ、心がほぐれる。お腹がすいている
だろうから早く入れという。宿舎に入るやいなや、肉の缶詰に乾パンを入れ
た煮込みを食べろという。そうでなくても、私たちはあれやこれやで昼食が
食べられず、お腹がすいており、私も船酔いで食うや食わずで、お腹がとても
すいていたからおいしく食べた。これまで食べたことのないおいしさだった。
これからは安心して生きていけそうだった。
私はマジュロ島に到着し、トラックに乗って来る途中そっと様子をうか
がった。航空本部に行った時、飛行場を見て本当に驚いた。うわさに聞くと、
米軍が上陸して 3 ヶ月ほどだとされるが、飛行場などは遜色なくすっかり完
成していた。
我々は、手のひらのように小さなミレ島で、1,000 人に達する人員が昼夜を
問わず血と汗を絞って1年と数ヶ月もかかったが、米軍は先端技術の開発で
機械化して作業を進め、戦闘でも新鋭武器に変えて攻撃してくる。富強大国
の米国をおもちゃのような在来式武器で対抗するというのは卵で岩を打つよ
うなものだ。いくら団結力が強く、大和魂を集中したとしても対抗できるだ
ろうか。近いうちに欧米に敗北するのは火を見るよりも明らかだった。
私たちは 10 日ほど居ると、やはり聞いた話のとおりだった。食事は米軍と
同じように不足がなく、作業もせずに遊んで食べることがすべてだった。
私たちの一行がマジュロ島に来てから 10 日後、李芳熙、高ムンボク
〔高文福〕氏は故郷の同志たちを一人でも死地から救出するために一行と打ち
合わせをし、米軍の救助船の責任者と、このようなことをしたいから協力し
てくれと要請して快く受け入れられた。実行方法は月のない夜間を利用し、
こちら側で決めることにした。場所はミレ本島の近くにある故郷の友達が
たくさん住んでいるナンヌ島 149 と定めた。ここはミレ本島付近なので地形は
149
〔ミレ環礁内の島〕ナンル(Nallu)島を指すようだ。
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よくわかっていた。某月某日 5 人が同乗して指定場所で下船し、泳いで上陸、
指定場所に人々を送ることにして決行する日を決めた。
しかし、待っている人を迎えに行くわけでも、事前に予告しておいたわけ
でもなく、相手側には大きな障害となる日本人と少数の兵士がいるから、生
死をかけた冒険だった。万が一の場合に多少なりとも備えるため、3、4 日間、
基礎的にカービン銃の射撃術などを教えてもらい、懐中電灯など必要なもの
だけ携帯し、指定日に 5 人が乗船して指定の場所に到着して泳いで上陸した。
真っ暗やみの中を手さぐりで宿舎を訪ねて、やっと一人だけ見えるように
事前に準備した懐中電灯で熟睡している人々を順に起こし、耳元で指定場所
に行けば船が待機しているので早く行けと言った。すると先に起きた求礼郡
班の高ワンフム〔高旺欽〕医務助手が一人でも多く連れて行こうと欲を出し、
潭陽郡班を起こしていくからと従わず、知らせるんだと大声で「船に乗りに
行くんだ!」と言った。すると、あちこちにいた日本人と軍人たちが銃を乱
射したので、瞬時に大混乱となり、わずか 7、8 人だけが海をわたって指定場
所に無事に到着した。しかし、船は見えなかった。
島からは警戒し威嚇する銃声が響いた。こうしているうちに、探しにでも
来られたらまちがいなく殺されるから気が気でない。さらに服がすっかり水
に濡れて寒気をもよおし、寒さと恐怖に震えた。しかし、今は戻ることもで
きず、進退きわまって船が来るのを待つしかなかったという。それぞれ分か
れて救出に行った人々も、しかたなく逃げなければならず、泳いで船がいた
ところに行ってみると、船は見あたらなかったのだ。
「ほんとに大変なことになった」、こんなぶざまなことさえなかったら、無
事に多くの人を救出できたのに…、かえって罪のない人だけが殺されること
になり、どうしたらいいのだ!」
喉が詰まって声が出なかったそうだ。高文福さんは、ひょっとしたらと
思って懐中電灯であちこち信号を送ってみたが、何の反応もなかった。もう
すぐ夜が明けそうで、明るくなるまでに来なければならないのに…。震えな
がら待っている人たちを見て砂浜を掘って隠れようと穴を掘った。
どれくらい時間が経ったのか。暗号の信号を送ってみた。「船がいる」とい
う信号が来た。言葉では言いつくせないほど嬉しかった。位置もわかった。
時間は切羽詰まり、身を焦がしているのに、船が現れなかったという。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
夜が明けはじめ、死が差し迫っているから、もうどうしようもない。これ
まで険しくぞっとするような死の淵を幾度も乗り越えてきたが、本当に死ぬ
のではないか。船をつれなく思ったという。
空が崩れてもわき出る穴があるということわざは、こういう時のことをさす
のかもしれない。日が次第に明るくなり遠くにいる人が見えるほどになった頃、
船が二隻も来たという。人が生きようとすれば天が助けるのだろうか。幸い
にも日本のヤツらが出動をしなかったので、やきもきして一晩中震えながら
待ちに待った末、全員が無事に船に乗って米軍基地に戻ってきたのだった。
皆あれこれと話をしたが、一生涯忘れられない悪夢の夜だったと言った。
そして、自分たちを救出するために危険をものともせずやってきたのに、
すんでのところでみんな死ぬところだった。幸いにも天の助けで生きのびた
から本当によかった。その恩をどうして返せばいいのかわからない。心から
感謝したいといった。潭陽班、とんでもないヤツの大声騒動でその島に住ん
でいる 10 数人の潭陽班の人は、1 人も船に乗れなかった。
実は李芳熙、高文福さんほかの人は、農漁村の貧農家で生まれ、社会の実
情も知らず、学校へ行ったこともない、若くして連れてこられた存在感のな
い田舎者だった。だが大胆で、このうえなく勇敢に、危機に瀕していた同胞
たちを、自分たちの命さえかえりみずに助けた義理とけなげな同胞愛、その
義侠心は普通の人では考えられない。それだけにその模範となることをほめ
たたえ、私たちは永遠に鏡としなければならないだろう。しかし、これら無
名の勇者たちの履歴はわからないので、その崇高な義侠精神を誰も知らない。
実に切ないことだと言わざるをえない。
私たちは捕虜であるため、制限された鉄条網の中で不自由な身の上も当然
であり、多少の苦痛は甘んじなければならないことは覚悟のうえだ。ちょうど
1 ヶ月いて、腹いっぱい食べた。我々捕虜に対して、兵士たちや誰かが関与し
干渉することもなく快適に暮らした。捕虜としてこの程度であれば、過分な
待遇を受けたのであり、想像もできないことだった。
米軍は言った。「現在、我々米軍や連合軍の捕虜たちは、日本の非人道的蛮
行で食べるものはいうにおよばず、あらゆる虐待とひどい殴打、過酷な酷使
などで飢死し、病死し、数十万名が残酷にも貴重な命を失い、ともすれば虐
殺までされている。」
179
ハワイ捕虜収容所の生活
マジュロ島に収容された捕虜たちは、先に来た人から順次にハワイ島に送ら
れ、私たち一行 5、60 人は 1945 年 7 月 28 日、船便でマジュロ島を出航して
8 月 4 日にハワイに到着した。
私はデッキから眺めていて、米国人は主食がパンだから小麦畑が多い
だろうと思ったが、上陸してみるとサトウキビ畑だった。パイナップルの畑
も少しあった。私たち一行が行ったところは、ある深い山谷にある臨時の
テント収容所だった。その付近には軍の兵舎や住宅も見られなかった。山の
斜面にはサボテンがたくさんあり、とても大きな花がいっぱい咲き、見事
だった。
収容所に行くと随時身体検査を受け、何の注射なのか数日かけて打たれた。
私たちの本籍、住所などを詳しく記録していき、写真も上半身の前後、左右を
詳細に撮った。毎日遊んでいるのでエネルギーは消費されないが、決まっ
た食事は、手のひらほどの食パン 2 枚、卵 1 個、牛乳 1 杯だけだったので、
あまりにも少なく、みんなお腹がすいて死にそうだと大声をだした。たとえ、
飢え死にまではしないと思うが、耐えるのはつらかった。
時々、玄楯 150 牧師が来て、慰労を兼ねて民主主義について講義をした。紅
顔、白髪の 60 歳の老体ではあるが、しっかりした声による真理追求の講演は、
社会生活に有益な話だった。彼の話では 3・1 運動をしてハワイに亡命した
という。私たちは玄牧師に、私たちへの配給の食事が少なく、お腹がすいて
たまらないから食事について交渉してほしいと頼んだがうまくいかなかった
ようだ。私たちの推測では、ここは臨時の収容所でいつか移動しそうだから、
がまんしようとお互いに励ました。
いつだったか、憲兵の食堂で皿洗いなど掃除する人を、捕虜の中から何人か選
んで連れて行った。その責任者が全南の光州班チョン・ギルソン〔鄭吉星〕さん
だった。とてもお腹がすいているから、遊んでお腹がすくよりは食堂に行け
ば力はいるだろうが、お腹いっぱい食べられるので、行きたいという人が多
かった。私は鄭氏に頼んで身体検査を受けて通過した。6 人がトラックで、
150 玄楯(ヒョン・スン、1880.2.28. ~ 1968.7.11.):3·1運動当時独立宣言書を持って上海に逃避、最初に独
立宣言書を英語に翻訳して海外に知らせた。ハワイ捕虜収容所を頻繁に訪問したという。
180
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
李仁申の俘虜名票(捕虜名簿)1 -個人写真及び指紋記録
李仁申の俘虜名票(捕虜名簿)2 -個人身上記録
181
しばらくして到着した食堂は大きくて、憲兵 300 人余りが交代で来て食事を
するという。
宿舎に案内されて入ると、大型ベッド 2 台が置かれた清潔で高級な部屋
だった。私たちの任務は食事の後、食器を拭き、沸騰した水で消毒し、食堂
内を掃除することなどだったが、清掃が終われば内密に検査をする。もしい
いかげんならばやり直さなければならない。2 交替で 24 時間出動して働き、
24 時間休憩する。初めてのことだから辛かった。食事はすきなだけ食べるこ
とができた。いくら食べても何もいわれない。作業は辛いがお腹はふくれる
から、それだけの価値はある。
5 日目だった。私たち山谷の一行は移動しなければならないと迎えが来た。
収容所に行き一行とトラックに乗って山を抜け、平地をどれだけ走ったのだ
ろうか。本格的な捕虜収容所の正門前で下車した。
収容所には二重の鉄条網が張りめぐらされ、収容所内はとても広かった。
3 階建ての宿舎が数棟あり、大きな食堂もあった。サッカー場、バレーボール
場、卓球場など各種運動設備が備えられていた。捕虜収容所というにはあまり
にもぜいたくだった。食事は米が配当され、捕虜自らが炊事班となり、ご飯に
しようがお粥をつくろうが自由で、何の不足もなく十分だった。寝床は 1 人
用ベッドに毛布 2 枚ずつで、電灯は各自の必要に応じていつ、どれだけつけ
ても何も言われなかった。
人権を重視する民主国家としての国威宣揚のためなのか、捕虜に対して
こんなに寛大な厚遇をしてくれるとは、私たちには想像すらできなかった。
日本が引き起こした太平洋戦争の戦禍のなかで、死にそうな逆境を越え、
幾多の苦労の末、神の助けで捕虜になった人は、その当時 13 道で 2,670 人
だったそうだ。
ハワイには朝鮮、ドイツ、イタリア、日本の 4 カ国の捕虜がいた。朝鮮
人は太平洋の各島で初期に捕虜になり、1 年以上いる人がかなり多かったと
いう。
日本は近く敗北するだろう。朝鮮は日本の植民地から解放されて独立国と
なり、その後は故国に戻り、微力ながら国民の働き手として活躍できるだろう。
だから、いたずらに無駄に過ごすのではなく、何か組織をつくって団結し、
将来を見据えての設計をすすめた。捕虜のなかの知識ある人を招いて意見を
182
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
聞き、雑誌で知識を広げ、社会に活躍できる人物を養成しようと、大学在学
中に学徒兵となった人たちが中心になって案を作った。それで韓鷲党という
名の党をつくった。
私達はまだ自由が束縛された捕虜の身分である。党の名称はつけたが、体
系的に序列のある組織ではないので、指導者級の若干名が随時集まって話し
合い、妥協や選択によってお互いに団結して、規律のある生活を大衆に啓蒙
する。これまでは悪い日本に隷属してきたが、我が国民の精神は道徳性と誇
りと気概の中に生きていることを、米軍にしっかり見せようと考えた。とて
もいい着眼だった。
理想や趣旨は良くて夢は大きい。だがご飯をもらって食べれれば幸いという
一文無しの捕虜が、どうやって党の雑誌や啓蒙宣伝文を発刊できるのか。
実にもどかしかった。しかし、指導級の役員たちは努力して、勝手な行動や
恥ずかしい行いをつつしみ、私たちの趣旨を念頭に置いて最善を尽くそうと、
謄写版を利用して啓蒙文などをたまに回覧した。我が民族は無知蒙昧ではな
いとの趣旨を理解して呼応し、心を合わせて努力して、大きな成果をあげた。
未開の遅れた民族とばかり思っていた米軍は感動し、褒め、信頼もしてくれ、
大好評だったという。
それをよいことに、無理な要求を米軍側にした。だめでもともとだと思い、
やってみようと思った。捕虜も同じ軍服を着た。捕虜と区別できるのは帽子、
上下服にペイントで表示されたPOW 151 という文字だ。私たちは国籍や民族が
違い、無理やり引っぱられてきた非戦闘員であり、使役させられただけあり、
直接戦闘に介入したのではない。だから捕虜の区別をやめてほしいと要求し
たのだ。米軍は不当だと拒絶した。作業に出るのをやめ、受け入れられるまで
断食籠城をすると宣言し、籠城を始めた。米軍たちは 2、3 日間、好意的に説
得した。何の成果もないので 4 日目は大型武器を正門に配置し、すぐにでも
発射するかのように脅かした。すると気の短い人が怒って上着を脱ぎすて、あ
とさきを考えずに飛び出して撃つなら撃てといって、ベッドのコーナーの角材
で米軍を殴って負傷させたというのだ。その人はすぐ拘束され、米は撤収し
た。この機会に、我が民族の意気と気概がどんなものであるかを見せなければ
ならないと頑強にこだわった。しかし米軍は、やるならやれ、お前らは勝手に
151 戦争捕虜の英文表記PrisonerofWarの略
183
飢えて死んでも関係ないといって、給食を中断し飲料水まで断った。
要求にも可能、不可能がある。捕虜のくせにあえて不可能なことを要求し
たから、聞くはずがない。6、7 日間断食すると、空腹と渇きが激しくなり、
あちこちから不満が噴出した。
わざわざここまでする必要がないという方に傾き、再び話し合い、米軍側の
意思に沿って元に戻ることにし、給食をもらって労役に出たという。結局は
屈服してしまった。事は成らなかったが、我が民族の意志と強靭な気迫がどん
なものであるかは、はっきり見せつけた。
私たちの一行が 8 月 4 日に到着して、山谷の収容所にいると、日本が
8 月 15 日付に降伏し、朝鮮は独立国になるという。それは我々が考えた時期
よりも早かった。
私たちの一行は山谷に一ヶ月ほどいて、本格的な収容所に遅まきながら
行った。私は再び故国の地を踏むことができないと諦め、故国にいる両親、
兄弟たちも私が死んだと思い二度と会えないと嘆いていると思っていたが、
解放となった。一日でも早く帰国して生きていることを見せ、安心させなけ
ればならないという一念だけで、その他のことは関心がなかったから、知ら
ないことがあまりにも多かった。
本収容所に来て 2、3 日後、私たち一行も作業に出ることになった。10 分前に
トラックが来て正門前に待機していた。私たちが一緒に行く人員は 140 ~
150 人、作業場は収容所から 50 ~ 60 里の距離と推定された。
指定された広場で降り、3 列縦隊に並び、作業担当の憲兵が自ら必要な人
員を 30 人、20 人、10 人、5 人、6 人と前列から連れて行く。
作業分野は軍の幕舎や上官の宿舎、共同トイレの掃除だが、そこでは掃除
さえ終われば、休憩時間が多く、一日中休む。休んでいるからといって干渉
する人もいない。酒保 152 の休憩所に行くと、兵士たちがお酒やお菓子などを
持ってきて、お酒だけ飲んで、お菓子は封もきらずに置いていく人が多い。
こういうものは車に載せて、ゴミ捨て場で廃棄処分したり、食べたり、宿舎に
持ち帰って分け合ったりする。
軍服倉庫での作業は、兵士たちが着替えた服を処理することだった。まだ着
られるものも捨てられる。古着のポケットをさぐると、たまに十銭くらいの
152 軍隊内の売店の旧称
184
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
李仁申の俘虜名票(捕虜名簿)3 -労働記録
李仁申の俘虜名票(捕虜名簿)4
李仁申の俘虜名票(捕虜名簿)5
185
価値のコインが 1、2 枚でてくる。そして服棚に陳列されているのは新品も多い。
自分の服が汚れたら着変え、ペイントでPOWと書けば洗濯する必要がない。
自分の服は文字が書いてあるので、要領よく車に載せて行き、棄てる。
分野別にさまざまな職種が数多くある。日課を終えて帰ってくると、お互
い自分がしたことを自慢する。2、3 日通ってみると、憲兵の作業担当分野は
定められていた。いくらしんどいといっても大した作業ではない。
2、3 日後からは、広場に整列していて作業担当が連れて行こうとする際、
土を掘って木を植えて杭を打って垣根を作る担当が現れると、前に立った人
が後ろに行き、4、5 列が全くいなくなってしまう。憲兵は理解できないから
叱りつける。良い作業担当が来ると、お互いに先を争って行こうとするので
大騒ぎとなる。憲兵たちは非常に不快な表情だ。こんなことでいいのか。立
場を変えて考えてみよう。米軍でなかったら、すでに何発も殴られ、軍靴で
何度も蹴られたはずだ。米軍からみれば、いかに幼稚で劣っているのかとさ
げすむだろう。たまらなく恥ずかしくて情けないことだった。米軍は捕虜が
いくら間違ったことをしても殴打や暴行はしない。
いつか 6 人で酒倉庫に行ってビール、タバコ、ガム、お菓子類などの箱を
売り場まで運ぶ作業をした。夕方頃に倉庫の片隅を見ると、ビールの空き缶が
たくさん積まれていた。捕虜に対し酒だけは絶対に禁止されていた。それにも
かかわらず何人かが飲んだのだ。仕事が終わると戻ってくるが、タバコ、ガム
などをポケットに貪欲に詰め込んできて、大きな仕事をしたように自慢をする。
これは人知らず盗んだものなので窃盗に該当する。案の定、その後は一人も
連れて行かなかった。私はじっくり考えてみた。私たちは故国であまりにも
貧しい生活をしていたので、欲が出て知らず知らずにこうになってしまった
のではないか…。しかし、よくないことは慎まなければならず、これからは
将来の独立国家の国民として国家の威信と民族の自尊心だけは忘れてはいけ
ないと、老婆心なのか杞憂なのか、心配になった。
捕虜の作業時間は 8 時間、土曜日は 12 時までで日曜日は休みだ。作業と
いっても健康のために運動する程度だったし、出席名簿を作成して作業する時
のみ記入した。少額でも労賃を支払ってくれるという。お金は現地で受け取
るのではなく、帰国してから伝票と交換してくれるという。多かれ少なかれ、
捕虜にお金までくれる国は米国のほか世界のどこにもないだろうと思われた。
186
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
タバコはタバコの袋と紙を配給してくれる。普通の紙巻きタバコを吸うと、
規則違反になるのかどうかはわからないが、作業を終えて戻ってくると、収
容所の正門の前でいちいち調べて押収する。押収しても毎日欠かさず持ち歩
いて吸う人がいるので、日ごとに調査が厳しくなる。帽子を脱がしパンツの
股の部分を巻き上げてみるが、そうして調べてもどこに隠したのか吸う人が
いた。私たちに配給されるタバコは下級品だから、味はよくないことは事実だ。
紙で巻くのも面倒で気分も違う。しかし、それでももらえるだけ幸いだ。紙巻
きタバコを購入する方法は、作業を担当する憲兵に頼むが、一箱 5 銭なので
50 銭を出して頼むと間違いなく買ってくれる。
腕のいい人がステンレスのスプーンを加工し、太極マークを彫刻した指輪を
作って米兵にやれば、記念品だといって 4、50 銭で買ってくれる。あるいは、
米兵たちが服を着替えた時の古着のポケットからでてきたお金などで購入する。
煙草を分け合った人情のようであればどんなにいいだろうか?
ある日誰かが、タバコ一箱を購入して隠してきたのに押収された。とても
腹が立ったのか、いやひねくれていたのか、とにかく意地悪な人だったようだ。
腹いせをすると言って後日、人糞を新聞紙で包んでタバコのように隠した。
それを憲兵が押収した。開けてみるとバレるしかない。そのまま見逃すはず
がない。捕虜が米軍を侮辱したとして、拘束、拘禁され 14 日間ほどの拘留処
分を受けたという。
もちろん最初に、担当の憲兵たちが私たちの要求を拒絶したならば、そんな
不祥事やひどいことは起きなかっただろうが、買ってくれたのが大きな弊害
となった。私は自らを反省した。知識のあるなしにかかわらず、常に反省し、
自分の本分を察し守って、脱線行為や道理に反したことさえしなければ、
すべてがうまくいく。なのに、よけいな意地で腹いせしてかえってひどい目に
あったのだ。
いつだったか、現場で憲兵が特別に話したいことがあるという。これから
戦線で敵に捕らえられていた米軍捕虜が帰国するにあたり、ハワイを経由する。
米軍捕虜たちは言葉では言い表せないほどひどい虐待を受けてきたから、腹
いせに不埒なことをするかもしれない。だから注意しろと言うのだった。
私はその当時 20 代前半だった。捕虜生活の間でも英語を学んでみようかと、
日本語で書かれた簡単で数ページにもならない問答集を手に入れ、一人で
187
広げてみたが、基礎知識がまったくないのと頭が悪いせいで、理解するのが
難しかった。そんな時に大学在学中に学徒兵として連れて行かれた全南順
天出身の朴順東(パク・スンドン)さんが、短時間でも若者の教育が必要で
あることに目をつけ、捕虜担当の上役と交渉して英語を教えるということを
知った。ほとんどが 20 代初めだったが、都合上全員に教えることはできない
ので、20 歳未満の 200 人を集め、作業につかせず、別途に収容所を定めて朴
順東さんを教授として英語を学ばせるという話を聞いた。私は年齢超過のた
め残念ながら良い機会を逃したので、残念でしかたがなかった。
しかし、ちらっと聞いたのだが、その人たちのために炊事班 16、7 人を別に
選抜するという。急に興味がわいた。ことわざに門前の小僧習わぬ経を読む
と言うが、せめて肩越しに聞けば一字でも学ぶことができるという欲心で、
食堂の責任者を調べてみると、前に山谷の収容所の食堂で一緒だった友人の
鄭吉星(チョン・ギルソン)さんだった。彼を訪ね、私も行きたいと頼むと
OKした。
私たち一行がトラックに乗り、案内についていくと、収容所はこじんまり
してきれいだった。そこの人々は数日前に来て、食事を自分たちで作り食べ
ていた。私たちの中で腕のある料理経験者たちが丁寧に作り、食事の時間に
なると配ったが、30 人余りが黙って食べないまま、ゴミ箱に投げ棄てるの
だった。私たちはおかずが口に合わないのだろうと思い、あわてて何か問題
があるのかと聞いたが、何もいわずに出て行ってしまう。間違った点があれ
ば当然指摘しなければならないのに、表情を硬くして出ていってしまうので
気分は良くなかった。わかったのは、外部の人の干渉なしに自分たちだけで
作って食べたいということだった。彼らは私たち向かって帰れというのだ。
私たちとはせいぜい 1、2 歳の違いで年齢差が大きいわけでもなく、同年代と
いってもいいくらいだった。惜しい時間を無駄にせずに学問に専念し、一字
でも多く学べるようにと私たちが苦労しているのに、将来が有望な彼らの考
え方と見解が到底理解できず、納得できなかった。
教授と指導者たちがよく考えて決定したことだが、お互いああだ、こうだ
と言いあい、教授たちの説得でわからせて存続することに決定した。将来を
嘱望される若者たちが長い目で見ることができず、目先だけで判断するので
は有益に学べないではないかと情けなかった。私たちも無理をしてやって来
たのに疎外されたのが気に食わず、不快で気分がよくなかった。
188
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
夢に描いた祖国の懐で…
あれこれとせわしくしている時、帰国することになったとの通知が来た。
それぞれ所持品をまとめ、トラックに乗って本収容所に行った。寝ても覚め
ても待ち望んだ帰国がついにできると思うと、みんな活気づいて生き生きし
た。それぞれ所持品の準備を終えて待機した。
1945 年 12 月 21 日、捕虜収容所を出発し、ハワイのホノルル港に到着し、
米軍の船に乗った。その日のうちに出航したが、航海途中、海上で米国と東
洋には時差があるといって時計の時間を調整しなければならなかった。
戦争が終わり、船は不安なく順調に快速で運行した。12 月 25 日のクリスマスの
日だった。その日は波風が特に激しかった。米軍の船員たちは祝い酒を何杯か
飲んだ。酔っ払った兵士の一人が船の後尾の手すりで、何をしていたのかは
わからないが、走っている船が荒波で傾いたひょうしに海に落ちたという。
船首を回して事故が起きた地点に戻り、周囲を 30 分間、望遠鏡などで探索し
てみたが発見できず、しかたなく諦めて航海した。
船内ではおかしな噂がとびかった。現在、朝鮮にはたちの悪い感染症が蔓
延しているから、直行せずに日本に行って上陸させるというものだった。そ
の後は日本の船で帰国することになるが、意地悪な日本のヤツらはおとなし
く帰国させてくれず、敗戦の恨みで航海中に爆破させる恐れがあるというの
だ。デマであっても聞いていい気分のものでなく不安になった。
1946 年 1 月 2 日、日本の浦賀に到着した。水深が浅いようだった。途中
の海上に停泊し、伝馬船に運ばれて埠頭に上陸した。ハワイでもらった軍服
や下着、コート、タオルなど軍用リュックサックいっぱいの重い荷物を背負
い、かなり遠い距離を徒歩で軍の収容所らしい所へ案内された。窓は所々壊
れていて、すべてが心寒く見えた。1 月 2 日のお正月なのに、祭りの雰囲気
はまったくなく、冷え冷えとしていた。たまに出会った人たちも憂いに満ち
た人のように活気がなく、愚かに見えた。敗戦国の惨めさをはっきり見せつ
けられた。彼らが冷静に自分の過ちを自覚して反省し、自らがもたらした不
幸だから当然甘んじて受けなければならないだろう。
私たちはまだ捕虜の身分から抜け出ていなかったので、堂々とした自由人
ではなかった。米軍の指示のもとで動いている。今後の私たちの去就について、
どのような指示が下されるのか誰もわからない。故国の地を目の前にして、
189
もどかしいばかりだ。
2 月 4 日、乗ってきた米軍船で帰国することになったので、再び埠頭に集
まるように言われた。不安なところだったのでうれしかった。朝食後に全員
埠頭に集った。その日は風が強く吹き、波がひどかった。一陣が伝馬船に
乗って本船に上がろうとしたとき、風浪で伝馬船が揺れ、その際に一人が頭に
怪我をし、負傷した。捕虜引率の責任者が決断した。今日は波が高くて危険
だから明日に延期すると。
そのおかげで陸軍の軍属で行った人たちと話ができた。そのなかで自分た
ちの待遇は良かったという話を聞いた。お酒やタバコでいろいろ厚遇を受け
たと自慢するのだ。だが、我々海軍の軍属で行った人は、食事以外には何も
もらっていない。何というヤツらだ、こんなことでいいのか。もともと海軍が
上だから待遇も上のはずだ。ところが私たちは何ももらっていない。今日は
もらえるものはもらわなければならないと思い、宿舎に戻って荷物を降ろし、
数人が事務所に抗議に行った。陸軍の軍属で行った人はとても手厚く待遇さ
れているのに、上位である我々海軍の軍属はむしろ待遇が悪い。これでは
話にならない、早く配給せよと言った。すると哀願するように、陸軍は在庫
があったが海軍は倉庫が空っぽだったから、ほんとうに申し訳ないという。
ふざけたことを言うなと一喝し、私たちが太平洋の戦場に強制的に連れて行
かれ、屈辱と虐待を受けて多くの若い人たちがわけもなく虐殺されたことを
考えれば、あなたたちを殺しても怒りは収まらない。私たちはあくまで道義
的、人道的立場から我慢しているのであって、無理な要求はしてない。終戦
となった現在、陸軍や海軍を区別できる立場ではないではないか。くだらな
い言い訳は必要ない。もしできないならみんなでこの事務所をつぶしてしま
うぞと言うと、明日まで猶予してくれれば手厚くもてなすと言う。私たちは
明日帰るから時間がない。今日の夜 11 時までに約束しろと言うと最善をつく
すと言った。夜 11 時半頃に酒やタバコ、夏の軍服上下一着、軍靴などが配達
された。物品を調達するのが遅れて申し訳ないと言った。
2 月 5 日の朝食後に出発し、その日は全員無事に乗船して西海岸に航海し、
2 月◯〔ママ〕日午前 9 時ごろ仁川港に到着した。
夢にも懐かしかった祖国の山河。4 年だったが 30 年、40 年より長く、あ
きあきする歳月。仁川埠頭に上陸して祖国の懐に入った時の感覚と喜びの感
情は、言葉では言い表せない。文字でも形容できない。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
仁川埠頭に集合して整列し、米兵たちの引率で宿舎に行く途中だった。予
告なく帰国したため出迎えに来た人はいないようだったが、どこで噂を聞い
たのか、やってきた人が少数いた。ひょっとして自分の子どもたちが生きて
帰って来るかもしれないという期待感に、隊列の横に近づいてきてのぞき込
む老人を見て、憲兵が棒を振り回して阻止していた。私たち一行も家族でも
来ていないか思って、列から少しでも離れると、容赦なく棒で殴る。私は憲
兵たちの気障な行動を見て驚いた。私は 6 ヶ月間捕虜生活をして、いくら捕
虜たちが失敗してうまくいかなくても、憲兵たちが棒を所持しているだけで
殴るのを一度も見たことがなかった。両親や兄弟たちは毎日祈りながら死地
から生きて帰ってくるのを、首を長くして待つ。その心情は洋の東西を問わ
ず同じだ。韓国に来てまだ 4、5 ヶ月にしかならない彼らがどこで習ったの
か、たとえ米国のおかげで解放され軍政下にあるとしても、善良な我が民族
にだれかれなく乱暴をふるうことは、独立国家の国民を無視する不当な行為に
ほかならず、とても不快だった。
一般の人は近づくこともできないまま、指定された宿舎に直行した。日本
人が住んでいて追い出された家屋なのかもしれないが、まともな窓のないみ
すぼらしい宿舎だった。酷寒なのに窓までないから、熱帯地方から来た我々
は服装からして備えがなく何も敷いていない床で、何の対策もなかった。夜に
なると寒さが激しくなり、みんな眠れずに震えながら夜を明かした。
その翌日正午頃、それぞれ所持品を持って前の広場に集合するように言わ
れた。広場に行ってみると、16、7 人の憲兵たちがずらっと並んで待っていた。
一人ずつ所持品を持って自分のところに来いといって、いちいち引っぱり出
して調査する。米国製品はすべて残らず押収するのだった。やっと残ったのは
日本でもらった質の良くない軍服一着と軍靴だけだった。調査が終わると着
ることもできないごみのような古着を、どこから拾ってきたか一着ずつ束ね、
広場の中央に山のように積みあげて一つずつ持っていけという。それも手あ
たりしだい急いで持って行かなければならない。ためらったり、もたもたし
ていると棒がとんでくる。千辛万苦のすえに日本で貰ってきたが、それすら
なかったとしたら大変なことになるところだった。そもそもハワイで持ち出
しを許さなかったなら、無駄な苦労はしなかったのに。押収したものを本国に
持っていくはずもなく、廃棄処分するようだが、理由はわからないが薄情だ
191
と思った。二日間ほどの調査を終えた後、捕虜の身分から完全に解放され、
初めて自由人となって自由に活動できることになった。
4 年ぶりの家族再会
私たちは解放になったので、植民地の束縛から抜け出し、将来独立するだ
ろうとの思いだけで帰国した。そのため国内情勢は何も知らず、現在の状況や
秩序がどれくらい整っているのかもまったくわからなかった。めんくらって
途方に暮れるばかりだ。もちろん、まだ草創期なのでそうだったのかもしれ
ない。すべてがごちゃごちゃで入り乱れ、交通もひどく混乱して秩序がない。
一刻も早く故郷に帰らなければならない。百里や二百里の距離なら歩いて行
こうと思うが、千里を超える最南端の故郷だ。こんな状態でいつ到着できる
のか。気ばかりがあせる。厳しい寒さなのに下着もなく薄いズボンだけだ。
しかし早く行かなければならないことだけに気をとられ、寒さも忘れてし
まう。
私たちは京仁線の列車に乗り永登浦駅で降りた。駅は人波でいっぱいだっ
た。湖南線とか京釜線とかはどちらでもいい。大田まででも行ってみよう。
待っていてもいつ行けるのかわからない。列車も規則的に運行するようでは
なかった。あちこち客車を歩き回りながら聞いてみると、どの客車も立錐の
余地のなく超満員で、私の体一つ押し込む隙間もないという。しかたなく客
車の屋根に登った人がいた。私もついて登った。そうこうして多くの人が屋
根を埋めるようになった。誰も危険だという人はいない。どれくらい時間が
流れたのか。列車はゆっくり動いていた。運行も高速ではなかった。
二日間、寒さでまともに眠れなかったせいか、生命の危険がある屋根の上
で眠気が襲ってきた。へたをすると転がり落ちそうだった。いくら気を引き
しめても、容赦ない眠気には勝てない。苦難の末に九死に一生を得て生き残り、
親子、兄弟の再会を目前にして、まかり間違えばすべてが無駄になってしまう
ので、大変ではないか!早く行こうと欲張って乗ったのが間違いだったかも
しれない。両側から互いに腕を抱きかかえ、注意しながら大田まで無事に到
着した。大田で全羅線に乗り換えてからは満員ではあるが客車に入ることは
できた。もう立とうが座ろうが安心だ。
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南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
2 月〇日、全南の宝城駅に到着した。その翌日、バスで長興郡の一行と慣
れ親しんだ故郷の長興邑に到着した。私たち一行は日本の軍服を着ていたの
で、誰が見ても日本の敗残兵のような姿だった。誰も知らないから出迎える
人もいなかった。それぞれ元気でまた会おうと別れの挨拶をして別れた。
私は十里の道を歩いて家に帰った。4 年ぶりだった。死んだと思って涙で
悲しみながら憂愁の日々を送っていたところに、突然息子が生きて姿を現わ
した。両親は夢ではないかと熱い涙で迎えてくれた。それに感激し、世間知
らずの私はどんな言葉をかけるべきなのかわからず、ただ涙を流すばかりで
あった。興奮がおさまった後、両親と兄弟に挨拶をして、愚かな不孝者が大
変心配をかけて申し訳なかったと、おおまかに一部始終を話した。私たちの
家族は和やかな雰囲気で久しぶりに夜食を準備し、夜が深まるのも忘れて話
をした。詳しい事情は数日あっても言い足りないが、幾多の死の淵を乗り越
え、両親とお兄さんたちのおかげで生きて帰ってきたと言った。
お兄さんが言うには、私が行った後からお母さんは 1 年 365 日、春夏秋
冬、厳しい酷寒でも一日も欠かさず、冷水で沐浴し、早朝に汲んだ井戸水を
前に祈った。随時寺に通って、私が無事生きて帰ってくるようにと 3 年間、
自分の体も顧みずに祈願した。無理がたたって病気になり、あやうく死にそ
うだった。非常な苦労の末に回復されたと言う。しかしお母さんのおかげで、
異郷で数多くの逆境から生きのびて帰ってきた。両親もこれ以上のことはなく、
私たちの家庭も不幸なこともなく無事だったので、これ以上うれしいことは
ないという。どんな親であれ、子を愛さない人はいないだろう。お母様は仁
徳で住民から尊敬される方であり、子に対する愛情がとりわけ深い方だった。
私は 7 人兄妹の末っ子で、お母さんが老産のうえ病気中の出産だった。お
母さんの乳は飲めず、他人の乳もよく飲まなかったという。豊かではない生
活のなかでどれほど胸を痛められ、気苦労されただろうか。5 歳になっても
立てなかったから、ひとり立ちできないと思ったそうだ。運よく奇跡的に生
き残ったという。だからとても可哀そうだったようだ。
私は 5、6 歳ころの記憶はなかった。こうして育った末っ子を、お母さんは
いつも心苦しく不憫に思い、弱々しい老いた体でも至誠天に通ずと思い、心
血注いでまごころをつくされた。そのおかげで無事に生きて帰ってきたのだ。
海のように大きいお母さんの恵みを、まだふつつかな私でも改めて悟った。
193
不孝者は父母が死んでから後悔するというが、まだ生きておられるあいだに、
安心させてあげなければと心に決めた。
1942 年 4 月 6 日、マーシャル群島のミレ島に我が全羅南道出身の 800 人が
上陸し、生死苦楽を共にし、不幸にも 130 余名が暴虐な日本の殺人魔に無残
に殺され、横死をとげた。その死体がきちんと地面に埋められず、そのまま放
置されており、霊魂も永遠に戻れず、恨みを抱いて天をさまよっている。それ
を思うととても哀れでかわいそうだ。皆無事に帰って来ることができたら、ど
れほど良かったか。歳月が流れれば、忘れていき、目撃証言も一つ二つと消え
ると永遠に忘れ去られるから、いたたまれない。誰が歴史に残すのか。無力
で存在感のない私たちとしては、限りなく悲しく暗澹となるばかりだ。
日本が降伏するまでミレ島の各離島で救助船に乗れずに、帰国した人の話
によれば、極悪な海軍大佐の連隊長は口癖のように、船に乗るという頭の痛
い問題をなくすには処断するほかないと強調したという。しかし陸軍大佐の
連隊長が、自己の責任の所管ではないが、人間的立場からも日本のために滅
私奉公した人々をそうすることはできない、取り締まりだけ徹底して強化す
ればよい、それは不当な処置だと積極的に思いとどまらせてくれた。そのお
かげで無事帰国できたという。うんざりするその当時を振り返りながら、お
腹が空いて苦労したのはさておき、毎日不安に震えてやきもきした悪夢のよ
うな長い日々を忘れられない。
故郷へ帰ってから聞いた話では、私たちが故国を離れる前にはそれほどひ
どくなかったが、農民が汗を流して耕作して収穫した農作物は、ほとんど全
部を軍糧として略奪された。しばらくするとそれでも足りず、日本の手先の
親日派のやつらがのさばって家々をまわり、竹槍まで持って、甚だしくは非
常用に僅かな量を隠しておいたものまで探しだし、怒鳴りつけながらすべて
を盗んでいった。そして、真鍮の食器や祭器など金属製のものもすべて持っ
ていき、松油まで採取させ、戦争遂行に必要なものは余すところなく略奪し
ていった。自ら農耕をしながらも〔食べ物のために〕歩き回り、草根木皮で
も飢えた腹は満たせず、皮膚がむくんで病死し、餓死者まで続出してこのう
えなく悲惨であったという。
太平洋戦争当時、我が国は物的、人的に完全に抹殺されたのだ。このよう
な結末は、国家のない国民の悲しみであり、主権のない民族のつらい痛み
だった。
194
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
解決されない労賃問題
私たちの給料は 110 円から 120 円だった。現地で毎月 20 円ずつ支給し、
家族に送金するといって月 50 円ずつを差し引き、残りは日本の横須賀郵便
局に預金したが、1 年満期後に帰国する際、元利金を支給するということ
だった。
私たちが現地支給によりミレ島で受け取ったのは 10 ヶ月程度だと記憶して
おり、家族送金もやはりその程度だと思われる。上のお兄さんが受取人だった。
生きて帰ってきただけでも幸いなのに、兄弟の間で金銭問題をいちいち持ち
だすこともないと思ったので、確かなことは聞かなかった。帰郷して調べる
と一銭も受け取っていないという人もいた。
このお金は、肉体的につらい奴隷のような扱いを受けながら、血の涙をな
がした苦役の代価である。日本は私たち個々人に支払う義務があり、私たち
は当然受ける権利があると思う。日本政府当局には私たちの名簿があり、預
置金内訳書類などがあるだろう。韓国政府に移送しなければならないにもか
かわらず、提示してくれない。私たちが現地に滞在した期間は 3 年 5 ヶ月から
4 年数ヶ月であった。
私たちの同志は、生きるのを諦めるなかで、生きて帰ってきた。だから生
きながらえたという満足感に酔っていた。ほとんどが貧しい家庭だから、ま
ず生計を維持するのに忙しく、生活に追われていた。だからお金を貰わなけ
ればならないと考えるだけだった。無知な私たちには何の証拠書類もなく、
対策のしようがなかった。
私たちは日本の敗北で解放となったが、外勢による解放だったため、米軍
政下で民族主権がなかった。両強大国によって朝鮮半島には国境ではないが、
国境のような 38 度線ができ、南と北が民主、共産という理念のもとに単一民
族でありながら敵のように憎んで敵対視し、双方が対峙している状況だ。南
北の合意による統一は不可能で、やむをえず南半分だけが共和制の大韓民国
を樹立した。我が民族の宿願であった独立は、紆余曲折の末に樹立はされた
が、創出期でまだ機構がしっかりしておらず、対日関係の清算問題は無関心
のまま流れてしまったのだ。
私たちは悔しさを訴えたことさえなかったから、曖昧なままだった。しか
し、月日が経って安定し、秩序が正常になれば、徐々に解決策が用意される
195
だろうと期待していた。だが思いもよらない共産軍の侵略で、6.25 という同
族が相争う悲劇が勃発し、政治首都から後退して行政は麻痺され、沈滞した。
そのため、うやむやになって遅れざるをえなかった。
1995 年 6 月、マーシャル諸島のミレ島と離島の踏査記
半世紀である 50 年前の過去を振り返ると、波瀾万丈で、紆余曲折が多かっ
た。悪夢であり、地獄のようだった。考えただけでも鳥肌が立つような死の
淵で、私たちの若い同胞たちがどれほど血の涙を流して泣いただろうか。日
帝の戦争遂行という名のもとで、非常に過酷な労働に肉体的に従事し、つい
には純真で善良な我が民族が、残虐無道な日本人の銃剣により、何も言えな
いままむなしく殺された。その太平洋の孤島、ミレ島の離島だったチルボン
島事件の島をちょうど 50 年ぶりに調査することになった。
日本の関西テレビ局の良心的な徳永俊彦記者が、遺族会会長と打ち合わせ、
戦後 50 年を期してチルボン島虐殺事件のドキュメンタリー153 を制作するため
に現場で真相を取材することになった。
遺族会側では会長と、事件当時の首謀者であった朴鍾元氏、事件後責任者
として班員をつれて死体処理を担当した邊漢権班長が証人として参加。遺族
代表として高チュンソク 154 さんら 4 人が選ばれ、テレビ局側では徳永氏他
2 人とその当時ミレ島基地に駐留していた海軍 1 人、陸軍 1 人が参加すると
のことだった。
遺族の高チュンソク〔高允錫〕さんは、1942 年に亡父高在龍(コ・ジェ
リョン)氏が日帝下の第 4 海軍施設部に私たちのように強制的に連れて行か
れた時は、16、7 歳の幼い年だった。父と別れたのがとても悲しく、父が忘
れられず、光州から列車に乗って大田までついて行ったが、見つかって追い
出されたという。幼い頃からとても親思いだった。
高さんは父が行ってから、母の世話をし、一家の扶養責任者になって 4 年の
歳月の間、困難な中でも一日も父を忘れたことがなく、寝ても覚めても無事に
153
〔このドキュメンタリーは「飢餓戦線の果てに 南の島の 60 年目の証言」として放映。〕
154
〔韓国語原文は高チュンソクであるが、日本での訴訟資料から高允錫(コ・ユンソク)とする。〕
196
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
帰ることを心から願い待ち焦がれていた。しかし父は自爆して永遠に戻れなく
なった。高さんは解放後まで期待して待っていたが、帰ってきた生存者たち
から突然、死亡したという話を聞いて、衝撃で気絶しそうになったという。
人生は無常でむなしい。恨(ハン)にみちた高さんは、自宅の裏山の良い
場所を選んで墓をつくり、霊を祀った。生前にできなかった息子の道理をつ
くし、亡くなった 3 月 1 日に心を込めて祭祀したという。
心は有縁千里で遠いとは思わないから、父の最期の場所を訪ねて大声で父
を呼べば、心の中にやどった恨も多少は薄らぐだろう。しかし遠い太平洋の
果ての地図にもない小さな島で、自爆の場所もわからない。一人で訪ねて行
くことはできないし、うわさをもとに探そうとしたができかねていた。
高さんは、父を殺した元凶は日本人であり、敵は日本だと嘆き、その怒り
を抑えられなかった。日本について過去を知る人はみんな同じであろう。高
さんは事件後 50 年ぶりに日本の関西テレビ局と我が遺族会が合同で現地調査
をすることを知った。寝ても覚めても宿願だったこの絶好の機会を逃すこと
ができず、一緒に行って亡くなった場所を見て、せめて土でも一握り持ち帰
れればと思って同伴を願った。そして遺族代表として同行することになった。
今回の現地調査は、個人の事でも遺族会のみの事でもない。実に国際的問
題であり、歴史的問題である。時すでに遅しの感はあるが、私たちの力では
どうしようもないことである。この機会に現地調査をし、日本人と一緒に証
拠を見つけ、真実を明らかにし、国内外に日本の残虐性を暴露して公にすべ
き重大な事案である。このような重大な事案に対し、政界筋に協力を要請し
てもまったく返答がなかったという。もちろん政界や政治家たちの中に良心
的な愛国者がまったくいないわけではない。個人や少数者が意思を提議して
も、政権欲だけにとらわれている人々に押されてうやむやになり、ことを成
し遂げられないのが現実だ。ほんとに残念だ。
遠い異域の寂しい孤島で、日本人たちが空腹を満たそうと、我が同砲を平
然と無人島で殺害して食物にしたことは、人間としてしてはならない度を越
した非人間的行為である。とてもそのまま見過ごすことはできない、限界に
達したのだ。民族の精気として断然として抗拒、抗争したが、失敗して惨殺
され義理堅く死んでしまった。その当時はどうしようもできない状況であり、
死体も土に埋めることもできず、そのまま放置したが、魂は安らかでなく、
197
呪いながら黄泉をさまよっているだろう。政府レベルで遺骨を探して収拾し
なければならず、慰霊塔も建て、慰霊祭をして霊たちを慰めて追慕するのが
当然であろう。これは国家的問題であり、歴史的問題である。私たちの子孫
たちがつらかった過去の受難を忘れないために、何らかの形を残すのが当然
と思うが、思うようにいかないのが残念だ。日本は戦後、各地の戦地で遺骨
を収集し、巨大な慰霊塔を建て、盛大な慰霊祭まで行っているという。
我々生存者たちが、常に望み願っていた千載一遇の機会を控え、重責を
担った邊漢権さんが突然中風で倒れ、入院しなければならなくなった。中風
なら簡単になおる病気ではない。そのうえ年寄りだ。重要な時期に絶対に必
要な証人が、病魔におかされ苦しんでいるから大変なことになった。事件当
時、主導者だった朴鍾元は、ことの動機と原因はよく知っているが、追われ
て隠れていたので、後始末のいきさつは詳しく知らない。だから痕跡を探し
出せそうにない。そのうえ病のため動くのも困難だから不都合が多い。
ついに決まった日程が差し迫った。邊さんの病気の状態をよく見て、とく
に支障がなければ旅行中に服用する薬を十分に準備し、高さんと私が全面的
に看護の責任を持って最善を尽くし、途中に異常があるときはすぐに対応す
ることで、邊さんおよびその家族に頼んでみた。幸いにも回復の兆しがあり、
病院でもあまりにも無理をしなければ遠出しても構わないと言うので、邊さ
んも一緒に行くことになった。
1995 年 6 月 12 日、崔会長と朴鍾元さんは日本の関西テレビ局の一行と同
伴することにして日本に渡り、我々一行は 14 日にグアム島で日本から出発し
た一行と合流することにした。
6 月 13 日午後 9 時、金浦空港からコンチネンタル航空の便で高さん、邊さ
ん、私の 3 人が出発し、14 日午前 1 時にグアム島の空港に到着した。私たち
一行 3 人はその日の午前 7 時ごろ、日本から来た崔会長と朴鍾元さん、関西
テレビ局の 3 人のほか、ミレ島に駐屯していた海軍の金丸利実、陸軍の末村
良雄さんの 2 人と合流した。
日本人とは初対面の挨拶を交わした。二人は過去にミレ島に軍人として駐
留したと自己紹介をした。ミレ島では軍人たちは施設部に対して干渉をしな
かったが、日本人に対する嫌悪感、悪感情がどっとよみがえった。過去に
我々朝鮮人に対して日本人はひどい差別、過酷な労働を強制し、棒で叩いて
198
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
多くの人を不自由な体にし、甚だしくは虐殺までした。そんな非人間的で残
虐な行いはとうてい許すことができないと追及すると、言葉では言いあらわ
せないが、自分たちは過去の過ちを日本人として心から謝罪し、過去の軍国
主義の過ちを切実に反省しているという。
合流した私たちの一行は、14 日午前 8 時 30 分、グアム島の空港から
コンチネンタル航空の便で出発し、トラック島、ポンペイ島 155、コスラエ島 156、
クェゼリン島 157 を経由して同日午後 4 時 30 分にマジュロ島空港に到着した。
マジュロ島はマーシャル諸島共和国の首都だという。私たちは 50 年前、
ミレ島の各離島から脱出して米軍船に救助され、マジュロ島で1ヶ月間捕虜
として暮らしてハワイに移動した。マジュロ島は山もなく平坦な小さな島
だったが、2、3 階建ての建物が並び、ホテルも多く首都のおもむきを備えて
いた。
ホテルで 1 泊し、15 日に小型飛行機でマジュロ空港を出発して約 30 分後、
ミレ島上空から旋回する際に見下ろすと、各離島で構成された輪郭が絵の
くっきり見えた。しばらく後に、昔の滑走路に着陸した。
滑走路に降りると、50 年の歳月が過ぎたのに、まるで昨日のことのように
当時の悪夢がよみがえった。
この飛行場や滑走路を作るために、私たち 800 人の同胞が、日本人のどな
り声の号令とひどい強制により、棒で打たれ身を切るような痛みで血の涙を
どれだけ流したことか。しかしその程度なら平気だった。米軍の爆撃が始ま
ると、私たちはシャベルとツルハシで破壊された滑走路を埋めて、作業中に
2 次、3 次の来襲がくると、爆撃の中で戦々恐々として恐怖症になってもが
き、死を覚悟して昼夜の別なく働いた記憶を、どう言い表すことができよう
か!言葉に詰まってしまった。
ミレ島は私たちが短い人生まで諦め、故国の地を二度と踏めないだろうと
いう思いで過ごした所、そこを私のような者が再び訪れるなど夢にも思わな
かった。ほんとうに感慨無量だった。
多くの先住民たちが来てあたたかく歓迎をしてくれた。邊さんと二人で年
155 PohnpeiIsland。普通 Ponape(ポナペ)として知られている。
156 KosraeIsland。ミクロネシア連邦の島。
157 KwajaleinIslandonKwajaleinAtoll。クェゼリンはマーシャル諸島内の最大の環礁。1944 年 1 月 30 日
からの米軍侵攻により日本軍は 2 月 5 日に全滅。
199
配の島民に向かって、私たちは 50 年前に飛行場作業をしたと言うと、自分も
コンクリート作業をしたという。歳を聞くと 77 歳だという。私が病院で医務
助手として働いたというと、自分も先住民のために病院で勤務したと親しく
握手をもとめ、久しぶりに会ったとうれしそうに迎えてくれた。韓国語は一
言も知らないが、歳を取った人は日本語が通じた。
飛行場のはずれの隅だけに椰子の木が緑豊かに成長し、滑走路は少し亀裂
した隙間に雑草が茂っているが、元のままで大きな変化はなかった。小型飛
行機の離着陸は、飛行場の中央の直線で行われた。
ミレ島は爆撃で島全体が焦土化し、繁った木は一本もなかった。今はふた
抱え以上もあるパンノキや椰子の木が鬱蒼とし、蔓豆の葉が全島を覆い、その
昔私たちが上陸した当時そのままの自然を象徴するような風情があった。
滑走路から小型トラックで住民たちの宿舎に行き、関西テレビ局が用意し
た簡単な昼食を終えてしばらく休憩を取った。ミレ島から各離島を調査しよ
うとすれば、船便を利用しなければならない。ミレ島には 2、3 人乗りの小さ
な船しかなかった。関西テレビ局がマジュロ島で中型船をチャーターして待
機させた。
午後にルクノール島に行くことにして、私たち一行 5 人と日本人 6 人、先
住民 10 人余りが小型船から中型船に乗り替え、各離島の内海の海岸に沿っ
て行く途中、日本人の陸軍だった一人が、ミレ島には終戦後に慰霊祭などで
12 回来たといって島名を一つ一つ教えてくれた。ルクノール島の海岸に着く
と夕方になった。
関西テレビ局の徳永氏が、まず事件があったチルボン島に行くのがいい
と言ったが、潮がかなわないので、行くことができずに船室で 1 泊をした。
どの島も宿泊施設がないうえ、蚊がでて困るので、船室で宿泊することに
なった。
16 日、ルクノール島を出発しチルボン島の海岸に到着したが、潮時が中途
半端で明日上陸することにして船で 1 泊した。
17 日早起きして小さなボートで邊さんの外、数人が一陣としてチルボン島
に上陸した。私は初めて来る島だったが、この島で 50 年前に暴悪無道な日本
の殺人魔に対して立ち上がり大事件を起こしたとして、無残にも 120 人にも
およぶ我が同志たちと先住民が殺された所だと思うと悲哀を禁じえなかった。
200
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
パンノキもたくさんあり、現地生産だけでも 4、50 人の生計を維持できそう
だが、交通が不便なのか、わずか 3 世帯だけが居住していた。
私たち一行全員が上陸するまでに時間の余裕があったので、邊さんと私は
島の最初の入り口で一番多く虐殺され、班長たちが自爆したという所をまず
確認しようとした。それを見に行こうとしたが、椰子の木の落ち葉がぎっし
り積もり、背丈を越える雑草が茂っており、一歩も入ることができなかった。
棒でからまった雑草をかき分け、パンノキがいくつかあったという地点を目
標にようやくたどり着き、あちこちを掘り返してみたが、落ち葉と雑草で覆
われて地面が見えず、50 年という長い歳月によって自爆した場所もここなの
か、あそこなのか、見つけるのが難しかった。
一行と一緒に後で、再びじっくりと記憶をたどって探索することにして、
一行がいるところへ行った。すでに一行は島の中央の表側の海岸で、先住民
とともに目印のある所を発掘していた。しばらく掘ると遺骨が出た。崔会長
は上着を脱いで掘り出した遺骨を拾い集めながら涙を流していた。それでな
くてもやるせない気持ちがいっぱいで、私たちも自然と涙がでた。地盤が薄
いので海水が染み込み、水の中を探って発見した。小さな骨はなく大きな骨
と頭蓋骨があったが、ひどく損傷していた。
発掘が終わるとその場に安置し、敬虔な心で愛国歌とアリランを歌い、魂
を哀悼して慰めた。そこから百歩ほどの所に目印されたもう一つの場所を発
掘し、今度は高さんの服で受け取って安置し、先ほどのように儀式を終えた。
関西テレビ局はひたすら、すべてを熱心に撮影した。住民たちの話では、他
の場所ははっきりしないので子細に探さないといけないが、地面が見えない
ので探すのは容易ではないという。
邊さんは事件の時に殺された人ではないようだという。その当時は言うま
でもなく、それ以後もきちんと地面を掘って埋葬までしたことはないとのこ
とだ。しかし、2 番目に発掘した遺骨は、骨の節が大きいことから見て、事
件後に配置されて殺された長興班の馬道章班長に間違いなさそうだという。
発掘した 2 基を住民たちの宿舎の近くに安置して昼食を食べた後、初めに
私たち二人が探査したところへ行った。一行があちこちそれらしい所を掘り
かえしても、遺骨はみつからなかったが、ある椰子の木の根もとを探って脚
骨のかけらを発見した。この骨は事件時に犠牲になったのは明らかだった。
201
高さんは生涯忘れられない父が、異域の孤島で自爆したという場所を確認
し、できれば土を少し持ってかえるつもりだった。だから邊さんと一緒に思
い出すがまま注意深く探してみたが、50 年ものあいだ風雨にさらされ、木々
も成長して変わったから、正確な位置はわからなかった。
高さんは恨みにみちた怒りがこみ上げ、父を大声で呼びながら「不孝者の
チュンソク〔允錫〕が来ました!」と、嗚咽し泣き叫ぶ。私たちは昔の同志
だったから言うまでもないが、聞く人を哀れで、もの悲しく切なくさせる。
いつも父が亡くなった島を訪ねるのが心からの願いだったから、亡くなった
所に来て父を呼んでみただけで、万分の一でも子どもの道理をつくしたこと
になり、少しは慰めになったという。
邊さんは、チルボン島事件後さらに恐怖にかられ、前後の見境もなく精神
的にまいっていたから適当に処理した。だからきっと遺骨を発見できると
思っていたのに不思議だと言う。住民にそう言うと、いつか日本の学生たち
が来て持っていき、どう処理したのかわからないといった。確かなことはわ
からないが、それなら後の問題をなくすために証拠を隠滅したのではないか
と思われた。
とにかく私たちには重要な任務であり、大きな期待をかけていただけに失
望も大きかった。あれこれしたが実績も得られず、時間だけを浪費して、夕
方になり潮時に合わせて船に戻らなければならなかった。邊さんは、防空壕
は扉を崩して覆っただけなので、防空壕さえ見つければ必ずあるはずだと言
う。明日は成果があることを期待して全員船に戻って 1 泊した。
6 月 18 日、引きつづき上陸し、邊さんと朴鍾元さんが防空壕があったとい
う付近のあやしいところを掘ってみたが、徒労だった。すべて地面が覆われ
て見えないので、見分けるのが難しかった。それでも日程が決まっているの
で時間の余裕がない。十分な時間と多くの人員で幅広く記憶をたどり、じっ
くりと一つ一つ探せば見つけることができるだろうが、せわしない日程では
それもかなわず、残念ながら期待しただけの成果はなく終った。
関西テレビ局は、昨日もあちこちかけずりながらしつこく撮影し、今日も
日本人が襲撃してきた最初の所に行き、島の周りを広範囲に撮影した。海辺
を一周して死体があったというところは残らず撮影し、朴鍾元さんが椰子の
木に登り身を隠した付近も撮影した。しかし、実証できるだけの証拠は見つ
202
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
からなかったので、まったくの無駄骨だったようで気の毒だった。
住民たちの話によれば、前に金ウォヌン国会議員が現地を訪れ、遺骨を発
掘し、裏側の海辺に奉安したという。私たちも発掘した遺骨を同じ場所に奉
安することにした。
高さんが出国前にあらかじめ充分に用意してきた祭祀用の供物と住民に頼
んで購入した豚肉をまごころ込めて並べ、その当時 40 代の最高齢で役職が団
長であった父のために、高さんが遺族を代表して祭主となった。葬儀の服を
着て敬虔な心で厳粛に、亡くなった恨み多き霊たちがやってきてたくさん食
べるようにと慰霊祭を催した。テレビは私たちの行事の場面を撮影し、日本
人一行も敬虔に参拝をした。私たちは愛国歌とアリランを合唱して儀式を終
え、前日奉安した傍に臨時に奉安した。
日程に限りがあってきちんと探索できず、未練を残しながら午後遅く全員が
乗船し、チルボン島を出発してルクノール島に上陸した。邊さんもルクノール
島に相当期間居住しており、私も 4 ヶ月余り滞在した。島は小さいが、ミレ本
島に次ぐいい島だ。私は本島では体が痩せ細って体力を失った状態だったが、
この島に来て完全に回復したので感慨深い島だった。上陸してみると昔の趣
がなつかしく、さらに感慨をあらたにした。
ルクノール島の目的は 1945 年 3 月 1 日、チルボン島事件当時、海岸や海
に避難していた仲間を誘いだし、3 月 2 日の早朝に事務所の隣に穴を掘り、
15、6 人を銃殺するのを邊さんが目撃した事実を確認するためだった。邊さんと
私は、チルボン島で得られなかった成果をルクノール島で挽回できる、ここ
だけは簡単に見つけられるだろうと期待した。いざ調査してみると思い違い
だった。昔の建物は跡形もなくなってはっきりしない。見慣れているところで
事務室を出入りしていたのに、その付近というのは大体推測できるが、見分
けられないので、正確な位置を把握することは容易ではなかった。よく知って
いるという住民を連れてきて見せても私たちと同じだった。
邊さんと私は、追いつめられた人のように心だけがあせり、あちこち目探
りばかりしていたら、もう日暮れになっていた。待つ時間はゆっくりと感じ
るが、決められた時間は早くすぎるものだ。事務所近くは落葉もなく雑草も
たいしたことはなかった。その当時、あるところに穴を掘り射殺して埋葬し
たので、時間の余裕があればじっくり調べて発掘して明らかにできるのに、
203
限られた時間の関係で二度と得られない、いい機会を逃してしまった。時は
あまりにも無情であり、うらめしいばかりであった。私たち一行は大きな期
待をもって来ただけに、虚脱感と失望は大きく、このうえなく残念であった。
実況を目撃した人を探すのも容易ではないのに、70 歳を越える証人たちの
明日を誰が約束できるのだろうか。たとえ今後機会があったとしても、誰が
見つけることができるというのか。永遠にベールに包まれて隠れてしまうだ
ろうし、月日がたてば自然に忘れさられる。
ルクノール島の住民たちの居住地は、昔に比べるとかなり改良されてよく
なり、人口は 100 人余りだという。食生活はパンノキの実など、島で生産さ
れたもので維持できるという。周囲の環境も清潔で整頓されていた。ちょう
どその日が日曜日で、男女老少 18 人余りが教会で礼拝をしていた。
日没時にルクノール島を出発してミレの本島に上陸、夕食を食べて住民の
公共庁舎を借りて一泊した。
6 月 19 日、私は早起きして昔を思い出しながら島の中央の住宅を回ってみ
た。なにせ小さな島で、発展の余地もないので大きな変化はなかったが、私
たちが上陸した当時に比べるとかなり改造され変わっていた。学校の教室や
教会などは結構大きく建てられており、住宅付近はすっきりと清潔に整えら
れて気持ちがよかった。空襲当時の爆撃の穴は、島のあちこちに円形のまま
残り、雑草と椰子の木が繁っていたが、その当時の戦慄をあらわにしてくれ
た。私が働いていた病院の跡を訪ねてみると、椰子の木がぎっしり生え、雑
草が生い茂り、昔の記憶ははっきりしない。十年もすれば山河も変わるとい
うが、50 年たっても島は変わらず、私の記憶力だけが大きく変わったという
気がした。
先住民はもともと柔順で優しい人々だ。人口は 300 人余りだという。生活
状況は、パンノキの実が主食であり、喉が乾けば時々椰子の実をとって水を
飲めばいいという。生活必需品は、椰子の実のコプラを採取し、石鹸の原料
などとして輸出し、購入するという。ミレ島はマーシャル共和国の領域で、
毎週 2 回首都から定期的に小型飛行機が往来するという。
事件の首謀者であり、目撃者証人である朴鍾元さんは病気で半身不随になり、
横で支えなければ一歩も動けない体であった。死体処理の責任者だった邊漢
権証人は、中風で入院した後に退院し、通院治療中でやっと回復段階にある
204
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
不自由な体であった。ふたりとも病者であった。二度とない絶好の機会を見
逃すことができない方々、不自由な老体を引きずり無理な苦しみに耐えながら、
希望を持って長期間の現地調査をした。しかし限られた日程、不十分な条件
によって期待どおりにならず、無念にもミレ島に最後の別れを告げることに
なった。そのため私たち一行は、寂しさと虚脱感でいっぱいであった。
私たち一行は、小型トラックで飛行場に来て待機した。午後 2 時ごろの飛
行機で、住民たちの歓送を受けて別れの挨拶をした後、ミレ島を離れ、マ
ジュロ島、グアム島を経て翌日、金浦空港に到着した。
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
はじめに / 戦場の青年たち / 同志、金周錫 / 高麗独立青年党の結成 / 挙行計画 /
アンバラワ義挙と 3 人の義士 / 第 2 計画の失敗 / 第 3 の計画 / 党員逮捕後 / 後記
安承甲
倭奴たちの手にかかって死ぬより、
国のために闘って死のう
4
208
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
安承甲(アン・スンガプ)創氏名:安田桂薰
1923.1.27. 忠北清州郡賢都面竹田里生まれ
1942.6.
面書記勤務中、陸軍軍属捕虜監視員に徴用、釜山、西面の野口
部隊で訓練
1942.8.
インドネシアのバンドンのオランダ人抑留所捕虜監視員
1945.8.15. 日本敗戦後、戦犯裁判にかけられる
1947.2.
帰郷
本文は諾山奨学会が 1998 年 7 月に発刊した『諾山安承甲先生』(良書閣)
の一部を抜粋したものです。
はじめに
私がこの文を書くことになったきっかけは、高麗独立青年党の抗日闘争に
よりジャワで殉国した三人の義士の魂を慰めるためであり、大衆雑誌「実話」
1957 年度 2 月号別冊(148 ~ 155 頁)に辛某氏が高麗独立青年党について虚
偽の内容、「南方ジャワを震撼させた抗日闘争-秘密結社組織高麗独立青年党
はこうして戦った」を記したことへの怒りによる。英雄になろうとするため
の虚偽の報道により、今後、愛国が汚されないことを願ってペンを取った。
私は愛国や孝行は、誰かにほめられるためにするのではなく、人間が持つ
純粋な情と湧き上がる血が、義のために自然と放出されるものだと固く信
じる。
わたしたちは遠い他国の歴史まで見ることなく、私たちの半万年の歴史だけ
でもこの高貴な奥深い道理をいくらでも悟ることができる。つまり、私たち
の歴史だけでも多くのことを学び、頭をたれて感化され、衝撃を受けるのだ。
当時の植民地環境は、半万年の歴史をいとなんできた我が国民の胸に火を
つけ、沸きたつ血と高鳴る胸を持つ若者たちは、自殺でもしてしまいたい苦
しみに、じっとしてはおられなかった。そんな鬱憤を大義で表現した人は愛
国志士となり、愚かなことで表現した人はやくざになった。
209
イエスが十字架に張りつけられた時、安重根義士が絞首台の露と消えた時、
論介が晋州の南江に身を投げたとき、かれらはどんな対価を望んだろうか。
安重根義士が伊藤博文の胸に向かって銃を撃ったのが私的感情や英雄心のた
めだったら、世界から忠義の手本として崇拝されなかっただろう。
このように彼らは大義のために命を塵芥のように捨てても、誇ったり自慢
したりせず、対価を望んでいない。なのに、今日の人々は細々としたことま
で他人に知らせ、賞賛を聞き、代価を願っている。義とは大きなものにだけ
価値があり、小さいものはないという今日の思考様式こそ、千年万年の長きに
わたって糾弾されねばならない。
高麗独立青年党 158 の活動を、自分がしたことのように偽装し、雑誌社や新
聞社に寄稿して無かった事実をあったかのように、小さなことを大きなことの
ように、他人がしたことを自分がしたことのように装った偽の愛国者に対して
は、慨嘆せざるをえない。
我々は「ジャワでの闘争実録」がインドネシア政府を通じて明らかにされ、
歴史を輝かせる日が来るのを待っていたが、似て非なる愛国者たちの虚偽の
でっちあげ報道に火のような怒りが湧き上がったのだ。だから真相を明らか
にする。
これは私たちが英雄心や愛国者として行動するためのものではない。歴史
的事実をそのまま明らかにして、社会の批判を受け、意志を告げられないま
ま南方の異域、ジャワ島の椰子の木の下で先に逝った 3 人の同志の魂を、百
分の一でも慰めるためだ。以下の内容には当時の社会情勢と私が見聞きした
ものも含まれている。
生き残った私たちは、義により殉職した孫亮燮(ソン・ヤンソプ)、盧秉漢
(ノ・ビョンハン)、閔泳学(ミン・ヨンハク)159 の 3 人の同志の英霊に対して
大きな罪がある。ここで真相を明らかにし、三英霊に許しを乞う。
158 インドネシアで朝鮮人軍属が組織。高麗独立青年党は 1944 年 12 月に血盟党員 10 人を中心に組織された秘
密結社。中国重慶にあった臨時政府に連絡。インドネシアの抗日華僑組織と連携し、適当な時期に武装蜂起
して日帝と戦う準備をした。1945 年 1 月、党員の一部にマレーシア方面への移動命令がだされ、連合軍捕虜
とすみれ号に乗船。捕虜と連携してすみれ号の奪取を計画したが、乗船前に計画が発覚。組織の存在が日本
軍憲兵隊に知られ、血盟党員は逮捕、ジャカルタの陸軍刑務所に収監。「治安維持法」違反で懲役 7 年から
10 年まで実刑を宣告されたが、服役してまもなく日本が降伏、釈放。戦犯裁判にかけられたこともあった。
159 孫亮燮と盧秉漢の創氏名がわからないので日本軍の履歴などを見つけられない。閔泳学(岡田泳学)は
〔アンバラワで〕1945 年 1 月 6 日に自殺の記録がある。〔孫亮燮は永松亮燮、アンバラワ事件主導後、自殺。
盧秉漢は岡村秉漢、アンバラワで 1945 年 1 月 6 日に自殺〕。
210
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
戦場の青年たち
日本軍はシンガポールを陥落させ、ジャワを占領したが、いわゆる「大東
亜共栄圏」を構成するのに欠かせない人手が不足した。そのため韓民族を利
用しようとした。
日本は満洲をはじめ、中国全体を揺るがし、仏領インドシナを経てマレー
半島やタイ、スマトラ、ジャワ、ボルネオなど広範囲な地域で戦争をしてい
た。そこで不足した兵力を満たすために志願兵、学徒兵、軍属などの制度で
人々を募集した。その中で最も面倒なのは捕虜の問題だった。釈放すると再
起して攻撃するだろうし、収容して監視をしようとしても人が足りないし、
殺すと国際世論に批判される。そのため監視要員として陸軍軍属を募集した。
1942 年 6 月 10 日頃、全国での徴用選考で合格となった陸軍要員 3,000 人は、
釜山の西面に設置された仮設兵舎、野口部隊で 6 月 15 日から 2 ヶ月間徹底し
た軍人教育を受けた。「気をつけ、敬礼」から始めて日本の皇国臣民教育まで
受け、8 月 19 日午後 5 時、輸送船団に分乗し、ジグザグ航法で 9 月 14 日に
ジャワ島バタビア(ジャカルタの昔の名前)の沿岸ダンジュンプリオク港 160
に着いた。日本軍がジャワを占領してから 5 ヶ月後のことだ。
私が軍属に志願したのは、2 年服務で初給 48 円の大金という餌もあったが、
高等警察の刑事から抜け出すことが主な目的だった。私たちの故郷では子ど
もたちに反日思想を吹き込むため、少年団、青年団が組織され、夜学を開い
て啓蒙した。しかし、高等警察の刑事が執拗につきまとったので、これを
避けるため、陰城郡の金旺面で畑作技手 161 の発令を受けた。そこでもやはり
地下活動をした。
当時は一般行政だけではなく、全職員に各村を担当させ、生活全般を指導、
監視させた。私は、住民に独立の精神を植えつける良い機会だと考え、喜びを
禁じえなかった。私は上部の命令を徹底的に周知させるという口実で、担当
した内谷里、社倉里で村民たちを訪ねた。彼らに、希望を持ち人生のやりが
いを見つけるようにといい、融合し団結すれば達成できないことはないと、
暗示した。当時の面長であるチョン・インソプ氏は、私が命令を徹底的に履
160 Tanjungpriok、ジャカルタの北方
161 技手は当時、行政機関の技術員である。畑作技手は畑作物を育てる業務に従事。技士の下の判任官と同等
の地位。
211
行しようと努力していると思い、「私は周辺の僻地の集落をまず啓蒙しようと
した。郡や道から出張でくると、新道の周辺だけを見るので喧しいから、明
日からは面所在地である無極里を担当してくれ」ということだった。
私は内谷里、社倉里の住民たちに自立の精神(独立精神)を養うことをく
りかえし頼み、無極市場 600 号を担当し、カード制を通して人口動態、職業
動態、生活状況などを徹底的に調べた。他人には、徹頭徹尾の親日愛国者の
ように振る舞って、集団活動に力を注いだ。しかし、要視察人物だと高等警
察の刑事が常に尾行していた無極里 2 区に居住する張基蛍氏と秘密裏に通じ
ていたため、それに気づいた駐在所は、再び私の背後をあばこうとし始めた。
「なぜ私たちは他人の支配下で生きなければならないのか?私たちも私たち
の力で生きる道はないか」と力説して集団活動に気をつかっていたある日、
駐在所の張仁賛巡査が私を呼んで、志願兵として出て行くのがいいと言った。
それは私が住民に独立精神を吹き込んでいる不純分子だったため、軍隊に追
い出そうとする計画だったのだ。私はすでに跡をつけられていることを知っ
ていた。
子どもの日の記念写真(夜学)
212
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
しかし、両親に相談してから決めると言った後、ちょうど南方行の軍属の
募集をしていたので志願した。これは高等警察の刑事から抜け出して自由を
求め、広い世界で自分自身を広げたいという考えからだった。そして、日本
のヤツらのために兵士として無駄に戦って死ぬよりも、非戦闘要員として行
く方が私にとって民族の得になると思ったからだ。
同志、金周錫
釜山西面の教育隊に集結してみると、その中にはお金を稼ごうと志願した人、
家庭環境を悲観して志願した人、上級学校に進学できず志願した人、私のよ
うな不純分子で追われていく所がなくなって志願した人などが混在していた。
内務班「い」の1小隊 2 分隊には林憲根、金賢宰、金周錫と 3 分隊には李
億觀など 162 私と意志を同じくする同志がいて、思想的温床のようだった。
私の隣の席の金周錫同志は、思想が不純だという罪目でソウルの仏教専門
学校を中退させられた後、怒りを我慢できず、軍属を志願した。しかし軍属
生活は、「靴が小さくて履けません」というと日本の上等兵はかっとなって、
「何?バカヤロウ、軍隊で足に靴を合わせようとするヤツがどこにいるか?靴
に足を合わせるもので、足に靴を合わせるのではない」と言われることから
始まった。これは軍属の訓練ではなく軍の訓練だった。彼は苦情を我慢できず、
故郷の友人に手紙で、「軍属なら民間人の待遇で、人間として接してくれると
思っていたが、軍人が受けるような高強度の訓練と、民族精神の抹殺教育だけ
だから疲れてしまった」。このように書いたが、内務班長の江上軍曹と小林伍
長にばれて、小隊長の鈴木中尉に叱られた後、班の上等兵に思いっきり叩か
れ、再び軍属生活の不平を吐露できなくなった。このように個性を抹殺する
生活の中で、誰が先頭に立って反抗できるのだろうか。
私は灯りを消した後、内務班が静かになり、親友たちが眠った後に金周錫
と二人だけでひそひそ話した記憶が、鮮明に残っている。
162 林憲根、金周錫、李億觀は創氏名が記載されていないため、日本軍の履歴などを見つけるのは難しいが、神
石賢宰(金賢宰)の場合、1917 年 10 月 20 日生まれで、ジャワ捕虜収容所に勤務し、1945 年 9 月に現地で解
雇された記録がある。〔創氏名は林憲根が林正雄(ソウル出身)、李億觀は公山豊三(坡州出身・ソウル在住)〕
〔内海愛子・村井吉敬『赤道下の朝鮮人叛乱』(勁草書房 1980 年)では、李億觀を李活と記載、李活は別名。〕
213
安承甲の臨時軍人軍属届
安承甲の留守名簿
「ツバメにどうして鳳凰の大きな意思がわかるか」と言いながら、お互いに
未来をもっとよく、そして日本の滅亡を見通していると言い張ったりした。
金周錫はジャワに上陸した後も自分の思想を隠さずに表し、ひどい憎しみを
受けてタイの捕虜収容所の転属とされた。
私は怒りに耐えられない金周錫に、「急がずに丹念に為すべきことをすぐに
表に出してしまうからこのようになったのだ。海陸万里の遠い道を平安に行
くことを願っている。そこに行っては私がいつも隣にいるように思い、私の
漸進的精神 163 にならい、よく考えて物事を処理すればいい」。
このように話して送り出した。しかし、タイへ移ってから1年で、英国人
捕虜 3 人と共謀し、軍用列車で国境線を突破してインドに亡命し、身を隠す
計画を立てた。彼は捕虜使役の監視に行った隙をみて、タイとインドの国境
地帯の広大な砂漠の中で、捕虜に騙されたのではないかと錯覚し、さまよっ
ているさなか、日本憲兵の追撃を受けて銃撃戦の末に戦死してしまった 164。こ
の悲しい知らせを 8・15 解放後に聞いた。「ああ、意志を同じくしていた愛国
163
〔原文では漫漫的。漸進的と訳す〕
164
〔金周錫は逮捕されて処刑された〕。
214
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
者一人が去ってしまった」と、嘆かざるをえなかった。
高麗独立青年党の結成
日帝が亡ぶことを祈り願って闘争する人が、一人や二人だったはずはない。
釜山の西面で芽生えた思想的同志らは結局、ジャワに行っても機会があるた
びに反日、反日で固くまとまり始めた。私が接した人物は、ある故郷の友人
である林憲根、朴昶遠をはじめ、呉殷錫、白文基らで、彼らに組織を依頼し、
私はバンドン 165 地区党の組織に着手した。
高麗独立青年党を結成することになった動機は、第一に民族的怒りを解き、
何としても独立の機会をつかもうとする思いと、第二に 2 年ぶりに除隊、帰
国させてくれるはずが、期限が経過した後も何の弁明もなく無限にこき使い、
皇国臣民精神を注入し、人間の基本的自由さえ剥奪したからだ。
積極的な闘争として、命令不服従と夜に鉄柵を越えて外出すること、上官
の命令をバカにするなどの方法を用いた。そんなことから反日思想が芽生え
ていることを探知した日本人上官たちは収拾策を講じた。
例えば、ボゴール 166 農場を監視する朝鮮人たちの鉄柵を越える無断外出が
頻繁になると、鉄柵に電流を流し、事務所で自動的に鐘が鳴るようにした。
しかし、朝鮮人たちは針金のきれはしで電線を放電させ、一晩中ベルが鳴る
ようにして、分遣所長の極度な怒りを引き起こした。このような粘り強い闘
争で、夜ごとに非常招集のない日はなかった。儀仗完備の緊急招集で整列さ
せた後、「お前たちはほんとに犬畜生にも劣り、どうしようもない。犬も「来
い」といえば来て、「そっちへ行け」といえば行くのに、お前らはどんな人間
なので、一度言ったことがわからないのか?お前たちは犬に付き従うほうが
いい。間違って生まれたんじゃないのか」と言いながら、聞くに堪えない悪
口を言われ、無視されぞんざいに扱われた。直立して聞かなければならない
165 Bandung、ジャワ島ジャワバラット州の州都。
166 Bogor、ジャワ島ジャワバラット州にある都市。1745 年にオランダ人がつくり、オランダの植民地時代に
はバイデンゾルフと呼ばれていた。植民地時代には総督の別荘がつくられ、避暑地として利用された。現
在も大統領の別宮であるボゴール宮殿があり、19 世紀初から熱帯植物の収集で知られているボゴール植物
園が有名である。
215
安承甲が直接描いた捕虜収容所
安承甲が直接描いたタラン川
作戦地
安承甲が直接描いた捕虜収容所
安承甲が直接描いた弾薬庫
216
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
朝鮮人たちの痛憤は、いかばかりであったか。
非常召集される日の夜は、敵を想定し、3 つの分隊に分けて防御訓練をす
る。その時に農場で育てるバナナとパパイヤの木を折って壊すことで、隊長
から怒鳴られて高じた怒りをいやした。
翌朝の朝会に組長が点呼を受けに来たが、班長が気乗りしない声で、「気を
つけ、右に並んで、敬礼」というと、みんな訓練を一度も受けなかった人々
のように、くねくねと勝手に整列して敬礼した。「番号!」と人員把握点呼の
号令が下されたが、同志たちはクスクス笑いながら、「キャンキャン」、「ワン
ワン」、「クンクン」、「ウォンウォン」など、自分勝手に犬の真似をした。組長
は点呼を受けられなかった。組長があっけにとられてどうしたのかと聞くと、
一人が答えた。「私たちが犬にも劣るというで、犬にでもなってみようと犬の
声で答えたのです」。
一方、バンドンでは室井警部が、些細な感情で同志の朴サンジュンを西洋
人抑留婦女子の面前で殴って民族的侮辱を与えた。すると朴昶遠、林憲根を
はじめ全員が室井警部を集団的に殴打した(室井警部殴打事件は、当時抑留
所の通訳ボマン・オダニ女史が立証できる)。指揮系統はこのような思想的対
立と集団行動を阻む道がなくて頭をいため、再教育の必要性を感じた。それ
でアンバラワ 167 のスモウォノ 168 に教育所を作って不純分子の再教育を始めた。
スモウォノ教育隊に編入された同志は、バンドンでは室井警部殴打の先
立った林憲根、呉殷錫、朴昶遠、白文基など、バタビア、ボゴール、スマラン 169、
ジョクジャカルタ 170 などでは、李億観、金賢宰、李相汶、曺志鴻、孫亮燮など
だった。いわゆる不純分子たちをすべて入隊させ、精神改造訓練を始めたの
だ。訓練の過酷さと厳格さは、言葉では表現できないものであった。たとえば
ちり一つ、たたんだ服のしわ一つまで干渉して、人を機械のように扱った。
しかし、訓練が厳しいほど反日思想は大きくなり、同志はさらに固く団結
した。
金賢宰同志は幸い炊事場の別室にいたため、消灯就寝後の意気が通じた同
167 Ambarawa、日本軍のアンバラワ捕虜収容所があった。
168 Semarang 付近のスモウォノ抑留所
169 Semarang、インドネシアの中部ジャワ州の州都であり、最大の貿易港がある。
170 Djokjakrta、ジャワ島ジョグジャカルタ特別州の州都。
217
志が一人、二人と金賢宰同志の部屋に集まった。そして買っておいた鶏卵や
アヒルの卵を茹で、ウイスキーやブランデーを飲みながら、怒りを押さえる
すべがなくてため息ばかりついた。ただこれによって以心伝心で心が通じる
ようになり、絆がより強くなった。
「それならむしろ積極的な闘争に出よう、それには意志が合う私たちだけ
で血盟を結ぶのはどうか?」。この提案に炊事場に集まった全員が賛成した。
党名は高麗独立青年党としようと決め、もし不幸にも発覚したときは当事者
一人だけが責任を負い、他の党員名は漏らさないようにした。そしてそれぞ
れの指を切って酒杯で血を受け、血杯を飲んで誓った。1944 年 12 月 29 日
だった。
スモウォノ教育は、1944 年 9 月 30 日から 12 月 31 日まで約 3 ヶ月間実施
された。血盟後、総領にソウル出身の李億観同志を選出し、責任秘書〔総書〕
は金賢宰、総務に林憲根、秘密基本党員〔血盟党員〕は孫亮燮、曺圭鴻、呉
殷錫、朴昶遠、李相汶、白文基、文学善など、バンドン責任党員に安承甲、
チマヒ 171 責任党員を林ウォングン〔韓国語原文、林憲根と推定〕、アンバラワ
責任党員を孫亮燮とした。スマラン、ボゴール、スラカルタ 172 など各地でも
邊鳳赫、朴勝彧、琴仁錫などを追って正党員として個別入党させたが、名前
をすべて覚えていないのが残念だ。
私たちは闘争方法と同志糾合、秘密保全などに関する問題で緊張した日々
を送らなくてはならず、機会さえあれば討議に討議を重ねた。私は漸進派な
ので急進派をなだめながら深思熟考して事に当たろうと正党員に呼びかけ続
けた。党員も軽挙盲動を最大の禁物と規定し、一挙手一投足に慎重を期した。
うんざりするような人間改造と思想転換を目的としたスモウォノ教育隊が
解散したとき、接触者の林憲根はバタビアに直行し、朴昶遠同志がバンドン
行きで一晩寝て行く時に、目的を決行する日が近づいたことを知らせた。
第 16 軍司令部では、朝鮮人の扱いに頭を痛め、作戦方法も変更した。思想
転向は不可能だと判断したのか、同志たちの集団行動を粉砕するため、ジャ
ワ島各地の日本軍部隊に分散配置して二重監視を行った。
171 Cimahi、オランダ人の抑留所があり、ジャカルタの東南側 180km に位置。
172 Surakarta、中部ジャワ州にある都市。
218
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
挙行計画
私たちは、捕虜 9 万人をうまく利用すれば私たちの側になるという希望と
確信を持っていた。ジャワ駐留日本軍人と軍属はいずれも 2 万人に過ぎない
ので、同志一千人が軍司令部全部と弾薬庫、武器庫、放送局などを占領した
後、9 万人捕虜を武装させて日本人をすべて殺し、ジャワを私たちの手中に
入れようという計画を実現しようとした。だから外出や出張時には、そうし
た場所の地勢、警備状況などを詳細に調べて時を待っていた。しかし、辛在
観 173 のミスで憲兵に探知され、林憲根、朴昶遠、呉殷錫、文学善、白文基など
党の中堅 5 ~ 6 人がマレーシアの捕虜収容所に転属され、シンガポールに行
くことになった。
林憲根同志は、捕虜の指揮格であるイギリス人大佐とオランダ大佐に秘密
裏に会って、シンガポールに移送される捕虜のうち、船長役の人と機関士と
無線士を搭乗させてほしいと頼んだ。発覚すれば命が危ないから秘密を守っ
てほしいという頼みも忘れなかった。移送される 700 人の捕虜の中に、船を
運転できる人を入れて乗船準備を急いだ。ジャワで挙行しようとした地下工
作は漏れてしまったからだ。ジャワの挙行は残りの同志たちに任せ、2 番目
の計画は航海中に船を奪取し、捕虜と共にオーストラリアに逃亡すること
だった。
アンバラワ義挙と 3 人の義士
しかし、どうしたことか。1945 年 1 月 3 日、アンバラワ分遣所で党員確保
と反乱準備の総責任者として地下工作を行った孫亮燮同志が、マレーシアの
捕虜収容所に転属命令を受けた。孫同志は考えてみると、党員のほとんどが
転属命令を受けたため、情報が既にヤツらにすべて漏れたと判断するしかな
かった。だからこれをどうしたらいいのか。男子として生まれ一度は死ぬの
は同じだが、浅ましく長生きしてヤツらの手にかかって死ぬより、国のため
に闘って死ぬ方が正しいようだ。これをもう一度考えてみて、抱き込んだ盧
173 重光義政:1910 年 9 月 23 日生まれ、忠清北道堤川出身
219
秉漢、閔泳学の 2 人の同志と一晩中方法を考えてみた。しかし、明確な案が
浮かばず、充血した目で夜を明かした。
1 月 3 日午前、仲間たちのシンガポールへの長旅の無事を祈り、話を交わす
送別の宴が催された。仲間たちだけでなく、日本人の班長と上官たちも参席
して酔うまでに飲み、午後 2 時頃に別れた。2 次会まで飲んで 3 人の仲間は
涙ぐみながら、自分のベッドに父母と同志たちに遺言状を書き置いたが、後に
日本人将校が思想的に不穏だとして燃やしてしまった。
「どうせ大きな志がやり遂げられず、追い出されて水死するのだったら、む
しろヤツらを殺してしまうほうがよい」と考えた。アンバラワ分遣所の衛
兵所に保管されていた非常用弾丸数千発と機関銃を兵補の衛兵 174 から奪い、
セダン車に乗せて盧秉漢同志は車を運転し、閔泳学同志は車の上で後方を見
張った。孫亮燮同志は射撃大会で、百発百中の実力で表彰されたことがあっ
たため、前方を見張って走った。彼らは捕虜収容所の事務所をはじめ、将校
官舎、刑務所、郵便局を問わず、日本人がいる場所はみんな探し回って銃撃
し、またたくまにアンバラワ市街を戦場にした。
捕虜監視員の時代
174 監視人員不足でインドネシアの兵補を募集して衛兵勤務をさせていた。
220
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
突然の反乱に人びとはびくびくし、日本人たちはわけがわからず隠れる所
を探した。日本人たちは 3 人の同志が、マレーシアの捕虜収容所への転属命
令を受けたことが悔しくて反抗したとみて鎮圧しようとしたが、日本人さえ
見ればやみくもに撃つのを見て、反日抗挙だと悟り、戒厳令を宣言した。そ
して憲兵隊、捕虜収容所警備員、インドネシアの一般警察、インドネシア幹
部候補生など合計約 800 人余りが、アンバラワ市を二重三重に包囲し、生け
捕る攻撃をした。同志たちの活動範囲は徐々に狭くなった。
3 人の同志が、1945 年 1 月 4 日から 6 日までの 3 日間繰り広げた戦いで、日
本人軍人と軍属、邦人ら 12 名を射殺し、流弾により先住民数人も負傷した。
彼らの悲壮な最後は、李相汶同志が著した「ジャワの追憶第 1 集」の
「アンバラワ義挙の真相」と、李月出同志が記録した「アンバラワ義挙観戦記」
で詳しく知ることができる。
アンバラワの義挙が起こらなかったならば、私たちはジャワ全島の反乱を
成功させ、祖国の名誉を輝かせることができたのにとても残念だった。3 人
の同志の義挙によって党員がバラバラになったり、捕まったりして、反乱を
実行する機会を失ってしまったからだ。
しかし、日本人たちに、私たちの民族を蔑視・冷遇して永遠に皇国臣民化
としようとした計画が、無駄なことだったというのを悟らせる一助となり、
インドネシア民族の独立運動を刺激した。在ジャワ第 16 軍司令部が朝鮮人の
分散配属、再監視制度へと戦略を変更させた事件だという点でも、非常に価
値のある死だった。
彼らの迂闊な行動で、事を台無しにしたことは残念ではあるが、独立のた
めに戦った功績は末永く輝くだろう。
第 2 計画の失敗
アンバラワで義挙が起きると司令部は予定を早め、転属命令を受けた同志
とシンガポール移送の捕虜を乗せた船を出航させた。もちろん、上官たちは
事前にそのような事実を知らせなかった。
アンバラワ義挙を知らないまま、捕虜輸送とマレーシア捕虜収容所へ
の転属命令を受けた林憲根、朴昶遠、呉殷錫、文学善、白文基同志らは、
221
オーストラリアに逃げる良い機会がきたと喜んだ。しかし、いざ輸送船に搭
乗してみると、日本人歩兵一個分隊が一緒に搭乗した。分隊長兼輸送司令官
である小林〔笠原中尉〕が、下した命令は次の通りである。
1. 捕虜監視は分隊員が務める。
2. 捕虜収容所勤務者は全員武装解除し、上甲板に上がって対空監視に就く。
怒り心頭だった。
同志の中には武装解除前に、彼らをすべて片付けた後、予定通り捕虜の中
の船長、機関士を利用して連合軍に無線連絡し、連合軍潜水艦の誘導を受け、
オーストラリアにすぐ行こうとする急激派同志、もう少し航海して時期を見て、
日本人が追ってくる時間的余裕をなくした後に挙行すべきという同志、現在
は軍の占領範囲内にあるため、1つの分隊を殲滅したからといって脱出はで
きず、脱出してもわずか数時間以内に追撃されるという慎重派がいた。
慎重派は「今、挙行すれば命にかかわる。理由はすでに第 2 計画が明らかに
ばれているので、ヤツらは万全の準備を整えているだろう。これは神が私た
ちを試す試練であり、時を待とう」と言った。
なすすべがなく、自暴自棄に陥るしかなかったが、朴憲根同志が提案した。
「シンガポールは中国大陸とつながり、重慶にある我が国の臨時政府と連絡す
ることもできるので、到着してから活路を見いだそう」。
こうしてシンガポールまで、煮えたぎる胸を抱いたまま、義挙の松明をか
かげることができないまま、着いてしまった。
輸送船がマレーシアの捕虜収容所に転属する同志を乗せて、ダンジュン
プリオク港を出発した後、ジャワでは高麗独立青年党の総領李億観同志をは
じめとする血盟党員が、アンバラワ義挙の 3 週間後の 1 月 28 日に、バタビア
(ジャカルタの旧名)憲兵隊に逮捕され、同日スラカルタ 175 憲兵隊に曺
圭鴻同志と李相汶同志が逮捕された。彼らの同志はひどい拷問を受けな
がらも、他の同志の名前を出さず自分たちだけで罪をかぶった。彼らは
2 月 1 日 0 時 15 分発ジャカルタ(バタビア)行の急行列車便で憲兵隊本部に
引き渡された。そこには総領李億観同志がすでに収監されていた。彼らの仲
間はひどい拷問を受けた。そんな中でも言葉を合わせるため、メモでお互いに
連絡をとって、基本党員の幾人かの犠牲だけですんだ。逮捕されていない党員は
175 Surakarta、ソロ川流域の豊かな平野にあり、ソロとも呼ばれる。
222
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
戦々恐々として眠れず、天をあおいで嘆息し、歯ぎしりしてさらなる闘争を
誓いながら活動を続けた。
第 3 の計画
高麗独立青年党の最初の計画である全ジャワ反乱の計画は、アンバラワの
義挙で水泡に帰し、船を奪って捕虜と一緒に逃げようとした第 2 計画も失敗
した後、総領をはじめとする中枢人物は逮捕されたが、シンガポールに上陸
した林憲根をはじめとする同志らは、第 3 計画として重慶臨時政府と連絡し
ようとした。そのため捕虜輸送が終わった後の 2 ヶ月間、兵站旅館に泊まり、
中国語が堪能な林憲根同志が中国人華僑を探して重慶との連絡方法を探そう
としばしば外出していた。
だが不思議なことがあった。兵站司令部では他の同志や日本人兵卒の外出
許可や公用外出証はほとんど出さないのに対し、林憲根同志にだけは公用、
私用を選ばず、外出証をすべて出した。おかげで林同志は、仲間のこまごま
としたお使いを引き受け、必ず連絡路をみつけようと、華僑の商店にしきり
に出入りするようになった。
そんなある日、林同志がふと後ろを振り返えると、昨日も一昨日も見たよう
な人が後をつけているのがわかった。気を引きしめてあらためて見てみると尾
行されていた。林同志はその時から注意深くなり、活発な活動ができなかった。
彼らはその渦中でアンバラワの義挙の知らせを聞き、痛快でたまらなかっ
たが、その事件によって党の内幕が暴露されないか心配していた。
1945 年 3 月 1 日明け方、起床を知らせるラッパの時間までまだかなりある
夜明けにドアを叩く音が聞こえた。「誰?」というと、数人がドアを開けて
入ってきて電灯をつけ、シンガポール駐在憲兵司令部の憲兵身分証を見せた。
「聞きたいことがあるので、申し訳ないが憲兵隊まで来てもらわなければなり
ません」。彼らは丁寧に言った。
同志らは「アンバラワの義挙に関する調査のようだ。それなら、私たちは
全く知らないから安心だ」とそれなりに安心して、服を着替えた。憲兵隊に
出頭すると、無条件に 2 ヶ月監禁した後、ジャワ憲兵隊の逮捕要請で逮捕し
たのだから、ジャワへ行けと言った。「逮捕の理由は何なのか?」。「私たちは
223
知らない。ジャワ憲兵隊の依頼に従っただけだ」。
同志たちは第 3 計画の糸口もつかめないまま、シンガポール憲兵に監視護
送される船上で、アンバラワ事件は知らないので関係ないことにしようと口
裏をあわせた。1945 年 5 月 19 日、裁判管轄上ジャワ(バタビア)憲兵隊に
引き継がれ、軍法会議の取調べを受けた。しかし予想外にもアンバラワ事件
に関するものではなく、秘密結社組織である高麗独立青年党に関するもの
だった。
同志たちは、そんな秘密がもれることは夢にも思わなかった。同志らは慌
てて無条件に否認したが、取調官はすでに高麗独立青年党について詳細に
知っていた。それで、認めざるをえなくなり、結局自分自身の罪だけ話した。
党員のほとんどはジャワの高等軍法会議で鬼倉典正 176 検察官法務少尉が、
日本憲兵の治安維持法第 1 条を適用して求刑した形式的な裁判であり、次の
ような判決を受けて、グロドック刑務所 177 に収監された。
李億観(総領) 15 年 求刑 10 年 宣告
金賢宰(総書) 10 年 求刑 8 年 6 ヶ月 宣告
林憲根(総務) 10 年 求刑 8 年 宣告
呉殷錫(基本党員) 8 年 求刑 7 年 宣告
曺圭鴻(基本党員) 8 年 求刑 7 年 宣告
朴昶遠(基本党員) 8 年 求刑 7 年 宣告
李相汶(基本党員) 8 年 求刑 7 年 宣告
白文基(基本党員) 8 年 求刑 7 年 宣告
文学善(基本党員) 8 年 求刑 7 年 宣告
これは当事者としては悔しい判決だ。しかし、彼らの過酷な量刑は、彼ら
が日本に対して及ぼした害が大きかったために受けたものだ。しかし、当事
者としては再審を請求するすべがなく、弁護士も雇えない亡国の恨みの中で
嘆息するばかりで、人権が抹殺された収監生活を送った。
朝食が終わればひざまずいて座り、正面だけをみて反省しろと言った。体
を少しでも動かせば看守にひどく殴られた。額にハエでもとまると、「看守
様!」「なんだ!」「額にハエがとまっているのを捕まえてもいいですか?」
176 1957 年現在、日本の東京で弁護士開業
177 Glodok、グロドック刑務所は朝鮮人軍属らが BC 級戦犯として死刑にされた所でもある。
224
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
「いいよ」といった承諾を受けなければならなかった。承諾を得ずにハエを追
おうと動くとひどく殴られた。こういう人間以下の扱いに血が沸き立つ民族
がどうして独立運動をしないでいられようか。
逮捕された同志たちに感謝したのは、自分の罪だけを自白し、他の党員に
ついては何も言わず、スマラン、バンドン、チマヒ、ボゴール、アンバラな
どにいる党員たちが捕まらないようにしたことだ。
党員逮捕後
正党員の大半が刑務所に収監された後、私はバンドンで闘争方法を変更し
た。私はチハピット抑留所 178 内の拘留者 2 万人余りに反抗意識を吹き込んだ。
13 歳以下の 9 歳以上の子どもたちに、「きみたちは大きくなって自立する土
台を磨くために、労働を学ばなければならない」と言って果樹園を開墾させ、
不足した果実と野菜を栽培させ、さらにパンひと切れずつを与えた。これに
よって捕虜たちの実力養成に努めた。しかし、第 16 軍司令部がバンドンに移
転してきたため、転覆策を講じるのに昼夜苦心した。
当時、バンドン捕虜収容所第 1 分遣所で働いていた金万寿、チョ・ナム
ヒョン同志は反抗して、捕虜の外部連絡と実力養成に努めた。これはオラン
ダのカナベック伯爵によって証明された。現在、金万寿同志がジャワに再度、
渡ることになった動機もここにある。
日本人の上官らは、私が行った抑留者の統率、秩序維持、食糧の自給生産
などに満足し、青い布きれに星一つつけた精励章という徽章を授与すると
言った。私は通知を受けたが、抑留者の点呼を取るという理由をつけ、出席
しなかった。そのため集合して待っていた河南中佐をはじめ職員すべてが腹
を立てた。翌日、私は曽根曹長にひどく叱られた。
私は他人に直接刃向かわない性格なので、叱られるままだった。しかし、いくら
叱ったとしても、私がその精励章なるものをつけて歩くことができようか?
このような生活を送っていたが、天は非情ではなく、1945 年 8 月 15 日、
日本は無条件降伏をした。ついに我が民族にも太陽が輝くことになったのだ。
178 バンドンのチハピット(Chihapit)抑留所
225
以前から私は日本が敗北するだろうと確信していた。日本海軍の山本五十六
長官の戦死後の相次ぐ敗戦と家から送られてくる手紙で、国内の枯渇状況が
深刻なことがわかったからだ。
それよりさらに確信をもたらしたのは、アメリカの放送だった。7 月の
ある日、ラジオのダイヤルを回していると、アメリカの放送が昔の日本の音
楽を流した後、「日本人の皆さん、次に申し上げる 10 の都市に住んでいるか、
親戚がいる方は、すぐ避難し、他の人にも避難するように知らせてください。
軍需工場を爆撃する予定ですが、爆弾には目がないので皆さんの家に落ちる
こともあるからです。ですから避難して命を守ってください。私たちは皆さんを
苦しめようとするのではなく、軍需工場だけを破壊することが目的です。次の
10 都市の住民は、かならず避難しなければなりません。名古屋、大阪、京都、
横浜、広島、… 」。この放送を初めて聞いた時は心理作戦だろうと思ったが、
同じ放送が 1 週間以上続けられるなか、8 月 6 日広島に原子弾が投下され、
日本はついに手をあげてしまった。
私たちは 8 月 15 日、天皇の特別
放送があった後、獄中で 5 ヶ月から
8 ヶ月間苦労していた同志を速やか
に釈放するよう求めたが、〔日本人
の管理者たちは〕手続きがあるから
待てという。なお、収監された同志
たちに日本が敗れたということを知
らせなかったし、ジャワ軍政監部の
宣伝班の許泳 179 に日本と韓国は歴史
的、地理的に固く結ばれていると力
説させ、親しく過ごすことが両国国
民に役立つと、〔釈放する前に〕数
日かけて懐柔した。
しかし、馬杉参謀は「おまえたち
は愚かなことをしてはならない。お
前らが、ちっぽけな党や結社を作っ
179 日夏英太郎:1908 年 9 月 21 日生まれ、咸興府黄金町出身。
許泳の留守名簿
226
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
て騒いでみてもうまくいかない。な
ぜなら私が見たところ、お前たちは
3 人が集まれば 3 党を作る民族であ
る。だから結局、分裂し、我が大和
民族が面倒をみなかったらすでに滅
びて無くなっていただろう。今から
でもいいから、罪を悔い改めて共存
共栄するのがいいのではないか」と
言った 180。傲慢にも脅迫し蔑視した。
そのため、怒りに火がついたが、私
たちにはそうした欠点もあるのでさ
らに腹が立った。
第 16 軍の拘留所で服役中であった
同志たちは、連合軍の命令で 1945 年
9 月 4 日に救出された。在ジャワ朝
鮮人民会バタビア本部で看護したが、彼らは栄養失調で顔が黄色くなって腫
れていた。
党員たちは闘争の対象であった日本が敗北したため、党を再建する必要性
を感じなかった。なかには党の体裁で帰国しようとする人もいたが、国内に
はすでに 370 余の党があるというから、私たちまで党を作れば数だけ増やす
からやめようという主張が大勢だった。
我々は、修身斉家治国平天下、すなわち自分の行いを正し家庭を整えるこ
とにより国が安らかに治まるとの理念で、実質生活を通じて祖国に寄与しよ
うと個人の資格で分散帰国した。だから今まで高麗独立青年党の功勲や内容
は一言も公表しなかったのだ。だが革命政府が義士や烈士を発掘し、国家正
義を正す際に、ジャワのアンバラワで義挙して殉死した 3 人の同志の業績を
明らかにしないのは罪を犯すことだ。万分の一でも闘争記録を発表すること
が、3 人の英霊を慰めることができる道と考えペンをとった。
180
〔この馬杉参謀の発言は 2 年の勤務期間を過ぎても帰国できない際の訓話とみられる。内海愛子・村井吉敬
『赤道下の朝鮮人叛乱』125 頁〕
許泳の臨時軍人軍属届
227
1945 年 12 月 16 日ジャワのバンドンで、朝鮮人民会組織記念
孫亮燮、盧秉漢、閔泳学 181 3 人の同志がアンバラワで義挙した記録と立証
書類、ジャワでの活動立証書類は、私がすべて保管している。したがって、
関係機関の要求にいつでも提示することができる。
高麗独立青年党の政綱、政策などは成文化しなかったが、1. 反日、2. 抗日
独立、3. 決死独立であった。私たちは、『ジャワの思い出 第 1 集』に収録さ
れた党歌と決死独立のスローガンだけで行動の統一と体系を維持し、2 年以
上、決死の闘争をしたのだ。
詳細な内容は、在ジャワ朝鮮人民会バンドン支部から発刊された「活報」
の中に掲載されているが、帰国時にキャンプで奪われた。だが、バンドンの
華僑に 3、4 巻が保管されているため、いつか探しだすことができると思う。
最後に、3 人の同志の英霊に真相を知らせることが遅くなったことを謝罪
し、今は独立した故国の懐で安らかに眠ることを願う。
181 三義士の遺骨は、バタビアの日本人墓地に葬られている。
228
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
後記
後で知ったことだが、忠北堤川出身の辛在観という人が、高麗独立青年党
を密告した。彼は毎日、私たちに関する情報を憲兵隊に知らせ、党幹部の大
部分を逮捕させた。しかし、私たちは日本が敗北して独立したことで、その
事実を不問に付してしまった。さらに『実話』誌で辛某は高麗独立青年党の
活動を金某と自身の業績とした。我々は同盟通信〔特派員〕の申暻喆を通
じてシンガポール〔反日華僑組織〕に連絡を依頼したことがある。それゆえ
〔偽の記事には〕慨嘆せざるをえない。
1957 年 2 月
忘れられないために
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
解題
5
1. 植民地動員の強制性 / 2. 陸軍軍属の捕虜監視員 / 3. 手記を記録した捕虜監視員 /
4. 朝鮮人の海軍軍属 / 5. 手記を記録した朝鮮人海軍軍属
232
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
イタリアの映画監督ヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)は、1971 年に
『悲しみの青春』(Giardino dei Finzi-Continis)でベルリン国際映画祭の金熊賞
を受賞した。ムッソリーニのファシズムがイタリアのユダヤ人の生活を圧迫し
ていく過程を描いたこの作品は、評論家たちから社会変革のなかでの個人に対
する悲痛な鎮魂曲という評価を受けた。執権初期のイタリア、ムッソリーニの
ファシズム政権は、当時のドイツとは異なる方法でユダヤ人を迫害した。彼
らは人種主義的観点ではなく官僚主義による常識レベルでの迫害を加えた。
映画でもユダヤ人に対する迫害は、露骨なリンチや暴力などでは描写されて
いない。テニスクラブの会員資格を失うことから始まり、公共図書館の利用
が不可能になり、公立学校に通うことができなくなるように進展していく。
つまり、外形的暴力を通じて迫害を受けるのではなく、書類を使い権利を少
しずつ奪っていく形で表される。結局、これらすべては臨界を超え、彼らは
収容所に連れて行かれる。
人間には社会変革に直面した際には過去の習慣に依存する傾向がある。だ
から、漸進的な状況変化には積極的には反応しないものである。社会制度を
通じて少しずつ締め付ける圧制には次第に適応し、最終的には変化の犠牲者
に転落する場合がほとんどだ。当時、事態をきちんと理解できなかったため、
イタリアでユダヤ人迫害が強化される時、なにげなくファシストの政策を受
け入れ、破滅に至った。
ジャン・クウィーマン(Jan Kooiman)は、支配はある形のイメージ、
つまりどんな形であれ状況に対する知覚の形成なしに行うことはできないと
指摘する。彼は支配構造を形成する際にはすべての形態の外的、内的刺激が
一翼を担い、そこには想像力、知識、事実関係、判断、前提、要望、目標、
仮定、理論、確信、隠喩までも含めることができるとみる。社会・政治的支
配階層もやはり他のすべての人と同様に偏見に満ちた人々である。それゆえ
支配階層が挑戦を受ける時は、彼らの生活哲学が挑戦されることになり、感
情が介入せざるをえなくなる 182。
この点は被支配階層の場合も同様である。個人が支配を受け入れること
が純粋に暴力によるなら、その支配体系は長く持続できない。マックス・
ウェーバー(Max Weber)が指摘したように、カリスマ的権威で支配力を確
182 ジャン・クウィーマン『ガバナンスとしての統治』、ロンドン、SAGE、2003 年、27-44 頁
233
保したとしても、その支配体系が持続するにはどのような形態であれ、支配
イデオロギーの内在化が必要である。支配、被支配とは、相互間の多様な情
報を通して形成された知覚により認識され、構成された社会全体のシステム
の中でダイナミック的に作用するものである。
私たちが、植民地の被支配民の奴隷根性という心性に拘ってしまえば、社
会、政治、制度的変化を個人の心理構造に還元させてしまう心理学的還元主
義から抜け出せない。植民地支配に対する分析で留意すべきことは、この問
題に人間の個人の心性という問題だけでなく、同時に社会、政治制度全般の
ダイナミックな関係も考慮しなければならないということである。ある社会
を共時的、通時的に結合させ、その社会が持つ特殊性と植民地支配という普
遍性を立体的に見なければ、植民地支配の分析はいかなる形式であれ、限界
を持つことになる。
日本帝国主義は朝鮮総督府により数多くの朝鮮人を強制動員し、戦場や労
働条件が劣悪な炭鉱などで酷使して死に至らしめた。これについて、物理的
な暴力を使い、本人の意思に反して引っ張っていった場合に限って強制動員
とみる見解がある。このような見解は、出口が塞がれている植民支配の社会
が持つそれ自体の暴力性と強制性を理解しえず、植民体制の法的合法性に盲
目的に執着することによる。日帝下の捕虜監視員をはじめ、相当数の軍属が
割当募集の形態で動員されたが、彼らが日帝下の強制動員被害者であること
を規定するためには、植民地動員の強制性の理論的説明が必要である。
1.植民地動員の強制性
日帝強占下の強制動員被害とは、満洲事変後から太平洋戦争に至る時期に
日帝によって強制動員され、軍人、軍属、労務者、軍慰安婦などの生活を強
要された者の生命、身体、財産などへの被害をいう 183。これに関して「強制動
員は、身体的な拘束や暴力ではなく、皇民化教育による精神的拘束、誨諭と
説得、本人の任意決定、脅迫、法的強制などによる人力動員を意味する」184 と
いう定義もある。ここで使われている強制動員、強要あるいは身体上の被害
183 日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法第 2 条第 1 項
184 韓日民族問題学会『強制連行強制労働研究の手引』先人、2005 年、16 頁
234
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
などの表現が、分析上の問題を起こす。
植民地期に日帝が朝鮮人に行った暴圧の中で大きな部分を占めるのが、朝
鮮人を自分たちの戦争遂行のために強制的に動員したことだ。これは実際に
ナチスドイツが数多くのヨーロッパ人を強制動員したことと似ている。それに
もかかわらず、朝鮮が日本の植民地だったという理由で、犯罪の反人類性が
薄められてきたのが事実だ。その延長線に、日帝による強制動員を中日戦争
(1937 年)以後、国家総動員法の制定とともに始まったと見るものがある。
それでは帝国主義による植民統治の本質的犯罪性を見過ごすことになる。
今日では、帝国主義による植民地統治自体が当該民族に対する大量虐殺であり、
反人類的犯罪行為だとみるのが一般的である。
つまり、1931 年の満洲事変以後、太平洋戦争が終わるまでの時期になされ
た朝鮮人に対する人力動員だけを強制動員としてみることは、植民地支配の
本質的特性を見落とすものである。日帝による強制動員を単に物理的意味の
強制性に焦点を当てて規定する観点は、それ自体が日帝植民地主義史観ない
し、西欧文化帝国主義から抜け出せないものである。したがって、日帝の強
制動員は「身体的な拘束や暴力の他に、皇民化教育による精神的拘束、誨諭
と説得、本人の任意決定、脅迫、法的強制などによる人力動員」だけでなく、
日本帝国主義による植民地支配体系のもとで、直接・間接的、制度的、心理
的強制を暗黙に強要してなされたすべての形態の人的、物的動員を含めなけ
ればならないのである。
植民地支配下にある大部分の被支配層が最も苦しむのは、「植民地支配層
との奴隷的な関係、経済的収奪および殺人的、圧制的な統治構造」と考える
動向がある。しかし、帝国主義が植民地の被支配民を最も致命的に縛りつけ
常に記憶させるのは人種主義的観点に基づいた文化帝国主義の論理である。
これはマックス・ウェーバー(Max Weber)のカリスマの日常化の過程と似
たものであり、被支配民に自らを劣等民族として感じさせることで、植民地
支配層との支配・従属の関係を内面的に受け入れさせる動向である 185。
185 マックス ・ ウェーバーによると、すべての社会において、軍事力、経済的強制、包摂、政治的連合を使っての
権力闘争が起こり、新しい信念、価値、行為性向及び認識体系とともに変化が起きて危機になる時、カリスマ
を持つ指導者が登場する。このような例外的な洞察力や能力の保有者に追従する者たちにより発生した
カリスマ的権力は、官僚組織の発達と同じく、日常的な意思決定体系を確立することで日常化され、伝統
あるいは法的体系で合理化されるという。ジョナサン・H・ターナー、レナード・ビーグリー『社会学理論
の出現』ザ ・ ドーシー・プレス、イリノイ州ホームウッド、1981 年、233-259 頁。
235
文化帝国主義は、基本的に人々が自らの思考や行動を規定する認識体系自
体を変化させるように誘導する。これによって植民地支配体系を合理化させ、
人種主義を支配民族と被支配民族間の本質的な差異の基礎とさせ、イデオロギー
的に内面化させるのである。
日本による朝鮮の植民地支配より時期的に早いインドに対するイギリスの
植民地支配において、軍隊と警察を通じた直接的な暴力は、極めて例外的な
状況で起こった。むしろそれより、イギリスは没落して行ったインドの封建
階級を利用して地主にして数百人に及ぶ地方の隷属領主たちを支えた。彼らは
インドの封建主義を強化するとともに、抑圧的な暴力ではなく柔らかな統制
によって植民地の被支配階層の知覚を変えていった。
朝鮮を植民化した日本もまた、植民地住民に対して経済的同化、社会的同化、
教育的同化、文化的同化を強要したが、日本と同じ政治的権利を付与するという
政治的同化は拒否した。日本の核心的な戦略イデオロギーは、日本と朝鮮の
根っこは同じだとする日鮮同祖論、日本民族の優生学的優越性を強調して
朝鮮人の他律性と停滞性などを強調するという朝鮮停滞論であった。日本は
これをもとに同化主義政策をくりひろげ、朝鮮語使用の統制と日本語使用の
強要、日本人と朝鮮人の間の婚姻奨励、はなはだしくは創氏改名を実施する
ことによって、植民地支配体制を確固たるものにしようと試みた。しかし、
人種的、文化的優越性に基づくイデオロギーの構成自体に無理があった。
日帝は、皇国臣民イデオロギーを学校、大衆組織、言論などの多くの機関
を動員して、日帝の支配・統制の体制に直接的に統合するなど、あらゆる種
類の統制システムで朝鮮人を制度的にしばりつけた。あらゆる種類の独立を
推進する勢力を徹底的に弾圧し、治安維持法といわゆる「思想警察」を通じ
て、左派系列のすべての政治団体の集会を根本的に封じた。言論に対する検
閲制度は厳しくおこなわれ、特に左翼勢力を遮断するために左翼民族主義者
への事前検挙など、無慈悲な弾圧が継続的に加えられた。一方、左翼民族主
義者から右派を隔離するため、妥協的な態度を示す右派の勢力を積極的に買
収した。
日帝支配下の全期間にわたり最後まで作動した日帝のテロの体系は、個人
的あるいは集団的な抵抗の芽を、当初から窒息させたといえる。特に太平
洋戦争期間中、朝鮮人を縛りつけた強制動員の労働と食糧の不足のなかで、
236
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
このような制度上の統制は、抵抗意志を失った人々を疲労と諦めに追い込ん
だ。帝国主義は痕跡を継続して残す文化経験である。それゆえ外面的に現れ
る植民地主義の残滓より内面的な意識での植民地主義の残滓がより大きな問
題となる。
最近、日本による朝鮮の植民地統治を、第二次世界大戦中に日本の同盟国
だったナチスドイツと比較分析しようとする試みがある。ドイツ人は戦争が
終わる時までアウシュビッツ収容所行の列車を定時に出発させるため、あら
ゆる努力を傾けた国民として記録されている。今日の感覚では理解しにくい
ドイツ国民の戦争遂行努力を説明する日常史理論 186 では、次のような方法で、
ドイツ人が戦線と「故郷」で与えられた義務を果たそうとした理由を明らか
にしている。
一つの観点は、ゲッペルス・ナチス宣伝相が動員した巧妙な大衆宣伝の技
術を原因とみる。宣伝によってほとんどのドイツ人が当時の実状を悟らな
かっただけでなく、ナチス体制自体を正当な権力として受け入れたというのだ。
他の観点としては、ナチスの親衛隊をはじめとする監視体制の完璧さをあげて
いる。当時、ドイツ国民全体が徹底した統制の下に置かれており、ナチスに
対するいかなる形態の抵抗も余すところなく粉砕され、集団収容により解決
されたためだという。
希望も期待もなくただ苦しみと飢餓だけがある社会では何も起こらない。
また、命を維持するために貧しい人々が衣食住に必死であれば、空虚を感じ
る時間的余裕もない。生存のために必死で闘う状況は、人間を活発な存在に
するよりも、むしろ停滞状態に追いやる傾向がある 187。
日本の植民地体制下、特に太平洋戦争期の朝鮮人強制動員に対する分析は、
第 2 次大戦当時、ドイツが強制動員したドイツ軍占領地域の住民(フランス
人あるいはスラブ人系統労働者)の役割や状況との比較分析からも示唆を見
186 ナチスの支配下でドイツ国民は断固とした抵抗や蜂起は別として受動的な拒否さえあまり示さなかった。
ドイツ人がナチス支配下で体制に順応する過程を理解しようとする試みは 1970 年代に始まっている。日常
史の理論家たちは、どうしてナチスが権力を握ることができたのか、なぜナチス体制が維持されたのかと
いう問いから出発し、ナチス党側からの理解ではなく、どのように一般大衆がナチズムに反応したのかを
調べようとした。彼らは少数の戦犯の責任を議論するよりも当時の平凡な市民個人の労働と余暇の日常が
正常に維持されたことに注目した。平凡な人々が政治的統制と抑圧、監視とテロを行ったナチズムにどの
ような反応したかを通して、ナチズムのような全体主義体制下での市民行動を説明しようとした。
187 オルテガYガセット、皇甫永祚訳、『大衆の反逆』、歴史批評社、2005 年
237
いだせるだろう。ドイツ軍占領地域の異民族労働者として彼らがこうむった
のは、凄惨な「奴隷労働」だった。日帝による植民地体制下での朝鮮人労働
者動員とナチスドイツの占領地域の労働者動員は、戦闘兵力増員による熟練
労働力の不足と戦時空襲状況で労働力を確保しなければならないという戦時
生産体制において、日帝とナチス体制がとった対策であった。需要と供給の
構造が歪む状況下、日帝とナチスドイツは、体系的な労働力動員のために強制
連行、募集、割当、斡旋、徴用などすべての手段を使用せざるをえなかった。
したがって、日帝下の朝鮮人強制動員は、ゲッペルスの宣伝のような皇民化
教育、および極私的な領域を除くすべての社会文化環境を統制したナチスドイツ
のような日帝の警察制度によるものである。それらが抵抗の芽を窒息させ、
日帝の動員体制に順応させたとみる分析が必要である。
2.陸軍軍属の捕虜監視員
日帝は 1941 年 12 月 8 日、真珠湾攻撃とマレー半島上陸で太平洋戦争を開
始した。それ以後、マニラ(1942 年 1 月)、シンガポール(1942 年 2 月)、
ジャワ(3 月)、フィリピン(5 月)の順に占領した。日本軍占領地域の拡大は、
英国、オランダ、オーストラリア、米国などの連合軍兵士たちの捕虜問題に
つながった。
当時、日本軍の捕虜となった連合国兵士は 26 万 1000 人余りと推定され
る。それにより捕虜管理の必要性を感じた日本軍部は、1941 年 12 月に陸軍
省に俘虜情報局を設置し、翌年 5 月に捕虜監視員を募集し始めた。軍属の身
分の捕虜監視員は台湾人と朝鮮人で充当された。
日本人ではない朝鮮人と台湾人が連合軍捕虜の監視員として動員された背
景としては、まず日本自体の兵力不足が指摘される。次に、日帝が、捕虜管
理が深刻な戦後処理問題となる蓋然性を予想できず、捕虜を労働力活用の次
元で扱ったという見解がある。ところで、戦後に問題となる可能性を予見し
ていたから、捕虜監視員として植民地人を動員して敵軍に直接対面させて戦
争責任を転嫁させたという見解もある。
捕虜監視員の募集過程は比較的詳細に明らかになっているが、朝鮮半島では
1942 年 5 月に募集公告が新聞に掲載された。表面的に募集形態をとったが、
238
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
実質的には朝鮮総督府が各邑面に人数を割り当て、面書記と巡査らを前面に
立てて動員したという記録もある 188。彼らは簡単な筆記試験を経て選抜され、
2 ヶ月の訓練期間があった。動員された 3,223 人の青年たちは軍属身分であ
るが、野口部隊(釜山西面所在)に収容され、2 ヶ月間射撃と銃剣術などの
軍事訓練を受けた。しかし、捕虜監視員に行かなければならない者に、日本
は捕虜の扱いに関する国際法など、何の教育もしなかった。彼らが教育を受
けたのは、軍事訓練と捕虜になってはならないという「戦陣訓」だけだった。
これは捕虜監視員出身の趙文相(チョ・ムンサン)の陳述でも確認できる。
彼は、日本が釜山で朝鮮人軍属に教育したのは「体形が大きな捕虜に対抗する
には暴力しかない」ということだったと言い、捕虜の取り扱いに関する国際法
的知識に対する教育がなかったと抗弁した。その後、彼らはインドネシアや
ミャンマー〔マレーシア〕、タイなど各地の捕虜収容所に配置され、戦争が終
わるまで勤務することになる。
徴兵制が決定された時であったため、軍隊に引っぱられたくない者、炭鉱に
引っぱられるよりは良いと思って応募した人など、理由はいろいろであった。
捕虜監視員の募集に応じた者の中には、道路工事で旗を振る程度のことだと
思っていた人もいた。また、配給を中止するという脅しを加えて志願させる
という強制もあった。
日本軍部のこのような植民地支配の戦略は、当時の社会の雰囲気にも現れ
ている。捕虜監視員に志願した石相玧は手記「南方紀行」で自らが捕虜監視
員に志願した当時の社会の雰囲気を次のように伝えている。
日帝がそれほどまでに虐待し、侮辱していた私たちの民族も、今は内鮮一
体だ、皇国臣民化だと騒ぎたて、使い道があることになったのだ。朝鮮総督
南次郎は内鮮一体を高唱しながら志願兵さがしと、いわゆる報国隊という労
務者をつかまえるのに血眼だ。我が故郷からも炭鉱だ、製鉄所だ、軍需施設
工事だなど、毎日のように報国隊に引っ張っていった。志願兵制度は数年前
の支那事変の初めからだ。全羅北道出身の李仁錫上等兵を先立てて、「李仁石
上等兵は中支那戦線で赫赫たる戦功を立て、軍人としては最高の栄誉である
188 捕虜監視員としてタイ捕虜収容所で捕虜たちと共に、タイとミャンマーをつなぐ泰緬鉄道建設作業を行った、
故石相玧の手記によると、多くの朝鮮青年たちが徴兵を避けるため捕虜監視員を志願したと記録している。
一方、捕虜監視員の口述調査の結果によると、一部地域では半強制的割当もあったという記録もある。
239
武功金鷲勲章をもらった」など、募兵宣伝に熱をあげ、ほとんど強制的な方
法で適齢期の青年たちをつかまえていくのだった。」
当時の毎日新聞の記事は「皇民の感激を、誇りをもって出でよ、捕虜監視
員、府内居住者は府社会課で受付」という見出しで、さらなる名誉のひとつ
として、半島の青年男子を軍属として採用し、南方共栄圏建設に協力する
「崇高な道」を開くとの表現で、捕虜監視員志願を督励している。石相玧の手
記によると、山清郡でも 25 人の選抜が割当されたという。郡庁前の掲示板に
は、6 月 3 日 10 時に山清公立尋常小学校で選抜試験があるから、志願者は願
書をもって出頭、試験を受けるようにという旨が記されている。
このような手記の内容からわかるように、当時、日帝は捕虜監視員を充員
するため、各郡に数を割り当て、各郡内務課長の指揮のもとに捕虜監視員を
補充した。郡の職員は中央で割り当てた必要人員が志願しない場合、配給中
止のような強圧的手段も使ったのである。
捕虜監視員出身で、BC級戦犯で処罰された李学来の証言でも、このよう
な事実は容易に確認できる。李氏は「村で二人を出せ」という「上部の圧力」
もあって、捕虜監視員募集に応じたと証言する。彼は戦後死刑を宣告された
が、結局懲役 20 年刑に減刑され、1951 年 8 月にシンガポールから日本の巣
鴨刑務所に移送された。先に石相玧の手記で指摘したように、当時はすでに
多くの青壮年が炭鉱や製鉄所にひっぱられる状況だったので、捕虜監視員募
集公告で提示された 50 円の給料は非常に誘惑的なものだった。難しい時局
で、小学校や高等小学校の過程で、皇民化教育を通じてすでに皇国臣民イデ
オロギーが注入された当時の朝鮮のプチ・インテリたちに、「全アジアを席巻
する勢いで、遠くベトナム、インドシナ半島を経てマレー半島を破竹の勢い
で進撃し、シンガポールを陥落させてイギリス軍 5 万の大軍を無血占領、彼
らを捕虜とした」日帝の支配権力の要求は絶対的な意味を持ったのだろう。
捕虜監視員の教育水準に関して統計的数値を提示できる資料はないが、募
集要綱に現れた資格条件と捕虜監視員の手記、生存者に対する口述聴取の結
果を総合して推論すれば、すべて小学校は履修したものとみられる。当時、
高学歴層が高等普通学校卒業や専門学校在学の水準と見ると、捕虜監視員は
最高レベルのエリートではなくても、かなりの教育を受けた高学歴層に属し
ていると見ることができる。こうした彼らの学歴水準は、解放後の職業にも
240
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
影響する。捕虜監視員の手記や生存者に対する口述聴取から、彼らの解放後
の職業は公務員などの事務職にかなり偏っていることがわかる。
本籍に対する頻度分析(留守名簿 3,588 人の中)
本籍の頻度分析
本籍
数
パーセント
累積パーセント
京城府
108
3.01
3.01
京畿道
136
3.79
6.80
江原道
136
3.79
10.59
忠清北道
309
8.61
19.20
忠清南道
426
11.87
31.07
全羅北道
580
16.16
47.23
全羅南道(済州 38)
730
20.35
67.58
慶尚北道
412
11.48
79.06
慶尚南道
385
10.73
89.79
黄海道
187
5.21
95.00
平安北道
45
1.25
96.25
平安南道
43
1.20
97.45
咸鏡北道
26
0.72
98.17
咸鏡南道
46
1.28
99.45
その他
19
0.53
99.98
合計
3,569
99.45
当初、釜山の西面で教育を受けた朝鮮人捕虜監視員の志願者は 3,223 人で、
このうち 3,016 人がタイ、マレーシア、ジャワなどの捕虜収容所に配属され
た。しかし、留守名簿上では重複する場合を含めて合計 3,588 件が検索され
る。これによると、忠清道、全羅道、慶尚道が 70%を超え、実際の人口分布
46%より多くなっている。他の地域は人数が少なく、実際の人口分布よりも
少なくなっている。このような現象は二つの意味を持っていると見られる。
241
第一に、当時、京城府と京畿道は地方に比べて他の職業に就職する可能性が
相対的に大きく、したがって生活環境が劣悪な遠い南洋の地に行かずに生き
ることができたとみられる。第二に、当時の京城府と京畿道では、日本がま
だ強圧的手段を露骨に使用して徴兵と徴用を強要していなかったためだとい
える。
捕虜監視員が当時小学校の卒業以上の学力を持っていたため、日帝の皇民
化教育にさらされざるをえず、日帝末期の強化された圧制に虐げられ、洗脳
された人々に、積極的な抵抗を期待するのは無理な注文でしかない。
3.手記を記録した捕虜監視員
この手記集に載せられた捕虜監視員の強制動員被害者は2人である。2人
はいずれも日帝によって捕虜監視員として強制動員されたが、帰還して手記
を執筆し、いまは2人とも故人となった。石相玧、安承甲の2人の略歴は次
の通りである。
石相玧は、1920 年慶南山清出身で、1942 年 6 月 15 日から 8 月 14 日まで
釜山西面で訓練を受けた後、1942 年 8 月タイ捕虜収容所に配属された。タイ
では、泰緬鉄道工事に動員された連合軍捕虜監視員として働いた。日本敗戦
後、戦犯裁判などにまきこまれ、しばらくタイに残ったが、1946 年 6 月 15 日
無事に故郷に帰った。
安承甲は、1923 年忠北清州出身で、面書記として勤務する中、日本軍に志
願することを強要されたが、軍属の捕虜監視員に志願した。1942 年 6 月 15 日
から 8 月 14 日まで釜山西面で訓練を受けた後、インドネシアのバンドンに配
属された。そして当時日本軍に捕まったオランダの捕虜たちの婦女子と子ど
もたちの抑留所の監視員として勤務することになる。植民地人として日本が
引き起こした戦争に動員されたにもかかわらず、日本が敗戦した後、連合軍
に戦犯容疑者として調査され、しばらく帰国できなかった。1947 年 2 月 8 日、
釜山に帰った。
242
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
4.朝鮮人の海軍軍属
多くの朝鮮人が日帝の強制動員に逆らえず、日本軍隊の軍属として連れて
行かれたのは、日帝が戦争末期、朝鮮でも徴兵制を実施することを宣布し、
適齢期のすべての若者を動員する計画が知られたからだ。実際の戦闘地域に
は様々な形態の朝鮮人軍属が存在した。時には軍属と単純労務者を区別しに
くいほど同じ労働を行った。朝鮮人軍属が日本軍部隊内でどのような役割を
果たし、その性格は何であったかについて、まだ明らかにされるべき部分が
多く残っている。
軍属は今日の軍隊の軍務員である。すなわち、軍隊構成員であり、一般的
に職業人として陸海軍に服務する軍人以外の者を総称する。しかし、今日の
軍務員が厳格な資格条件と軍法が適用される明らかな軍組織の一員であるの
に対し、日帝時代にいわゆる軍属と呼ばれた集団は、比較的範囲が広く、規
範の適用は緩かったとみられる。
南方に送られた朝鮮人軍属に対する本格的な動員 189 は、1942 年 1 月から始
まったが、主に海軍設営隊や捕虜監視員として採用され、東南アジア、太平洋南
西部の諸島(南洋諸島)の軍基地及び戦線に配置された。軍属動員方式は初期
には募集形態をとったりもしたが、1942 年 1 月から募集から官斡旋に変わった。
日本統治者たちが反乱の可能性があると考えていたにもかかわらず、多数
の朝鮮人を軍属として軍隊組織の中に引きいれるしかなかった理由は、まず、
太平洋戦争の拡大とアジア各地での抵抗による戦局の悪化により、内地の日
本人の青壮年労働力を兵力として送り出すしかなく、労働力不足が深刻に
なった日本からこれ以上の労働力を確保することは難しかったからだ。
第 2 に、戦場や占領地での施設建設などの労働は、もともと近代軍隊では
工兵隊によって行なわれるが、日本軍、特に日本海軍は工兵の志願が貧弱
だった。したがって、軍属として戦闘員の訓練を経ず、武器も所持していな
い彼らが、工兵隊の役割を果たした。さらに、日帝は朝鮮人を強制動員に
よって手軽に確保できただけでなく、「南洋群島」占領地の現地人に比べ良質
な労働力だったという点も、動員の理由として指摘される。
189 1944 年 9 月末までに 88,241 人の朝鮮人軍要員が動員され、そのうち国民徴用令による者が 31,783 人だっ
たとされる。これらの中には、1941 年から海軍の要求に基づき、南方の土木作業に送られた海軍愛国作業
団員 32,248 人が含まれている。
243
現代の海軍は航空戦力の支援がなければ致命的な損傷を受けるため、飛行
場の建設や維持などを担当する施設組織は軍政系統に所属され、作戦上の要
求に直ちに対応できなければならない。日本海軍は、このような施設の設置
管理を担当した工兵組織が不十分だったため、各地に海軍設営隊を創設し、
至急の飛行場の建設などに動員した。海軍設営隊は航空基地と防備施設の設
置を目的とし、主に朝鮮人と台湾人を主力で編成した海軍の特設設営隊と特設
施設部を指す。日本海軍は開戦初期にトラック(現在名チューク)、ラバウル、
シンガポール、スラバヤ、マニラ、海南島などに施設部を特設し、管轄地域
内の築城、一般施設の設置及び各設営隊への補給を担当させた。また、横須賀、
呉、佐世保、舞鶴などの軍港の施設部と芝浦補給部を元請として、各地に設
営隊を派遣した。
このように、日本海軍は大々的に朝鮮人と台湾人を動員して設営隊を組織
するしかなかった。その理由は、日本が土木建築分野の施設をほとんど人手に
頼っていたからだ。設計や測量などにおいて日本は世界水準近くにあったが、
施工現場では常に原始的な水準の道具が使われていた。
土木建築を人手に依存しているため、自然に多数の軍属が現場に必要となり、
それは補給品の大量需給を必要とした。日本はもともと補給能力が貧弱で、
食料をはじめとする補給の相当部分を現地調達に依存していた。潜水艦と航
空機による連合軍の補給船撃沈と封鎖作戦が本格化すると、食糧などを十分
に供給できなくなった。多くの朝鮮人設営隊員が戦闘で死亡したが、海軍軍
属者名簿に頻繁に登場する戦病死は、ほとんどが栄養失調によって死亡した
ものであり、遠く離れた地に連れて行かれ、無念に飢えて死んだ朝鮮人が多
かったことを物語るものだ。
海軍設営隊の幹部は技術士官が占め、工員は軍属であった。戦争が拡大す
るなかで軍人による編成に移行したが、戦闘部隊と同じ形態の転換はできな
かった。にもかかわらず、連合軍が前進し、戦力が弱まった日本軍は海軍設
営隊も戦闘に投入した。実際、日本側の記録によると、工員はうまく指導す
れば陸海軍人に肩を並べる程度にその戦力を育てることができるので、陣地
の設営などの本来業務のほか、常時、陸戦訓練を実施することを指示してい
る 190。しかし銃器が足りなかったため、火炎瓶や槍のような手作り武器を使用
190 石井顕勇、「硫黄島方面電報綴」3 月 3 日付機密第 010936 番電 http://www.iwojima.jp/index.html
244
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
したり、土木作業用爆薬、ツルハシ、シャベルを手に持って戦うしかなかった。
「日本の戦後責任をハッキリさせる会」が作成した資料によると、1942 年
3 月から 1945 年の終戦まで朝鮮人軍属としてマキン、クェゼリン、クサイ、
サイパン、トラックなどで戦死した人が 1 万 6000 人余りに達している。
武市銀治郎は著書『硫黄島』に、この硫黄島戦闘で日本人が 100%戦死に
近くほぼ全員が玉砕したのに対し、朝鮮人の戦死率は半分程度だったと記録
している 191。強制動員された朝鮮人の海軍説営隊員が、他人の戦場で死を選ぶ
よりも、米軍の降伏説得に同調したことは容易に推測できる。
2005 年 12 月第 17 次委員会で被害決定が完了した呉根烈は、本調査官との
口述調査で次のように述べている。
呉根烈は全羅南道光山郡極楽面徳興里で生まれ、そこに住んでいたが、面
出身者の指示で動員された。4 つの面で 40 人が柳村里事務室で集まって電車
に乗り、光州、雲南洞のイルグァン旅館で 1 泊した後、光州駅で服一着をも
らい、松汀里駅、大邱、釜山を経て日本に向かった。日本では横浜で降りて
寄宿舎に泊まり、21 日間訓練を受けたが、訓練中に日本天皇の皇居を見物さ
せた。再び横須賀で 8 隻の船に分かれて出発したが、米国潜水艦と爆撃のた
めに行っては戻り、行っては戻るという状態で、トラック島には行けず、サ
イパンで降りた。テニアン島で飛行機滑走路工事を行ったが、艦砲射撃と爆
撃のために昼夜洞窟に逃げ回り、米軍が上陸したときは洞窟の戸を閉めて静
かにしていたが、米軍が出てこいと叫んだので、どうにでもなれと思って戸
をあけ、手を上げて出て行った。手上げて出ていくと、米軍が、まだいるの
かと言うから、いると言うと、みんな出てこいと言って、みんな手を挙げて
出てきた。呉根烈はハワイ捕虜収容所を経て、自分が解放前に居住していた
本籍地、光州市徳興里に帰還し、引き続きそこに居住している。
一方、米国は 1943 年以降、制空権を掌握し、心理作戦の一つとして朝鮮人
を目標としたビラを大規模に日本軍占領地域にばらまき、朝鮮人の投降を促
した 192。次のビラは、国史編纂委員会がNARAで集めたものであり、米軍が
使用した数十枚の対日心理戦用のビラの一つである。米軍がばらまいたビラ
は以下のものである。
191 武市銀治郎、『硫黄島』、大村書店、2001 年
192 米軍は多様な宣伝ビラを製作し、大規模に航空機から投下した。
245
「半島出身者諸君 193」
193
〔写真の宣伝ビラの概要。写真の日本語ビラの原文を現代文に直した。〕
1910 年、朝鮮の独立を守るという約束に反して日本は大韓帝国を併合した。大韓国は、安重根、朴烈、また、
東京会館前に集まった韓国留学生 150 名が左手の小指を切断し、切れなければ指を物の上に置き小刀に石
を打って小指を断った、その壮烈な人々、諸君を忘れない。大韓国独立運動本部は上海で韓国同胞の権益を
求め、上海を倭奴が占領した後、本部はオーストラリア〔ママ〕にある、愛国のために来たりて投じよ。日本
人の親切に騙されるな、彼らの親切は諸君を欺き、侵略の道具に君を使うためであり、またいま陸海軍が当
方面に置いて喫している敗北を隠そうとするものだ。騙されてはならない、韓国国民の本分を忘れるな。
246
南方紀行ー強制動員軍属手記集ー
5.手記を記録した朝鮮人海軍軍属
日帝によって海軍軍属に強制動員されて帰還し手記を執筆、この手記集に
収録した強制動員被害者は2人だ。今でも健康な生存者の李共石、李仁申の
2人の略歴は次のとおりである。
現在、済州島北済州郡旧左邑に居住する李共石は、1922 年済州島北済州郡
旧左邑金寧里で生まれたが、1942 年 6 月、軍属募集に志願してマーシャル群
島ウォッジェ島に動員された。李共石は手記に、戦争がアジア全域に拡大し
ていき、日本が限られた人的資源では耐えられず、徴兵制が避けられないと
みて軍属募集に志願したと書いている。千辛万苦のはてに生還して済州警察
署に勤務、戦闘警察として朝鮮戦争に参戦、旧左面の産業係長などを経た後、
30 年余り柑橘系農場を経営した後、引退して故郷に隠居している。
全羅南道長興出身の李仁申は、1942 年 4 月 7 日から 3 年 7 ヶ月間、マーシャル
諸島で服務した。当時、全南で 800 人が動員されて滑走路や砲台装置など軍
事基地造成事業に奴隷のように扱われ、血の汗にじむ労役にあたったと証言
している。李仁申は米軍の侵攻を備えた軍事基地の造成作業に従事したが、
ミリ環礁内のチルボン島で発生した朝鮮人による反乱及び虐殺事件に接した。
当時チルボン島では、日本軍が朝鮮人 2 人を殺害して人肉食をした事件に
よって朝鮮人の反乱事件が発生、これにより朝鮮人が日本人を殺した。その
ため、日本側鎮圧軍により無辜の朝鮮同胞 120 人余りのうち 15 人を除いた
全員が惨殺されたという。その後、李仁申は生命の危険を感じて島を脱出、
米軍捕虜となってハワイ捕虜収容所に収容され、1946 年 1 月に本籍地に帰還
した。
私たちが 4 人の手記を通して、日帝の時期の強制動員のすべてを語ること
はできない。しかし、単に数を示してそれを統計的に分析し、マクロ社会構
造や文化を解明しようとする試みが陥る実証主義の罠を、回避しなければなら
ない。当時を生きたほとんどの朝鮮人が経験した事実が、どのような人々に、
どのように記憶され記録されたのかを通して、私たちはその時代の一面を読
む取ることができるだろう。個々人の経験は、抵抗と収奪という二分化され
た植民地の議論の中で詳細には示されなかったが、彼らの手記を読むことは、
植民地の時期がどのような仕組みであったのかを明らかにする糸口になるだろう。
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彼らの私的記録が、歴史の中で占める位置を探すとともに、イデオロギーや歴
史理論では解明できない個人の経験、個人の記憶と記録が持つ政治的意味を
明らかにし、歴史的ギャップを埋めていくことを期待したい。大切な記録を
残し、委員会に寄贈してくださった 4 人の皆さんに、もう一度感謝の気持ち
を伝えたい。
調査 2 課 李世一、カン・ヒヨン
南方紀行
強制動員軍属手記集