PDF문서일제강제동원피해자지원재단.2020.(도록집)사진으로 보는 강제동원 이야기 - 일본 홋카이도편(일본어판).pdf

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発 刊 登 録 番 号

11-B553448-000033-01

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本図録に収録された一部の遺物は、

財団法人日帝強制動員被害者支援財団が運営している

「国立日帝強制動員歴史館」( 釜山広域市南区 . 2015 年開館 ) で

展示しています。

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初版 1 刷 印刷

2020 年12 月21 日

初版 1 刷 発行

2020 年12 月21 日

韓国語版編著

日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会

韓国語版発行

2009 年12 月31 日

日本語版発行人

金容徳

日本語版発行処

日帝強制動員被害者支援財団

 

 

ソウル特別市鐘路区鐘路ギル 42 利馬ビル 6 階

 

 

http://www.ilje.or.kr

翻訳 

日本語翻訳協力委員会

日本語訳 :権龍夫 ,地名・人名等校訂 :竹内康人

最終監修

玄明喆 ( 韓日関係史学会会長 )

発刊登録番号

11-B553448-000033-01

編集・印刷

希望コミュニケーションズ

本書の全部または一部を無断で複写複製 ( コピー ) することは、
著作権法上での例外を除き、禁じられています。

写真で見る強制動員の話
- 日本・北海道編 -

日帝強制動員被害者支援財団 翻訳叢書  7  図録

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写真で見る

強制動員の話

日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会 | 編
日帝強制動員被害者支援財団・日本語翻訳協力委員会 | 訳

発刊登録番号

11-B553448-000033-01

日帝強制動員被害者支援財団

- 日本・北海道編 -

日帝強制動員被害者支援財団 
翻訳叢書  7  図録

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2 _ 写真で見る強制動員の話

発刊の辞(日本語版)

財団法人日帝強制動員被害者支援財団は、国内外から多くのご関心

とご声援をいただき、今年も5冊の強制動員関連の本を翻訳・発行す
ることになりました。2019年に引き続き、2年目の今年も進めている
出版事業は、日本現地の「強制動員真相究明ネットワーク-日本語翻訳
協力委員会」の関係者の方々と国内関連分野の研究者の方々の惜しみ
ないご尽力、愛情によって編み出された成果だと言えるでしょう。

2020年に発行される5冊の本は、旧委員会(日帝強占下強制動員被害

真相糾明委員会・対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲

者等支援委員会)から出された強制動員被害調査報告書と口述記録集、そして遺物図録の日本語版
です。日本語訳は去年から本財団と協力してきた日本現地の「日本語翻訳協力委員会」の関係者
の方々のご協力を得て作業が行われ、以降国内学界の研究グループの方々の監修で貴重な原稿が
整いました。日本と韓国で長い間活動して来られた研究者の方々、活動家、翻訳家の方々の惜し
みないご尽力に心より感謝申し上げます。

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日帝強制動員被害者支援財団

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今回、発行される旧委員会報告書2冊は、中西南太平洋地域強制動員被害真相調査報告書であ

る「南洋群島への朝鮮人労務者強制動員実態調査 1939~1941」(2009)と長崎所在の海底炭鉱被害
実態調査報告書である「端島炭鉱での強制動員朝鮮人死亡者実態調査」(2012)です。また、広島
・長崎地域の強制動員と原爆被害者の口述を載せた「我が身に刻まれた8月」(2008)と旧委員会
の唯一の日本軍「慰安婦」の口述記録集である「聞こえてる? 日本軍「慰安婦」12人の少女の
物語」(2013)の日本語版も長い議論と陣痛の末、発行の運びとなりました。最後に、日本の北海
道地域の強制動員被害者の寄贈遺物と資料などを載せた「写真で見る強制動員の話-日本・北海道
編」(2009)の発行を通じて、財団が委託・運営している「国立日帝強制動員歴史館」(釜山広域市
南区所在)の所蔵資料の一部を皆さんにご紹介できることは一層有意なことだと思います。

旧委員会の解散後中断していた事業が、このように財団を通じて事業として引き継がれ、そのう

え、強制動員分野の国内外の研究に多少なりとも役立つことができれば、より一層嬉しいことで
す。財団のこれらの事業に今後も多くのご関心とご声援をお願い申し上げるとともに、財団として
も、今後、強制動員の分野の様々な研究報告書や学術資料、テキストの編集に努力を惜しまないこ
とを約束いたします。また、強制動員関連の研究成果が、韓国と日本を越えてアジア全域とアメリ
カ、欧州など世界中に拡大できるよう、引き続き、ご関心とご支援をお願いいたします。

ありがとうございます。

2020年12月21日

財団法人日帝強制動員被害者支援財団

理事長金容德

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4 _ 写真で見る強制動員の話

発刊の辞(韓国語版)

日本の北海道地域に関する口述記録集とともに、本写真集を同時に発刊できることは誠に意義

深いと考えます。口述記録集が被害生存者本人の肉声を通じて強制動員の実情を伝えているな
ら、本写真集は写真と文章、博物類などを通じて皆様方を当時の現場へ案内するでしょう。写真
資料集と口述記録集を交互に読みすすめることで、北海道で起きた強制動員の実態が自ずから浮
かびあがることを期待します。

写真資料集発刊に至るまで実に多くの方たちの協力がありました。解放後60年余りが過ぎた現

在も、大切にしまっていた色あせた写真、過去の逆境を思い出させる手帳や切実な内容のハガキ
などの資料は、被害当事者やその家族が、被害申告書とともに委員会に提出したものです。

ご存じのように北海道は日本有数の炭鉱・鉱山の地であり、アジア太平洋戦争時、数多くの朝

鮮人が日本帝国の戦争遂行のために動員された所です。北海道だけでもその数は実に15万人余り
に達しました。その方たちすべてが委員会に申告したのではありませんが、多くの方たちが強制
動員の真相究明に参加してくれました。こうして集まった資料は、記録担当班がひとつひとつを
大切に管理していました。これらの資料は、生存者たちの証言に劣らず、多くのことを伝えるも
のです。一枚の写真であっても、その中にはたくさんの人たちの物語が、歴史がびっしりと染み
込んでいます。私たちはこの資料に込められたメッセージを委員会の書庫に眠らせることはでき

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日帝強制動員被害者支援財団

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ないと判断し、皆様との大切な出会いがなされるようにと本資料集を準備しました。それが資料
を提供した関係者の意思でもあると考えました。この大切な資料が国内外の多くの方々と共有さ
れることで、強制動員の真相を知らせる一助になると確信します。

唯一残っている父親の痕跡だと、長い年月の間しまっていた古い写真一枚を手に持ち、しばら

く言葉が無かった老年の紳士、労務手帳を探しだし、たくさんの資料を保管できていなくてすま
ないと残念がった遺族の心、それらをそのまま次世代に残したい。それができれば、この資料集
を準備した私たちにとって、これ以上の喜びはありません。資料使用を快く受け入れてくれた皆
様に、この場を借りて深く感謝します。紙面の制限で、提供資料すべての紹介ができなかったこ
とをご了解ください。ほかの機会に紹介することを約束します。

2009年12月

国務総理所属・日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会

委員長金龍鳳

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6 _ 写真で見る強制動員の話

目次

炭鉱・金属鉱山編

発刊の辞(日本語版)
発刊の辞(韓国語版)
目次
解題
凡例

北海道炭礦汽船(株) 夕張鉱業所
北海道炭礦汽船(株) 平和鉱業所 平和炭鉱
北海道炭礦汽船(株) 幌内鉱業所
北海道炭礦汽船(株) 新幌内鉱業所
生存者に直接聞く写真の話―金斗植談
北海道炭礦汽船(株) 空知鉱業所 神威炭鉱
生存者に直接聞く写真の話―尹秉烈談
三井鉱山(株) 新美唄炭鉱
三菱鉱業(株) 美唄鉱業所
生存者に直接聞く写真の話―金鐘培談
三菱鉱業(株) 大夕張鉱業所
野村鉱業(株) 置戸鉱山

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日帝強制動員被害者支援財団

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土木工事場編

軍需工場編

茅沼炭化礦業(株) 茅沼炭鉱
生存者に直接聞く写真の話―朱龍根談
中外鉱業(株) 上国鉱業所
雄別炭礦鉄道(株) 雄別礦業所
生存者に直接聞く資料の話ー尹永旭談
太平洋炭礦(株) 春採炭鉱
生存者に直接聞く写真の話―申鉉大談

千歳飛行場
浅茅野飛行場
生存者に直接聞く資料の話―全愚植談
雨竜ダム工事
松前線鉄道工事

日本製鉄(株) 輪西製鉄所
函館船渠(株)
生存者に直接聞く資料の話―趙炳春談

編集後記
資料索引
企業·地名·用語索引

084

092
096

104

114
120

126
132

142
158

170
178
180

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8 _ 写真で見る強制動員の話

■ 資料集の構成と内容

この資料集は、日本の北海道地域に強制動員された労務者の被害関連資料を選定・収録し、そこに簡単

な説明を付け加えたものである。編集において資料の類型別に構成することも意味があると考えたが、こ
の資料集では企業の情報など多くの補足説明を加えたため、業種別に分類する方法を選択した。それによ
り、全体では炭鉱金属鉱山編、土木工事編、軍需工場編で構成した。そして、各編ごとに、資料を提供し
た被害者の写真、文書、博物類などの所蔵資料を紹介した。

この資料集に収録された資料は全62点で、32人の被害者と遺族が寄贈または提供したものである。すべ

て日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会に被害申告をする際に提出したり、あるいは調査時に追加確認
されたものである。このような過程を通じて確保された資料は実に4800件余に上り、内容も豊かであり、
しかも多様だ。北海道調査を担当する調査3課の専門調査官たちは、これらの資料が伝える切ない物語と
真実を前に、収蔵庫に収めるだけでは惜しいとの判断から、調査業務の傍ら、3年間にわたってコツコツ
と資料集を企画・準備し、今日に至った。

ここに紹介する資料は北海道地域に限定されたものであり、委員会が所蔵する資料のごく一部に過ぎな

いが、北海道への労務動員の実態を把握するうえで役に立つと判断されるものである。収録された資料を

解題

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日帝強制動員被害者支援財団

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写真類、文書類、博物類及びその他生存者証言という四つの類型に分けたが、その詳かな内容は次の通り
である。

 

1. 白黒写真の中の朝鮮人労務者たち 写真24点

写真類は全24点が収録されている。紹介された写真類は、ほとんど断片的なイメージであるが、写真の

なかの労務者たちの姿を見ることで、当時の労働環境や作業場の雰囲気を類推することができる。写真の
裏に、被害者本人が自筆で記した撮影場所や時間などが確認できる場合もある。

動員先で撮影した個人写真の大部分に、幼い少年の姿が写されている。炭鉱作業服を着て撮影された写

真からは、強制動員被害者の当時の生々しい姿を感じることができる。

整然とした姿勢と淑やかな身なりの団体写真は、その多くが写真の主人公たちが生活した宿舎を背景に

撮影されており、また、協和寮という宿舎の名前が確認される場合もある。写真を通じて被害者の強制動
員された炭鉱や企業の名前が確認できたり、「〇〇労務隊」「〇〇勤労報国隊」のような名称から、写真の
主人公たちの出身地に関する情報も得ることもできる。資材運搬用のレールや絶壁を背景にしたダム工事
現場の写真からは、土木工事現場に関する情報を得ることができる。土木工事現場関連の写真は少なく、
とても貴重なものである。

以上の写真については、被害当事者が所蔵していた場合には、いつ、どこで、何をしていた時に撮影さ

れたのかなどの情報を、より詳らかに聞き取って収録した。被害者の家族が所蔵していた写真の場合に
は、状況は分からないが、写真の人物のうち、だれが被害当事者なのか、背景となっている所がどこなの
かに対する情報を聞き取り、資料なども確認して収録した。参考までに記せば、ここに紹介する写真はす
べて、本人にとっては忘れられない記憶として、残された家族たちにとっては亡くなった被害者を偲ぶ際
の大切な資料として保管されていた。

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10 _ 写真で見る強制動員の話

2. 文字で残された強制動員の痕跡 文書類31点

ここでの文書とは、日本政府または企業及び団体と被害者間で行き交った公的な内容を扱った文書をい

い、全31点を収録した。日本語で作成された原文はなるべくそのまま翻訳して収録し、合わせて理解を深
めるために簡単な内容説明や資料が持つ意味を付け加えた。

金炳澤の「徴用告知書」は、当時使役された作業場が軍需会社として指定されることにより、所属する

労務者自身も被徴用者の身分に変わったことを伝えている。また、個人の人的事項と履歴が詳しく書かれ
ている労務手帳や協和会手帳、そして故郷を訪問するために発給を受けた「一時帰鮮証明書」などを通じて、
日本帝国が当時、朝鮮の労務者の統制と管理をどのように実施していたのかなどを理解することができる。

尹秉烈の給与証明書からは、本人が受領する賃金よりも会社が各種名目で控除する金額がずっと多かっ

たという事実を確認することができる。尹秉烈をはじめとする被害生存者たちは異口同音に、いくら一生
懸命に仕事をしても実際に手に握れるお金はほとんどなかったとか、いくらにもならなかったという事実
を吐露したが、この文書は被害者たちのこのような証言を立証している。さらに尹永旭の「借用証」を見
ると、動員先での生活に必要な各種生活必需品などの購入に「先貸金」が支給され、これを後から給料で返
していかなければならなかったという労務者の状況を把握できる。このような借用金は各種名目の控除額
と同様、労務者にとって、作業場を自由に移動することができない「足かせ」の役目を果たしたことはいう
までもない。

強制動員被害者たちが帰還時、所蔵していた品物の中には、賞状や表彰状が数多くある。普通、これら

の資料は強制動員被害申告書とともに立証資料として提出される場合が多いが、内容をよく見ると、戦時期、
各種産業の増産を督励するために宿舎別あるいは個人別に競争を煽り、それを褒めて授与されたものであ
った。また、契約期間満了者にもその間の功績を讃えて授与される場合もあった。

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日帝強制動員被害者支援財団

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動員中に死亡した被害者の死亡関連文書はいろいろな形で存在する。浅茅野飛行場で死亡した犠牲者の

死亡診断書は作業場の近隣病院で発給されたものであり、彼の死亡日、死亡原因などについて明確に知ら
せてくれる。死亡後に解雇処理された労務者の賃金を精算した「解傭精算金封筒」、当該の事業者が死亡者
の本籍地警察署長に死亡関連事実を知らせた内容の文書などの死亡関連資料は、動員中の死亡者に対する
処遇の実態や遺骨奉還手続きなどについて重要な情報を含んでおり、真相解明にむけ、示唆するものが多い。

その他、鉱夫番号が鮮やかに残っている従業員証、運輸事業の業務指針書である「運輸従事員安全作業

心得」、負傷証明書なども当時の労務者たちの労働生活を理解するうえで、有用な資料である。

3. 博物類およびその他7点

博物類および手紙などのその他の資料は7点が収録されており、主に個人的な記録物や所持品である。

個人的な記録物の場合、当時の作業場の状況と被害者本人の複雑な心情がよく描写されていて、強制動員
の実情を理解するうえで大いに役立つ。

動員地で家族とやり取りした手紙と葉書からは、遠く離れ、お互いを心配する家族間の切ない情が感じ

られる。解放を迎えて帰国する時、身の回り品を入れてきたカバンからは、当事者の陳述とともに彼の帰
還する際の姿を思い浮かべることができる。

強制動員されて故郷を発つ瞬間から動員先での生活を詩調形式で記録した「北海道苦楽歌」は、個人記

録物のなかでもその形式と内容が優れている。「北海道苦楽歌」は、被害者の立場で動員の状況、北海道の
炭鉱に到着するまでの長い道のり、初めて経験する炭鉱労働への恐れなど、朝鮮の労務者の疲れ果てた実
生活と哀歓を韻律で表現したものである。

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12 _ 写真で見る強制動員の話

室蘭市にある輪西製鉄所に動員された具然錫は、手帳に戦時末期の連合国の空襲状況を克明に書き記し

ていた。当時、戦況は敗戦色が濃くなり、切迫した輪西製鉄所の状況が、死を目の前にした一個人の手帳
の中にそっくりそのまま現れている。手帳の持ち主である具然錫は7月15日に室蘭艦砲射撃によって犠牲
となったが、主人を失った手帳はそれを暗示するかのように、6月26日から始まった空襲日誌が7月3日で
中断されている。強制動員され、現地で死亡した犠牲者の遺族に同僚たちが十匙一飯(十人が一匙ずつ持ち
よれば茶碗一杯の飯になる)募金した弔慰金が伝達された。同僚たちの香典袋からは犠牲者を追悼する仲間
たちの素朴な情を感じとることができる。

以上の手紙、手帳など個人的記録からは個人の内面世界をうかがうことができ、強制動員が個人にどの

ような影響を及ぼしたのかを知ることができるとても貴重な資料である。

4. 生存者から直接聞く写真と資料の話

資料集に収録する対象資料を選定するうえで、特に考慮した点は、強制動員被害「生存者」の所蔵資料

を優先的に扱うことだった。資料とともに、豊かな体験の話を織り交ぜ、「生存者に直接聞く写真の話 」 と
いう別個の場を設けた。生存者たちに資料収集とともに詳しく聞き取りをおこない、それを彼らが直接、
話の主人公になって語りかけるように実施した。

生存者たちは、その多くが彼らが 60 年余の間、持っていた所蔵資料に対する記憶をそっくりそのまま伝

えただけでなく、文字で伝える以上の事実を教えてくれた。この資料集では金斗植、尹秉烈、金鐘培、朱龍根、
尹永旭、申鉉大、全愚植、趙炳春ら 8 人の口述を紹介した。その記憶は本人が所蔵していた資料とともに、
真実をより豊かで明瞭なものにしており、その歴史的価値は十分である。

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日帝強制動員被害者支援財団

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■ 一枚の写真、一切れの紙が伝える、もう一つの証言

残された資料もまた、ある種の証言である。一枚の写真や資料だけでは強制動員はわかりにくい。しかし、

強制動員の一断面ではあるが、それぞれの資料が集まった時に強制動員の全体像が浮かんでくるのである。

一方、これらの資料はいまは 80 歳の老人となったある人の、少年時代の悲しい思い出であり、幼いこ

ろに遠い異国で他界した父親への記憶であり、また男盛りの年にこの世を去った兄のささやかな遺品でも
ある。このように、これらの資料は個人的にも深い思いが込められていたため、所蔵者全員が資料を大切
に保管していた。そのお陰で、このような機会を通じて、その思いを大切に伝えることができるのである。

資料収集の過程で切なさを禁ずることができなかったのは、過ぎ去った歳月があまりにも長すぎたため、

資料が語っている強制動員の記憶が色あせてしまった点である。生存者の場合は、

「今では、古くなりすぎ、

多くの内容が思い出せない」と言ったり、遺族の場合、「いま生きていたら、資料に対して多くの話をして
くれたはずなのに・・」、あるいは、「生きていた時にたくさん聞いておけばよかったのに・・」と言いながら、
惜しさを表す場面が多々あった。

もう二度とこのように惜しむ遺族や生存者が生じないように決意を改めるとともに、今回の写真資料集

の発刊が、強制動員に対する認識を一般に広げ、今後の持続的な史料発掘のきっかけとなることを期待する。

調査3課 尹智炫

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14 _ 写真で見る強制動員の話

凡例

■  収録された資料の収集方法は、「寄贈」と「提供」である。
  -   

「寄贈」は資料の原所有者が、当委員会規定に依拠して定められた寄贈手続きを踏まえて原本資料を寄贈

したもので、所蔵と活用について同意を得た資料である。

  -   

「提供」は、資料の原所有者から原本ではない写本 ( スキャンと撮影イメージ ) の提供を受け、写本の所

蔵と活用について同意を得たものである。

■   掲載資料下段に資料寄贈者(提供者)の氏名を記載した。資料名は、資料名がある場合はそのまま使用し、資

料名が無い場合には資料の内容を基に編著者が記載した。

■   地名や会社名など固有名詞の場合、できるだけ日本式の発音のままに記載した。

■   文書資料または名簿に本籍地住所や生年月日などの個人情報が記載されている場合、個人情報保護のため、

本籍地住所では面以下、生年月日では月日を不鮮明に処理した。

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日帝強制動員被害者支援財団

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■   

「会社名」は強制動員時期 (1939-1945 年 ) に使用された社名を記載した。強制動員時期に社名が変更された

場合は、その期間が長い場合の社名を採用し、具体的な沿革については別に記入した。

■   

「強制動員規模」の記載は推定値であるが、文献資料から確認される数字を記載し、根拠を示した。ある会

社がどの程度の朝鮮人を動員したのかに関する資料は韓国内では確認するのが難しい。この資料集では日本
の北海道庁の主管で刊行された「北海道と朝鮮人労働者」の資料、日本各地の郷土史を主に参考にし、強制
動員規模を推定した。

■   

「委員会申告件数」の記載は 2009 年 12 月まで「日帝強占下強制動員被害真相究明委員会」で被害者として

完了した申告数を意味する。委員会の被害調査はまだ完了していない状態であり、各作業場の被害処理完了
の件数は増加するものとみられる。

  ・翻訳にあたり、句読点を入れた個所がある。明らかな誤りは訂正した。訳注は〔 〕で記した。

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16 _ 写真で見る強制動員の話

炭鉱・金属鉱山

 編

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日帝強制動員被害者支援財団

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北海道は石炭をはじめとする地下資源の豊富な地域で、この資源を開発する開拓事業が

明治時代から活発に行われた。北海道で産出される鉱物は金、銀、銅などの金属鉱物と石
炭、硫黄などの非金属鉱物に分けられる。このなかで石炭は日本国内で最高の埋蔵量を有
しており、北海道開拓の歴史とともに鉱業の中心を占めた。

石炭業は日本の他の地域と同じく大企業によって開発が主導され、代表的な炭鉱会社と

しては北海道炭礦汽船株式会社、三井鉱山(株)、三菱鉱業(株)、住友石炭鉱業(株)などがあ
った。このうち北海道炭礦汽船(株)は、〔三井系であり、三井鉱山と合わせると〕朝鮮人強
制動員の規模では全国最高を記録するほど、多数の朝鮮人を強制動員した。

炭鉱以外の金属鉱山としては金を生産する住友鉱業(株)鴻之舞鉱山、砂白金を生産する

帝国砂白金・雨竜鉱業所、水銀を生産する野村鉱業(株)イトムカ鉱山などがあり、これらの
金属鉱山にもやはり多くの朝鮮人が強制動員された。

炭鉱と金属鉱山へと動員された朝鮮人労務者の大多数は、危険度が高い坑内労働に投入

され、初めて経験する採掘労働で負傷するケースも多かった。また、戦争末期になるほど
生産量の増加が要求され、このために労働災害も激増し、死亡者も続出した。

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18 _ 写真で見る強制動員の話

夕張鉱業所

北海道炭礦汽船

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日帝強制動員被害者支援財団

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• 北海道夕張市所在
• 1890年北海道炭礦汽船(株)が開発を着手、1892年から採炭開始.

1977年廃坑後、「石炭歴史村」として整備.

• 朝鮮人強制動員規模:約7,000人余
• 委員会申告件数:約730件

北海道炭礦汽船株式会社は北海道地域の炭鉱開発を主導した代
表的な企業であり、北海道内5か所で大規模鉱業所である夕張、
平和、幌内、空知、天塩鉱業所を運営した。北海道炭礦汽船(株)
は、3万3000人余りの朝鮮人労務者を動員したものと推定される
が、これは北海道内全体の朝鮮人労務動員を15万人と算定した
時、約22%(1/5)を占める。
特にそのなかでも夕張鉱業所は、北海道炭礦汽船(株)の主力炭
鉱であり、戦時期には7,000人以上の朝鮮人労務者を収容してい
た。この数は、『北海道炭礦汽船株式会社70年史』の「1946年1月
9日、朝鮮人165名が帰国の途に就き、これで7,316名の朝鮮人労
働者の集団帰国が終了した」という記録からも推定できる。1)

1) 表「朝鮮人労働者地域別事業場及び人員状況」(朝鮮人強制連行実態調査報告書編集委員会

編『北海道と朝鮮人労働者』1999年170ページ)でも、夕張鉱業所1945年6月の朝鮮人現在数
7,096人を確認できる。

夕張市

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20 _ 写真で見る強制動員の話

徵用告知書

金炳澤の徴用告知書/金セギュ(金炳澤の子息)提供

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 _ 21

2) 川口学、2008 年度日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会研究委託報告書、「戦時期の軍需会社法による労

務動員に関する基礎研究」、2008 年.42 ページ.

金炳澤は全南麗水から北海道炭礦汽船(株)夕張鉱業所に強制動員され、

1945年8月に解放を迎える時まで4年間の労役をしたという。彼の息子が長
い年月、本の中に保管していたこの徴用告知書からも、金炳澤が北海道の夕
張鉱業所にいたことがはっきりと確認できる。

徴用告知書には彼の創氏名(金川炳植:金炳澤の名前は動員当時「金炳

植」で、帰還後に「金炳澤」へ改名した)が記載されており、その横には本
籍地住所が番地まで詳細に書かれている。徴用告知書の内容によれば、金炳
澤は軍需作業従事者として夕張鉱業所で軍事上特別に必要な総動員物資生産
に関する業務に従事することになっている。

北海道庁長官が発行した徴用告知書の発給日は1944年4月25日、まさにこ

の日は北海道炭礦汽船(株)が「軍需会社法」によって軍需会社として第2次
指定された日だ。「軍需会社法」第6条によれば、軍需会社と指定された事
業所の職員・労務者は全員「国家総動員法」によって「徴用」されたものと
みなされた。いわゆる「現員徴用」である。このような労務者たちは徴用期
間に制限がなく、事実上、無期限で徴用されることを意味した。また、軍需
会社に指定された事業場は軍隊のように組織化され、生産責任者の指揮に従
わない場合、政府から懲戒制裁を受けるなど、徹底して国家の統制下に置か
れた。2)

北海道炭礦汽船株式会社が軍需会社として指
定された日(1944年4月25日)に北海道庁長官が
発行した徴用告知書。金炳澤は軍需事業従事
者として徴用され、夕張鉱業所で軍事上、特
別に必要な総動員物資生産に関する業務に従
事すべきことを告知している。

内 容

題  目:徴用告知書
対 象 者:金川炳植(金炳澤の創氏改名後の名前)
本  籍:朝鮮全羅南道麗水郡○○面○○里
生年月日:大正5年(1916年)○月○日
上の者は下記の通り、徴用された者と見なす。
従事すべき総動員業務を行う指定軍需会社の名称:
北海道炭礦汽船株式会社夕張炭礦
従事すべき総動員業務:軍事上特別に必要な総動員
物資生産に関する業務
従事すべき職業:軍事産業従事者
従事すべき場所:内地
発 行 日:昭和19年(1944年)4月25日
発行者北海道廳長官 坂千秋

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22 _ 写真で見る強制動員の話

従業証

この従業証は、北海道炭礦汽船(株)夕張鉱業
所が発給したものであり、朴鍾成の創氏名と
交付番号、採用日、居住地などが記載されて
いる。

内 容

従業員番号:13890
姓   名:木本鍾成
住   所:8協区
採   用:昭和17年(1942年)10月29日

朴鍾成は、全羅北道錦山から夕張

鉱業所に動員された。小さな従業証
に過ぎないが朴鍾成の当時の創氏名
と交付番号、採用日(1942年10月29
日)、生活空間(8協区)などが確認さ
れ、当時の状況を断片的であるが、
理解できる。彼につけられた鉱夫番
号は13890番。強制動員の生存者の
中には60年余りが過ぎた現在まで鉱
夫番号を記憶する人たちがいる。現
場では名前でなく番号で呼ばれたの
で番号を忘れられないという証言、
はなはだしくは飯を食べる前に番号
を大声で叫んで初めて飯をくれたと
いう証言もあった。朝鮮人労務者は
強制労働の現場で「私」という人格
体ではなく、労働力を供給する一つ
の「数字」として扱われた。そのよ
うな非人間的な状況に処していたこ
とを示す史料である。

朴鍾成(パク・ジョンソン)の従業証/朴鍾成 寄贈

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 _ 23

給与明細書

夕張炭鉱で発給された朴鍾成の給与明細書で
ある。朴鍾成の創氏名(木本鍾成)と左側の従
業証の鉱夫番号と同一の番号が確認できる。
家族慰問金、慰労金、退職手当金、11月分賃金
精算高、旅費、障害扶助料などの項目がある。

内 容

題目:諸給与其他明細表
項目

・賃金カード精算:家族手当、基本補給、別居手当、

特別手当、勤続手当

・現金支払:定着手当、家族慰問金、慰労金、退職

手当金、会社預金、債券買上代、11 月分賃金精算高、
旅費、障害扶助料など

朴鍾成の給与明細書/朴鍾成寄贈

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24 _ 写真で見る強制動員の話

診察券

金〔金森〕秉千の内科診察券/金ヨンソク(金秉千の子息)提供

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 _ 25

3) 前掲書『北海道と朝鮮人労働者』264ページ.

北海道炭礦汽船(株)の内科診察券。診察券の上部には北海道炭礦汽船のマ

ーク(円中に星)が鮮明だ。診察番号、氏名、採用年月日、現場、住所、年齢
などを記載するようになっている。左右部にはそれぞれ、診察券は来院の都
度持参すること、診察済みの者は診察券を紛失しないようにという注意事項
が書かれている。診察券の住所欄で金秉千が「清真寮」で生活したことが分
かる。

「寮」とは当時の労務者たちの集団宿所である。炭鉱の開発とともに会社

は炭鉱住宅を建設し、会社の社員住宅とは別途に集団的な朝鮮人移住に備え
て「寮」、または「飯場」という宿所を供給した。朝鮮人労務者は、寮で集
団的寄宿生活をして、会社の徹底した統制と監視下で、石炭増産にまい進す
ることを強要された。1945 年当時、夕張鉱業所には計 34 棟の協和寮があっ
た。3)

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26 _ 写真で見る強制動員の話

北海道炭礦汽船

平和鉱業所 平和炭礦

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 _ 27

• 北海道夕張市、北西部所在
• 1937年開鉱、1975年廃鉱
• 委員会申告件数:平和鉱業所約250件

北海道炭礦汽船株式会社平和炭鉱は夕張市の北西部にあり、良質
の鉄鋼コークス用の原料炭を生産する夕張炭田の主要炭鉱だっ
た。1937年に開坑され、1941年には北海道炭礦汽船の真谷地炭
鉱、登川炭鉱、角田炭鉱とともに平和鉱業所に編成された。
戦後、1969年に鉱業所の制度が廃止され、1975年に廃鉱になった。

夕張市

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28 _ 写真で見る強制動員の話

負傷証明書

李永俊(イ・ヨンジュン、国本永俊)の負傷証明書/李ヨング(李永俊の子息)提供

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 _ 29

李永俊は1944年2月頃、北海道炭礦汽船株式会社の平和鉱業所平和礦に強

制動員された。当時、李永俊はソウル清涼里の鉄道局に勤務していた。ある
日、彼の父が中風にかかって倒れたとの知らせを聞き、急いで故郷へ行っ
た。村の区長が家に帰ったという噂を聞いて尋ねてきて、日本に動員すると
言った。

彼は学識があったためか、炭鉱で機械を操作する業務を担当した。ところ

が作業をしていた時に、ワイヤーに右腕が捲込まれる事故に遭い、腕を切断
するという重傷を負った。

この文書は、李永俊が業務上の負傷で右腕を切断されて義手を製作して着

用することになったが、その額を会社側が負担するという内容の証明書であ
る。採掘現場での作業は、常に大小の事故に晒されるが、一瞬のミスで障害
を伴う大事故となることがある。強制動員された作業場で障害を受けたとは
言え、解放後60年が過ぎた現在、これを立証する方途を探すのは極めて難
しい。そのようななか、この証明書は当時、李永俊の身上に何があったのか
を、明白に示す貴重な資料である。

ところで、李永俊は義手代金として支給された金額を途中で紛失した。会

社側に再度代金を請求しようとしたが、請求手続きが分からないために請求
できなかった。そのため長袖で右腕を隠して生活したという。

この文書は、北海道炭礦汽船株式会社平和鉱
業所で発行した負傷証明書。李永俊が事故で
失った右腕に義手を付けるため、交付金を支
給する内容が入っている。

内 容

題 目:証明書
発 行:平和鉱業所平和礦
発行日:昭和20年(1945年)11月24日

〔要旨〕右に記載された者は、業務上の負傷で右手

を失い、義手を付けたが、金額が明確でなく、金 1,200
円を概算して交付し、万一それ以上を要する場合、
請求次第で、実費を負担する。

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30 _ 写真で見る強制動員の話

幌内鉱業所

北海道炭礦汽船

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 _ 31

幌内炭礦は北海道炭礦汽船による開発の中心となった鉱業所であ
る。1879 年から開業し、1939 年には万字、美流渡、幾春別坑と
ともに、「幌内鉱業所」に編成された。
幌内炭礦では1922年以降から朝鮮人労務者の存在が確認される
が、当時は20人程度の少ない数だった。しかし、いわゆる強制動
員時期の1939年以降からは毎年、数百人規模の朝鮮人が動員さ
れ、戦争末期の1944年には8棟の協和寮に1,800人以上の朝鮮人が
収容されていたという。朝鮮人は幌内炭礦の坑内夫の60%程度を
占めており、主として採炭、掘進などの過酷な労働を担当させら
れた。4)

• 北海道三笠市所在
• 1879年開坑、1939年幌内鉱業所に編成。1989年廃坑
• 強制動員規模:約2,000人余
• 委員会申告件数:幌内礦業所 約540件

4) 北海道開拓記念館『北海道開拓記念館調査報告第7号 明治初期における炭鉱の発展―幌内炭

鉱における生活と歴史』1974年、44ページ、「表22 北炭における朝鮮人労働者の変化」46~48
ページ。

三笠市

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32 _ 写真で見る強制動員の話

幌内鉱業所で撮影した朴トンマンの団体写真

昭和17年度幌内鉱業所協和寮対抗出稼競争優勝記念/朴キョンヒ(朴トンマンの子息)提供

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 33

朴トンマンは1941年10月頃、慶尚北道奉化から北海道炭礦汽船(株)の幌内

鉱業所に動員された。写真の下部にある文字から、この写真が1942年に幌
内鉱業所で撮影されたことがわかる。3枚の写真が一枚の中に一緒に陰画さ
れている点が特徴的だ。左上の写真(1番)には幹部だけが写され、後ろには
「五協和寮」と書かれた宿所の看板が見える。右上の写真(2番)は、宿所の
建物を撮影したものとみられるが、正確なことは分らない。

団体写真(3番)では、写真の説明の「競争優勝」という文字が目を引く。

当時、日本の各鉱業所は石炭増産のためにさまざまな方法で労務者たちを督
励したが、生産実績が優秀な個人や団体には個人表彰と団体表彰を授与する
など、労働者が自主的に参加するように誘導した。1942年、幌内鉱業所で
は、宿所(協和寮)別に石炭生産の対抗競争が催されたとみられる。

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34 _ 写真で見る強制動員の話

新幌内鉱業所

北海道炭礦汽船

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 35

• 北海道三笠市所在
• 1931年、昭和鉱業株式会社によって開発。1941年、北海道炭礦汽船株

式会社に併合。解放後、幌内鉱業所に吸収5)

• 強制動員規模:約2,000人
• 委員会申告件数:約230件

三笠市

新幌内鉱業所では、1939年に朝鮮人439人を動員したのをはじ
め、毎年、朝鮮人労務者を動員し、1945年6月には朝鮮人労務者
が1,519人に及んだことが確認される。北海道炭礦汽船の関連資
料には、1945年12月、新幌内炭鉱の朝鮮人労働者と家族2,460人
が帰国を完了したと記録されている。この記載からも、新幌内炭
鉱に動員された朝鮮人労務者数を推測できる。6)

5) 前出『明治初期における炭鉱の開発―幌内炭鉱における生活と歴史』11ページ(幌内炭鉱年表)

参照。

6) 前出『北海道と朝鮮人労働者』168、631ページ。

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36 _ 写真で見る強制動員の話

李ヒョングの写真/李ヒョング寄贈

李ヒョングの写真

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 _ 37

李ヒョングは1943年7月、故郷の全羅北道高敞から新幌内鉱業所に強制動

員された。李ヒョングは当時、家の農作業を手伝って生活していたが、面事
務所職員がどうしても日本へと仕事に行かなければならないと言った。高敞
の各邑・面から動員された人はおよそ100人ほどで、当時18歳だった李ヒョ
ングは、その中でも一番若かった。高敞から動員された人たちは高敞旅館に
3日間滞在し、その後日本の北海道へ出発した。

炭鉱での生活は徹底した団体生活だった。宿所は100人余りが一緒に生活

できるほど大きく、食事は団体での給食だった。また炭鉱の外へと外出する
時は必ず申告しなければいけないなど、移動の自由がなかった。

そんな抑圧された生活のためか、彼の記憶には「新幌内」という単語がい

まも鮮明だ。帰る日がいつなのかもわからないまま、炭鉱の重労働に苦しん
でいたある日、突然に解放が訪れ、同僚たちとともに夢に見た故郷へ向かう
ことができた。

写真は李ヒョングが新幌内鉱業所に動員された後、同僚と一緒に炭鉱付近

の写真館で記念撮影したものであり、真ん中の人物が李ヒョングである。両
側の同僚は炭鉱作業服を着用している。この服装は写真撮影のために写真館
で借りたものだが、実際の作業服と大差はなかったという。李ヒョングは幼
くして動員されたので、同僚たちと違って学生服で撮影した。同僚たちが着
用している作業服装とキャップランプ、首に巻いている手ぬぐいなどから、
当時の現場の姿が生々しく感じられる。

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38 _ 写真で見る強制動員の話

私は1921年に全羅南道珍島郡で生まれま

した。1942年のある日、村で日本の大阪で2
年間仕事をする人を募集すると聞きました。
2年間だけ仕事をすれば、お金をたくさん稼
げるという言葉に心惹かれ、従弟と一緒に志
願しました。募集に応じた人たちと一緒に珍
島警察署に集まっていたら、日本人2人が私
たちを連れに来ました。7)その人たちは青っぽ
い作業服を着て、「北炭」と書かれた腕章を
つけていました。北の炭鉱!その腕章を見て
その時に「私は炭鉱で仕事しに行くんだ」と
考えました。初めから炭鉱と分かっていたら
志願しなかったでしょう。

私が到着したところは日本の北海道にある

新幌内炭鉱でした。炭鉱に到着して、まず2
週間程度の訓練を受けました。作業に必要な
訓練を受けると同時に体力検査もしました。
後で判ったのですが、体力検査の結果によっ
て仕事が与えられるのでした。力が強い人は
坑内で炭を掘る仕事をし、弱い人は炭掘りよ
り少し楽な所に送り、とても弱い人は坑外の
仕事をすることになります。私はその時、ひ
としきり力がある20代だったので、坑内の仕
事をすることになりました。

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

キム

ドゥシク

植の話

金斗植
・1921年全羅南道珍島郡出生
・1942年北海道炭礦汽船(株)新幌内鉱業所へ動員
・新幌内鉱業所で採炭夫として勤務
・1945年10月本籍地へ帰還

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 _ 39

7) 国外労務動員は募集(割当募集)、官斡旋、徴用など3方法で遂行された。これら3方法は、すべて動員計画に依拠し、行政命令や法令によっておこなわれ、ともに「強制性」

のあるものだった。〔これらの3つの動員方式は〕1945年まで混用されたとみられる。鄭恵瓊『朝鮮人強制連行強制労働Ⅰ』日本編、2006年、103~105ページ。

8) 採掘を終えた後に坑の上部を支えるために、掘出した箇所を砂や石で埋め戻すこと。充填ともいう。

炭鉱では仕事を終えた後、宿所で飯を食べ、寝て、ま

た仕事に出るのが、生活のすべてです。一週間は昼に仕
事して、また一週間は夜に仕事するという方式で、2交
替を一週ごとに交替しました。朝5時または午後5時に作
業服に着替えて、炭を掘りに入って行きます。私たちが
炭を掘りだした天井は、埋戻しておきます。8)でも炭が柔
らかい所は天井が崩れる事故が起きてケガすることが多
く、ひどいときは死ぬ人もいました。

はじめは2年間仕事するという契約でしたが、戦争状況

が思わしくなく、強制で2年間延長され、帰りたくても帰
れませんでした。ある日、日本人監督官が朝鮮人労務者
たちを集め、ラジオを点けてくれました。ラジオ放送で
は戦争が終わったと知らせ、みんな喜びました。解放さ
れたのです。一日も早く家に帰りたかったけど、帰国し
ようとする人が余りに多かったので、すぐに帰国するの
は難しかったのです。解放から2~3か月後、炭鉱で一緒
に仕事した同僚たちと家に帰れました。

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40 _ 写真で見る強制動員の話

金斗植が新幌内鉱業所にいた当時、同僚たち
と一緒に撮影した写真。右側にいる人物が金
斗植。写真の中央に「新幌内炭砿記念」と記
されている。下部の「吉田」、「晋本」、「豊田」
は 3 人の創氏名が記されたものである。中央
に座っている人物の帽子に北海道炭礦汽船株
式会社のマークを確認できる。

北海道炭礦汽船株式会社の
マーク

キム

ドゥシク

植の写真

金斗植の写真/金斗植寄贈

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 41

前列右側の人物が金斗植。写真上側に「愛情の親友相別の記念」と記載されていることから、解放を迎え、同僚たちと別れる前に、互いの友情を記
念するために撮られた写真とみられる。

金斗植の写真/金斗植提供

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42 _ 写真で見る強制動員の話

空知鉱業所 神威炭礦

北海道炭礦汽船

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 43

神威炭礦は、北海道の空知郡歌志内市に位置し、1891年に開坑し
た。1939年から、新設された北海道炭礦汽船(株)空知鉱業所の管
轄になった。しだいに規模を増やし、全盛期には一日1300トンの
生産量を達成した。

• 北海道歌志内市所在
• 1891年開鉱。1970年廃鉱
• 委員会申告件数:約50件

歌志内市

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44 _ 写真で見る強制動員の話

死亡関連文書

朴夏錫(パク・ハソク)の死亡関連文書/朴ヘジン(朴夏錫の子息)寄贈

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 45

朴夏錫は1939年12月、慶尚南道宜寧郡から北海道炭礦汽船(株)空知鉱業所

神威炭砿へ動員された。家族たちは彼が動員された後、何回か手紙をやり取
りして安否を確認したが、1年半が過ぎた1941年6月4日、彼が落炭事故で死
亡したという知らせを伝え聞く。

この文書は、朴夏錫の死亡と後続処置に関連して、空知鉱業所長が慶南宜

寧警察署長に送った書信である。内容は、朴夏錫の妻を呼び出して遺族扶助
料と各種手当金を渡し、受取人の印鑑が捺印された各種領収書を送り返すこ
とを依頼するものである。文書の内容から、朴夏錫の動員日、死亡日、死亡
原因を確認でき、遺族が遺骨を直接受取ったことを確認できる。

動員地で死亡した場合、遺骨は、会社が直接職員を派遣したり、帰郷する

同郷人に委託する方法などで帰した。また朴夏錫の場合のように家族や親戚
が日本を訪問して直接遺骨を受取ることもあった。

しかし、強制動員されて現地で死亡した後、遺骨が返されなかったり、甚

だしくは家族に死亡の知らせさえ伝えないことも多かった。長い時間が過ぎ
てから、遺族に死亡が伝えられることもあった。家族に戻されていない朝鮮
人強制動員犠牲者の遺骨が相当数、日本に残されている。北海道内だけでも
20か所ほどで200人を超える朝鮮人の遺骨が保管されているという。9)この数
値は暫定的なものであり、今後調査が進んだり、発掘が進められるなかでさ
らに増加するものとみられる。

パク

ソク

は1939年12月、北海道炭礦汽船空知鉱

業所神威炭砿に動員され、仕事中の1941年6月
4日に落炭事故で死亡した。この文書は朴夏錫
の死亡と後続処置に関連して北海道炭礦汽船
(株)空知鉱業所が慶尚南道宜寧警察署長に送っ
た書信。文書から朴夏錫の動員日、死亡日、死
亡原因を確認できる。

内 容

昭和16年(1941年)8月20日
北海道空知郡歌志内町
北海道炭砿汽船株式会社空知鉱業所長堂徳清之助
慶尚南道宜寧郡宜寧警察署長殿

拝啓

貴下の清穆に慶賀いたします。
さる昭和14年(1939年)12月3日、貴管下から移入し
た朴夏錫が、産業戦士として神威砿で稼働中、昭和
16年(1941年)6月4日、落炭事故で業務上死亡したこ
とに、痛惜を禁じ得ません。葬式は盛大に行われ、
遺骨も来訪した遺族へ伝達し、すでに本籍地へ奉還
しました。
今回、遺族から請求された遺族扶助料、その他死亡
による諸手当金を別紙の通り決定し、正確を期する
ために貴職に送付しました。公務多忙中に恐縮です
が、故・金夏錫の妻の金点小を呼び出し、直接本人
へ交付して下さるようお願いします。同封した領収
書、遺族扶助料分1通、団体生命保険金分1通、退職
手当分1通、預金・稼高・積立金・債券現在高記入領
収証1通の計4通、それぞれ赤い円の中に受取人の印鑑
を押捺し、返送して下さることを依頼いたします。
敬具

9) 殿平善彦「北海道強制連行犠牲者の遺骨返還活動」7-2 ページ、『日帝強占下強制動員被害真相究明委員会

2009 ネットワーク関係者招請ワークショップ゚資料集』2009 年。

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46 _ 写真で見る強制動員の話

金炳澤の徴用告知書/金セギュ(金炳澤の子息)提供

私は1924年、忠南洪城で生まれました。

生活が苦しくてまともに学校へ行けませんで
したが、昼は家の農作業を手伝い、夜は夜学
に通って勉強しました。

1942年1月のある日、私は北海道の炭鉱で

働く者を募集する広告を見ました。一日に3
円の賃金を貰えるということでした。当時は
徴用で働く人をむやみに連れて行くときだっ
たので、私も引っ張られるよりも今行くのが
良いと思いました。それで同じ村に住む4人
と一緒にその募集に応じました。人を集め、
村にある駐在所で写真を撮って、洪城郡へ移
動しました。多分、名簿のようなものを作る
ために写真を撮ったのではと考えました。釜
山で船に乗って日本に到着しました。さらに
日本の北端まで汽車で行って、船に乗って北
海道に渡りました。

北海道に到着すると、雪がたくさん積もっ

ていました。私が働く神威炭鉱は、とても規
模が大きかったです。日本に来る前に身体検
査をしたのですが、その結果によって仕事が
配分されました。体力があったり健康な人は

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

尹秉烈

・1924 年忠清南道洪城郡出生
・1942 年 1 月、北海道炭礦汽船 ( 株 ) 神威炭砿に動員
・神威炭砿で採炭夫として勤務
・1945 年 8 月、解放を迎えて本籍地に帰還

尹  秉  烈の話

ユンビョンニョル

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 _ 47

10) 坑道・採掘場などで天井の岩盤である天盤の岩石が落ちる現象。

坑内の仕事になり、体格が良くなかったり、軟弱な人は
坑外の仕事になりました。私は坑内の仕事でしたが、坑
内はその深さが知れないほど、真っ暗で長く、恐ろしか
ったです。

宿所はたくさんの部屋が横につながっている長い建物

でした。一部屋に10~15人が一緒に生活し、そんな部
屋が建物一棟に30部屋を超えました。私は洪城から一緒
に行った人たちと部屋を使いました。女性たちが住む宿
所もありましたが、その女性たちは私たちの食事の準備
を助ける仕事でした。炭鉱で働きながら時々家へ手紙を
送りましたが、監督官が疑わしい手紙は選んで捨てるの
で、短い安否だけを伝えました。

最初に行くときは〔一日〕3円の月給と思いましたが、

実際には80~90銭だけ受取ったと記憶します。貯蓄や食
事代などを除けば、入ってくるのは無いも同然でした。
作業服が傷み、新しく支給を受けようとすれば、月給か
ら引かれるのです。それのため貰った少しの月給から差
し引いて家に送りました。

はじめは2年契約で行ったのですが、強制で2年さらに

延長されました。解放されて家に帰る時まで神威炭鉱で4
年以上も働きました。働いていた時、同じ部屋の同僚2人
を事故で見送りました。ガス爆発事故や落盤10)事故など
で時々同僚が死にました。そんな時は火葬し、念仏をあ
げました。

解放されるや、会社は前には見ることもできなかった

良い服と帽子を私たちに分けてくれました。その服を着
て同僚たちと記念に写真を撮りました。私と同僚たちは
会社が送ってくれる時まで待って、団体で戻るしかあり
ませんでした。しばらく待って、軍艦のように大きな船
に乗って釜山に到着し、洪城に帰って来ました。

その時に同僚たちと撮った写真、炭砿でくれた各種の

領収書、私がそこで使った物などみんな私の生涯の足跡
なので、今まで大切に保存してきました。

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48 _ 写真で見る強制動員の話

神威炭砿で撮影した尹秉烈の写真

前列真ん中で眼鏡をかけた人物が尹秉烈。解放後、尹秉烈が同僚と一緒に市内の写真館で撮影した。尹秉烈は、写真の同僚たちの行方はいまは思い
出せないが、出身地程度は覚えていると陳述した。

神威炭砿で撮影した尹秉烈の写真/尹秉烈寄贈

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帰国時期に撮影した尹秉烈の同僚との写真

この写真は尹秉烈の同僚たちだけで撮影したもの。尹秉烈は写真に写っていないが、困難な時期を共に過ごした同僚たちを記憶するために今まで大
切にしまっていた。解放されるや会社は良い服と帽子を一式ずつ分けてくれたが、この写真は帰国前に同僚たちがその時に支給された服と帽子を着
用して撮影したもの。写真の人たちはみな、「飯場」で生活していた独身者で、前列にいる子どもたちは炭鉱で家族と一緒に住んでいた朝鮮人労務
者の子どもたち。

帰国前頃に撮影した尹秉烈の同僚の写真/尹秉烈寄贈

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50 _ 写真で見る強制動員の話

尹秉烈が兄に送った手紙

尹秉烈が神威炭砿から兄に送った安否の手紙。
尹秉烈は、「炭鉱から家に送る手紙は監督官が
検閲するので、疑いを受けるような言葉は使
わないで、安否やあいさつ程度だけを伝えた」
と陳述した。本人は元気でおり、家族の安否が
とても気がかりなので、手紙を受けたらすぐに
返事をしてくれという内容だ。この内容は互い
の安否を問う程度のものだが、互いを心配する
家族間の胸を熱くする情が感じられる。

尹秉烈が神威炭砿から兄に送った手紙/尹秉烈寄贈

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尹秉烈の弟が尹秉烈へ送ったハガキ

尹秉烈の弟の尹秉圭(ユン・ビョンギュ)が兄に送ったハガキ。家の家族の安否を知らせ、病気の兄の健康を心配する内容だ。ハガキに書かれた尹秉
烈の住所は北海道空知郡歌志内町字神威鳩ケ岡第1協和寮だ。この住所で尹秉烈が神威炭砿「鳩ケ岡第1協和寮」で生活していたことが分かる。郵便
の上に押された消印で発信日を確認できる。「20.4.20」から昭和20年(1945年)4月20日と分かる。

尹秉烈の弟が尹秉烈へ送ったハガキ(1945年4月20日)/尹秉烈寄贈

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52 _ 写真で見る強制動員の話

決戦増産手当給与通知書

左側は 1943 年、右側は 1944 年に発行された。決戦増産手当給与通知書という名称で、出動手当、出炭手当、規約貯金、鉱夫貯金、所得税などの金
額が書かれている。この書の最初にある「決戦増産」という単語から戦争物資生産に総力を傾けた当時の状況を知ることができる。左側の消印に「鳩
ケ岡」と記されてあるが、これは尹秉烈の宿所である「鳩ケ岡協和寮」を意味する。下段には尹秉烈の創氏名 ( 茂松秉烈 ) が記されている。

内 容

発行:空知鉱業所
項目:定著手当、出動手当、出炭手当、支給額総計、規約貯金、鉱夫預金、所得税、現金支払額

決戦増産手当給与通知書/尹秉烈寄贈

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特殊郵便物受領証

内 容

項目:引受番号、重量(グラム)、郵便料(銭)、受取人、差出人、引受日
受取人:茂松秉煕(尹秉烈の兄の創氏名)
差出人:茂松秉烈(尹秉烈の創氏名)
発送地:神威郵便局
引受日:1944年8月4日(左)/1943年6月22日(右)

尹秉烈が故郷の兄に何かを発送した領収書。引受番号、重量、受取人、差出人などが記載されている。尹秉烈は郵便物の種類が何だったのかを現在
は記憶していない。右側は1943年6月22日、左側は1944年8月4日に神威郵便局から郵便物を引受けたと記載されている。領収証の下部にそれぞれ赤
色と青色で「神威」の文字が鮮明に押されている。

特殊郵便物受領証/尹秉烈寄贈

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54 _ 写真で見る強制動員の話

給与明細書

内 容

賃 金:稼賃金、出来高賃金、出稼手当、職務

手当、家族手当、応召手当など

差継高:厚生年金、健康保険料、産業報国会

費、町民税、薬代、弁償金、団体生命
保険料、電燈料、勤労所得税、簡易保
険料、組合貯金、募集貸付金品代、石
炭代、寄宿舎賄料、忠霊塔寄付金、空
襲共済基金等

尹秉烈の1945年3月分給与明細書として

彼の創氏名と鉱夫番号(8742)が記されてい
る。項目は大きく賃金と差継高の二つに分
けられるが、賃金を表示する部分には何種
類かの手当が羅列されている。共済金の種
類は非常に多様だ。その中でも特に、募集
貸付金品代、忠霊塔寄付金、空襲共済基金
などが目を引く。1945年3月、尹秉烈の総賃
金は31円60銭。共済金は37円2銭で共済金が
賃金を超過している。賃金と共済金の総額
である5円42銭は赤色文字で記載された。ほ
かの給与明細書では左側の給与明細書に記
載された共済金以外に一日戦死貯金、献金
などが追加された場合がある。また、共済
金と賃金の差額を記載する最後の下欄に共
済金が賃金を超過した場合は赤色、そうで
ない場合には黒色で記載した。

共済金が賃金を超過する場合、労務者

が受け取る実質賃金はなくなり、むしろ会
社側への債務だけ残ることになる。強制動
員被害生存者たちの陳述では、「賃金はくれ
るが、飯代と軍事貯金などを差し引けば残
らない」という証言がしょっちゅう出てく
る。尹秉烈の給与明細書は、このような証
言を裏付けてくれる。

尹秉烈の給与明細書(1945年3月分)/尹秉烈寄贈

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尹秉烈の給与明細書

尹秉烈の給与明細書/尹秉烈寄贈

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56 _ 写真で見る強制動員の話

60

尹秉烈のカバン

解放を迎えた尹秉烈が本人の所持品を入れてきたカバン。角の部分は金属で補強され、現在まで外形をそのまま維持している。寄贈当時、このかば
んの中にはタバコ粉、タバコケース、銅銭と紙幣など、当時使用したものがそのまま保管されていた。

尹秉烈が帰国時に持っていたカバン/尹秉烈寄贈

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58 _ 写真で見る強制動員の話

新美唄炭砿

三井鉱山(株)

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北海道の美唄地域は、石狩炭田11)の一部であり、北海道有数の採
炭地の一つである。戦時期、この地域には三菱美唄、三井美唄、
三井新美唄、日東美唄の4か所の炭鉱があった。新美唄は、1913
年、徳田炭砿として開鉱し、1915年に新美唄炭砿となり、1941年
に三井鉱山に買収され、三井鉱山(株)新美唄炭砿になった。1951
年からは三井鉱山(株)美唄炭砿の第2坑になり、採炭を継続した。
1963年に廃鉱した。

11) 北海道の夕張・空知山地にある日本最大の炭田

• 北海道美唄市所在
• 1913年徳田炭砿として開鉱。1941年三井鉱山に買収。1963年廃鉱。
• 強制動員規模:約550人余
• 委員会申告件数:10件

美唄市

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60 _ 写真で見る強制動員の話

三井美唄炭砿済州島労務隊の写真

済州島から崔テオクと一緒に動員された人たちの団体写真。同一の写真を持った朴○○の陳述によれば、写真の人たちは 1942 年 10 月頃に済州島か
ら三井新美唄炭砿へ動員されたという。後ろ側に見える長い建物は次に掲載される写真の背景である第 1 協和寮と推定される。入口の看板部分を拡
大すると、「第一…」という文字がかすかに確認できる。崔テオクと一緒に新美唄炭砿へ動員された済州島の人たちは、第 1 協和寮で生活したもの
とみられる。

三井新美唄炭砿 済州島労務隊1周年記念写真/崔ユニョン(崔テオクの子息)提供

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新美唄炭砿で撮影した崔テオクの写真

宿所前に立っている二人の後ろに見える看板に「第 1 協和寮」と宿舎名が書かれている。この写真から当時の坑夫の服装がわかる。帽子に付けた電
灯は腰につけた電池に連結され、暗い坑内で明かりをとるためのものでる。写真の人が履いている特異な形の靴は、「地下足袋」と呼ばれ、肉体労
働をする労働者の代表的な作業靴だった。靴を履かなくても、足袋のように履いて使用できるので、「地下足袋」という名称がついた。親指が別に
入るようになっており、地面を踏んで持ちこたえるのに便利になっている。「地下足袋」は野外の現場で作業する労働者の作業靴として、今でも日
本の土木建設現場で目にすることができる。本資料集に編集された他の写真にも「地下足袋」を履いた朝鮮人労務者が見える。

崔テオク(左側)が宿所前で同僚と撮影した写真

/崔ユニョン(崔テオクの子息)提供

「地下足袋」実物写真/委員会所蔵

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62 _ 写真で見る強制動員の話

美唄鉱業所

三菱鉱業(株)

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三菱美唄鉱業所の歴史は、1913年に開発が進んだ飯田炭砿を1915
年に三菱鉱業(株)が買収して事業を開始したのが始まりである。
それから三菱鉱業美唄鉄道線の開通で生産量が増加し、大夕張炭
鉱とともに三菱の主力炭鉱として名を馳せた。
三菱美唄鉱業所へと最初に朝鮮人が動員されたのは1939年10月で
ある。10月20日夜、朝鮮を出発した138人の労務者が三菱美唄鉱
業所の一心寮に収容され12)、同年12月までに計700人の朝鮮人が
動員された。以降も朝鮮人強制動員は継続し、1945年6月末〔の
現在数は〕2,800人だった。13)
三菱美唄鉱業所は1973年に廃坑となり、現在は公園として整備さ
れている。荒涼とした無人地帯である。

• 北海道美唄市所在
• 1913年飯田炭砿として開発、1915年三菱鉱業(株)が買収、1973年廃鉱。
• 強制動員規模:約3,000人余
• 委員会申告件数:美唄鉱業所約420件

※三菱美唄鉱業所ガス爆発事故と朝鮮人犠牲者
1941年3月16日、三菱美唄鉱業所「通洞坑(水平に通じた坑)」でガスが爆
発して177人が死亡する大事故があった。この事故で53人が現場に閉じ込
められ、そのうち朝鮮人犠牲者14人が埋没したまま、残されている。14)ま
た1944年5月16日には、「竪坑(垂直に通じた坑)」北部でガス爆発事故が
発生し、瞬時に109人が命を失ったが、そのうち朝鮮人は確認されただけ
でも70人を超える。15)

12) 白戸仁康『美唄由来雑記』美唄市2001年72ページ。
13) 前出『北海道と朝鮮人労働者』170ページ。
14) 白戸仁康作成資料、

「三菱美唄炭砿フィールドワークコース案内」4ページ、(2006年10月北 

海道出張時に入手)。

15) 委員会調査の過程で、1944年5月16日、三菱美唄炭砿でガス爆発事故に遭ったが、劇的に助

かった生存者の千(チョン)マンスが確認された(北海道強制動員口述資料集『青森超えて北海
道へ』に口述を収録)。

美唄市

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64 _ 写真で見る強制動員の話

賞状

柳順煕の賞状/柳ギイル(柳順煕の子息)提供

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柳順煕は1940年3月、三菱鉱業(株)美唄鉱業所へ動員され、契約期間の2

年を終えて家に帰って来た。賞状には、彼が「1940年3月に入所して2年間
仕事をした」という内容が書かれている。当時、労務者に与えられる「賞
状」は石炭増産の督励策だった。この賞状は契約期間が満了した労務者の功
績を表彰するものであるが、労務者に見習わせるために出され、生産増産の
ための督励の手段だった。

賞状の内容通り、柳順煕は 2 年間の契約期間を模範的に終えて家に帰還し

た。しかし、アジア太平洋戦争が激しかった 1944 年 3 月、「一戸に男子が 2
名以上いたら、駄目だ」との理由で、再び北海道の名も知らない土木工事場
へ動員された。土木工事場で作業中に、高所から落ちて膝にひどいケガを負
った。

「募集」と「官斡旋」で動員された労務者と企業間の契約には、労働条

件や待遇に関する内容は盛られず、単純に期間(2年)だけを明示するのが一
般的だった。契約が満了すると、自動的に再契約を締結したものと処理さ
れて、本人が望まないのに強制的に再契約手続きがなされることが多かっ
た。「徴用」の段階では、このような再契約の締結という手続きも不要にな
った。会社の立場からみれば、2年という期間で熟練した労務者を家に帰し
たくないのは当然であり、特別な問題がない限り、強制的に再契約を締結さ
せて、労務者を作業場に縛り付けようとした。また2年の契約期間満了後に
故郷に帰ってきても、柳順煕のように再び強制動員されるという二重の被害
を受けた事例もある。

 16)

柳順煕(ユ・スニ)が1942年4月2日に三菱鉱業
(株)美唄鉱業所から受けた賞状。賞状の内容
は、「柳順煕が1940年3月に入所してから2年
間、業務に精励し、功績が顕著であるので賞状
を授与する」というもの。賞状の内容から、彼
が美唄鉱業所に1940年3月に入所して2年間勤務
したという事実を確認できる。
賞状の左には若い柳順煕の写真がある。柳順煕
の息子は、写真があまりに小さく、失くす心配
があり、当時の父親の姿を残したいため、写真
を表彰状の上段に貼った。賞状の名前の上の写
真には青年の姿が鮮明に残っている。

内 容

題 目:賞状
発行者:三菱鉱業株式会社美唄鉱業所
発行日:昭和17(1942)年4月2日
内 容:昭和15(1940)年3月に入所してから2年間、

社則を重んじ、業務に精励し、事業に盡瘁
した功績が顕著であり、ここに賞状を授与
して表彰する。

16)  前出「朝鮮人強制連行強制労働Ⅰ:日本編」105~106ページ参照。

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66 _ 写真で見る強制動員の話

金炳澤の徴用告知書/金セギュ(金炳澤の子息)提供

私は1924年に慶北善山郡(現在の亀尾市)で

生まれました。13歳になった頃、農業がうま
く行かなくて食べるのが困難になり、家族と
一緒に日本へ移住することになり、善山を離
れました。私が善山を離れた年は干ばつがと
てもひどかったのですが、後で聞くと、人々
は自分の場所に水を引くために、小川でひど
く争ったそうです。食べて生きるのが苦しか
ったため、故郷の人たちの中には満州へ渡っ
た人も少しいたそうです。

うちの家族は日本の名古屋の近郊にある瀬

戸市に移りました。瀬戸市は稼ぐために日本
へ移住した朝鮮人が沢山いた所で、器を作る
工場が沢山ありました。ここに引っ越しして
きた朝鮮人たちは、器材料の土を掘りだす仕
事や工場での器づくりをしました。私と父も
工場で働きました。

私が17歳になった年(1940年)4月、瀬戸市

に住んでいた朝鮮人50人余と一緒に、勤労
報国隊の名前で北海道の炭鉱へ行くことにな
りました。それは徴兵と同じだったので、行
きたくなくても行かないわけにはいかなかっ

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

金鍾培(キム・ジョンベ)
・1924年、慶尚北道善山郡で出生
・1936年、家族と一緒に日本の瀬戸市へ移住
・1940年4月、三菱鉱業(株)美唄鉱業所へ動員
・1944年、徴兵通知を受けて瀬戸市へ戻り、
 器〔陶器〕工場で仕事しながら、徴兵待機
・1945年、解放後に家族と故郷へ帰還

金  鍾  培の話

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 67

たのです。その時、私と同じ北海道へ行った人たちはみ
な、私と歳が同じくらいでした。

汽車と船を乗りついで到着したところは三菱美唄炭砿

という所でした。宿所は軍隊の内務班のようで、一部屋
が 100 人程度一緒に寝られるほど大きかったです。その
大部屋で一緒に行った人たちとずっとともに生活しまし
た。その頃は戦争で食べ物が貴重な時代なので、豆とコ
メを混ぜた豆飯を貰いました。飯に入る豆は味噌玉を作
る豆で、とてもまずく、うんざりして沢山は食べれません。

作業時間は夜と昼を区分して2交替に分けていました。

朝に坑内に入る人の場合、朝食を食べて午前7時頃入って
午後6時に出たようです。昼に働く人は、昼食弁当を持
って坑内で食べます。坑内で仕事するには、炭車に乗っ
て20分ほど行きます。坑内に暫く入ると、また四方に向
かう所があります。そこでまた各自の坑に配置されて行
きます。私は坑内で柱を立てる木材運びを主にしました
が、時には、炭を掘ったり炭を車に乗せることもしまし
た。土のなかに入っている大きな石炭を掘るのですが、
その石炭は質がとてもよくて、火を近づければよく燃え
るそうです。

私はその時身体が若かったので、ひどいケガをしたこ

とはなかったけど、仕事中にケガをした人は多かったで
す。ある時、仕事中に滑って壁に指をひどく打ち付けて
左手人差指一節がちぎれました。ほかの人に比べれば、
大きな負傷でもなかったです。体が辛いより、真っ暗な
所で灯りひとつを頼りに危険な仕事をする、その恐ろし
さにとても耐えられなかったです。月給を貰うことは貰
ったけど、なにせ少なくて幾ら貰ったのか良く覚えてい
ないです。

美唄炭砿には、「タコ部屋」という宿所が別にありま

した。そこでは金を受け取って売られて来た人たちが奴
隷のように仕事をしました。その人たちは列を組んで仕
事場に来ましたが、列を離脱すれば鶴嘴(つるはし)で殴
られました。「タコ部屋」の人たちは危険な所ばかりで
仕事するので、死ぬ人も多かったけど、どうやって葬式
をしたのかは知り得ません。仕事中にその人たちと出会
うことはありましたが、その人たちはソバを砕いたもの
を昼食にしていました。監視が厳しくて話もできません
でした。その人たちの場合、逃げて捕まったら死ぬとい
うウワサを聞きました。

私は契約期間を決めてきていたので、途中で帰れま

せんでした。4 年契約が終わるころ、軍隊へ行く歳にな
って徴兵にかかりました。炭鉱から出て、徴兵を待つた
めに瀬戸市に帰って来ました。瀬戸市に帰って来たのは
1944 年の夏と記憶します。徴兵を待つ間も器工場で仕事
しました。それで幸いなことに軍隊へ行く前に解放にな
り、家族全員で故郷、慶北の善山に帰ることができました。

私は今まで戦争を 3 回経験しました。最初は日本へ引

っ越しをするときに「シナ事変」が起きて世の中が騒が
しく、炭鉱で働くときは「大東亜戦争」真っ盛りでした。
解放後に家に帰ってきて少し後にまた 6・25 戦争が起き
て軍人として参戦しました。振り返ってみると、本当に
大変な時代を生きてきたように思います。

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68 _ 写真で見る強制動員の話

美唄炭砿で撮影した金鍾培の団体写真

キムジョンベ

瀬戸勤労報国隊誠心寮隣保班精勤競争優勝記念写真/金鍾培寄贈

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日帝強制動員被害者支援財団

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日本愛知県瀬戸市から北海道の三菱鉱業(株)美
唄鉱業所へ動員された朝鮮人の団体写真(1940
年5月頃)

2 列目左から 5 番目が金鍾培 ( 点線丸の中 )。寄贈当時、彼は写真を見て昔

の記憶を思い浮かべ、

「お爺さん、立派でしたね」という調査官の誉め言葉に、

「若い時分に虎を捕まえれない人間がいるものか?」と笑いながら受け流した。

写真の人たちはみな愛知県瀬戸市で暮らしていた朝鮮人で、金鍾培と一緒

に動員された。前列中央の帽子がない二人は「日本人引率者」だ。この写真
は金鍾培が動員されて 1 ~ 2 か月後、生活していた宿所の前で写した。写真
で宿所の名前、「誠心寮」の三文字が鮮明だ。「精勤競争優勝記念」という文
句を見ると、石炭増産のために宿所別に対抗戦を開き、一番熱心に仕事をし
た労務者が属した寮と班の構成員を表彰したことが類推できる。しかし、金
鍾培本人は「言うことを良く聞き、良く働いたと撮った写真、どうせ北海道
に来たから記念しようという気持ちで写真を撮って配った」と記憶している。

写真の人たちは、「地下足袋」と脚

きゃ

はん

を着用している。帽子の真ん中の白い

部分はキャップランプ ( 電球 ) を装着するものだ。上着は作業服の代わりに家
から着てきたきれいな服に着替えた。写真の人たちはみな金鍾培と歳が同じく
らいなので、ほとんどは 1944 年に徴兵対象年齢となり、家に帰ったという。

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70 _ 写真で見る強制動員の話

金鍾培の写真

この写真は、前出の団体写真を撮影した後、
同日に写真館で撮影した。金鍾培の右腕の
腕章は作業場に到着するや支給されたもの
で、「瀬戸勤労報国隊」と記されている。写
真撮影のため、動員当時に家から着てきた
服と帽子を引っ張り出して着用した。
金鍾培は彼の家族と一緒に疲弊した故郷の
農村を離れ、日本へ移住した。彼の家族だ
けでなく農村の没落で生活手段を奪われた
沢山の人が新しい生活の方途を探して日本
へ渡った。しかし戦争とともに始まった労
務動員は、彼を含んだ移住朝鮮人たちにも
避けれないものだった。殊に金鍾培のよう
な若者たちは、労務動員だけではなく徴兵
による動員まで強いられた。

金鍾培の写真(1940年5月頃)/金鍾培寄贈

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 71

「タコ部屋」とは、労務者の人身が拘禁される状態の宿所を意味する言葉だ。「タコ」とは日本語で、海の蛸を意味する。つまり、タ

コ部屋を直訳すれば「蛸の部屋」になる。ここに収容された労務者を卑下して「タコ」と呼ぶが、そこでは一切の自由が許されないまま、
過酷な労働だけが課せられた。

明治政府は北海道開拓初期に土木工事場以外、炭砿・鉱山の採掘・精錬などに囚人を使役させた。寒冷下、原始林を開拓するなかで

多くの犠牲がでた。この罪囚労働は 1894 年に廃止された。罪囚労働が廃止された以降、開拓のための土木工事などに民間業者の請負が
増加し、業者は飯場を作って労働者を収容した。この労務者の合宿所は罪囚労働の悪しき慣例を継いで人身拘禁形態の宿所へと変質し、

「タ

コ部屋」または「監獄部屋」と呼ばれるようになった。ここに収容される日本人は、前借金を貰って体を売ったり、罪を犯して逃亡した
人が不法な人身売買の形態で連れて来られることが多かった。

「タコ部屋」労働者に対する酷使と虐待が社会的な問題になって、ひと時、改善の兆しがあった。しかし、戦時の労務動員体制が始ま

るや、この改善の努力は消えてしまった。また、強制動員された朝鮮人の相当数が北海道各地の土木工事場と炭鉱で「タコ部屋」に収容
され、最底辺の労働者として過酷な労働を強要された。

特に北海道の土木工事場はアジア太平洋戦争が終わるまで、大部分の労働者の宿所が「タコ部屋」形態で運営された。請負業者は入

札金額内で、利潤を多く残すため、労働者の賃金を極端に低くした。そのために奴隷的搾取がなされ、低い賃金に比べて食費と必需品は
高く、労働者の生活をいっそう苦しめた。また、長期の労働を強いるために、「タコ部屋」内では公然と暴力支配による階級秩序が形成
され、この秩序を犯したり逃亡する場合には、死に至るほどの制裁が加えられた。

北海道に動員された生存者の相当数がこのような「タコ部屋」の記憶を持っている。土木工事場に動員された人の場合、「本人がタコ

部屋に収容されて働いた」と陳述するケースが多い。また、炭鉱や鉱山に動員された人場合は、その目撃の陳述が多い。

炭鉱や鉱山を運営する企業が、所属労務者をうまく統制・管理するための威嚇手段として、「タコ部屋」を利用したケースもあったと

みられる。炭鉱・鉱山に動員された生存者の多くが、「そこの労働者は監禁され、暴行され、危険な仕事ばかりさせられるという噂をし
ょっちゅう聞いた」、「タコ部屋はとても恐ろしい所で、炭鉱から逃亡して捕まったらタコ部屋に送られた」と陳述している。

●「タコ部屋」の語源  ●

「タコ部屋」の語源については定説がない。この名称の由来を一つに限定できない理由は、労働者、監督、または幹部、労働

者を雇用する親方など、それぞれの立場によってこの労働形態への見解が生じるためだ。
語源について①タコを捕まえるツボのように一度入ったら出てこられないという意味、②一度「タコ部屋」に入ったら出て
こられなく、結局は蛸が自分の手足を食べて生き残るように自分の体を売って生きるという意味、③ほかの地で斡旋業者に
集められた労働者 ( 他雇 ) という意味、④労働者がいつも逃亡の機会を狙っていて逃亡する脚が早いので糸の切れたタコ ( 凧 )
に比喩するという意味などだ。委員会の被害調査過程であったある生存者は、「タコ部屋」の語源について「人を骨が無くな
るほど殴りつけて働かせる意味」と陳述した。

「タコ部屋」

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72 _ 写真で見る強制動員の話

大夕張鉱業所

三菱鉱業(株)

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 73

三菱鉱業(株)大夕張鉱業所の歴史は、大夕張炭鉱会社が運営して
きたものを1912年に三菱鉱業が買収して始まった。大夕張鉱業
所が位置した夕張市は、良質の鉄鋼コークス用の原料炭の生産地
として有名だった。三菱鉱業の主力炭鉱として最全盛期には年間
90万トンを算出したが、原料炭輸入のために繁栄の歴史を終え、
1973年に廃鉱になった。
三菱大夕張鉱業所は1939年に朝鮮人労務者591人を動員したのを
はじめ、毎年数百名以上の朝鮮人をずっと強制動員し、1945年6
月末には1,936人の朝鮮人がいたことが確認される。17)

• 北海道夕張市所在
• 1898年採掘を開始。1912年三菱鉱業(株)が買収。1973年廃鉱
• 強制動員規模:約2,000人余
• 委員会申告件数:約190件

17) 前出『北海道と朝鮮人労働者』170ページ

夕張市

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74 _ 写真で見る強制動員の話

大夕張鉱業所 慶尚北道英陽隊一同の写真

最後列右側の人物が写真を所蔵していた黄ハチュル(点線丸内)。写真の後ろ側には「北海道大夕張鹿島市〔ママ〕、親和寮内、「慶北英陽隊一同」と
手書きで記録されている。写真裏面の記載内容から、写真の人物たちは慶北英陽郡から黄ハチュルと一緒に動員されたもので、みな「親和寮」で生
活したことが推定される。参考に、黄ハチュルは1943年7月頃に動員され、解放後に帰国したという。

大夕張鉱業所慶尚北道英陽隊一同の写真/チョン・スナム(黄ハチュルの妻)寄贈

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 _ 75

北海道苦楽歌

「北海道苦楽歌」は、姜三術自身が強制動員で懐かしい故郷を離れて北海道に到着するまでの過程を、すぐに始まった辛い炭砿生活を見える形で、
文章で詳細に記録したものだ。大部分が4・4調に合わせて歌を吟じるようなリズム感を与える内容である。この文を読んでいると、姜三術の体験
を直接見たような錯覚に陥るほど、非常に詳細な内容だ。北海道苦楽歌は動員当時の生活と労働を詳細に記録し、強制動員地での苦しみや苦痛の心
理状態を詩的に表現したものである。強制動員と作業場の実情を知ることができる点、被害者の心理的状態が良く表れている点、記録形式の独特な
点、文学的表現が優秀な点などの側面から、とても貴重な資料と評価される。
姜三術は1942年12月2日、慶尚北道禮泉郡に居住し、70人余と一緒に三菱鉱業(株)大夕張鉱業所に動員された。『北海道苦楽歌』は動員当時の状況
から労働生活を生き生きと記したものであるが、姜三術が2004年7月に享年85歳で亡くなり、彼の息子の姜ソンガプが小さな冊子(右写真)として発
刊した。日帝強占期の強制動員の実情を姜三術の詩を通じて覗き見ることができる。ここに「北海道苦楽歌」の一部を掲載する。

姜三術(カン・サムスル)自筆の「北海道苦楽歌」原本(左)/姜三術作「北海道苦楽歌」

(右)

姜ソンガプ(姜三術子息)寄贈

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76 _ 写真で見る強制動員の話

北海道苦楽歌

姜三術自筆の「北海道苦楽歌」原本の一部分/姜ソンガプ(姜三術の息子)寄贈

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 _ 77

辛い 辛いも/家を離れるのが 辛い/そのうちに 日が迫り/12月 

初二日/朝食を 食べた後/行装整え 出発しろって/できない で

きない/父母離別 できない/二十歳青春 若い妻が/涙を流し 言

う言葉/引き留めても 行く貴方/何を 困って/何が 足りなくて

/私と一緒に 行こう/そうこうして 別れ/

わが面に 到着すると/左右に 座った書記/12人が 集まった/巡

査3人 歩哨に立ち/わが面長 語った後に/面事務所 離れて/郡

庁で 調査受け/警察署に 入ると/全郡から 集まった人/73人 

集まった人/旅館に 入って/ひと眠りも できず/

そうこうし 夜が明け/朝飯を 食べ/募集者三人余/ドキドキ 寄

って来て/今日から 古い服脱いで/洋服着て 紳士になれ/服一着

ずつ 呉れた/その服貰って 着た後に/細かく 検査して/新所管

邑に 分けて/また一夜を 過ごした/

禮泉邑に 一晩泊り/初四日 明け方の朝/金泉行に 乗って/駅前

に 出たら/南空 空中に/鳴きながら行く あの雁や/どこに 行

くのか/あのように 鳴いて行く/今日この日 この身も/お前のよ

うに 身は定まらず/いつのまにか 駅に着き/金泉行に 乗る/

速いこと 汽車の速力/黒煙 汽笛/故郷痕跡 跡形もなく/金泉駅

に 来た/急いで降りた 駅前で/汽車時間を 待って/釜山行き 

乗って/あっという間に 釜山に来て/旅館に 入って/朝飯を取っ

た後に/水上警察 検査受け/危ないこと この上なく/詳しい検査 

限りなく/また一晩 過ごし/萬頃蒼波 広い海/連絡船に 乗り/水

上 二階/水下 一階/

日本国に 到着し/連絡船を 降りると/左右に 刑事巡査/何の調

査 こんなに多い/駅前で 饅頭ひとつ/貰って 食べた後/東京行

き 直行車/いち早く 乗り/無数の 停車場/一つひとつ 見て/

文明の 今世界よ/こうして 発達なのか/東京駅に到着し/皇居遥

拝 しようと/敬礼の 礼をして/電車に 乗って来て/

あの城か この城か/心 果てしない/

青森18)行に 乗り/青森駅に 到着し/また海に 行き当り/連絡船 

待機し/その連絡船 急いで乗り/大夕張は どこだったか/矢のよ

うに 早い汽車/向かいに 着いた/12月 2日朝/家を離れ 此処

まで/12日 夕方に/目的地に 到着し/日数は どれくらいか/11

日間に なる/四方を 見渡すと/山中では ないか/

引率者に ついて行って/一心寮に 入って見ると/人夫室が 12

号だ/事務室は 一つだ/特別室も 一つだ/炊事場は 一つだ/4

号室を 指定され/4号室に 入って見ると/寒々した 板の間に/

22名 同居だ/大夕張で 朝鮮の寮が/7つの寮が あったが/一心

寮と 忠誠寮は/慶北人が 独り占め/わが半島 同胞人/何千人に 

なった/

朝鳥 鳴いたか/時計の鐘が 時を打つ/5時だ 30分が/仕事時間 

明確だ/初鐘の音 起きて/朝飯を 食べて/ベント19)ひとつ 包み

持ち/坑内衣服 整えて/心そぞろに 入っていく/タバコ検査 厳

重だ/坑内服を 全部着て/電灯パッと 点いた/その電灯を 額の

上に/帽子の端に 付けてみる/重いこと この上ない/外れること 

始終/亀のような 丸い電車/12人が 乗って/電車いっぱいに な

った/のろのろ 行く電車/坑内に 入って行く/涙流し 考えて/

真っ暗闇 坑内に/何しに 入るのか/

現場に 行く道は/とても狭く 梯子のようだ/脚は なんでこんな

に/痛くて 堪らない/シャベルは とても/重たい それでも/帽

子と 電燈灯は/数限りなく 外れる/降り立って みると/ずべて

平地に 至った/天井を 見上げるに/横木 砕け/鋭く 突き出た

石が/頭を 殴るようで/腰を 伸ばせずに/這って 入って行く/

こうしろ ああしろ/やかましく 指図するが/言葉を知らない こ

の半端者/しゃべれぬ者と 違わない/振り返ると 朝鮮人/10数人 

居た/内地人が 主人で/日本語が通じる だけだ/スコップで す

くって入れる/早くしろ 催促する/一分も 休まず/一分も 休む

間がない/

ぎっしり 並んだ坑木/崩れそうな 音がする/はかない この命/

如何に 守るのか/星を見て 出たのが/星を見て 帰って来た/10

時間 働いたか/14時間 かかった/働いて 家に帰っても/誰も喜

ぶ 人はない/

行けないよ 行けないよ/脚が痛くて 行けないよ/寮長に 言うと

/怒って 言うことには/働けないなら ここに/何しに 来た/死

ぬような 罪を犯した者なのか/刑務所と 変わりがない/見ると 

けが人/聞くと 死んだという/それを 見るたびに/涙が 流れる

/二回は 飯呉れて/一回は お粥を呉れる/元気な 若者が/腹を

空かせて 堪えられない/

朝鮮の 我が家は/夕飯を 食べるけど/私は何故 働きに行く/スコ

ップを掴んで 考えるに/今頃 わが家では/ぐっすり 眠っているだ

ろう/ここ私の この体は/遠く離れた 土の中で/昼夜を 知らず/

こんなに 苦労して/人知れず流れる 涙は/数知れず 泣いた/

18) 青森県
19)「弁当」

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78 _ 写真で見る強制動員の話

置戸鉱山

野村鉱業(株)

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 79

野村鉱業(株)置戸鉱山の主要産出物は水銀である。水銀は太平洋
戦争当時、魚雷の起爆装置に使われる重要な軍事物資だったため
に、増産が督励された。
置戸町史などによれば、置戸鉱山は1945年まで4年間、操業して
朝鮮人と中国人1,300人余りが強制動員され、採掘作業に投入され
たという。20)

• 北海道常呂郡置戸町所在
• 委員会申告件数:10件

置戸鉱山

野村鉱業(株)

20)

  「 置戸鉱山中国・朝鮮人殉職慰霊碑」、『経済の伝書鳩』

(北海道北見・網走の地域新聞)2008年5

月26日付。http://denshobato.com/bd/news/page/24658.html

置戸町

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80 _ 写真で見る強制動員の話

置戸鉱山で撮影した馬点洙の団体写真

置戸鉱山で撮影した馬 点 洙 の団体写真/馬ドンファン(馬点洙の子息)提供

マチョムス

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 _ 81

円内の人物が馬点洙。彼は17歳で置戸鉱山に
動員された。他の人たちに比べ、特に幼く見
える。写真裏面に自筆で記録した内容から、
1945年7月22日、置戸鉱山で撮影したものと知
ることができる。

写真の裏面には馬点洙の名前、置戸鉱山の住所
と写真を撮影した日(1945年7月22日)が記され
ている。

左写真の裏面

内 容

昭和20年(1945年)
北海道常呂郡置戸村
置戸鉱業所で7月22日に撮影

1944年11月、全羅北道金堤郡に住んでいた馬点洙は、17歳の幼い年に野

村鉱業(株)置戸鉱山に動員された。当時、面事務所戸籍係長は馬点洙に「義
務であり、行かなくてはならない」と言った。馬点洙の父親は金堤駅まで見
送りにいったが、父親と一緒に金堤駅に到着すると沢山の群衆が集まってい
たという。そのまま汽車に乗り、握り飯を食べ、北海道まで移動した。北海
道まで行くのに一か月以上かかるという遠く長い旅程だった。

一緒に動員された人たちは、現場で6つの隊に分けられ、倉庫のような宿

舎で25人ほどの人員が一緒に生活した。労務者たちは朝5時に起きて、6時
に朝飯を食べ、4㎞もの雪道を歩いて鉱山へ移動した。

当時は、戦争がひときわ激しくなった時であり、食べ物は不足した。ある

日、同僚の一人が腹が減ってがまんできずに、大根を畑からこっそり採って
食べたのが発覚し、ひどく殴打されたことがあった。その様子を見た馬点洙
は、怖くなり、逃亡を決心した。ひと月にいくばくか貰う賃金はすべて飢え
をしのいだり、歯磨きなどの生活必需品を買うことに使った。

解放後、船を待ち、1945年11月になって帰郷できた。彼は帰郷も動員と

同じように突然だったと記憶している。夜10時頃に突然集まり、港へ向かう
汽車に乗り、それから船に乗って釜山港に到着した。

馬点洙の置戸鉱山についての記憶は3枚の写真に残っている。馬点洙は生

涯日記を書き、些細な領収証までもみな保管しておくほどの几帳面な性格の
持ち主だ。そのため当時の写真もいままで保管されてきた。すべての写真の
裏面に撮影時期が記されている。

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82 _ 写真で見る強制動員の話

馬点洙の写真

馬点洙が置戸鉱山で撮影した個人写真。写
真の右側下段には彼の小さな証明書写真を
貼った。裏面には写真を撮影した年(1945年)
だけが記載されている

馬点洙の写真/馬ドンワン(馬点洙の子息)提供

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置戸鉱山で撮影した馬点洙の写真

右側端が馬点洙。身長順に立ち、みな同じ姿勢で撮っているのが印象的だ。裏面には馬点洙が自筆で彼の名前を書き、昭和20年(1945年)6月に撮影
したと記している。

置戸鉱山で撮影した馬点洙の写真/馬ドンウォン(馬点洙の子息)提供

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84 _ 写真で見る強制動員の話

茅沼炭砿

茅沼炭化砿業(株)

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 _ 85

茅沼炭鉱は、北海道積丹半島の日本海側の岩内市から北へ約12㎞
に位置する古宇郡泊村に所在している中小規模の炭鉱だ。規模は
小さいが、北海道地域の炭鉱で最古の歴史を持つことで有名であ
る。1856年に石炭が発見され、1864年に開坑されてから100年余
りにわたって採掘が続けられてきた。
茅沼炭鉱は1939年10月の130人をはじめとし、毎年朝鮮人労務者
を動員し、1944年5月末に825人、1945年6月末に555人の朝鮮人
労務者がいたことが確認できる21)。
最大数の1944年の825人と逃亡や契約期間満了、負傷などで帰還
した数を考慮すれば、戦時期の茅沼炭鉱には1,000人余りの朝鮮人
が動員されたと推測できる。現在、委員会では茅沼炭鉱選挙権名
簿(選挙権下調書)や茅沼関連の死亡者名簿を強制動員被害者の認
定の基礎資料として利用している。

• 北海道古宇郡泊村所在
• 1864年開坑。1964年廃鉱。
• 強制動員規模:約1,000人
• 委員会申告件数:約100件

21) 前出『北海道と朝鮮人労働者』166ページ

泊村

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86 _ 写真で見る強制動員の話

茅沼炭鉱で撮影した李泰仲の団体写真

イ・テジュン

茅沼炭鉱で撮影した李泰仲の団体写真/李ワンスル(泰仲の子息)提供

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 87

李泰仲が茅沼炭鉱で同僚と共に撮影した写真。
正確な撮影理由と日にち及び撮影場所は確認で
きない。一番前に座っている人々は日本人監督
官。李泰仲本人の陳述を得ることができなく
て、残念ながら写真の中でだれが李泰仲なのか
は確認できなかった。

委員会所蔵
(茅沼炭鉱労務者名簿―選挙権下調書)中 
李泰仲の人的事項が記載されているページ

この名簿は茅沼炭鉱に居住していた朝鮮人労
務者の中で、選挙権がある者(1945.9.15を基準
とし、満25歳以上の成人男子)を調査した名簿
だ。この名簿で李泰仲が1943年3月9日に茅沼
炭鉱に動員され、奉公寮で生活したことを確認
できる。

李泰仲(イ・テジュン)は1943年3月、慶尚北道盈徳(ヨンドク)から茅沼炭鉱へ

動員された。彼の息子は、この写真は父親が解放後に帰国する前、同僚と
一緒に撮影した写真だろうと言ったが、撮影理由と日にちは正確には分か
らない。

李泰仲の息子は父親の当時の状況を次のように回想した。「日本から帰っ

てくるとき、この写真とカバンを持って来ました。カバンの中には日本で
はいた靴、日本語で下駄という後ろ側がすっかり減った木で作った靴があ
りました。写真についての詳細な話は聞けませんでしたが、「一番前に座っ
ている人が日本人監督官だ」という話は思い出せます。一緒に働いた人た
ちと撮った写真で、写真の人たちの名前を呼びながら写真を分けてくれた
と言いました。」

写真左上段のシミは、保管中にインクをこぼして付いたという。

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88 _ 写真で見る強制動員の話

金炳澤の徴用告知書/金セギュ(金炳澤の子息)提供

私は戊辰生れの辰年です。私は17歳にな

った年に日本の北海道にある炭鉱へ行って働
きました。その時、邑による徴用があったと
記憶しています。当時、邑事務所の職員が人
を捕まえようと村のあちこちを回っていまし
た。西厳里から金堤邑事務所に行くと、私と
同じように(日本へ)行く人たちが集まってい
ました。邑事務所の職員が、日本の炭鉱から
来た職員に私たちを渡したんです。

邑事務所で、金堤駅で汽車に乗るために行

くとき、沢山の人が見送りに出てきました。
大部分が家族だったようで泣いている人が多
かったです。私もやはり泣いている母親を後
にして故郷を離れました。金堤駅から汽車に
乗っていき、麗水で船に乗りました。日本に
到着して汽車に乗り、随分待機し、また船に
乗って北海道へ行きました。北海道まで数週
間程度かかったようです。金堤から一緒に70
人余が出発しましたが、移動途中で何人かが
逃亡し、結局、50人ほどが北海道に到着しま
した。

炭鉱の名前は、「岩内炭砿」と記憶してい

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

朱龍根(チュ・ヨングン)
・1928年全羅北道金堤で出生
・1942年3月茅沼炭鉱へ動員
・1945年解放後、本籍地に帰還

朱  龍  根の話

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 89

ます。22)炭鉱周辺には海がありました。見慣れない海岸で
故郷の歌を歌いながら泣く人が沢山いました。炭鉱に到
着後、4日間は働かないで遊ばせてくれました。その4日
が過ぎると、すぐに炭鉱働きが始まりました。

私は炭鉱から掘り出した炭を外へ載せて運ぶ仕事をし

ました。一日2交代で2組に分けて働き、一組に属した40
人程度の人員が何か所かに別れて入って行きました。坑
内の石炭を掘りに行き、割当量を達成すると、外へ出る
ことができます。割り当ては10トラック〔トロッコ〕、15
台トラックで、炭の質によって違います。23)割り当てられ
た仕事を終えないと宿所に帰れないので、思うように休
めないまま、仕事をしました。

坑内に入る時、監督官が団体別に引率し、木札を炭鉱

入口で電灯付き帽子と替え、入って行きます。木札を持
ってこなかった人は、その日の仕事ができません。仕事
ができない人は飯も与えられません。たまに仕事がきつ
くて逃亡する人もいましたが、捕まると、ひどく殴打さ
れました。また、仕事中に休んでいるのが見つかると、
監督官が殴打したり、飯を抜いたりしました。本当にひ
どい所でした。

ある時は韓国から慰問公演が来たことがありました。

その時も故郷の思いに泣く人が多かったです。そしてそ
の日の夕方に15人が逃亡しました。逃亡して捕まった人
たちは、鶴嘴で叩かれました。炭鉱で働く人たちをみな
呼びだして、見せしめに殴打したのです。

「飯場」で生活しましたが、20人以上の人たちで、一

部屋を一緒に使いました。炭鉱で働かなければ、「タコ
部屋」や、千島24)に送られると聞きました。働く労務者
はみな韓国人で、日本人はほとんどが監督です。近所に
中国人捕虜もいましたが、彼らは韓国人よりもっと生活
が悲惨だったと記憶しています。

炭鉱内には小さな火葬場がありました。働く途中事故

や病気で死んだ人は火葬にしますが、その後にどんなふ
うに処理がされたのかはわかりません。炭鉱内には小さ
な病院もあって、怪我をすればそこに行って治療を受け
ます。私も炭鉱で仕事中に炭車がひっくり返って右脇腹
の骨をケガしました。病院で手術を受けて3か月程度の治
療を受けた後、また炭鉱に戻って働きました。今でもケ
ガした所が痛くて苦労しています。

賃金は、一日1円30銭程度で、ひと月の給与は13円ほ

どになります。でも、各種の名分で皆持っていかれ、手
に残るのはひと月に5円程度でした。監督官の言葉では食
費を除いて残りは貯金して、帰るときに渡すと言ってい
ましたが、解放になって出発するとき、貯金した賃金は
貰えませんでした。

炭鉱で3年間働いて解放になりました。解放後は帰国

の順序を待って、船に乗って帰って来ました。米軍が来
て、私たちを送り出してくれたのです。家に帰ると家族
と近所の人たちがとても喜びました。特に母親が随分と
泣きました。帰郷途中で船が爆撃されて死んだ人も多い
と言いますが、私は生きて帰って来ました。それだけで
も幸せこの上ないと考えました。

22) 朱龍根が陳述する「岩内炭砿」は、「炭鉱周辺に海岸があった」と述べたことから茅沼炭鉱を指すものと推定される。彼は炭鉱名を茅沼炭鉱近隣の町である「岩内」と記憶

している。

23) ここで「トラック」とは、炭車を意味して、日本では「トロッコ」と呼ばれる。
24) 千島列島:クリル列島を指す日本語。ロシアサハリンと北海道の間に維持する30以上の島嶼からなる火山列島。

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90 _ 写真で見る強制動員の話

朱龍根の写真

朱龍根が動員地(茅沼炭鉱)で撮影した個人写真。写真の服装は、仕事を終えて平時に着たもので、炭鉱で支給されたと言った。裏面には自筆で本人
の名前と「17歳3月24日」と記されている。

朱龍根の写真/朱龍根提供

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 _ 91

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92 _ 写真で見る強制動員の話

上国鉱業所

中外鉱業(株)

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上国鉱業所は北海道桧山郡上ノ国町に位置し、マンガンを産出す
る鉱山である。1943年8月から中外鉱業株式会社が買収し、マン
ガン鉱山としては日本最大の規模だった。1986年5月廃鉱。

• 北海道桧山郡上ノ国町所在
• 1943年中外鉱業株式会社が買収、1986年廃鉱
• 委員会申告件数:10件

上ノ国町

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94 _ 写真で見る強制動員の話

家族扶助料支給明細書

朴英俊の死亡に対する家族扶助料支給明細書/朴キルジン(朴英俊の子息)提供

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 _ 95

朴英俊の死亡に対し、その家族に支給した扶助
料の金額とその項目を記録した支給明細書。薄
い紙に鮮明に刻まれた「上国鉱業所」の印と朴
英俊の創氏名の「星村英俊」を確認できる。

内 容

題目:故星村英俊君家族扶助料竝支給明細書
項目:家族扶助料、香奠、諸掛赤字金、差引合計支

給金


朴英俊は(パク・ヨンジュン)は1943年冬、忠清南道洪城(ホンソン)から中外鉱業(株)

上国鉱業所に動員された。家族ははじめ、彼が何処へ行ったのかわからなか
ったが、のちに手紙が来て北海道にいることを知った。そして動員されてか
ら二か月ほど過ぎた頃、日本で死亡したという知らせが来た。日本語を少し
知っていた長男は巡査と従兄が「死んだ」というのを聞いたという。朴英俊
の遺骨は解放後に彼の同行者たちが持ってきた。当時9歳だった長男は父親
の遺骨を受取った場面をこのように回想した。「父と一緒に北海道に行った
人たちが叔父に遺骨を渡し、叔父が遺骨箱を家に持って来ました。母は泣き
ましたが、その時、私は歳が幼く、何のことなのか分からなかったです。木
箱の中に首の骨のようなものが入っていました」。

家族は遺骨を持ってきた人たちから朴英俊が「凍死」したと聞いた。当

初、積もった雪中で遺体を探せなかったが、次の年の春に雪が解けてから、
ようやく探し出したという悲痛な話も一緒に聞いた。家族はその話を基にし
て、除籍謄本に、「北海道上ノ国町で凍死」と死亡事実を詳細に記録しよう
としたが、正確な死亡事実が分からないので記録できなかった。同行者たち
から、彼の遺体が発見された日にちを聞き、その日に祭祀(チェサ)をしている
だけという。

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96 _ 写真で見る強制動員の話

雄別礦業所

雄別炭礦鉄道(株)

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 _ 97

※ 雄別礦業所労務者の転換配置
戦時期、日本政府は円滑な軍需物資の補給と生産量の増大のため
に必要に応じて一部炭・鉱山の事業を一時終了させ、労務者を他
の作業場に配置し、労務を継続する政策を行なった。
1944年8月、「樺太及釧路に於ける炭鉱勤労者、資材等の急速転換
に関する件」の閣議決定を根拠に、北海道の釧路炭田一帯の炭鉱
に、一斉に休・廃鉱処置が下された。その理由は、戦争状況が悪
化し、石炭の海上輸送が困難な点、釧路炭田の炭質と採掘条件の
不利などであった。25)
釧路地域に所在していた雄別礦業所もこのような政府の緊急処置
によって、千人余りの坑夫と該当設備が九州の三菱系列の炭鉱へ
と移されることになった。

• 北海道阿寒郡阿寒町(現、釧路市阿寒町)所在
• 1917年試掘、1919年北海炭礦鉄道(株)設立、1924年三菱鉱業が経営、

雄別炭礦鉄道(株)に社名変更、1970年廃坑。

• 委員会申告件数:雄別炭礦鉄道(株) 約190件

25) 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会『サハリン「二重徴用」被害真相調査』2007年38~

108ページ.

釧路市

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98 _ 写真で見る強制動員の話

金炳澤の徴用告知書/金セギュ(金炳澤の子息)提供

1942 年 6 月のある日、面事務所職員に徴

用令状を渡され、「徴用」に行くようになり
ました。私と一緒に徴用された 100 人余り
の人たちは安東東部国民学校に集結し、安東
駅から汽車に乗って日本に向けて出発しまし
た。その時から徹底した統制と監視が始まり、
個人行動は全くできませんでした。恐ろしさ
に家族のことを思い出しました。安東で汽車
に乗り、〔船に乗り換え、〕日本の下関へ行き
ました。そして、北海道まで行くのに 10 日
ほどかかったようです。

私は北海道にある雄別炭鉱で働くことにな

りました。最初に、「飯場」で生活するよう
になって、服、布団、帽子などを渡され、会
社が紙一枚(借用書)を呉れました。

この紙に書かれている金を、後に月給から

返すことになっていました。そして、ひと月
の月給はとても少なくて帰すのは難しかった
です。炭鉱では石炭採掘作業をしましたが、
仕事に比べて食べ物の量が少なくてとても腹
がすきました。ひと月に 1 円程度出る賃金で
近所の店でジャガイモやうどん等を買って食
べました。

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

尹永旭(ユン・ヨンウク)
・1924年、慶尚北道安東(アンドン)で出生
・1942年6月雄別礦業所に動員
・1944年8月福岡県所在の三菱鉱業(株)鯰田炭鉱に

「配置転換」

・1945年6月入営通知書を受けて帰国
・1945年8月大邱訓練所で訓練中に解放を迎える

尹  永  旭の話

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 99

北海道の炭鉱に働きに来た時は、私は17歳の幼い歳で

した。故郷から一緒に行った人たちはみな私より年上でち
ょっと寂しかったです。炭鉱では歳が幼い人を別に集め、
同じ「飯場」を使わせました。年少の人たちは昼に働い
て、夜には軍事訓練を受けなければいけませんでした。仕
事をして、訓練も受けるので、本当につらかったです。軍
事訓練をさせる理由は、私たちをのちに軍隊に送ろうとし
たからです。この文書(赤十字会員証)は、私たちのように

「特別訓練」を受けた者だけにくれる証書です。

はじめに故郷を離れるときは、2 年間働くと契約しま

した。しかし、契約期間が過ぎると、「今は日本の世の中
だから、家に帰る考えはするな」と言って継続させて、
残って働くようにさせました。契約期間の満了後、私と

同僚たちは北海道の炭鉱から福岡県の鯰田炭鉱へ送られ
ました。会社が一方的に送ったのです。福岡の炭鉱では
採炭作業をしました。

1945 年 6 月、私は鯰田炭鉱で働くなか、入営通知書を

受けて帰国しました。3 年を超える時間を日本で働いて
帰国し、うれしく家族と再開しましたが、疾病のために、
また家族と離別しました。軍隊へ行く人たちはいつでも
すぐ死ぬ、だからあんなに危険な炭鉱へ送って働かせる
のだと思いました。私はその時、大邱にある訓練所で訓
練を受けていて、解放になったので、戦場へ行かないで
すみました。考えてみると本当に幸いなことです。

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100 _ 写真で見る強制動員の話

借用証

雄別礦業所発行の借用証/尹永旭寄贈

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 101

尹永旭名義の借用証。尹永旭が雄別礦業所で生
活必需品と準備金で140円を借用し、借用金は
後で自身の賃金から相殺される内容だ。尹永旭
は、「この文書は炭鉱に始めて到着して飯場で
生活した時、会社が服、帽子、布団などをくれ
た時に一緒に貰ったものだ。記載金額を月給か
ら返済しなければならないが、金額が大きくて
返すのが難しかった」と陳述した。

内 容

借用証(‘借’ は印紙にかくれている)

借用金額:金140円
借用人:番号3745平沼永旭(尹永旭の創氏名)
採用日:昭和17年(1942年)6月15日

小生はこの度、貴所に坑夫として採用されるにあた
り、生活必需品と稼働用具、準備金として前記の金
額をまさに借用しました。返済は昭和 年 月 日
分から相当の金額を便宜上、小生の稼働賃金から差
し引いてください。万一小生の稼働賃金が無かった
り不足した場合には保証人の稼働賃金より差し引い
て貴所には損害を与えないようにし、そのため、後
日、借用証を差し出します。

尹永旭が1942年6月、雄別鉱業所に到着した時、鉱業所は尹永旭に服と布

団などの生活必需品と作業服、作業用具などを支給した。これらは炭鉱労務
者に無料で支給されるものでなく、会社が所定の金額を借用する形で支給さ
れるものだった。ここには労務者個人の意思は全く反映されていない。朝鮮
から強制動員されてきた尹永旭は、本人の意思とは関係なく、会社から一定
金額を借用させられ、その金は賃金から強制的に控除された。

借用証にはそれがあたかも本人の意思であるかのように「小生の稼働賃金

から控除してください」、「鉱業所には損害を与えません」という文句が記載
されている。以後、必要な生活品もすべてこの方式で支給され、尹永旭は熱
心に働いても借金は容易になくならなかったと陳述した。会社に債務が存在
する限り、労務者たちは作業場を離れるのは難しかったのだ。また、借金を
返すために、各種手当をより多く支給させるために労働時間を増やすことに
なったのである。

このような借用証書から、〔借用が〕会社が労務者の離脱を防止するため

に使われ、また、合法的に賃金を搾取する手段とされていたことが、判断で
きる。

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102 _ 写真で見る強制動員の話

尹永旭の赤十字社員証/尹永旭寄贈

赤十字社員証

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内 容

発行機関:日本赤十字社
発 行 日:昭和18年(1943年)2月25日

日本赤十字社は当時、趣旨に賛同する平沼永旭
( 尹永旭の創氏名 ) を正社員とする。

この証書は、尹永旭を「日本赤十字社の正社員とする」という内容だ。尹

永旭はこの証書を「特別訓練を受けた者たちだけに与えられる特別訓練証書」
と記憶している。

彼がどんな名分で赤十字社員の地位を得たのか、その詳細な状況を知るこ

とはできない。しかし、本人がその意味を正確に知ることができなかったこ
とから、会社側で実施した一般的な処置と見える。

推定するに、会社が賃金搾取の手段として個人賃金の一部を赤十字社に寄

贈し、その後、名目的にこのような文書を発給したのではないかと考えられ
る。赤十字社員の地位自体には何の実益もないが、労務者たちに対し、特別
な証書であるかのように飾り付けて、会社側がごまかそうとしたのかもしれ
ない。

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104 _ 写真で見る強制動員の話

春採炭鉱

太平洋炭鉱(株)

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 _ 105

春採炭鉱が位置する釧路炭田は、1857年から開発が始まったが、
春採炭鉱で本格的な採炭が始まったのは1917年だ。1920年からは
三井鉱山に合併され、太平洋炭鉱(株)春採炭鉱になった。
1944年8月、釧路炭田の炭鉱が政府の緊急処置によって休・廃鉱
されて春採炭鉱の労務者たちは九州の三井系列の炭鉱に「配置転
換」された。三菱系炭鉱の「配置転換」と同様、三井系列の春採
炭鉱の労務者は、九州の三井系列炭鉱に移動させられた。26)
1945年秋に採炭が再び再開され、2001年廃坑まで、継続して石炭
事業を続けた。

• 北海道釧路市所在
• 1917年採炭開始。1920年三井鉱山に併合。2001年廃鉱
• 委員会申告件数:約20件

26) 関連内容は、本書の雄別炭鉱(三菱系)の項を参照。

釧路市

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106 _ 写真で見る強制動員の話

金炳澤の徴用告知書/金セギュ(金炳澤の子息)提供

私は1924年に江原道麟蹄郡で生まれまし

た。1942年7月のある日、日本人が江原道麟
蹄郡に炭鉱で働く人を募集に来ました。その
時、私は麟蹄郡で国民学校を卒業し、半島の
北の章川(チャンチョン)にある金剛中学校2年生で
した。家の暮らしが厳しくて新聞配達などを
して学費を稼ぎましたが、私の力では学費の
足しにするにはとても難しく、勉強を全部終
えるのはできそうにありませんでした。そ
れで「小さな町でこんなに苦労するより、日
本でも行ってみよう」という考えで募集に応
じました。私はその時、歳がまだ幼かったけ
ど、日本人も働き手が必要だから、私を連れ
て行きました。

麟蹄郡で 70 人ほどの人が集まり、北海道

へ出発し、半月で北海道の釧路港に到着しま
した。汽車から降り、初めて見た釧路港はあ
まりに見慣れない所でした。すぐに「僕はこ
こに何で来たのだろう」という思いがわき、
涙が出てきました。一緒に動員された同僚た
ちも、私が泣くのを見て気分が良くなかった
でしょう。私が働くことになった炭鉱は、

「春

採炭鉱」という所でした。

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

申鉉大(シン・ヒョンデ)
・1924年江原道麟蹄郡(インジェ郡)で出生
・1942年7月太平洋炭鉱(株)春採炭鉱へ動員
・1944年8月福岡県所在の三井鉱山(株)三池炭鉱

へと「配置転換」

・1945年8月解放を迎えて、故郷へ帰還

申  鉉  大の話

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 107

韓国人は「協和寮」という飯場で、生活するようにな

りましたが、春採炭鉱には3つの協和寮がありました。

「飯

場」の長は韓国人で、監督は日本人でした。炭鉱には咸
鏡道、平安道、全羅道、慶尚道など各地からきた韓国人
たちが何百人もいました。

春採炭鉱に始めて到着した日、大事件が起きました。

炭鉱には「タコ部隊」27) の人たちがいました。彼らも同
じ韓国人ですが、待遇がとても酷かったです。「タコ」は
日本語で、蛸という意味で、人間の骨が無くなるほどに
たたいて働かせるという意味で「タコ部隊」というのだ
そうです。それを見ていられなかった飯場の韓国人が「同
じ韓国人が苦しめられているのを黙っていられない」と
言って「タコ部隊」をなくそうと言ったのです。私たち
江原道一行には、「あなたたちは今日初めて来たから、一
緒に行こうとは言わない。見ているだけで良い」と言い
ました。

「タコ部隊」宿所は、私たちの宿所から離れた山の下に

ありました。そこを潰そうと行った人たちは、電気を断
って入り込み「タコ部隊」労働者たちに、ここにいたら
皆死ぬから逃げろと言ったのです。逃げた人もいたけど、
逃げられない人たちもいました。私たち江原道一行は余
りに恐ろしくて、すぐに宿所に入り、布団をかぶって寝
たふりをしました。すぐに釧路市内でサイレンが鳴りま
した。やがて拳銃を持ち、刀を下げた憲兵隊が駆けつけ
てきて調査をすると言って、私たちが寝ているところに
入ってきて布団をひっくり返して探しました。私たちの

「飯場」長が、「ここの人たちは今日初めて来た。そこに

行かなかった」と言うと、ようやく帰りました。何人か

主導者が捕まって刑務所に入り、刑を終えた後に炭砿に
戻ってきました。しかし、寒い刑務所で過ごすうちに手
足の爪が全部抜け、体が弱くなって働けない体になった
ので、韓国へ戻されたと言います。

私に初めて与えられた炭砿での仕事は、炭を選び出す

「選炭」28) 作業でした。歳が幼かったので選炭をさせ、石

炭掘りなどの力仕事はさせなかったのです。選炭場は日
本人女性たちだけの仕事場で、そこで働くのは私だけで
した。その選炭は採炭より歩割が少なくて、飯代程度に
しかなりませんでした。それで 1 年後には坑内で働くと
言い、坑内で機械を操作したり、炭を掘る仕事をするよ
うになりました。選炭作業よりはお金を多く貰いました
が、お金はたまりませんでした。食事量が足りなくて別途、
飯を買い食いし、仕事着は余りにみすぼらしいため、服
を買ったからです。

春採炭鉱で働いていた時、右足をひどくケガしました。

機械を操作していた時、天井が崩れ落ちたのです。天井
が崩れる時、素早く身を避けて足だけ下敷きになりまし
たが、そうでなかったら体全部が下敷きになって死んで
いたかもしれません。足の治療のために春採病院に 3 か
月入院しました。初めは右足がマヒして足を曲げて伸ば
すこともできませんでした。治療を受けてようやく足の
屈伸ができるようになりました。でも完治しませんでし
た。今でも右足が不自由です。退院後も 1 年間は松葉づ
えをついて病院へ行きました。病院通いをしながらも、
不自由な足を引きずって働きました。その時は戦争をし
ていて、日本人も死ぬか生きるかの時なので、痛いから
と働かない訳にいかなかったのです。

27) 申鉉大は「タコ部屋」を「タコ部隊」と記憶していた。「タコ部屋」に関する詳しい説明は本書の三菱鉱業美唄の項(p71)、参照。
28) 採掘された石炭を物理的・機械的方法で精炭と廃石に分離する作業。

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108 _ 写真で見る強制動員の話

春採炭鉱で 2 年ほど働くと、春採炭鉱の炭が枯渇した

といって、働き手は全部九州にある炭鉱へ送りました。

「炭

が枯渇した」というウワサは聞きましたが、九州へ移る
本当の理由は会社の機密なので教えてくれませんでした。
春採炭鉱は閉山したわけではないので、年を取った日本
人の何人かが残りました。

私が働くことになった別の炭鉱は、福岡県大牟田市に

ある「四山坑」29) と言う炭砿でした。この炭砿は春採炭
鉱よりも働くのが辛かったです。北海道は元来寒い所な
ので、春採炭鉱では長袖と長ズボンを着て仕事しました。

しかし、九州の炭鉱は地熱がとても暑くて服を着ること
ができなく、下着だけで働きました。また、九州は戦争
による空襲もひどく、食事量も余りに少なく、辛かった
です。

ある日、長崎に原子爆弾が落ちたというウワサととも

に、日本が降伏したという知らせも聞きました。解放さ
れて家に帰れるというのです。不自由な足を引いて家に
帰ってくると、家族もみんな健康にしていました。当時
の辛かった経験を若い人たちに詳しく話しても、たぶん
理解できないでしょう。

29) 三井鉱山(株)三池炭鉱の坑口のひとつ.

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 109

申鉉大の写真

申鉉大が春採炭鉱に動員後、春採写真館で
撮影したもの。写真の裏面に自筆で春採炭
鉱の住所を記した。

写真裏面に記された「北海道釧路市春採町
231」は、春採炭鉱の住所。

左側写真の裏面/申鉉大寄贈

申鉉大の写真/申鉉大寄贈

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110 _ 写真で見る強制動員の話

30) 京畿道驪州(ヨジュ)郡出身で1941年5月頃、春採炭鉱に動員された沈ジェギル(1918年生)もこの事件について、申鉉大と同一のことを陳述した。彼は現在、日本の熊本県に居

住しているが、「韓国人たちが団体でタコ部屋を襲撃し、電線を切って、窓を割り、そこの労働者たちを逃がしてやった。そして主導者の何人かは捕まって、投獄生活を
して帰ってきた」と陳述した。

申鉉大は1942年7月、江原道麟蹄郡に居住する70人余

と一緒に太平洋炭鉱(株)春採炭鉱に動員された。そこで
働いて2年が過ぎた1944年8月、彼は日本政府の緊急処置
によって福岡県所在の三井鉱山(株)三池炭鉱へ「配置転
換」された。彼が三池炭鉱に送られた理由は、春採炭鉱
が三井系列の炭鉱だったためだ。

申鉉大は春採炭鉱に到着した当日に経験した大事件

をいまも生々しく記憶している。1942年7月頃、「タコ
部屋」に収容された朝鮮人が過酷な待遇をされるのに対
し、「協和寮」の朝鮮人たちが団体行動を起こしたのだっ
た。夜に電気を断って「タコ部屋」を襲撃し、「タコ部
屋」の労働者たちを逃がしたのだ。見知らぬ土地に到着
した初めての日、この状況を目撃した申鉉大とその一行
は、驚いて宿所に戻ってしまった。

そうするとすぐに釧路市内で警報が響き、憲兵隊が協

和寮に駆け付け、寝ている人達の布団を一枚一枚はがし

て調査をした。申鉉大と彼の一行は炭鉱に入所した初日
だったので無事だった。しかしこの事件の何人かの主導
者たちは検挙され、刑務所に収監され、その後、炭砿に
戻ってきたが、ひどい刑務所生活で体が余りにも弱って
帰郷処置となった。30)

この事件は強制動員されたのち、動員地域での抑圧さ

れた生活に素直に応じない朝鮮人たちの抵抗とみられる。
このような場合以外にも、朝鮮人は強制動員に対して様
々な形態で抵抗した。動員を避けて住居地を移ったり、
病気や身体上の理由をあげて動員を拒否する人もいた。
動員されたのちには民族差別、賃金と労務管理者に対す
る不満や食事改善、帰国などの問題解決のために団体行
動をとることもあった。動員の途中、または動員地での
命をかけた脱出は強制動員に対する抵抗のひとつだった。

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112 _ 写真で見る強制動員の話

土木工事場

 編

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 _ 113

朝鮮人が強制動員された北海道の土木工事場は、鉄道、発電所、道路、港湾、河川整備

などの一般土木工事場と、飛行場と軍事施設などの軍関係工事場に大きく別けることがで
きる。

土木工事の場合は、主として大企業や軍が「組」に下請けさせて作業をする場合が多いが、

請負業者である「組」は、工事現場の近隣に「飯場」を作り、人夫を収容した。土木工事
は大小の事業場が散在し、作業期間が短く、請負工事が完成すると次の工事現場に移動す
る場合が多かった。労務者たちはさまざまな工事場を経験する場合が多かったのである。
特に、冬がとても寒く、長い北海道では、冬期に寒波で野外作業が不可能になれば、土木
工事場の労務者を冬でも坑内作業ができる炭鉱・鉱山などに送ることもあった。

北海道の土木工事場のもう一つの特徴は、労務者の人身を拘禁・統制する「タコ部屋制度」31)

があるという点だ。「タコ部屋」は、主として北海道やサハリンの土木工事場で運営された
労務管理システムをいうが、「タコ部屋」に収容された労務者たちは厳しい監視と統制の下
で過酷な労働を強要された。そのため労務者たちの間だけでなく、日本社会でも悪名が高
かった。

炭鉱や鉱山は企業資料も豊富であり、官庁や警察関係の資料も多い方だ。反面、土木工

事などでの記録はほとんど残っていないので、具体的な労働実態を把握するのは難しい。

31) 詳細な内容は本書の三菱鉱業美唄の項、参照

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114 _ 写真で見る強制動員の話

千歳飛行場

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 115

千歳飛行場

• 北海道千歳市所在
• 強制動員規模:約2,000人余
• 委員会申告件数:約70件

千歳飛行場建設工事は、海軍大湊施設部千歳地方事務所が施工
し、滑走路工事は王子製紙株式会社の子会社の雨竜電力株式会社
が請け負った。この飛行場工事は、緊急軍工事として扱われ、沢
山の労務者が投入された。『千歳市史』によれば、飛行場工事に
海軍施設隊1,157人、地崎組所属労務者2,000人が投入と記録され
た。日本の敗戦で飛行場が完成しないまま工事が中断されたが、
滑走路と誘導路が完成した状態だった。現在この飛行場は陸上自
衛隊が使用している。32)

32) 札幌郷土を掘る会『海峡の波高く』1989年、34・42ページ

千歳市

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116 _ 写真で見る強制動員の話

チョ・ドンファンの表彰状/シン・ジョンシク(チョ・ドンファンの妻)提供

表彰状

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 _ 117

33)  北海道札幌市南区に所在する山。硬石山の石材は、千歳飛行場の滑走路を造るのに使われた。石材を採取し

たり千歳飛行場まで運搬する仕事に朝鮮人労務者が動員された。

チョ・ドンファンは1943年5月頃、全羅北道出身の朝鮮人200人余と一緒

に北海道の千歳飛行場工事に強制動員された。中学校を日本で通い、巧みな
日本語能力を持っていたチョ・ドンファンは、一緒に動員された同僚たちを
統率する隊長役をしたそうだ。チョ・ドンファンは、飛行場建設現場で伐木
や滑走路用地の整地などの土木工事をして、1944年12月頃、帰還した。表
彰状の発給日が1944年10月8日であることから、契約期間の満了時点に会社
から表彰されたものと推定される。

表彰状に書かれている「帝国国防基地建設」という名目の下で、千歳飛行

場と近隣採石場の硬石山33)に沢山の朝鮮人労務者が動員された。

この表彰状は、チョ・ドンファンが千歳飛行
場工事の主体である雨竜電力株式会社千歳工
事部から受けたもの。表彰状には本名の「チ
ョ・ドンファン」ではなく、創氏名の「藤岡良蔵」
と記載されている。

内 容

(表彰状)
右の者(チョ・ドンファン)は、熱心に勤労精神を昂
揚実践し、その使命に挺身し、帝国国防基地建設に
寄与した功績が大きいことから、全隊員の模範であ
る。よってこれを表彰する。

昭和19年(1944年)10月8日
雨竜電力株式会社千歳工事部
最高指揮者 吉川茂

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118 _ 写真で見る強制動員の話

国民労務手帳

崔有達(チェ・ユダル)の国民労務手帳表紙(左)と3~4面(右)/崔サンドン(崔有達の子息)提供

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 _ 119

崔有達は家で突然飛び掛かってきた人たちによって強制動員され、北海道

の飛行場で格納庫建設をしたという。崔有達の人的事項が詳細に記載された
労務手帳でも、このような申告内容を再度確認できる。

国民労務手帳は氏名と本籍地、住居地、就業場所、職名と技能程度、月

給状況などを詳細に記録し、労務者を効果的に管理・統制するために使われ
た。崔有達の労務手帳は、全部で38ページだ。1面には写真を載せ、2面に
は手帳交付日が書いてある。3~4面には手帳所持者の詳細な人的事項と職
業履歴を記載している。その後に記載される内容も全部手帳所持者の経歴や
移動状況に関するものだ。1.名前と本籍地、2.兵役関係、3.学歴とその種
類、4.居住地、5.就業場所、6.就業名と技能程度、7.給与と賃金、8.労働
者年金と保険、9.その他を記録するように構成されており、最後の3ページ
には注意事項が記されている。

委員会に出された申告書の中には、当時の国民労務手帳を証拠資料として

提出するケースが時々ある。

崔有達のものは、北海道地域の作業場の内容を忠実に載せていることに意

味がある。

労務手帳から確認される崔有達の動員地は、北海道千歳郡千歳町に位置し

た雨竜電力株式会社工事部の土木工事場だ。ここは、雨竜電力株式会社が工
事を行なった千歳町(現、千歳市)所在の千歳飛行場に該当する。労務手帳に
よれば、崔有達は1944年5月に工事に投入されたとあるが、彼と一緒に動員
された同僚の陳述によれば、その当時、英陽郡と軍威(クニ)郡居住の100人余
が強制動員され、安東(アンドン)に集結してから日本人引率者に引き渡され、
北海道千歳飛行場に動員されたという。彼らは、飛行機を保管するトンネル
掘りや土の運搬の作業に投入された

日本の厚生省から発給された国民労務手帳。
国民労務手帳には氏名と本籍地、住所、就業
場所、職業名と技能程度、月給状況などが詳
細に記録されている。

内 容

氏  

名:高山有達(崔有達の創氏名)

出 

生:大正5年(1916年) ○月 ○日

本 

籍:慶尚北道英陽(ヨンヤン)郡○○面○○里

職  業  名:土木作業員
就業期間:1944年5月24日から
作業内容:土木工事
就業場所: 北海道千歳郡千歳町雨竜電力株式会社工

事部

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120 _ 写真で見る強制動員の話

浅茅野飛行場

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 _ 121

旧日本陸軍浅茅野飛行場が所在する「浅茅野」は、北海道宗谷郡
猿払村の南端に位置する。浅茅野飛行場は第1、第2飛行場からな
る。第1飛行場は猿払村浅茅野と浜頓別町安別にかけて建設され
た。ここから約20㎞北側の猿払村浜鬼志別には第2飛行場が建
設された。二つの飛行場は1942年から1943年頃に工事が始まっ
た。第1飛行場は1944年春頃に完成したものと思われる。第2飛行
場の完成時期は現在確認できない。下請工事業者として、鉄道工
業株式会社、丹野組、菅原組、川口組などがある。
浅茅野飛行場に強制動員された朝鮮人の数は正確に把握するのが
難しく、証言によれば約1,500人から2,000人ほどだったと推定さ
れる。埋・火葬認許証34)などの記録から確認された死亡者数は90
人余を超えることから、相当数の朝鮮人が強制動員されたとが推
定できる。
日本の敗戦後、浅茅野飛行場は国家から払い下げされ、第1飛行
場は農家の牧草地に、第2飛行場は猿払村が運営する牧場になっ
た。35)
現在、委員会申告件のうち約20件余が浅茅野飛行場に動員された
と確認できる。この関連の死亡者名簿と、飛行場所在の官庁で発
給された埋・火葬認許証などが、被害調査の基礎資料に活用され
ている。

• 北海道宗谷郡猿払村所在
• 工事期間:1942年から44年
• 委員会申告件数:約20件

浅茅野飛行場

34) 埋・火葬認許証とは、人が死亡した時に該当官庁が埋葬・火葬に関して認可した証書を言う。
35) 強制連行・強制労働を考える北海道フォーラム「2007年浅茅野調査報告書」2008年

猿拂村

浜頓別町

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122 _ 写真で見る強制動員の話

私の父の全海平は当時、故郷の忠清南道錦

山(当時の行政区域は全北錦山)で農業を営んで
いました。面事務所職員によって日本へ強制動
員されました。その時は私が17歳だった年の
春で、解放の3年前でした。父が連れさられた
のは日本でもとても寒い所、北海道の浅茅野飛
行場でした。父はそこで過労と極寒で苦労し、
気管支炎と大腸病に罹って死亡したそうです。
「浅茅野」と言う名前をどうやって記憶したの
かですって?それは私が直接そこへ行ったから
です。そして当時、父と手紙交換をしたからよ
く知っています。

父が動員された後、私も九州にある炭鉱に

「募集」で行くことになりました。九州の炭鉱
で働いていた時、大阪へ逃げました。大阪には
叔父が住んでいたからです。それで叔父の家に
徴用状が来ました。当時はみな配給制なので、
コメの票を貰うために所在地の警察署に登録を
していました。それで引っかかったのか、徴用
状が来たのです。当時、大阪に住んでいる朝鮮
人100人と一緒に動員されました。私が働くこ
とになった会社は、大阪港区の川口電鉄駅前に
ある機関車を作る会社でした。叔父の家から電
鉄で20分ほど離れた所でした。そこで機関車
部品に穴を開ける仕事をしました。

全愚植(チョン・ウシク)

・1926 年全羅北道錦山 ( クムサン ) で出生
・1942 年父親の全海平 ( チョン ・ ヘピョン ) が北海道の

浅茅野飛行場に動員

・1943 年、日本九州の炭砿へ動員されたが逃走。

大阪の叔父の所で生活中、機関車製造工場に動員。

・1943 年 12 月、父・全海平の死亡の知らせを聞

いて直接、浅茅野飛行場へ行って父の遺骨を受
取った。

・1946 年 10 月故郷へ帰還

全愚植の話

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

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 _ 123

大阪の工場で働いていた時、北海道に動員された父が

死亡したという知らせを聞きました。叔父が父の遺骨を
取りに行こうと、私が働いていた工場に私を訪ねてきま
した。父の死亡の知らせを聞いた時、私は18歳でした。
労務係の許可を得て、叔父と一緒に父の遺骨を探しに遠
くまで行くことになりました。

大阪から北海道の浜頓別まで行く汽車切符を買いま

した。札幌から北見線に乗り換えました。飛行場がある
所を浅茅野といい、浜頓別から一駅行った所で降りまし
た。そこで旅館を取って○○組、組の名前は今でも思い
出せません。とにかく○○組に連絡したら、その次の日
に組職員が旅館に来ました。

浅茅野に到着した日は、1月1日でした。組職員がそ

の日は正月だから休みなさいと言いました。そして1月
2日、父親の遺体を火葬しに行きました。職員と一緒に
汽車に乗って浅茅野からひと駅離れた浜頓別へ行きまし
た。ちょうど「浜頓別病院」という所に故郷の人が入院
していると言いました。その人と会いに行きました。そ
の病院は田舎にある小さな個人病院でした。その同郷の
人は父と一緒に、「タコ部屋」で働いていたと組職員が言
いました。

火葬場は浜頓別村から2㎞程度離れた所にありました。

雪がとても多く、車も入れなくて、馬ぞりに乗って行き
ました。その時、雪は1m以上積もっていました。火葬を
する人と会いましたが、その人がマキ、石油など火葬に

必要な物を持って来ました。火葬場の場所は谷間か、野
原のようで、雪が多く降って、そこが良く見えませんで
した。遺体が入るだけの赤い壁石が四角形に積まれてお
り、その中で火葬できるようになっていました。

火葬場に到着した時、父の遺体は雪の中に埋もれてい

ました。遺族が来るまで遺体が腐敗しないよう、そのま
ま(雪の中に)放置していたようです。北海道の冷たい雪
の中で横たわって私を待っていた父を見ると本当に心が
凍り付くようでした。持ってきたマキに石油をかけ、父の
遺体を火葬しました。火葬すると遺骨がとても熱くて、そ
のまま骨を引き出せません。一日ほど冷まして1月3日に父
の遺骨を収集しました。職員が後で葬式の費用を送ってく
れると言いましたが、受け取った記憶はありません。

父の葬式を行なってから、私はまた大阪へ戻って「徴

用工」として働きました。工場で機関車部品の穴開けの
仕事をしていて、機械に指を引き込まれて指2本が切断さ
れました。20歳にもならない幼いといえば幼い歳に、日
本で父親を失い、私は徴用で青春を失い、私の手の指2本
も失いました。

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124 _ 写真で見る強制動員の話

北海道枝幸郡頓別村浜頓別の弘山病院で発行
された死亡診断書。この診断書から全海平が
1943年12月25日に気管支炎と大腸炎で死亡し
たことが確認される。全海平は浅茅野飛行場
で「土工夫」として仕事中に死亡した。

内 容

死亡診断書:竹田海平(全海平の創氏名)

別:男

生 年 月 日:明治40年(1907年)○月○日
死亡者職業:労働
死 亡 原 因:気管支炎並に大腸カタル
発     病     日:昭和18年(1943年)12月10日
死     亡     日:昭和18年(1943年)12月25日
死 亡 場 所:枝幸郡頓別村浜頓別 弘山病院
発     行     日:昭和18年(1943年)12月25日
発     行     者:弘山病院医師 弘山道隆

死亡診断書

全海平の死亡診断書/全愚植(全海平の子息)寄贈

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 _ 125

戦時期の労務動員は、主として20歳から40歳の身体健康な成人男性を対象としたが、実際は10代の幼い少年や40代

以上の中年層も動員された。募集当時、各面や村に下された割当数を埋めるため、歳を胡麻化して送り出すこともあっ
た。家庭によっては、子どもの代わりに父親が動員されたり、逆に老いた父親の代わりに幼い子どもが動員されること
もあった。また、一家庭から二人以上の兄弟が動員される場合も多かった。浅茅野飛行場で死亡した全海平と彼の息子
の全愚植は、父と子どもが同時に動員されたケースだ。父の全海平は1943年春に北海道の浅茅飛行場に動員され、彼の
息子の全愚植は大阪にある機関車製造工場に動員された。息子は強制
動員地で父親の死亡の知らせに接し、北海道まで直接行って父親の遺
体を火葬した。

全海平は死亡診断書で1943年12月25日に気管支炎と大腸炎で死亡し

たことが確認される。息子の全愚植が父の死亡の知らせを聞いて葬儀
をするために北海道に到着した日は1月1日。全海平死亡の知らせは家
族に直接伝えられたようだ。

死亡診断書を発給した所は浜頓別にある弘山病院だ。また、全海平

の息子の全愚植は、浜頓別病院に入院していた同郷人を訪問したこと
を陳述した。浅茅野飛行場でケガをしたり病気にかかった人は、近隣
の弘山病院と浜頓別病院を主として利用したという。

全海平の死亡記録は浜頓別町の「埋火葬認許証」にも残っている。

当時に埋葬または火葬するには死亡者の死亡診断書を該当地方官庁に
提出した後、埋火葬認許証を受ける必要がある。全海平の火葬は弘山
病院から発給された死亡診断書をもとに浜頓別官庁から埋火葬認許証
の発給を受けて執行された。彼の埋火葬認許証の記録から、彼が丹野
組所属で働いたことが確認された。

全愚植の写真/全愚植提供
全愚植は大阪の機関車製造工場へ動員され、初めの数週間
は作業に関する訓練を受けたという。この写真は、訓練を
受ける当時、訓練服を着て撮影したもの。

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126 _ 写真で見る強制動員の話

雨竜ダム工事

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 127

雨竜ダムは北海道雨竜郡幌加内町に位置しており、雨竜川の最上
流に建設された。このダムを朱鞠内ダムと呼ぶこともあり、ダム
とともに造られた朱鞠内湖は、北海道で非常に大きな人造湖とし
て有名だ。雨竜ダムは建設当時、「東洋最大のダム」と言われる
ほど規模が大きかった。
雨竜ダムの建設背景には、王子製紙株式会社の事業の拡張があっ
た。王子製紙が雨竜ダムを建設した最大の目的は、大量の原木と
電力を同時に手に入れることだった。1928年、王子製紙は雨竜川
での電源開発を推進するために、「雨竜電力株式会社」という会社
を設立した。しかし建設開始直後、雨竜電力株式会社〔の電力事
業は〕国家主導の電力統制政策によって、日本発送電株式会社に
吸収された。工事は、元請会社の飛島組によって1937年12月から
始まった。
ダムが建設された地点はとても山深い所で、冬には零下40度を記
録するほどの日本でも極寒の地域だった。戦時の過酷な労働、極
寒の気候のなか、沢山の労働者が工事中に犠牲になった。雨竜ダ
ムは1943年8月に完成したが、建設に従事した労働者は、延べ人
員600万人で、最大時点では7,000人余が労働に従事した。36)
雨竜ダム工事は、戦時期に北海道で進められた土木工事のうち、
陸軍の拠点飛行場建設に匹敵する大規模土木工事だった。そのた
め強制動員され、労役を強要された朝鮮人の数も多かったとみら
れる。工事に動員された朝鮮人の数は最大3,000人ほどと確認され
ている。37)

• 北海道雨竜郡幌加内町所在
• 工事期間:1937年12月~1943年8月
• 強制動員規模:約3,000人余
• 委員会申告件数:約10件

36) 小野寺正巳「新聞報道にみる戦時下の名雨線鉄道・雨竜水力発電所建設工事と労働」、拓殖     

大学人文学研究所、拓殖大学論集(241)人文・自然・人間科学研究第5号 2001年168ページ

37) 前出『北海道と朝鮮人労働者』170~172ページ

幌加内町

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128 _ 写真で見る強制動員の話

北海道雨竜川発電工事産業記念撮影/金ギョンヒ(金ヨンチョルの子息)提供

雨竜ダム工事現場で撮った金ヨンチョルの団体写真

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 _ 129

金ヨンチョルは1940年3月頃、北海道雨竜ダム建設工事に強制動員され

た。彼の息子の金ギョンヒは、「北海道は雪が本当に沢山降る」と語ってい
た父親のことを十分に記憶していないと残念がった。

右側後方の円内の人が金ヨンチョルだ。写真についての詳細は、写真の主

人公の金ヨンチョルが既に死亡しているため、知ることはできない。写真に
書かれた文字が撮影日と場所だけを教えてくれる。この写真は1941年8月31
日、雨竜ダム工事現場で撮影した。雨竜ダムは1937年12月に施工し、1943
年8月に完成したので、写真撮影日の1941年8月はダム工事が盛んに進めら
れている時期だ。写真の人たちが踏んでいるレールは、建設資材を運搬する
押車を使うのに活用したレールとみられる。

写真提供者の金ギョンヒは、父親の金ヨンチョルが炭鉱で働いたことを記

憶している。土木工事場の労務者たちは冬には炭鉱などに送られることもあ
った。だから、金ヨンチョルが土木工事以外に炭鉱などの作業場で労役した
可能性も排除できない。

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130 _ 写真で見る強制動員の話

同僚たちと一緒に撮影した金ヨンチョルの写真/金ギョンヒ(金ヨンチョルの子息)提供

同僚たちと一緒に撮影した金ヨンチョルの写真

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 131

この写真もまた雨竜ダム工事現場で撮影したものだ。写真の人物たちは

それぞれ手に土を掘るクワなどを持っている。足には脚絆と「地下足袋」を
着用しており、労務服と帽子をかぶっており、一目で労務者だと分かる。た
だ、写真右側から2番目の人だけが洋服姿に長靴で、労務器具ではなく杖を
握っていることから、現場の監督官と推定される。

後ろ側の岩壁層と露出した木の根を見ると、ここがかなり危険な建設現場

だと分かる。にもかかわらず、写真技師の号令で一斉に作業を中止してカメ
ラを凝視する人たちに、その気配はない。一般的な記念写真とは違って現場
の一瞬を実写したものであり、当時の土木工事現場を理解するのに重要な資
料となる写真だ。

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132 _ 写真で見る強制動員の話

松前線鉄道工事

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 133

松前線は、北海道の木古内から松前までの50.8㎞区間に敷かれた鉄
道だ。工事が始まった時には、福山線と呼ばれていた。1937年10
月に工事を始め、1939年に一時中断したが、1942年に上ノ国のマ
ンガン鉱開発を目的に再開された。さらに松前西側の大島までの
新設工事に着手した。工事は東側の福島から松前までを第4~6
工区、新設する西側の松前から大島38)までを1~3工区に分けて、
進められた。松前線工事は路盤(道路や鉄道の基礎部分)工事が中心
で、敗戦までに完成しなかったが、1953年に全線が開通した。
1941 年秋以降、松前線鉄道工事のために慶尚南北道、全羅南北道、
京畿道などの農村から 20 ~ 30 代の朝鮮人労務者が動員された。
工事は主として山を崩して谷を埋めて線路を延長するという作業
であり、朝鮮人の大部分はスコップや鍬で土砂を掘り、それをモ
ッコや台車で運搬する仕事に投入された。労働時間は朝6時から
陽が沈む直前までで、現場によっては日没1時間前まで作業する
こともあった。39)
松前線は輸送量の減少で、1988年に廃止された。

• 北海道、木古内~松前
• 1937年10月工事開始、1953年全路線開通、1988年廃止.
• 委員会申告件:約10件

38) 現在の地名は松前町原口
39) 前出『北海道と朝鮮人労働者』336~340ページ

松前町

木古內町

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134 _ 写真で見る強制動員の話

徐載山(ソ・ジェサン)の協和会会員章の裏表紙/ 徐ソクソン(徐載山の子息)提供

協和会 会員章

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40) 1939年朝鮮人労務動員が開始されるや日本全国都府県に協和会が結成された。協和会は戦時日本に居住す

る朝鮮人を統制・管理するもので、朝鮮人労務者に対する皇民化教育、労務者管理の基本方針を指示し、
かつ労務現場のある警察署での治安管理などを担当した。

        山田昭次・古庄 正・樋口雄一、『朝鮮人戦時労働動員』、岩波書店、2005 年、217 項。また樋口雄一、『協

和会―戦時下朝鮮人統制組織の研究』社会評論社、1986 年 参考。

北海道松前協和会で1943年8月1日に交付した会員章で、写真はその表紙

及び裏表紙である。会員章の一面には日本の国歌である君が代が収録されて
いる。左側上段にある印の‘募’の字は‘募集’を意味すると推定される。左側下
段には‘北海道松前協和会’の赤職印が押されてある。協和会会員章には、個
人の人的事項(氏名、生年月日、本籍、現住所)、最初渡航年月日、就業場所
と期間、所属協和会支会、家族事項、会員の履歴などが記載されている。会
員章の一番後ろには、所持者注意事項と皇国臣民の誓詞が印刷されている。
協和会は日本に居住する朝鮮人を統制管理するための組織であった。40) 動員
された朝鮮人達は皆協和会に加入し、皇民化訓練を受けるなど協和会会員と
して統制された。

内 容

発  給  日:昭和18年8月1日
松前支部第131号
有効期限:昭和20年7月31日まで

協和会 会員章の表紙

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136 _ 写真で見る強制動員の話

徐載山(ソ・ジェサン)の協和会会員章の2~3面/徐ソクソン(徐載山の子息)提供

協和会会員章

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 _ 137

協和会会員章の第2面には、徐載山の人的事項と現住所、最初に渡航した日

と最初に協和会に所属した日が記されている。手帳の記録によれば、徐載山
は1943年7月30日に北海道に到着した。2日後の8月1日、協和会に所属した。

徐載山は、作業場に到着するや協和会の会員に義務的に登録されたよう

だ。また、3面の「現住所」欄の記載から、彼が堀内組に所属した労務者だっ
たことがわかる。

内 容

会員氏名:大城載山
生年月日:大正10年(1921年) ○月 ○日
出  生  地:本籍地と同一
本     籍:京畿道金浦郡○○面○○里
現  住  所:松前郡松前町建石56 堀内組
最初内地到着年月日:昭和18年(1943年)7月30日
最初協和会所属年月日:昭和18年(1943年)8月1日
協和会名:北海道協和会

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138 _ 写真で見る強制動員の話

徐載山(ソ・ジェサン)の協和会会員章の4~5面/徐ソクソン(徐載山の子息)提供

協和会会員章

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協和会会員章の第4面には写真が付けてある。現在、写真はなく、付いて

いた痕跡だけが残っている。写真の下には、撮影日付と徐載山の年齢が記さ
れている。彼が協和会会員として登録した日(1943年8月1日)と同一であるこ
とから、作業現場に到着するや写真を撮影したと推定される。写真が付いて
いる協和会会員章は、労務者が逃走した場合に逃走者を探し出すために使っ
たという。

第5面には、徐載山が動員された作業場の住所が、「松前郡松前町建石 

松前線第1工区鉄道工事」と詳細に記載されている。徐載山が属した堀内組
は松前線1工区工事を施工していた下請け業者のひとつで、建石地域で工事
を担当していたことが確認される。41)

内 容

写真撮影日:昭和18年(1943年)8月1日
年   齢:23歳
就職年月日:昭和18年8月1日
職   業:土工夫
就 労 場 所: 松前郡松前町建石 松前線第1工区鉄

道工事

41) 前出『北海道と朝鮮人労働者』336ページ.

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140 _ 写真で見る強制動員の話

140

軍需工場編

 編

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 141

炭鉱や土木工事のように大規模な人員が動員されないが、北海道の鉄鋼、造船、運輸の

分野にも多数の朝鮮人労務者が動員された。鉄鋼業として代表的なものは日本製鉄輪西製
鉄所、日本製鋼所室蘭製作所、造船業として代表的なものは函館船渠、運輸業としては日
本通運を挙げることができる。

鉄鋼業42)と造船業は、太平洋戦争時期に重要な軍需産業として扱われたので、相当数の

朝鮮人が強制動員された。特に軍需工業部門では、学力、年齢、体力などを考慮して一定
水準以上の若者を中心に人力を動員するという特徴があった。

また、戦時体制下の物資運搬業は重量に堪える体力が要求される非常に辛い現場だっ

た。資料の不足のため、朝鮮人荷役労務者の動員規模を詳細に確認することは難しい。し
かし、一部企業と地域誌の記録などを参考にすれば、少なくとも1,000人以上の朝鮮人が北
海道の荷役作業場に配置されたと推定される。解放以降の1945年10月、室蘭港で荷役作業
に動員された朝鮮人労務者たちが食料改善、手当支給、帰国のための衣服支給などを要求
して団体行動をした記録もある。43)

42) 鉄鋼業に関する朝鮮人強制動員は1942年2月の閣議決定「朝鮮人労務者活用に関する方策」に依拠し、同年3月からはじまった。
43) 前出『北海道と朝鮮人労働者』414~415ページ.

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142 _ 写真で見る強制動員の話

輪西製鉄所

日本製鉄(株)

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 143

輪西製鉄所は1909年、室蘭港に接する広い敷地に北海道炭礦汽船
株式会社の輪西製鉄所として発足した。その後、北海道製鉄、輪
西製鉄を経て1934年に日本製鉄(株)輪西製鉄所になった。輪西製
鉄所は福岡県所在の八幡製鉄所の次に製銑44)能力を持つ日本北部
で最大の製鉄所だった。日本の敗戦後の1951年に室蘭製鉄所と改
称、1970年に新日本製鐵株式会社室蘭製鉄所に変更され、今日に
至る。
日本製鉄株式会社の資料によれば、「1942 年から 1943 年にかけ
て男子未成年工員と女子工員を採用し、特殊労務者として朝鮮人
工員と学徒、女子挺身隊、勤労報国隊を補助的作業部門に投入
した」という記録がある。45) 1942 年に輪西製鉄所に動員された
朝鮮人労務者は 1,147 人で、1942 年に充員された全体労務者中
28.7%を占めた。
また1945年8月当時、輪西製鉄所にいた朝鮮人工員は2,248人であ
り、特殊労務者中45.1%、全体労働者では15.5%の比率だった。
この〔比率の〕数値は、日本製鉄株式会社所属の製鉄所の中で最
大だった。46)

• 北海道室蘭市所在
• 1909年北海道炭礦汽船(株)輪西製鉄所、1934年日本製鉄(株)に譲渡
• 強制動員規模:約2,250人余
• 委員会申告件数:約160件

44) 鉄鉱石を溶かして銑鉄をつくること.
45) 荒井秀夫「社史で見る日本経済史 第10巻 日本製鉄株式会社史」1998年 684ページ.
46) 前出『北海道と朝鮮人労働者』399ページ.

室蘭

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144 _ 写真で見る強制動員の話

輪西製鉄所に動員された人たち

輪西製鉄所で撮影した姜サムボンの写真/姜サムボン寄贈

輪西製鉄所での金ヒョンスの写真/金ヒョンス寄贈

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 145

姜サムボンと金ヒョンス、呉ドグンは1943年4月

頃、慶尚南道泗川(サチョン)から北海道の輪西製鉄所へ動
員された。日本人の募集員が製鉄所で勤務する者を探
した時、面の書記と区長が働ける若者たちを募集に応
じさせることを促したという。仕方なく応じた三人は
「第5期訓練生」として 泗川郡へ集結した100余人と
共に日本へ向かった。 泗川郡を後にした。当時、困惑
し、みな口を固く結び、周囲は沈黙するという状態だ
った。輪西製鉄所に到着するや6か月間は軍人と同じく
精神訓練を受けた。その後、3人は溶鉱炉に溶融鉄を運
搬する業務に配置された。勤務は1日2交代だった。

宿舎は木造建物に畳部屋だった。与えられた食事は

あまりにも量が少なく、わずかな賃金を飢えた腹を埋
めるのに使わなくてはいけなかった。そのため、とて
も寒い北海道の気温がさらに寒く感じられた。

白黒写真の3人は、一目で、とても幼い。実際彼ら

は、動員当時16~17歳の少年だった。姜サムボンと金
ヒョンスの陳述によれば、この写真は、輪西製鉄所に
到着して数か月も経たないころ、希望する訓練生だけ
を撮影したものであり、着ている服は訓練服という。
写真の中の三人がかぶっている帽子には日本製鉄株式
会社のマークがあり、特に呉ドグンの写真が鮮明だ。

日本製鉄株式会社のマーク

輪西製鉄所での呉ドグンの写真/

呉ジュファン(呉ドグンの子息)寄贈

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146 _ 写真で見る強制動員の話

1945年7月15日室蘭艦砲射撃と

朝鮮人犠牲者

室蘭市光昭寺に安置されていた犠牲者の遺骨/鄭サンドゥク(鄭英得の弟)提供

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 147

47) 前出『社史で見る日本経済史第 10 巻 日本製鉄株式会社史』170 ページ
48) 『遺骨の声に応える』、強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォ-ラム 2009年18ページ

鉄鋼業の都市の室蘭には、1943年に管理工場に指定さ

れた大工場、日本製鉄輪西製鉄所(愛国第251工場)と日本
製鋼所室蘭製鋼所(愛国第191工場)があった。戦時期米軍
は1945年7月14日と15日、二日間にかけて北海道と東北
地方の各地を空襲した。そして、武器製造工場がある室
蘭市は、米軍の重要攻撃目標になった。15日の艦砲射撃
では、約860発の砲弾が室蘭市の各工場や住宅を震わせ、
死亡者400人以上、負傷者150人、家屋破壊1,500戸以上、
工場被害が3か所などに及ぶほどその被害は激甚だった。

15日の艦砲射撃で主要標的になった輪西製鉄所もまた

人的、物的に大きな被害を受けた。製鉄所構内にだけで
労務者80人が死亡、21人が重軽傷、構外でも従業員と家
族を含む102人が死亡、31人が重軽傷を受けた。死亡者
182人の内訳は、職員・従業員75人、家族79人、学徒3
人、朝鮮人訓練生5人、港運関係7人などである。死亡者
のうち朝鮮人5人は、当時15歳から17歳の少年であり、
訓練生だった。47)

朝鮮人訓練生の死亡者のうち3人の遺骨は家族に渡され

ないまま、60年以上の長い時を室蘭市にある寺で眠ってい
た。そして北海道の市民団体の積極的な活動と当委員会の
遺族探しの努力で2008年2月に家族のもとへ帰った。48) 彼ら
の遺品と死亡関連資料も遺骨とともに家族へ渡された。
輪西製鉄所に動員されて、室蘭市爆撃で死亡した具然錫
と鄭英得の遺品と関連資料の一部をここに紹介する。

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148 _ 写真で見る強制動員の話

具然錫

具然錫の写真/具ヨンスン(具然錫の弟)提供

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 149

具然錫は 1943 年 4 月頃、慶尚南道泗川から輪西製鉄所に動員された。動

員当時、彼は 16 歳だった。具然錫は当時、初等学校を卒業した聡明な少年
だった。だが家の生活が苦しくなり、どうしようもなく日本製鉄株式会社の
募集に応じた。北海道の製鉄所に動員されたのち、具然錫は家族が心配する
だろうと、家へ手紙を送った。家族は手紙で、彼が汽車の信号手として働い
ていると知らされた。解放直前、彼の帰還を指折り数えて待っていた家族に、
具然錫が米軍の攻撃で死亡したという衝撃的な知らせが届いた。現在 77 歳
になる彼の弟は、兄の死亡の知らせが伝えられた当時の状況をこのように回
想した。「私はその時、あまりに幼くて死亡の知らせがどう伝えられたのか
よく覚えていません。兄の死亡の知らせを聞いて母が慟哭した場面を記憶し
ているだけです。近所に母のように徴用で息子を失ったおばさんがいました
が、うちに来て、母と一緒に慟哭しました。」

写真の裏側に、輪西製鉄所の住所と具然錫の
創氏名(都元榮治)などが書かれている。この裏
側を見れば、彼は「第5期協和訓練隊」の所属
だった。

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150 _ 写真で見る強制動員の話

手帳の題名は懐中日記。この手帳は具然錫が動員され、輪西製鉄所での生活を記録するなど、個人で使ったものと思われる。右側の写真は、手帳に
彼が直接描いたとみられる北海道地図である。

具然錫の手帳

具然錫の手帳/具ヨンスン(具然錫の弟)提供

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日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会

 _ 151

49) 第2次世界大戦と韓国戦争(6.25)で米国空軍が運用

した爆撃機。第2次世界大戦当時、主として日本本
土爆撃に投入され、広島・長崎の原子爆弾投下に
も使われた。

具然錫が室蘭空襲の警報状況について記録
を残した部分だ。6月末から7月初めの間の
5日間、室蘭地域の空襲について時間まで正
確に記録している。年度は記されていない。
だが、頻繁な空襲警報状況から、戦争末期の
1945年の記録とみられる。個人の短い記録か
ら、連合軍の艦砲射撃を前に、戦況の悪化に
巻き込まれていく輪西製鉄所の緊迫した状況
が感じられる。

内 容

6月26日 最初のB-2949)偵察
26日の夜明け方 B-29一機 津軽海面空襲 空襲警報発
令、室蘭地区 警戒警報発令せり

6月28日
28日午後12時半頃、B-29一機 北海道地区偵察

6月29日
29日午後12時半頃 B-29二機 偵察一機が室蘭上空旋
回中、防空情報により上空哨視せる所遂に発見せ
り。勇敢なる8重隊の砲術により見事命中せり。黒
煙を吐いて南洋の方へ遁走せり。防空情報によれ
ば、南洋へ遁走せり所遂に落下せり。

6月30日
30日午後12時半頃、B-29一機北海道地区偵察。
室蘭警報発令せり

7月3日
3日(ヨル)午後1時半頃、ふいに室蘭警報発令せり。
2時頃、空襲警報発令せり。

具然錫の手帳/具ヨンスン(具然錫の弟)提供

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152 _ 写真で見る強制動員の話

運輸従事員安全作業心得

表題は「運輸従事員安全作業心得」であり、運輸職業中に守るべき注意事項などを簡単に説明している。一種の業務指針書である。
表題の左側には「運輸部陸運課第一作業掛」と記している。
裏面には具然錫が自分の創氏名と所属(第2協和訓練隊)などを記載している。裏面の記載から具然錫が第2協和訓練隊に所属し、運輸部陸運課で運輸
職をしていたことが分かる。

運輸従事員安全作業心得の表紙と裏表紙/具ヨンスン(具然錫の弟)提供

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 153

「運輸従事員安全心得」の内容は、(1) 般関係、(2) 車の入換作業、(3) 轉轍器取扱作業、(4) 踏切道警備作業、(5) 貨物積卸用機械取扱作業、(6) 除雪作

業、で構成されており、各作業の注意事項が載っている。
写真は「運輸従事員安全作業心得」の 10 ~ 11 ページ。冬が長くて雪が降る北海道地域の特性のためか、除雪作業についての注意事項がある。

運輸従事員安全作業心得10~11ページ/具ヨンスン(具然錫の弟)提供

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154 _ 写真で見る強制動員の話

鄭英得

鄭英得は 1943 年 7 月頃動員された。家族の陳述によれば、本来、家の長男が動員の対象だったが、家計を担うため、

次男の鄭英得が代わりに動員に応じた。鄭英得の家族は、彼がどこへ動員されて何の仕事をするのか知ることができ
なかった。そうしたある日、鄭英得が死亡したという青天の霹靂の知らせが伝えられた。鄭英得がいつ、どこで、ど
のように死亡したのか詳しい経緯が伝わったのではなく、ただ北海道に動員された同郷人が、「炭鉱で死亡した」とい
う風聞を伝えただけだった。死亡に関する詳細なことは分からなかった。鄭英得の戸籍は結局、本籍地で死亡したと
記録された。それから長い時間が過ぎた。いつの間にか彼の兄弟・姉妹の頭が白髪で覆われたある日、北海道のある
寺から鄭英得の遺骨を保管しているという知らせが伝えられた。意外な消息に 80 歳を超えた彼の姉は、不自由な体に
もかかわらず、自ら弟に会うために哀しみの北海道へ向かった。

姉と一緒に兄の鄭英得に会うため、現場に駆けつけた鄭サンドゥクは 60 年ぶりに劇的に兄の遺骨を探した状況を説

明し、こう言った。「兄の遺骨箱に本籍地、住所が正確に書かれてあり、とてもよかった。だから故郷へ帰れた。日本
で死亡した沢山の強制動員犠牲者のうち、縁故が分からないで帰れない場合が多いというが、遺骨を探せない人たちは、
とても無念でしょう。」

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 155

3級工手任命状

上の証書は具然錫を操車工(列車の編成、線路交代または各両を連結する技能工)3級工手として、鄭英得を機械運転工3級工手に任命する任命状であ
る。証書の発給日は二人とも1945年7月15日で、これは二人が死亡した日付だ。そしてこの日は、室蘭市に大々的な艦砲射撃があった日だ。つま
り、この任命状が意味するのは、「輪西製鉄所」の「訓練生」だった二人が艦砲射撃で死亡したことを慰めるための一種の昇級処置と推定される。
この任命状を発行した「愛国第251工場」は、輪西製鉄所のもう一つの名前だが、当時は軍需工場の機密を維持するために工場の名前を数字で代用
した。

具然錫の3級工手任命状/具ヨンスン(具然錫の弟)提供

鄭英得の3級工手任命状/鄭サンドゥク(鄭英得の弟)提供

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156 _ 写真で見る強制動員の話

弔慰金封筒

写真は弔慰金が入っていた封筒で、それぞれ「第 2 協和寮生徒一同」と「製鋼部一同」と書かれている。「御香典」または「御香料」は、故人の死
亡を哀悼する「弔慰金」を意味する日本語だ。当時、室蘭艦砲射撃で死亡した具然錫と鄭英得の死を哀悼して同僚たちが所定の弔慰金を集めたもの
とみられる。弔慰金額が鉛筆で記されている。

具然錫の同僚たちが出した弔慰金の入った封筒/具ヨンスン(具

然錫の弟)提供

鄭英得の同僚たちが出した弔慰金の入った封筒/鄭サンドゥク

(鄭英得の弟)提供

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 157

解傭精算金の封筒

鄭英得の創氏名 ( 松田芳夫 ) が書かれている。「解傭精算」と赤印が押されている。鄭ヨンドゥクが死亡したので、事業所から解雇処理して賃金と各
種手当などを精算した文書だ。しかし、細部項目には記載がなく、当時封筒の表面には鉛筆で全体金額を記した跡がうっすらと見える。封筒表面に
書かれている「決死増産」、「規律厳守」、「防護強化」という文句から、戦争末期に増産態勢が強められ、防護に追われていた状況が感じられる。

解傭精算書封筒表面と裏側/鄭サンドゥク(鄭英得の弟)提供 

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158 _ 写真で見る強制動員の話

函館船渠株式会社

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日帝強制動員被害者支援財団

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• 北海道函館市所在
• 1896年函館船渠株式会社
• 1951年函館ドック株式会社
• 委員会申告件数:約10件

1896 年、函館船渠株式会社として函館で創業し、〔1940 年、室蘭
船渠を合併して室蘭造船所とした。〕1951 年に会社名を函館ドッ
ク株式会社へ変更して今日に至る〔現在名は函館どつく株式会社〕。
記録の不足で朝鮮人強制動員の規模と労働実態に関しては確認が
難しいが、1943年から1945年の間、函館船渠株式会社には約100
人の朝鮮人が動員されたものと推測される。1944年2月『北海道
新聞』には「青雲寮朝鮮人隊長以下工員130人が貯蓄目標を達成
した」という記事が載せられた。この記事だけでは、当時ここで
何人の朝鮮人が働いていたのかは推定できない。50)

50) 前出『北海道と朝鮮人労働者』165ページ.

函館

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160 _ 写真で見る強制動員の話

国民労務手帳

張錫鎬(チャン・ソッコ)の国民労務手帳 表紙と13~14ページ/張ネヨン(張錫鎬の子息)提供

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 161

51) 解傭欄には、室蘭造船所と記されている。
52) 労務手帳の構成の詳細は、本書の千歳飛行場工事(崔有達の労務手帳)参照。

日本厚生省から発給された張錫鎬の国民労務手帳だ。国民労務手帳には、

氏名と本籍地、住所、就業場所と移動状況、職名と技能程度、月給状況など
が詳細に記録されている。52)

写真の13~14ページには就業場所と就業期間を記録するようになってい

る。就業場所記入欄には函館船渠株式会社室蘭工場の住所が記されている。
使用者記入欄には工場長の名前が書かれている。また、使用開始日(1943年4
月21日)と解傭日(1945年4月7日)の記録から、張錫鎬が約2年間、この作業場
に動員されたことが分かる。

内 容

就 業 場 所: 室蘭市祝津町128番地 函館船渠株式会

社室蘭工場51)

使用開始日:昭和18年(1943年)4月21日
解 傭 日:昭和20年(1945年)4月7日

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162 _ 写真で見る強制動員の話

国民労務手帳

張錫鎬の国民労務手帳17~18ページ/張ネヨン(張錫鎬の子息)提供

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 163

写真の17~18ページには、職業名と技能程度が記載されている。手帳の

内容によれば、張錫鎬は函館船渠株式会社〔室蘭工場〕で船体用鋼材の2級
撓鉄工だった。

内 容

職 業 名:撓鉄工
作業内容:船体用鋼材撓鉄作業
技能程度:2級

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164 _ 写真で見る強制動員の話

私の故郷は忠南の洪城です。洪城で高等

学校を卒業後、技術を学ぼうとソウルへ向か
いました。ソウル阿峴(アヒョン)洞にある職業学
校で旋盤53)を学びました。1943年7月のある
日、私は瑞山に住んでいる兄に会おうと向
かいました。ところで、道を歩いていたら突
然、組織的に動員され、私は父母にも会えな
いまま、日本へ引っ張って行かれました。瑞
山で一緒に捕まった30~40人余の人たちと
一緒に北海道へ送られました。家族には後に
北海道に到着してから、手紙を書いて消息を
知らせました。

私は旋盤技術を学んでいたため、函館に

ある造船所へ送られました。引っ張って行か
れた人のうち、私一人だけが造船所に配置さ
れ、他の人たちはみな、散り散りに他の所へ
送られました。そこでは大きな電柱のような
ものを磨く仕事をしました。その電柱のよう
なものは軍艦をつくる材料のようでした。そ
こで働いている韓国人は何人もいませんでし
た。仕事中に周りを見回すと、みんな日本語
で話していました。私は学校で日本語を習っ
たので、それほど不便を感じませんでした。
仕事は夜遅くまでしましたが、まだ若かった
ので、何とか耐えられました。

趙炳春(チョ・ビョンチュン)

・1926 年忠清南道洪城郡出身
・1943 年 7 月、忠南 瑞山 ( ソサン ) に住む兄を訪問

しようとした途中で動員された。北海道の函館
船渠 ( 株 ) で旋盤作業をした。

・1944 年 8 月、満州の天寶山鉱山へ「転換配置」

されて鉄鉱石採取作業をした。

・1945 年 8 月、満州で解放を迎えて帰国 .

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

趙炳春の話

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 165

53) 各種金属素材を回転させて、研いだり削ったり穴を開けるのに使う工作機械.

船舶会社で働いていたある日、故郷から手紙が届き

ました。父親が危篤だという内容でした。その手紙を警
察署で見せて故郷へ帰らせてくれと言いました。そうす
ると警察署からひと月だけ行って来いと言って、「一時
帰鮮証明書」を出してくれました。その証明書をもって
ひと月の間、故郷へ行って父と会ってきました。私はそ
の時、人脈があり、帰国証を発給して貰えたのです。当
時、徴用に行った韓国人は、事情があっても、休暇を貰
って家に帰るのは簡単ではなかったのです。

それで一か月後にまた北海道に戻ってみると、私を

満州に送るというのです。詳しくは分かりませんが、会
社が送ったようです。私と韓国人の同僚何人かと一緒に
満州へ移動しました。満州へ行く道はとても遠かったで
す。北海道から日本本土の東京まで行って、韓国の釜山
へ来ました。そして釜山から汽車に乗って満州へ行きま
した。満州の天寶山鉱山という所で鉄鉱石を掘る仕事を
することになりました。そこは韓国人労務者が多くて、
韓国語を使いました。

鉱山で働いていたら解放になり、私たちの仕事も終

わりました。働いていた時は月給の一部だけくれて、今
は金がないからあとで残りをくれると言いましたが、受
け取れませんでした。強制で貯金させられた金もあるの
に、その金ももらえませんでした。すでに時が過ぎ、私
の記憶はあいまいですが、この資料に私がどこにいたの
か全部書いてあります。

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166 _ 写真で見る強制動員の話

辞令

趙炳春の辞令/趙炳春寄贈

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 167

趙炳春を機械職場本工員に任命するという辞令だ。函館船渠株式会社函館

工場が1943年7月11日発行した。辞令の中央上段に函館船渠株式会社のマー
クが描かれている。

内 容

標 題:辞令
発 行:函館船渠株式会社函館工場
発行日:昭和18年(1943年)7月11日

-   訓28番 川本炳春(趙炳春の創氏名)機械職場 本工員

を命す

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168 _ 写真で見る強制動員の話

趙炳春の一時帰鮮証明書/趙炳春 寄贈

一時帰鮮証明書

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 169

54) 守屋敬彦『戦時外国人強制連行関係資料集Ⅲ朝鮮人2下』1991年(1273~1274ページ、2106ページ)

1943年11月27日、函館警察署が発給した一時帰鮮証明書である。右側に

は趙炳春の証明写真が付着している。左側には本籍地住所、氏名、生年月
日、現住所など、彼の人的事項が詳細に記載されている。帰鮮用務欄には、
「故郷の父が危篤のため」と理由が書かれている。趙炳春本人も、「故郷か
らの父が危篤だという手紙が届いて、その手紙を警察署で見せて故郷に戻れ
るようにと言ったら、警察署がひと月だけ戻って来いと言って一時帰鮮証明
書を作ってくれた」と陳述した。

強制動員された人は特別に認定される事由がない限り、故郷の土を踏むの

が簡単ではなかった。当事者が病気で労働能力を喪失したり、会社側から不
良労働者として判定された場合には帰還が許されるが、家族の死亡、病気、
本人の結婚などの事由である場合には一時帰還が許容されるだけだった。一
時帰還した者がこれを利用して作業場に復帰しないことを憂慮して会社は、
「一時帰鮮」理由を厳格に統制した。

他方、北海道紋別市にある鴻之舞鉱山の場合、強制動員された者の「一時

帰鮮」は次の通り行われた。「一時帰鮮」のためには、強制動員された者の
故郷からその理由を電報で会社側に知らせなくてはいけない。電報を受取っ
た会社側はその内容が信頼できる電報なのか確認するために強制動員された
ものの故郷所在の警察署へ電報内容を送付する。電報内容が確実だとする連
絡が会社側に伝達されれば、会社は寮の主事に該当労働者の日常動向を調査
して(報告を)提出させる。報告書を検討した会社は最後に本人から必ず戻っ
てくるという誓約書を受け取って手続きを終える。54)

これは鴻之舞鉱山の当時の事例から確認されたものだ。他の作業場の「一

時帰鮮」の手続きは、これと大きく違わないと思われる。趙炳春もやはり、
故郷から父が危篤だという手紙を警察署と会社に提出し、許可を受けた後に
一時帰還できた。証明書には、個人の詳細な人的事項と事業所に関する情報
が記載され、「一時帰鮮」者の写真が貼付されている。この資料から、「一時
帰鮮」が徹底した統制の下でなされていたことを知ることができる。

内 容

本  籍:忠清南道 洪城郡○○面○○里
住  所:函館市新浜町32番地
職  業:機械
名  前:川本炳春(創氏名)
生年月日:大正15年(1926年)○月○日
雇 用 主:函館市新浜町32番地函館船渠株式会社
行 先 地:本籍地
帰鮮用務:故郷の父が危篤のため

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170 _ 写真で見る強制動員の話

編集後記

北海道と朝鮮人強制動員

1. 開拓の地・北海道

一年の半分が雪と氷に包まれている日本最北端の島、北海道の歴史はまさに開拓の歴史だ

といえる。この島にはもともとアイヌ民族と言う先住民族が独自の生活文化を築いて生活し
ていたが、1869 年、明治政府が「蝦夷地」という地名を北海道に改称し、本格的な開拓事業
を始めた。未開地の土地に大量の移住民が入って来て鉄道、道路、港湾などを建設したが、
このような開発工事には囚人や「タコ」と呼ばれる労働者たちが過酷な強制労働により、犠
牲になった。

北海道の開拓過程でなされた強制動員、強制労働は第2次世界大戦当時、日帝の植民地支配

下にあった朝鮮人にも影響を与えた。北海道に引っ張ってこられた朝鮮人で、土木工事場に
動員された人たちは「タコ部屋」という人身拘束の宿舎に監禁され、厳しい監視と殴打の中
で過酷な労働に呻吟しなければならなかった。

2.北海道に強制動員された最初の朝鮮人

北海道に朝鮮人が最初に強制動員されたのは1939年10月だ。1939年10月4日付の「北海タ

イムス」(現「北海道新聞」の前身)の記事には次のように出ている。

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 171

玄界灘の波濤を越えて三昼夜、道庁職業課の斡旋によって戦時下の労力飢饉に悩む本道へ厚生

省の労務動員計画の先発隊として遥々駆付けてきた救護部隊半島人の李○○以下340名は、長途
の航海の疲労の色も見せず元気一杯午後3時半小樽市島谷汽船の長成丸で函館に入港した。/朝鮮
服、背広、ナッパ服とりどりの服装で甲板からのび出して居る銃後の戦士たちは、港内の風景に
奇異の眼をみはり不安さうな面もちだ。併し日灼けてがっちりした体格は如何なる労働にも堪え
得る力強さを思わせて頼もしい。

強制動員はその動員方式によって募集、斡旋、徴用に区分されるが、時期的な区分はあっ

ても、強制性にはそれほどの差異はない。日帝は1939年から1945年まで、この三つの方法を
混用して朝鮮人を強制動員した。ここでの「募集」を個人の自由意思による純粋な志願とみ
て、強制動員の範疇に入るのかと疑問が提示されることもある。しかしこの「募集」とは、
1938年4月に制定された「国家総動員法」と1939年7月の「国民徴用令」などの関係法令を根
拠に日本政府が実施した「労務動員計画」政策によって行われたものであり、強制動員の範
疇に当然、含まれる概念だ。上の新聞記事にも1939年10月、北海道に最初に入った朝鮮人労
務者たちは、「道庁職業課の斡旋で来た厚生省の労務動員計画の先発隊」とある。これは当
時、朝鮮で行われた「募集」が、企業が行う純粋な「募集」でなく、国家政策による強制動
員であることを示している。

3. 北海道労務動員の規模

記録によれば、強制動員が始まる前の1938年、北海道居住の朝鮮人数は1万2000人ほどだ

った。同じ時期、日本全国(約80万人)に比べれば1.5%に該当する少ない数だ。それが1945年
には約11万人に急増し、1938年に比して約9倍の伸び率をみせている。いわゆる強制動員期の
1939年から1945年の間に多数の朝鮮人が北海道に動員されたのである。実際、1946年5月5日
付でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が作成した報告書にも「終戦時、北海道にいる10万
8400人の朝鮮人はほとんど奴隷労働に近い状況だった」と記録されており、上の規模と大同
小異である。解放直後の北海道地域の朝鮮人居住者11万人と、1945年以前に契約期間満了や
負傷などの理由で帰還した者、動員中の死亡者などをすべて合計すれば、北海道地域の朝鮮

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172 _ 写真で見る強制動員の話

人強制動員規模は約15万人と推定される。

これら15万に達する朝鮮人たちはアジア太平洋戦争当時、労働力不足が深刻だった北海道

各地域の炭鉱・鉱山、飛行場工事、鉄道工事、軍需会社などの作業場に強制動員された。特
に北海道は石炭産業が盛んであり、この炭鉱に数多くの朝鮮人が動員された。1944年には北
海道地域の炭鉱での朝鮮人労務者数は全体炭鉱労務者の40%を占め、戦争末期には3/4に
近づくに至った。

4.北海道に動員された朝鮮人労務者の生活

北海道地域は当時、朝鮮でも動員を避けたい地域だった。その理由は日本の最北端に位置

しており、距離的に朝鮮から遠く、寒冷地であり生活しにくいこと、そして炭鉱が多くて労
働が辛く危険だということが経験者を通じて知られていたためだ。特に村から北海道に動員
されて遺骨で帰った人が一人でもいれば、より深刻な状況だった。

実際、北海道への道のりは遠くて辛い旅だった。各村で割り当てられて集まった朝鮮人

は、郡に集合し、集団で釜山(または麗水)へ移送された。釜関連絡船に乗るためだった。連絡
船で日本の下関に到着した朝鮮人は直ちに列車に乗り換え、日本本土末端の青森に送られ、
そこでまた船に乗り換え、北海道に着く。北海道ではまた汽車やトラックで作業場のある所
へ向かった。その期間だけで平均一週間、長ければ半月もかかった。移動中、徹底した監視
が伴ったことはいうまでもない。

作業場に到着した朝鮮人たちは所定の訓練期間を終えて現場に投入された。炭鉱の場合、

到着後1~3日間の神社参拝、身体検査などの各種検査、坑内外の見学があった。炭鉱労働は
相当期間の訓練が必要だが、至急に労働力が求められた所では3~4日程度の訓練で朝鮮人労
働者が現場に投入され、場合によっては到着した次の日に作業に投入され、現場で訓練を受
けることもあった。朝鮮人たちは大概、危険度が高い坑内夫として配置された。戦時期の北
海道地域では、炭鉱坑内夫の62%が朝鮮人となり、ある作業場では80%に達するところもあ
った。労働は主として二交替でなされ、この時の労働時間は普通9~10時間である。しかし
「ノルマ」という個人に割り当てられた量を全部満たすことで坑外に出られるので、作業時
間は10時間をはるかに上回ったことが知られている。

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 173

賃金は各作業所ごとに違いがあるが、炭鉱・鉱山の場合、月平均35~45円程度に規定され

ていた。しかし朝鮮人労務者の手に実際に入るお金は幾らにもならなかった。宿食費、用品
貸与費、軍事貯蓄などの各種貯蓄、家族に送金する名目などで大部分の賃金が控除されるか
らだ。強制貯蓄と若干の現金は、朝鮮人労務者の脱出を未然に防止する手段として広く使わ
れた。また、解放されても、貯蓄された賃金分は朝鮮人労務者に返されなかった。帰還後も
貯蓄した賃金が貰えなかったと無念を訴える生存者が多い。

増産のために労働力の増強が求められた時期に、労務者の脱走は会社側に大きな損失であ

った。労務者の離脱を防止するために、会社は契約期間満了者に再契約を強要したり、朝鮮
にいる家族を日本へ呼び寄せる政策を行ないもした。だが脱出者を防げなかった。脱出を試
みて失敗した時には、「見せしめ」のために仮借のないリンチと過酷な行為が加えられた。
動員された人びとは「坑の中でいつ死ぬか分からないし、腹が余りにも減るからまた逃げ
る」という。しかし、幾重に連なった山中に、雪で孤立した作業場から脱出を試みるのは簡
単ではない。それゆえ、比較的人口密度が高く市街地もある福岡地域は、朝鮮人の脱出率が
50%を超えるが、その半面、北海道はわずか20%に過ぎない。

強制動員された労務者が堪えられなかったのは、飢えだった。「飯を十分くれたら働くけど、

腹が減って仕事ができない」、「米飯はお目にかかるのが難しい。豆かす、ジャガイモの潰し
たものが主に出てきた。」と言う生存者の陳述が数多く登場する。特異なことは、海産物が豊
富な地域であることから、ニシンのような魚がよく出されたようだ。しかしそれは労務者の
飢えた腹を満たす量ではなかった。

5.北海道と朝鮮人犠牲者

北海道に強制動員されて、生きて帰れなかった人も多い。戦時期、北海道の炭鉱で死亡し

た朝鮮人は、文書などで確認されただけでも1200人余りになる。鉱山や土木作業場での死亡
者を合わせれば、2000人を超える。大小の事故以外に、寒さで凍死したり、衛生的でない環
境で伝染病にかかったケース、栄養失調と各種疾病で死亡するケースも多い。死因からは、
殴打が疑われるケースもある。

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174 _ 写真で見る強制動員の話

朝鮮人労務者 業種別死亡原因

( )内は%

原因

炭鉱

鉱山

土木建設

工業 他

事故死

489人(83.7)

43(41.7)

35(13.1)

2(3.1)

変死

27(4.6)

6(5.8)

22(8.3)

11(17.2)

病死

68(11.7)

53(51.5)

209(78.6)

51(79.7)

戦死

1(1.0)

小計

584(100)

103(100)

266(100)

64(100)

不明

673

7

184

134

合計

1,257

110

450

198

・出典:『北海道と朝鮮人労働者―朝鮮人強制連行実態調査報告書』P.258

朝鮮人死亡者数は、同じ時期の日本人を含む北海道地域で死亡した労務者(3500人余)の過

半数以上を占める。これは朝鮮人が日本人よりもさらに危険な作業現場に配置される場合が
多く、劣悪な環境、過酷な労働などに晒されたことによるものと判断される。死亡した朝鮮
人に対しては、適法な手続きに従って、葬式を行ない、遺骨が奉還されるべきだった。しか
し、まだ北海道に眠っている朝鮮人の遺骨が確認されただけで200体余りに達する。それほど
に適切な処置がなされないケースが多かった。また、死亡通知、補償金や慰労金などが支給
されたのか否かが、明確でないケースが多い。

記憶の現実化を目指した小さな歩み

以前、ある放送局で諜報要員を題材にしたドラマが放映されたとき、日本の秋田県が人気

観光地に浮上したことがあった。撮影場所が秋田県というだけで、一躍、人気の観光地に急
浮上したのである。秋田県は韓国人観光客の急増により、航空機便数を増設したが、座席を
確保するのが容易ではなかった。だが、観光を終えて来た人たちやドラマを見た人たちの中で、
ドラマの男女主人公のデートシーンで有名な田沢湖、導水路とその周辺の水力発電所の建設
に、朝鮮人が強制動員されたことを知る人はほとんどいない。

日本映画「ラブレター」で、女性主人公が白い雪原に向かって「お元気ですか?」と叫ぶ

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 175

シーンは韓国でもとても有名だ。日本語を知らない人たちまで当時、「お元気ですか?」と叫
んで歩くほど、この映画は韓国で日本文化に馴染むきっかけになった。この映画「ラブレター」
の背景になった場所は、まさに北海道だ。世界三大雪祭りで有名な「さっぽろ雪まつり」、温
泉、スキー場、山と海など、美しい自然を誇る北海道は誰でも一度は行ってみたい観光名所
のひとつだ。このように美しい北海道がアジア太平洋戦争当時には強制動員の代表的な地域
だったことを知る人は多くないだろう。多数の朝鮮人が強制動員された北海道の炭鉱は廃坑
後、スキー場などの観光地に開発され、多くの観光客を誘致している。皮肉なことに、私た
ちが観光を楽しむ空間が、他の誰かにはつらい記憶の空間であることもある。限りなく広が
って自ずと感嘆を編み出す白い雪原が、他の誰かには「酷い雪の記憶」になることもあるのだ。

「ラブレター」で、男女の主人公の愛の媒介になる本がある。「マルセル・プルースト」の『失

われた時間を求めて』だ。学窓時代の失った記憶が、一冊の本を通じて現実の中に甦

よみがえ

る。日

帝強占期に祖国を失い、生活の基盤を失い、10 代、20 代の若い時に故郷を離れ、苦痛の生活
を送った強制動員被害者たちにとって、その時期は人生での「失われた時間」になるのかも
知れない。たとえ当時の逆境を克服したとしても、その時間は思い出すことのできない「失
われた時間」になっているのかも知れない。

人間の眠り込ませた記憶は、ある媒体が生じたときに、よりよく甦る。記憶として留まっ

ていたことが、一つの物体を通じて具体化、形象化するものである。「失われた時間を求めて」
という一冊の本が女主人公の愛を探し与えたように、記録、写真、博物類などの資料は強制
動員に関する「記憶の現実化」を引き出すのに、このうえない良い材料になっている。

「記憶の現実化」は記憶の共有化につながることができる。ある生存者は北海道までの大変

な旅路を、「アホモリを越えて北海道へ行った」と言った。ある生存者は本人が働いた作業場
の名前を「北海道コンチグン、オリバル炭田」と被害申告書に記載した。これら生存者たち
の記憶が陳述を通じて現実化され、その内容は私たちに「青森を通って北海道へ行った」へ、

「北

海道空知郡大夕張炭鉱」へと共有されるのである。

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176 _ 写真で見る強制動員の話

本資料集作成のため、生存者の尹永旭(ユン・ヨンウク)と会ってインタビューをした時のことだ。

「お爺さん、日本から持ってこられた資料はありますか?」と尋ねると、そんなものはない
と言った。「何で日本からの紙の切れ端もないのですか?」と反問すると、「あ…切れ端はあ
るだろう」と言いながら上着からノソノソと資料を取り出した。「これは会社に到着して、自
分らに、服や布団などをくれた時の紙だが、これらを自分の月給からみんな返さなきゃいけ
ないというものだが、返すのがとてつもなくシンドかった」と言われた。お爺さんが出した
紙は、「借用証」と書かれている資料で、生存当事者が記憶するように、労務者に必要な物品
を支給して、その金額を月給から控除するという内容が記載されている文書だった。所有者
がたかが紙切れと思っていたこの資料は、当時の企業が朝鮮人労務者をどんな風に管理して
いたのかの一端を示す資料だったのだ。

取るに足りないような一枚の紙が重要であり、歴史的な真実を含んでいる場合がある。写

真資料は対象をそのまま再現しているが、そのものよりも、その内容を解釈することが重要
だ。たとえ一カットに過ぎない写真でも、被写体に内包されている強制動員の意味を捉える
ことが、この資料集の重要な目的だといえる。また、当時の写真、文書類などを通じて、過
去60年余の間、死蔵されてきた被害者の記憶が、忽然と社会の表面に現れ、新しい価値で評
価され、歴史的な照明を受けるという点で、大きな意味があるだろう。

和解の空間・北海道でなされる記憶の伝承

2009年10月、北海道東川町に住んでいる住民たちが韓国を訪問した。彼らが住んでいる村

には、戦時期朝鮮人が建設した水力発電所と貯水池がある。低水温で稲作ができなかったこ
の地域は、遊水池建設で稲作に適した水温維持が可能になり、以降、豊かな収穫と潤沢な生
活が可能になったという。彼らは韓国を訪問して、長い間、心にたまっていた心境を強制動
員被害者に伝えた。「あなたたちが作ってくれたダムと貯水池のお陰で、私たちが今おいしい
コメを作り、豊かに住んでいます。感謝し、申し訳ありません」。強制動員被害の生存者も、
当時苦労したことを癒されて、目頭を熱くした。

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 177

北海道最北端に位置する静まり返った漁村、猿払村では 2005 年から朝鮮人強制動員被害者

の遺骨を発掘する作業が行われている。地域住民、北海道地域の市民団体、韓国・日本の青年、
ボランティア、アイヌ民族など、数百人が参加して朝鮮人強制動員の実態を明らかにし、犠
牲者を追慕する行事を行っている。

北海道はこのように、強制動員真相究明のための地域住民の関心と活動が活発な所だ。強制

動員真相究明に対する熱意は、単に地域住民にだけ限られたものではない。すでに北海道庁の
主管で『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』が1999年に発刊されてい
る。そして最近では、地方自治体も朝鮮人強制動員についての調査を公式的に表明し、実態調
査に着手している。過去、北海道は沢山の朝鮮人が動員され、酷い労務管理で有名な地域であ
るが、現在は過去を反省し、どこの地域よりも真相究明に積極的な所になっている。

しかしまだ解決されるべき問題は多く残っている。朝鮮人労務者の未払金・供託金問題、

遺骨奉還問題、適切な補償と責任問題、もちろんその前に当然なされるべき本当の謝罪問題
など、そして強制動員が歴然と存在したという認識とその拡散。今回発刊する資料集が、後
者の認識を拡散させる契機の第一歩になることを望む。そうして被害者当事者、家族が大切
にしまっていた一介の紙切れに過ぎないかも知れない一枚の文書、一枚の写真が、失われた
過去の記憶を想起させ、自らの父を回顧し、その経験を共有し、この時代を生きる私たちを、
振り返らせる契機になればと思う。

一枚の写真の中から被害者たちの痛みを共有して歴史を理解できることを、北海道地域が

記憶の伝承、相生の空間に生まれ変わることができることを、そしてこのような努力が強制
動員被害の真相究明の礎石になっていくことを望む。

〈調査3課 河承賢〉

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178 _ 写真で見る強制動員の話

- 寄贈者と提供者名順 -

資料索引

144  姜サムボン 

輪西製鉄所で撮影した姜サムボンの写真

75  姜ソンガップ  北海道苦楽歌

156  具ヨンスン 

具然錫の同僚たちが弔慰金を包んだ用紙

148  具ヨンスン 

具然錫の写真

150  具ヨンスン 

具然錫の懐中日記

152  具ヨンスン 

具然錫 運輸従事員安全作業心得

155  具ヨンスン 

具然錫 3 級工手 任命状

130  金ギョンヒ 

同僚たちと一緒に撮影した金ヨンチョルの写真

128  金ギョンヒ 

北海道雨竜川発電所工事産業記念撮影

40  金ドゥシク 

金ドゥシクの写真

41  金ドゥシク 

金ドゥシクの写真〈愛情の親友 送別の記念〉

20  金セギュン 

徴用告知書

24  金ヨンソク 

診察券

70  金鍾培 

金鍾培の写真

68  金鍾培 

美唄炭砿で撮影した金鍾培の団体写真 〈瀬戸勤労報国隊誠心寮隣保班精勤競争優勝記念〉

144  金ヒョンス 

輪西製鉄所で撮影した金ヒョンスの写真

80  馬ドンワン 

置戸鉱山で撮影した馬ジョムスの団体写真

83  馬ドンワン 

置戸鉱山で撮影した馬ジョムスの写真

82  馬ドンワン 

馬ジョムスの写真

32  朴ギョンヒ 

幌内鉱業所で撮影した朴ドンマンの団体写真 〈昭和 17 年度幌内鉱業所協和寮炭稼競争優勝記念〉

94  朴ギルジン 

家族扶助料 支給明細書

23  朴鍾成 

給与明細書

22  朴鍾成 

従業員証

44  朴ヘジン 

死亡関連文書

134  徐ソクスン 

協和会会員章

116  申ジョンシク  表彰状

109  申鉉大  

申鉉大の写真

145  呉ジュファン  輪西製鉄所で撮影した呉ドグンの写真

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 179

64  ユギイル 

賞状

48  尹秉烈 ( ユン ・ ビョンニョル ) 

神威炭砿で撮影した尹秉烈の写真

56  尹秉烈 

カバン

52  尹秉烈 

決戦増産手当給与通知書

49  尹秉烈 

帰国時期に撮影した尹秉烈の同僚たちの写真

54  尹秉烈 

給与明細書

51  尹秉烈 

〈ハガキ〉

50  尹秉烈 

〈手紙〉

53  尹秉烈 

特殊郵便物受領証

102  尹永旭 ( ユン ・ ヨンウク )  赤十字社員証

100  尹永旭 

借用証

28  李ヨング 

負傷証明書

86  李ワンスル 

茅沼炭鉱で撮影した李泰仲の団体写真

36  李ヒョング 

李ヒョングの写真

160  張ネヨン 

国民労務手帳

124  全愚植 

死亡診断書

125  全愚植 

全愚植の写真

146  鄭サンドゥク  室蘭市光昭寺に安置されていた犠牲者たちの遺骨の写真

155  鄭サンドゥク  3 級工手 任命書

156  鄭サンドゥク  鄭英得の同僚たちが弔慰金を包んだ用紙

157  鄭サンドゥク  解傭精算金の封筒

74  鄭スナム 

大夕張鉱業所 慶尚北道英陽隊一同の写真

166  趙炳春 

辞令

168  趙炳春 

一時帰鮮証明書

90  朱龍根 

朱龍根の写真

118  崔サンドン 

国民労務手帳

60  崔ユニョン 

三井新美唄炭砿 済州島労務隊 1 周年記念

61  崔ユニョン 

新美唄炭砿で撮影した崔テウクの写真

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180 _ 写真で見る強制動員の話

 企業·地名·用語索引


神威炭砿  43, 45, 46, 51, 53 
上ノ国町  93 
鹿島市  74
萱沼炭鉱  85, 88, 89
川口組  121 
鴻之舞鉱山  17, 169 
光昭寺  146
組  113, 123  
国家総動員法  21, 171
軍需会社法  21
勤労報国隊  9
釧路市  97, 105
釧路炭田  97, 105, 107, 109, 110
木古内町  133


名古屋  66
鯰田炭鉱  98, 99
野村鉱業株式会社  17, 79, 81
登川炭鉱  27


竪坑  63
タコ部屋  67, 71, 89, 107, 110, 112, 123, 170
丹野組  121, 125
泊村  85
飛島組  127
常呂郡  79, 81
寮  25, 69, 169


松前町  137, 139
松前線  133, 139
室蘭  12, 141, 143, 146, 151, 156
三井鉱山株式会社  17, 59, 60, 105, 106, 108, 110
三菱鉱業株式会社  17, 63, 65, 66, 69, 73, 75, 97, 98, 105
三笠市  31, 35


奉公寮  87
美唄市  59, 63
美唄鉱業所  59, 63, 65, 66,67, 69

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 181


猿払村  121
誠心寮  68, 69
瀬戸市  66, 69
空知郡  43, 45, 51
宗谷郡  121
昭和鉱業株式会社  35
朱鞠内  127
菅原組  127
住友鉱業株式会社  17
通洞坑 63
下関  172
新美唄炭砿  60, 61
新日本製鉄株式会社  143
新幌内鉱業所  37, 38, 40


浅茅野飛行場  121, 122, 123, 124, 125
愛知県  69
阿寒町  97
八幡製鉄所  143
大夕張鉱業所  63, 73, 74, 75, 178
王子製紙株式会社  115
置戸鉱山  79, 81
置戸町  79
輪西製鉄所  12, 141, 143, 145, 149, 151
雨竜鉱業所  17
雨竜郡  127
雨竜ダム  127, 129
雨竜電力株式会社  115, 117
歌志内町  45, 51
夕張市  19, 27, 73
夕張鉱業所  19, 21, 27, 59
雄別炭鉱  98, 105
雄別炭鉱鉄道株式会社  96
イトムカ鉱山 17
日本製鉄株式会社  143
一心寮  63

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182 _ 写真で見る強制動員の話


帝国砂白金  17
中外鉱業株式会社  93
地崎組  115
地下足袋  61, 66, 131
千歳飛行場  115, 117, 119
千歳町  119
上国鉱業所  93, 95


鉄道工業株式会社  122
青雲量  159
清真寮  25
親和寮  74


キャップランプ  69


浜鬼志別  121
浜頓別町  121, 125
函館  77, 159, 164, 167, 169, 171
函館船渠株式会社  158, 159, 161, 163, 167, 169
鳩ケ丘第1協和寮  51, 52
飯場  25, 49, 71, 89, 98, 99, 101, 107, 113
艦砲射撃  12, 146, 147, 151, 155, 156
平和鉱業所  19, 26, 27, 29
現員徴用  21
協和寮  9, 25, 31, 32, 33, 51, 52, 60, 61, 107, 110, 148
協和會  10, 134, 135, 136, 137, 138, 139
幌内鉱業所  19, 31, 32, 33, 35
幌加内町  126
堀内組  137, 139
北海道炭礦汽船株式会社   17, 19, 21, 22, 24, 27, 29, 31, 33,  

35, 38, 40, 43, 45, 46, 143

古宇郡  85
福岡県  98, 99, 106, 108, 110, 143
桧山郡  93


B-29  151

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日本語版(2020)

企画 · 発行  日帝強制動員被害者支援財団

日本語翻訳  日本語翻訳協力委員会
 

 

日本語訳: 権龍夫, 地名・人名等校訂: 竹内康人

最終監修 

玄明喆  |  mchyun79@hanmail.net

 

 

 

韓日関係史学会 会長. 北海道大学博士(Ph.D)

 

 

 

韓日歴史共同研究委員会委員

 

 

 

主要著書:《明治維新初期の朝鮮侵略論》,

 

 

 

《19世紀後半の対馬州と日韓関係》

韓国語版(2009)

編著   

日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会

企画   

許光茂

構成   

河承賢

責任編集 

尹智炫

原稿作成 

河承賢、尹智炫

編集校正 

許光茂、河承賢、尹智炫

資料収集 

 李テヒ、河承賢、李宣姈、金ジンスク、尹智炫、羅ヘミ、姜ユミ、

 

 

調査2課 記録管理チーム

出版参加者

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発 刊 登 録 番 号

11-B553448-000033-01

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本図録に収録された一部の遺物は、

財団法人日帝強制動員被害者支援財団が運営している

「国立日帝強制動員歴史館」( 釜山広域市南区 . 2015 年開館 ) で

展示しています。

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写真で見る

強制動員の話

日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会 | 編
日帝強制動員被害者支援財団・日本語翻訳協力委員会 | 訳

発 刊 登 録 番 号

11-B553448-000033-01

日帝強制動員被害者支援財団

- 日本・北海道編 -

日帝強制動員被害者支援財団 
翻訳叢書  7  図録

初版 1 刷 印刷 

2020 年 12 月 21 日

初版 1 刷 発行 

2020 年 12 月 21 日

韓国語版編著 

日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会

韓国語版発行 

2009 年 12 月 31 日

日本語版発行人

金容徳

日本語版発行処

日帝強制動員被害者支援財団

 

 

ソウル特別市鐘路区鐘路ギル 42 利馬ビル 6 階

 

 

http://www.ilje.or.kr

翻訳 

日本語翻訳協力委員会

日本語訳 :権龍夫 ,地名・人名等校訂 :竹内康人

最終監修

玄明喆 ( 韓日関係史学会会長 )

発刊登録番号

11-B553448-000033-01

編集・印刷

希望コミュニケーションズ

本書の全部または一部を無断で複写複製 ( コピー ) することは、
著作権法上での例外を除き、禁じられています。

写真で見る強制動員の話
- 日本・北海道編 -

日帝強制動員被害者支援財団 翻訳叢書  7  図録

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日帝強制動員被害者支援財団

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2 _ 写真で見る強制動員の話

発刊の辞(日本語版)

財団法人日帝強制動員被害者支援財団は、国内外から多くのご関心

とご声援をいただき、今年も5冊の強制動員関連の本を翻訳・発行す
ることになりました。2019年に引き続き、2年目の今年も進めている
出版事業は、日本現地の「強制動員真相究明ネットワーク-日本語翻訳
協力委員会」の関係者の方々と国内関連分野の研究者の方々の惜しみ
ないご尽力、愛情によって編み出された成果だと言えるでしょう。

2020年に発行される5冊の本は、旧委員会(日帝強占下強制動員被害

真相糾明委員会・対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲

者等支援委員会)から出された強制動員被害調査報告書と口述記録集、そして遺物図録の日本語版
です。日本語訳は去年から本財団と協力してきた日本現地の「日本語翻訳協力委員会」の関係者
の方々のご協力を得て作業が行われ、以降国内学界の研究グループの方々の監修で貴重な原稿が
整いました。日本と韓国で長い間活動して来られた研究者の方々、活動家、翻訳家の方々の惜し
みないご尽力に心より感謝申し上げます。

今回、発行される旧委員会報告書2冊は、中西南太平洋地域強制動員被害真相調査報告書であ

る「南洋群島への朝鮮人労務者強制動員実態調査 1939~1941」(2009)と長崎所在の海底炭鉱被害
実態調査報告書である「端島炭鉱での強制動員朝鮮人死亡者実態調査」(2012)です。また、広島
・長崎地域の強制動員と原爆被害者の口述を載せた「我が身に刻まれた8月」(2008)と旧委員会
の唯一の日本軍「慰安婦」の口述記録集である「聞こえてる? 日本軍「慰安婦」12人の少女の
物語」(2013)の日本語版も長い議論と陣痛の末、発行の運びとなりました。最後に、日本の北海
道地域の強制動員被害者の寄贈遺物と資料などを載せた「写真で見る強制動員の話-日本・北海道
編」(2009)の発行を通じて、財団が委託・運営している「国立日帝強制動員歴史館」(釜山広域市
南区所在)の所蔵資料の一部を皆さんにご紹介できることは一層有意なことだと思います。

旧委員会の解散後中断していた事業が、このように財団を通じて事業として引き継がれ、そのう

え、強制動員分野の国内外の研究に多少なりとも役立つことができれば、より一層嬉しいことで
す。財団のこれらの事業に今後も多くのご関心とご声援をお願い申し上げるとともに、財団として
も、今後、強制動員の分野の様々な研究報告書や学術資料、テキストの編集に努力を惜しまないこ
とを約束いたします。また、強制動員関連の研究成果が、韓国と日本を越えてアジア全域とアメリ
カ、欧州など世界中に拡大できるよう、引き続き、ご関心とご支援をお願いいたします。

ありがとうございます。

2020年12月21日

財団法人日帝強制動員被害者支援財団

理事長  金容德 

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日帝強制動員被害者支援財団

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4 _ 写真で見る強制動員の話

発刊の辞(韓国語版)

日本の北海道地域に関する口述記録集とともに、本写真集を同時に発刊できることは誠に意義

深いと考えます。口述記録集が被害生存者本人の肉声を通じて強制動員の実情を伝えているな
ら、本写真集は写真と文章、博物類などを通じて皆様方を当時の現場へ案内するでしょう。写真
資料集と口述記録集を交互に読みすすめることで、北海道で起きた強制動員の実態が自ずから浮
かびあがることを期待します。

写真資料集発刊に至るまで実に多くの方たちの協力がありました。解放後60年余りが過ぎた現

在も、大切にしまっていた色あせた写真、過去の逆境を思い出させる手帳や切実な内容のハガキ
などの資料は、被害当事者やその家族が、被害申告書とともに委員会に提出したものです。

ご存じのように北海道は日本有数の炭鉱・鉱山の地であり、アジア太平洋戦争時、数多くの朝

鮮人が日本帝国の戦争遂行のために動員された所です。北海道だけでもその数は実に15万人余り
に達しました。その方たちすべてが委員会に申告したのではありませんが、多くの方たちが強制
動員の真相究明に参加してくれました。こうして集まった資料は、記録担当班がひとつひとつを
大切に管理していました。これらの資料は、生存者たちの証言に劣らず、多くのことを伝えるも
のです。一枚の写真であっても、その中にはたくさんの人たちの物語が、歴史がびっしりと染み
込んでいます。私たちはこの資料に込められたメッセージを委員会の書庫に眠らせることはでき

ないと判断し、皆様との大切な出会いがなされるようにと本資料集を準備しました。それが資料
を提供した関係者の意思でもあると考えました。この大切な資料が国内外の多くの方々と共有さ
れることで、強制動員の真相を知らせる一助になると確信します。

唯一残っている父親の痕跡だと、長い年月の間しまっていた古い写真一枚を手に持ち、しばら

く言葉が無かった老年の紳士、労務手帳を探しだし、たくさんの資料を保管できていなくてすま
ないと残念がった遺族の心、それらをそのまま次世代に残したい。それができれば、この資料集
を準備した私たちにとって、これ以上の喜びはありません。資料使用を快く受け入れてくれた皆
様に、この場を借りて深く感謝します。紙面の制限で、提供資料すべての紹介ができなかったこ
とをご了解ください。ほかの機会に紹介することを約束します。

2009年12月

国務総理所属・日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会

委員長  金龍鳳

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日帝強制動員被害者支援財団

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6 _ 写真で見る強制動員の話

目次

炭鉱・金属鉱山編

土木工事場編

軍需工場編

発刊の辞(日本語版)
発刊の辞(韓国語版)
目次
解題
凡例

北海道炭礦汽船(株) 夕張鉱業所
北海道炭礦汽船(株) 平和鉱業所 平和炭鉱 
北海道炭礦汽船(株) 幌内鉱業所  
北海道炭礦汽船(株) 新幌内鉱業所
生存者に直接聞く写真の話―金斗植談
北海道炭礦汽船(株) 空知鉱業所 神威炭鉱  
生存者に直接聞く写真の話―尹秉烈談
三井鉱山(株) 新美唄炭鉱
三菱鉱業(株) 美唄鉱業所 
生存者に直接聞く写真の話―金鐘培談
三菱鉱業(株) 大夕張鉱業所
野村鉱業(株) 置戸鉱山

02
04
06
08
14

18
26
30
34

42

58
62

72
78

茅沼炭化礦業(株) 茅沼炭鉱
生存者に直接聞く写真の話―朱龍根談
中外鉱業(株) 上国鉱業所
雄別炭礦鉄道(株) 雄別礦業所
生存者に直接聞く資料の話ー尹永旭談
太平洋炭礦(株) 春採炭鉱 
生存者に直接聞く写真の話―申鉉大談

千歳飛行場  
浅茅野飛行場 
生存者に直接聞く資料の話―全愚植談
雨竜ダム工事
松前線鉄道工事

日本製鉄(株) 輪西製鉄所
函館船渠(株)
生存者に直接聞く資料の話―趙炳春談

編集後記
資料索引
企業·地名·用語索引

084

092
096

104

114
120

126
132

142
158

170
178
180

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日帝強制動員被害者支援財団

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8 _ 写真で見る強制動員の話

■ 資料集の構成と内容

この資料集は、日本の北海道地域に強制動員された労務者の被害関連資料を選定・収録し、そこに簡単

な説明を付け加えたものである。編集において資料の類型別に構成することも意味があると考えたが、こ
の資料集では企業の情報など多くの補足説明を加えたため、業種別に分類する方法を選択した。それによ
り、全体では炭鉱金属鉱山編、土木工事編、軍需工場編で構成した。そして、各編ごとに、資料を提供し
た被害者の写真、文書、博物類などの所蔵資料を紹介した。

この資料集に収録された資料は全62点で、32人の被害者と遺族が寄贈または提供したものである。すべ

て日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会に被害申告をする際に提出したり、あるいは調査時に追加確認
されたものである。このような過程を通じて確保された資料は実に4800件余に上り、内容も豊かであり、
しかも多様だ。北海道調査を担当する調査3課の専門調査官たちは、これらの資料が伝える切ない物語と
真実を前に、収蔵庫に収めるだけでは惜しいとの判断から、調査業務の傍ら、3年間にわたってコツコツ
と資料集を企画・準備し、今日に至った。

ここに紹介する資料は北海道地域に限定されたものであり、委員会が所蔵する資料のごく一部に過ぎな

いが、北海道への労務動員の実態を把握するうえで役に立つと判断されるものである。収録された資料を

写真類、文書類、博物類及びその他生存者証言という四つの類型に分けたが、その詳かな内容は次の通り
である。

 

1. 白黒写真の中の朝鮮人労務者たち 写真24点

写真類は全24点が収録されている。紹介された写真類は、ほとんど断片的なイメージであるが、写真の

なかの労務者たちの姿を見ることで、当時の労働環境や作業場の雰囲気を類推することができる。写真の
裏に、被害者本人が自筆で記した撮影場所や時間などが確認できる場合もある。

動員先で撮影した個人写真の大部分に、幼い少年の姿が写されている。炭鉱作業服を着て撮影された写

真からは、強制動員被害者の当時の生々しい姿を感じることができる。

整然とした姿勢と淑やかな身なりの団体写真は、その多くが写真の主人公たちが生活した宿舎を背景に

撮影されており、また、協和寮という宿舎の名前が確認される場合もある。写真を通じて被害者の強制動
員された炭鉱や企業の名前が確認できたり、「〇〇労務隊」「〇〇勤労報国隊」のような名称から、写真の
主人公たちの出身地に関する情報も得ることもできる。資材運搬用のレールや絶壁を背景にしたダム工事
現場の写真からは、土木工事現場に関する情報を得ることができる。土木工事現場関連の写真は少なく、
とても貴重なものである。

以上の写真については、被害当事者が所蔵していた場合には、いつ、どこで、何をしていた時に撮影さ

れたのかなどの情報を、より詳らかに聞き取って収録した。被害者の家族が所蔵していた写真の場合に
は、状況は分からないが、写真の人物のうち、だれが被害当事者なのか、背景となっている所がどこなの
かに対する情報を聞き取り、資料なども確認して収録した。参考までに記せば、ここに紹介する写真はす
べて、本人にとっては忘れられない記憶として、残された家族たちにとっては亡くなった被害者を偲ぶ際
の大切な資料として保管されていた。

解題

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日帝強制動員被害者支援財団

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10 _ 写真で見る強制動員の話

動員中に死亡した被害者の死亡関連文書はいろいろな形で存在する。浅茅野飛行場で死亡した犠牲者の

死亡診断書は作業場の近隣病院で発給されたものであり、彼の死亡日、死亡原因などについて明確に知ら
せてくれる。死亡後に解雇処理された労務者の賃金を精算した「解傭精算金封筒」、当該の事業者が死亡者
の本籍地警察署長に死亡関連事実を知らせた内容の文書などの死亡関連資料は、動員中の死亡者に対する
処遇の実態や遺骨奉還手続きなどについて重要な情報を含んでおり、真相解明にむけ、示唆するものが多い。

その他、鉱夫番号が鮮やかに残っている従業員証、運輸事業の業務指針書である「運輸従事員安全作業

心得」、負傷証明書なども当時の労務者たちの労働生活を理解するうえで、有用な資料である。

3. 博物類およびその他7点

博物類および手紙などのその他の資料は7点が収録されており、主に個人的な記録物や所持品である。

個人的な記録物の場合、当時の作業場の状況と被害者本人の複雑な心情がよく描写されていて、強制動員
の実情を理解するうえで大いに役立つ。

動員地で家族とやり取りした手紙と葉書からは、遠く離れ、お互いを心配する家族間の切ない情が感じ

られる。解放を迎えて帰国する時、身の回り品を入れてきたカバンからは、当事者の陳述とともに彼の帰
還する際の姿を思い浮かべることができる。

強制動員されて故郷を発つ瞬間から動員先での生活を詩調形式で記録した「北海道苦楽歌」は、個人記

録物のなかでもその形式と内容が優れている。「北海道苦楽歌」は、被害者の立場で動員の状況、北海道の
炭鉱に到着するまでの長い道のり、初めて経験する炭鉱労働への恐れなど、朝鮮の労務者の疲れ果てた実
生活と哀歓を韻律で表現したものである。

2. 文字で残された強制動員の痕跡 文書類31点

ここでの文書とは、日本政府または企業及び団体と被害者間で行き交った公的な内容を扱った文書をい

い、全31点を収録した。日本語で作成された原文はなるべくそのまま翻訳して収録し、合わせて理解を深
めるために簡単な内容説明や資料が持つ意味を付け加えた。

金炳澤の「徴用告知書」は、当時使役された作業場が軍需会社として指定されることにより、所属する

労務者自身も被徴用者の身分に変わったことを伝えている。また、個人の人的事項と履歴が詳しく書かれ
ている労務手帳や協和会手帳、そして故郷を訪問するために発給を受けた「一時帰鮮証明書」などを通じて、
日本帝国が当時、朝鮮の労務者の統制と管理をどのように実施していたのかなどを理解することができる。

尹秉烈の給与証明書からは、本人が受領する賃金よりも会社が各種名目で控除する金額がずっと多かっ

たという事実を確認することができる。尹秉烈をはじめとする被害生存者たちは異口同音に、いくら一生
懸命に仕事をしても実際に手に握れるお金はほとんどなかったとか、いくらにもならなかったという事実
を吐露したが、この文書は被害者たちのこのような証言を立証している。さらに尹永旭の「借用証」を見
ると、動員先での生活に必要な各種生活必需品などの購入に「先貸金」が支給され、これを後から給料で返
していかなければならなかったという労務者の状況を把握できる。このような借用金は各種名目の控除額
と同様、労務者にとって、作業場を自由に移動することができない「足かせ」の役目を果たしたことはいう
までもない。

強制動員被害者たちが帰還時、所蔵していた品物の中には、賞状や表彰状が数多くある。普通、これら

の資料は強制動員被害申告書とともに立証資料として提出される場合が多いが、内容をよく見ると、戦時期、
各種産業の増産を督励するために宿舎別あるいは個人別に競争を煽り、それを褒めて授与されたものであ
った。また、契約期間満了者にもその間の功績を讃えて授与される場合もあった。

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日帝強制動員被害者支援財団

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12 _ 写真で見る強制動員の話

■ 一枚の写真、一切れの紙が伝える、もう一つの証言

残された資料もまた、ある種の証言である。一枚の写真や資料だけでは強制動員はわかりにくい。しかし、

強制動員の一断面ではあるが、それぞれの資料が集まった時に強制動員の全体像が浮かんでくるのである。

一方、これらの資料はいまは 80 歳の老人となったある人の、少年時代の悲しい思い出であり、幼いこ

ろに遠い異国で他界した父親への記憶であり、また男盛りの年にこの世を去った兄のささやかな遺品でも
ある。このように、これらの資料は個人的にも深い思いが込められていたため、所蔵者全員が資料を大切
に保管していた。そのお陰で、このような機会を通じて、その思いを大切に伝えることができるのである。

資料収集の過程で切なさを禁ずることができなかったのは、過ぎ去った歳月があまりにも長すぎたため、

資料が語っている強制動員の記憶が色あせてしまった点である。生存者の場合は、

「今では、古くなりすぎ、

多くの内容が思い出せない」と言ったり、遺族の場合、「いま生きていたら、資料に対して多くの話をして
くれたはずなのに・・」、あるいは、「生きていた時にたくさん聞いておけばよかったのに・・」と言いながら、
惜しさを表す場面が多々あった。

もう二度とこのように惜しむ遺族や生存者が生じないように決意を改めるとともに、今回の写真資料集

の発刊が、強制動員に対する認識を一般に広げ、今後の持続的な史料発掘のきっかけとなることを期待する。

調査3課 尹智炫

室蘭市にある輪西製鉄所に動員された具然錫は、手帳に戦時末期の連合国の空襲状況を克明に書き記し

ていた。当時、戦況は敗戦色が濃くなり、切迫した輪西製鉄所の状況が、死を目の前にした一個人の手帳
の中にそっくりそのまま現れている。手帳の持ち主である具然錫は7月15日に室蘭艦砲射撃によって犠牲
となったが、主人を失った手帳はそれを暗示するかのように、6月26日から始まった空襲日誌が7月3日で
中断されている。強制動員され、現地で死亡した犠牲者の遺族に同僚たちが十匙一飯(十人が一匙ずつ持ち
よれば茶碗一杯の飯になる)募金した弔慰金が伝達された。同僚たちの香典袋からは犠牲者を追悼する仲間
たちの素朴な情を感じとることができる。

以上の手紙、手帳など個人的記録からは個人の内面世界をうかがうことができ、強制動員が個人にどの

ような影響を及ぼしたのかを知ることができるとても貴重な資料である。

4. 生存者から直接聞く写真と資料の話

資料集に収録する対象資料を選定するうえで、特に考慮した点は、強制動員被害「生存者」の所蔵資料

を優先的に扱うことだった。資料とともに、豊かな体験の話を織り交ぜ、「生存者に直接聞く写真の話 」 と
いう別個の場を設けた。生存者たちに資料収集とともに詳しく聞き取りをおこない、それを彼らが直接、
話の主人公になって語りかけるように実施した。

生存者たちは、その多くが彼らが 60 年余の間、持っていた所蔵資料に対する記憶をそっくりそのまま伝

えただけでなく、文字で伝える以上の事実を教えてくれた。この資料集では金斗植、尹秉烈、金鐘培、朱龍根、
尹永旭、申鉉大、全愚植、趙炳春ら 8 人の口述を紹介した。その記憶は本人が所蔵していた資料とともに、
真実をより豊かで明瞭なものにしており、その歴史的価値は十分である。

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日帝強制動員被害者支援財団

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14 _ 写真で見る強制動員の話

凡例

■  収録された資料の収集方法は、「寄贈」と「提供」である。
  -   

「寄贈」は資料の原所有者が、当委員会規定に依拠して定められた寄贈手続きを踏まえて原本資料を寄贈

したもので、所蔵と活用について同意を得た資料である。

  -   

「提供」は、資料の原所有者から原本ではない写本 ( スキャンと撮影イメージ ) の提供を受け、写本の所

蔵と活用について同意を得たものである。

■   掲載資料下段に資料寄贈者(提供者)の氏名を記載した。資料名は、資料名がある場合はそのまま使用し、資

料名が無い場合には資料の内容を基に編著者が記載した。

■   地名や会社名など固有名詞の場合、できるだけ日本式の発音のままに記載した。

■   文書資料または名簿に本籍地住所や生年月日などの個人情報が記載されている場合、個人情報保護のため、

本籍地住所では面以下、生年月日では月日を不鮮明に処理した。

■   

「会社名」は強制動員時期 (1939-1945 年 ) に使用された社名を記載した。強制動員時期に社名が変更された

場合は、その期間が長い場合の社名を採用し、具体的な沿革については別に記入した。

■   

「強制動員規模」の記載は推定値であるが、文献資料から確認される数字を記載し、根拠を示した。ある会

社がどの程度の朝鮮人を動員したのかに関する資料は韓国内では確認するのが難しい。この資料集では日本
の北海道庁の主管で刊行された「北海道と朝鮮人労働者」の資料、日本各地の郷土史を主に参考にし、強制
動員規模を推定した。

■   

「委員会申告件数」の記載は 2009 年 12 月まで「日帝強占下強制動員被害真相究明委員会」で被害者として

完了した申告数を意味する。委員会の被害調査はまだ完了していない状態であり、各作業場の被害処理完了
の件数は増加するものとみられる。

  ・翻訳にあたり、句読点を入れた個所がある。明らかな誤りは訂正した。訳注は〔 〕で記した。

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16 _ 写真で見る強制動員の話

炭鉱・金属鉱山

 編

北海道は石炭をはじめとする地下資源の豊富な地域で、この資源を開発する開拓事業が

明治時代から活発に行われた。北海道で産出される鉱物は金、銀、銅などの金属鉱物と石
炭、硫黄などの非金属鉱物に分けられる。このなかで石炭は日本国内で最高の埋蔵量を有
しており、北海道開拓の歴史とともに鉱業の中心を占めた。

石炭業は日本の他の地域と同じく大企業によって開発が主導され、代表的な炭鉱会社と

しては北海道炭礦汽船株式会社、三井鉱山(株)、三菱鉱業(株)、住友石炭鉱業(株)などがあ
った。このうち北海道炭礦汽船(株)は、〔三井系であり、三井鉱山と合わせると〕朝鮮人強
制動員の規模では全国最高を記録するほど、多数の朝鮮人を強制動員した。

炭鉱以外の金属鉱山としては金を生産する住友鉱業(株)鴻之舞鉱山、砂白金を生産する

帝国砂白金・雨竜鉱業所、水銀を生産する野村鉱業(株)イトムカ鉱山などがあり、これらの
金属鉱山にもやはり多くの朝鮮人が強制動員された。

炭鉱と金属鉱山へと動員された朝鮮人労務者の大多数は、危険度が高い坑内労働に投入

され、初めて経験する採掘労働で負傷するケースも多かった。また、戦争末期になるほど
生産量の増加が要求され、このために労働災害も激増し、死亡者も続出した。

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18 _ 写真で見る強制動員の話

夕張鉱業所

北海道炭礦汽船

• 北海道夕張市所在
• 1890年北海道炭礦汽船(株)が開発を着手、1892年から採炭開始.

1977年廃坑後、「石炭歴史村」として整備.

• 朝鮮人強制動員規模:約7,000人余
• 委員会申告件数:約730件

北海道炭礦汽船株式会社は北海道地域の炭鉱開発を主導した代
表的な企業であり、北海道内5か所で大規模鉱業所である夕張、
平和、幌内、空知、天塩鉱業所を運営した。北海道炭礦汽船(株)
は、3万3000人余りの朝鮮人労務者を動員したものと推定される
が、これは北海道内全体の朝鮮人労務動員を15万人と算定した
時、約22%(1/5)を占める。
特にそのなかでも夕張鉱業所は、北海道炭礦汽船(株)の主力炭
鉱であり、戦時期には7,000人以上の朝鮮人労務者を収容してい
た。この数は、『北海道炭礦汽船株式会社70年史』の「1946年1月
9日、朝鮮人165名が帰国の途に就き、これで7,316名の朝鮮人労
働者の集団帰国が終了した」という記録からも推定できる。1)

1) 表「朝鮮人労働者地域別事業場及び人員状況」(朝鮮人強制連行実態調査報告書編集委員会

編『北海道と朝鮮人労働者』1999年170ページ)でも、夕張鉱業所1945年6月の朝鮮人現在数
7,096人を確認できる。

夕張市

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20 _ 写真で見る強制動員の話

徵用告知書

金炳澤の徴用告知書/金セギュ(金炳澤の子息)提供

2) 川口学、2008 年度日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会研究委託報告書、「戦時期の軍需会社法による労

務動員に関する基礎研究」、2008 年.42 ページ.

金炳澤は全南麗水から北海道炭礦汽船(株)夕張鉱業所に強制動員され、

1945年8月に解放を迎える時まで4年間の労役をしたという。彼の息子が長
い年月、本の中に保管していたこの徴用告知書からも、金炳澤が北海道の夕
張鉱業所にいたことがはっきりと確認できる。

徴用告知書には彼の創氏名(金川炳植:金炳澤の名前は動員当時「金炳

植」で、帰還後に「金炳澤」へ改名した)が記載されており、その横には本
籍地住所が番地まで詳細に書かれている。徴用告知書の内容によれば、金炳
澤は軍需作業従事者として夕張鉱業所で軍事上特別に必要な総動員物資生産
に関する業務に従事することになっている。

北海道庁長官が発行した徴用告知書の発給日は1944年4月25日、まさにこ

の日は北海道炭礦汽船(株)が「軍需会社法」によって軍需会社として第2次
指定された日だ。「軍需会社法」第6条によれば、軍需会社と指定された事
業所の職員・労務者は全員「国家総動員法」によって「徴用」されたものと
みなされた。いわゆる「現員徴用」である。このような労務者たちは徴用期
間に制限がなく、事実上、無期限で徴用されることを意味した。また、軍需
会社に指定された事業場は軍隊のように組織化され、生産責任者の指揮に従
わない場合、政府から懲戒制裁を受けるなど、徹底して国家の統制下に置か
れた。2)

北海道炭礦汽船株式会社が軍需会社として指
定された日(1944年4月25日)に北海道庁長官が
発行した徴用告知書。金炳澤は軍需事業従事
者として徴用され、夕張鉱業所で軍事上、特
別に必要な総動員物資生産に関する業務に従
事すべきことを告知している。

内 容

題  目:徴用告知書
対 象 者:金川炳植(金炳澤の創氏改名後の名前)
本  籍:朝鮮全羅南道麗水郡○○面○○里
生年月日:大正5年(1916年)○月○日
上の者は下記の通り、徴用された者と見なす。
従事すべき総動員業務を行う指定軍需会社の名称:
北海道炭礦汽船株式会社夕張炭礦
従事すべき総動員業務: 軍事上特別に必要な総動員
物資生産に関する業務
従事すべき職業:軍事産業従事者
従事すべき場所:内地
発 行 日:昭和19年(1944年)4月25日
発行者北海道廳長官 坂千秋

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22 _ 写真で見る強制動員の話

給与明細書

夕張炭鉱で発給された朴鍾成の給与明細書で
ある。朴鍾成の創氏名(木本鍾成)と左側の従
業証の鉱夫番号と同一の番号が確認できる。
家族慰問金、慰労金、退職手当金、11月分賃金
精算高、旅費、障害扶助料などの項目がある。

内 容

題目:諸給与其他明細表
項目

・  賃金カード精算:家族手当、基本補給、別居手当、

特別手当、勤続手当

・  現金支払:定着手当、家族慰問金、慰労金、退職

手当金、会社預金、債券買上代、11 月分賃金精算高、
旅費、障害扶助料など

従業証

この従業証は、北海道炭礦汽船(株)夕張鉱業
所が発給したものであり、朴鍾成の創氏名と
交付番号、採用日、居住地などが記載されて
いる。

内 容

従業員番号:13890
姓    名:木本鍾成
住   所:8協区
採   用:昭和17年(1942年)10月29日

朴鍾成は、全羅北道錦山から夕張

鉱業所に動員された。小さな従業証
に過ぎないが朴鍾成の当時の創氏名
と交付番号、採用日(1942年10月29
日)、生活空間(8協区)などが確認さ
れ、当時の状況を断片的であるが、
理解できる。彼につけられた鉱夫番
号は13890番。強制動員の生存者の
中には60年余りが過ぎた現在まで鉱
夫番号を記憶する人たちがいる。現
場では名前でなく番号で呼ばれたの
で番号を忘れられないという証言、
はなはだしくは飯を食べる前に番号
を大声で叫んで初めて飯をくれたと
いう証言もあった。朝鮮人労務者は
強制労働の現場で「私」という人格
体ではなく、労働力を供給する一つ
の「数字」として扱われた。そのよ
うな非人間的な状況に処していたこ
とを示す史料である。

朴鍾成(パク・ジョンソン)の従業証/朴鍾成 寄贈

朴鍾成の給与明細書/朴鍾成寄贈

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24 _ 写真で見る強制動員の話

診察券

3) 前掲書『北海道と朝鮮人労働者』264ページ.

北海道炭礦汽船(株)の内科診察券。診察券の上部には北海道炭礦汽船のマ

ーク(円中に星)が鮮明だ。診察番号、氏名、採用年月日、現場、住所、年齢
などを記載するようになっている。左右部にはそれぞれ、診察券は来院の都
度持参すること、診察済みの者は診察券を紛失しないようにという注意事項
が書かれている。診察券の住所欄で金秉千が「清真寮」で生活したことが分
かる。

「寮」とは当時の労務者たちの集団宿所である。炭鉱の開発とともに会社

は炭鉱住宅を建設し、会社の社員住宅とは別途に集団的な朝鮮人移住に備え
て「寮」、または「飯場」という宿所を供給した。朝鮮人労務者は、寮で集
団的寄宿生活をして、会社の徹底した統制と監視下で、石炭増産にまい進す
ることを強要された。1945 年当時、夕張鉱業所には計 34 棟の協和寮があっ
た。3)

金〔金森〕秉千の内科診察券/金ヨンソク(金秉千の子息)提供

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26 _ 写真で見る強制動員の話

北海道炭礦汽船

平和鉱業所 平和炭礦

• 北海道夕張市、北西部所在
• 1937年開鉱、1975年廃鉱
• 委員会申告件数:平和鉱業所約250件

北海道炭礦汽船株式会社平和炭鉱は夕張市の北西部にあり、良質
の鉄鋼コークス用の原料炭を生産する夕張炭田の主要炭鉱だっ
た。1937年に開坑され、1941年には北海道炭礦汽船の真谷地炭
鉱、登川炭鉱、角田炭鉱とともに平和鉱業所に編成された。
戦後、1969年に鉱業所の制度が廃止され、1975年に廃鉱になった。

夕張市

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28 _ 写真で見る強制動員の話

李永俊は1944年2月頃、北海道炭礦汽船株式会社の平和鉱業所平和礦に強

制動員された。当時、李永俊はソウル清涼里の鉄道局に勤務していた。ある
日、彼の父が中風にかかって倒れたとの知らせを聞き、急いで故郷へ行っ
た。村の区長が家に帰ったという噂を聞いて尋ねてきて、日本に動員すると
言った。

彼は学識があったためか、炭鉱で機械を操作する業務を担当した。ところ

が作業をしていた時に、ワイヤーに右腕が捲込まれる事故に遭い、腕を切断
するという重傷を負った。

この文書は、李永俊が業務上の負傷で右腕を切断されて義手を製作して着

用することになったが、その額を会社側が負担するという内容の証明書であ
る。採掘現場での作業は、常に大小の事故に晒されるが、一瞬のミスで障害
を伴う大事故となることがある。強制動員された作業場で障害を受けたとは
言え、解放後60年が過ぎた現在、これを立証する方途を探すのは極めて難
しい。そのようななか、この証明書は当時、李永俊の身上に何があったのか
を、明白に示す貴重な資料である。

ところで、李永俊は義手代金として支給された金額を途中で紛失した。会

社側に再度代金を請求しようとしたが、請求手続きが分からないために請求
できなかった。そのため長袖で右腕を隠して生活したという。

この文書は、北海道炭礦汽船株式会社平和鉱
業所で発行した負傷証明書。李永俊が事故で
失った右腕に義手を付けるため、交付金を支
給する内容が入っている。

内 容

題 目:証明書
発 行:平和鉱業所平和礦
発行日:昭和20年(1945年)11月24日

〔要旨〕右に記載された者は、業務上の負傷で右手

を失い、義手を付けたが、金額が明確でなく、金 1,200
円を概算して交付し、万一それ以上を要する場合、
請求次第で、実費を負担する。

負傷証明書

李永俊(イ・ヨンジュン、国本永俊)の負傷証明書/李ヨング(李永俊の子息)提供

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30 _ 写真で見る強制動員の話

幌内炭礦は北海道炭礦汽船による開発の中心となった鉱業所であ
る。1879 年から開業し、1939 年には万字、美流渡、幾春別坑と
ともに、「幌内鉱業所」に編成された。
幌内炭礦では1922年以降から朝鮮人労務者の存在が確認される
が、当時は20人程度の少ない数だった。しかし、いわゆる強制動
員時期の1939年以降からは毎年、数百人規模の朝鮮人が動員さ
れ、戦争末期の1944年には8棟の協和寮に1,800人以上の朝鮮人が
収容されていたという。朝鮮人は幌内炭礦の坑内夫の60%程度を
占めており、主として採炭、掘進などの過酷な労働を担当させら
れた。4)

• 北海道三笠市所在
• 1879年開坑、1939年幌内鉱業所に編成。1989年廃坑
• 強制動員規模:約2,000人余
• 委員会申告件数:幌内礦業所 約540件

幌内鉱業所

北海道炭礦汽船

4) 北海道開拓記念館『北海道開拓記念館調査報告第7号 明治初期における炭鉱の発展―幌内炭

鉱における生活と歴史』1974年、44ページ、「表22 北炭における朝鮮人労働者の変化」46~48
ページ。

三笠市

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32 _ 写真で見る強制動員の話

朴トンマンは1941年10月頃、慶尚北道奉化から北海道炭礦汽船(株)の幌内

鉱業所に動員された。写真の下部にある文字から、この写真が1942年に幌
内鉱業所で撮影されたことがわかる。3枚の写真が一枚の中に一緒に陰画さ
れている点が特徴的だ。左上の写真(1番)には幹部だけが写され、後ろには
「五協和寮」と書かれた宿所の看板が見える。右上の写真(2番)は、宿所の
建物を撮影したものとみられるが、正確なことは分らない。

団体写真(3番)では、写真の説明の「競争優勝」という文字が目を引く。

当時、日本の各鉱業所は石炭増産のためにさまざまな方法で労務者たちを督
励したが、生産実績が優秀な個人や団体には個人表彰と団体表彰を授与する
など、労働者が自主的に参加するように誘導した。1942年、幌内鉱業所で
は、宿所(協和寮)別に石炭生産の対抗競争が催されたとみられる。

幌内鉱業所で撮影した朴トンマンの団体写真

昭和17年度 幌内鉱業所協和寮対抗出稼競争優勝記念/朴キョンヒ(朴トンマンの子息)提供

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34 _ 写真で見る強制動員の話

• 北海道三笠市所在
• 1931年、昭和鉱業株式会社によって開発。1941年、北海道炭礦汽船株

式会社に併合。解放後、幌内鉱業所に吸収5)

• 強制動員規模:約2,000人
• 委員会申告件数:約230件

新幌内鉱業所

北海道炭礦汽船

三笠市

新幌内鉱業所では、1939年に朝鮮人439人を動員したのをはじ
め、毎年、朝鮮人労務者を動員し、1945年6月には朝鮮人労務者
が1,519人に及んだことが確認される。北海道炭礦汽船の関連資
料には、1945年12月、新幌内炭鉱の朝鮮人労働者と家族2,460人
が帰国を完了したと記録されている。この記載からも、新幌内炭
鉱に動員された朝鮮人労務者数を推測できる。6)

5) 前出『明治初期における炭鉱の開発―幌内炭鉱における生活と歴史』11ページ(幌内炭鉱年表)

参照。

6) 前出『北海道と朝鮮人労働者』168、631ページ。

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36 _ 写真で見る強制動員の話

李ヒョングは1943年7月、故郷の全羅北道高敞から新幌内鉱業所に強制動

員された。李ヒョングは当時、家の農作業を手伝って生活していたが、面事
務所職員がどうしても日本へと仕事に行かなければならないと言った。高敞
の各邑・面から動員された人はおよそ100人ほどで、当時18歳だった李ヒョ
ングは、その中でも一番若かった。高敞から動員された人たちは高敞旅館に
3日間滞在し、その後日本の北海道へ出発した。

炭鉱での生活は徹底した団体生活だった。宿所は100人余りが一緒に生活

できるほど大きく、食事は団体での給食だった。また炭鉱の外へと外出する
時は必ず申告しなければいけないなど、移動の自由がなかった。

そんな抑圧された生活のためか、彼の記憶には「新幌内」という単語がい

まも鮮明だ。帰る日がいつなのかもわからないまま、炭鉱の重労働に苦しん
でいたある日、突然に解放が訪れ、同僚たちとともに夢に見た故郷へ向かう
ことができた。

写真は李ヒョングが新幌内鉱業所に動員された後、同僚と一緒に炭鉱付近

の写真館で記念撮影したものであり、真ん中の人物が李ヒョングである。両
側の同僚は炭鉱作業服を着用している。この服装は写真撮影のために写真館
で借りたものだが、実際の作業服と大差はなかったという。李ヒョングは幼
くして動員されたので、同僚たちと違って学生服で撮影した。同僚たちが着
用している作業服装とキャップランプ、首に巻いている手ぬぐいなどから、
当時の現場の姿が生々しく感じられる。

李ヒョングの写真/李ヒョング寄贈

李ヒョングの写真

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38 _ 写真で見る強制動員の話

7) 国外労務動員は募集(割当募集)、官斡旋、徴用など3方法で遂行された。これら3方法は、すべて動員計画に依拠し、行政命令や法令によっておこなわれ、ともに「強制性」

のあるものだった。〔これらの3つの動員方式は〕1945年まで混用されたとみられる。鄭恵瓊『朝鮮人強制連行強制労働Ⅰ』日本編、2006年、103~105ページ。

8) 採掘を終えた後に坑の上部を支えるために、掘出した箇所を砂や石で埋め戻すこと。充填ともいう。

私は1921年に全羅南道珍島郡で生まれま

した。1942年のある日、村で日本の大阪で2
年間仕事をする人を募集すると聞きました。
2年間だけ仕事をすれば、お金をたくさん稼
げるという言葉に心惹かれ、従弟と一緒に志
願しました。募集に応じた人たちと一緒に珍
島警察署に集まっていたら、日本人2人が私
たちを連れに来ました。7)その人たちは青っぽ
い作業服を着て、「北炭」と書かれた腕章を
つけていました。北の炭鉱!その腕章を見て
その時に「私は炭鉱で仕事しに行くんだ」と
考えました。初めから炭鉱と分かっていたら
志願しなかったでしょう。

私が到着したところは日本の北海道にある

新幌内炭鉱でした。炭鉱に到着して、まず2
週間程度の訓練を受けました。作業に必要な
訓練を受けると同時に体力検査もしました。
後で判ったのですが、体力検査の結果によっ
て仕事が与えられるのでした。力が強い人は
坑内で炭を掘る仕事をし、弱い人は炭掘りよ
り少し楽な所に送り、とても弱い人は坑外の
仕事をすることになります。私はその時、ひ
としきり力がある20代だったので、坑内の仕
事をすることになりました。

炭鉱では仕事を終えた後、宿所で飯を食べ、寝て、ま

た仕事に出るのが、生活のすべてです。一週間は昼に仕
事して、また一週間は夜に仕事するという方式で、2交
替を一週ごとに交替しました。朝5時または午後5時に作
業服に着替えて、炭を掘りに入って行きます。私たちが
炭を掘りだした天井は、埋戻しておきます。8)でも炭が柔
らかい所は天井が崩れる事故が起きてケガすることが多
く、ひどいときは死ぬ人もいました。

はじめは2年間仕事するという契約でしたが、戦争状況

が思わしくなく、強制で2年間延長され、帰りたくても帰
れませんでした。ある日、日本人監督官が朝鮮人労務者
たちを集め、ラジオを点けてくれました。ラジオ放送で
は戦争が終わったと知らせ、みんな喜びました。解放さ
れたのです。一日も早く家に帰りたかったけど、帰国し
ようとする人が余りに多かったので、すぐに帰国するの
は難しかったのです。解放から2~3か月後、炭鉱で一緒
に仕事した同僚たちと家に帰れました。

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

キム

ドゥシク

植の話

金斗植
・1921年全羅南道珍島郡出生
・1942年北海道炭礦汽船(株)新幌内鉱業所へ動員
・新幌内鉱業所で採炭夫として勤務
・1945年10月本籍地へ帰還

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40 _ 写真で見る強制動員の話

金斗植が新幌内鉱業所にいた当時、同僚たち
と一緒に撮影した写真。右側にいる人物が金
斗植。写真の中央に「新幌内炭砿記念」と記
されている。下部の「吉田」、「晋本」、「豊田」
は 3 人の創氏名が記されたものである。中央
に座っている人物の帽子に北海道炭礦汽船株
式会社のマークを確認できる。

前列右側の人物が金斗植。写真上側に「愛情の親友相別の記念」と記載されていることから、解放を迎え、同僚たちと別れる前に、互いの友情を記
念するために撮られた写真とみられる。

北海道炭礦汽船株式会社の
マーク

キム

ドゥシク

植の写真

金斗植の写真/金斗植 寄贈

金斗植の写真/金斗植提供

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42 _ 写真で見る強制動員の話

神威炭礦は、北海道の空知郡歌志内市に位置し、1891年に開坑し
た。1939年から、新設された北海道炭礦汽船(株)空知鉱業所の管
轄になった。しだいに規模を増やし、全盛期には一日1300トンの
生産量を達成した。

• 北海道歌志内市所在
• 1891年開鉱。1970年廃鉱
• 委員会申告件数:約50件

空知鉱業所 神威炭礦

北海道炭礦汽船

歌志内市

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44 _ 写真で見る強制動員の話

死亡関連文書

朴夏錫は1939年12月、慶尚南道宜寧郡から北海道炭礦汽船(株)空知鉱業所

神威炭砿へ動員された。家族たちは彼が動員された後、何回か手紙をやり取
りして安否を確認したが、1年半が過ぎた1941年6月4日、彼が落炭事故で死
亡したという知らせを伝え聞く。

この文書は、朴夏錫の死亡と後続処置に関連して、空知鉱業所長が慶南宜

寧警察署長に送った書信である。内容は、朴夏錫の妻を呼び出して遺族扶助
料と各種手当金を渡し、受取人の印鑑が捺印された各種領収書を送り返すこ
とを依頼するものである。文書の内容から、朴夏錫の動員日、死亡日、死亡
原因を確認でき、遺族が遺骨を直接受取ったことを確認できる。

動員地で死亡した場合、遺骨は、会社が直接職員を派遣したり、帰郷する

同郷人に委託する方法などで帰した。また朴夏錫の場合のように家族や親戚
が日本を訪問して直接遺骨を受取ることもあった。

しかし、強制動員されて現地で死亡した後、遺骨が返されなかったり、甚

だしくは家族に死亡の知らせさえ伝えないことも多かった。長い時間が過ぎ
てから、遺族に死亡が伝えられることもあった。家族に戻されていない朝鮮
人強制動員犠牲者の遺骨が相当数、日本に残されている。北海道内だけでも
20か所ほどで200人を超える朝鮮人の遺骨が保管されているという。9)この数
値は暫定的なものであり、今後調査が進んだり、発掘が進められるなかでさ
らに増加するものとみられる。

パク

ソク

は1939年12月、北海道炭礦汽船空知鉱

業所神威炭砿に動員され、仕事中の1941年6月
4日に落炭事故で死亡した。この文書は朴夏錫
の死亡と後続処置に関連して北海道炭礦汽船
(株)空知鉱業所が慶尚南道宜寧警察署長に送っ
た書信。文書から朴夏錫の動員日、死亡日、死
亡原因を確認できる。

内 容

昭和16年(1941年)8月20日
北海道空知郡歌志内町
北海道炭砿汽船株式会社 空知鉱業所長 堂徳清之助
慶尚南道宜寧郡 宜寧警察署長殿

拝啓

貴下の清穆に慶賀いたします。
さる昭和14年(1939年)12月3日、貴管下から移入し
た朴夏錫が、産業戦士として神威砿で稼働中、昭和
16年(1941年)6月4日、落炭事故で業務上死亡したこ
とに、痛惜を禁じ得ません。葬式は盛大に行われ、
遺骨も来訪した遺族へ伝達し、すでに本籍地へ奉還
しました。
今回、遺族から請求された遺族扶助料、その他死亡
による諸手当金を別紙の通り決定し、正確を期する
ために貴職に送付しました。公務多忙中に恐縮です
が、故・金夏錫の妻の金点小を呼び出し、直接本人
へ交付して下さるようお願いします。同封した領収
書、遺族扶助料分1通、団体生命保険金分1通、退職
手当分1通、預金・稼高・積立金・債券現在高記入領
収証1通の計4通、それぞれ赤い円の中に受取人の印鑑
を押捺し、返送して下さることを依頼いたします。
敬具

9) 殿平善彦「北海道強制連行犠牲者の遺骨返還活動」7-2 ページ、『日帝強占下強制動員被害真相究明委員会

2009 ネットワーク関係者招請ワークショップ゚資料集』2009 年。

朴夏錫(パク・ハソク)の死亡関連文書/朴ヘジン(朴夏錫の子息)寄贈

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46 _ 写真で見る強制動員の話

金炳澤の徴用告知書/金セギュ(金炳澤の子息)提供

10) 坑道・採掘場などで天井の岩盤である天盤の岩石が落ちる現象。

私は1924年、忠南洪城で生まれました。

生活が苦しくてまともに学校へ行けませんで
したが、昼は家の農作業を手伝い、夜は夜学
に通って勉強しました。

1942年1月のある日、私は北海道の炭鉱で

働く者を募集する広告を見ました。一日に3
円の賃金を貰えるということでした。当時は
徴用で働く人をむやみに連れて行くときだっ
たので、私も引っ張られるよりも今行くのが
良いと思いました。それで同じ村に住む4人
と一緒にその募集に応じました。人を集め、
村にある駐在所で写真を撮って、洪城郡へ移
動しました。多分、名簿のようなものを作る
ために写真を撮ったのではと考えました。釜
山で船に乗って日本に到着しました。さらに
日本の北端まで汽車で行って、船に乗って北
海道に渡りました。

北海道に到着すると、雪がたくさん積もっ

ていました。私が働く神威炭鉱は、とても規
模が大きかったです。日本に来る前に身体検
査をしたのですが、その結果によって仕事が
配分されました。体力があったり健康な人は

坑内の仕事になり、体格が良くなかったり、軟弱な人は
坑外の仕事になりました。私は坑内の仕事でしたが、坑
内はその深さが知れないほど、真っ暗で長く、恐ろしか
ったです。

宿所はたくさんの部屋が横につながっている長い建物

でした。一部屋に10~15人が一緒に生活し、そんな部
屋が建物一棟に30部屋を超えました。私は洪城から一緒
に行った人たちと部屋を使いました。女性たちが住む宿
所もありましたが、その女性たちは私たちの食事の準備
を助ける仕事でした。炭鉱で働きながら時々家へ手紙を
送りましたが、監督官が疑わしい手紙は選んで捨てるの
で、短い安否だけを伝えました。

最初に行くときは〔一日〕3円の月給と思いましたが、

実際には80~90銭だけ受取ったと記憶します。貯蓄や食
事代などを除けば、入ってくるのは無いも同然でした。
作業服が傷み、新しく支給を受けようとすれば、月給か
ら引かれるのです。それのため貰った少しの月給から差
し引いて家に送りました。

はじめは2年契約で行ったのですが、強制で2年さらに

延長されました。解放されて家に帰る時まで神威炭鉱で4
年以上も働きました。働いていた時、同じ部屋の同僚2人
を事故で見送りました。ガス爆発事故や落盤10)事故など
で時々同僚が死にました。そんな時は火葬し、念仏をあ
げました。

解放されるや、会社は前には見ることもできなかった

良い服と帽子を私たちに分けてくれました。その服を着
て同僚たちと記念に写真を撮りました。私と同僚たちは
会社が送ってくれる時まで待って、団体で戻るしかあり
ませんでした。しばらく待って、軍艦のように大きな船
に乗って釜山に到着し、洪城に帰って来ました。

その時に同僚たちと撮った写真、炭砿でくれた各種の

領収書、私がそこで使った物などみんな私の生涯の足跡
なので、今まで大切に保存してきました。

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

尹秉烈

・1924 年忠清南道洪城郡出生
・1942 年 1 月、北海道炭礦汽船 ( 株 ) 神威炭砿に動員
・神威炭砿で採炭夫として勤務
・1945 年 8 月、解放を迎えて本籍地に帰還

尹  秉  烈の話

ユンビョンニョル

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48 _ 写真で見る強制動員の話

神威炭砿で撮影した尹秉烈の写真

帰国時期に撮影した尹秉烈の同僚との写真

前列真ん中で眼鏡をかけた人物が尹秉烈。解放後、尹秉烈が同僚と一緒に市内の写真館で撮影した。尹秉烈は、写真の同僚たちの行方はいまは思い
出せないが、出身地程度は覚えていると陳述した。

この写真は尹秉烈の同僚たちだけで撮影したもの。尹秉烈は写真に写っていないが、困難な時期を共に過ごした同僚たちを記憶するために今まで大
切にしまっていた。解放されるや会社は良い服と帽子を一式ずつ分けてくれたが、この写真は帰国前に同僚たちがその時に支給された服と帽子を着
用して撮影したもの。写真の人たちはみな、「飯場」で生活していた独身者で、前列にいる子どもたちは炭鉱で家族と一緒に住んでいた朝鮮人労務
者の子どもたち。

帰国前頃に撮影した尹秉烈の同僚の写真/尹秉烈寄贈

神威炭砿で撮影した尹秉烈の写真/尹秉烈寄贈

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50 _ 写真で見る強制動員の話

尹秉烈が兄に送った手紙

尹秉烈の弟が尹秉烈へ送ったハガキ

尹秉烈が神威炭砿から兄に送った安否の手紙。
尹秉烈は、「炭鉱から家に送る手紙は監督官が
検閲するので、疑いを受けるような言葉は使
わないで、安否やあいさつ程度だけを伝えた」
と陳述した。本人は元気でおり、家族の安否が
とても気がかりなので、手紙を受けたらすぐに
返事をしてくれという内容だ。この内容は互い
の安否を問う程度のものだが、互いを心配する
家族間の胸を熱くする情が感じられる。

尹秉烈の弟の尹秉圭(ユン・ビョンギュ)が兄に送ったハガキ。家の家族の安否を知らせ、病気の兄の健康を心配する内容だ。ハガキに書かれた尹秉
烈の住所は北海道空知郡歌志内町字神威鳩ケ岡第1協和寮だ。この住所で尹秉烈が神威炭砿「鳩ケ岡第1協和寮」で生活していたことが分かる。郵便
の上に押された消印で発信日を確認できる。「20.4.20」から昭和20年(1945年)4月20日と分かる。

尹秉烈が神威炭砿から兄に送った手紙/尹秉烈寄贈

尹秉烈の弟が尹秉烈へ送ったハガキ(1945年4月20日)/尹秉烈寄贈

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52 _ 写真で見る強制動員の話

決戦増産手当給与通知書

特殊郵便物受領証

左側は 1943 年、右側は 1944 年に発行された。決戦増産手当給与通知書という名称で、出動手当、出炭手当、規約貯金、鉱夫貯金、所得税などの金
額が書かれている。この書の最初にある「決戦増産」という単語から戦争物資生産に総力を傾けた当時の状況を知ることができる。左側の消印に「鳩
ケ岡」と記されてあるが、これは尹秉烈の宿所である「鳩ケ岡協和寮」を意味する。下段には尹秉烈の創氏名 ( 茂松秉烈 ) が記されている。

内 容

内 容

発行:空知鉱業所
項目:定著手当、出動手当、出炭手当、支給額総計、規約貯金、鉱夫預金、所得税、現金支払額

項    目:引受番号、重量(グラム)、郵便料(銭)、受取人、差出人、引受日
受取人:茂松秉煕(尹秉烈の兄の創氏名)
差出人:茂松秉烈(尹秉烈の創氏名)
発送地:神威郵便局
引受日:1944年8月4日(左)/1943年6月22日(右)

尹秉烈が故郷の兄に何かを発送した領収書。引受番号、重量、受取人、差出人などが記載されている。尹秉烈は郵便物の種類が何だったのかを現在
は記憶していない。右側は1943年6月22日、左側は1944年8月4日に神威郵便局から郵便物を引受けたと記載されている。領収証の下部にそれぞれ赤
色と青色で「神威」の文字が鮮明に押されている。

決戦増産手当給与通知書/尹秉烈寄贈

特殊郵便物受領証/尹秉烈寄贈

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54 _ 写真で見る強制動員の話

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給与明細書

尹秉烈の給与明細書

内 容

賃 金: 稼賃金、出来高賃金、出稼手当、職務

手当、家族手当、応召手当など

差継高: 厚生年金、健康保険料、産業報国会

費、町民税、薬代、弁償金、団体生命
保険料、電燈料、勤労所得税、簡易保
険料、組合貯金、募集貸付金品代、石
炭代、寄宿舎賄料、忠霊塔寄付金、空
襲共済基金等

尹秉烈の1945年3月分給与明細書として

彼の創氏名と鉱夫番号(8742)が記されてい
る。項目は大きく賃金と差継高の二つに分
けられるが、賃金を表示する部分には何種
類かの手当が羅列されている。共済金の種
類は非常に多様だ。その中でも特に、募集
貸付金品代、忠霊塔寄付金、空襲共済基金
などが目を引く。1945年3月、尹秉烈の総賃
金は31円60銭。共済金は37円2銭で共済金が
賃金を超過している。賃金と共済金の総額
である5円42銭は赤色文字で記載された。ほ
かの給与明細書では左側の給与明細書に記
載された共済金以外に一日戦死貯金、献金
などが追加された場合がある。また、共済
金と賃金の差額を記載する最後の下欄に共
済金が賃金を超過した場合は赤色、そうで
ない場合には黒色で記載した。

共済金が賃金を超過する場合、労務者

が受け取る実質賃金はなくなり、むしろ会
社側への債務だけ残ることになる。強制動
員被害生存者たちの陳述では、「賃金はくれ
るが、飯代と軍事貯金などを差し引けば残
らない」という証言がしょっちゅう出てく
る。尹秉烈の給与明細書は、このような証
言を裏付けてくれる。

尹秉烈の給与明細書(1945年3月分)/尹秉烈寄贈

尹秉烈の給与明細書/尹秉烈寄贈

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56 _ 写真で見る強制動員の話

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尹秉烈のカバン

解放を迎えた尹秉烈が本人の所持品を入れてきたカバン。角の部分は金属で補強され、現在まで外形をそのまま維持している。寄贈当時、このかば
んの中にはタバコ粉、タバコケース、銅銭と紙幣など、当時使用したものがそのまま保管されていた。

尹秉烈が帰国時に持っていたカバン/尹秉烈寄贈

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58 _ 写真で見る強制動員の話

北海道の美唄地域は、石狩炭田11)の一部であり、北海道有数の採
炭地の一つである。戦時期、この地域には三菱美唄、三井美唄、
三井新美唄、日東美唄の4か所の炭鉱があった。新美唄は、1913
年、徳田炭砿として開鉱し、1915年に新美唄炭砿となり、1941年
に三井鉱山に買収され、三井鉱山(株)新美唄炭砿になった。1951
年からは三井鉱山(株)美唄炭砿の第2坑になり、採炭を継続した。
1963年に廃鉱した。

11) 北海道の夕張・空知山地にある日本最大の炭田

• 北海道美唄市所在
• 1913年徳田炭砿として開鉱。1941年三井鉱山に買収。1963年廃鉱。
• 強制動員規模:約550人余
• 委員会申告件数:10件

新美唄炭砿

三井鉱山(株)

美唄市

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60 _ 写真で見る強制動員の話

三井美唄炭砿済州島労務隊の写真

新美唄炭砿で撮影した崔テオクの写真

宿所前に立っている二人の後ろに見える看板に「第 1 協和寮」と宿舎名が書かれている。この写真から当時の坑夫の服装がわかる。帽子に付けた電
灯は腰につけた電池に連結され、暗い坑内で明かりをとるためのものでる。写真の人が履いている特異な形の靴は、「地下足袋」と呼ばれ、肉体労
働をする労働者の代表的な作業靴だった。靴を履かなくても、足袋のように履いて使用できるので、「地下足袋」という名称がついた。親指が別に
入るようになっており、地面を踏んで持ちこたえるのに便利になっている。「地下足袋」は野外の現場で作業する労働者の作業靴として、今でも日
本の土木建設現場で目にすることができる。本資料集に編集された他の写真にも「地下足袋」を履いた朝鮮人労務者が見える。

済州島から崔テオクと一緒に動員された人たちの団体写真。同一の写真を持った朴○○の陳述によれば、写真の人たちは 1942 年 10 月頃に済州島か
ら三井新美唄炭砿へ動員されたという。後ろ側に見える長い建物は次に掲載される写真の背景である第 1 協和寮と推定される。入口の看板部分を拡
大すると、「第一…」という文字がかすかに確認できる。崔テオクと一緒に新美唄炭砿へ動員された済州島の人たちは、第 1 協和寮で生活したもの
とみられる。

三井新美唄炭砿 済州島労務隊1周年記念写真/崔ユニョン(崔テオクの子息)提供

崔テオク(左側)が宿所前で同僚と撮影した写真

/崔ユニョン(崔テオクの子息)提供

「地下足袋」実物写真/委員会所蔵

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62 _ 写真で見る強制動員の話

三菱美唄鉱業所の歴史は、1913年に開発が進んだ飯田炭砿を1915
年に三菱鉱業(株)が買収して事業を開始したのが始まりである。
それから三菱鉱業美唄鉄道線の開通で生産量が増加し、大夕張炭
鉱とともに三菱の主力炭鉱として名を馳せた。
三菱美唄鉱業所へと最初に朝鮮人が動員されたのは1939年10月で
ある。10月20日夜、朝鮮を出発した138人の労務者が三菱美唄鉱
業所の一心寮に収容され12)、同年12月までに計700人の朝鮮人が
動員された。以降も朝鮮人強制動員は継続し、1945年6月末〔の
現在数は〕2,800人だった。13)
三菱美唄鉱業所は1973年に廃坑となり、現在は公園として整備さ
れている。荒涼とした無人地帯である。

• 北海道美唄市所在
• 1913年飯田炭砿として開発、1915年三菱鉱業(株)が買収、1973年廃鉱。
• 強制動員規模:約3,000人余
• 委員会申告件数:美唄鉱業所約420件

美唄鉱業所

三菱鉱業(株)

※三菱美唄鉱業所ガス爆発事故と朝鮮人犠牲者
1941年3月16日、三菱美唄鉱業所「通洞坑(水平に通じた坑)」でガスが爆
発して177人が死亡する大事故があった。この事故で53人が現場に閉じ込
められ、そのうち朝鮮人犠牲者14人が埋没したまま、残されている。14)ま
た1944年5月16日には、「竪坑(垂直に通じた坑)」北部でガス爆発事故が
発生し、瞬時に109人が命を失ったが、そのうち朝鮮人は確認されただけ
でも70人を超える。15)

12) 白戸仁康『美唄由来雑記』美唄市2001年72ページ。
13) 前出『北海道と朝鮮人労働者』170ページ。
14) 白戸仁康作成資料、

「三菱美唄炭砿フィールドワークコース案内」4ページ、(2006年10月北 

海道出張時に入手)。

15) 委員会調査の過程で、1944年5月16日、三菱美唄炭砿でガス爆発事故に遭ったが、劇的に助

かった生存者の千(チョン)マンスが確認された(北海道強制動員口述資料集『青森超えて北海
道へ』に口述を収録)。

美唄市

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64 _ 写真で見る強制動員の話

賞状

柳順煕は1940年3月、三菱鉱業(株)美唄鉱業所へ動員され、契約期間の2

年を終えて家に帰って来た。賞状には、彼が「1940年3月に入所して2年間
仕事をした」という内容が書かれている。当時、労務者に与えられる「賞
状」は石炭増産の督励策だった。この賞状は契約期間が満了した労務者の功
績を表彰するものであるが、労務者に見習わせるために出され、生産増産の
ための督励の手段だった。

賞状の内容通り、柳順煕は 2 年間の契約期間を模範的に終えて家に帰還し

た。しかし、アジア太平洋戦争が激しかった 1944 年 3 月、「一戸に男子が 2
名以上いたら、駄目だ」との理由で、再び北海道の名も知らない土木工事場
へ動員された。土木工事場で作業中に、高所から落ちて膝にひどいケガを負
った。

「募集」と「官斡旋」で動員された労務者と企業間の契約には、労働条

件や待遇に関する内容は盛られず、単純に期間(2年)だけを明示するのが一
般的だった。契約が満了すると、自動的に再契約を締結したものと処理さ
れて、本人が望まないのに強制的に再契約手続きがなされることが多かっ
た。「徴用」の段階では、このような再契約の締結という手続きも不要にな
った。会社の立場からみれば、2年という期間で熟練した労務者を家に帰し
たくないのは当然であり、特別な問題がない限り、強制的に再契約を締結さ
せて、労務者を作業場に縛り付けようとした。また2年の契約期間満了後に
故郷に帰ってきても、柳順煕のように再び強制動員されるという二重の被害
を受けた事例もある。

 16)

柳順煕(ユ・スニ)が1942年4月2日に三菱鉱業
(株)美唄鉱業所から受けた賞状。賞状の内容
は、「柳順煕が1940年3月に入所してから2年
間、業務に精励し、功績が顕著であるので賞状
を授与する」というもの。賞状の内容から、彼
が美唄鉱業所に1940年3月に入所して2年間勤務
したという事実を確認できる。
賞状の左には若い柳順煕の写真がある。柳順煕
の息子は、写真があまりに小さく、失くす心配
があり、当時の父親の姿を残したいため、写真
を表彰状の上段に貼った。賞状の名前の上の写
真には青年の姿が鮮明に残っている。

内 容

題 目:賞状
発行者:三菱鉱業株式会社美唄鉱業所
発行日:昭和17(1942)年4月2日
内 容: 昭和15(1940)年3月に入所してから2年間、

社則を重んじ、業務に精励し、事業に盡瘁
した功績が顕著であり、ここに賞状を授与
して表彰する。

16)  前出「朝鮮人強制連行強制労働Ⅰ:日本編」105~106ページ参照。

柳順煕の賞状/柳ギイル(柳順煕の子息)提供

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66 _ 写真で見る強制動員の話

金炳澤の徴用告知書/金セギュ(金炳澤の子息)提供

私は1924年に慶北善山郡(現在の亀尾市)で

生まれました。13歳になった頃、農業がうま
く行かなくて食べるのが困難になり、家族と
一緒に日本へ移住することになり、善山を離
れました。私が善山を離れた年は干ばつがと
てもひどかったのですが、後で聞くと、人々
は自分の場所に水を引くために、小川でひど
く争ったそうです。食べて生きるのが苦しか
ったため、故郷の人たちの中には満州へ渡っ
た人も少しいたそうです。

うちの家族は日本の名古屋の近郊にある瀬

戸市に移りました。瀬戸市は稼ぐために日本
へ移住した朝鮮人が沢山いた所で、器を作る
工場が沢山ありました。ここに引っ越しして
きた朝鮮人たちは、器材料の土を掘りだす仕
事や工場での器づくりをしました。私と父も
工場で働きました。

私が17歳になった年(1940年)4月、瀬戸市

に住んでいた朝鮮人50人余と一緒に、勤労
報国隊の名前で北海道の炭鉱へ行くことにな
りました。それは徴兵と同じだったので、行
きたくなくても行かないわけにはいかなかっ

たのです。その時、私と同じ北海道へ行った人たちはみ
な、私と歳が同じくらいでした。

汽車と船を乗りついで到着したところは三菱美唄炭砿

という所でした。宿所は軍隊の内務班のようで、一部屋
が 100 人程度一緒に寝られるほど大きかったです。その
大部屋で一緒に行った人たちとずっとともに生活しまし
た。その頃は戦争で食べ物が貴重な時代なので、豆とコ
メを混ぜた豆飯を貰いました。飯に入る豆は味噌玉を作
る豆で、とてもまずく、うんざりして沢山は食べれません。

作業時間は夜と昼を区分して2交替に分けていました。

朝に坑内に入る人の場合、朝食を食べて午前7時頃入って
午後6時に出たようです。昼に働く人は、昼食弁当を持
って坑内で食べます。坑内で仕事するには、炭車に乗っ
て20分ほど行きます。坑内に暫く入ると、また四方に向
かう所があります。そこでまた各自の坑に配置されて行
きます。私は坑内で柱を立てる木材運びを主にしました
が、時には、炭を掘ったり炭を車に乗せることもしまし
た。土のなかに入っている大きな石炭を掘るのですが、
その石炭は質がとてもよくて、火を近づければよく燃え
るそうです。

私はその時身体が若かったので、ひどいケガをしたこ

とはなかったけど、仕事中にケガをした人は多かったで
す。ある時、仕事中に滑って壁に指をひどく打ち付けて
左手人差指一節がちぎれました。ほかの人に比べれば、
大きな負傷でもなかったです。体が辛いより、真っ暗な
所で灯りひとつを頼りに危険な仕事をする、その恐ろし
さにとても耐えられなかったです。月給を貰うことは貰
ったけど、なにせ少なくて幾ら貰ったのか良く覚えてい
ないです。

美唄炭砿には、「タコ部屋」という宿所が別にありま

した。そこでは金を受け取って売られて来た人たちが奴
隷のように仕事をしました。その人たちは列を組んで仕
事場に来ましたが、列を離脱すれば鶴嘴(つるはし)で殴
られました。「タコ部屋」の人たちは危険な所ばかりで
仕事するので、死ぬ人も多かったけど、どうやって葬式
をしたのかは知り得ません。仕事中にその人たちと出会
うことはありましたが、その人たちはソバを砕いたもの
を昼食にしていました。監視が厳しくて話もできません
でした。その人たちの場合、逃げて捕まったら死ぬとい
うウワサを聞きました。

私は契約期間を決めてきていたので、途中で帰れま

せんでした。4 年契約が終わるころ、軍隊へ行く歳にな
って徴兵にかかりました。炭鉱から出て、徴兵を待つた
めに瀬戸市に帰って来ました。瀬戸市に帰って来たのは
1944 年の夏と記憶します。徴兵を待つ間も器工場で仕事
しました。それで幸いなことに軍隊へ行く前に解放にな
り、家族全員で故郷、慶北の善山に帰ることができました。

私は今まで戦争を 3 回経験しました。最初は日本へ引

っ越しをするときに「シナ事変」が起きて世の中が騒が
しく、炭鉱で働くときは「大東亜戦争」真っ盛りでした。
解放後に家に帰ってきて少し後にまた 6・25 戦争が起き
て軍人として参戦しました。振り返ってみると、本当に
大変な時代を生きてきたように思います。

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

金鍾培(キム・ジョンベ)
・1924年、慶尚北道善山郡で出生
・1936年、家族と一緒に日本の瀬戸市へ移住
・1940年4月、三菱鉱業(株)美唄鉱業所へ動員
・1944年、徴兵通知を受けて瀬戸市へ戻り、
 器〔陶器〕工場で仕事しながら、徴兵待機
・1945年、解放後に家族と故郷へ帰還

金  鍾  培の話

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日帝強制動員被害者支援財団

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68 _ 写真で見る強制動員の話

美唄炭砿で撮影した金鍾培の団体写真

キムジョンベ

瀬戸勤労報国隊 誠心寮 隣保班 精勤競争優勝記念写真/金鍾培寄贈

日本愛知県瀬戸市から北海道の三菱鉱業(株)美
唄鉱業所へ動員された朝鮮人の団体写真(1940
年5月頃)
 

2 列目左から 5 番目が金鍾培 ( 点線丸の中 )。寄贈当時、彼は写真を見て昔

の記憶を思い浮かべ、

「お爺さん、立派でしたね」という調査官の誉め言葉に、

「若い時分に虎を捕まえれない人間がいるものか?」と笑いながら受け流した。

写真の人たちはみな愛知県瀬戸市で暮らしていた朝鮮人で、金鍾培と一緒

に動員された。前列中央の帽子がない二人は「日本人引率者」だ。この写真
は金鍾培が動員されて 1 ~ 2 か月後、生活していた宿所の前で写した。写真
で宿所の名前、「誠心寮」の三文字が鮮明だ。「精勤競争優勝記念」という文
句を見ると、石炭増産のために宿所別に対抗戦を開き、一番熱心に仕事をし
た労務者が属した寮と班の構成員を表彰したことが類推できる。しかし、金
鍾培本人は「言うことを良く聞き、良く働いたと撮った写真、どうせ北海道
に来たから記念しようという気持ちで写真を撮って配った」と記憶している。

写真の人たちは、「地下足袋」と脚

きゃ

はん

を着用している。帽子の真ん中の白い

部分はキャップランプ ( 電球 ) を装着するものだ。上着は作業服の代わりに家
から着てきたきれいな服に着替えた。写真の人たちはみな金鍾培と歳が同じく
らいなので、ほとんどは 1944 年に徴兵対象年齢となり、家に帰ったという。

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70 _ 写真で見る強制動員の話

金鍾培の写真

この写真は、前出の団体写真を撮影した後、
同日に写真館で撮影した。金鍾培の右腕の
腕章は作業場に到着するや支給されたもの
で、「瀬戸勤労報国隊」と記されている。写
真撮影のため、動員当時に家から着てきた
服と帽子を引っ張り出して着用した。
金鍾培は彼の家族と一緒に疲弊した故郷の
農村を離れ、日本へ移住した。彼の家族だ
けでなく農村の没落で生活手段を奪われた
沢山の人が新しい生活の方途を探して日本
へ渡った。しかし戦争とともに始まった労
務動員は、彼を含んだ移住朝鮮人たちにも
避けれないものだった。殊に金鍾培のよう
な若者たちは、労務動員だけではなく徴兵
による動員まで強いられた。

「タコ部屋」とは、労務者の人身が拘禁される状態の宿所を意味する言葉だ。「タコ」とは日本語で、海の蛸を意味する。つまり、タ

コ部屋を直訳すれば「蛸の部屋」になる。ここに収容された労務者を卑下して「タコ」と呼ぶが、そこでは一切の自由が許されないまま、
過酷な労働だけが課せられた。

明治政府は北海道開拓初期に土木工事場以外、炭砿・鉱山の採掘・精錬などに囚人を使役させた。寒冷下、原始林を開拓するなかで

多くの犠牲がでた。この罪囚労働は 1894 年に廃止された。罪囚労働が廃止された以降、開拓のための土木工事などに民間業者の請負が
増加し、業者は飯場を作って労働者を収容した。この労務者の合宿所は罪囚労働の悪しき慣例を継いで人身拘禁形態の宿所へと変質し、

「タ

コ部屋」または「監獄部屋」と呼ばれるようになった。ここに収容される日本人は、前借金を貰って体を売ったり、罪を犯して逃亡した
人が不法な人身売買の形態で連れて来られることが多かった。

「タコ部屋」労働者に対する酷使と虐待が社会的な問題になって、ひと時、改善の兆しがあった。しかし、戦時の労務動員体制が始ま

るや、この改善の努力は消えてしまった。また、強制動員された朝鮮人の相当数が北海道各地の土木工事場と炭鉱で「タコ部屋」に収容
され、最底辺の労働者として過酷な労働を強要された。

特に北海道の土木工事場はアジア太平洋戦争が終わるまで、大部分の労働者の宿所が「タコ部屋」形態で運営された。請負業者は入

札金額内で、利潤を多く残すため、労働者の賃金を極端に低くした。そのために奴隷的搾取がなされ、低い賃金に比べて食費と必需品は
高く、労働者の生活をいっそう苦しめた。また、長期の労働を強いるために、「タコ部屋」内では公然と暴力支配による階級秩序が形成
され、この秩序を犯したり逃亡する場合には、死に至るほどの制裁が加えられた。

北海道に動員された生存者の相当数がこのような「タコ部屋」の記憶を持っている。土木工事場に動員された人の場合、「本人がタコ

部屋に収容されて働いた」と陳述するケースが多い。また、炭鉱や鉱山に動員された人場合は、その目撃の陳述が多い。

炭鉱や鉱山を運営する企業が、所属労務者をうまく統制・管理するための威嚇手段として、「タコ部屋」を利用したケースもあったと

みられる。炭鉱・鉱山に動員された生存者の多くが、「そこの労働者は監禁され、暴行され、危険な仕事ばかりさせられるという噂をし
ょっちゅう聞いた」、「タコ部屋はとても恐ろしい所で、炭鉱から逃亡して捕まったらタコ部屋に送られた」と陳述している。

●「タコ部屋」の語源  ●

「タコ部屋」の語源については定説がない。この名称の由来を一つに限定できない理由は、労働者、監督、または幹部、労働

者を雇用する親方など、それぞれの立場によってこの労働形態への見解が生じるためだ。
語源について①タコを捕まえるツボのように一度入ったら出てこられないという意味、②一度「タコ部屋」に入ったら出て
こられなく、結局は蛸が自分の手足を食べて生き残るように自分の体を売って生きるという意味、③ほかの地で斡旋業者に
集められた労働者 ( 他雇 ) という意味、④労働者がいつも逃亡の機会を狙っていて逃亡する脚が早いので糸の切れたタコ ( 凧 )
に比喩するという意味などだ。委員会の被害調査過程であったある生存者は、「タコ部屋」の語源について「人を骨が無くな
るほど殴りつけて働かせる意味」と陳述した。

「タコ部屋」

金鍾培の写真(1940年5月頃)/金鍾培寄贈

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72 _ 写真で見る強制動員の話

三菱鉱業(株)大夕張鉱業所の歴史は、大夕張炭鉱会社が運営して
きたものを1912年に三菱鉱業が買収して始まった。大夕張鉱業
所が位置した夕張市は、良質の鉄鋼コークス用の原料炭の生産地
として有名だった。三菱鉱業の主力炭鉱として最全盛期には年間
90万トンを算出したが、原料炭輸入のために繁栄の歴史を終え、
1973年に廃鉱になった。
三菱大夕張鉱業所は1939年に朝鮮人労務者591人を動員したのを
はじめ、毎年数百名以上の朝鮮人をずっと強制動員し、1945年6
月末には1,936人の朝鮮人がいたことが確認される。17)

• 北海道夕張市所在
• 1898年採掘を開始。1912年三菱鉱業(株)が買収。1973年廃鉱
• 強制動員規模:約2,000人余
• 委員会申告件数:約190件

大夕張鉱業所

三菱鉱業(株)

17) 前出『北海道と朝鮮人労働者』170ページ

夕張市

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74 _ 写真で見る強制動員の話

大夕張鉱業所 慶尚北道英陽隊一同の写真

北海道苦楽歌

「北海道苦楽歌」は、姜三術自身が強制動員で懐かしい故郷を離れて北海道に到着するまでの過程を、すぐに始まった辛い炭砿生活を見える形で、
文章で詳細に記録したものだ。大部分が4・4調に合わせて歌を吟じるようなリズム感を与える内容である。この文を読んでいると、姜三術の体験
を直接見たような錯覚に陥るほど、非常に詳細な内容だ。北海道苦楽歌は動員当時の生活と労働を詳細に記録し、強制動員地での苦しみや苦痛の心
理状態を詩的に表現したものである。強制動員と作業場の実情を知ることができる点、被害者の心理的状態が良く表れている点、記録形式の独特な
点、文学的表現が優秀な点などの側面から、とても貴重な資料と評価される。
姜三術は1942年12月2日、慶尚北道禮泉郡に居住し、70人余と一緒に三菱鉱業(株)大夕張鉱業所に動員された。『北海道苦楽歌』は動員当時の状況
から労働生活を生き生きと記したものであるが、姜三術が2004年7月に享年85歳で亡くなり、彼の息子の姜ソンガプが小さな冊子(右写真)として発
刊した。日帝強占期の強制動員の実情を姜三術の詩を通じて覗き見ることができる。ここに「北海道苦楽歌」の一部を掲載する。

最後列右側の人物が写真を所蔵していた黄ハチュル(点線丸内)。写真の後ろ側には「北海道大夕張鹿島市〔ママ〕、親和寮内、「慶北英陽隊一同」と
手書きで記録されている。写真裏面の記載内容から、写真の人物たちは慶北英陽郡から黄ハチュルと一緒に動員されたもので、みな「親和寮」で生
活したことが推定される。参考に、黄ハチュルは1943年7月頃に動員され、解放後に帰国したという。

大夕張鉱業所 慶尚北道英陽隊一同の写真/チョン・スナム(黄ハチュルの妻)寄贈

姜三術(カン・サムスル)自筆の「北海道苦楽歌」原本(左)/姜三術作「北海道苦楽歌」

(右)

姜ソンガプ(姜三術子息)寄贈

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76 _ 写真で見る強制動員の話

北海道苦楽歌

辛い 辛いも/家を離れるのが 辛い/そのうちに 日が迫り/12月 

初二日/朝食を 食べた後/行装整え 出発しろって/できない で

きない/父母離別 できない/二十歳青春 若い妻が/涙を流し 言

う言葉/引き留めても 行く貴方/何を 困って/何が 足りなくて

/私と一緒に 行こう/そうこうして 別れ/

わが面に 到着すると/左右に 座った書記/12人が 集まった/巡

査3人 歩哨に立ち/わが面長 語った後に/面事務所 離れて/郡

庁で 調査受け/警察署に 入ると/全郡から 集まった人/73人 

集まった人/旅館に 入って/ひと眠りも できず/

そうこうし 夜が明け/朝飯を 食べ/募集者三人余/ドキドキ 寄

って来て/今日から 古い服脱いで/洋服着て 紳士になれ/服一着

ずつ 呉れた/その服貰って 着た後に/細かく 検査して/新所管

邑に 分けて/また一夜を 過ごした/

禮泉邑に 一晩泊り/初四日 明け方の朝/金泉行に 乗って/駅前

に 出たら/南空 空中に/鳴きながら行く あの雁や/どこに 行

くのか/あのように 鳴いて行く/今日この日 この身も/お前のよ

うに 身は定まらず/いつのまにか 駅に着き/金泉行に 乗る/

速いこと 汽車の速力/黒煙 汽笛/故郷痕跡 跡形もなく/金泉駅

に 来た/急いで降りた 駅前で/汽車時間を 待って/釜山行き 

乗って/あっという間に 釜山に来て/旅館に 入って/朝飯を取っ

た後に/水上警察 検査受け/危ないこと この上なく/詳しい検査 

限りなく/また一晩 過ごし/萬頃蒼波 広い海/連絡船に 乗り/水

上 二階/水下 一階/

日本国に 到着し/連絡船を 降りると/左右に 刑事巡査/何の調

査 こんなに多い/駅前で 饅頭ひとつ/貰って 食べた後/東京行

き 直行車/いち早く 乗り/無数の 停車場/一つひとつ 見て/

文明の 今世界よ/こうして 発達なのか/東京駅に到着し/皇居遥

拝 しようと/敬礼の 礼をして/電車に 乗って来て/

あの城か この城か/心 果てしない/

青森18)行に 乗り/青森駅に 到着し/また海に 行き当り/連絡船 

待機し/その連絡船 急いで乗り/大夕張は どこだったか/矢のよ

うに 早い汽車/向かいに 着いた/12月 2日朝/家を離れ 此処

まで/12日 夕方に/目的地に 到着し/日数は どれくらいか/11

日間に なる/四方を 見渡すと/山中では ないか/

引率者に ついて行って/一心寮に 入って見ると/人夫室が 12

号だ/事務室は 一つだ/特別室も 一つだ/炊事場は 一つだ/4

号室を 指定され/4号室に 入って見ると/寒々した 板の間に/

22名 同居だ/大夕張で 朝鮮の寮が/7つの寮が あったが/一心

寮と 忠誠寮は/慶北人が 独り占め/わが半島 同胞人/何千人に 

なった/

朝鳥 鳴いたか/時計の鐘が 時を打つ/5時だ 30分が/仕事時間 

明確だ/初鐘の音 起きて/朝飯を 食べて/ベント19)ひとつ 包み

持ち/坑内衣服 整えて/心そぞろに 入っていく/タバコ検査 厳

重だ/坑内服を 全部着て/電灯パッと 点いた/その電灯を 額の

上に/帽子の端に 付けてみる/重いこと この上ない/外れること 

始終/亀のような 丸い電車/12人が 乗って/電車いっぱいに な

った/のろのろ 行く電車/坑内に 入って行く/涙流し 考えて/

真っ暗闇 坑内に/何しに 入るのか/

現場に 行く道は/とても狭く 梯子のようだ/脚は なんでこんな

に/痛くて 堪らない/シャベルは とても/重たい それでも/帽

子と 電燈灯は/数限りなく 外れる/降り立って みると/ずべて

平地に 至った/天井を 見上げるに/横木 砕け/鋭く 突き出た

石が/頭を 殴るようで/腰を 伸ばせずに/這って 入って行く/

こうしろ ああしろ/やかましく 指図するが/言葉を知らない こ

の半端者/しゃべれぬ者と 違わない/振り返ると 朝鮮人/10数人 

居た/内地人が 主人で/日本語が通じる だけだ/スコップで す

くって入れる/早くしろ 催促する/一分も 休まず/一分も 休む

間がない/

ぎっしり 並んだ坑木/崩れそうな 音がする/はかない この命/

如何に 守るのか/星を見て 出たのが/星を見て 帰って来た/10

時間 働いたか/14時間 かかった/働いて 家に帰っても/誰も喜

ぶ 人はない/

行けないよ 行けないよ/脚が痛くて 行けないよ/寮長に 言うと

/怒って 言うことには/働けないなら ここに/何しに 来た/死

ぬような 罪を犯した者なのか/刑務所と 変わりがない/見ると 

けが人/聞くと 死んだという/それを 見るたびに/涙が 流れる

/二回は 飯呉れて/一回は お粥を呉れる/元気な 若者が/腹を

空かせて 堪えられない/

朝鮮の 我が家は/夕飯を 食べるけど/私は何故 働きに行く/スコ

ップを掴んで 考えるに/今頃 わが家では/ぐっすり 眠っているだ

ろう/ここ私の この体は/遠く離れた 土の中で/昼夜を 知らず/

こんなに 苦労して/人知れず流れる 涙は/数知れず 泣いた/

18) 青森県
19)「弁当」

姜三術自筆の「北海道苦楽歌」 原本の一部分/姜ソンガプ(姜三術の息子)寄贈

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78 _ 写真で見る強制動員の話

野村鉱業(株)置戸鉱山の主要産出物は水銀である。水銀は太平洋
戦争当時、魚雷の起爆装置に使われる重要な軍事物資だったため
に、増産が督励された。
置戸町史などによれば、置戸鉱山は1945年まで4年間、操業して
朝鮮人と中国人1,300人余りが強制動員され、採掘作業に投入され
たという。20)

• 北海道常呂郡置戸町所在
• 委員会申告件数:10件

置戸鉱山

野村鉱業(株)

20)

  「 置戸鉱山中国・朝鮮人殉職慰霊碑」、『経済の伝書鳩』

(北海道北見・網走の地域新聞)2008年5

月26日付。http://denshobato.com/bd/news/page/24658.html

置戸町

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80 _ 写真で見る強制動員の話

置戸鉱山で撮影した馬点洙の団体写真

円内の人物が馬点洙。彼は17歳で置戸鉱山に
動員された。他の人たちに比べ、特に幼く見
える。写真裏面に自筆で記録した内容から、
1945年7月22日、置戸鉱山で撮影したものと知
ることができる。

写真の裏面には馬点洙の名前、置戸鉱山の住所
と写真を撮影した日(1945年7月22日)が記され
ている。

左写真の裏面

内 容

昭和20年(1945年)
北海道常呂郡置戸村
置戸鉱業所で 7 月 22 日に撮影
 

1944年11月、全羅北道金堤郡に住んでいた馬点洙は、17歳の幼い年に野

村鉱業(株)置戸鉱山に動員された。当時、面事務所戸籍係長は馬点洙に「義
務であり、行かなくてはならない」と言った。馬点洙の父親は金堤駅まで見
送りにいったが、父親と一緒に金堤駅に到着すると沢山の群衆が集まってい
たという。そのまま汽車に乗り、握り飯を食べ、北海道まで移動した。北海
道まで行くのに一か月以上かかるという遠く長い旅程だった。

一緒に動員された人たちは、現場で6つの隊に分けられ、倉庫のような宿

舎で25人ほどの人員が一緒に生活した。労務者たちは朝5時に起きて、6時
に朝飯を食べ、4㎞もの雪道を歩いて鉱山へ移動した。

当時は、戦争がひときわ激しくなった時であり、食べ物は不足した。ある

日、同僚の一人が腹が減ってがまんできずに、大根を畑からこっそり採って
食べたのが発覚し、ひどく殴打されたことがあった。その様子を見た馬点洙
は、怖くなり、逃亡を決心した。ひと月にいくばくか貰う賃金はすべて飢え
をしのいだり、歯磨きなどの生活必需品を買うことに使った。

解放後、船を待ち、1945年11月になって帰郷できた。彼は帰郷も動員と

同じように突然だったと記憶している。夜10時頃に突然集まり、港へ向かう
汽車に乗り、それから船に乗って釜山港に到着した。

馬点洙の置戸鉱山についての記憶は3枚の写真に残っている。馬点洙は生

涯日記を書き、些細な領収証までもみな保管しておくほどの几帳面な性格の
持ち主だ。そのため当時の写真もいままで保管されてきた。すべての写真の
裏面に撮影時期が記されている。

置戸鉱山で撮影した馬 点 洙 の団体写真/馬ドンファン(馬点洙の子息)提供

マチョムス

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82 _ 写真で見る強制動員の話

置戸鉱山で撮影した馬点洙の写真

馬点洙の写真

馬点洙が置戸鉱山で撮影した個人写真。写
真の右側下段には彼の小さな証明書写真を
貼った。裏面には写真を撮影した年(1945年)
だけが記載されている

馬点洙の写真/馬ドンワン(馬点洙の子息)提供

右側端が馬点洙。身長順に立ち、みな同じ姿勢で撮っているのが印象的だ。裏面には馬点洙が自筆で彼の名前を書き、昭和20年(1945年)6月に撮影
したと記している。

置戸鉱山で撮影した馬点洙の写真/馬ドンウォン(馬点洙の子息)提供

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84 _ 写真で見る強制動員の話

茅沼炭鉱は、北海道積丹半島の日本海側の岩内市から北へ約12㎞
に位置する古宇郡泊村に所在している中小規模の炭鉱だ。規模は
小さいが、北海道地域の炭鉱で最古の歴史を持つことで有名であ
る。1856年に石炭が発見され、1864年に開坑されてから100年余
りにわたって採掘が続けられてきた。
茅沼炭鉱は1939年10月の130人をはじめとし、毎年朝鮮人労務者
を動員し、1944年5月末に825人、1945年6月末に555人の朝鮮人
労務者がいたことが確認できる21)。
最大数の1944年の825人と逃亡や契約期間満了、負傷などで帰還
した数を考慮すれば、戦時期の茅沼炭鉱には1,000人余りの朝鮮人
が動員されたと推測できる。現在、委員会では茅沼炭鉱選挙権名
簿(選挙権下調書)や茅沼関連の死亡者名簿を強制動員被害者の認
定の基礎資料として利用している。

• 北海道古宇郡泊村所在
• 1864年開坑。1964年廃鉱。
• 強制動員規模:約1,000人
• 委員会申告件数:約100件

茅沼炭砿

茅沼炭化砿業(株)

21) 前出『北海道と朝鮮人労働者』166ページ

泊村

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86 _ 写真で見る強制動員の話

李泰仲が茅沼炭鉱で同僚と共に撮影した写真。
正確な撮影理由と日にち及び撮影場所は確認で
きない。一番前に座っている人々は日本人監督
官。 李泰仲本人の陳述を得ることができなく
て、残念ながら写真の中でだれが李泰仲なのか
は確認できなかった。

  

委員会所蔵
(茅沼炭鉱労務者名簿―選挙権下調書)中 
李泰仲の人的事項が記載されているページ

この名簿は茅沼炭鉱に居住していた朝鮮人労
務者の中で、選挙権がある者(1945.9.15を基準
とし、満25歳以上の成人男子)を調査した名簿
だ。この名簿で李泰仲が1943年3月9日に茅沼
炭鉱に動員され、奉公寮で生活したことを確認
できる。  

茅沼炭鉱で撮影した李泰仲の団体写真

イ・テジュン

李泰仲(イ・テジュン)は1943年3月、慶尚北道盈徳(ヨンドク)から茅沼炭鉱へ

動員された。彼の息子は、この写真は父親が解放後に帰国する前、同僚と
一緒に撮影した写真だろうと言ったが、撮影理由と日にちは正確には分か
らない。

李泰仲の息子は父親の当時の状況を次のように回想した。「日本から帰っ

てくるとき、この写真とカバンを持って来ました。カバンの中には日本で
はいた靴、日本語で下駄という後ろ側がすっかり減った木で作った靴があ
りました。写真についての詳細な話は聞けませんでしたが、「一番前に座っ
ている人が日本人監督官だ」という話は思い出せます。一緒に働いた人た
ちと撮った写真で、写真の人たちの名前を呼びながら写真を分けてくれた
と言いました。」

写真左上段のシミは、保管中にインクをこぼして付いたという。

茅沼炭鉱で撮影した李泰仲の団体写真/李ワンスル(泰仲の子息)提供

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88 _ 写真で見る強制動員の話

金炳澤の徴用告知書/金セギュ(金炳澤の子息)提供

私は戊辰生れの辰年です。私は17歳にな

った年に日本の北海道にある炭鉱へ行って働
きました。その時、邑による徴用があったと
記憶しています。当時、邑事務所の職員が人
を捕まえようと村のあちこちを回っていまし
た。西厳里から金堤邑事務所に行くと、私と
同じように(日本へ)行く人たちが集まってい
ました。邑事務所の職員が、日本の炭鉱から
来た職員に私たちを渡したんです。

邑事務所で、金堤駅で汽車に乗るために行

くとき、沢山の人が見送りに出てきました。
大部分が家族だったようで泣いている人が多
かったです。私もやはり泣いている母親を後
にして故郷を離れました。金堤駅から汽車に
乗っていき、麗水で船に乗りました。日本に
到着して汽車に乗り、随分待機し、また船に
乗って北海道へ行きました。北海道まで数週
間程度かかったようです。金堤から一緒に70
人余が出発しましたが、移動途中で何人かが
逃亡し、結局、50人ほどが北海道に到着しま
した。

炭鉱の名前は、「岩内炭砿」と記憶してい

ます。22)炭鉱周辺には海がありました。見慣れない海岸で
故郷の歌を歌いながら泣く人が沢山いました。炭鉱に到
着後、4日間は働かないで遊ばせてくれました。その4日
が過ぎると、すぐに炭鉱働きが始まりました。

私は炭鉱から掘り出した炭を外へ載せて運ぶ仕事をし

ました。一日2交代で2組に分けて働き、一組に属した40
人程度の人員が何か所かに別れて入って行きました。坑
内の石炭を掘りに行き、割当量を達成すると、外へ出る
ことができます。割り当ては10トラック〔トロッコ〕、15
台トラックで、炭の質によって違います。23)割り当てられ
た仕事を終えないと宿所に帰れないので、思うように休
めないまま、仕事をしました。

坑内に入る時、監督官が団体別に引率し、木札を炭鉱

入口で電灯付き帽子と替え、入って行きます。木札を持
ってこなかった人は、その日の仕事ができません。仕事
ができない人は飯も与えられません。たまに仕事がきつ
くて逃亡する人もいましたが、捕まると、ひどく殴打さ
れました。また、仕事中に休んでいるのが見つかると、
監督官が殴打したり、飯を抜いたりしました。本当にひ
どい所でした。

ある時は韓国から慰問公演が来たことがありました。

その時も故郷の思いに泣く人が多かったです。そしてそ
の日の夕方に15人が逃亡しました。逃亡して捕まった人
たちは、鶴嘴で叩かれました。炭鉱で働く人たちをみな
呼びだして、見せしめに殴打したのです。

「飯場」で生活しましたが、20人以上の人たちで、一

部屋を一緒に使いました。炭鉱で働かなければ、「タコ
部屋」や、千島24)に送られると聞きました。働く労務者
はみな韓国人で、日本人はほとんどが監督です。近所に
中国人捕虜もいましたが、彼らは韓国人よりもっと生活
が悲惨だったと記憶しています。

炭鉱内には小さな火葬場がありました。働く途中事故

や病気で死んだ人は火葬にしますが、その後にどんなふ
うに処理がされたのかはわかりません。炭鉱内には小さ
な病院もあって、怪我をすればそこに行って治療を受け
ます。私も炭鉱で仕事中に炭車がひっくり返って右脇腹
の骨をケガしました。病院で手術を受けて3か月程度の治
療を受けた後、また炭鉱に戻って働きました。今でもケ
ガした所が痛くて苦労しています。

賃金は、一日1円30銭程度で、ひと月の給与は13円ほ

どになります。でも、各種の名分で皆持っていかれ、手
に残るのはひと月に5円程度でした。監督官の言葉では食
費を除いて残りは貯金して、帰るときに渡すと言ってい
ましたが、解放になって出発するとき、貯金した賃金は
貰えませんでした。

炭鉱で3年間働いて解放になりました。解放後は帰国

の順序を待って、船に乗って帰って来ました。米軍が来
て、私たちを送り出してくれたのです。家に帰ると家族
と近所の人たちがとても喜びました。特に母親が随分と
泣きました。帰郷途中で船が爆撃されて死んだ人も多い
と言いますが、私は生きて帰って来ました。それだけで
も幸せこの上ないと考えました。

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

朱龍根(チュ・ヨングン)
・1928年全羅北道金堤で出生
・1942年3月茅沼炭鉱へ動員
・1945年解放後、本籍地に帰還

朱  龍  根の話

22) 朱龍根が陳述する「岩内炭砿」は、「炭鉱周辺に海岸があった」と述べたことから茅沼炭鉱を指すものと推定される。彼は炭鉱名を茅沼炭鉱近隣の町である「岩内」と記憶

している。

23) ここで「トラック」とは、炭車を意味して、日本では「トロッコ」と呼ばれる。
24) 千島列島:クリル列島を指す日本語。ロシアサハリンと北海道の間に維持する30以上の島嶼からなる火山列島。

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90 _ 写真で見る強制動員の話

朱龍根の写真

朱龍根が動員地(茅沼炭鉱)で撮影した個人写真。写真の服装は、仕事を終えて平時に着たもので、炭鉱で支給されたと言った。裏面には自筆で本人
の名前と「17歳3月24日」と記されている。

朱龍根の写真/朱龍根提供

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92 _ 写真で見る強制動員の話

上国鉱業所は北海道桧山郡上ノ国町に位置し、マンガンを産出す
る鉱山である。1943年8月から中外鉱業株式会社が買収し、マン
ガン鉱山としては日本最大の規模だった。1986年5月廃鉱。

• 北海道桧山郡上ノ国町所在
• 1943年中外鉱業株式会社が買収、1986年廃鉱
• 委員会申告件数:10件

上国鉱業所

中外鉱業(株)

上ノ国町

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94 _ 写真で見る強制動員の話

朴英俊の死亡に対し、その家族に支給した扶助
料の金額とその項目を記録した支給明細書。薄
い紙に鮮明に刻まれた「上国鉱業所」の印と朴
英俊の創氏名の「星村英俊」を確認できる。

内 容

題目:故星村英俊君家族扶助料竝支給明細書
項目: 家族扶助料、香奠、諸掛赤字金、差引合計支

給金

 
  

家族扶助料支給明細書

朴英俊は(パク・ヨンジュン)は1943年冬、忠清南道洪城(ホンソン)から中外鉱業(株)

上国鉱業所に動員された。家族ははじめ、彼が何処へ行ったのかわからなか
ったが、のちに手紙が来て北海道にいることを知った。そして動員されてか
ら二か月ほど過ぎた頃、日本で死亡したという知らせが来た。日本語を少し
知っていた長男は巡査と従兄が「死んだ」というのを聞いたという。朴英俊
の遺骨は解放後に彼の同行者たちが持ってきた。当時9歳だった長男は父親
の遺骨を受取った場面をこのように回想した。「父と一緒に北海道に行った
人たちが叔父に遺骨を渡し、叔父が遺骨箱を家に持って来ました。母は泣き
ましたが、その時、私は歳が幼く、何のことなのか分からなかったです。木
箱の中に首の骨のようなものが入っていました」。

家族は遺骨を持ってきた人たちから朴英俊が「凍死」したと聞いた。当

初、積もった雪中で遺体を探せなかったが、次の年の春に雪が解けてから、
ようやく探し出したという悲痛な話も一緒に聞いた。家族はその話を基にし
て、除籍謄本に、「北海道上ノ国町で凍死」と死亡事実を詳細に記録しよう
としたが、正確な死亡事実が分からないので記録できなかった。同行者たち
から、彼の遺体が発見された日にちを聞き、その日に祭祀(チェサ)をしている
だけという。

朴英俊の死亡に対する家族扶助料支給明細書/朴キルジン(朴英俊の子息)提供

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96 _ 写真で見る強制動員の話

※ 雄別礦業所労務者の転換配置
戦時期、日本政府は円滑な軍需物資の補給と生産量の増大のため
に必要に応じて一部炭・鉱山の事業を一時終了させ、労務者を他
の作業場に配置し、労務を継続する政策を行なった。
1944年8月、「樺太及釧路に於ける炭鉱勤労者、資材等の急速転換
に関する件」の閣議決定を根拠に、北海道の釧路炭田一帯の炭鉱
に、一斉に休・廃鉱処置が下された。その理由は、戦争状況が悪
化し、石炭の海上輸送が困難な点、釧路炭田の炭質と採掘条件の
不利などであった。25)
釧路地域に所在していた雄別礦業所もこのような政府の緊急処置
によって、千人余りの坑夫と該当設備が九州の三菱系列の炭鉱へ
と移されることになった。

• 北海道阿寒郡阿寒町(現、釧路市阿寒町)所在
• 1917年試掘、1919年北海炭礦鉄道(株)設立、1924年三菱鉱業が経営、

雄別炭礦鉄道(株)に社名変更、1970年廃坑。

• 委員会申告件数:雄別炭礦鉄道(株) 約190件

雄別礦業所

雄別炭礦鉄道(株)

25) 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会『サハリン「二重徴用」被害真相調査』2007年38~

108ページ.

釧路市

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98 _ 写真で見る強制動員の話

金炳澤の徴用告知書/金セギュ(金炳澤の子息)提供

1942 年 6 月のある日、面事務所職員に徴

用令状を渡され、「徴用」に行くようになり
ました。私と一緒に徴用された 100 人余り
の人たちは安東東部国民学校に集結し、安東
駅から汽車に乗って日本に向けて出発しまし
た。その時から徹底した統制と監視が始まり、
個人行動は全くできませんでした。恐ろしさ
に家族のことを思い出しました。安東で汽車
に乗り、〔船に乗り換え、〕日本の下関へ行き
ました。そして、北海道まで行くのに 10 日
ほどかかったようです。

私は北海道にある雄別炭鉱で働くことにな

りました。最初に、「飯場」で生活するよう
になって、服、布団、帽子などを渡され、会
社が紙一枚(借用書)を呉れました。

この紙に書かれている金を、後に月給から

返すことになっていました。そして、ひと月
の月給はとても少なくて帰すのは難しかった
です。炭鉱では石炭採掘作業をしましたが、
仕事に比べて食べ物の量が少なくてとても腹
がすきました。ひと月に 1 円程度出る賃金で
近所の店でジャガイモやうどん等を買って食
べました。

北海道の炭鉱に働きに来た時は、私は17歳の幼い歳で

した。故郷から一緒に行った人たちはみな私より年上でち
ょっと寂しかったです。炭鉱では歳が幼い人を別に集め、
同じ「飯場」を使わせました。年少の人たちは昼に働い
て、夜には軍事訓練を受けなければいけませんでした。仕
事をして、訓練も受けるので、本当につらかったです。軍
事訓練をさせる理由は、私たちをのちに軍隊に送ろうとし
たからです。この文書(赤十字会員証)は、私たちのように

「特別訓練」を受けた者だけにくれる証書です。

はじめに故郷を離れるときは、2 年間働くと契約しま

した。しかし、契約期間が過ぎると、「今は日本の世の中
だから、家に帰る考えはするな」と言って継続させて、
残って働くようにさせました。契約期間の満了後、私と

同僚たちは北海道の炭鉱から福岡県の鯰田炭鉱へ送られ
ました。会社が一方的に送ったのです。福岡の炭鉱では
採炭作業をしました。

1945 年 6 月、私は鯰田炭鉱で働くなか、入営通知書を

受けて帰国しました。3 年を超える時間を日本で働いて
帰国し、うれしく家族と再開しましたが、疾病のために、
また家族と離別しました。軍隊へ行く人たちはいつでも
すぐ死ぬ、だからあんなに危険な炭鉱へ送って働かせる
のだと思いました。私はその時、大邱にある訓練所で訓
練を受けていて、解放になったので、戦場へ行かないで
すみました。考えてみると本当に幸いなことです。

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

尹永旭(ユン・ヨンウク)
・1924年、慶尚北道安東(アンドン)で出生
・1942年6月雄別礦業所に動員
・1944年8月福岡県所在の三菱鉱業(株)鯰田炭鉱に

「配置転換」

・1945年6月入営通知書を受けて帰国
・1945年8月大邱訓練所で訓練中に解放を迎える

尹  永  旭の話

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100 _ 写真で見る強制動員の話

尹永旭名義の借用証。尹永旭が雄別礦業所で生
活必需品と準備金で140円を借用し、借用金は
後で自身の賃金から相殺される内容だ。尹永旭
は、「この文書は炭鉱に始めて到着して飯場で
生活した時、会社が服、帽子、布団などをくれ
た時に一緒に貰ったものだ。記載金額を月給か
ら返済しなければならないが、金額が大きくて
返すのが難しかった」と陳述した。

内 容

借用証(‘借’ は印紙にかくれている)

借用金額:金140円
借 用 人:番号3745 平沼永旭(尹永旭の創氏名)
採 用 日:昭和17年(1942年)6月15日

小生はこの度、貴所に坑夫として採用されるにあた
り、生活必需品と稼働用具、準備金として前記の金
額をまさに借用しました。返済は昭和 年 月 日
分から相当の金額を便宜上、小生の稼働賃金から差
し引いてください。万一小生の稼働賃金が無かった
り不足した場合には保証人の稼働賃金より差し引い
て貴所には損害を与えないようにし、そのため、後
日、借用証を差し出します。
  

借用証

尹永旭が1942年6月、雄別鉱業所に到着した時、鉱業所は尹永旭に服と布

団などの生活必需品と作業服、作業用具などを支給した。これらは炭鉱労務
者に無料で支給されるものでなく、会社が所定の金額を借用する形で支給さ
れるものだった。ここには労務者個人の意思は全く反映されていない。朝鮮
から強制動員されてきた尹永旭は、本人の意思とは関係なく、会社から一定
金額を借用させられ、その金は賃金から強制的に控除された。

借用証にはそれがあたかも本人の意思であるかのように「小生の稼働賃金

から控除してください」、「鉱業所には損害を与えません」という文句が記載
されている。以後、必要な生活品もすべてこの方式で支給され、尹永旭は熱
心に働いても借金は容易になくならなかったと陳述した。会社に債務が存在
する限り、労務者たちは作業場を離れるのは難しかったのだ。また、借金を
返すために、各種手当をより多く支給させるために労働時間を増やすことに
なったのである。

このような借用証書から、〔借用が〕会社が労務者の離脱を防止するため

に使われ、また、合法的に賃金を搾取する手段とされていたことが、判断で
きる。

雄別礦業所発行の借用証/尹永旭寄贈

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102 _ 写真で見る強制動員の話

内 容

発行機関:日本赤十字社
発 行 日:昭和18年(1943年)2月25日

日本赤十字社は当時、趣旨に賛同する平沼永旭
( 尹永旭の創氏名 ) を正社員とする。

尹永旭の赤十字社員証/尹永旭寄贈

赤十字社員証

この証書は、尹永旭を「日本赤十字社の正社員とする」という内容だ。尹

永旭はこの証書を「特別訓練を受けた者たちだけに与えられる特別訓練証書」
と記憶している。

彼がどんな名分で赤十字社員の地位を得たのか、その詳細な状況を知るこ

とはできない。しかし、本人がその意味を正確に知ることができなかったこ
とから、会社側で実施した一般的な処置と見える。

推定するに、会社が賃金搾取の手段として個人賃金の一部を赤十字社に寄

贈し、その後、名目的にこのような文書を発給したのではないかと考えられ
る。赤十字社員の地位自体には何の実益もないが、労務者たちに対し、特別
な証書であるかのように飾り付けて、会社側がごまかそうとしたのかもしれ
ない。

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104 _ 写真で見る強制動員の話

春採炭鉱が位置する釧路炭田は、1857年から開発が始まったが、
春採炭鉱で本格的な採炭が始まったのは1917年だ。1920年からは
三井鉱山に合併され、太平洋炭鉱(株)春採炭鉱になった。
1944年8月、釧路炭田の炭鉱が政府の緊急処置によって休・廃鉱
されて春採炭鉱の労務者たちは九州の三井系列の炭鉱に「配置転
換」された。三菱系炭鉱の「配置転換」と同様、三井系列の春採
炭鉱の労務者は、九州の三井系列炭鉱に移動させられた。26)
1945年秋に採炭が再び再開され、2001年廃坑まで、継続して石炭
事業を続けた。

• 北海道釧路市所在
• 1917年採炭開始。1920年三井鉱山に併合。2001年廃鉱
• 委員会申告件数:約20件

春採炭鉱

太平洋炭鉱(株)

26) 関連内容は、本書の雄別炭鉱(三菱系)の項を参照。

釧路市

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106 _ 写真で見る強制動員の話

金炳澤の徴用告知書/金セギュ(金炳澤の子息)提供

私は1924年に江原道麟蹄郡で生まれまし

た。1942年7月のある日、日本人が江原道麟
蹄郡に炭鉱で働く人を募集に来ました。その
時、私は麟蹄郡で国民学校を卒業し、半島の
北の章川(チャンチョン)にある金剛中学校2年生で
した。家の暮らしが厳しくて新聞配達などを
して学費を稼ぎましたが、私の力では学費の
足しにするにはとても難しく、勉強を全部終
えるのはできそうにありませんでした。そ
れで「小さな町でこんなに苦労するより、日
本でも行ってみよう」という考えで募集に応
じました。私はその時、歳がまだ幼かったけ
ど、日本人も働き手が必要だから、私を連れ
て行きました。

麟蹄郡で 70 人ほどの人が集まり、北海道

へ出発し、半月で北海道の釧路港に到着しま
した。汽車から降り、初めて見た釧路港はあ
まりに見慣れない所でした。すぐに「僕はこ
こに何で来たのだろう」という思いがわき、
涙が出てきました。一緒に動員された同僚た
ちも、私が泣くのを見て気分が良くなかった
でしょう。私が働くことになった炭鉱は、

「春

採炭鉱」という所でした。

韓国人は「協和寮」という飯場で、生活するようにな

りましたが、春採炭鉱には3つの協和寮がありました。

「飯

場」の長は韓国人で、監督は日本人でした。炭鉱には咸
鏡道、平安道、全羅道、慶尚道など各地からきた韓国人
たちが何百人もいました。

春採炭鉱に始めて到着した日、大事件が起きました。

炭鉱には「タコ部隊」27) の人たちがいました。彼らも同
じ韓国人ですが、待遇がとても酷かったです。「タコ」は
日本語で、蛸という意味で、人間の骨が無くなるほどに
たたいて働かせるという意味で「タコ部隊」というのだ
そうです。それを見ていられなかった飯場の韓国人が「同
じ韓国人が苦しめられているのを黙っていられない」と
言って「タコ部隊」をなくそうと言ったのです。私たち
江原道一行には、「あなたたちは今日初めて来たから、一
緒に行こうとは言わない。見ているだけで良い」と言い
ました。

「タコ部隊」宿所は、私たちの宿所から離れた山の下に

ありました。そこを潰そうと行った人たちは、電気を断
って入り込み「タコ部隊」労働者たちに、ここにいたら
皆死ぬから逃げろと言ったのです。逃げた人もいたけど、
逃げられない人たちもいました。私たち江原道一行は余
りに恐ろしくて、すぐに宿所に入り、布団をかぶって寝
たふりをしました。すぐに釧路市内でサイレンが鳴りま
した。やがて拳銃を持ち、刀を下げた憲兵隊が駆けつけ
てきて調査をすると言って、私たちが寝ているところに
入ってきて布団をひっくり返して探しました。私たちの

「飯場」長が、「ここの人たちは今日初めて来た。そこに

行かなかった」と言うと、ようやく帰りました。何人か

主導者が捕まって刑務所に入り、刑を終えた後に炭砿に
戻ってきました。しかし、寒い刑務所で過ごすうちに手
足の爪が全部抜け、体が弱くなって働けない体になった
ので、韓国へ戻されたと言います。

私に初めて与えられた炭砿での仕事は、炭を選び出す

「選炭」28) 作業でした。歳が幼かったので選炭をさせ、石

炭掘りなどの力仕事はさせなかったのです。選炭場は日
本人女性たちだけの仕事場で、そこで働くのは私だけで
した。その選炭は採炭より歩割が少なくて、飯代程度に
しかなりませんでした。それで 1 年後には坑内で働くと
言い、坑内で機械を操作したり、炭を掘る仕事をするよ
うになりました。選炭作業よりはお金を多く貰いました
が、お金はたまりませんでした。食事量が足りなくて別途、
飯を買い食いし、仕事着は余りにみすぼらしいため、服
を買ったからです。

春採炭鉱で働いていた時、右足をひどくケガしました。

機械を操作していた時、天井が崩れ落ちたのです。天井
が崩れる時、素早く身を避けて足だけ下敷きになりまし
たが、そうでなかったら体全部が下敷きになって死んで
いたかもしれません。足の治療のために春採病院に 3 か
月入院しました。初めは右足がマヒして足を曲げて伸ば
すこともできませんでした。治療を受けてようやく足の
屈伸ができるようになりました。でも完治しませんでし
た。今でも右足が不自由です。退院後も 1 年間は松葉づ
えをついて病院へ行きました。病院通いをしながらも、
不自由な足を引きずって働きました。その時は戦争をし
ていて、日本人も死ぬか生きるかの時なので、痛いから
と働かない訳にいかなかったのです。

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

申鉉大(シン・ヒョンデ)
・1924年江原道麟蹄郡(インジェ郡)で出生
・1942年7月太平洋炭鉱(株)春採炭鉱へ動員
・1944年8月福岡県所在の三井鉱山(株)三池炭鉱

へと「配置転換」

・1945年8月解放を迎えて、故郷へ帰還

申  鉉  大の話

27) 申鉉大は「タコ部屋」を「タコ部隊」と記憶していた。「タコ部屋」に関する詳しい説明は本書の三菱鉱業美唄の項(p71)、参照。
28) 採掘された石炭を物理的・機械的方法で精炭と廃石に分離する作業。

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108 _ 写真で見る強制動員の話

春採炭鉱で 2 年ほど働くと、春採炭鉱の炭が枯渇した

といって、働き手は全部九州にある炭鉱へ送りました。

「炭

が枯渇した」というウワサは聞きましたが、九州へ移る
本当の理由は会社の機密なので教えてくれませんでした。
春採炭鉱は閉山したわけではないので、年を取った日本
人の何人かが残りました。

私が働くことになった別の炭鉱は、福岡県大牟田市に

ある「四山坑」29) と言う炭砿でした。この炭砿は春採炭
鉱よりも働くのが辛かったです。北海道は元来寒い所な
ので、春採炭鉱では長袖と長ズボンを着て仕事しました。

しかし、九州の炭鉱は地熱がとても暑くて服を着ること
ができなく、下着だけで働きました。また、九州は戦争
による空襲もひどく、食事量も余りに少なく、辛かった
です。

ある日、長崎に原子爆弾が落ちたというウワサととも

に、日本が降伏したという知らせも聞きました。解放さ
れて家に帰れるというのです。不自由な足を引いて家に
帰ってくると、家族もみんな健康にしていました。当時
の辛かった経験を若い人たちに詳しく話しても、たぶん
理解できないでしょう。

29) 三井鉱山(株)三池炭鉱の坑口のひとつ.

申鉉大の写真

申鉉大が春採炭鉱に動員後、春採写真館で
撮影したもの。写真の裏面に自筆で春採炭
鉱の住所を記した。

写真裏面に記された「北海道釧路市春採町
231」は、春採炭鉱の住所。

左側写真の裏面/申鉉大寄贈

申鉉大の写真/申鉉大寄贈

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110 _ 写真で見る強制動員の話

30) 京畿道驪州(ヨジュ)郡出身で1941年5月頃、春採炭鉱に動員された沈ジェギル(1918年生)もこの事件について、申鉉大と同一のことを陳述した。彼は現在、日本の熊本県に居

住しているが、「韓国人たちが団体でタコ部屋を襲撃し、電線を切って、窓を割り、そこの労働者たちを逃がしてやった。そして主導者の何人かは捕まって、投獄生活を
して帰ってきた」と陳述した。

申鉉大は1942年7月、江原道麟蹄郡に居住する70人余

と一緒に太平洋炭鉱(株)春採炭鉱に動員された。そこで
働いて2年が過ぎた1944年8月、彼は日本政府の緊急処置
によって福岡県所在の三井鉱山(株)三池炭鉱へ「配置転
換」された。彼が三池炭鉱に送られた理由は、春採炭鉱
が三井系列の炭鉱だったためだ。

申鉉大は春採炭鉱に到着した当日に経験した大事件

をいまも生々しく記憶している。1942年7月頃、「タコ
部屋」に収容された朝鮮人が過酷な待遇をされるのに対
し、「協和寮」の朝鮮人たちが団体行動を起こしたのだっ
た。夜に電気を断って「タコ部屋」を襲撃し、「タコ部
屋」の労働者たちを逃がしたのだ。見知らぬ土地に到着
した初めての日、この状況を目撃した申鉉大とその一行
は、驚いて宿所に戻ってしまった。

そうするとすぐに釧路市内で警報が響き、憲兵隊が協

和寮に駆け付け、寝ている人達の布団を一枚一枚はがし

て調査をした。申鉉大と彼の一行は炭鉱に入所した初日
だったので無事だった。しかしこの事件の何人かの主導
者たちは検挙され、刑務所に収監され、その後、炭砿に
戻ってきたが、ひどい刑務所生活で体が余りにも弱って
帰郷処置となった。30)

この事件は強制動員されたのち、動員地域での抑圧さ

れた生活に素直に応じない朝鮮人たちの抵抗とみられる。
このような場合以外にも、朝鮮人は強制動員に対して様
々な形態で抵抗した。動員を避けて住居地を移ったり、
病気や身体上の理由をあげて動員を拒否する人もいた。
動員されたのちには民族差別、賃金と労務管理者に対す
る不満や食事改善、帰国などの問題解決のために団体行
動をとることもあった。動員の途中、または動員地での
命をかけた脱出は強制動員に対する抵抗のひとつだった。

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112 _ 写真で見る強制動員の話

土木工事場

 編

朝鮮人が強制動員された北海道の土木工事場は、鉄道、発電所、道路、港湾、河川整備

などの一般土木工事場と、飛行場と軍事施設などの軍関係工事場に大きく別けることがで
きる。

土木工事の場合は、主として大企業や軍が「組」に下請けさせて作業をする場合が多いが、

請負業者である「組」は、工事現場の近隣に「飯場」を作り、人夫を収容した。土木工事
は大小の事業場が散在し、作業期間が短く、請負工事が完成すると次の工事現場に移動す
る場合が多かった。労務者たちはさまざまな工事場を経験する場合が多かったのである。
特に、冬がとても寒く、長い北海道では、冬期に寒波で野外作業が不可能になれば、土木
工事場の労務者を冬でも坑内作業ができる炭鉱・鉱山などに送ることもあった。

北海道の土木工事場のもう一つの特徴は、労務者の人身を拘禁・統制する「タコ部屋制度」31)

があるという点だ。「タコ部屋」は、主として北海道やサハリンの土木工事場で運営された
労務管理システムをいうが、「タコ部屋」に収容された労務者たちは厳しい監視と統制の下
で過酷な労働を強要された。そのため労務者たちの間だけでなく、日本社会でも悪名が高
かった。

炭鉱や鉱山は企業資料も豊富であり、官庁や警察関係の資料も多い方だ。反面、土木工

事などでの記録はほとんど残っていないので、具体的な労働実態を把握するのは難しい。

31) 詳細な内容は本書の三菱鉱業美唄の項、参照

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114 _ 写真で見る強制動員の話

千歳飛行場

• 北海道千歳市所在
• 強制動員規模:約2,000人余
• 委員会申告件数:約70件

千歳飛行場建設工事は、海軍大湊施設部千歳地方事務所が施工
し、滑走路工事は王子製紙株式会社の子会社の雨竜電力株式会社
が請け負った。この飛行場工事は、緊急軍工事として扱われ、沢
山の労務者が投入された。『千歳市史』によれば、飛行場工事に
海軍施設隊1,157人、地崎組所属労務者2,000人が投入と記録され
た。日本の敗戦で飛行場が完成しないまま工事が中断されたが、
滑走路と誘導路が完成した状態だった。現在この飛行場は陸上自
衛隊が使用している。32)

32) 札幌郷土を掘る会『海峡の波高く』1989年、34・42ページ

千歳市

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116 _ 写真で見る強制動員の話

チョ・ドンファンの表彰状/シン・ジョンシク(チョ・ドンファンの妻)提供

表彰状

33)  北海道札幌市南区に所在する山。硬石山の石材は、千歳飛行場の滑走路を造るのに使われた。石材を採取し

たり千歳飛行場まで運搬する仕事に朝鮮人労務者が動員された。

チョ・ドンファンは1943年5月頃、全羅北道出身の朝鮮人200人余と一緒

に北海道の千歳飛行場工事に強制動員された。中学校を日本で通い、巧みな
日本語能力を持っていたチョ・ドンファンは、一緒に動員された同僚たちを
統率する隊長役をしたそうだ。チョ・ドンファンは、飛行場建設現場で伐木
や滑走路用地の整地などの土木工事をして、1944年12月頃、帰還した。表
彰状の発給日が1944年10月8日であることから、契約期間の満了時点に会社
から表彰されたものと推定される。

表彰状に書かれている「帝国国防基地建設」という名目の下で、千歳飛行

場と近隣採石場の硬石山33)に沢山の朝鮮人労務者が動員された。

この表彰状は、チョ・ドンファンが千歳飛行
場工事の主体である雨竜電力株式会社千歳工
事部から受けたもの。表彰状には本名の「チ
ョ・ドンファン」ではなく、創氏名の「藤岡良蔵」
と記載されている。

内 容

(表彰状)
右の者(チョ・ドンファン)は、熱心に勤労精神を昂
揚実践し、その使命に挺身し、帝国国防基地建設に
寄与した功績が大きいことから、全隊員の模範であ
る。よってこれを表彰する。

昭和19年(1944年)10月8日
雨竜電力株式会社千歳工事部
最高指揮者 吉川茂

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118 _ 写真で見る強制動員の話

崔有達は家で突然飛び掛かってきた人たちによって強制動員され、北海道

の飛行場で格納庫建設をしたという。崔有達の人的事項が詳細に記載された
労務手帳でも、このような申告内容を再度確認できる。

国民労務手帳は氏名と本籍地、住居地、就業場所、職名と技能程度、月

給状況などを詳細に記録し、労務者を効果的に管理・統制するために使われ
た。崔有達の労務手帳は、全部で38ページだ。1面には写真を載せ、2面に
は手帳交付日が書いてある。3~4面には手帳所持者の詳細な人的事項と職
業履歴を記載している。その後に記載される内容も全部手帳所持者の経歴や
移動状況に関するものだ。1.名前と本籍地、2.兵役関係、3.学歴とその種
類、4.居住地、5.就業場所、6.就業名と技能程度、7.給与と賃金、8.労働
者年金と保険、9.その他を記録するように構成されており、最後の3ページ
には注意事項が記されている。

委員会に出された申告書の中には、当時の国民労務手帳を証拠資料として

提出するケースが時々ある。

崔有達のものは、北海道地域の作業場の内容を忠実に載せていることに意

味がある。

労務手帳から確認される崔有達の動員地は、北海道千歳郡千歳町に位置し

た雨竜電力株式会社工事部の土木工事場だ。ここは、雨竜電力株式会社が工
事を行なった千歳町(現、千歳市)所在の千歳飛行場に該当する。労務手帳に
よれば、崔有達は1944年5月に工事に投入されたとあるが、彼と一緒に動員
された同僚の陳述によれば、その当時、英陽郡と軍威(クニ)郡居住の100人余
が強制動員され、安東(アンドン)に集結してから日本人引率者に引き渡され、
北海道千歳飛行場に動員されたという。彼らは、飛行機を保管するトンネル
掘りや土の運搬の作業に投入された

日本の厚生省から発給された国民労務手帳。
国民労務手帳には氏名と本籍地、住所、就業
場所、職業名と技能程度、月給状況などが詳
細に記録されている。

内 容

氏  

名:高山有達(崔有達の創氏名)

出 

生:大正5年(1916年) ○月 ○日

本 

籍:慶尚北道英陽(ヨンヤン)郡○○面○○里

職  業  名:土木作業員
就業期間:1944年5月24日から
作業内容:土木工事
就業場所: 北海道千歳郡千歳町雨竜電力株式会社工

事部

国民労務手帳

崔有達(チェ・ユダル)の国民労務手帳表紙(左)と3~4面(右)/崔サンドン(崔有達の子息)提供

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120 _ 写真で見る強制動員の話

旧日本陸軍浅茅野飛行場が所在する「浅茅野」は、北海道宗谷郡
猿払村の南端に位置する。浅茅野飛行場は第1、第2飛行場からな
る。第1飛行場は猿払村浅茅野と浜頓別町安別にかけて建設され
た。ここから約20㎞北側の猿払村浜鬼志別には第2飛行場が建
設された。二つの飛行場は1942年から1943年頃に工事が始まっ
た。第1飛行場は1944年春頃に完成したものと思われる。第2飛行
場の完成時期は現在確認できない。下請工事業者として、鉄道工
業株式会社、丹野組、菅原組、川口組などがある。
浅茅野飛行場に強制動員された朝鮮人の数は正確に把握するのが
難しく、証言によれば約1,500人から2,000人ほどだったと推定さ
れる。埋・火葬認許証34)などの記録から確認された死亡者数は90
人余を超えることから、相当数の朝鮮人が強制動員されたとが推
定できる。
日本の敗戦後、浅茅野飛行場は国家から払い下げされ、第1飛行
場は農家の牧草地に、第2飛行場は猿払村が運営する牧場になっ
た。35)
現在、委員会申告件のうち約20件余が浅茅野飛行場に動員された
と確認できる。この関連の死亡者名簿と、飛行場所在の官庁で発
給された埋・火葬認許証などが、被害調査の基礎資料に活用され
ている。

• 北海道宗谷郡猿払村所在
• 工事期間:1942年から44年
• 委員会申告件数:約20件

浅茅野飛行場

34) 埋・火葬認許証とは、人が死亡した時に該当官庁が埋葬・火葬に関して認可した証書を言う。
35) 強制連行・強制労働を考える北海道フォーラム「2007年浅茅野調査報告書」2008年

猿拂村

浜頓別町

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122 _ 写真で見る強制動員の話

私の父の全海平は当時、故郷の忠清南道錦

山(当時の行政区域は全北錦山)で農業を営んで
いました。面事務所職員によって日本へ強制動
員されました。その時は私が17歳だった年の
春で、解放の3年前でした。父が連れさられた
のは日本でもとても寒い所、北海道の浅茅野飛
行場でした。父はそこで過労と極寒で苦労し、
気管支炎と大腸病に罹って死亡したそうです。
「浅茅野」と言う名前をどうやって記憶したの
かですって?それは私が直接そこへ行ったから
です。そして当時、父と手紙交換をしたからよ
く知っています。

父が動員された後、私も九州にある炭鉱に

「募集」で行くことになりました。九州の炭鉱
で働いていた時、大阪へ逃げました。大阪には
叔父が住んでいたからです。それで叔父の家に
徴用状が来ました。当時はみな配給制なので、
コメの票を貰うために所在地の警察署に登録を
していました。それで引っかかったのか、徴用
状が来たのです。当時、大阪に住んでいる朝鮮
人100人と一緒に動員されました。私が働くこ
とになった会社は、大阪港区の川口電鉄駅前に
ある機関車を作る会社でした。叔父の家から電
鉄で20分ほど離れた所でした。そこで機関車
部品に穴を開ける仕事をしました。

大阪の工場で働いていた時、北海道に動員された父が

死亡したという知らせを聞きました。叔父が父の遺骨を
取りに行こうと、私が働いていた工場に私を訪ねてきま
した。父の死亡の知らせを聞いた時、私は18歳でした。
労務係の許可を得て、叔父と一緒に父の遺骨を探しに遠
くまで行くことになりました。

大阪から北海道の浜頓別まで行く汽車切符を買いま

した。札幌から北見線に乗り換えました。飛行場がある
所を浅茅野といい、浜頓別から一駅行った所で降りまし
た。そこで旅館を取って○○組、組の名前は今でも思い
出せません。とにかく○○組に連絡したら、その次の日
に組職員が旅館に来ました。

浅茅野に到着した日は、1月1日でした。組職員がそ

の日は正月だから休みなさいと言いました。そして1月
2日、父親の遺体を火葬しに行きました。職員と一緒に
汽車に乗って浅茅野からひと駅離れた浜頓別へ行きまし
た。ちょうど「浜頓別病院」という所に故郷の人が入院
していると言いました。その人と会いに行きました。そ
の病院は田舎にある小さな個人病院でした。その同郷の
人は父と一緒に、「タコ部屋」で働いていたと組職員が言
いました。

火葬場は浜頓別村から2㎞程度離れた所にありました。

雪がとても多く、車も入れなくて、馬ぞりに乗って行き
ました。その時、雪は1m以上積もっていました。火葬を
する人と会いましたが、その人がマキ、石油など火葬に

必要な物を持って来ました。火葬場の場所は谷間か、野
原のようで、雪が多く降って、そこが良く見えませんで
した。遺体が入るだけの赤い壁石が四角形に積まれてお
り、その中で火葬できるようになっていました。

火葬場に到着した時、父の遺体は雪の中に埋もれてい

ました。遺族が来るまで遺体が腐敗しないよう、そのま
ま(雪の中に)放置していたようです。北海道の冷たい雪
の中で横たわって私を待っていた父を見ると本当に心が
凍り付くようでした。持ってきたマキに石油をかけ、父の
遺体を火葬しました。火葬すると遺骨がとても熱くて、そ
のまま骨を引き出せません。一日ほど冷まして1月3日に父
の遺骨を収集しました。職員が後で葬式の費用を送ってく
れると言いましたが、受け取った記憶はありません。

父の葬式を行なってから、私はまた大阪へ戻って「徴

用工」として働きました。工場で機関車部品の穴開けの
仕事をしていて、機械に指を引き込まれて指2本が切断さ
れました。20歳にもならない幼いといえば幼い歳に、日
本で父親を失い、私は徴用で青春を失い、私の手の指2本
も失いました。

全愚植(チョン・ウシク)

・1926 年全羅北道錦山 ( クムサン ) で出生
・1942 年父親の全海平 ( チョン ・ ヘピョン ) が北海道の

浅茅野飛行場に動員

・1943 年、日本九州の炭砿へ動員されたが逃走。

大阪の叔父の所で生活中、機関車製造工場に動員。

・1943 年 12 月、父・全海平の死亡の知らせを聞

いて直接、浅茅野飛行場へ行って父の遺骨を受
取った。

・1946 年 10 月故郷へ帰還

全愚植の話

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

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124 _ 写真で見る強制動員の話

戦時期の労務動員は、主として20歳から40歳の身体健康な成人男性を対象としたが、実際は10代の幼い少年や40代

以上の中年層も動員された。募集当時、各面や村に下された割当数を埋めるため、歳を胡麻化して送り出すこともあっ
た。家庭によっては、子どもの代わりに父親が動員されたり、逆に老いた父親の代わりに幼い子どもが動員されること
もあった。また、一家庭から二人以上の兄弟が動員される場合も多かった。浅茅野飛行場で死亡した全海平と彼の息子
の全愚植は、父と子どもが同時に動員されたケースだ。父の全海平は1943年春に北海道の浅茅飛行場に動員され、彼の
息子の全愚植は大阪にある機関車製造工場に動員された。息子は強制
動員地で父親の死亡の知らせに接し、北海道まで直接行って父親の遺
体を火葬した。

全海平は死亡診断書で1943年12月25日に気管支炎と大腸炎で死亡し

たことが確認される。息子の全愚植が父の死亡の知らせを聞いて葬儀
をするために北海道に到着した日は1月1日。全海平死亡の知らせは家
族に直接伝えられたようだ。

死亡診断書を発給した所は浜頓別にある弘山病院だ。また、全海平

の息子の全愚植は、浜頓別病院に入院していた同郷人を訪問したこと
を陳述した。浅茅野飛行場でケガをしたり病気にかかった人は、近隣
の弘山病院と浜頓別病院を主として利用したという。

全海平の死亡記録は浜頓別町の「埋火葬認許証」にも残っている。

当時に埋葬または火葬するには死亡者の死亡診断書を該当地方官庁に
提出した後、埋火葬認許証を受ける必要がある。全海平の火葬は弘山
病院から発給された死亡診断書をもとに浜頓別官庁から埋火葬認許証
の発給を受けて執行された。彼の埋火葬認許証の記録から、彼が丹野
組所属で働いたことが確認された。

北海道枝幸郡頓別村浜頓別の弘山病院で発行
された死亡診断書。この診断書から全海平が
1943年12月25日に気管支炎と大腸炎で死亡し
たことが確認される。全海平は浅茅野飛行場
で「土工夫」として仕事中に死亡した。

内 容

死亡診断書:竹田海平(全海平の創氏名)

別:男

生 年 月 日:明治40年(1907年)○月○日
死亡者職業:労働
死 亡 原 因:気管支炎並に大腸カタル
発     病     日:昭和18年(1943年)12月10日
死     亡     日:昭和18年(1943年)12月25日
死 亡 場 所:枝幸郡頓別村浜頓別 弘山病院
発     行     日:昭和18年(1943年)12月25日
発     行     者:弘山病院医師 弘山道隆

死亡診断書

全海平の死亡診断書/全愚植(全海平の子息)寄贈

全愚植の写真/全愚植提供
全愚植は大阪の機関車製造工場へ動員され、初めの数週間
は作業に関する訓練を受けたという。この写真は、訓練を
受ける当時、訓練服を着て撮影したもの。

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126 _ 写真で見る強制動員の話

雨竜ダムは北海道雨竜郡幌加内町に位置しており、雨竜川の最上
流に建設された。このダムを朱鞠内ダムと呼ぶこともあり、ダム
とともに造られた朱鞠内湖は、北海道で非常に大きな人造湖とし
て有名だ。雨竜ダムは建設当時、「東洋最大のダム」と言われる
ほど規模が大きかった。
雨竜ダムの建設背景には、王子製紙株式会社の事業の拡張があっ
た。王子製紙が雨竜ダムを建設した最大の目的は、大量の原木と
電力を同時に手に入れることだった。1928年、王子製紙は雨竜川
での電源開発を推進するために、「雨竜電力株式会社」という会社
を設立した。しかし建設開始直後、雨竜電力株式会社〔の電力事
業は〕国家主導の電力統制政策によって、日本発送電株式会社に
吸収された。工事は、元請会社の飛島組によって1937年12月から
始まった。
ダムが建設された地点はとても山深い所で、冬には零下40度を記
録するほどの日本でも極寒の地域だった。戦時の過酷な労働、極
寒の気候のなか、沢山の労働者が工事中に犠牲になった。雨竜ダ
ムは1943年8月に完成したが、建設に従事した労働者は、延べ人
員600万人で、最大時点では7,000人余が労働に従事した。36)
雨竜ダム工事は、戦時期に北海道で進められた土木工事のうち、
陸軍の拠点飛行場建設に匹敵する大規模土木工事だった。そのた
め強制動員され、労役を強要された朝鮮人の数も多かったとみら
れる。工事に動員された朝鮮人の数は最大3,000人ほどと確認され
ている。37)

• 北海道雨竜郡幌加内町所在
• 工事期間:1937年12月~1943年8月
• 強制動員規模:約3,000人余
• 委員会申告件数:約10件

雨竜ダム工事

36) 小野寺正巳「新聞報道にみる戦時下の名雨線鉄道・雨竜水力発電所建設工事と労働」、拓殖     

大学人文学研究所、拓殖大学論集(241)人文・自然・人間科学研究第5号 2001年168ページ

37) 前出『北海道と朝鮮人労働者』170~172ページ

幌加内町

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128 _ 写真で見る強制動員の話

北海道雨竜川発電工事産業記念撮影/金ギョンヒ(金ヨンチョルの子息)提供

金ヨンチョルは1940年3月頃、北海道雨竜ダム建設工事に強制動員され

た。彼の息子の金ギョンヒは、「北海道は雪が本当に沢山降る」と語ってい
た父親のことを十分に記憶していないと残念がった。

右側後方の円内の人が金ヨンチョルだ。写真についての詳細は、写真の主

人公の金ヨンチョルが既に死亡しているため、知ることはできない。写真に
書かれた文字が撮影日と場所だけを教えてくれる。この写真は1941年8月31
日、雨竜ダム工事現場で撮影した。雨竜ダムは1937年12月に施工し、1943
年8月に完成したので、写真撮影日の1941年8月はダム工事が盛んに進めら
れている時期だ。写真の人たちが踏んでいるレールは、建設資材を運搬する
押車を使うのに活用したレールとみられる。

写真提供者の金ギョンヒは、父親の金ヨンチョルが炭鉱で働いたことを記

憶している。土木工事場の労務者たちは冬には炭鉱などに送られることもあ
った。だから、金ヨンチョルが土木工事以外に炭鉱などの作業場で労役した
可能性も排除できない。

雨竜ダム工事現場で撮った金ヨンチョルの団体写真

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130 _ 写真で見る強制動員の話

この写真もまた雨竜ダム工事現場で撮影したものだ。写真の人物たちは

それぞれ手に土を掘るクワなどを持っている。足には脚絆と「地下足袋」を
着用しており、労務服と帽子をかぶっており、一目で労務者だと分かる。た
だ、写真右側から2番目の人だけが洋服姿に長靴で、労務器具ではなく杖を
握っていることから、現場の監督官と推定される。

後ろ側の岩壁層と露出した木の根を見ると、ここがかなり危険な建設現場

だと分かる。にもかかわらず、写真技師の号令で一斉に作業を中止してカメ
ラを凝視する人たちに、その気配はない。一般的な記念写真とは違って現場
の一瞬を実写したものであり、当時の土木工事現場を理解するのに重要な資
料となる写真だ。

同僚たちと一緒に撮影した金ヨンチョルの写真/金ギョンヒ(金ヨンチョルの子息)提供

同僚たちと一緒に撮影した金ヨンチョルの写真

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132 _ 写真で見る強制動員の話

松前線は、北海道の木古内から松前までの50.8㎞区間に敷かれた鉄
道だ。工事が始まった時には、福山線と呼ばれていた。1937年10
月に工事を始め、1939年に一時中断したが、1942年に上ノ国のマ
ンガン鉱開発を目的に再開された。さらに松前西側の大島までの
新設工事に着手した。工事は東側の福島から松前までを第4~6
工区、新設する西側の松前から大島38)までを1~3工区に分けて、
進められた。松前線工事は路盤(道路や鉄道の基礎部分)工事が中心
で、敗戦までに完成しなかったが、1953年に全線が開通した。
1941 年秋以降、松前線鉄道工事のために慶尚南北道、全羅南北道、
京畿道などの農村から 20 ~ 30 代の朝鮮人労務者が動員された。
工事は主として山を崩して谷を埋めて線路を延長するという作業
であり、朝鮮人の大部分はスコップや鍬で土砂を掘り、それをモ
ッコや台車で運搬する仕事に投入された。労働時間は朝6時から
陽が沈む直前までで、現場によっては日没1時間前まで作業する
こともあった。39)
松前線は輸送量の減少で、1988年に廃止された。

• 北海道、木古内~松前
• 1937年10月工事開始、1953年全路線開通、1988年廃止.
• 委員会申告件:約10件

松前線鉄道工事

38) 現在の地名は松前町原口
39) 前出『北海道と朝鮮人労働者』336~340ページ

松前町

木古內町

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134 _ 写真で見る強制動員の話

40) 1939年朝鮮人労務動員が開始されるや日本全国都府県に協和会が結成された。協和会は戦時日本に居住す

る朝鮮人を統制・管理するもので、朝鮮人労務者に対する皇民化教育、労務者管理の基本方針を指示し、
かつ労務現場のある警察署での治安管理などを担当した。

        山田昭次・古庄 正・樋口雄一、『朝鮮人戦時労働動員』、岩波書店、2005 年、217 項。また樋口雄一、『協

和会―戦時下朝鮮人統制組織の研究』社会評論社、1986 年 参考。

北海道松前協和会で1943年8月1日に交付した会員章で、写真はその表紙

及び裏表紙である。会員章の一面には日本の国歌である君が代が収録されて
いる。左側上段にある印の‘募’の字は‘募集’を意味すると推定される。左側下
段には‘北海道松前協和会’の赤職印が押されてある。協和会会員章には、個
人の人的事項(氏名、生年月日、本籍、現住所)、最初渡航年月日、就業場所
と期間、所属協和会支会、家族事項、会員の履歴などが記載されている。会
員章の一番後ろには、所持者注意事項と皇国臣民の誓詞が印刷されている。
協和会は日本に居住する朝鮮人を統制管理するための組織であった。40) 動員
された朝鮮人達は皆協和会に加入し、皇民化訓練を受けるなど協和会会員と
して統制された。

内 容

発  給  日:昭和18年8月1日
松前支部第131号
有効期限:昭和20年7月31日まで

徐載山(ソ・ジェサン)の協和会会員章の裏表紙/ 徐ソクソン(徐載山の子息)提供

協和会 会員章

協和会 会員章の表紙

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136 _ 写真で見る強制動員の話

協和会会員章の第2面には、徐載山の人的事項と現住所、最初に渡航した日

と最初に協和会に所属した日が記されている。手帳の記録によれば、徐載山
は1943年7月30日に北海道に到着した。2日後の8月1日、協和会に所属した。

徐載山は、作業場に到着するや協和会の会員に義務的に登録されたよう

だ。また、3面の「現住所」欄の記載から、彼が堀内組に所属した労務者だっ
たことがわかる。

内 容

会員氏名:大城載山
生年月日:大正10年(1921年) ○月 ○日
出  生  地:本籍地と同一
本     籍:京畿道金浦郡○○面○○里
現  住  所:松前郡松前町建石56 堀内組
最初内地到着年月日:昭和18年(1943年)7月30日
最初協和会所属年月日:昭和18年(1943年)8月1日
協和会名:北海道協和会

徐載山(ソ・ジェサン)の協和会会員章の2~3面/徐ソクソン(徐載山の子息)提供

協和会会員章

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138 _ 写真で見る強制動員の話

協和会会員章の第4面には写真が付けてある。現在、写真はなく、付いて

いた痕跡だけが残っている。写真の下には、撮影日付と徐載山の年齢が記さ
れている。彼が協和会会員として登録した日(1943年8月1日)と同一であるこ
とから、作業現場に到着するや写真を撮影したと推定される。写真が付いて
いる協和会会員章は、労務者が逃走した場合に逃走者を探し出すために使っ
たという。

第5面には、徐載山が動員された作業場の住所が、「松前郡松前町建石 

松前線第1工区鉄道工事」と詳細に記載されている。徐載山が属した堀内組
は松前線1工区工事を施工していた下請け業者のひとつで、建石地域で工事
を担当していたことが確認される。41)

内 容

写真撮影日:昭和18年(1943年)8月1日
年   齢:23歳
就職年月日:昭和18年8月1日
職   業:土工夫
就 労 場 所: 松前郡松前町建石 松前線第1工区鉄

道工事

徐載山(ソ・ジェサン)の協和会会員章の4~5面/徐ソクソン(徐載山の子息)提供

協和会会員章

41) 前出『北海道と朝鮮人労働者』336ページ.

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140 _ 写真で見る強制動員の話

140

軍需工場編

 編

炭鉱や土木工事のように大規模な人員が動員されないが、北海道の鉄鋼、造船、運輸の

分野にも多数の朝鮮人労務者が動員された。鉄鋼業として代表的なものは日本製鉄輪西製
鉄所、日本製鋼所室蘭製作所、造船業として代表的なものは函館船渠、運輸業としては日
本通運を挙げることができる。

鉄鋼業42)と造船業は、太平洋戦争時期に重要な軍需産業として扱われたので、相当数の

朝鮮人が強制動員された。特に軍需工業部門では、学力、年齢、体力などを考慮して一定
水準以上の若者を中心に人力を動員するという特徴があった。

また、戦時体制下の物資運搬業は重量に堪える体力が要求される非常に辛い現場だっ

た。資料の不足のため、朝鮮人荷役労務者の動員規模を詳細に確認することは難しい。し
かし、一部企業と地域誌の記録などを参考にすれば、少なくとも1,000人以上の朝鮮人が北
海道の荷役作業場に配置されたと推定される。解放以降の1945年10月、室蘭港で荷役作業
に動員された朝鮮人労務者たちが食料改善、手当支給、帰国のための衣服支給などを要求
して団体行動をした記録もある。43)

42) 鉄鋼業に関する朝鮮人強制動員は1942年2月の閣議決定「朝鮮人労務者活用に関する方策」に依拠し、同年3月からはじまった。
43) 前出『北海道と朝鮮人労働者』414~415ページ.

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142 _ 写真で見る強制動員の話

輪西製鉄所は1909年、室蘭港に接する広い敷地に北海道炭礦汽船
株式会社の輪西製鉄所として発足した。その後、北海道製鉄、輪
西製鉄を経て1934年に日本製鉄(株)輪西製鉄所になった。輪西製
鉄所は福岡県所在の八幡製鉄所の次に製銑44)能力を持つ日本北部
で最大の製鉄所だった。日本の敗戦後の1951年に室蘭製鉄所と改
称、1970年に新日本製鐵株式会社室蘭製鉄所に変更され、今日に
至る。
日本製鉄株式会社の資料によれば、「1942 年から 1943 年にかけ
て男子未成年工員と女子工員を採用し、特殊労務者として朝鮮人
工員と学徒、女子挺身隊、勤労報国隊を補助的作業部門に投入
した」という記録がある。45) 1942 年に輪西製鉄所に動員された
朝鮮人労務者は 1,147 人で、1942 年に充員された全体労務者中
28.7%を占めた。
また1945年8月当時、輪西製鉄所にいた朝鮮人工員は2,248人であ
り、特殊労務者中45.1%、全体労働者では15.5%の比率だった。
この〔比率の〕数値は、日本製鉄株式会社所属の製鉄所の中で最
大だった。46)

• 北海道室蘭市所在
• 1909年北海道炭礦汽船(株)輪西製鉄所、1934年日本製鉄(株)に譲渡
• 強制動員規模:約2,250人余
• 委員会申告件数:約160件

輪西製鉄所

日本製鉄(株)

44) 鉄鉱石を溶かして銑鉄をつくること.
45) 荒井秀夫「社史で見る日本経済史 第10巻 日本製鉄株式会社史」1998年 684ページ.
46) 前出『北海道と朝鮮人労働者』399ページ.

室蘭

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日帝強制動員被害者支援財団

 _ 145

144 _ 写真で見る強制動員の話

輪西製鉄所に動員された人たち

姜サムボンと金ヒョンス、呉ドグンは1943年4月

頃、慶尚南道泗川(サチョン)から北海道の輪西製鉄所へ動
員された。日本人の募集員が製鉄所で勤務する者を探
した時、面の書記と区長が働ける若者たちを募集に応
じさせることを促したという。仕方なく応じた三人は
「第5期訓練生」として 泗川郡へ集結した100余人と
共に日本へ向かった。 泗川郡を後にした。当時、困惑
し、みな口を固く結び、周囲は沈黙するという状態だ
った。輪西製鉄所に到着するや6か月間は軍人と同じく
精神訓練を受けた。その後、3人は溶鉱炉に溶融鉄を運
搬する業務に配置された。勤務は1日2交代だった。

宿舎は木造建物に畳部屋だった。与えられた食事は

あまりにも量が少なく、わずかな賃金を飢えた腹を埋
めるのに使わなくてはいけなかった。そのため、とて
も寒い北海道の気温がさらに寒く感じられた。

白黒写真の3人は、一目で、とても幼い。実際彼ら

は、動員当時16~17歳の少年だった。姜サムボンと金
ヒョンスの陳述によれば、この写真は、輪西製鉄所に
到着して数か月も経たないころ、希望する訓練生だけ
を撮影したものであり、着ている服は訓練服という。
写真の中の三人がかぶっている帽子には日本製鉄株式
会社のマークがあり、特に呉ドグンの写真が鮮明だ。

日本製鉄株式会社のマーク

輪西製鉄所での呉ドグンの写真/

呉ジュファン(呉ドグンの子息)寄贈

輪西製鉄所で撮影した姜サムボンの写真/姜サムボン寄贈

輪西製鉄所での金ヒョンスの写真/金ヒョンス寄贈

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146 _ 写真で見る強制動員の話

47) 前出『社史で見る日本経済史第 10 巻 日本製鉄株式会社史』170 ページ
48) 『遺骨の声に応える』、強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォ-ラム 2009年18ページ

鉄鋼業の都市の室蘭には、1943年に管理工場に指定さ

れた大工場、日本製鉄輪西製鉄所(愛国第251工場)と日本
製鋼所室蘭製鋼所(愛国第191工場)があった。戦時期米軍
は1945年7月14日と15日、二日間にかけて北海道と東北
地方の各地を空襲した。そして、武器製造工場がある室
蘭市は、米軍の重要攻撃目標になった。15日の艦砲射撃
では、約860発の砲弾が室蘭市の各工場や住宅を震わせ、
死亡者400人以上、負傷者150人、家屋破壊1,500戸以上、
工場被害が3か所などに及ぶほどその被害は激甚だった。

15日の艦砲射撃で主要標的になった輪西製鉄所もまた

人的、物的に大きな被害を受けた。製鉄所構内にだけで
労務者80人が死亡、21人が重軽傷、構外でも従業員と家
族を含む102人が死亡、31人が重軽傷を受けた。死亡者
182人の内訳は、職員・従業員75人、家族79人、学徒3
人、朝鮮人訓練生5人、港運関係7人などである。死亡者
のうち朝鮮人5人は、当時15歳から17歳の少年であり、
訓練生だった。47)

朝鮮人訓練生の死亡者のうち3人の遺骨は家族に渡され

ないまま、60年以上の長い時を室蘭市にある寺で眠ってい
た。そして北海道の市民団体の積極的な活動と当委員会の
遺族探しの努力で2008年2月に家族のもとへ帰った。48) 彼ら
の遺品と死亡関連資料も遺骨とともに家族へ渡された。
輪西製鉄所に動員されて、室蘭市爆撃で死亡した具然錫
と鄭英得の遺品と関連資料の一部をここに紹介する。

1945年7月15日室蘭艦砲射撃と

朝鮮人犠牲者

室蘭市光昭寺に安置されていた犠牲者の遺骨/鄭サンドゥク(鄭英得の弟)提供

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148 _ 写真で見る強制動員の話

具然錫は 1943 年 4 月頃、慶尚南道泗川から輪西製鉄所に動員された。動

員当時、彼は 16 歳だった。具然錫は当時、初等学校を卒業した聡明な少年
だった。だが家の生活が苦しくなり、どうしようもなく日本製鉄株式会社の
募集に応じた。北海道の製鉄所に動員されたのち、具然錫は家族が心配する
だろうと、家へ手紙を送った。家族は手紙で、彼が汽車の信号手として働い
ていると知らされた。解放直前、彼の帰還を指折り数えて待っていた家族に、
具然錫が米軍の攻撃で死亡したという衝撃的な知らせが届いた。現在 77 歳
になる彼の弟は、兄の死亡の知らせが伝えられた当時の状況をこのように回
想した。「私はその時、あまりに幼くて死亡の知らせがどう伝えられたのか
よく覚えていません。兄の死亡の知らせを聞いて母が慟哭した場面を記憶し
ているだけです。近所に母のように徴用で息子を失ったおばさんがいました
が、うちに来て、母と一緒に慟哭しました。」

写真の裏側に、輪西製鉄所の住所と具然錫の
創氏名(都元榮治)などが書かれている。この裏
側を見れば、彼は「第5期協和訓練隊」の所属
だった。

具然錫

具然錫の写真/具ヨンスン(具然錫の弟)提供

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150 _ 写真で見る強制動員の話

日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会

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49) 第2次世界大戦と韓国戦争(6.25)で米国空軍が運用

した爆撃機。第2次世界大戦当時、主として日本本
土爆撃に投入され、広島・長崎の原子爆弾投下に
も使われた。

具然錫が室蘭空襲の警報状況について記録
を残した部分だ。6月末から7月初めの間の
5日間、室蘭地域の空襲について時間まで正
確に記録している。年度は記されていない。
だが、頻繁な空襲警報状況から、戦争末期の
1945年の記録とみられる。個人の短い記録か
ら、連合軍の艦砲射撃を前に、戦況の悪化に
巻き込まれていく輪西製鉄所の緊迫した状況
が感じられる。

内 容

6月26日 最初のB-2949)偵察
26日の夜明け方 B-29一機 津軽海面空襲 空襲警報発
令、室蘭地区 警戒警報発令せり

6月28日
28日午後12時半頃、B-29一機 北海道地区偵察

6月29日
29日午後12時半頃 B-29二機 偵察一機が室蘭上空旋
回中、防空情報により上空哨視せる所遂に発見せ
り。勇敢なる8重隊の砲術により見事命中せり。黒
煙を吐いて南洋の方へ遁走せり。防空情報によれ
ば、南洋へ遁走せり所遂に落下せり。

6月30日
30日午後12時半頃、B-29一機北海道地区偵察。
室蘭警報発令せり

7月3日
3日(ヨル)午後1時半頃、ふいに室蘭警報発令せり。
2時頃、空襲警報発令せり。

手帳の題名は懐中日記。この手帳は具然錫が動員され、輪西製鉄所での生活を記録するなど、個人で使ったものと思われる。右側の写真は、手帳に
彼が直接描いたとみられる北海道地図である。

具然錫の手帳

具然錫の手帳/具ヨンスン(具然錫の弟)提供

具然錫の手帳/具ヨンスン(具然錫の弟)提供

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日帝強制動員被害者支援財団

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152 _ 写真で見る強制動員の話

運輸従事員安全作業心得

表題は「運輸従事員安全作業心得」であり、運輸職業中に守るべき注意事項などを簡単に説明している。一種の業務指針書である。
表題の左側には「運輸部陸運課第一作業掛」と記している。
裏面には具然錫が自分の創氏名と所属(第2協和訓練隊)などを記載している。裏面の記載から具然錫が第2協和訓練隊に所属し、運輸部陸運課で運輸
職をしていたことが分かる。

「運輸従事員安全心得」の内容は、(1) 般関係、(2) 車の入換作業、(3) 轉轍器取扱作業、(4) 踏切道警備作業、(5) 貨物積卸用機械取扱作業、(6) 除雪作

業、で構成されており、各作業の注意事項が載っている。
写真は「運輸従事員安全作業心得」の 10 ~ 11 ページ。冬が長くて雪が降る北海道地域の特性のためか、除雪作業についての注意事項がある。

運輸従事員安全作業心得の表紙と裏表紙/具ヨンスン(具然錫の弟)提供

運輸従事員安全作業心得10~11ページ/具ヨンスン(具然錫の弟)提供

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154 _ 写真で見る強制動員の話

3級工手任命状

鄭英得

鄭英得は 1943 年 7 月頃動員された。家族の陳述によれば、本来、家の長男が動員の対象だったが、家計を担うため、

次男の鄭英得が代わりに動員に応じた。鄭英得の家族は、彼がどこへ動員されて何の仕事をするのか知ることができ
なかった。そうしたある日、鄭英得が死亡したという青天の霹靂の知らせが伝えられた。鄭英得がいつ、どこで、ど
のように死亡したのか詳しい経緯が伝わったのではなく、ただ北海道に動員された同郷人が、「炭鉱で死亡した」とい
う風聞を伝えただけだった。死亡に関する詳細なことは分からなかった。鄭英得の戸籍は結局、本籍地で死亡したと
記録された。それから長い時間が過ぎた。いつの間にか彼の兄弟・姉妹の頭が白髪で覆われたある日、北海道のある
寺から鄭英得の遺骨を保管しているという知らせが伝えられた。意外な消息に 80 歳を超えた彼の姉は、不自由な体に
もかかわらず、自ら弟に会うために哀しみの北海道へ向かった。

姉と一緒に兄の鄭英得に会うため、現場に駆けつけた鄭サンドゥクは 60 年ぶりに劇的に兄の遺骨を探した状況を説

明し、こう言った。「兄の遺骨箱に本籍地、住所が正確に書かれてあり、とてもよかった。だから故郷へ帰れた。日本
で死亡した沢山の強制動員犠牲者のうち、縁故が分からないで帰れない場合が多いというが、遺骨を探せない人たちは、
とても無念でしょう。」

上の証書は具然錫を操車工(列車の編成、線路交代または各両を連結する技能工)3級工手として、鄭英得を機械運転工3級工手に任命する任命状であ
る。証書の発給日は二人とも1945年7月15日で、これは二人が死亡した日付だ。そしてこの日は、室蘭市に大々的な艦砲射撃があった日だ。つま
り、この任命状が意味するのは、「輪西製鉄所」の「訓練生」だった二人が艦砲射撃で死亡したことを慰めるための一種の昇級処置と推定される。
この任命状を発行した「愛国第251工場」は、輪西製鉄所のもう一つの名前だが、当時は軍需工場の機密を維持するために工場の名前を数字で代用
した。

具然錫の3級工手任命状/具ヨンスン(具然錫の弟)提供

鄭英得の3級工手任命状/鄭サンドゥク(鄭英得の弟)提供

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156 _ 写真で見る強制動員の話

弔慰金封筒

解傭精算金の封筒

写真は弔慰金が入っていた封筒で、それぞれ「第 2 協和寮生徒一同」と「製鋼部一同」と書かれている。「御香典」または「御香料」は、故人の死
亡を哀悼する「弔慰金」を意味する日本語だ。当時、室蘭艦砲射撃で死亡した具然錫と鄭英得の死を哀悼して同僚たちが所定の弔慰金を集めたもの
とみられる。弔慰金額が鉛筆で記されている。

鄭英得の創氏名 ( 松田芳夫 ) が書かれている。「解傭精算」と赤印が押されている。鄭ヨンドゥクが死亡したので、事業所から解雇処理して賃金と各
種手当などを精算した文書だ。しかし、細部項目には記載がなく、当時封筒の表面には鉛筆で全体金額を記した跡がうっすらと見える。封筒表面に
書かれている「決死増産」、「規律厳守」、「防護強化」という文句から、戦争末期に増産態勢が強められ、防護に追われていた状況が感じられる。

具然錫の同僚たちが出した弔慰金の入った封筒/具ヨンスン(具

然錫の弟)提供

解傭精算書封筒表面と裏側/鄭サンドゥク(鄭英得の弟)提供 

鄭英得の同僚たちが出した弔慰金の入った封筒/鄭サンドゥク

(鄭英得の弟)提供

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158 _ 写真で見る強制動員の話

• 北海道函館市所在
• 1896年函館船渠株式会社
• 1951年函館ドック株式会社
• 委員会申告件数:約10件

1896 年、函館船渠株式会社として函館で創業し、〔1940 年、室蘭
船渠を合併して室蘭造船所とした。〕1951 年に会社名を函館ドッ
ク株式会社へ変更して今日に至る〔現在名は函館どつく株式会社〕。
記録の不足で朝鮮人強制動員の規模と労働実態に関しては確認が
難しいが、1943年から1945年の間、函館船渠株式会社には約100
人の朝鮮人が動員されたものと推測される。1944年2月『北海道
新聞』には「青雲寮朝鮮人隊長以下工員130人が貯蓄目標を達成
した」という記事が載せられた。この記事だけでは、当時ここで
何人の朝鮮人が働いていたのかは推定できない。50)

函館船渠株式会社

50) 前出『北海道と朝鮮人労働者』165ページ.

函館

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160 _ 写真で見る強制動員の話

51) 解傭欄には、室蘭造船所と記されている。
52) 労務手帳の構成の詳細は、本書の千歳飛行場工事(崔有達の労務手帳)参照。

日本厚生省から発給された張錫鎬の国民労務手帳だ。国民労務手帳には、

氏名と本籍地、住所、就業場所と移動状況、職名と技能程度、月給状況など
が詳細に記録されている。52)

写真の13~14ページには就業場所と就業期間を記録するようになってい

る。就業場所記入欄には函館船渠株式会社室蘭工場の住所が記されている。
使用者記入欄には工場長の名前が書かれている。また、使用開始日(1943年4
月21日)と解傭日(1945年4月7日)の記録から、張錫鎬が約2年間、この作業場
に動員されたことが分かる。

内 容

就 業 場 所: 室蘭市祝津町128番地 函館船渠株式会

社室蘭工場51)

使用開始日:昭和18年(1943年)4月21日
解 傭 日:昭和20年(1945年)4月7日

国民労務手帳

張錫鎬(チャン・ソッコ)の国民労務手帳 表紙と13~14ページ/張ネヨン(張錫鎬の子息)提供

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日帝強制動員被害者支援財団

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162 _ 写真で見る強制動員の話

写真の17~18ページには、職業名と技能程度が記載されている。手帳の

内容によれば、張錫鎬は函館船渠株式会社〔室蘭工場〕で船体用鋼材の2級
撓鉄工だった。

内 容

職 業 名:撓鉄工
作業内容:船体用鋼材撓鉄作業
技能程度:2級

国民労務手帳

張錫鎬の国民労務手帳17~18ページ/張ネヨン(張錫鎬の子息)提供

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日帝強制動員被害者支援財団

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164 _ 写真で見る強制動員の話

53) 各種金属素材を回転させて、研いだり削ったり穴を開けるのに使う工作機械.

私の故郷は忠南の洪城です。洪城で高等

学校を卒業後、技術を学ぼうとソウルへ向か
いました。ソウル阿峴(アヒョン)洞にある職業学
校で旋盤53)を学びました。1943年7月のある
日、私は瑞山に住んでいる兄に会おうと向
かいました。ところで、道を歩いていたら突
然、組織的に動員され、私は父母にも会えな
いまま、日本へ引っ張って行かれました。瑞
山で一緒に捕まった30~40人余の人たちと
一緒に北海道へ送られました。家族には後に
北海道に到着してから、手紙を書いて消息を
知らせました。

私は旋盤技術を学んでいたため、函館に

ある造船所へ送られました。引っ張って行か
れた人のうち、私一人だけが造船所に配置さ
れ、他の人たちはみな、散り散りに他の所へ
送られました。そこでは大きな電柱のような
ものを磨く仕事をしました。その電柱のよう
なものは軍艦をつくる材料のようでした。そ
こで働いている韓国人は何人もいませんでし
た。仕事中に周りを見回すと、みんな日本語
で話していました。私は学校で日本語を習っ
たので、それほど不便を感じませんでした。
仕事は夜遅くまでしましたが、まだ若かった
ので、何とか耐えられました。

船舶会社で働いていたある日、故郷から手紙が届き

ました。父親が危篤だという内容でした。その手紙を警
察署で見せて故郷へ帰らせてくれと言いました。そうす
ると警察署からひと月だけ行って来いと言って、「一時
帰鮮証明書」を出してくれました。その証明書をもって
ひと月の間、故郷へ行って父と会ってきました。私はそ
の時、人脈があり、帰国証を発給して貰えたのです。当
時、徴用に行った韓国人は、事情があっても、休暇を貰
って家に帰るのは簡単ではなかったのです。

それで一か月後にまた北海道に戻ってみると、私を

満州に送るというのです。詳しくは分かりませんが、会
社が送ったようです。私と韓国人の同僚何人かと一緒に
満州へ移動しました。満州へ行く道はとても遠かったで
す。北海道から日本本土の東京まで行って、韓国の釜山
へ来ました。そして釜山から汽車に乗って満州へ行きま
した。満州の天寶山鉱山という所で鉄鉱石を掘る仕事を
することになりました。そこは韓国人労務者が多くて、
韓国語を使いました。

鉱山で働いていたら解放になり、私たちの仕事も終

わりました。働いていた時は月給の一部だけくれて、今
は金がないからあとで残りをくれると言いましたが、受
け取れませんでした。強制で貯金させられた金もあるの
に、その金ももらえませんでした。すでに時が過ぎ、私
の記憶はあいまいですが、この資料に私がどこにいたの
か全部書いてあります。

趙炳春(チョ・ビョンチュン)

・1926 年忠清南道洪城郡出身
・1943 年 7 月、忠南 瑞山 ( ソサン ) に住む兄を訪問

しようとした途中で動員された。北海道の函館
船渠 ( 株 ) で旋盤作業をした。

・1944 年 8 月、満州の天寶山鉱山へ「転換配置」

されて鉄鉱石採取作業をした。

・1945 年 8 月、満州で解放を迎えて帰国 .

生 存 者 に 直 接 聞 く 写 真 の 話

趙炳春の話

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日帝強制動員被害者支援財団

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166 _ 写真で見る強制動員の話

趙炳春を機械職場本工員に任命するという辞令だ。函館船渠株式会社函館

工場が1943年7月11日発行した。辞令の中央上段に函館船渠株式会社のマー
クが描かれている。

内 容

標 題:辞令
発 行:函館船渠株式会社函館工場
発行日:昭和18年(1943年)7月11日

-   訓28番 川本炳春(趙炳春の創氏名)機械職場 本工員

を命す

辞令

趙炳春の辞令/趙炳春寄贈

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日帝強制動員被害者支援財団

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168 _ 写真で見る強制動員の話

54) 守屋敬彦『戦時外国人強制連行関係資料集Ⅲ朝鮮人2下』1991年(1273~1274ページ、2106ページ)

1943年11月27日、函館警察署が発給した一時帰鮮証明書である。右側に

は趙炳春の証明写真が付着している。左側には本籍地住所、氏名、生年月
日、現住所など、彼の人的事項が詳細に記載されている。帰鮮用務欄には、
「故郷の父が危篤のため」と理由が書かれている。趙炳春本人も、「故郷か
らの父が危篤だという手紙が届いて、その手紙を警察署で見せて故郷に戻れ
るようにと言ったら、警察署がひと月だけ戻って来いと言って一時帰鮮証明
書を作ってくれた」と陳述した。

強制動員された人は特別に認定される事由がない限り、故郷の土を踏むの

が簡単ではなかった。当事者が病気で労働能力を喪失したり、会社側から不
良労働者として判定された場合には帰還が許されるが、家族の死亡、病気、
本人の結婚などの事由である場合には一時帰還が許容されるだけだった。一
時帰還した者がこれを利用して作業場に復帰しないことを憂慮して会社は、
「一時帰鮮」理由を厳格に統制した。

他方、北海道紋別市にある鴻之舞鉱山の場合、強制動員された者の「一時

帰鮮」は次の通り行われた。「一時帰鮮」のためには、強制動員された者の
故郷からその理由を電報で会社側に知らせなくてはいけない。電報を受取っ
た会社側はその内容が信頼できる電報なのか確認するために強制動員された
ものの故郷所在の警察署へ電報内容を送付する。電報内容が確実だとする連
絡が会社側に伝達されれば、会社は寮の主事に該当労働者の日常動向を調査
して(報告を)提出させる。報告書を検討した会社は最後に本人から必ず戻っ
てくるという誓約書を受け取って手続きを終える。54)

これは鴻之舞鉱山の当時の事例から確認されたものだ。他の作業場の「一

時帰鮮」の手続きは、これと大きく違わないと思われる。趙炳春もやはり、
故郷から父が危篤だという手紙を警察署と会社に提出し、許可を受けた後に
一時帰還できた。証明書には、個人の詳細な人的事項と事業所に関する情報
が記載され、「一時帰鮮」者の写真が貼付されている。この資料から、「一時
帰鮮」が徹底した統制の下でなされていたことを知ることができる。

内 容

本  籍:忠清南道 洪城郡○○面○○里
住  所:函館市新浜町32番地
職  業:機械
名  前:川本炳春(創氏名)
生年月日:大正15年(1926年)○月○日
雇 用 主:函館市新浜町32番地函館船渠株式会社
行 先 地:本籍地
帰鮮用務:故郷の父が危篤のため

趙炳春の一時帰鮮証明書/趙炳春 寄贈

一時帰鮮証明書

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日帝強制動員被害者支援財団

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170 _ 写真で見る強制動員の話

編集後記

玄界灘の波濤を越えて三昼夜、道庁職業課の斡旋によって戦時下の労力飢饉に悩む本道へ厚生

省の労務動員計画の先発隊として遥々駆付けてきた救護部隊半島人の李○○以下340名は、長途
の航海の疲労の色も見せず元気一杯午後3時半小樽市島谷汽船の長成丸で函館に入港した。/朝鮮
服、背広、ナッパ服とりどりの服装で甲板からのび出して居る銃後の戦士たちは、港内の風景に
奇異の眼をみはり不安さうな面もちだ。併し日灼けてがっちりした体格は如何なる労働にも堪え
得る力強さを思わせて頼もしい。

強制動員はその動員方式によって募集、斡旋、徴用に区分されるが、時期的な区分はあっ

ても、強制性にはそれほどの差異はない。日帝は1939年から1945年まで、この三つの方法を
混用して朝鮮人を強制動員した。ここでの「募集」を個人の自由意思による純粋な志願とみ
て、強制動員の範疇に入るのかと疑問が提示されることもある。しかしこの「募集」とは、
1938年4月に制定された「国家総動員法」と1939年7月の「国民徴用令」などの関係法令を根
拠に日本政府が実施した「労務動員計画」政策によって行われたものであり、強制動員の範
疇に当然、含まれる概念だ。上の新聞記事にも1939年10月、北海道に最初に入った朝鮮人労
務者たちは、「道庁職業課の斡旋で来た厚生省の労務動員計画の先発隊」とある。これは当
時、朝鮮で行われた「募集」が、企業が行う純粋な「募集」でなく、国家政策による強制動
員であることを示している。

3. 北海道労務動員の規模

記録によれば、強制動員が始まる前の1938年、北海道居住の朝鮮人数は1万2000人ほどだ

った。同じ時期、日本全国(約80万人)に比べれば1.5%に該当する少ない数だ。それが1945年
には約11万人に急増し、1938年に比して約9倍の伸び率をみせている。いわゆる強制動員期の
1939年から1945年の間に多数の朝鮮人が北海道に動員されたのである。実際、1946年5月5日
付でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が作成した報告書にも「終戦時、北海道にいる10万
8400人の朝鮮人はほとんど奴隷労働に近い状況だった」と記録されており、上の規模と大同
小異である。解放直後の北海道地域の朝鮮人居住者11万人と、1945年以前に契約期間満了や
負傷などの理由で帰還した者、動員中の死亡者などをすべて合計すれば、北海道地域の朝鮮

北海道と朝鮮人強制動員

1. 開拓の地・北海道

一年の半分が雪と氷に包まれている日本最北端の島、北海道の歴史はまさに開拓の歴史だ

といえる。この島にはもともとアイヌ民族と言う先住民族が独自の生活文化を築いて生活し
ていたが、1869 年、明治政府が「蝦夷地」という地名を北海道に改称し、本格的な開拓事業
を始めた。未開地の土地に大量の移住民が入って来て鉄道、道路、港湾などを建設したが、
このような開発工事には囚人や「タコ」と呼ばれる労働者たちが過酷な強制労働により、犠
牲になった。

北海道の開拓過程でなされた強制動員、強制労働は第2次世界大戦当時、日帝の植民地支配

下にあった朝鮮人にも影響を与えた。北海道に引っ張ってこられた朝鮮人で、土木工事場に
動員された人たちは「タコ部屋」という人身拘束の宿舎に監禁され、厳しい監視と殴打の中
で過酷な労働に呻吟しなければならなかった。

2.北海道に強制動員された最初の朝鮮人

北海道に朝鮮人が最初に強制動員されたのは1939年10月だ。1939年10月4日付の「北海タ

イムス」(現「北海道新聞」の前身)の記事には次のように出ている。

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172 _ 写真で見る強制動員の話

賃金は各作業所ごとに違いがあるが、炭鉱・鉱山の場合、月平均35~45円程度に規定され

ていた。しかし朝鮮人労務者の手に実際に入るお金は幾らにもならなかった。宿食費、用品
貸与費、軍事貯蓄などの各種貯蓄、家族に送金する名目などで大部分の賃金が控除されるか
らだ。強制貯蓄と若干の現金は、朝鮮人労務者の脱出を未然に防止する手段として広く使わ
れた。また、解放されても、貯蓄された賃金分は朝鮮人労務者に返されなかった。帰還後も
貯蓄した賃金が貰えなかったと無念を訴える生存者が多い。

増産のために労働力の増強が求められた時期に、労務者の脱走は会社側に大きな損失であ

った。労務者の離脱を防止するために、会社は契約期間満了者に再契約を強要したり、朝鮮
にいる家族を日本へ呼び寄せる政策を行ないもした。だが脱出者を防げなかった。脱出を試
みて失敗した時には、「見せしめ」のために仮借のないリンチと過酷な行為が加えられた。
動員された人びとは「坑の中でいつ死ぬか分からないし、腹が余りにも減るからまた逃げ
る」という。しかし、幾重に連なった山中に、雪で孤立した作業場から脱出を試みるのは簡
単ではない。それゆえ、比較的人口密度が高く市街地もある福岡地域は、朝鮮人の脱出率が
50%を超えるが、その半面、北海道はわずか20%に過ぎない。

強制動員された労務者が堪えられなかったのは、飢えだった。「飯を十分くれたら働くけど、

腹が減って仕事ができない」、「米飯はお目にかかるのが難しい。豆かす、ジャガイモの潰し
たものが主に出てきた。」と言う生存者の陳述が数多く登場する。特異なことは、海産物が豊
富な地域であることから、ニシンのような魚がよく出されたようだ。しかしそれは労務者の
飢えた腹を満たす量ではなかった。

5.北海道と朝鮮人犠牲者

北海道に強制動員されて、生きて帰れなかった人も多い。戦時期、北海道の炭鉱で死亡し

た朝鮮人は、文書などで確認されただけでも1200人余りになる。鉱山や土木作業場での死亡
者を合わせれば、2000人を超える。大小の事故以外に、寒さで凍死したり、衛生的でない環
境で伝染病にかかったケース、栄養失調と各種疾病で死亡するケースも多い。死因からは、
殴打が疑われるケースもある。

人強制動員規模は約15万人と推定される。

これら15万に達する朝鮮人たちはアジア太平洋戦争当時、労働力不足が深刻だった北海道

各地域の炭鉱・鉱山、飛行場工事、鉄道工事、軍需会社などの作業場に強制動員された。特
に北海道は石炭産業が盛んであり、この炭鉱に数多くの朝鮮人が動員された。1944年には北
海道地域の炭鉱での朝鮮人労務者数は全体炭鉱労務者の40%を占め、戦争末期には3/4に
近づくに至った。

4.北海道に動員された朝鮮人労務者の生活

北海道地域は当時、朝鮮でも動員を避けたい地域だった。その理由は日本の最北端に位置

しており、距離的に朝鮮から遠く、寒冷地であり生活しにくいこと、そして炭鉱が多くて労
働が辛く危険だということが経験者を通じて知られていたためだ。特に村から北海道に動員
されて遺骨で帰った人が一人でもいれば、より深刻な状況だった。

実際、北海道への道のりは遠くて辛い旅だった。各村で割り当てられて集まった朝鮮人

は、郡に集合し、集団で釜山(または麗水)へ移送された。釜関連絡船に乗るためだった。連絡
船で日本の下関に到着した朝鮮人は直ちに列車に乗り換え、日本本土末端の青森に送られ、
そこでまた船に乗り換え、北海道に着く。北海道ではまた汽車やトラックで作業場のある所
へ向かった。その期間だけで平均一週間、長ければ半月もかかった。移動中、徹底した監視
が伴ったことはいうまでもない。

作業場に到着した朝鮮人たちは所定の訓練期間を終えて現場に投入された。炭鉱の場合、

到着後1~3日間の神社参拝、身体検査などの各種検査、坑内外の見学があった。炭鉱労働は
相当期間の訓練が必要だが、至急に労働力が求められた所では3~4日程度の訓練で朝鮮人労
働者が現場に投入され、場合によっては到着した次の日に作業に投入され、現場で訓練を受
けることもあった。朝鮮人たちは大概、危険度が高い坑内夫として配置された。戦時期の北
海道地域では、炭鉱坑内夫の62%が朝鮮人となり、ある作業場では80%に達するところもあ
った。労働は主として二交替でなされ、この時の労働時間は普通9~10時間である。しかし
「ノルマ」という個人に割り当てられた量を全部満たすことで坑外に出られるので、作業時
間は10時間をはるかに上回ったことが知られている。

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174 _ 写真で見る強制動員の話

シーンは韓国でもとても有名だ。日本語を知らない人たちまで当時、「お元気ですか?」と叫
んで歩くほど、この映画は韓国で日本文化に馴染むきっかけになった。この映画「ラブレター」
の背景になった場所は、まさに北海道だ。世界三大雪祭りで有名な「さっぽろ雪まつり」、温
泉、スキー場、山と海など、美しい自然を誇る北海道は誰でも一度は行ってみたい観光名所
のひとつだ。このように美しい北海道がアジア太平洋戦争当時には強制動員の代表的な地域
だったことを知る人は多くないだろう。多数の朝鮮人が強制動員された北海道の炭鉱は廃坑
後、スキー場などの観光地に開発され、多くの観光客を誘致している。皮肉なことに、私た
ちが観光を楽しむ空間が、他の誰かにはつらい記憶の空間であることもある。限りなく広が
って自ずと感嘆を編み出す白い雪原が、他の誰かには「酷い雪の記憶」になることもあるのだ。

「ラブレター」で、男女の主人公の愛の媒介になる本がある。「マルセル・プルースト」の『失

われた時間を求めて』だ。学窓時代の失った記憶が、一冊の本を通じて現実の中に甦

よみがえ

る。日

帝強占期に祖国を失い、生活の基盤を失い、10 代、20 代の若い時に故郷を離れ、苦痛の生活
を送った強制動員被害者たちにとって、その時期は人生での「失われた時間」になるのかも
知れない。たとえ当時の逆境を克服したとしても、その時間は思い出すことのできない「失
われた時間」になっているのかも知れない。

人間の眠り込ませた記憶は、ある媒体が生じたときに、よりよく甦る。記憶として留まっ

ていたことが、一つの物体を通じて具体化、形象化するものである。「失われた時間を求めて」
という一冊の本が女主人公の愛を探し与えたように、記録、写真、博物類などの資料は強制
動員に関する「記憶の現実化」を引き出すのに、このうえない良い材料になっている。

「記憶の現実化」は記憶の共有化につながることができる。ある生存者は北海道までの大変

な旅路を、「アホモリを越えて北海道へ行った」と言った。ある生存者は本人が働いた作業場
の名前を「北海道コンチグン、オリバル炭田」と被害申告書に記載した。これら生存者たち
の記憶が陳述を通じて現実化され、その内容は私たちに「青森を通って北海道へ行った」へ、

「北

海道空知郡大夕張炭鉱」へと共有されるのである。

朝鮮人労務者 業種別死亡原因

( )内は%

原因

炭鉱

鉱山

土木建設

工業 他

事故死

489人(83.7)

43(41.7)

35(13.1)

2(3.1)

変死

27(4.6)

6(5.8)

22(8.3)

11(17.2)

病死

68(11.7)

53(51.5)

209(78.6)

51(79.7)

戦死

1(1.0)

小計

584(100)

103(100)

266(100)

64(100)

不明

673

7

184

134

合計

1,257

110

450

198

・出典:『北海道と朝鮮人労働者―朝鮮人強制連行実態調査報告書』P.258

朝鮮人死亡者数は、同じ時期の日本人を含む北海道地域で死亡した労務者(3500人余)の過

半数以上を占める。これは朝鮮人が日本人よりもさらに危険な作業現場に配置される場合が
多く、劣悪な環境、過酷な労働などに晒されたことによるものと判断される。死亡した朝鮮
人に対しては、適法な手続きに従って、葬式を行ない、遺骨が奉還されるべきだった。しか
し、まだ北海道に眠っている朝鮮人の遺骨が確認されただけで200体余りに達する。それほど
に適切な処置がなされないケースが多かった。また、死亡通知、補償金や慰労金などが支給
されたのか否かが、明確でないケースが多い。

記憶の現実化を目指した小さな歩み

以前、ある放送局で諜報要員を題材にしたドラマが放映されたとき、日本の秋田県が人気

観光地に浮上したことがあった。撮影場所が秋田県というだけで、一躍、人気の観光地に急
浮上したのである。秋田県は韓国人観光客の急増により、航空機便数を増設したが、座席を
確保するのが容易ではなかった。だが、観光を終えて来た人たちやドラマを見た人たちの中で、
ドラマの男女主人公のデートシーンで有名な田沢湖、導水路とその周辺の水力発電所の建設
に、朝鮮人が強制動員されたことを知る人はほとんどいない。

日本映画「ラブレター」で、女性主人公が白い雪原に向かって「お元気ですか?」と叫ぶ

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176 _ 写真で見る強制動員の話

北海道最北端に位置する静まり返った漁村、猿払村では 2005 年から朝鮮人強制動員被害者

の遺骨を発掘する作業が行われている。地域住民、北海道地域の市民団体、韓国・日本の青年、
ボランティア、アイヌ民族など、数百人が参加して朝鮮人強制動員の実態を明らかにし、犠
牲者を追慕する行事を行っている。

北海道はこのように、強制動員真相究明のための地域住民の関心と活動が活発な所だ。強制

動員真相究明に対する熱意は、単に地域住民にだけ限られたものではない。すでに北海道庁の
主管で『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』が1999年に発刊されてい
る。そして最近では、地方自治体も朝鮮人強制動員についての調査を公式的に表明し、実態調
査に着手している。過去、北海道は沢山の朝鮮人が動員され、酷い労務管理で有名な地域であ
るが、現在は過去を反省し、どこの地域よりも真相究明に積極的な所になっている。

しかしまだ解決されるべき問題は多く残っている。朝鮮人労務者の未払金・供託金問題、

遺骨奉還問題、適切な補償と責任問題、もちろんその前に当然なされるべき本当の謝罪問題
など、そして強制動員が歴然と存在したという認識とその拡散。今回発刊する資料集が、後
者の認識を拡散させる契機の第一歩になることを望む。そうして被害者当事者、家族が大切
にしまっていた一介の紙切れに過ぎないかも知れない一枚の文書、一枚の写真が、失われた
過去の記憶を想起させ、自らの父を回顧し、その経験を共有し、この時代を生きる私たちを、
振り返らせる契機になればと思う。

一枚の写真の中から被害者たちの痛みを共有して歴史を理解できることを、北海道地域が

記憶の伝承、相生の空間に生まれ変わることができることを、そしてこのような努力が強制
動員被害の真相究明の礎石になっていくことを望む。

〈調査3課 河承賢〉

本資料集作成のため、生存者の尹永旭(ユン・ヨンウク)と会ってインタビューをした時のことだ。

「お爺さん、日本から持ってこられた資料はありますか?」と尋ねると、そんなものはない
と言った。「何で日本からの紙の切れ端もないのですか?」と反問すると、「あ…切れ端はあ
るだろう」と言いながら上着からノソノソと資料を取り出した。「これは会社に到着して、自
分らに、服や布団などをくれた時の紙だが、これらを自分の月給からみんな返さなきゃいけ
ないというものだが、返すのがとてつもなくシンドかった」と言われた。お爺さんが出した
紙は、「借用証」と書かれている資料で、生存当事者が記憶するように、労務者に必要な物品
を支給して、その金額を月給から控除するという内容が記載されている文書だった。所有者
がたかが紙切れと思っていたこの資料は、当時の企業が朝鮮人労務者をどんな風に管理して
いたのかの一端を示す資料だったのだ。

取るに足りないような一枚の紙が重要であり、歴史的な真実を含んでいる場合がある。写

真資料は対象をそのまま再現しているが、そのものよりも、その内容を解釈することが重要
だ。たとえ一カットに過ぎない写真でも、被写体に内包されている強制動員の意味を捉える
ことが、この資料集の重要な目的だといえる。また、当時の写真、文書類などを通じて、過
去60年余の間、死蔵されてきた被害者の記憶が、忽然と社会の表面に現れ、新しい価値で評
価され、歴史的な照明を受けるという点で、大きな意味があるだろう。

和解の空間・北海道でなされる記憶の伝承

2009年10月、北海道東川町に住んでいる住民たちが韓国を訪問した。彼らが住んでいる村

には、戦時期朝鮮人が建設した水力発電所と貯水池がある。低水温で稲作ができなかったこ
の地域は、遊水池建設で稲作に適した水温維持が可能になり、以降、豊かな収穫と潤沢な生
活が可能になったという。彼らは韓国を訪問して、長い間、心にたまっていた心境を強制動
員被害者に伝えた。「あなたたちが作ってくれたダムと貯水池のお陰で、私たちが今おいしい
コメを作り、豊かに住んでいます。感謝し、申し訳ありません」。強制動員被害の生存者も、
当時苦労したことを癒されて、目頭を熱くした。

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178 _ 写真で見る強制動員の話

- 寄贈者と提供者名順 -

資料索引

144  姜サムボン 

輪西製鉄所で撮影した姜サムボンの写真

75  姜ソンガップ  北海道苦楽歌

156  具ヨンスン 

具然錫の同僚たちが弔慰金を包んだ用紙

148  具ヨンスン 

具然錫の写真

150  具ヨンスン 

具然錫の懐中日記

152  具ヨンスン 

具然錫 運輸従事員安全作業心得

155  具ヨンスン 

具然錫 3 級工手 任命状

130  金ギョンヒ 

同僚たちと一緒に撮影した金ヨンチョルの写真

128  金ギョンヒ 

北海道雨竜川発電所工事産業記念撮影

40  金ドゥシク 

金ドゥシクの写真

41  金ドゥシク 

金ドゥシクの写真〈愛情の親友 送別の記念〉

20  金セギュン 

徴用告知書

24  金ヨンソク 

診察券

70  金鍾培 

金鍾培の写真

68  金鍾培 

美唄炭砿で撮影した金鍾培の団体写真 〈瀬戸勤労報国隊誠心寮隣保班精勤競争優勝記念〉

144  金ヒョンス 

輪西製鉄所で撮影した金ヒョンスの写真

80  馬ドンワン 

置戸鉱山で撮影した馬ジョムスの団体写真

83  馬ドンワン 

置戸鉱山で撮影した馬ジョムスの写真

82  馬ドンワン 

馬ジョムスの写真

32  朴ギョンヒ 

幌内鉱業所で撮影した朴ドンマンの団体写真 〈昭和 17 年度幌内鉱業所協和寮炭稼競争優勝記念〉

94  朴ギルジン 

家族扶助料 支給明細書

23  朴鍾成 

給与明細書

22  朴鍾成 

従業員証

44  朴ヘジン 

死亡関連文書

134  徐ソクスン 

協和会会員章

116  申ジョンシク  表彰状

109  申鉉大  

申鉉大の写真

145  呉ジュファン  輪西製鉄所で撮影した呉ドグンの写真

64  ユギイル 

賞状

48  尹秉烈 ( ユン ・ ビョンニョル ) 

神威炭砿で撮影した尹秉烈の写真

56  尹秉烈 

カバン

52  尹秉烈 

決戦増産手当給与通知書

49  尹秉烈 

帰国時期に撮影した尹秉烈の同僚たちの写真

54  尹秉烈 

給与明細書

51  尹秉烈 

〈ハガキ〉

50  尹秉烈 

〈手紙〉

53  尹秉烈 

特殊郵便物受領証

102  尹永旭 ( ユン ・ ヨンウク )  赤十字社員証

100  尹永旭 

借用証

28  李ヨング 

負傷証明書

86  李ワンスル 

茅沼炭鉱で撮影した李泰仲の団体写真

36  李ヒョング 

李ヒョングの写真

160  張ネヨン 

国民労務手帳

124  全愚植 

死亡診断書

125  全愚植 

全愚植の写真

146  鄭サンドゥク  室蘭市光昭寺に安置されていた犠牲者たちの遺骨の写真

155  鄭サンドゥク  3 級工手 任命書

156  鄭サンドゥク  鄭英得の同僚たちが弔慰金を包んだ用紙

157  鄭サンドゥク  解傭精算金の封筒

74  鄭スナム 

大夕張鉱業所 慶尚北道英陽隊一同の写真

166  趙炳春 

辞令

168  趙炳春 

一時帰鮮証明書

90  朱龍根 

朱龍根の写真

118  崔サンドン 

国民労務手帳

60  崔ユニョン 

三井新美唄炭砿 済州島労務隊 1 周年記念

61  崔ユニョン 

新美唄炭砿で撮影した崔テウクの写真

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180 _ 写真で見る強制動員の話

 企業·地名·用語索引


神威炭砿  43, 45, 46, 51, 53 
上ノ国町  93 
鹿島市  74
萱沼炭鉱  85, 88, 89
川口組  121 
鴻之舞鉱山  17, 169 
光昭寺  146
組  113, 123  
国家総動員法  21, 171
軍需会社法  21
勤労報国隊  9
釧路市  97, 105
釧路炭田  97, 105, 107, 109, 110
木古内町  133


名古屋  66
鯰田炭鉱  98, 99
野村鉱業株式会社  17, 79, 81
登川炭鉱  27


猿払村  121
誠心寮  68, 69
瀬戸市  66, 69
空知郡  43, 45, 51
宗谷郡  121
昭和鉱業株式会社  35
朱鞠内  127
菅原組  127
住友鉱業株式会社  17
通洞坑 63
下関  172
新美唄炭砿  60, 61
新日本製鉄株式会社  143
新幌内鉱業所  37, 38, 40


竪坑  63
タコ部屋  67, 71, 89, 107, 110, 112, 123, 170
丹野組  121, 125
泊村  85
飛島組  127
常呂郡  79, 81
寮  25, 69, 169


松前町  137, 139
松前線  133, 139
室蘭  12, 141, 143, 146, 151, 156
三井鉱山株式会社  17, 59, 60, 105, 106, 108, 110
三菱鉱業株式会社  17, 63, 65, 66, 69, 73, 75, 97, 98, 105
三笠市  31, 35


奉公寮  87
美唄市  59, 63
美唄鉱業所  59, 63, 65, 66,67, 69


浅茅野飛行場  121, 122, 123, 124, 125
愛知県  69
阿寒町  97
八幡製鉄所  143
大夕張鉱業所  63, 73, 74, 75, 178
王子製紙株式会社  115
置戸鉱山  79, 81
置戸町  79
輪西製鉄所  12, 141, 143, 145, 149, 151
雨竜鉱業所  17
雨竜郡  127
雨竜ダム  127, 129
雨竜電力株式会社  115, 117
歌志内町  45, 51
夕張市  19, 27, 73
夕張鉱業所  19, 21, 27, 59
雄別炭鉱  98, 105
雄別炭鉱鉄道株式会社  96
イトムカ鉱山 17
日本製鉄株式会社  143
一心寮  63

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182 _ 写真で見る強制動員の話


帝国砂白金  17
中外鉱業株式会社  93
地崎組  115
地下足袋  61, 66, 131
千歳飛行場  115, 117, 119
千歳町  119
上国鉱業所  93, 95


鉄道工業株式会社  122
青雲量  159
清真寮  25
親和寮  74


キャップランプ  69


浜鬼志別  121
浜頓別町  121, 125
函館  77, 159, 164, 167, 169, 171
函館船渠株式会社  158, 159, 161, 163, 167, 169
鳩ケ丘第1協和寮  51, 52
飯場  25, 49, 71, 89, 98, 99, 101, 107, 113
艦砲射撃  12, 146, 147, 151, 155, 156
平和鉱業所  19, 26, 27, 29
現員徴用  21
協和寮  9, 25, 31, 32, 33, 51, 52, 60, 61, 107, 110, 148
協和會  10, 134, 135, 136, 137, 138, 139
幌内鉱業所  19, 31, 32, 33, 35
幌加内町  126
堀内組  137, 139
北海道炭礦汽船株式会社   17, 19, 21, 22, 24, 27, 29, 31, 33,  

35, 38, 40, 43, 45, 46, 143

古宇郡  85
福岡県  98, 99, 106, 108, 110, 143
桧山郡  93


B-29  151

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日本語版(2020)

企画 · 発行  日帝強制動員被害者支援財団

日本語翻訳  日本語翻訳協力委員会
 

 

日本語訳: 権龍夫, 地名・人名等校訂: 竹内康人

最終監修 

玄明喆  |  mchyun79@hanmail.net

 

 

 

韓日関係史学会 会長. 北海道大学博士(Ph.D)

 

 

 

韓日歴史共同研究委員会委員

 

 

 

主要著書:《明治維新初期の朝鮮侵略論》,

 

 

 

《19世紀後半の対馬州と日韓関係》

韓国語版(2009)

編著   

日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会

企画   

許光茂

構成   

河承賢

責任編集 

尹智炫

原稿作成 

河承賢、尹智炫

編集校正 

許光茂、河承賢、尹智炫

資料収集 

 李テヒ、河承賢、李宣姈、金ジンスク、尹智炫、羅ヘミ、姜ユミ、

 

 

調査2課 記録管理チーム

出版参加者

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