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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

- 捕虜監視員の動員と戦犯処罰の実態を中心に -

対日抗争期強制動員被害調査及び 国外強制動員犠牲者等支援委員会|編

発 刊 登 録 番 号
11-B553448-000008-01

報告書

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

- 捕虜監視員の動員と戦犯処罰の実態を中心に -

対日抗争期強制動員被害調査及び 国外強制動員犠牲者等支援委員会|編

発 刊 登 録 番 号
11-B553448-000008-01

日帝強制動員被害者支援財団 翻訳叢書  3   報告書

責任調査・報告書 作成 : チョ・ゴン / 調査1課

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日帝強制動員被害者支援財団 翻訳叢書  3  報告書

朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査
―捕虜監視員の動員と戦犯処罰の実態を中心に―

 

 

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初版 1刷 発行

編   著
翻   訳

最終監修

発行人
発行処

発刊登録番号 

デザイン・編集 

2019年 12月 13日
2019年 12月 16日

対日抗争期強制動員被害調査及び 国外強制動員犠牲者等支援委員会

日本語翻訳協力委員会

朴晋雨(淑明女子大学 教授)

金容德

日帝強制動員被害者支援財団
ソウル特別市鐘路区鍾路1ギル42 利馬Bldg. 6F
http://www.ilje.or.kr

11-B553448-000008-01

21世紀教育社(Design21)

本書の全部または一部を無断で複写複製(コピー)することは、
著作権法上での例外を除き、禁じられています。

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対日抗争期強制動員被害調査及び 国外強制動員犠牲者等支援委員会|日帝強制動員被害者支援財団

発刊の辞(日本語版)

財団法人日帝強制動員被害者支援財団は、2004年から2015年まで活

動した「対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援
委員会」(委員会)の事業を承継しました。したがって、弊財団は日帝
強制動員被害者と遺族のための追悼及び支援事業、強制動員被害に関
する学術研究・調査及び文化事業、国立日帝強制動員歴史館の運営な

どを主管しております。このうち、「委員会」解散後中断されていた冊

子の翻訳・発刊事業につきまして、今年から日帝強制動員出版事業に拡
大・改編し、発刊を迎えることとなり、心より感謝を申し上げます。

今年、弊財団から日帝強制動員出版事業として発刊される冊子は全5

種あります。まず、「委員会」当時日本の種々の市民団体、関連研究者
及び個人の方々にご助力いただいて翻訳された「委員会」真相調査報告
書2種(日本語版)と口述記録集2種(日本語版)、そして、今年弊財団
が関係遺族から原本記録の寄贈を受け、検討・監修を行って発刊するこ

ととなった強制動員手記集1種(韓国語版)であります。

発刊される「委員会」真相調査報告書2種は、『朝鮮人BC級戦犯に対

する真相調査)』と『ハワイ捕虜収容所における韓人捕虜に関する調
査)』であり、口述記録集2種は、『ポンポン船に乗って帰る途中、海
の幽霊になるところだったよ)』と『朝鮮という私たちの国があったの
だ)』であります。強制動員手記集1種は、日帝によって強制動員され、

日本沖縄県の座間味島で米軍の捕虜になった後、帰還された故チャン・

ユンマンさんの話です。弟さんのチャン・ジェダルさんが筆写した原本
記録「大東亜戦争実記集」を遺族のチャン・ヒョンジャさんからお受け

し、『太平洋戦争実記集』という題で発刊するに至りました。

このような意味のある事業を弊財団が再開できるよう、多くのご尽力

をいただきました韓国と日本の発刊委員と監修者の皆様方に深謝申し上
げます。また、本事業が「委員会」当時発刊された主要書籍の単なる翻

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

訳・発刊にとどまることなく、日帝強制動員全般に対する出版事業とし
て一層拡大され、その意義を受け継いでいけるように口火を切ってくだ
さった故チャン・ユンマンさんの遺族、チャン・ヒョンジャさんにも心よ

り感謝申し上げます。 

弊財団は2019年を皮切りに、中断されていた「委員会」発刊冊子の翻

訳事業を再開するとともに、日帝強制動員全般に対する多様な学術資料
や教育資料の発刊などを今後とも続けられるよう努めてまいります。皆
様におかれましては、一層のご愛顧、ご助力を賜りますようお願い申し
上げます。この度発刊される冊子が強制動員分野において微力ながら小
さな踏み台となり、国内外の多くの研究者と市民の方々にとって真実と
記憶の歴史としてその役目を果たすことをお祈りいたしまして、発刊の

ご挨拶とさせていただきます。

2019年12月16日

財団法人  日帝強制動員被害者支援財団

理事長  金 容 德 

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対日抗争期強制動員被害調査及び 国外強制動員犠牲者等支援委員会|日帝強制動員被害者支援財団

連合国は第2次世界大戦の終戦後、国際戦犯裁判を通じて、戦争の期

間中に行われた日本、ドイツ等枢軸国の戦争犯罪を処罰した。この時朝
鮮人148人も戦犯として実刑に処せられた。この内3人は、洪思翊(ホン・
サイク)中将をはじめ、フィリピンでゲリラ戦を遂行した軍人だったし、
16人は中国戦線で通訳として勤務した人たちだった。彼らを除く129人
が、軍属の身分の朝鮮人捕虜監視員たちだ。129人の内14人が死刑に、
115人は有期刑に処せられた。有期刑に処せられた人たちは、1947年か
ら1957年にかけて、満期または減刑で釈放される時まで、受刑生活をし
た。

朝鮮人軍務員たちは、日帝によって強制動員された人たちだった。

1942年5月から「志願」形式で施行された捕虜監視員募集の実状は、1

人の朝鮮人青年でもより多く侵略戦争に動員する一方、戦後植民地の民
に戦争責任を転嫁しようという意図が内包されているものだった。

捕虜監視員の募集は、大きく4段階を経たのだが、受付・選考・壮行

会・軍の最終審査がそれである。壮行会の段階までは、各地域の官公庁
が中心になり、「懐柔」と「強要」を通じた動員を実施した。しかし資格
要件は厳格に規定されており、特に一定程度以上の学歴に、日本語を駆
使できる人が優待された。

各地域では6月13日までにすべての選考と行事を終え、合格者を朝鮮

駐屯の日本軍側に引き渡した。そして捕虜監視員の合格者たちは、6月

15日から釜山にあった臨時軍属教育隊(別名、野口部隊)で二ヵ月間の激
しい軍事訓練を受けた。日本軍は再招集された予備役の将校たちと下士

官たちを臨時教育隊に配属し、捕虜監視員たちを訓練させ、以後、捕虜
収容所にも一緒に派遣し、朝鮮人の監視と管理を担当させた。

要約文

朝鮮人BC級戦犯についての真相調査

―捕虜監視員の動員と戦犯処罰の実態を中心に―

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

各地域から「選抜」された朝鮮人の総数と、臨時軍属教育隊の退所人

員、そして実際に捕虜収容所に配置された朝鮮人の数字は、多少差があ
る。しかし最終的に3,223人が捕虜監視員に任命され、この内3,016人が
東南アジア各地の捕虜収容所に配置されたことが確認される。

朝鮮人捕虜監視員たちは、収容所に配置された後は、日本軍と連合軍

捕虜の間で、被害者兼加害者の役割を果たさなればならなかった。そし
て、このような立場は、終戦以後、加害者から捨てられ、被害者から非
難される状況に変化した。

戦後、連合国は、国際戦犯裁判を通して、朝鮮人捕虜監視員たちを

戦犯として処理した。彼らは植民地支配の下で、日帝の侵略戦争に動
員され、解放後には連合軍によって、犯罪者として戦争責任を背負わさ
れた。朝鮮人捕虜監視員たちがこのように「二重の被害」を受けた理由
は、戦犯裁判で行われた連合軍捕虜の陳述のせいだった。直接被害を加
えた捕虜監視員に対する、連合軍捕虜たちの不利な陳述が相次いだの
だ。裁判で、朝鮮人の特殊な事情は考慮されなかった。捕虜監視員たち
が始めは植民地の民として日帝の侵略戦争に強制動員された人たちで
あり、日本軍の強制で仕方なく、捕虜たちに被害を負わせたという主張
は受け入れられなかった。植民地の民として、自らの敵でない敵と対面
する地位で働くしかない立場だったのに、結局日本の戦争責任まで転嫁
されたのであった。

2011年4月現在、委員会では129人の捕虜監視員出身のBC級戦犯の

内、申告が受け付けられた86人を、強制動員被害者として認定した。

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対日抗争期強制動員被害調査及び 国外強制動員犠牲者等支援委員会|日帝強制動員被害者支援財団

目次

発刊の辞(日本語版) ····································································································································3
要約文 ·······························································································································································5

Ⅰ.  序文 ··················································································· 9

1. 調査背景及び経過 ···························································································································9
2. 研究成果及び調査の方向 ············································································································12

Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置 ···········15

1. 東南アジア一帯連合軍捕虜の発生と処理 ···········································································15
2. 朝鮮人捕虜監視員の動員過程 ··································································································18
3. 臨時軍属教育隊入所と軍事訓練の実施················································································23

4. 動員規模及び捕虜収容所の配置現況····················································································29

Ⅲ.  捕虜監視員の戦犯処罰と戦争責任 ·································38

1. 国際戦犯裁判所の戦犯処理 ········································································································38
2. 朝鮮人戦犯の処罰状況 ·················································································································43
3. 捕虜監視員動員の「被害」と「加害」責任の間 ·······························································53

Ⅳ.むすび ―被害調査の内容と今後の課題― ················57

付録 ························································································60

翻訳 • 最終監修者 ········································································································································89

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

10 

表目次

<表-1>  朝鮮人戦犯処罰者の帰国及び日本残留の現況 ··············································10
<表-2>  陸軍俘虜管理部定員表 ······························································································16
<表‐3>  東南アジアの捕虜収容所に派遣された朝鮮軍尉官級将校の現況

                     (1942.8.1) ·····························································································································26

<表-4>「南方」捕虜収容所派遣の朝鮮軍将校・下士官及び捕虜監視員の

                       現況   ··································································································································32

<表-5>捕虜収容所『留守名簿』朝鮮人の現況 ·······························································33
<表-6> マレーシア捕虜収容所への朝鮮人捕虜監視員の転入現況 ·······················35
<表-7> マレーシア捕虜収容所からの朝鮮人捕虜監視員の転出現況 ··················35
<表-8> 連合国の国別の裁判結果  ·························································································41
<表-9> 起訴事実別の件数 ·········································································································42
<表-10> 朝鮮人BC級戦犯の死刑者の現況 ·········································································43
<表-11> 朝鮮人BC級戦犯者の服役者の現況 ····································································44
<表-12> 中国現地の服役者の現況 ························································································49
<表-13> オランダ側の戦犯裁判記録(死亡者) ··································································52

図目次

<図-1> 捕虜監視員の動員段階 ································································································21
<図-2> 泰・緬甸鉄道工事区間及び捕虜収容所の展開状況 ······································30

写真目次

<写真-1> 朝鮮人が収監された東京の巣鴨刑務所 ·························································50

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Ⅰ. 序文

11 

Ⅰ. 

 

序文

1. 調査背景及び経過
日帝は、1941年12月8日の真珠湾攻撃とマレー半島上陸で、太平洋と東南アジア一帯で同時に

戦争を開始して以来、マニラ(1942年1月)、シンガポール(1942年2月)、ジャワ(3月)、フィリピン
(5月)を次々に占領した。そして日本軍の占領地域の拡大は、イギリス・オランダ・オーストラリ
ア・アメリカなど連合軍兵士たちの、捕虜問題につながった。

当時日本軍の捕虜となった連合国兵士は、30万人内外と推定される。短い期間で大規模に発

生した捕虜を管理・収容するために、日本の軍部は1941年12月、陸軍省に「俘虜情報局(以下、
捕虜情報局)」を設置し、翌年5月には捕虜監視員1)を募集し始めた。そして軍属の身分の捕虜監
視員には、台湾人と朝鮮人が充当された。

朝鮮人と台湾人など植民地の民が連合軍の捕虜監視員に動員された最も大きな理由は、戦況

が悪化し、日本人だけでは戦闘兵力を補充することもままならなかったためだ。しかし他方で、
捕虜虐待の問題が戦後問題視される可能性を予見した方針だった、という意見もある。捕虜と直
接対面する捕虜監視員に植民地の民を使役し、戦争責任を結局彼らに転嫁しようとしたのだ2)。 

捕虜監視員の募集過程は、比較的詳しく確認できるが、朝鮮では1942年5月に初めて「募集」

公告が新聞に掲載された。表面的には「募集」の形態を取ったが、実際は朝鮮総督府が各邑・面

(村にあたる行政単位)に人員数を割り当て、面の書記と巡査を前面に立てて動員するなど、強

 1) 捕虜監視員は、当時は主に俘虜監視員と呼ばれが、捕虜監視員という用語も使った。ここでは捕虜監視

員の呼称を使う。

 2) 反面、捕虜問題が戦後深刻に台頭することを、予想できなかったという見解もある。日本軍の特質上、

捕虜の存在を認めない風土があったし、このために連合軍捕虜に対しても、正当な待遇を初めから受け
入れなかったという点からだ。しかし日本政府は1929年7月の、捕虜の待遇に関するジュネーブ協定の
内容を、充分認知していた。(内海愛子著『朝鮮人BC級戦犯の記録』(1982)、韓国語版:イ・ホギョン
翻訳『朝鮮人BC級戦犯、解放されない霊魂』東アジア、2007、123~126ページ。以下もページは韓国
語版による)

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

12 

制性が濃かったという3)。この時動員された3,000余人の青年たちは、軍属の身分なのに、釜山の
野口部隊4)  に収容され、二ヵ月間射撃と銃剣術などの軍事訓練を受けた。

その後彼らはインドネシアとフィリピン・ニューギニア・ミャンマー・タイなど、東南アジア各

地の捕虜収容所に配置され、戦争が終わる時まで捕虜に対する「加害者」的な役割を果した。そ

して終戦後、この「加害」行為が、国際戦犯裁判でBC級戦犯として処罰される、決定的な要因と

なった。

ところで朝鮮人捕虜監視員たちの悲劇は、戦犯処罰で終わらなかった。捕虜監視員たちは、長

い収監生活を終えて釈放された後にも、祖国に帰ることができなかった。彼らの胸には「戦犯」

という朱紅色の文字が濃く刻まれていたからだた。

表-1〉朝鮮人戦犯処罰者の帰国及び日本残留の現況

区分

死刑

自殺

帰 国

日本在住

総計

韓国

北朝鮮

生存者

死亡者

人 員

23

2

67

6

13

37

1485)

朝鮮人戦犯たちは、加害と被害のあいまいな位置で、自分たちの正当な存在を明らかにでき

ないまま生き、実際に日帝の協力者という疑惑の視線を受けたりもした。この報告書は、このよ

うな事実に対する真相究明を通して、BC級戦犯犠牲者と遺族たち関係者の名誉を回復すること

で、歴史を正しく明かし、わが民族が経験したつらい傷の一部分を治癒することに、究極的な目
的がある。5)

朝鮮人BC級戦犯の真相調査は、2005年4月27日、李鶴来(イー・ハンネ)氏の申請から始まっ

た。彼は「1942年6月頃、日本の捕虜監視員として3,000人余りが強制徴用されて釜山の野口部
隊に入隊後、25週間軍事訓練を受け、南方各地の捕虜収容所に配属、日本軍の敗戦まで捕虜監
視の業務に従事、敗戦直後に責任を転嫁され、連合軍裁判を通してBC級戦犯として有罪判決を
受け、刑期を終えて釈放された後も、差別待遇を甘受しながら、帰国できず日本に住まなければ
ならなかった事実に対する真相調査」を要請した。これに従って日帝強制占領下強制動員被害
真相究明委員会は、同年6月李鶴来氏の要請を受け入れ、真相調査を決定した。

 3) 捕虜監視員としてタイの捕虜収容所で捕虜たちと一緒にタイとビルマをつなぐ泰緬鉄道の建設作業をし

た故石相玧の手記によれば、多くの朝鮮の青年たちが、徴兵を忌避するために捕虜監視員を志願したと
記録している。(石相玧「南方紀行-タイ捕虜収容所-」『強制動員軍属手記集-南方紀行』日帝強制
占領下強制動員被害真相糾明委員会、2008) 一方、捕虜監視員の口述調査の結果によれば、一部の
地域では半強制的な割り当てもあったという記録もある。

 4) 釜山西面に所在。
 5) この内捕虜監視員は129人である。

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Ⅰ. 序文

13 

委員会は真相調査決定後の2005年11月18日から24日にかけ、関係者との面談と資料収集のた

め、日本の東京へ出張した。出張中、調査チームは、李鶴来氏をはじめ同進会6)  の会員たちと
の面談を推進し、日本の国立公文書館、旧巣鴨刑務所跡などを訪問して、資料を収集した。収集
資料としては、『俘虜取扱の記録』、『戦争裁判参考資料俘虜関係 その一(俘虜に関する諸法
規等)』、『俘虜収容所展開要図』などがある。

2006年11月には、当時まで調査したことを土台に、中間報告書を発表した。中間報告書の内

容は、主に戦犯処罰の論理と、BC級戦犯裁判自体に焦点が合わされていた。その題名と主要な

目次は次の通りだ。

         

題名 : BC級戦犯の真相調査中間報告書

目次

1. BC級戦犯の真相調査の概要
1) 真相調査の目的
2) BC級戦犯についての概要及び先行研究

2. BC級戦犯処罰の背景

1) 戦争犯罪の起源

2) ポツダム宣言
3) 国際軍事法廷憲章

3. 朝鮮人BC級戦犯の形成過程

1) 帝国主義植民地支配の原理

2) 旧日本軍軍属の捕虜監視員
3) 日帝の捕虜政策

4. 朝鮮人BC級戦犯処罰の内容

1) BC級戦犯裁判の国家別特性

2) 戦犯処罰の規模
3) 戦犯問題における日本の差別的政策
4) 戦後の被害補償請求訴訟 

5. 真相調査報告書の結論

2007年1月からは、オランダ側の裁判資料を含め、連合国側の国際戦犯裁判記録を収集した。

 6) 同進会の正式名称は「韓国出身戦犯者同進会」(以下、同進会)である。同進会は1955年4月1日に結成さ

れたが、相互扶助の下、基本的人権と生活権の確保を目的にしたという。合せて、日本政府に対する団
体交渉にも力を注いだ。(内海愛子、前掲書、296~297ページ) 捕虜監視員に動員され被害を被った
朝鮮人の会は、同進会の他にも「土曜親睦会」というものがあった。土曜親睦会は、1967年3月に結成
されたと推定される。会則には会議の目的を、「会員間の友情を深め、互いに助け合って、会員と会員
の家族の福祉の向上を図る」と明示されている。(『土曜親睦会名簿』委員会所蔵資料、1986年改訂版)

    同進会が日本に残留した人々の団体なら、土曜親睦会は帰国した人々が集まって結成した組織と思われ

る。ところが二つの会にともに加入している被害者もいる。同進会と土曜親睦会の間に、別に交流はな
かったという。現在、土曜懇親会は実質的な活動がない状態だ。代わりに、2007年2月に韓国同進会が

結成され、日本の同進会と一緒に活動している。韓国同進会の会長は、捕虜監視員出身の被害者、姜泰
協(カン・テヒョプ)氏の息子の姜道元(カン・ドウォン)氏だ。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

14 

この時収集された記録の内、オランダ側の裁判資料は2009年研究用役を通じて報告書として、

発刊された7)。同年12月には「戦後補償ネットワーク」などが日本東京で開催するBC級戦犯関係
のシンポジウムに参加し、2009年12月には「韓国人BC級戦犯者問題の早期解決を要求する韓日
共同要請行動」に参加するため、3泊4日の国外出張をした。

 
2. 研究成果及び調査の方向
BC級戦犯についての研究傾向は、大きく3種類に分けて見ることができる。一番目は、国際戦

犯裁判自体を対象に、裁判過程と実態を研究したものだ。この場合、大きく2種類の主張が現れ

るが、戦犯裁判の正当性を披歴したり、反対に裁判が国際政治の枠組みの中で、いわゆる「勝者
の論理」が適用された事例だったと主張する場合がある8)。二番目は、連合国側の戦犯裁判資料
と日本側の資料を土台に、裁判過程はもちろん、戦犯の個別被害事例を考察しようとする研究
だ。合せて、戦犯裁判が国際政治と無関係ではないが、裁判自体が裁断しようとした日本の戦争

犯罪を見過ごしてはいけない、という主張もある9)。三番目に、東京戦犯裁判が処罰した植民地
の民に対する研究がある。基本的に戦犯裁判は、戦争犯罪を起こした加害者に対する処罰を前
提にしたものである。ところがその過程で、帝国主義侵略戦争の被害者だった植民地の民が、戦
犯として犠牲になる事例が発生した。もちろんこの時戦犯になった植民地の民が犯した、事実と

しての戦争犯罪を否定することはできない。ただ彼らに被せられた戦争責任が、歴史的に穏当な
ことだったかに対しては、論議の余地が多い。

東京戦犯裁判の植民地の民の処罰については、内海愛子氏の研究が代表的だ10)。内海氏は特

に朝鮮人捕虜監視員の戦犯処罰に対して関心を持ち、日帝の朝鮮人捕虜監視員動員、捕虜収容
所の実態、そしてその中で起こった加害と被害の問題に集中的に光をあてた。内海氏は朝鮮人

 7) 用役報告書は、裁判記録の内容を要約したものだった。チャン・ブンイク『オランダ戦犯裁判記録翻訳

要約』日帝強制占領下強制動員被害真相究明委員会研究報告書、2009。

 8) 欧米の学界は、戦犯裁判に正当性を付与する一方、日本の学界は裁判に内在している戦後国際政治的力

学関係を考察しようとする傾向がある。一方、欧米の学界の戦犯裁判研究は、主にニュルンベルク戦犯
裁判に偏った傾向があったが、近頃は東京裁判に対する関心が高まっているという。欧米側の研究傾向
に対しては、直接考察できなかった。ただ関連研究書に記述された研究動向を参考にした。(林博史、

『戦犯裁判の研究』勉誠出版、2010)

 9) 代表的に林博史氏の研究を挙げることができる。林博史『裁かれた戦争犯罪-イギリスの対日戦犯裁

判』岩波書店、1998、『BC級戦犯裁判』岩波新書、2005、『戦犯裁判の研究』勉誠出版、2010。

10) 内海愛子著『朝鮮人BC級戦犯の記録』1982。日本のNHKが深層取材した内容を土台に出した本も参

考になる。(大森淳郎・渡辺考『BC級戦犯 獄窓からの声』NHK出版、2009)

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Ⅰ. 序文

15 

BC級戦犯たちに直接面談し、彼らの個別事例を具体的に指摘しながら、戦犯になった朝鮮人た
ちが置かれた、加害者であると同時に被害者だった、二重の状況を曝け出した。そして彼らが戦
後、被害者としての面貌は無視され、加害行為だけで裁断され処罰されたことを明かした。

一方蔡(チェ)ヨングクは、朝鮮人BC級戦犯被害者の対日補償訴訟の進行過程を調査し、訴訟

記録を検討した研究成果を発表したりした11)。  彼は朝鮮人BC級戦犯者の「国家補償等請求事
件」の訴状を主な資料に使い、日帝の下で朝鮮人が捕虜監視員として強制動員された始点か

ら、戦犯処罰に至る過程まで総合的に考察した。要するに日帝が朝鮮人・台湾人を捕虜監視員に

動員した理由、捕虜監視員の役割、捕虜の監視過程で起きた虐待、貧弱な兵站線と過度な労役
による捕虜犠牲者の続出、そして終戦後のBC級戦犯裁判で、正当な訴訟手続による弁護も受け

られずに、重刑を宣告された事実などを、概括的に叙述している。

対日補償訴訟の進行過程を調査し、訴訟記録を検討した研究としては、蔡ヨングク氏のほかに

キム・ウンスク氏の研究もある12)。キム・ウンスク氏は、訴訟の主要な争点、訴訟の妥当性と日本
政府の歴史的・法的責任に焦点を合わせた。また戦後から今までに提起された戦後補償裁判を
列挙しながら、ドイツのナチ犠牲者に対する個別補償の内容に言及している。日本の司法府の立
場を提示し、その判断の問題点を外国の事例を挙げて批判している点も特徴的である。

捕虜監視員が戦後BC級戦犯になり、有期刑を言い渡されたり、甚だしくは死刑に処せられたの

は、日帝末期連合軍捕虜に対する虐待行為が、戦争犯罪と見なされたからだ。ところで朝鮮人の
行為が戦争犯罪か否か判断する前に、彼らがそのような行為をすることになった原因を、少し深

く考えなければならない。戦争犯罪と見なされる行為に先立ち、朝鮮人が連合軍捕虜を「虐待」

するようになったのは、彼らが日帝の侵略戦争に強制動員されたからだった。

即ち強制動員の被害を被った朝鮮人が連合軍を虐待する加害者に急変したのは、裁判の過程

ではなく、1942年中盤彼らが捕虜監視員に動員されたその時、既に決定されていたことだった。
挙句に運命の番狂わせはすべて、日帝が意図的で持続的に朝鮮人を「加害の現場」に追い立て
た結果だった。朝鮮人捕虜監視員が「加害の現場」で貼られた「戦争犯罪者」という烙印は、選
択ではなく避けられない運命だった。

したがって朝鮮人BC級戦犯問題に関しては、彼らが強制動員された当時の状況を、綿密に調

べなくてはならない。しかし今までの研究では、彼らの強制動員の実態が充分反映されていな
い。勿論被害者たちの陳述といくつかの尋問資料を通して、このような部分が注目されたりもし
たが、相変らず不十分な面がある。報告書では、このような側面をもう少し細密に検討しようと

11) 蔡(チェ)ヨングク『解放後BC級戦犯になった韓国人捕虜監視員』、『韓国近現代史研究』29、2004。
12) キム・ウンスク「『韓国人BC級戦犯』の裁判と被害補償請求訴訟」2001、木浦大学教育大学院修士学

位論文。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

16 

思う。そして朝鮮人の戦犯処罰は、彼らの行為から始まるのではなく、それ以前に日帝の侵略戦
争に強制動員される当時から、避けられない首かせだったことを強調したい。

朝鮮人BC級戦犯真相調査報告書は、大きく3部分で構成されている。まず日本軍の東南アジ

ア侵攻による連合軍捕虜の発生と、日本の捕虜管理の実態について考察した。次に連合軍捕虜
を管理する朝鮮人捕虜監視員の「募集」と、動員過程などを探ってみる。ここでは主に尋問資料
を通じて、具体的な動員過程及び実態が把握できるだろう。またこれを土台に、朝鮮人捕虜監視
員強制動員の性格を考察してみたい。最後に、国際戦犯裁判の朝鮮人の処罰内容を記述する。
具体的にどんな名目で何人が、どのように処罰されたのか明らかにし、その被害の実像を究明す
る。そして委員会で決定した被害調査現況を土台に、朝鮮人BC級戦犯問題の現在を調べたいと
思う。

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Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

17 

Ⅱ. 

 

日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

1. 東南アジア一帯連合軍捕虜の発生と処理

帝国主義日本は1940年9月北部ベトナムを攻撃することで、インドチャイナ半島に対する侵略

を開始した。1941年7月にはインドチャイナ半島南部を武力占領し、同年12月の真珠湾空襲に合
わせてタイを、1942年1月からはビルマを攻撃し、東南アジア一帯を本格的に侵略した。そして

この過程で、そこに駐屯していた数十万の連合軍兵士を、捕虜として捕えることになった。当時
日本軍に捕えられた連合軍捕虜は、約30万人を超すものと把握される13)。 

開戦後の1941年12月12日、武藤章陸軍省軍務局長は支那派遣軍参謀長と南方軍参謀長宛に、

「俘虜は国際法に準拠し至当なる待遇をすること」という通牒を送る。軍務局では「太平洋戦

争」の開始と同時に俘虜収容所令などの改正・公布を予定して、収容所の位置・収容方法などに
関して研究しておくことを頼む通牒を下したものだ。

そして後に続けて、俘虜情報局と陸軍俘虜管理部の二つの組織が設置された14)。俘虜情報局は

1941年12月29日に公布され、その日に施行された俘虜情報局官制(昭和16年、勅令第1246号)によ
って作られ、陸軍大臣の管理下にあった。主要業務は捕虜の所属・移動・宣誓後の釈放・交換・逃

13) 連合軍捕虜の全体規模を、内海氏は1942年5月17日付『朝日新聞』を引用し、26万千余人と明らかにし

た。『朝日新聞』には、フィリピン作戦で5万 2,000人、マレー作戦で9万 7,000余人、ジャワ作戦で9万 
3,000余人、香港とその他の地域で1万 9,000人の連合軍兵士が捕虜として捕えられたと伝えている(内
海愛子、前掲書、123ページ)。ところが戦況の推移により、捕虜の数字は変動があったように見える。
1942年6月7日付『毎日新報』は、「(1944年) 12月8日、米英撃滅戦が始まってから6カ月後に、すでに敵
国の捕虜は34万の多数に至った」と報道した。(「半島青年の意気壮。今日、南方へ行く俘虜監視員の
壮行会」『毎日新報』1942.6.10、2面)。連合軍捕虜の数字は、30万人内外だったものと判断される。一
方、1943年2月の貴族院兵役法改正委員会で、連合軍捕虜の規模について質疑応答があった。当時大
山陸軍省法務局長は、捕虜の全体数字は30万人であり、この中でイギリス・アメリカ・オランダ・オー
ストラリア・カナダなどの白人捕虜は11万 8,000人と答弁したりした。

14) これはアメリカ・イギリスなどの「ジュネーブ条約」遵守の要求に伴う措置だった(内海、前掲書、137ペ

ージ)。陸戦法規及び慣例に関するハーグ条約(日本は1912年1月13日批准、公布)の付属書第14条は、交
戦国に捕虜情報局設置義務を賦課している。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

18 

走・入院・死亡などに関する事項を調査し、それについての「銘銘票」を作成したり補修する仕事
だった。また捕虜の状況に対する通信、死亡者の遺言・遺留品を保管する仕事も担当した。

俘虜管理部は1942年3月31日、「俘虜取扱二関スル規定」15)により、陸軍省軍務局内に設置さ

れる。俘虜管理部は、その時まで現地軍が管理していた捕虜及び戦線で発生した抑留者の取り
扱いを担当するための部署であった。

俘虜管理部の主要業務規定は、一番目に、捕虜及び戦地の軍抑留者に対する収容・取り締まり

・交換・解放・利用(労役・宣伝など)・懲罰待遇などの、一般的なすべての計画に関する事項、二

番目に、捕虜の労役に関する事項、三番目に、通信に関する事項、四番目に、懲罰に関する事項
などで成り立っている。陸軍俘虜管理部の定員は、次のようである。

<表-2> 陸軍俘虜管理部定員表

部長

中(少)将 1名

部員

佐尉官 5名

下士官及び判任文官 5名

備考

1. 本表の他に本職を持った佐尉官若干名を部員として兼任させることができる。

2. 下士官及び判任文官は、雇員を代行させることができる。

ところで上で見るように、中央の俘虜管理部は人員及び権限が極めて限定された部署だった。

俘虜情報局と俘虜管理部は、共に形式的な機関だったと言える。二つの機関で兼職していた山
崎茂によれば、二つの機関は共に軍務局の指揮統制に置かれており、重要事案に対する決定権
はなかったという16)。  

一方、1941年12月23日には、俘虜収容所令(勅令第1182)が次の通り改正され、公布施行された。

1. 俘虜収容所は陸軍が管轄する俘虜を収容する所である。

2. 設置位置、改廃は、陸軍大臣が定める。
3. 管理は、軍司令官または衛戍司令官がし、陸軍大臣がこれを総括する。
4. 収容所長は、軍司令官または衛戍司令官に所属し、収容所の業務を管掌する。

「俘虜収容所令」や「捕虜の取り扱いに関する規定」を通して見た時、俘虜収容所長の業務及

15) 昭和17.3.31、陸亜密1034。
16) 内海愛子・永井均 編集・解説『東京裁判資料-俘虜情報局関係文書』現代史料出版、1999。

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Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

19 

び俘虜収容所の管理に対する権限は、軍司令官または衛戍司令官が持っていた。そして衛戍司
令官は陸軍大臣が総括していた。結局、実質的な指揮は、軍の指揮体系下で成り立っていたので
ある。

俘虜情報局と俘虜管理部はすべて予算・人員・権限が極めて限定された部署で、国際社会の

要求によって作られた、形式的な機関に過ぎなかった。捕虜管理の方針及び実際は、すべて陸軍
大臣が直接総括していたのだ。このような点から戦後、捕虜収容所の下級監視員たちが、捕虜の
取り扱いに関する国際法違反の罪目で戦犯として処罰されたのは、問題があった。

昭和17年(1942年) 9月12日に制定された東京・大阪捕虜収容所臨時編成要領には、捕虜収容所を

管理する軍司令官は、捕虜収容所分所を設置できるが、陸軍大臣の認可を必要とし、また警戒のた
めに増加させた軍属・傭人は、捕虜約40人に1人の比率で、増減可能にした。これは、国内の労務力
の圧迫状況により、捕虜の配属人員などが数回変更される可能性があることを予想して、これに応

じて警戒人員も増減可能な状態にしたものだ。軍属・傭人は、朝鮮・台湾・南方各地の捕虜収容所
は朝鮮人及び台湾人を雇用することにするが、日本内地では捕虜の就労について地方側との接触も

多く、その他、親密感の関係から、朝鮮人及び台湾人を充当することは適切でないために、内地人
の傷病軍人の中から雇用することにする。このように]監視に必要とする兵力を軽減させる一方、傷
病軍人に再起を促す機会の場とした17)。 

上の文献でも、分所の設置など捕虜収容所に関する諸般の業務が、陸軍大臣の認可を必要と

する事項ということを明らかにしている。また捕虜監視に、戦闘兵力の代わりに植民地民や傷病
軍人を使用するようにしたのだが、日本本土は傷病軍人が、その他の朝鮮・台湾・南方各地の捕
虜収容所は朝鮮人と台湾人を雇用するようにしたのである18)。 

一般的に戦争末期日本の軍部は、いわゆる「戦陣訓」の内容を通じて、自国軍が捕虜になるこ

とを原則的にダブー視した19)。そしてこのような観念に従って、捕虜になった連合軍を卑怯で無

17) 捕虜情報局『俘虜取扱の記録』1955、28ページ。
18) 海軍でも捕虜が発生した。しかし海軍省軍務局長を務めた岡敬純の回顧によれば、海軍省には捕虜の

取り扱いに関する別途の規定がなかったという。捕虜は軍政上の一般事務として扱い、捕虜に関する国
内の連絡事務は、軍務局が掌握していた。捕虜の取り扱いに必要な予算・衣類・医薬品などは、現地部
隊が自ら供給するが、足りない場合には海軍省に要求させた。そしてこのような要求は、それぞれ経理
局・医務局・軍需局で取り扱った。

19) 戦陣訓は1941年1月、当時陸軍大臣だった東條英機の主導で公布された。「序」「本訓」「結」の三部

で構成されているが、「本訓」の二番目の中の、「名を惜しむ」という題の節が有名だ。ここには「生き
て虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」という一節があるのだが、日本当局はこれ
を、自国民はもちろん植民地の民の脳裏に深く刻印されるよう、宣伝・扇動を通した強要を繰り返した

という。このような日帝の強圧は、戦争末期の「玉砕」と「特攻死」を通じて、数多くの植民地の民を死

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

20 

能と見なし、軽蔑する風潮が蔓延した。このような傾向は、朝鮮人捕虜監視員も同じだった。し
かし日本政府や軍部が、はじめから捕虜を「戦陣訓」の論理で待遇したのではなかった。

日本は既に1905年に俘虜収容所条例(明治38年、勅令第28号)というものを公布し、「敵国」の

捕虜に対する方針を定めたことがあった。これは日露戦争当時、ロシア軍の捕虜たちを収容する
ための措置だったが、当時の日本軍は、ロシア軍の捕虜たちを正当に待遇したという。即ち日本
軍が連合軍捕虜を軽視する風潮は、戦争末期の軍部によって故意につくられた観念であった。

2. 朝鮮人捕虜監視員の動員過程
捕虜監視員の動員は、日本の東南アジア侵攻から始まった。当時南方の日本軍作戦地域では、日

毎に増加する捕虜の管理業務が懸案として浮上した。日本の軍部は、急増した捕虜の管理のため

に、1941年12月、陸軍省に俘虜情報局を設置し、翌年から捕虜監視員を募集するようになる。

朝鮮半島で捕虜監視員の「募集」が始まったのは、1942年5月だった。当時は既に徴兵制の実

施が決定しれた時だったので、軍隊に連れて行かれたくない者、炭鉱に連れて行かれるよりはま

しと考える者には、「募集公告」は目を引いた筈だ。家が貧しく、やむを得ず「志願」する場合も

少なくなかった。

朝鮮で初めて捕虜監視員の募集があったのは、1942年5月22日と23日の新聞でだった20)。  

『毎日新報』と『京城日報』に一斉に報道された捕虜監視員募集は、いずれも朝鮮総督府情報課

の5月22日発表の内容を基にしていた。多少長いが、情報課の発表内容の全文を引用すると、次
の通りである。

情報課発表
今回、陸軍の要求に基づき、大東亜戦争の輝かしい戦果により、各地に収容中の米英人俘虜の監

視に従事するため、半島の有為な青年数千人を軍属に採用することになった。前回、国民徴用令の
発動により多数の青年が徴用され、緊要な政府の事務に従事し、今回またこのような名誉ある職務
を負荷するようになったことは、唯一半島青年の光栄であるだけでなく、このように名誉な職務を
負荷されたのはただ半島青年の光栄のみならず、このような光栄な責務を担当できる皇国臣民とし
ての資質が如実に認定された結果で、朝鮮にとってとても大きな栄誉である。採用された者の任務

に追い込んだもので悪名高い。

20)「度重なる半島青年の光栄、軍属として数千名採用。各地の米英人俘虜を監視指導」『毎日新報』

1942.5.23、1面。日本語新聞だった『京城日報』は、これより1日前の22日「米英人俘虜の監視に半島青

年数千名採用」という題で、1面に朝鮮人捕虜監視員の募集を報道した。

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Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

21 

は、単純に米英人の俘虜を監視するだけでなく、傲慢不遜な彼らに真に日本国民の優秀性を認識さ
せ、衷心から日本帝国に対する尊敬の念を持つよう指導しなければならないものなので、この使命
は非常に重要だと言える。このように重要な任務に半島青年が選抜されて従事するということは、
その責務が一層より重大であると同時に、朝鮮に徴兵制度を施行する方針が決定された今日、その
意義は非常に深いものがある。応募者に対しては、黄海と江原以南の各道庁と関係郡庁で慎重に
選考し、採用された者に対しては、軍で約二ヵ月間訓練を実施した後、主に現地(一部は鮮内)に赴
任することになったが、その処遇についても軍で充分な注意を払い、色々優遇する方途を講じるこ
とになった。採用された者は、上に述べた精神を肝によく銘じ、より一層精進努力して皇国臣民と
しての質を上げ、東亜の盟主であるわが帝国の威容を顕現する、立派な努力をしてくれることを望
む。そして一般国民は、このような名誉を担当した者に対し、兵士と少しも違わない誠意を持って、
後顧の憂いがないようにし、その責務の完遂に協力することを希望するものである。

情報課発表の内容の内、朝鮮人が皇国臣民化されたと騒ぐ美辞麗句を除いてしまえば、次の

ような事項が現れる。第一に、捕虜監視員の募集は、朝鮮人が日本人と同等な内的・外的資格を

備えたことを表すバロメーターだった。このことは実際の「同化」の程度と関係なく、日本と総督
府当局が、捕虜監視員として志願する青年たちに、最も要求するものでもあった。

第二に、捕虜監視員の募集は、徴兵制実施が決定された直後に発表されただけに、その成否

の如何がすぐ徴兵制施行の試金石になるものだった。朝鮮人の捕虜監視員志願率が高いほど、2
年後に施行される徴兵制が成功裏に実施されるだろうという判断をすることができた。新聞には

「徴兵制度の試金石」という言葉を繰り返し続け、志願の督励に余念がなかった。

第三に、一方、強制的に軍隊にとられることをためらう者たちの代替服務方案でもあった。総

督府当局はこのような事実を隠さず、積極的に活用した。即ち朝鮮で徴兵制がもうすぐ実施され

るし、捕虜監視員はそれに先立ち、より良い条件で、アメリカとイギリスの捕虜の上で君臨する

位置という点を強調したのである。

第四に、基本選考は黄海と江原以南の各道庁及び関係官庁が施行し、ここで選ばれた人員を

軍で最終選抜する形式を取った。このような選考方式は、二つの大きな意味を持つ。まず地域別
選考だっただけに、各地域間の割り当てと競争を助長することができた。既に志願兵制の実施過
程でも、このような地域割り当ては効果を発揮したので、捕虜監視員の募集にもこのような方法
を使ったのである。次に、各地域別に最も適した人員を選抜できるという長所があった。捕虜監
視員は、その募集要綱から分かるように、一定学歴以上を備え、特に日本語を話せる人でなけれ
ばならなかった。

第五に、情報課の発表内容は、捕虜監視員の訓練を軍で二ヵ月間担当して、南方各地に送ら

れる予定であると明示した。そして「一部は朝鮮内」に配置されるだろうという点を付記してい

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

22 

る。事実、捕虜監視員として志願した朝鮮人たちは、この事項を努めて無視したり、肯定的に解

釈しようとする傾向があった。軍で施行する二ヵ月間の訓練が何を意味するのか深刻に考慮しな
かったし、南方でない朝鮮内に配置されるという希望を抱いていたのである21)。 

第六に、捕虜監視員志願者には、聞くだけでも気まずいほど華麗な文句で飾られていた。「栄

誉の」、または「光栄の」などの文句は、もれなく語頭を飾った。また「崇高な奉仕」だとか、

「日本国民としての責任を分担する」などの空世辞が続いた。このように持ち上げることは、日

本当局だけでなく、朝鮮人有力者を通しても行われた22)。特に培材(ペジェ)中学校長と宝城

(ポソン)中学の校長などが直接扇動の先に立っているが、これは一定学歴以上を要求する資格

条件に合わせて、中学卒業者を志願させようとする意図があったものと推し量ることができる。

捕虜監視員は雇員、または傭人の身分の軍属であり、基本的に軍の統制を受けた。ところが上

で見るように、その募集を専門に担当したのは、軍ではなく総督府と関係当局だった。「募集」
段階で、当時朝鮮に駐屯していた在鮮日本軍、即ち朝鮮軍が引き受けた役割は、情報課の発表
趣旨の説明にとどまっていた。

代表的に、情報課発表の翌日の5月24日、朝鮮軍報道部長の倉茂23)の談話を挙げることがで

きる24)。この記事は、ややもすると倉茂が新聞社を通じて個人的な意見を披歴したように見える
が、当時の朝鮮軍の報道規定を通してみたとき、朝鮮軍当局の公式的な見解であることが明らか
だ25)。倉茂の談話内容は、情報課発表を少し軟らかく表現したものと見える。しかし、これは軍
の公式的な立場という点に、重要性がある。特に談話の末尾に次のような言葉を付け加えた。

21) 李鶴来氏は、勤務地については聞けなかったが、当然朝鮮だろうと考えていたと言う(内海愛子、前掲

書、152ページ)。ましてや新聞で一部の人員は朝鮮内で服務できるという記事を見た人の場合、そのよ

うな希望はさらに強かったであろう。

22) 情報課発表が載った『毎日新報』1942年5月23日付には、続けて「快消息に感激爆発。半島青年の栄誉であ

る米英人捕虜の監視指導」という題の記事が載せられた。ここには韓相龍(ハン・サニョン)、申興雨(シン・
フンウ)、キム・シウォン、李軒求(イ・ホング)など朝鮮人有力者の扇動文が共に掲載された。

23) 倉茂周蔵は1940年3月から1943年8月まで、朝鮮軍報道部長として在職した。
24)「指導信念が要件。資格20歳から35歳までの、国民学校卒業以上の青年。捕虜監視員募集について、

倉茂朝鮮軍報道部長 談」『毎日新報』1942.5.24、1面。 

25) 新聞に掲載される軍の発表は、その重要度と必要によって大きく4種類に区分された。1番目は、「朝

鮮軍司令部発表」または「軍報道部発表」だ。この場合は事実関係が明確で、朝鮮軍が全面的に責任
を負う場合だ。2番目は、「朝鮮軍当局談」だ。これは朝鮮軍の意見を発表するものだが、「軍司令官
談」、「参謀長談」、「報道部長談」などもこれに属する。3番目に「発表資料」である。「発表資料」
は、報道部が入手した資料だが、朝鮮軍の責任で発表するには正確さが落ちたり、軍で直接言及するこ

とが負担になる場合に使う。最後に「観測記事資料」は、「朝鮮軍当局談」や「発表資料」として公表
しにくい場合、利用する方法だ。(「朝鮮軍報道部事務規定(1940.8.10)」『日帝下戦時体制期政策史料

叢書』61冊、民族問題研究所、2001。235~237ページ)

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Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

23 

初任給は大体一律的に同じだが、その能力に応じて逐次昇給する。また衣食住の点は安心しても

よく、期間は約二年と予定されている。また家庭を持つ者にも、充分心配ないよう配慮されてある
のは勿論だ。以上の各条件をよく考え、奮然と応募することを望み、特に特別志願兵を志望したの
に採用されなかった者や、将来の飛躍を期して欧米人を研究しようとする熱意を持つ青年は絶好な
機会なので、この機会を逃さないよう希望するものである。

ここには能力に従った差別昇給、服務期間、家族に対する援護などを充分に考慮していること

を明らかにした後、「特別志願兵を志望したのに採用されなかった者」に積極的に試験に応じる

ことを勧告している。志願兵を志望した者の内、日帝に有用な者だけを、再び選ぼうとする審査
であった。

捕虜監視員の動員は、大きく4段階を経て進められた。1番目は、申請及び受付だ。志願資格

に該当する者が該当地域に用意された窓口に申請するもので、京城は社会課国民登録係で、そ
の他の地域は府庁や郡内務課で、受付を担当した。2番目の段階は、選考試験だ。普通選考試

験は3次に分けられている。口頭及び書類選考、身体検査及び筆記試験、体力及び口頭試験であ

る。一般的に口頭及び書類選考は受付段階で一緒に進められ、2次からは別の場所と日時を指定
して行っていた。身体検査などにはその地域の公医が派遣され、直接検査を実施した。26)

3番目の段階は、壮行会だ。この3番目の段階までは、各地域別に進められた。壮行会はその

地域の神社や官公署の会議室、駅前などで挙行され、志願者はもちろん、家族・知り合いと主要
機関長、地域の有志などが参加した。

最後の4番目は、地域別に選ばれた志願者たちを対象に、朝鮮軍で最終選別する過程だ。軍

の最終審査の段階では身体検査を行ったが、各道で選考した人員の99%が通過したという27)。  

4番目の段階まで経た人員は釜山の野口部隊に入所し、二ヵ月間の軍事訓練を始めた。

上の4段階は、地域で多少の違いがある。特に選考試験の場合、2次と3次を統合して実施す

26)『毎日新報』に報道された記事内容を元に作成した。
27)「奉公を前にして猛訓練。栄誉の責務を引き受けた俘虜監視員の近況」『毎日新報』1942.6.20、3面。

   1次         2次        3次
 
 口 頭    →   身体検査 →   体 力
    及び       及び    及び
書類選考     筆記試験    口頭試験

選  


申請

及び

受付

最終

審査

釜山

野口部隊

入所

<図-1> 捕虜監視員の動員段階26)

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

24 

る事例が発見される28)。次には、このような動員の過程を、京城府と京畿道の事例を通して、具

体的に詳しく調べてみる。

京城府の捕虜監視員の申請は、1942年5月25日に初めて始まった。これは全国で最も早い実施

でもあった。受付場所は京城府社会課国民登録係(前朝鮮日報の社屋内)である29)。しかし志願者
が多いことを予想して、国民登録係の職員たちが府民館の中講堂に受付台を用意し、1人ずつ相
談を経て申請を受付けたという30)。 

初め受付を始めた当時、志願資格は国民学校卒業以上の学歴で、20歳以上35歳未満の男子程

度だった。ところが受付が始まり一日経った26日付の新聞には、志願資格がもう少し具体的に明
示された記事が見える。

(1) 年齢20歳以上から35歳までの男子であること
(2) 身体剛健で伝染性疾患がないこと
(3) できるだけ国民学校4学年修了以上で、国語(訳注 : 日本語)で日常会話ができ、身元が確実

なこと

(4) 在郷軍人(昭和13年度徴集の現役兵で本年除隊した者を除く)と、今年度陸軍特別志願兵の

第1次検査に合格した者でないこと31)。 

初日に申請を受付けた後、不十分な点を補完する措置として、「非適格者」をあらかじめ排除

しようとしたと把握される。新聞報道では、初日から既に志願申請が多かったので、早く受付窓
口を締め切ったという。京城府では志願者募集を「連盟(国民総力朝鮮連盟-筆者)を通じて選定

応募したり、青壮年国民登録によって推薦」する方法を取った32)。  志願の申請が多いことを考
慮し、まず2倍の数を選別し、以後さらに選考する予定であった。

一方、京畿道では5月25日朝から道庁の第2会議室で京城・開城をはじめ高陽・始興の各郡の

内務課長を呼び、野田社会課長の主催で「捕虜指導監視員斡旋協議会」を開催したりした。協
議会では捕虜指導員斡旋の具体的方法と、その他諸般の問題に対する議論があった33)。 

28) 横城(フェンソン)、安養(アニャン)などの地方では、2次選考と3次選考を統合して実施したものと

見える。「名誉の俘虜監視員」『毎日新報』1942.6.11、4面。

29)「皇民の感激を誇る、進み出よ捕虜監視員。府内居住者は府社会課で接受」『毎日新報』1942.5.24、2面。
30)「栄誉の俘虜監視員、接受初日に志願者多数で締切り」『毎日新報』1942.5.26、2面。
31)「厳格な審査後に採用。京畿道で監視員斡旋を協議」『毎日新報』1942.5.26、2面。
32) 各府郡でも、それぞれ所属連盟を通じて募集推薦させた。「厳格な審査後採用。京畿道で監視員斡旋

を協議」『毎日新報』1942.5.26、2面。

33)「厳格な審査後採用。京畿道で監視員斡旋を協議」『毎日新報』1942.5.26、2面。

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Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

25 

受付翌日の5月26日には、捕虜情報局長の上村幹男34) のインタビュー記事が掲載される。上村

は、朝鮮で徴兵制が決定されたことが、「陸軍特別志願兵の成績が非常に良かったことと、皇国
臣民としての皇民化運動が徹底した結果だと」指摘しながら、捕虜監視員の服務は、「徴兵制実
施に先立ち、皇軍の一翼として若い情熱を注いで奉公できるようになった」のであり、「軍隊の
組織として現地に派遣され」、「指揮官の地位で堂々と働けるように」なったことだと語った。
彼は自分が朝鮮で勤務した経験があるから「半島青年の立派な気質」をよく知っている、という
点に言及したりもした。上村は日中戦争勃発直後の1937年8月2日、咸鏡北道羅南に本部を置く
歩兵第76連隊長として赴任し服務した経歴を持っていた35)。上村のこのような発言は、実際の捕
虜監視員の処遇とは違ったが、朝鮮人青年を志願に導くのに少なからぬ貢献をしたであろう。

5月30日で志願申請を締め切った京城府は、6月1日第2次試験を実施した。京城府庁会議室で

午前11時から12時まで、そして午後1時から2時まで全部で2時間にわたり、体操・体格などを調
べる「人物考査」と簡単な筆記試験を施行し、合格者の発表は翌朝8時だった36)。彼らは再び体
力及び口頭試験で構成された第3次選考を経て、最終選抜された。

1942年6月9日午後2時朝鮮総督府の東方広場に、国防色の制服を着た朝鮮人青年が立ち並ん

でいた。京城府と高陽・始興郡一帯から選抜された捕虜監視員だった。いわゆる壮行会のために
その間、三次にわたって施行された選考で合格した朝鮮人と関係者が集まったのだ。この日の行
事には石田厚生局長、倉茂兵務部長37)をはじめ京畿道知事と京城府尹(長)など、軍・官・民の有
力者500余 人が参加した38)。   

 
3. 臨時軍属教育隊入所と軍事訓練の実施
各地域別選考及び壮行会を終えた朝鮮人青年は、6月13日までに朝鮮軍に引き渡された39)。  

軍では彼らを相手に最終身体検査を実施した後、6月15日二ヵ月間にわたる軍事訓練のために、

34) 1941年12月29日、捕虜情報局長官に任命された。
35) 外山操編・上法快男監修『陸海軍将官人事総覧(陸軍編)』芙蓉書房、1985、310ページ。上村は1943年

3月から第57師団長、1945年3月からは第4軍司令官を歴任した。敗戦とともにソ連軍捕虜として抑留さ
れており1946年3月にハバロフスクで自決したと伝える。

36)「光栄に殉死の決意、専門出身も殺到、感激の捕虜監視員考査」『毎日新報』1942.6.2、2面。
37) 報道部長だった倉茂は、1941年からは兵務部長を兼ねていた。
38)「半島青年の意気高し。今日、南方へ行く俘虜監視員の壮行会」『毎日新報』1942.6.10、2面。京城府は

数日後に別途の壮行会を、府の会議室で開催することにもした。(「知人たち、感激の激励。一同は光栄
の活動を約す」、『毎日新報』、1942.6.13 2面)。

39)「奉公を控えて猛訓練。栄誉の責務を受持つ俘虜監視員の近況」『毎日新報』1942.6.20、3面。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

26 

釜山西面の「臨時軍属教育隊」に入所させた40)。臨時軍属教育隊は部隊長の野口譲の名前を取

って、「野口部隊」と呼ばれた41)。 

野口部隊の編成状況をみると、この訓練所の開設目的は半島青年を募集し、捕虜収容所で連合軍

捕虜を監視する軍属要員を教育・訓練する目的だが、所長の陸軍大佐野口の隷下に大隊格で「い」

「ろ」「は」の三つの隊に分けられ、大隊長や大隊本部もなく中隊もない。小隊としてだけ組まれて

いるが、訓練所本部の直轄である。一小隊は90人ずつ三分隊なので、一分隊は30人であり、小隊長
は尉官の将校で、分隊長は下士官、分隊曹長として兵長または上等兵二人が従う。わが「ろ」隊は
九小隊だから、800人余りの訓練生がいる42)。 

上の文は、捕虜監視員としてタイ捕虜収容所に動員された石相玧(ソク・サンユン)が記述した

内容だ43)。  彼の陳述によれば、臨時教育隊は部隊長野口の隷下に大きく「い」「ろ」「は」に

分かれた三つの大隊があった。しかしこれは形式上の区分であり、90人単位の小隊がそれぞれ
本部直轄で編成されていたという。小隊はまた三つの分隊に分れ、小隊には尉官級の小隊長が、
分隊には下士官が分隊長として、そして一般士兵二人が曹長に配置された。

臨時教育隊に所属した日本軍の将校は、主に予備役で構成されていた。部隊長野口も以前予

備役に編入されていて、1937年11月には朝鮮中央防空委員会幹事嘱託、1939年には朝鮮総督府
警務局防護課嘱託などを歴任した44)。野口の出身及び兵科と詳しい軍の経歴などは確認できな
いが、転役以後、朝鮮総督府隷下の官公署嘱託を転々とし、臨時教育隊の設置と共に再招集さ
れたと見える。

臨時教育隊の将校たちの構成については1942年8月28日、朝鮮軍司令官板垣征四郎が当時陸

40) 臨時軍属教育隊は『留守名簿』に、『釜山臨時教育隊』としても記載されている。以後は「臨時教育

隊」と呼ぶ。

41) 内海の本には、当時の野口の階級が「中佐」と記録されている(内海愛子、前掲書、155ページ)。しかし

石相玧の陳述をはじめ色々な資料を通して見ると、野口の階級は大佐であった。

42) 石相玧「南方紀行-タイ捕虜収容所-」79~80ページ。
43) 石相玧は、臨時教育隊の訓練生活を、比較的大きな反感なしに送ったものと見える。それは彼が捕虜監

視員として動員される前に、すでに「満州」で軍属生活をしていたので他の人々に比べて、日本軍の生
活と思考方式に慣れていたためだった。むしろ「彼らの言葉のように、我々は今後、世界の一流国家の
捕虜を相手にする、特殊任務に当たる働き手である。したがって我々を国内の労務者程度と取り扱って
はいけないという、政略的待遇として見ることもできる」と言って、朝鮮人たちが受けた軍事訓練を、
当然視する姿も見ることができる。しかしこれは皇国臣民・内鮮一体などを押し出し日帝が植民地民に
強要した教育と、当時の石相玧個人の軍属経験による反応の違いであった。

44)『朝鮮総督府官報』1937.11.24、『朝鮮総督府旧所属官署職員録』1939年。以上の資料は、韓国歴史情

報統合システム(http://www.koreanhistory.or.kr/)を利用した。

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Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

27 

軍大臣だった東條英機に送った「南方俘虜収容所要員ノ派遣及朝鮮俘虜収容所開設ノ件報告」

という文献に詳しく現れている45)。本来この文献は、題名に書かれているように、朝鮮軍隷下の

軍人の内、「南方捕虜収容所」と「朝鮮捕虜収容所」に派遣された軍将校と下士官・兵、そして
朝鮮人「傭人」の現況を報告するために作成したものだった。ところで文献の内容の中に、次の

ような記述がある。

朝鮮軍から選び出して提供した本要員中の将校、下士官は、既に釜山で提供した要員の訓練に従

事していたのだが、8月17日に同訓練が終了することにより将校以下雇員全て、マレーシア・ジャワ
捕虜収容所は8月19日、タイ捕虜収容所の雇員は8月21日に、それぞれ釜山港を出発し派遣すること
(下線は筆者)

これによれば、臨時教育隊に配置された将校と下士官は、すべて朝鮮軍から提供された人員で

あり、訓練が終わった後、捕虜監視員たちと共に、各地の捕虜収容所に再び派遣されたことが分
かる。また文献には尉官級将校たちの派遣現況が、元所属部隊と共に詳しく収録されている。

<表-3>によれば、臨時教育隊にいた尉官級の将校は全部で34人だった。兵種は歩兵・工兵

・輜重兵・砲兵など多様で、階級は中・少尉級だった。羅南に本部を置く留守第19師団から27

人、龍山の留守第20師団から7人が、それぞれ提供された。彼らはすべて予備役の将校で、現在
所属が「補充隊」であると見るとき、捕虜監視員の訓練と収容所の管理のために再招集された人
員と判断される。

先に言及した石相玧の文には、<表-3>に列挙された将校が多数目に触れる。例えば「臨時

教育隊」の「ろ」隊の第2小隊長だった服部浩の場合、東京帝大法学部出身の将校で転役後、大
阪で父親の事業を助け警防団長をしていて再招集された者だったという46)。服部は石相玧と共に

タイ捕虜収容所に派遣され、以後も続けて一緒に生活したものと見える。このほかにも、臼杵喜
司穂、内山喜志雄47)、三宮美代治、星愛喜などの将校が確認される。皆臨時教育隊で訓練を担当
した小隊長であり、捕虜収容所では分遣所長を受け持つ48)。 

一方<表-3>に列挙された日本人派遣将校は、ジャワ16人、タイ9人、マレーシア9人を合わ

せて全部で34人であり、すべて臨時教育隊で小隊長を歴任した者であった。これを通じて、臨時

45)「南方俘虜収容所要員ノ派遣及朝鮮俘虜収容所開設ノ件報告」『昭和17年 陸亜密大日記』40号

1/2(アジア歴史資料センター C01000623900)。

46) 石相玧「南方紀行-タイ捕虜収容所-」80ページ。石相玧は彼を、非常に柔順な紳士で、軍人らしくな

い人物だった、と記述した。

47) 石相玧の文には「内山喜支雄」と記載されている。
48) 日本人小隊長もまた捕虜収容所での行跡により、戦犯として処罰を受けた場合が多い。代表的に臼杵

喜司穂は戦犯裁判で死刑を言い渡され、絞首刑になった。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

28 

<表‐3>東南アジアの捕虜収容所に派遣された朝鮮軍尉官級将校の現況(1942.8.1)

捕虜収容所名

現所属部隊

役種

兵種 階級

名前

備考

ジャワ捕虜

収容所

留守

第19師団

歩兵74連隊補充隊

予備役 歩兵 中尉

鈴木 進

工兵19連隊補充隊
工兵19連隊補充隊

工兵

高澤康司

松崎 稔

山砲25連隊補充隊

野山 少尉

倉橋富治

野重15連隊補充隊

野重

若松鎮雄

輜重19連隊補充隊

輜重

氏家英輔

倉島秀一

高崎信治

酒井貞雄

留守

第20師団

歩兵79連隊補充隊

歩兵

森下勝温

歩兵77連隊補充隊

佐藤 來

高木 博

河合好夫

重20連隊補充隊

内山喜志雄

駒井光男

野砲26連隊補充隊

角田 武

計16名

タイ
捕虜

収容所

留守

第19師団

工兵19連隊補充隊

予備役 工兵 中尉

野口秀治

歩兵76連隊補充隊

歩兵

三宮美代治

歩兵75連隊補充隊

少尉

臼杵喜司穂

山砲25連隊補充隊

野山

小久保孫太郎

伊能毅郎

松下正元

綱田吉太郎

星愛喜

歩兵74連隊補充隊

歩兵

服部 浩

計9名

マレー捕虜収

容所

留守第19

師団

工兵19連隊補充隊

予備役 工兵 中尉

金田保美

高橋善平

山砲25連隊補充隊大隊副官

野山 少尉

松本喜市郎

山砲25連隊補充隊

下河原武夫

三浦陶治

新行内 正

歩兵76連隊補充隊

歩兵

若林正雄

歩兵80連隊補充隊大隊副官

福田恒夫

歩兵78連隊補充隊

土井 勇

計9名

総計34名

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Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

29 

教育隊に最小34以上の小隊が編成されていたことを知ることができる。ところで先に調べた石
相玧の記述によれば、彼が属した「ろ」隊は、9つの小隊で構成されていたと言う。

石相玧は、臨時教育隊を退所した後、タイ捕虜収容所に配置された。また捕虜監視員として動

員され、「い」隊で訓練を受けた安承甲(アン・スンガプ)の場合、ジャワ捕虜収容所に配属され
たことが確認される49)。即ち臨時教育隊の「い」「ろ」「は」の3隊の区分は、それぞれジャワ・タ
イ・マレーシア捕虜収容所に派遣される人員を、あらかじめ分けたものと推定される。

つまり朝鮮軍では、連合軍捕虜を管理するために予備役出身の日本人将校たちを再招集した

後、臨時教育隊に配属して朝鮮人捕虜監視員を訓練させ、再び同一の編制通り東南アジアと朝
鮮に設置された捕虜収容所に派遣したのだ。

ところで朝鮮人が臨時教育隊に入所した後、予想できないことが起きた。徴兵に連れて行か

れる代わりに捕虜監視員に志願した彼らを軍隊式に組織し銃を執ること及び射撃訓練など、過
酷な軍事訓練を実施したのだ。合せて日本人教官は朝鮮語の代わりに軍隊式日本語だけを強制

し、同僚間の「対向ビンタ」など屈辱的な行動を強要した。命令不服従や脱営は軍法会議に処さ

れるという脅迫もためらわなかった。そしてこのようなすべての強圧には、殴打が伴った50)。 

1942年6月15日午後1時頃、今から自分は現役新兵とまったく同じ軍事訓練を受けるだろう。固い

木の床の部屋に毛布二枚、古ぼけた軍服に足に合わない古い軍靴と戦闘帽で身を包み、軍内務班
生活で各個動作、密集部隊、歩兵戦闘訓練、哨兵勤務と諸規則の暗唱、その他精神訓話など、すべ
ての軍事教育訓練を短期、二ヵ月で履修しなければならないのだ51)。 

臨時教育隊では軍人に動員される現役補充兵が受ける軍事訓練を実施した。初めから捕虜監

視員の業務遂行に必要な教育過程は存在しなかった。捕虜監視員は木の板で造られたむさ苦し
い宿舎に古びた軍服と軍靴を支給され、主に戦闘に出ていく軍人が受ける訓練を遂行した。肉
体的な軍事訓練だけでなく哨兵勤務と諸規則、例えば「戦陣訓」などの文句を暗唱しなければな

らないなど、精神教育も強要された。

臨時教育隊のすべての過程は、二ヵ月間の日程に合わされていた。1942年の夏は「これまでに

ない大旱魃で、5月から雨一滴降らない日照りが8月下旬まで続いた」という。朝鮮人は「猛暑の
中で汗と土ぼこりにまみれた体と軍服を、水不足で十分に洗って着ることもできない中、二ヵ月

49) アン・スンガプ「倭の奴らの手で死ぬよりは、国のために戦って死ぬ」225ページ。『強制動員軍属手記

集-南方紀行』日帝強制占領下強制動員被害真相糾明委員会、2008。

50) 内海愛子、前掲書、156ページ。
51) 石相玧「南方紀行-タイ捕虜収容所-」80ページ。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

30 

余りの激しい訓練を耐え抜く」しかなかった52)。 「い」隊の第1小隊で訓練を受けた安承甲は、臨
時教育隊生活を次のとおり回想した。

これは軍属訓練でなく軍隊訓練だった。彼(内務班の同僚キム・ジュソク)は、不満を我慢しきれず

に故郷の友人に手紙で、

「軍属なら民間人待遇をしてくれ、人間扱いしてくれると思っていたのに、ビンタの軍人強行訓

練と、民族精神抹殺教育だけで疲れ果ててしまった」

このように書いて内務班長の江上軍曹と小林伍長にばれ、小隊長鈴木中尉に叱られた後、班の上

等兵に思いっきり叩かれ、二度と軍属生活の不平を吐露できなくなった。このように個性を抹殺す
る生活の中で、誰が進み出て反抗できただろうか53)。 

捕虜監視員に動員された朝鮮人なら、誰もが臨時教育隊の無理な軍事訓練を不満に思った。

初め、新聞と官公庁を通して広報した内容と余りに違う処遇に、不平と不満が積もって行った。

しかし不当な処遇に対する異議の提起は受け入れられなかったし、分隊に所属する日本人兵士

の殴打だけが返って来た。結局朝鮮人の内、臨時教育隊の生活に耐えられず、退所する事例が
発生した。朝鮮人を対象とした大きな「光栄」であり、野心に満ちた計画のように大々的に広報

した捕虜監視員動員は、その開始から亀裂が生じてしまった。

当初、捕虜監視員は咸鏡南北道と平安南北道の四つの道を除く、朝鮮南部九道だけから選抜す

ることになっていた54)。ところが野口部隊に入所した捕虜監視員の内、耐え難い訓練にめげて退所
する人が続出した。一ヵ月後には300人が辞めたというが、これは捕虜監視員全体の10%に該当す
る数値だった55)。10人中1人が辞めるほど、朝鮮人青年が感じる訓練生活は刺々しかった。結局、

退所による欠員を満たすために既存の方針を変更し、「朝鮮北部四道」に対する捕虜監視員「募
集」を再び実施するに至る。しかしこれが臨時教育隊のつらい訓練と殴打など不当な処遇のため

に退所した人を補充するためという説明はなかった。逆に前回「募集」地域から除外された所に与

52) 石相玧「南方紀行-タイ捕虜収容所-」80ページ。
53) アン・スンガプ「倭の奴らの手で死ぬよりは、国のために戦って死ぬ」225ページ。
54)「北鮮」地域で捕虜監視員の募集を実施しない理由は、この地域が地下資源開発の生産力の拡充に、多

くの人が所要されるからだったという(「半島人青年の光栄、米英人捕虜監視員に大量採用」『毎日新

報』1942.5.23、2面)。

55) 内海氏は捕虜監視員の退所について、現役日本軍兵士の訓練に比べれば緩い訓練だったが、一般人が

経験するには大変だっただろうと、当時訓練を担当した日本人下士官の話を引用した(内海愛子、前掲
書、156ページ)。ところが捕虜監視員たちは、自分たちがそこまで過酷な軍事訓練を受けるだろうとは
推測できなかった。また訓練内容は、朝鮮人個々人に対する人格的な侮辱が含まれていた点を見過ご

してはいけない。これに対しては、チョン・ヘギョンの文が参考になる(チョン・ヘギョン『朝鮮青年よ、

皇国臣民になれ』西海文集、2010、122~124ページ)

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Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

31 

えられた、「光栄の恩沢」と宣伝された。情報課発表が再び新聞紙上に登場したのだ。

情報課発表
前回陸軍の要求により、米英人俘虜の監視に従事させるため、半島の有為な青年数千人を軍属に

採用して、一般に大きな感激的な衝動を起こした。今回もう一度若干名を採用することになった。
今回は前回募集の時、光栄の恩沢を受けられなかった平安南北道と咸鏡南北道の四道から選考す

ることになった56)。 

「北鮮」地域に対する捕虜監視員募集の規模と、以後の訓練過程は具体的に明らかではない。

咸鏡北道の場合、7月9日に第1選考が府郡で、11日に第2次選考が道庁で実施されたという57)。  
訓練のための部隊入所や以後の派遣日程は順次遅延して施行されたと見えるが、具体的な内容
は確認できなかった。

「北鮮」地域の出身者が野口部隊に入所したのは7月中旬ごろで、既に訓練期間が一ヵ月余り

過ぎた時点だった。原則上、彼らは9月中旬まで軍事訓練を受けなければならなかった。ところ
が彼らも他の捕虜監視員たちと一緒に、1942年8月中旬に臨時教育隊を退所したものと推定され

る。マレーシアとジャワ地域の捕虜収容所『留守名簿』58)  には他の地域の出身者たちと共に、

平安道と咸鏡道を本籍地とする朝鮮人も「部隊編入日」が1942年8月と記載されているからだ。
9月以後、朝鮮人捕虜監視員の退所や収容所への配置に関する内容が確認されないのも、やはり
彼らがすべて8月中旬に退所したからと判断される。

要するに平安道と咸鏡道から動員された捕虜監視員たちは1942年7月中旬臨時教育隊に入所

し、一ヵ月余り訓練を受けて6月に入所した同僚たちと一緒に、8月中旬に退所したものと見え
る。即ち日帝は急迫した捕虜監視員の需給のために、定められた訓練日程を消化しない「朝鮮北

部」地域出身者も、当初定められた退所日に合わせて捕虜収容所に配置したのである。

4. 動員規模及び捕虜収容所の配置現況
朝鮮人が配置された捕虜収容所は太平洋戦争開戦直後、捕虜収容所令(1941.12.23、勅令1182

号)によって設置され始めた。各捕虜収容所は軍司令官が陸軍大臣の認可を得て、分所を設置す

ることができた。1942年6月には朝鮮・台湾及びタイ・マレーシア・フィリピン・ジャワ・ボルネ

56)「光栄の俘虜監視員 西北鮮四道でも選考」『毎日新報』1942.7.5、2面。
57)「俘虜監視員、咸北で栄誉の選考」『毎日新報』1942.7.8、2面
58)『留守名簿』の正式名は『南方 南方軍-馬来 爪哇 俘虜収容所』である。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

32 

オにそれぞれ捕虜収容所の設置が決定された59)。1942年8月22日には、新聞紙上でも陸軍省の
発表を引用して、東南アジアの各地に建設される捕虜収容所の具体的な内容が知らされた。以
前は善通寺と上海・香港など三ヶ所に捕虜収容所が設置されていたが、増えた連合軍捕虜たち
の収容のために京城をはじめ七カ所に、追加建設を決定したという内容であった60)。 

特に朝鮮と台湾に設置された捕虜収容所は、シンガポールなどに収容されていた連合軍の

「白人」捕虜を、植民地の民に対する思想宣伝の道具に利用しようという意図だった61)。  1942

年3月朝鮮軍司令官板垣征四郎が東條英機に報告した「朝鮮俘虜収容計画」には、収容所の設
置目的を「米英人捕虜を朝鮮内に収容し、朝鮮人に対し帝国の実力を現実に認識せしむると共
に、依然として朝鮮人の大部分が内心抱いている欧米崇拝観念を払拭するため思想宣伝工作の
資に供せんとするに在り」と記録した62)。 

上の各捕虜収容所は戦争の進行に従って、分所及び分遣所を設置し続けた。特にタイ捕虜収

容所の場合、悪名高い「泰緬鉄道」建設に捕虜を動員し、鉄道工事の進捗により各工事区間別
に分所がつくられた。捕虜収容所別分所と分遣所の現況については、「付録」で整理した。

一方、1942年5月5日付「南方の捕虜処理要領の件(南方ニ於ケル俘虜ノ処理要領ノ件)」という

59) 朝鮮・台湾は軍令陸甲41号(1942.6.10)、タイ・マレーシアなどは軍令陸甲第45号(1942.6.27)に伴う措置

だった(大内那翁逸編『旧帝国陸軍部隊一覧表』2002(第8刷)、292ページ)

60)「俘虜収容所 増設。朝鮮等7カ所に新設」『毎日新報』1942.8.23、1面。
61) 植民地につくられた連合軍捕虜収容所の設置背景及び実態についは、内海愛子の前掲書126~135ペー

ジを参考にできる。

62) 大森淳郎・渡辺考『BC級戦犯 獄窓からの声』NHK出版、2009、80ページ。

* 日本の防衛省防衛研究所の

所蔵資料を、委員会で収集

したものである。

*「泰・緬甸連接鉄道一般図

及俘虜収容所展開要図」と
いう題がついている。

* 工事区間が大きく「タイ側

作業起点」と「ビルマ側作
業起点」に分けられている

ことを確認できる。

<図-2> 泰・緬甸鉄道工事区間及び捕虜収容所の展開状況

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Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

33 

文献には、白人捕虜を日本の生産力拡充のために利用し、そのために逐次朝鮮・台湾・満州・中
国などの地に収容して、当分の間出発できない者は、現地で速やかに捕虜収容所を開設して管
理するよう記載された部分が目につく。また白人以外の捕虜の内、収監する必要がない者は「宣
誓釈放」後に、可能な限り現地で活用する方案も記載されている。植民地では捕虜監視員を募
集して南方に送り、南方で捕えられた捕虜は朝鮮や台湾、中国などに送られたのである。

捕虜の処遇に対する法律も整備された。1904年に制定された俘虜取扱規則を改正し、俘虜取

扱細則、1943.4.21、陸達21、俘虜処罰法、1943.3.9、法律41などの法令を改正・公布した。とこ

ろがこのような法律は主に、捕虜収容所の管理人力がどのように配置されるのか、どのような捕

虜を処罰するのかに対して規定しているだけだった。

朝鮮人捕虜監視員が臨時教育隊の訓練を終えたのは1942年8月17日だった。訓練を終えた彼

らは、直ちに朝鮮と東南アジアの捕虜収容所に配置された。朝鮮捕虜収容所に配属された人員
は少数であり、大部分の監視員は釜山から船に乗って遠く「南方」に移動しなければならなかっ
た。マレーシア及びインドネシアのジャワ捕虜収容所に配属された監視員は8月19日に、タイ捕

虜収容所の監視員は同月21日に、それぞれ釜山港を離れた63)。臨時教育隊の訓練期間もそれな

りに大変だったが、これからがより険しい強制動員被害の始まりであった。

日本は3,223人の朝鮮人を捕虜監視員として動員したが、この内3,016人が「南方」の捕虜収容

所に配属されたと確認できる64)。「第85回帝国議会説明資料」には、次のような記述がある。

陸海軍要員としての朝鮮人労務者の送出は、大東亜戦争勃発以来相当多数に達するが、この内

1941年9月以後、海軍の要求によって南方の緊急土木作業に従事させるために、海軍作業愛国団と
して32,248人を斡旋送出したのが最多である。陸軍の要求による主要なものとしては、北部軍経理

63)「南方俘虜収容所要員ノ派遣及朝鮮俘虜収容所開設ノ件報告」『昭和17年 陸亜密大日記』40号

1/2(アジア歴史資料センター C01000623900)。石相玧はタイ捕虜収容所に配置された監視員の出発
日を、8月20日と記述した(石相玧「南方紀行-タイ捕虜収容所-」81ページ)。

64) 蔡ヨングクは前掲文で、「1942年の前半期の間に、朝鮮半島全体から募集された人員は3,223人だっ

た」と記述した。ところがこれが最初に募集された数字を言うものなのか、咸鏡道と平安道の募集人員
を合算したものか、でなければ臨時教育隊退所当時の最終人員を指し示すのかは不明である(前掲文、
10ページ)。一方、委員会で発行した『強制動員軍属手記集-南方紀行』の解題には、「当初釜山西面
で教育を受けた朝鮮人捕虜監視員志願者は3,223人であり、このうち3,016人がタイ、マレー、ジャワな

どの捕虜収容所に配属された」と、多少不正確に記述されている。しかし、これもまた、初め志願して

臨時教育隊で訓練を受けた朝鮮人が3,223人というのか、でなければ捕虜監視員全体の数字がそうなの
か、不明瞭だ。また3,016人がタイ・マレーシア・ジャワ捕虜収容所に配属された人員なのか、朝鮮人捕
虜監視員の全体の数字なのかも不明確だ。あわせて、上の文には、数値についての正確な出処や証拠
資料が提示されてない。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

34 

部要員7,061人、米英人俘虜監視要員3,223人、運輸部要員1,320人などである。(下線は筆者) 65)

上の引用文では「陸海軍要員」、つなわち帝国日本陸海軍所属の労務者の送出状況を報告す

る中に、捕虜監視員が3,223人動員されたと明らかにしている。「第85回帝国議会説明資料」
は、1944年8月に朝鮮総督府で帝国議会に提出するために作成したものだった。即ち「第85回帝
国議会説明資料」に記載された3,223人は、捕虜監視員として動員完了した朝鮮人の総数を記録
したものと見ることができる。ところが1942年6月に臨時教育隊に初めて入所した人員や、7月中

旬に咸鏡道と平安道から追加で選抜されて入所した現況は、把握されていない。ただ臨時教育
隊の教育中に退所した人員が300余人だったので、最初に教育隊に入所した朝鮮人の総数は、約
3,500人程度だったものと判断される。

一方、「南方」に派遣された3,016人に対しては、前でも言及したことがある、「南方俘虜収容

所要員ノ派遣及朝鮮俘虜収容所開設ノ件報告」に、部隊別・階級別・収容所別の派遣現況が記
録されている。

<表-4> 「南方」捕虜収容所派遣の朝鮮軍将校・下士官及び捕虜監視員の現況 66) 67)

階級/所属

収容所

将校(中少尉級)

下士官(軍曹、伍長)

捕虜監視員67)

19師団 20師団

小計

19師団 20師団

小計

朝鮮軍司令部

ジャワ

捕虜収容所

9

7

16

24

23

47

1,408

1,471

タイ

捕虜収容所

9

0

9

17

10

27

804

840

マレーシア捕

虜収容所

7

2

9

16

11

27

804

840

25

9

34

57

44

101

3,016

3,151

<表-4>は、朝鮮軍が「南方」のジャワ・タイ・マレーシアの捕虜収容所に派遣した将校と下

士官、そして朝鮮人捕虜監視員の現況を表したものだ。将校と下士官は留守第19師団と留守第

65)「第85回帝国議会説明資料」は近藤釼一が発行した資料集を参考にした。(近藤釼一『太平洋戦下終末

期 朝鮮の治政』朝鮮史料編纂会(巌南堂書店)、1961)

66)「南方俘虜収容所要員ノ派遣及朝鮮俘虜収容所開設ノ件報告」『昭和17年 陸亜密大日記』40号

1/2(アジア歴史資料センター C01000623900)。

67) 資料には「傭人」と記載されている。

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Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

35 

20師団から提供され、捕虜監視員は朝鮮軍司令部所属だった。尉官級の将校34人が予備役出身
で再招集された者たちだったことは、先に明らかにしてある。

「南方」に派遣された捕虜監視員3,016人は、ジャワ捕虜収容所に1,408人、タイとマレーシア

捕虜収容所にそれぞれ804人が配属された。あわせてジャワに尉官級将校16人、下士官47人、

タイとマレーシアにはそれぞれ尉官級9人と下士官27人を派遣した。数値上から臨時教育隊及
び「南方」捕虜収容所の各小隊は、尉官級小隊長1人、下士官3人、そして朝鮮人捕虜監視員90

人内外で構成されていたことが分かる。

「南方」に移送された人々を除く残りの人員207人は、朝鮮に設置された捕虜収容所などに配

置されたものと判断される。朝鮮には京城に設置されていた本所をはじめ、仁川に第1分所、興
南に第1分遣所が設置されていた。朝鮮捕虜収容所の連合軍捕虜は、主に荷役・土木作業や農園

・工場などに動員された。彼らの労働条件は「南方」に設置されていた収容所よりはましだった

ように見える68)。 

<表-5>捕虜収容所『留守名簿』朝鮮人の現況69) 

留守名簿 編綴名

部隊名

記載人員

備考

南鮮 第17方面軍

朝鮮軍管区 隷下部隊(2)

朝鮮捕虜収容所

97

南方 南方軍

馬来 爪哇 俘虜収容所

マレー軍 抑留所
マレー捕虜収容所

875

馬来はマレーシア、

爪哇はジャワを指す

マレー捕虜収容所 第1分所

139

マレー捕虜収容所 第2分所

65

第7方面軍 刑務所

75

ジャワ捕虜収容所

1,075

台湾 第10方面軍

台湾捕虜収容所

6

緬甸 泰 俘虜収容所

タイ捕虜収容所

1,262

緬甸はビルマ泰はタイ

比島 第14方面軍直轄部隊

フィリピン俘虜収容所

2

比島はフィリピン

合  計

3,596

68) 俘虜情報局、「附表1-2 外地俘虜収容所一覧表」、『俘虜取扱の記録』、1955年12月。
69) 収録人員は『留守名簿』に記載された全体人員から、「重複」で記載された人々を除いた数。「重複」

は主に他の収容所に転属し、二重に記録された事例を言う。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

36 

朝鮮人の動員現況及び配置実態を調べられる資料の中で、最も具体的なものとして『留守名

簿』がある。『留守名簿』には主に軍人として強制動員された人々が収録されているが、「軍
属」の身分の朝鮮人も少なからず記載されていて、捕虜監視員がその代表的な事例だ。捕虜監
視員が記載された資料としては『南鮮第17方面軍朝鮮軍管区隷下部隊(2)留守名簿』『南方南方
軍馬来爪哇俘虜収容所留守名簿』『台湾第10方面軍留守名簿』『緬甸泰俘虜収容所留守名簿』

『比島第14方面軍直轄部隊留守名簿』などがある。各留守名簿別の収容所及び朝鮮人捕虜監視

員の現況は、<表-5>の通りである。

『留守名簿』には全部で9カ所にわたり、3,596人の朝鮮人捕虜監視員が収録されている。<表

-5>は名簿に記載された人々を、収容所別にその現況を記載したものだ。これによれば、マレ
ーシア捕虜収容所に1,079人、ジャワ捕虜収容所に1,075人、タイ捕虜収容所に1,262人など、南
方の主要な収容所に約3,400人をはじめとして、朝鮮捕虜収容所に97人、第7方面軍刑務所75
人、そして台湾とフィリピン捕虜収容所にそれぞれ6人と2人が収録されたことが確認される。

ところが上の数値は、収容所間の移動による重複と、捕虜監視員でない者、そして名簿作成当

時誤って記載された人などを含んでいる。例えば、朝鮮捕虜収容所の場合、収録された全体のリ
ストは97人だが、名簿自体に重複した名前が6人あり、作成当時「誤記」として削除されなけれ
ばならない名前も1人含まれているので、これを除けば実際の朝鮮人捕虜監視員は90人と把握さ
れる70)。また台湾捕虜収容所の6人はすべて1945年3月5日にタイ捕虜収容所から転属した人々
であり、フィリピンの2人の中の1人は日本の陸士出身の朝鮮人将校で、全体の捕虜監視員の数
値からは除外されなければならない71)。第7方面軍刑務所の75人もまた、マレーシア捕虜収容所
などから移動した者たちであった。

このように『留守名簿』に収録された3,596人は、朝鮮人捕虜監視員の実際規模とは多少差が

ある。しかし名簿には収容所間の移動状況が明確に記載されない場合が少なくなく、名簿自体で
は捕虜監視員の正確な人員を算定することが困難である。幸いマレーシア捕虜収容所の場合、
人員の変動状況が詳しく記述された資料があり、その現況を把握することができる。

委員会が防衛省防衛研究所図書館で収集した「朝鮮出身雇傭人連名簿」はマレーシア捕虜収

70) 名簿の前面には朝鮮人が89人であると記載されているが、実際に収録されたリストは90人だった。初

めから誤って数えたのか、でなければ他の事情から削除された1人がさらにいるのかは知ることができ
ない。

71) フィリピン捕虜収容所に収容された2人の朝鮮人の内の1人は日本の陸士出身の朝鮮人将校で、戦犯裁

判で死刑になった洪思翊だ。洪思翊はフィリピン捕虜収容所とフィリピン第14方面軍直轄部隊兵站監]
の留守名簿に重複記載されている。彼は1944年3月フィリピン捕虜収容所長を経て、終戦当時陸軍中将
で第14方面軍兵站監として服務した(外山操『陸海軍将官人事総覧-陸軍篇』芙蓉書房、1981、353~
354ページ)。

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Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

37 

容所で制作したもので、朝鮮人捕虜監視員の転出入現況と事由、そしてリストを確認できる資料
だ。1942年9月8日から1945年8月25日までマレーシア捕虜収容所に転入・転出した捕虜監視員
の状況を把握することができる。作成日時は1945年12月1日だ。次の<表-6>と<表-7>は朝
鮮出身雇傭人連名簿に収録された「朝鮮出身雇用人転入移動一覧表」を、転出入現況で区分し
表現したものである。

<表-6> マレーシア捕虜収容所への朝鮮人捕虜監視員の転入現況

転入年月日

1942.9.8

1942.12.1

1945.2.10

1945.5.24

転入人員(名)

804

200

24

30

1,058

前所属

釜山臨時教育隊(朝鮮軍)

ジャワ捕虜収容所

<表-7> マレーシア捕虜収容所からの朝鮮人捕虜監視員の転出現況

区  分

人員(人)

転 出 事 由

入営(隊)

7

マレーシア・スマトラ地区から現地部隊に入営(隊)した

未決

8

第7方面軍拘禁所に収容中の者

逃亡

7

昭南(シンガポール)地区にいる者

解雇

35

処刑者で、南方軍雇用規程により現地で懲戒解雇された者

死亡

29

死亡(25)、戦病死(3)、自傷者(1)

転属

所属変更

221

1945年8月スマトラ・パカンパル137人、パレンバン63人は第25軍に、マ
レー地区の21人は第29軍に所属変更

内地帰還

40

準送還者として小倉陸軍病院へ収容と同時に、朝鮮軍に転属した者39人

と、懲戒帰還者1人

入院

6

1945年8月当該病院に転属(内地に還送された者と同一)

353

まず1942年9月8日に転入した804人の朝鮮人は臨時教育隊を退所し、8月19日釜山港を出発し

た人々だった。以後、1944年12月から1945年5月までに全部で三度にわたり254人がジャワ捕虜
収容所から転属し、転入総員は1,058人になった。この人員は終戦直前まで大きな変化なく維持
されたが、色々な事由から転出する人も少なくなかった。転出事由は現地で軍に入隊する者をは

じめ、未決・逃亡・解雇・死亡など多様である。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

38 

<表-7>はマレーシア捕虜収容所所属の朝鮮人捕虜監視員たちの転出現況である。1945年

8月、第25軍と第29軍に転属した221人、現地で入隊した7人72) 、不詳の色々な理由から裁判を
受け、未決拘禁されていたり、職責から解任された者が43人73) 、逃亡7人74) 、そして死亡者が29
人75)  だった。その他に病気により帰還、または入院した者が45人、「懲戒」による帰還者が1
人いた。結局、終戦当時マレーシア捕虜収容所に直属していた捕虜監視員は、転入総数1,058人
から転出者353人を除いた705人程度であった。

<表-4>と<表-5>そして<表-6>・<表-7> を通して、朝鮮人捕虜監視員の動員規

模と移動状況を概略的に探ることができる。もちろん収容所間の移動と色々な事由による転出が
多く、時期別に全体現況を把握するには、まだ限界がある。このためには今後、より多くの資料
発掘と研究が必要と思われる。

一方、『南方 南方軍 馬来 爪哇 俘虜収容所 留守名簿』の「第7方面軍刑務所」76)  

の部隊名簿に収録された75人の朝鮮人が注目される。第7方面軍の刑務所はシンガポールに設
置されていたのだが、ここの朝鮮は捕虜監視員の身分ではなく「服役者」だったように見える。
名簿の「前所属」欄には彼らを「受刑者」と記載しているが、各地の収容所で生活する中で、未
詳の事件によって裁判に回付され処罰を受けたものである。

これと関連して、「朝鮮出身軍属犯罪者処断ノ件通牒」という文献がある77)。  この文献は、

終戦直後にマレーシア捕虜収容所長78)  が陸軍留守業務部長宛てに送ったものだった。朝鮮人
軍属が第7方面軍臨時軍法会議で処罰された内容を報告したものだが、8人のリストが裁判宣告

日・罪名・刑名及び刑期・所属・階級などと共に記録されている。8人は皆マレーシア捕虜収容

所所属の「雇員」「傭人」の身分で、罪名は「結党」と「横領」などだった。刑名及び刑期は「横

72) 入隊者7人の内6人は1944年10月に、1人は1945年6月に徴集された。
73) 43人の内8人は、第7方面軍昭南拘禁所に未決収容されていた。解雇された35人の解雇事由は、公文公

文書偽造・横領・上官暴行・軍務執行妨害・結党・治安維持法違反など多様だった。結党や治安維持法
違反などの事由は、朝鮮人捕虜監視員たちが日本軍に対して本格的な抗日闘争を展開したものと評価
でき、注目される。

74) 逃亡者の逃亡日時は1945年7月と8月がほとんどである。
75) 死亡者は戦死25人、戦病死3人、自傷死1人である。
76) 前の第7方面軍 昭南拘禁所と同一な機関と把握される。
77)「朝鮮出身軍属犯罪者処断ノ件通牒」は、日本の防衛省防衛研究所図書館に所蔵されている資料であ

る。委員会の出張調査当時収集したもので、正確な制作時期は記録されていない。

78) 終戦当時、マレーシア捕虜収容所長は斎藤正鋭だった。斉藤は東京出身で、ハイラル特務機関長をは

じめ第6旅団長・第9歩兵団長などを歴任した。1942年8月にジャワ捕虜収容所長に任命されたが、翌年

3月に予備役に編入され軍職を離れる。ところが1944年3月マレーシア捕虜収容所長に再び任命され、
服務していた間に敗戦を迎えた(外山操『陸海軍将官人事総覧-陸軍篇』芙蓉書房、1985(1刷1981)、
319~320ページ)。

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Ⅱ. 日帝の朝鮮人捕虜監視員動員と捕虜収容所配置

39 

領」で処罰された3人は懲役4カ月、「結党」した5人は禁固1年・執行猶予2年から禁固2年・執行
猶予3年までであった79)。 

「結党」という罪名は、日本軍の命令に反して朝鮮人が抵抗団体を組織した行為を称するもの

だった。朝鮮人が「結党」した事例は、他の所でも発見される。代表的に、ジャワ捕虜収容所所
属の捕虜監視員が組織した、高麗独立青年党を挙げることができる80)。 

朝鮮人は終戦が近づくほど日本軍の不当な指示に抗命したり、朝鮮人だけの会を作って組織

的な抵抗を計画するようになるが、このような一連の動きが発覚して処罰される事例が少なくな
かった。

79) 宣告日は「横領」の場合1945年11月23日、「結党」は1945年8月30日だった。特に「結党」で処罰さ

れた5人の内4人は、第7方面軍刑務所名簿からも確認される。

80) 高麗独立青年党の活動については、アン・スンガプの前掲手記と『ジャワの追憶 第1集』に収録され

た「『アンパラワ』義挙の真相」などの記録が参考になる。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

40 

Ⅲ. 

 

捕虜監視員の戦犯処罰と戦争責任

1. 国際戦犯裁判所の戦犯処理

朝鮮人捕虜監視員が戦犯として処罰されたのは、「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦

争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルベシ」というポツダム宣言の第10項によるものであ

った81)。

ナチに捕えられた米英捕虜の死亡率が4%に満たなかったのに反して、日本軍に囚われた連合

軍捕虜の死亡率は27%に達したし、連合国側はこのような被害に対する責任を問おうとしたの
である。 第二次世界大戦の最中、連合国は既に戦後に戦争犯罪者を処罰するという意見に共
感していた。1942年1月13日ロンドンで開かれた会議ではドイツ占領地での恐怖政治を非難し、

「平和的人民に対する暴行を訴追・処罰すること」を決議した。この会議はベルギー、フランス

など9ヵ国の亡命政府によって開催されたものだったが、イギリス、アメリカ、ソ連、中国などの
諸国も関係者を送っていた。

1943年10月には「連合国戦争犯罪委員会」がロンドンに設置され、戦争犯罪者の処罰に関す

る準備が始められた。同年11月1日にはモスクワ三国外相会議を契機に、アメリカ、イギリス、ソ

連の三ヵ国首脳による「残虐行為に関する声明書」が発表され、残虐行為などをした軍人やナチ
党員を、ドイツが犯罪地国家へ引き渡すことが休戦条件であり、地域的に限定されない重大戦争
犯罪人に対しては、連合国の共同決定に従って処罰されなければならないと決定した。

1945年5月からはアメリカ、イギリス、ソ連、フランスなど四ヵ国会議がロンドンで開催され

た。そしてその結果8月8日「重大戦争犯罪人の訴追と処罰に関する協定(ロンドン協定)」が公表さ
れたが、この協定には全てで19ヵ国の連合国が当事者として参加した。この協定に付属した「国

81) ポツダム宣言の主な内容は日本に降伏を勧告し、第2次世界大戦後の対日処理方針を表明したものであ

る。宣言は前文で「日本の無謀な軍国主義者たちが世界人類と日本国民に犯した罪を悔い、この宣言を
即刻受諾すること」を要求した。第10項は戦争犯罪者の処罰、民主主義の復活強化、言論・宗教・思想
の自由及び基本的人権尊重の確立について言及しており、第13項は日本軍隊の無条件降伏をそれぞれ
規定した。

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Ⅲ.  捕虜監視員の戦犯処罰と戦争責任

41 

際軍事裁判所条例」が、実際にドイツの戦争犯罪人の訴追と処罰の法的根拠となった。「国際軍
事裁判所条例」には戦争法規または慣例の違反の他にも、「平和に対する罪」及び「人道に対す
る罪」が明示されている。また「罪を犯そうとする共通の計画または共同謀議の立案及び実行」
に参加した「指導者」「組織者」「共犯者」にも責任を問いているが、ここには計画を実行する
過程で伴うすべての行為が含まれていた。

一般的に戦争規則を違反した犯罪を「戦争犯罪」と呼び、戦争自体または戦争を起こした行為自

体を犯罪とみなし、これを「平和に対する罪」と呼ぶようになった。また第二次大戦中ナチス・ドイツ
が犯したユダヤ人へのホローコストを念頭に置き、「人道に反する罪」という概念も作られた。

ナチス・ドイツを裁くために連合国が作成した「国際軍事裁判条例」第6条は、犯罪の形態を

A項「平和に反する罪」、B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に反する罪」の三つに区分した。こ
の内、侵略戦争を起こした国家指導者らが「平和に反する罪」であるA級戦犯、それ以外のB項と
C項の罪を犯した者をBC級戦犯とよぶことになった。これは当然、アメリカ式命名法であり、イ
ギリスでは主要犯罪(major)、 軽犯罪(minor)として区別している。

第二次世界大戦後、A級戦犯についてドイツはニュールンベルク裁判、日本は東京裁判を開催

して処罰した。東京裁判は1946年から1948年の間に開かれた。この時「戦争指導者 28人」の
内、A級戦犯として25人(病死した3人を除く)が有罪判決を受け、この内7人は絞首刑に処せられ

た。東京裁判は「平和に反する罪」に対する裁判だったと一般的に理解されたが、厳密な意味で
A級戦争犯罪は「平和に対する責任」のみならず、「敵国」国民に対する虐待・殺人など、一般的
な戦争犯罪の責任まで含んでいる。 

A級戦犯の起訴理由の内、「平和に反する罪」だけが記載されて死刑になった被告はいなかっ

た。東京裁判でも通例の戦争犯罪が処罰の重要な基準となったことがわかる。次は、極東国際軍
事裁判所憲章の戦犯に関する規定である。 

本裁判所は、平和に対する罪を包含せる犯罪に付個人として又は団体構成員として訴追せられた

る極東戦争犯罪人を審理し、処罰するの権限を有す。

左に掲ぐる一又は数個の行為は、個人責任あるものとし、本裁判所の管轄に属する犯罪とす。

(イ)平和に対する罪即ち、宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争、若は国際法、条約、協定

又は保証に違反せる戦争の計画、準備、開始、又は実行、若は右諸行為の何れかを達成する為の共
通の計画又は共同謀議への参加。

(ロ)通例の戦争犯罪即ち、戦争法規又は戦争慣例の違反。
(ハ)人道に対する罪即ち、戦前又は戦時中為されたる殺人、殲滅、奴隷化、追放其の他の非人

道的行為、若は政治的又は人種的理由に基く迫害行為であつて犯行地の国内法違反たると否とを問
はず本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として又は之に関聯して為されたるもの。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

42 

上記犯罪の何れかを犯さんとする共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に参加せる指導者、

組織者、教唆者及び共犯者は、斯かる計画の遂行上為されたる一切の行為に付、其の何人に依りて
為されたるとを問はず責任を有す。 

何時たるとを問はず被告人が保有せる公務上の地位、若は被告人が自己の政府又は上司の命令

に従ひ行動せる事実は、何れも夫れ自体当該被告人をして其の間擬せられたる犯罪に対する責任を
免れしむるに足らざるものとす。但、斯かる事情は、本裁判所に於て正義の要求上必要ありと認む
る場合に於ては、刑の軽減の為め考慮することを得。

即ち、A級戦犯はB項・C項の犯罪についても罪を追及されたのだが、その代表的な例としては

A級戦犯に起訴された松井石根をあげられる。彼は裁判過程でA項に対しては無罪判決を貰った
が、南京大虐殺を起こした罪がB・C項に該当し、絞首刑に処せられた。 

B級とC級犯罪では重なる部分が多いが、前者が戦時において「敵国」国民に対する犯罪なの

に対し、後者は戦時のみならず平時を含め、自国民に対する犯罪も対象にしているという違いが
ある82)。B級、即ち「通例の戦争犯罪」に当たる犯罪行為としては占領地民の殺人、虐待、奴隷
労働などがあり、起訴された者の中には占領地の将校が多かった。これに反して「人道に反する
罪」であるC級に当たる犯罪は殺人、殲滅、奴隷的虐待、追放、政治的または人種的理由に因る
迫害行為を含めており、起訴された者の中には占領地での下士官、兵士階級が多かった。 

「通例の戦争犯罪」と「人道に反する罪」に対しては、被害を受けた国が自国の裁判所や国

際法に基づき戦争犯罪人を裁ける権限が与えられた。裁判の基本的形態は戦争中に設置された

「連合国戦争犯罪委員会」で論議されたが、細部の形式は各国に委任された。即ちBC級戦犯裁

判の具体的な基準は、各国が定めた法令によるものであった。これにしたがって、大陸法体系に

よるフランスや国民党政府と英米法系列のイギリス、オーストラリア、アメリカ、フィリピンなど
では、訴訟体系などで違いがあった。一方、一部の例外を除いて、基本的に被害者の国籍により

裁判を行う国が定められた。

裁判の初期には、判事、検事以外にも弁護人も裁判を行う連合軍側が指名、または選任した。

証人も検事側だけにおり、被告人は陳述の機会も全くない法廷も少なくなかった。通訳なしに行
われる裁判もあった。しかし、日本政府が終戦の混乱を収拾し、連合軍総司令部(GHQ)や占領軍

との接触により、BC級裁判への対応が模索され始めた。外務省が交渉して通訳や弁護人を派遣
し、関係資料を収集、提供するなどの活動が進められた。 

82) 例えばドイツ国民であるユダヤ人を戦争前から迫害した場合は、B級に該当しない。そういう問題からC

級が考慮された。またカンボジアのポルポト政権の犯罪は、自国民を虐殺しただけなのでB級ではなくC
級犯罪である。日本に対してはC級は適用されなかったが、それは当時は日本国籍だった植民地民衆に
対する犯罪、即ち強制動員と慰安婦問題などが裁判の対象にならなかったことと関係がある。

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Ⅲ.  捕虜監視員の戦犯処罰と戦争責任

43 

<表-8> 連合国の国別の裁判結果83) 

起訴総数

死刑

無期刑

有期刑

無罪

その他

アメリカ

1,453

143

162

871

188

89

イギリス

978

223

54

502

116

83

オーストラリア

949

153

38

455

267

36

オランダ

1,038

236

28

705

55

14

フランス

230

63

23

112

31

1

フィリピン

169

17

87

27

11

27

中国

883

149

83

272

350

29

5,700

984

475

2,944

1,018

279

                                     

<表-9>は、法務大臣官房司法法制調査部発行の『戦犯裁判概史要』を参考に、林博史氏が

まとめた内容を再引用したものである。これは朝鮮出身者を含むBC級戦犯全体の数であり、ここ
で言及した起訴事実以外にも侮辱行為、情報収集妨害、受付け妨害、利敵行為、脅迫なども起

訴事由となった。1人当たりの容疑が一つ以上のケースが多いので、起訴事実の合計が人数より
多くなるのは当然である。

アメリカ側の裁判の場合、一般的に知られているBC級戦犯裁判の特徴のように、捕虜に対する

犯罪が主な起訴理由となっている。オーストラリア側の裁判もまた、捕虜に対する犯罪が起訴理
由の圧倒的割合を占めている。

しかし、イギリス、オランダ、フランス側の裁判の場合は、非戦闘員に対する犯罪の割合

が、捕虜への犯罪の割合より非常に高いのだが、林博史氏はその原因を当該地域で戦犯とし
て処罰された者の内、憲兵隊出身が多いというところから探っている。即ち、現地の住民を
直接弾圧した憲兵が大勢起訴され、この地域で植民地経営を行っていたイギリスやオラン
ダ、フランスは、自らの植民地支配の正当性を確保するためにも、現地住民の意見を尊重し
たということである。

フィリピンと中国84)側の裁判は当然、自国民衆に対する犯罪を扱っている。したがって捕虜に

対する犯罪の割合より、非戦闘員に対する犯罪の割合が遥かに高くなっているとみられる。

83) 1991年10月日本内閣総理大臣の国会答弁を基礎に構成。
84) 国民党政府を指す。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

44 

<表-9> 起訴事実別の件数

項目

合計

アメリカ イギリス オースト

ラリア オランダ フランス

フィリピ

中国

件数

2244

456

330

294

448

39

72

605

人数

5700

1453

978

949

1038

230

169

883

捕虜殺人、虐待、虐待致死(A)

3413

1578

544

857

231

132

16

55

抑留者殺人、虐待、虐待致死 (B)

214

5

17

59

124

4

3

2

非戦闘員殺人・虐待・虐待致死不当

逮捕拘禁(C)

4389

357

1114

194

1243

236

242

1003

捕虜への救護品横領

71

67

2

1

1

作戦に直接関係する軍事作業の強制

59

24

6

8

2

5

1

13

死体遺棄、冒涜、埋葬妨害 

292

189

30

53

1

19

人肉食

29

14

15

売春強制、婦女誘拐

36

1

1

30

4

強姦

143

35

1

1

10

2

45

49

不法軍法会議での処刑

13

11

2

休戦協定違反

13

12

1

財物略取、破壊、焼却、物資強制徴発

450

93

6

17

32

41

261

労務強制、強制徴用、強制徴兵

44

2

3

39

民衆圧迫、民衆追放など

14

1

13

思想マヒ、洗脳、奴隷化

29

29

アヘンの販売

20

20

賭博場の開設

3

3

毒ガス用

1

1

無防備地区への爆撃

1

1

主権侵略、内政破壊、経済撹乱 

13

13

侵略戦争の助長

28

28

捕虜への犯罪の割合 

(A/A+B+C)(%)

42.6

81.3

32.5

77.2

14.5

35.5

6.1

5.2

非戦闘員への犯罪の割合 

(C/A+B+C)(%)

54.8

18.4

66.5

17.5

77.8

63.4

92.7

94.6

 

表は中華人民共和国とソ連側の裁判は除いてある。中華人民共和国は瀋陽と太原で、1956年

6月から7月にかけて戦犯裁判を開いた。裁判では、最高禁固20年を含め45人に有罪判決が下さ
れた。1949年12月に開かれたソ連のハバロフスク裁判では、731部隊など細菌兵器と関連した

12人が裁判にかけられた。しかし、ソ連は死刑を認めず、死刑判決はなかったとされている。 

このようにBC級戦犯裁判といっても、裁判国によって扱われ方が多様なので、各国の資料に基

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Ⅲ.  捕虜監視員の戦犯処罰と戦争責任

45 

づいた研究が必要だ。全体的に述べられることは、アジアの民衆の被害が相当数裁判に反映さ
れた点である。

2. 朝鮮人戦犯の処罰状況
BC級戦犯として処罰された朝鮮人名簿を確認できる資料としては、厚生省引揚援護局が1955

年12月1日に作成した『韓国、台湾出身戦争裁判受刑者名簿』(以下、『受刑者名簿』) がある。こ
の資料には朝鮮出身の戦犯148人の氏名と人的事項、また1955年当時の彼らの状況などがまと
められている。

                              

<表-10> 朝鮮人BC級戦犯の死刑者の現況

連番

氏名

生年月日

裁判国

死刑執行年月日

執行場所

本籍地

1

洪思翊

1890.3.4.

絞首刑 アメリカ

46.9.26

マニラ

ソウル

2

金栄柱

1917.1.9.

イギリス

46.7.30

シンガポール

釜山 東莱区

3

金貴好

1928.8.13.

46.1.22

シンガポール

済州 翰林

4

姜泰協

1920.6.7.

シンガポール

忠南 礼山

5

張水業

1917.11.6.

シンガポール

平南 鎮南浦

6

千光麟

1920.11.28.

47.1.20

シンガポール

ソウル

7

朴成根

1922.10.25.

銃殺刑 オランダ

47.1.5

ジャカルタ

全北 群山

8

趙文相

1921.10.21.

絞首刑 イギリス

47.2.25

シンガポール

開城

9

金長録 死刑当時27歳

シンガポール

全北 群山

10

朴栄祖

1921.9.2.

シンガポール

慶北 義城

11

金沢振

1923.5.18

シンガポール

慶南 固城

12

林永俊

1922.12.14.

47.6.18

シンガポール

全北 南原

13

崔昌善

1916.10.3.

銃殺刑 オランダ

47.9.5

ジャカルタ

咸南 明川

14

朴俊植 死刑当時31歳

ジャカルタ

開城

15

卞鐘尹

1920.6.2.

ジャカルタ

忠北 清州

16

柳広雄

1913.7.4

死刑

中国

47.5.25

中国 徐州

慶南 統営

17

廋三千

不詳

47.2.4

慶北 漆谷

18

白天瑞

不詳

46.9.12

平北 義州

19

金奎彦

不詳

銃殺

47.1.9

中国 北京

平北 龍川

20

趙允台

1924.1.12

死刑

47.4.3

中国 済南

平北 義州

21

車釣福

不詳

銃殺

47.5.3

中国 北京

平北 宜川

22

朴亨俊

不詳

死刑

47.6.12

平北 宜川

23

金守仁

不詳

48.1.23

中国 瀋陽

平北 宜川

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

46 

受刑者名簿や留守名簿などを基に、戦犯として死刑にされた朝鮮人の具体的処罰の内容をま

とめると下の表の通りである。計23人の死刑者の内、軍人はアメリカの裁判で処刑された洪思翊
1人で、他は全員軍属出身なのだが、その内中国側で裁判を受けた8人の通訳を除く12人は捕虜

監視員であった。 

中国で処刑された韓国人戦犯の氏名は受刑者名簿から何人か明らかになっていなかったが、

詳細な内容は留守名簿と、1995年に李義度氏85)ら被害者が日本政府相手に起こした「被害補償
請求訴訟」の訴状に添付した日本の靖国神社提供の名簿を参考に完成させることができた。

下記の服役者現況表は、留守名簿及び朝鮮人受刑者名簿を基礎に作成したものである。なお

表は日本に居住している「同進会」会長李鶴来氏の修正補完を経ている86)。

<表-11> 朝鮮人BC級戦犯者の服役者の現況

連番 氏名

創氏名

生年月日 生存

当時本籍

(住所)

所属

職責 裁判国

宣告日

量刑

1 姜大述 神農大述 1922.06.30 死亡 全南 長城

マレーシア

第1分所

雇員 オランダ

6年6カ月

2 高在潤 高野幸次郞 1923.05.05 死亡

全北 錦山 

(忠南 大田) ジャワ 第3分所 雇員 オランダ

17年4カ月

3 金景淳 金田景淳 1921.11.06 死亡

黄海 平山

マレーシア 

第1分所

雇員 オランダ 1947.07.05 4年8カ月

4 金寬濟 金本吉生 1923.05.02 不詳 忠南 洪城

マレーシア 

第2分所

傭人 イギリス

7年

5 金敎臣 金城敎臣 1920.07.29 死亡

忠南 瑞山

マレーシア 

第1分所

雇員 オランダ

6年6カ月

6 金根植

高峯巖

1920.06.22 不詳

京畿 開城

タイ

雇員 イギリス 1946.08.03 6年(減刑)

7 金基同 金本基同 1917.10.20 不詳 全南 長城

ジャワ

傭人 オランダ

9年6カ月

8 金基永 金城基永 1921.07.07 生存

忠南 瑞山

マレーシア 

第2分所

傭人 イギリス 1946.09.05

10年

9 金大奉 金山錦太郞 1912.02.05 不詳 全南 木浦

(全北 益山)

ジャワ

傭人 オランダ 1947.05.01  2年8カ月

10 金東海 金光淸吉 1916.09.09 死亡 黄海 延白 

(金泉)

ジャワ

雇員 オランダ

9年6カ月

11 金斗三 吉野斗三 1920.04.17 不詳

全南 光山

ジャワ

傭人 オランダ

3年8カ月

85) 李義度氏はマレーシア捕虜収容所に勤務し、戦後オランダ側裁判で4年8ヵ月の刑に処せられた。<表

-7>参照

86) 真相調査の申請人でもある李鶴来氏は、本人が所蔵している巣鴨韓人会の『韓国人名簿』及び「韓国出

身戦犯刑死者名簿」を送って来た。のみならず近来挙動が不便なのにも拘わらず、筆者が送付した「服
役者現況」に直接修正を加えた原稿を送ってくれるなど、報告書の作成に多くの助けを下さった。足り
ない報告書だが、少しでも誤謬を減らすことができ、心より感謝を捧げる。

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Ⅲ.  捕虜監視員の戦犯処罰と戦争責任

47 

連番 氏名

創氏名

生年月日 生存

当時本籍

(住所)

所属

職責 裁判国

宣告日

量刑

12 金孟右 金本孟右 1919.06.29 死亡

慶南 固城

マレーシア

第1分所

スマトラ

雇員 オランダ

6年

13 金奉鎭 金康奉鎭 1923.03.18 死亡 全南 康津 タイ第1分遣所

仏印派遣

傭人 イギリス 1947.03.07

5年

(重労働)

14 金祥龍 金山祥龍 1922.10.14 死亡

全北 群山

マレーシア

傭人 イギリス 1946.11.20

15年

15 金玉銅 金本玉銅 1921.08.20 生存

黄海 延白

ジャワ

傭人 オランダ

2年8カ月

16 金完根 金門完根 1922.06.23 生存

全北 完州

ジャワ

傭人 イギリス 1946.07.26

10年

17

金鏞

完山金藏 1915.12.01 不詳 咸南 咸興

タイ

傭人 イギリス

21年

18 金容判 金山義雄 1919.11.02 死亡

全南 光山

タイ

傭人 イギリス 1947.09.05

10年

19 金雲永 金田雲永 1922.01.25 生存

全北 淳昌

ジャワ

雇員 オランダ

14年4カ月

20 金遠道 金本政雄 1916.11.18 不詳 慶北 金泉

マレーシア 

第1分所

雇員 オランダ

11年6カ月

21 金在俊 金山俊久 1914.10.19 不詳

咸南 豊山

マレーシア

雇員 オランダ

4年8カ月

22 金鐘淵 金宮鐘淵 1918.07.02 死亡

京畿 開城

タイ 

傭人 オースト

ラリア 1948.08.09

12年 

23 金昌植 金城昌雄 1916.08.08 生存 忠北 陰城

(忠北 鎮川)

タイ

第2分所

傭人 オースト

ラリア 1947.04.02

終身

24 金昌禧 金林昌禧 1913.07.04 不詳

忠南 論山

ジャワ

傭人 オランダ

13年10カ月

25 金晳基 金村晳基 1922.12.06 生存

慶南 昌原

ジャワ

傭人 オランダ

6年6月

26 金喆洙 金光喆洙 1921.09.08 死亡

忠南 論山

ジャワ

 第3分遣所

傭人 オランダ

17年4カ月

27 金泰烈 金村泰烈 1917.11.26 死亡

忠南 青陽

ジャワ

傭人 オランダ

11年6カ月

28 金漢植 大原淸一郞 1919.03.28 不詳

慶北 慶州 ジャワ 第2分所 

スマトラ

雇員 イギリス 1946.09.05

絞首刑

終身

29 金熙哲 藤本好男 1922.01.25 不詳 江原 春川

(洪川)

ジャワ

傭人 イギリス 1946.07.26 

終身刑

15年

30 羅三祚 羅山德一 1914.05.05 死亡 慶北 漆谷

マレーシア

第2分所

雇員 イギリス 1946.09.05

15年

31 盧在明 岡村在明 1921.11.23 死亡 慶南 咸安

(宜寧)

ジャワ

雇員 オランダ 1948.08.20 7年6カ月

32 盧在永 岡村在永 1913.11.16 不詳

全南 光山

ジャワ

傭人 オランダ 1948.08.20 9年6カ月

33 盧鐘石 田中鐘石 1921.01.30 不詳

咸南 甲山

マレーシア

 第1分所

傭人 オランダ

7年6カ月

34 文濟行 文平濟行 1922.04.11 死亡 全南 和順

ジャワ

傭人 オランダ

7年6カ月

35 文泰福 文元哲一 1923.07.27 死亡 全南 求礼

タイ第2分所

傭人 イギリス

10年

36 閔鶴基 野村鶴基 1916.06.15 死亡 京畿 京城

ジャワ

傭人 オランダ

7年6カ月

37 閔鴻基 大澤平治 1919.08.15 死亡 忠北 陰城

タイ

傭人 イギリス

3年

38 朴敬錫 密川敬錫 1922.03.20 死亡 忠北 丹陽

ジャワ,

マレーシア

雇員 オランダ

5年8カ月

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

48 

連番 氏名

創氏名

生年月日 生存

当時本籍

(住所)

所属

職責 裁判国

宣告日

量刑

39 朴觀眞 松井觀眞 1922.02.22 不詳

慶北 慶州

マレーシア 

第1分所

雇員 オランダ

7年6カ月

40 朴錦泳 森本錦泳 1915.01.03 死亡

全南 光州

タイ第4分所

傭人 イギリス 1946.08.22

15年

41 朴秉淑 竹本秉淑 1917.01.12 生存 慶南 釜山

(密陽)

タイ

傭人 イギリス 1946.11.02.

2年

42 朴炳讚 森本茂男 1923.11.17 死亡

忠北 忠州

ジャワ

傭人 オランダ

1年9カ月

43 朴洹敎 正木文雄 1915.05.16 死亡 全北 全州

タイ

雇員 オースト

ラリア

15年

44 朴榮來 木山榮來 1923.09.07 不詳

全北 益山

ジャワ

傭人 オランダ

9年6カ月

45 朴允商 大川允商 1913.12.15 死亡

忠北 鎮川

ジャワ

傭人 オランダ

14年4カ月

46 朴貞根 新井英夫 1919.08.25 死亡

慶北 迎日

タイ

第5分所

傭人 オースト

ラリア 1946.09.16

20年

47 朴鐘介 新井鐘介 1913.11.12 不詳 慶南 宜寧

(咸安)

タイ

傭人 オースト

ラリア 1946.06.07

15年

48 朴昌浩 新井昌浩 1921.11.29 死亡

全南 光陽

ジャワ

傭人 オランダ

14年4カ月

49 朴泰錫 新井健資 1914.01.30 不詳

慶北 善山

ジャワ

傭人 オランダ

11年

50 朴泰誠 木村泰誠 1921.11.27 死亡 慶北・金泉

マレーシア

傭人 イギリス 1946.09.05

10年

51 裵禎萬 大原禎萬 1921.10.19 死亡

全南 光州

マレーシア

雇員 イギリス 1946.12.13

禁固6年

52 白樂錫 白川樂錫 1923.10.01 不詳 全北 完州

(全州)

マレーシア

雇員 イギリス 1946.09.15

10年

53 宗甲進

-

1904.11.19 不詳 京城 麻浦

フィリピン

アメリカ 1946.05.17 8年2カ月

54 宋相鈺 本山茂樹 1921.12.13 不詳

全北 井邑

マレーシア

第2分所

スマトラ派遣 

雇員 イギリス

3年

55 宋希烈

安田義

1918.01.13 不詳 慶北 安東

マレーシア

 第2分所

スマトラ派遣 

傭人 イギリス

禁固10年

56 申明休 高村明雄 1922.02.18 死亡 忠北 陰城

ジャワ

雇員 オランダ 1946.11.00 4年8カ月

57 申洙珍 平山洙珍

不詳

不詳 全南 霊巌

マレーシア 

第2分所

第1分遣所

(スマトラ)

雇員 イギリス 1946.12.17

2年

58 沈永澤 松本永澤 1912.12.12 不詳 忠南 扶余

マレーシア

特殊警備隊

1小隊

雇員 イギリス

3年

59 安正燦 安原正茂 1920.08.27

(1917.10.10) 生存

黄海 黄州

ジャワ

傭人 オランダ

11年1カ月

60 梁承烈 南原高職 1923.10.13 死亡 忠南 大徳

マレーシア

傭人 オランダ

14年4カ月

61 梁月星 梁川月星 1923.02.10 死亡 全南 潭陽

マレーシア

雇員 オランダ

13年4カ月

62 梁海根 石本榮信 1915.12.06 不詳

慶北 栄川

マレーシア

雇員

45.7.31 イギリス 1946.10.13 1年6カ月

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Ⅲ.  捕虜監視員の戦犯処罰と戦争責任

49 

連番 氏名

創氏名

生年月日 生存

当時本籍

(住所)

所属

職責 裁判国

宣告日

量刑

63 吳白年

(炳祚) 和田康邦 1914.11.02 死亡 京畿 京城

マレーシア

第1分所

雇員

45.7.31 オランダ

6年6カ月

64 吳善譯 吳川善譯 1920.09.17 死亡 全南 和順

マレーシア

傭人 イギリス

禁固10年

65 吳完根 大原完根 1921.06.11 不詳 忠南 天安

ジャワ

傭人 オランダ

8年

66 吳在浩 吳島在浩 1922.08.18 生存

慶南 釜山

タイ

傭人 イギリス

6年

67 兪東祚 渡井次郞 1921.05.07 死亡

慶北 慶州

マレーシア 

第2分所

傭人 イギリス

禁固10年

68 柳夏淵 柳川夏淵 1920.02.05 死亡 全南 霊巌

マレーシア 第1

分所

スマトラ派遣

傭人 オランダ

4年8カ月

69 尹東鉉 伊泉東鉉 1922.11.05 死亡 全南 康津

マレーシア

-第1分所

雇員 オランダ

19年4カ月

70 李經九 藤澤茂春 1922.06.01 不詳 京畿 始興

ジャワ

傭人 オランダ

2年8カ月

71 李權宰 松山權宰 1920.04.29 生存

忠北 槐山

ジャワ第2分所

第1分所-ジャワ

派遣

雇員 オランダ

2年8カ月

72 李大興 牧山大興 1914.08.16 死亡

全北 益山

ジャワ

傭人 オランダ

9年6カ月

73 李孟錫 岩本孟錫 1922.05.12 不詳

慶南 晋州

マレーシア

雇員 イギリス 1946.12.13

3年

74 李鳳極 毛利俊之 1913.02.23 死亡 江原 旌善

ジャワ

傭人 オランダ

14年4カ月

75 李善根 河本武雄 1919.04.10 死亡

京畿 開城

マレーシア 

第1分所

雇員 オランダ

11年6カ月

76 李億萬 瀧西億萬 1914.05.17 死亡

忠北 永同 ジャワ 第1分所

第1分遣所

傭人 オランダ

6年6カ月

77 李永吉 慶本永吉 1914.11.01 死亡

京畿 漣川

(江原 平康)

マレーシア 

第1分所

雇員 オランダ 1947.09.03 9年6カ月

78 李泳換 慶山泳換 1919.12.08 生存

全南 珍島

ジャワ

傭人 オランダ

2年8カ月

79 李殷雨 木村繁雄 1920.03.06 死亡

慶北 栄州

ジャワ

傭人 イギリス 1946.07.26

7年

80 李義吉 笠山義吉 1917.06.04 死亡 京畿 京城

ジャワ

傭人 イギリス 1946.07.26

21年

81 李義度 完山義度 1920.10.20 死亡 全南 新安

マレーシア

第1分所

雇員 オランダ

4年8カ月

82 李長男 島本長男 1922.05.10 死亡

京城 阿峴

(始興)

マレーシア

雇員 オランダ 1947.09.08 5年8カ月

83 李鶴來 廣村鶴來 1927.04.05 生存 全南 宝城

タイ

傭人 オースト

ラリア 1947.03.20

20年

84 李恒庸 松岡武光 1922.05.28 死亡 忠南 洪城

マレーシア 

第1分所

雇員 オランダ

8年2カ月

85 田泰範 田村泰範 1922.12.05 不詳

慶北 慶山

ジャワ

傭人 オランダ

14年4カ月

86 丁奎文 德山直吉 1917.11.26 死亡 全南 務安

マレーシア

雇員 イギリス

禁固5年

87 鄭福植 大原福植 1919.06.12 死亡

慶北 迎日

マレーシア

スマトラ派遣

雇員 オランダ

9年6カ月

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

50 

連番 氏名

創氏名

生年月日 生存

当時本籍

(住所)

所属

職責 裁判国

宣告日

量刑

88 丁永玉 岩本永玉 1920.09.03 死亡 忠南 扶余

マレーシア

第1分所

雇員 オランダ

7年6カ月

89 鄭殷錫 石原辰雄 1919.02.02 死亡 京畿 始興

マレーシア

雇員 イギリス

15年

90 鄭宰洙 東原光保 1920.02.25 不詳 忠北 丹陽(慶

北栄州)

ジャワ

傭人 オランダ

2年6カ月

91 鄭鍾觀 三城鍾觀 1923.01.05 死亡

江原 楊口

ジャワ

傭人 オランダ

4年8カ月

92 丁讚鎭 大原讚鎭 1921.12.30 死亡

慶南 固城 マレーシア 第1

分所-スマトラ 雇員 オランダ 1947.09.08

9年カ月

93 鄭春吉 松本春吉 1921.10.03 死亡 忠南 扶余

マレーシア

雇員 イギリス

10年

94 鄭換奎 鄭村光男 1913.02.17 不詳 黄海 金川

ジャワ

傭人 オランダ

4年8カ月

95 趙壽衍 豊田銀次郞 1917.05.25 不詳 慶北 金泉 

ジャワ

傭人 イギリス

10年

96 曹壽鉉 曹玉壽鉉 1921.12.21 死亡 忠北 陰城

タイ

傭人 イギリス 1946.08.22 

重労働10年

10年

97 趙鏞赫 己山鏞赫 1918.04.07 不詳 慶南 咸安

ジャワ

傭人 オランダ

5年8カ月

98 趙雲國 雲井英治 1913.08.16 死亡 忠南 燕岐

1945.10.01

15年

99 趙渭濟 趙村渭濟 1921.12.04 死亡 慶南 咸安

ジャワ

傭人 オランダ

14年4カ月

100 趙泰元 浦本光雄 1922.04.11 不詳

忠北 忠州 

マレーシア 第1

分所

スマトラ

雇員 オランダ

6年6カ月

101 周會元 淸川紘光 1919.10.10 不詳

慶南 固城

ジャワ

傭人 オランダ

7年6カ月

102 車駿錫 三中駿錫 1919.02.07 死亡

全北 群山

(全北金堤)

タイ

傭人 イギリス 1947.10.10 

終身刑

21年

103 崔桂浩 高山晴光 1923.01.05 不詳 全南 霊光

マレーシア

雇員 イギリス 1946.09,05 

懲役20年

10年

104 崔南國 高峯南國 1913.12.19 死亡 咸南 栄興

ジャワ

雇員 オランダ

4年8カ月

105 崔大椿 松山征夫 1919.05.01 不詳

慶北 慶州

マレーシア 

第1分所

雇員 オランダ

11年6カ月

106 崔銘誠 松本明山 1923.08.15 死亡

全南 光州

タイ

傭人 イギリス 1947.08.22

21年

107 崔善燁 山本善燁 1920.08.12 死亡 全北 南原

ジャワ

傭人 オランダ

14年4カ月

108 崔成敎 大山成敎 1913.03.03 不詳 全南 羅州

タイ

傭人 オースト

ラリア 1946.09.26

6年

109 崔榮模

津山忠

1923.11.16 死亡

全南 光山

ジャワ

傭人 オランダ

12年

110 崔元溶 大原元溶 1923.05.10 生存 平北 碧潼

歩兵第77連隊

豹第12025部  伍長 アメリカ

8年2カ月

111 韓甲順

(允哲) 淸原正重 1922.10.22 死亡

忠北 忠州

タイ

第4分所

傭人 オースト

ラリア 1946.07.26

15年

112 韓昌範 淸原昌範 1918.06.15 死亡

咸南 元山

ジャワ-軍抑留所

第2分所

第2分遣所

傭人 オランダ

9年6カ月

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Ⅲ.  捕虜監視員の戦犯処罰と戦争責任

51 

連番 氏名

創氏名

生年月日 生存

当時本籍

(住所)

所属

職責 裁判国

宣告日

量刑

113 許榮

岡野榮

1917.02.26 死亡

自殺

忠南 扶余

マレーシア

雇員 イギリス

禁固10年

114 洪根孝 德山根孝 1921.01.26 死亡

慶北 栄川

マレーシア 

第3分所

雇員 イギリス 1946.12.13

3年

115 洪起聖 豊山起聖 1921.10.01 死亡

忠北 忠州

マレーシア

雇員 イギリス 1946.10.23 

絞首刑

21年

116 洪鐘默 德山光雄 1919.06.10 死亡

忠北 永同

タイ第4分所

傭人 イギリス 1945.10.01

21年

117 黃錫愼 共田錫愼 1917.07.06 不詳

慶北 迎日

マレーシア 

第2分所

傭人 イギリス

3年

                                                     

<表-12> 中国現地の服役者の現況

連番

氏名

創氏名

生年月日

本籍

職責

裁判国(場所)

量刑

118 姜州虎

不詳

中国 上海

5年

119 金英索

なし

軍属(顧問)

中国 南京

12年

120 徐萬杰 余川萬四郞 1917.09.17 平北 龍川

通訳

なし

終身

121 李炳華

なし

湖北省警備隊軍属

中国 漢口

12年

122 張錫球

不詳

中国 上海

10年

123 張仁國

吉田國男

中国 北京

終身

124 鄭南哲

早見哲夫

中国 漢口

7年

125 崔東斗

中国 南京

7年

戦犯として処罰された朝鮮人捕虜監視員の事例をみると、主に連合軍捕虜の実名が言及さ

れ、虐待行為が明示された場合、重い量刑になっていることが確認できる。断定はできないが、
連合軍捕虜の記憶が朝鮮人捕虜監視員の生死を分けたともいえる。

ここではBC級戦犯として処罰された朝鮮人の裁判記録の内容をもとに、個人別の処罰内容を

簡略に確認しようとする。そのためには戦犯として処罰された全員の裁判記録の分析が必要だ
が、裁判記録収集の限界から、既存の出版物や個人の遺書内容も共に参考とした。

BC級戦犯となった朝鮮人の起訴理由のほとんどが、捕虜と関連した内容だった。一般に良く知

られている洪思翊の起訴内容も、やはり例外ではない。日本軍中将として絞首刑となった洪思翊
はマニラやフィリピン地域で、日本へ移送中の捕虜を「不法に、故意に手荒く扱った」という理
由で処罰された。1944年3月フィリピンの捕虜収容所長に任命され、米軍捕虜収容所の最高責

任者だった点が彼の死刑の原因となったのである。

イギリス側の裁判87)で死刑となった張水業(チャン・スオプ)の起訴理由もまた、捕虜に対す

87) イギリス側裁判資料を見ると、傭人身分だった捕虜監視員は捕虜監視員(guard)と表記されているが、

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

52 

る暴行と不当な待遇だった。裁判過程で彼と一緒に死刑宣告を受けたキム・ハンシク・金祥龍

(キム・サンリョン)らと、自身が植民地朝鮮の出身であり日本の支配下に置かれていた点、ま

た上官の命令によってやむにやまれぬ状況だったことを主張した。金祥龍に対しては捕虜に対す
る行動が、全面的に彼の責任とはいえないことが立証されたが、張水業に対しては認められなか
った88)。裁判記録にはむしろ、彼のあだ名が“King Kong”だったという陳述と共に、感情的な叙述
が見られる。張水業に殴打され、2カ月後に死亡したという“BROPHY”という人も登場する。彼ら
は皆、張が「暴虐な」性格の持ち主だったという証拠を提示した。そして結局彼は1946年1月、
シンガポールで死刑にされた。

白楽錫(ペク・ナクソク)と崔柱浩(チェ・ジュホ)もまた、捕虜監視員として捕虜を殴打し続

けたという陳述が問題になった。起訴状によれば、彼らは収容所内でも最も「悪名高い」部類で
あったと記述されている。しかし彼らの行動が兵長大西シゲゾウの命令だったことが明らかにな

り、「幸いにも」死刑を免れてそれぞれ懲役10年と20年刑に処せられた。 

    
鄭春吉(チョン・チュンギル)は捕虜個人への劣悪な待遇と殴打を否認し、大尉蜂須賀邦房と

中尉山川保二の命令によるものだったと抗弁した。起訴理由には、鄭春吉が捕虜に所持品を売る
よう脅し、病院で捕虜を殴打したと書かれていた。また医師に「M&B錠剤」を盗むよう強要した
点も指摘されている。判決資料なのにも関わらず、少なからず感情的な言葉づかいが起訴理由

雇用身分だった監視員に対しては捕虜監視指揮官(guard commander)と記載されている。

88) 張水業は『世紀の遺書』に載った遺書を通じて、「私は1943年から45年までマレーシア捕虜収容所で

スマトラ、バンガライバン等に勤務していたが、戦後その間の捕虜取扱いに関して戦争法規違反で起訴
され、1946年9月5日死刑を宣告された」と記している。

<写真-1> 朝鮮人が収監された東京の巣鴨刑務所

* 委員会、所蔵資料

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Ⅲ.  捕虜監視員の戦犯処罰と戦争責任

53 

にしょっちゅう登場する89)。鄭春吉には15年の拘禁刑が宣告される。

一方、委員会ではオランダ側が開いた戦犯裁判の記録を入手して分析した。この分析内容は

2009年日帝強制占領下における強制動員被害真相糾明究明委員会の「BC級戦犯オランダ軍事
裁判資料」研究プロジェクト事業により、研究責任者である韓国外国語大学オランダ語科教授
張(チャン)ブンイク教授が遂行した。そしてプロジェクト作業の結果物として『オランダ戦犯裁
判記録翻訳要約』が提出された。 

報告書には合計26件の裁判で判決を受けた43人の朝鮮人が収録されている。ただ43人の内1

人は重複しているので、実際の人数は42人だった。これらの記録は全てオランダ語なのだが、氏
名と出生地が発音のまま記載され、実際の人名と対照することが困難だった。特に氏名は朝鮮半
島の氏名ではなく創氏名の発音通りに書かれていた。下記は死刑判決を受けた人を対象に、発
音通り書かれた創氏名と出生地を<表-8>の名簿と照らし合わせ、その容疑及び弁論要旨をま

とめたものだ90)。

オランダ側の戦犯裁判では合計4人の朝鮮人が死刑宣告を受け、「銃殺刑」に処せられた。裁

判記録でみられる彼らの容疑は、常習的な殴打と無理な作業の強要、侮辱、虐待などが含まれ

る。容疑につづく連合軍収容者個々人の証言には、このような内容がより具体的に陳述されてい
る。直接、虐待を受けたり、そのような行為を目撃したというものであった。捕虜のみならず、現

地の民間人に対する虐待行為も見受けられる。あげくには虐待を受けた民間人のなかには、幼い
子どもや女性、老弱者も含まれていた。

これに反して、「被告」である朝鮮人の弁論要旨は、殴打は主に「規律」を破った者を対象

に、「命令」に従った行為であったと主張する。殴打の事実は認めるが、「虐待」とまで言えなか
ったという弁論である。特に朴成根(パク・ソングン)の場合、自分は「傭人」という最下級の身
分で、捕虜たちが主張する虐待行為を自ら決定できるような地位にいなかったと陳述している。 

連合軍「被害者」と朝鮮人「被害者」の主張には、このように同じ事実をめぐり、厳然たる異なる

立場と視線が存在する。 当然、行為の軽重はともかく、連合軍捕虜の被害の事実自体を否定は出
来ない。しかし、裁判記録のどこにも、彼らが強制動員された植民地の民衆だった点は浮かび上が

って来ない。オランダ戦犯裁判で懲役刑を言い渡された梁承烈(ヤン・スンヨル)の場合、判決内

容の中に「被告は敵国日本の臣民として」というくだりが見られる91)。戦犯裁判の裁判官たちに朝
鮮人捕虜監視員は「侵略戦争のために献身した天皇の臣民」に過ぎなかったのである。 

89) 鄭春吉の起訴理由導入部には  ”He was particularly low type”という文章がある。
90) 服役者の裁判記録は付録に添付した。 
91) 張ブンイク『オランダ戦犯裁判記録翻訳要約』日帝強制占領下強制動員被害真相糾明委員会プロジェ

クト報告書、2009

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

54 

<表-13> オランダ側の戦犯裁判記録(死亡者)

連番

姓名

(創氏名)

裁判記録

の姓名

容疑及び弁論の要旨

1

朴○○  

(木村成根)

キムラ

セイコン

容疑

1944年6月から45年4月末まで、(ジャワ島中部)スマランのゲダ

ガンとバンコンの民間人収容所で収容所の指揮所参謀として勤

務し、収容された男女、子どもに組織的テロを行い、拳、革ベ

ルト、こん棒などで長時間にわたり殴打し、また軍靴で収容者

を蹴り、数日間飢えさせるなどの身体的、精神的苦痛を与え、

それにより多くの収容者を死に至らしめた。

死刑

弁論

要旨

被告は日本軍で最も低い民間人階級である傭人(Yoonin)で、(中

略)収容者に飲食物提供を中断したり、させたり出来るほど地位

は高くなかった点を強く主張した。また「組織的テロ行為」は

行っておらず、収容所内の規律のために必要と判断した場合は

罰を与えたと認めた。

2

崔○○

(大山隆昌)

オオヤマ

タカマサ

容疑

戦争捕虜に組織的なテロを行い虐待した容疑がある。特に患者

にまで拳、こん棒、ヤシの茎、台尻などで出血するまで殴り、軍

靴で蹴り、作業を強要した。捕虜の食糧を一部横領、時計や万

年筆のような高価な物を奪取した。それにより多くの捕虜を死

に至らしめた。

死刑

弁論

要旨

患者の統制任務を受持ってはいたが、高熱に苦しむ病人や疾病

患者を飛行場に送ったことはないと主張。患者を殴ったことは

決してなく、敬礼や日本語で数字をキチンと言えなかった理由

で殴ったことはないと主張。度重なる警告にも関わらず、米と

衣服を厨房横の排水口汚水で洗っていた捕虜を手で何度か殴

ったことはあり、脱出した捕虜幕舎の代表を上官の長谷川下士

官の指示で、細い竹の棒で何度か叩いたことはある。決して捕

虜の所持品を奪取したことは絶対なかったと主張した。

3

朴○○

(松岡茂正)

マツオカ

シゲマサ

容疑 崔昌善の容疑と同一

死刑

弁論

要旨

勤務初期は捕虜たちが怖がって、それで当時多くの捕虜を手で

叩いたことがある。オランダ人医師の態度が悪く、革ベルトで3

度叩いたことがあり、また3人の捕虜が作業をまじめにしないの

で手で叩いたことがある。10人の捕虜将校をひざまずかせ、そ

の内6人の顔を手で軽く叩いたことは認めた。 

4

卞○○

(檯村欽倍) カシムラ

ヨシノブ

容疑 崔昌善の容疑と同一

死刑

弁論

要旨

規定を違反した捕虜を叩いたことはあるが、酷く殴打してはい

ないと主張。作業中にたばこを吸っていた捕虜の顔を何度か叩

き、青木下士官の指示により、ヤシの茎で捕虜将校の背を二度

叩き、敬礼しない捕虜の顔を手で何度か叩いたことはある。ま

た所持が禁止された金を持っていたり、自分の区域を掃除しな

い看護師や適切な言葉を遣った捕虜を叩いたことはある。捕虜

の所持品を喝取した事実は全くなかったと主張した。

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Ⅲ.  捕虜監視員の戦犯処罰と戦争責任

55 

3. 捕虜監視員動員の「被害」と「加害」責任の間   

日本が朝鮮人を捕虜監視員として動員した理由は、まず、捕虜を直接監視する兵力が不足した

からだった。拡大する戦場のせいで足りなくなった正規の軍人の代わりに植民地の民を捕虜の管
理に利用しようとしたのである。次に、捕虜と接触する過程で発生する虐待と被害に対する責任
を、植民地の民に転嫁しようとする意図があったと判断できる。実際、朝鮮人軍属は終戦後、捕
虜虐待などを理由に国際戦犯裁判でBC級戦犯として実刑を言い渡され、死刑に処される事例も
発生した。これに反し日本は、捕虜虐待に関連する日本人を終戦直前に別の場所に転出させるな

ど、姑息な手口で責任を回避したりもした。  

朝鮮人捕虜監視員は簡単な手続きで選抜され、二ヵ月間にわたる軍事訓練を受けた。しかし

将来、捕虜を管理することになる彼らに日本当局は、捕虜の待遇に関する国際法等について何の
教育もしなかった。彼らが教育されたのは軍事訓練と、捕虜になることを恥とする戦陣訓の文句
だけだった。  

これは捕虜監視員だった被害者の陳述からも確認できる。イギリス側の戦犯裁判で絞首刑を

言い渡され1947年2月に死亡した趙文相(チョ・ムンサン)は法廷で、日本が釜山で朝鮮人軍属
に教育したのは「体格が大きい捕虜に立ち向かうには暴力しかない」というものだったと言い、
捕虜の取り扱いに関連する国際法的知識に対する教育がなかったと抗弁した。  

戦後の戦争裁判の過程で旧日本軍将校は、日本人にとって捕虜問題は当初深刻に考慮された

事項ではなかったと告白したことがある。日本は捕虜に関する制度は作ったが、非人道的行為の
防止を目的とした慣習上・条約上の戦時法規は終始無視していた。このような矛盾の真っ只中に
朝鮮人捕虜監視員が位置していたのだ。  

日本人ではない朝鮮人と台湾人を東南アジア一帯の捕虜監視員として募集した日本軍は、捕

虜監視員の募集と教育課程で、捕虜の人道的管理については念頭に置かなかった。代わりに、植
民地の効率的な支配、日本国内の労働力の不足に伴う労務管理等のみを考慮した後、決定を下

したことが下の内容を通じて窺い知ることができる。

 
朝鮮、台湾の捕虜収容所の臨時編成要領においては、特に軍属傭人(朝鮮捕虜収容所60、台湾

捕虜収容所150)を増加配属することを定める。これは朝鮮、台湾の捕虜収容所だけでなく、南方
の捕虜収容所にも全く同じく、朝鮮人や台湾人の捕虜の監視勤務に充当するようにした。これは捕
虜の管理、特に警戒が必要な日本人軍属の負担を軽減させると共に、これらの民族に対して陛下の
忠良な臣民として大東亜建設の一翼を担わせることで、朝鮮、台湾の統治に良い影響を与えようと
するものである。このために朝鮮人、台湾人を雇用して約二ヵ月間監視、警戒などに必要な軍事訓

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

56 

練を実施し勤務させるようにする92)。

日本軍部のこのような植民地支配戦略は、当時の社会の雰囲気にも現れている。捕虜監視員に

志願した石相玧は、手記「南方紀行」で自分が捕虜監視員に志願した当時の社会的雰囲気を次
のように伝えている93)。

日帝がそこまで虐待し賤民視していたわが民族も、今や内鮮一体だ皇民化だと大騒ぎし、役に立

つことができるようになった。朝鮮総督南次郎は内鮮一体を高唱しながら、志願兵選抜といわゆる
報国隊という労務者の連行に血眼だ。わが故郷でも炭坑だ製鉄所だ軍需施設工事だ等々、毎日のよ

うに報国隊に連れて行かれる。志願兵制度は数年前の支那事変初期からだ。全羅北道出身の李仁

錫上等兵を押し出し、「李仁錫伍長は中支那戦線で輝かしい戦功を起て、軍人としては最高の栄誉
である武功金鷲勲を受けた」など募兵宣伝に熱を上げ、ほぼ強圧的な方法で適齢期の青年たちを捕
まえて行っている94)。

当時の『毎日新報』記事は、「皇民の感激を誇り、出よ捕虜監視員。府内居住者は、府社会科

で接受」という見出しで、選抜されくり返される栄誉の一つとして、半島の青年男児を軍属とし
て採用し、南方共栄圏建設に協力する「崇高な道」を開いて上げるという表現で、捕虜監視員へ
の志望を督励している。石相玧の手記には、次のような内容も載っている。 

山清郡でも25人選抜することを割り当てられたそうである。郡庁前の掲示板に6月3日10時に山

清公立尋常学校で選抜試験があるから、その前に志願者は願書を持って出頭応試せよという要旨
だ95)。

このような手記の内容からわかるように、当時日帝は捕虜監視員を補充するために、各郡に

「募集」の人員を割り当て、各郡内務課長の指揮下で捕虜監視員を増員したのだが、郡の職員は

中央から割り当てられた必要人員に志願者数が達しない場合には、配給停止のような強圧的な
手段も用いたのが事実だ。 

 捕虜監視員出身で、BC級戦犯として処罰された李鶴来の証言からも、このような事実は簡

単に確認できる。李氏は「村から二人出せ」という「上部の圧力」もあって捕虜監視員募集に応
募したと証言する。彼は戦後、死刑を宣告されたが、最終的に懲役20年に減刑され、1951年8月

92)『俘虜取扱の記録』、27~28ページ
93) 石相玧の文は2008年日帝強制占領下強制動員被害真相糾明委員会で発刊した『強制動員軍属手記集

-南方紀行』に収録されている。

94) 石相玧、『南方紀行-タイ捕虜収容所』、75頁
95) 石相玧、『南方紀行-タイ捕虜収容所』、76頁

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Ⅲ.  捕虜監視員の戦犯処罰と戦争責任

57 

シンガポールから日本の巣鴨刑務所に移送された。

先の石相玧の手記で指摘したように、当時既に多くの青壮年が炭坑や製鉄所に連行されてい

た局面だったので、捕虜監視員募集公告に示された50円の給料は非常に誘惑的なものだった。

したがって捕虜監視員に志願した朝鮮人に「全アジアを席巻する勢いで遠くベトナム、インドシ

ナ半島を経て、マレー半島を破竹の勢いで進撃し、シンガポールを陥落させ、英国軍五万の大
軍を無血占領、彼らを捕虜に捕えた」日本帝国主義支配権力の要求は、絶対的な意味を持った
かも知れない。  

京城府の捕虜監視員池(チ)ウォンユルは申請の受付が始まって4日目の5月28日、募集予定人員

の10倍に達したという。30日の締め切り目前という状況で、「血書」志願が続出しているという
刺激的な記事が掲載されたりした96)。新聞に紹介された事例と統計情報だけを見ると、あたかも
朝鮮人青年が日帝の侵略戦争に少しでも献身するために血眼になっているかのように見える。し
かしこのような形態は、選択の余地がなかった植民地青年を対象にした弛まぬ宣伝と扇動、そし
て懐柔と圧迫の中で起きたものだったという点を決して見逃してはならない。  にもかかわらず
朝鮮人の連合軍捕虜虐待行為が事実として存在するという点は否認できない。そしてその事実
については、ある程度責任を甘受しなければならないの道理だろう。内海は著書の中で、次のよ

うに述べた。                       

戦争裁判記録をどのように解釈するべきか。(中略)全世界の公文書館に保存された裁判記録に

は、戦争中にあった捕虜虐待の事実が細かく記されている。被告一人一人の戦争犯罪に関する記録
である。この記録をどのように読むべきか。(中略)多くの証言を通じて、日本軍の戦争犯罪が明ら
かになる97)。

もちろん内海のこのような言及は、朝鮮人捕虜監視員の加害行為を浮き上がらせようという意

図ではなかった。結果的に朝鮮人の行為による連合軍捕虜の被害が厳然と存在するという点を
述べたものだ。ただしこの問題は断罪ではなく、相互間の反省と赦し、そして和解の側面から今
後何度も悩まなければならないと考えたのである。  

しかし彼らがそのすべての責任を負って、死刑まで受けなければならなかったのかという問題

は容易に納得できない。結果としての行為以前に、そのような結果を生んだ原因、帝国主義時代
の植民地の人民が経験するしかなかった強制動員の怖れを考えないわけにはいかない。朝鮮人
を強制動員した日本も、彼らを戦犯として処罰した連合国も、結局弱肉強食の帝国主義時代、自

96)「俘虜監視員に血書志願還至」、『毎日新報』、1942.5.29. 3面
97) 内海愛子、前掲の本、321~323ページ

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

58 

国の利益のために植民地の民を収奪した加害者だった、という点を反芻せねばならない理由で
ある。  

要するに朝鮮人捕虜監視員たちの行為が厳然たる戦争犯罪だとしても、行為そのものの暴力

性の裏側に、植民地民衆に「強要」された加害の「腕章」を、単純な犯罪行為として処罰できる
のか考慮しなくてはならない。戦争の「被害」と「加害」の問題をどう解決するべきか深く考え
させられる。内海は続けて指摘した。 

戦争裁判を全面的に否認できるだろうか? この疑問は依然残る。遺族会を結成して互いに集まる

ことができる今、ようやく、戦争裁判とは何なのか、いったい何を断罪したのかを悩み議論できる。

(中略)  

今後遺族会は政府との交渉とは別に、裁判記録をどう理解するべきかという課題にもぶつからな

ければならない。断罪された朝鮮人軍属が日帝の被害者ならば、告発した捕虜もまた日本軍に虐待
された被害者だ。捕虜の4分の1が殺される扱いを受けた。イギリスやオーストラリアなどで働い
ていた捕虜出身者は、日本軍の捕虜政策を現場で担当した日本人将兵や朝鮮人監視員に、今なお
憎しみを抱いている。李鶴来氏はオーストラリアに渡って行き、日本軍の一員となって捕虜虐待に
手を貸したことについて謝罪した。  同進会の前会長文泰福氏もイギリスに行って捕虜出身者に
会い謝罪したいと語っていたが、その機会を作れないまま世を去った。同進会の人々は、日本政府
の責任を問うだけでなく、戦争に加担した自らの責任を考えるという姿勢を堅持して来た。韓国の
遺族会は日本の植民地支配に対する責任を問うと共に、断罪された戦争犯罪とは何なのかについて
も、韓国社会に質問を投げかける存在でもある98)。

同進会の会員たちは、自分たちが処罰された「加害」行為を省りみ続けて来た。行為自体を否

定したり、単純に弁解しようとはしなかった。連合軍の捕虜に犯した行為が、朝鮮人の立場では

「仕方ない」側面があったとしても、強制動員「被害」と戦争犯罪行為の「加害」を厳格と区別

する、理性の物差しを堅持して来たのである。捕虜監視員に動員され、被害の補償を日本政府に
要求するのとは別に、自らの「加害」に因って「被害」を受けた連合軍捕虜の痛みを振り返って
みようと努力した。                      

終戦後70年近い時間が流れている今、このような反省が果たして実効があるか疑うことは必

要ない。なぜなら真なる反省は、戦争に打ちのめされた「極端な時代」が再び到来するのを防

ぐ、何よりも頑丈な理性の盾になるだろうからだ。 

98) 内海愛子、前掲の本、321~323ページ

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Ⅳ.むすび  ―被害調査の内容と今後の課題― 

59 

Ⅳ.

 

むすび ―被害調査の内容と今後の課題― 

戦後、連合国は国際戦犯裁判を通じて、戦争の期間中に行われた戦争犯罪を処罰した。当時、

戦犯として実刑に処せられた朝鮮人は総148人だった。この内三人は洪思翊中将をはじめフィリ

ピンでゲリラ戦を実行した軍人であり99)、16人は中国戦線で通訳として勤務していた人たちであ
る100)。彼らを除く129人が捕虜監視員として働いていた朝鮮人軍属だった。129人の内、14人が

死刑にされ、115人は有期刑に処された。有期刑に処せられた人々は1947年から1957年にかけ
て満期、または減刑で釈放されるまで監禁されたまま解放されなかった。  

朝鮮人軍属は、日帝によって動員された人々だった。なのに国際戦犯裁判は、彼らを戦犯とし

て処理した。これは彼らに二重の被害を負わせたことになる。朝鮮人捕虜監視員が「二重の被
害」を受けた理由は、戦犯裁判で行われた朝鮮人に対する不利な陳述のせいだった。直接被害
を加えた捕虜監視員に対して連合軍捕虜の陳述が相次いだ。裁判では朝鮮人の特殊な事情は考
慮されなかった。捕虜監視員が当初から植民地の民として日帝の侵略戦争に強制動員され、日本
軍鉄道隊の「強圧に勝てず」捕虜を虐待したという主張は受け入れられなかった。植民地の民と

して、自らの敵ではない敵と対面する場で働くしかない境遇だったのに、結局日本の戦争責任ま

で転嫁されたのだった。  

捕虜監視員の内、戦犯裁判で収監された人たちは自ら「同進会」という集まりを作り、日本政

府にその責任と賠償を訴えた。しかし日本はいまだ彼らを無視している。日本はサンフランシス

コ講和条約で敗戦国の首かせを脱いだが、朝鮮人捕虜監視員は依然として「戦犯」として残さ
れた。それでも同進会に集う人々は、幸いにも死刑を免れたケースだった。23人の「同僚」たち
は日々不安と悔しさの中でうめき、祖国を「解放」させた連合軍によって死刑にされた。それだ
けではない。戦争犯罪者という現実を認められず、自ら命を絶った人もいた。結局、戦犯となっ
た148人の朝鮮人の内25人は、永遠に「祖国」を再び見られなかった。  

戦犯として処罰された朝鮮人の遺骨は、まず裁判地から日本に送還された。1955年4月イギリ

99) 洪思翊は死刑になり、二名は有期刑に処された。

100) 16名の内、8名は死刑、8名は有期刑に処された。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

60 

スとオーストラリアの法廷で処刑された10人の遺骨が送還され、1960年9月にはオランダの法廷
で死刑にされた4人の遺骨が送還された。しかしアメリカと中国の法廷で死刑となった9人につ
いては、遺骨の存在すらまだ確認されていない。出所後、病気、生活苦で自殺した2人の遺骨は

1982年12月韓国に送還された101)。 

捕虜監視員の連合軍捕虜に対する虐待行為は、当時国際戦犯裁判が規定する戦争犯罪に該当

した。そして虐待行為だけを対象にすると、朝鮮人の行為は決して正当化できないという点も明
らかだ。

これはその間戦犯として処罰された朝鮮人が、自ら堂々としていられなかった理由でもあっ

た。しかし戦争犯罪を処罰する前に、彼らの行為が強制動員された植民地の民として、いかなる
選択肢もない状況で起きたものであることを明確に認識しなければならない。

にもかかわらず朝鮮人捕虜監視員が連合軍捕虜を相手に行った過酷な行為の責任を、完全に

避けることはできない。しかし朝鮮人が植民地の民として、被害者であり加害者という状況にあ

ったという点を考慮しなければならない。BC級戦犯となった日本人が「上官の命令に従っただ
け」という点を挙げ、自らを救命102)102) しているのとは、厳然と異なる「歴史的被害」を朝鮮人
は被っていたのだ。  

日帝強制占領下強制動員被害真相糾明委員会は2006年、初めてBC級戦犯として処罰された朝

鮮人捕虜監視員を強制動員被害者と認定する決定を下した。そして、2011年5月現在まで計87
人が被害判定を受けた。  死刑者23人の中では13人が被害者と認定された。被害者に認定さ

101) 裁判国別朝鮮人現況及び遺骨送還現況は次の通りだ。

区分

死刑

無期懲役 有期懲役 裁判記録公開状況

遺骨送還

備考

 アメリカ

  3

 1

    -

  2

   公開

未確認 / 1

  中国

 16

 8

   8

   -

 非公開

未確認 / 8

 イギリス

 47

 4

   9

   38

   公開

 送還

 オランダ

 68

 4

   -

   64

  非公開

 送還

入手

オーストラリア  14

 6

   1

   3

   公開

 送還

 フランス

 -

 -

  -

  -

  非公開

 フィリピン

 -

 -

  -

  -

  非公開

   計

148

 23

  18

 107

 

102)「戦後」日本人が米軍占領当局に送った手紙を分析した鄭(チョン)ヨンウクの文によれば、BC級戦犯

で起訴された日本人は自らの行為を「囚人(捕虜)を何回か殴打しただけの些少な犯罪者が、国全体を戦
争へ追い込んだA級戦犯より重い刑を受」けたとか、「作戦中、命令に従って中国人密偵を逮捕しただ
けだ。私は非合法で不公正な裁判によって戦犯になった」という風に、戦争中の自らの行為を「弁明」

したという。(鄭ヨンウク、「日本人の『戦後』と在日朝鮮人観」、『日本批評』3号、ソウル大日本研究

所、2010.8、285~286ページ)

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Ⅳ.むすび  ―被害調査の内容と今後の課題― 

61 

れない10人の内1人は洪思翊であり、8人は中国側で裁判を受けた通訳の身分の朝鮮人103)、103) 
残りの1人は捕虜監視員としてシンガポールで裁判を受け1947年2月25日に死亡した人だった。
つまり死刑にされた捕虜監視員14人の内13人が被害者として認定された。一般服役者125名の
中では、74人が被害者と判定された。125人の中には軍人出身でアメリカ側で裁判を受けた人が
2人、日本軍の通訳として服務し中国側で裁判を受けた8人が含まれている。捕虜監視員出身の
BC級一般服役者は115人だ。現在委員会では、115人の内73人が被害判定を受けたと確認され
る。要するに朝鮮人BC級戦犯148人の内、現在までに87人が被害者として認定され、129人の捕
虜監視員の中では86人が被害判定を受けた。  

委員会のこのような決定は、韓国政府が戦犯裁判の結果に関係なく、彼らの被害事実を公式化

したという点に意義がある。しかし委員会のこのような活動の裏には、この間強制動員の事実を

無視して補償を回避して来た、日本政府の歴史に対する傲慢と無責任がある。日本政府はいまだ
沈黙を守っている。しかし、「朝鮮の青年を戦場に追いやり、法廷に立たせながらも戦後、朝鮮
人青年に対する支援を拒否してきた日本政府」が歴史的責任を無視し続ける限り、韓国と日本は
勿論、日本の過去の侵略戦争で被害を受けた多数くの国家との和解は不可能である。

103) 8名の内6名は本籍地が北朝鮮地域となっている。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

62 

付録-1 

 

捕虜監視員動員関連の新聞資料集

○「度重なる半島青年の光栄。軍属として数千人採用。各地の米英人俘虜を監視指

導」、『毎日新報』、1942.5.23 1面。

陸軍では大東亜戦争の輝かしい戦果により、南方各地に収容中の米英人俘虜の監視人とし

て、半島青年数千人を軍属として採用し、約二ヵ月間の訓練の後、現地(一部は鮮内)に派遣する
ことに決定し、22日情報課でその内容を発表した。今次の実施は徴兵制実施を目前にして、半島
青年に今一度光栄の聖戦の道を開いて上げるもので、

1. 今日まで東亜で暴虐不遜な態度で、東亜の諸国民に非人道的偏見で臨んだ米英人を、半島

青年が日本国民として指導する立場に立つもの。

2. 半島青年が皇国臣民として南方に派遣され、日本国民の優秀性を米英人と南洋圏の諸民族

に認識させると同時に、この機会は半島の民衆が直ちに皇国臣民としての資質を充分具備

したかどうかを明示する試金石になるもの。

3. 徴兵制実施を目前にして、半島青年が軍属として共栄圏で活動できるようになったことなど

を、その画期的意義として挙げられる。

採用される青年はこのような大きな使命をよく認識し、皇国臣民としての栄誉と優秀性を遺憾

なく発揮して、所期以上の成果を収めるのに挺身する決意が要望される。

情報課発表

今回陸軍の要求に基づき、大東亜戦争の輝かしい戦果により、各地に収容中の米英人俘虜の監

視に従事するために、半島の有為な青年数千人を軍属として採用することになった。前回国民徴用
令の発動によって多数の青年が徴用され、緊要な政府の事務に従事し、今回またこのように名誉
な職務を負荷するようになったことは、ただ半島青年の光栄のみならず、このような光栄な責務を
担当できる皇国臣民としての資質が如実に認められた結果であり、朝鮮のこの上なく大きな栄誉で
ある。採用された者の任務は、単純に米英人の俘虜を監視するだけでなく、傲慢不遜な彼らに真に

日本国民の優秀性を認識させ、衷心より日本帝国に対する尊敬の念を持つように指導しなければ

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付録-1  捕虜監視員動員関連の新聞資料集

63 

ならないので、この使命は非常に重いと言える。このような重要な任務に半島青年が選抜され従事
するということは、その責務がさらに一層重大であると同時に、朝鮮に徴兵制度を施行する方針が
決定された今日、その意義は非常に深いものがある。応募者に対しては黄海と江原以南の各道庁

と関係郡庁で慎重に選考し、採用された者に対しては軍で約二ヵ月間訓練を実施した後、主に現

地(一部は鮮内)に赴任することになったが、その処遇についても軍で十分な注意をし、色々優遇の
方途を講じることになった。採用された者は叙上の精神を肝に銘じ、より一層精進努力し皇国臣民

としての実を上げ、東亜の盟主であるわが帝国の威容を顕現する、立派な努力をしてくれるように

望む。そして一般国民はこのような名誉を担当した者に対し、兵士と少しも違わない誠意をもって
後顧の憂いがないようにし、その責務の完遂に協力することを希望するものである。

○「半島人青年の光栄。米英人捕虜監視員に大量採用」、『毎日新報』、1942.5.23 2面

半島人をして名実ともに皇国臣民として大東亜共栄圏の指導者にならそうと、明後年から徴兵

制度を実施するという発表に、朝鮮の山川が喜びと感激に満ち溢れている時、22日にも再び大
東亜戦争の輝かしい戦果により、南方各地で捕虜になっている米国、英国人を監視する重い任
務を、朝鮮青年に任せることに決定したという公表があり、半島青年の喜びを絶頂まで触発して
いる。陸軍当局でこのような重要なことを半島青年に任せるようになったのは、彼らが皇国臣民

としての立派な資質を持っていることが認められた結果であり、朝鮮の大きな栄誉であることは

言うまでもなく、一歩進んで考えるとき、捕虜を監視するということは、傲慢極まりなく、東洋人
を人とは思わない米国と英国人を守るという単純な仕事ではなく、実に彼らをして半島人の日本
国民としての優秀さを認識させ、心から日本帝国に対し尊敬する精神を持たせるものだけに、そ
の仕事は真に重要であり、2年後に徴兵制によって応召する半島青年が、このように重要なこと
を引き受けられるようになったのは感激にやまないことだ。

ただし今回採用される範囲は、咸鏡南北、平安南北各道を除く南鮮9道からの数千人に限定さ

れているが、これは西北鮮秘蔵の地下資源の開発と生産力拡充に多くの人が必要とされるので
特別に除いたものであり、応募資格は大体20歳ないし30歳までの国民学校卒業程度として、各
道庁と府庁、郡庁で立派な人を選び、約二ヵ月間軍で訓練をさせた後、軍属として現地(一部は
朝鮮の中)に派遣し、衣食住は府郡からくれる他に、相当な月給を与えて優待することになってい
るので、半島青年なる者は応召する光栄と感激で多く志願するものと予想される。

○「快消息に感激爆発、半島青年の栄誉である米英人俘虜の監視指導」、『毎日新

報』、1942.5.23 3面

総督府では22日情報課発表で、輝かしい戦果に輝く大東亜戦争により、南方各地でわが無敵

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

64 

の皇軍の軍門に、一命を生かしてくれと降伏して来た米国と英国の捕虜を監視するのに、20歳
から30歳までの半島青年を採用し、堂々と軍属の身分で南方(一部分は朝鮮)に派遣することを決
定したという快報を公表した。半島同胞にも国防の重い責任を分担させ、名実ともに皇国臣民と

して大東亜共栄圏の指導者にならせようと、1944年度から徴兵制度を実施することになった発

表があったのが去る9日なのに、2週間もせずに半島青年には今一度光栄に輝く快消息である。
徴兵制度は国民としての最高の栄誉であり、崇高この上ない国家に対する奉仕だが、一度に数
千人の半島青年が軍属として採用され、東亜百年の搾取に驕慢この上ない米国と英国人を監視

し指導する機会を持つことはどれほど痛快だろう。さらに半島人が日本国民として優秀な資質を

思いきり発揮し、敵国人をして日本国を心から尊敬するよう指導する職責こそ、真に重くて大き
なものがある。快消息が一度伝わるや全朝鮮は、京郷を通して「度重なる半島の栄誉」と歓声が
爆発している。目の前には軍属として、2年後には軍人として、私の息子、私の兄、私の弟を送る
半島の光栄はくり返すまでもないが、一般家庭の、教育者の、一般社会の責任は、喜びと感激よ

りもはるかに大きなものがあることを認識しなくてはならない。各界の要人の感想を挙げて、参

考に捧げる次第である。

責任は重大。韓相龍氏談(内容省略)
無上の光栄。培材(ベジェ)中学 高霊興雨104)氏談(内容省略)
名誉の職責。臨戦報国団 菊山時権105)氏談(内容省略)
言葉にできない光栄。宝城(ポソン)中学 牧山軒求106) 氏談(内容省略)

○「指導信念が要件。資格20歳から35歳までの国民学校卒業以上の青年。捕虜監視員

募集について倉茂朝鮮軍報道部長談」、『毎日新報』、1942.5.24 1面。

米英の捕虜監視員募集に関して23日、倉茂軍報道部長は次のような談話を発表した。
大東亜戦において皇軍の捕虜になった米英蘭人の数は莫大だ。そのうち土民で編成され、米

英蘭人から絶対差別の待遇の下で虐待を受けていた植民地軍は、平和の神兵である皇軍と協力

し、また大東亜共栄圏の確立に寄与することを誓ったので、それぞれ郷里に帰らせたが、残る多

数の米英蘭軍の捕虜は東亜各地の捕虜収容所に収容され、皇軍の温かい監視の下、それぞれ労
働などに従事しているが、今回彼ら米英蘭捕虜の収容所で監視する皇軍の助力をさせようと、
半島青年を軍属として募集するようになったことは、すでに総督府から発表されたとおりだ。彼

ら要員はその任務の重大さに照らし、軍属として採用し、あらかじめ二ヵ月間の準備教育を実施

104) シン・ホンウ(申興雨)
105) キム・シグォン(金時権)
106) イ・ホング(李軒久)

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付録-1  捕虜監視員動員関連の新聞資料集

65 

し、そのほとんどは南方で勤務させる。

捕虜たちは敗れたとは言っても、今まで世界に威勢をなびかせていた米英蘭人なので、彼らに

対する覚悟は相当強固でなければならない。

せっかく戦闘に勝ちながらも、戦後の経営に欠陥を生じさせてはならない。彼らは物資的には

一部立派なように見える点があるが、すべて個人主義と物質主義にだけ偏り、精神的陶冶が希薄
で、今回戦争で惨敗したのは当然と言えよう。なのでわれわれは新秩序建設上、彼らの欧米思想
を絶対に排撃しなければならない。したがってわれわれは精神的に優秀な国民として、彼らを立
派に指導し圧伏して行く抱負を持たねばならない。だから監視要員の人選に関しては、まずこの
覚悟がなければならないので、この点に重点を置き、その他の条件を考慮し、厳格にするように
要求したいと思う。現在20歳から大体35歳までの男子で、小学校(国民学校)を卒業した程度以
上の青年を主にしたい。これは少なくとも日本人としての儀礼も学び、言語もよく通じ、米英人
などの侮蔑を受けてはならないだろう。採用者は軍属として待遇し、外地に行く時は出発手当を
支給して、その他すべて軍属としての恩典を完全に受けるだろう。

ところで初任給は大体一律で同じだが、その能力に応じて逐次昇給する。また衣食住の点は安

心してもよく、期間は約2年と予定されている。また家庭を持つ者は、充分心配ないようにしてい

るのは勿論である。以上の各条件をよく考え、奮然と応募することを願い、特に特別志願兵を志

望したが採用されない者や、将来の飛躍を期して欧米人を研究しようとする熱意を持つ青年は、
絶好なこの機会なので、この機会を逃さないよう希望するものである。

○「皇民の感激を誇る、出よ捕虜監視員。府内居住者は府社会課で受付」、『毎日新

報』、1942.5.24 2面。

度重なる栄誉の一つとして、半島人青年男児を軍属として採用し、南方の共栄圏建設に協力す

る「崇高な道」を開くという当局の発表があるや、街ごと職場ごと若い半島青年の胸は今一度勇

躍しているが、京城府社会課でも一般にこの趣旨を徹底し、優秀な青年をここに動員させるよう
直ちに、府内各町総代に通牒を廻した。

このようなことは町の総代または事業主だけによるものではなく、本人の希望に沿って、その

経歴、思想、体格など、色々条件を備えたところで選抜し採用するものなので、府内居住の希望
者は京城府社会課国民登録係(前朝鮮日報社屋内)に直接申請するようになっている。

軍属になる申請資格は、学歴は国民学校卒業以上、年令20歳から大体35歳未満の男子で、学

歴は専門大学出身でもよく、これに関する詳しいことは、府社会課の国民登録係を訪ねて問い合
わせれば説明してくれるようになっている。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

66 

○「栄誉の俘虜監視員、受付初日に志願者多数で締め切り」、『毎日新報』、

1942.5.26 2面。

栄誉な「軍属の道」はやはり、半島青年男児が平素胸の中に抱いていた望みだった。軍属志望

者の申請受付開始初日の25日朝、意気凛々しい壮丁が京城府社会課に殺到し、自分も軍属にな

り、「捕□□(虜の)米英人の監視役を担います」と、軍属志願手続を行った。この日の朝、府社会

課では、府民館の中講堂に彼らを迎え、係員が席を共にした後、一人ずつ学歴をはじめこの間の
経歴、家庭状況などを詳細に尋ね、志願書類に記入した。彼ら多数の志願者の中には、専門学
校卒業者も多数おり、係員たちの感激もひとしおだ。この日の午後2時まで予想外に志願者が多

く、これで受付を締め切るほかなくなった。別に身体検査の日を指定し、志願者の身体を検査す

ると同時に、色々な方法で慎重な選考をすることになった。

○「厳格な審査後採用。京畿道で監視員斡旋を協議」、『毎日新報』、1942.5.26 2面。

大東亜戦争の輝かしい戦果により、南方各地に収容中の米英人捕虜を指導監視する光栄な職

務に従事するため、半島の中堅青年数千人を特に軍属として採用し、現地に送るようになったと
いう当局の発表は、徴兵制度の実施によって感激が高潮した半島青年を、再び感激の波に包み
込んだ。ところでこの指導監視員の資格は

(1) 年令20歳以上から35歳までの男子であること
(2) 身体剛健で伝染性疾病がないこと
(3) できるだけ国民学校4学年修了以上で、国語(日本語)で日常会話ができ、身元が確実なこと
(4) 在郷軍人(昭和13年度徴集の現役兵として、本年除隊した者を除く)と、今年度陸軍特別志

願兵の第1次検査に合格した者でないこと。

などで、大体定員の約2倍程度を想定し、厳格な審査を経てはじめて採用するはずだ。そして

この指導監視員の募集方法は、京城府においては (イ) 連盟を通じて適格者を選定、応募させ、
(ロ) 青壮年国民登録によって推薦することになり、それ以外の各府郡ではそれぞれ所属連盟を

通じて募集推薦することになった。そうして正式採用が決定した者は、約二ヵ月間の訓練を徹底
的に実施して、皇国臣民としての軍務に従事する名誉を胸深く刻ませ、現地に勇躍出発させる。

ところで京畿道でも、この指導監視員の募集が○○人の多数であることに照らし、その募集の公

正とその他一般対策の徹底を図るために、この25日午前9時半から道庁第2会議室で、京城、開
城をはじめ高陽、始興、各郡の内務課長を招集し、野田道社会課長を総裁に「捕虜指導監視員
斡旋協議会」を開催し、これらの指導監視員斡旋の具体的方法と、その他一般問題について協
議した。

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付録-1  捕虜監視員動員関連の新聞資料集

67 

○「半島人に賦与された特典と知るべし。上村俘虜情報局長官 激励の弁」、『毎日新

報』、1942.5.26 3面。

[東京支社電話] 待望の徴兵制実施の喜びに続いて、今回半島青年を光栄な軍属に採用し、各

地に収容中の米英人捕虜の監視人として、遥か遠い南方に送るようになったことは、これまた耐
えるに耐え難い大きな感激で、半島青年を包み込むものだった。輝かしい戦果を収めた中で、半
島青年が現地で皇国臣民として堂々と英米人を指導するようになったことは、半島青年の光栄で
あるのみならず、これは共栄圏建設に大きな使命を尽くすもので、徴兵制実施を前にした今日、
その意義が非常に大きいものである。この光栄な軍属としての採用に対して、特に軍当局の深い
理解と英断により、半島青年の資質と皇国臣民としてこの間の奉公が認められたもので、この機
会に半島青年も遂に凛々しい気迫を発揮しながら、皇国のために殉忠の赤誠を捧げるようになる

ものである。ところでこの捕虜監視人の採用に関し、直接関係がある俘虜情報局長官上村幹男中

将を情報局に訪問して、次のような軍属志願の青年に与える激励の言葉を聞いた。

「半島青年に対し、昭和19年度から徴兵制度を実施するようになったのは、この間陸軍特別志

願兵の成績が非常に良かったことと、皇国臣民として皇民化運動が徹底した結果と考えてもよい
だろう。私はこの間、朝鮮でも勤務したことがあるので、半島青年の立派な気質もよく知ってい

る。ところで今回の徴兵制の実施に先立ち、皇軍の一方の翼として若い情熱を傾けて奉公できる
ようになったことは、真に半島の名誉にほかならない。

今回は特に一定の訓練を終え軍隊の組織として現地に派遣されることは勿論だが、指揮官の

地位で堂々と働けるようになったのだから、半島青年に与えられた大きな特典と考え、思いきり
働いてくれることを願う。とにかく半島の志願兵制度の成績が良かったこと、その他銃後の奉公
に現れた皇国臣民としての適性は、統治当局の指導が良かったし、半島人自身の自覚によって、
徴兵制の実施と今回の軍属採用など、続く奉公の機会を持つようになったので、南方建設の知識
を得ると同時に大きく学び大きく働き、皇軍の一翼としての光栄を尽くしてくれることを願う。」

と語る将軍の顔は慈愛なことこの上ない軍国の父として、良い印象を与えた。さらに同将軍

は、機会があれば来たる7月頃志願して来た青年を激励するため、朝鮮を訪問するかもしれない

という話だった。

○「米英人俘虜監視員応募の資格と手続、総督府情報課で具体的内容を発表」、『毎

日新報』、1942.5.28 3面。

米国英国人捕虜の監視に従事する陸軍の要員として、半島青年を採用することが発表される

や、直接大東亜戦争の完遂の一翼に参画し、光栄の責務を分かち担うという感激に喜び跳ねる、
青年たちの志望の列が今まさに高潮しているが、応募者の資格は至誠奉公に高ぶる気概を持つ

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

68 

青年で、前回志願兵に志望して落ちた人は、今回志望する良い機会だろう。そして応募に対して
手続その他の質疑は全部、近くの府庁、郡庁に聞けばよく、この応募資格について27日、総督府
情報課では次のように発表した。

(1) 年令は20歳以上大体35歳まで
(2) 身体が丈夫で特に伝染病がなく、勤務に耐えられる人
(3) 国語は日常会話が困難でない程度は習得していなければならず、大体国民学校4年生以上

修了した在郷軍人や本年度志願兵の第一次検査の合格者でない人

○「誠意だけは感謝するが、手続は府郡でせよ、捕虜監視員殺到と軍報道部長談」、

『毎日新報』、1942.5.29 3面。

大東亜戦争下、南方戦線で無敵皇軍の捕虜になった米英蘭人を監視するのに、半島青年を陸

軍軍属に採用し、聖戦完遂の一翼として参画させるという快報が一度伝わるや、くり返す光栄に
感激した半島青年は先を争い、われもわれもと捕虜監視要員になるのを志望しているが、最近朝
鮮軍報道部長宛には熱誠あふれる採用手続に関する問い合わせが、もう数百通に達し関係者を
感激させているが、これに対し軍としてはどうしようもないので、一般志望者は詳しいことを府
郡庁に問い合わせるよう28日、倉茂朝鮮軍報道部長は次のように語った。

捕虜監視要員を募集する発表があった後、連日採用手続に関する問い合わせが全朝鮮津々浦

々から殺到し、幾らか感激しているところだが、これに対して軍としてはどうしようもない。すで
に総督府で各道に命じて募集しているところなので、詳しいことについては府郡庁に問い合わせ
なくてはならない。志望する人はこの点について特に注意してくれるよう願う。

○「俘虜監視員に血書志願殺到」、『毎日新報』、1942.5.29 3面。

大東亜戦完遂の一翼に参加する「栄誉の軍属」になろうと、府内居住青年男児の胸は非常に激

動し、府社会課国民登録係(前朝鮮日報社屋内)の窓口は連日、志願者で混雑を起こしている状態
だ。28日正午現在、志願者総数は京城府内の募集予定人員の約10倍に達し、大体来る30日(土曜

日)で締め切り、6月初めには慎重な選考を行うはずだが、彼らの中には今回募集する米英人捕虜

監視員に必ず一旗絡み軍国男児として進む道を開いて欲しいと、血書で志願して来た熱血青年

も続々登場している。血書の内容を見ると「一死奉公」、または「滅私奉公で君国に報おうと思

います」という憂国の一節一節に、願書を整理する係員も感激でむせび返っている。志願者の身
体検査その他選考日時は30日までに決定し、直ちに府社会課から直接本人に通知することにな
った。

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付録-1  捕虜監視員動員関連の新聞資料集

69 

○「米英俘虜監視員、来月5日までに延白でも採用」、『毎日新報』、1942.5.30 4面。

[延白]朝鮮人徴兵制度実施に関する公告があるが、今回また半島青年を一線の将兵の助長機関

として、米英俘虜の監視員を軍属として募集することになったが、延白郡内では来たる6月5日午

前9時延白郡庁内で、年令20歳以上35歳未満の身体剛健で伝染性疾患がなく、至誠奉公の決意
が堅固な青年で、程度は国民学校4年以上の学歴があって日常会話に支障がない者で、選考試験
を行った後採用するとして、希望者は各邑面郡に問い合わせてくれるよう願うという。

○「光栄に殉死の決意、専門出身も殺到。感激の捕虜監視員考査」、『毎日新報』、

1942.6.2 2面。

大東亜戦争下、戦線の各地で皇軍は輝かしい武勲を立てているこの時、半島青年に米英人捕

虜を監視する「栄誉の軍属の道」が開かれ、去る25日軍属志望者の願書を受け付けることにし、
京城府社会課で軍属支援手続を担当したところ、「私も軍属になって米英人捕虜を監視し、国家

に報います!」と、予想外に数多くの希望者を見るようになった。それで府社会課では彼らの志望

者を再び慎重に再考査することにし、今日1日京城府  庁会議室で朝11時から1時間、午後1
時から約1時間にかけ、市木社会課長以下関係員が列席した中、防護係長藤原大佐が試験官に
なり、体操、体格など人物考査をし、簡単な筆記試験をした。

彼らの志願者の中には中等学校は勿論、専門学校卒業者も集まり、しかも沸き立つ愛国の赤誠

を血書で書いて、帝国の軍属として尽忠報国しますという決意を披瀝し関係員を感激させたが、

この2次試験に合格した人は、明日2日午前8時に発表し、再び3次で体力、口頭試験をし、採用

することになった。

○「捕虜監視員志願者殺到」、『毎日新報』、1942.6.5 4面

[江原支社発]大東亜戦争下、南方戦線で無敵の皇軍の捕虜となった米、英、蘭人を監視するの

に半島青年を陸軍軍属として採用し、聖戦完遂の一翼として参画させるという快報が一度伝え
られると、くり返す光栄に感激した半島青年たちは、先を争ってわれもわれもと捕虜監視要員に
なることを志望しているが、江原道にはすでに募集定員の倍になる志願者がおり、江原青年の愛
国の至誠を遺憾なく表現しているという。今回の捕虜監視要員の募集は地域を制限されていて、
江原道でも春川、楊口、洪川、原州、横城、金化からだけ選ぶことになったが、6月5日までの採
用締切を控えて志願者が多かった。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

70 

○「俘虜監視員に中学校教員も」、『毎日新報』、1942.6.7 4面。

(開城)米英人捕虜を監視する栄誉の軍属を募集するという発表があった後、開城府庁内務課に

は燃えるような情熱に血が沸く若い青年の志願者数が230人に達したが、この中には府内のソン

ド中学校の体操の先生である金根明氏をはじめ、大学専門学校出身が13人に、中等学校卒業者

が20人余りに達した。府内務課ではこれらの志願者230人を、去る1日に府の会議室で体力検査

と口頭審問をし、厳選した結果、合格者を3日正式発表したが、来たる12日に開城神社に一同が

参拝奉告し、訓練地に発つという。

○「半島青年の意気盛ん。今日、南方へ行く俘虜監視員の壮行会」、『毎日新報』、

1942.6.10 2面。

光栄の軍属として採用され、数多い捕虜の指導監視に、燃える殉国の至誠を捧げようと、勇躍

南の場に離れる「捕虜監視員」の壮行会が、この9日に開かれた。昨年12月8日米英撃滅戦が始
まってから6カ月で、既に敵国の捕虜は34万の多数に達し、彼らを指導監視して皇国の大理想を
理解させ、大東亜共栄圏建設に彼らに協力させる、重大でかつ聖なる任務を両肩に背負った捕
虜監視員たちは、この日午後2時、定刻に総督府東側の広場に、国防色の制服で意気凛凛と整列

した。20歳余りの青年たちの中には、40の峠を越えるような壮年も混ざり、皆天を突き刺すよう

な元気と尽忠報国に燃える気迫が、南方に離れる喜びとともに凝固している。石田厚生局長、倉
茂兵務部長、高107)京畿道知事、古市京城府尹(翻訳者注=府尹は市長と同等)をはじめ、軍、
官、民5百余人が参加した中で、定刻2時から式は始まった。国民儀礼に続き、高京畿道知事は
響きわたる声で彼らの行く道を祝福し、彼らの責任が重大であることを火を吐くような語調で激
励した後、石田厚生局長と倉茂兵務部長はそれぞれ10分余り

「捕虜監視員の責任は、直接銃刀を持って第一線で敵軍撃滅に突進する皇軍将兵とその責任

において、またはその任務の重大さにおいて少しも違いがないので、諸君はこの光栄と感激を深

く胸に刻み、大東亜戦争完遂の挺身部隊となって重大責任を完遂してくれることを願う。」

という祝辞を言った。これに対し同監視隊員代表は、

「必死の決意を持って、重大責任を完遂する」

と、感激に震える声で誓った後、万歳三唱でひとまず式を終えた後、すぐに続けて高知事の査

閲下に足取りも堂々と地軸を響かせ、壮烈な分列式を挙行し、同3時頃盛大に式は終えた。

ところで今回の壮行会は京城府と高陽、始興の両郡関係の監視員で、明日10日には開城郡から

選抜される監視員の壮行会が、開城神社で挙行される予定だ。

107) 高安彦(1896~ )山口県出身

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付録-1  捕虜監視員動員関連の新聞資料集

71 

○「名誉の俘虜監視員、今日明日中に各道の選考を完了」、『毎日新報』、1942.6.10 3面。

2年後には徴兵制度を実施し、半島青年に国防の第一線の責任を分担させる光栄を身に着せる

公布があって数日もたたずに、先月20日には再び、皇軍の輝かしい戦果によって捕虜となった米
国と英国兵の監視員として、朝鮮青年を軍属として採用任命するという発表に、半島青年の感激
は絶頂に達し、各道全ての応募者は募集定員の数倍ないし10余倍を超過する状況を成した。各
道ではすぐ厳密な選考を始め、一両日中には大体終わるが、京畿道では9日に壮行会まで開催し
た。選考に合格した者は、各道ですべて13日までに軍部に引渡し、軍当局で今後二ヵ月間正規の
訓練をした後、一部は朝鮮内に、一部は南方各地に派遣することになったので、半島青年が驕慢
無双な米英人捕虜を監視指導し、世界で類がない皇国精神を体得させる、栄誉に輝く任務に一
身を捧げる日も遠くない。ここに徴兵制度の試金石となる彼らの捕虜監視員の活動に対し、半島
社会の期待するところは真に大きい。

○「名誉の俘虜監視員」、『毎日新報』、1942.6.11 4面。

[横城(フェンソン)]無敵皇軍の輝かしい戦果で俘虜になり、各地で収容されている傲慢不遜

だった米英人を監視し指導する名誉の職務、すなわち敵兵俘虜監視の陸軍要員採用に当たり、
志願熱は半島で日ごとに高まっているが、横城でも今回15人を採用するようになったのだが、志
願者が日増しに殺到し、151人という多数に達したので、各面で選抜し、その内優秀な者を6月4

日午前9時から横城警察署の演武場で金村郡守、中野署長、平川郡守、森部長、井上公医臨席の

下に、体格検査から学術口頭試問に至るまで、極めて厳密な選考を行った。

[安養]度重なる栄誉の一つとして、半島人青年男児を軍属として採用し、南方共栄圏建設に協

力する「崇高な道」を開いてくれるという当局の発表があるや、始興郡内務課には燃えるような
情熱で「私も軍属になり、国家に報います」と殺到した血沸く若い青年の志願者数が、50人に達

した。そうして軍当局では去る1日に、安養公会堂で体格検事と口頭試験をした。

[沙里院]鳳山郡内の俘虜監視員希望者の選抜は6日、郡会議室で開催した。伊藤社会課臨席の

下、柚木郡守、警察当局者立会いの下で厳選した結果、希望者32人の中から栄誉の合格者を発
表した。

○「俘虜監視員を血書で自願した青年」、『毎日新報』、1942.6.12 4面。

[洪川]洪川郡では捕虜監視員志望者の採用考査試験を、去る4日午前8時から郡会議室で作文

考査を実行し、警察署演武場で体操と金山公医の厳密な身体検査があった後、松山郡守、成見
警察部長の口頭試問があった。この日に集まった志望者は全部で35人だったが、その中で南面
に暮らす徳山栄吉君は血書志願をした。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

72 

○「見事だ、半島の皇国青年。栄誉の責務を尽くせ。今日、俘虜監視員たちの壮行

会」、『毎日新報』、1942.6.13 2面。

栄誉の捕虜兵監視員に選抜された京城部隊は、重大な任務を胸に刻み込み、彼らが南方建設

の皇軍たちの一翼になるために、京城府では彼ら○○人を午後2時から府会議室に集め、感激に
満ちた壮行会を開いた。会場内は、りりしく勇敢な監視部隊の意気で満ち溢れた。式順によりま
ず敬虔に国民儀礼を終え、古市京城府尹から

「軍運を賭して大東亜戦完遂に邁進するこの時、有為な半島青年が米英人捕虜兵の監視員に

採用され、険しい地に派遣されたことは、わが国のために光栄なことだ。諸君は10倍の志願者の
中から選抜された。半島青年の光栄と皇国の名誉をいつも肝に銘じ、監視に遺憾が無いように

し、半島青年の面目をもう一度発揮することを願う」

という激励の訓辞があった。続いて監視京城部隊を代表して柳鉉泳君が

「府尹をはじめ諸先輩の懇切な激励に、衷心から感謝申し上げます。皇国の名誉を常に念頭に

置き、任務に忠実であることで職責を尽くそうと思います。」

固い決心で答辞を言った後、一同が皇国臣民の誓詞を暗誦し、聖寿万歳を奉唱した後、式を

終えた。

○「知人たち、感激の激励。一同は光栄の活動を約束」、『毎日新報』、1942.6.13 2面。

壮行会場である府会議室の扉の前には、彼らの健康と活躍を祝う家族と知人が陣を張る、感

激に満ちた光景を成した。

「兄さん、家のことをお願いします。現地に行ったら半島の青年として、わが家の家門を汚さ

ないよう奮闘努力します」

寄せ書きをやり取りする。かと思えば相次いで歯磨きの袋を包んで、鞄に入れてくれる友もい

る。皆感激と感動に満ちた場面だった。

日本精神で指導。林川龍植君談

光栄の軍属として後日南方に行って活躍する監視員の合格者の内、「ハヤシカワ・リュウショ

ク」君を捕えて感想を尋ねると、次のように元気に語る。

「過去に横暴無道だった英米人を、私の目の下に跪かせることになるのだから、帝国の青年と

して痛快なことこの上ありません。私は何より彼らに私たちの日本精神を入れてやり、わが国の

強さを認識させて反省させる一方、過去の文化程度が高いと傲慢な偽った考えを直してやり、皇
国精神を徹底的に悟らせようと思います。

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付録-1  捕虜監視員動員関連の新聞資料集

73 

○「俘虜監視員壮行会。11日、春川で盛大に挙行」、『毎日新報』、1942.6.14 4面。

[江原支社発]数多くの志願者の中から厳選を繰り返して選抜された、春川出身の米英兵俘虜監

視員たちの壮行会は11日午後5時半から、春川郡庁の会議室で行われた。道から井上社会課長を
はじめ飯島春川署長など、官民有志が多数参加した中、国民儀礼から始まり、小幡春川郡守から
一同を激励する開会辞があった後、飯島春川署長、井上社会課長から、皇国臣民ということを少

しの間でも忘れず、皇軍将兵に恥じることがないように、任された任務を完遂してくれることを

願うという、丁重な壮行の辞があった後、式を終えた。

○「俘虜虜監視員壮行会」、『毎日新報』、1942.6.17 4面。

[安養]光栄の軍属として採用され、数多くの俘虜たちの指導監視に、燃える殉国の至誠を捧げ

ようと、勇躍目的地に離れる安養面出身の「俘虜監視員」の壮行会が、去る12日午前9時から安

養駅前広場で開催された。この日の会場には伊藤道議員をはじめ岡田安養面長など、官民の有
志多数が参列した中、国民儀礼に続き、岡田面長から一同を激励する壮行の辞があり、伊藤道議
員、兼頭巡査部長、安江正三氏から祝辞があった後、同監視隊員代表の答辞があり、一同の皇国

臣民の誓詞の斉唱が終わった後、万歳の奉唱で盛大に式を終えた。

○「俘虜監視員の壮行会を開催」、『毎日新報』1942.6.19 4面。

[南川]俘虜監視員の選考試験を平山郡で施行したことは既報のとおりだが、応募者の資格試験

に合格した者は本月12日午前8時30分、南川神明神祠で厳粛に壮行会を開き、徳原平山郡守、
兎耳山南川警察署長、その他地方の官民有志多数が列席して盛大に開催し、続いて任地出発の
奉告祭を挙行した後、徳原平山郡守、兎耳山署長らの訓示があった後、散会。

○「奉公を控えて猛訓練。栄誉の責務受持つ俘虜監視員の近況」、『毎日新報』、

1942.6.20 3面。

徴兵制度の試金石になる米英人捕虜監視員に、半島青年を採用するということが発表される

や、国防に劣らない重責に感激した青年は勿論、知識層にも大きな反響を与え、このように名誉
ある職務に一身を捧げようと、希望者は各道すべてで予定人員の5倍を突破し、その中には血書
志願も多くおり、当局を感激させた。各道では慎重に選考し、真に優秀な青年を選んで軍に送っ
たのだが、軍で厳密な身体検査をした結果、合格者は道から送った数の9割9分だという、良い
成績だった。採用された人は皆体が丈夫で意気旺盛な青年たちで、今軍で猛訓練を受けている
が、二ヵ月間の訓練を終えて、重大な任務を引き受けてみる日も遠くない。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

74 

○「俘虜傷病者に恩典。軍司令官布告に、比島の官民感謝」、『毎日新報』、1942.6.23 1

面。

[馬尼刺(マニラ)22日発 同盟] 大日本軍司令官は22日、次のような布告をし、フィリピン

人捕虜中の傷病者で、帰郷療養が適当と認める者に対し、仮釈放をすることになったが、わが皇
軍の理解深い処置に対し、比島の官民は心から感謝の意を表している。(省略)

○「蘭貢(ラングーン)市街を掃除する英俘虜たち」、『毎日新報』、1942.6.26 3面。

美しい「ラングーン」の街を焦土とし、「ビルマ」の人々の崇敬してやまない「シュ・-エダゴン

パゴダ」まで泥足で踏みにじった、傲慢だった英国の兵丁が、その時とは違い可哀想な捕虜にな

り、彼らが破壊した「ラングーン」の街を自分たちの手で清掃している。そんなせいであたかも

牛や豚のように虐待を受けていた「ビルマ」の人とインド人たちは、道行く足を止めて、あまり
にも厳格なこの運命の神の審判を眺めながら、限りない感慨を感じている。これが最近の「ラン

グーン」の風景だ。

○「光栄の俘虜監視員、西北鮮四道でも選考、『毎日新報』、1942.7.5 2面

国防の重責を分担する栄誉の徴兵制実施の発表があり、全半島が感激した歓喜、その絶頂に

達している時に、またもや政府では米英人俘虜を監視する重責を半島青年にも分担させること
になり、前回数千人が軍属として採用された。ところで今回再び半島青年を監視員として採用す

ることになり、4日総督府情報課でその内容を発表した。これは度重なる半島青年の光栄であり

感激で、青年は言うまでもなく全半島の民衆が一層銃後に至誠を捧げ、宏大無変であられる皇
恩に報い奉るようにしなければならないのである。発表内容は次の通りだ。

情報課発表 前回陸軍の要求により、米英人の俘虜の監視に従事させようと、半島の有為な

青年数千人を軍属で採用し、一般に大きな感激的な衝動を起こした。今回もう一度若干人を採
用することになった。今回は前回募集する時に、光栄の恩沢を受けられなかった平安南北道と咸
鏡南北道の4道から選考することになった。

○ 「俘虜監視員、咸北で栄誉の選考」、『毎日新報』、1942.7.8 2面。

[咸北支社発電]今回咸北の青年たちにも捕虜監視員の新しい使命が負荷され、130万道民が無

上の光栄に感激しているが、その第1次選考は9日に府郡で施行され、第2次選考は11日に道庁
で施行することになった。

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付録-1  捕虜監視員動員関連の新聞資料集

75 

○ 「俘虜収容所増設。朝鮮等7個所に新設」、『毎日新報』、1942.8.23 1面。

[東京電話]大東亜戦争において敵国俘虜の取り扱いに関しては、前回俘虜情報局が設置される

と同時に善通寺俘虜収容所が開設され、その後上海、香港を加えて、現在3収容所が正式に業

務を行っているが、今回再び朝鮮など7カ所に俘虜収容所が正式に増設され、所長を任命し、そ
れぞれ業務を開始したと、22日に陸軍省から次のように発表された。

陸軍省発表(8月22日)

今回次のように正式に俘虜収容所を開設し、それぞれ業務を開始した。朝鮮俘虜収容所(所

長、陸軍大佐野口譲)、

台湾俘虜収容所(所長、陸軍大佐中野準一)、

タイ108)俘虜収容所(所長、陸軍少将佐佐誠)、
マレー109)俘虜収容所(所長、陸軍少将服栄真平)、

比島俘虜収容所(所長、陸軍少将森本伊市郎)、
ジャワ110)俘虜収容所(所長、陸軍少将佐藤正鋭)、
ボルネオ俘虜収容所(所長、陸軍少佐管辰次)

○ 「俘虜30万突破。大東亜戦以来の戦果」、『毎日新報』、1943.2.4 2面。

[東京電話]大東亜戦争以後、俘虜は莫大な数に上ぼるが、その内容に関して2日貴族院兵役法

改正委員会で、大山陸軍省法務局長からその数は30万に達し、また支那事変における俘虜の取

り締まりは、統帥権による軍律によって取り扱われていると明示された。質疑応答の内容は次の

通りだ。

- 伊東二郎丸氏(研究):明治38年法律第38号の改正法律案における、俘虜の解釈はどうなの

か。支那事変のような場合にも俘虜なのか。

- 大山陸軍省法務局長:俘虜は学説の慣例上、規定によれば戦争で戦闘、または非戦闘員にそ

の自由を束縛されている状態にあることを言うことだ。支那事変のことは本案の俘虜では
なく、その取り締まりも統帥権による軍律によってするものだ。

- 坂西八郎(研究):大東亜戦争以来の俘虜の概略の状況はどうか。
- 大山法務局長:俘虜は約30万なのだが、その内白人は11万 8千人で、英、米、蘭、豪と「カナ

108) タイ
109) マレーシア
110) ジャワ

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

76 

ダ」が含まれている。その大部分は戦地にいるが、一部は内地、朝鮮、台湾に収容してい
る。戦争勃発以来、今年1月20日までに軍法会議に送ったものは99人だ。

○「国際赤十字委員。台湾俘虜収容所を視察」、『毎日新報』、1943.6.1 2面。

[台北電話]大東亜戦争以来、相次ぐ皇軍の戦果により、「マレー」、「比島」、「蘭印」などで

捕虜となり、今台湾でわが皇軍の温かい待遇を受けている「パーシバル」、「ウェインライト」、

「スタルケンボルク」以下、米英蘭豪の俘虜は皇軍の保護を受けて幸福な生活をしているが、赤

十字国際委員会の駐日代表「トクトリエフ パラウイチン」(瑞西111))人)氏と日本赤十字社外事課
長の渥米鉄三氏は、台湾俘虜収容所にいる俘虜の生活を実地視察しようと、28日飛行機で台湾
に来て、直ちに台湾軍司令部、台湾総督府、日本赤十字社台湾支部を訪問し、安藤軍司令官の
招待会に行き、宿舎の台北鉄道ホテルに入った。一行は29日から15日間で、全台湾の各俘虜収
容所を詳しく視察した後、6月13日に台湾を出発する予定だ。

○「我国の俘虜の正遇を赤十字機関紙が讃揚」、『毎日新報』、1944.2.9 2面。

[東京電話]ジュネーブ部に本部を置く万国赤十字社は、その機関「万国赤十字レビュー」紙の

1月号に、同赤十字社代表の日本の俘虜収容所視察報告を掲載したが、同代表が訪問した収容所

の状態はすべて満足するべきものだったことを強調し、また代表団に対する日本の官憲の丁重
な態度と、その俘虜の生活状態改善に努力していることを力説している。同代表の一人であるイ
ーグル氏は昨年12月3日上海の俘虜収容所を訪問し、数人の俘虜と「個人的な懇談」をしたのだ
が、その時同氏はほとんどの俘虜がその生活状態と待遇に感謝している、という証言を得たと報
告している。また11月13日米兵と豪州兵を収容している奉天の収容所を訪問したマックス・フェ
ストローチ氏は、その衛生施設に対して「極めて満足すべきもの」と言い、また収容所の官憲は

「俘虜の□□に関してできる一切」を行っていると報告した。次に11月15日朝鮮の収容所を視察

した同氏は、「一般的印象は極めて快適で、俘虜と収容所の官憲との間は満足するようになって

いる」と報告し、日本政府の俘虜厚遇と収容所官憲の理解ある態度を称賛している。

○「赤十字国際委員、俘虜収容所を視察」、『毎日新報』、1944.12.1 2面。

赤十字国際委員会では駐日代表イリッチ アングスト氏を今回朝鮮に派遣し、俘虜収容所と敵

国人抑留所を視察することになり、○○日に○○に到着する。一行は日本赤十字本部の渥米氏、
外務省の原事務官、総督府の山田通訳官、赤十字社朝鮮部の石田主幹、朝鮮軍の岡田通訳官、

111) スイス

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付録-1  捕虜監視員動員関連の新聞資料集

77 

畑中尉、野口俘虜収容所将校など13人だが、府尹招待の午餐会に参加した後、午後○○俘虜収
容所を視察することになった。

○「前、捕虜監視員朝鮮人5人死刑」、『自由新聞』、1946.8.27 2面。

シンガポールの報道によれば、日本軍の捕虜になっていた豪州兵を監視していた朝鮮人5人と

日本人の捕虜監視員5人に対して死刑宣告があったという。彼らは戦争中、連合軍捕虜に対して

暴悪行為を加えたとして、連合軍軍事裁判法廷で有罪判決を受けたものだ。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

78 

付録-2 

 

東南アジア各地の連合軍捕虜収容所の現況

1. タイ捕虜収容所

名称

所在地

1942

1943

1944

1945

本所

バンコク

8月 開設

5月

カンチャナプリ移動

11月 タモン移転

3月

バンコク 移転

8月 閉鎖

第1分所

ウボン

1月 開設

第6分所キンサイヨク

3月 ヒタダイ移転

第1分所改称

2月 ウボン移転

8月 閉鎖

第2分所

チョンカイ

8月 開設

3月 タカタン移転

3月

チョンカイ移転

8月

タマカム移転

1月 

トンカイ移転

8月 閉鎖

第3分所

タンヒジャヤ

8月 開設

9月 ケジャリ移転

1月

アンガナン移転

4月

タマカム移転

8月 閉鎖

第4分所

ワンヤイ

10月 開設

5月

タモアン移転

8月 閉鎖

第5分所

タンヒジャヤ

1月 開設タンヒジャヤ

4月 アパロン移転

10月 キント移転

12月 閉鎖

第7分所

3月 第3分遣所

9月 7分所改称

8月閉鎖

第8分所

サイゴン

9月

第1分遣所

9月 第8分所改称

8月閉鎖

第9分所

ベツブリ

2月 開設

8月閉鎖

第10分所

リエンカン

2月 開設

5月 ロンタン移転

8月閉鎖

本所 

総派遣所

ノンプラドック

7月開設

第1分所

5月

カンチャナブリ移転

11月 改組

3月 移管

第3分遣所

8月閉鎖

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付録-2  東南アジア各地の連合軍捕虜収容所の現況

79 

名称

所在地

1942

1943

1944

1945

第2分遣所

ハノイ

9月 開設

11月 閉鎖

第2分遣所

ランプオン

3月 開設 ペンハン

7月

ランプオン移管

8月閉鎖

第4分遣所

タンヒジャヤ

3月開設

9月閉鎖

第5分遣所

アパロン

第1分所併合

第6分遣所

アパロン

第1分所併合

第5分遣所

ナコンヨーク

3月 開,8月 閉

第6分遣所

バンコク

6月 開,8月 閉

カンチャナ

ブリ病室

12月 開設

3月 閉鎖

ナコンパト

ン病室

12月 開設

8月 閉鎖

バンコクイ

ンド人

特殊労務隊

収容所

1月 開設

10月 閉鎖

バンコクイ

ンド人

特殊労務隊

収容所

3月 開設

8月 閉鎖

トムアン

特殊労務隊

収容所

3月 開設

8月 閉鎖

河内

特殊労務隊

収容所

3月 開設

8月 閉鎖

河内

特殊労務隊

収容所

3月 開設

西頁

特殊労務隊

収容所

6月 開設

8月 閉鎖

チュラン

特殊労務隊

収容所

6月 開設

8月 閉鎖

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

80 

2.マレーシア捕虜収容所

名称

所在地

1942

1943

1944

1945

本所

チャンイ

8月 開設

8月 閉鎖

第1分遣所

チャンイ

11月 開設

8月 閉鎖

第2分遣所

ポトゥディクスン

1月 本所分遣隊開設

10月 第5分遣所改称

9月 第2分遣所改称 8月 閉鎖

第1分所(白人)

パカンバル

8月 メダン

第1分遣所開設

6月 パカンバル移転

8月 閉鎖

第2分所(白人)

パレンバン

8月 開設

8月 閉鎖

第3分所

昭南ヨジュガン路 12月 開設(インド人)

8月 閉鎖

第4分所

タイ ニケ

4月 開設

タムロンバトゥ

7月 ニケ移転

12月 閉鎖

第5分所

タイ 

カンチャナブリ

5月 開設

キンサヨク

9月

カンチャナブリ移転

12月 閉鎖

第6分所

3月開設 第6分所 

7月改称

4月 解放

第1分遣所

クアラルンプル

8月 開設

10月 閉鎖

第2分遣所

昭南アルカラ路

8月 開設(白人)

12月(インド人)

4月 閉鎖

第3分所統合

第3分遣所

昭南リババレ路

8月 開設(白人)

12月(インド人)

4月 閉鎖

8月 閉鎖

昭南部隊派遣

9月 開設(白人)

8月 閉鎖

昭南部隊派遣

12月 開設(インド人)

8月 閉鎖

馬來部隊派遣

1月 開設(インド人)

8月 閉鎖

スマトラ部隊派遣

1月 開設(インド人)

8月 閉鎖

タイ部隊派遣

6月 開設(白人)

3月 閉鎖

ミヤンマ部隊派遣

7月 開設  10月 閉鎖

昭南派遣隊

4月 開設

(白人)

昭南派遣隊

4月 開設

(インド人)

昭南

ファンジャ収容所

4月開設

8月 閉鎖

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付録-2  東南アジア各地の連合軍捕虜収容所の現況

81 

3.ジャワ俘虜収容所

名称

所在地

1942

1943

1944

1945

本所

ジャカルタ

8月 開設

8月 閉鎖

第1分所

バンドン

8月 開設

8月 閉鎖

第2分所

チラチャップ

8月 開設

2月 閉鎖

第3分所

スラバヤ

8月 開設

4月 閉鎖

第4分所

マラン

8月 開設

2月 閉鎖

第3分所派遣所

アンボイナ

4月 開設

11月 閉鎖

第2分所派遣所

スマトラ

5月 開設  6月 閉鎖

4.ボルネオ俘虜収容所112) 113)

名称

所在地

1942

1943

1944

1945

本所

ミリ,クチン

8月 開設

不明

第1分遣所

クチン

8月 開設

不明

第2分遣所

ラナウ

2月 開設,不明

第1派遣所

ブルネイ

6月 開設

ラブアン第2分遣所

2月 改組

 第2派遣所

第1本所

サンダカン

8月 開設

不明

第2分遣所

セリア

8月 開設

1月 閉鎖

第3分遣所

ポアク

11月 開設

8月 閉鎖

第4分遣所

セッセルトン 10月 開設

4月 閉鎖

ルトン インド人

特殊労務隊収容所

ルトン

1月 閉鎖

不明112)

セリア インド人

特殊労務隊収容所

セリア

1月 閉鎖

不明113)

5.フィリピン俘虜収容所

名称

所在地

1942

1943

1944

1945

本所

マニラ

8月 開設

2月 解放

第1分所

カバナツアン

8月 開設

1月 解放

第2分所

ダバオ

10月 開設

8月閉鎖

ビリビット病院

8月 開設

2月 解放

オードネル

8月 開設

(フィリピン人)

1月 閉鎖

フィリピン人収容所

1月 開設

8月 閉鎖

第1分遣所

タルラック

8月 開設,閉鎖

112) 翻訳者注・43年閉鎖なのに45年不明か。
113) 同上

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

82 

6.上海俘虜収容所

名称

所在地

1942

1943

1944

1945

上海

1月 開設

プンテ

豊台

5月 移管

7.奉天(瀋陽)俘虜収容所

名称

所在地

1942

1943

1944

1945

本所

満州機械工作高井鉄工所114)

11月 開設

8月 閉鎖

第1派遣所

満州皮革株式会社工場

5月 開設

8月 閉鎖

第2派遣所

満州毛布株式会社工場115)

6月 開設

8月 閉鎖

第3派遣所

中山製鋼所 東洋木材116)

8月 開設

8月 閉鎖

第1分所

鄭家屯

10月 開設

5月 閉鎖

第2分所

西安

12月 開設

8月 閉鎖

8.香港俘虜収容所

名称

1942

1943

1944

1945

本所

1月 開設

8月 閉鎖

深水捗白人収容所

1月 開設

8月 改称 第1分所

6月 改称

白人収容所

8月 閉鎖

孤軍営(北)

1月 開設 

8月 改称 第2分所

6月 改称

インド人収容所

8月 閉鎖

ミリタリホスピタル

白人付属病室

1月 開設

8月 第1分所

6月 改称白人収容所

付属病室

8月 閉鎖

第3分院

1月 開設

8月 第2分遣所

6月 改称 インド人

収容所付属病室

8月 閉鎖

第3分所

1月 開設 香港(白人)

8月 第3分所改称

9月 閉鎖

第4分所

1月 開設 孤軍営南

インド人収容所 

8月 第4分所 改称
9月 第3分所 改称

7月 本所移管

5月 閉鎖

114) 翻訳者注・POW研究所のHPによると、満州工作機械高井製作所ではないか
115) POW研究所のHPによると、満州帆布株式会社工場ではないか
116) POW研究所のHPによると、中山製鋼所東洋製材ではないか

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付録-2  東南アジア各地の連合軍捕虜収容所の現況

83 

名称

1942

1943

1944

1945

覚士道訓練所(インド人)

8月 開設 第5分所 

9月 閉鎖

セント・アルバート・コンベント 1月 開設  2月 閉鎖

セント・セレサ病院117)

1月 開設  8月 閉鎖

スタンレー監獄

1月 開設  3月 閉鎖

9.台湾俘虜収容所

名称

所在地

1942

1943

1944

1945

本所

台北市

7月 開設

8月 閉鎖

第1分所

金瓜石

7月 開設

5月 新店圧移転

第2分所

台中市

7月 開設

4月 閉鎖

第3分所

屏東市

7月 開設

3月 閉鎖

第4分所

花蓮港

7月 開設

6月 白河圧移転

8月 閉鎖

第5分所

王里

4月 開設

6月 本棚移転

1月 閉鎖

第6分所

大廬

8月 開設

斗六臨時分所

斗六

11月 開設

3月 閉鎖

員林臨時分所

員林

11月 開設

1月 閉鎖

10.朝鮮俘虜収容所

名称

所在地

1942

1943

1944

1945

本所

京城市 朝鮮軍陸軍倉庫作業

9月 開設

8月 閉鎖

第1分所

港湾修理 仁川専売局

9月 開設

8月 閉鎖

第1派遣所

日本窒素 興南工場

9月 開設

8月 閉鎖

11.南方地域海軍所管(第2、南遣隊)俘虜収容所)

名称

所在地

1942

1943

1944

1945

マカッサル仮収容所

セレベス西岸

パリクパパン仮収容所

ボルネオ

パンビルマシン仮収容所

ボルネオ

サマリンダ仮収容所

ボルネオ

第2警備隊

ボルネオ

※ 捕虜情報局、『俘虜取扱の記録』の 外地俘虜収容所一覧表を参考にした。

117) POW研究所のHPによると、セント・テレサ病院ではないか

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

84 

付録-3 

 

オランダ側戦犯裁判記録(服役者)

連番

名 前

(創氏名)

裁判記録

姓  名

容疑及び弁論要旨

刑量

1

高○○

(高野○○○)

タカノ

コウジロウ

容疑

戦争捕虜を手・げんこつ・革ベルト・竹・木のこん棒な

どで顔、頭など、その他の身体の部位を殴打すること

で、彼らに身体的、精神的苦痛を与える「組織的テロ

行為」を恣行した。

18年

弁論

要旨

捕虜たちを時々殴打したことはあるが「組織的テロ」

ではなかったし、虐待したこともない。日本軍の洗濯場

に小便をしたり、日本の国歌が演奏されるのに、敬意

を表さない捕虜を竹で殴ったことがある。

2

金○○

(金本○○)

カネモト

キドウ

容疑

1945年2月から7月末まで、パンジュビル第10収容所と

第3本部第4地区隊で、げんこつ・むち・竹棒、その他

の物で収容者たちを殴り、3人の女性を背後で手を縛

り、吊り下げて虐待するなど、収容者たちに肉体的、精

神的に苦痛を与えた。

10年

弁論

要旨

収容所内では一般収容者たちと接触する機会があまり

なかった。自意で収容者たちを殴打したことはなく、た

だ第10収容所で上官脇田の指示で、5,6人の女子収容

者たちを、薄い竹の棒切れで1、2回殴ったことがある。

3

金○○

(金山○○○)

カネヤマ

キンタロウ

容疑 手・こん棒・銃床板・ヤシの幹などで殴打した。激しく

はなかったが、捕虜を虐待した。

3年

弁論

要旨

どんな捕虜も罰を与えたり殴ったりしていない。日本人

のコメを捕虜に与えると、日本軍の所長に密告した捕

虜の顔を一度殴ったことはある。

4

金○○

(金光○○)

カネミツ

セイキチ

容疑

1944年6月から11月、1945年1月から8月まで、ムンテ

ィラン所在の婦女子収容所で勤務しながら、むち・竹

・こん棒・げんこつ及び手で殴打し、長時間陽光の下

に立たせておく体罰をするなど、精神的、身体的苦痛

を誘発した。

10年

弁論

要旨

収容した婦女子たちを4度殴ったことはあるが、組織的

なテロということは認められない。その他の容疑は認

められない。

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付録-2  東南アジア各地の連合軍捕虜収容所の現況

85 

連番

名 前

(創氏名)

裁判記録

姓  名

容疑及び弁論要旨

刑量

5

金○○

(吉野○○)

ヨシノ

トオゾウ

容疑

1944年と1945年に、チマヒ所在の第4中隊などで収容

者たちを虐待した容疑がある。ヤンスを10-12回80セン

チの長さの分厚いこん棒で殴り倒す。

4年

弁論

要旨

3人の青年をむちで殴ったことはあるが、腕が折れたと

いうのは事実でない。彼らを殴打した理由は、自分が収

容者のために食糧をより多く与えていると、彼らが日本

人の上官に密告したからだった。ヤンスを殴った理由

は、彼が自分に金を売って、20金だと言ったのに、調べ

た結果14金に過ぎず、それに対して追及したものであ

る。そしてこん棒で殴ったのでなく、手で殴った。

6

金○○

(金本○○)

カネモト

キョクドウ

容疑

1944年6月から45年3月まで、セマラン、ラムペサリ第

4民間人収容所に勤務しながら、女性・子供たちに組織

的テロ行為を恣行。44年10月、ある女性の顔と頭を25

回以上げんこつで殴り、その他にも数回殴打と虐待を

恣行する。45年初めには12人を超える女性を、脚の間

に竹を挟んで座らせたまま、こん棒で殴打するなど、

収容者に肉体的、精神的苦痛を与えた。

3年

弁論

要旨

44年10月に女性を殴打した事実はない。1度看護師を

殴った他、誰も殴ったことはない。45年5月のことは、

他の人が犯したことである。

7

金○○

(金田○○)

カネダ

ウネイ

容疑 連番1高在潤と同じ。

15年

弁論

要旨

捕虜に組織的テロをしたことと、虐待したという容疑

を認定しない。米袋をあまりにも少なく出したという理

由から、作業班の責任者を素手で2、3回殴ったことが

ある。この他、盗難事件で捕虜を殴打したことがある。

8

金○○

(金林○○)

カネバヤシ

ショウキ

容疑

些細なことでも捕虜を殴打する。敬礼をきちんとしな

い場合、向こう脛を蹴り、銃床板で顔と胸を刺す。大

剣で捕虜を刺す。

15年

弁論

要旨 煙草を吸っていた捕虜2人の顔を殴ったことがある。

9

金○○

(金村○○)

カネムラ

テツキ

容疑

1943年4月から45年1月まで、マカッサル農場捕虜収容

所で勤務しながら、げんこつと厚い竹の棒・銃床板・

木などで捕虜らを殴り、また捕虜の時計・金製品など、

高価な物を奪うなどの虐待行為をした。

7年

弁論

要旨

マカッサル農場捕虜収容所で料理士として勤務。収容

所の正門で、手の平で捕虜数人を殴ったことがあり、

数回他の捕虜たちを殴ったことがある。自分は物を奪

ったことはなく、金村という他の人と混沌しているよう

だ。

10

金○○

(金光○○)

カネミツ

テシュ

容疑 連番1高在潤と同じ。

18年

弁論

要旨

空襲警報を無視した捕虜を殴打したことがある。その

他に、命令を聞かない捕虜を、何回か殴打した。その

他に虐待行為はない。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

86 

連番

名 前

(創氏名)

裁判記録

姓  名

容疑及び弁論要旨

刑量

11

金○○

(金村○○)

カネムラ

タイレツ

容疑

1944年から45年まで、アンパラワ第7民間人収容所と

ソロ、そして農耕地の監督として働きながら、収容者

を殴打したり、長時間雨の中に立たせて過度な作業を

させるなど、身体的、精神的苦痛を与える「組織的テ

ロ行為」と虐待を恣行した。

12年

弁論

要旨

収容者を殴ったことはあるが、組織的テロや虐待行為

などは認められない。殴打は規定違反や、上官の命令

により、3回あった。

12

盧○○

(岡村○○)

オカムラ

ザイエイ

容疑

1944年6月以来、捕虜を数回スコップの柄・げんこつ・

靴・家畜の革ベルトなどで殴打したり虐待をし、無理

な作業を強要した。

10年

弁論

要旨

一部の殴打事実は認めるが、過度な虐待や作業の強要

は認められない。食物の横領などは事実でない。

13

文○○

(文平○○)

フミハラ

セイコウ

容疑

1944年6月から10月末まで、セマランのカランパナス

第5民間人収容所で働きながら、女性と子供で構成さ

れた収容者に、組織的テロ行為を恣行した。指示を履

行しない女性を殴打し、傷害を負わせ、医師の治療を

妨害する。収容者たちの抗議にもかかわらず、人糞が

ある野菜畑で、素足で労働を強要した。

10年

弁論

要旨

自ら収容者を罰する権限がないことをよく認識してお

り、ただ規定違反の時に処罰として殴打したことはあ

る。殴打は2回であり、それ以外はない。野菜畑で素足

で労働を強要した事実はない。むしろ収容者に対する

人間的処遇と環境改善に努力したことがある。

14

閔○○

(野村○○)

ノムラ

カクキ

容疑

1944年5月から6月ごろ、約17人の収容者を綱で縛り、

こん棒・鉄筋・ぬれた綱・革ベルト、その他の拷問器具

などで殴打し、このうち4人を監禁した。この他数回に

わたり殴打の事実があり、これによって大勢の収容者

が入院した。

8年

弁論

要旨

労働者17人中の3人を1度殴ったことはある。彼らは金と

書信を収容所内外で密搬出したために、罰を受けたので

あり、その時収容所の所長だったハセハラがその場で指

示し見守った。他の事実も上官の命令によったもの。

15

朴○○

(森本○○)

モリモト

シゲオ

容疑

1945年5月何人かの女性と子供たちを、インドネシア

軍務員と秘密の取り引きをしたという理由で、ゴムの

棒で殴って失神させ、彼女たちを3日間哨所に立たせて

おく罰を加え、その後2カ月半の間畜舎に監禁した事実

がある。45年3月、警戒勤務中に座っていたという理由

で、多くの女の顔を手で殴り、収容者の身体、精神に

大きな苦痛を加えた。

2年

弁論

要旨

16人の女性たちを秘密の取引をしたという理由で、上

官藤田の指示により、1度それぞれ4、5回ずつ手で顔

を殴ったことはある。しかし殴打・監禁、それ以外の容

疑は認められない。すべて上官の命令によったもの。

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付録-2  東南アジア各地の連合軍捕虜収容所の現況

87 

連番

名 前

(創氏名)

裁判記録

姓  名

容疑及び弁論要旨

刑量

16

朴○○

(木山○○)

キヤマ

エイライ

容疑 捕虜を殴打し、物を奪取する。最悪質な1人であり、多

くの捕虜を虐待した。

10年

弁論

要旨 1度も捕虜を虐待した事実はない。

17

朴○○

(大川○○)

オオカワ

イショウ

容疑 連番1高在潤と同じ。

15年

弁論

要旨

組織的なテロあるいは虐待はなかった。捕虜を何度か

殴打したことはあるが、歩けなくさせたり、入院する程

ではなかった。

18

朴○○

(新井○○)

アライ

ショウク

容疑

1942年10月から11月まで、タンジョンプリ獄からラン

グーンに捕虜を移送する過程で、手・げんこつ・銃床

板・軍靴などで殴打し、甲板で担いで投げ飛ばすこと

もし、顔をタバコの火で焼いたりした。

15年

弁論

要旨

勤務しながらたった2回捕虜を殴打したことがある。1度

は船の通路を塞いで立つなという指示に違反した捕虜

を、2回目は脱出を試みた捕虜を、上官の指示で、手の平

で殴ったことがある。捕虜虐待の容疑は認められない。

19

朴○○

(新井○○)

アライ

ケンスケ

容疑

1942年9月から43年4月まで、スラバヤ第3捕虜収容所

で働きながら、捕虜を1時間げんこつと厚い木の定規

で殴り、軍靴の足で蹴り、指揮下の警備にげんこつと

銃床板での殴打を指示した。

10年

弁論

要旨

捕虜たちの怠業により、手の平で顔を2、3回殴り、一緒に

いた同僚が非常に細いチーク材の定規で頭を何回か殴っ

たが、傷は負わなかった。その他に殴打はなかった。

20

申○○

(高村○○)

タカムラ

アキオ

容疑

1945年1月から7月まで、セマランの野菜農場の警備隊

長として働きながら、農場に動員された男子・女子・子

供たちを手・げんこつ・鉛の塊がついたこん棒・鉄パイ

プなどで殴り、女性と子供に過重な労働をさせた。45

年7月、セマランのラムペサリ収容所で食堂監督をして

いて、女性の収容者を革ベルトと太い木の枝で殴って

裂傷を負わせた。

5年

弁論

要旨

収容者の誰も理由なしに殴ったり虐待した事実はな

い。罵声を吐く青年を手で5、6回殴り、背後で不平を

言う女性の顔を殴ったことがあるが、それ以外に虐待

の事実はない。作業のつらさが女性に無理だったとい

う点は認める。

21

安○○

(安原○○)

ヤスハラ

マサシゲ

容疑

1944年2月[から]45年8月まで、バンドン所在の第1民

間人収容所に勤務しながら、収容者たちを手・げんこ

つ・ガスパイプ・こん棒・竹・むち及びその他の物で殴

り、靴で蹴るなど、精神的、肉体的苦痛を与えるなど、

「組織的テロ行為」を恣行した。

18年

弁論

要旨

バンドン収容所で日本軍の上官であるタチバナの命令

により、収容所の秩序維持のために、げんこつ・むち・

竹などで収容者たちを殴打し虐待した事実は認める。

そのほかは認められない。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

88 

連番

名 前

(創氏名)

裁判記録

姓  名

容疑及び弁論要旨

刑量

22

梁○○

(南原○○)

ミナミハラ

コウショク

容疑

1944年2月から45年4月まで、チマヒで日本軍の指揮下、

警備として第6号バロス民間人収容所に勤務中、民間人

収容者たちを持続的に必要なく過度に虐待するなどの戦

争犯罪を恣行し、これを教唆するなどの罪を犯した。

15年

弁論

要旨

コニンとオンジョルロンの2人がコックという者を闇取

引をしたという理由で、あまりに酷く殴打したことを理

由に、コニンとオンジョルロンを素手で1回殴打した。

詳しい経過は国本が知っている。他の被疑事実は認め

られない。

23

呉○○

(大原○○)

オオハラ

カンコン

容疑

1942年9月から1944年7月までマカッサルの農場捕虜

収容所で、捕虜たちをげんこつと竹などで殴り、また1

つの鼓膜を破裂させるために、手をつぼめて耳を殴る

などの虐待行為をした。

7年

弁論

要旨

3,4回ほど捕虜たちを殴ったことはあるが、鼓膜を損

傷させようとしたことはない。オハラという日本軍と混

沌とした可能性がある。患者を殴打したことはない。

24

李○○

(藤沢○○)

フジサワ

シゲハル

容疑 木の棒・銃床板などで捕虜の腕、脇腹などを殴打し

た。

3年

弁論

要旨

現地人と接触した捕虜1人の顔を4回殴ったことがあ

る。

25

李○○

(松山○○)

マツヤマ

コンサイ

容疑 連番21安正燦と同じ。

3年

弁論

要旨

バンドン収容所で、タチバナの指揮下で整備所の監督

の仕事をする。捕虜をこん棒で1度殴ったことがある。

26

李○○

(牧山○○)

マキヤマ

タイコウ

容疑 敬礼を誠意なくしたという理由で、30分間虐待した

り、銃を利用して顔と腹部、胸などを殴り、刺した。

10年

弁論

要旨

捕虜を殴打する同僚をやめさせて、銃口で胸・腹部・

心臓付近を何度か打ったことがある。その他の虐待の

事実に対しては知らない。

27

李○○

(毛利○○)

モウリ

トシユキ

容疑

被告は手・げんこつ・こん棒・竹とその他の物を持って

殴打し、お互いを殴打するように強要し、患者を病床

から引きずり出して、家の外に追い出し、収監者を1日

半の間、何も食べられないようにする、団体気合を与

えることもした。収容所内の商店を閉鎖し、銀行を閉じ

ることにより、収容者たちに大いなる不便をもたらし、

個別炊事も禁止する罰を与えたことがある。

15年

弁論

要旨

45年7月、定員検査で一人の青年が指示を履行せず、

竹棒で殴ったことがある。30人の収容者たちを、互い

に殴らせたことがある。これは毎日南京虫10匹ずつ捉

えろという指示を履行しなかったためであり、同じ理由

でその日、自分も十数人を殴ったことある。屋根のかけ

らがなくなったのに対して、うそを言った若者を手で殴

ったことがある。商店の閉鎖、預金の凍結、個別炊事

の禁止は、すべて上官の指示だった。112) 1110

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付録-2  東南アジア各地の連合軍捕虜収容所の現況

89 

連番

名 前

(創氏名)

裁判記録

姓  名

容疑及び弁論要旨

刑量

28

李○○

(滝西○○)

タキニシ

オクマン

容疑 連番21安正燦と同じ。

7年

弁論

要旨

バンドン収容所でタチバナの指揮下の書記として、収

容所の反乱を監視する仕事をする。同僚の収容者の伝

言を所長に直接報告した収容者を、竹で殴ったことが

あり、他の1件は、倉庫をきれいに清掃しないので、手

で殴打したことがある。それ以外は認められない。

29

李○○

(慶山○○)

ヨシヤマ

エイカン

容疑

1943年5月から1945年9月まで、バタビア第1捕虜収容

所第10中隊で薬・包帯・手術用品などを提供せず、収

容者たちを手・げんこつ・竹などで殴り、精神的、身体

的虐待をした。

3年

弁論

要旨

医薬品を配分する仕事は自分の所管ではなく、オランダ

の医師と薬剤師が2カ月ごと必要な医薬品の目録を作成

し、直接受領する。殴打を含む虐待行為を認められない。

30

田○○

(田村○○)

タムラ

タイハン

容疑

捕虜を殴打して鼓膜が破れ、患者を作業場に出し、耳

をひねるなどの虐待をした。捕虜の取り分の砂糖800

キログラムを盗んだことがある。手と革ベルトを利用

して捕虜をしばしば殴打し、医薬品を盗んだりした。

15年

弁論

要旨

作業を遂行せずに離脱した作業班の班長2人を、手で

何回か殴った。捕虜の食糧購入を助ける。

31

鄭○○

(東原○○)

ヒガシハラ

ミツヤス

容疑

1944年10月から45年5月まで、チマヒ所在のパロス民

間人収容所で、副所長として働きながら、収容者をこん

棒で残酷に殴り、先が細く尖った履き物で全身を蹴るな

ど、収容者たちに身体的、精神的に苦痛を与えた。

2年6

カ月

弁論

要旨

副所長でなく、副所長アラキの下で命令に従って働い

た。訓戒したり、手で軽く殴ったことはあるが、こん棒

で殴打したことはない。収容者を処罰できる権限はな

かったし、規定違反の収容者がより大きな処罰を受け

ないよう、軽く処理したことはある。当時収容者を殴る

ことが、特別なこととは考えられなかった。今は誤った

行動だったと認識している。

32

鄭○○

(三城○○)

ミシロ

ショウカン

容疑 連番14閔鶴基と同じ。

5年

弁論

要旨

作業部の3人が殴られたのは、ハセハラ大尉の指示に

従っただけで、私は事後に目撃した。殴打当時その場

にいなかった。スネイプという収容者を1度手で殴った

ことがある。

33

鄭○○

(鄭村○○)

クニムラ

ミツオ

容疑

1945年1月から8月まで、セマラン所在の収容所第1分

所で働きながら、収容者を手とげんこつ・こん棒など

で殴打し、名前の分からないある少女を一筋により合

わせた鉄線で殴り、手首に裂傷を負わせて気絶させる

など、虐待行為を恣行した。

5年

弁論

要旨

是正措置の一環として、何回か殴打をしたことはある

が、作業内容・時間などを定める位置にいなかったし、

患者に労働をさせたこともなかった。婦女子8~10人を

殴打した理由は、彼女たちが度重なる注意にもかかわ

らず、シャベルを返納しなかったためだった。

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朝鮮人BC級戦犯に対する真相調査

90 

連番

名 前

(創氏名)

裁判記録

姓  名

容疑及び弁論要旨

刑量

34

趙○○

(趙村○○)

チョウムラ

イサイ

容疑

1944年2月から10月まで、バタビア所在の捕虜収容所

で働きながら、手・げんこつ・竹・棒などで殴り、足で

蹴って脳震盪・脳出血・鼓膜破裂・骨折などのような

負傷を負わせるなど、組織敵テロ行為を恣行した。

15年

弁論

要旨

3回捕虜を殴打した事実がある。敬礼をしなかったり、勤

務を怠慢にした場合であり、それ以外の殴打はなかった。

35

崔○○

(高峯○○)

タカミネ

ナンゴク

容疑 捕虜を酷く虐待した。

5年

弁論

要旨

捕虜を1度も殴ったことはなく、他の警備が殴打するの

も見たことがない。

36

崔○○

(産本○○)

ヤマモト

ゼンカ

容疑

1944年6月から45年8月まで、セマラン所在のラムペル

サリ収容所の警備として、民間人収容者、女性・子供た

ちに戦争犯罪行為を犯し、手・げんこつ・こん棒・竹・む

ち、そして他の物体で組織的テロ行為を恣行した。

10年

弁論

要旨

女性収容者何人かを2、3回虐待したことはある。それ

以外に、誤ったことをしたと収容者を殴打したことはあ

るが、他の虐待行為はすべてうそである。私を他の上

官と多く混同している。私は一度も牧師や子供たちや

病人を殴打したことがない。

37

崔○○

(津○○)

ツヤマ

タダシ

ツヤマ

タダシ

容疑

1944年2月から45年8月まで、チマヒ第2民間人収容所

の所長兼警備をしていて、収容者を手・げんこつ・水で

ぬらした鉄筋、その他の物などで殴り、手を背後で縛っ

た後、吊り下げて水拷問をするなど、収容者の身体的・

精神的苦痛を誘発する戦争犯罪行為を恣行した。

12年

弁論

要旨

収容所所長の下で、第2人者として勤務する。勤務中3

人の収容者を殴打したことがある。密搬入をしたヨー

ロッパ-インドネシアの混血青年3人を摘発し、素手で

顔をそれぞれ3回ずつ殴るなど、何回か殴打したこと

がある。女性・子供、その他の収容者に対して、ぬれた

鉄筋や他の物で、甚だしく殴ったことはなく、手首を後

で縛って長時間ぶら下げたこともなく、さらに水拷問を

したこともない。

38

韓○○

(清原○○)

キヨハラ

マサノリ

容疑

1945年5月から8月中旬まで、チマヒ所在のバロス民間

人収容所で働きながら、収容者たちを手・げんこつ・こ

ん棒などで殴って拷問・虐待した。

10年

弁論

要旨

収容者を軽く何回か殴った事実は認めたが、容疑事実の

大部分は否認する。番号票を着けない収容者をげんこつ

で殴り、入院させた事実がある。上官青木の指示を受け、

それに従わない捕虜を殴打し、虐待した事実はある。し

かし全体に自分は収容に正当で人間的な処遇をしたし、

決して残酷な行為を加えなかったと主張する。

※ 本文の<表-9>と刑量が違うのは原典資料上の差異で、判決を受けた刑量と実際の服役した期間の間
による誤謬と判断される1) 

118) 商店閉鎖及び預金凍結、そして禁食などが命令だったことを証言するホシノ・ショウリとエガミ・ミノ

ルの弁論が添付されている。

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91 

対日抗争期強制動員被害調査及び 国外強制動員犠牲者等支援委員会|日帝強制動員被害者支援財団

翻訳 • 最終監修者

日本語翻訳
日本語翻訳協力委員会

•  森川静子: Ⅰ章・Ⅱ章 
•  大畑正姫: Ⅲ章1・2 
•  兵頭圭児: Ⅲ章3・Ⅳ章 

最終監修
朴晋雨 pjw3331@sookmyung.ac.kr

淑明女子大学 教授. 一橋大學社会学博士(Ph.D)
主要著書: 《近代日本形成期の国家と民衆》, 《東アジア民族主義の障壁を越えて》, 
                    《在日韓国人と祖国解放》

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