日帝強制動員被害者支援財団
発 刊 登 錄 番 号
11-1741332-100001-01
28
日帝強制動員被害者支援財団翻訳叢書
戦後日本の浮島丸事件
真相調査の問題点
日帝強制動員被害者支援財団
浮島丸殉難者追悼の碑
28
日帝強制動員被害者支援財団翻訳叢書
28
戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
初版印刷
2025年12月31日
初版発行
2025年12月31日
韓国語版編著
日帝強制動員被害者支援財団
韓国語版発行
2023年12月
責任研究
李淵植(イ・ヨンシク
/ アルゴ人文社会研究所・海外学術理事)
日本語版発行人 李元範
日本語版発行所
日帝強制動員被害者支援財団
ソウル特別市鐘路区鐘路ギル
42利馬ビル6階
http://www.fomo.or.kr
翻訳
林
陽子
監修
日本語翻訳協力委員会
竹内康人
訳註は〔 〕で示した。
固有名詞などで訂正した箇所、補足した箇所、句読点を加えた箇所、改行した箇所がある。
発刊登録番号
11-1741332-100001-01
本書の全部または一部を無断で複写複製(コピー)することは、
著作権法上での例外を除き、禁じられています。
刊行の挨拶
1
財団法人日帝強制動員被害者支援財団(以下、財団)は、今年も強制動員関連書籍 4 冊を日本語
および韓国語に翻訳して出版します。2019 年から 7 年目にあたるこの翻訳事業は、日本の「強制
動員真相究明ネットワーク―日本語翻訳協力委員会」と国内関連分野の研究者たちの積極的な努力
と支援により、進められています。それぞれ 300 部ずつ合計 1200 部を発刊する日本語版および
韓国語版は真相糾明ネットワークの助けを借りて、日本国内の研究者や活動家、公共機関などに配
布しています。
この本は、財団が 2023 年 12 月に発刊した『戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点』を翻訳
したものです。終戦直後の 1945 年 8 月 22 日、日本の東北地方にある青森県大湊港から朝鮮人を
乗せて釜山へ向かった浮島丸が、予定の航路ではない京都府舞鶴港に入港しようとした際、爆発に
より沈没した「浮島丸事件」について取り扱っています。日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会
(以下、糾明委員会)は、2005 年 3 月に、この事件に関する真相調査の開始を決定し、真相糾明
のために努力してきましたが、2010 年には最終報告書を発刊できず、調査を終了した経緯があり
ます。本報告書は、この事件がなぜ迷宮入りになってしまったのかを明らかにするため、初期の真
相調査における問題点を検証し、それが今日までどのような悪影響を及ぼしているのかを、さまざ
まな資料を通して精密に分析しました。
この他、財団が今年日本語に翻訳出版した本は次のとおりです。
『1948 年韓国送還遺骨の真相調査』は、1948 年、日帝による韓国人強制動員犠牲者の遺骨が、
日本から韓国国内へ送還されましたが、実際該当する遺族は犠牲者の遺骨を受け取ることができ
ませんでした。その件について、糾明委員会が 2005 年 4 月 15 日付で真相調査の開始を議決しま
した。その後、新聞資料の収集と分析、国家記録院と外交部外交史料館の資料や訴訟資料の分析、
関連機関および関係者に関する調査、遺族調査等を行い、その真相を糾明委員会が 2007 年に公開
したものです。
刊行の挨拶
2 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
『南方紀行―強制動員軍属手記集―』は、南方に動員された 2 名の捕虜監視員と 2 名の海軍工員の
手記で構成されています。軍属手記集の発刊目的は、彼らの自伝的記述を通して強制動員被害の様々
な様子を明らかにしようとするものです。この本を通して人々が日帝末期の強制動員被害を知り、
歴史の真実に接することを期待して糾明委員会が 2008 年 4 月に発刊しました。
さらに、今年初めて推進する事業として日本で発刊された強制動員に関する本を韓国語に翻訳して
出版することになりました。日本語書籍名は『(改訂版)朝鮮人強制連行・強制労働ガイドブック
[奈良編]』です。奈良県において朝鮮人強制動員・強制労働が行われた柳本飛行場やその他場所、
遺跡、証言などについて日本の読者向けの本として制作されました。負の歴史の真相を粘り強く
糾明してきた「奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資料を発掘する会」により、1997 年 8 月に
初版され、2004 年に改訂版が発行されました。財団では、韓国語に訳して韓国内の大学図書館
および関係機関などに配布する予定です。
糾明委員会と対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会が解体されて
以来、中断されていた日本語翻訳事業を、財団が引き受けました。さらに他の研究結果を付き加える
ことにより、強制動員分野の国内外研究に役立てることができ嬉しく思います。
財団は今後も強制動員分野の多様な研究報告書や学術・教育資料の編纂などに一層努力して
まいります。強制動員関連の研究成果が韓国と日本を越え国際的に拡散できるよう、持続的な関心と
支援をお願いいたします。
ありがとうございます。
2025 年 12 月 31 日
財団法人日帝強制動員被害者支援財団
副理事長(理事長職務代行)李元範
発刊の辞
3
日帝強制動員被害者支援財団の役割は、大きく二つに分けられます。一つは、日帝による強制動
員被害者および遺族の苦しみを癒すことであり、もう一つは、その痛みの原因を明らかにし、後世に
伝えることです。前者の代表的な事業としては、全国合同慰霊祭、国内外の追悼巡礼、追悼造形物の
建立、位牌館の運営などがあり、後者の代表的な事業としては、国内外の学術大会および学術交流、
真相調査、口述記録事業などがあります。
財団は後者の事業として、今年も 5 件の学術研究委託事業を実施しました。テーマは以下のとおり
です。
▶ 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
▶ 日帝強制動員被害者および遺族の生活史研究
▶ 日本近畿地方の強制動員犠牲者遺骨調査
▶ 東洋拓殖株式会社直営済州島酒精工場における済州島民の強制動員
▶ 韓日関係の歴史的葛藤と懸案問題の現実と展望に関する研究
本冊子は「戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点」です。
「浮島丸事件」とは、終戦直後の 1945 年 8 月 22 日、日本の東北地方にある青森県大湊港から
朝鮮人を乗せて釜山へ向かった浮島丸が、予定の航路ではなく京都府舞鶴港に入港しようとした
際、8 月 24 日午後 5 時 15 分から 20 分の間に爆発により沈没した事件です。
しかし、この事件の真相は 78 年が経過した現在に至るまで、何一つ明らかにされていません。
乗船者数、死亡者数、沈没原因といった基本的な事実はもちろん、出航経緯、航路変更の理由、
舞鶴港入港時の機雷の有無、沈没直前の日本海軍の脱出の有無、沈没後の救助状況や生存者数、
死亡者の処理、船体の引き揚げおよび遺骨の収集など、すべてが不明です。
発刊の辞
現在進行形である浮島丸の悲劇をいかにすべきか
発刊の辞
4 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は、2005 年 3 月に、この事件に関する真相調査の開始を
決定し真相究明のために努力してきましたが、2010 年には最終報告書を発刊できず、職権で調査を
終了した経緯があります。さまざまな理由があったと考えられますが、鋭く対立する意見や主張の
是非を判断できる決定的な証拠や資料がなかったことも、その理由の一つでしょう。
本報告書は、この事件がなぜ迷宮入りしてしまったのかを明らかにするため、事件の原点に立ち
返って初期の真相調査における問題点を検証し、それが今日までどのような悪影響を残しているのかを、
さまざまな資料を通じて精密に分析しています。また本報告書は、事件直後に日本政府と日本を
占領・統治していた GHQ、そして韓国政府がより真相究明に意志を持って努力していれば、今の
ような状況にはならなかっただろうと述べています。2010 年以降の研究成果が含まれているという
点も、重要な意味を持っています。
この事件に関連して、関係団体や一般の人々の間では「日本海軍による意図的な虐殺および
爆沈」という認識が多く見られます。とはいえ、こうした主張や認識を反証できる決定的な証拠や
資料があるわけでもありません。このような状況で最も重要なのは、いかなる主張であれ自由に発言
でき、どのような資料であれ自由に提示できる雰囲気そのものではないでしょうか。本報告書が、
そうした自由な雰囲気を醸成し、78 年間未解決事件として残されているこの事件の真実に、一歩
でも近づく手助けとなることを期待します。
2023 年 12 月
日帝強制動員被害者支援財団 理事長 沈揆先
要約文
5
研究タイトル
戦後日本の浮島丸事件の真相調査の問題点
英語:A Study on the Problems in the Investigation into the Ukishima-maru Incident in Postwar Japan
責任研究者
氏名: 李淵植(イ・ヨンシク)
所属:アルゴ人文社会研究所
2005 年 3 月、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は、浮島丸事件に関する真相調査の開始を
決定し、浮島丸事件訴訟原告団側から訴訟関連資料の写しを引き継いだ。その後、事件の調査、
被害者団体との懇談会、日韓専門家フォーラムの開催などを通じて真相究明に努めたが、結果として、
2010 年に最終報告書を発刊できないまま、職権で調査を終了することとなった。
この未解決事件は、事故から 78 年が経過した現在も、沈没の原因、乗船者数、死亡者数といった
基本的な事実すら明らかになっていない。さらに、乗船および出港の経緯、航路変更の理由と
事前告知の有無、舞鶴入港時の近海における機雷掃海の状況、沈没直前における日本海軍の脱出の
有無、沈没後の救助状況や生存者数、死亡者の処理、船体の引き揚げおよび遺骨の収集の経過など、
各論においても多くの意見の相違や憶測が絶えない。
浮島丸事件の被害者たちは、1992 年から 2003 年まで日本政府を相手に訴訟を行ったが、日本の
裁判所は「国家無答責」および「時効」、さらに「国籍離脱」を理由に原告側敗訴の判決を下した。
また、韓国内においても、関連する被害者および遺族団体は「1945 年 8 月 15 日以降の被害者で
ある」という理由で、1974 年の強制動員被害者補償の局面でも支援対象から除外されたことに
対し、事件の真相調査および補償に関して不満を訴えている。
要約文
6 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
本研究では、2010 年に韓国政府の旧委員会が職権で真相調査を終了したこの未解決事件が、なぜ
迷宮入りしてしまったのかを重点的に明らかにすることを目的とした。そのため、事件の原点に
立ち返り、初期の真相調査過程における問題点を検討し、それが現在に至るまでどのような悪影響を
残しているのかを整理しようとした。そのために、第2章では事件の展開および事故後の処理、
在日朝鮮人団体や被害者たちによる真相究明の要求、連合国軍総司令部(GHQ)や在韓米軍政庁
(USAMGIK)の対応、そして初期の真相調査における問題点とそれに起因する悪影響を整理した。
続く第3章では、この事件が日韓両国社会でどのように公論化されたのか、浮島丸事件訴訟の過程で
激しく展開された「基礎的事実」をめぐる法廷攻防、そして日韓両国の対応の経過での問題点などを
検討した。
これらを通じて、最初から誤ってはめ込まれた真相調査の「第一ボタン」が、今日に至るまで
どのような悪影響をもたらしているのか、そしてそれによって被害者および遺族団体が何を求めて
いるのか、さらに日韓両国政府が今後この問題にどう向きあうべきかについて、重要な示唆を提供
することを目指した。
目次
7
1 はじめに
9
1)研究の目的と内容
10
2)先行研究と資料の現状
15
3)「基礎的事実」をめぐる事件の主要争点
26
2 事件の展開と真相調査の経緯
31
1)解放後、日本地域在住朝鮮人の帰還状況
32
2)事件の展開および事後処理の過程
39
3)朝連による真相調査の要求と GHQ・在韓米軍政庁の対応
51
3 事件の公論化の経緯と日韓両政府の対応
69
1)市民運動団体による浮島丸事件の公論化の経緯
70
2)「事実関係」をめぐる論争と未解明の課題
75
3)真相究明をめぐる韓日両政府の対応の問題点
80
4 おわりに
91
付録:原資料および事実関係の要約など
96
目次
目次
[日帝強制動員被害者支援財団徐寅源提供]
1)
研究の目的と内容
2)
先行研究と資料の現状
3)
「基礎的事実」をめぐる事件の主要争点
はじめに
1
10 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
1 はじめに
1)研究の目的と内容
海軍特設輸送船「浮島丸」は、1945 年 8 月 22 日、日本の東北地方にある青森県大湊港を出
港し、朝鮮人たちを乗せて釜山港への帰還を目的とした。しかし、本船は日本海を南下する途
中、予定されていた航路を逸れ、1945 年 8 月 24 日、午後 5 時 15 分から 20 分の間に京都府
舞鶴湾へ入港するなかで、原因不明の爆発により沈没した。これが、現在までに確認されている
「浮島丸事件」に関する唯一の客観的事実である。
* 大井田孝氏作成、「浮島丸の航跡」メモ
(http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/data3_15_068.pdf)
1. はじめに
11
この船は、北海道のすぐ南に位置する青森県付近で「海軍軍属」や「労務者」として動員され
ていた朝鮮人たちが、終戦を迎えて初めて乗船した帰国船であった。しかし、日本海軍上層部の
指示によって航路が変更され、舞鶴湾への入港途中に爆発事故が発生し、船は沈没、多数の死
者を出す結果となった。本事件の原因を巡って、韓国側の被害者および遺族は「意図的な爆沈
説」を主張しているのに対し、日本政府は当初から連合軍が敷設した機雷に接触して沈没したと
の見解を一貫して示してきた。死亡者の数に関しても、韓国側では論者によっては少なくとも
3,000 人、多い場合には 7,000 人以上が犠牲になったとする主張が存在する。一方、日本政府
は「浮島丸死没者名簿」等を根拠として、日本海軍の乗員 25 名と朝鮮人 524 名のみを公式な
死亡者として認定している。さらに、本事件は事後処理の過程においても多くの問題を抱えてい
た。相当数の犠牲者の遺骨は散逸してしまった。回収された遺骨のうち、12 体は釜山の永楽公
園の無縁者室に安置されており、また 280 体(朝鮮南部出身 275 体、朝鮮北部出身 5 体)は、
東京の祐天寺において「合骨(混合遺骨)」の状態で保管されている。
これらの遺骨については、遺族たちが事件の全面的な再調査、日本政府による誠実な謝罪、全
乗船者および死亡者名簿の開示などを遺骨の引き取りの前提条件として要求したため、他の遺骨
と異なり、韓国内への返還は保留されたままとなっている 1。
* 大湊海軍施設部がのちに作成されたとされる「浮島丸死没者名簿」には、朝鮮人徴用工員および海軍協力会による供給
作業員の氏名が記載されている。
(http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/data3_15_072.pdf)
1 『釜山日報』、2023 年 8 月 15 日、「光復 78 年を迎えても光を見いだせない浮島丸の英霊」
12 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
この事件は被害者補償問題に関しても、他の強制動員被害事例と比較して極めて複雑な様相を
呈している。周知のとおり、日本においては 1952 年のサンフランシスコ講和条約の発効と同時
に、朝鮮人の国籍が剥奪され、日本国内の各種補償法に基づく救済対象から除外された。一方、
韓国政府は 1974 年 12 月に制定した「対日民間請求権補償に関する法律」において、その支援
対象を「1945 年 8 月 15 日までに死亡した者の遺族」に限定したため、結果的に韓日両国政府
から「排除」される立場に置かれた。しかしながら、2006 年から 2007 年にかけて日帝強占下
強制動員被害真相糾明委員会(以下、「委員会」)に提出された被害者申告の調査結果によれば、
上述の「死没者名簿」には記載されていなかったが、1)船舶事故の状況、2)死亡日時、3)死
亡場所といった点から総合的に推察して、浮島丸沈没当時に死亡したとみられる事例が約 40 件
確認されている。さらに、2007 年に委員会が被害申告書を基に実施した生存者および遺族への
訪問調査においては、(同姓同名の可能性も否定できないが)ごく少数ながら「現在も生存して
いる者」が「死没者名簿」に記載されていたケースも報告された。このような状況から日本政府
が提示した「浮島丸死没者名簿」は、他の原資料との照合により事後的に「改ざん」されたので
はないかという疑念すら提起されている。
* 第二復員局残務処理部、「輸送艦浮島丸に関する資料」、1953.12.
日本側の真相調査および事後処理の結果が信頼に値しないとするもう一つの状況証拠は、事故
直後、海に投げ出された人々を救出するために海に飛び込んだ事故現場近くの日本人住民の証言
1. はじめに
13
からも確認できる。日本政府は事件発生直後、この件に関する報道を一時期厳しく規制してい
たにもかかわらず、周辺住民は一貫して「(舞鶴海兵団などの救助当局による遺体引き上げ措置
が終了した後も)まだ引き揚げられていない遺体が流れてきた」と証言している点に注目すべ
きである 2。加えて、回収された遺骨もすでに粉骨状態で、個体識別が不可能な状況であった。
したがって、当局は一体何を根拠に朝鮮人死亡者の正確な人数を「特定」できたのかという疑念
が生じた。例えば、引揚援護庁第二復員局残務処理部が第2次船体引揚に先立ち 1953 年 12 月に
作成した「輸送艦浮島丸に関する資料」によれば、当局により収容された遺体は 175 体、
病院で死亡した遺体が 7 体であり、家族や知人に引き渡された遺骨 29 体を除いた残り 153 体
は、舞鶴海兵団が指定した仮埋葬地に埋葬されたという。その後、第1次船体引揚の時期である
1950 年 4 月に、これらの遺骨を掘り起こし、舞鶴地方援護局に安置したと記されている。また、
当局は未収容の遺体の数を「367 体」と発表していたが、1954 年の第2次船体引き揚げの際
に収集されたと公表された遺骨の数も、偶然にも「367 体」と一致していた 3。これにより、実際に
回収された遺骨の個数とは無関係に、後付けで「数合わせ」を行ったのではないかという疑いを
持たせる結果となった。結局、日本政府による一連の不可解な説明と対応が、被害者と遺族に
「全死亡者名簿と全乗船者名簿の全面公開」を強く要求させる要因となった。
浮島丸事件の被害者および遺族たちは、日本の市民運動団体の積極的な支援を受けて、
1992 年から 2003 年にかけて日本政府を相手取った熾烈な訴訟運動を日本の法廷で展開した。
韓国において原告団を結成するまでに約 3 年間の準備期間を要したことから、この運動は総じて
15 年にわたる長期の法廷闘争となった。そのため、関連資料は第一審および控訴審の判決文に
とどまらず、原告側および被告側の主張の書面、証拠資料、尋問調書、副本などを含めて、合計
18 冊にも及ぶ膨大な量となっている。これは大型書架一棚を占めるほどの分量である。これらの
資料には、事件の前後における連合国最高司令部(GHQ)および日本政府の関連公文書、軍関係
の航行指令文書、事件発生直後から訴訟期間に至るまでの日韓両国の新聞報道や各種メディア
資料、浮島丸に乗船していた旧日本海軍関係者と韓国人乗船者(本人および遺族)の口述記録など、
多様な史料群が含まれている。これらの記録は、第一審での一部勝訴に続く控訴審での最終的な
敗訴という司法での結末とは別に、本事件の再調査と学術的研究のための極めて貴重な基礎史料を
提供した点から、高く評価されるべきである。
これを受けて韓国政府は、浮島丸事件訴訟の原告団および日本の市民運動団体の積極的な協力
を得て、2004 年の「強制動員被害真相糾明委員会」の発足に伴い、関連資料の副本を同委員会
に移管した。そして 2005 年 3 月 25 日に開催された第 6 次運営委員会において、「真相調査申
請案件(申請者:朴クォンジュン)で浮島丸事件の真相調査を審議・議決した。あわせて、全国
2 浮島丸事件発生当時、近隣の千歳村の区長であった竹内義一氏(報道当時 77 歳)は、次のように回想している。「海兵団による
遺体収容が終わった後も、港内に 7 体の遺体が流れ着いた。そのうちの一体は、白い服を着た女の子だった。いつまでも収容さ
れないので、村で遺体を沖に運び重しをつけて水葬した」、『京都新聞』、1985 年 8 月 8 日、「40 年目の海(14)」より。
3 『京都新聞』、1985 年 8 月 8 日、「40 年目の海(14)」の「遺骨」に関する記事を参照。
14 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
から寄せられた被害申告書を精査した結果、2007 年末時点で「338 件」の事件関連被害が確認
され、関連資料集の出版に加え、2008 年 5 月には日韓の専門家による浮島丸事件フォーラムを
開催するなど 4、一定の努力を傾注した。しかしながら、軍人・軍属および労務動員に関する膨大
な被害申告案件の処理負担と、調査人員の不足などを理由に、2010 年 12 月、委員会は浮島丸
事件に関する真相調査を職権で終了させた。その結果、他の真相調査案件とは異なり、最終結果
報告書が発刊されず、事実上「未解決」のままに終わることとなった。
たとえ韓国政府の委員会が最終結果報告書を発刊できなかったとしても、被害申告の受理およ
び調査という国家の公的活動を通じて、日本側が提示した根拠資料の問題点を明らかにしたとい
う点は注目に値する。その背景には、委員会の指導部が当初より強い調査意志を持ち、これを裏
付けるための体系的な被害申告電子管理システムを構築したことが大きく貢献している。また、
委員会発足後、比較的早い段階で浮島丸事件訴訟資料等の関連文書を入手し、韓国内の被害者に
対する口述資料の収集により、事実関係の複数での検証を試みた点も重要である。さらに、大湊
と舞鶴での現地出張調査を通じて、日本の市民運動団体から積極的な協力を得たことも、一定の
成果として評価できる。
しかしながら、事件の被害者および遺族が納得できる真相調査結果を引き出すことができ
なかった点、また、被害補償や未返還遺骨の問題といった緊急性の高い課題に十分に対応でき
なかった点では、韓国政府の対応は 2010 年当時の段階のままであると言わざるをえない。
このような背景を踏まえ、本研究は、2010 年に韓国政府の旧委員会が職権により真相調査を終
了した本「未解決事件」が、なぜ迷宮入りとなってしまったのかを明らかにすることを目的とする。
そのために、本研究では事件の原点に立ち返り、初期の真相調査での問題点を検討し、それ
が今日に至るまでどのような悪影響を残しているのかを整理することを試みた。この目的に
沿って、第2章では、事件の経緯および日本政府による事後処理の経過、在日朝鮮人団体(朝
鮮人連盟等)や被害者による真相究明の要求、連合国最高司令部(GHQ)および在韓米軍政庁
(USAMGIK)の対応といった側面から、初期の真相調査における問題点と、それによって引き起こ
された悪影響について整理する。そして第3章では、本事件が社会的に公論化されていく一連の
過程、浮島丸事件訴訟の中で展開された「基礎的事実」をめぐる攻防の内容、そして日韓両国の
対応のなかで表出した問題点などについて考察した。
これらの検討を通じて、当初から誤ってはめられた真相究明の「第一ボタン」が、現在に至る
まで社会的にどのような悪影響を残しているのか、またそれによって事件の被害者および遺族
団体が何を求めているのか、そして日韓両国政府が今後この問題にどのように向き合うべきかに
ついて、最終的に論じたい。
4 専門家フォーラムの参加者:田中宏(龍谷大学名誉教授)、山本晴太(浮島丸事件訴訟代理人)、青柳敦子(訴訟原告団事務局
長)、金昌禄(旧、強制動員被害真相糾明委員会委員)、田在鎮(浮島丸事件爆沈真相糾明会会長)、韓永龍(浮島丸事件被害者
賠償推進委員会会長)、李金珠(故、光州遺族会会長)、全承烈(浮島丸事件遺族原告団代表)、辛在植(永同日報記者)、および
総合討論の座長:崔永鎬(霊山大学教授)。
1. はじめに
15
2)先行研究と資料の現状
浮島丸事件に関する先行研究は、実質的には「訴訟およびそれに関連する運動」を支えるため
に、市民レベルで行われた事件調査のなかで作成された記録物や資料の解題が大半である。した
がって、これは一般的な学術研究における「先行研究」とは性格を異にするといえる。しかしな
がら、これらの資料および記録は、事件の真相に迫ろうとする日韓両国の市民たちが多大な努力
と労力を払って収集・整理してきた成果である。学界における本事件関連の研究が事実上ほとん
ど存在しない現状を踏まえるならば、それらの著作がどのような経過で刊行され、主要な内容が
何であるのかを把握することの意義は大きい。
もっとも、これらの著作は市民レベルでの真相究明運動と密接に結びついて生み出されたもの
であり、その運動の展開の過程と軌を一にしている点は、特に留意する必要がある。とりわけ韓
国国内においては、関連団体が 20 年以上にわたり「日本海軍による意図的な虐殺および爆沈」
を前提とした活動を続けており、その間に各種メディアや放送を通じて、そうした事件像が社会
的に広く浸透してきた。このため、それらの「確証」と異なる解釈や、それに反する資料を取り
上げること自体が躊躇されるという極めて困難な状況が存在することも、残念ながら付記せざる
をえない。すなわち、本事件の内容と規模、政治的性格、日韓関係、被害者・遺族団体の現実的
要求といった複雑な「外延」を考慮するならば、自由で開かれた「研究領域」を形成するには一
定の制約が伴っている状況にあることを、あらかじめ明記しておく必要がある。
以上の点を念頭に置いたうえで、本節ではこれまでの先行研究および関連資料の流れについて
整理する。
○ 在日朝鮮人団体による事件通報と GHQ の対応に関する資料
事件発生後、最初に日本政府に対して真相究明を要請した主体は、在日本朝鮮人連盟中央準
備委員会であった。周知のとおり、終戦とともに発足した在日本朝鮮人連盟(以下、「朝連」)
は、日本に居住する同胞のために「帰還援護」と残留者の「生活援護」の二本柱を基軸に、組織
を構築していった。したがって、日本の敗戦後、祖国への帰還を希望する朝鮮人たちが西日本の
各港に徐々に集まり始めた初期の段階で発生した浮島丸事件の事後処理は、朝連にとっても最大
の関心事であった。このような背景から、朝連中央準備委員会は 1945 年 9 月 10 日、日本政府
に対して迅速な真相調査を正式に要請した。しかし、日本側の対応が一貫して消極的かつ曖昧で
あったことから、朝連中央委員会は交渉の窓口を変更し、直接、連合国最高司令部(GHQ)に
対して事件を通報し、真相究明を要求、さらに関係者の処罰を求める交渉を試みた。
この一連の経緯は、GHQ/SCAP Records(RG331)Box No.1765 の「戦争犯罪報告(Report of
War Crime)」(1946 年 1 月 1 日付)という文書によって確認される。この文書には、1945 年
12 月 7 日付で、朝連青森支部の委員長である孫一(ソン・イル)(Son Kazu, Chief of Committee)
が、生存者の証言をもとに作成した事件報告書の全文が収録されている。この資料を検討した
16 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
GHQ は、最終的に朝連による「戦争犯罪としての提訴要求」を却下した。これにより、占領当局
が「証拠主義」を名目にして、この複雑な事件を意図的に回避しようとした可能性が推察される。
RG331, National Archives and Records Service 文書群
(GENERAL HEADQUARTERS SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS, Legal Section, Investigation Division,
Osaka Branch, Osaka, Honshu.)
* http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/doc17_02_001.pdf
* http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/doc17_02_025.pdf
1. はじめに
17
現在、韓国国内には、RG331(National Archives and Records Service)文書群のうち、浮島丸
事件に関する報告内容を含む文書が収集されており、朝鮮人連盟と GHQ の間で浮島丸事件の真
相調査に関する議論がどのように展開されたのかを検討することが可能となっている。さらに、
この件に関連して、GHQ 付属文書(浮島丸の運航に関する日本海軍の動向に関する無線傍受記
録など)も韓国内で収集されており、当時 GHQ が浮島丸に関してどの程度の情報を保有してい
たのか、その情報の質と内容を推察する手がかりとなっている。
○ 2 度にわたる船体引き揚げと遺骨返還をめぐる外務省と朝連の交渉
1950 年と 1954 年の二度にわたって浮島丸の船体引き揚げが実施された際、在日本朝鮮人連
盟は、すでに 1949 年 9 月の「解散命令」により組織として大きく勢力を喪失していた。しかし
〔朝鮮人団体は〕日朝協会などの支援を受けて舞鶴地方復員残務処理部に対し真相究明を求め、
調査への関与を試みた。しかし、日本政府は調査のなかで朝鮮人団体を徹底的に排除した。
その後、1970 年代初頭に身元が確認された強制動員犠牲者の一部遺骨が韓国へ返還された。
〔1972 年に結成された〕「朝鮮人強制連行真相調査団」は日本の東北地方を調査し、「意図的爆
沈説」を裏付ける証言の収集も行った。
日本外務省文書『艦艇遭難、漂流関係雑件』
* http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/data3_15_066.pdf
* http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/data1_03_017.pdf
18 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
また、1970 年代末からこの朝鮮人団体は日本の市民団体と連携し、京都・舞鶴において浮島
丸犠牲者の追悼行事を推進するとともに、「祐天寺における遺骨問題」を本格的に提起し、事件
の全容を日本社会に広く知らしめることに尽力した。さらに、2000 ~ 2002 年度に日本外務省
による第 16 次文書公開が始まった際、浮島丸事件関連ファイルおよび朝鮮人遺骨に関する資料
の韓国側へと移管するにあたり、最も迅速に対応したのもこの真相調査団であった。韓国政府
の旧「強制動員被害真相糾明委員会」は、これらの資料の複写を検討し、2006 年度に公開文書
全体をマイクロフィルム形式で正式に移管した。
この資料を通じて、1950 年に朝鮮人団体が浮島丸事件に関して日本外務省と交渉を行ってい
た事実が確認できるが、その際、外務省側は当該遭難事件を「不可抗力によるもの」であるとし
て補償を拒否していたことも明らかになっている。交渉は朝連の解散命令の後であるが、「浮島
丸沈没の真相調査並に溺死者の遺骨処理依頼に関して〔要請書〕」(1950 年 2 月 1 日)という文
書からは、朝鮮人団体が「日本政府が爆薬を仕掛けて爆破した」とする主張を強く訴えていたこ
とが読み取れる。また資料からは、現在に至るまで争点となっている溺死者の遺骨処理問題に関
して朝鮮人団体と日本政府との間で見解の相違が存在していたことがわかる。
〔この要請書で、朝鮮人団体は、浮島丸が「爆破沈没したもの」と記している。「爆薬を仕掛け
て、そのまま破壊しようとする事」という記述はあるが、これは船体の引き揚げに関する指摘で
ある。〕
○ 浮島丸の出航地および沈没地における市民運動団体の著作
日本政府および GHQ に対する、前述の朝鮮人連盟など在日朝鮮人団体による初期交渉活動の
記録とは別に、浮島丸の出航地および沈没地においては、戦後の平和運動および植民地支配への
反省を呼びかける日本の教職員組合所属の教師や市民運動団体によって、本事件に関する注目す
べき著作や資料集が刊行されている。
まず、出航地である青森県は本州と北海道を結ぶ戦略的要衝であった。この地域には大湊警備
府が置かれ、戦争末期には東北地方でも有数の空襲被災地でもあった。敗戦後、当地では反戦お
よび平和教育の実践運動が活発に展開された。1980 年代半ばには、原子力施設の建設をきっか
けに反核運動を媒介とする市民運動が急速に広がった地域でもあった。そして、こうした市民運
動の地平を「朝鮮人強制動員問題」へと拡張したグループが、元教員の斎藤作治らを中心とした
「下北の地域文化研究所」である。
本州最北端に位置する下北半島は、大湊警備府が管理していた軍事施設が集中する地域であ
り、多くの朝鮮人が道路・鉄道・建設作業のみならず、軍需物資の運搬等に動員された。これ
らの朝鮮人労働者の相当数が、後に浮島丸に乗船している。このグループは、平和教育の実践の
延長として「なぜ朝鮮人がこの地まで来ることになり、浮島丸に乗船することになったのか」と
いう問題を提起した。その成果が、『アイゴーの海』(1992 年、下北の地域文化研究所)という
1. はじめに
19
形で結実した。この書籍は、韓国でも『浮島丸爆沈事件の真相』(1996 年、ガラム企画)とい
うタイトルで「編訳」により出版され、本事件を韓国社会に広く知らせる上で重要な役割を果
たした。すでに 1980 年代半ばには、金賛汀による『浮島丸 釜山港へ向かわず』(1984 年、講
談社)が出版され、『新東亜』(1985 年 3 月号)などの時事雑誌で特集記事として抜粋・引用さ
れ、「爆沈説」が拡散するきっかけを与えたものの、その影響はまだ限定的であった。
* 下北の地域文化研究所の斎藤作治所長(中央)は、浮島丸に乗船した朝鮮人の強制動員の遺跡の保存と実践的な学習
活動を継続している(2005 年 10 月 22 日、青森県現地にて撮影)。
その後も、下北の地域文化研究所は『はまなす』という定期刊行物を通じて、浮島丸事件に関
する資料を継続的に発表してきた。とりわけ第 17 号「悔恨の海」(2002 年)では、浮島丸事件を
独立したテーマとして本格的に取り上げている。第 21 号『挫折した大間鉄道』(2005 年)では、
多数の朝鮮人が動員された青森県下北半島を横断する軍用線「大間鉄道」の歴史を、地域史的な
観点から整理している。これらの資料は、浮島丸に乗船した朝鮮人たちの強制動員に関する歴史を、
いわば「郷土史」の視点から捉えるという点で注目に値する。
もっとも、ここで注意すべき点は、これらの著作が韓国国内で紹介されるなかで、報道効果を
高め、韓国内ではあまり知られていなかったこの事件を広く社会的に伝えるという意図から、事
件のさまざまな可能性のうち「意図的爆沈説」が特に強調されたという点である。本来、斎藤作
20 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
治の著作は「爆沈・虐殺」に焦点を当てたものではなく、出航地である青森地域における朝鮮人
強制動員の問題を地域史の一部として捉え、そこから出航した朝鮮人たちが多数死亡した事件に
ついて、地域の市民社会が反省すべきだと訴えることが主眼であった。
また、金賛汀の著作も、浮島丸事件をきっかけに、しばらくの間、多くの朝鮮人が公式の送還
船への乗船を恐れて「私船/密航船」を利用して帰還する動きが広がり、それが在日同胞の帰還
援護活動に混乱をもたらした要因となったこと、さらに、帰還を見送り日本に残った在日朝鮮人
社会においても自己の安全に対する不安感が広がったことが、執筆者の当初の主要な意図であった。
この点は、2006 年に韓国政府の委員会が現地調査を行った際、筆者との面談において確認され
たものである 5。
* 舞鶴の浮島丸殉難者追悼実行委員会が収集した浮島丸事件関連の一次資料(2007 年 7 月 27 日、舞鶴現地にて撮影)
一方、沈没地点である京都府舞鶴では、現在も「浮島丸殉難者追悼実行委員会」が中心となり、
毎年 8 月 24 日に日韓市民が共に参加する追悼式典を主催している。この団体は、浮島丸の
5 韓国政府委員会調査 2 課・遺骸チームによる日本出張調査。2005 年 10 月 18 日、神奈川県横浜市、金賛汀から、『浮島丸、
釜山港に向かわず』の編纂経緯、1980 年代初頭における舞鶴での現地調査の結果、日本国内でのドキュメンタリー制作の経緯、
当時の生存者証言の調査内容などについて聞き取り。また 2005 年 10 月 22 日、斎藤作治から下北地域の朝鮮人動員地の調査、
関連資料の出版経緯等聞き取り。
1. はじめに
21
第 2 次船体引き揚げが行われた 1954 年に結成された。その後、1964 年に野田幹夫および須永
安郎らの中心メンバーが「日朝協会」舞鶴支部の結成に参加し、追悼式典を「日朝友好の契機」
として位置づけ、1975 年からは追悼碑建立運動を本格的に展開するようになった。当時、現職
教員であった野田は、すでに 1962 年から学校内の民族差別問題の解消を目指し、朝鮮および朝
鮮人の歴史に関心を持ち続けていた。また須永はシベリア抑留経験を持つ元捕虜であり、戦争
の悲惨さを体験した人物である。彼らを支援したのが、当時の舞鶴市長・佐谷靖であり、彼は
1960 年代初頭の冷戦下においても旧ソ連の都市と姉妹都市提携を結ぶほどの進歩的な市政を展
開したことで知られている。
1989 年、この団体はそれまでの活動をまとめ、『浮島丸事件の記録』を刊行した。この書籍
では、事件の全体像、さまざまな疑惑、そして活動の中で発掘された関連資料が紹介されている。
また地方紙『京都新聞』は浮島丸事件を継続的に連載し、地域市民への情報発信に大きく貢献した。
特に事件 40 周年を迎えた 1985 年には、全 15 回にわたる特集記事を企画・掲載し、地域読
者から多くの証言や資料の提供を受ける契機となった。このとき入手された資料のひとつが、
「浮島丸死没者名簿」である。この名簿はもともと、在日同胞の尹日山住職が万寿寺で保管して
いた写本であった。そのほかにも、彼らは古書店から『大海令』の復刻版を入手し、出航と進路
変更の経緯に関する GHQ の指示と日本政府の説明を比較検証するための根拠史料を収集した。
このグループの次世代の活動家として事務局長を務めた品田茂は、『爆沈・浮島丸 歴史の風化
とたたかう』(2008 年、高文研)を著し、注目を集めた。品田は舞鶴市役所の職員として、市
が所蔵する資料や地域住民の証言をもとに、事件をめぐる様々な疑問点を整理した。彼は、占領
当局の意向を受けた『大海令』により浮島丸が舞鶴方面へ進路を変更したことは明らかであり、
また浮島丸が舞鶴に入港した航路は、従来の日本側乗組員の証言とは異なり、「機雷が完全に撤
去された安全航路」であったとする当時の海軍大尉の証言を引用し、日本政府の公式見解である
「触雷説」に正面から反論し、韓国国内でも大きな注目を集めた。
〔品田茂は『爆沈・浮島丸 歴史の風化とたたかう』(58 頁)で、「触雷か、自爆か」の「決定
的な証拠は明らかになっていない」。「仮に触雷が原因だったとしても、機雷の位置を記した海図
を焼却させたのは誰だったのか。日本政府の責任は明らかである」とし、沈没原因は未解明と指
摘している。〕
○ 韓国側原告団を組織し、浮島丸事件訴訟を推進した市民グループ
「日本国に朝鮮と朝鮮人に対する公式陳謝と賠償を求める裁判をすすめる会」は在日同胞の宋
斗会を中心に日本の市民とで結成されたグループである。山本晴太弁護士および青柳敦子原告団
事務局長の献身的な活動により、1989 年からの 3 年間にわたり韓国を訪問し、被害者および遺
族を探し出して原告団を結成した。そして、1992 年から 2003 年までの 12 年間にわたり、浮
島丸事件の訴訟を牽引した。当時、事件に関する文献資料や証言記録が極めて乏しい中で、訴
22 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
訟を準備・遂行した一連の経過を詳細にまとめた書籍が、『報告・浮島丸事件訴訟』(南方新社、
2001 年)である。この書籍は、解放から 40 年以上が経過し、韓国各地に散在していた生存者
および遺族を一人ひとり訪ね歩いて原告団を組織した経緯、第 1 次および第 2 次訴訟で繰り広
げられた熾烈な法廷闘争、さらに準備書面作成のなかで収集された事件関連資料などについて、
極めて詳細に記録している 6。
* 浮島丸事件訴訟原告団の事務局長として、資料収集から原告団の編成に至るまで積極的に活動した青柳敦子氏(2007 年
7 月 20 日撮影)
このグループの訴訟支援活動および付随資料の刊行が持つ意義は、概ね以下のように整理する
ことができる。
1) これまで韓国と日本において個別・分散的に行われていた浮島丸事件の真相究明の活動
団体を結び付け、日韓両国においてこの事件を広く社会的に知らせる役割を果たした。
6 これらの資料は『浮島丸事件訴訟資料集』第 1 巻(2006 年、原告準備書面における事実関係)、『浮島丸事件訴訟資料集』第 1 巻
(2006 年、政府関連資料)、『浮島丸事件訴訟資料集』第 8 巻(2008 年、韓国市民運動団体による調査など)に収録。補完資料
として、青柳敦子編『浮島丸事件訴訟と全承烈さん 遺骨問題の新たな展開に向けて』(改訂版 2013 年)がある。
1. はじめに
23
2) 裁判において巧妙な論理で対応してきた日本政府に対抗するための資料的根拠や反論の論
理を構築し、他の戦後補償訴訟にも応用可能な模範的な先例を残した。
3) 旧植民地出身者による戦後補償請求に対し、差別的かつ二重基準を適用してきた日本政府
および司法の姿勢に対し、真正面から異議を唱えた最初の訴訟であり、第 1 審で一部勝訴
を勝ち取ったことで、今後の訴訟の突破口となった。
4) 逆説的ではあるが、本訴訟は韓国政府の無関心と韓国市民運動の限界を如実に示す戦後補
償運動でもあり、韓国社会と学界に対して自省の契機を与えるものとなった。
5) 訴状に記載された「特定の争点」に対する証拠資料を収集・発掘するなかで、初めて朝
鮮人の動員・乗船・沈没・事後処理に関する資料を体系的に整理し、浮島丸事件の関連資
料を集大成する契機となった。
○ 韓国政府委員会による本事件関連の刊行物
2005 年から 2008 年にかけて、韓国政府の真相糾明委員会は、前述の浮島丸事件訴訟原告団
資料の複写を移管し、被害申告者の身元確認に活用するとともに、新聞記事、訴訟関連の資料等
を資料集として刊行した 7。これらの資料集は、本事件に関する基礎的事実の整理と、資料所蔵機
関の情報を体系化する契機となった。
なかでも、日韓両国における浮島丸事件報道記事資料集は、日本の新聞記事 40 編、韓国国内の
新聞記事 16 編、計 56 編の「企画記事」「特集記事」「連載記事」を収録しており、これにより、
出航時の状況、航路変更、沈没時の状況および事故後の処理の経緯を一貫して把握できる。
また、時期ごとの報道内容の変化を検討できるという点でも重要な資料である。特に、出航や
沈没に関する当時の日本人の目撃証言は、韓国側生存者の口述資料と内容を相互検証するうえで
非常に有用である。
また、訴訟資料集第 1 巻・第 2 巻は、控訴審を含む約 3 万 5,000 ページに及ぶ訴訟資料の中
から、主要な内容を精選・整理したものであり、浮島丸事件をめぐる主要な争点、事実と解釈を
めぐる攻防の過程を精密に把握できる点で意義深い。最後に、日韓専門家フォーラム資料集は、
韓国と日本の研究者・活動家が、それぞれ学術的・市民運動的観点から本事件をどのように見据え、
今後の学界と市民運動団体との建設的な協力体制の在り方について総合的に議論しているもので
あり、意義深い資料集となっている 8。
7 『浮島丸事件資料集新聞編』(2006 年)、『浮島丸事件訴訟資料集』第 1 巻・第 2 巻(2007 年 12 月)、『浮島丸事件関連日韓専門
家フォーラム資料集浮島丸事件の主要争点に対する再照明』(2008 年 5 月)。
8 浮島丸事件訴訟の弁護人である山本晴太弁護士は、本事件の原因が「触雷」であれ「爆沈」であれ、事件の根本が日本の強制動
員政策に起因するという点を法廷で公的に認めさせることを目指していた。そのため、準備書面や証拠資料が学術的な観点から
はやや粗雑に見える可能性があることを認めつつ、研究者による積極的な補完と協力を要請した。また、韓国側からは金昌禄委
員が浮島丸事件訴訟の意義と限界を指摘したほか、関連団体の田在鎮会長および韓永龍会長が参加し、他の強制動員被害事案に
比して、韓国政府が浮島丸事件の真相究明および被害者支援において消極的であると強く批判し、積極的な政策転換を求めた。
24 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
○ 韓国学界における浮島丸事件関連「資料学」共同研究の成果
2004 年度に韓国政府の真相糾明委員会が発足し、解放以降初めて国家レベルで本事件の真相
調査に着手することとなった。しかし、担当調査官の退職、調査人員の不足、過剰な被害者判定
業務などの理由により、最終報告書の発刊には至らず、2010 年に調査は打ち切られた。そのた
め、以後、政府レベルではこれといった成果が生まれなかったが、2013 年から 2015 年にかけ
て、韓国研究財団の基礎研究支援事業において、『日帝強占期の強制動員被害者帰還に関する資
料研究』9 が「資料学」分野で採択され、強制動員被害者の帰還過程で発生した海難事故に関す
る資料が大幅に補完されるという成果を挙げた。このとき活用された資料の多くは、すでに韓国
政府の真相糾明委員会が複写の形で所蔵していたものであった。しかし本研究では、途中で欠落
していた史料や、関連資料が欠けて断片化されたままの資料について、その原本を新たに収集・
補完することで、全体的な資料の完結性を高めたという点で、極めて意義深い作業であった。
* 『日帝強占期の強制動員被害者帰還関連資料研究』(2013 ~ 2015)の資料学アーカイブ
本アーカイブは、大きく以下の 3 つのテーマに分類されている。1)日本政府および米軍政の
朝鮮人帰還政策に関する資料、2)浮島丸事件の沈没に関連する資料、3)海難事故および浮島
丸事件訴訟に関連する資料である。
9 『日帝強占期の強制動員被害者帰還関連資料研究』(2013 ~ 2015)、課題番号:2013S1A5B4A01044636、研究責任者:申辰、研
究機関:忠南大学国家戦略研究所。本事業は 3 年間にわたって延べ 16 名が参加した大規模基礎研究事業である。詳細は韓国研
究財団の研究管理システム(KRM,KoreanResearchMemory:基礎学問資料センター)にて公開:https://www.krm.or.kr/krmts/
search/detailview/research.html。以下、本研究に基づく関連資料の出典は、韓国研究財団基礎学問資料センター(www.krm.
or.kr)が提供する PDF 原文提供サービスのコード番号によって表示する。
1. はじめに
25
このうち、浮島丸事件に関連する資料には、日本政府および GHQ が作成した運航・沈没に関
する報告書、朝鮮人の死亡に関連する資料、運航に関する海軍電報通信文書(大海令、大海指、
寄港命令)、浮島丸事件に関する訴訟資料(第一審および控訴審)、GHQ/SCAP の占領統治資料
(K-7 Korea: Repatriation of Koreans in Japan)、韓日両国の新聞報道資料、生存者および遺族の
口述記録(既録音の証言も含む)などが含まれている。現在、この共同研究プロジェクトを通じて
収集された浮島丸事件関連資料は、総計 983 件の一次資料(原資料)として PDF 形式で整理
され、韓国研究財団の基礎学問資料センターのデータベース原文閲覧システムを通じて、研究者に
提供されている。
本アーカイブの最大の成果の一つは、韓国政府の旧真相糾明委員会がイントラネット上で内部
職員のみ閲覧可能だった資料を、高解像度で再構成し、一般研究者にも広く開放したことにより、
資料アクセスの利便性を飛躍的に向上させた点である。さらに、真相糾明委員会所蔵資料に
とどまらず、約 20% の追加資料を新たに収集し、写真や地図などの資料群を大幅に補完した点も、
本アーカイブの重要な特徴である。ただし、資料の利用にあたっては、いくつか留意すべき点が
存在する。
現在のアーカイブシステムは、研究者が事前に資料の内容や性格、その文脈をある程度把握し、
「原文確認」や高解像度での「活字判読」を目的として利用する場合には、非常に有効である。
しかしながら問題は、資料を新たに検索しようとする研究者にとって、その資料がどのような
性格のものであり、どのような文脈で作成されたのかを把握するのが困難ということである。なぜ
なら、現在の DB(データベース)でのメタ情報が、文書名、生産者、そして 2 ~ 3 行程度の
簡単な内容紹介しか提供されていないからである。その結果、浮島丸事件に関する全体的な知
識を十分に持たない研究者や、これから新たに関心を持ち始めた若手研究者には、アクセスの
ハードルが高くて利活用が難しい状態であり、「扱いづらい原文提供サービス」となっている。
このことは、同プロジェクトを通じて膨大な資料が収集されたにもかかわらず、それらを活用し
た研究成果が、プロジェクトの最終報告書 1 件と、遺族インタビューを整理した論文 1 本 10 にと
どまっているという点からも明らかである。
特に本研究に関連して残念な点は、現在、かつて韓国政府の委員会がイントラネット内で構築
していた「資料相互の関連検索システム」が、利用できないということである。たとえば、委員
会が被害者判定のために使用していた「被認定資料検索システム」では、仮に浮島丸事件の被害
者である可能性がある申請があった場合、氏名、動員地、動員日、召集解除日あるいは死亡日
などの情報を確認し、軍属動員である場合は「軍人軍属身上調査票」を、一般の労務動員の場
合には「日帝期被徴用者名簿」などを、同一システム上で閲覧することが可能であった。これに
より、申請者の被害の有無を確認すると同時に、被害申告書に記載された被害内容を既存の浮島
丸事件関連資料と照合・検証することができた。しかし問題は、このように有用な検索システム
10 金インソン、「口述調査を通して見た浮島丸訴訟参加者の事件に対する記憶と認識」、『民族研究』第 65 号、2016。
26 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
が、委員会の解散とともに資料が国家記録院へ移管されたことにより、同機関の検索システムに
統合されることがなく、その利点を活用できなくなったことである。
それにもかかわらず、浮島丸事件の真相究明および被害者支援に関して 2010 年以降、政府
レベルで事実上目立った対応がなされていないという状況の中で、民間、特に学界が積極的に
動くことで、事件の真実に一歩近づくための学術的基盤を提供したのであり、その意義は非常に
大きいと評価される。以上をふまえ、本研究では、韓国政府の旧真相糾明委員会が所蔵していた
資料群を拡張・補完した本アーカイブを最大限活用することにした。
3)
「基礎的事実」をめぐる事件の主要争点
これまで述べてきたように、浮島丸事件が学界から長らく敬遠されてきた要因は、事件の内容
と規模、政治的性格や日韓関係、被害者および遺族関連団体の現実的な要求など、事件の複雑な
「周縁的要素」である。しかし、特に歴史学界が本格的な研究に踏み出せなかった最大の理由は、
基礎的事実に関して取り扱うべき膨大な資料群の存在、史料批判の困難さ、そして解釈をめぐる
有形無形の社会的圧力が複合的に作用したからである。その結果、現在に至るまで私たちは
「この船が 1945 年 8 月 24 日午後 5 時 15 分から 20 分の間に、京都府舞鶴湾に入港する過程で
『原因不明の爆発』により沈没した」という事実以外には、何一つ明確に解明されていない。その
中でただ「事実認定」をめぐる論争だけが繰り返されているのが現状である。この事件に関して、
依然として十分に解明されていない「基礎的事実」に関する主要な争点は、以下のように整理で
きる。
- 乗船者数:本件の被害規模に直結する最も基本的な問題である。日本側の公式発表によれ
ば、朝鮮人乗船者は 3,725 名、日本海軍の乗組員は 255 名とされている。しかしながら、
韓国側の被害者および関係者らは、実際の乗船者数はこれより少なくとも 2 倍、多ければ
4 倍に達していたと主張している。
- 乗船者の渡日経緯および日本での生活実態:韓国側の証言によれば、本船に乗船していた
朝鮮人はすべて「強制動員」によって日本に渡った者たちであり、青森県下北半島を中心と
する軍事関連の建設現場や炭鉱などで働いていた「軍属」または「徴用工」であったとさ
れる。
- 乗船および出航の経緯:韓国側の被害者は、青森県大湊海軍警備府の「強要」により乗船さ
せられたと証言しており、さらには日本海軍内部においても出航を拒否する動きがあったと
いう証言も複数存在している。したがって、出航命令の命令系統を明らかにし、もし軍上層
部の一方的な命令による出航であったならば、「なぜそのような命令が下されたのか」という
点を明確にする必要がある。また、正確な出航地点についても、かつて北海道「室蘭説」と
青森「大湊説」が併存していたことから、その真偽についても再確認が求められる。
1. はじめに
27
- 航路変更に関する事前通知の有無:韓国側の被害者らは、当初この船は釜山への「直航」を
予定していたが、「爆沈」を目的として故意に航路を変更したと主張している。一方、日本
政府は GHQ による航行禁止命令(Requirements Document No.3)に基づき、航行中に最も
近い港である舞鶴港へ寄港せざるをえなかったと主張している。したがって、航路変更の
「故意性」および「意図」について検証が必要である。あわせて、乗船時あるいは航行中に
朝鮮人乗船者に対し、航路変更に関する事前告知があったかどうかについても確認する必要
がある。
- 舞鶴入港時の状況:日本側が主張する「触雷」説に関連して、舞鶴近海の掃海(機雷除去)
状況を確認する必要がある。入港時に「掃海完了」の信号を見たという証言と、機雷掃海
に関する措置がまったくなかったという証言が相反しているため、事実関係の整理が求めら
れる。
- 沈没直前における日本人乗組員の脱出の有無:舞鶴湾での爆発直前、日本海軍の乗員がゴム
ボートを下ろし、甲板上にいた朝鮮人に対して「船内に入れ」と命じたという証言がある。
被害者らは、これを朝鮮人を意図的に殲滅するための準備行動であったと解釈しており、その
真偽の確認が必要である。
- 沈没の原因:意図的な「爆沈」か、偶発的な「触雷」かを分ける重要な根拠の一つが、爆発
の回数および爆発時に伴った水柱の有無である。この点に関しても各種証言が食い違っており、
事実の確認が求められる。
- 沈没時の救助状況:沈没当時、舞鶴近海において日本海軍および一般市民による救助活動が
行われたことが知られている。これに関連して、救助の方法や規模、救助に関わった人数、
救助者の受け入れおよび負傷者の治療、さらには事後の援護措置について詳細な調査が求め
られる。
- 死亡者および生存者数:日本側は、死亡者数について「朝鮮人 524 名、日本海軍 25 名」と
主張している。しかし、韓国側の被害者や関係者は、そもそも乗船者数自体が過少に報告さ
れていると主張しており、死亡者数および生存者数の再調査が必要である。
- 生存者の救助後の帰還過程:生存者のうち負傷者に対する治療措置や、その後の帰還過程
での支援措置についても情報の補完が求められる。
- 遺体処理の過程:事件発生直後、浮島丸が直ちに引き揚げられなかった結果、遺体収容の経
緯が不明確なままであるため、その実態を調査する必要がある。
- 1954 年の第 2 次船体引き揚げおよび発掘された遺骨の東京・祐天寺への移管経緯:船体の
引き揚げ経緯はもちろん、引き揚げの過程で発見された遺骨が祐天寺へと移管された経緯に
ついても明らかにする必要がある。さらに、いまだ放置されている遺骨の存在有無について
も調査が必要である。
28 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
以上において、現在に至るまで明らかにされていない本事件に関する「基礎的事実」を整理した。
しかし、日本政府がこれら関連資料を現在も保有しているのか、それともすでに廃棄してしまっ
たのかすら定かではない状況において、これらのいずれか一項目についてすら、真相を明らかに
することは極めて困難であると言わざるをえない。
この問題は、韓国人の被害が単なる「強制動員」にとどまらず、解放後の帰還過程においても
被害が加重されたという点に注目した「解放後、海外在日韓人の帰還問題研究」(共同研究)11 に
おいても、いまだ十分に解明されていない。また、前述した「資料学」分野における共同研究
でも、「沈没関連資料」の中で明確な「爆沈」の証拠を提示するには至らなかった。さらに、韓国
政府の真相糾明委員会も 6 年間にわたり調査を進めたものの、最終報告書を作成することなく、
調査を職権で終了した事実からもその困難さが明らかである。
本研究は、こうした「基礎的事実」の重要性と、それを解明することの困難性の双方を認識し
たうえで本事件が最終的に迷宮入りするに至った根本的な原因を、事件の経緯、日本政府の事後
対応、連合国最高司令部(GHQ)および在韓米軍政庁の対応の経過を通じて明らかにしようと
する。これを通じて、初期の真相調査段階で「最初のボタン」を誤って掛けたことが、いかに長
期にわたって被害者および遺族に対して被害と悪影響を加重させてきたのか、そして現段階で日
韓両国政府がこの問題に今後どのように対応すべきかを整理することを目的とする。
11 『解放後、海外在日韓人の帰還問題研究』(2002 ~ 2005)、研究責任者:国民大学張錫興教授、研究課題番号:2002-073-
AM1014。
[日帝強制動員被害者支援財団徐寅源提供]
1)
解放後、日本地域在住朝鮮人の帰還状況
2)
事件の展開および事後処理の過程
3)
朝連による真相調査の要求と GHQ・在韓米軍政庁の対応
事件の展開と真相調査の経緯
2
32 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
2 事件の展開と真相調査の経緯
1)解放後、日本地域在住朝鮮人の帰還状況
○ 日本地域からの帰還者の規模
1945 年 8 月時点で約 1,600 万人であった朝鮮南部の人口は、1946 年末までの約 1 年半の間に
約 300 万人も急増した 12。このような人口の変動は、戦後日本社会と比較しても極めて著しいも
のであった。日本の場合も、敗戦後およそ 3 年間にわたって、1945 年の本土人口を基準に年間
およそ 9~10%の増加率を記録している 13。しかし韓国では、それよりもさらに 7~8%ほど高
い増加率を示した。この事実は、戦後日本社会と比べて、解放後の南韓社会が海外からの帰還者
流入によってより大きな衝撃を受けたことを物語っている。同時にこれは、日帝の統治末期に
至るまで朝鮮人に対する強制動員や海外移民がいかに多かったかを示す証拠でもある。すなわち、
植民地支配の結末が、解放後の急激な人口増加として現れたものといえる。
解放後、帰還者の主な流入経路は、38 度線を越えて南下する「大陸ルート」と、釜山港を中
心とする「南海岸ルート」に二分される。このうち、米軍政が公式の送還港として指定した釜山
港とその周辺の大小さまざまな非合法な密航船の停泊港(漁港など)では、主に日本および太平
洋方面に動員されていた者たちの帰還が行われた。GHQ は、終戦直前に日本に居住していた朝
鮮人の数をおおよそ「200 万人」と推定している 14。そのうち、強制動員された者の規模につい
ては諸説あるが 15、解放直前の日本在住朝鮮人が約 200 万人に達していたという点は、定説とし
て広く受け入れられている。
この日本在留朝鮮人約 200 万人のうち、在韓米軍政庁の統治がほぼ終了しつつあった
1948 年 3 月までに南朝鮮へ帰還した者は、朝鮮銀行調査部の資料によれば「約 140 万人」と
推定されている 16。ところが、1947 年末、日本総務省統計局および引揚援護庁の統計によると、
12 尹鍾柱、「解放後におけるわが国の人口変動の社会史的意義」『人口問題論集』第 27 号、人口問題研究所、1986 年、17 ~ 18 頁。
13 総務省統計研修所、『日本の統計』2006 年、8 頁。
14 GHQ/SCAP、『SummationofNon-MilitaryActivitiesinJapanandKorea』、1945 年 9–10 月号、127 頁;『朝日新聞』1959 年 7 月
13 日付;森田芳夫『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』、明石書店、1996 年、33 頁の表1によれば、1944 年内務省の統計
では日本に居住する朝鮮人は「1,936,843 人」と集計されている。
15 姜萬吉・庵逧由香、「解放直後における強制動員労働者の帰還政策と実態」、『アジア研究』第 45 巻第 2 号、2000 年、72 ~ 73 頁
によると、1939 年に約 96 万人だった日本居住の朝鮮人が、1944 年には約 193 万人に増加した背景には、「移入労働者」の
流入が大きく影響したとされている。一方、韓国政府は「朝鮮半島外への労務動員」の総数を 1,045,962 人と推定し、そのう
ち日本地域への動員者数を 798,043 人と見積もっている。軍人・軍属の場合は、朝鮮・満州・中国が約 4 万人、南方地域が
36,535 人、日本地域が 69,997 人とされている(対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会、『委員会
活動結果報告書』2016 年、126 ~ 129 頁)。
16 1948 年 3 月現在、日本からの帰還者数は 1,407,255 人と集計されている(朝鮮銀行調査部、『経済年鑑』1949 年、第Ⅵ章、
238–239 頁)。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
33
当時「外国人登録」を完了した朝鮮人の数は「52 万 9,907 人」であった 17。すなわち、終戦直前の
約「200 万人」という推定を基準とすれば、1947 年後半の時点で日本に残留することを選択した
およそ 53 万人を除いた「147 万人」が、一旦は日本を離れたことになる。この数値は、前述の
朝鮮銀行調査部の資料における推定値とほぼ一致する。
一方、日本の厚生援護局および連合国総司令部(GHQ)が「送出地統計」を基準に作成した
朝鮮人送還者の累計は、1946 年 3 月の時点で約 94 万人、1950 年末の時点で 104 万人と推定
されている。これは、先に述べた朝鮮銀行調査部の推計よりも実に「36 万人~ 46 万人」も少
ない数値である 18。この差異は、日本政府および GHQ が朝鮮人の送還に関するデータをいかに
杜撰に管理していたかを示すものである。と同時に、1945 年 8 月以降、わずか数か月の間に
密航船によって急速に流入した私的帰還者がそれだけ多かったことを示す重要な指標でもある。
結局、この 30 万~ 40 万人に及ぶ未集計者は、公式の送還船ではなく密航船を利用した私的帰
還者、米軍の送還当局の統計から漏れた者、日本で実施された外国人登録に応じなかった者、
そして帰還途中の海難事故により死亡した者などが複合された結果と推定される 19。
* 在韓米軍政庁『G-2 報告書』に基づく、日本から南朝鮮への月末時点の帰還者累計
このように、海外から帰還した朝鮮人帰還者の統計が大きく混乱した背景には、連合軍の進駐
後も公式な送還船の準備に相当の時間を要したこと、そして GHQ と在韓米軍政庁との間での送
還者および帰還者に関する集計システムが、解放後 1 ~ 2 か月を経てようやく稼働を開始した
という点が影響していると考えられる。
17 森田芳夫、『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』、1996、明石書店、103 頁。
18 山根昌子、『朝鮮人・琉球人帰国関係資料集』、1992、新幹社、291 頁。
19 朴慶植、「太平洋戦争時における朝鮮人強制連行」、『歴史学研究』297、1965、43 ~ 44 頁;USAMGIK、『G-2Periodicreport』
1946.2.28.「AbroadUncontrolledShippingfromJapan」;日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会、『強制動員口述資料集』第 1 巻
(2005 年、「炭鉱だって?」)および第 3 巻(2006 年、「ポンポン船に乗って帰る途中、海の亡霊になるところだった」)に収録
された帰還過程に関する口述内容を参照。
34 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
代表的な米軍側の帰還者統計資料としては、GHQ の報告書(「Summation」) 20 および在韓米軍政
庁の報告書(「G-2 報告書」)21 の各月次報告が挙げられる。これらの資料はいずれも 1945 年 10 月
から、月単位で南韓と日本から送還された朝鮮人と日本人を累積して集計している。
解放後、南韓地域への朝鮮人帰還人口および在朝日本人の送出者累計
項目
集計期間
朝鮮人帰還者
日本人送出者
日本から流入した人口
南韓に流入した総人口
民間人
軍人
年度
月
G-2
Summation
G-2
G-2
G-2
1945
10
184,262
160,000
-
92,532
110,000
11
490,158
405,602
-
296,170
176,627
12
788,979
620,219
1,298,333
469,981
178,644
1946
1
*924,256
686,984
1,451,722
478,182
178,732
2
766,005
768,209
1,514,422
484,803
178,752
3
833,278
未詳
1,626,250
497,302
178,752
4
864,077
875,113
1,709,353
521,565
179,261
5
882,252
未詳
1,797,796
559,686
179,277
6
890,606
891,705
1,836,241
600,281
179,277
7
891,662
898,822
1,843,386
602,949
179,277
8
901,649
908,554
1,861,194
617,025
179,277
9
908,864
915,500
1,873,788
641,820
179,277
10
-
918,143
-
-
-
11
-
925,474
-
-
-
出典: USAFIK『G-2 Periodic Report』の「progress of repatriation」および GHQ / SCAP『Summation of Non-Military
Activities in Japan and Korea』の「repatriation」項目に記載された月別集計数値に基づき作成。
* 1946 年 1 月の G-2 報告書の数値(924,256 人)には、「185,156 人の密航者を含む」と明記。
上記の表における在韓米軍政の「G-2 報告書」の数値は、海外から帰還する朝鮮人および韓
国(南部)から日本へ送還された日本人に関する統計であり、在韓米軍政外務局難民課が在韓
米軍政情報部へ報告した結果である。この資料の注目すべき点は、1946 年 1 月の集計から「日
20 在韓米軍司令部、『米軍政活動報告書(SummationofU.S.MilitaryGovernmentActivitiesinKorea)』、原州文化社(以下
「Summation」と略称)。〔GHQ / SCAP「SummationofNon-MilitaryActivitiesinJapanandKorea」〕。
21 韓米陸軍司令部情報参謀部、「米軍政情報報告書(G-2PeriodicReport)」第 1 ~ 5 巻、一月書閣、1986 年(以下「G-2 報告書」
と略称)。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
35
本からの非統制航行(Abroad Uncontrolled Shipping from Japan)」という項目が新たに追加さ
れており、これは 1945 年の終戦以降、年末まで当局によって公式に集計されなかった帰還者が
「18 万 5,156 人」に上ることを、数値下に付記している点である。その結果、この部分は上記
グラフにおいて、1946 年 1 月~ 2 月の区間でわずかに内側に凹んだ曲線として表示されている。
すなわち、この「非統制帰還者」数を総累計から差し引いたうえで、1946 年 2 月以降は公式
に集計された帰還者数のみを反映した結果である。残念ながら、米軍政当局の報告では、この
18 万 5,156 人という「非統制で流入した」帰還者数をどのように推計したのかについての根拠は
明示されていない。しかしながら、この数値は、日韓間の人口移動に対する公式集計システムが
稼働する以前、あるいはその後も、密航船を利用した「私的帰還者」が無視できない規模で存在
していたことを、客観的に示している。米軍当局は、1945 年 8 月から同年 12 月の間、特に長期
滞在の一般在日朝鮮人よりも、植民地支配末期に強制動員された「集団移入労務者」の間で、私
的な帰還が広範囲かつ頻繁に行われたと把握していた。
要するに、終戦前後における約 200 万人の在日朝鮮人のうち、1946 年末から施行された外
国人登録を受けた約 52 ~ 60 万人を除いた「140 ~ 148 万人」が韓国(南部)地域に帰還し
たと推定される。その中でも、在韓米軍政が指摘したように、「非統制帰還者」によって、主に
1945 年末までの間に密航船を利用した帰還が盛んに行われたと推測される。
○ 解放直後の日本在留朝鮮人の帰還環境と浮島丸事件の影響
1945 年 8 月前後から同年末まで盛んに行われた「密航船」による帰還は、敗戦後の日本に滞
在していた朝鮮人の帰還環境や帰還過程で頻発した海難事故、そして浮島丸事件との相互関連性
の側面から注目すべき現象である。その一例として、『浮島丸 釜山港に向かわず』の著者である
金賛汀は、浮島丸事件の噂が帰還を待っていた在日朝鮮人社会に広く拡散された結果、人々がし
ばらくの間、公式の送還船に乗ることを恐れ、このような現象が送還港、送還日、送還規模を配
分しなければならない送還当局や在日本朝鮮人連盟の帰還支援活動に支障をきたすほどだったと
述べている 22。これは浮島丸事件が発生した後、事故地域である京都に住んでいた日本人ですら
「報道統制」により、数か月、あるいは数年後になってようやくこの事件の噂を耳にした者が多
かったが、他方、帰還を準備していた朝鮮人たちの間では、事件発生後わずか 1 ~ 2 週間の間
に急速にこの噂が広がったという事実からも裏付けられる 23。したがって、浮島丸事件が敗戦直
後、日本で帰還を準備していた朝鮮人たちに与えた影響については、当時の状況とあわせて検討
する必要がある。
22 強制動員被害真相糾明委員会調査 2 課遺骸チーム「日本出張報告書」、金賛汀(2005 年 10 月 18 日、神奈川県横浜市にて口述
記録)、『浮島丸釜山港に向かわず』の編纂経緯、1980 年代初頭の舞鶴現地調査時に新たに発掘された事件関連の内容、日本
現地でのドキュメンタリー制作経緯、当時の日本人生存者の証言調査の内容などを聴取。
23 万寿寺の住職であり、在日本朝鮮人仏教徒連盟副委員長であった尹一山が、1945 年秋に開催した犠牲者の慰霊祭に出席した朝
鮮人に関する証言、および京都・舞鶴に嫁いできた金順千の証言を参照。『京都新聞』1985 年 7 月 28 日付「40 年目の海(5)」。
36 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
敗戦前後に日本へ動員された朝鮮人たちは、一刻も早く帰還しようとする思いから、朝鮮半島
に比較的近い西日本の下関、仙崎、博多などに集まった。しかし、日韓間で最も古い航路である
釜山-下関ルートは、米軍の空襲と機雷の敷設によって 1945 年 6 月から閉鎖されており、補助
的な航路として一時的に博多が利用されたが、やはり相当な掃海作業が必要だった。その結果、
これらの港周辺には、長期間野宿をしながら船便を待つ朝鮮人たちであふれていた 24。そのよう
な中で、解放後に最初に稼働した日韓間の主要な「代替航路」は、釜山-仙崎だった 25。
敗戦前後の日本当局による朝鮮人統制の状況を見てみると、まず 1945 年 8 月 14 日に内務
省は各地方警察署に対して、日本人と朝鮮人との衝突を防ぐため、朝鮮人を最大限安心させた
うえで、強制動員された朝鮮人労働者と日本人労働者を分離するよう指示を出していた。また、
8 月 21 日の次官会議では無秩序な帰還活動を統制すること、8 月 22 日および 27 日には厚生省と
運輸省旅客課が、朝鮮人「集団移入」労働者の送還問題について初めて協議を行った 26。
「大海令」弟 52 号
* http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/data3_15_029.pdf
24 解放直後、建国準備委員会では在日同胞の送還と救護をめぐる諸問題を協議するため、1945 年 9 月 21 日に代表団を組織し、
1 か月間にわたり日本各都市に視察団を派遣した。また、私設団体である「朝鮮戦災同胞救済委員会」は、金相敦を筆頭に、
東京、博多、横浜などに救護委員を派遣し、在韓米軍政庁(USAMGIK)でも外事課長のアンダース少尉(GardonB.Anders)を
派遣して、帰還を待つ朝鮮人たちの状況を視察させた。『毎日新報』1945 年 9 月 21 日、1945 年 9 月 24 日付の記事参照。
25 崔永鎬、「解放直後の在日韓国人の本国帰還、その過程と統制構造」、『日韓関係史研究』第 4 号、1995 年、102 頁。
26 森田芳夫、『朝鮮終戦の記録』1978 年、130 頁。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
37
一方、8 月 21 日、日本海軍は GHQ の指示に従い、「大海令第 52 号」を発令し、「8 月 24 日
18 時以降、特に定めるものの外、航行中以外の艦船の航行を禁する」と命じた。これは、連合
軍が 8 月 26 日に日本本土へ進駐するのに先立ち、横須賀軍港をはじめとする日本軍の武装解
除、移動の統制、治安維持のための命令の一環であった。このように、浮島丸は、在留朝鮮人の
送還に関連して日本政府の各省庁間での十分な協議もなされておらず、地方ごとの帰還日程の確
定や送還船の斡旋も行われていない中で、1945 年 8 月 22 日に出航し、航行禁止時限の直前に
沈没した。
現在までに確認されている日本政府が朝鮮人の送還に関連して行った措置は、日韓間の連絡船
航行の再開を GHQ に対して要請し、8 月 28 日に釜山-仙崎航路において興安丸と徳寿丸の運
航許可を得たことに始まる。厚生省と内務省は協議のうえ、各地方長官に対して「日韓連絡船が
まもなく再開される予定であり、『土木および建築』分野の労務者を最優先で送還し、石炭関連
の労務者は最後に送還する」という通達を出した 27。つまり、強制動員された朝鮮人のうち、治安
維持の面で脅威と見なされる土木・建築分野の労働者は最優先で送還するが、石炭関連分野に従
事する者については、海外から日本人が戻ってきて労働力の代替が確保されるまで、エネルギー
生産のための労働力としてなんとか説き伏せ、できるだけ引き留めようとしたのである。
解放直後、釜山と日本を航行した帰還船および運航状況
日韓連絡船目録(1945.9.27 ~ 1946.1.15)
船舶名
最大収容人数
運航回数
徳壽丸
2,600
40
興安丸
6,500
32
雲仙丸
2,000
26
間宮丸
1,000
21
黄金丸
1,200
20
白竜丸
2,000
17
日正丸
400
13
天佑丸
850
13
大隅丸
300
12
潮風丸
700
11
森田芳夫、『朝鮮終戦の記録』、1964、367 頁。
舞鶴への入港状況(1945.10.7 ~ 1946.4.13)
入港期日
引揚船名
出港地
20 年 10 月 7 日
雲仙丸
釜 山
20 年 10 月 8 日
白竜丸
釜 山
20 年 10 月 16 日
雲仙丸
釜 山
20 年 10 月 17 日
白竜丸
釜 山
20 年 10 月 30 日
雲仙丸
釜 山
20 年 11 月 3 日
白竜丸
釜 山
21 年 2 月 18 日
長 鯨
沖 縄
21 年 2 月 27 日
間宮丸
釜 山
21 年 3 月 21 日
間宮丸
釜 山
21 年 4 月 13 日
朝輝丸
釜 山
『舞鶴地方引揚援護局史』
http://maizuruwalker.web.fc2.com/hikiage/kiroku.htm
27 崔永鎬、「解放直後の在日韓国人の本国帰還、その過程と統制構造」、『韓日関係史研究』第 4 号、1995 年、102 ~ 107 頁。
38 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
上記の表の左側は、日本と釜山港を往復した帰還船(最大収容人数)と運航回数を整理したも
のである〔森田芳夫『朝鮮終戦の記録』〕。右側は舞鶴地方引揚援護局が集計した釜山と舞鶴を往
復した帰還船と運航日を整理したものである。これを見ると、比較的大型の船に分類される徳寿
丸と興安丸が解放後に最も多く日韓航路を往復したことがわかる。これらの船は主に仙崎と博多
を往来していたとみられる。
一方、浮島丸が沈没してから約 2 か月後に、舞鶴港への入港が再開されたことが記録されてお
り、主に雲仙丸と白竜丸がこの航路を担当していたとみられる。在韓米軍政庁の集計によると、
1945 年 9 月 27 日~ 1946 年 1 月 15 日の間に正式な帰還船として動員された船舶は 19 隻
(計 273 回運航)であり、これに加えて臨時に編成された船舶 114 隻が追加投入され、合計
203 回運航されたとされている 28。
結局、解放後に釜山港に初めて入港した帰還船は沈没した浮島丸ではなく、1945 年 8 月 31 日に
約 9,000 人の朝鮮人を乗せて仙崎港を出発し釜山港に到着した興安丸であった。この船は、
9 月 1 日には朝鮮に居住していた約 7,500 人の日本人を乗せて再び日本へ向かった 29。この興安丸
の運航は、浮島丸事件に関連していくつかの示唆を与えるという点で注目する必要がある。
第一に、この船は 1937 年に長崎造船所で建造され、釜関航路を運航していたエアコン付きの
豪華旅客船であった。当時、日韓を往来していた連絡船時代には定員「1,746 人」で運航していた
が、解放後には定員の「4 ~ 5 倍」に達する過積載の状態で運航されていた。これは、浮島丸の
乗船人数に関して、解放後は船舶不足により定員超過が慣例的に行われていたという点を念頭に
置く必要があることを示唆する。
第二に、この船は、1945 年に下関沖で魚雷に被弾し、長崎造船所で修理を経なければなら
なかったため、敗戦時まで運航されていなかった。しかし、仙崎という一漁港が下関の代替港
として指定されたことにより、解放後には釜山港との間を定期的に往復するようになった。仙
崎港での運航が始まったのは 8 月 31 日であり、浮島丸が沈没した舞鶴港の解放後初入港日は
「10 月 7 日」と記録されている。これにより、魚雷除去や難破船の整理といった掃海作業の状
況が地域や港によって異なっていたことがわかる。
では、占領当局による送還体制が整備されておらず、日本政府による送還船の積極的な斡旋や
送還港での帰還支援も期待できなかった状況において、「爆沈」の噂が広く流布された浮島丸事
件が、朝鮮人たちにどのような影響を及ぼしたのか。結論から言えば、この事件は小規模な密航
船を利用した「私的帰還」の流行を加速させ、それが帰還過程における各種の海難事故を引き起
こす要因の一つとなり、多数の死傷者・行方不明者を発生させる結果となった 30。特に、占領当
局の送還体制がまだ整っていなかった 1945 年 8 ~ 9 月には、台風や高波など夏季の気象悪化
28 WilliamJ.Gane.「Repatriation:from25September1945toDecember1945」,ForeignAffairsSection,HeadquartersUnitedStates
ArmyMilitaryGovernmentinKorea,1947,p49.
29 崔永鎬、「日本の敗戦と関釜連絡船釜山航路の帰還者たち」、『韓日民族問題研究』第 11 号、2006 年。
30 呂聖九、「解放後の在日韓人の未帰還事例とその性格」、『韓国近現代史研究』第 38 号、2006 年秋号、177 頁。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
39
により遭難事故が頻発していた。密航船の遭難については、事件の性質上、活字として記録され
ることはほとんどなかったが、韓国政府の旧真相糾明委員会が実施した「広島動員徴用工の帰還
状況」に関する集団口述調査によれば、単なる気象条件に加え、密航船は多くが金儲け目的で急
造された粗悪な木造船であり、過積載や定員超過、頻発するエンジン故障、さらには船長や斡旋
ブローカーによる詐欺行為が横行し、帰還者たちをさらに苦しめたとされる 31。
このように、1945 年 10 月中旬以降、日韓両国間の送還体制が整備される以前までは、船舶
の不足、日本政府の誠意を欠いた帰還援護、無計画に西日本の港に殺到する帰還希望者の急増に
よる混乱などのため、劣悪な環境を一刻も早く抜け出して故郷に帰ろうと、密航船を選択する
ケースが多かった。
このような状況下で、浮島丸事件に関する様々な疑惑や噂が帰還を待ち望む人々の間に広まり、
送還当局への不信感を助長した。その結果、公式な送還体制が稼働した後も、長時間待たなけれ
ば乗船できない帰還船よりも、密航船を選ぶ例が後を絶たなかった。
その後、安全な帰還航路が確保された事実が日韓両地域を往来する人々を通じて広まり、公式
の帰還船はもちろん、密航船を利用する帰還者数も共に増加した。しかし 1946 年 2 月を境に、
日本から南朝鮮へ帰還する人の数は急激に減少した。その理由の第一は、GHQ の経済科学局
(ESS)が、日本からの財産持ち出しおよび物資の朝鮮半島への搬出を制限し 32、朝鮮半島の混乱
した政治・経済状況が密航者や手紙などを通じて日本に伝えられ、多くの人々が帰還を延期また
は断念したことが挙げられる 33。さらに、1946 年 5 月前後には日韓両地域を往来していた帰還船を
起点としてコレラが全国に拡散し、死者が続出した。加えて夏季には台風の被害も深刻となり、
その年の秋まで被害の復旧と防疫の観点から、日韓間の公式な送還船の運航は長期間中断され
た 34。結局、1946 年下半期から日韓間の帰還人口が急減したことを受けて、GHQ は残された朝
鮮人たちに外国人登録を強制し、彼らを「集団管理」する方向へと政策を転換した。
2)事件の展開および事後処理の過程
浮島丸事件は、1945 年 8 月 22 日、青森県の大湊港から、帰還を控えた朝鮮人たちを乗せて釜
山港に向けて出航したが、2日後の「8 月 24 日 17 時頃」、京都府舞鶴へ進路を変えて寄港する
なかで沈没した事件である。この事故により多数の死傷者が発生したが、日本政府は事故後の
真相調査で、「便乗者名簿」に基づき、この船に搭乗していたのは朝鮮人 3,735 人であり、「浮
島丸死没者名簿」を根拠に、日本人乗組員 25 名と朝鮮人 524 名が死亡したと発表した。また、
31 鄭愛英、「帰国時の海難事故を通じて見た強制動員と帰還」、『韓日民族問題研究』第 19 号、2010 年、130 ~ 131 頁;金賛汀、
『関釜連絡船海峡を渡った朝鮮人』、朝日選書、1988 年、111 頁。
32 金ヨング、『米軍政の金融通貨政策』、収録:『米軍政時代の経済政策』、韓国精神文化研究院、1992 年、163 ~ 165 頁。
33 李升熙、「解放直後の在日朝鮮人に対する日本の治安政策」、『日本学』第 46 号、2018 年。
34 『朝鮮年鑑』1948 年版、341 頁、ならびに『朝鮮日報』1946 年 8 月 17 日付記事を参照。
40 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
事故の原因は「触雷」、すなわち連合軍の空襲により沿岸に敷設された機雷に船体が接触して沈
没したものと発表した。
しかし、事故直後から現在に至るまで、韓国の生存者、遺族および市民運動団体は、少なくとも
5,000 人から多くて 8,000 人が乗船しており、爆発の原因は日本による「意図的な爆沈」であ
り、最大 3,000 人以上が死亡した可能性があると主張する傾向にある。
このように、一見単純に見える本事件であるが、実際には事実や根拠をめぐる論争が多層的に
展開されている。本節では、本事件の経過とその後の処理過程について、可能な限り「事実」と
「根拠」を中心に検討することとする 35。
○ 朝鮮人乗船者と出航地大湊の相関関係
日本の青森県大湊は北日本地域にあり、旧日本帝国海軍の警備府が置かれた場所であった。
1895 年に軍港として指定され、日露戦争期には津軽海峡の警備を担った。1905 年には警備強
化のため、大湊水雷団は「大湊要港部」へと昇格し、北方海域の警備、権益の保護、漁場の安全
確保、救難救助活動などを担当した。そして 1941 年 11 月 20 日、太平洋戦争開戦を前にして
「大湊警備府」に昇格されたが、連合軍の進駐によって、敗戦後の 1945 年 11 月 30 日に廃止さ
れた 36。
太平洋戦争期、下北半島の大湊町には海軍警備府から発注された多くの建設工事が存在した。
朝鮮人たちは大湊海軍施設部に所属する軍属、あるいは管轄会社に徴用された労務者、日本通運
株式会社の労働者、近隣鉱山の鉱夫として動員された者が大部分であった。韓国政府の旧委員会は、
日本の都道府県別における朝鮮人強制動員作業場の分布状況を調査し、青森県には計 55 カ所が
あったと把握している。これらの多くは大湊海軍警備府の直轄または管轄下にある作業場であった 37。
この地域は日本国内でも寒冷な気候など生活環境が劣悪で、転任を敬遠されるほどの後進地域で
あった。また 1942 ~ 1943 年頃からは、米軍の攻撃が激化する中で労働力が著しく不足し、国
家総動員計画に基づいて朝鮮人の大量投入が始まった。
2007 年度に韓国政府の旧真相糾明委員会「遺骸チーム」では、浮島丸事件の被害者と「推
定」される人々のうち、生存者と遺族を対象として口述記録を行うため、サンプリングの一環と
して対象者リストを作成した。これをもとに、約 2 か月間にわたって電話による基礎的な事前
インタビューおよび現地でのインタビューを実施した結果、軍属の比率が相当に高く、一般労働
者の場合もやはり軍関連の作業場が多かった。
35 本節は、浮島丸事件訴訟における原告側の第 1 準備書面(1993 年 10 月 12 日)から第 7 準備書面(1997 年 2 月 13 日)まで
の原文資料の中から、事件の経過および事後処理に関連する「事実」と「根拠」の項目のみを抽出し、関連史料とともに整理
したものである(以下「準備書面」と略記する)。
36 飛内進、『大湊警備府の沿革史』、三恵プリント、2001 年、799 ~ 800 頁。
37 対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会、『委員会活動結果報告書』、2016 年、141 頁「日本都道
府県別分布現況」。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
41
浮島丸事件 委員会への申告者、生存者名簿(2007 年 5 月 10 日現在)
連番
氏名
生年
動員地
動員類型
備考
1
盧○基
1922
忠北 堤川
軍属
(大湊施設部)
死亡:帰国途中、触雷により死亡。同行
者 - 朴○ウォン
2
ソン○ヨン
1928
慶南 咸陽
労務
(青森・飛行場)
生存:1945 年 5 月に動員された。青森
での強制労働の状況を具体的に記録する
ことが可能と推定される。
3
朴○ファ
1919
全北 南原
労務
(青森・飛行場)
生存:朴○ファ氏は始興と南原で生活、
南原にもう一人の生存者がいるという。
4
金○チャン
1926
全北 茂朱
軍属
(土木作業員)
死亡:浮島丸死没者名簿に記載された者
である。
5
チョ○ソン
1922
忠北 永同
軍属
(工員と推定)
生存:青森三沢飛行場の動員者であり、
文○オクにより、記録された。
6
朴○イク
1924
平南 江西
軍人
(舞鶴海兵団)
生存:救助作業に投入された軍人であ
り、北に帰還後、南下。貴重な証言を提
供できると考えられる。
7
孫○出
1901
全北 鎮安
軍属(推定)
死亡。
8
崔○圭
1909
忠南 保寧
軍属(推定)
死亡:1968 年 12 月に遺骨が釜山に到着
し、引き取られた。
9
金○ジョ
1927
慶南 蔚山
労務(推定)
生存:防空壕の建設作業に従事してい
た。軍属の可能性が高い。
10
金○チョン
1922
忠北 永同
軍属
(三沢・海軍施設部)
生存:韓国の被害者が一般的に用いる事
件の記述パターンを持つ。詳細なインタ
ビューが必要とされる。
11
チ○ソク
1917
忠南 天安
労務(推定)
生 存: 聴 力 に 問 題 が あ る が、 イ ン タ
ビューは可能。
12
チョン○ヨン 1927
忠南 天安
労務(推定)
生存:青森県の日本通運支店で荷役作業
に従事。田在鎭によるインタビュー対象
者として含まれている。
13
朴○ユン
1927
京畿 驪州
労務(推定)
生存:海軍基地にて労務。証言は弱い。
14
徐○鳳
1917
忠南 天安
労務(推定)
死亡:息子によって申告された。
15
朴○ジュン
1924
京畿 始興
労務(推定)
動員先不明:北海道の炭鉱で働いていた。
解放後、浮島丸に乗船したと主張。
16
李○ギル
1919
全南 麗水
軍属(資料なし)
42 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
韓国政府旧真相糾明委員会の被害真相調査システムにおける動員形態別検索結果(2007 年 11 月末現在)
動員地
動員類型
生存者数
舞鶴
軍人
65
青森
軍人
67
軍属
107
労務者
78
合計
317
これは、出航地である大湊港と下北半島を中心に、青森県全体が大湊警備府によって要塞化
されていた事実と深く関連していると把握された。また同年 11 月、委員会内部の「被害実態
調査システム」を通じて、動員地と動員形態を組み合わせてデータを抽出した結果、大湊警備
府が所在していた青森県の場合、軍人:軍属:労務者の比率が 67:107:78 人であり、前述の
インタビュー結果を裏付けるものであった。
要するに、浮島丸に乗船していた大多数は海軍大湊警備府直属または管轄下の作業場に動員さ
れた軍属と、「集団移入」された労務者であった。当時、大湊には 5 ~ 6 万人の海軍兵力が駐屯
しており、この地域を要塞化するために、軍需品の地下貯蔵庫や北海道に接続するための軍用の
大間鉄道、船舶用ドック、三沢海軍飛行場、トンネルなどの建設工事において、約 4,000 人の
朝鮮人が動員されたと伝えられている。
左)朝鮮人が大量に投入されたが、未完成に終わった軍用・大間鉄道の遺構
右)下北半島の海岸沿いにある軍用地下トンネル(2007 年 8 月 2 日、遺骸チーム撮影)
○ 出航までの経緯
日本政府が朝鮮人に対する「徴用解除」を決定したのは、1945 年 8 月 21 日の次官会議で
あった。そして朝鮮人の送還方針の発表は、内務省警保局長発の「朝鮮人集団移入労務者等の緊
2. 事件の展開と真相調査の経緯
43
急措置に関する件」による 38。ところが、それまで日韓間の連絡船の主要航路であった下関など
の西日本の主要な港は、投下された機雷によって航行が停止されており、1945 年 8 月の時点で
は朝鮮人を送還することが困難な状況にあった。
しかし、陸軍省および海軍省は中央政府の方針とは別に、独自に復員および徴用解除を決定し
た。その結果、海軍軍属は 1945 年 8 月 15 日に徴用が解除され 39、8 月 20 日には海軍大臣の命
令により「徴用解除に伴う送還」を実施するよう通達された。ところが、浮島丸の艦長および乗
組員が釜山への出航命令を受けたのは、海軍大臣の通達が届く前の 8 月 18 日であった 40。
* 浮島丸が出航した青森県大湊港の全景(2007 年 8 月 2 日、遺骸チーム撮影)
大湊港では、この時点から出航の準備が始まり、19 日には海軍特設輸送船・浮島丸の使用が
可能であるとの連絡を受けた 41。そして、8 月 21 日には「8 月 24 日 18 時以降の航行を禁止
する」という内容の大海令第 52 号が発令され、22 日には軍令部総長から各鎮守府および警備
38 朴慶植編、『在日朝鮮人関係資料集成』第 5 巻、三一書房、1976 年に収録。
39 1945 年 8 月 15 日、海軍次官より各鎮守府および警備府参謀長宛に、「戦争状態の終結に伴う緊急措置として、作業庁に徴用
された者については、可能な限り速やかに解傭転業させるよう措置すること」との通達が発せられた。
40 181439 番電−大湊警備府参謀長が輸送本部総務課長宛に、朝鮮人の帰還のため浮島丸の使用許可を要請した電報。内容は、
浮島丸が大湊に寄港しており、大湊警備府司令部から釜山への出航命令が出されたというものである。
41 191117 番電−輸送本部総務課長が大湊警備府参謀長宛に送ったものであり、181439 番電報に対する回答内容は、「浮島丸の
使用に問題なし」というものである。
44 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
府司令長官宛にこの内容が通達された 42。
これらの経緯から見ると、8 月 18 日に大湊警備府の参謀長が浮島丸の使用許可を輸送本部に
要請しており、同日、朝鮮人の帰還については大湊警備府司令官が直接決定していたこと、そして
19 日に輸送本部からその使用許可を正式に得たことがわかる。
当時、大湊警備府司令官から釜山への出航命令を受けた艦長および乗組員が、強く抵抗した
という証言は複数で確認されているが、公的記録は存在しない 43。これは艦長および乗組員の
全員が職業軍人ではなく、徴用された者であり、まもなく解除を控えた身分だったためと推定
されるが、これも断定はできない〔艦長や乗組員は軍人とされた〕。ただし、ここで確認でき
る事実は、日本の中央政府に比べて海軍省における徴用解除および送還方針の決定が、すでに
8 月 15 日から 20 日の間に迅速に進められていたという点である。特に、その中でも大湊警備
府司令部が、海軍大臣の通達が到着する以前の「8 月 18 日時点」で、朝鮮人をいち早く送還さ
せようとする強い意思を持っていたことが明らかである。
ところが、軍属の場合はこのような措置が可能であったとしても、一般労務者については
「1945 年 9 月 1 日」にようやく中央政府レベルで送還方針が決定されたため、彼らをどのよう
に乗船させたのかという疑問が残る。これに関連して、大湊警備府の沿革史を刊行した日本海軍
記録会所属の研究者の記述によれば、「終戦直後、大警司令部では、軍民の雇用に関係なく、下
北半島に動員されている朝鮮人を祖国に帰国させる方針を決定した」としている 44。すなわち、
1945 年 9 月 9 日に連合軍との降伏調印式が行われる以前までは、この地域一帯のあらゆる決定
は大湊警備府が全権を行使していたと考えられる。
結局、「大湊警備府司令官」の命令により、艦長と乗組員は 1945 年 8 月 22 日 22 時頃、大湊
港を出航した。ところが、出航の前後に運輸本部長は艦長宛に、「目的地に到着することが不可
能と判断された場合は、その時点で最も近い軍港または港湾に入港せよ」という内容の電報を
送っている。
大海令と電報の内容を照合すると、すでに艦長および乗組員たちは釜山港に到達できないこと
を認識した状態で出航したことがわかる。ただし、その事実を認識した時点で出航を決行した判
断が、艦長個人によるものであったのか、あるいは上層部の圧力によるものであったのかは、断
定することは難しい 45。
42 221605 番電-8 月 22 日 19 時 20 分送信。運輸本部長が浮島丸艦長に対して、大海令第 52 号の第 8 項と同様の趣旨を電報で
送った。
43 本報告書の付録「2.浮島丸訴訟の事実関係要録」に記載された、1945 年 8 月 19 日付「日本最高裁判所が認定した浮島丸事件
の事実関係」、および『京都新聞』1985 年 7 月 24 日付〈40 年目の海〉における、出航当時に日本海軍の乗組員の反発により
出航が遅延したという報道内容を参照。
44 飛内進、『大湊警備府の終焉』、共同印刷、1994 年、123 頁。
45 これに関連し、「準備書面」第 7 の 5「行き先は舞鶴」の項目によれば、「朝鮮人を引率していた日本通運の労務係・高橋嘉一
郎は、『行き先は舞鶴だと聞いていた』と証言した」と記録されている。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
45
○ 沈没過程と事後処理
大湊を出航した浮島丸は、日本海に沿って南下し、8 月 24 日午後 5 時頃に予定通り舞鶴湾に
入った。当時、海防艦2隻がその前方を航行していた。爆発は浮島丸が鳥島を通過し、減速して
停船しようとした際に発生した。
* 浮島丸が沈没した事故海域の全景。当時、浮島丸は舞鶴鎮守府のあった東舞鶴方面へ進路をとっており、写真中央に
見える小さな島々(烏島および蛇島付近)を通過する途中で爆発したとされる(2007 年 7 月 26 日、遺骸チーム撮影)。
生存者の証言によれば、船は中央部分から真っ二つに折れ、最初は中央が「く」の形に盛り
上がり、その後まもなく「∨」の形に反転して曲がりながら中央から沈没していったという。
1945 年 9 月 16 日、九死に一生を得て釜山に到着し、国内でこの事件を初めて知らせた張鐘植
の息子(当時満 12 歳)の回想によれば、陸地が見えるということで母親の制止を振り切って甲
板に上がった瞬間に船が爆発したと述懐している。彼の目撃によれば、船は中央から沈み始め、
「∨」の形で船首と船尾が上方へ持ち上がったという 46。たとえ幼少であったとはいえ、彼の証言
はその後に報道された日本人乗組員の証言と一致している。
証 言 や イ ン タ ビ ュ ー を 除 け ば、 現 在 ま で に 沈 没 直 後 の 救 助 状 況 に つ い て の 記 録 は、
1945 年 10 月 10 日付の『毎日新聞』に掲載された「浮島丸事件の真相」という日本側の報道
記事が、事件についての最初の本格的な報道である。韓国の被害者側からは、この報道に対して
46 準備書面 9-3「運命の岐路」における張永道および金泰錫の証言、ならびに『京都新聞』1992 年 8 月 13 日付に掲載された張
鐘植に関する報道を参照。
46 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
「事件を意図的に矮小化した歪曲報道である」との批判があるが、一応事件の経緯を整理すると
いう意味において、舞鶴海軍防備隊関係者が明らかにした主な内容を以下に記す。
-
「浮島丸は終戦時、大湊からこの地域の朝鮮人労務者を乗せて朝鮮に向かう途中、8 月 24 日
午後 4 時過ぎに舞鶴湾内で機雷沈没した」。
-
「舞鶴への入港理由は、この船が若狭湾付近を航行中、航行停止命令を受けたためである」
-
「当時舞鶴湾内では、他の艦船も相次いで触雷していた危険な状態であり、同船も十分注意
しながら入港中、沖合 1 キロメートルほど進んだ地点で不幸にも触雷、数分で沈没した。
これは『不可抗力』の事件であった」。
-
「舞鶴海軍防備隊は救助に全力を尽くし、ほとんどを救助した。負傷者は舞鶴海軍病院へ搬
送された。それ以外の一般収容者約 700 名はさらに平海兵団に移した」。
-
「全部の朝鮮人乗船者数は海軍では不明としており、若干の犠牲者(人員は不明)に対して
丁重に弔った」47。
後に大湊海軍警備府が発表したところによれば、乗船者は朝鮮人 3,725 名、日本海軍 255 名
であり、そのうち死亡者は朝鮮人 524 名、日本海軍 25 名であるとされた 48。大湊海軍警備府司
令部は、1945 年 9 月 1 日付で大湊海軍施設部長名義の「死亡認定書」と「浮島丸死没者名簿」
を作成し、11 月 24 日には同施設部長名義で「軍属死亡の件」を朝鮮側に送付したと推定され
ている。しかし、このうち死亡認定書が発行されたのは 410 名に過ぎず、この数値の違いが
なぜ生じたのかについての説明はなく、正確に集計された結果であるか否かに対する疑念が提起
されている。
「浮島丸死没者名簿」を見ると、「施設部」と「施設部以外」に分類して名簿が作成されている。
前者には徴用工員 362 名、協力会供給人夫 48 名、計 410 名が記載されており、このうち(海軍)
協力会の供給人夫は、大湊海軍施設部の管轄工員として徴用工員と同様の待遇を受けていたこ
とが明らかにされている。名簿は本籍地別に整理されており、忠清北道、全羅南道、京畿道、
忠 清 南 道、 慶 尚 南 道、 慶 尚 北 道、 全 羅 北 道 の 順 の 本 籍 で 整 理 さ れ て お り、 職 種、 氏 名、
生年月日、本籍地の項目が存在するが、職種は全員「土工」となっており、氏名は日本名で記載
されている。年齢は約半数程度、記載されている。
一方、「施設部以外」の名簿には、162 名の軍属供給労働者のうち 48 名を除いた残り 114 名
が記載されている。これは「協力会供給労働者」を事後に「徴用工員」とみなし、施設部名簿側
に記載してその身分を軍属として処理した結果と推定される。ただし例外として、日本通運大湊
支店の場合のみ、男性 24 名を「施設部以外」の名簿に記載している。明確な基準が不明であり、
47 準備書面 10-2「日本での当初の報道」記事内容を引用。
48 浮島丸殉難者追悼実行委員会、『浮島丸事件の記録』、1989 年、144 頁。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
47
混乱を招く書式である。ともあれ、「施設部以外」の名簿には、おおむね女性、子ども、高齢者
など 138 名と、日本通運の「供給人夫」24 名が記されていた。この「施設部以外」名簿の特徴
は、本籍地別ではなく「組」別に編成されている点であり、「組名」「本籍」「氏名」「年齢」「性別」
の項目で構成されている。「組名」と氏名のみ記されている者が 1 名、「組名」のみで氏名がな
い者が 2 名存在している。それ以外はすべて記入されている。
このように複雑に記載された死没者名簿は事後処理がいかに杜撰に行われたかを示すもので
ある。まず、死没者名簿を作成するためには、原資料である「乗船者名簿」の提示が必要だが、
現在に至るまでこの資料は公開されておらず、原資料の存在自体も明らかにされていない。そ
れにもかかわらず、乗船者数を「3,735 名」と特定して発表したのは、おそらく乗船申請手続
きを踏んだ者たちであると推定されるが、別途の手続きなしで乗船した者が少なくとも 200 ~
300 名、多ければ 1,000 人を超えるという証言が継続して出ていることからも、この数値を
そのまま信頼できるとは言い難い。
〔日本政府は乗船者関係名簿を 2024 年9月と 10 月に韓国政府に提供した。〕
浮島丸死没者名簿(施設部 / 部以外)
*http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/data3_14_215.pdf
*http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/data3_15_072.pdf
48 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
* 浮島丸事件による死亡者に関する旧「海軍軍属身上調査票」(旧 委員会認定資料)
結局、日本当局が発表した浮島丸事件の死亡者名簿は、海軍軍属身上調査票、日帝下徴用者名簿、
その他大湊所在の事業場および「組」別の協力会供給労働者名簿などを相互に照合してはじめて、
正確な身元情報、遺骨の返還有無、葬儀・補助金の支給状況を確認することができる。その点か
らもこの名簿は「不正確」であるだけでなく、きわめて「不親切」な資料であるといえる。
乗船者および死亡者に関する記録管理においても既に明らかになっているが、日本当局の不
誠実な態度は、1950 年および 1954 年の二度にわたる船体引き揚げと船内の遺骨処理の過程
でさらに顕著となった。1950 年の第 1 次船体引き揚げ時に、船体内部から白骨が確認された
ことで、この事件は再び世間の注目を集めることになった。当時、舞鶴の朝鮮人団体の関係者ら
は、船体を引き揚げて鉄屑として払い下げ(再利用)する前に事件の真相調査を行うように要求し、
また引き揚げの際には船内に残された遺骨の収拾対策を講じるように求めたが、当局はこれを無
視した。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
49
* 第 1 次船体引き揚げ直前に在舞鶴朝鮮人らが舞鶴海上保安本部長宛に提出した要請書〔「浮島丸沈没の真相調査並に
溺死者の遺骨処理依頼に関して」1950 年2月1日『太平洋戦争終結による旧日本国籍人の保護引揚関係雑件 朝鮮
人関係』所収〕および浮島丸事件の遺骨処理に関する朝鮮人団体との協議資料。
* http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/data1_03_016.pdf
その後、1953 ~ 1954 年の第 2 次船体引き揚げの局面における報道の中には、事件直後に
付近住民の協力によって 3,200 人以上が救助され、遺体も約 150 体が収容されたが、残り約
370 人の遺体は結局発見されなかったという内容が含まれている。また、「いまだ多数の遺骨が
残っており、遺骨処理の問題や遺族の補償問題など、日韓間の外交的課題も残されており、『李
承晩ライン(平和線)』の問題とも関連して(船体引き揚げは)一時的に絶望的な状況であった。
しかし最近、外務省はそれが終戦(無条件降伏)調印、すなわち 1945 年 9 月 3 日以前の出来
事であるため、これらの朝鮮人を『日本人軍属』として扱うとの回答を大蔵省から受け、舞鶴復
員局でも彼らの英霊を丁重に扱う準備をしており、(船体の)払い下げが実施されることになっ
た」と報じた 49。
しかし、すでに 1950 年の第 1 次船体引き揚げ以前、1949 年末から朝鮮人連盟は不法団体に指
定され、解散を命じられており、さらに朝鮮戦争が勃発したことで朝鮮人団体の交渉力は急激に
弱体化した。結局、日本政府は 1954 年、韓国政府が戦後復興に追われていた隙を突くかたちで
第 2 次船体引き揚げを許可し、これを飯野重工業に 2,500 万円でスクラップとして払い下げた。
49 浮島丸殉難者追悼実行委員会、『浮島丸事件の記録』、1989 年、23 ~ 25 頁。
50 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
『国際新聞』1954 年 10 月 9 日(第 2 次引き揚げ記事)
* 右側の写真は、1954 年当時、在舞鶴朝鮮人(朝鮮解
放救援会)と日朝協会の関係者が船体引き揚げの際に
直接撮影した、船体内部に残されていた遺骨である。
1954 年の船体引き揚げは、この事件が単なる「触雷」であったのか、それとも船体内部に意
図的に爆発物が設置された「爆沈」であったのかを検証できる重要な物的証拠を確保する機会と
して期待されていた。そのため、朝鮮人連盟の解散命令後に舞鶴で「朝鮮解放救援会」として
活動していた朝鮮人や、日朝協会の関係者の関心が高まった。また、行方不明者の遺骨が船体
内に放置されたままであるため、それをどのように処理すべきかという議論の必要性からも、非
常に重大な措置として認識されていた。しかし、当局はこの船をスクラップとして払い下げるこ
とにより、9 年間にわたって頭を悩ませていた事件の物理的証拠を「抹消」することができた。
当時、『国際新聞』に報道された壬生照順(日朝協会理事)、中濃教篤(全日本仏教連盟)など、
「浮島丸事件真相調査団」のインタビューから当局の態度を伺い知ることができる。
〔調査団ヘのインタビューによれば、〕原因の究明も疎かにしてはならないが、乗船者の規模を
見てもこれは最近起きた洞爺丸事件以上の大事件であるにもかかわらず、遺体を 9 年間も海中
に放置し、その後の措置も極めて誠意に欠ける非人道的な態度を示した。…… 彼らの主張によ
れば、大蔵省〔近畿財務局〕で舞鶴地方復員残務処理部と飯野側だけが参加して形式的に入札が
行われ、飯野側がこの船をスクラップ化が主目的であったという。これは、犠牲者の遺骨の引き
あげが完了しないまま、船体の解体作業が完了したことからも明らかである。例えば、乗船者が
2. 事件の展開と真相調査の経緯
51
最も多く集中していたとされる船尾部分については、前年の台風 13 号通過後に水中での解体作業
が開始され、同年 12 月上旬に作業が完了した。しかし、朝鮮解放救援会から遺骨の引きあげを
一括して扱ってほしいという要請があったにもかかわらず、飯野サルベージ社は、引き揚げた
船体を鉄骨として利用するため、遺骨を近くの海岸線などに急いで埋めてしまった。また、復員
残務処理部も飯野側の誠意のない態度を「黙認」し、飯野の形式的な報告をもとに現地調査すら
行わず、官僚的に処理を進めた。そのため、地方の宗教関係者、民主団体、在日朝鮮人から強い
不満を招いた。さらに、船首部分は今月 6 日に引き揚げが完了しており、この部分から出た遺
骨は現在、復員残務処理部の倉庫の片隅に保管されており、近日中に広島県呉市に移管する予定
であるという。調査団は、これらの遺骨は朝鮮の遺族に引き渡されるべきものであり、舞鶴近隣の
寺院に安置することは、国際的な倫理の観点から見ても当然であると主張した。しかし、当局は
難色を示したという。
この記事が伝えるように、1954 年 6 月に「船首側」から引きあげられた遺骨の一部が、現在、
釜山の永楽園および東京の祐天寺に保管されている浮島丸事件の遺骨である。このように、浮
島丸事件は、事件原因の究明はもちろん、乗船者および死亡者の把握、行方不明者および遺骨の
処理、さらには被害者およびその遺族に対する補償に至るまで、いずれも現在まで解決されてい
ない。
3)朝連による真相調査の要求と GHQ・在韓米軍政庁の対応
○ 事件前後における朝鮮人送還問題に対する日本政府の基本的な姿勢
事件直後に日本政府が本事件をどのように処理しようとしたのかを直接確認できる公的記録は、
現在までのところ発見されていない。日本政府の動きについては、マッカーサー連合国軍総司令
官が 1945 年 8 月 30 日に東京に到着し、占領統治が始まる直前までの、終戦後およそ 2 週間の
間に日本政府が「朝鮮人送還問題」に関して示した一連の動き、朝鮮人連盟中央委員会が日本政
府に迅速な真相調査を求めたものの、すぐに非協力的な態度に直面して断念し、電撃的に交渉
窓口を GHQ に切り替え、直接交渉を進めていく過程が記録された GHQ の関連報告書、さらに
事件発生直後である 1945 年 9 月~ 10 月の間に日韓両国の新聞を通じて初めて報道された事件
関連の記事内容および論調、これらを通じて総合的に推察するしかない状況である。
まず、日本政府が朝鮮人送還問題をどのように認識し、どのような方法で解決しようとしたのか。
それを探るには 1945 年 8 月 15 日以後、約 2 週間の間に朝鮮人送還に関連して取った一連の措
置を簡単に確認しておく必要がある。
敗戦直後、日本政府は国家総動員政策に基づき動員された朝鮮人軍属および「集団移入」労働
者と一般朝鮮人の集団とを区別し、それぞれの送還を異なる方式で扱おうとしたとみられる。そ
の背景には、日本政府と朝鮮総督府が強制的に動員した朝鮮人集団が、敗戦後の日本の治安を
脅かし、社会的混乱を加重させる「潜在的危険要素」として作用しかねないという強い警戒心
52 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
と不安感があった。つまり、日本政府は国家総動員政策の結果として、特定の作業場や地域で
「集団」を形成し滞在していた朝鮮人たちが、敗戦の混乱に乗じて社会を混乱させ、周囲の日本人
に対し、過去の強制労働や苛酷な待遇に対する不満を無分別に爆発させるのではないかと懸念し
ていた。その結果、彼らの移動をいかに統制し管理するかについて思い悩んだのである 50。敗戦
当時の日本政府における朝鮮人送還問題の認識は、基本的に「統制と管理」という基調のもとに
展開されていたとみることができる。
敗戦後、日本政府の公式な動きは、1945 年 8 月 21 日に「朝鮮人の徴用解除」を決定した次
官会議から始まった。そして、強制動員された朝鮮人の送還に関して、公式に全国へと実施指針
を出したのは、その 10 日後の 9 月 1 日であった。その間の細かな動向を見てみると、終戦前日
の 8 月 14 日には、全国に「朝鮮人に関する非常其の他の措置に関する件」を通達し、各地域の
興生会〔旧協和会〕を通じて朝鮮人に軽率な行動を慎むよう指導し、日本人との接触を防ぐため
に、彼らを他と隔離して各作業場で特別に管理するよう指示していた。また、8 月 16 日には各
地方警察署に「内地在住朝鮮人の指導取締に関する件」という通達を出し、管轄地域内の帰国希
望者の現状を調査するとともに、特に「集団移入」、「計画移入」された朝鮮人労働者の動向を監
察し、上部に報告するよう命じた 51。つまり、日本政府は 8 月 21 日に公式に次官会議を招集す
る以前から、すでに集団移入朝鮮人を管理していた興生会や警察署などの地域機関の活用を前提
として、基本的な送還計画を準備していたとみられる。
1945 年 8 月 21 日の次官会議では、「朝鮮人の徴用解除」が決定されたが、これは単なる動
員の解除を決めたのではなく、実質的に彼らを帰国させることを決定した会議であったと推定さ
れる。なぜなら翌日、すぐに運輸省が朝鮮人送還のための輸送対策を検討し始め、同日、厚生省
は次官名義で各知事に通達を出し、「戦争終結に伴う工場・事業場従業員の応急措置に関する件」
で「集団移入された朝鮮人および中国人労務者の取扱いについては、輸送能力などを考慮し、
徐々に帰国させるように」と指示した。あわせて、8 月 29 日には通達「内地在住朝鮮人指導取
締に関する件」において、日本政府が朝鮮人の送還を計画しているため、彼らが完全に送還され
るまで事業主は解雇を自粛し、賃金支給が不可能な場合には国庫補助を行う旨を示した 52。
要するに、日本政府は敗戦後の約 2 週間の間に、朝鮮人の送還計画を立てることを直接・間接
的に広報することで、彼らの「集団的動揺」の防止に注力したのである。そして 9 月 1 日には、
朝鮮人労務者を管理していた厚生省と治安を担当していた内務省が、各都道府県知事宛に通達
「朝鮮人集団移入労務者等の緊急措置に関する件」を送付した。その主な内容は以下の通りで
50 金太基、「GHQ / SCAP の在日韓国人政策に関する研究」、『国際政治論叢』第 38 巻第 3 号、1998 年、249 頁。
51 「新潟県警察部特高課資料」、「千葉県警察部特高課資料」、朴慶植編、『朝鮮問題資料叢書』第 13 巻、アジア問題研究所、1991 年
収録分。
52 「内地在住朝鮮人の指導取締に関する件」、『内鮮通牒書類編柵』、姜萬吉・庵逧由香、「解放直後の強制動員労働者の帰還政策と
実態」、高麗大学アジア問題研究所、『アジア研究』第 45 巻第 2 号、2002 年、75 頁。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
53
ある 53。
- 朝鮮人「集団移入労務者」を優先的に計画輸送すること。
- 土建労務者を先に送還し、石炭山労務者は最後に送還すること。
- 興生会を活用すること。
- 対象地域の順番は運輸省が決定すること。
- 所持品は携帯可能な手荷物程度に限定し、家族も同時に輸送すること。
- 釜山港まで引率者を同行させること。
- 輸送能力の不足により送還が長期化する可能性があるため、動揺しないよう指導すること。
- 送還まで雇用を維持し、賃金を支給すること。
- 賃金は小遣い程度を支給し、残額は貯金して事業主が保管すること。
- 休廃止の事業所の場合は、平時の賃金の 6 割以上の休業手当を支給すること。
- 職がない状態で雇用を維持している労務者は、他の道路工事などに活用すること。
- 一般「既住朝鮮人」の送還については、可能な時期になれば別途指示する予定なので、業務に
従い、待機するよう指導すること。
すなわち、朝鮮人のうち、以前から日本で生活していた一般の居住者よりも、集団移入された
労務者を先に送還し、とりわけ石炭などの重要産業分野では、海外から日本人が帰国して労働力
を補完できるようになるまで、彼ら(朝鮮人労働者)が不満を表出しないよう配慮しつつ、最大
限その労働力を活用しようとする認識であった。
1945 年 9 月 1 日に中央政府レベルで強制動員された朝鮮人の優先的な送還方針が確定された
とはいえ、これはあくまで計画段階での議論にすぎなかった。1945 年 9 月に入ると、西日本の
特定港に朝鮮人が殺到し始めたため、9 月 12 日、日本政府は急遽、「一般旅客」の取り扱いを
当面中止し、もっぱら「半島出身軍人・軍属並に集団移入労務者の集団復員輸送」のみを実施す
るよう指示した。これは、極度の船舶不足を考慮したものであり、1945 年 9 月 18 日、終戦事
務連絡委員会幹事会において、海外部隊員および在留民間人の現地残留が強調されたのも、直ち
に運航可能な船舶が著しく不足していたからである 54。したがって、中央政府レベルで朝鮮半島出
身者、すなわち軍人、軍属、集団移入労働者など強制動員された人々を早期に帰還させようとする
意図があったとしても、当時利用可能であった船舶の状況を考慮すれば、その実現にはかなりの
時間を要する可能性が高かった。
では、浮島丸に乗船した朝鮮人たちは、いかにして「1945 年 8 月 22 日」という早い時期に
出航できたのだろうか。
53 朴慶植編、『在日朝鮮人関係資料集成』第 5 巻、三一書房、1976 年に収録。
54 『毎日新聞(大阪)』、1945 年 9 月 11 日、「引揚邦人の安全を図れ」;同年 9 月 22 日;内務省監理局、「戦争終結ニ伴フ朝鮮台湾
及樺太在住内地人ニ関スル戦後措置要領(案)」、日本外務省第 16 次公開文書マイクロフィルムReelNo.K’ 0003、「太平洋戦
争終結による在外邦人保護・引揚関係雑件:国内受入体制の整備関係、輸送関係」に収録。
54 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
先述のとおり、陸軍省と海軍省は中央政府よりも早い時期である 8 月 15 日には徴用解除を独
自に決定しており、その中でも特に海軍省は 8 月 20 日には朝鮮人の送還を決定するほど迅速に
行動していた点に注目すべきである。中でも大湊警備府は、海軍省による朝鮮人送還決定が下
される直前の 1945 年 8 月 18 日から浮島丸の船舶手配を始め、地域の朝鮮人に対する乗船の呼
びかけを含め、すべての出航準備を迅速に整えた。その背景には、出航地である青森県下北半島
が終戦当時、在住推定人口約 8 万人のうち、大湊海軍警備府関係者が 5 ~ 6 万人を占めるほど、
要塞化された地域であったこと、大湊警備府司令官がこの地域において全権を掌握していたこと、
そして船舶の早期手配が実現していたことが、出航を可能にした要因と考えられる。実際、
大湊警備府では終戦を迎えるにあたり、海軍施設部の軍属や徴用工、軍用鉄道である大間鉄道の
土工、日本通運の支店の荷役労働者、三沢飛行場の滑走路建設労働者などを早期に帰還させる
ことで、連合軍の進駐後に起こり得る地域の混乱を未然に防ごうとした 55。
結局、浮島丸に乗船した朝鮮人の多くは、一般的な民間企業の労働者ではなく、海軍警備府が
直接あるいは間接的に管理していた軍属、もしくはそれに準ずる事業所に所属する労働者であった
ため、1945 年 8 月 22 日の時点で、強圧的な風潮の中、迅速な招集・乗船・出航が可能であった
と推定される。すなわち、日本の中央政府も大湊警備府も同様に強制動員された朝鮮人たちの
存在を厄介なものと感じており、占領局面を利用してかつての不満を日本社会に表出する前に、
彼らを早期に送還して火種を取り除こうとしたのである 56。しかし、日本国内の植民地出身者は
もちろん、海外の植民地や占領地にいた日本人の送還問題も同時に扱わなければならなかった中
央政府とは異なり、大湊警備府は管轄地域の朝鮮人送還問題だけに集中すればよく、また連合国
の空襲で損傷した浮島丸の修理と手配が早期に行われたため、警備府司令官が全権を行使して、
迅速に出航を強行できたものと推定される。ただし、1945 年 7 月~ 8 月の時点で連合軍により
主要軍港地域に機雷が集中的に投下されていたことを認識していた。その状況下で、大湊海軍警
備府司令部が危険を承知で浮島丸の出航を強行した直接的な理由については、関連資料が発掘さ
れない限り、実際、解明は難しい。警備府は本州最北端で北方海域の防衛を担っていたが、南樺
太や北海道など北方の戦況が悪化し続け、軍事的負担が増加していた。また 1945 年 8 月初旬
まで連合軍の空襲が続いていたことから占領軍の進駐後に発生するであろう事態を見通すことが
困難だった。これらの複合的な状況が影響したのではないかと現時点では推測される。
○ 駐韓米軍政による事件縮小発表
浮島丸が沈没した後、紆余曲折の末に故郷に帰還した生存者たちの証言は、まだ解放の熱気が
冷めやらぬ朝鮮社会をさらに沸かせることとなった。大湊の菅原組の請負業者であった張鍾植は
6 人の家族のうち 3 人を失ったが、1945 年 9 月 16 日に釜山港に到着するとすぐ、この事件を
55 下北の地域文化研究所、『アイゴ−の海』、1992 年、30 ~ 35 頁。
56 金太基、「GHQ/SCAP の在日韓国人政策に関する研究」、『国際政治論総』第 38 巻第 3 号、1998 年、250 ~ 251 頁。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
55
釜山日報社に最初に通報した。当時の『釜山日報』(1945 年 9 月 18 日)の報道記事のタイトルは、
「陰謀か? 過失か? 帰国同胞船爆発、日本人は事前に下船・上陸」であった。まだ事件調査の
結果が発表されていない状況だったため、記事本文では「意図的な爆沈」とは明言していなかっ
た。しかし、事前に日本海軍がボートを降ろして脱出していたという張鍾植の目撃談をそのまま
掲載し、乗船者約 8,000 人、生存者約 3,200 人、死亡者約 5,000 人と言及し、何らかの「陰謀」
が介在していた可能性も排除しなかった。
このような論調の報道が出た後、強制動員の被害者が多かった三南地方(全羅道・忠清道・慶
尚道)を中心に生存者が続々と帰還し、彼らを通じて事件の顛末が個人の目撃談として口コミで
急速に広まり始めた。その結果、建国準備委員会による国民への治安維持協力要請によって
ようやく沈静化し始めていた「反日感情」が、1945 年 9 月中旬を境に再び高まり、朝鮮にいた
日本人たちは帰還を控えて、各自が身を潜めるのに必死となった。
* 『釜山日報』1945 年 9 月 18 日。浮島丸事件に関する最初の報道
この事件は、解放からわずか 1 か月余りでようやく沈静化しつつあった朝鮮人たちの「反日
感情」に再び火をつける導火線となった。その影響で、解放後に慶尚北道地域から帰国した日
本人たちは、「浮島丸事件の知らせが広まった時が最も治安が不安定だった」と回顧することが
多かったという。当時、大邱、浦項、甘浦一帯でも「憎き日本人に恨みを晴らそう!」という
56 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
声があちこちから上がったと言われている 57。このような状況は、内陸部の清州でも同様であった。
清州で浮島丸事件の知らせが伝わったのは、釜山よりもやや遅れた 9 月末頃だった。当時の朝
鮮人たちは、この事件の犠牲者を悼んで追悼祭を執り行ったが、その直後に「日本人に復讐しよ
うとしている」という噂が流れ、清州の世話会に所属していた日本人たちも、地域の朝鮮人たち
の視線を意識し、慌てて香を焚いたとされる 58。
駐韓米軍政は、このように浮島丸事件が、植民地支配と強制動員によって蓄積された長年の恨
みが、周囲の日本人に向けて爆発させようとする朝鮮人たちの心理を刺激し、当局の最重要課題
であった「治安維持」を一層困難にしていると判断した。その結果、事件に関する噂が全国に広
まりつつあった 1945 年 10 月 4 日、ついにアメリカ軍政長官のホッジ中将が自ら事態の収拾を
図るべく声明を発表した。その骨子は以下のとおりである 59。
第一、本事件は水雷(機雷)に接触して発生したものである。
第二、 朝鮮国内で報道されている死者 7,000 人説は誇張されたもので、死者は「朝鮮人労働者
260 名」と「海軍軍属 25 名」である。
第三、 事件後の対応としては、死者のための葬儀が執り行われ、生存者には旅費支給許可証が、
負傷者には治療後に一定の金品が支給された。
この発表内容は、沈没当時に日本海軍の朝鮮人帰還者の引率者として浮島丸に乗船し、事件を
目撃した海軍施設協力会の「引率者佐々敬一」の「報告内容」に基づき、日本海軍連絡将校・菅
井斌麿少将が整理して米軍側に提出したものであり、ホッジ中将がそれをそのまま発表したもの
とされている。しかしこの発表では、乗船者数・死亡者数・生存者数・負傷者数といった基本的
な事実すら明かされず、「触雷」説の根拠も提示されなかった。
このホッジ中将の声明は、『朝日新聞』1945 年 10 月 8 日に「浮島丸事件の真相発表」という
見出しでそのまま転載され、日本国内でも同じ内容で報道された。ここで注目すべき点は、事件
発生から約 40 日経過して初めて日本国内で報道された「最初の」浮島丸事件関連報道であった
こと、そしてこの事件が朝鮮で「過大に拡散」されたことで、日本人が攻撃や脅威に晒される
などの弊害が出ていると強調している点である。さらに、報道の形式も問題だった。事件は日本
国内で発生したにもかかわらず、あたかも「京城(ソウル)発」の短報として処理され、本末転
倒の体裁を取っていた。また、自国内で起きた重大事件であれば、少なくとも事件の「概要」や
「原因」などの基本情報は伝えるべきだったが、実際にはこの事件が朝鮮国内で過剰に流布され、
日本人にとって不都合な影響が出ているという一点のみに焦点が当てられた。
57 青山信介他、『同和』第 164 号、1961 年 8 月。
58 斎藤多計夫、『同和』第 156 号、1960 年 12 月。
59 『毎日申報』、1945 年 10 月 4 日、「浮島丸事件後聞、同胞 7 千名の犠牲説は誤報、軍政庁で真相発表」。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
57
* 『朝日新聞』、1945 年 10 月 8 日。日本での最初の浮島丸事件報道
このような報道の姿勢は、『毎日新聞』(1945 年 10 月 9 日~ 11 日)でも同様に継続された。
たとえば、大邱地区司令官小松二郎の発言を引用し、「朝鮮では新聞やポスターを動員してこの
事件を『故意によるもの』と印象づけ、日本人を朝鮮から追い出そうとしている」という内容を
掲載した。
このように、韓国と日本で初めて報道された浮島丸事件の内容は、事件の原因や規模はもちろん、
報道の論調においても明確な違いが見られた。ここで注目すべき点は、在韓米軍政のホッジ中将
が日本側の連絡将校の伝聞内容を何ら検証や調査を行うことなく、そのまま発表したという事実
である。これは、占領地での治安維持を最優先とした在韓米軍政の立場からすれば、何として
でも早急にこの噂の拡散を食い止め、朝鮮人帰還者と今後送還予定の日本人との間で生じうる
対立を収束させたいという意図を示している。つまり、在韓米軍政にとっては、事件の真相解明
よりも、事件の縮小もしくは隠蔽を通じて、占領地域内で拡大しつつあった韓日両民族間の対立
の火種を消火することが優先事項だったのである。
○ 在日朝鮮人連盟青森支部の真相調査要請と GHQ の対応
事件が発生した直後、最初に日本政府に対して真相調査を要請したのは、東京の在日本朝鮮人
連盟中央準備委員会であった。在日本朝鮮人連盟(以下「朝連」)は、故郷に帰還する人々への
「帰還援護」と、日本に残留する人々の「生活援護」の 2 つを柱に組織を整備していった。この
背景には、連合軍の進駐を挟んで日本国内の各地方単位における朝鮮人送還に関する実務権限の
大きな移動があった。つまり、日本では 1945 年 11 月 24 日を前後して各地方に「引揚援護局」
が設置され、GHQ による計画的な送還制度が体系化されたのである。しかし、それ以前の敗戦
直後の段階では、日本政府の初期構想に基づき、各地の興生会が警察の協力を受けて送還業務を
進めていた。
ところが、連合軍が進駐して軍政が実施されると、地方官庁から派遣された職員に業務が引き
58 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
継がれた。その過程で、従来は送還者の検疫や医療活動を補助していた地方興生会所属の朝鮮人
たちが、送還問題に直接関与しようと動き始めた。そして、1945 年 11 月 15 日に興生会が正
式に解体されると、朝連は各地方支部を結成して朝鮮人送還と援護業務を遂行しようとした 60。
したがって、解放直後に故郷へ帰ろうとする朝鮮人たちが西日本の各港に雪崩のように押し寄せる
状況下で発生した浮島丸事件の事後処理は、朝連にとっても最大の関心事であった。
前述の通り、朝連中央準備委員会は事件発生から約半月後の 1945 年 9 月 10 日、日本政府
に対して真相調査を要請したが、その消極的な対応に失望し、最終的に占領当局である GHQ を
相手に直接交渉を試みるに至った。この一連の過程は、GHQ/SCAP Records (RG331), Box no. 1765
の文書綴にある「戦争犯罪報告書(Report of War Crime)」(1946 年 1 月 1 日)という公文書
および関連文書群に記録されている。
これによれば、1945 年 12 月 7 日から、朝連青森本部の委員長である孫一(ソン・イル)が、
浮島丸事件の生存者の証言に基づいて作成した事件報告書を第一次通報として占領当局に提出し
たとみられる。
- 孫一による第一次通報の内容(1945 年 12 月 7 日):青森県下北郡の大湊海軍当局は、
1945 年 8 月 15 日に終戦となると、海軍・軍属・徴用工・募集者・集団人夫および一般労務
者とその家族など、合計 7,500 ~ 8,000 人を、1945 年 8 月 22 日~ 23 日頃(日付不明)に
「優先帰国」との名目で、大湊海軍輸送船(7,500 ~ 8,000 トン、船名不明)に乗船させ
た。大湊を出港後、4 日目に京都府東舞鶴の軍港に入港しようとしたが、海岸からわずか
500 メートルの距離を残した地点で、日本側の説明によると機雷に触れて瞬時に沈没し、上
記の 7,500 ~ 8,000 人のうち 2,000 人だけが生存し、残りはすべて犠牲となった。事件の
生存者である私の知人は、当時の状況について次のように記憶しており、それをそのまま記
録した。
- 孫一が提出した知人の証言報告内容:(出航時の状況)大湊を出航する際、船長は悲痛な顔を
浮かべ涙を流しながら、知人にこう語った。「どうせ死ぬなら、朝鮮の人々を無事に故郷に
帰して、自分は太平洋で死ぬつもりだ」と。出航が遅れた原因は、食堂や便所などの設備
整備もあったが、海軍部から下された命令を船長が拒もうとしたことにもあったという。
死を覚悟するにつれて、船を運航しなければならないという恐怖が船長に重くのしかかった。
(沈没の経緯)その後、船は出航し、4 日目に東舞鶴軍港に差しかかり、一時停泊した。その
とき、1 隻の小型汽船が近づき、本船に乗っていた主要人物 4 ~ 5 名が急ぎ下船し、その
小型船に乗り込んで遠ざかっていった瞬間、突如として爆音が発生した。… その直前には
「邪魔になるから」として、甲板上にいた人々に対し、すべて無理やり船室内へ入るよう命
令があった。知人は泳ぎが得意で船員経験もあったため、その瞬間に服を脱ぎ、海へ飛び込
60 崔永鎬、「解放直後の在日韓国人の本国帰還、その過程と統制構造」、『日韓関係史研究』第 4 号、1995 年、108 ~ 109 頁。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
59
んだ。約 10 分後、陸地から小型船が 1 隻近づいてきたが、3 人だけ救助して立ち去った。
(生存者の収容)その後、東舞鶴軍港の海軍工廠に一時的に収容されたが、衣類の支給もなく、
食事は子どもの拳ほどの大きさの握り飯が 2 個だけ与えられた。外出も禁じられ、厳重に監
視された。私の知人は 3 人で共謀し、夜陰に紛れてその地獄のような場所から脱出し、京都
にたどり着いたという。3 人のうち 1 人が 400 ~ 500 円ほどの所持金を持っていたおかげで、
ボロボロの服を着たままなんとか青森県の大湊に戻ることができた。
- 孫一の真相調査要請内容:私はこの事件が発生して約 10 日後に、この体験をした知人と
会って上記の事情を聞くことができた。「大湊事件」は当時、新聞機関を通じて報道しない
よう統制されており、沈没と同時に艦長は切腹したという話もある。当時の東舞鶴軍港の状
況について、私の知人はこう語った。「私たちの乗っていた船は、完全に安全水域に停泊し
ていた。海岸まで泳げば 10 分ほどで着く距離であり、そんな場所に機雷が設置されている
はずがない。水中には赤い旗が 2 本立っていた。沈没した私たちの船よりも 2 倍は大きい
大型船が、問題なくすぐ隣を通っていった。特に、東舞鶴軍港に停泊していたある軍艦は、
沈んだ私たちの船に向かって大砲を構えていた。正直なところ、機雷によるものなのか、他
の軍艦からの砲撃なのか、沈没の原因はわからないが、とにかく 3 ~ 4 回の大きな爆発音が
響き、そのたびに船体が上下に激しく揺れた。」
(要請内容)最近、東京にある私たち在日朝鮮人連盟の中央本部が日本政府に厳重に抗議した
結果、日本側は犠牲者約 350 名の「名簿」と、死亡者に対する「慰謝料」45 万円を提示し、
この事件を秘密裡に解決しようと懇願してきた。しかし、私たちの連盟は死亡者名簿のみを
受け取り、金銭はそのまま返却したという。思うに、日本政府の当事者は当時、計画的に最後
の凶暴な野獣性を発揮し、天地が怒るべき残虐な行為を犯しておきながら、反省のかけらも
ない。この件について、私は可能な限り徹底的に調査を行い、確実な証拠と実際の証人を
探し出して、あらためて報告するつもりだ。また、日本の各陸海軍部および北海道、千島列島
などの同胞たちからも、上記のような類似の沈没事故が数十件に及ぶという知らせを聞いて
いるが、残念ながら確かな証拠はまだない。
この孫一の通報に対して、アーサー・G・コールソン(Arther G. Coulson)中佐が第 6 軍団司
令官に提出した報告によると、当時 GHQ の実務担当者は事件の内容にかなりの関心を示した
ものの、証拠資料の補完提出を要請したという。これを受け、朝鮮人連盟側は 12 月 12 日に調
査員・黄泰正(ファン・テジョン)の「浮島丸遭難事件調査報告書」〔第 2 次〕および遭難者・
李相鳳(イ・サンボン)・崔鳳春(チェ・ボンチュン)、〔李基賛(イ ・ ギチャン)〕らの証言録
〔「浮島丸遭難事件調査報告之件」(第 3 次)12 月 22 日〕を追加で提出したとみられる。概要は
次の通りである。
60 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
* http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/doc17_02_022.pdf
* http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/doc17_02_025.pdf
* http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/data3_05_003.pdf
2. 事件の展開と真相調査の経緯
61
- 黄泰正報告書:浮島丸には約 6,500 人が乗船しており、被害の規模は死亡者約 1,350 人、
重傷者約 200 人、軽傷者約 600 人と推定される。乗船者たちは強圧的な雰囲気の中で搭乗
させられた。… 8 月 24 日 16 時 10 分頃に爆発が起こり…生存者の荷物は近隣住民が軍当局
の黙認のもとで持ち去り、勝手に処分された。軍当局の高圧的な態度のため、生存者たちは
収容中、事実上の監禁状態に置かれていた。
- 李相鳳の証言:航海中、舞鶴湾に船が入った際、甲板に上がって前方を見ようとした瞬間、
船が爆発し、船体の中央部から沈み始めた。… 死傷者はゆうに 6,000 人にのぼる。… 様々な
状況を考慮すると、これは明らかに計画された出来事だった。
- 崔鳳春の証言:24 日 16 時頃、東舞鶴湾に入ると船は一時停止し、約 30 分後に再びゆっくりと
進み始めた。われわれの船は旗を振り、赤い旗の方向へ向かった。岸に近づいたとき、小型
モーターボートが迎えに来ており、赤い旗を過ぎた瞬間に船が爆発した。… われわれは東
舞鶴海軍施設部の徴用工員宿舎に監禁されたが、脱出して現在は青森の自宅で暮らしている。
出発時、朝鮮人は約 8,000 人にのぼり、そのうち 6,500 人は「乗船申請」をした者で、1,500 人
は申請をせずに乗船した者たちであり、出港直前に乗せられた。出港に際し、日本の将校らが
乗船を拒否し、出港は 2 日間遅れた。彼らが乗船を拒否した理由は「船が沈没するので犠牲
になりたくない」というものであった。全体的な状況を考慮すると、これは意図的な事件で
ある。
このように、再三にわたり朝連の青森支部からの真相調査要請を受け取った GHQ は、当初
「戦争犯罪」の観点から浮島丸事件に一定の関心を示した。しかし、難破者たちの証言を追加提
出された後も、戦争犯罪の具体的証拠(concrete evidence of a war crime)が不足していると判
断した。その結果、報告者であるコールソン中佐は、朝連の提出資料について「非難は明らかに
大半が憶測(conjecture)による」との意見を述べ、「適切な措置のため、文書を送達」とコメント
した。結局、GHQ がその後、朝連の申し立てを棄却した事実からも、占領当局は「証拠主義」を
名目に、この複雑な事件を回避しようとしたと推測される。
それもそのはず、GHQ の立場からすれば、この時期は「軍国主義の解体」後、占領統治秩
序の確立を通じて、山積する戦後処理の課題に取り組んでいた時期であり、また在韓米軍政庁
にとっても、1945 年末以降は信託統治問題や米ソ共同委員会の開催をめぐる左右の対立により、
国内の政治問題に忙殺されていた時期であった。すなわち、日韓双方にとって占領当局は、自らの
占領課題を遂行するうえで優先順位の低いこの問題を、そのまま覆い隠そうとした可能性が
高い。
また、この陳情案件の担当部署が法務調査局(Investigation Division of the Legal Section; LS)で
あったことも、この真相調査の要請が却下された要因の一つとみられる。というのも、この調査
局は、戦争犯罪に関する法的検討と犯罪者の司法的処罰を目的として、GHQ が 1945 年 10 月に
62 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
設置した部局であり、特に連合国の捕虜(POW)や連合国民に対する虐待などを犯した「B級
戦争犯罪の処罰」に注力していたからである。表向きには、すべての戦争犯罪に対して厳正な正
義を実現すると標榜していたが、実際には、平和に対する罪であるA級犯罪や、人道に対する罪
であるC級犯罪などは常に後回しにされていた。
その結果、朝連が3次提出した被災者の証言には、十分検討すべき有意義な内容が含まれていた。
しかし厳格な証拠主義を貫く姿勢では、正確な乗船者数、乗船命令等の公文書や死亡者とその身
元情報などの提出が必要であった。しかし、それらの情報は当然日本政府が保有していたもので
あり、日本側の許可なしには入手不可能であった。このような証拠はむしろ、GHQ が事件調査
の意志さえあれば、日本政府に対して要求できたはずのものである。もし、乗船していた乗客の
中に連合国民が含まれていたならば、この真相調査要請はまったく異なる方向で展開されていた
だろう。
結局のところ、これは GHQ が「正義」を掲げながらも、連合国民ではない旧植民地出身者
に対してはダブルスタンダード(正義追及の二重基準)をとっていたことを示している 61。そ
の結果、追加証言の聴取や GHQ 主導の沈没現場調査といった努力もなされず、出港・運航・
寄港に関する資料の提出を日本政府に要求することもなかった。こうした意味で、GHQ の
このような態度もまた、この事件を迷宮入りさせた要因の一つであったと言える。仮に GHQ が
1945 年 12 月~ 1946 年 1 月の段階で、朝連青森支部の真相調査の要請を受け入れていたとすれば、
十分に調査は可能であったはずである。
なぜなら、連合軍は浮島丸が出港するわずか 10 日ほど前の 1945 年 8 月 9 日~ 10 日に、
北緯 37 度以北の地域に対して、約 3,500 機の航空機を動員して、大規模な本土空襲を敢行し、
それにより、大湊警備府の特設船・浮島丸も爆撃を受け、外板が損傷することがあった。当時、
米軍は大湊一帯の飛行場、軍港、高射砲施設を集中攻撃していた。これは、「大湊地区」が北日
本最大の攻略目標地であったため、軍関連施設に関する詳細な情報を事前に収集し、それにより
可能だったのである。
さらに、大湊地区は敗戦後、北日本地域で最も早く連合軍に接収された場所であり、日本海軍に
とっても「驚くほど迅速な」進駐が行われ、1945 年 9 月 8 日には米軍の艦艇 24 隻が大湊港に
入港し、9 月 9 日には米艦隊の旗艦上で降伏調印式が行われた。そして 9 月 27 日には米陸軍
1,500 人が派遣され、大湊警備府の管理にあたり、最終的に 11 月 30 日にはすべての残務整理を
終え、日本海軍は解散され、大湊警備府も廃止された 62。
61 JonathanBull,StevenIvings,InvestigatingtheUkishima-maruIncidentinOccupiedJapan:SurvivorTestimoniesandRelated
Documents,『TheAsia-PacificJournal』19-2,2021.,pp3 ~ 4.
62 飛内進、『大湊警備府の沿革史』、三恵プリント、2001 年、799 ~ 800 頁。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
63
* 飛内進、『大湊警備府の終焉』、共同印刷、1994、17 頁。(1945.9.9. 大湊地区降伏調印式に出席する大湊警備府代表団)
したがって、第 1 次報告の記録にあるように、孫一が浮島丸で遭難を経験し青森に戻った
知人と会った時期が「事件発生後約 10 日」であったことを想起すると、これはちょうど「大
湊地区での降伏調印」が行われた時期とほぼ一致する。また、GHQ に最初に真相調査を要請し
た日が 12 月 7 日であったため、大湊警備府が廃止されてからわずか 1 週間しか経っていない時
期であった。これは結局、GHQ に調査の意思さえあれば、浮島丸の出航および運航に関する調査
は十分に可能であったことを意味する。特に、浮島丸が沈没する 2 日前に南樺太から北海道へ
向かった送還船「小笠原丸」「第二新興丸」「泰東丸」が沈没し、大規模な死傷事故が発生した。
それにもかかわらず 63、なぜ無理な出航を強行したのかについての調査は、米軍が大湊地区を接
収した 1945 年 9 月初旬でも、大湊警備府が廃止された直後の 1945 年 12 月の時点でも、いくら
でも実施できたはずである。
63 MatthewR.Augustine,UniversityofHawaiiPress,『FromJapaneseEmpiretoAmericanHegemony』,2023,pp.30 ~ 31.
64 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
* 米国防総省による舞鶴上空での機雷投下命令の全文(1945.8.6.)、中村和彦収集資料(外務省記録)
* http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/data3_07_001.pdf
2. 事件の展開と真相調査の経緯
65
また、日本政府が事件直後から一貫して主張している「触雷説」の検証も、意思さえあれば
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のレベルで十分に可能であったと思われる。なぜなら、
前述の資料からもわかるように、米国防総省による舞鶴近海への機雷投下命令が下されたのは、
浮島丸が沈没するおよそ 2 週間前の 8 月 6 日であり、投下日は 8 月 7 日、その結果報告は
8 月 8 日であった。したがって、わざわざ日本海軍側から舞鶴への航路変更の理由を聴取しなく
とも、事件の真相究明が目的であれば、舞鶴海域の掃海(機雷除去)状況だけを確認することで、
沈没原因を明らかにすることができたはずである。すなわち、米軍の進駐時期、出港地と沈没地
の航行環境に関する保有情報などを考慮すれば、GHQ はこの事件の全貌を十分に解明できたと
考えられる。
それでは、GHQ はなぜ朝鮮人団体による真相調査の要請に対し、1948 年まで回答を引き延
ばした末に、結果的に黙殺する形となったのか。もちろんこれについては、占領期における他の
課題との優先順位を考慮した場合、「旧植民地出身者に対する被害調査」は後回しにされたと見
なされていたことが、基本的な要因であっただろう。しかし、それに加えて GHQ と日本国内
の朝鮮人団体との間における力関係の変化も、影響を及ぼしたと考えられる。この背景には、
GHQ の朝鮮および朝鮮人団体に対する認識の変化、また日本国内における朝鮮人の送還業務の
進行状況およびその性格の変化、さらには 1946 年後半以降に顕在化した東北アジア地域における
東西冷戦の激化の過程と対日占領政策の転換が密接に関連していたとみられる。
敗戦直後、日本政府は朝鮮人の送還問題を自らの意図通りに処理しようとした。しかし、
GHQ は 1945 年 11 月 8 日、「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後にお
ける初期の基本的指令」を通じて、朝鮮人を「解放人民」として待遇すること、すなわち「非日
本人」ではあるが、引き続き「日本国民」であり、必要に応じて「敵国人」として処遇されても
いいとし、本人の希望があれば所定の手続きに従って母国への帰還が可能であると公表した。こ
の問題で本格的に主導権を握り始めたのである。
それ以前の GHQ は、1945 年 8 月 24 日に 100 トン以上の船舶の運航を禁止するなど、占領地
域内の物資と人員の移動を統制していた。また、10 月には下関や博多などの帰還港に朝鮮人が
一斉に押し寄せたため、GHQ は地域別に送還の順序を定め、それに基づいて地域を統制するよう
指示した。だが、この問題に深く関与していたわけではなかった。GHQ が朝鮮人送還問題に
注目するようになったきっかけは、1945 年 10 月、北海道の炭鉱地域で朝鮮人および中国人労働
者たちが未払い賃金の支払いと帰還の支援を要求し、組織的な闘争の兆しを見せたことである。
これを受けて、北海道に駐留していた占領軍は、在韓米軍政庁を通じて一時的に送金を許可し、
石炭の生産が継続できるように争議を仲裁した 64。
その後、GHQ は 11 月に入ると、朝鮮人の送還および日本人の収容がある程度軌道に乗った
ことを受けて、送還待機者への緊急援護の改善や、無秩序な帰還港への殺到を抑制するための
64 戦後補償問題研究会、『戦後補償問題資料集』8 巻、1993 年、35 ~ 36 頁。
66 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
スケジュール調整、そして従来は興生会が担当していた実務に朝鮮人連盟などの朝鮮人団体が参
加できるよう許可するなど 65、朝鮮人送還問題に関しては、GHQ と朝鮮人側の関係は「友好的」
であったといえる。こうした状況下、送還機構が体系的に整備されていく中で、朝鮮から最も遠
い北海道の炭鉱地域にいた労働者の送還も、概ね 1945 年 12 月までに完了し、地域別の送還優
先順位において最も後回しにされていた地域であっても、1946 年 1 ~ 2 月頃には送還がほぼ終
了した。
こうして「既住朝鮮人」を除く、「強制動員された朝鮮人」の韓国(南朝鮮)への送還がほぼ
完了すると、GHQ は 1946 年 2 月を前後して、日本に残る朝鮮人に対して「帰還」か「残留」
かの選択権を与えたが、どちらを選択しても「厳格な制限条件」が課されることになった。
すなわち、日本に残ることを希望する朝鮮人に対しては「帰還希望登録制度」が導入され、同時に
帰還を希望する者の財産持ち出しについても厳格な制限が設けられた 66。その結果、1946 年 1~
2 月以降、帰還者の数は急激に減少せざるをえなかった 67。
GHQ は 1946 年 2 月 17 日、「朝鮮人、中国人、琉球人及び台湾人の登録に関する総司令部覚
書」を発表し、同年 3 月 18 日までに地方行政機関において全ての該当者が帰還希望の有無を
登録するよう指示した。そして、1946 年下半期からは、依然として故郷に帰還できない遠隔
地の軍人・軍属、サハリンなどソ連占領地域に抑留された者や捕虜、そして密航・密輸など治
安を乱す行為によって拘束された人々の送還が断続的に続けられ、関連業務も継続されていた。
しかし実際には、GHQ の朝鮮人に対する関心はすでに「送還」ではなく、戦後も日本に残る
ことになった朝鮮人が日本社会で軋轢を起こさないようにするための「統制と管理」へと移行し
ていた。
このように、占領初期において GHQ は、本国への帰還と現地での残留の間で、朝鮮人個人の
自由意思を尊重する形で送還問題の解決を試みた 68。その結果、占領直後には新たに結成された
在日本朝鮮人連盟を中心とする民族団体の活動が幅広く保障され、特に朝鮮人の送還業務のうち、
日本国内での鉄道輸送や出港地での宿泊などの実務に関しては、朝連に大幅な実務権限が委任
されることとなった。しかし、実務レベルにおける「下位パートナー」として認識されていた朝
連は、事実上、残留を選択した朝鮮人を除き、帰還希望者の本国送還が完了した時点で、その
実用性・存在意義が薄れていかざるをえなかった。こうした状況の中で、1946 年後半以降、朝
連は生活権の擁護を目的として社会運動に積極的に関与するようになった。朝連は 1947 年の外
国人登録および財産税の課税措置に対する不満の表明、1948 年の民族教育擁護運動における日
本政府との対立、1949 年の北朝鮮政権への支持表明などを契機として、最終的には占領統治に
65 崔永鎬、『在日韓国人と祖国光復』、クルモイン、1995 年、102 ~ 103 頁。
66 IncomingMessagefromWashingtontoMcArthur,1945.12.8.KK/ESS-00643.、日本国会図書館憲政資料室、ESS-00643。
67 「G-2 報告書」、August1946、No.294参照。
68 蘭信三・川喜田敦子・松浦雄介編、『引揚・追放・残留戦後国際民族移動の比較研究』、名古屋大学出版会、2019 年、39~40 頁。
2. 事件の展開と真相調査の経緯
67
対する「障害」として認識され、解散命令が下されるに至った 69。
結局、事故発生の直後、この事件の真相調査は GHQ 占領期に十分に推進される余地があった
と言える。しかしながら、上述のような状況の変化により、朝連をはじめとする在日朝鮮人団体
の交渉力が低下したことで、事件の調査はそのまま迷宮入りしてしまったという側面も否定でき
ない。
残念な結果ではあるが、事件初期における朝連の真相究明活動の意義は決して過小評価される
べきではない。たとえ彼らの要求が最終的に実現されなかったとしても、本国からの支援を期待
できない状況下で、占領当局に対して真相解明を求め続けた朝連の行動は、それ自体に大きな意
味があった。そしてその活動は、その後も形を変えながら命脈を保ち続けた。
すなわち、朝鮮半島が戦火に巻き込まれていた 1950 年代初頭、浮島丸の船体引き揚げ作業が
開始されると、彼らは再び舞鶴地方復員局残務処理部に対し、引き揚げ作業に先立っての真相解
明を要求し、何らかの形で調査に関与しようとした。さらに、1970 年代に開催された日韓閣僚
会議を通じて、身元が確認された一部の朝鮮人犠牲者の遺骨が本国に返還されるなか 70、「朝鮮人
強制連行真相調査団」が発足し、出航地である東北地方一帯を調査しながら、「意図的爆沈説」
を裏付ける証言を収集した。そして、1970 年代末から現在に至るまで、彼らは日本の市民団体
と連携し、京都・舞鶴において浮島丸事件の犠牲者追悼行事を推進する一方、祐天寺に保管され
ている浮島丸事件の犠牲者遺骨の問題を提起することで、日本社会にこの事件の全貌を伝えよう
と努めてきた。2002 年に日本外務省が行った第 16 回公文書公開において、浮島丸事件の関連
ファイルと朝鮮人遺骨に関する資料収集にいち早く対応したのも、まさに彼らであった。
ただし、事件初期において純粋な意図から提起された乗船者の証言に基づく「爆沈説」の主張
が次第に「イデオロギー的色彩」を帯び、それが南北朝鮮と日本の三国間における政治的状況の
もとで先駆けて拡大再生産された経緯については、別の紙面において改めて論じる必要がある
だろう。
69 金太基、「GHQ/SCAP の対在日韓国人政策」、『国際政治論叢』38 巻3 号、1998 年、263 ~ 264 頁。
70 呉日煥、「日本人遺骨の発掘をめぐる日韓両政府間の協力に関する研究」、2010 年、東北亜歴史財団研究報告書、「強制動員死
亡者の遺骨返還をめぐる日韓両政府間の交渉に関する小考」、『韓日民族問題研究』第 17 号、2009 年。
[日帝強制動員被害者支援財団徐寅源提供]
1)
市民運動団体による浮島丸事件の公論化の経緯
2)
「事実関係」をめぐる論争と未解明の課題
3)
真相究明をめぐる韓日両政府の対応の問題点
事件の公論化の経緯と
日韓両政府の対応
3
70 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
3 事件の公論化の経緯と日韓両政府の対応
1)市民運動団体による浮島丸事件の公論化の経緯
まず、韓国国内において浮島丸事件を社会的に広く知らせ、この問題の解決に向けて活動して
きた主要団体とその取り組みについて整理したい。代表的な関連団体には、浮島丸爆沈真相
究明会(発起人:田在鎮、1993 年)、浮島丸事件被害者賠償推進委員会(発起人:韓永龍、
2001 年)、浮島丸事件訴訟に積極的に参加した太平洋戦争犠牲者光州遺族会(故 李金珠会長)と
浮島丸事件訴訟原告団(遺族代表:全承烈)などがある。これらの団体・人物による主な活動は、
韓国内外における関連訴訟の支援、犠牲者追悼事業の推進、関連資料の収集と発掘、日韓両政府
に対する情報公開請求、被害者への賠償および遺骨返還の要求などである。
上段左:全承烈(チョン・スンニョル)氏
下段左:田在鎮(チョン・ジェジン)氏
上段右:故 李金珠(イ・グムジュ)氏(右側)
下段右:韓永龍(ハン・ヨンヨン)氏
3. 事件の公論化の経緯と日韓両政府の対応
71
○ 主な活動
この中でも、訴訟支援および追悼事業は、日韓間の市民団体交流を拡大する上で重要な意味を
持つ活動である。また、資料(特に生存者および遺族の口述記録)の収集や各種陳情の提出は、
韓国内でも実行できる活動であったため、団体設立の初期から特に力を注いできた。
彼らが 2023 年現在、「浮島丸爆沈真相究明特別法」の制定を求めている背景には、1974 年に
「対日民間請求権補償に関する法律」が制定されたにもかかわらず、本事件の被害者が
「1945 年 8 月 15 日以降」の被害者という理由で、強制動員被害の支援対象から除外された
ことにある。2004 年に韓国政府の真相糾明委員会が、その後続の調査支援委員会が発足、〔被害
認定を進めたが、対応が不十分という〕認識はほとんど変わらなかった。
2016 年に発行した委員会の活動結果報告書を見ると、〔浮島丸〕事件に関する記録が確認さ
れた場合には、政府レベルで正式に被害者認定および遺族決定を公表・通知した事例が明記され
ている。
(事例)権○ ジェ(桂陽区-99)
「権○ ジェは 1944 年頃、日本帝国によって強制動員され、1945 年 8 月 24 日に舞鶴港で
発生した浮島丸の沈没事故により死亡したことが認められるため、犠牲者として決定し、申
告者の権○ ランは犠牲者の娘であることから、遺族として認定する。」71
それにもかかわらず、関連団体や遺族たちがいまだに韓国政府の対応が不十分だと感じている
理由は何だろうか。それについては、これまでこれらの団体が日韓両政府に対して提起してきた
各種の陳情を通じて確認する必要がある 72。
○ 浮島丸爆沈真相究明会による提出陳情
-
「浮島丸爆沈事件」の解決意思の有無に関する質疑(1995 年、外務部)
-
「浮島丸爆沈事件の真相究明の要請」(1996 年、政府総合民願室)
-
「浮島丸爆破沈没による韓国人被害者への賠償請求書」(1996 年、駐韓日本大使館)
-
「浮島丸爆沈事件の実質的な解決に向けた政策樹立要請」(1997 年、金大中大統領当選者の
引継委員会秘書室)
-
「浮島丸爆沈事件の実質的な解決を促す嘆願書」(1998 年、青瓦台秘書室)
71 対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会、『委員会活動結果報告書』別冊 3-1 巻、142 頁。
72 上記の陳情書件は、韓国政府の旧真相糾明委員会が 2006 年 9 月 25 日から 26 日にかけて、光州遺族会の李金珠会長および咸
陽の韓永龍会長を出張訪問し、資料収集の過程で入手した写本、および 2008 年 5 月 16 日に真相糾明委員会が開催した『浮島
丸事件関連韓日専門家フォーラム』の場で、関係団体の代表者たちが付録として提出した陳情書書類、さらに 2016 年の資料学
基盤研究『日帝強占期の強制動員被害者帰還関連資料研究』の原文アーカイブに掲載された嘆願書などを総合したものである。
72 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
-
「韓国人犠牲者の南北共同調査団構成のための北朝鮮住民接触許可申請書」(1999 年、統一部)
-
「水中慰霊碑の建立に対する協力要請」(1999 年、在日朝鮮人歴史調査会)
-
「浮島丸事件の処分内容の公開要請」(1999 年、駐韓米国大使館)
-
「浮島丸事件における韓国人死亡者の遺骨返還に関する情報公開請求」(1999 年、保健福祉部
長官)
○ 浮島丸事件被害者賠償推進委員会が提出した陳情書
-
「浮島丸事件死亡者の身元確認に対する協力指示要請」(2001 年、行政自治部長官)
-
「浮島丸沈没事件の真相究明要求事項」(2007 年、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会)
これらの文書を見ると、これらの団体は韓国政府、日本政府、そして占領直後に日本近海の船
舶運航を統制していた連合国軍総司令部(アメリカ政府)を対象に、あらゆる方向で陳情を行っ
てきたことがわかる。日本政府に対しては、主に事故の経緯や事後処理に関する不十分な説明、
そして 1952 年のサンフランシスコ講和条約締結後に国籍剥奪を理由として賠償責任を拒否した
点を問題視している。アメリカの場合、GHQ は事故当初には「戦争犯罪」の可能性を排除せず
異例の関心を示したが、3次にわたって事件を報告した朝鮮人連盟の提出資料について「戦争
犯罪と見なすには根拠が乏しく、大半が遭難者の憶測に基づいている」として、連盟の提訴を棄
却した責任が問われている。韓国政府に対しては、事件の真相調査や被害者および遺族に対する
情報提供の努力が不十分であった点、さらにこの事件の被害者を「1945 年 8 月 15 日以降の被害」
として、関連する救済および支援の対象から除外した責任を問うている。
実際、これらの団体は単に陳情書を提出するだけでなく、関連機関を訪問し、事件関連情報の
公開を強く要求してきた。これは、この事件が迷宮入りした第一の原因は日本政府の曖昧な説明に
あり、GHQ および在韓米軍政がそれぞれ日本および韓国で事件に関する公式調査を求める声を
無視したことに起因すると考えているからである。また、統一部に提出された民願を見ると、
これらの団体は在日朝鮮人総連合会系の団体や北朝鮮側の被害者との連携を図るための面会許可
を要請したこともあった。
これはつまり、韓国政府がこの事件に十分に対応できていないことへの不満の表れとみる
ことができる。最終的に、これらの団体は韓国政府に対して積極的な真相究明を求める一方で、
2001 年の映画『生きている霊魂たち』、1995 年の『エイジアン・ブルー 浮島丸サコン』など、
この事件を題材とした作品の国内試写会を積極的に推進し、放送や各種メディアを通じて社会的な
世論の形成に力を注いできた。
しかし現在に至るまでこの事件の真相究明は十分に行われておらず、補償および支援の議論の
なかでも常に「特別支援対象」から排除されてきたという不満が、2023 年初頭の「第三者弁済
方式」に関する公聴会を契機にさらに広がっている。これらの団体が具体的に「特別法の制定」
3. 事件の公論化の経緯と日韓両政府の対応
73
を求める理由と主な要求事項を整理すると、以下のようになる 73。
○ 事件に対する認識
- 浮島丸事件は日韓基本条約で解決された問題ではない。
- 問題解決の本質は被害者の人権と生命にある。
- この事件は人権に関わる問題であるため、時効は適用されない。
- 現在においても、被害者への原状回復義務は履行されていない。
○ 日韓両政府による真相究明と資料提供の努力に対する不満
- 韓国政府はこの事件を解決するために、日本側にどのような資料を要請したのか。
- 日本から移管された資料とその目録を、被害者団体に提供・共有すべきである。
- 訴訟または被害者認定の過程で、日韓両政府は常に被害者に立証資料を要求しているが、
これは謝罪や賠償の意思がないという意味である。
○ 日本国内での訴訟運動の中で感じた韓国政府の傍観的態度
- 過去に行われた浮島丸事件訴訟の過程でも、韓国政府は政治的・外交的理由から被害者の
努力を傍観していた。
- 韓日両国ともに、生存者および被害者の証言の法的効力を認めてこなかった。実際に家族が
この事件で死亡したにもかかわらず、公的記録が存在しないという理由で被害者と認定され
ない状況に対し、具体的な解決策を提示してほしい。
- 1954 年の第 2 次船体引き揚げの際、日朝協会および京都の市民団体は、遺骨を原形のまま
引き揚げる方法を要請した。しかし、作業の便宜を理由に水中でダイナマイトによる爆破が
行われ、遺骨は損傷または散逸した。この事態を韓国政府はなぜ防ぐことができなかった
のか。
- 現在も多くの被害者の遺体が水中に漂流しているか、海底に埋没され、放置されている状況
である。遺体の発掘および遺骨の本国送還のために、韓国政府は今後どのような努力を行う
のか。
73 斎藤作治編著・田在鎮編訳、『浮島丸爆沈事件の真相』、カラム企画、1996 年 : 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会、韓永
龍、「浮島丸爆沈事件に対する韓国政府の対応の問題点」、『浮島丸事件の主要争点に関する再照明』、2008 年 5 月。
;『釜山日報』、
2023 年 2 月 7 日、「遺族団体、7 日釜山永楽公園を訪問」;2023 年 8 月 24 日、「金弘傑議員:浮島丸の遺骨、いまこそ祖国へ」;
全承烈、「祐天寺無縁遺骨の返還」、『日本帝国による強制連行被害者の遺骨―強制連行と強制労働の犠牲者を思う―』、日帝強
占下強制動員被害真相糾明委員会公聴会資料、2004 年。
74 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
○ 大韓民国国会が批准した「真相究明調査団」の派遣による現地調査
- これまでの旧委員会体制では、この事件の真相究明は不可能であるため、より強力な調査団を
編成し、韓国政府が能動的に調査を実施すべきである。
○ 事件原因の解明のための専門家組織の設置・運営
- これまで国内で収集された生存者の証言を客観化・資料化できる専門機関を設置し、真相
調査に活用すべきである。
- 既存の資料の分析・評価を通じてその意味を明確にし、新たな資料発掘の基盤としなければ
ならない。
○ 釜山永楽園および東京・祐天寺の無縁遺骨の処理
- 遺族の意思を無視した韓日両国政府による遺骨返還には反対する。
- 釜山永楽園に安置された無縁遺骨について、遺族の確認作業を国家が支援すべきである。
* 浮島丸爆沈真相糾明会 声明文
(http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/data3_02_030.pdf)
3. 事件の公論化の経緯と日韓両政府の対応
75
これまでに確認された浮島丸事件関連の被害者・市民団体の主要な活動や陳情内容、そして最
近進められている「浮島丸爆沈真相究明特別法」制定要求に関連して、報道などを通じて明らかに
された立法請求の趣旨を整理した。これらを総合すると、他の強制動員被害者集団と比べて、浮
島丸事件の被害者たちが韓国政府に対して特に不満を持つ理由と背景を推察することができる。
特に、事件の真相調査や日本に保管されている無縁遺骨の返還に関しては、できる限り迅速に、
被害者および遺族の立場から対応することを強く要求している。
あわせて注目すべき点は、これらの要求が多層的であり、韓日両国の国内法の手続きや外交上の
慣例などを考慮する時、現実的に実現可能なものと困難なもの(あるいは政治的協議を要する
もの)が混在していることである。したがって、韓国政府としてはこれらの要求を理念的・政
治的・外交的・学術的な領域に分類し、その中から即時に対応可能なものと、別途の努力や手続
きを要するものに分けて、優先順位を緊急に検討する必要がある。例えば、遺族および関連団体
が要求している「資料および情報の共有」の件を例に取れば、1977 年および 1993 年に日本政
府から移管された名簿については、韓国政府の旧真相糾明委員会の内部では全項目にわたって
マスキング(個人情報保護措置)なしで閲覧が可能であった。しかし、日本で同じ資料を厚生省や
防衛庁などに申請した場合は、一律にマスキングされた状態でしか提供されず、さらに韓国でも
個人情報保護法が施行されたことで、第三者が資料を申請することができず、マスキングされる
ことが多くなり、2010 年まで可能だった関連資料との照合も難しい状況となっている。
このように、本事件の再調査には制度的・現実的・政治的な高いハードルが存在するため、遺
族および関連団体は、これらを一括して突破できる手段として「特別法」の制定を求めていると
みられる。このような要求に対して、政府は無条件に先送りするのではなく、現段階で可能な事
項と将来の新たな努力での実現可能な事項を分け、具体的な対応策を提示することにより、長年
蓄積された政府への不信と不満を可能な限り解消する必要がある。
2)
「事実関係」をめぐる論争と未解明の課題
原点に立ち返ってみると、これまでに浮島丸事件に関して明らかになった唯一の核心的事実と
は、この船が「1945 年 8 月 24 日午後 5 時 15 分から 20 分の間に、京都府舞鶴湾に入港する
過程で沈没した」ということである。それ以外の事実関係については、いまだに十分に解明され
ていない基本的な事項が山積しており、それらの事実を裏付ける資料の解釈についても、立場や
論者によって意見が大きく分かれているのが現状である。
特に注目すべきは、浮島丸事件に関連する訴訟資料が全 18 冊に及び、付属の証拠資料まで含
めると 3 万 5 千頁を超える膨大な分量に達するということである 74。これは、学術研究がほとん
ど存在しなかった状況下で、この事件の核心的争点は何であり、どのような資料を通じてそれが
74 本報告書付録の「浮島丸事件主要根拠資料一覧」を参照。
76 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
明らかにできるのかを、15 年間にわたって訴訟原告団が実践的観点から収集・整理してきた成
果と見ることができる。
本研究では、研究の目的上、法理をめぐる論争は一旦除外し、重要な事実関係を中心に、事件
をめぐる論点および未解明課題を以下のように項目別に整理する。
○ 搭乗者数
- この問題は、事件の被害規模に直結する重要な要素である。
- 日本側の公式発表:朝鮮人 3,725 人、日本海軍乗組員 255 人。
- この数値は、1950 年の第一次船体引き揚げ時に復員局が調査し発表したものであり、現在
も日本政府の公式見解である 75。しかしながら、問題は復員局で調査したこの搭乗者数が何
を根拠に算出されたのか、原資料を提示せずにいる点である。それだけでなく、復員局の関
係者は正式な搭乗手続きを経ずに乗船した者が存在することをメディアとのインタビューで
認めており、そのため、公式に発表された数値はあくまで「最小値」であると理解すべきで
ある。
さらに注目すべき点は、浮島丸(貨客船:旅客定員 677 名+貨物倉庫 4 区画)が沈没した後、
約 1 週間後に仙崎と釜山を往復した最初の帰還船「高安丸」や「德寿丸」の搭乗者数 76 に関する
資料である。この資料によれば、太平洋戦争以前の定員の 3 ~ 4 倍の人数が乗船することが常態
化していた。つまり、当時の韓日航路で使用可能な 2,000 トン以上の船舶はごくわずかであっ
たため、定員超過による過密輸送は、GHQ が中国大陸・台湾・南太平洋からの日本人送還の
ために水陸両用 LST を本格投入した 1946 年 1 月まで続いたと推定される 77。このような背景
から、口述資料の中には「7,000 人説」や「8,000 人説」を主張するものもあり、実際に平時定員
2,600 名に過ぎない高安丸が帰還船として運用された時期には、7,000 ~ 9,000 人まで搭乗して
いたという証言も存在する。この点を踏まえると、浮島丸の実際の搭乗者数も、公式発表より
遥かに多かった可能性を考慮すべきである。
○ 搭乗経緯
- 国内被害者たちは、大湊海軍警備府からの「強制」によって乗船させられたと主張している。
- さらには、日本海軍の乗組員ですら出航を拒否したという証言も存在する。
- 一方、裁判所および日本側は、朝鮮人の「帰国への熱意」を強調している。
75 準備書面 10-3「1950 年代の報道」
76 崔永鎬、「解放直後の在日韓国人の本国帰還、その過程と統制構造」、『日韓関係史研究』第 4 号、1995 年、106 ~ 107 頁。
77 加藤陽子、「敗者の帰還 中国からの復員・引揚問題の展開」、『国際政治』第 109 号、1995 年。米軍による送還船投入の状況
を参照。
3. 事件の公論化の経緯と日韓両政府の対応
77
- これらは相反する主張ではなく、当時の帰還状況を考えれば「双方が共存し得る」論点と
解釈できる。当時、米軍政および GHQ の統計によれば、1945 年 11 月までに日本からの
朝鮮人帰還者数は急速に増加し、統計に記録された密航帰還者だけでも 18 万 5 千人を超え
ていたことから、朝鮮人の帰還熱が高かったのは事実である 78。しかしながら、海軍省は中
央政府の発表 79 よりも早い段階で朝鮮人徴用の解除および送還方針を決定しており、特に大湊
警備府はその中でも最も早く行動を開始した部隊であった。また、海軍直属の作業場に限ら
ず、民間の作業場に配置されていた朝鮮人も一括して早期に送還しようとした点に鑑みると、
「選択の余地がなかった」という点で、強制的な雰囲気が存在していたことも否定できない。
その要因としては、複数の角度からの分析が必要だが、南サハリンでは 8 月 15 日以降も
戦闘が継続していたこと、北方海域では機雷だけでなく魚雷攻撃も頻発していたことから、
大湊警備府が地域防衛に対する不安を感じていたのは明白である。また、8 月 10 日の連合軍
による大規模空襲 80 以降、米軍の早期進駐を恐れる空気も重大な影響を与えたと考えられる。
こうした状況の中で、「朝鮮人が暴動を起こそうとしている」あるいは「日本海軍が朝鮮人
を皆殺しにしようとしている」といった、正反対の性格を持つ流言飛語が同時に広まってい
たと推定される。
○ 出航の経緯
- 艦長および乗組員は、浮島丸の行き先が舞鶴であることを認識したうえで出航した。
- 民間人の中でも、日本人の引率者の一部は、釜山ではなく舞鶴行きであることを把握した状
態で乗船していた。
- 8 月 24 日 18 時以降の航行を禁止する「大海令」に関する電報は、出航前に大湊警備府に
到着しており、艦長にも確実に伝達されていた。
- 各種公文書によりこれらの事実は明らかになっているが、乗船した朝鮮人にも行き先が変更
されたことが告知されたのか、あるいは大海令の影響で一時的に舞鶴に寄港した後、釜山へ
向かう計画だったのかについては、依然として不明である。
○ 入港当時の舞鶴湾の状況
- 日本側は当初から、米軍が投下した機雷による沈没であると主張している。
- これに対して韓国人被害者たちは、船体の破損形状・水柱の発生・爆音の回数などを根拠に、
「意図的な爆沈」であったと訴えている。
78 第 2 章の表 1「解放後、南韓地域への朝鮮人帰還人口および在朝日本人の送出者累計」参照。
79 森田芳夫、『朝鮮終戦の記録』、1978 年、130 頁。
80 飛内進、『大湊警備府の沿革史』、三恵プリント、2001 年、799 ~ 800 頁。
78 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
- 米軍の資料によると、浮島丸が入港する約 2 週間前に、舞鶴湾周辺に機雷が投下された事
実が確認されている 81。しかし、投下規模が限られていた上、入港当時、陸地と沿岸を往来
していた他の船舶が存在していたため、必ずしも「接触機雷」による沈没と断定することは
できない。この点については、舞鶴周辺の掃海(機雷除去)状況および誘導航路の安全性を
裏付ける追加的な証拠が必要である。さらに、艦の大きさや水深に応じて作動する機雷の種
類が多様であることを踏まえ、当時どのような機雷が投下されていたのかについての確認も
求められる。
○ 沈没直前における日本人乗組員の脱出の有無
- 朝鮮人被害者および日本人乗組員の双方が、沈没直前にボートが降ろされる場面を目撃したと
証言している。
- ただし、ボートが1隻だったのか、複数だったのかについては証言が分かれている。
- この点は、被害者側が「意図的爆沈」を主張する主要な根拠の一つである。しかし、当時日
本人乗組員であった人物の証言によれば、ボートは確かに降ろされたが、艦長およびすべての
乗組員は船内に留まっていたとされる。したがって、「ボートが降ろされた」という事実
だけをもって、爆沈の意図を裏付けると断定するのは慎重であるべきだろう。
○ 救助の状況
- 最初に救助活動に乗り出したのは、付近の漁民であり、その多くは女性であった。
- その後、海軍の救助隊が救助活動に加わった。
- 当局による公式な救助活動終了後も、近隣住民の証言によれば、遺体が流れ着くのを目撃
したという報告がある 82。
- 朝鮮人被害者の中には、救助の手を借りたという証言も存在するが、大多数は「九死に一生を
得た」と語っている。この点に関しては、乗船位置に関する補足資料が必要であると考えら
れる。特に、浮島丸は人員と貨物を同時に輸送する「貨客船」であり、旅客としての定員は
667 人にすぎなかった。
したがって、乗船者の大多数は、改造された船の下部にある 4 つの貨物倉庫に乗せられていた
と推定される。1954 年に行われた第2次船体引き揚げの際、船の前方および後方の「貨物倉庫
部分」で多数の白骨遺体が確認されたという報告がある 83。このような点から見て、死者が多数に
のぼった原因のひとつとして、船の構造そのものが影響を与えた可能性も考慮する必要がある。
81 米国防総省、舞鶴上空から機雷投下命令全文(1945.8.6.)、*http://ffr.krm.or.kr/base/data2/frbr/ffr/TD046/data3_07_001.pdf
82 『京都新聞』1985 年 8 月 8 日、「40 年目の海(14)」
83 『国際新聞』1954 年 10 月 9 日(第 2 次船体引き揚げ報道記事)
3. 事件の公論化の経緯と日韓両政府の対応
79
○ 日本政府の対応措置 84
- 1945 年 9 月 1 日、浮島丸死没者名簿および死亡認定書の作成
- 1945 年 11 月、上記の死亡者名簿を朝連に提供し、朝連と遺族扶助料に関する協議を実施
- 1945 年 11 月 24 日、郡守宛「軍属死亡の件通報」作成(南朝鮮の郡守に)
- 1946 年 3 月、上記の死亡者名簿を韓国(当時の行政機関:郡/面)に通達
- 1950 年、第1次船体引き揚げ時、第二復員局が 14 歳以上の男女に対し、遺族扶助料として
1,550 円の支給を決定
- 1953 年 遺族扶助料等が東京法務局に供託された。〔1953 年 3 月 14 日特金第 50 号〕
- 1953 ~ 1954 年 第 2 次船体引き揚げの実施、「輸送艦浮島丸に関する資料」を作成
- 引き揚げ作業により遺骨が損傷されることに対して、朝鮮人を含む京都府の市民団体が反対
デモを行った。
- 日朝協会などの真相究明団体には、船体内部の遺骨撮影および収集が許可された。
- 1965 年 日韓条約締結時、上記供託の事実は公表されず、当該権利は消滅したとされた。
- 上記の供託金に関しては、韓国政府の旧真相糾明委員会が使用した「海軍軍属身上調査票」に
一部記録の痕跡が残っている 85。例えば、浮島丸の死亡者にはつぎのように記載されている。
基本給は日給 2 円とされ、〔死亡に関しては、〕遺骨引渡費 270 円、埋葬費 80 円、遺族扶
助料 1,200 円の合計 1,550 円を供託。この供託金の扱いについては、今後さらに補足的な
研究が必要である。
このほかにも、生存者が救助された後の送還および援護の過程について、より詳細な解明が求
められる。現時点では、帰還者の証言を通じて、生存者は舞鶴海兵団の兵舎または周辺の作業場に
ある指定宿舎に一時収容され、その後、仙崎港を経て釜山港に到着したとされている。しかし、
その間における負傷者の治療がどのように行われたのか、また死亡した家族の遺体や遺骨がどの
ように取り扱われたのかについては、未だに明らかになっていない部分が多く、詳細な調査と記
録の発掘が必要である。
現在に至るまで、浮島丸事件に関連する約 280 体分の遺骨が東京都目黒区の祐天寺に保管され
ており、その返還をめぐっては、遺族団体と政府の間で依然として意見の相違が存在している。
その背景には、「その遺骨が本当に自分の家族のものであると信じられない」という遺族の不
信感や、混骨状態の遺骨箱をどのように迎えるべきか、別途の追悼施設を設置すべきかどうか
など、様々な要素が含まれており、解決には慎重な議論が必要である。したがって、舞鶴 → 呉復
員部 → 祐天寺という遺骨の移送経緯について、信頼に足る資料の提示が不可欠である。さらに、
84 日本外務省第 26 次公開文書『艦艇遭難、漂流関係雑件』、2000 年公開文書より抜粋。
85 第 2 章の「浮島丸事件による死亡者に関する旧・海軍軍属身上調査票(旧・委員会認定資料)」を参照。
80 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
このような混骨状態の遺骨だけではなく、収容されなかった遺体や、行方不明者に対する追悼も
また、極めて重要な課題であり、併せて検討されるべきである 86。
3)真相究明をめぐる韓日両政府の対応の問題点
2006 年から 2007 年にかけて、韓国政府の旧真相糾明委員会は、韓国外交通商部(現・外交
部)東北アジア課を通じて、日本の厚生労働省および外務省に対し、「浮島丸事件」に関する最
新の情報提供を要請した。その結果、日本政府からは「2002 年度外務省第 16 次文書公開分に
収録された『艦艇遭難、漂流関係雑件』を参照せよ」との趣旨の回答が返ってきた。この文書
フォルダーには、以下のような文書が含まれていた。
1.
「浮島丸沈没の真相調査並に溺死者の遺骨処理依頼に関して(要請書)」(1950 年 2 月 1 日)
2.
「浮島丸便乗遭難者の人事処理並に之に伴う所要措置に関する打合覚」(1950 年 2 月 10 日)
3.「元浮島丸便乗朝鮮出身死没者の遺体処理について(通牒)」(1950 年 2 月 15 日)
4.「浮島丸の遭難並に今後の処理について(通知)」(1950 年 3 月 3 日)〔3 月 2 日〕
5.「浮島丸便乗遭難者に対する処理方針について」(1950 年 2 月 24 日)〔2 月 14 日〕
6.
「沈船浮島丸の沈没時における真相並に溺死者の処理について」(1950 年 2 月 24 日)〔2 月
7 日〕
7.「浮島丸事件の真相並びに遭難者遺骨処理に関する要請書について」(別紙)
これらの文書は、1950 年に予定されていた第 1 次船体引き揚げを目前に控えた時期に、本事件
の事後処理を担当する部局として指定されていた「引揚援護庁第二復員局残務処理部」によって
作成されたものである。これらの文書が引揚援護庁の後身である厚生省ではなく、2002 年に外務
省の文書公開ファイルに収録された理由としては、当時の文書が日本政府内の複数の関係省庁間
で回覧された行政資料であったためと推定される〔厚生省引揚援護庁から外務省への送付文書〕。
この資料はすでに 2003 年 9 月、「朝鮮人強制連行真相調査団」によって関係団体に知らせら
れたものであった。2004 年は、浮島丸訴訟が最終的に敗訴となった年であり、同時に韓国政府
の真相糾明委員会が発足した年でもあった。したがって、控訴審においてこの資料を活用する
ことができなかった原告団側は、日本政府の不誠実な対応に対して強い憤りを示した 87。一方で、
日本政府の立場は、「すでに公開された資料について、別途の請求もない状況で、訴訟の原告側
に対してわざわざ提供する義務はない」とするものであり、この点に関しては「問題はない」と
した。このような姿勢は、韓国政府の真相糾明委員会が 2006 年から 2007 年にかけて浮島丸
事件に関する資料提供を求めた際にも同様であった。
86 金インソン、「口述調査を通して見た浮島丸訴訟参加者の事件に対する記憶と認識」、『民族研究』第 65 号、2016。25 ~ 26 頁。
87 青柳敦子、「特集浮島丸事件の新資料」、『Sai』、2006 年、summer/autumn、4 ~ 5 頁。
3. 事件の公論化の経緯と日韓両政府の対応
81
上記の文書フォルダーを内容によって分類すると以下の通りである。
1)舞鶴地方復員局残務処理部が各地方の支局に送付した通達文書(計 4 件)
2)在舞鶴の朝鮮人一同による要請書
3)残務処理部長からの回答文書
4)日本政府が GHQ に提出した事件処理報告書
*
(左から順に)文書ファイルの表題、「浮島丸便乗遭難者に対する処理方針について」、第二復員局が GHQ に提出した
事件報告書
上記の資料は、いわゆる 2002 年に公開された「浮島丸事件」関連の内部文書として知られ
ている。その主な内容は 1950 年 2 月から 3 月、すなわち第 1 次船体引き揚げが決定された
直後に、第二復員局残務処理部が外務省に発信した文書である。つまり日本政府は、2002 年
当時の段階で、また 2007 年に韓国政府の真相糾明委員会が資料提供を要請した際にも、これら
1950 年 2 ~ 3 月に作成された文書以外には、本事件に関する新たな情報や資料は保有していないと
してきた。したがって、2010 年代に入ってからも、祐天寺に保管されている遺骨の返還問題を
除けば、「浮島丸事件」そのものに関しては新たな見解や資料の公開は一切なく、これらの文書
を詳細に検討する意義は依然として大きい。まず、文書の作成時期と内容の展開において中心的
な位置を占める「在舞鶴朝鮮人一同」が当局に提出した要請書を確認してみる。
1)「要請書 浮島丸沈没の真相調査並に溺死者の遺骨処理依頼に関して」
- 趣旨:1945 年 8 月 24 日、日本帝国主義者が戦争目的の遂行のために強制徴用した朝鮮人
労働者およびその家族数千人(約 8 千数百名)を乗せ、青森県大湊の旧海軍施設工事に従
事させたのち、大湊港を出港した事件に関して
82 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
- 船体の水中撮影、艦長への事情聴取、乗船者名簿の公開および生死者数の公表
- 遺骨を収集し、慰霊塔を建設すること、また同時に慰霊祭を執行すること
- 上記の要求が履行されるまでは、船体の引き揚げおよび操作を行わないこと
(在舞鶴朝鮮人一同)
1950 年 2 月 1 日、朝連が解体されたことに伴い、正式な団体名を使用することができなく
なったため、「在舞鶴朝鮮人一同」という名称で提出された上記の要請書を見てみると、
2023 年に大韓民国国会で遺族および関係団体が「特別法」制定を主張しながら提出した要請内
容と、ほぼ原型そのままの形で一致していることが確認できる。すなわち、この事件をめぐる状
況は、1945 年 8 月の事件発生以降、さらには 1950 年 2 ~ 3 月の第 1 次船体引き揚げ以降も、
今日に至るまで本質的には何も変わっていないことが明らかである。
2)上記の朝鮮人からの要請に対応する過程で進められた日本政府関係省庁間の協議内容は、
1950 年 2 月 14 日付通知、「浮島丸便乗遭難者に対する処理方針について」と 1950 年 2 月
15 日付通牒、「元浮島丸便乗朝鮮出身死没者の遺体処理について」がある。その主な内容は、以
下の通りである。
- 本件に関しては、さまざまな「疑惑」が発生する恐れがあり、相当に「偏った情報」も存在
しているため、特に慎重に善処すること。
- 沈没時の負傷者については、横須賀地方復員局にて負傷者名簿を作成し、呉地方復員局へ移
管する方針である。
- 死亡者については、以下の規定に従う。
- 身分は「軍属(工員)」として処理する。(年齢 14 歳以上の者すべて)
- 給与および遺族扶助料等の計算の基礎となる日給額は一律 2 円とする。
- 軍属として処理する対象者については、身上および各種給与処理を完全に算定し、「外地出
身者最終処理要領」に基づいて呉地方復員局に移管する。
すなわち、これらの文書からは、在舞鶴朝鮮人一同からの要請に対する警戒意識が存在してい
たことが読み取れる。また、1950 年当時、第二復員局において「外地出身者最終処理要領」に
基づき、負傷者および死亡者に関する資料が作成された後、呉地方復員局残務処理部に移管され
たという事実が確認できる。しかし問題は、その「最終処理要領」というマニュアルが確かに存
在していたにもかかわらず、現在ではその具体的な内容が明らかになっていないという点である。
やむを得ず、複数の文書に断片的に現れる情報を総合し、再構成する必要がある。
3)約 3 週間後、第二復員局残務処理部は「在舞鶴朝鮮人一同」宛に回答書を送付した。その
主な内容は以下のとおりである。
3. 事件の公論化の経緯と日韓両政府の対応
83
- 当局の調査結果によれば、「便乗者名簿」に登録可能な人員は 3,735 名であり、その他の不
法乗船者は 200 ~ 300 名と推定される。
- 当時の乗船は、旧海軍の「特別な厚意」によるものであり、遭難の原因は「不可抗力」による
ものであるため、旧海軍にはいかなる「責任も義務もない」。
- しかしながら、人道的な配慮の観点から、日本の法律が許容する範囲内で、遭難者に対して
特別措置を講ずることを決定した。
- 1945 年 12 月より朝鮮人連盟と折衝を重ねた結果、多額の弔慰金を準備し、遺骨とともに
同連盟に引き渡すべく努力してきた。
- しかしながら、連盟の代表者は遭難者数に疑問を呈し、われわれが誠意をもって責任を持って
準備した名簿に対しても疑義を持ち、「独自の調査を要求」してきたため、交渉は中断された。
- 朝鮮人連盟は昨年(1949 年)10 月、日本の法律に基づき解散命令を受けたため、われわれ
第二復員局としては交渉相手を失うこととなった。
- とはいえ、第二復員局としては、これ以上本件を長引かせることなく、内地人(日本人)と
同様に遭難者に対して、同一の方針に基づき、具体的な「要領」を決定した。
(要領)
- 遺骨の調査および処理については、あくまでも礼を尽くし、慎重かつ丁重に取り扱う方針で
あり、法規に基づき支給可能な「給与」に関しても、支払えるよう推進している。
- 乗船者名簿の公表については、名簿そのもののみならず、事件の真相についても発表する準
備は整っている。ただし、GHQ の具体的な指示に従って決定したい。また、非公式ながら、
すでに旧連盟側に名簿の写しを手渡した経緯もあるため、これを提示しても差し支えない。
本回答書においては、次の三点に特に注目すべきである。
第一に、 乗船者および死亡者の人数について、これ以上の疑義を唱えるべきではないとし、乗
船および遭難に関して旧日本海軍に法的責任はないが、道義的見地から「内地人(日
本人)」と同様の補償を実施するとの回答により、「国家責任」を根本的に封じた点で
ある。
第二に、 1945 年 11 月の時点では朝鮮人連盟に対して死亡者名簿の提出および弔慰金の交付
意思を示していたが、同連盟が当局の調査結果を信用せず、名簿自体に疑問を呈した
ことで交渉が中断されたという点である。
第三に、 1949 年に朝連が「違法団体」として規定され、交渉相手が不在となった状況下にお
いて、関連する補償金(給与と弔慰金)については、国内法に基づき供託する意思が
あることを、GHQ の権威を借りて間接的に表明した点である。
84 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
結局、上記の文書群から確認できる主な事実は、1950 年 2 月の時点において第二復員局は実
際に弔慰金の支給準備まで決定していたが、従来の交渉相手であった「朝鮮人連盟」が違法団体
と規定されたことで交渉の窓口が消滅し、朝鮮戦争の勃発により北朝鮮政府も韓国政府もその代
役を果たせなかった結果、日本政府は準備していた補償措置を実行する必要のない状況となった
という点である。また、日本政府は将来的な批判に備えるために、「国内法に基づく供託措置」
を想定していたという周到な対応姿勢も確認できる。
その痕跡は現在、浮島丸事件の犠牲者の中にみられる旧海軍軍属身上調査票の記載項目として
残っている。よく知られているように、この調査票は 1993 年に韓国政府が日本政府から移管さ
れた資料であり、氏名、出身地、動員地、死亡地などの基本情報に加え、下部には給与(日額
2 円)、供託金として遺骨引渡費(270 円)、埋葬費(80 円)、遺族扶助料(1200 円)などの項
目が記載されている。これらは、前述の「外地出身者最終処理要領」および当時の法令(戦前の
「軍事扶助法」と推定)に基づいて算出されたものであり、実際に被害者や遺族に支払われた金
額ではなく、日本政府が供託した記録に過ぎない。
結果として、第二復員局は 1950 年当時、14 歳以上の朝鮮人死亡者に対して一定の給与額と
弔慰金を算定したが、1965 年の日韓請求権協定の締結直後、日本政府は国内法として「大韓民
国等の財産権に関する特別措置法」を制定し、これによって当該算定額は「無効」とされた。そ
の結果、遺族たちはこの金額の存在すら知らされず、受け取ることもできなかった。韓国政府は
この問題について日本政府に対して適切に追及することもなく、こうした経緯について国内の遺
族に説明することもできないまま、2004 年に強制動員被害真相糾明委員会が設置されるまで、
目立った対応を取らなかったとみることができる。
また、その他に注目すべき主な文書としては、まず〔「輸送艦浮島丸に関する資料」引
揚援護庁第二復員局残務処理部、1953 年 12 月がある。そこには〕「軍属死亡の件通報済」
(1945 年 11 月 24 日)の記載があり、大湊海軍施設部長が朝鮮の各郡守宛てに「計 410 名」の死
没通報を送付したとされる。実際、訴訟において韓国の原告団の中には、戸籍内容に「舞鶴で死
亡」と記載されていた事例も確認されており、死亡通知が行われたことは事実であるとみられる。
〔またこの資料には〕関連する「給与」を朝鮮人連盟宛てに支給し、連盟に配分を委任する案も
記されているが、朝連は拒絶した。ただし、ここで言及された「給与」に弔慰金が含まれていた
かどうかについては曖昧であり、当該金額が通知された、あるいは支払われたという事実も確認
されていない。
もう一つの重要な文書として挙げられるのが、「浮島丸便乗遭難者の人事処理並に之に伴う所
要措置に関する打合覚」(1950 年 2 月 10 日)である。この文書は「浮島丸便乗遭難者に対する
処理方針について」(復二第 100 号、1950 年 2 月 14 日)に収録されているが、第二復員局
内部において本事件をいかに処理しようとしていたか、その内情を詳細に垣間見ることができる
内容となっている。その概要は以下のとおりである。
3. 事件の公論化の経緯と日韓両政府の対応
85
○ 第二復員局残務処理部と横須賀及び舞鶴地方復員局残務処理部との合同会議の結果、以下の
方針が定められた。
- 遭難者の人数および氏名の確認:復員業務課が作成した原簿を基に、各課および地方復員局が
保有する資料を再検討し、鑑定を経たうえで確定調書を作成し、配布する。
○ 今後の人事処理
1) 旧工員はもとより、軍属としての採用が可能な者については、法規の許す限り、遭難者に
有利となるよう解釈し、軍属の身分を死亡日付に遡って付与し、横須賀地方復員局の管轄
で身分を取り扱う。
2) 軍属として処遇することが決定された死亡者については、支給する給与を内地人と差異が
ないようにし、呼称については別途の指示に従うものとする。
3) 遺骨の現場処理は以下に準じて、舞鶴地方復員局が担当する。
- 現在埋葬されている遺骨については、その状況を再調査のうえ、発掘して保管する。
- 今後「サルベージ(船体引き揚げ)」によって引き揚げられる遺骨については、軍艦「陸奥」
の事例に準じて、引き揚げ後すみやかに収納・安置し、所定の手続きを行う。現場での処理
区分、処理方法などについては、舞鶴地方復員局と引き揚げ業者の協議により決定する。
- 遭難当時に漂流した遺骨が確認された場合には、当該給与およびその他の取り扱い要領につ
いては別途指示するものとする。
- 慰霊祭については、GHQ の指示により官(政府)としては実施できないが、現地宗教団体
または朝鮮人側によって実施される場合には、第二復員局において誠意をもって支援する。
- 上記各人の取り扱いについては、当残務処理部が 4 年以上にわたり実施した調査結果に基づき
作成された「便乗者確認名簿」に記載された者に限定する。ただし、将来的に乗船の事実を
立証する証拠を保有していると判明した者については、協議および調査を経て、当該名簿に
追加するものとする。
○ 対外折衝
- 公式には第二復員局中央の部長が担当する。ただし、飯野サルベージ社による引揚業務の指
導、連絡および国内現地における交渉については、本協議内容の趣旨に基づき舞鶴地方復員
局に委任する。
○ 対外折衝の基本方針
- 朝鮮人側の正式代表は、韓国使節の推薦を受けた者または朝鮮人民団の責任者であることを
条件とする。
86 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
- 上記の正式資格を有さない者については、その性格および権限に応じて適宜対応する。
- 第二復員局としては、朝鮮側が旧海軍の責任を追及するなどの賠償要求は容認できない。本
件に関する国際的かつ法的解釈としては、旧海軍による絶大な好意に基づく乗船であり、不
可抗力による災難であることから、今後第二復員局が講じる措置は人道的および政治的配慮
に基づく特典であることを認めなければならない。
- 旧朝鮮人連盟は 1946 年 3 月上旬以降、残務処理部の誠意ある調査および連絡に対して一切
協力していない。すべての責任は朝鮮人側の非協力に起因しており、われわれはこれを証明
する多くの資料を保有している。
- 乗船者数に関しては、日本と朝鮮の間で相当な相違がみられる。残務処理部としては、現時
点での調査結果が最善のものであると確信している。8 千数百名を言うのであれば、その根
拠を提示するよう求める。また、当方の調査に万一誤りを発見した場合は唯の一人といえども
訂正するつもりである。
- 海上保安庁に対しては、以下の通り口頭で回答した。
- 本件の経緯解明および遺骨処理等の交渉については、すべて第二復員局の責任において行わ
れるため、関係事項は残務処理部に移すこと。
- 引揚作業監督主務官庁として、朝鮮人側との交渉や遺骨問題などに煩わされることなく作業を
進め、会社側にも、遺骨を丁重に取り扱うよう指導すること。
- 今回、在舞鶴朝鮮人代表より提出された申請書については、残務処理部からの説明資料の供
与に異議はないので、送ってほしい。
以上の文書は、前述の複数の文書に見られたように、当局が最後まで守るべき「交渉の限界線
(国家責任および補償等)」、および在舞鶴朝鮮人の要請に対応するための実務の手引き、そして
経緯説明および死亡者名簿作成の過程を総括したものである。これにより、死亡者名簿は第二復
員局残務処理部の中央において大枠が決定され、各地方復員局が保有する資料を補完する形で最
終的に作成・公表されたものと確認される。しかしながら、復員業務課が作成した「名簿」とは
一体何を指すのか、依然として明らかではない。おそらく「軍人軍属身上調査票」などの資料を
意味していると推定されるが、一般の民間労務者に関してどのように名簿を補正したのかは、本
資料からは把握できない。
以上が、事件発生以後、現在に至るまでの日本政府の対応である。こうした日本政府の姿勢に
より、韓国政府は 1977 年および 1993 年に日本政府から移管された各種名簿資料を「被害認定
資料」として整理・保管し、それらを連携させながら二重・三重と、複数での検証を通じて、被
害実態を客観的に確認した。また、中央および各地方委員会で受理された「浮島丸事件被害者と
3. 事件の公論化の経緯と日韓両政府の対応
87
推定される申告案件」の「被害者口述内容」に基づき、個々の被害者が記憶し、あるいは記録し
ていた事件の真相を逆照合する方式で本事件の調査が行われた。
その結果、調査の進捗度は被害申告の受理率と連動せざるをえなかった。また、被害認定資料
として活用している各種名簿の複数での検証結果を常時モニタリングしながら、日本側が事件発
生以来現在に至るまで根拠資料として提示してきた「便乗者名簿」や「死没者名簿」の記録の信
憑性や欠落の有無を検証しなければならなかった。このようにとても複雑な業務に直面すること
となった。
その中で、結果的に最も効果的だった方法は、2007 年 10 月に実施された一種の試験的
システムであった。それは、調査 1 課、調査 2 課、調査 3 課がそれぞれ被害者判定業務を行う
過程で、浮島丸事件の被害者と推定される申請案件を、浮島丸事件担当の遺骸チームへと複本を
移管し、個別に検討をすすめるというものである。また、被害者真相調査システムに登録されて
いる「動員類型別」項目、「動員地別」項目、そして「帰還および死亡時期」項目を交差分析し、
エクセルデータから「漏れなく拾い上げる」方式で一件ずつ丁寧に確認することにした。その結果、
2007 年 10 月末現在で、青森県に動員された軍人 67 名、軍属 107 名、労務者 78 名、舞鶴鎮
守府所属の軍人 65 名の名簿を確保し、電話通話を通じて浮島丸事件の被害当事者または目撃者か
どうかを確認し、被害者である可能性が高い申請者を対象にして、現地で口述を採録することが
できた。
旧委員会 被害者真相調査システムの動員類型別 Excel 資料 1
* 委員会受付 浮島丸事件 軍人(青森)動員被害者(左)および軍属(青森)動員被害者(右)
88 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
旧委員会被害者真相調査システム 動員類型別 Excel 資料 2
* 委員会受付 浮島丸事件 労務(青森)動員被害者(左)および軍人(京都府)動員被害者(右)
以上のような調査を繰り返した結果、少なくとも資料を通じて被害が立証された申告案件につ
いては、真相糾明委員会が「対日抗争期強制動員被害調査及び国外動員犠牲者等支援委員会」へと
改編・発足した後、浮島丸事件の被害者あるいは被害者遺族として認定することが可能になった。
個別の被害申告書においては、「浮島丸」「不帰還」「舞鶴港」「青森県」「青三県」「大州」「大湊」
など、事件名や地名が様々な形で記載されていた。しかしながら、被害者の認定にあたっては、
事件名の表記揺れや記憶の不確かさを最大限に考慮するという方針、被害者判読の原則および許
容範囲に関する規定を通じて、認定の方向で努力が重ねられたのである。
それにもかかわらず、状況的に浮島丸事件の被害者である可能性が高いが、被害認定資料や
個人の証明資料の証拠能力が認められなかった者たちは、上記の認定から除外された。おそらく
これは現在に至るまで、関連遺族および関係団体の不満の一因として残っているものとみら
れる。
最後に、韓国政府の真相調査活動に関連して限界点を指摘するとすれば、本事件の真相究明に
おいて極めて重要な局面である 1949 年の朝連解体以前まで、南北朝鮮政府を代行してこの事件
の交渉窓口として機能していた朝鮮人連盟などの朝鮮人団体の活動、及びこれら団体と日本政府、
GHQ との交渉内容について検証する時間がなかったという点である。
当時の韓国政府の調査委員会の調査環境において、これらの団体との接触のためには、委員会に
派遣された外交部、統一部、国家情報院の職員による業務協力が必須であった。また、接触を取
り巻く環境は政権の性格によって大きく左右されたため、これは現在においても容易ではなく、
課題となっている。
特に、1949 年に朝連が解体された後、南北分断と朝鮮戦争を経て、在日本朝鮮人総連合会
(朝鮮総連)が活動を始め、一部が朝鮮人強制連行真相調査団の活動を担い、浮島丸事件に対して
3. 事件の公論化の経緯と日韓両政府の対応
89
「イデオロギー指向的」態度をとったことが、また別の障害要因であった。すなわち、資料の発
掘と検証よりも、「意図的な爆沈説」を強調し、広報する方向に傾倒したため、韓国政府の委員
会としては、本来極めて重要であった 1945 年 11 月~ 12 月の日本政府と朝連との交渉、および
1945 年 12 月から 1946 年上半期にかけての GHQ との交渉内容を「関係者」を通じて調査する
ことができなかった。この点を付記しておく。
この点に関連しては現在、浮島丸事件関連団体の中には、民族和解協力汎国民協議会(民和
協)や韓国国会を通じて本事件をイデオロギー的・政治的次元からアプローチしようとする
グループも一部混在している。それゆえ、この問題に関しては政府レベルで別途対応策を講じる
必要がある。
事例 1 浮島丸事件労務動員死亡者
事例 2 浮島丸事件軍属死亡者
事例 3 浮島丸事件軍属死亡者
[日帝強制動員被害者支援財団徐寅源提供]
おわりに
4
92 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
4 おわりに
この報告書では、1945 年 8 月の解放直後に発生した浮島丸事件をめぐる様々な疑惑と不信の
原型がいかに歴史的に形成されてきたのか、そしてなぜ真相調査が迷宮入りしてしまったのかに
ついて、事件直後の朝連による問題提起、日本政府および GHQ との交渉過程、韓国政府の対応を
中心に考察してきた。
この事件は、これまで真相解明のために献身的に努力してきた韓日両国の市民運動団体や遺族
たちの活動によって、ようやく世に知られることとなった。特にこの事件は、強制動員被害問題が
単に国外への動員過程や、現地での過酷な労働および非人道的待遇にとどまらず、動員され
た人々の「母国への帰還」および「原状回復」をめぐる日本政府の国家責任と戦後補償問題とも
直結しているという点を明らかにし、強制動員および戦後補償問題を周囲に広げる上で決定的な
役割を果たしてきた。にもかかわらず、本事件は依然として乗船者数や死亡者数などの被害規模は
もちろん、沈没原因などの基礎的事実さえも明らかにされていない「未解決事件」として残され
ている。
本研究は、事件の展開および事後処理、真相解明をめぐる各行為主体間の交渉活動、初期の真相
調査における問題点と、それによってもたらされた長期にわたる社会的悪影響を整理することで、
最終的に本事件が迷宮入りした原因を明らかにしようとするものである。そして最終的には
現在、関連団体が「特別法」の制定を推進している中で、われわれがこの問題にいかに向き合う
べきかを示唆することを目的とした。本研究を通じて確認された事実は、以下のように整理で
きる。
1.本事件の真相が迷宮入りした原因 ― 浮島丸事件は 1945 年 10 ~ 11 月における朝連
と日本政府の交渉過程、そして GHQ の日本進駐後、1945 年 12 月から 1946 年 3 月にかけて
の GHQ との交渉過程を振り返れば、十分に真相解明が可能であった事件であることが明らかと
なった。特にこの過程において、GHQ による調査の意思が重要な要因として作用していたことが
確認された。浮島丸が出航した大湊警備府は、日本海軍の防衛地域の中でも最も早い段階で連合
軍が進駐し、速やかに降伏調印が行われた場所である。1945 年 11 月末に同警備府が連合国の指
令に従って解体されるまでの間、同船の出航に直接関与した海軍上層部に対して、乗船や出航の
経緯を尋問することは十分に可能であった。また沈没原因に関しても、連合軍は京都・舞鶴一帯
に投下した機雷の詳細な情報を保有していた。それゆえ事故現場周辺の掃海状況に関する情報さ
え補完すれば、同船の沈没に関して最も核心的な原因を明らかにすることができたはずであっ
た。しかし GHQ は、朝連青森支部が提出した真相調査および責任者処罰の申立てを「客観的証
拠資料が不足している」という理由で黙殺した。
4. おわりに
93
2.朝鮮人連盟の真相調査・交渉能力の低下と日本政府の責任回避 ― この事件が迷宮入りする
もう一つの決定的な要因は、解放直後から朝鮮人の送還問題を媒介に GHQ と友好的な関係を
維持していた朝連が、1949 年に違法団体と規定されたことにより、事件関連資料の公開や補
償に関する交渉窓口としての機能が急速に低下した点である。その背景には、1946 年後半以
降、日本に滞在していた朝鮮人の送還がほぼ終了し、下位パートナーとしての朝連の利用価値が
低下したこと、朝鮮人に対する政策が「送還」から「残留希望者の外国人登録による集団管理」
へと転換されたこと、そして南北分断および東アジア冷戦の激化により朝連が統治の妨げとなる
障害物として認識されたことなど、複数の要因が複雑に絡み合っていた。このように、本事件の
唯一の交渉窓口であった朝連が違法団体とされる一方で、南北両政府は朝鮮戦争によりこの問題
に対処する余裕がない状況となり、日本政府は自らに圧力をかける交渉相手が消失したことで、
事件の矮小化はもとより、浮島丸の引き揚げ・払い下げ処置を通じて物的証拠を抹消する機会を
得ることとなった。また、将来の責任追及に備えるために、被害者補償に関しては弔慰金などを
供託する措置によって国家責任の回避を図った。さらに 1965 年の日韓条約締結と同時に日本国
内法「大韓民国等の財産権に関する特別措置法」を制定することで、そのような煩わしさすら回
避することができた。日本政府がこれまで本事件に関して不誠実な態度を一貫して取ることがで
きた環境は、浮島丸の第 1 次引き揚げが推進された 1950 年前半にすでに形成されていたので
ある。この点に関しては、1950 年の第二復員局による「供託方針」と 1965 年の日本国内法に
よる効力喪失の関係について、今後さらなる研究が必要である。
3.現在、韓国国会において「特別法」の制定を強く推進している関係遺族および関連団体の
要求事項は、道徳的・政治的・外交的・経済的・社会文化的次元の要求が混在している。そのため、
個別の要求については、その性質と次元に応じた再分類作業が欠かせない。また、この過程にお
いては、韓日両国の国内法および外交上の慣行等を綿密に検討し、実現可能な事項と不可能な
事項、そして政治的・外交的交渉を通じて現実の障壁のハードルを段階的に引き下げていく必要
がある。端的な例として、現在、関連団体および遺族が提供を求めている乗船者および死亡者名
簿については、両国の個人情報保護法により、遺族以外の第三者による閲覧および資料提供が厳
格に禁止されており、現実的に不可能な状況にある。したがって、遺族および関連団体との対話
はもとより、本事件の再調査においては、現実的に乗り越えるべき制度的・政治的・外交的制
限、要因に対する綿密な検討が必要である。ただし、これらの要求に対して一方的に対話を先延
ばしにするのではなく、現段階で対応可能な事項と、今後別途の措置や努力によって将来的に実
現可能となる事項とを区分して提示することにより、長期間にわたって深まった政府への不信と
不満を可能な限り解消していく努力が求められる。
94 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
4.事実と主張が混在する事件に対する世間の認識の問題 ― 上記の問題と関連して、現在
この事件の真相に関して遺族および関連団体の主張は、「事実」と「主張」とが混在した形で
世間に流布されている。とりわけ事件の原因については「意図的爆沈説」が、事件の規模に関し
ては「7 千~ 8 千人乗船説および 5 千~ 6 千人死亡説」といった刺激させる内容を中心に拡散
している状況である。このような状況を引き起こした原因は、究極的には明確な資料の公開を避
け続ける日本政府の一貫した態度、そして真実の究明を怠ったことでこの状況に適切に対応でき
なかった韓国政府の無関心、さらにはこの事件を「政治的に」利用しようとする一部集団の政治
的意図にある。ゆえに、本事件が世に知られるまでに日韓市民社会の格別な努力があったように、
今後は日韓の学界による国際的な協力とともに、これを積極的に支援しようとする両国政府の前
向きな態度の変化が求められる。そのような過程を通じて、もし過去に過度な憶測や主張があった
としても、それを生み出した歴史的条件を含め、新たに明らかとなった事実を積極的に知らせ
ることで、本事件を通じて日韓両国社会が何を学ぶべきか、そして今後どのような措置を取る
べきかを共に考える契機とすべきである。
5.2002 年の第 16 次外務省文書公開以降に顕在化した関連団体間の意見の相違 - 1980 年
代末から 2000 年代初頭まで、浮島丸事件の訴訟過程を通じて長年協力してきた日本の市民
団体においても、2002 年の外務省による文書公開以降、出港地、事故現場、そして訴訟運動の
グループ間で、この事件の理解および解釈をめぐり、見解の相違が明確に分かれている。これらの
市民グループは、韓国政府の真相糾明調査に積極的に協力してきた団体であり、長期的な視点に
おいて本事件の真相究明および事後処理を推進するためには、いかなる形であれ、彼らを建設的
に包摂していく必要がある。したがって、2007 年の日韓の専門家、研究者、活動家による総合
フォーラムのような討論を再開して、不要な対立を解消し、これらの団体を真相究明のための原
動力として確保するためにも、前向きな関係を維持していくことが求められる。
6.1945 年および 1950 年における日本政府と朝連の交渉内容の公開 ― 本研究により新たに
明らかとなった重要な事実の一つは、1945 年の事件直後 2 ~ 3 か月の間に、日本政府が在日本
朝鮮人連盟(朝連)を窓口として、比較的、具体的な提案交渉を試みていたことが資料によって
確認された点である。もちろん、当時日本政府が朝連側に提示した死亡者名簿や弔慰金の算定
案、そして具体的な被害者に対する補償方針に関しては、2002 年に外務省から公開された文書
以上の詳細な資料(第二復員局の原資料を含む)が、今後さらに公開される必要がある。また、
南北政府が樹立される以前、事実上国家を代行する立場で本事件の初期から交渉窓口の役割を担った
朝連の交渉資料についても、それを検証するためには入手が不可欠である。これらの資料は、
現段階において浮島丸事件の真相に一歩近づくための最優先資料となるはずである。
4. おわりに
95
7.本研究の限界 ― 本報告書においては論旨の展開を優先したため、終戦後における日韓間の
帰還船運航に関連する朝鮮総督府の認識および態度、舞鶴寄港に関する「大海令」の規定性、な
らびに浮島丸事件が朝鮮在留日本人および日本在留朝鮮人の相互送還に与えた影響については、
ほとんど取り上げることができなかった。また、浮島丸の出航に関して、日本の他の中央省庁
に比して海軍省による徴用解除および送還方針の決定が早かった点、そして大湊警備府司令部の
判断が重要であった点については指摘したものの、それに伴う海軍上層部の反応や事件の事後処
理をめぐる海軍省および第二復員局内部での議論については掘り下げることができなかった点は、
本研究の決定的な限界である。上記の 1945 年および 1950 年における朝連と日本政府との交渉
資料のさらなる発掘、並びに本研究で明らかにできなかった諸点に対するより深い分析は、今後
の課題として残されている。
96 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
付録
1.浮島丸訴訟の主な根拠資料一覧
□ 原告 第一次審理 主張書面・訴状(1992 年 8 月 25 日)
- 原告側が日本政府に対して迅速な公開を求めた乗船者および死亡者の名簿資料
(浮島丸)「遭難者名簿」、「遺骨名簿」、「乗船者名簿」(厚生省保管資料の提出)
- 原告側が裁判所に収集・提出した事件経緯および事後処理に関する証拠資料
1) 引揚援護関連資料:A1(航行禁止爆発物処理の件)、A2(8 月 24 日以降の航行中の注意
喚起の件)、A3(大海令第 52 号)、A4 の 1(『引揚援護の記録』第 1 章「引揚の開始」)、
A4 の 2(『引揚援護の記録』第 2 章「引揚の機構」)、A4 の 3(『引揚援護の記録』第 7 章
「送出援護」)、A4 の 4(『引揚援護局の記録』第 8 章「地方引揚援護局」)、A5(『続・引揚
援護の記録』第 8 章「遺族援護と旧軍人恩給の進達業務」)、A6(舞鶴地方引揚援護局史)、
A7(内地在住朝鮮人の帰鮮希望予測数)、A8(ドキュメンタリー取材メモ『浮島丸の爆沈』
(季刊『三千里』1977 年 12 号 26 行目以降)
2) 新聞報道資料:A9(その後の浮島丸事件追跡)、A10(『釜山日報』)、A11(『中央日報』)、
A12(『東亜日報』)、A13(『ソウル新聞』)、A14(『ソウル新聞』)、A15(『ソウル新聞』)、
A16(『光州日報』)、A17(『光州日報』)、A18(『朝鮮日報』)、A19(『光州日報』)、A20
(『ハンギョレ新聞』)、A21(『光州日報』)、A22(『光州日報』)、A23(『永同新聞』)、A24
(『永同新聞』)、A25(『東京大空襲戦災史』第 3 巻 第 3 章「(7) 在日朝鮮人 民心の動向」)、
A26(『朝日新聞』記事「浮島丸事件の真相発表」)、A27(『毎日新聞』記事「浮島丸事件
の真相」ほか)、A28(『東奥日報』記事「その朝の急報」)、A29(『東奥日報』記事「無伝
票で搬出」)、A30(『京都新聞』記事「浮島丸を引き揚げ」)、A31(『京都新聞』記事「海
底から白骨続々」)、A32(『国際新聞』記事「洞爺丸以上の大惨事(浮島丸事件の真相)
-海底に遺体を九年間も放置」)、A33(『読売新聞』記事「浮島丸事件の真相」)〔ママ〕、
A34-1(『京都新聞』「40 年目の海」)、A34-2(『京都新聞』「40 年目の海」)、A34-3(『京
都新聞』「40 年目の海」)、A34-4(『京都新聞』「40 年目の海」)、A34-5(『京都新聞』
「40 年目の海」)、A35-1(『京都新聞』記事「裁かれる海」)、A35-2(『京都新聞』記事「裁
かれる海」)、A35-4(『京都新聞』記事「裁かれる海」)、A35-5(『京都新聞』記事「裁か
れる海」)、A36(『東奥日報』記事「爆発直前、軍人乗ったボート」)、A37(『京都新聞』
記事「父の無念きっと」、『毎日新聞』記事「くの字に折れ人がなだれ落ちた」)、A38(『京
都新聞』記事「半世紀、浮島丸爆沈のナゾ解けず」)、A39(『京都新聞』記事「日本の戦
後責任は重い」)、A40(『京都新聞』記事「浮島丸事件の究明に全力を」)、A41(『朝日新
聞』記事「真実への思い募る」)、A42(『徳島新聞』記事「日本の戦後補償、改めて問う」)、
付録
97
A43(『北日本新聞』記事「日本はわれわれを放置した」)、A44(『朝日新聞』記事「浮島
丸爆沈、なぜ報道されなかったのか」)、A45(『産経新聞』記事「船は釜山へ着かぬ」)、
A46-1(『朝日新聞』記事「49 年目の航跡 恨みの海」)、A46-2(『朝日新聞』記事「49 年
目の航跡 菊池桟橋」)、A47(『東奥日報』記事「大湊出航直前、軍が電報」)、A48(『京都
新聞』記事「最寄りの港入港、海軍が指令」)、A49(『東奥日報』記事「浮島丸事件なぞに
迫る資料続々」)
3)政府指令等の公文書および状況資料
A50(内務省警保局保安課員事務官発 特高課長宛 暗号電報)、A51(警保局保安課発 第
3 号「朝鮮人集団移入労務者の緊急措置に関する件」)、A52(各警察署長宛 通達案 特記
第 574 号の 1)、A53(内務次官発 知事宛 山形県警察部文書)、A54(特高情報 第 85 号)、
A55(特高情報 第 86 号)、A56(内務省警保局保安課長発 警察部長宛 暗号電報訳文 特
高電報第 9 号)、A57(内務省警保局保安課長発 警察部長宛 暗号電報訳文 特高情報 91 号
「鮮内治安情勢に関する件」)、A58(特発第 929 号、特高課発 各警察署長宛 通達)、A59
(浮島丸死没者名簿)、A60(輸送艦浮島丸に関する資料)、A61(金賛汀著『浮島丸、釜山
港に向かわず』)、A62(大湊警備府 第 12 航空艦隊 終戦処理経過報告)、A63(大湊警備
府 戦時日誌)、A64(兵器・軍需品・施設物引渡関係綴)、A65(各隊(庁)海員状況一覧
表)、A66(『特高月報』昭和 19 年 4 月分)、A67(『特高月報』昭和 19 年 2 月分)、A68
(『引揚と援護 30 年の歩み』厚生省編)、A69(浮島会 会員名簿)、A70(浮島丸の概要)、
A71(昭和 20 年 青函連絡船 戦災記録)、A72(浮島丸事件に関するビラ)、A73(浮島丸
戦時日誌)、A74(『戦争犯罪報告書』)、A75(「浮島丸事件 真相糾明の訴え」シンポジウ
ムと演劇)、A76(「戦争の傷を償うのは日本の責務」)、A77(浮島丸事件 韓国人被害者(生
存者含む)住所録)
2.浮島丸訴訟における事実関係の要約
□ 浮島丸事件の事実関係
日付
内容
1945.8.18.
大湊警備府参謀長から海軍運輸本部へ浮島丸使用許可願を送信「181439 号電」〔朝鮮人の
送還を計画〕、浮島丸が大湊港に帰港
1945.8.19.
海軍運輸本部総務課長から大湊警備府へ「浮島丸の使用差支なし」とする返電「191117
電」。浮島丸の釜山出航を指示、艦長および乗員は出航に反対。
1945.8.20.
大湊警備府、朝鮮人軍属や労務者などに乗船を命令。
1945.8.21.
海軍軍令部総長より大湊警備府司令官等に「8 月 24 日 18 時以降、航行中以外の艦船の航
行を禁止」発令「大海令第 52 号」。警備府参謀が乗員を脅迫
98 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
日付
内容
1945.8.22.
午後、軍令部総長より警備府司令長官宛同様の指令「大海指第 533 号」。19 時 20 分、海軍
運輸本部長より浮島丸艦長らに対し同様の内容の至急電「221605 号電」。
海軍運輸本部長から浮島丸艦長らに「24 日 18 時以降、100 トン以上の船舶は運航禁止、目
的地への到達見込みがない場合は最寄りの軍港・港湾に入港せよ」の電報「221935 号電」。
22 時に浮島丸は出航。
1945.8.24.
17 時 10 分頃、舞鶴港に入港した浮島丸の船底付近で爆発が発生、船体中央部から切断され、
くの字型に折れ曲がった状態で沈没した。
21 時 31 分、浮島丸艦長より海軍運輸本部長らに「本艦 24 日舞鶴入港の際 17 時 10 分、
鳥島及蛇島間水路に於て第 4 番船倉付近に触雷、船体中央部より切断沈没 ...」の電報。
1945.8.25.
海軍運輸本部長より浮島丸艦長に「関釜連絡船は航行禁止中に付き帰港地にて便宜を図る
こと」との内容の電報(251754 号電)。
□ 日本の最高裁判所による「自爆説」・「触雷説」に対する見解
〔下線は報告書作成者による〕
1.自爆説の根拠およびそれに対する日本の最高裁判所の判断
(1) 大湊の住民の間では、浮島丸が出航する前から「航行中に自爆する」という噂が流布して
おり、出航後には浮島丸船内においても、朝鮮人乗船者の間で同様の噂があった。
→(日) 大湊の住民および浮島丸乗船の朝鮮人の間において、上記のような噂が存在していた
という事実は認められる。しかしながら、終戦直後の混乱した状況に鑑みれば、この
ような噂が流布していたこと自体は、特段不自然なものではない。したがって、より
確実な根拠がない限り、このような噂のみをもって浮島丸が「自爆した」と認定する
ことはできない。
(2) 乗組員の間で、出航前から浮島丸を航行不能にするため機関部を爆破する計画が存在して
いた。
→(日) 浮島丸の機関長であった海軍少佐および上等兵曹、ならびに出航に反対していた一部
乗組員の間において、出航前から機関部を破壊するなどして浮島丸を航行不能とする
計画が存在していたという事実は認められる。しかしながら、浮島丸の出航経緯に鑑
みれば、そのような計画の存在自体は不自然なものではない。また、少佐は当初の計
画を「日本本土の港へ入港する」という形に変更しており、さらに爆発が極めて強力
であったこと、舞鶴港への入港直前であったこと、そして航行禁止命令の発効直前で
あったことなどの諸事情を総合的に考慮すれば、一部乗組員の過失による大爆発とみ
なすことは困難である。
(3) 航海中、乗組員の間で書類や布団を海に投げ捨てたり、昼間から飲酒するなどの不審な行
動が見られた。
付録
99
→(日) 一部の乗組員が昼間から飲酒していたことは窺える。しかしながら、書類や所持品を
海中に投棄した行為については、終戦処理や復員準備の一環と考えることもでき、不
自然とはいえない。また、飲酒行為についても出航の経緯や終戦に伴う軍規の緩みに
照らしてみても、不自然とはいえない。
(4) 爆発直前にボートを降ろして乗組員が下船しようとした。
→(日) そのような事実についての目撃証言が存在する。しかしながら、目撃証言によっても
下船した乗組員はごく一部にとどまっており、爆発の時期に関する目撃者たちの証言は、
①ボートを降ろしている最中、②着水とほぼ同時、③着水して出発しようとする
瞬間、④浮島丸を離れて間もなく、など様々である。これらを総合的に見れば、爆発
はボートに乗り込もうとしていた乗組員にとっても予期しない時点で発生したことが
わかる。したがって、上記のような一部乗組員の行動は、入港準備の一環として理解
するのが自然である。
(5) 爆発直前に乗組員が甲板にいた朝鮮人乗船者に対して下へ降りるよう指示した。
→(日) 陸地が見えると、乗組員が甲板にいた朝鮮人乗船者に対して船内に入るよう指示した
という証言がある。しかし、これは入港準備のための指示であったと考えても不自然
ではない。
(6) 爆発音が 1 回ではなく複数回であった。
→(日) 爆発音が複数回であったと確かに記憶しているという趣旨の証言や、爆発音が複数回
であったとする朝鮮人乗船者が存在する。しかし、爆発音が 1 回であったとする乗
船者も多く、爆発が大規模かつ瞬間的に発生したことを考慮すれば、爆発音が複数回
であったとは認められない。
(7) 爆発時に水柱が上がらなかった。
→(日) 水柱が全く上がらなかったという証言および証拠資料に、乗組員および乗船者による
同様の話が記載されている。しかし、爆音と同時に重油を含んだ水柱が浮島丸のマス
ト以上の高さまで上がったのを陸上から目撃したという証言も存在する。また、水深
によっては水柱が目立たない場合もあり、浮島丸の沈没地点の水深はそれほど深くな
かったと推認されること、さらに浮島丸が爆発後に山形(⋀)になり、やがて逆山形
(く)に折れて沈没したという目撃証言があることなどを踏まえると、水柱がなかっ
たという証言を採用して艦内爆発であったと認定することはできない。
(8) 第 2 次引き揚げ作業によって引き揚げられた浮島丸の船底が外側に膨らんでいた。
→(日) 引き揚げられた浮島丸について、船底の鋼板が外側に膨らんでいた、あるいは曲がっ
ていた、または船底近くの部分の鋼板が外側に向かって破損していたという趣旨の記
載がある。しかし、これらの部位、膨らみの様子、破損または湾曲の具体的な状態が
100 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
不明確である。さらに、鋼板の位置や鉄骨の状態によって鋼板の損傷状況も異なり、
爆発後に着底するまでの船体の動きによっても鋼板の損傷状況は変わりうる。
(9) 浮島丸が航行していた水路は掃海済み水路であり、「大海令第 52 号」により爆沈までに
多数の艦船が同一水路を航行して舞鶴港に無事入港しており、本件爆沈当時にも浮島丸に
先行して同一水路に 2 隻の海防艦が入港していた。
→(日) 米軍投下と推定される機雷の性能および同一水路を航行したと推定される艦船の数な
どに照らして、浮島丸が触雷して沈没した可能性はほとんどないという分析がある。
しかし、航空機投下機雷は常に同じ方向に沈降するわけではなく、機雷軸の方向もさ
まざまであり、海流などの影響で沈降後に向きが変わる可能性も考えられる。また、
米軍が投下した沈底式機雷には感応条件が設定されており、これを解消するのは困難
であり、磁気・水圧複合機雷は大型艦船が通過したときに爆発するように設定されて
いるため、多数の艦船が航行していたとしても、また 2 隻の海防艦が先行していた
としても、浮島丸が触雷する可能性は十分にある。
(10) 日本で爆沈事件の新聞報道が事件直後に行われなかった。
→(日) 日本において事件直後に本件に関する新聞報道がなかった事実は認められる。しかし、
本件は終戦から 9 日後に発生し、場所が当時鎮守府のあった舞鶴軍港の港内であった
ことを考慮すれば、それだけで推論を直ちに採用することはできない。
2. その他、日本最高裁が示した判断
(1) 艦長をはじめとする浮島丸の乗組員の士官の中には職業軍人はおらず、出航の経緯に照ら
しても、艦長および乗組員たちは終戦に伴う召集解除を強く望んでいた。
(2)
「浮島丸死没者名簿」によれば、本事件によって乗組員 25 名が死亡し、41 名が負傷して
おり、その負傷者の中には少佐など准士官以上 11 名も含まれていた。
(3) 爆発力はかなり強力であったと考えられ、爆発が舞鶴軍港入港直前、「大海令第 52 号」な
どによる航行禁止命令の期限直前、かつ海岸に近く水深がさほど深くない場所で起きた。
(4) 爆発後も艦長、航海長など幹部は艦橋にとどまり、泳いで軍艦旗を降ろす者もおり、航海
書類を取りに戻った乗組員も存在していた。
(5) 爆発・沈没後、海軍関係者および地元漁民らが救助活動に乗り出し、救助された朝鮮人乗
船者は平海兵団寮に収容され、重傷者は舞鶴海軍病院に収容された。
(6) 朝鮮人乗船者に対して大湊警備府からの帰還用船舶の派遣が計画されたが、実現には至ら
なかった。
(7) 山口県までの生存者の鉄道輸送の際、輸送列車には大湊海軍施設部の関係者が同乗して
いた。
付録
101
□ 訴訟過程で浮上した浮島丸沈没原因に関する三つの可能性
1. 日本政府(軍部)による計画的な虐殺
<根拠1> 目的地が釜山ではなかった。
① 浮島丸は出航後、釜山へ向かう直航ルートを取らず、本州沿岸を経て舞鶴港まで航行した。
② 当時、浮島丸の操舵手であった斎藤恒次は「目的地は舞鶴だと聞いていた」と証言しており、
「釜山に行ったとしても戻る燃料がなかったので、釜山には行けなかった」と述べている。
③ 大湊警備府では、24 日 18 時以降の航海禁止の事実を知りながら出航させた。当時、浮島
丸の電探長であった木本与市は「22 日午後に航海禁止令について聞いたので、釜山ではな
く舞鶴へ向かうことになると思っていた」と証言している。22 日 22 時に出発しても、浮
島丸の最高速度である 17.4 ノットで航行したとして 24 日 23 時頃にようやく釜山に到着
可能であった。しかも、釜山に行ったとしても航海禁止令により日本への帰還ができなく
なるため、(この事実を知っていた大湊警備府司令部や浮島丸艦長が、釜山へ航行させる可
能性は初めからなかったと考えられる。)
④ 1945 年 8 月 22 日 19 時 20 分、海軍運輸本部長から浮島丸艦長宛に「24 日 18 時以降、
現在航行中のもの以外の航海は禁止する」という内容の有線電報(機密第 221935 号)が
発令された。しかし、浮島丸の艦長であった鳥海は「そのような話をちらっと聞いたこと
はあるが、ただ不思議に思っただけで、そのような電報は受け取っていない」と証言して
いる。ちらっと聞いて不思議だったという点から判断しても、航行禁止命令について把握
していたと考えられる。出航に反対していた艦長にとっては、出航拒否のためのこれ以上
ない好機であったはずだが、それにもかかわらず、ただ気に留めるだけで済ませたという
のは信ぴょう性に欠ける。浮島丸が本州沿岸を航行していたことから見ても、艦長は当初
から釜山ではなく舞鶴を目的地としていたと考えられ、このために前述の電報にも特に執
着しなかったとみられる。
<根拠2> 大湊工作部による爆薬設置
① 佐々木勇吉は、「父が大湊海軍工作部で 20 年以上、機関修理の仕事をした。終戦当時、父
が『工作部で朝鮮人を多数乗せた船に爆雷を仕掛けた』と話していた」と証言している。
② 当時、浮島丸の機関長であった野沢忠雄は、「浮島丸が 22 日に出航した時点で、大湊警備
府が『24 日 18 時以降航海禁止』という命令を知っていたのであれば、出航命令は出さな
かったはずである。最初から爆破するつもりだったのだろう。朝鮮人 4,000 人を抱えるよ
りも、日本軍人 200 人を戦死扱いにするほうが都合がよかったのだろう」と述べている。
<根拠3> 触雷ではなく爆発物による自爆
① 浮島丸が出航する前から、大湊の住民の間では「浮島丸が航海中に自爆する」との噂が広
まり、出航後も船内の朝鮮人の間で同様の噂が流れていた。
102 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
② 浮島丸の機関長であった海軍少佐および上等兵曹が、出航に反対する一部の乗組員とともに、
出航前から機関部を破壊するなどして浮島丸を航行不能にする計画を立てていた。
③ 航海中、乗組員の間で書類や布団を海に投げ捨てたり、昼間から飲酒をするなどの不審な
行動が見られた。
④ 爆発直前にボートを下ろして乗組員が下船した。
⑤ 爆発直前に乗組員が甲板にいた朝鮮人乗船者に対し、船内に下がるよう指示を出した。
⑥ 爆発音は 1 回ではなく複数回聞こえた。
⑦ 爆発時に水柱が上がらなかった。
⑧ 第 2 次引き揚げ作業によって引き揚げられた浮島丸の船底鉄板が外側に膨れ上がっていた。
⑨ 浮島丸が航行していた水路は掃海が完了した安全航路であり、大陸命令第 52 号に基づき、沈
没時まで多数の艦船が同じ安全航路を航行して舞鶴港に無事入港しており、当該沈没時にも
浮島丸に先行して同じ航路を 2 隻の海防艦が入港していた。当時、浮島丸の操舵士であった
齋藤恒次は、舞鶴港に入港する際、安全信号を受け、機雷のない安全航路に従って移動し
たと証言している。
⑩ 事件発生直後、日本では浮島丸沈没事件に関する報道がなかった。
<問題点1> 日本軍部が、あえて青森県地域に強制動員された朝鮮人のみを虐殺しなければ
ならなかった理由を想定しづらい(戦争に敗れ、軍需物資を米軍に引き渡さね
ばならなかったための自爆?『浮島丸の謎』294 頁より。斎藤作治氏は、大湊
の軍部が極度に不安な状況下で、米軍やソ連軍の進駐前に朝鮮人を送り出し、
自らの安全と戦争犯罪責任の追及を回避しようとして朝鮮人の強制送還を急い
だと述べている。また、田在鎮氏は、朝鮮人による暴動の不安感、朝鮮人がソ
連軍を案内しているという噂、ソ連軍進駐による罪状暴露への対策などを理由
に集団虐殺が行われたと述べている(同書 211 頁)。だが、なぜあえて舞鶴沖
であったのか?このような理由であれば、朝鮮への送還で十分であり、計画的
に虐殺するならば、救助の可能性がなく、目撃者もいない場所の方が望ましい
のではないか。機雷による沈没と偽装するためだったのか?)
<問題点2> 日本海軍側にも 25 名の死者が出ており、日本政府による虐殺説では、なぜ日本
軍が犠牲になったのかの説明が困難である(ただし、前出の野沢忠雄氏の証言
はこの点を補う可能性がある)。
<問題点3> 1945 年 8 月 17 日から同年 11 月 3 日までの間に、舞鶴港では本件の沈没以外
にも 9 件の触雷事故が発生し、そのうち 5 隻が沈没している(ただし金賛汀氏
によると、浮島丸以外に触雷事故に遭った船舶はすべて安全航路以外を航行し
ていたとされている)。
付録
103
※ 大湊警備府は、終戦に伴う朝鮮人の暴動を恐れて、朝鮮人の帰還を急いだ。当時、朝鮮人
は港に集められ、すでに乗船まで完了していたが、その後に航行禁止命令が発令された。大湊警
備府は、浮島丸が航行禁止の期限までに釜山へ到着できないこと、そして日本へ戻ってくること
など到底不可能であることを十分に認識していたと考えられる。しかし、すでに乗船していた朝
鮮人たちを再び抱え込むことはできなかった。すでに乗船準備まで整っていた朝鮮人に「宿舎に
戻れ」と命じれば、強い反発があっただろうし、暴動を恐れていた状況では、なおさら帰還の
中止を告げることは不可能だったと思われる。そのため、警備府としては、日本国内の他の港に
“押しつける”か、いっそのこと浮島丸を沈没させることまで計画していた可能性がある。
2. (一部)浮島丸の乗組員による意図的な自爆
〈根拠1〉浮島丸出航当時の状況
浮島丸が 1945 年 8 月 18 日に大湊港へ帰港した際、すでに乗組員たちは終戦に伴う復員への
期待を抱いている状態であった。ところが、同月 19 日、大湊警備府から釜山港への出航命令が
下されると、これに対する反発の気運が高まった。浮島丸の艦長自身も、大湊警備府に対して出
航は不可能であるという申請を行ったほどである。そのため、同月 21 日ごろには警備府の参謀
が浮島丸に乗り込み、乗組員を集合させて脅迫・説得を行い、ようやく翌日に浮島丸は出航の動
きを見せることとなった。さらに、浮島丸の機関長であった海軍少佐と上等兵曹は、出航に反対
する一部の乗組員と共に、出航前から機関部を破壊するなどして浮島丸を航行不能にするという
計画さえ立てていた。このような当時の状況に鑑みると、無理に航海に出た浮島丸の乗組員の中
には、船を爆破して復員を果たそうと考えていた者がいたと推測される。
〈根拠2〉浮島丸爆発直前における一部乗組員の脱出
複数の被害者の証言によれば、浮島丸の爆発当時、一部の乗組員がボートに乗って浮島丸から
離れようとした事実が確認できる。これが単に舞鶴港への入港準備であった可能性も否定できな
いが、爆発物を設置した一部の乗組員が浮島丸から脱出したと見る余地も十分に存在する。
〈根拠3〉釜山港へ向かった場合の危険性
浮島丸の実際の目的地は釜山港ではなく、当初から舞鶴またはその他の日本の港であった可能
性が高いが、当時浮島丸の大砲要員であった長谷川是氏は、目的地は釜山であると聞かされてお
り、恐らく他の乗組員の大半もそのように認識していたであろうと述べている。目的地が自らが
植民地支配していた朝鮮の釜山港であるとすれば、釜山港に到着しても無事に日本へ帰還できるか
どうかについて、当時の乗組員たちが強い不安を抱いていたであろうことは、容易に推測できる。
(ただし、この根拠は舞鶴港に入港することが判明した後もなお爆破する必要があったのかを説
明するには不十分である。しかし、舞鶴に入港したとしても、いつ再出航するかわからない状況
であり、浮島丸が消滅すれば即座に追加の航海をせずに復員できるという期待があった可能性も
104 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
ある。また、舞鶴沖であれば機雷による爆発に偽装することが可能であり、かつ自らの脱出も確
保されていた地点であったとも考えられる。)
〈問題点1〉 乗組員がボートに乗って離れた時点に関する証言の不一致
ボートを降ろしている途中で爆発、着水とほぼ同時に爆発、着水して出発しようと
する瞬間に爆発、浮島丸を離れて間もなく爆発、などの証言が存在する(ここでは
むしろ、一部乗組員がボートに乗って離脱した事実に着目すべきではないか)。
3. 米軍の機雷による沈没
〈根拠〉
① 1945 年 7 月 9 日から同年 8 月 15 日まで、米軍が舞鶴湾に 5 回にわたり計 116 個の機雷を
投下した点。
② 1945 年 8 月 17 日から同年 11 月 3 日までの間に、舞鶴港では浮島丸以外にも 9 件の触雷
事故が発生し、そのうち 5 隻の船舶が沈没した点。
③ 浮島丸の艦長が事故発生当日である 8 月 24 日 21 時 31 分に海軍運輸本部長等に送った電
報、および第二復員局残務処理部が 1953 年 12 月に作成した「輸送艦浮島丸に関する資料」
には、沈没原因を米軍の機雷によるものと記載している点。
④ 本 件 爆 発 が 舞 鶴 港 入 港 直 前、 し か も 大 海 令 第 52 号 に よ る 運 航 禁 止 命 令 の 期 限
(1945 年 8 月 24 日 18:00)の直前である同日 17 時 10 分頃に発生した点。
⑤ 爆発音が 1 回だったという証言がある点。
⑥ 爆音と同時に、重油を含んだ水柱が浮島丸のマスト以上の高さまで上がったのを陸上から目
撃したという証言があり、また水深によって水柱が目立たない場合もあるとされている点。
沈没場所の水深は深くなかったとされている。
⑦ 浮島丸は爆発後、いったんΛ字形になり、その後、くの字形に折れ曲がって沈没したという
証言がある点。
⑧ 浮島丸死没者名簿によれば、乗組員のうち 25 名が死亡し、41 名が負傷しており、負傷者
の中には少佐を含む准士官以上の者が 11 名含まれていた点。
⑨ 爆発後も艦長や航海長などの幹部はすぐに船を離れず、艦橋にとどまって泳いで軍艦旗を
降ろしたり、航海書類を取りに戻った乗組員がいた点。
⑩ 爆発後、海軍関係者および地域の漁民たちが救助活動に出動し、救助された朝鮮人乗船者
は海軍病院に収容された点。
⑪ 事故後、大湊警備府において朝鮮人乗船者の送還のために船を出すことが計画されてい
た点。
⑫ 山口県の港まで鉄道輸送された際、大湊海軍施設部の関係者が輸送列車に同乗していた点。
付録
105
3.青瓦台秘書室浮島丸事件真相調査計画報告
申請件名:浮島丸事件真相調査
担当機関:日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会
担当部署:調査 2 課、遺骸チーム
報告日:2006 年 12 月 5 日
□ 事件申請内容
○ 申請人:朴クォンジュン(全北高敞-1)
○ 申請日:2005 年 2 月 3 日
○ 申請趣旨 1945 年 8 月 24 日、帰国船「浮島丸」に乗船していた朝鮮人たちが帰還途中、
京都府舞鶴湾で船が沈没し、多数が死亡した。被害者の間では日本軍による意図的な爆沈の
疑惑が提起されており、これに対する真相調査を依頼する。
○ 調査の意義 本調査は、浮島丸の沈没原因を明らかにすることにより、強制動員および帰還過
程において朝鮮人が被った2次被害に関する日本政府の責任を明確にするという意義を持つ。
□ 基本計画内容
○ 基礎的事実調査
- 乗船者数:朝鮮人 3,725 名および日本海軍 255 名説の検証
- 乗船および出航経緯:大湊海軍警備府による強制の有無、出航に関する命令系統
- GHQ の航行禁止令(Requirements Document no.3)の検証および航路変更の意図性、航路
変更の通達有無の検討
- 触雷説に関連し、入港時の掃海状況の検討
- 爆沈説と触雷説の分岐点となる、沈没直前の水柱の有無の確認
- 沈没時の救助規模、収容・治療などの救助状況
- 死亡した朝鮮人 524 名および日本海軍 25 名説の検証
- 生存者のその後の帰還過程
- 1954 年の船体引き揚げおよび発掘された遺骨の祐天寺移管の経緯
○ 関連資料の収集
- 全 18 巻におよぶ「浮島丸訴訟資料」
- 事件直後の「朝連」資料:現在公開されている資料の大半が 1970 年代以降に発刊されたもの
であるのに対し、上記資料は事件直後に朝連が GHQ に提出した報告資料であり、意義深い。
- 旧厚生省内の復員関連資料:事件の原因とともに、事後処理過程を明らかにすることができ
る資料である。
106 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
- 防衛庁資料:出航・航路変更に関する命令系統を確認できる資料である。
- 1995 年に浮島丸爆沈真相糾明委員会が作成した、約 100 名分の「浮島丸爆沈事件生存者
個人記録簿」
□ 1 次年度の推進事項
○ 資料収集
- 本年 7 月現在、日本から関連訴訟記録一式、すなわち原告第 1 審記録および証拠書類、第
1 審判決文、被告控訴審主張書面および証拠資料など、合計 18 分冊を入手し、分析中である。
- また、上述の「浮島丸爆沈事件生存者個人記録簿」を基に、再証言が可能な生存者および遺
族を抽出し、再聞き取り作業を推進中である。
○ 関係者ネットワークの構築
- 本年 6 月初旬、国内被害者との懇談会を開催し、これまで本事件の調査や関連追悼事業を主
導してきた関係者と、今後の調査方向および協力方策を模索した。
○ 現地調査
- 本年 10 月、浮島丸の出航地および事故現場を直接踏査し、関連研究者、目撃者、そして船
舶専門家らとの面談を通じて、証言および文献資料等を収集した(紙幅の都合上、収集資料
目録は省略する)。
□ 問題点および展望
○ 問題点
- 国内の生存者および遺族に対し、再度聞き取り作業を推進中であるが、対象者の高齢化により、
証言者の選定に困難をきたしている。これについては、関連団体に対して証言可能な者を
選定してもらうよう協力を要請している。
- 日本側研究者の助言によれば、防衛庁に船舶事故に関する資料が所蔵されている可能性が非
常に高いとされているが、当該資料へのアクセスは容易ではないため、現在多様なルートの
模索を進めている。
- 本事件は遺骨問題と直接的に結びついている。したがって、本事件の事後処理過程を究明する
ためには、祐天寺の遺骨問題の推移および現在進行中の「日韓遺骨協議」の進展状況を併せ
て注視すべきである。特に、本事件の被害者が共通して遺骨問題を提起している以上、これに
ついては委員会としての検討が必要である。
- 現在、委員会が受理している個人被害申告の中には、浮島丸事件関連者が相当数含まれている。
しかし、当該案件に関する審議調書の作成は調査 1 課または調査総括課において推進されて
いるため、調書作成担当者がこれらの個別ファイルを収集し、本真相調査案件の担当者に通
知するシステムの導入が必要である。
付録
107
○ 今後の調査日程
2005 年
調査内容
9 月
国内生存者に対する第 1 次聞き取り資料収集(生存者対象)、第 1 次日本現地調査(青森・舞
鶴にて現地活動家と初対面)、その他浮島丸事件関連資料収集(マルチメディア資料含む)
10 月
11 月
12 月
第 2 次被害者懇談会兼中間報告会
2006 年
調査内容
1 月
収集資料の整理
2 月
第 2 次聞き取り資料収集(遺族対象)
第 2 次日本出張
(解放前後の船舶事故資料収集および本事件訴訟支援関連団体資料の補完収集)
3 月
4 月
5 月
浮島丸事件関連史料集の発刊準備
6 月
7 月
8 月
資料集発刊、
浮島丸事件国際シンポジウム発表者の招聘
9 月
10 月
11 月
国際シンポジウム開催(真相調査結果報告、海外研究者の発表)
12 月
最終報告書の草稿作成
108 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
4.浮島丸事件日本現地調査写真
2007 年 7 ~ 8 月、調査 2 課 遺骸チームによる日本現地撮影記録
* 浮島丸は出航の 2 日後である 1945 年 8 月 24 日、舞鶴へ進路を変更し寄港する過程で沈没した。上記地図に
おいて、事故現場を▲で示した。
* 舞鶴引揚記念公園内に位置する引揚記念館の全景。この施設には、終戦後に海外各地から帰還した日本人に
関する資料が展示されているが、浮島丸事件についての言及は一切ない。この場所には、浮島丸事件の処理を
担当した「舞鶴地方復員局」が所在していた。
▲
付録
109
* 引揚記念公園の展望台から望む舞鶴湾。この写真に見える大橋の向こう側が浮島丸の沈没現場であり、その
右手にあるのが舞鶴復員局の跡地である。
* 浮島丸の沈没地点。浮島丸は写真の右側から左方向に航行中、中央にある二つの小島の間で沈没した。陸地
から沈没地点までは十分に泳いで到達できる距離である。
110 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
* 沈没地点近くの海岸線。写真左に見える集落は、浮島丸沈没当時に救助に出た漁民たちが暮らしていた場所
である。その背後の山地は、事件で死亡・負傷した者たちを陸上に引き上げた後、一時的に収容した下佐波
賀地区である。
* 事故現場近くに建立された慰霊碑。京都・舞鶴を拠点に日本の戦後責任と平和を求める市民団体が 1978 年に
建立した慰霊碑である。ここでは、毎年遺族、在日韓国人団体、そして日本の市民団体が集まり、犠牲者の
慰霊祭を行っている。〔韓国語報告書の写真画像が不鮮明なため、差し替え。日帝強制動員被害者支援財団
徐寅源提供(2023.7.16. 撮影)〕
付録
111
* 京都浮島丸殉難者追悼実行委員会関係者が、1954 年の第 2 次船体引揚時に直接撮影した船体内部の遺骨写真。
* 京都浮島丸殉難者追悼実行委員会が 1980 年代に入手した浮島丸死没者名簿および関連資料。
112 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
* 浮島丸訴訟の過程で収集された被害の立証資料について説明を行う、青柳敦子原告団事務局長。
* 1984 年『浮島丸、釜山港へ向かわず』の著者である金賛汀氏、インタビュー過程で浮島丸事件直後、故郷に
戻ることを望む同胞社会の集団的動揺状況を詳しく聞かせてくれた。
付録
113
* 浮島丸の出航地である青森県、下北の地域文化研究所にて、朝鮮人強制動員および浮島丸事件の資料を収集
してきた斎藤作治氏(右)と、強制動員遺跡を中心に学生の現地学習を実践している大河内氏(左)。
* 大湊警備府の地域要塞化を支えた軍用鉄道・大間鉄道の大湊駅。
114 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
* 浮島丸が 1945 年 8 月 22 日に出航した、青森県の大湊港の全景。
* 大湊警備府を中心に周辺に点在していた軍事施設および朝鮮人動員の関連遺構群。
付録
115
5.浮島丸事件主要新聞報道(要約)
〔下線は報告書作成者による〕
1. 『朝日新聞』、1945 年 10 月 8 日付:「浮島丸事件の真相発表」
- 朝鮮人の乗船規模を 260 名にまで縮小して報道した。(日本における最初の報道である。)
- 本件が機雷による沈没であるとしながら、朝鮮においては事件が誇張・過大に伝えられていると
強調された。
- 在韓米軍司令部が日本海軍の連絡将校による事件報告をそのまま発表したと報じている。
2. 『京都新聞』、1950 年 3 月 30 日付:「海底から白骨続々」
- 浮島丸第一次船体引揚について報道された記事である。
- 飯野サルベージ社が引き揚げ作業を実施。
- 2 組の潜水夫が船内の遺体を捜索した。
- 白骨化した遺体が引き揚げられた後、舞鶴地方復員局残務処理部へ搬送された。
- 搬送された遺骨は、市民団体、舞鶴市役所、舞鶴海上保安部の立会いの下で同処理部に安置
された。
- 引き揚げられた遺体は計 19 体であり、そのうち氏名が判明した者はわずか 1 名であった。
3. 『国際新聞』、1954 年 10 月 9 日付:「海底に遺体を九年間も放置」
- 浮島丸の第 2 次船体引き揚げ作業について報じた記事である。
- 事件の原因について、「触雷説」と「意図的な爆沈説」が併存して報道されている。
- 当局が死亡者名簿を公表しなかったことにより、死亡者数や生存者数に対する疑念が生じた。
また、遺骨引き揚げの進展によって、その疑念が一層深まる結果となった。
- 1953 年 12 月、船尾部分の遺骨が拙速に処理されたことが問題視されている。
- 日朝協会の壬生照潤の立会いの下で、船首部分の遺骨が引き揚げられ、舞鶴地方復員局残務
処理部の倉庫に保管されている。近日中に呉地方復員局へ移管される予定である。
4. 『京都新聞』 1985 年 7 月 24 日 特集「40 年目の海」(全 15 回特集連載、以下は各回の要点)
- 終戦 40 周年を迎え、浮島丸事件を 15 回にわたり特集。
- 朝鮮人乗船者は、青森県下北半島に強制連行された被害者として報道。
- 出航時、日本海軍の乗組員による反発があり、出航が遅れた事実を伝える。
- 戦後、日本で発生した海難事故の中で、洞爺丸事件(1954 年)に次ぐ規模の大事故である
にもかかわらず、記録の欠如を指摘。(以上は 1 回報道分)
116 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
- 元舞鶴防備隊大尉、掃海担当責任者であった佐藤合七(当時 81 歳)さんのインタビューを
通じて、「浮島丸のような大型船が入港するとの連絡はなかった」「湾入口の信号所は、掃海
情報と航路指示の機能を喪失していた」ことを確認。
- 証言者によって異なる爆発回数の証言があったことを確認、船体が山形(∧字)になったのち、
「くの字」に折れて沈没したと報道。(以上は 2 回報道分)
- 舞鶴沿岸の小さな漁村「下佐波賀」約 25 戸の住民たちが救助活動に参加。
- 徴兵された男性がいない中、女性たちが海に出て救助。
- 溺れた人々で民家は埋め尽くされ、数千人の人々が約 4 キロ離れた海兵団指定の収容所へ
移送。
- 事件の数日後、南風に乗って遺体が海岸に打ち上げられ、真夏の高温で遺体がガスで膨張し
ていた。(以上は 3 回報道分)
- 舞鶴には海軍鎮守府が存在し、新聞社の支局も海軍報道班員として活動していた。それにも
かかわらず、1 か月以上報道管制により事件は報道されず。
- 最初の報道は 10 月 10 日『毎日新聞』による 1 段記事。〔10 月 8 日の『朝日新聞』の報道
がある〕
- 現・国立舞鶴病院(旧・舞鶴海軍病院)の証言では、事件当日、当直者総出で負傷者
519 名を治療し、負傷者の多くは傷口が開き、重油で黒く汚れ、炎症がひどかった。当時の
見習い看護師によれば、病院内で 3 名が死亡したという。(以上は 4 回報道分)
- 京都府内でも日本人の多くは事件を知らなかったが、朝鮮人の間では急速に広まった。
- 京都市東山区の万寿寺・住職で在日本朝鮮人仏教徒連盟副委員長・尹一山さんの回顧では、
「1945 年秋ごろ、約 200 人の朝鮮人が下佐波賀前で慰霊祭を執り行った」ことが明かされ、
1946 年 3 月、舞鶴に嫁いだ朝鮮人・金順干は、重油のついたお金が町に出回ったという噂
で事故を知ったという。
- 生存者たちはすでに舞鶴海軍工廠に徴用されていた朝鮮人と共に、雲仙丸で釜山へ向かった
(1945 年 9 月 16 日出航)とされる。(以上は 5 回報道分)
- 出航前後の状況:青森県教職員組合委員長 秋元良治さん(青森中央短大助教授、67 歳)は、
「朝鮮に帰らなければ食料は与えないと脅すこともあり、今帰らなければ永遠に帰れない
というデマも流された」と証言。
- 浮島丸乗組員 長谷川是(63 歳)さんと乗組員 木本与市(69 歳)さんの証言:大湊警備府
の参謀による脅迫で、艦長と乗組員は出航せざるをえなかった。みな機雷が除去されていな
い航行を望んでおらず、できる限り出航を遅らせることで消極的に抵抗した。なかには逃げ
出した乗組員もいた。
付録
117
- 朝鮮人の乗船が始まると、小舟を待たずに泳いで乗り込む者もいた。船内は、横になること
すらできないほど人で溢れかえっていた。(以上は 6 回報道分)
- 大海令第 52 号(大本営海軍部命令、1945 年 8 月 21 日)により、横須賀・鹿屋・厚木
地域の武装解除、大海令第 53 号により、連合軍進駐地域以外の武装解除が指示された。
1945 年 8 月 22 日 大海指(大本営海軍部指示)第 533 号に基づき、同年 8 月 24 日 18 時
以降のすべての海軍艦艇の航行禁止が命じられた。
- 当時の操舵長・斎藤恒治(79 歳)さんの証言:「釜山ではなく、最初から舞鶴で乗組員は解
散する予定というのが、艦長を含め乗組員たちの暗黙の了解だった。」
- 鳥海金吾 浮島丸艦長:1980 年代に死去。生前の証言によれば、「司令部から航行停止命令
が来た」という。
- 浮島丸機関部 上等兵・富山栄一(64 歳)さんの証言:「日本人乗組員の死亡者の大半は、
船底で作業をしていた機関兵であった。」(以上は 7 回報道分)
- 沈没直前の乗組員たちの雰囲気:舞鶴に到着すれば復員できると思い、故郷へ帰るための荷
造りをしていた。軍の規律はすでに見られなかった。
- 事故直後の乗組員遺体の収容場所:砲台長・国藤八郎(68 歳)さんの証言は、遺体は近く
の天満神社に収容され、まだ息があった者は舞鶴海軍病院に搬送された。1950 年の第二復員
局報告によれば、乗組員の生存者は 230 名、負傷者は 41 名で、その多くが重傷者であった。
軽傷者などは事故から 3 日目以降に復員開始。浮島丸の操舵長・斎藤恒治(79 歳)さんは、
複雑骨折のため生涯満足のいく職業に就けなかった。(以上は 8 回報道分)
- 申美子(50 歳)さんの証言:成人男性と父娘をそれぞれ別の船室に収容し、船体の床空間
にいた人々が多数死亡し、生存者は舞鶴海兵団が指定した佐波賀の臨時収容所に収容され
た。(以上は 9 回報道分)
- 青森県下北半島の大湊地域(現在のむつ市):軍人と住民を合わせて約 8 万人、朝鮮人は 3 ~
4 千人規模。
- 大湊は「要塞地帯法」が適用された軍事地域であり、スパイ防止のため、列車運行中にも車
窓を覆い、港湾などの軍事施設が見えないようにした地域である。
- 大湊の朝鮮人強制労働:1942 年から集中投入され、周辺の港湾施設、飛行場、防空壕建設
などに動員され、軍用鉄道としての大間鉄道建設が朝鮮人投入の時期を前後して開始された。
当時、大湊警備府は大間鉄道を完成させ、下北半島と北海道を鉄道で連結する計画であったが、
未完に終わった。朝鮮人は軍属、徴用工などとして土木作業と軍施設の荷役作業に集中投入
された。
- 青森住民の証言:朝鮮人の中にも軍服を着て階級章を付けている者がおり、土木作業に従事
118 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
していたが、「まるで開拓兵のように無茶苦茶にこき使われていた。」(以上は 10 回報道分)
- 爆沈疑惑:申美子さんらは、乗組員たちが逃走準備をしており、事前に火薬を仕掛けている
という噂があったと証言。
- 日朝協会 理事・田村敬男さん(80 歳)は、船体引き揚げ時の目撃によれば、船の鉄板が外
側に曲がっていた。(以上は 11 回報道分)
- 乗組員たちの証言:爆沈はなかった。
- 爆沈させる意図があったのなら遠海を選ぶはずであり、生存の可能性が高い近海に接近する
理由はない。
- 日本人乗組員の 1 割に当たる 25 名が死亡した。
- 当時、舞鶴鎮守府防備参謀として機雷教官を務めた石田捨雄さん(69 歳)によれば、
「1945 年 5 月 20 日~ 8 月 13 日の間に、B29 が舞鶴一帯に投下した機雷は 465 個」であった。
つまり舞鶴は機雷の海であった。
- 舞鶴防備隊掃海責任者・佐藤吾七さん(81 歳)の証言:陸上に誤って投下された機雷を分
解し、掃海活動に活用。当時舞鶴には約 190 個の機雷があったと推定。事件当時当直士官
であった佐藤さんは、水柱や鉄板の屈折方向は爆沈の根拠にはならず、浮島丸は当時の水深
から見て「感応機雷」に触雷した可能性が高いと推定。終戦後も舞鶴では 9 件の触雷事故が
あり、掃海作業が完全に終了したのは 1952 年であった。(以上は 12 回報道分)
- 事件関連資料:〔佐藤吾七さんが軍事裁判に提出した「浮島丸触雷沈没状況について』とい
う報告書がある。また〕1950 年に出された「浮島丸死没者名簿」(横須賀地方復員局残務処
理部作成)がある。1950 年および 1954 年の船体引き揚げ局面で、〔遺骨の散逸に対する〕
舞鶴の朝鮮人たちの激しい抗議があり、遺骨への関心が高まった。(以上は 13 回報道分)
- 遺骨の行方:舞鶴海兵団主計担当・前野誠造さん(59)の遺体処理目撃談、「ものすごい臭い
で、手足をロープでくくった遺体を浜からモッコで揚げた。数百体の遺体を防空壕の丸太の
上に積み上げ、油をかけて火葬した。名前などを確認しているふうではなかった。」
- 1953 年 12 月作成「輸送艦浮島丸に関する資料」:収容された遺体は 175 体、病院で死亡した
遺体は 7 体。そのうち 29 体は家族や知人が遺骨を持ち帰り、残る 153 体は舞鶴海兵団仮埋
葬地に埋葬したという。1950 年 4 月に仮埋葬遺骨を発掘し、火葬後、遺骨を舞鶴地方引揚
援護局に安置。
- 政府発表によれば、未収容遺体は 367 体。大多数の死没者は船体とともに海中に放置された
ことになる。
- 舞鶴の朝鮮人たちが船体引き揚げに反対した理由:第 2 回引き揚げ時には、飯野重工業と舞
鶴地方復員局の間で数回の交渉があった。当時、朝鮮解放救援会京都府本部幹部であった李
付録
119
永赫さん(65 歳、京都市)は、「水中爆破で船体を細分化するというので反対した。遺体が
壊れてしまうからだ。引き揚げられたとき、多くの家財道具が泥に埋まり、白骨が散らばっ
ていた」と述べた。
- 第 2 次船体引き揚げによって 367 体の遺骨が収集されたと言われる。政府が発表した未収
容遺体数とあまりにぴったり一致した(〔作成者註〕、事後操作の可能性)
- 祐天寺に移管された経緯:船体引き揚げ時に収集された遺骨は舞鶴復員局に安置後、呉地方
援護局に移管し厚生省霊安室に保管、1971 年に東京の祐天寺に安置。在日朝鮮人の遺骨は
285 位。(以上は 14 回報道分)
- 下佐波賀海岸の浮島丸殉難者追悼碑:浮島丸沈没事件にはまだ解明されていない事実が多い。
沈没原因、死亡者数も明確ではない。多数の犠牲者を出した惨事であるにもかかわらず、
日本の歴史年表には言及すらされていない。「殉難者碑には、悲しい歴史といまのさまざまな
情勢が凝縮されているように思えてならない。もう悪夢を繰り返したくない。この海を平和
の海にしたい」と、この地を訪れた在日朝鮮人は語った。(以上は 15 回報道分)
5. 『京都新聞』1992.8.13 /「浮島丸」47 年目の夏 裁かれる海(3):全文
韓国で第一報 なぜ遅れた日本の新聞
証言をきっかけに
「陰謀か?過失か?帰国同胞船爆発、日本人は事前に下船上陸」
1945 年 9 月 18 日、こんな見出しの記事が韓国の釜山日報に掲載された。浮島丸沈没事件を初め
て報じた新聞だ。日本ではこの記事からほぼ 20 日遅れて報道された。舞鶴港の大惨事というのに
日本より韓国の新聞が第 1 報を伝えたのはなぜだろうか。釜山日報の記事は、浮島丸沈没で一家
6 人のうち妻と娘 2 人を失った光州市の張鍾植さんの証言がきっかけという。
鍾植さんはすでに死亡しており、二男で中学校校長の張永道さん(59)を勤務先の学校に訪
ねた。
「帰国直後の父は目に見えない敵に向かって軍刀を振り回し、自殺するとわめくなど、はため
からは自暴自棄に見えました」。
張さん一家は 1927 年に日本に渡り、民間人労働者として青森県大湊の海軍工場で働いていた。
「浮島丸に乗らなければ一生、故郷に帰れない」。工場責任者の声に追われるように一家は、
浮島丸に乗船した。船内は男女別に区分けされ、母と姉、妹 3 人は船底に。突然の爆発に、船
底の人々はほとんどが逃げ遅れた。
助かった父と兄、永道さんの 3 人は舞鶴湾一帯で母たちを探し求めたが、その姿はどこにも
見つからなかった。
「釜山日報に駆け込み、情報提供をしたのが、父のせめてもの日本への抵抗だったのでしょう」。
父から子へ、抑えきれない怒りは今も続いている。
120 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
かけ離れた数字
だが永道さんの手元に、その新聞はなかった。釜山市東区にある釜山日報社を訪問した。色
あせた新聞綴りの中に、目当ての記事があった。
「九死に一生を得た張鍾植さんが、16 日、非人道的な日本人たちの陰謀を憤激を隠さず明らかに
した」で始まる記事は、乗船した朝鮮人数を 8000 人と述べ、「約 5000 人が命を失った」と報
じている。日本政府の内部資料の「死者は日本人乗組員 25 人を含む 549 人」とは、あまりに
かけ離れた数字だ。記事はさらに「なぜ舞鶴湾に入ったのか。日本兵だけが下船した直後に、なぜ
爆発したのか」などの疑問を投げている。
譲らない日本軍人の話
浮島丸事件を韓国内で追いかけている永同郡の「永同新聞」の朴捦用記者(30)は、「死者数
千人、日本軍人が爆弾を仕掛けた、というのがこちらの定説だ」という。「定員約 840 人の船に
8 千人が乗船するのは不可能。当時、救助にあたった人の話などから、死者数千人は多すぎないか」と
疑問を示しても、自説を譲ろうとはしない。
それにしても、日本の新聞はなぜ、浮島丸の報道が遅れたのか。「大本営発表」に縛られてい
たからか。終戦直後の混乱のせいか。当時、舞鶴にいた各新聞社の記者のほとんどが故人となり、
原因はわからない。
「浮島丸事件」を歴史資料に掲載する運動を続ける須永安郎氏(67、舞鶴市)は「当時の報道
の落差がそのまま、韓国と日本の浮島丸事件についての意識の差につながっている」と話す。
6. 『東奥日報』1992.8.25 /「爆発直前、軍人乗ったボート」:全文
今も消えぬ自爆説、きょう提訴 真相解明へ強い願い
下北に強制連行の生還者が語る 浮島丸事件
下北半島など県内で過酷な労働を強いられた朝鮮人労働者たちを乗せ、釜山へ向かうはずだった
旧海軍特設輸送船「浮島丸」(4,730 トン)が、終戦直後の昭和 20 年 8 月 24 日、京都・舞鶴湾
で原因不明の爆発を起こし沈没、500 人以上の犠牲者を出した「浮島丸事件」。
25 日、韓国在住の生還者・遺族ら 50 人が日本国を相手取り、陳謝と損害賠償を求め京都地裁に
提訴するが、来日した原告たちは「なぜこのような仕打ちを受けなければならなかったのか」と
強制連行のむごさを問い、事件の真相究明を訴えている。(社会部・中村一彦 記者)
来日したのは、生還者 6 人、遺族 11 人の原告 17 人と、その家族ら 5 人の計 22 人。生還者の
一人である金泰錫氏(72)永同郡は「今も爆発した時の夢を見る」。そして「あれはわれわれが
朝鮮へ向かうことを恐れた乗組員の日本軍人が爆発させのだ」との思いが絶えない。
金さんは 18 年 5 月、故国から強制連行された。「当時、妻は 19 歳、娘は 2 歳。妻は『二人で
どうして生きていけるの』と泣きながら、集合先の永同郡庁までついて来た」という。
金さんは大湊の海軍施設部に配属となり、三沢の飛行場などで、道路工事や防空ごう掘り、工
付録
121
場建設に従事。同郷者約 100 人を含む 1000 人ほどの朝鮮人労働者がいた。「夜明けから日が
暮れるまで働いた。食事は雑穀が主で、いつもひもじかった。モッコで土を運ぶと肩がはれて
血が出た。疲れて音を上げると、日本人の監督が角材で殴った。あの苦しみは口で言えない」。
6 か月だった約束は守られず、労働は 2 年 3 カ月に及んだ。
解放の喜びを乗せ大湊港を出航した浮島丸。金泰錫さんは、「爆発の直前、軍人 4 人がボート
で浮島丸を離れるのを見た」と証言、「自爆説」を確信している。
事件当時、船底にいた金水坤さん(75)求礼郡は、「爆発音は 2 回聞こえた。ものすごい音で、
今でも左耳が遠い。水がドッと流れ込んで、船が傾いた。2 つしかないはしごに人々が群がり、
上にいる人の足をわれ先にと引っ張った」と、惨状を語る。必死で船外に逃れた人々を、小舟を
駆って救い上げたのは、舞鶴の女性らだった。
朴順岳さん(51)永同郡は、帰国した金泰錫さんから父の死を知らされた。大黒柱を失い母は
再婚、幼い妹も死んだ。朴さんは祖父宅に預けられた。「父さえ日本に連れて行かなければ、家
族はバラバラにならなくてもよかった」と涙を流して訴えた。
「真相を明らかにするために、当事者の日本人は、良心に基づいて真実を話してほしい」と金
泰錫さん。訴訟の準備を進めた「陳謝と賠償を求める裁判をすすめる会」の宋斗会代表(77)
京都市は、「日韓併合によって、朝鮮人は日本の臣民として動員され、犠牲を強いられた。謝罪と、
日本人と同じ扱いの補償はは戦後処理として当然のことだ」と話している。
惨劇の海「お父さん」 舞鶴で殉難者追悼集会
「浮島丸殉難者 47 周年追悼集会」が 24 日、爆沈現場に面した京都府舞鶴湾・下佐波賀の「追悼
の碑」前で行われた。来日中の遺族、生還者らは、追悼会場に到着した途端、こみ上げる思いを
抑え切れずに海に向かって、「お父さん!」「息子が来たよ!」と泣きながら声を振り絞った。
集会には約 120 人が出席。主催者の追悼実行委員会の和田藤吉会長の追悼の辞に続き、遺族
を代表し呉炳春さん(57)公州郡が、「私たちの代わりに今日まで慰霊を行なってくださった皆
さん、また爆沈当時、救助や遺体の収容をしてくださった住民の皆さん、本当にありがとうござい
ました。父を失った家族の悲しみは今も続いています。私たちは真相を明らかにしたく、日本に来
ました」と感謝と決意を述べた。生還者たちは集会後、救助にあたった地元住民との交流会で、
何度も感謝の意を伝えた。
集会後、救助に当たった地元住民との交流会では、何度も感謝する生還者に、手こぎの舟で
海へ出た女性たちは「浜で育った者としておぼれる人をほうっておけなかった」と語りかけて
いた。
7. 『産経新聞』1993.8.20/「船は釜山へ着かぬ」「日本軍人から聞いた、生還の韓国人証言」全文
終戦直後の昭和 20 年 8 月 24 日、朝鮮人労働者約 550 人〔ママ〕を乗せた旧海軍特設輸送船
「浮島丸」(4,730 トン)が、動員先の青森県から朝鮮・釜山へ帰還する途中、京都府の舞鶴湾
122 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
で爆発・沈没し、約 500 人以上が犠牲となったとされる事故で、生還者の韓国在住李再石さん
(76)が、19 日までの産経新聞の取材に対し、「沈没前夜、日本の海軍将校から、船は釜山まで
無事には着かないと聞かされた」と証言した。
事故原因は戦時中の米軍が敷設した機雷に触れたためとされているが、民間団体の調査では乗
組員が韓国到着後の抑留を恐れ爆破させたという説があり、今回の証言は「自爆説」を裏付ける
状況証拠として注目される。
李さんは昭和 13 年ごろ、当時の強制募集で日本へ渡り、山梨や岩手県などの建設現場で働き、
同 19 年に軍属として徴用され、青森県に連行された。同 20 年 8 月 15 日の終戦で解放され、
22 日に「浮島丸」に乗船し釜山に向けて青森県・大湊を出港。しかし、24 日夕、突然起きた爆
発事故で沈没、李さんは甲板にしがみついたまま近くの救助船に救助された。
李さんが船内の海軍将校から話を聞いたのは、前日の 23 日夜。将校は「今夜(船が)無事に
過ごすことができれば、釜山に着くことはできる。しかし、それは難しいだろう」と話し、船内に
いた子供たちに菓子などを配っているのを目撃したという。
李さんは提訴のため 21 日に来日。当時の状況について、「船が出る時から、無事に釜山には
着かないといううわさが広まっていたが、将校から話を聞いて事故が起きることを確信した」と
話している。
『浮島丸、釜山港へ向かわず』の著者、金賛汀さんの話「かなりの時間が経過しているので信
ぴょう性の問題はあるが、事故が起きた当時の状況証拠としては貴重な証言になる」
遺骨返還のため第 2 次提訴
李さんら生還者・遺族ら計 27 人は、23 日、国を相手に、公式謝罪と約 9 億円の損害賠償を
求めて京都地裁に第 2 次提訴。また、第 1 次訴訟の原告のうち 7 人と第 2 次の 11 人が、東京・
祐天寺に安置されている遺骨を速やかに返還するように国に求めるという。弁護団によると、
アジアの戦争被害者の遺族が裁判で遺骨の返還を請求するのは初めて。
8. 『朝日新聞』1993.9.2 〜 9.3/「49 年目の航跡 浮島丸を追って」全文
「恨みの海」 生存者に今も痛み
8 月 24 日午前 10 時。48 年前の同じ日、旧海軍の特設輸送船「浮島丸」が、爆発を起こして
沈没した現場に遊覧船で向かった。日本政府を相手取り、謝罪と損害賠償などを求める訴訟を起
こした韓国人の原告団 8 人は、押し黙ったまま、海を見つめていた。
「アボジはどこに」
快晴、べたなぎ。舞鶴港から約 10 分。「浮島丸殉難者追悼の碑」が見える沖合約 300 メートルで、
船は止まった。原告団の代表、全承烈さん(52)が、「アボジ(お父さん)、どこにいらっしゃ
るのですか」と泣き叫んだ。「つらかったでしょう」。菊の花やお菓子を海に投げた。
付録
123
2 歳のとき、父・壽巖さんは日本の巡査に連れて行かれた。母に「承烈を丈夫に育ててくれ」
言ったのが遺言になった。祖母は壽巖さんの名前を呼びながら町をさまよったという。
沈没現場で、李再石さん(76)はハンカチを取り出し、何度も涙をふいた。23 日に第 2 次提
訴したあと、舞鶴を訪れた訴訟団 4 人のうち、ただ一人の生存者だ。
原告団は舞鶴の市民グループが主催する慰霊祭に向かった。船を降りた李さんは「私は生き残り、
申し訳ない気持ちです」。続けて「昔のことを思い出すと胸が痛む」。
「釜山行きが舞鶴へ」
李さんは 1937 年ごろ、労働者を「募集」する看板を見て、日本に来た。群馬や岩手県などの
建設現場で働き、44 年には軍属として徴用され青森県へ。防空ごうや飛行場などをつくった。
給料は支給されなかったという。
戦後まもなく、「朝鮮人はみんな乗れ」と言われ、浮島丸に乗った。45 年 8 月 22 日午後
10 時ごろ、青森県の大湊港を出港。船内は約 4 千人の朝鮮人労働者らで、身動きができない
状態だった。暑く、みんな服を脱いでいた。23 日の夜、子どもにお菓子を配っていた乗組員が
「釜山に着くのは難しいので、舞鶴に行く」と話した。
24 日午後 5 時 20 分ごろ、爆発音がした。「船全体が一瞬飛び上がったような感じだった。」
甲板に出ると、船体が真っ二つに折れ、沈みかけていた。海は重油で真っ黒。やがて、地元の住
民らが助けに来た。「船倉にいた人がたくさん死んだ。」
「家族に初めて話す」
約 20 日間、舞鶴にいたあと、釜山に帰った。5 年後にソウルで結婚。現在、妻と母の 3 人で
暮らしている。家族にも嫁いだ娘にも、事故のことは話さなかった。最近、訴訟をしに日本に行
くことになったため、初めて打ち明けた。
慰霊祭で、原告団長の全さんが「追悼の碑」に向かってむせびながら語りかけた。「どれほど
大きな恨みを抱いて亡くなったのか、一度も夢に出てきてくれません。今日、夢の中で父の胸に
抱かれたい。アボジ、安らかに眠ってください」
戦後 50 年の 1995 年に向け、浮島丸事件を題材に映画づくりを進めている京都の市民グループ
「平安建都 1200 年映画をつくる会」が、この夏、48 年前の浮島丸の痕跡をたどるツアーを企
画、全国から 50 人が参加した。浮島丸の跡を訪ねた。
(連載第 2 回)
「菊池桟橋」 どの顔も帰れる喜び 大声で歌い「マンセー」
青森県むつ市の大湊港にある「菊池桟橋」。48 年前、ここから浮島丸は出港した。幅 3 メートル、
長さ 15 メートルの木製の桟橋だったが、4 年前に埋め立てられ、公民館の駐車場となっている。
当時をしのばせる跡はなかった。海は穏やかだったが、風がきつく、肌寒い。
124 戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点
近くに住む板金業中村忠良さん(66)が当時の様子を話した。
中村さんは山口県の岩国基地で敗戦を迎えた。故郷の大湊に帰ってきたら、桟橋の周辺は朝鮮人
であふれていた。1945 年 8 月 20 日ごろだった。船は桟橋から 1 キロの所に停泊していたが、
すぐに乗れなかった。
「浮島丸へ泳ぐ人も」
みんなぼろぼろの服だったが、帰れる喜びに顔は明るかった。大声で歌を歌い、「マンセー
(万歳)「マンセー」と何度も叫んだ。「今にも暴動が起こるのではないかと、そばに寄れません
でした」。外出に注意するよう書かれた回覧板も見た。
やがて軍用の艀船などで 30 ~ 50 人ずつ乗り込んだ。「乗らなければ永久に帰れない」という
デモも流れ、浮島丸まで泳いだ人もいた。
なぜ朝鮮の人たちが北の大地に連れて来られたのか。むつ市から北へ約 15 キロ。大畑町二枚橋
にある大間鉄道跡を訪ねた。海岸に沿って幅約 5 メートル、高さ約 10 ~ 20 メートルほどの陸橋
が民家をまたいでいる。軌道に線路はなく、雑草が背丈ほど伸びていた。陸橋は朽ちかけている。
「大間鉄道は軍事用」
大間鉄道はむつ市から本州最北端の大間までの 49.7 キロを通すためにつくられた。本州最北
端の大間岬に砲台を築き、対岸の函館山の砲台と呼応して、津軽海峡を制圧するため、物資や弾
薬などを輸送するための軍用鉄道だった。
1937 年に着工、39 年には下北—大畑間が完成した。41 年頃から労働力が不足し、日本人の
出稼ぎ者を関東・関西に求め、42 年からは朝鮮人を強制労働させた。米軍の本土上陸に備え、
昼夜を分かたぬ強行軍となり、過酷な労働が強いられた。敗色が濃厚になった 43 年、建材の不
足もあり、工事は中断された。一度も列車が走ることはなく、50 年間放置されたままだ。
「休むとこん棒で殴る」
冬は雪が積もって北風が吹き付ける中、綿入れを着て、破れた地下たびに縄を巻き、夏はほとんど
裸で働いていた。肩の皮膚が破れ血が流れていたが、休むと棒頭(現場監督)がこん棒で殴りつ
けたという。
大畑町二枚橋から海峡沿いに約 10 キロの下風呂地区。国道から約 30 メートルほど山側に入り、
2 メートルもある草むらをかき分けて行くと、トンネルの入り口にたどりついた。幅は約 4 メートル、
高さは 10 メートル、長さは 600 メートルあるという。10 メートルほど進むと、真っ暗になる。
懐中電灯を頼りに歩く。途中、土にまみれた地下たび一つと、ぼろぼろになった 30 センチの革
のベルトが落ちていた。
海峡沿いには小さい山があちこちにあり、幾つもトンネルが掘られた。トンネル工事は朝鮮人が
やり、落盤で死んだ人もいたという。
戦後日本の浮島丸事件真相調査の問題点