
Section 1
- 常設展示室1 - Section1
- 日帝強制動員の始まり
常設展示室1 - Section1
日帝強制動員の始まり
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日本帝国主義による強制動員とは何か
日本帝国主義以下、日帝と略称の強制動員とは、日本がアジア・太平洋地域で侵略戦争を遂行するために行った人的・物的動員および資金統制などを指す。強制動員は当時、日帝が支配したほぼ全ての地域で行われた。本格的な強制動員は、日帝が1937年に中日戦争を起こしたあと、国家総動員法[法律 第55号、1938年4月1日制定]に基いて行われた。国家総動員法は、日本本土と植民地、占領地など全ての支配地域にある人と物資、資金を戦争に総動員できる広範囲な権限を、議会の同意なく日帝政府に委任した戦時統制基本法である。日帝は国家総動員法を母法として、国民徴用令などの様々な統制法令を制定・及び施行した。
帝国主義と植民地戦争
帝国主義とは、軍事的に他の国を征服して政治・経済を左右しようとする侵略主義的な国家政策の総称である。侵略による拡張という点で膨張主義、あるいは植民主義と同一意味であると言える。帝国主義は18世紀に産業化の始まりと共に原料供給と商品市場を確保しようとする欧州列強の欲望が、排他的な民族主義と結合して現れた。19世紀半ばから第1次世界大戦までは、欧州列強による帝国主義政策が猛烈に繰り広げられた。これによって産業化が始まっていなかったアフリカ、南アフリカ、アジアの諸国が欧米列強の植民地争奪戦の犠牲となった。欧米に遅れて近代国家を樹立した日本は徐々に植民地の争奪戦に合流し、帝国主義の隊列に入った。
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日帝の膨張と強制動員
1910年に朝鮮[大韓帝国]を強制併合した日帝は、1914年に(は)第1次世界大戦に参戦して中・西部太平洋の島々と中国山東半島におけるドイツの権益を奪い取った。続いて、1931年に満州現在の中国東北地方を侵略してから、1937年には中日戦争を起こして北京や上海を始めとする中国本土を侵略していった。1941年にはマレーシアと真珠湾を奇襲攻撃して欧米諸国を相手に太平洋戦争を起こしてからニューギニアと東南アジアまで占領した。日帝は侵略戦争を拡大する過程で物資と労働力、資金の需要が急激に増えると、すべての占領地域において強制動員の政策を施行して、その需要に充足しようとした。
植民地 朝鮮と日帝の強制動員
1931年に満州を侵略した日帝は、韓半島を大陸侵略のための兵站基地化したし、1937年には中日戦争を起こし戦争の勝利のため総動員体制を構築した。1938年5月から国家総動員法に基づいて資金の統制や人と物資の動員し始めた。日帝の国家権力と企業は義務的な「供出」という名目で韓半島の労働力と物資を強制的に動員した。
物資の供出
日帝は中日戦争を前後して物資の供出制度を整備して、金融統制機関を設立する一方、3次にわたる生産力拡充計画を立て、韓半島の地下・海洋・山林など、様々な資源を収奪できるようにした。軍人と軍馬の食料はもちろん、各種の軍需物資を補給するため、物資と生活必需品の統制を行った。敗戦が差し迫ってくる1944年には物資難が深刻化し、戦時農業要員制度や農業生産責任制を行って、村全体が共同で食料生産の割り当て量を達成するよう強要した。
人的動員
日帝は物資に限って使う「供出」という用語を朝鮮の民衆にも躊躇なく使用した。食料を出せない人とか貧しい人が「供出」の優先対象となった。人的動員は、軍人動員(特別志願兵、徴兵)、労務動員、軍属動員、女性動員に大きく分けられる。「供出」は老若男女の全てを対象にしたが、この中で労務動員が最も多かった。朝鮮の民衆は国民徴用令や労務調整令など日帝の法令に基づいて政策的・集団的・暴力的に各種の産業現場に動員された。その動員形態によって国民徴用、割り当て募集、官による斡旋などに細分化される。
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日帝の強制動員方式
日帝は植民地朝鮮で戦時総動員体制を強化するために、1938年に国民精神総動員朝鮮連盟を組織した。1940年には、それを国民総力朝鮮連盟と拡大・改編した。連盟の総裁は朝鮮総督が兼任し、地方の末端行政と愛国班が組織の根の役割をした。その後、戦争に必要な人的資源を軍人・軍務員・労務者などに区分して人的収奪を強めた。女性を労働者として動員することはもちろん、性的搾取のため日本軍「慰安婦」として連行したりした。道別に動員人員を割り当て、村単位で圧迫したため、対象年齢以下の人が動員された場合もあった。人的動員のため、中央と地方の行政組織は登録制度(朝鮮寄留令など)、教育制度(教育令など)、動員制度(国民徴用令、労務調整令など)などを整えた。
軍人動員
日帝の朝鮮人に対する軍人動員とは、侵略戦争の兵員を補う目的で日本の陸海軍の現役、または第1補充役として動員したことを指す。動員方法は、募集制度である特別志願兵(陸軍特別志願兵・海軍特別志願兵・学徒志願兵・少年志願兵・海軍徴募兵)と徴兵制に分けられる。特別志願兵の募集は各道に人数を割り当て、警察力と国民精神総動員連盟などの官辺団体を通じて・宣伝・懐柔・促進を積極的に行った。さらに1943年10月、陸軍特別志願兵臨時採用規則を公布し、専門学校以上の学生を学徒志願兵として徴集した。入隊を拒否した400人あまりの学生たちは、「応徴学徒」という名で採石場とセメント工場など過酷な労働現場にかり出された。以後、戦況が不利になると、1944年に朝鮮で公式的に徴兵制を施行して数多くの朝鮮人を強制的に徴兵した。
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軍人動員の被害者「キム・ギサン」の話
-キム・ギサンは軍人として徴兵され、済州島で服務した強制動員の被害者である。彼が強制動員された当時に所持していた遺品、召集から解除までに書いた手記と軍事郵便を通じて、当時の状況を伺うことができる。
戦争進行状況
日帝は1945年2月、硫黄島が陥落されたあと、日本本土へ向かう連合軍の攻撃に備えて済州島と韓半島の南・西海岸一帯も最後の防御ラインに入れた。これに日本列島を防御するための戦いを「本土決戦」と名づけ、韓半島地域における作戦を「決7号作戦」と呼んだ。そこで1945年3月から済州島を急いで要塞化するために大規模な人員を動員した。